伝統板・第二

2583381
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伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/09 (Mon) 08:37:42



   新しき気持にて、謹写させて頂きます。

何か、勘違いしているのでは、と思う程の”ⅩⅢ”ですが('◇')ゞ・

ホントに、そんな数になっていましたっけ(*´▽`*)。









  今朝からは、

 清超先生のお話です。8回続きます。(理想世界誌 昭和42年

10/1号)



     弾力的日本人     谷口清超先生


      弾力と歪(ひずみ)


 七月の干天続きのあとで、集中豪雨に見舞われ、九州、広

島、兵庫などでは沢山の死者や被害者が出たということが報道されました。

そのあと自宅でテレビを見ていると、激しく押し流された家屋

の近くの山々が、土木工事で削り取られていたり、道路工事の

近くの道路が掘り返されたりしているのが映し出されるのです。

そしてこの附近の人々の意見では、もしこのような土木工事が

なかったら、こんなはげしい被害はなかったろうと口々に言うのであります。

 けれどもそうかと言って、国土開発のためには、高速道路を

つけないわけには行かないし、大々的土木工事も必要でしょ

う。が、そのやり方に、もっと配慮があってもよかったのではないか。

六甲山あたりでも、どんどん山を切崩して海を埋め立て、工業

地帯をこしらえようとしているようですが、これでは折角の風

光明媚なこの港の特長が失われてしまい、東京の近くの川崎や

品川あたりの工業地帯と異なるところがなくなりはしないか。

又こうして無理な切崩し作業が行われるため、森林が欠乏し、

豪雨によって忽ち鉄砲水が人家を押し流すということになりやすいのではないか。

即ち凡ての人々が言うように、災害は「半分は人災である」ということができるのです。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/10 (Tue) 07:51:03



        <アラシ>には<アラシ>を・・・。

不可解です!(^^)!。愛すべきトンチンカン様も女性?









 清超先生の御話です。


 最近日本へ来る外国人は、口をそろえて「日本は激変した」という。

確かに一、二年たつと、町の様子が一変して、新しい道路や人家が立ち並ぶということは、珍しくありません。

これは一面からいうと、日本の経済的発展の左証であり、誠に結構なことだとも考えられます。

この勢いで伸びて行けば、自動車生産台数でアメリカに接近す

るのも、決して遠いことではなく、二十一世紀にもなれば日本

人の一人当りの所得は世界一になるだろうという説も、あながち夢ではないかもしれません。

 しかし急速な生長の陰には、常に大きな歪が生ずることも見逃すことはできないのです。

この歪がとかく反対党の攻撃の標(まと)になるのですが、そ

うかと言って歪をなくするために、“化石の如くになる社会”では、発展がありません。

ただこの歪が「悪性」のものではなく、弾力性のあるもので

あって、生長に追いつく力をもつものでなければならないのです。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/11 (Wed) 08:08:46




 今朝、気がつきましたけれど、伝統様が雅春先生の御言葉を、まとめて頂いておりました(^^♪。

ありがとうございます<m(__)m>。ただ、その一言のみです。












 清超先生の御話です。


          個性の尊重


 ところが、このような社会の「弾力性」は果たして何によって生ずるのでしょうか。

それは国民一人一人の「心の弾力性」によって生ずるのである。

心が固定化したり、生気を失ったり、イデオロギーによって形

骸化してしまっていては、手のほどこしようがない。心の固定

化した人々は知識人であろうとなかろうが、その弾力性のない

心の不適応性によって、社会の進歩から取り残されて行かざるを得ないのであります。

 しかるにこの「弾力性」なるものは、往々にして「流行追従」と間違えられるのです。

住宅の建築様式でも、洋服のデザインでも、車の形式でも、

「これが流行だ」となると、ワッと飛びつく人々がいるが、こ

れを「心の弾力性」と見間違える人があります。しかし、果たしてそうでしょうか。

 弾力性は、物体をゴム紐で引っぱった時のように、一定の力

を加えても、それが相手にすぐ伝わらないで、もとの位置を守

るところにも見られるように、「流行追従」と少し異なっているのです。

「引っぱられればすぐついて行く」というのは、むしろ弾力性

のない物や人の特徴であって、このような人々は、おそろしく

忙しげに立ち働くが、何一つ自分の心で感じ、自分の頭で考えることはできないにちがいありません。

彼らは「自分が自分の主人公」であり得ず、大衆や流行に引き

ずられる奴隷か荷車のような生活を送りつつあるからです。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/12 (Thu) 07:55:50




     <過去の事で怒り、憎むのを持越し苦労。分からぬ明日の事で

取り越し苦労せず。今の今に感謝し喜べば、今が過去になり

喜びの過去になる。・・・>。


<地震とか天災の急激の死は決して神罰ではなく、神の愛深き摂理である。・・・>・・・。


 がんこ親爺様のご投稿から、落穂ひろい('◇')ゞ。








 清超先生の御話です。



吾々はたしかに大衆と共に生きている。大衆社会を無視して現代を論ずることは出来ません。

しかし、いかに大衆の力が偉大であろうと、「主人公」はあく

までも「自分自身」であり、彼ら多数であってはならない筈です。

大衆の行く通りについて行き、流行の赴くままにそれに従うこ

としか出来ない人間は、もはや自主権を失った人であり、従っ

て「自由」も「人権」も放棄している者と言うべきでしょう。

彼らは人々の尻馬にのって、何をしでかすか判らない「群衆」

であり、あたかもつねに集団生活をし集団行動をする”魚群”か“鳥類”の如き存在にすぎないのです。

 このような人々が殖えて来ると、社会は弾力性を失ってしまうのです。

そして彼らが集団住宅を建てると、山を崩して「団地」をつくり、そこにワッとばかりに集中する。

そしてそこへ集中豪雨が来れば、最初にのべたようなはげしい被害が生ずるのは当然です。

かくて流行が雨の害の一端をうけもっているともいえる。

市は市で、むやみに人口をふやし、膨張政策をとり、財政を豊

かにすることのみ考えて、美しさや奥ゆかしさや歴史を保とうとする努力をおこたり勝であります。

そのため、無理な宅地造成をやる。

神戸のような美しい港街を、わざわざ煤煙でよごすような海浜工業地帯をこしらえる。

こんなことはとても町の個性を考えた政治とは思えないのであって、“神戸”の“川崎化”にすぎない。

私は“神戸”はあくまでも〝神戸“であってもらいたいし、”川崎“は”川崎“であってもらいたいと思う。

そのような個性的多様性が、きたるべき文明社会の構成要素ではないでしょうか。

人間に於いても亦しかりであります。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/13 (Fri) 08:27:58


       先日、頭をガツンと叩かれたような御文章に出逢いました<m(__)m>。


 〈「生命は驀進の内にこそ生甲斐がある」

「全身全霊で一つの行為を満たすときそこに誠が発現する。

誠とは「完心」すなわち「完き心」だ、全力が満ちて欠けぬ心だ。

菅原道真公のお歌に「心だに誠の道にかないなば、祈らずとて

も神や護らん」とあるのはこの真理を歌われたものである。

全力が一つのことに満ち尽くして欠けぬときには、そこに神の無限力が発揮するのである。

「誠がない」ということは、ひっきょうその人が全力を尽くさないということである。

まだまだ尽くせば尽くせるのに、いい加減にすましておこうということである。

何事でもいい加減にその場を濁しておこうとする者は、「生長の家」の生き方に適わないのである。

それは「生長の道」ではないのだ。それは「勝利の道」ではないのだ。

誠なきものには神が感応しないのである。これは類をもって相寄る「心の法則」によってそうなるのである。>

(「生命の實相」頭注版 第7巻 生活編 七、背水の陣を布け P.69より)




 清超先生の御話です。


   大量生産と目的


 たしかに画一化すれば、大量生産には適するようになるでしょう。

従って大量生産も必要であって、それによってムダをはぶき、安価に材料や機械を利用することが出来るのです。

けれどもその大量生産されたものは「目的物」ではなく「道具」にすぎない。

自動車でもテレビでも、それを持つことが人生の目的ではな

く、それを”手段”として、各個人に応じた多様な生活を創造し

て行かなければならない。そこに人生の意義も目的もあるのです。

 ところが現代社会では、いつの間にか手段が目的化している。

人々はそのことに気がつかず、手段という「道具」のために、人間の誠意渇がふりまわされてしまっても平気です。

自動車をもつために営々と努力し、自動車をもてば、それを利

用するために無駄な努力をして時間を空費し、画一的レジャーしかたのしめなくなってしまう。

テレビを持てば、テレビの画一番組のままに支配され、いつしかコマーシャルに洗脳され、利用されている。

おおむねこのような状態に、現代人はおかれているのであります。

 しかしそこには真の「人間」の独自性はない。「人間」はもっと個性的であり、創造的でなければなりません。

人まねのレジャーではなく、規格品の番組でないものを、自ら創造(つく)り、かつ組合わせて行かなければならない。

時には、そのような規格品からきれいに離れ去り“原始林”で生活することができなければなりません。

都会文化に縛られ、その中毒患者になって、不自由きわまる“文

化生活”を強いられていては、現代人は益々心の弾力性を失うばかりではないでしょうか。

 こうした心の剛直性やもろさやカタクナサが、肉体にあらわれて、現代人には癌や血管硬化や心臓病がふえている。

これらは「弾力性のなくなった肉体の象徴」であります。肉体は心の影であり、社会は心の影である。

心が硬直化したら、その社会は死滅へと歩をすすめるのみである。

それはあたかも、中共の指導者の心が中共の硬直した社会をつ

くり、大混乱と工業生産の破滅とをもたらしつつあるようなものです。

彼らのイデオロギーは、一世紀以前のものであり、そこから一歩も前進していない。

それ故彼らの「社会」は一ヵ所に停滞して堂々めぐりの殴り合いをしているのであります。

                       (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/14 (Sat) 08:13:08




   今冬1番の冷え込みです( `ー´)ノ。

 それにしても、夕べの月はきれいでした。冬の月は心が澄みきります(^^♪。










 清超先生の御話です。あと3回です。


   精神のビルを建てよう


 そのような「弾力性」のない、生長力のない社会を日本にもたらしてはなりません。

日本は戦争にやぶれ、新憲法が押しつけられた。

それはもう二十年も昔のことです。そしてその当時の精神状態

を今もまだ持ち続け、依然として敗戦国民のショック状態から

立ち直らずにいる日本人がいるとしたなら、その「弾力性」の乏しさには、一驚せずにはおられないのです。

なるほど戦争は悲惨であり、原水爆はおそろしい。しかし、そ

れをなくしようと思えば、二十年昔に考えた「無条件降伏」でよいであろうか。

自分の国の凡ての軍備をなくしてしまい、「平和を愛する諸国

民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう

と決意した」(日本国憲法前文)というような”敗戦心理”だけで、果たしてよいものかどうか。

 吾々の国はたしかに戦って敗れはした。しかしその戦いは、日本だけの責任で起こったものだろうか。

日本が”侵略者”だと教えこまれたて来たかもしれないが、果たしてそうであろうか。

ソ連は日本を侵略しなかったか。アメリカは経済的に日本を窒息せしめなかったか。中国は日本を不当に排斥しなかったか。

世界は今のように日本に門戸を開いて自由な貿易をゆるしてくれていたか…。

吾々は戦勝国の宣伝にうのみにして、自国の理想や努力を、不当評価したままで、二十年以上すごして来た。

しかしこのへんでもう少し公平に考え直し、自分の眼で見、自

分の頭で考え、自分の作った「憲法」をもつようにはならない

ものでしょうか。かかる「弾力性」が日本人にないとは思えない。

あの敗戦の灰燼の中から二十年にして高層ビルや高速道路をつ

くり上げた日本人に、「精神のビル」をうちたて得ないはずはないのです。

そうすれば日本人はこれからどれだけでも偉大となりうるし、

日本国は真に偉大な平和国家として、世界の平和をリードすることが出来るのであります。

 民主主義も平和も、口先だけではだめであります。よその国

から押しつけられたり、借りて来たり、“教えこまれた”だけの概念では世界的には役に立たない。

日本国憲法が、「押してけられたものだ」というと、「日本に

今あるもので押しつけられなかったものが、一体どこにある

か」と、尻をまくってすごむ人もおりますが、そんなヤケクソ

の日本人で、果たしてどれだけ自主独立性を発揮しうるでしょうか。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/15 (Sun) 08:15:47




     雅春先生の「叡智の斷片」の「真理の言葉」のうち

「身意口の一體」も、また教えられます。


 <鉄を鍛うるは行の問題にして心の問題にあらず、心に幾ら

此の鉄自然に鍛えられて鋼鉄になると念ずるとも鋼鉄になる事

能わず。鉄を鋼鉄たらしむるは唯行也。・・・>・・・。


思わず考えさせられちゃいました('◇')ゞ。












 清超先生の御話です。


     押しつけられた文明


 たしかに、日本は西洋文明を輸入したし、学問も法律もマネ

したり、時には「押しつけられた」ようなもの
もある。

鉄道の狭軌だって、それは殆どイギリスに押しつけられたようなものです。

しかし、今や日本人は「新幹線」をつくり上げた。いつまでも「狭軌鉄道」で満足してはいなかった。

学問芸術は、こちらがすすんで輸入したものではあるし、法律

でも六・三・三学制でも、たしかにうけいれはしたが、自由に

自分のものとする自主性を発揮しているし、少なくても改廃自

在であります。ところが「憲法」だけは、頑として「与えられたままでなければならぬ」というのは、一体どうしたわけか。

その頑冥さは、世界無比ではないか。

何故なら、彼らは「憲法の新幹線」すらも拒否しているのでありますから。

さらに又、自国の防衛問題にしても同じことです。

吾吾は様々な形の防備を考えるべきであります。心の平和によ

る防衛、これが一番の基礎になるものですが、さらに自衛力に

よる防衛、それに安保条約による防衛、その上国連軍による防

衛など、色々なものを時と処に応じ、又相手に応じて用いるべ

きであると思うのですが、或る種の人々は「無防備中立」のみを叫びつづけています。

しかし中立には相手側が吾々の中立を侵さぬという保証か、自

国の防衛力によって中立を犯す者を排除するかが必要である

が、このどちらもなくして、中立が可能であるなどと錯覚しているのはどうした訳でしょう。

吾々は、このような空論家に、国家を委ねることはできないのです。

日本・アメリカ・ソ連・中共で不可侵条約を結べばよいともい

うが、そのような中立不可侵条約を反故のごとく破り棄てて日

本に侵入し、千島列島を停戦三日後に奪取したソ連と、今さら

再び中立条約を結んで、どれだけ安全だといいうるのでしょう。

もしソ連が不可侵を約束するのなら、以前の不可侵条約違反は

違法であって申訳なかったと、千島列島でも返してくれるのなら話は分かる。

しかるに、その返還も要求しないで、一方的に「日本軍が彼ら

を刺激したのがいけないのだ」などと、いまだにソ連側に立っ

て日本を悪者あつかいにする「日本人」がいるのであって、その心の頑なさには驚くべきものがあります。

                                                   (つづく)



Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/16 (Mon) 08:17:09



   <新年祝言(明治12年)

