伝統板・第二

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寛容と忍耐 ② - 伝統

2019/07/07 (Sun) 04:37:03


寛容の精神をもち、包容力を大きくする

     *「真理」第9巻生活篇第6章(P151~152)より

《先ず心を偉大にいたしましょう》

心に豊かさが整ったとき、
すべての豊かなるものをあなたの身辺に引き寄せる磁石的力ができるのです。

そこで引き寄せられたものを拒むことをしてはなりません。
また去りゆくものを悲しんではなりません。

あなたの心が豊かであれば、あなたを豊かにするための要素なるものが
引き寄せられ、貧しくなる要素になるものが反発されてしまうのです。

あなたは出来るだけ寛容の精神をもたなければなりません。
包容力が大きくなければならないのです。

小さな事にコセコセしてはなりません。

併し小さな事をゆるがせにしてはならないのです。
小事を漏らさず行き届いて、しかも小事に齷齪(あくせく)せず、
大綱をつかんで、希望は大きくもって、しかも今ある自分の足場をしっかりと
築いていくことによって大いなる希望の建築物はできるのです。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「寛容と忍耐 (161)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=70

(2)伝統板・第二「寛容と忍耐」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456463

           <感謝合掌 令和元年7月7日 頓首再拝>

《現象人間の欠点には寛容であれ》 - 伝統

2019/07/28 (Sun) 04:42:02


     *『生活の智慧365章』
        (第3部歓喜の泉)第4篇(P104~105) より

団体の幹部、役員、講師たちも、現象の人間としては、
あらゆる点において完全無欠とはいうことはできないのである。

すべての人間は、その実相は既にある”神の子”として
「無限の完全さ」を宿しているのであるけれども、現象的には努力によって
徐々に開顕開かれて行く”最後の完成”をめざしているのである。

だから団体の幹部役員講師たちにも、団体のメンバーから見れば不完全であり、
批判の的になる点は無数にあるのである。

それを内部で指摘し批判し攻撃し合っているのでは内部紛争を起して、
外部に向かう人類光明化の目的を達成すべき力が弱まるばかりである。

幹部といえども普通のメンバー、誌友、信徒たちと同じく、
感謝され、称賛され、美点を見つけてもらい、激励されることによって、
はげまされて実相の完全さがあらわれて来やすくなるのである。

信徒や誌友たちは、教団の幹部の人たちにも現象人間として色々の苦労があり
悩みがあることを察して、欠点を見ないで、実相の完全円満さを念じて、
その円満さの顕れる手伝いをしてあげるべきである。

           <感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>

愛と寛容の精神を養う - 伝統

2019/09/09 (Mon) 03:58:37


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月9日)より

貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、
「サービス」の欠乏、「愛念」の欠乏、「持続力」の欠乏、
「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の
具象化であると言うことができる。


特に寛容精神の欠乏は、
はなはだしく他(ひと)に対して批評的になるために、
他(ひと)から愛されることなくいかに自己が賢明で、
努力も、誠実もありながら世に容(い)れられないで
失敗してしまう原因になるのである。

「吾は神と一体である。神が吾を赦し愛し給うがごとく、
我もすべてを赦し愛するのである。
神の無限の愛と赦しがわがうちに満ちていてすべての人を愛したまうのである」

と念ずることは愛と寛容の精神を養うのに最も良い。

             <感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>

ケチな心を寛大な心に転ぜよ - 伝統

2019/09/15 (Sun) 02:55:45


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>

峻厳なる寛容 - 伝統

2019/12/27 (Fri) 03:19:15


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬことである。

他(ひと)の欠点を見つけることは、
「自分の心」を不快で塗りつぶすことである。

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語るものである。

断ち切るべきは断ち切り、棄てるべきは棄てきり、
しかして青天白日のごとくカラリと明瞭に
心の中に一点の雲もないようでなければならない。

いつまでも他(ひと)の欠点を見ながら、
それを言い現わすこともできないで、常にグジグジ心の中で思い煩っている者は、
自分自身を切り虐(さいな)んでいる者であるとともに、
相手からも見くびられて尊厳を失墜するものである。

