伝統板・第二
日本精神 - 伝統
2016/11/21 (Mon) 03:47:44
敬愛と従順は《まこと》である。
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>
仲のよい心が日の丸の心 - 伝統
2017/02/03 (Fri) 05:01:45
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より
争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも
嬉しいとイエスは言った。
仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。
争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。
『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて
病気が治らないとかこっている人はないか。
あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神は《まこと》である。《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。○(まる)は和解のしるしである。
まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。
なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。
誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。
心の思いと、物の負債とにかかわらず、借りものがあったら利息をつけて返すこと。
神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。
もう誰にも負債はありませんと、おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。
人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。
もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。
わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。
ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。
仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれるものではない。
人が人と仲よしになれないのは、幸福というものはただ「心の愉快である」ことだという
かくも平明な真理に眼を閉じていて、幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、
物の多いということにあると考えたり、虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。
傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。
放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。
隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。
<感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>
結び合う心、共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心 - 伝統
2017/02/04 (Sat) 04:50:26
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月4日)」より
いくらと定(さだ)めた自動車賃をこちらから進んで余計出した時には実に気持ちがよい。
なんだか自分が大きくなったような気がする。
そのくせ自分は出しただけ余計に減っているのである。
この事実はなにを語るか、物質的にかえって減りながらも、かえって「自分」というものが
いっそう大きくなった実感がするという事実を考えてみるとおもしろい。
この事実は「自分」というものが「物質」でないことの証拠である。
「上衣(うわぎ)を着る者には下衣(したぎ)をも与えよ。
一里の公役を強いられなば二里を行け」と言ったイエスの言葉には、
人間が「物」でないという実感がたたえられている。
この話をわたしが堂ビルの清交社で講演したとき、
脱肛痔が治ったといって礼にわざわざ来られた人がある。
それは岩村○太郎という人であった。
夫人が津田学塾出身のクリスチャンで、常に良人に戒律を強制していた。
こうしていつも圧迫されつつ岩村さんは、いたたまらない気持でいたのである。
脱肛痔はいたたまらない気持から起こる。
奥様が一里の公役を強いる時には二里を行くというような、気前のよい心になったとき、
いたたまらない家庭の感じが解消されるのだと思う。
この人は今どうしているか。
鳴尾で明治会という日本精神の団体をつくっていると噂を聞いたが、
一度会いたいものだと思っている。
一度でも逢った人には別れたくない。
切る心は切られる心である。
つながれた縁(えにし)は離したくない。
逢う心、離れぬ心、つながり合う心、結び合う心、
共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心である。
人間はどうして大同団結しないのか不思議である。
<感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>
四方拝の精神こそ日本精神である - 伝統
2017/02/20 (Mon) 05:05:46
*「生長の家」(昭和16年10月2日の法語)より
日本民族は何事にも神々しき心持を持っていたのである。
無明(まよい)や執着が國を生んだのではなく、神が國を生んだと信じていたのである。
いたるところに神を観たのであって、八百萬神々の思想は、
その到る処に神を観たところの日本民族の聖なる心の反映である。
神を観るものは、神の心が宿っているからである。
他を神として礼拝し得る者は、自分自身の中(うち)に神性が目覚めているからである。
