伝統板・第二

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無我 ④ - 伝統

2020/06/23 (Tue) 04:46:39

《すべては神の恩寵である》

        *「真理」第9巻生活篇第14章(P398~399)より抜粋
        
何処(どこ)にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。

神の恩寵を自覚しない人のみが、
自力で何でも出来るなどと高慢な考えを起すのである。

高慢な心を起したところが、恰もパイプの中の沈殿物のように、
神の恩寵の流入を不完全にするのである。

高慢な心を捨てることである。

無我になって神に無条件降伏したときのみ、
神の恩寵は一層ハッキリあらわれるのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「無我 ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853330

(2)伝統板・第二「無我 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7616202

(3)伝統板・第二「無我 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7804252

        <感謝合掌 令和2年6月23日 頓首再拝>

みずからを捨てたとき、主はみこころをなし給う - 伝統

2020/06/25 (Thu) 04:11:50


        *「光明道中記」(6月25日《神に全托する日》)より 

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】

自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。

自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。

自分の立っている立場が正しいかどうかは、
自分が公けな心を持っているかどうかと云うことである。

公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。

讃美歌第五十四番の

「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども
 主はみこころを成し給わん」

である。

われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。

みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。

「主はみこころを必ず成し給わん」

        <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>

あなたは神のものである - 伝統

2020/06/30 (Tue) 04:43:18


     *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より抜粋

【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
          始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが
最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。

それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

        <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

《私欲のないところに神があらわれる》 - 伝統

2020/07/16 (Thu) 04:36:32


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P132)より

私欲を完全に滅して神想観をせよ。
そのときに直感にによって神の意志が示される。

私欲を滅殺しないでいて、祈ったり神想観しながら、何か啓示のようなものを
聞いても、それは自分の潜在意識的願望の声をきくのであるから
それを神の声だと思ってはならない。

他人の損に於いて自分が利益を得ようと思ってはならない。

必ず他(た)も利益し自分も利益することを計画しなければならない。

他(た)犠牲に於いて、そして神を手段として自分の私利をはかろうと
思った者は 悉く失敗しているのである。

人間から見たら其の人の心情はわからないけれども
神から見たら其の人の心情は見透しである。

神は決して神罰を与えたまうのではないけれども、
神の恵みと私欲とは波長が全然異なるから、私欲を起すとき
自然に神の恵みから絶縁遮断せられることになるのである。

        <感謝合掌 令和2年7月16日 頓首再拝>

知っておくべき唯一のこと - 伝統

2020/07/29 (Wed) 04:34:51


       *Web:かんながら(2020年05月01日)より

ものごとがうまくいきだせば、
私のやり方が功を奏したとか、私はツイていたとか言うし

うまくいかなければ、
私のせいでとか私はツキに見放されたとか言う。

どちらにせよ、そこには重要要素としての「私」がある。


私の力で人生をコントロールしていると信じていると、
いまのような大変化の時代には不安と絶望で眠れなくなるだろう。

実際には自分の内側にわいている思考や感情も、
そのタイミングで起きていることであり、
それらも含めて自分がやっているのではない。

五感からの情報と、その情報への解釈、さらにはそれに対する反応も、
いつもいま新しく起きていることであり予測不能なのだ。

だから先のことを心配しても無駄だ。


この当たり前のことを受け入れるだけで、
人生への責任の大半は消えてなくなる。


「私がやっている」と思っているから大変なのであって、
事実は「ただ起きている」のだから。

そもそも「私」などという、全体から分離した実体など存在していない。

「私」だと思っている思考も、その周りに作り出したストーリーも、
ただこのようにして刻々と起きているだけだ。

「私」さえも全体の顕れにすぎない。


事は起きている。

その運転手はいない。


あなたが人生を運転しているのではない。

すべては全体の意思(神の意思?)によって、淡々と起きているだけのこと。


この一点を徹底的に知ることだ。


「私」はこの考え方に抵抗するだろう。

だって真実を知れば「私」など消えてしまうのだから。


しかしあなたはこの段階の意識にあこがれを持っている。

「全体意識とはどんなだろう?」


ところが、全体意識にシフトするのは何より怖い。

「私」が消えてしまうから。



でもそのとき消えるのは「偽の私」であって、
それが消えた後に残っているのが「本当の私」である「全体意識」。

あなたが人生をかけて知るべきはこのことだけです。

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11534378.html )