             <感謝合掌 令和元年12月27日 頓首再拝>

神の心、太陽の心、親分の心 - 伝統

2019/12/30 (Mon) 04:12:27


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月30日)より

健康が心の中にあるのみではなく、財福もその人の心の中にあるのである。

親分の心になることが、自分自身の運命を親分にまで推し進める。
いつまでも子分の根性で功(こう)を同僚の間で争い、眼を偸(ぬす)んで安らかさを
希(こいねが)っているようなことでは、その人の運命はいつまでも子分であるのであろう。

親分の心の最大なるものは、神の心である。

すべてを赦し、すべてのものを太陽のごとく照り、温(あたた)め、
みずからは光線と温熱と生命(せいめい)を投げ出すのみで、
敢(あ)えてみずからは求めぬのが神心(かみごころ)。

太陽の心。太陽の心。これが親分の心である。
かくのごとき人はよく衆(しゅう)を率(ひき)い大いに伸びるのである。

            <感謝合掌 令和元年12月30日 頓首再拝>

《他人に対して寛大なれ》 - 伝統

2020/02/14 (Fri) 04:51:53


             *「光明法語」(2月14日)より

他に寛大なるものは、神からも寛大に取り扱われるであろう。
其処に「善人なおもて救われる況や悪人をや」と
親鸞の言ったことがもっともだと思われるのである。

人を赦すものは神からも赦されるのである。
人を審判(さば)く者は法則によって審判(さば)かれるのである。

神につかえる道は人につかえることにあるのである。
「いと小さきわが兄弟に対してなせるは我に対してなせるなり」と
キリストは言っているのである。

その代わりに神からの報いも人を通して与えられるのである。
突如として天から降って来る訳ではない。 

            <感謝合掌 令和2年2月14日 頓首再拝>

包容精神 - 伝統

2020/03/10 (Tue) 04:47:19


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月10日)」より

反抗心というものは自己低卑の証徴(しるし)である。
反抗心の逆は包容精神である。
包容精神は自己偉大の自覚である。

少青年に反抗心はあらわれ、一概にはいえないが、父母には包容精神があらわれている。

乞食でも親分となるほどのものは包容精神が大きいので子分から尊敬せられる。

            <感謝合掌 令和2年3月10日 頓首再拝>

寛容は大なる美徳 - 伝統

2020/03/21 (Sat) 06:45:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月21日)」より

すべての人間はその本質は神の子であり、
すべての人間の表現は、時間空間の立場に従ってことごとく異なる。

一つの立場を測る尺度で他の人間を測って批評してはならない。

正しさは美徳であるが、寛容はより大なる美徳である。
寛容を失うとき正しさは悪に変わる。

            <感謝合掌 令和2年3月21日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2020/03/30 (Mon) 04:53:46


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

寛容の心を起す功徳 - 伝統

2020/06/26 (Fri) 04:37:57


        *「光明道中記」(6月26日《を起す日》)より 

【批評は斬(き)る念である。(『生命の實相』第六巻)】

或る学生が某大学への入学に、もう三度も辷(すべ)っているのである。
「どうして私はこんなに辷るのでしょうか」とその大学生は私に質問した。

「それは、君はあまり人を批判し過ぎて、人を容れてやる寛容の精神がないから、
学校当局でも君を批判し過ぎて君を寛容に学校へ入れて呉れないんだよ」
と私は答えた。

その答があまり的中したので、学生たちはどっと一時笑ったものだ。
学生の集まりが散会してからお山に帰って行くときにも「先生に見事にやられた。
全くやられた」と言って、学生たちは噪(はしゃ)ぎながら帰って行った。

それが当の学生の心の中に寛容の心を起させる動機となったらしいのである。
その学生は非常に素直になって人を審判(さば)かなくなった。
すると、不思議なことに――不思議でもないが、その学生は今年の入学試験に
パスしたのである。

私は言った。

「君が寛容の心になって、人を容れる心になったから、学校も君を入れてくれたんだよ」

「そうでもないんですけど」とその学生は謙遜していたが流石に嬉しいらしいのである。

私も嬉しい。

            <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝>

愛と寛容の精神を養う - 伝統

2020/09/09 (Wed) 03:01:32


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P77<9月9日>)より

貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、「サービス」の欠乏、
「愛念」の欠乏、「持続力」の欠乏、「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の
具象化であると言うことができる。