自分の中に『光』の感覚の起らない者は、外界に『光』があっても見ることが出来ない。
自分の中に『赤い色』の感覚が起らない者には、外界に『赤い花』が咲いていても、
赤い花だとは感じ得ない。
到るところに八百萬神々を見ることが出来た日本民族は、
自分の中に神性は目覚めていたからである。
即ち自分自身が『神』であるからである。
だから古代日本人はみづからミコトと謂い、彦〈日子〉と云い、姫〈日女〉と称した。
自己神性の自覚である。自分が神性を自覚したから、萬物にそのまま神性を観ることが出来、
萬物に八百萬神々を見たのである。
神性の自覚は、理論では説くことは出来ない。
釈迦無尼佛も四十余年間説法したけれども、
一字不説で、一字も説いたことはないと云われている。
本当のことは言説を超えている。
説くことが出来ない。
ただ行ずるだけである。
萬物を神であるとして拝した。
その四方拝の精神こそ日本精神である。
<感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>
『今』と『久遠』との一致、散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神 - 伝統
2017/03/06 (Mon) 04:48:54
*「生長の家」(昭和16年10月3日の法語)より
みる人はなきものにしてしづがやの籬の花は咲きならひけむ
畏くも此の明治天皇御製の中(うち)にあらわれている
「しづがやの籬(まがき)の花」の心が日本精神である。
見られるために何事をも成すのではない。
すこしも衒うこころもなければ、人に見せびらかす心もない。
ただありのままに、‘いのち’のありのままに咲いているのである。
それは、説教するような心でもなく、他に打ち勝ちたい心でもない。
争う心でもない。絶対が其処にあらわれている。
刻々瞬々が無限の‘いのち’である。
明日炉に投げ入れられようと、
賎(しづ)が屋のまがきの花は『今』絶対生活を生きているのである。
『今』久遠の生命(いのち)を生きているのである。
一字不説である。しかも久遠現成(げんじょう)である。
久遠の生命が『今』現に成就しているのである。
同じく四十四年の御製に ――
なつかしき朧月夜のかげふみてたたずむ袖にちる櫻かな
単に叙景の御歌としてもまことに素晴らしく拝せられるのでありますが、
『散る櫻』が散る瞬間に『久遠の生命』を生きているのであり、その瞬間と久遠との一致、
『今』と『久遠』との現成をいみじくも捉えたまうて表現したまうたのであります。
この『今』と『久遠』との一致、
散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神なのであります。
<感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>
『老即新生』・『死即生』の把握が日本精神 - 伝統
2017/03/22 (Wed) 05:03:30
*「生長の家」(昭和16年10月4日の法語)より
花は散る。人は現世の船を乗り降りするけれども、
そこに散らないものがあり、乗り降りしないものがある
―― そこに『久遠不滅』のものがあることを悟ることが必要なのである。
無常に常(じょう)に観、うつろな姿が不壊(くだけない)なるものを見るのが、
武士(もののふ)の、もののあはれを知る心である。
『古池や蛙跳び込む水の音』
波紋は消え、蛙は去る。
しかしながら天地がその静寂の中に久遠の音を立てているのである。
瞬間と久遠との一致である。
明治天皇御製に宣わく
ちる花をのせてかへりぬ渡舟むかひの岸に人はおろして
さむしとてこもるべしや枝くちし老木のうめも花さきにけり
人間不老不死である。老衰と復古と新生とが
『一』になっているところの『生命』を把握したまいし
御表現にましますのである。
『老即新生』の把握、死即生の把握が日本精神である。
日本に於ては『死』は単なる『死』ではない。〈随って『死』は無いとも云い得る〉
『死』することが『生』きることである。
『生命を得んとする者は生命を失い、生命を捐つるものは生命を得ん』とイエスも云っている。
日本神随らの道は宇宙の道であるから、何処へ往っても、聖賢の教えは『一』である。
底に足をついていては泳ぐことは出来ぬ。
足を思い切って離したとき浮く。
<感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>
日本神随(にっぽんかんなが)らの道 - 伝統
2017/04/11 (Tue) 04:40:13
*「生長の家」(昭和16年10月1日の法語)より
日本神随(にっぽんかんなが)らの道は、
宇宙と與(とも)に立つ道である。
一人の人間が思索によって造り上げた理屈
でもなければ哲学でもない。
宇宙と與(とも)に立ち、宇宙にミチる精神が、
そのまま日本民族を通してあらわれたる道である。
随ってそれは日本民族精神であるとともに宇宙精神である。
神の‘そのまま’のみこころであり、
宇宙にミチているから道とも称するのである。
それは宇宙にミチているのであるから、
無論外国人の生命の中(うち)にも満ちているのであるけれども、
大八州即ち東洋の日本列島は、伊邪那岐伊邪那美命の
正しき天地・陽陰の結びによって創造された國であるから、
その國に生れた民族は最も、宇宙にミチが正しく宿っているのである。
そこで日本民族が‘そのまま’の心になるとき、
其処に最も完全に『道』があらわれる。
それは『神さながらの道』であるから、『神(かん)ながらの道』
と云うのであるが、同時に日本民族の‘そのまま’の精神であるから、
日本民族精神とも、また簡単に日本精神とも云うのである。
論(い)うまでもなく、外国民族にも、その精神はやどっている
のであるから、‘そのまま’の心になったときには
外国人でも日本精神は理解出来る。
単に理解出来るだけではなく、日本精神に成り得るのであり、
それが理解出来、日本精神に成り得たとき、
六合(りくごう)一都・八絋一宇の神武天皇様の御理想が
実現するのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346
<感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2017/05/27 (Sat) 04:11:04
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2017/06/02 (Fri) 04:46:52