            <感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝>

利己を捨てたとき全体の生命が「自己」にあらわれる - 伝統

2020/08/07 (Fri) 05:06:11


      *『 生長の家 』昭和26年6月6日の法語)より

全体は一つであるから、全個(ぜんこ)であって他個(たこ)はない。
他個はないから自個(じこ)もないのである。

自個 即ち自分という個人が無いということがわかって、

「 個人の利益 」と云うような考えを悉く捨ててしまって、

ただ全体のために尽すと云う献身の心がもとになって、
祈りや観行や働きのいとなみが行われるとき、

本当にその祈りが成就し、観ずる通りに実現し、
その人の働きが立派な栄える事業となって果(み)を結ぶのである。

利己的な祈りが成就しないのは、「自個」が全体から切りはなされているために
全体の生命(いのち)の流れも、全体智慧(ちえ)の流れも流れ入らないからである。

神の栄えを個身(わがみ)にあらわすためには、自個がなくならなければならぬ。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127 )

            <感謝合掌 令和2年8月7日 頓首再拝>

「私という主体的な自己はいない」 - 伝統

2020/08/11 (Tue) 02:31:46


       *Web:かんながら(2020年07月27日)より
            ~これでいいのだ

今朝は少し散歩して、空に向かって両手を広げて深呼吸して、
昨夜の雨に濡れた朝顔の花に見惚れて、いま部屋に戻り、
パソコンの前に座ってこうしてブログを書いています。


あなたの今朝の8時台はどんなでしたか。

何をしたとしても、ただそのようなことが起きたということです。


ところが人は、後になってそのことを振り返る時、


私が散歩しようと決めて
私が歩き出し

私が空に深呼吸しようと決めて
私が両手を広げ

私が近くの朝顔を見ようと決めて
私がその花を愛おしく思おうとして

私が部屋に戻ろうと決めて
私が部屋に戻り

私はいまブログを書いている。

というように、すべてを私がやったかのように起きたことを記憶します。


でも実際は、散歩したことも、深呼吸したことも、花を見たことも、
こうしてブログを書いていることも、いちいち自分が決めているわけでなく、
ある種の衝動として起きていることです。

その衝動も自覚しているわけではなく、ただ起きているのです。

これはあなたも同じで、やっていることをよくよく吟味してみると、
そのほとんどが(実際には全てが)、起きていることだとわかることでしょう。


やっているのは「私」ではないのです。
そもそもそのような「私」など存在してません。


したがって起きていることに、あなたには何の責任もないということ。

何かを決定して実行するような、主体的な自己は存在していないのだから。


この単純な真実は、現代になって科学的に証明され始めましたが、
個人という存在を頑なに信じている多くの人にとっては、
受け入れることができない結果でしょう。

このような真実が客観的データで紹介されても見ようともせず、
マインドの理論を振りかざして、いかにこれがとんでもない主張かを
論破しようとします。


でもどんなに頑張っても、真実が変わることはありません。


僕が不思議なのは、仏教に帰依した僧侶や修行者達までも、
このような話に耳を傾けない傾向です。


仏教の根幹は「無我」。

釈迦が言いたかったことは

「私という主体的な自己はいない」

ということに尽きるのに、

そのことは無視して、周辺の教えをありがたがること。


もっとも、これを認めてしまうと、
これまでの私の頑張りは何だったんだってことになりますからね。

私は絶え間ない努力をして自己を高めているんだって、
本気で信じているわけです。

これは僧侶だけの問題ではなく、すべての人に言えることです。

もう楽になればいいのに。


ここにおいで。

あなたが背負あっている荷物を下ろしてあげるから。

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11625741.html

・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2020-07-29)
「私が」の思いが湧いて来れば注意です
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/f393c1ecf635098fec1013a117bdeb47

            <感謝合掌 令和2年8月11日 頓首再拝>

「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者である - 伝統

2020/08/18 (Tue) 03:46:45


      *「光明道中記」(8月18日《無恐怖の心境の日》)より抜粋

【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】


世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

            <感謝合掌 令和2年8月18日 頓首再拝>

わがはからいにて行ずる光明思念であってはならない - 伝統

2020/08/25 (Tue) 04:19:24


   *「光明道中記」(8月25日《謙遜になり切る日》)より抜粋

【神は祈ったから心を動かし祈らぬから罰を与えるようなものではない。
                      (『生命の實相』第三巻)】

念仏とは謂わば絶対者の力の廻向(えこう)し来る光明思想である。
吾々の行う光明思念も本当はその極致は、
わがはからいにて行ずる光明思念であってはならないのである。