特に寛容精神の欠乏は、はなはだしく他(ひと)に対して批評的になるために、
他(ひと)から愛されることなくいかに自己が賢明で、努力も、誠実もありながら
世に容(い)れられないで失敗してしまう原因になるのである。

「吾は神と一体である。神が吾を赦し愛し給うがごとく、我もすべてを赦し愛するのである。
神の無限の愛と赦しがわがうちに満ちていてすべての人を愛したまうのである」

と念ずることは愛と寛容の精神を養うのに最も良い。

            <感謝合掌 令和2年9月9日 頓首再拝>

雅量と強靭な意志と情熱が大成へと導く - 伝統

2020/10/29 (Thu) 04:45:17


    *「光明道中記」(10月29日《断然決意の日》)より抜粋

【決断とは何かを捨てると云う事である。
 倒れることを恐れず、自己の不決断のみを恐れよ。
                   『生命の實相』第四巻)】

真に愛する仕事でないと大成することは出来ない。
忠実にやる仕事でないと大成することは出来ない。

忍耐強くあり、凡(あら)ゆる艱難に耐え忍び、
艱難と闘うことをハイキングの如く楽しみ、
しかも尚、その仕事を通して国家または人類に貢献せんと
決意したものでないと大成することは出来ない。

才智ばかりで小細工する者は
ついにその才智に翻弄されて自己が崩れてしまうであろう。

寛大な雅量と、鞏固(きょうこ)なる意志と、
而も人心を収纜(しゅうらん)するたぎる
如き情熱とは大成する者には必要である。

            <感謝合掌 令和2年10月29日 頓首再拝>

寛容の精神湧き出ずる日 - 伝統

2020/11/26 (Thu) 04:42:36


          *「光明道中記」(11月26日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖の徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、
その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

          <感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝>

超越的立場で捉える - 伝統

2021/01/12 (Tue) 02:51:41


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

(中略)

わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、
「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

(中略)

宗派を立ててはならぬ。
偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。

神のうちには争いはない。
神はいっさの争いを、いっさいの背反を包容している。

(中略)

宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。

          <感謝合掌 令和3年1月12日 頓首再拝>

《他人に対して寛大なれ》 - 伝統

2021/02/14 (Sun) 02:36:39


             *「光明法語」(2月14日)より

他に寛大なるものは、神からも寛大に取り扱われるであろう。
其処に「善人なおもて救われる況や悪人をや」と
親鸞の言ったことがもっともだと思われるのである。

人を赦すものは神からも赦されるのである。
人を審判(さば)く者は法則によって審判(さば)かれるのである。

神につかえる道は人につかえることにあるのである。
「いと小さきわが兄弟に対してなせるは我に対してなせるなり」
とキリストは言っているのである。

その代わりに神からの報いも人を通して与えられるのである。
突如として天から降って来る訳ではない。 

          <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

寛容は大なる美徳 - 伝統

2021/03/21 (Sun) 02:52:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月21日)」より

すべての人間はその本質は神の子であり、
すべての人間の表現は、時間空間の立場に従ってことごとく異なる。

一つの立場を測る尺度で他の人間を測って批評してはならない。

正しさは美徳であるが、寛容はより大なる美徳である。
寛容を失うとき正しさは悪に変わる。

            <感謝合掌 令和3年3月21日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2021/03/30 (Tue) 02:11:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 令和3年3月30日 頓首再拝>

寛容の心を起す日 - 伝統

2021/06/26 (Sat) 04:54:08


         *「光明道中記」(6月26日)より

【批評は斬(き)る念である。(『生命の實相』第六巻)】

或る学生が某大学への入学に、もう三度も辷(すべ)っているのである。
「どうして私はこんなに辷るのでしょうか」とその大学生は私に質問した。

「それは、君はあまり人を批判し過ぎて、人を容れてやる寛容の精神がないから、
学校当局でも君を批判し過ぎて君を寛容に学校へ入れて呉れないんだよ」
と私は答えた。

その答があまり的中したので、学生たちはどっと一時笑ったものだ。
学生の集まりが散会してからお山に帰って行くときにも「先生に見事にやられた。
全くやられた」と言って、学生たちは噪(はしゃ)ぎながら帰って行った。

それが当の学生の心の中に寛容の心を起させる動機となったらしいのである。
その学生は非常に素直になって人を審判(さば)かなくなった。
すると、不思議なことに――不思議でもないが、その学生は今年の入学試験に
パスしたのである。