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>
”清明心”が日本精神 - 伝統
2017/06/20 (Tue) 04:50:48
*『真理入門25章』(P249~250)より
《 ”神洲日本” そして ”神洲清潔の民”ということ》
日本人は人間のいのちが”神の子”のいのちであることを知っていたのと同時に、
日本の国も、神が建てた国で、神から 頂いた国だというれ信念をもっていました。
それで日本を ”神洲”といったのであります。
支那から漢字が伝わって来ましたら、わが国の名前(国号といいます)を「日本」と
漢字で書いて、「やまと」とか「ひのもと」とか読むことにしました。
それは『古事記』につたえられたところによりますと、日本の国は人間が計画して
建てた国でなくして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と いう御名前の
”宇宙を照らしたもう神様”が、
「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)は世々わが子孫(うみのこ)の
王(きみ)たるべき地(くに)なり」
と、国の根本的設計を示されまして、その設計にしたがって
神武天皇さまが天皇中心の国をお建てになったのが国の始めであります。
だから日本国は ”神洲”すなわち ”神国”なのであります。
そして、日本人は、この日本国を「日本神国」「日本神国」と呼んでいたのであります。
「神国」に ”神の子”たる日本人が天照大御神の子孫である天皇さまを中心にして
住んでいる清らか国が日本国ほんらいの姿だったのであります。
それで日本人のことを「神洲清潔(しんしゅうせいけつ)の民」といいました。
それなのに西洋の科学文明が入って来て〝国〟というのは、鉱物で山来ている
土の塊だにぐらいに考えて、何も尊いことも何もないと考えはじめました。
《 ”善”の代りの語に ”清明心”といった》
日本人は ”神洲清潔の民”でありますから、
日本人ほど清潔を尊ぶ民族は他にないのであります。
『古事記』にある神話の中には天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまと、
須佐之男命(すさのおのみこと)さまとが、「受霊(うけひ)」といって、
互いの霊を取り交(かわ)して、どちらが善かその善悪を定める場面が描かれておりますが、
その時に、「心が善い」という言葉の代りに天照大御神は
「汝(おまえ)の心の清明(あか)きことはどうしたらわかるか」と仰せられ、
須佐之男命は「わが心が清明き故にわたしの魂から、やさしい女の子が生まれた」
といっていられます。
善とか悪とかいう言葉を使わないで、心が清く明らかで陰気に曇らないのを
古代の日本民族は〝善〟であるとしたのでありまして、近代人の考えているような、
「こうするのが、悪である」とか「こんな行ないが善である」とかいって、
事こまかく一々の行ないを定めるのではなく、清く明らかな
”清明心(せいめいしん)”をもった者を ”善”であるとしたのが
日本人だったのであります。
いちいち ”これは善、これは悪”と分類して、こまかく分けて研究するのは
科学的精神でありますが、”科”という字は「枝(えだ)」という意味の字で、
科学をこまかく枝を分けて分科的に分析して研究する、「科(えだ)の学」であります。
日本人は ”善悪”といわずに ”清明心”といったところに、
まことに一つにまとめる日本人の心があらわれているのであります。
<感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>
『今』の一瞬に『久遠なるもの』ものを見る精神が日本精神 - 伝統
2017/07/09 (Sun) 04:59:38
*「生長の家」(昭和16年10月3日の法語)より
みる人はなきものにしてしづがやの籬の花は咲きならひけむ
畏くも此の明治天皇御製の中(うち)にあらわれている
「しづがやの籬(まがき)の花」の心が日本精神である。
見られるために何事をも成すのではない。
すこしも衒うこころもなければ、人に見せびらかす心もない。
ただありのままに、‘いのち’のありのままに咲いているのである。
それは、説教するような心でもなく、他に打ち勝ちたい心でもない。
争う心でもない。絶対が其処にあらわれている。
刻々瞬々が無限の‘いのち’である。
明日炉に投げ入れられようと、
賎(しづ)が屋のまがきの花は『今』絶対生活を生きているのである。
『今』久遠の生命(いのち)を生きているのである。
一字不説である。しかも久遠現成(げんじょう)である。
久遠の生命が『今』現に成就しているのである。
同じく四十四年の御製に ――
なつかしき朧月夜のかげふみてたたずむ袖にちる櫻かな
単に叙景の御歌としてもまことに素晴らしく拝せられるのでありますが、
『散る櫻』が散る瞬間に『久遠の生命』を生きているのであり、
その瞬間と久遠との一致、『今』と『久遠』との現成を
いみじくも捉えたまうて表現したまうたのであります。
この『今』と『久遠』との一致、
散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神なのであります。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346
<感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>
『老即新生』の把握、死即生の把握が日本精神である - 伝統
2017/07/22 (Sat) 04:29:40
*「生長の家」(昭和16年10月4日の法語)より
《散らないものを把握する日》
花は散る。
人は現世の船を乗り降りするけれども、
そこに散らないものがあり、乗り降りしないものがある
―― そこに『久遠不滅』のものがあることを悟ることが
必要なのである。
無常に常(じょう)に観、
うつろな姿が不壊(くだけない)なるものを見るのが、
武士(もののふ)の、もののあはれを知る心である。
『古池や蛙跳び込む水の音』
波紋は消え、蛙は去る。
しかしながら天地がその静寂の中に
久遠の音を立てているのである。
瞬間と久遠との一致である。
明治天皇御製に宣わく
ちる花をのせてかへりぬ渡舟むかひの岸に人はおろして
さむしとてこもるべしや枝くちし老木のうめも花さきにけり
人間不老不死である。
老衰と復古と新生とが『一』になっているところの『生命』を
把握したまいし御表現にましますのである。
『老即新生』の把握、死即生の把握が日本精神である。