「わがはからいにて行ずる光明思念」であるならば、
「わたしが光明思念をしてやったから病気が癒(なお)ったのだ」などと

恩に着せがましく、また自力の善をほこりがましく自分が
大先生になりすましすのであるが、
「自力」と云うものはひとつもないのであるから、
「わたしが光明思念をしてやった」と云うこともあり得ないのである。

大宇宙大生命の無辺の光明思念に”はからわれ”て
それが吾々に催し来たりて光明思念するように成るのである。

「念仏は行者のために非行非善なり」とは直に以て
「光明思念は行者のために非行非善なり」である。

この世に如何なる行と雖もわが”はからい”にて成し遂げる行とてなく、
この世に如何なる行もわがはからいにて成し遂げ得る「善」もない。

            <感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>

我でやれば失敗する - 伝統

2020/09/15 (Tue) 04:51:39


        *「光明法語」(9月15日)より

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

            <感謝合掌 令和2年9月15日 頓首再拝>

神の容器(いれもの)として自分は空っぽである - 伝統

2020/09/22 (Tue) 04:52:42


       *『生長の家』(昭和25年6月22日の法語)より

今自分は全然 「 空っぽ 」 になったのである。

自分は何一つ自分のものを、求めようとは思わないのである。

されば神は滔々(とうとう)として自分の中に流れ入って来るのである。

神が流れ入って来た所の自分は、もうすでに神そのものである。

吾はすでに 「 新生 」 したのである。

「 我 」 の造った凡ゆる悪しきものは、流れ去ってしまったのである。

自分は今日より後
如何(いか)なる 「 自分 」 のことをも なさないのである。

唯 神のことのみを なすのである。

神は吾(わ)が内に現われ給い、
神の力をもて神の仕事をなし給うのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 令和2年9月22日 頓首再拝>

《完全なる自己放棄とは?》 - 伝統

2020/09/28 (Mon) 03:48:35


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P391~392)より

内在の神を現実にするためには2つの方法がある。
その一つは自我を無限に拡大することによって、
自己を神に近づかせようとする方法である。

これは自力門であり、聖道門である。

もう一つは自己が零(ゼロ)になって神に自己放棄し、
神に自己を占領させる方法である。

これが他力門である。

他力門は易行道と言われているいるけれども、
自己放棄は中々容易に完全には出来るものではないから、
これは寧(むし)ろ難行道かも知れない。

真宗の門徒などで、「罪悪深重の凡夫」だと自己主張する人があるけれども、
これは心に「罪悪深重の自己」をしっかりと握っていることになっているから、
決して完全な自己放棄ではない。

完全な自己放棄は「罪悪深重の自己」をも放棄して、
「罪悪深重の自己」がなくならなければならない。

そして其処に既に完全なる神のみを見出すのである。

            <感謝合掌 令和2年9月28日 頓首再拝>

《神をしてあなたを占領せしめよ》 - 伝統

2020/10/11 (Sun) 04:09:08


        *「真理」第9巻生活篇第14章(P392~393)より

”無我即神”と言った人があるが、完全なる自己放棄が完成したら、
其処が真空になるから神が其処を充足するのである。

神があなたの内部を充足して、神が働き出したら、あなたは決して
間違いを犯すと云うことはないのである。

神があなたを占領せず、自己放棄が完全に行われず、
自己中心に物を考えているときにのみ人間は他(た)の利害と衝突し、
争闘を惹き起こし、罪を犯すことになるのである。

自己がなくなったら、他(た)と衝突することはあり得ない。

神があなとを占領したら、神は普遍平等の存在であり、一切の人々の中に
共通に存在したまうのであるから他(た)と衝突しようはないのである。

神があなたを占領したら、あなたの生活は神そのものの生活となり、
常に真理を生活し、善と愛と福と智慧との道を歩むのである。

            <感謝合掌 令和2年10月11日 頓首再拝>

小我を没し去り、神とともに大活動するところに悦びあり - 伝統

2020/10/29 (Thu) 04:42:54

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月29日)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、実際生活になんの努力もしないで
「すでに与えられている」とすこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 令和2年10月29日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2020/10/30 (Fri) 04:46:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 令和2年10月30日 頓首再拝>

「《わし》が」を捨て、全ての誉れを神に帰せよ - 伝統

2020/11/01 (Sun) 04:32:16


     *「光明道中記」(11月1日《手垢のつかぬ愛行をする日》)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、
それは単に愛行として、深切として、完全なもので
ありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 令和2年11月1日 頓首再拝>

