伝統板・第二

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物質無 ② - 伝統

2020/04/03 (Fri) 02:38:01

       *伝統板・第二「物質無」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6819763 

「固定せる《もの》」は一つもない

      *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                           『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めない
と云う人は、「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易いのであるが、
万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、その物質(茲では電子)が
あるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような固定したものではなく運動している
のである。運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 令和2年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2020/04/04 (Sat) 02:01:32


        *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 令和2年4月4日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2020/04/06 (Mon) 02:01:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 令和2年4月6日 頓首再拝>

《物質は単なる物質ではありません》 - 伝統

2020/04/18 (Sat) 04:26:05


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P71)より

あなたが自分の肉体を見ても、それを物質の集合体に過ぎない
唯(ただ)の肉体だと見てはなりません。

即身そのままに神の霊的実在の顕現であるとして
是(これ)を尊敬し礼拝し祝福することにしなさい。
其処から本当の健康と云うものが生まれて来るのです。

あなたが金(かね=貨幣)を見ても、それを唯の物質だと見たり、
単なる交換媒体だと見ないで、

神の愛の表現であり、吾々の兄弟なる神の子たちの生命(いのち)を
そそがれたる表現であると思って祝福し感謝することから始めなさい。

同じ金額であっても働きようが変わってまいります。

慧能大師が弘忍和尚から伝えられた衣(ころも)は
「汝とれれば取って見よ、これは嗣法(しほう)の象徴である」と
言ったとき慧能の衣を神秀は持ち上げることができませんでした。

パウロの持っていた手巾(ハンカチーフ)や、衣の付属品は、
触れると病いを癒やす力を持っていました。

私の書いた掛け軸から光が出たと報告されたこともあります。

真理の象徴としてあるものは単なる物質以上の力があるのです。

            <感謝合掌 令和2年4月18日 頓首再拝>

物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現である - 伝統

2020/04/30 (Thu) 04:50:20


        *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より抜粋

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

            <感謝合掌 令和2年4月30日 頓首再拝>

《吾々は究極には物質だけでは満足できない》 - 伝統

2020/05/12 (Tue) 04:29:44


          *「真理」第9巻生活篇(P13~14)より

人間には2つの面があります。
それは物質的面と心霊的面とであります。

従ってまた人間の興味の対象となるものにも
物質的なものと心霊的なものがあります。

しかも物質的な面と心霊的な面とは互いに一つの「実在」の反面でありますから、
物質を深く追求して行くと、結局、心霊的な面がでて来るのでありまして、
物理学の進歩につれて、物質は最早、固定的な塊(かたまり)ではなく、
法則によってあらわれている「知性あるエネルギー」の一つの仮の相(すがた)
に過ぎないことがわかって来たのです。

固形的に見えている物質は実は物質でないとわかると、吾々が物質だけを
追求していても結局、究極的な満足が得られない理由がわかるのです。

何故なら、その仮りの相(すがた)だけをもとめていても、
本質はつかめないからです。

事物の本質は霊的なものであるから霊的なものを得るまでは
人間は満足できないのです。

            <感謝合掌 令和2年5月12日 頓首再拝>

「 物質 」 の概念から脱け出すべし - 伝統

2020/07/12 (Sun) 04:49:48


     *『 生長の家 』(昭和26年6月4日の法語)より

すべての不幸を癒(いや)し、病気を癒すための祈りの根本は

「 神はすべてのすべて 」と云う真理である。


そして

「 神は霊的実在であるから、すべては霊的実在であり、物質はない 」

と云う真理である。


「 物質はない 」とは最も理解され難いことがらであるけれども、

「 すべて物質と見えるものは物質ではない。
  従って物質と云うものは微塵(みじん)もない 」

と云うことである。

「 物質 」とは生々せん動波動せる神の生命の波を
縦横厚みの空間的枠内に固定化して見た概念的存在にすぎないのである。

それを「 物質 」として観ている限りに於いて、
吾々は自分で造った「 固定概念 」に縛られているのである。

「 物質 」と云う「 固定概念 」から抜け出すことが
不幸から脱却する根本条件である。

            <感謝合掌 令和2年7月12日 頓首再拝>

物は拝んで使い、活かしきる - 伝統

2020/09/18 (Fri) 04:53:12


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 令和2年9月18日 頓首再拝>

物質《なし》、ただ妙有のみ《あり》 - 伝統

2020/10/23 (Fri) 04:36:26


    *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》) より

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                   (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、
斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、結局その念の支持力によって
病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」と
ハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

