伝統板・第二

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三界唯心の理 ② - 伝統

2020/04/13 (Mon) 04:31:57

       *伝統板・第二「三界唯心の理」からの継続です。
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6950974


三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 令和2年4月13日 頓首再拝>

《現象世界は心の持ち方でどのようにも変わります》 - 伝統

2020/04/25 (Sat) 04:58:40


          *「真理」第9巻生活篇第3章(59~60)より

あなたの人生を幸福にするためには「三界唯心」の真理を知らねばなりません。

三界とは仏教の言葉で、人間が生まれ更(か)わって出てくるところの
欲界・色界・無色界の三つの世界で、
我々が生まれ更わる現象界引くるめて言った言葉であります。

それがただ心によって現されている世界だと云うことであります。

それは仏教の深い真理を現している言葉でありますが、
それを今までは、ただ高遠な印度哲学だぐらいに思って、
実際生活の上に役立つものだと知らなかったのでありますが、

生長の家があらわれて、心で思う通りに現象界
(我々の住んでいる感覚で感じられる世界)が変わると云うことを
多くの人々に教えて実際それを応用させてみせることによって、

歎きの世界が歓びの世界に変わり、
痛の世界が愉しさの世界に変わることが
実証されるようになったのです。           

            <感謝合掌 令和2年4月25日 頓首再拝>

三界は唯心の所現である - 伝統

2020/05/01 (Fri) 04:43:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月1日)」より

お山のつつじが真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花びらの降りそそぐ世界、この世界がそんな美しい世界だと知ったとき
わたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である。」釈迦のこの哲学が真実であるならば、
心の法則を知ることは三界を自由に動かし、
運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」キリストのこの信仰が真実であるならば、
信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、肉体を思うまま健康にし、心に思うまま
法悦と歓喜と平和を満たすところの唯一の鍵であるといわなければならない。

心の法則なるかな。信念の法則なるかな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

            <感謝合掌 令和2年5月1日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2020/05/02 (Sat) 04:47:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものではありません」と
普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」ということは
できないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が
形にあらわれて消えてゆくのだ、ありがたい」と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。

本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和2年5月2日 頓首再拝>

《現象世界は心の持ち方でどのようにも変わります》 - 伝統

2020/05/13 (Wed) 04:07:24


          *「真理」第9巻生活篇第3章(59~60)より

あなたの人生を幸福にするためには「三界唯心」の真理を知らねばなりません。

三界とは仏教の言葉で、人間が生まれ更(か)わって出てくるところの
欲界・色界・無色界の三つの世界で、
我々が生まれ更わる現象界引くるめて言った言葉であります。

それがただ心によって現されている世界だと云うことであります。

それは仏教の深い真理を現している言葉でありますが、
それを今までは、ただ高遠な印度哲学だぐらいに思って、
実際生活の上に役立つものだと知らなかったのでありますが、

生長の家があらわれて、心で思う通りに現象界
(我々の住んでいる感覚で感じられる世界)が変わると云うことを
多くの人々に教えて実際それを応用させてみせることによって、

歎きの世界が歓びの世界に変わり、
痛の世界が愉しさの世界に変わることが
実証されるようになったのです。           

            <感謝合掌 令和2年5月13日 頓首再拝>

あなたの運命はあなたの心次第 - 伝統

2020/06/20 (Sat) 04:55:31


          *『如意自在の生活365章』(P60)より

人は”神の子”であり、神から完全な自由を与えられているのである。

そして人間自身の運命を支配する力は”想念”と”感情”とである。
わたしたちは想念感情を道具として自分の運命をつくりあげる。

むろん、行動を伴う必要があるが、本当に自分の想念感情が強く動けば
おのずからそれは言葉となり、動作となり、行動となってあらわれてくるのである。

自分の想念感情が行動を起こして、それが言葉となり、
行動となって周囲に影響を与え、
千波万波を起こして自分の運命を決定するのであるから、

わたしたちは自分の不幸について何人をも非難することはできないのである。

自己の運命が面白くないならば、自分がいかに感じ、いかに想い、
いかなる言葉を発したかを反省してみて、

すべてを動かす行動の本源であるものを変化するようにつとめれば、
その変化の程度に応じて、その人の運命は改善されてくるのである。

すべて現象にあらわれてくることは結果であって、
結果を支配するものは心の中にあるのである。

            <感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>

自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開する - 伝統

2020/08/10 (Mon) 04:59:09


   *「光明道中記」(8月10日《善き言葉のみ使う日》)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。妻の性格がたとい自分と結婚する以前から
そのようであるにしても、そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