七たび我を棄てる - 伝統

2020/11/06 (Fri) 04:50:53


     *「光明道中記」(11月6日《七たび我を棄てる日》)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、
 最初は眼が見えていたのですが
 眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。

 私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
 先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。
 事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。

 私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
 可哀相さに同情して
 『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』

と申しました。

そんな我を除る位の事何でもない、
素直にすれば好いのだからと仲人が言いますので、
その女を妻に貰い受けました。

ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、
一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。

私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 令和2年11月6日 頓首再拝>

「真我」のみあり、「旧我」を徹底して棄てよ - 伝統

2020/11/07 (Sat) 04:48:09


      *「光明道中記」(11月7日《自己を深く見詰める日》)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものは
そんなにも握り育てていなければならないものだろうか。

「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは
「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との
区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 令和2年11月7日 頓首再拝>

我がなければ天地間の供給みな人類のもの - 伝統

2020/11/08 (Sun) 04:39:43


    *「光明道中記」(11月8日《仕事に愛をそそぐ日》)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。
                   (『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 令和2年11月8日 頓首再拝>

我欲、我慢、我執が出たら、悟が晦まされているのである。 - 伝統

2020/11/11 (Wed) 04:47:43


       *「光明道中記」(11月11日《我慢の消ゆる日》)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                      (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは
「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。

人間は「我慢」が無くなったときに
内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。

隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、
一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、
一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、
元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、元は悟っていても
今はもうその悟が晦まされているのである。

我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、
人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 令和2年11月11日 頓首再拝>

傲(たか)ぶる心を捨てよ - 伝統

2020/11/16 (Mon) 03:25:29


       *「光明法語」(11月16日の法語)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 令和2年11月16日 頓首再拝>

「わしが、わしが」という「傲慢なる」孤立の心を捨てよ - 伝統

2020/11/18 (Wed) 04:55:56


     *「光明法語」(11月18日の法語《自他一体の自覚》)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

          <感謝合掌 令和2年11月18日 頓首再拝>

自己が摧(くだ)ける事が必要である - 伝統

2020/11/19 (Thu) 04:52:18


     *「光明法語」(11月19日の法語《心柔和なる者》)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

          <感謝合掌 令和2年11月19日 頓首再拝>

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべき - 伝統

2020/11/28 (Sat) 04:50:24


   *「光明道中記」(11月28日《功成りて功に居らざる日》)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば
自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 令和2年11月28日 頓首再拝>

《去私すなわち神》 - 伝統

2020/12/01 (Tue) 04:53:03


           *「光明法語」(12月1日)より

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

          <感謝合掌 令和2年12月1日 頓首再拝>

我(が)を捨て、神の恵みに波長を合わせる - 伝統

2020/12/02 (Wed) 03:16:23


           *「光明法語」(12月2日)より
             《神に波長を合わせ》

神は善人にも悪人にも、
太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、
自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

          <感謝合掌 令和2年12月2日 頓首再拝>

我(が)の道は陥穽(おとしあな)への道 - 伝統

2020/12/04 (Fri) 04:42:15


      *「光明道中記」(12月4日《困難を遊戯化する日》)より

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。
 何事も魂の生長の養分である。(『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、
その人にとって一つの誘惑であることがある。

通らないことが時にはあるので、
自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも
最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、我の道を通ると
陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

          <感謝合掌 令和2年12月4日 頓首再拝>

無我になる - 伝統

2020/12/09 (Wed) 04:52:16


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、その程度に「応じて、
神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 令和2年12月9日 頓首再拝>

