伝統板・第二

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(四月)若葉寄り繁る(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/03/31 (Sun) 04:45:11

光明掲示板・第二 消滅により、
「(四月)若葉寄り繁る」の伝統板・第二への再掲示です。


われ祈れば天地応(こた)える

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

            <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝>

神から悪しきものが、来るという考えを捨てよ。 - 伝統

2019/04/01 (Mon) 03:32:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

            <感謝合掌 平成31年4月1日 頓首再拝>

たえず新しくなること - 伝統

2019/04/02 (Tue) 04:29:25


    *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93(4月3日)>より

創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。

現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。

表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。

たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。

たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。

たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。

            <感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>

与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、常に老いない - 伝統

2019/04/03 (Wed) 02:45:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月4日)」より

環境が彼の表現欲望を強いて抑えつけるならば、
人間は狂乱状態に陥るか、ヒステリーになるか、
生命(せいめい)が委縮して病気になるかする。

ロシアのある囚人の刑務の一つとして
終日2つのバケツに同じ水を交互に空(あ)けかえる仕事を課したときには、
その囚人は気が狂ったという。(ドストエフスキー『死人の家の記録』)

これは仕事が強制として課せられて
「自己自身の生命」を表現するなんらの道を与えられなかったからである。

またある精神病者は、
自己の好む仕事に熱心に従事せしむることによって治ったという。
彼はその「仕事」の中に「自己」を表現する道を見出したからである。

自己創造のない「仕事」は人類を窒息または狂死せしめ、
自己創造のある「仕事」は人類の生命を伸び伸びせしめ、
たえず自分に生気を吹き込み、たえず自分を若返らしめる。

「仕事」が面白くない人は、その仕事に自分の生命を打ち込まないからである。
自己創造をしないからである。いかなる仕事の中にも自己創造ができる。
仕事に愛を持つとき、愛は生み出す力であるから自己創造となる。

与えられただけの仕事のみをするところに自己創造はありえない。
仕事を愛して、与えられた以上にその仕事の発展のために工夫するところに
自己創造があるのである。

与えられただけの仕事だけしかしない人はロシアの囚人に甘んずる人である。
彼はただ生命を擦(す)り減らし、老いゆくのみである。
今ある立場において、与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、
常に老いない者である。

            <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>

人間は愛するために生まれている - 伝統

2019/04/04 (Thu) 02:23:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2019/04/05 (Fri) 04:04:07


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、眩暈が始まって、
またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2019/04/06 (Sat) 01:57:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。

冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。

魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>

「真の人間」は日々に新たに生まれる - 伝統

2019/04/07 (Sun) 03:57:01


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より

釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

            <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝>

「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統

2019/04/08 (Mon) 02:48:38


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

            <感謝合掌 平成31年4月8日 頓首再拝>

すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統

2019/04/09 (Tue) 04:20:34


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より

ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。

この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。


「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。

あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。

撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
家族に感謝していられますか。

そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。

そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。

右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。

そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか? 
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。

不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。

すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」

            <感謝合掌 平成31年4月9日 頓首再拝>

感覚の転移 - 伝統

2019/04/10 (Wed) 03:36:12


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月11日)」より

『天地の言葉』の中に書いてあるイタリアの大医ロンブロゾー博士の取り扱った患者が、
感覚の転移を起こして眼球以外の器官をもって物体を見たということについて、
その事実の出所を知らしてくれという詩友からの手紙が来た。

これは1919年フランス学士院賞を受けた
セブラユー博士の『死後の運命』という本の中に、
ロンブロゾーの言葉が引用してあるのである。

「1891年のこと、予は医学上の経験においてまったく思いがけない患者に遭遇した。
予は一日郷里に住む一高官の令嬢を往診することになった。
この娘は時おり激烈なヒステリーが発作し、しかもその症状は
病理学上よりも、生理学上よりも、説明し難いものであった。

すなわちその発作に臨んではまったく視覚を失うと
同時に耳をもって物を見ることができ、
目には目隠しを施しているにもかかわらず、
耳の前にかざした数行の印刷物を読みうるのである。

試みに拡大鏡をもって耳腔内に日光を反射せしむると、さも眩しげにしながら
『目が潰れてしまう』と叫び、なおこの発作中には自分の周囲に起こるべき
いっさいの事件を予言し、しかもその予断は極めて数理的に正確なものがあった。