明日から『歎異抄』の研究を始める。

          <感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>

環境は自分の心的状態の投影である - 伝統

2020/10/29 (Thu) 04:54:21


        *『白鳩』(昭和37年3月号)より抜粋

環境は自分の心的状態の投影である。 
これを仏教では “三界唯心” と謂い、
生長の家では “環境も境遇も皆心の影” と謂うのである。 

吾々は四方すべて鏡でつくられた部屋の中に住んでいるようなものである。 
周囲と自分とは不可分の一体なのである。

環境をかえることよりも、自分自身が変ることが必要なのである。 
自分自身が変れば、環境も自然に変るのである。 

“今までの自分”に暇乞させることが必要である。 

環境は自分の心の影なのである。

  https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c7df22474665eaa628fccfbcb194186c

          <感謝合掌 令和2年10月29日 頓首再拝>

環境はただこの自在の生命が念(おも)いによって自由に仮作した世界である - 伝統

2020/11/10 (Tue) 04:59:24


     *『生命の實相』第25巻「教育実践篇上」(119~120)より

大雨(だいう)も暴風も地震も悉く唯心の所現であり、
業の流転所現でありますから、
観音妙智力、即ち光明思想によって
解脱してしまうことができるのであります。

(中略)

観音を念じるというのは
ただ観音さんどうぞ助けて下さいということではない。

観自在のその大自在の生命(せいめい)と
吾が生命(せいめい)と一つであるということを知ること
なのであります。

自分が観世音であり、自分が如来であり、自分が神と一体であると知る。

そして環境はただこの自在の生命(せいめい)が
念(おも)いによって自由に仮作した世界であると知る。

この大自覚を得て自由に環境を征服し得るようになった時、
吾々ははじめて「人格の自由」というものを得るのであります。

          <感謝合掌 令和2年11月10日 頓首再拝>

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)である - 伝統

2021/01/18 (Mon) 02:20:23


   *「光明道中記」(1月18日《高く騰(のぼ)る日》)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。
たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、
ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

            <感謝合掌 令和3年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2021/02/02 (Tue) 02:44:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、子に腹の立ったとき、
親に腹の立ったとき、そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

           <感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>

外界はわれわれ自身の内界の投影だ - 伝統

2021/02/23 (Tue) 02:38:57


       *『生命の實相』第13巻倫理篇上第4章(P112~113)より

仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、
それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。

キリスト教でも
「口に入るものなんじを汚さず、口より出ずるものなんじを汚す」
とイエスがいっていますのは、

外にあるように見えているものは、
本当は外に独立性をもっているものではないから、
それ自身で穢す力はない、

外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、
実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、
内から出るものすなわち「心」によって、
および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだ
といっているのであります。

われわれは日常生活において、
「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」
と思っている事件や、

周囲の人々の行為や心持ちが、
われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わってき、
人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって
外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。

それは理論ではなく事実なのでありまして、
『生長の家』誌友に顕われたその日常生活の事実を、
わたしは『生命の實相』全集第三巻または頭注版・携帯版第五巻「精霊篇」<上>に
「《ねばならぬ》を解放する宗教」と題して詳しく書いておきましたから、
あわせ読まれんことを希望いたします。

           <感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2021/03/04 (Thu) 06:47:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 令和3年3月4日 頓首再拝>

三界は唯心の顕われ~母親の心持ちの変化は子供に影響する - 伝統

2021/03/25 (Thu) 02:45:58

        *『生命の實相』第17巻宗教生活篇(P16~18)より

先日こういう奥様が生長の家本部へ五、六歳の女のお児さんを連れて
お越しになったことがあります。

その奥様は非常に不幸な方でありまして二人の子供があったのに
夫婦別れしていられるというのです。

男の子の方の子供は良人が引き取り、
今年六歳のその女の児(こ)はその奥様が引き取って
生活していられるのですが、
噂にきくと、その別れた良人に後妻ができて、
その後妻が芸者であるがそれにまた子供ができたということなのです。

そして後妻は芸者でありましたのでその家庭などはなっていない。
後妻に子ができた以上、それに継子(ままこ)に対する憎悪などと
いうことも加わってくるであろうと思われますので、