私は言った。

「君が寛容の心になって、人を容れる心になったから、学校も君を入れてくれたんだよ」

「そうでもないんですけど」とその学生は謙遜していたが流石に嬉しいらしいのである。

私も嬉しい。

            <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝>

自己には峻厳であり、他には寛大であれ - 伝統

2021/08/07 (Sat) 04:40:22


   *「光明道中記」(8月7日《善のみを視(み)る日》)より抜粋

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

            <感謝合掌 令和3年8月7日 頓首再拝>

愛と寛容の精神を養う - 伝統

2021/09/09 (Thu) 04:41:55


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月9日)より

貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、「サービス」の欠乏、
「愛念」の欠乏、「持続力」の欠乏、「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の
具象化であると言うことができる。

特に寛容精神の欠乏は、はなはだしく他(ひと)に対して批評的になるために、
他(ひと)から愛されることなくいかに自己が賢明で、努力も、誠実もありながら
世に容(い)れられないで失敗してしまう原因になるのである。

「吾は神と一体である。神が吾を赦し愛し給うがごとく、
我もすべてを赦し愛するのである。
神の無限の愛と赦しがわがうちに満ちていてすべての人を愛したまうのである」

と念ずることは愛と寛容の精神を養うのに最も良い。

             <感謝合掌 令和3年9月9日 頓首再拝>

峻厳なる寛容 - 伝統

2021/12/27 (Mon) 04:50:01


     *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬことである。
他(ひと)の欠点を見つけることは、
「自分の心」を不快で塗りつぶすことである。

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語るものである。

断ち切るべきは断ち切り、棄てるべきは棄てきり、
しかして青天白日のごとくカラリと明瞭に
心の中に一点の雲もないようでなければならない。

いつまでも他(ひと)の欠点を見ながら、
それを言い現わすこともできないで、
常にグジグジ心の中で思い煩っている者は、
自分自身を切り虐(さいな)んでいる者であるとともに、
相手からも見くびられて尊厳を失墜するものである。

       <感謝合掌 令和3年12月27日 頓首再拝>

《他人に対して寛大なれ》 - 伝統

2022/02/14 (Mon) 02:36:35


             *「光明法語」(2月14日)より抜粋

他に寛大なるものは、神からも寛大に取り扱われるであろう。
其処に「善人なおもて救われる況や悪人をや」と
親鸞の言ったことがもっともだと思われるのである。

人を赦すものは神からも赦されるのである。
人を審判(さば)く者は法則によって審判(さば)かれるのである。

神につかえる道は人につかえることにあるのである。
「いと小さきわが兄弟に対してなせるは我に対してなせるなり」
とキリストは言っているのである。

その代わりに神からの報いも人を通して与えられるのである。
突如として天から降って来る訳ではない。 

       <感謝合掌 令和4年2月14日 頓首再拝>

包容精神 - 伝統

2022/03/10 (Thu) 09:37:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月10日)」より

反抗心というものは自己低卑の証徴(しるし)である。
反抗心の逆は包容精神である。
包容精神は自己偉大の自覚である。

少青年に反抗心はあらわれ、一概にはいえないが、父母には包容精神があらわれている。

乞食でも親分となるほどのものは包容精神が大きいので子分から尊敬せられる。

            <感謝合掌 令和4年3月10日 頓首再拝>

寛容は大なる美徳 - 伝統

2022/03/21 (Mon) 07:05:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月21日)」より

すべての人間はその本質は神の子であり、
すべての人間の表現は、時間空間の立場に従ってことごとく異なる。

一つの立場を測る尺度で他の人間を測って批評してはならない。

正しさは美徳であるが、寛容はより大なる美徳である。
寛容を失うとき正しさは悪に変わる。

            <感謝合掌 令和4年3月21日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2022/03/30 (Wed) 07:10:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 平令和4年3月30日 頓首再拝>