           <感謝合掌 令和2年10月23日 頓首再拝>

物質は空である  - 伝統

2020/11/12 (Thu) 04:21:51

       *「精神科学」(昭和42年6月号~ 谷口清超先生)より

昔、長南年恵という霊媒がいた。

昔と言ってもそれは明治二、三十年の頃の事であるが、
彼女は十四年間も絶食し、水すらも飲まなかったという。
大小便も出ず、月経もなかった――と言われている。

そして黙然すると、何十本もの壜の中に、
たちまち霊水を満たすことが出来たのである。

こんな現象は、唯物論者に言わせると、
詐術か誤認ということになるのであるが、

当時の世論もまさにその通りであったので、彼女は何回も投獄されたが、
それでもなお獄中で心霊現象が起こった。

そこで明治三十三年神戸地方裁判所で、判検事、弁護士立会いの下に
長南年恵に神霊実験をさせてみることとなった。

実験場は同裁判所の弁護士詰め所とし、その一部の電話室を
キャビネットとして使い、その中に入った年恵は五分くらいの内に
密封された壜の中に濃黄色の水を充したという事が、
明治三十三年十二月十四日の「大阪毎日新聞」に記されている。

そしてこの実験によって、心霊的事実が証明されたので、
その後の判決で彼女は無罪を言い渡された。

(以上、笠井鎭夫氏著『近代日本霊異実録』の記事による)


物質の一般法則によると、壜に水を入れるには、
壜のどこかに穴をあけてなければならない筈であるが、
ある条件下では、そうでなくても水が入り得る。

しかしこの現象は決してデタラメに起るのではなく、
一定の心霊的原則に従って起こるのである。

ここに吾々は、物質科学では未確認の数多くの
「法則」があることを知らなければならないのであって、
現在物質的法則として知られている法則だけが全てだ
という様な愚かな事を考えてはならないのである。

 
多くの唯物論者の最大の誤りは、自分の信奉する法則以外のものを
すべて否定して、無限の法則を勝手に“限定”してしまうことである。

その結果彼らは、未知の宇宙や歴史や神秘に肉迫することが出来ず、
却って万年一日の如き知的停滞を続けるのである。

大体五官に感覚される知覚を超えた存在を否定することで
満足するくらいなら犬猫にでもできる。

人間と言われるからにはもっと「叡智」を働かせ、
五官を越えさらに六感を超越した「実在」を把握しなればならないのである。

壜に水を満たすことぐらいで驚いていてはならない。

物品引き寄せ現象や、空中飛翔術などは、まだまだ神秘の中は入らない。

これ等の出来事は、「物質は本来“空”である」という事が
判りさえすれば当り前のことである。


もっと重大なことは、「人間は自由だ」ということであり、
「人は何でもできる」ということである。

人間は何でも思う通りのことが出来るからこそ、
自分で自分の“無限力”を束縛して、
「物質に引っかかる」ことも出来るのである。


http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7931918
道産子  2019/12/31 (Tue) 09:05:41


           <感謝合掌 令和2年11月12日 頓首再拝>

物質はないとは - 伝統

2020/12/11 (Fri) 04:50:24


     *『生命の實相』第29巻「女性教育篇」(P109~110)より

いっさいの事物を観るに、これは釈迦牟尼仏の生命が顕現しているのだ、
とわかりましたならば、一枚の紙でも粗末にできない。

それに内在する百パーセントの力を発現させることになります。
一枚の紙といいますけれども、一枚の紙でもこの本当に拝む心で
手紙をお書きになるといたしましたならば、
その一枚の紙がどんな働きをするかしれない。