その奥様は良人にやった幼い長男のことを思うと、
もうほとんどいても起っても慰(なぐさ)まない悲しい心に
なってくるのであります。

それで毎日ただ泣き濡れて生活している。
夜もろくろく眠ったことがないと言われるのです。

それでわたしはいろいろと真理の話をしました。
「《自分の》子供だ、《自分の》子供だ」と思わないこと、

自分の子供ならば、自分が何とか工夫しなければ善い子にならない
という惧(おそ)れもあるけれども、

人間は神の子だから、どこに置いといても
神様がいいように育て給うのである。

実母が側(そば)にいなければその子が悪くなるようなものではない。
実母が側(そば)にいて甘やかしたために不良青年になる子供もある。

こんな実母は、人間を神の子だと見ないで自分の子だと思って、
我執(がしゅう)の愛で育てるから善くならないのです。

我執を絶したところに神が出て来る。
あなたが子供の側にいないで、我執の愛で育てないで、
神様にすっかりお委せしておいた方が善い子になるかもしれない。

三界は唯心の顕われなのだから、あなたがこちらにいて神想観をし、
《あなたの子が》、その《実相は神の子であって》
常によく護られており、良人も継母(ままはは)も子供もあなたも
すべて神の世界では、

実相(じっそう)において調和していて決して不調和なことは
起こらないものであるということを心平和に思念なすったら、
あなたの子供はどこに置いとかれても善い児(こ)に成長するのだ
とお話ししたことでありました。

するとその翌晩、その奥様が来られまして
「大分、心が開けてまいりまして楽になり、
 昨夜はいつになくよく眠りました」と言われた。

それから一週間ほどすると、この奥様が例の六歳ぐらいの女の子を
連れて来られまして言われるには

「実はこの児は毎晩夜尿(おねしょう=やにょう)をして
困っていたのでした。一晩に五度ぐらいは子供を起こして
お厠(かわ)へつれてまいるのですが、
それでも夜尿(おねしょう)をはずして困っていたのでした。

ところが先生のお話を聞きまして、
自然にわたしの心が楽になってきますと、
不思議にこの子が夜尿(おねしょう)をしなくなり、
わたしも熟睡致しますものですから一度も起こさぬことに
なりましたが決して夜尿(おねしょう)をはずすことなく

昨夜などは小用を催してきたときには自分でお厠(かわ)へいっていました」

三界は唯心の所現――こんなふうに母親の心持ちの変化は
子供に影響するのでありまして、母親の泣き濡れた感じが反映して
夜尿(おねしょう)に変化していたのでした。

            <感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2021/04/13 (Tue) 02:06:27


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2021/05/02 (Sun) 04:49:14


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようとも
われわれの実相(ほんとのすがた)はすでに叶えられているのである。

この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、

「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
 こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずに
 おれるものではありません」

と普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」
ということはできないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」

「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が
 形にあらわれて消えてゆくのだ、ありがたい」

と思えばよいのである。

そして、

「今眼の前にどう現われていようとも、
それは唯心の所現であって本当に《ある》のではない。
本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」

と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和3年5月2日 頓首再拝>

すべては、自分の心の反映 - 伝統

2021/08/10 (Tue) 04:53:16


   *「光明道中記」(8月10日《善き言葉のみ使う日》)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。
妻の性格がたとい自分と結婚する以前からそのようであるにしても、
そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

明日から『歎異抄』の研究を始める。

       <感謝合掌 令和3年8月10日 頓首再拝>

《体験の世界は結果である》 - 伝統

2021/09/03 (Fri) 04:51:31


       *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P101~102)より

「肉体は無い」と生長の家が宣言しますと、
色々の反対論が湧いて来ます。

それならそれが単なる夢か ―― と言いますと、
決して単なる夢ではありません。

夢は目覚めたら消えてしまいますし、
眠っても毎晩その続きの夢を見ませんが、

肉体の世界、物質の世界は、眼が覚めると
昨日(きのう)のつづきとして確実にあらわれてまいります。

其処に単なる「夢」と「物質の世界」との区別があります。

しかし「物質の世界」は感覚を心で綜合して感ずる世界でありまして、
感覚(色・形・匂・味等)も心の働きであり、
それを綜合する働きも心の働きであり、
これは心の経験する世界であります。

経験の世界は「結果の世界」であり、
「結果の世界」は原因が変ると「変化する世界」であります。

原因となるものは身口意の業(ごう)であります。

身の行いと意(こころ)と言葉を浄(きよ)めましょう。

       <感謝合掌 令和3年9月3日 頓首再拝>

一切万事 我が心より出(い)でて 我が運命となる - 伝統

2021/09/07 (Tue) 04:54:19


     *『 生長の家 』(昭和25年8月4日の法語)より
       ~ 現在の不幸より脱する智慧

現在の状態を、過去の自分の想念の結果だと
正直に勇敢に承認することは 智慧の始めである。

その時はじめて原因を改める事が出来るのである。

若(も)し吾々が現在の困難の状態を
自分以外の他(ほか)のものであると考えているならば、
原因と違うところを探しているのであるから、
原因を是正することは出来ず 其の人の不幸は去らないのである。