日本に於ては『死』は単なる『死』ではない。
〈随って『死』は無いとも云い得る〉
『死』することが『生』きることである。
『生命を得んとする者は生命を失い、
生命を捐つるものは生命を得ん』
とイエスも云っている。
日本神随らの道は宇宙の道であるから、
何処へ往っても、聖賢の教えは『一』である。
底に足をついていては泳ぐことは出来ぬ。
足を思い切って離したとき浮く。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346
<感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>
日本の精神は風呂敷精神 - 伝統
2017/08/09 (Wed) 04:18:46
*新版『真理』第3巻(P232~233)より
日本民族は、人類互に相和そうと云う理想をもって、国をはじめたのでありまして、
「大和(やまと)」の国号(こくごう)がそれを示しているのであります。
これが日本建国の精神なのであります。
「形は心をあらわす」と云う諺(ことわざ)がありますが、日本人の発明した
風呂敷を見ればわかります。風呂敷はどんな形のものでも、その形を毀(こわ)
さずに一緒に包んでしまうことが出来るのであります。
他の国を毀(こわ)して併呑(へいどん)するのは覇道(はどう)であって、
日本の皇道(こうどう)ではありません。
日本の精神は風呂敷精神であります。
総(すべ)ての物を毀(こわ)すことなく一つに包んで「人類」と兄弟となり
一家族となるのを建国の理想としているのが日本民族であります。
(中略)
「人類は互に一つだ」と云う大和(だいわ)の精神が日本精神でありますから、
日本の建国の理想は「愛」だと云うことが出来るのです。
「愛」と云うのは、どの人種も、元は一つと云う自他一体の自覚であります。
自分と他(ひと)とは形の上では別々であっても、生命は一体だと云う自覚です。
「私はあの人を愛する」と云うことは、あの人と私とは本来一つである。
そこで彼の悦びを私の悦びとし、彼の悲しみを私の悲しみと感ずる、
これが「愛」であります。
それは、或は男女の恋愛のようにも現われ、
或は父母親子の愛と云うような関係にも現われ、
或は家族が一体であると云う感じの家族愛と云うものになって現われ、
或は国を愛する愛国心ともあらわれ、或は人類を愛する人類愛ともなって、あらわれます
吾々はこれらの色々の愛を、その内の一つでなく、みなことごとく調和した相(すがた)
で愛し得(う)るように努力するとき、偏った人間ではなく「全人(ぜんじん)」
としての完全な人間の魂がみがかれるのであります。
<感謝合掌 平成29年8月9日 頓首再拝>
日本民族の精神を象徴するもの - 伝統
2017/08/26 (Sat) 04:31:27
*新版『真理』第3巻(P241)より
日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれているのを一つに綜合(そうごう)する
ところの天分を持っているのでありまして、日本の国の名前を「大わ(やまと)」
と名づけられたということも、
「や」というのは「弥々(いよいよ)」と云う字が当てはまるので、
いよいよ多いという意味であります。
「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。
弓で射る「的」を「まと」というのも、同じことでありまして、
中心に「纏まって」いる姿を現わしています。
いろいろに分かれていても、その悉(ことごと)くが一つに纏まるべきものであって、
決してバラバラのものは存在しない、宇宙は一つである、世界は一つである
というところのその人生観が、古代の日本民族を通して現在の日本民族に至るまで
ずっと貫き通しているところの民族的信念とでもいうべきものなのであります。
<感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>
日本精神は宇宙精神である - 伝統
2017/09/24 (Sun) 05:01:15
*「生長の家」昭和16年10月1日の法語)より
《日本民族の使命を知る日》
日本神随(にっぽんかんなが)らの道は、
宇宙と與(とも)に立つ道である。
一人の人間が思索によって造り上げた理屈
でもなければ哲学でもない。
宇宙と與(とも)に立ち、宇宙にミチる精神が、
そのまま日本民族を通してあらわれたる道である。
随ってそれは日本民族精神であるとともに宇宙精神である。
神の‘そのまま’のみこころであり、
宇宙にミチているから道とも称するのである。
それは宇宙にミチているのであるから、
無論外国人の生命の中(うち)にも満ちているのであるけれども、
大八州即ち東洋の日本列島は、伊邪那岐伊邪那美命の
正しき天地・陽陰の結びによって創造された國であるから、
その國に生れた民族は最も、宇宙にミチが正しく宿っているのである。
そこで日本民族が‘そのまま’の心になるとき、
其処に最も完全に『道』があらわれる。
それは『神さながらの道』であるから、『神(かん)ながらの道』
と云うのであるが、同時に日本民族の‘そのまま’の精神であるから、
日本民族精神とも、また簡単に日本精神とも云うのである。
論(い)うまでもなく、外国民族にも、その精神はやどっている
のであるから、‘そのまま’の心になったときには
外国人でも日本精神は理解出来る。
単に理解出来るだけではなく、日本精神に成り得るのであり、
それが理解出来、日本精神に成り得たとき、
六合(りくごう)一都・八絋一宇の神武天皇様の御理想が
実現するのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346
<感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>
日本 神ながらの道 - 伝統
2018/05/27 (Sun) 03:48:38
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 平成30年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2018/06/02 (Sat) 03:06:33
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2018/11/21 (Wed) 04:22:56