海と波 - 伝統

2020/12/27 (Sun) 04:47:46


      *Web:かんながら(2020.12.26)より

波とは海の運動であって、
波そのものが実体として存在しているわけではありません。

波をここに持ってきなさいと言われても、
持ってくることはできないのです。


そのような意味から言えば、波は存在していない。

私という自己も、全体の運動であって実体ではないわけです。


ところが波は、自分が海から分離して存在しているような気になっています。

それどころか、海を自分の意のままにしようと奮闘しています。


まったくバカげた話です。


海が波に合わせるなんて、そんなことが起きるはずがありません。
海はただ海をやっているだけだから。

波は望むものを何でも手にしようとします。
そして望まないものはすぐさま遠ざけようとします。


ところが思い通りにはいきません。

そこに苦悩が生じます。

そして周囲を恨み、自分の無力さを嘆くのです。


これは波の能力がどうのという話ではありません。

そもそも波などという独立した存在などないのだから。


もし波が心静かに生きたければ、海との闘いをやめて共に流れることです。


だからと言って何もしないわけではありません。

全体の意志は波の中で生きているから、それに沿っていきるだけです。


そこに波としての分離意識(自我)を持ち込まないということ。

そうすればすべて上手くいきます。


海を生きる。

違う言葉で言えば愛を生きる。

全体(海)とは愛のことであり、
自分の形を頑なに持ち運ぼうとする波は怖れのことです。


それは行為の内容とも関係ありません。


道徳的だろうが不道徳だろうが、そのような区別がポイントなのではなく、
そこに自我があるかどうかが分かれ目です。


お金持ちになろうが、貧しいままだろうが、
神様を大切にしようが、粗末にしようが、
そんなこととも関係ないのです。


そこに我を張らずに、全体と共に流れていくのかどうかの話です。

そうすれば決して負けることはありません。

だって闘わないのだから。


これが生きる極意だと思っています。

https://abetoshiro.ti-da.net/e11779135.html

            <感謝合掌 令和2年12月27日 頓首再拝>

普遍意識が外界に顕現する邪魔をしない - 伝統

2021/01/07 (Thu) 02:02:40


       *『黎明』上巻第5章/葦原瑞穂・著(P110)より

普遍意識の顕現は普遍意識が自ら行うのであって、
私達の多くが日常自分だと思っている
個々の意識(現象我)が行うのではありません。

従って、どのような手段を採るにしても、
解脱を目標に掲げてそのための努力に執着すると、
自分では気が付かないうちに自我意識をはたらかせていて、

努力をすればする程、自我をますます強化する作業になり、
結果として却って解脱を妨げてしまうという、
多くの人達が陥ってきた罠に嵌ってしまう危険があります。

ですから当面の私達にできるのは、
普遍意識が外界に顕現する邪魔をしないこと、
ただそれだけであることを充分に理解して頂きたいと思います。

            <感謝合掌 令和3年1月7日 頓首再拝>

魔法の言葉~「ことは自分がやっているんじゃない」 - 伝統

2021/01/19 (Tue) 04:36:03


     Web:かんながら(2020.12.25)より抜粋

あれはどうしよう、このことはどうしようって、
そんなことばかり考えている日はないですか。

そういう時は、状況を何とか自分の思い通りにしたいのにならないという、
怖れと心配でいっぱいです。

やがてまた他の事柄に対して同じようなことをやり始めることでしょう。


そうやって年月が過ぎていくとしたら、
人生とは重荷を背負って歩く堂々巡りの迷路みたいなものです。


でもこの迷路はマインドが作り出したものであり、
いまあなたがどんな状況にいようと一瞬にして心を軽くすることも可能です。

心が軽くなれば状況も変わってくる。


そこに向かう魔法の言葉は

「ことは自分がやっているんじゃない」

というもの。


ことは起きているのです。

思い切って任せて見ましょう。


だからと言って何もしないというわけではありません。

その時一番いいと思ったことをやっていくのは同じ。

でも結果を作るのは自分じゃないことを知っていれば、
気持ちはだいぶ楽になります。


そして真実は、自分なんて呼べる操作人は存在していないのです。

(以下略)

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11777830.html

           <感謝合掌 令和3年1月19日 頓首再拝>

《最早吾生くるに非ず》 - 伝統

2021/01/26 (Tue) 03:27:57


        *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

           <感謝合掌 令和3年1月26日 頓首再拝>

我を捨てて心を空っぽにすれば、幸せが入ってくる - 伝統

2021/02/15 (Mon) 02:11:36


      *「けっきょく、お金は幻です。」竹田和平・著(P84~88)より

(1)自我は内向きで、真心は外向き。

(2)人のため、みんなのためで、自我は小さく、弱くなっていきます。

(3)真心を発揮すればするほど、心は「真空状態」に
   近づいていくのです。

   真空とは空っぽのことです。
   真空とは「我がない」こと、無心のことです。

(4)無心な人は人から愛されます。
   赤ちゃんには私心がありません。
   
   赤ちゃんは人から愛されよう、人を喜ばせようという
   自我をまだ持ち合わせていません。

(5)心が真空に近い人は掃除機がものを吸い込むように
   人を吸い寄せます。

   真心を発揮して、自我を小さくすればするほど、
   人から愛され、多くの支持や応援を周囲から集めることが
   できるのです。

(6)私たちは、毎日毎日、眠りについている間は、
   心は真空状態にあり、自我も消えています。

   毎夜、自我を捨て、毎朝、まっさらな裸の心をもって
   生まれ変わってきます。

   人間はそのように、心を自然に代謝できる能力、
   いまふうの言葉でいえば、ごくナチュラルに
   心をリセットできる能力を持ち合わせているともいえるのです。

(7)何でもいいから、人のために外向きの心を実践して、
   我を捨てる喜びを知ってほしいと思います。

   たとえば、自分がもっと大切にしているものを一つ誰かに
   あげてみる。

   そのときあなたは、我を捨てることの喜びは他の何よりも深く、
   大きな喜びであると、きっと実感できるはずです。

・・・

<参照Web>

伊勢ー白山 道(2020-10-21 )
「人生に意味は無い」
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/86297152f4a9ecf4c3a862c29707c75b