 あらたまの 年もかはりぬ
   
     今日よりは 民のこゝろや いとゞひらけむ>


 伝統様、よりお借りしました<m(__)m>。








 清超先生の御話、の最後です。


       弾力的生長


 彼らは日本軍が相手を刺激したなどというが、世界を相手と

して戦って、ヘトヘトになっていた日本軍が、ソ連に和平を仲

介してもらいながら、どうして之を刺激したり挑発したりしうるであろうか。

日本がそんな気狂いじみたことをしたと虚偽の申立てをして祖国を裏切る政治家には、断じて国政はゆだねられません。

又たとい、どんな事があったにしても、こちらが手をあげてい

るのに、三日もたって国境を侵してまだ占領に来るような外国

を弁護する国民は、先ず国籍をそちらに移転してもらわなければなりません。

 吾々は何も今更ソ連に対するうらみや腹立ちを言い立てようとしているのではないが、物には“道理”があります。

彼らを「平和愛好国とみとめ安全と生存までも委ねる」には、

それだけの”打診”をし“保証”をとる必要がある。これは個人間

の契約でも同じことであり、ただ「信用せよ」では通用しないのです。

 即ち吾々はソ連や中共を断じて信じないというのではない。

けれどもこのような国が、本当に信じうる国かどうかを安全な

体制(安保体制)の中でもっと観察した方がよいというのです。

別に日本がアメリカと安全保障条約を結んでいても、ソ連や

日本に歯をむき出しておそいかかるわけでもなく、中共が攻めこ

んでくるわけでもない。それどころか彼らは今でもしきりに

日本との友好を求め貿易を増大したい様子を示している。

だから、吾々も安保条約を大いそぎで解消する必要はない。そ

れによって日本が少しでもより安全になるという保証はないし、日本の地位がたかまるというわけでもない。

むしろ日本が弱体となるだけであり、仮装友好国から乗ぜられるスキが出来るだけなのであります。

 こうして日本が安全であり、「弾力性に富んだ国家」として

繁栄してゆけば、世界は日本を大いに喜びむかえてくれるに違

いない。幸いにして日本はマルクス主義イデオロギーの虜となった国ではありません。

心から平和を愛しているし、自由を尊重し、国家の個性も大切に思っている国と見做されています。

この日本が、真に日本的個性をとりもどし、他国の個性をも尊

重し、弾力的に生長し続けて行けば、世界の平和は大いに促進されるに違いないのです。

そのためには、どうしても、日本国民の心ができるだけ柔和と

なり、正義や真理に忠実となり「神の子」らしくならなければなりません。

かたくなな一面観を捨て宣伝や流言にまどわされず、流行に追

随せず、自己の個性を尊重し、かつ相手の自由を尊重し、勇気

をもって、「自己の理想」を実現するようになることが大切です。

命令一下、右に動き左に揺れ、キリキリ舞いをしたり、日当で

デモにかり出されたり、プラカードをかつがされたりするので

はなく、自分の真心から正しいと思うことに対してのみ行動

し、その行動には責任をもつという勇敢な「神の子」の自覚あ

る人々を結集し、かかる神人同志を強力に拡大してゆくことこ

そ、日本を安泰ならしめ、現代の危機をすくい、実相の日本の大理想を実現する唯一の道であると信ずるのであります。



                       (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/17 (Tue) 07:52:02





  <釈迦もキリストも孔子もソクラテスも 天皇の赤子なり。
  
 八紘一宇顕現の機関的存在なり。・・・。>・・・。



 スゴイことを仰る方がいらしたのですね!(^^)!。
















 さて、今朝からは、輝子先生の御話になります。




    強き女性とは何か   谷口輝子先生


 《女性の強さは男性と逞しさを競うのではなく、その天分で

ある優しさ、やわらかさ、温かさを表面に出して、心の底に

は、理想を生きるためには、断じて動じないという強さを堅持することである。》


 夕食後のひとときを、いつものようにくつろいで居られた夫

が「もうすぐテレビで”ど根性”というのがあるから見なさい」

と言われるので、私は急いで歯を磨いてテレビの前に坐った。

 初めに映し出されたのは、大阪の繁華街、戎橋での通行人へ

のインタビューであった。マイクを持ったアナウンサーが、通

行人の誰れ彼れを見つけてはマイクを向けて、

「根性とはどういうことですか」「あなたは根性がありますか、無いですか」と諾いている。

「さあ、根性ですか、わかりません」

若い女性たちにマイクを向けて、「根性とはどういうことで

しょうか」と諾(き?)いても、何人もの女性は、

「わかりません、わかりません」と答えているのであった。

やがて場面が変わって、どこかの野球場が映って来た。

そこでは、プロ野球のパ・リーグの阪急ブレーブスの西本監督

や、南海ホークスの鶴岡監督などにマイクを向けて、両監督の考える「根性」について諾いていた。

場面は三転して、映し出されたのはドラマ「横堀川」の一場面であった。

片岡仁左衛門の扮する商家の主人が、何か気に入らぬことしたらしい丁稚を

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/18 (Wed) 08:35:15

  夕べで、5日間も煌々たる月を観ております。

有難いことでございます(^^)/。

どんどん月の入りが遅くなっておるのも、スゴイです、10時頃にまでなっております。

日の出が、また、早くなって来ております、ただ今、7時頃ですが(^^♪。







 輝子先生の御話です。

昨日、何か途中で尻切れトンボになっておりましたことをお詫びいたします<m(__)m>。



 次の場面では、大阪の古い建築のドッシリした商家の店先き

が映り、そこに羽織袴姿の片岡仁左衛門氏と、阪本竜蔵氏が

坐っていて、片岡氏は大阪役者の「根性」について語り、阪本氏は大阪商人の「根性」について語り合って居られた。

 街を行く青年男女は、「根性」とは何かわからないと言い、

自分に根性があるか無いか判らないように答えていたが、「根

性」のある人というものは、強い人、しっかりした人、信念を貫く人ではなかろうか。

 片岡仁左衛門氏は、日本の歌舞伎なる芸術に大きな誇りを持

ち、衰微して来た大阪歌舞伎の挽回をはかろうとして、或る年

は上方歌舞伎、或る年は仁左衛門歌舞伎と銘打って、自分個人

の財産を失ってもいとわぬ覚悟をもって上演して来られたため

に、近来上方歌舞伎のよさが、演劇評論家からも一般からも認

められて来たことは、これは仁左衛門氏が「根性」を貫かれた

からだと思うし、その夫人と三人の子息も心を一つにして、「根性」を貫かれて来られた結果だと思う。

 阪本竜蔵氏は話して居られた。

「商家へ買い物に来られたお客様の、御希望の品物が店にない

と“そういう品はありません”とアッサリ言ってお客様を帰らす

店がありますが、大阪商人はそんなことはしません。

何とかしてお客様の御満足のゆくようにと、そこら中探しま

わって御希望の品物を見付け出して、お客様を喜ばさないでは

おかないという熱意があります。これが大阪商人の“ど根性”というものです」と。

 私は東京のデパートで、しばしば「それは、こちらでは入れ

て居りません」とあっけなく答えられて、失望して帰ることが

あるので、大阪のデパートへ一度行って見たいと思っても見た。

 誰でも、これこそは尊い仕事である。これこそは他の役に立

つ行為である。これこそは人々への愛行であると信ずることの

ために、初一念を堅持し、その目的達成のために努力するには、強い信念を持たねばならない。

意志薄弱になったり、中途半端な仕事ぶりでは「根性」のくず

れた人であって、何事も成就しないし、何の役にも立たない人である。

                       (つづく)
  

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/19 (Thu) 08:19:58


   <中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張して

いるが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十

万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。・・・>・・・。


通州大虐殺とともに、しっかり確認しておきたいものです。









< 前々日の「尻切れとんぼ」の因がどうしても?なのですが、

ここに改めてその続きを(前後しますが)綴ります。>・・・、と、載せたのですが、やっぱり不思議にも「切れて」しまいます(*_*;

改めて、続けて進めます('◇')ゞ。



女性は優しく温かい人が好ましい。

柔らかく、しっとりとした女性には無限の魅力がある。

しかし、その優しさの奥に、しっかりとした強さがなければならない。

その温かさの底に、正しさを貫くためのきびしい心がなければならない。

理想の実現のためには、何ごともがやって来ても崩れないだけの「根性」がなければならない。

優しさだけで強さがなかったならば、砂山のようにもろくも崩れたり、泥沼の中で溺れてしまう。

 強いということは、権力をもつことではない。いくら権力を

もっても、その権力を悪い方向に用いたならば、他をも自分をも幸福にはしないものである。

 世界の国々の首脳者たちは、その嬴(か)ち得た権力の座に

在って、その権力を利用して、果たして善政を行っているであ

ろうか。権力が強大であればあるほど、善政の上にも悪政の上にも影響が大きい。
 
 私は最近の日曜日に、吉屋信子作の『徳川の夫人たち』を読んでいた。

五代将軍綱吉の生母お玉の方は院号を桂昌院と言って愚母の見本のような婦人であった。

三代将軍の正室に子供がなく、側室のお玉の方の生んだ綱吉が

五代将軍となってからは、彼女は女性の中では最高の権力者となった。

 綱吉の正室にもまた子供がなかったが、側室には女子があっても男子がなかった。

桂昌院は世嗣誕生を切望して、自分が高僧と信じている亮賢と

隆光とに世子出生祈願の護摩を焚くことを頼んだところ隆光

は、「将軍戌の年の御生まれ、しかして天下の主権を継ぎ給

う。この天理によって愛狗の命を下し給え。犬族のみならず、

生類憐みの掟を定め給えば、御世嗣御出生疑いなきこと、御母公より上様におすすめ願いたく」と言った。

桂昌院は早速将軍綱吉にそれを告げると、綱吉も迷信家なので

母に同感し、早速”生類憐み“の新法令が天下に発令された。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/20 (Fri) 07:59:09

  


  先日の抜けたところを改めて書き出してみました。 


  〈場面は三転して、映し出されたのはドラマ「横堀川」の一場面であった。

片岡仁左衛門の扮する商家の主人が、何か気に入らぬことしたらしい丁稚を叱責している。

やがてその丁稚が着物をぬいで井戸端に膝まづき、手を突いて

詫びていると、主人がバケツの水をザーツと頭からぶっかけて、きびしい躾をしていると思うと、

「後で風邪をひくなよ」

と情の一言を残して去って行った。

このようなこともして、大阪商人は鍛えられて、「根性」が養成されてゆくということらしい。

きびしいしごきだけでは、立派な人間にはなれない。きびしさ

の中に、温かい心が底流になって居なければ、しごかれた人は

僻むばかりであろう。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/21 (Sat) 08:06:15




  <この時、目標を達成させるために、保己一がやったことは、般若心経を読むことでした。

1000日間、毎日100巻唱えることを神に約束しました。

計10万巻唱えることを誓ったのです。・・・>・・・。


 伝統様の夕刊版より拝借です<m(__)m>。










 輝子先生の御話です。


 吉屋信子の小説を読まなくとも、五代将軍綱吉と言えばす

ぐ”犬公方“という渾名を思い浮かべるほど、この”生類憐れみ“の法令は有名であり、悪政の見本であった。

 私たちは一切の生きとし生けるものを愛し憐れむことは善い

ことだと思っている。しかし、この桂昌院母子の”生類憐れ

み”は、畜類や虫けらを憐れむことに重きを置いて、人間尊重をおろそかにしてしまった。

 一匹蚊がほおにとまった。かゆいので思わずぴしゃりと蚊を

たたいた。ただそれだけのことで、夏の夜の縁台将棋に熱中し

ていた町人が入牢となったり、鶏を一個ふみつぶした農民が入

牢となったり、猫が二匹あやまって井戸に落ちて死んだとて、

御善所の責任者天野五郎太夫が八丈島に流罪になったり、江戸

市民が災厄を恐れて犬を飼わなくなったので、野犬が市中に溢

れて、人間より上位に置かれていることを感じてか、人を人と

も思わず噛みつこうとするので、旗本永井主殿(とのも)は一

頭を切り伏せたところ、「城中勤番の身をもって、禁令にそむ

き、犬を切りすてるとは、もってのほか、直ちに切腹申し付け

るが至当・・・・・」という人があったが、正当防衛として情

状酌量を説く人もあり、死一等を減じ、八丈島流しとなったこともあった。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/22 (Sun) 07:46:37





       トランプ新政権、前途多難を思わせて、さて、(^_-)。

「サヨク退治」は出来ますか、どうか。

 大相撲、Favaorite稀勢の里、悲願の初V&お久の純横綱誕生(^^♪。信じてますよ(^^♪。

去年からの、毎日のウォーキングが足腰を鍛えたようです。

「髷のある力士の神秘性」をモットーとしておるようです。













 輝子先生の御話、終わりです。



権力を悪用した母子によって、多くの人々を苦しめたので、

将軍母子は国民の怨嗟の的となった。

ローマのネロ皇帝ほどの悪虐者ではなかったが、綱吉をして政

治をあやまらしたのは、威張るばかりで愚かな母桂昌院であっ

た。桂昌院は三代将軍家光の側室お万の方の腰元であったが、

子供を産まないお万の方の推挙によって家光の側室となって綱吉を生んだのであった。

家光の正室も側室のお万の方も京都の教養高い貴族の娘であったが、桂昌院お玉の方は八百屋の娘であった。

桂昌院は劣等感から負けずぎらいとなり、病弱な四代将軍綱重

が死去するや、突如として我が子綱吉が世嗣ぎとなると、有頂

天となってしまい、教養の低い迷信家の母は、親孝行の将軍をして悪政を行なわしめたのであった。

「生類憐れみ」ということは勿論善いことである。しかし、畜

類や虫けらだけを愛して、そのために多くの人間を苦しめたのでは、それはもはや善行とはならないのである。

「根性のある人」とか「根性の据わった人」とか言うものは、

自分の目的を善しと信じ、その信念を貫くためには、右顧左眄

することなく、どんな苦難の道をもくずれることなく越えて行

く人のことだと思う。

「根性」のある人は強くなければならない。

 私は優しい女性は好きである。しかし弱い女性は好まない。

私は強い女性は好きである。しかし嶮しい女性は好まない。

「柳に雪折れなし」という諺がある。

そよ風にもゆらゆらと柔かくゆれては居るが、重い雪をサラリサラリと払いのけて、折れるということがない。

昨日も今日も、雪に折られたと言って、私に泣きついて来る女性がある。

雪が悪いのではない。雪は降るがままに降っているのである。

それを受けとめる自分に、強い根性が据わっていなければならない。

優しさの奥に、自分が立派に生きるために、いのちがけで、自分を大切に護る強さがなければならない。

女性の強さは男性と逞しさを競うのではなく、その天分である

優しさ、やわらかさ、温かさを表面に出して、心の底には、理

想を生きるためには、断じて動じないという強さを堅持することである。

                       (おわり)







Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/23 (Mon) 08:31:47




稀勢の里関、15年目の横綱昇進、おめでとうございます。

だけど、お父さんもお母さんも立派な方ですね(^_-)-☆。










 さて、今朝は、雅春先生にも絶大なる御信頼を受けておられた田中忠雄先生のご文章です。


    歴史にみる 強い女性 「聞く人もあわれと思え」――

日の本の乙女 真木小棹(おさお)のこと――

                                                田中忠雄先生


 外からはアメリカ、イギリス、ロシア、フランスが日本を我がものにしようと、押しよせてきた。

内には勤皇と佐幕とが分裂して死闘をつづけていた。

 このとき維新回天の大精神を打ち出して、わが民族の向かう

ところを示した先駆者のうち、最も偉大で最も高い識見を有したのは、真木和泉守保臣であった。

 真木家は代々九州筑後、久留米の水天宮の宮司で、和泉守は

若くして国学、官学及び国史を学び、武道を修めた。神まつる

古の手ぶりは代々にわたるもので、彼の血肉の中に流れていた。

 毎年五月二十五日には、必ず楠公祭を行った。一家一門挙げ
て楠公祭に参加した。

あの有名な寺田屋騒動のとき、和泉守は多くの同志が殺害されて血の海になった中でも楠公祭をやめなかった。

 和泉守が楠公を慕ってやまなかったのは、「一族尽忠」ということにあった。

われ一人忠を尽すのではない。一家一門、全てを挙げて忠を尽すということであった。

楠公兄弟、楠公父子、楠公一門、悉く国の危機に処して生命を擲ち、悠久の大義に生きたのである。

それが和泉守の志であった。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/24 (Tue) 08:31:33



     今朝、氷点下32・8℃、今冬1番の冷え込みです、わが北海道よ( `ー´)ノ。









 田中忠雄先生の御話です。


維新回天の志士たちのあいだで、和泉守は「今楠公」と呼ばれた。

彼は純乎として純なる志の人だったばかりでなく、じつに機略縦横の人でもあった。

群がる朝敵の大軍を撃破した楠公の神通力が和泉守にも備わっていた。

当時の主流、公武合体の二元政策に大転換をもたらし、大勢を

一変して中心帰一の一元を実現したわが民族の英知の先頭に立ったのは、わが和泉守である。

 彼が国の大事のため久留米藩を脱出した事情については書物

にも書き、講演したこともあるので、ここには繰りかえさない。

あの前後は、そのまま民族の一大史劇であって、万人が手に汗
をにぎり、切歯扼腕し、感動の涙をふりしぼる場面である。

 一族尽忠であるから、真木家の人々は一人残らず和泉守の志

を理解し、兄弟子弟は全て和泉守と共に国の危機に馳せ参じ、

妻も娘もこれを励まし、俗論党の迫害に堪えて家を護り抜いた。

 うら若い娘の小棹は、父と弟菊四郎が死地に赴くのを、けなげに見送って、次の一首を詠んでいる。


 あづさ弓 春はきにけり ますらをの

 花のさかりと 世はなりにけり


 一日、親類の大鳥居菅吉という若者がやってきて、小棹に向かい声をひそめて言った。

「世の中は大ぶん面白くなったぞ」

「ねえ、かくさずに言ってください。父や叔父さんたちの様子

に、ただならぬところがあるので、おおかたは察しはついています」

「そんなら言うけれど、諸国の志士が水田にやってきて、お前

のお父さんと大事を企てている。近いうち、京都中山卿の家

臣、田中河内介という人が宮様の令旨を奉じて薩摩に下るそうだ。

その途中、河内介は水田にきてお前のお父さんに会うことになっている。

さあ、こうなると驚天動地の大活動になるぞ。おれも、むろんお伴する」

「では、いよいよ討幕の・・・・・」

「シッ!声が高いぞ」

 このとき、小棹は、しばし目をつむっていたが、やがて小声で一首の歌を詠んだ。


――あづさ弓 春はきにけり ますらをの  花のさかりと 世はなりにけり――


 その夜、兄の主馬と伯父の外記に、小棹はこの一首を示した。

二人は非常に驚いて、「このたびの大事をそなたはどうして

知ったのか。もしこれが外にもれたら真木の一家一門ははりつけになる。必ず必ず人に言うでないぞ」とさとした。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/25 (Wed) 08:17:40



驚天動地、の4字熟語が思い浮かびました!(^^)!。








 田中忠雄先生のお話続きです。


和泉守は水田の幽居から脱出した。

藩の捕吏が蟻の這いでるすきまもないほど包囲している中を、白昼堂々と脱出した。

「天朝のおんため,真木和泉まかり通る」と彼は叫んだ。

その威に打たれて捕吏は襲いかかることができなかった。

 その日、菊四郎も脱出して父のあとを追った。

母の睦子はそのかどでを祝って菜鳥の料理を一子菊四郎の食膳に供した。

小棹は菊四郎のために木綿羽織のうしろを裂いて武士裂羽織を作った。彼はこれを着て勇躍して家を出た。

 彼は元治甲子禁門の変に際し、ひときわ目立つきらびやかないで立ちで現われた。

それは母の睦子がその母順子から貰ったもので、戦陣に臨むと

きはこれを着よと言って、永劫の意をこめて与えたものであっ

た。小棹がこれに金糸銀糸の龍門の刺繡をしてやったのであった。

そのひ、筑後の志士、平野次郎国臣が、ひょっこり真木家に

やってきた。彼もまた京都にのぼって為すあらんとし、かねて

同家に頼んであった火打袋と鎧衣とを受け取るためにやってき

て、和泉守とその一門の脱出を知ったのである。平野次郎は天におどり地におどって喜んだ。

主馬が小棹の歌を口ずさんだ。

「これをおんみのかどでのはなむけにしよう」

主馬がこういうと、平野次郎は欣然として筆と紙を乞い、


ますらをの 花さく世としなりぬれば

此の春ばかり 楽しきはなし

数ならぬ 深山楼も 九重の

花の盛りに 咲きは後れじ


小棹の歌に唱和したこの二週を真木家にとどめて、彼は去った。

その場に小棹がいたかどうか、私にはわからないけれども、彼

はおそらく小棹に最後の別れをするつもりで真木家を訪ねたのではないかと思う。

二人の魂はたがいに慕い寄っていたと思われるからである。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/26 (Thu) 13:14:34