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 平成30年11月21日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2019/05/27 (Mon) 04:37:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 令和元年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2019/06/02 (Sun) 03:59:54
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 令和元年6月2日 頓首再拝>
清明心 - 伝統
2019/11/03 (Sun) 04:02:04
*「光明道中記」(11月3日《明治節、清明心の日》)より
【至上の愛は神と偕なる時おのずから出来る愛だ。(『生命の實相』第十一巻)】
さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり
明治天皇とこの御製を拝誦し奉る毎に朝日の如き無我の心境が思われるのである。
何故(なにゆえ)朝日はあんなにさわやかなのだろうか。
それは新たに生まれたからである。
手垢がついていないからである。
心に手垢がついていないと云うことが、
こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。
太陽には我はない。そのままである。従順である。
さしのぼる時がきたとき差しのぼり、沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。
落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。
烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕(おご)らず、
去って悲しむと云うことがないのである。
而も一切衆生として、一物(もつ)として、その恩恵を受けないものはない。
まことに広大無辺なる姿である。
吾々の《いのち》は太陽より来る。
吾等太陽の如く生きんかな。
吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。
どんな時にも光のみを見るのが日本人である。
よろこべ、勇み、楽しみ、潔(きよ)く前進せよ。
・・・
<参考Web>
(1)光明掲示板・第一「もみじ輝く (3060)」内子記事
明治天皇御製~「もみじ」 (3146)日時:2012年11月03日 (土) 05時02分
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=610
(2)光明掲示板・第三「明治天皇 (846)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=181
(3)《明治節唱歌 昭和3年》
作詞 塩沢周安 作曲 杉江修一
一、亜細亜の東日出づる処 聖の君の現れまして
古き天地とざせる霧を 大御光に隈なくはらい
教あまねく道明らけく 治めたまえる御代尊
二、恵の波は八洲に余り 御稜威の風は海原越えて
神の依させる御業を弘め 民の栄行く力を展ばし
外つ国国の史にも著く 留めたまえる御名畏
三、秋の空すみ菊の香高き 今日のよき日を皆ことほぎて
定めましける御憲を崇め 諭しましける詔勅を守り
代代木の森の代代長えに 仰ぎまつらん大帝
you tube
→ https://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50
・・・・
清明心については、次のWebも参考になります。
(1)Web:日本人が理想とする心、清き明き心
→ http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/14644839.html
(2)Web:清明心
→ http://1gen.jp/GDOH/KOKUTAI/KOKUTAI/43.HTM
<感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2019/11/21 (Thu) 06:47:21
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 令和元年11月21日 頓首再拝>
大和の道 - 伝統
2019/12/09 (Mon) 04:15:35
*『叡智の断片』(P4~5《静寂の生活》)より
道は絶対である。
絶対には対立がない。
道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。
一切の対立がなくなることである。
一切の対立がなくなるから
一切に和解し、一切を敬び、一切が清まり、一切が寂である。
これが茶道の静寂であり、そのまま清まる日本の道である。
対立する争いをもって生活するが如きは
日本の道ではなかったのである。
道は『寂』であり、動くものなくして動いており、
その動くや必ず萬物を生かすのである。
対立のなき動きは全機であり、
無にして一切であり、
〇(ゼロ)であるから一切と調和するのである。
それを大和の道と言う。
構える心がないから、事を構えず、
事を構えないから事が起らないのである。
構えることがなければそのままとなり、
其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから
善きことのみが現れる。
『私』のはからいがないから、
全体の動きとピッタリと『一』である。
全機である。全即一であり、一即全である。
本当に明るいというのは、
全然対立がない『無』になり、無構えになって、
天地と一つにとけあって『寂』となることによって
自然に得られる明るさでなければならない。
真の明るさは構えた明るさではない。
そのまま天地の明るさがあらわれたとき、
真にあかるくなり、立ち対うところが悉くあかるくなる。
( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17348969.html )
<感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>
さわやかな精神こそ日本精神である - 伝統
2020/01/05 (Sun) 03:51:56
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より