それはお守りみたいな神秘的な働きをして
その手紙を受け取った人の病気が治ることもある。

あるいは一枚の手紙によって何万円という金を貸してくれるかもしれない。
この一枚の紙ですら、それをいかに拝んで生かしたかということに、
無限の力が出てくるわけであります。

生長の家で物質はないないと言うのもそこであります。

物質はないというのはこれは紙であるから、
物質であるから粗末にしようというのでは、
その「無い」に捉われたのであります。

われわれは一切の事物を見るに神の生命だと見れば無限の価値が出ますが、
これは何グラムの目方で何と何との原素が寄り集まってできたものである、

これは単なる物質であると見れば、それだけの価値しかないのであります。
ところが、紙を物質と見ない人は
往々この一枚の紙を無限の力に変化することができる。

この一枚の紙に手紙を書く、愛の念波をこめて書けば、
これが何万何十万の人の命を生かすようにも変化する、
そうすると本来物質という限定されたものは何もないのでありまして、
われわれが拝む程度にこの物質の価値が変化するのであります。

これが物質がないと知った人のできる手品で、
無一物中無尽蔵という手品であります。

「無一物」といっても、着のみ着のままになれというのではありません。
「物質なし、ただ神のみある、ただ仏のみある」と知ることです。

それがわかると、われわれは何を見ても、本当にこれを拝まずにはおられない。
いっさいのものはそれを拝むとき、物質ではないところの物質以上の
無限の神の大生命の力を現わしてくるのであります。

およそ生長の家の「物質はない」という言葉は非常に尊い、
やさしい、しかもむつかしい言葉でありまして、
往々誤解されるのでありますけれども、
こういうふうに考えていただけばその大要は掴めると思うのであります。

           <感謝合掌 令和2年12月11日 頓首再拝>

《吾々は未だ曾て物質そのものをみたことはない》 - 伝統

2021/01/04 (Mon) 04:29:06


     *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P288~289)より

「物質」そのものが見える形のままであるかと言うと、
「物質」そのものは何人(なんぴと)もそれを見た者はないのである。

「分子」は500万倍に拡大出来るような顕微鏡で見なければ
見えない筈の微小な存在であるのである。

しかもそれが分子の直径の1500倍も互いに離れて
点在するのであるから、それ自身では見えない微小体が、
非常に離れて位置する場合には、それが見える筈はないのである。

それなのに吾々が一定の形にそれを見ているのは、
物質そのものを見ているのではなく、
其処から来る光の波の刺激を契機として、
自分の心の内から引き出されて来る「心の波」(或る観念形態)を
見ているに過ぎないのである。

吾々は「物質」を見ないで、「心の相(すがた)」を物質化してみて、
「此処に物質がある」と言うに過ぎないのです。

           <感謝合掌 令和3年1月4日 頓首再拝>

《物理学上の物質無》 - 伝統

2021/01/20 (Wed) 04:59:36


        *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P289)より

物質の成分は、マイナスの電気を帯びている電子と、
プラスの電気を帯びている電子核との結合であるが、
その電子等は真空の中に生じたエーテルの
「渦巻(ヴォルテックス・リング)」である。

そしてそのエーテルとはアインシュタインの相対性原理によって、
その存在が否定せられて、

エーテルは本来「無」であると言うのであるから、
物質そのものが存在すると認めることは、
「心」の存在を認める以上に至難のことであるのである。

無論「現象」としては、縦、横、厚みの三次元的あらわれをもって見え、
その大きさを測量することが出来る事実は、公平にみとめて好い
のであるが、斯くあらわれている実質と云うものは、
「エーテル」と云う「無」を実質とするのであるから、
物質の実質は「物質」と云う具体的な塊であることは能(でき)ない。