    昨日の「驚天動地」は稀勢の里関の関係じゃありません。

念のため。某教団の件ですから(^_-)。

明日の明治神宮の雲竜型、楽しみです。

初代若乃花が締めた三つ揃いの「鬼」の化粧まわしをつけるようです。






 今日は、昼刻版になってしまいましたが、

田中忠雄先生の続きです。あと1回残っております。




その後、薩摩の大阪藩邸二十八番長屋に志士が集まったとき、

有馬新七が立ちあがり「真木先生の御息女からたよりがありま

した」と言って、「あづさ弓春はきにけり・・・・・」の一首を朗々と吟じた。

居並ぶ志士たちは感動の余り、しばし言葉もなかったという。

 ちなみに、土佐の志士、宮地宣蔵の編著『歎泣和歌集』の中

に、小棹のこの一首が「父の門出を送る」と題して出ている。
(宇高浩著『真木和泉守』四二〇頁参照)

 和泉守とその門下、併せて十七烈士は、皇国に生命をささげて大阪天王寺山に華と散った。

これらの烈士をその当時世間では逆賊と呼んだ。

しかも久留米藩は佐幕派の勢が強く、真木一族はその弾圧のもとで千辛万苦した。

 ある夜、小棹がふと庭前を見ると、秋の枯葉がかすかな音と

共に地に落ち、そこに父の和泉守が一人茫然と立っていた。

おどろいて庭におりて見ると、それは老梅樹だった。

小棹はまぼろしを見たのであった。

 それから一人の旅の侍が、水天宮のある瀬の下町の肥前屋と

いう飲食店に立ち寄って酒を飲みながら、天王山の合戦の模様

を語り、「和泉守さまは天王山で自刃なされた」と言った。

それを報せてくれる人があって、真木一家は憂色につつまれた。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/27 (Fri) 07:58:44




     トランプさんは正義の味方?あるいは・・・(*^-^*)。










 田中先生の御話、結末です。


やがて、それは疑うことのできない事実であることがわかった。

弟菊四郎は生き残って三条実美のもとにいることもわかった。

小棹は悲しみに堪えず、菊四郎に手紙を書き、左(下)の一首を添えた。


きく人も あはれと思へ さを鹿の

声のかぎりは 泣きあかしつつ


この一首は、ほととぎす血に泣く声とも言うべきか、あわれ至誠の人、わが父は国にいのちを捧げ給うたのである。

小棹の慟哭の声は、今もなお聞える如くである。しかしなが

ら、彼女の敷島の歌の道は、美しくも気高くて、とりみだして姿勢をくずしてはいないのだ。

 やがて薩長の提携を策して奔走した菊四郎は暗殺された。

和泉守の弟、大島啓太は和泉守の脱出直前に馬関で捕吏に捕えられ自刃した。

その三男の菅吉は、父の啓太と一緒だった。自刃して息もたえ

だえながら、啓太はわが子菅吉に向かって

「天朝のためを忘れるな」と絶叫した。

 わが大和島根は、かくのごとき父と子、母と娘たちによって護られてきたのだ。

小棹の中に生きていたものは、わが日の本の純乎として純なる道であった。

このような魂が、今の世のうわついた女性を見たら、なんと思うであろうか。

 ああ、彼女の魂は、今もなお声のかぎりに泣き明かしているのではないか。


                       (おわり)

        (筆者・日本教文社編集局長・生政連会長)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/28 (Sat) 08:01:37



    余り、言いたくない事ですが(^_-)、光明思想社版

「谷口雅春先生の日訓」カレンダーですが、どうもしっかりと

掲示?(従来のものと比較しても)出来ない感じがしておりますが如何?(私のものだけかもしれません)

製本というか、表装というか、その仕方に問題がありそうな・・・???














さて、今朝からは、懐かしい、作家、中河与一さんの珍しいご投稿から、です。6回に分れております。



     特別寄稿  これから結婚する女性のために   

             作家   中 河 与 一


    結婚の幸福とは


「戦後女性は強くなった」とよく言われる。そういう面もたしかにないことはない。

女性がつとめて勉強する団体をつくったり、多勢で旅行に出か

けたり、例えば、レストランでお茶をのんでも、

その支払いは常に男性にまかせる――そういうことは過去の女性には見られなかった風景である。

たしかに一つの現象として、女の地位が向上したと言えないこともなさそうである。

然しそれらは多くアメリカ人の生活様式の模倣であって、それを内容づけるものにまだ乏しいように思われる。

形だけの地位の向上であっては空中に描かれた楼閣にすぎない。

 それによって今の女性がいい気になって「家つき、カーつ

き、ババぬき」などと勝手なことを言ったり、考えたりしてい
ると、それはとんでもないことになりかねない危険がある。

 人生とはしかく甘いものでも、安逸なものでも、なだらかなものでもないからである。

昔の人は「手提さげても」とよく言った。その意味はどんな苦

労をしても、好きな相手となら、生活して行こうというのである。大変な決心である。

ところが現代の娘達の中には、家がなければならぬ、自動車が

なければならぬ、そのうえ姑女がいない方がいい、などと勝手なことを言うのである。

 それは幸福であるための条件かもしれないが、実際問題とし

て、そんなにめぐまれた結婚などそんなに沢山あるものではない。

第一そんな心掛けで結婚すれば、恐らく総ては不平ばかりにな

りかねない。寧ろ結婚する人間の心得としては悪質で、彼らに人間をイライラさせるばかりになりかねない。

愛する者のためにはどんな苦労も惜しまないという結婚の決心こそ美しく堅実である。

 人間にとって安逸だけが決して幸福な条件ではない。

山登りをする人にとってはどんな苦労をしてもそれが楽しいのである。

人間の幸福とはその心のもちかたに大いに関係があることを知らねばならない。

                                                   (つづく)


光明日訓の掛け方 - 明鏡

2017/01/28 (Sat) 22:46:28


合掌 ありがとうございます。

ひょっとして、欠陥部分があるのかもしれません。写真を掲載しておきましたので、比べてみて下さい。

光明思想社発行の光明日訓を平成25年の最初の発行のものから使用していますが、
特に問題なく使用しております。

トイレ2冊、事務所、居間、寝室の5箇所に掲示しております。

上手に掛けるには、柔らかく、タオルを掛けるような感じで、
後ろの方へ回すときれいになります。

上の方に 折り目をつけると、月末のあたりの日めくりに
シワができます。

写真で見るとこんな感じです。

http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/70247d3c944513cdc15f926a6bbd4808

再拝。


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/29 (Sun) 08:03:13

     

     明鏡様、誠にありがとうございます!(^^)!。

 早速、実行してみましたが、普段の行いが思わしくないせいか('◇')ゞ、日にちのあたりが後方へずれてしまい、みっともない恰好になってしまいます(^_-)。

 精進の足りぬこと、しみじみ身に染みております。

ご助言心より感謝いたします。



     <「我が国旗」

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、

或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。

朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見え

た。それは鹿児島の大大名、天下に聞えた

島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。

模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。

それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。

明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。

からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の作文>


魚茶様のご投稿より引用させて頂きました<m(__)m>。









中河与一先生のご文章です。



       日本女性の美をとり戻せ


 もともと文化とか生活の方式というものは、長い間かかって

積み重ねられてゆくものであって、アメリカが今日を作っているのはアメリカの長い歴史や習慣によっているのである。

 然しアメリカのみが立派であるかと言えば、そうではない。

私が欧州旅行中経験したことをそのまま書けば、アメリカの一

青年はコペンハーゲンの宿のストーブの前で私に言った。

「僕はアメリカの女性を一番好みません。あまりに強すぎるか

らです。そこへゆくと日本の女性は優しく美しい」

 彼はそう言って、日本の女性をしきりに讃美した。ただのお世辞とも思わなかったので、私はさらに反問してみた。

「じゃ聞きますが、優しいということをどんな事で気づいたの

ですか。僕は日本の女性だけが優しいとは思わないんですが・・・・・」

 すると彼は言下に答えた。

「アメリカではオーバーを男が女に着せるのに、日本では女が

男に着せてくれた。あんなところにも日本の女性の優しさや美

しさがあるように思いました。私にはああいう習慣は忘れられません」

 一寸したことであるが、彼にとってはそれが非常に強く心に残ったらしかった。

とにかく彼はアメリカの女は強すぎて困るとしきりに言うのである。

この場合の強いというのは男に対して余りに威張りすぎているから困るという気持ちらしかった。

たしかにそういう一面はアメリカの女性にはあるらしい。然し

これはアメリカの習慣であって、一概に悪く言っても仕方がない。

                       (つづく)

 

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/30 (Mon) 08:25:16




     明鏡様、今日の日訓「何はなくても『深切』は言葉でできる」です(^^♪。

うちの妻は賢いので、紙ばさみ(クリップ)で上部を挟んで、しっかり固定しました(^^♪。

 ありがとうございます。












与一先生の続きです。



大体このアメリカに於ける女性の優位というものは、もともと

アメリカの建国当時女性が非常に少なかったために自然に出来

た習慣で、それが次第に洗練せられながら今日のような状態を作っているのである。

だからそれを一概に悪く言っても始まらないが、然しそのことに困らせられている青年達は、実際多いのである。

それは私がコペンハーゲンで逢った青年だけの感想ではないのである。

 実際世界の女性達を広くながめてみると、アメリカほどには何処の国の女性も威張っていないのが普通である。

自立的であるということは言えるが、決して男に奉仕だけを要求するというような状態はないのである。

それはイギリスに於ても、フランスに於ても、ドイツの於ても、イタリアに於ても同様である。

 日本の女性が強くなったなどと言っていい気になって、表面

だけのアメリカの真似をしているとすれば、これはとんでもないことになりかねないのである。

そこには事実としてアメリカのような歴史も、習慣も、状態も

ないのに、突然それを真似ているのであるからそこにはどうしても無理が出来る。

人口の上から言っても、日本では女性の方が男性より多いというのが現状である。

 ドイツや、ソ連やスカンジナビアの女性達はよく働くことで昔から定評がある。

日本の女性はアメリカだけでなく、ドイツや、ソ連やスカンジナビアの女性をも見習わねばならぬのである。

 真に女性が強くなるということは、表面の生活様式だけでは

なく、女性自身が教養を積み、自覚をもち、如何なることにも
自分で判断をなし得る能力を持つことでなければならない。

 勝手なことを言って、それでいいと思っていると、折角ほめ

られた日本の女性もアメリカの女性と同じように、世界の顰蹙を受けるようにならないとも限らない。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/01/31 (Tue) 08:13:23




       雅春先生を学ぶ会と貴康先生の関係、気になります!(^^)!。

昨日、今日と、朝陽が見事です(^^)/。









 与一先生のご文章です。


      弱き者の名を棄てよ


 単純にアメリカの真似をして、アメリカのように何処の国で

も女性が威張っていると考えていたら、それはとんでもない誤解である。

 男女関係というものを描いた小説は世界に充満しているが、

女性の浮気という事もあるが、どこの小説でも男性の浮気の方がより多く描かれている。

それには生理的理由もあるかもしれないが、女性がそのために

悩まされている場合の方が実は多いという事実を示している。

同時にまだまだ能力に於て、女性が従属的で牽制する力に乏しいという場合が多いからである。

教養の点に於て、行動の点に於て、男性に及ばない点がなお多

いということは一応女性の冷静に考えてみなければならぬことである。

 であるから女性が強くなるためには優しさに於て、且つ教養

なり職業なりを身につけて自活できるだけのものを、結婚前に於て身につけておかなければならぬという事である。

 女性の美徳としての優しさという事に一寸ふれるが、女性は

子供を育てなければならぬという点に於いて、不可欠の性格をもっている。

それは、家庭生活乃至は独身生活に於てさえ女性の大きい特性であり、美点でなければならない。

アメリカの一青年が嘆いたようにそれは女性の美徳であるか

ら、それを根本に於て、その上に教養と能力と修養とをつまなければならぬのである。

 そうでなければ若い日にどんなに威張っていても、その良人

に死なれたり、病気せられたり、不時の不幸に陥ったりすると、その女性は忽ちに行きづまってしまうより仕方がない。

それでは強くなったなどとは夢にも言えない。そのことを自覚

しなければ女性は何時までも「弱き者よ、汝の名は女である」ということになるのである。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/01 (Wed) 08:27:00





  〈生活の中で、お薦めするのは、「日拝」です。
   
「日拝」がいい。
 
   日の出を礼拝する。朝日を心に刻み込む。
   最低100回やると変わってきます。
 
   般若心経もいらないほどです。・・・>・・・。

 伝統様のご投稿から引用させて頂きました。

 わが地も、今朝で3日連続朝陽が拝めました(^^♪。


 さあ、今日より、2月、キャンプイン、さっぽろ雪まつり、

春と冬が競って、それでも春です(^^♪。

仙厓和尚の達磨図がユニークです(^^♪。







 与一先生のご文章、あと1回です。


女性が強くなるためには、対等の結婚をするためには――先ず特

性としての優しさの上に、立派に自活生活出来る教養と実力と修養とを身につけなければならぬ。

そうでなければカラ元気をつけて「女が強くなった」などと言っても、実力の伴なわぬカラ念仏にすぎない。

 ところで今の男性は女性が強くなったのに対して、弱くなったという説もあるようである。

これも或る点まで本当のようである。

戦うものが男性である以上、戦争に敗れた責任者であるから一応恐縮していることも、事実としてあり得ることである。

また実際に於ても赤いセーターを着たり、女のような仕草をする男を時々見かけたりする。

どうも異様な戦後の風景であるが、これに対して村松剛という

評論家は「余りにも女性的に安逸をむさぼりすぎている」と評していた。誠になさけない風景と言わなければならない。

然しこのことには大きい問題があるのであって、戦後男性達が

人生観の上において、気宇が小さくなり、小成に甘んじている

という事は、女性の表面的な強さと一緒に実際に憂うべき現象である。

それらの飛びあがった女性や男性は、常軌を逸しているので

あって、決して平常心を持った日本人としては決して考えられない。

                       (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/02 (Thu) 08:38:06




      「世界平和の祈り」を宣べていて、ふと、その読み方に迷いが…。


 「神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き

給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべて

の人々(人類)の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う(のである)」・・・。


ここで、前段の「輝き給う」と最後の「満たし給う」の「給う」の読み方が微妙に違うことに気がつきました(^_-)。

前段は「たもう」最後は、どちらかというと「たまう」と読む様な気が。

特に、最後の方は「満たし給うのである」と宣べれば、「たもう」と読んでしまいます。

 雅春先生の御声を聴きますと、やはり前段は「たもう」とよんでおられます。(後段は「たまう」です)。







与一先生のご文章、最後です。


         女性よ強くあれ


 勿論男性はもっと勇気のある義侠心のあるものとして育たな

ければならないし、女性は依然として優しく真の意味に於て強いものとして成長しなければならない。

 今でも印度では、深窓の女性は働くことを嫌い、働かぬほど

立派だと考えられているが、これは今日の世界に共通した問題として改めらねばならぬことである。

 女性も同じようにその性格に適した能力を発揮し、自立する

に至らねばならない。表面的な強さでなく実質的に優れた人間として生長しなければならぬ。

 恋愛とか結婚というようなものにしても、真に女性が自覚

し、強くなった時、初めて立派に出来るのであって、カラ威張

の強さや従来の弱さでは、それは本当の魅力とも恋愛ともなり得ない。

 古来、音楽家としてのシューマンとクララとか、科学者とし

てのキューリー夫妻の如き人々は、美しき恋愛をもって生活を初め、その生涯を実に調和をもって完成したのである。

 言ってみれば夫妻ともに優れた才能と努力と智慧とをもって、偉大な仕事をなしとげた人々であった。

その意味から私は女性が真に自覚し、真に強くなることを願はずにはいられない。

 それにつけても昨今の女性が集団して勉強したり、旅行した

りすることも、それが単なるレジャーとして、或いは安逸をむ

さぼるものとしてではなく、女性が自覚し、強くなるためのものである時、それは立派なことというに充分である。

 此頃流行している集団行動というものも、やっているうちに
次第に女性に自覚を与え、決意を与えるものである。

ただその時注意しなければならぬことは、左翼的な啓蒙家というものがいて、それらの団体を利用するということである。

そういう注意の上に立って、純粋に求めるものがある時、そう

いう試みは、必ず女性に何ものかを新しく教えるにちがいない。

 私は昨今言われる軽薄な女性の強さなどということは少しも信用していないのである。

                       (おわり)




Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/03 (Fri) 08:04:50


     <補注 :「 給う 」 の 現代仮名遣いの ふりがな と 発音について

「 給(たま)う 」 と 現代仮名遣いでは、ふりがなをしますが、
原則として、発音は「 AU 」 の時、 「 OU 」 と発音します。
発音は 「 たもー 」 です。
「 給(たま)いて 」 は 「 たまいて 」 と発音します。

「 こんにちは 」 の 発音は 「 こんにちわ 」
「 私は 」 の 発音は 「 わたしわ 」 の如くです。・・・。>


 なんと、前日に杉下通様が、このようなご投稿をされておりました!(^^)!。びっくりぽん!です。












 今朝よりは、雅春先生と青年との御話の二回目です。


  愛についての統一的所見(二)     谷口雅春先生


   愛は微生物にも感応するか


司会――それでは次に愛というのは自他一体の自覚であり愛する

ということはそれを実践することだと思いますが、そうした場

合、実践には努力を必要とするわけですが、愛を実践するに

は、そこに技術というもの――愛のテクニックというものが要るのかどうか考えてみたいと思います。A君どうですか?