われわれを生かすのは明るい思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。
生命は暗黒の中にも光を見る。
暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
光の方へ光の方へと向いていく。
そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
生命には光が必要なのである。
光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。
再び言う。生命には光が必要なのである。
新しい年には新しい心が生まれる。
元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。
他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。
元旦からまず始めよう。
それは明るい心を持つということである。
一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。
ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
ただそれだけ一つのことである。
これだけのことならばわたしにもできると思う。
明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
何事が起こっても悲しまぬということである。
何事が起こっても失望せぬということである。
何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。
去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。
天地一新。
悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
それはすべて一新していく姿である。
<感謝合掌 令和2年1月5日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2020/05/27 (Wed) 04:22:22
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 令和2年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2020/06/02 (Tue) 04:44:26
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 令和2年6月2日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2020/11/21 (Sat) 04:41:03
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 令和2年11月21日 頓首再拝>
日本の哲学は包容帰一である - 伝統
2021/01/27 (Wed) 02:42:08
*「光明道中記」(1月27日)より
~久遠皇位を胆(きも)に銘ずる日
【火にも焼けざる皇位の久遠無窮性を立証せんが為に、
火を着けて皇子をお生みになったのです。 (『驀進日本の心と力』)】
生命(いのち)のひとつ流れの実相を把握するとき、
眼の色は異り、皮膚の色は異るとも、八紘は一宇であり、一家庭であり、
すべての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが出来るのである。
ナチスの血の哲学、民族の哲学は
ゲルマン民族の栄えのために把握されたる哲学であった。
日本の哲学はそんな狭い精神でないのである。
東洋民族よ聯合せよ! と云う東洋民族の哲学でもないのである。
それはまだ血を見ている。
血を見るのは皮膚の色を見ることであり、骨格を見ることであり、
人種の差別を見ることである。
人と人とを分割することである。
外国の哲学はどんなに優れていても結局は分割に落着く。
日本の哲学は包容帰一である。
ヒトとは霊止(ひと)であり「理念止まる」である。
全世界が一家庭たる理念降下し、義に於て君臣、
理念に於て陛下の赤子である実相を知るとき、
何人種と言えども既に日本人である。
「日本を守る会」は他国と対立して、小さい現象日本国を守るのではない。
天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。
<感謝合掌 令和3年1月27日 頓首再拝>
赦し、仲よく、日の丸の心を持つ - 伝統
2021/02/03 (Wed) 04:43:50
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より
争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも
嬉しいとイエスは言った。
仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。
争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。
『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて
病気が治らないとかこっている人はないか。
あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神は《まこと》である。《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。○(まる)は和解のしるしである。
まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。
なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。
誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。
心の思いと、物の負債とにかかわらず、借りものがあったら利息をつけて返すこと。
神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。
もう誰にも負債はありませんと、おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。