寛容の心を起す日 - 伝統

2022/06/26 (Sun) 07:20:55


       *「光明道中記」(6月26日)より

【批評は斬(き)る念である。(『生命の實相』第六巻)】

或る学生が某大学への入学に、もう三度も辷(すべ)っているのである。

「どうして私はこんなに辷るのでしょうか」とその大学生は私に質問した。

「それは、君はあまり人を批判し過ぎて、人を容れてやる寛容の精神がないから、
 学校当局でも君を批判し過ぎて君を寛容に学校へ入れて呉れないんだよ」

と私は答えた。

その答があまり的中したので、学生たちはどっと一時笑ったものだ。
学生の集まりが散会してからお山に帰って行くときにも

「先生に見事にやられた。全くやられた」

と言って、学生たちは噪(はしゃ)ぎながら帰って行った。

それが当の学生の心の中に寛容の心を起させる動機となったらしいのである。
その学生は非常に素直になって人を審判(さば)かなくなった。
すると、不思議なことに――不思議でもないが、その学生は今年の入学試験に
パスしたのである。

私は言った。

「君が寛容の心になって、人を容れる心になったから、学校も君を入れてくれたんだよ」

「そうでもないんですけど」とその学生は謙遜していたが流石に嬉しいらしいのである。

私も嬉しい。

            <感謝合掌 平令和4年6月26日 頓首再拝>

愛と寛容の精神を養う - 伝統

2022/09/09 (Fri) 09:03:38


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月9日)より

貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、「サービス」の欠乏、
「愛念」の欠乏、「持続力」の欠乏、「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の
具象化であると言うことができる。

特に寛容精神の欠乏は、はなはだしく他(ひと)に対して批評的になるために、
他(ひと)から愛されることなくいかに自己が賢明で、努力も、誠実もありながら
世に容(い)れられないで失敗してしまう原因になるのである。

「吾は神と一体である。神が吾を赦し愛し給うがごとく、
 我もすべてを赦し愛するのである。
 神の無限の愛と赦しがわがうちに満ちていてすべての人を愛したまうのである」

と念ずることは愛と寛容の精神を養うのに最も良い。

             <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>

【待つことの大切さ】 - 伝統

2022/10/25 (Tue) 07:34:49


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.12)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   幼い時、父は私をある神社に連れて行ってくれて、
 
   「ここに祭ってある神さまは待つことが大嫌いだったから、ごらん、
    今でも境内には 松の木が一本も植わっていないだろう」 と言った。

   父の思い出はごく少ないのに、なぜか
   この会話が今日にいたるまで記憶に残っている。

   「だから人を待たせてはいけないよ」と言おうとしたのか、それとも

   「神さまにしては忍耐力がなくておかしいね」と言いたかったのか、
   平常から口数の少ない人だったから、教訓めいたことをつけ足さなかった。


   「果報は寝て待て」などという諺が日本にあったのかと疑うほどに私たちは今日、
   早く結果を見たいと焦り、待つことを罪悪視するまでになっている。

   それはめまぐるしい変動の世に当然のことであり、
   寝て待っている間に事態は変わってしまうのではないかという不安と、
   結果を今すぐこの眼で見なければ安心できないという不信感のあらわれでもあろう。

   コンピューターはたちどころに運勢、結婚の相手、
   成功疑いない事業をはじき出してくれ、
 
   乗り物はおろか銀行の窓口にいたるまで、
   とにかく待たないですむように、 待たせないですむようにという配慮がされている。

   四季を問わず店頭にある野菜、果物類は、自然の破壊と相まって日本特有の季節感、
   それは待ちこがれたあかつきに、はじめてしみじみと味わうことのできる
   春夏秋冬のあの美しい味わいをとりあげてしまった。


   結果を焦る人々に応えて登場した
   インスタント文明の落とし子として、そこには
   自分の欲望と、その欲望の対象との間に時間も距離も
   置くことができないジェネレーシ ョンが生まれた。