学生A――自他一体の自覚が愛であるとして、その愛を完成するた

めには、テクニックより先に、愛する対象をよく知らなければいけないと思います。

相手をよく知る為には当然相手を勉強したりする努力というものが必要になってくると思います。

学生B――僕は大学の醸造科にいるのですが、微生物を対象として

研究しています。微生物を愛するというと変ですが、微生物に

よって何かの生産をする場合、単にオートメーション的に機械

でやった場合と自分が対象に対して愛を感じ、つきっきりで愛

念を籠めてやった場合と愛はどういうふうにその生産に影響するでしょうか。

谷口――愛にも技巧というものは必要である。愛がなくてテクニックだけになる、それは欺瞞になる。

しかし真に対象に対して深い愛をもつならば、自然に如何になすのが最善であるかの知恵が出て来る。

何故なら、神は愛であり、神の中には無限の智慧が宿っているからである。

微生物は我々人間の愛に非常に感じやすいものである。

我我の微生物又は酵母に対する愛というものが相手に移入するということは実際にあることですね。

僕は「大関」という酒の醸造元の醗酵倉をみせていただいたことがある。

幾棟も醗酵倉があるのですが、そのうちの和光倉という名の倉

を参観したのですが、丁度一月の中頃でしたが、リンゴの醗酵

するような芳醇な匂いがして、樽の中の液体がブツブツ泡を吹

いていましたが、あとで聞きますと、僕が参観したその年は、

その和光倉だけ、一層特別おいしい酒ができたということでありました。

幾棟もある倉の中で、その和光倉だけ特別いいお酒ができたと

いうの、人間の雰囲気が微生物に感応したからで、僕の愛の雰

囲気が醗酵中の酵母に感応したというよりも、僕が参観したの

で従業員の心が「今年は屹度よい酒が出来るぞ、先生がこの倉

を参観されたから」と思って悦(うれ)しくなった。その悦びの雰囲気が感応したのだとも思われる。

「大関」の御主人である長部文治郎さんは――この人は今は故人

だけど、いつだったかお宅へ招かれていったとき、こんなお話をせられた。

“酒の味というものは、もう皆な同じ麹を使って、同じお米で、

同じやり方で、同じ温度でやるけれどもその微妙な味が、造る人によってかわってくる。

その味の微妙な変化は、それは、醸造化学的にいえば、他のバ

クテリアが極わずか混入したりして、そこに風味の相違を生ず

るんだけれども、そのバクテリアの正体――何菌がどう作用するかということがよくわからない。

それが、醸造元の御主人の精神的雰囲気というものがそのよき醸造菌を育て、よい酵母をつくる。

もう醸造家の雰囲気が悪いと悪い黴と悪い菌が発生して酒が

腐ってしまって、その年は全然酒が出来ないでその造り酒屋さんが潰れてしまったという例もあるんですね。

そんな場合、税金は前年の醸造成績の額に従ってかかってくる

し、その年は、材料を買い人件費を払って資本を入れたのが、

全部酒が腐ると、収入はゼロになる。こうして潰れたというような醸造元もあります。

                                                   (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/04 (Sat) 08:11:09



     「浄円月観」に「世界平和の祈り」の加わったものがあることを初めて知りました(^^♪。


「神の無限の愛、吾に流れ入り給いて愛の霊光燦然と輝き給い

、吾れに浄円月の雰囲気漂う。浄円月の雰囲気いよいよその輝

きを益して全地上を覆い、全人類をして愛と平和の想いを満たし給う」

を加えて、繰り返し念ずる、という事です。







 雅春先生と青年の対話です。


       光明思想で特級酒ができた


 ところが、岡山にね花房という酒屋さんがあって何とかいう

銘の酒をこしらえていられたのですが、一所懸命、特級酒をこ

しらえようと、幾年もの間、毎年努力を重ねて来たができなかった。

その人が生長の家に入信しましてね、もう特級酒を造ろうとい

う私的な願いを捨ててもっと公けのことをしたい、”この生長の

家の光明思想は人類を救うんだから、生長の家を弘めて人類を

救いましょう“と決心をして、生長の家の教えを弘めるのを一所

懸命になっておったら、その年のはじめて特級酒ができたというような体験をきいたことがあるのですね。


         酵素肥料の効くときと効かぬ時


 それから、戦争中に、酵素肥料というのが宣伝されたことがあります。

ある種の酵素を堆肥なんかに入れて醗酵させて、それを肥料と

してやると非常に作物がよくできるというのです。それを実際やってみた人の話もきいたことがあります。

併し同じ酵素を使っても、その成績が、必ずしも一定していないんです。

同じやり方をしても、成績が異なるのはやっぱり土地を拝み作物を拝み酵素を拝まんといかんというのですね。

真剣な気持ちになって拝むとですね、その酵素が肥料効果をよく発揮するということでした。

酵素にせよ醸造菌にせよ、これらは生き物ですから、それを培養する人の愛に感応するのですね。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/05 (Sun) 07:49:43




     稲田防衛大臣、ご立派でした(^^)/。










 雅春先生、青年との対話です。



   肥料効果増進剤バクダモンの実験


 生長の家でも、バクダモンという特殊の酵素肥料というか、

肥料効果を増進する金を土壌に培養したものを造って売り出し

たことがあるんです。それは非常に効力があって、最初の二年ほどの間は、驚くほどの成績をあげた。

大根やら人参やらが、お化けのような、あんまり大きすぎるの

ができて、あんまり大きくて不細工で市場へなんか出せないというような巨大なるものが出来た。

その成績をきいた人たちから注文が殺到して、バクダモンの生

産が、殺到する需要に応じ切れなくなってしまったわけなんです。

そしたら、その殺到する需要に応ずるために、それは或る赤土

の菌の純粋培養の原液を入れて赤土とよく混合し、醗酵倉に入

れて菌を充分増殖してから売出すのですが菌が繁殖して充分有

効な酵素が生ずる期間が待ち切れないで、バクダモン製造所で

は、短期間でまだよく醗酵していない赤土を売り出しちゃったんです。

そうしたら、その製品は未熟なために肥料効果があらわれないで一ぺんにバクダモンは信用をおとしてしまった。

バクダモンそのものが効果がないのではなく、それを製造する人の心に狂いがあったのですね。

それで諸方から返品があってその製造会社は潰れてしまった。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/06 (Mon) 08:45:49




「北国は、春も夏も一気に来る」・・・、でも、やはり

立春も過ぎて、春の兆しは感じられる今日この頃、です(^^♪。









 雅春先生と青年の対話です。



   腸内細菌が有益菌にも有毒菌にも変化する


 例えば、腸内細菌としてビタミンをつくるのに有益な大腸菌

が腸チフス菌に変化したり、赤痢菌に変化したり、或いは疫痢菌に変化したりする。

これは既に実験されている事実ですけれども、それはどうして

そのようなことが起こるかというと、その菌の宿主である人間

の精神状態が人を害する様な、人を憎む様な、腹立つ様な敵対

感情を持続していると、微生物は、その敵対感情を感受して他を害する性質の有毒菌に変ずる。

すなわち普通の大腸菌が変形して、有毒なチフスや赤痢の病菌に変化するというようなことになるわけなんです。

だからそれと同じようことがやっぱりこの酒の醸造にせよ、味噌の醸造にせよ起こる。

同じ原料を使いながら、からい精神の人が醸造した場合には、

からい酒ができる。また甘い精神の人が醸造した場合には甘い

酒ができるとかいうような微妙な変化が起こってくるということになるのです。

こうして人間の心が、微生物にまで感応するということは、一

切の生物は本来一体である、換言すれば愛のつながりがあるからなんです。

                       (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/07 (Tue) 07:52:54





     <そうした大きな動きの前では、嘘に嘘を重ねながら一部の特権階級だけが
大金持ちとなって、武力や威嚇で国を支配してきたような国家
は、
加速をつけて崩壊していきます。

これは必ず起こります。

そして一部の者の利権のために、屁理屈で固めたリベラルやグローバリズムといった

虚構も崩壊していきます。

新たな光の前では、暗闇にうごめく魑魅魍魎は、霧散するしかないからです。

一方、日本人が、これから加速度的に日本の心を取り戻していくということは、
保守主義や偏狭なナショナリズムに陥るということではありません。

民衆こそが世界の宝であるとしてきた、いわば人類社会の黄金律を
日本人が自覚とともに取り戻し、堂々と内外にその姿を示していくことです。

今年1年は、干支からいえば、
これまで数年来行ってきた動きが完成する年になるわけです。

いいかえれば、これまでやってきたことが、今年1年で集大成され、
それが今後の60年を決定づけることになるということです。

お若い方であれば、今年一年の心掛けと方向性が、
その人のこれからの60年を決定づけます。

お歳を召した方であれば、この数年来行ってきたことが、
今年完成を向かえ、それは取り返しがつきません。


それだけに、丁酉(ひのととり)の年というのは、
国にとっても個人にとっても、とても大切な年です。>・・・。

 
 伝統様のご投稿から引用させて頂きました!(^^)!。










 雅春先生と青年の対話です。



司会――愛はそのように自他一体の本質から起こるとして、それ

では今後、自分の将来進むべき道における愛というものについ

て、具体的に、吾ら何を為すべきかを考えてみたいと思います。

学生C―-古代からの埜本の歴史を通観してみると、仁愛深い天皇

もあるけれどもどうも納得の行かぬ天皇もある。それをどのように解釈すべきかという問題がある。

学生E―-古代の天皇を現在の価値観で捉えて一がいに悪いときめつけるのは間違いであると思う。

併し私達は、天皇が一夫多妻的な生活を送っていられたことを

どのように解釈し一般の人々に理解させていったらよいか、それを先生におうかがいしたい。


谷口――司会者が最初に提題した愛の技術という問題ですが、愛

の技術といえば、英語でいえば、テクニック・オブ・ラブとい

うよりも、アート・オブ・ラブである。それは”愛の芸術”と訳してもよい。また”愛の美術”と訳してもよい。

愛というものが本当に歪まずに発展してきたらそれは芸術とな

り、美となる。本当の愛が出て来たら、愛の中には智恵があるんですね。

愛は神であるから、本当の愛の中には神の智恵がある。

そして神の智慧があらわれて来たら調和が自然と出て来る。と

くに愛の技巧とか技術というようなものを研究する必要はない。

最近の雑誌などの「女を喜ばす技巧四十八手の公開」などとい

うのは愛のアートじゃなくて性のテクニックである。

性のテクニックというようなそんな技巧をおぼえて、肉体のど

こを、どのように愛撫したら女は悦ぶかなどと考えて行為した

ら、折角の、その男の行為が本当の愛情の発露であるか、マッ

サージ師が、おぼえた技術によって患者を悦ばすのと同じ外面的な技術なのか、区別がつかなくなってしまう。

だから“性の技巧”みたいなものを公開されればされるほど男女

間の本当の愛の表現は困難となり、形だけが不態(ぶざま)に
露出して、本当の愛は雲の彼方に逃げてしまう。

その点、戦後の日本人は気の毒だともいえる。技巧などおぼえ

なくても、本当の愛が発露したら、それは一つの芸術となり、

美術となり、美しい姿を以ってそれが形の世界に展開してくるということになるのです。

愛はもっと内面的なものであって技術ではないのです。

                                                   (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/08 (Wed) 08:16:38




      安倍首相フィリピンで大歓迎、フェイク総裁、

たけし天皇観、著作権問題大勝利(^^♪、各地本流講演会盛会、

トランプ大統領対策・・・、盛りだくさんの話題ばかりです。










 雅春先生と青年の対話続き、です。





    神から方法を授かった遠藤義雄氏


 最近遠藤義雄さんという、あの海南島の司令官をしておって

死刑の宣告を受けたけれども神想観をしているうちに死刑免除になって日本へ帰って来たんですね。

あの人がハワイからずっとアメリカへ行きまして、二ヶ月半程

行っていた間に、三千人の英文『生長の家』の年極誌友を獲得して帰って来た。

遠藤さんは英語はちっともしゃべれない。英語はちっともしゃ

べれないのに、外人を感動させて、それで英文

『生長の家』の誌友を二ヶ月半程の間に三千人も増やしたというのは、やっぱり愛の奇蹟である。

遠藤さんは、どういうふうにしてしたかというと、今日その報

告が来ておりましたが、遠藤さんは、神想観をしたというのです。

遠藤さんは商売で『生命の実相』を売っているのでもない、月

給をもらって生長の家の誌友を殖やす外務員をしている訳でもない。

自分が死刑の宣告を受けて、既に死刑になるところを神想観し

て救われた。それで人類を救うのは、この生長の家の真理を普及するほかはない。

人類を救うために同志を殖やさなければならないというので、

誰に頼まれたのでもないのに『生命の実相』の第六巻を提

(ひっさ)げて日本各地を講演して一人で三万冊を頒布した。
それは自分の救いを他に及ぼす愛です。

その話をききつたえてアメリカから講演に来てくれということになったのであります。

愛は空しくならないということが分ります。

遠藤さんはアメリカへ往って、この異郷でどうして生長の家の

誌友を殖やそうかというので、神想観をして、神様のみ心をきいた。

そしたら、「七人の侍をこしらえて、七人の侍をして広めろ」という暗示が出て来たというのです。

それで、「七人の侍をつくるということはどうするんですか」と訊いた。

そしたら、神様からの答が来た。

「ひとりで、七人の誌友を作った人にお前が持てるところのも

のを与えよ」という声なき声がする。で、「私の持っているも

のとは何ですか」と問うと、「お前は書道ができるから、文字を書いて与えよ」という答が出て来た。

それから、遠藤さんは、色紙を買ってき、筆と墨とを買ってそれに揮毫して、

「七人の誌友を作った人には私の書を一枚づつあげる」ということを発表した。

「そしたら、そういう神想観で死刑が免除された体験をもって

いるそんな素晴らしい功徳がある先生の書なら欲しい」という

わけで、皆なが大いに運動しだして、短期間で各地合計約三千

人の年極誌友ができたということなったという話であります

が、これなどは、真剣に人を救いたいという愛から自然に生まれて来た”愛の技術”だと思うんです。

神様の智恵が遠藤さんの愛を通してでてきたというわけですね。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/09 (Thu) 08:23:00



     しろうさぎ様、何か志恩様に似て来たような…( `ー´)ノ。










 雅春先生と青年との対話続きです。


       天皇家の一夫多妻の伝統について


 さて次に大変むずかしい問題を提出されたのですが、E君の提題である御皇室の一夫多妻の問題ですね。

それが正しい道徳か否かの問題は、人類の発展の歴史の流れに

おいて考えなければならないのであって、今の時点に於ける現

代の道徳的標準で古代からの伝統を批判し評価すると間違うと思う。

そういう男女の道徳は、人類の発展に過程において進化して次第に一層調和したものとなってくるものなんです。

人類の道徳には、永遠に変らない道徳と、時代に従って変遷し

て行く道徳と二つある。道は本来一つだけれど、その一つの道

が完全にあらわれる途上に於いて二つの道を通る、即ち、永遠不変の道と可変の道とに分れるわけです。

例えばですね、この座談の一番最初に、「愛は自他一体」とい

う問題がありましたが、“一つの神様から陰陽があらわれて、そ

して二つに分れているのが、その本来の一体を自覚して、もと

の一つに結ぶのが愛である”という、愛の基本原理というものは、永遠に変らない。

ところが、天之御中主神からイザナギとイザナミの陽陰両儀の

原理神があらわれ、更にスサノオノミコトと

天照大神様との男女の二神となり、この二柱の神の間に愛が行なわれて五男三女神が生まれた。

ところが天照大神とスサノオノミコトとは俱(とも)にイザナ

ギノ大神から生まれられたのですから姉と弟ですね。

従って、この両神の結婚は姉弟結婚ということになるわけで、

現代においては、こんな無茶な畜生結婚みたいなものだと排斥

せられるべきものなんだけれども、そういう天地初発(はじ

め)の人類創造の最初の時代においては、人類はすべて一つの

神から生まれた兄弟姉妹であるから、兄弟姉妹の婚姻が軽蔑さ

れ排斥されることになると人類は生殖作用が行なわれないで人類は絶滅するほかはない。

従って、その時代に於いては兄弟姉妹の結婚は道徳的であるとみとめられたわけなんですね。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/10 (Fri) 08:24:41