それは寧(むし)ろ「心」を実質として
想念がその形を維持するのである。

           <感謝合掌 令和3年1月20日 頓首再拝>

《何故すべてのものが、人類に一様に見えるか》 - 伝統

2021/03/18 (Thu) 06:37:46


      *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P291~292)より

物質の「形」も、「色」も、それから発する「音」も結局は、
物質そのものにあるのではなく、それを感受する「心」の中にある
と言うならば

感ずる人の心によって、或る人には、Aの形に見え、
又他の人にはBの形に見え、「心」の数の異なるに従って
別々の形に見えても宣(よ)さそうなものであるのに、

見る「心」が異なっても同じように見えたり、
数学的計算によって算定した形等が、すべての人類に一様に見える
と云うのは何故であろうか。

それは、すべての人の「心」は、別々の存在ではなく、
宇宙に満つる「全体の心」(神)の一部分が各個人に宿っていて、
各々の「心」をなしているからである。

そして、「宇宙に満つる心」は数学的な智慧をもった存在であるから、
その表現であるところの物質的現象が数学的な秩序をもってあらわれる
ことになるのである。

           <感謝合掌 令和3年3月18日 頓首再拝>

「物質」はエーテル波動(=無)である - 伝統

2021/04/01 (Thu) 04:56:19


      *「光明道中記」(4月1日)より抜粋

「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。

併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。

            <感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>

物質は無い、《霊のみある》 - 伝統

2021/04/02 (Fri) 04:55:06


           *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。(『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに何故(なぜ)色々の様式をあらわすので
あろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

          <感謝合掌 令和3年4月2日 頓首再拝>

「固定せる《物質》」は一つもない - 伝統

2021/04/03 (Sat) 01:49:26


        *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                           『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めない
と云う人は、「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易いのであるが、
万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような固定したものではなく
運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

          <感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2021/04/04 (Sun) 04:36:35


        *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、

遠くから富士山を見て
「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは
「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

          <感謝合掌 令和3年4月4日 頓首再拝>

「物質は無い」の意味は - 伝統

2021/09/18 (Sat) 04:54:02


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。

それは冥加(みょうが)にあまることであり
神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 令和3年9月18日 頓首再拝>

「物質は無い、《霊のみある》」 - 伝統

2022/04/02 (Sat) 08:08:54


         *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。(『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに何故(なぜ)色々の様式をあらわすので
あろうか。それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

             <感謝合掌 令和4年4月2日 頓首再拝>

「固定せる《もの》」は一つもない - 伝統

2022/04/03 (Sun) 07:35:57


      *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                           『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めない
と云う人は、「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易いのであるが、
万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、その物質(茲では電子)が
あるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような固定したものではなく運動している
のである。運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 令和4年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2022/04/04 (Mon) 07:10:05


        *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 令和4年4月4日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2022/04/06 (Wed) 06:52:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 令和4年4月6日 頓首再拝>

すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」である - 伝統

2022/04/10 (Sun) 08:02:29


         *「光明道中記」(4月10日)より
           ~ 幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。(『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」である
と云う意味であった。

併し、「物質」と見えている其の儘に
その「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、
三次元的に翻訳して視ているのであるが、
半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、
平面的存在の如く写真に写されているからとて、
その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、
間違が起るならば其処に映し出された写真に映像ムラが出来たり、
ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が
現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)された場合に
不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

            <感謝合掌 令和4年4月10日 頓首再拝>

物質は「物質」にあらず「理念」の表現 - 伝統

2022/04/30 (Sat) 07:26:09


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

          <感謝合掌 令和4年4月30日 頓首再拝>

物質とは本来建設的威力なきものである - 伝統

2022/10/04 (Tue) 06:38:08


    *「光明道中記」(10月5日《霊に生きる日》)より

【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、
物質文明のみを尊重して、物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、
それが霊の権威を失うとき、物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。
物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。

物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。
最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、
全然神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 令和4年10月5日 頓首再拝>

物質”なし”、ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2022/10/23 (Sun) 08:06:07