伊勢ー白山 道(2020-10-22 )
誰もの人生は、本当は白紙だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/5c0b9ad2602a0567e48e085cd0d2e63f

          <感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>

《わがまま》 - 伝統

2021/02/18 (Thu) 04:54:18


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。

《わがまま》は自分のしたいままをする
自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。

《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで
地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。

「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。

それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を
縛るところの《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

           <感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>

《自分の生活に「神」をして全領せしめよ》 - 伝統

2021/03/05 (Fri) 04:23:04


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P5~6)より

吾々が自分の生活を幸福なもの、健康なもの、
万事において行き届いたものとするためには、
自分の生活に「神」と云う無限の智慧を
注ぎ込まなければならないのであります。

信仰深き人でも時として失敗するのは、
自分の生活の中に95パーセントは「神」を置きながらも、
あとの5パーセント位は、自分の「我(が)」の考えを置いていて、
その「我(が)」の考えが失敗の因(もと)をなすのであります。

千丈(せんじょう)の堤(つつみ)も
蟻(あり)の一穴(いっけつ)から崩れるが如く、
その僅(わず)かの見落(みおと)されたる欠陥から
それが崩れて来ることになっているのであります。

神が「斯(か)くせよ」と腹の底では「何となく」おっしゃるのに、
どうしても、そうしたくないと云う「或る固い我(が)の塊」がある。

その塊(かたまり)をどうしても摧(くだ)かないから失敗が来るのであります。

           <感謝合掌 令和3年3月5日 頓首再拝>

自我(私)はいない - 伝統

2021/03/31 (Wed) 04:39:24


      *Web:かんながら(2021年03月09日)より

今日も伝えたいのは一つのことです。


人は人生に安定を求めますが、そんなものは存在しません。

なぜならすべては変化し続けているからです。


次の瞬間さえも不確実です。

何が起きるか誰にも分かりません。


安心とは変化を避けることではなく、変化を認めることなのです。



何が起きるかは存在全体に任せてしまいましょう。

そして人生の流れを信頼するのです。

神が望むなら野垂れ死にもいとわないってね。


そんな境地に徹したとき、自我が消えています。

自我とは、自力で何とかしようという衝動のことです。


自我が強まれば強まるほど不安が増すのは皮肉なこと。

そう思うと、自我は健気ですが、不憫な奴ですね。



自我(私)はいない。

これが真実であり、救済への福音です。


この感覚は思考を超えたところにあります。

自我とは思考の集まりと言ってもいいかもしれません。


結局は瞑想することが根本的な解決となります。

自分は身体でも、思考でも、精神でもなく、
全体の一部だということが分かるからです。


人が心配している姿は、まるで大木に生えた一枚の葉っぱが、
自分の生活を心配しているみたいなものです。

実際には自力でなんとかしようとしなくても、
大木の幹がすべての面倒を見てくれています。



自分が大木(全体)の一部だということを思い出すこと。

あなたは分離などしていないのだから。


これを知るのが一番大切なことです。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11862801.html

           <感謝合掌 令和3年3月31日 頓首再拝>

《絶対者の顕現としての我》 - 伝統

2021/04/17 (Sat) 04:31:33


       *『 生長の家 』(昭和25年7月6日の法語)より

   吾は 永遠なるものである。
   吾は 不滅なるものである。
   吾は 神である。

   吾は 迷える凡夫(ぼんぷ)ではないのである、
   吾は 仏である。

   吾は永遠である。
   吾は普遍である。

   自分を個別的存在であると思っていたのは 迷いである。
   吾は 決して有限の存在ではないのである。
   吾は 死をこえたものである。

   吾は 時間をこえ、空間をこえ、久遠に存在し、
   無限の智慧をもち、無限の愛をもち、
   死せず滅せず、苦しまず、悲しまず、
   永遠に喜ぶ所のものである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和3年4月17日 頓首再拝>