    チリチリ様も真面目な信仰者のようです(^^♪。










 雅春先生と青年の対話、あと2回です。


それから段段と、人類が殖え血縁の遠い者同士が結婚する方が

優良な子孫をつくることができるということがわかってくると、近親結婚は不道徳だとみとめられることになった。

しかし、まだ地球上の人口が不足であり、人類の数を急速に殖

やす必要がある時代には一夫多妻が道徳的だとみとめられることにもなった。

人類の発達途上においては一夫多妻の必要な時代があったに違いないのです。

その時代に発生した宗教、たとえばイスラム教では一夫多妻が公認されています。

それはこの日本の歴史の流れだけじゃなくて他の地域にもあったと思う。

いずれの民族に於いても、各々その民族の発展の過程において社会的に必要な種類の可変的道徳は変る。

そして人類は徐徐に発展し進歩し、そして段々正しい完全な実相が一層充分に顕れることになる。

日本民族は皇族だけではない一般人も、最近まで一夫多妻を不道徳だとしていなかった。

否現代でも尚、お妾を置くのは男の甲斐性だというような思想は大阪の商人などの階級にはある。

山崎豊子の小説『ぼんち』などにはそれがハッキリあらわれている。

 天皇家に於いては今上陛下になっていよいよ一夫一婦の正しい夫婦の在り方というものの模範が示された。

それまでは、このような可変的道徳に於いてはいろいろの段階

があって、それはその当時の地球上ぜんたいの人類の発達の程

度というものが関係して来るし、人口増加の必要上、本能的に是認される時代があった。

そして日本民族全体の想念の反映というものが、天皇にあらわれる。というのは・・・・・。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/11 (Sat) 08:00:21

 


      <『思うに大人が制度を立てるにあたっては、必

ずその時勢に順応した良い制度を立てなければならぬ。 苟も

人民の利益になる事であったならば、たとい聖人の制定したも

のであっても、その制度を変更するに何の妨げがあろうや。 

〈註:ここに日本天皇の民主主義的性格があらわれているのであります。〉

 朕は、いま山林をひらき伐採して宮殿を築造経営し、恭しい

心持で天皇の位に即き、人民の安寧と幸福とをはかるであろ

う。 そして上は、神が国を授けたもうた其の御神徳に答え奉

り、下は皇孫以下が正しい心を養成するよがとし、そして天下

を治める為の都をひらき、その徳をひろめて、世界の八方の荒

れたる隅々までも一つの家庭として人類は皆兄弟として互いに

手をつなぐべき目的を実現するために、畝傍山の東南、橿原の地に都をつくるであろう。』

 この詔勅には何処にも侵略的な精神は見られないのであります。・・・>・・・。


 童子様のご投稿から、神武天皇の建都の詔勅の略解を載せさせていただきました<m(__)m>。

 日の丸掲揚させてもいただきました(^_-)-☆。





 雅春先生と青年の対話の今回の終りです。

ありがとうございます。



   天皇は御鏡として国民の心の反映があらわれる


 天皇は日本民族全体の精神の鏡として日本民族全体の心が、そこに映されているわけである。

即ち「われを見ること、この鏡を見るが如くせよ」と“御鏡の神
勅”に天照大御神が仰せられた。

その天照大御神の御神霊を宿して御位におつきになった天皇に

はその時代の国民の精神というものが映し出されているのだと私は思うんです。

 まだ戦争前でしたけれども、僕が「近眼は治る」という題の

本を書きまして、心が真理を悟ることによって

たくさんの近眼が治った実例を並べたことがあったのです。

その時代は極端に言論の統制のあった時代で、天皇の悪口なん

か一言でも言ったら、直ちに検挙せられ、不敬罪に問われる時代でありました。

僕は別に天皇のことを書かないで、唯、「真理を悟れば近眼は

治る」と書いただけなのに、右翼の人が私に引っかかって来た。
「それでは、天皇陛下が近眼で眼鏡をかけておられるのを、お

前は天皇陛下も迷っていると云うのか」と威丈高になって僕を不敬罪で告訴するといってひっかかってきた人がありました。

 そのとき、私は天照大御神の“御鏡の神勅”を引用しまし

て、天皇が眼鏡をかけておられるのは、国民たちが、天皇の実

相を覆い隠して顕れないようにしている、物質の眼鏡で、真実

の光を覆い隠しておる姿が顕れているんだといって答弁したこ

とがありましたけれども、この答えは必ずしもその時の告発をまぬかれるために一時逃れにいったのではなかったのです。

維摩経にも「衆生病むが故に我れ病む」という句があります。

家族の心が迷うが故に家長が病むということもあります。

そういうように天皇には、その時代の民族の風習とかその当時

の国民の想念とか迷いとかいうものが形に顕われて悩み給うことがある。

歴史の上に何々天皇がこんな残虐なことをしたなどといっても、それは天皇の姿ではなくて国民の心の反映である。

我々国民がもっとハッキリ天皇の御実相を見ることが出来る、

その結果、天皇の実相がもっとハッキリ顕われたら天皇は眼鏡

をおはずしになるに違いないのであって、天皇を鏡として吾々国民は自分の心の迷いの反映を見るのであります。

そういうわけで、人類の発達及び民族の発達の程度に従って、

可変的道徳というものは次第に進歩して行く、そして天皇にはその時代の国民精神が反映する。

そういう途中における状態を今の時点における道徳的考えから

批判していくというとそこにはまあ食い違いを生じてくるというようなことになるのであります。

ではこの辺で。

                                                   (おわり)





Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/12 (Sun) 07:51:48





< 「私は朝日に勝った」 「俺もだ」

 首相の一言 警戒解いたトランプ氏・・・>・・・。」


 何とも、お二人の笑顔がいいですね~、心を明るくしてくれます(^^♪。

 だけど、入会金?5000万、会費200万(不確か(^_-))、プレー代3万円、庶民には無関心の領域ではあります(^_-)。








 さて、今朝からは、少々順番が入れ替わりますが、清超先生の時事的?御講話がありましたので、急遽ご紹介いたします。

 どうも非論理的な私にはとても難解なご議論ではありますが・・・。

 昭和42年「理想世界」誌11/1号からです。




    矛盾の克服から大調和へ     谷口清超先生

      食卓にて

 ある集団生活をしている生徒寮がありました。

そこには寮母的役割を果たしている人が二人いたのですが、これを仮にAさん、Bさんとしておきましょう。

AさんもBさんも元来クリスチャンだったのですが、Aさんは性格

的に暗く、家庭的にも不幸で、たった一人の娘さんに先立たれた人でした。

Bさんは明るい家庭に育って、別に問題を抱えているという訳ではなかったようです。

 ところがこの寮母さん方が、生徒と一緒に会食するとき、A案は生徒が食事中ペチャクチャしゃべっていると、

「食事中はだまって食べるものです」

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/13 (Mon) 08:25:21

   <斯う云う青年が生長の家の読者の中にあるかと思うと、悲しくなります。…>・・・。

 紀元節復活にかける雅春先生の、当時の御言葉です。

切々たる思いが感じられます。








 清超先生の御話、途中で切れておりましたので('◇')ゞ、少々飛ばして<m(__)m>ご紹介いたします。



      民族的差別と結合の力


 けれども、このような「根本精神」を抜きにして、食事の形

式だけを強要したり、食事中に物を言ったといってお嫁さんを

コッピドク叱りつけたりする「(実際こういう例も聞きまし

た)のでは、あまりにも自分のひとりよがりの考えを相手に強制しすぎる者と言わなければなりません。

同じ日本人でいて、同じ時代に住んでいても、かくの如く「風

習」が異なると共同生活ができにくいものですから、民族がこ

となり、歴史的生活習慣が相違している人々の間には、とかく対立や反目が生じやすいのであります。

この実例の一つは、アメリカの黒人問題であります。

デトロイトで起こった黒人暴動が忽ち全米にひろがって行った

背後には、アメリカ合衆国の歴史の中で、黒人が差別待遇され

ていたという恨みがかくされているのは勿論です。

そしてその原因の一つは、結局、風習や外見の相違が、ことさらに強調されすぎたからであります。

さらにもう一つ最近ドゴール大統領がカナダへ親善旅行中、ケ

ベック州で「自由ケベック万歳」と叫んで、カナダ国民から反

対され、怒って旅行を中止してフランスへ引きあげた事件がありました。

これもその背景には、カナダの約三割の人口をしめたるフラン

ス系住民が、かつて差別されていて、それが自由ケベックの独

立運動をやったことがあるのをそそのかす発言であったというので、重大視されたのでした。

 アメリカ合衆国でもカナダでも、アングロサクソン系住民が

優位をしめ、南欧系およびそれ以外の住民はとかく差別され勝であったのです。

これが一つの国家を組織的に団結させるのにどんなに障碍となっているか分りません。

それは民族的能力の差が主因ではないのです。

日本人などは、能力的には実に優秀であるにも拘らず、移民問題ではずい分と苦しめられて来ました。

こうして日本民族はその拡張期に、新大陸からしめ出されてしまった。

これが世界動乱の最も主要な原因の一つとなっているのです。

 そこで、この点について、もう少し考えて見ることにしましょう。

大体地上には工夫しだいではいくらでも人間が住めるものです。

それは今のままの食糧生産方法や、エネルギー利用度では不可

能ですが、人間の「知恵」や「愛」とを極度に開発して行け

ば、どれだけでもエネルギーを生み出し、又お互いに異民族の

風習を寛容にみとめ合い、理解し合う愛を高め合ったならば、人口制限などしなくてもよいのです。

こうなれば移民もずいぶんと大幅に出来るようになって行くことでしょう。

 ところが世界の歴史はそれに逆行したのです。その逆行にも
理由がありました。

元来民族は民族としての準決を求めているのであり、そこには

必ず伝統と風習とを保持しようという強い内部要求があります。

その要素は「類をもって集まる法則」によって支えられている

ものですから、決して意味のないものではなく大いに有意義な力です。

これを仮りに「結合の力」と名づけておきましょう。

それは人類委精神における求心力といってもよいかもしれません。

民族内だけに働くものではなく、地域社会の中にも同じように働きます。
                       
                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/14 (Tue) 07:46:30

中仙堂様の情報力、凄いです!(^^)!、よき情報源です。

ありがとうございます<m(__)m>。









 清超先生の、今に合った、移民問題等の御話です。




        移民制限


 例えばアメリカ大陸が発見され、ヨーロッパの旧大陸から自由の天地を求めて続々と移民が流入した時期があります。

彼らは最初は主としてアングロサクソンであったけれども、そ

れ以外の民族も参加したし、又原住民もこれに加わって、遂にアメリカという国が出来上がりました。

ところがこのアメリカは、十九世紀の終わりごろから、なるべく旧大陸からの移民を制限しようとしはじめた。

それが第一次大戦直後からはことに著しくなったのでした。

そして一九二四年には最もきびしい移民制限法を施行して、外国人をしめ出したのです。

この傾向はアメリカ合衆国ばかりでなく、オーストラリアやカナダにおいても同様でした。

しかもアメリカの場合は内部に異民族をかかえていながらの排

外主義で、結局それは地域社会の「結合の力」が、あまりにも

強烈となりすぎたからでありましょう。と同時にそれは、アン

グロサクソンの民族的利己心とも結びついているから、決して地域社会の結合力のみとは言い切れません。

ケレドモ、アングロサクソン民族自体の立場から言えば、一年

間に百万人以上の者が流入してくるということに対して、ある種の警戒心が起こるのも当然です。

そこでこの移民を制限しようということになって、一年間に十五万人と決めたのです。

しかもその十五万人を、人為的に各国別に割り当てたが、その

割り当て方が問題で、民族的利己心が背後にあるものですか

ら、一八九〇年あたりの移民実績をもとにして割り当てたのです。

というのはその時期の移民では一番アングロサクソン移民が最も多かったからでした。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/15 (Wed) 08:04:21




    凡庸の唄、大学出てたら、あのくらいは書けますよね

 (^_-)。






 谷口清超先生の御話、続きです。


このようにして民族の伝統をまもり、風習をまもろうとする心

が、単にそのままでは、世界的に排他主義をとらざるを得なくなってくるのが現実です。

するとどういうことになるかというと、人口の流動が人為的にストップされる。

人種不平等主義が押し通される。

アメリカには地下資源もあるし、働き場所もあるが、旧大陸か

ら新大陸への移動は十分の一に押さえられてしまったのです。

そうなると旧大陸の職を求めている”働き手”は、依然として旧大陸へとどまっていなければならない。

ところが第一次大戦で欧州はすっかり疲弊した。食糧も資本も資材も不足している。

あまっているのは人間だけであります。

そこへアメリカは資本を貸し、資材を輸出したが、人間の移民はうけいれてやらなかった。

アジア諸国に対しても勿論同様で、日本人は完全にしめ出されたようなものでした。

こうしてやっとヨーロッパは、資本と資材によって復興しては来たが、もはやアメリカの工業力には追いつかない。

従ってヨーロッパからアメリカに品物を輸出しても、あまり

買ってはくれないから、アメリカへの借金を返すことは出来ず、一方人間は多すぎて困った。

かくて工場は動かなくなり失業者は巷にあふれ、遂に一九二九年の世界大恐慌へと突入して行ったのでした。

                       (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/16 (Thu) 08:22:32


稲田防衛大臣、少しピンチですか!(^^)!。

 どっしり、その実力を発揮してもらいたいものです(^_-)-☆。








 谷口清超先生の御話です。


         包容の力

 つまりこのようにして、アメリカはその民族的、及び社会的

利己心、「閉め出し主義」のために、世界大恐慌を招いてし

まったともいえるのです。これでは自分の貸金を取り立てることも出来ません。

ところがもしアメリカがこの時移民制限をしなかったらどういうことになっていたでしょうか。

たしかに新大陸に於けるアングロサクソンの人口比率は低下し

て、その代わりにイタリー、スペイン、日本、中国系がどんど

ん移入していたであろうけれども、世界的恐慌は殆ど起こらなくなってすんだであろうと思われます。

と同時に、アメリカの黒人問題の背景にある差別感の基礎がぐらついていたでしょう。

何故なら、アメリカはより一層人種的に混合し、この点では

もっと寛大に、包容的になっていたにちがいないからです。

こうなると、アメリカの日本に対する偏見もうすらいでいて、日米開戦は生じなかったかもしれません。

少なくとも世界の歴史は大きく変わっていたことはたしかです。

アメリカの黒人問題解決の第一のチャンスは、こうして見すご

されてしまったのであり、現代アメリカの悩みは、アングロサクソンの民族利己心に求めることができるのです。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/17 (Fri) 08:09:51





<生長の家では、朝 起きて、まだ現在意識が呆(ぼう)としているとき、
この時は 潜在意識に 暗示が一番 受容(うけい)れやすいときですから、
「 わたしは 神の子 仏の子。無限健康、無限愛。無限の智慧が湧いて来て、
何でも善いこと みな出来る 」 と云(い)うような意味のコトバを
二十遍ずつ自分の 「 奥底(おくそこ)の心 」 に印象させるように
低声(こごえ)で唱(とな)えるように 勧(すす)めているのであります。>・・・。


 明鏡様のご投稿から引用させて頂きましたが、此処では、

「低声(こごえ)で唱えるように」とありますが、

神想観でも、「生長の家を通じて働き給う神よ~」は「数回

一意専念繰り返します」で、

続いての「吾、今五官の世界を去って実相の世界に坐す~」は

「と黙念しますと、」と御教示されております。

一意専念とか黙念とかは声は出さないほうがいいのでしょうか。今までは声に出して朗々と('◇')ゞお祈りをしておりましたが。







 谷口清超先生の御話続きです。



しかし乍らこの時もしアメリカに凡ゆる民族が自由に流入して来ていたらどうなったか。

これは国家としてまとまり得たかどうかも疑わしいのです。

何故なら、言語一つをまとめるのでも、大変な努力がいるのが実情だからです。

国家が生ずるにはどうしても、どこかの民族が中核とならなけ

れば、現在の人類の意識のレベルでは、国家はまとまらないからです。

カナダの如き、フランスとイギリス系との三対六の割合の二つの民族ですら、なかなかまとまらない現状です。

ドゴールですら、これをけしかけて、平地に波乱をまき起こしているではありませんか。

 結局地上の各民族は、もっと他民族の風習や皮膚の色や、考

え方に対して、寛大でありつつ、自己の個性をまもるという、

一見矛盾した二つの力を同時に習得しなければならないのです。

日本と中国との戦いの原因にも、民族的偏見が大きな比重を占めていたことを見落してはなりません。

この偏見は、現在の中鏡の政策にも引きつがれていて、まことに遺憾であります。

この二つの力の一つは前にのべた「結合の力」であり、もう一つの力を「包容の力」と仮りに呼ぶことにしましょう。

この二つの力が、民族にはどうしても必要なのです。

これらは一見相反する力であるようですが、実は一方の力だけでは国家は成立しないのであります。

一方が一方の力を、どこかで支えていてくれる。

「結合の力」のみを主張すれば、かえって他と対立しあらそわ

なければならなくなるし、「包容の力」だけでは、自己の個性
を喪失して、空中分解するという結果にもなるのです。

それはあたかも太陽系が重力と遠心力との両方の力で均合いを

たもっているようなものであり、この二つの力がお互いに助け

合い補い合って、凡ゆる民族を生存せしめているのであります。

                       (つづく)




Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/18 (Sat) 08:12:33




トキ様の論理的思考?スゴイです!(^^)!。及びもつきません。














 清超先生のお話続きです。



         民族的利己心の力

 さて現代のナショナリズムを問題にするとき、人々は果たし

て矛盾しているように見えるこの二つの「必要な力」を公平に認めているでしょうか。

現代の民族主義は、その一方の力に頼りすぎてはいないでしょうか。

日本人の中に時々見うけられるコスモポリタニズムや平和主義

の中には、「結合の力」の真の価値を見うしなっている所はないでしょうか。

そしてその「結合」は個性ある結合でなければ意味がなく、又

その「結合」には中核(元首)がなければならず、その中心は

「永遠性」のものこそが正しいのであり、その場合に結合力も

最大であるということを知らされていないのではないかと懼れるのであります。

ところで現実には、このような未熟な民族的利己心が、さらにどのような世界史を描いて行ったでしょうか。

世界恐慌を経て世界経済の主流は、自由主義経済は行き詰まり

を来たすと考えるにいたり、その破綻を救うために地域経済体がとられはじめました。

つまり人間の移動の方はそのまま制限しておいて、或る国際ブ

ロックの間だけの物資交流をやって助け合おうとしたのです。

こうして米州ブロック、大ブリテン・ブロックなどが結成さ

れ、さらに世界恐慌をテコにして出来上がったマルクス主義革命ブロックがつくられたのでした。

こうなって来ると、このブロックから取りのこされたドイツや日本やフランス、イタリーはどうしたらよいか。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/19 (Sun) 07:56:56




「保育園、幼稚園に国旗、国歌を」理想的ですよね(^^♪。








 清超先生の御話、です。



フランスはドイツとの旧来の敵対関係や、イギリスなどとの歴

史的交流関係から、とてもドイツなどと結んで一ブロックとなる筈はありません。

こうしてフランスをのぞくドイツ、日本、イタリーの接近とブロック化が生じて来ました。

日本がドイツと結んだことをアメリカやイギリスは日本の日英

同盟の裏切りのように言うが、本当は彼らこそ日本を三国同盟

へとかりたてたものだ(経済的に)と言わなければなりません。

 しかしながらこのような時期のブロック化や国家連合は、決

して親愛の精神が根本動力ではなく、民族的利己心が動因であ

り、イデオロギーの迷信が動力でありましたから、そこから真の平和や繁栄がもたらされる筈がありません。

利己心と利己心とが相うてば、必ず対戦へと導かれるのであっ

て、このようにして、資源と販路を求める第二次世界大戦が全

世界をかき乱し、かくて日本はアメリカと戦わざるを得なくなったのでした。

このどさくさに、アメリカ、大ブリテン、ソ連の三ブロックは

結合して、総力をあげて日独ブロックをたたき倒したが、その

後は共産主義陣営をのさばらせて、ごらんの如く、日独にか

わって共産国と対決を強いられているのがアメリカであります。

大ブリテンブロックは分裂して、今や一国の経済を保持するの

に汲々たる有様となり、イギリスはEEC加盟を求めて、フランスがこれを排斥しているという現状です。

この惨憺たる大動乱の背後に、民族的利己心が、いかに盲目的に作用して来たかを見落してはなりません。

イデオロギーも何もかも、まだその配下にあると言っても過言ではない。

その証拠が中ソの対立であり、ベトナムの苦悩であります。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/20 (Mon) 08:25:02



      しろうさぎ様、志恩様に似てませんか!(^^)!。


 昨日の新聞一面(一頁)いっぱいに「改憲へ勢い増す日本会議」の記事が。

 村上正邦氏のコメントも。

ただ、しっかりと(^_-)某哲学者の「警戒招く保守派の<理想>」なるコメントも忘れずに。











 清超先生の御話です。あと2回です。



         いかなる教訓を得たか


 けれども、これらの苦い経験から、アメリカは、たしかに今

や何らかの教訓を学びとり、昔日の民族的、地域社会的利己心から大幅に進歩して来ている様子です。

それが第二次大戦後の大規模な援助計画となってあらわれ「自

由」をまもるためのヨーロッパ及びアジアへの出兵という現実につながっています。

アメリカは国家としては未成熟であり、色々の失敗をし、日本

やアジアを誤解していたかもしれないし、依然アングロサクソ

ン的利己心を持っているが、同時に相当の教育をうけ、考え方をあらためてきていることも事実なのです。

ところが日本やヨーロッパはどうでしょうか。

果たしてどれだけの「反省」があり、どれだけ民族的利己心と
民族的理解力との調和をはかることが出来たであろうか。

言い換えれば、「結合の力」と「包容の力」とを、どれだけ止揚することが出来たでしょうか。

或る者は「民族的利己心」のみを強調することをもってドゴー

ルやA・Aグループに讃同し、或る者はアメリカの苦悩を白眼視

するだけで、幼稚なマルクス主義国に追随し、或るものは国家の個性を消失することをもって、

日本が世界化するかの如き錯覚に酔いしれ、或るものは個人及

び民族の魂の進歩のことなどてんで考えようともせず、与えら

れた物質的快楽にうつつを抜かしているのではないでしょうか。

吾々は日本をこのような愚かな無反省な国としていてはならないのです。

日本はもっと精神的に立ち直らなければならない。

アメリカやイギリスが与えた「民主主義」を唯一の教義として

有難がっていたり、ソ連、中共の「マルクス主義」を有難がっ

ておしいただいているなどという“後進性”に断じて低迷していてはならないのです。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/21 (Tue) 08:37:08


<今年の立春から、今日で16日目です。
立春の月は「上弦の月」でしたので、今日は「下弦の月」です。
26日には朔(新月)になります。>


 月の形も色々あって、理解しにくいものです('◇')ゞ。
(注;19日のご投稿です)



<キジ(女性)の感性は周りがよく見える「眼」を持っているからでしょう。

さるやいぬの動きもよく見えます。

そして、「今」何をなすべきかを見極めることができます。
変化を敏感にとらえることができるのが特徴です。


酉歳の今年は、女性が活躍する年回りです。>・・・。


 その通り?札幌では

高木美帆、家根谷依里選手、二人とも金、銀メダル両方獲得です(^^)/。


 伝統様のご投稿から引用させて頂きました<m(__)m>。














 清超先生のお話、お終いです。難しかった('◇')ゞ。




日本は、何のために二千六百年の歴史的経験を積んだのか。

そして何のために世界大戦の砲火の洗礼をうけたのか。

それはみな、日本民族の「結合の力」をいよいよ崇高なら染め

るためであり、日本民族の「包容の力」をますます高度ならしめ、日本の「理念」現成のためではないであろうか。

日本はすくなくとも、その歴史の大すじをふみあやまってはいないのです。

日本は加害者ではなく、実は被害者であったのです。このことを戦後の青年は教えられていない。

そのため劣等感に押しつぶされ、奇怪な「オワビ」ばかりをしてそれを平和主義と錯覚している。

それ故、吾々はもっと自信をもって、日本らしさを発揮し、そ

の本来の個性である霊性と包容性と、中心帰一の結合性とを発

揮して、これからの世界歴史を、光輝あらしめなければならないと思うのです。

しかしてそのためには、一見矛盾する力の調和ということを理解しなければなりません。

「自」と「他」とを対立者としてとらえるのではなく、「他」を重んじつつ、「自」をまもること。

自分の「伝統」を尊重しつつ、もっとも「進取的」であるこ

と。(これは革新的といういみにあらず、現在の革新派ほど非進歩的なものはいない!)

そして又、もっとも「日本的」であることが「国際的」である

ということ、民族的優秀性が他民族を心から愛する行為に直結すること。

そして、日本をしっかりとまもり、安定させることが、「世界平和」の最大の基礎となるということ。

真に自己を尊重するものが、他人を大切にいたわり、助け合うことができるということ。

つまり単なる物質科学的理解から、さらに一歩すすんだところ

の宗教的理解を、全国民がしっかりと身につけるようにならなければならないのであります。


                       (おわり)




 

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/22 (Wed) 08:06:46



新聞に、「秋田県峰浜村(現・八峰町)出身で、同郷の

おかみさんがいる札幌・ススキノのきりたんぽの店に

よく一緒にのみに行っていました。店を手伝っていたおかみさんの弟さんがある日、村長に当選しました・・・」

の記事があり、ひょっとして、あの日野西恵美子さんの事で
は、と思い、そのご著書を見てみますと、どうも違うようなのです。弟さんはおられないようなのです。

で、そのご著書を読むうちに、吸い込まれるように読んでしまいました。

 最愛の御主人、資英(すけあきら)さんを僅か四年間の夫婦生活で亡くし、目標を失うところに、

谷口雅春先生の強いお薦めがあって、当著書を執筆されたのでした。

 その詩の才能とも、魅力ある文章力は見事です。

先般、講習会の講師に招かれておられた記憶があるのですが、

ここに、その最初のところを、ふつつかながら紹介させて頂こ

うという気持ちにとりつかれました(‘◇’)ゞので、よろしくお読みください。

 ご主人ともども、実に立派な人物であったことは充分に計り知れるご本です。ご主人との共著の

「美しい恋愛と結婚」(昭和48年版)も素晴らしいご本です。

  

生きて愛して  身体障害を克服した愛の記録   

日野西恵美子さん



  2 小児マヒの少女   ある夜 突然に


 その年の梅雨は長かったという。

 少しの陽の射す間なしに、降り続く暗い雨が、ようやくに上

がった六月末のある夜、生後十ヵ月の私は、高熱に襲われ、翌

る日、熱も下がったので、両脇をかかえて、立っちをさせよう

としたら、両脚が蒟蒻のように萎えていたということである。

 私は、特に足が強くて八、九ヵ月で、もう家の中をテーブル

を押して歩き、ごつんとテーブルが向こう側の壁やタンスに突

き当たると、ぐるりとテーブルの縁をつたって反対側に廻り、

また、こちらへ押してくる、それをいつまでも続けている子だったと、母がよく聞かしてくれた。

 また“高い” “高い”が好きなので、大きくなったら、飛行家のところへお嫁にやろうかと、笑い合っていたとも言う。

 私は、一晩で足が立たなくなり、小児マヒと診断されて、今の医学では、治療の方法が全くないと宣告された。

ずいぶん高い薬であったそうだが、猿の肝が良いとの事で、それを飲ませるのだが、ひどく厭がって飲まない。

隣家の「こっくりさん」で占うおばあさんが、こちらは何も言

わないのに、今飲ませている薬は良くないから、やめた方が良

いと、「こっくりさん」の御宣託をを告げてくれたので、私は

猿の肝の服用を逃れられたとか、また、黒い眼鏡のマッサージ

師が、毎日通ってくれたが、その姿を見るだけで、泣きわめくので困ったということも聞いた。

                                             (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/23 (Thu) 08:08:12




2月23日は皇太子殿下の御誕生日、ご会見で般若心経

を写経、奉納された天皇の御名前をあげられておられたのが印象に残りました。

アジア大会開会式にもご臨席されてご立派でした。










 日野西恵美子先生のご本から。冒頭部分だけとはいえ、17回にもなります。感動ご文章です(^_-)-☆。



 私は昭和四年九月四日、秋田県能代市に生まれた。

男の子三人のあとに、初めて生まれた女の子であった。
父が三十四歳、母が三十歳であった。

 私の記憶では、煙草の匂いだろうか、父のふところは、良い匂いがして、私は年中、父のふところの中にいた。

そこは心の安まるところであった。

父が私を見つめる眼に、言いようのない程のやさしさや、深い気遣いがあったことを、私は知っていた。

 あんよの年齢が来ても、私は這って歩くばかりであった。

メリンスの着物は、すぐ膝がぬけ、ワカメのように、ゆさゆさ

と破れがぶらさがり、下に生まれた小さな妹二人をかかえて、母は私の身繕いに音をあげていた。

 それも、いつまでも畳の上ばかりでは、満足していていず、

手に下駄をはき、足にも履物をくくりつけて、四つん這いの恰好で、外を歩いた。

 父は、製材所を経営していた。

小学校の校庭ほどの土場とよばれる広場には、いつでも、川の

上流から筏に組んで運ばれた杉の丸太や、製材した材木を、井

桁に積み上げたり、並べて立てかけ乾燥しているので、木材の匂いがあふれていた。

大きなモーターのうなり声や、キーンと甲高いのこぎりの音を

立てて、大きな木材が、板になり、それを運んだり、束ねたり

する多勢の工員さん出入りする工場、どこを歩いても、湿っている鋸屑が、体や手足にもついた。

 材木を運ぶトロッコの線路が、川岸から家の前を通り、近所

の製材所へ通じていたが、私はよく、その線路の中を歩いた。

枕木と枕木の上を、右手、左手、右足、左足と交互に運んで歩むのだった。

 線路の道は孤独であった。全くひとりぼっちで私は行くのであった。

 製材の工場地帯であったので、それぞれの工場の柵の中で、

丸太がゴロゴロし、製材の鋸の音は終日しても、めったに人通りはなかった。

それでも、私は隣の家に遊びに通う途中に、人が来かかると、

向こうがまだ私の姿に気づかぬ中に、その場に蹲り、草を摘ん

だり、石で遊んでるふりをして、人をやり過ごし、誰にも見られる心配のないところで、また、歩き出すのであった。


                       (つづき)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/24 (Fri) 08:22:38



冬来たりなば春遠からじ、なかなか蘊蓄のある言葉ではありませんか(^^♪。

また、一面の銀世界、来そうで来ない春ではあります。








 日野西恵美子先生のお話です。



            甘酒進上


 ある時、うちの縫物をしてくれている近所の娘さんが来て、

家の外で遊んでいる私に、紙袋に入れたお土産を差し出した。

そして、小さく二、三歩後ずさりして、ここまでいらっしゃい、という。

甘酒進上というところである。

四つん這いで、それに引かれて走り寄りながら、私はショックを受けて、その場に居すくんだ。

四歳か五歳の私にも、犬か猫のような歩み方しかできない自分の姿が、おぞましく、省みられたのであった。

泣くに泣けないような気持であった。

私は菓子袋なぞ、もう要らなかった。

 父にも、母にも、誰にもわからない、私の悲しみは、こうしてふいと訪れては、私の心に積るのであった。

 あるとき、近所に婚礼があった。子供たちは縁先にむらが

り、文金高島田、お振袖の花嫁姿に、ため息して、ひしめき合っていた。

 初めは、ただ無邪気にその中に浸っていた私は、やがて自分自身に気がついた。

なぜか居たたまらなかった。

足の悪い私は、どうしてあのように、形良く静かに歩み、そして座り、お酒を注いで廻ることができよう。

お嫁に行けないのではないか、という暗黙のうちの父母の悩みは、また突然、私自身の悩みともなってしまった。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/25 (Sat) 08:10:48




本当に、愛子様の御姿には心痛みます。実相世界は違う御姿なのでしょう。







 日野西恵美子先生の御話です。



何かと傷つきやすい心であったが、父と母とは、家で大事にし

て育てたら、外でも大事にして貰えるからといい、劣等感を持たせまいとすることが、私への教育方針のようであった。

 父は、熱心な金光教信者であった。

朝毎にお水を替え、祝詞をあげ、大きな拍手で礼拝していた。

その姿を見つめながら、私は父の心からなる祈りの中に、どんなに切なく私が在るかを感じていた。

それは私の罪の赦しを神に乞うているのだと、私は思うのだった。

 明かりのともる小さな神殿を、私は憚る気持であった。罪の意識の故であった。

なぜ、私の足が立たないのか。兄弟のように、思うがままに、なぜ私だけは走ったり、歩いたりが出来ないのか。

なぜ、いつでも座ってばかり居なければならないのか。

小さな幼い心に絶えず湧く疑問――その解けぬ思いが、罪の覚えとして根づいていくのだった。

私は。それに絶えず悩まされるのである。まだ、五、六歳の頃から、わけなく悲しい時があった。

 だが、どうしてか、私は、近所の人からも、工場の人からも、誰からもよく可愛がって貰った。

わたしは、いつもニコニコ笑っている子だったらしい。
笑い顔しているのが、私の癖であった。

誰であれ、私の前に佇む人を見上げては、人恋しく、なつかしく笑いかけずにはいられなかった。

「俺たちは、手足が満足でも、何かと文句があるのに、恵美

ちゃんは足が悪いのに、いつ見てもニコニコして、感心してしまうなあ」という言葉を、私は何度も聞いた。

 人々の私について語る言葉が、そういう私を作り上げていっ

たとも言えるが、幼い私に、神が授けた”生きる知恵”ともいうべきものかも知れない。

ごきげんの良い、ニコニコした顔をしている方が、皆に愛され、私は生きるに易かったのである。

「恵美子は、心のしっかりした子供だった」と母は言う。

                                                  (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/26 (Sun) 08:06:35



        森友学園問題、首相もたじたじですね!(^^)!。

どう決着するか、何か憂鬱になってくる問題ではあります。


 明鏡様が浄円月観及び大日本神国観をご紹介されております

謹んで実修致しております(^_-)-☆。









 日野西恵美子先生のお話続きです。




      “ほっぺた長者の鼻けかつ”