    *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》)より 

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                    (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、結局その念の支持力によって
病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」と
ハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

            <感謝合掌 令和4年10月23日 頓首再拝>

物質と云うものは、霊の力の反影(リフレクション)である。 - 伝統

2023/01/05 (Thu) 07:48:30


    *「光明道中記」(1月5日《万物皆霊を知る日》)より

【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
                  (「生命の實相」第十一巻)】

人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。

それを展開して引き出すのが教育である。

凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。

エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、
ただの「無」ではなくして、そこに動き始むる力があった。
それが神の霊である。

「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
 神光あれと言い給いければ光ありき」である。

エーテルの大海中に「霊の振動」が起る
 ―― 即ちコトバ起れば、宇宙電気となり、大火焔
の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、万物を生じ、
万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。

エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。

霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。

物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。

吾々は物質の力を使わないのではない。

物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。

         <感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>

物質は無い、《霊のみある》 - 伝統

2023/04/02 (Sun) 05:01:23


      *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。
                    (『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、
エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、「無」であるが故に、
「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して
吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、
ただ霊的波動を、吾々が仮に静止面空間に置き直して、
物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。

固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

            <感謝合掌 令和5年4月2日 頓首再拝>

「固定せる《もの》」は一つもない - 伝統

2023/04/03 (Mon) 05:01:29


   *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより
 貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」
―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めないと云う人は、
「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く
考えられ易いのであるが、万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、
精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが
発見されたのだと言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような固定したものではなく
運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 令和5年4月3日 頓首再拝>

物質は凡(すべ)て心の顕れである - 伝統

2023/04/04 (Tue) 04:46:34


    *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。
 言い換えれば、物とは「心の塊」である。(『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、

遠くから富士山を見て
「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは
「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のように
ザクザク堆積しているのだ。

しかし、然(そ)う視えるのも
まだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、
また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。

ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は
斯(こ)う視えると云うに過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた
裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 令和5年4月4日 頓首再拝>

「物質は無い」―― とは、 - 伝統

2023/04/10 (Mon) 05:07:41


           *「光明道中記」(4月10日)より
            ~幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。
                   (『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」である
と云う意味であった。

併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在する
と云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、
三次元的に翻訳して視ているのであるが、
半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば
縦横厚みだけの三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、
それは無限次元が三次元に減ぜられただけであって、
不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、
平面的存在の如く写真に写されているからとて、
その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、
間違が起るならば其処に映し出された写真に映像ムラが出来たり、
ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が
現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)された場合に
不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

           <感謝合掌 令和5年4月10日 頓首再拝>

「物質なし」とは、背後の理念を掴ましめんがための喝 - 伝統

2023/04/30 (Sun) 04:48:17


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて

「一切の《もの》に和解せよ」
「一切の《もの》に感謝せよ」

の教えが生きてくるのである。

           <感謝合掌 令和5年4月30日 頓首再拝>

物質とは本来建設的威力なきものである - 伝統

2023/10/05 (Thu) 08:25:01


    *「光明道中記」(10月5日《霊に生きる日》)より

【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、
物質文明のみを尊重して、物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、
それが霊の権威を失うとき、物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。
物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。

物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。
最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、
全然神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 令和5年10月5日 頓首再拝>

物質は《いのち》の固定したもの - 伝統

2023/11/30 (Thu) 09:46:18


    *「光明道中記」(11月30日《空の徳を生きる日》)より抜粋

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                   (『生命の實相』第九巻)】

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、
「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

           <感謝合掌 令和5年11月30日 頓首再拝>

物質と云うものは、霊の力の反影(リフレクション)である。 - 伝統

2024/01/05 (Fri) 10:55:51


    *「光明道中記」(1月5日《万物皆霊を知る日》)より

【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
                  (「生命の實相」第十一巻)】

人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。

それを展開して引き出すのが教育である。

凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。

エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、
ただの「無」ではなくして、そこに動き始むる力があった。
それが神の霊である。