   新聞を賑わす非行、犯罪の数多くは、
   知能犯というよりもむしろ一時の衝動を抑えることのできない人たち、

   つまり自分に「待った」をかけることがないままに
   突っ走った人々の姿でしかない。

   待つということは、この不完全な世の中に
   神仏ならぬ身で生きている者にとっては 逃れられない宿命だと思う。

   短い一生だから待ってなどいられないと言うかも知れないが、
   そんな短い、死でピリオッドが打たれるような人生だからこそ、
   ままならぬことも多いのだ。


   待っている間はたしかに辛い。

   しかし待った後の喜びは待たずして得られた喜びと、
   その質において異なるのである。

   そうだとすれば、待たないですむ世の中であるかのように
   子どもたちに教えてはいけない。

   ほんとうに子どもの幸せを願う親、教師であるならば
   待つことの意味と、待っている間のすごし方を
   自分の生き方で見せるはずではないだろうか。


   教育そのものが待つことを必要としている。

   それは種まく者にいつも求められる忍耐と謙虚さであり、

   蕾(つぼみ)が内からの力で自然にほころびるのを待つ信頼にも似ている。

   死んだ後に墓の傍に小さな松が植えられるような、
   そんな生き方をしたいと思う。

            <『美しい人に』PHP研究所>

       ・・・

渡辺和子氏は陸軍教育総監だった渡辺錠太郎氏の次女として生まれた。

1936年2月26日に起こった陸軍の青年将校のクーデター未遂事件「2.26事件」で、
渡辺総監は殺害されたが、その場面を渡辺和子氏は目撃することになる。

まだ、9歳のときだった。


待つことが苦手な人は多い。

たとえば、エレベーターに乗ったとき、「閉」ボタンをすぐに押してしまう人。

一般的エレベーターのドアが開いている時間は、約4~5秒だという。
その何秒かを待つことができない。


あるいは、メッセージを送ったのに、
すぐに返事が返ってこないとイライラしてしまう人。

また、レストランやカフェ、あるいは役所や銀行などの
窓口で少し待たされると激高してしまう人。

そして、人との待ち合わせで、1分でも待たされると怒りだしてしまう人。



「人生の「ねじ」を巻く77の教え」(ポプラ社)の中にこんな文章があった。


『動物には「待つことのできる動物」と「待つことのできない動物」がいます。

ネコやネズミは「おあずけ」することができない。

イヌの場合は、簡単な訓練で20秒は待てる。

サルは1分、チンパンジーは5分と聞いています。

人間はさまざまです。

赤ん坊をはじめ、これに近い人は、しばし待てずにダダをこねます。

いずれにしても、「待つ」というのは
高等な精神活動ですので、これができるような人間性を磨かねばなりません。

とくに最近は、待てない社会になりつつあります。

みんな日々の生活や仕事に忙殺され、せっかちになる度合いが高まっているのです。』



昨今は、教育も、会社における研究投資も、すぐに結果を求める傾向にある。

「機が熟すまで待つ」、というのは
成功するための大事な視点であり、余裕のある大人の対応だ。


待てない人は自己中心的な人。

自分のペースでないと納得できず、イライラしてしまうからだ。


そして、一代で会社を大きくしたような
経営者にありがちなタイプの人は、待てない。

仕事に限らず、すべてに対してスピード感が優先され、
同時に「待つこと」は時間の無駄という意識があるからだ。


スピードが優先される時代だからこそ…

今一度、待つことの大切さを心に刻みたい。

       <感謝合掌 令和4年10月25日 頓首再拝>

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語る - 伝統

2022/12/27 (Tue) 08:01:31


      *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬことである。
他(ひと)の欠点を見つけることは、
「自分の心」を不快で塗りつぶすことである。

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語るものである。

断ち切るべきは断ち切り、棄てるべきは棄てきり、
しかして青天白日のごとくカラリと明瞭に
心の中に一点の雲もないようでなければならない。

いつまでも他(ひと)の欠点を見ながら、
それを言い現わすこともできないで、
常にグジグジ心の中で思い煩っている者は、
自分自身を切り虐(さいな)んでいる者であるとともに、
相手からも見くびられて尊厳を失墜するものである。