一切万事 我が心より出(い)でて 我が運命となるのである。

他を恨むような心は、人に害を与える心であるから、
自分が害を与えられることになるのである。

       <感謝合掌 令和3年9月7日 頓首再拝>

外界は心の世界のあらわれ - 伝統

2021/10/06 (Wed) 04:49:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月6日)より

外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。

内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。

さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。

現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。

           <感謝合掌 令和3年10月6日 頓首再拝>

醜き姿を心より払拭せよ - 伝統

2021/11/05 (Fri) 04:53:09


       *「光明法語」(11月5日の法語)より

病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、想念の具象化である。

何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には
「かかるものは実在ではない。実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」
と数回心に念じて、醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。

宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。

           <感謝合掌 令和3年11月5日 頓首再拝>

すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出す - 伝統

2022/01/18 (Tue) 04:13:53


       *「光明道中記」(1月18日《高く騰(のぼ)る日》)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。
たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、
ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

            <感謝合掌 令和4年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2022/02/02 (Wed) 04:52:05


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、子に腹の立ったとき、
親に腹の立ったとき、そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

           <感謝合掌 令和4年2月2日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2022/03/04 (Fri) 07:06:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 令和4年3月4日 頓首再拝>

神から悪しきものが来る、という考えを捨てよ。 - 伝統

2022/04/02 (Sat) 08:00:38

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

            <感謝合掌 令和4年4月2日 頓首再拝>

心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2022/04/13 (Wed) 07:39:26


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 令和4年4月13日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2022/05/02 (Mon) 07:36:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月1日)」より

お山のつつじが真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花びらの降りそそぐ世界、この世界がそんな美しい世界だと知ったとき
わたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である。」釈迦のこの哲学が真実であるならば、
心の法則を知ることは三界を自由に動かし、
運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」キリストのこの信仰が真実であるならば、
信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、肉体を思うまま健康にし、心に思うまま
法悦と歓喜と平和を満たすところの唯一の鍵であるといわなければならない。

心の法則なるかな。信念の法則なるかな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

               ・・・

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものではありません」と
普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」ということは
できないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が形にあらわれて消えてゆくのだ、
ありがたい」と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和4年5月2日 頓首再拝>

三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴う - 伝統

2022/08/10 (Wed) 09:10:15


       *「光明道中記」(8月10日《善き言葉のみ使う日》)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。

妻の性格がたとい自分と結婚する以前からそのようであるにしても、
そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、
ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

            <感謝合掌 令和4年8月10日 頓首再拝>

三界は唯心の所現 - 伝統

2023/01/18 (Wed) 07:53:36


      *「光明道中記」(1月18日《高く騰(のぼ)る日》)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、
いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。
たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、
ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

         <感謝合掌 令和5年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2023/02/02 (Thu) 04:55:33


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、
子に腹の立ったとき、親に腹の立ったとき、
そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、
こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

           <感謝合掌 令和2年2月2日 頓首再拝>

三界はただ見る人自身の鏡、最も美しき心によって世界を見んかな  - 伝統

2023/02/25 (Sat) 10:07:54


     *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ
 実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。(『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、

「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」
の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、
主観によって、観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は
孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

           <感謝合掌 令和5年2月25日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2023/03/04 (Sat) 04:59:10


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、
心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではない
という人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを
説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は
《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、
他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、
視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、
程度の差こそあれ、波であることにおいて
同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。
植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を
入れて適当の温度の中で化合せしめても人体はむろんできないし、
植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、
偶然的なものではなく、よほど叡智的なものであることは、
人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とを
もったものでないと造ることのできないような、
最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、
あらゆる他の器官が、同様の程度に最高複雑な叡智的組立てを
もっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の
変形にすぎないからである。

そうすれば、
《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、
心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは
心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、
唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だとも
いうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに
高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち
1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、
1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、
考え方によって、どちらとでも言いうる。

どちらを考えるかということは
その人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、
宇宙の中に無限と1円とがともにあるならば、
宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、
無限は先であり、有限は無限の中に包摂せられる一部分である
という意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

         <感謝合掌 令和5年3月4日 頓首再拝>

心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2023/04/13 (Thu) 03:19:21


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 令和5年4月13日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2023/05/02 (Tue) 04:56:05


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようとも
われわれの実相(ほんとのすがた)はすでに叶えられているのである。

この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、
「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、

「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
 こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずに
 おれるものではありません」

と普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が
形にあらわれて「不平な事件」が突発する、
そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、
「不幸の機関車よ、運転するな」ということは
できないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」