《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》 - 伝統

2021/04/22 (Thu) 04:52:10


        *『 生長の家 』(昭和25年4月22日の法語)より

   神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
   凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
   不思議なる力がわが内に宿っているのである。

   その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
   自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから
   神の無限の癒やす力が豊かに流れ入らないのである。

   自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
   自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。

   自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、
   ゆったりとした時に
   神の癒やす力が豊かに流れるのである。


    →  http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月22日 頓首再拝>

無我 - 伝統

2021/05/09 (Sun) 04:51:18


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、
第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

           <感謝合掌 令和3年5月9日 頓首再拝>

「私ならぬ立場」に於て吾々は立たねばならぬ - 伝統

2021/06/04 (Fri) 04:48:08


    *「光明道中記」(6月4日《天の声を聴く日》)より抜粋

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。

そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ
大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝>

「自分は本来ない」 - 伝統

2021/06/13 (Sun) 05:01:41


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは
自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」
という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。

したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」
と不平に思う人は、そのこれほど尽くしましたと力む
「自分」という存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、
神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。

相手の心に「我(が)」を握らせておいて、
神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

           <感謝合掌 令和3年6月13日 頓首再拝>

天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統

2021/06/15 (Tue) 05:07:54


       *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 令和3年6月15日 頓首再拝>

「“わたし”」なるものは本来無い - 伝統

2021/08/18 (Wed) 04:33:22


   *「光明道中記」(8月18日《無恐怖の心境の日》)より

【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第三条)

   善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
   しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をやと。
   この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

   そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
   弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、
   他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

       <感謝合掌 令和3年8月18日 頓首再拝>

我でやれば失敗する - 伝統

2021/09/15 (Wed) 04:59:36


    *「光明法語」(9月15日)より

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

           <感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>

分離からの目覚め - 伝統

2021/09/23 (Thu) 04:37:43


       *Web:かんながら(2021年09月21日)より抜粋

自分をより成長させて、人生の質を上げていく。

そんな情報は誰だって欲しがると思います。

しかし時代が成熟し、
まったく違うアプローチの真実がチラホラと現れてきました。

この真実はいま発見されたわけではなく、
少なくとも2500年前の釈迦の時代から言われてきたことです。

しかし仏教の場合も、現世利益や死後の救いのようなメッセージのほう
が受け取りやすかったのか、最も根幹にある唯一の真実は
注目されないままいまに至っています。


仏教の根幹は何か。

それはズバリ「無我」

「私と呼べるような独立した自己は存在していない」

ということに尽きます。


しかし完全に自己と同一化している者にとっては、理解することができません。
こうして「私」はいるじゃないかというわけです。

たしかに、いまもあるがままに存在はあるのですが、
そこに分離した個人がいるのではありません。

自分と感じている肉体も、それを取り巻く周囲も、
すべては一つなるものの表れです。

これはあなたが生まれた時からずっとそうなのですが、
ある時から自分と他人、自分と世界を分けだし、
それを信じたまま今日にいたっているのです。


ここまで読み進めてくれた人は、
このような情報を一笑に付すのではなく、
どこかに真実性を感じてくれているのだと思います。

しかしいくら真実性を感じても、いくら理解が深まっても十分ではありません。

真実性を感じていたり、
理解が深まっているように見える自分がいないという話だからです。


これは、分離が消えて初めて知ることです。

考えられないくらいの解放感を伴って、その「知」はやってきます。

その時、いままでよくここまで幻想の人生を生きて来られたものだと
感心さえするかもしれません。

残念なことに、この状態に自力でたどり着くことはできません。

まるっきりお任せです。


でもがっかりしないでください。

少しだけ朗報を伝えるとしたら、
この事に関心を持つだけでも稀なことだということ。

そして関心を持ったということは、
分離した自分という幻想が消える日が近づいたということです。。


直接には何もできなくとも、真実への門に入る準備はすることができます。

このような情報に触れ続けることも一つですし、
瞑想したり、寛いだりする時間を持つことがそれです。


あとは、人を批判したり、自分の正しさを証明しようとする癖を控えて、
すべてをあるがままに有らしめるような態度も役に立ちます。

要は深刻さを減らすということです。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12038903.html

           <感謝合掌 令和3年9月23日 頓首再拝>

無我献身 - 伝統

2021/10/02 (Sat) 04:59:01


    *「光明道中記」(10月2日《無我献身の日》)より

【生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。(『生命の實相』第十一巻)】

すべて他を制して之を墜(お)とし、それによって自分が利益を得んとする精神力は、
ついには自己を陥れて自己に危害を加えるものである。一時的の成功は斯くして
得られるかも知れないが、結局は自己を奈落に突き落とすに到るのである。