            <感謝合掌 令和4年12月27日 頓首再拝>

《気が短いのでは可(い)かぬ》 - 伝統

2023/02/03 (Fri) 05:02:23


           *「光明法語」(2月3日)より

「与えれば与えられる」と云う法則は
直ぐ覿面(てきめん)にあらわれて来るものもあるが、
必ずしも直ぐ結果が現れないこともある。

電燈はスイッチを捻ればすぐつくが、水力電気や火力電気の設備を構築するのは
一夜に出来た事ではない。

電燈がスイッチ一つでつくようになったのは、それらの発電設備や配電設備が、
多くの与えられた労力の蓄積として「天の倉」に蓄えられているからである。

麦は一夜にしては実らない。卵も一夜にしては孵化しない。
すべての形の世界に現れるのは時間を通して現れる。
気が短いようなことでは可(い)かぬ。

        <感謝合掌 令和5年2月3日 頓首再拝>

《他人に対して寛大なれ》 - 伝統

2023/02/14 (Tue) 06:52:55


             *「光明法語」(2月14日)より

他に寛大なるものは、神からも寛大に取り扱われるであろう。
其処に「善人なおもて救われる況や悪人をや」と
親鸞の言ったことがもっともだと思われるのである。

人を赦すものは神からも赦されるのである。
人を審判(さば)く者は法則によって審判(さば)かれるのである。

神につかえる道は人につかえることにあるのである。
「いと小さきわが兄弟に対してなせるは我に対してなせるなり」
とキリストは言っているのである。

その代わりに神からの報いも人を通して与えられるのである。
突如として天から降って来る訳ではない。 

        <感謝合掌 令和5年2月14日 頓首再拝>

包容精神 - 伝統

2023/03/10 (Fri) 05:02:38


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月10日)」より

反抗心というものは自己低卑の証徴(しるし)である。
反抗心の逆は包容精神である。
包容精神は自己偉大の自覚である。

少青年に反抗心はあらわれ、一概にはいえないが、
父母には包容精神があらわれている。

乞食でも親分となるほどのものは
包容精神が大きいので子分から尊敬せられる。

            <感謝合掌 令和5年3月10日 頓首再拝>

寛容は大なる美徳 - 伝統

2023/03/21 (Tue) 05:07:17


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月21日)」より

すべての人間はその本質は神の子であり、
すべての人間の表現は、時間空間の立場に従ってことごとく異なる。

一つの立場を測る尺度で他の人間を測って批評してはならない。

正しさは美徳であるが、寛容はより大なる美徳である。

寛容を失うとき正しさは悪に変わる。

            <感謝合掌 令和5年3月21日 頓首再拝>

寛容の心を起す日  - 伝統

2023/06/26 (Mon) 06:40:16


      *「光明道中記」(6月26日)より

【批評は斬(き)る念である。(『生命の實相』第六巻)】

或る学生が某大学への入学に、
もう三度も辷(すべ)っているのである。

「どうして私はこんなに辷るのでしょうか」と
その大学生は私に質問した。

「それは、君はあまり人を批判し過ぎて、人を容れてやる
 寛容の精神がないから、学校当局でも君を批判し過ぎて
 君を寛容に学校へ入れて呉れないんだよ」
と私は答えた。

その答があまり的中したので、学生たちはどっと一時笑ったものだ。
学生の集まりが散会してからお山に帰って行くときにも
「先生に見事にやられた。全くやられた」と言って、
学生たちは噪(はしゃ)ぎながら帰って行った。

それが当の学生の心の中に寛容の心を起させる動機と
なったらしいのである。

その学生は非常に素直になって人を審判(さば)かなくなった。
すると、不思議なことに――不思議でもないが、
その学生は今年の入学試験にパスしたのである。

私は言った。

「君が寛容の心になって、人を容れる心になったから、
 学校も君を入れてくれたんだよ」

「そうでもないんですけど」とその学生は謙遜していたが
流石に嬉しいらしいのである。

私も嬉しい。

          <感謝合掌 令和5年6月26日 頓首再拝>

愛と寛容の精神を養う - 伝統

2023/09/09 (Sat) 10:59:55


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月9日)より

貧乏は、「欠乏」の想念、「努力」の欠乏、「誠実」の欠乏、
「サービス」の欠乏、「愛念」の欠乏、「持続力」の欠乏、
「寛容精神」の欠乏、「与える心」の欠乏等の具象化である
と言うことができる。

特に寛容精神の欠乏は、
はなはだしく他(ひと)に対して批評的になるために、

他(ひと)から愛されることなくいかに自己が賢明で、
努力も、誠実もありながら世に容(い)れられないで
失敗してしまう原因になるのである。

「吾は神と一体である。神が吾を赦し愛し給うがごとく、
 我もすべてを赦し愛するのである。
 神の無限の愛と赦しがわがうちに満ちていて
 すべての人を愛したまうのである」