人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。
もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。
わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。
ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。
仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれるものではない。
人が人と仲よしになれないのは、幸福というものはただ「心の愉快である」ことだという
かくも平明な真理に眼を閉じていて、幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、
物の多いということにあると考えたり、虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。
傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。
放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。
隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。
<感謝合掌 令和3年2月3日 頓首再拝>
共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心である - 伝統
2021/02/04 (Thu) 04:51:31
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月4日)」より抜粋
一度でも逢った人には別れたくない。
切る心は切られる心である。
つながれた縁(えにし)は離したくない。
逢う心、離れぬ心、つながり合う心、結び合う心、
共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心である。
人間はどうして大同団結しないのか不思議である。
<感謝合掌 令和3年2月4日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2021/05/27 (Thu) 04:45:50
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 令和3年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2021/06/02 (Wed) 02:53:05
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 令和3年6月2日 頓首再拝>
明治節、清明心の日 - 伝統
2021/11/03 (Wed) 05:07:15
*「光明道中記」(11月3日)より
【至上の愛は神と偕なる時おのずから出来る愛だ。(『生命の實相』第十一巻)】
さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり
明治天皇のこの御製を拝誦し奉る毎に朝日の如き無我の心境が思われるのである。
何故(なにゆえ)朝日はあんなにさわやかなのだろうか。
それは新たに生まれたからである。
手垢がついていないからである。
心に手垢がついていないと云うことが、
こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。
太陽には我はない。そのままである。従順である。
さしのぼる時がきたとき差しのぼり、沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。
落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。
烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕(おご)らず、
去って悲しむと云うことがないのである。
而も一切衆生として、一物(もつ)として、その恩恵を受けないものはない。
まことに広大無辺なる姿である。
吾々の 《いのち》 は太陽より来る。
吾等太陽の如く生きんかな。
吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。
どんな時にも光のみを見るのが日本人である。
よろこべ、勇み、楽しみ、潔(きよ)く前進せよ。
<感謝合掌 令和3年11月3日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2021/11/21 (Sun) 02:27:04
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 令和3年11月21日 頓首再拝>
共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心 - 伝統
2022/02/04 (Fri) 04:52:57
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月4日)」より抜粋
一度でも逢った人には別れたくない。
切る心は切られる心である。
つながれた縁(えにし)は離したくない。
逢う心、離れぬ心、つながり合う心、結び合う心、
共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心である。
人間はどうして大同団結しないのか不思議である。
<感謝合掌 令和4年2月4日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2022/05/27 (Fri) 07:15:13
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、
いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 令和4年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2022/06/02 (Thu) 09:21:23