「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
 神光あれと言い給いければ光ありき」である。

エーテルの大海中に「霊の振動」が起る
 ―― 即ちコトバ起れば、宇宙電気となり、大火焔
の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、万物を生じ、
万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。

エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。

霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。

物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。

吾々は物質の力を使わないのではない。

物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。

         <感謝合掌 令和6年1月5日 頓首再拝>

「物質」は無い、《霊のみある》 - 伝統

2024/04/02 (Tue) 11:36:59


      *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。
                   (『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、
エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、「無」であるが故に、
「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して
吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、
ただ霊的波動を、吾々が仮に静止面空間に置き直して、
物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

・・・

<関連Web>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「物質の否定、棄揚、神国の肯定」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=44

            <感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>

万物何物も変化しないものはない - 伝統

2024/04/03 (Wed) 12:33:10


     *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                        『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」
―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めないと云う人は、
「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易い
のであるが、万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが
発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような
固定したものではなく運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 令和6年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2024/04/04 (Thu) 10:59:31


    *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                        (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 令和6年4月4日 頓首再拝

不思議な物質化現象の真相 - 伝統

2024/04/05 (Fri) 12:35:42

不思議な物質化現象の真相
伊勢ー白山 道(2024-04-05)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/f5b3d428c76627918e6e448db42b6c31

           <感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝

「物質は無い」―― とは - 伝統

2024/04/10 (Wed) 10:38:53


           *「光明道中記」(4月10日)より抜粋
            ~幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。
                   (『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」である
と云う意味であった。

併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在する
と云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、
三次元的に翻訳して視ているのであるが、
半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

       <感謝合掌 令和6年4月10日 頓首再拝>

霊と物質との関係 - 伝統

2024/08/13 (Tue) 09:09:05


         *「光明法語」(8月13日)より

物質は、霊が自己表現の道具として、
自己を制約する「自己限定」のものとして創造したところのものである。

物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。

併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。

人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。

            <感謝合掌 令和6年8月13日 頓首再拝>

物質からは生命は生れない - 伝統

2024/10/05 (Sat) 11:14:33


    *「光明道中記」(10月5日 霊に生きる日)より


【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、物質文明のみを尊重して、
物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、それが霊の権威を失うとき、
物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。

物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。
物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。
最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、全然
神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 令和6年10月5日 頓首再拝>

物質と云うものは、霊の力の反影(リフレクション)である。 - 伝統

2025/01/05 (Sun) 10:08:39


    *「光明道中記」(1月5日《万物皆霊を知る日》)より

【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
                  (「生命の實相」第十一巻)】

人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。

それを展開して引き出すのが教育である。

凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。

エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、
ただの「無」ではなくして、そこに動き始むる力があった。
それが神の霊である。

「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
 神光あれと言い給いければ光ありき」である。

エーテルの大海中に「霊の振動」が起る
 ―― 即ちコトバ起れば、宇宙電気となり、大火焔
の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、万物を生じ、
万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。

エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。

霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。

物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。

吾々は物質の力を使わないのではない。

物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。

         <感謝合掌 令和7年1月5日 頓首再拝>

「物質」は無い、《霊のみある》 - 伝統

2025/04/02 (Wed) 13:48:20


      *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。
                   (『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、
エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、「無」であるが故に、
「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して
吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、
ただ霊的波動を、吾々が仮に静止面空間に置き直して、
物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

・・・

<関連Web>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「物質の否定、棄揚、神国の肯定」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=44

            <感謝合掌 令和7年4月2日 頓首再拝>

万物何物も変化しないものはない - 伝統

2025/04/03 (Thu) 11:08:46


     *「光明道中記」(4月3日《動的天地の実相を知る日》)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                        『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」
―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めないと云う人は、
「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易い
のであるが、万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが
発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような
固定したものではなく運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 令和7年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2025/04/04 (Fri) 13:00:14


    *「光明道中記」(4月4日《顛倒妄想を去る日》)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                        (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 令和7年4月4日 頓首再拝

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