と念ずることは愛と寛容の精神を養うのに最も良い。

       <感謝合掌 令和5年9月9日 頓首再拝>

雅量と強靭な意志と情熱が大成へと導く - 伝統

2023/10/29 (Sun) 10:53:35


    *「光明道中記」(10月29日《断然決意の日》)より抜粋

【決断とは何かを捨てると云う事である。
 倒れることを恐れず、自己の不決断のみを恐れよ。
                   『生命の實相』第四巻)】

真に愛する仕事でないと大成することは出来ない。
忠実にやる仕事でないと大成することは出来ない。

忍耐強くあり、凡(あら)ゆる艱難に耐え忍び、
艱難と闘うことをハイキングの如く楽しみ、
しかも尚、その仕事を通して国家または人類に貢献せんと
決意したものでないと大成することは出来ない。

才智ばかりで小細工する者は
ついにその才智に翻弄されて自己が崩れてしまうであろう。

寛大な雅量と、鞏固(きょうこ)なる意志と、
而も人心を収纜(しゅうらん)するたぎる
如き情熱とは大成する者には必要である。

            <感謝合掌 令和5年10月29日 頓首再拝>

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと生きる - 伝統

2024/01/30 (Tue) 09:03:26


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月30日)より

交友を選ぶことは生涯のうちで最も大切なことである。

悪しき友と交わってはならぬ。
悪しき人間は《本来ない》けれども、
方向のまちがった側へ進む者を「悪しき人間」と仮に言う。

生命(いのち)の本質の栄えのことを思わず、外面の虚栄に心を奪われ、
五官の快楽のことにのみ心を引かれて悪しき者と交わるならば、
その人は人生で一番大切なものを見失う時が来る。

かく言えばとて、決して一日中一室に閉じ籠っている
憂鬱な友達を選べという意味ではない。

明るく生きることは人生の一つの美徳である。
強く生きることも一つの美徳である。

大きく生きることはさらにまたもう一つの美徳である。

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと
生命(せいめい)の大地を踏みしめて行くことは常によい。

外面(がいめん)の虚栄や五官の快楽には
強さがなく、大いさがなく、広さがなく、包容性がなく、
それが常に狭く個人的なものになりたがるから低卑なのである。

孤独ということも、それが個人的なかぎりにおいては
人の生長を害(そこな)うものである。

        <感謝合掌 令和6年1月30日 頓首再拝>

《他人に対して寛大なれ》 - 伝統

2024/02/14 (Wed) 10:08:15


             *「光明法語」(2月14日)より

他に寛大なるものは、神からも寛大に取り扱われるであろう。
其処に「善人なおもて救われる況や悪人をや」と
親鸞の言ったことがもっともだと思われるのである。

人を赦すものは神からも赦されるのである。
人を審判(さば)く者は法則によって審判(さば)かれるのである。

神につかえる道は人につかえることにあるのである。
「いと小さきわが兄弟に対してなせるは我に対してなせるなり」と
キリストは言っているのである。

その代わりに神からの報いも人を通して与えられるのである。
突如として天から降って来る訳ではない。 

        <感謝合掌 令和6年2月14日 頓首再拝>

包容精神 - 伝統

2024/03/10 (Sun) 11:58:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月10日)」より

反抗心というものは自己低卑の証徴(しるし)である。
反抗心の逆は包容精神である。
包容精神は自己偉大の自覚である。

少青年に反抗心はあらわれ、
一概にはいえないが、父母には包容精神があらわれている。

乞食でも親分となるほどのものは
包容精神が大きいので子分から尊敬せられる。

            <感謝合掌 令和6年3月10日 頓首再拝>

寛容は大なる美徳 - 伝統

2024/03/21 (Thu) 11:00:45


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月21日)」より

すべての人間はその本質は神の子であり、
すべての人間の表現は、時間空間の立場に従ってことごとく異なる。

一つの立場を測る尺度で他の人間を測って批評してはならない。

正しさは美徳であるが、寛容はより大なる美徳である。
寛容を失うとき正しさは悪に変わる。

            <感謝合掌 令和6年3月21日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2024/03/30 (Sat) 11:48:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月30日 頓首再拝>

一面の立場から人を批評してはならぬ - 伝統

2024/04/21 (Sun) 09:38:01


        *光明法語(4月21日)より

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

            <感謝合掌 令和6年4月21日 頓首再拝>

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