 足が悪い以外は、その後、病気一つしたことがなかった。

リンゴのように盛り上がったほっぺたは、私のトレード・マー

クであったらしい。近所の小父さんが、ある時、いたずらに竹

の煙管をねかせて、頬と鼻とに渡し、横に二、三度動かして、

「ああ、やっぱり鼻が高い、鼻が高い」と笑っている中に、煙

管のささくれが頬に刺さり、血が噴き出て、みなびっくりしたという。

 兄たちは、どうかすると、「ほっぺた長者の鼻けかつ」(方

言で飢饉のことを言う。欠渇とでも書くのか)と私の器量を笑うので私はよほど変な顔なのだと思いながら大きくなった。

親せきに色あせた私の四、五歳の時の写真があった。お花見の

写真で母のおたいこ帯のかげからのぞく丸い可愛い顔の女の

子。私は意外に思った。こんなに可愛い顔なのになぜ皆はあんなに笑ったのだろう。

 大きくなってからだが、友人が、いたずらっぽく笑いながら、

「主人がね、恵美子さんの笑った顔って、梅の花みたいだねというのよ」

と告げ口してくれた。

「ほら、マンガの梅の花が、みんな糸のような眼をして笑って

いるでしょう。あんな感じなのよ。廻りが、ぽっこり盛り上

がって、真中が凹んでいて」

という。大笑いであった。

 早起きは、私の一つの特徴であった。

小さな頃、私は父も母も、女中さんもまだ眠っているのに、一

人起き出して、昨夜、灰をかけた埋れ火を、いろりの中に掻き

起こして、消し炭をつぎ、固い炭をついで火を起こしておいた。

父母が起きてくる頃は、いつも部屋があたたまり、鉄びんのお湯がチンチンとたぎっていて気持良かったと言われた。

この事が私の出来るたった一つのお手伝いであり、喜んで貰うたびにとても嬉しかった。

 火を起こし終える頃、工場の夜番の人が迎えに来てくれる。

勤務明けになった人は、よく私をおんぶして、川べりを散歩してくれた。

油臭い菜っ葉服の背に負われて行くと、早朝の浜風は、いつの

清々しく、冷たく、空と雲は朝焼けて水に映り、その美しさは名状しがたいものがあった。私はいつも息をのんだ。

刻々に美しく変化していく空に見惚れる私を傍におろすと、工員さんは釣り糸を垂れ、小さな魚を釣り上げるのだった。

 自由に山や野を駆けめぐる事のない私は、どうしても家に籠ることが多く、外界への憧れは強かった。

外の空気を吸ってるとき、私は幸福であった。

父や母が、そして周囲の人々が、どんなに抱いたり、負ぶったりして、気持を満たしてくれた事だったろう。

今は礼を言うすべもない近所の人、うちで働いていた人々に、私は、今、心から礼を言いたい気がするのである。

 しばらく家の中にばかり置くと、私は荒れてくるそうであった。

母は、私を乳母車に乗せて、親戚や友人の家を訪問して私を遊

ばせ、帰ってきて二、三日もすると、また、窒息しそうに苦し

がる。終いにはどこも行きつくして、行き場に困ったそうであった。

また、サーカスや映画など、催し事が街にあるたびに、母は私を連れて歩いてくれた。

大きくなったら、恥ずかしがって外へ出れなくなるだろうからと言っていた。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/27 (Mon) 08:17:49




第8回冬季アジア札幌大会は「金」27個含め74個ものメダル獲得の大収穫でした(^^)/。

 道産子としては鼻高々です(^^♪。(道外選手もおりましたけど('◇')ゞ)

 教訓は、寒さには負けずに動け、ということでした(^^♪。











 日野西恵美子先生のお話です。


          父に抱かれて学校へ


 小学校へあがる頃、私は松葉杖をつけるようになった。

これまで何年間も電気治療に通い、終いに母は、その医療器具を求めて、家で電気マッサージをしてくれた。

そのせいもあって、松葉杖がつけるようになったが、ひょろひょろと全く頼りないものであった。

 小学校一年生の時は、ずっと父が抱いて学ばせてくれた。

校庭で輪になって行進する一年生の中に、私を抱いた父がまじって行進していた。

音楽室に行くときも、体操場へ行くときも、お便所へも、父が

抱いて歩くので、何も知らない父兄は、どんなに可愛くて手放

せずにお父さんがつきっきりなのでしょうと話し合う人もいた。

顏や上半身にひ弱さは、全然見られなかったという。

 その日は、父がいなかった。一たん、家へでも帰っていたのだろう。

担任の先生が抱いて、別の教室へ連れていって下さり、そこで選ばれた何人かのクラスの一年生とともに作文を綴った。

私は、工場の人の働いている姿、何か汗の玉が背中を流れていくというような、詩を書いた。

それが、学校の新聞に掲載された。父母は大喜びして、皆に見せに廻った。

二年生の時も、「年取りの晩」という文章が、新聞に出た。

明日お正月という大晦日の晩に、私たち、兄妹六人は年の順に

並び、めいめいが赤塗りのお膳に座って、ご馳走をいただき年

齢を一歳重ねるのであるが、私は、この日のご馳走の中に、ライスカレーも加えた。

その頃は、それがハイカラな料理で、気に入っていたので、こ

の年取りの晩の煮豆やたこ、やき魚のほかに、それも一品加え

たのだが、新聞に出てから母に、「まさか、年とりの晩に、ラ

イスカレーを作るなんて事はないよ」と言われ、私は盗みでも見つかったような、心に大変な苦しさを感じた。

 だが、この新聞に出たという事は、私の一つの希望となった。

厚い雲で覆われているような私の環境の中で、その切れ間から射した眩しい光であった。

私は、そこに活路を見出した思いであった。

「私は足が悪いのだから、大きくなったら、毎日文章を綴ってるような人になりたい」

それは、小さな願望の種であった。だが、それを願わずにいられなかった。

私には、実に、何の力も無かったのである。

どこへ行くにも、動くにも、人の手を借りねばならず、運動会も遠足も、私には参加する能力はなかった。

毎日の朝礼の時間も、体操の時も、私は一人教室に居残って、窓から空を見ていたり、鉛筆を削ってみたりする。

そんな事で時間を潰すしかなかった。それは全く所在なく、やるせなく、惨めな気持のものであった。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/02/28 (Tue) 08:06:54




『聖徳太子の呼称を厩戸王に変えるな』!(^^)!。

『サンデーモーニング』に喝!(^^)!。











 日野西恵美子先生のお話です。



        “起きて軍艦を見に行こう”


 その日も、私は教室にひとり取り残されていた。

それは、能代の海の沖に、軍艦が碇泊しているとの事で、急に

参観が決まり、皆は、先生に連れられて、海へ出かけていったのである。

 私は心が重かった。先生は「明日の図画の絵を描いて貰いま

すから、しっかり見て来ましょう」との注意を与えて、一同を引き連れて行ったからだった。

軍艦を見た事のない私は、どうしよう、明日の図画の時間にどうしたら良いのだろう、としきりに小さな胸を痛めていた。

 翌朝であった。まだ暗い中に、私は、父にやさしく揺り起こされた。

「恵美子、起きて軍艦を見に行こう」

私は父の背におぶわれ、その上から父は丹前を着込んで、家中の誰も起きぬ中に家を出た。

 ああ、その朝のことを、私は一生涯忘れないだろう。

父は、サクサクと規則正しく、米代川(秋田県)沿いに、大きな私を負ぶって海の方へ何キロもの道を歩いた。

浜風は頬に冷たく、赤い陽はこれから昇ろうとしていた。
子供と言っても、数え年十歳の私である。

長道となると体にこたえるのであろう、父の息は苦しそうであった。

父は時々立ち止まり、私をゆすり上げて、砂浜の歩きにくい道を、力いっぱいに歩んでいた。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/01 (Wed) 08:14:23

      


   <今人類の悩みは多い。人類は阿鼻地獄のように苦しみもがきあせっている。

あらゆる苦難を癒す救いと薬を求めている。

しかし彼らは悩みに眼がくらんでいはしないか。
方向を過っていはしないか。

探しても見出されない方向に救いを求めていはしないか。

自分は今彼らの行手を照す火を有って立つ。>・・・。


 伝統様の「立教88年」より引用させて頂いた、大聖師の立教時のすごい決意表明であります。

本流の人々には大いなる希望を与える珠玉の御言葉でありましょう。


 仙厓和尚の3月、の書画は河豚(ふく)と福(の神、大黒)

とをかけたユーモアたっぷりのものです。

伝統様は、出光佐三も採り上げられております(^^♪。










 日野西恵美子先生のお話です。



やがて視界に軍艦の姿が入ってきた。

海の真中に動かぬお城のようにそびえ立つ軍艦を、私は驚異に満ちて見た。なぜ沈まないのか不思議であった。

大波小波がキラキラと朝陽を受けて揺れるのに、身動きもせず鎮まり返っているのが、不思議であった。

何という立派さだろう。

私はすっかり魅せられてしまった。こんなすばらしいものを、私は一度も見た事がなかった。

 そして、その日の図画の時間が来た。先生は、ふと、私の存在に気づき、

「ああ、吉田さんは、軍艦を見てませんね。何でも良いから、他のものを描いてください」と言われた。

私は、いきなり出口をふさがれて、「あっ」と思った。そう決

め込んで言われる先生の言葉に、真実を話すチャンスを失ってしまった。

 私の心の中には、今朝、父の背から見た輝かしい軍艦の姿が

焼きついているのに、先生も教室の誰もそれを知らず、私が軍

艦を描いたら噓をついてると見るだろうと、私は思ったのであった。

私は泣きたい思いで何か別のものを描いた。

せっかく、人並みに同じ軍艦の絵を描かせたいと、そのために

汗を流して、遠い海まで、背負って行ってくれた父の心を、みな無駄にしてしまったのである。

 この日から、もう三十年も歳月は経っているのに、脳裡に深く刻まれて、父母の労苦に対して涙をもよおすのである。


                       (つづく)





Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/02 (Thu) 08:51:07





  <《「生長の家」三大使命(「現代を預言する古事記」より)》~三つの桃の實(「生命の實相」)


(1)「日本天皇の生命の實相」~天皇陛下の生命の実相顕現

(2)「日本国の生命の實相」~日本国家の生命の実相顕現(真理国家・日本の建設)
               「国家」の救済(成仏)

(3)「人間の生命の實相」~生命礼拝による人類生活光明化、すなわち
              「個人」の救済(成仏)・個々人の生命の実相の顕現

・・・>。


 伝統様のご投稿より引用させて頂きました。

明鏡様の「光明日訓」の替え方、2月は不思議に(28
日までなのか)自然にご教示の通り、でした。

ありがとうございます。

 アクエリアン様の森友学園へのエール、よく判りました。

 








 日野西恵美子先生のお話です。


         神様のメンコ


 広場では子供達が、多勢群がって、それぞれの遊びにふけっていた。

 私は縄飛びの一方の縄を持って、回して上げることは出来るので、いつもその役を引き受けて、仲間に入れて貰っていた。

その中に誰から言い出すともなく、“えくぼ”が幾つあるかという事になった。

二つある人は神さまのメンコ、肩えくぼの人は、母さんのメンコだという。

「恵美ちゃんは、どうだ、笑ってごらん」

笑って見せると、皆は口々に叫んだ。「ああ、両方にある。神

さまのメンコだ」「神さまのメンコだあ」

 メンコとは、愛ずるという語源からでも来ているのであろうか、かわいい子という意味である。

私は、両えくぼだから、神さまのメンコだという。

誰が言い始めたとも知らぬ、また、根拠もないような言い伝えでも、子供の私にとって意味は重大であった。

 神さまには、いつも後ろめたい思いをしていた私であった

が、この時から、私は神さまふところに、ぽんと抱かれた思いであった。

「神さまのメンコ」とつぶやくと、父によく抱かれていたよう

に、そのままにぽっかりと神さまのふところに甘えておさまっていられた。

 私は、幼い日に、いじめられたという記憶を全く持たない。

私は、男の子からも、女の子からも、ほんとに大事にして貰った。

「これ、誰かに上げよう」高く手をかかげて品物を見せる子が

いると、みな、ワッと寄っていくが、松葉杖の私は、どうせか

なわないので、黙って立っていると、寄りすがる手をふり切っ

て、ぱっと私の前に来て、蝉のぬけがらとかビー玉や何かきれいな石をくれていく男の子もいたりした。

 これは、父と母が心を集中して、私の育児に深い愛を注ぎ、存在を尊重してくれたお蔭だと思うのである。

父母が一人前に扱ってくれたので、自然に兄妹もそうなり、私を包む空気が私を半端者にしていなかったのであろう。

父は私を語るたびに、「この子は、うちのたから娘で・・・・・」と言った。

父の言う意味には、多分に気がかりなとか、ふびんが含まれていたのかも知れない。

私は、それも感じながら、しかし、たから娘と言われるたびに、誇りを感じもした。

私の知る宝物というのは、童話の中に出てくる、あの金銀、珊瑚、綾錦などという光り輝くものであった。

貴重なもの、かけがえなきものが、それであった。

                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/03 (Fri) 08:43:27




森友学園、もひとつ、スッキリしませんね(^_-)。


 日野西恵美子先生のお話、昨日、例の(^_-)禁止語のお蔭で

ひとつ、名文を飛ばしましたが、今朝、それを載せてみます。

大丈夫とは思いますけど。・・・、で、やってみましたら、

やっぱり駄目でした('◇')ゞ。「父兄」を修正したのですが
・・・。

次へ参ります('◇')ゞ。






          父のはげまし


 私は、今思うのである。

身体障害の子を抱えている、全国何十万の親のために、深く思うのである。

もし、「これが我が子」として不具なる子を抱かねばならぬ親

の身に泣く涙、嘆く言葉の洩れそうな時は、如何なる時にも、それをもろに子供の頭上に浴びせてはならないと。

 子供にとって、親の嘆きは最大の悲しみなのである。

自分の存在が、こんなに親を泣かせ、苦しませてると思う時、

子供の魂に救いようのない暗い影が射し、子供の未来の運命を、暗黒に引きずってゆくのである。

 外から見た形はどうでもあれ、子供の輝く生命をじっと内に見て、子供をほめ称えねばならない。

心からなる励ましをもって、子供の行手に祈りをこめねばならない。

子供自身にとっては、かたわな外の形と、かたわならざる完全な内なるものの覚えとが、絶えず錯綜しているのだ。

光と暗と、うらみと誇りが、現象と実相が、子の心に交互に乱れて悩みとなるのである。

 そのとき、親は、外の不完全な姿はみとめずに、ひたすらに心こめて語りかけるのだ。

「立派な子よ、すばらしい子、お前は私のたからものだよ」と。

 でなくても、暗く閉ざされ勝ちな心である。

親が、誇りを与えずに誰がそれをしよう。

特に不具の子には、溢れるほどの愛と力の満ちた励ましが必要なのである。

 だが、不具の子、その人自身よりも、幼児期は、むしろ親の方に苦しみが、多くかかるのではないだろうか。

不具の子の親という、まぎれもない事実の前に、泣かず嘆かず

に、いさぎよくそのきびしい鍛えに身をさらし、光に向かって行くが良い。

いつかは、親の頬に流れた涙も、虹をうつして七色にきらめくのである。

 父はよく言ったものだった。

「恵美子よ、辛い事があったらね、私は大きくなったら偉い人
になるのだ、とそう思いなさい」

 こんなにも惨めに萎えた足をもち、人間として何の能力も持

たない私が、大きくなってどんな偉い人になると言うのだろうか。しかし父は心から私に言い聞かしてくれた。

「大きくなったら偉い人になるのだ」と・・・・・。

 父は、私のためにどんな夢を描いていてくれたのだったか。

 満足に生きていけるとも思えない子だけに、なおさら、その

言葉は、魔法の力ともいうべきふしぎな光をもっている言葉であった。

その呪文を唱えると、私には目先の悲しみが乗り越えられ、行方の道にすばらしい光明が点じられる思いであった。

                                                   (つづく)










Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/04 (Sat) 07:57:57

       


    <「みなさ~ん、ぼさーとして椅子に

  すわっていらっしゃる。それでも神の子なんですよ~

  バカみたいな顔をして、パイプ椅子にすわっていらっしゃる。

  それでも神の子なんですよ~」・・・>。・・・。


 何か、ふざけていませんか(*_*;。








 日野西恵美子先生のお話、改めて、抜けていた感動文章を。

いろいろ実験して(^^♪載せることができました。



同じ頃である。遠足に連れて行って貰ったことがあった。

汽車旅行で岩舘(秋田県)という海岸をたずねたのであった。

改札も、階段も、岩舘の駅で汽車を降りてからも、みな父の背に負われてである。

後を振り向いたり、足にさわったり、話しかける行列の友にまじって、父は目的地までの道を歩いた。

岩の段々を降りて、海がよく見えるひろいふところのような所で食事をするのであった。

父は私を背からおろし、〇〇〇〇サックや水筒をおろすと、すぐに引き返して行った。

先生を援けて、岩の段々のところで、生徒が足を滑らせぬように手伝っているのであった。

他の父〇は、いち早く我が子とバナナの皮をむいたり、おにぎりを頬ばっているのに、私の父はなかなか帰って来なかった。

置かれた場所から一歩も動けぬ私は、そのままの形でぽつねん

と、父が、五メートルほどの高さの途中に足をふんばって、降

りてくる生徒に手を貸し、それをまた反対側で先生が、同様に

岩に滑らぬよう、一人一人の体を支えているのを、見続けていた。

 それは、父の尊い姿であった。

人の為に何か役立っている姿、奉仕している姿であった。

私は待ち遠しかったが、父から何か美しい教えを受けたのであった。

その後も、私は我を忘れて人のために夢中になる父を何度も見

た。父は奉仕、献身が三度のご飯より好きな人であった。

                                                   (つづき)