往年のナポレオンいま何処にありや、カイゼル今何処にありや、またヒットラー何処に
ありや、スターリン何処にありや。危いかな、全世界を共産化するまで、その赤カの
手をゆるめない理想をもつマルクス・レーニン主義者の行動を警戒せよ。

『古事記』が八俣の”遠呂智(おろち)”(遠きロシアの智慧)という象徴的名称にて
預言したところのマルキシズムの世界侵略政策が南下して来て、奇稲田姫(瑞穂国)を
侵略し、更にアジア全土に亘ってその赤化より護らんがために起ち上がったのが、
あの大東亜戦争であった。

それ故に日本はこの戦争を大東亜の民族の解放戦争と称したのである。
かくて南方諸民族は白人の支配下から独立し世界に新秩序が生まれたのである。

犠牲を惜しまず護りつづけた日本の無我献身がおのずから世界を此処まで
引摺って行ったのである。

           <感謝合掌 令和3年10月2日 頓首再拝>

サマーディ(三昧)のススメ - 伝統

2021/10/07 (Thu) 04:42:52


       *Web:かんながら(2021年10月06日)より

人が悩むのは、心が一つになっていないからです。

何かをしようとすれば、それに反する考えが浮かび、
なんとか反対意見を封じ込めようとしても、
自分をだますことはできません。

結婚すべきか離婚すべきか、
前に進むべきか考え直すべきか、
悩みと呼ばれているものは全てこのような状態の中にあります。


そんなバラバラな意見を常に持ち続けていたら、
心身症になるのも時間の問題です。

いまや人は重度か軽症かの違いがあるだけで、
誰もがこの傾向にハマっているように見えます。


心を一つにする。

何故できないのでしょう。

その理由は心自体の性質です。

分かりやすく言えば、心とは無数の思考の集合体だからです。


いくら自分の中の相反する考えを説得しようとしても、それは決してできません。

考えによって自分が一つになることなどあり得ないのです。
心のある部分は「イエス」と言い、他の部分は「ノー」と言います。


たとえば人間関係を例にとっても、
誰かを好きになれば心の奥底に憎しみが生まれます。

そして時間が経てば、何かの拍子にそれが反転します。

あらゆる人間関係がこの可能性を秘めているのです。


勝手に期待し、勝手に失望する。

友情の背後から敵意が顔を出す。

人間が幸せになれない原因の一つがここにあります。


それではどうしたらいいか。

答えは簡単、「無心」になること、心を無くすことです。
そのとき初めてすべてがあるがままに統合されます。


正しさもなく間違いもない。

あらゆる分断が消えて無くなります。

これが道(TAO)です。



ZENサンガの誓いの言葉に

「あるがままの命に落ち着く」

という箇所があります。


これは無心でいようということの違う言い方に過ぎません。

思考が介入すれば、あるがままに寛ぐことはできないからです。


人生を判断対象にするのではなく、「直接体験」に変えていくのです。

これがサマーディです。


サマーディとは自分と対象が一つであること、自分と行為が一つであること。

内側から見張り人や裁判官が消えている状態です。

これを日々の習慣にすることは、人生の質を大きく向上させます。


知識はもういりません。

あとは実践あるのみです。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12051739.html

           <感謝合掌 令和3年10月7日 頓首再拝>

小我を没し去り、神とともに大活動するところに悦びあり - 伝統

2021/10/29 (Fri) 04:55:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月29日)より

すでに与えられていることを自覚せよ ―― と言えば、実際生活になんの努力もしないで
「すでに与えられている」とすこぶる甘い態度で生活している人も時には見出される。

そんなのを神に甘える信仰と言うのであって、”神の中に生きる”生活ではないのである。

われわれは小我を神の中に没却させてしまわねばならないが、
本当の我(われ)は「”神の中”」に生きなければならないのである。

「神は今に到るも働き給う」―― われらは小我を没し去ると同時に、
神とともに大活動しなければならないのである。

活動の中にのみ、神と偕(とも)なる悦びがある。

           <感謝合掌 令和3年10月29日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2021/10/30 (Sat) 04:54:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 令和3年10月30日 頓首再拝>

「《わし》が」を捨てよ。 - 伝統

2021/11/01 (Mon) 04:28:14


      *「光明道中記」(11月1日《手垢のつかぬ愛行をする日》)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 令和3年11月1日 頓首再拝>

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