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 令和4年6月2日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2022/11/21 (Mon) 07:39:10
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 令和4年11月21日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2023/05/27 (Sat) 09:59:26
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も
含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、
いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 令和5年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2023/06/02 (Fri) 10:07:42
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 令和5年6月2日 頓首再拝>
学校では教えない皇室と日本精神 - 伝統
2023/08/02 (Wed) 10:10:15
学校では教えない皇室と日本精神~前編~
むすび大学チャンネル( 2022/02/03 )小名木善行
https://www.youtube.com/watch?v=hYij6gMXDkc
学校では教えない皇室と日本精神~後編~|
むすび大学チャンネル( 2022/02/04 )小名木善行
https://www.youtube.com/watch?v=R3Kht1XxBkg
<感謝合掌 令和5年8月2日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2023/11/21 (Tue) 10:09:40
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 令和5年11月21日 頓首再拝>
日本精神 - 伝統
2024/05/27 (Mon) 12:29:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より
偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。
太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。
日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。
仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。
<感謝合掌 令和6年5月27日 頓首再拝>
日本精神(大和の心) - 伝統
2024/06/02 (Sun) 11:23:12
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より
視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。
それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。
日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。
一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。
先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。
<感謝合掌 令和6年6月2日 頓首再拝>
清明心 - 伝統
2024/11/03 (Sun) 11:04:33
*「光明道中記」(11月3日《明治節、清明心の日》)より
【至上の愛は神と偕なる時おのずから出来る愛だ。
(『生命の實相』第十一巻)】
さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり
明治天皇のこの御製を拝誦し奉る毎に
朝日の如き無我の心境が思われるのである。
何故(なにゆえ)朝日はあんなにさわやかなのだろうか。
それは新たに生まれたからである。
手垢がついていないからである。
心に手垢がついていないと云うことが、
こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。
太陽には我はない。そのままである。従順である。
さしのぼる時がきたとき差しのぼり、
沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。
落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。
烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、
来って驕(おご)らず、去って悲しむと云うことがないのである。
而も一切衆生として、一物(もつ)として、
その恩恵を受けないものはない。
まことに広大無辺なる姿である。
吾々の 《いのち》 は太陽より来る。
吾等太陽の如く生きんかな。
吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。
どんな時にも光のみを見るのが日本人である。
よろこべ、勇み、楽しみ、潔(きよ)く前進せよ。
<感謝合掌 令和6年11月3日 頓首再拝>
日本精神は「量」より「質」を尊ぶ - 伝統
2024/11/21 (Thu) 11:33:54
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月21日)より
仕事ができるばかりが能ではない。
長上に対する敬愛と従順とが失われたら価値の大半は失われる。
仕事は「量」であり、敬愛と従順は「質」である。
「質」が「量」より尊ばれるのは当然なことである。
それを逆に、「量」を「質」より尊んだのが「赤」の思想であった。
日本精神は「量」より「質」を尊ぶのである。
仕事は「量」で測られる。
それは現象的であり、空間的であり、形で測られる。
敬愛と従順は《まこと》である。
《まこと》は「形」で測られないが、「形」で測られたるものよりも
高位に置かれるものは《まこと》である。
<感謝合掌 令和6年11月21日 頓首再拝>