なお、この感覚の転移はいたるところに起こったのである。
この事実はむろん現在のことではないが、実に奇怪の症状といわざるをえない。

予は当時心中に思えらく、今日の生理学や病理学ではとうていこの説明はむつかしい。
将来心霊学の発達によって、真理の開発される折を待つの外あるまい。」

ロンブロゾー博士は言っているのである。

ある人はそういう異常現象をもって人間全体に類推してゆくのはいけない
と抗議する場合もあるが、かかる異常現象は常人の域を超えて
心的能力がいっそう強く発現した場合であるから、

しかもやはり人間において発現した実例であるから、
人間を鼓舞して、常人を超ゆる域に達すべき鼓舞鞭撻の言葉として用いる場合には、
人間の成しえたるかぎりの能力の最高限度の実例を挙げて、
われらの能力をできるだけ強き程度に発現する機会を与えることが肝要なのである。

            <感謝合掌 平成31年4月10日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2019/04/11 (Thu) 04:16:43


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、
暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。

これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを
物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、
複雑に連絡しているので、器官相互の連絡が断たれたとき、
各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が
「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、
「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、
その方が環境も位置も変化して「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 平成31年4月11日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2019/04/12 (Fri) 02:15:34


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2019/04/13 (Sat) 04:28:44


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 平成26年4月13日 頓首再拝>

御心のままに - 伝統

2019/04/14 (Sun) 03:30:47


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より

「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。

「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。

こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。

            <感謝合掌 平成31年4月14日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2019/04/15 (Mon) 03:05:37


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 平成31年4月15日 頓首再拝>

生命は前進するのみ - 伝統

2019/04/16 (Tue) 04:41:52


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者はついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

            <感謝合掌 平成31年4月16日 頓首再拝>

報恩のあるところに万物は栄える - 伝統

2019/04/17 (Wed) 03:47:39


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月18日)」より

たえず人に温熱を供給する太陽は熱が減ってだんだん貧弱になってしまうかと思えば、
事実は反対でいよいよますますその熱量が殖えてゆくのだと最近の天文学は教えている。

たえず人を饒益(にょうやく)し、たえず人に愛行を行なう人も
太陽のごとくますます自分が殖えるのである。

自分はこれだけ利益を貰ったから信心を止めようというような人があったら、
それは自分はもうこれだけ太陽から温熱を受け、太陽の熱というものはよく解ったから
太陽系統を去ろうと思うという地球のようなものである。

地球は太陽の恵みを解るために太陽系統に属しているのではない。
太陽系統を実践するために太陽系統に属しているのである。

今まで受けた温熱を次へ次へと送るので地上の万物は育つのである。
報恩とはかくのごときものである。報恩のあるところに万物は栄える。

            <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

天地の生命と一枚になりきる - 伝統

2019/04/18 (Thu) 03:50:22


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。

打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

            <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

神秘な力は存在する - 伝統

2019/04/19 (Fri) 04:11:37


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月20日)」より

イタリヤの彫刻家チェリーニは
ある事件で法王のためにサン・アンジェロ城に禁錮せられた。

彼は悲しんで自殺しようとした瞬間、
ある不思議な見えない力が突然彼の身体(からだ)を
捉えて一間ばかり投げとばしたので、チェリーニは気絶した。

その晩、夢に不思議な青年が現われてチェリーニに自殺を思い止まるように説教したので、
チェリーニはついに自殺を思い止(とど)まったのだという。

神秘な力は存在するものなのである。
唯物論では、生命の世界はわからない。

            <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

肉体は人間ではない - 伝統

2019/04/20 (Sat) 00:36:30


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月21日)」より

英国の文豪ディッケンズは
『エドウィン・ドウロッドの秘密』という小説を書きかけて死んだ。

その後4年になって、米国のジェームズという霊媒
 ―― しかも彼は無学であった ―― が
ディッケンズの霊魂が憑り依(うつ)ったのだと称してその小説の後半を書いた。

その文体なり、筆跡なり、いちじるしくディッケンズに似ていたという。

私はオスカー・ワイルドの霊魂が憑り依って書いたという
自動書記の霊界通信を纂(あつ)めた本を持っている。
それには生前のワイルドの筆跡と霊界通信の文字とが比較して写真版に
撮られているが、筆跡がきわめて近似している。