「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が
 形にあらわれて消えてゆくのだ、ありがたい」

と思えばよいのである。

そして、

「今眼の前にどう現われていようとも、
 それは唯心の所現であって本当に《ある》のではない。

 本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
 幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」

と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和5年5月2日 頓首再拝>

現象界は結果、描いた心の波が顕れている - 伝統

2023/10/05 (Thu) 08:22:45


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月5日)より

見える世界に不幸や病気が起こったからとて、それをそのまま実在だと思い、心
に描けば描くほど、その映画のフィルムの複製を幾本も新たにつくって
映写することになるから、その不孝や病気は治らないのである。

映画の世界(眼に見える世界)に不孝を映して見ることが嫌いならば、
フィルムの世界(心の波で作る映画の世界)における原画を
訂正しなければならないのである。

現象界は結果であって、原因ではないのである。
原因の表現が結果である。

だから結果であるところの不幸や病気を根絶しようと思うならば、
原因であるところの心の波で描く原画を変更しなければならない。

心の波で不幸や貧乏や病気を描くな。

        <感謝合掌 令和5年10月5日 頓首再拝>

外界は心の世界のあらわれ - 伝統

2023/10/06 (Fri) 09:33:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月6日)より

外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。

内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。

さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。

現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。

           <感謝合掌 令和5年10月6日 頓首再拝

堅忍持久で、心の世界が形の世界に現れる - 伝統

2024/01/18 (Thu) 10:03:59


     *「光明道中記」(1月18日《高く騰(のぼ)る日》)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。
                   (『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、
運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、
いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。
たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、
ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-05-24)
畏れるべきは、自分の自作自演だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/89f8c8df75606165bec3f39fe469fd85

            <感謝合掌 令和6年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2024/02/02 (Fri) 10:12:02


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、
子に腹の立ったとき、親に腹の立ったとき、
そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、
こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。


・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-09-08)
どこでも天国
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/f0985eea2bc9b518546a44d2ff0df377

            <感謝合掌 令和6年2月2日 頓首再拝>

三界はただ見る人自身の鏡、最も美しき心によって世界を見んかな - 伝統

2024/02/25 (Sun) 12:50:30


     *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ
 実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。(『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、

「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」
の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、
主観によって、観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は
孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

           <感謝合掌 令和6年2月25日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2024/03/04 (Mon) 11:21:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 令和6年3月4日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2024/04/13 (Sat) 08:55:06


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 令和6年4月13日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2024/05/02 (Thu) 11:48:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようとも
われわれの実相(ほんとのすがた)はすでに叶えられているのである。

この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、

「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
 こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれる
 ものではありません」と普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」
ということはできないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が
 形にあらわれて消えてゆくのだ、ありがたい」と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。本当には今自分が、
自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和6年5月2日 頓首再拝>

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える - 伝統

2024/07/20 (Sat) 10:23:58


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月20日)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、
自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。

         <感謝合掌 令和6年7月20日 頓首再拝>

三界は唯心の所現 - 伝統

2025/01/18 (Sat) 11:52:14


      *「光明道中記」(1月18日《高く騰(のぼ)る日》)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、
吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。

たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、
ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

            <感謝合掌 令和6年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2025/02/02 (Sun) 11:41:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、
子に腹の立ったとき、親に腹の立ったとき、
そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、
こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

            <感謝合掌 令和7年2月2日 頓首再拝>

三界はただ見る人自身の鏡、最も美しき心によって世界を見んかな - 伝統

2025/02/25 (Tue) 12:01:34


     *「光明道中記」(2月25日《心美しき日》)より   

【心の眼がひらかれなければ
 実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。(『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、

「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」
の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、
主観によって、観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は
孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

           <感謝合掌 令和7年2月25日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2025/03/04 (Tue) 12:09:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、
本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。

むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを
説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は
《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に
起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、
視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、
程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。
植物も動物も生まれない。

だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて
適当の温度の中で化合せしめても人体はむろんできないし、
植物はもちろん、微生物すらもできない。


《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、
偶然的なものではなく、よほど叡智的なものであることは、
人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでない
と造ることのできないような、最高複雑な組織のものであることや、
単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、同様の程度に
最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において
同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、
心のエネルギーは物質を動かす。

心のエネルギーが物質を動かすのは
心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに
高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだ
ともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、
考え方によって、どちらとでも言いうる。

どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、
宇宙の中に無限と1円とがともにあるならば、
宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、
無限は先であり、有限は無限の中に包摂せられる一部分である
という意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 令和7年3月4日 頓首再拝>

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