  〇=兄。〇〇〇〇=Ruck。

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/05 (Sun) 07:44:03




 夕べの上弦の月、きれいでした( `ー´)ノ。

0:00台に沈むようです。

藍ちゃん、故郷で冴えず、コンサドーレも躍れず('◇')ゞ。











 日野西恵美子先生のお話、続きです。



         本をむさぼり読む

 私は手あたり次第に本を読んでいた。

活字でさえあれば、何でもかまわずむさぼり読んだ。

うちでは私に読ませたくない本は、裏の納屋の二階に上げて、はしごを外してしまった。

 だが私は読みかけていた『復活』がどうしても読みたくて、

皆が昼寝している間に、下から竿で本の包みを突き動かした。

動いたのは良かったが、それが、ドシンと大きな音を立てて下に落ち、目を覚ました母に、ひどく叱られた事もあった。

 このころ、学校の図書室で『キリストの伝記』をみつけて読み、深く感動した。

信仰の芽というのは、もしかしたらこの時私に二葉を出したのかもしれない。

キリストに従って、私は、海の前にも立ち、乾いた道の辺の緑の草などまるで目に見えるような気がしたものだった。  

 また同じ頃、『白雪姫』の物語を読んだ。

美しい白雪姫がだまされて、毒のリンゴを食べて死んだようになっていた。

森の奥から現われた王子さまが、白雪姫を抱き上げたとたん

に、姫の口から毒のリンゴは飛び出し、魔法が解けて姫の体は自由になり、王子さまの白い馬に乗せられて森を出た。

そして、王子さまの妃として幸せに暮らしたというのである。

 私は読んで、「ああ、私も魔法にかかっているのだ」と思った。

納得のゆかない私の不自由さは魔法にかかっている状態なので

あり、私の王子さまが現われたらきっと本来の自由が取り返せるのだ、とその時そのまま信じきったのであった。

 私の母は、私を勉強させるために大変な努力をしてくれた。

 冬になりかけの頃、雪のため乳母車は動かず、さりとて雪ぞ

りにするほどにも雪の積もっていない道の時、また、雨で車で

は行けぬ日は、小学三年、四年生にもなった私を背負い、かば

んやお弁当、そして松葉杖二本を持ち、そのうえに傘をさして、学校に連れていってくれた。

 毎日毎日、三百六十五日の通学が、母の真面目な一途な気持により出来た事であった。

雨の日も、風の日もというが、気候の不順な東北の秋田では、

その上に雪の日も、雪どけのどろどろの道の日も、というのが重なるのである。

お天気の良い日は、二歳年上の兄が小さなリヤカーで連れて行ってくれたが、ずいぶん恥ずかしかったそうである。

                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/06 (Mon) 08:13:34



   道産子、世界ではつらつ(^^)/。

 竹内智香、SB大回転パラレル<復活>2位、高木美帆SS総合3

位(17年ぶり)、カーリング混合D、チーム阿部、Vで、是より世界戦へ、など(^^)/。


 だけど、森友学園の実相は!(^^)!。









 日野西恵美子先生のお話、です。


         満州へ移住


 私が小学校五年生の時、私達一家は何年か前に満州に渡っていた父の再度のすすめで、満州に移住した。

満州では、毎朝洋車(ヤンチョ)という人力車で通学した。

学校の帰りなど、たまに人力車に乗りはぐれ、歩いて帰ろうと

すると、松葉杖をつき鞄をかかえた私をの姿を怪しんで、あち

らからこちらから、仔牛ほどもある野良犬が、「ウウー」とまわりを取り囲み、私を脅かした。

私は、何もわからぬ犬にも私の姿は変なのだと悲しかった。

 私が六年生の時、大東亜戦争が始まった。

 私は、身体障害のためにとて女学校(旧制)に入れてもらえなかった。

これは、私に相当な打撃だった。

この頃、私は創作で人形をよく作り、慰問袋に入れたり、知人に頼まれて作ったりした。

それらの人形が出来上がるたびに私は、何とも言い知れぬほどの幸福感を味わった。

全校生徒五十人という小さな小学校の高等二年の課程を終えた

頃から、私は美しさというものが自分の中に欲しいと思うようになった。

だが黒い松葉杖という十字架を背負った娘には、少しの美しさも残されていないようだった。

私の長兄は北支で陸軍中尉として活躍し、末兄は甲種飛行予科練習生として土浦で、卒業期も近かった。

私達は母に、予科練の歌を歌って聞かせたりして、それとなく母を励まし慰めていた。

 街にはおおきな守備隊が駐屯していたので、日曜日ともなると兵隊さんの姿をよく見かけた。

二人の息子を国のために捧げている父母は、軍服を着た人はみな他人の子とは思えぬ様子であった。

よく兵隊さんを連れてきた。

お休みでも行き場のない兵隊さん達は、一度来るとその次には

何人も友を誘って来たりして、日曜日は家中に兵隊さんの姿が溢れた。

“秋田の小母さん”と慕われて母は、シナ料理を取り寄せたり手

料理をご馳走したり、ビールを抜いたり、満足して兵隊さんが帰られると、いかにもうれし気であった。

「よその兵隊さんにでも食べて貰っていれば、戦地の兄ちゃん

達の口にも廻っていくだろう」そんなことを語り合う父母に、私はそういうものだろうかと、何かふしぎな気がした。

両親はいつも心からの振る舞いを続けるのであった。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/07 (Tue) 08:09:10



アクエリアン様、志恩様、森友学園にエールをおくっていらっしゃいます(^^)/。

「雅春先生を学ぶ会」誌の平成16年5月号見ましたけど、なかなかスゴイ記事ではありました!(^^)!。

その後、採り上げられておらないということは微妙ですけど。

 西田議員もご健在のようです!(^^)!。










 日野西恵美子先生のお話、です。




          父の“生長の家” 


 父の事業は繫栄していた。

母の形容にすれば“朝、戸を開けると吹雪のように、お金が家の中に吹き込んでくる程であった”という。
 
このころ、父は「生長の家」の御教えにふれた。

今の栃木県の横川知事が、父の恩人なのであるが、まだお若い

頃、能代の営林署長をしていられたた頃から父は仕事の上で世

話になり、父はその方向には足を向けて寝ないほど、生涯、恩人として尊敬していた。

当時、満州の林野局長官をしていられて父を援助していてくれた。

その横川さんから常に聞いていた「生長の家」という教えが、

たまたま本屋から次兄が買い求めて来た『生命の實相』地の巻を読む事によって、ぴしゃりと父の中に入った。

若い頃から求め求めて来ても、なかなか把握されなかった心理が、ようやくに得られたのであった。

父は手の舞い、足の踏むところを知らぬ歓喜のさまであった。

 我が家はたちまち「生長の家」一色に塗りつぶされた。
家族を神前に並ばせ、神想観させるのであった。

反抗期の私は何が何やらわからないのに、何日かはおつき合い

したが、我慢がしきれないので、次の部屋で寝そべっていた。

 父は祈り終えて私を見るや、私の頬を打った。

これが、最初で最後の父の殴打であった。

「すべてが、お前のためを思っての事なのだぞ! お前のため

にお父さんがどんなに心配しているのかわからないのか!」と

いう父に、私は心の中に
「神さまがいたら掌にのせて見せてくれればいい、そしたら信じもしましょう」と呟いていた。

この衝突以来、私はもう公然と手を合わせようとはしなかった

し、父もまた、致し方なく私にかまわず祈り続けるばかりであった。

 ラジオで聞く日本の空襲は、ますます苛烈になる一方であ

り、そして戦局は急を告げていたが、私のいる地は、空襲もなく、食糧事情もよく、何一つとして不自由はなかった。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/08 (Wed) 08:30:02




戻り雪?、よく降りますわ(^^♪。

 本流掲示板を貶す人がゐて、困りますね!(^^)!。

本流は、あくまで本流なのにね(^_-)。










 日野西恵美子先生のお話、続きます。



        異郷で迎えた敗戦


 八月十五日、終戦であった。

異郷で迎えた終戦、敗戦である。あらゆる報道機関は杜絶し、日本人はすべての職を奪われた。

ソ連兵が街をうろつき、あちこちで暴行の噂を聞き、婦女子の外出は禁じられた。

 戦わずして守備隊は武装解除されたが、血気盛んな若手な

ぞ、むざむざ武装解除されるのを嫌って、山に立てこもる部隊もあった。

だが、すぐ零下三十度もの冬が来るし、食糧もすぐ尽きるのである。

長く隠れていられるはずはないのに、武装解除をすすめる者には起こって発砲してきたりした。

在留の日本人はトラックにスピーカーをつけて、その人々に下山を呼びかけに毎日山へ行った。

 父はよく声の透る人であった。また、どこにどうしているか

判らぬ音信の切れた二人の息子のことを思いつつ、声涙下る言

葉で、兵隊さん達の短慮をとりなし、呼びかけては廻り、何人もの兵隊さんの下山を促した。

衣類の乏しい時であったが、父は箪笥を開けて何着もの自分の

背広を抱えて走って行き、山を降りてくる憔悴の人々に提供した。

どの人もみな、誰かの子であり、夫であり、父なのであった。

そして、日本のふるさとでは、これらの人を待ちこがれている家族があるのであった。

いずれは、この地を統治している軍の指示通りに動くにもせよ、自由でいられる限りはかくまった。

私の家は兵隊さんでいっぱいになり、わたしは蒲団を出したあとの押入れの上段に寝る始末であった。

 父は、衣服も靴も現地民にはぎ取られ、ボロボロの姿で又、

山から下りてきた人がいるとて最後の背広を持ち出そうとした。

「あなた、この服は内地に引き揚げる時に着ていく服ですから・・・・・」

母は遠慮がちに、服を押えようとしたが、父は聞かなかった。

「お前、もしこれが自分の子供だったら、そんなことを言っていられるか・・・・・」

最後の一着、一足までこうして捧げられた。

 終戦二ヵ月程経った頃だったか、日本人はすべて小学校へ集結するよう命令があった。

その前に男子はすべて一ヵ所に集められ、いずれとも知らぬ地に連れ去られた。

父も次兄も行った。だが兄はひょんな事で助けられ、すぐ帰ってきた。

さあ、それからが我が家の戦争であった。

日本人に集結の命令が下ったと知って、この地の中国人が残された品物を狙って、暴徒と化したのであった。

三人、五人と群なしては日本人の家を襲った。

白昼の強盗なのである。

自分が奪らねば人に持ってゆかれる。

つい先日までの善良な豆腐屋さんも、飯店の主人も小孩(しょ

うはい=子供)も、今日は日本人の財産を、手づかみでとれ

る、またとなきチャンス、とうんかのように押し寄せて来た。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/09 (Thu) 07:57:09




     破邪顕正様、「凡庸」批判、さすがです(^^♪。

 稲田朋美大臣、教育勅語発言、ご立派です(^^♪。













 日野西恵美子先生のお話、あと3回になりました。

ますます盛り上がります(^^♪。




         母の奮闘


 それに対処して、母は家に立てこもり、まさかりを持ち、も

んぺをはいた足をふんばって仁王のように、閉めた炊事場の入口に立ちふさがった。

母はそこを動かずにきびきびと家人に命令を下した。

私は家の中を見渡して当分の食糧品をまとめ、大事な衣類や寝具を束ねた。

それを運ぶのは兄と、女学校二年の妹、小学五年の妹の三人、私の家は手が揃っていた。

軒並みに暴徒に荒され、体一つで命からがら小学校へ逃げる人が多かった。

 母は一歩も退かず、侵入を許さぬ構えであった。

暴徒が炊事場の戸を開けると、母は戸口のそばでまさかりを振

り上げ、その付近にある戸棚や食器ダンス、桶や箱をバリバ

リ、ガラガラとその目の前で叩きこわして、

「負けてたまるものか」「何ということだ。のめのめと渡せるものか」など大音声あげていた。

さすがの暴徒も母の勢いに呑まれて誰も近寄れなかった。

母は思ったという。

「このまさかりで相手に向かったのでは、大変なことになる。

しかし自分の家財を自分で壊す分には、どこにも文句はないのだ」と。

ただその勢いで敵を制したのであった。

某とも物騒な刃物をびゅんびゅん振り廻してる家より、もう人

が逃げて空っぽの家から目ぼしいものを持って行く方が、てっとり早いので、皆、わが家は敬遠した。

 玄関口が集結する小学校に接近している私の家は、兄が妹達

を従えて、次ぎ次ぎと荷物を運び出し、家の中では私が頭をく

るくる回転させながら、捨てて行って良いものと是非必要なものとを選り分けては、まとめ上げ運び手に渡す。

母は阿修羅とまさかりをもち、器物を破壊して裏口を守り、最後まで荷物を見捨てず、運べるだけ運んだ。

やがて治安維持の朝鮮人の警官が、日本人を守護し、母と私はしんがりに小学校に行きついた。

 私の母は母性愛の強い人である。

息子一人と娘三人をこれから生きのばしていくためには、食糧も衣料もうかうかと人手に渡してはいられなかった。

これは、仔をかばって強敵の前に立つ牝獅子の如き、勇気とすばらしい叡智の姿ではないか。

この日の母の立像を私は一生忘れないであろう。

この母のあるところ、この子達は完全に守られ、被われて少しの不安もなく生かされたのである。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/10 (Fri) 08:01:47



    不動明様、教育勅語の十二の徳目、ありがとうございます(^^)/。

この機会に、原文暗誦いたすことに致します、般若心経もすっかり「定着」致しましたし…( `ー´)ノ。







 日野西恵美子先生のお話です。



      次兄の“日本少年隊”結成


 小学校に集結した婦女子四百人余りは何日目かに、何処へ連れ去られたか行方知れなかったそれぞれの父や夫を迎えた。

 調べた結果、軍人ではないので帰されたのか、私の父も髭ぼうぼうで無事に帰って来た。

この地は中共政府の勢力下で一応治安は治まり、身の危険とい

うものも遠のき、街へ職を求めていく人もぼつぼつと出てきた。

 兄は、少年達が学業も得られず、空虚な毎日を送り、いたず

らに右往左往しているのを見かねて、「日本少年隊」を結成

し、毎朝、河原に集まり、体を鍛錬したり、精神講話をしたりして、中学生、小学生の少年達の心の支柱となっていた。

この二十二歳の美男の兄は子供の頃からずば抜けて頭脳明哲であり、人格者であった。

私達はこの次兄が如何に優秀であり、また、親、兄弟姉妹思いであるかをよく聞かされてきた。

応召し、ソ連との国境の守備隊に入隊したが、病い得て家に帰されて来ていたのだが、間もなくの敗戦。

そのまま国境にいたとしたら、一番先に壊滅した部隊にいて恐らく命は無かったろうというのである。

 だが、この兄は引き揚げ後、二十八歳で他界する。

その病床にこの時の少年達が、いつまでも「日本少年隊」時代

の恩愛を忘れずに、やさしい手紙を寄せたり、引き揚げ後入植

した開拓村で作ったものだとて、はるばる九州から黒砂糖を竹の筒に詰めて送ってくれる亀川という少年もあった。

また、穴沢少年は、大学生になってからも、静岡県から何度も

学校の休みには秋田まで見舞いにきてくれて、その純情には私達家族は感動した。

兄の訃報には大きなショックを受けて、何日も学校を休み蒲団をかぶって泣き続けていたという事だ。

指導した期間は一年足らずであったが、感化が大きかったのは後で判った事であった。


                       (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます  ⅩⅢ - 道産子

2017/03/11 (Sat) 08:06:58




     縹様が発言されております(^^♪。

 森友学園、残念でしたが。どうしたことでしょう(^_-)。








日野西恵美子先生のお話、最後です。

ほんの冒頭のエピソードだけでしたが、感動的な物語です。

今もお元気とは思います。








    出征の夫を恋いながら、ひとり死んだ人


 この私達が収容されている小学校のすぐ前に小高い山があった。

「明月溝富士」と呼ばれるこの山は、その麓に住む日本人が権

力をもって平和にこの地を支配している時も、また一朝にして

あらゆる地位も名誉も剥奪されて、一畳に二人の割りで押し込められる生活になっても、山の姿は変わらなかった。

変わらないのが何か不思議な位であった。

 その裾には「しろはと川」と呼ばれるきれいな川が流れていた。

私達はそこで洗濯物をした。

朝鮮の人の真似をして、板と棒をもってゆき、砧で洗濯をした。

トントンと調子良く布を叩きながら、水をみつめ、馴染み深い山をふり仰ぎ、私は思いにふけるのだった。

川は永遠に流れていき、いつまでもここにあるだろう。

水に浮かべた思いというのは、形としては消えて行くのだが、

心としてはこの川と同じく永遠にここにあって消えぬものではなかろうか。

また、流れる水の玉というのは忽ちに目の前をすぎるが、過ぎ

去らぬものが川の奥にあるのでなければ、この「しろはと川」は成り立たぬのではないか。

どこから発してどこへ流れていくかは知らぬ、この川の流れるものを川とよぶのか、流れぬもの、それが川なるものか。

十八歳のころの思索である。

とりとめもなかったが、何か「永遠なるもの」にしきりに憧れが湧いた。

 自然の姿のなかには”永遠”が片鱗をのぞかせる。

しかし“永遠“そのものではない。

この「明月溝富士」だって原爆には一たまりもないであろう。「しろはと川」だってそうだ。

このちっぽけな私の心を惹いて止まない悠久なるもの、永遠なるものは何処に見出せば良いのか。

 ばたばたと人は病いに倒れ、そして親しいなつかしい人も多くは死んで行った。

死とは何なのだろうか。

沖縄から来ていた美しい屋良の小母さま、出征して行かれたご

主人を恋いつつ、発疹チフスと栄養失調でひとり亡くなられた。

病んでいると聞いて見舞いに行った私と妹は、むしろを垂れて

風を防いでいる掘立小屋の隔離室の前で胸いっぱいになり佇んでいた。

あんな美しい優しい人が死にそうだというのに、何をして上げるという事も出来なかった。

屋良の小母さまが亡くなられて一週間後、ひるはじっと動かず

人目を逃れ、夜になっては歩いて、か弱い小母さまを案じて屋

良の小父さまが、名月溝のこの地にようやく辿りつかれたのだった。

何という皮肉であろう。

山の上に土葬された小母さまの墓の前に立ちつくし、屋良の小

父さまは二人でよく歌っていた歌「ふるさと」を
ひとりで唱われたという。


   兎追いしかの山

   小鮒釣りしかの川

           ・・・・・・
 

沖縄のふるさとはアメリカに占領されていた。


                  (この段、終り)

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