肉体は人間ではない。人間の操縦機関であったにすぎないのだ。

            <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

「生命(せいめい)」の陰陽調和 - 伝統

2019/04/21 (Sun) 04:14:20


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月22日)」より

1917年発行『心理学報告』にはこんなことが書いてある。
催眠術の大家アルルッツが試みた催眠術の実験についてである ――

「被術者は不透明な外套のようなもので覆われ、耳には綿をつめられ、
(注・五官の視覚および聴覚により何が行われるかを知らしめないようにしたのである)
そして一枚の厚いガラス板を一方の腕の前方に掲げ置いた。

こうして被術者を催眠状態に誘導して後、
そのガラス板に向けて触手法(しょくしゅほう=パス)を行なった。
するとその側の腕は知覚を脱出し、その反対の側の腕には知覚が増大した。

このような結果はかかる操作がどんな結果になるだろう
ということを予期しない場合も同様に起こった。

アルルッツはその被術者は、どんな感覚からも、触手(パス)をいかに行なっているか、
その事情の端緒さえも感知することができないようにしてあったし、
触手(パス)に対する先入的知識は何も与えてなかったと信じている。

したがってアルルッツは触手(パス)によって起こる被術者の腕の感覚の異状は、
術者の手から放射する一種の神経エネルギーに基づくものであると考えている。」


手から放射する神経エネルギーとは生長の家で言っている生命磁気である。
人体とは、「生命」の考案製作せる腹腔という容器に内臓という電解成分を容れたる
一種の電池装置であると観る場合には、両手はその電池の両極であるし、
人体を馬蹄形磁石装置であると見る場合には、両手は磁石の両極である。

したがって両手において「生命(せいめい)」の電磁的作用が
他の部分より強力なることは有りうべきことである。

ともかく、人体は帯電生物であることは、
赤血球沈降反応(赤沈反応)によっても明らかであるし、
早大心理学教室の嘘発見器の電気計における指示電波の変化によっても
分かるのである。


物質の帯電現象は、生命の陰陽調和が現象界に投影せるものであるから、
現象の陰陽あることを知って、「生命(せいめい)」の陰陽調和を知るべきであり、
その調和が隠蔽されることによって現象の陰陽調和が破れるのである。

結核病の赤枕反応の異常も、心の不調和が反映せることは明らかであり
時には男女の不調和の思い、父母、夫婦の不調和などの投影であることがある。

            <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2019/04/22 (Mon) 03:29:14


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月22日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2019/04/23 (Tue) 03:38:50


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2019/04/24 (Wed) 03:41:28


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄を
スウェーデンボルグに聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を
使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらって
その事実を聞き訊(ただ)すと、

夫の霊魂は出て来て
「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、
その領収書が発見されたということは有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 平成31年4月24日 頓首再拝>

本当の幸福の味 - 伝統

2019/04/25 (Thu) 21:16:18


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月26日)」より

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒されるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、アイスクリームのごとく、
コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、アルコールのごとく、
刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ<ほうこう>)い歩かねばならないのであろう。

            <感謝合掌 平成31年4月25日 頓首再拝>

思いとして出た神の計らいを信頼せよ - 伝統

2019/04/26 (Fri) 04:47:07


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月27日)」より

なんじの求むるものをまず考えよ。
考えることはそれが得られる初めである。
考えた相(すがた)が《すでに》あるとしてその実現にまで努力せよ。

供給無限の世界において、ある事物を得ようと思う「思い」が
自分の内に起こったことがすでに「自分ならぬ」はからわれである。

それを計(はか)らわせ給いしものに信頼せよ。

            <感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>

大自然の心 - 伝統

2019/04/27 (Sat) 03:28:43


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より

大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。

大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。

            <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

唯物論は自己撞着である - 伝統

2019/04/28 (Sun) 04:44:54


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月29日)」より

唯物論者から質問状が来る。

唯物論は自己撞着である。
それは自己自身の主張を粉砕する逆説法である。

唯物論を主張するには、そしてその唯物論が正しいということを肯定するためには
「心」の存在を予想しないでは不可能である。

「心」に正しいものを肯定する能力があるという前提がなければ、
唯物論さえも主張し難いであろう。

            <感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>

法則に支配されている世界 - 伝統

2019/04/29 (Mon) 04:31:15


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月29日 頓首再拝>

Re: (四月)若葉寄り繁る(光明掲示板・第二) - qidobiwszbMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:36

伝統板・第二
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