伝統板・第二

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教育勅語① - 伝統

2015/04/11 (Sat) 04:38:10

*光明掲示板・伝統・第一「教育勅語 (101)」からの継続です。
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=60

・・・


(現行小学三年生用)第一期 尋常小学修身書 第三学年用

(1)第一 「皇后陛下」

   皇后陛下は、病院に御出になって、怪我をした軍人や、病気になった軍人を、
   お見舞いになりました。

   皆々、たいそう、ありがたがりました。

(2)第二 「忠義」

   明治十年に、鹿児島の賊が、熊本の城を囲んだ時、
   城の中からは、こちらの様子を、遠くの官軍に、知らせようと、思って、
   その使いを、谷村計介に、言いつけました。

   計介は、色々の難儀をして、とうとう、その使いをし遂げました。

(3)第三 「祖先」

   徳川吉宗は、家康をまつってあるお宮に参る日には、
   どんなに、雨が降っても、きっと参りました。

   また、ある年、家康の誕生日に、家来を集めて、祖先の手柄を、話して聞かせました。

   祖先を、尊ばねばなりません。

(4)第四 「孝行」

   二宮金次郎は、小さい時に、わらじを作って、お父さんの手助けをしました。

   お父さんが亡くなってからは、縄をなったり、薪を切ったりして、それを売って、
   お母さんの手助けをし、また、弟を養いました。

   金次郎は、孝行な子であります。

   孝は、徳のもと。

(5)第五 「勤勉」

   金次郎は、十二の時、土手の普請に出ました。

   力が足らないので、他の人の世話になりましたから、
   わらじを作って、その人達に、贈りました。

   その人達が、休んでいる間にも、自分は、休まずに、働きました。

(6)第六 「学問」

   金次郎は、叔父の家にいました時、
   自分で、菜種を作って、種油と、取り替えて、毎晩、勉強しました。

   叔父は、「本を読むより、家の仕事をせよ。」と、言いましたから、
   金次郎は、言いつけられた仕事を、済ました後で、勉強しました。

   艱難は、人を玉にす。

(7)第七 「自営」

   金次郎が、自分の家に、帰りました時、その家は、荒れ果てていました。
   金次郎は、それを、自分で、直して、住みました。

   金次郎は、精出して、働いて、しまいには、偉い人になりました。

(8)第八 「忍耐」

   イギリスの大将、ネルソンは、フランスの艦隊を、二年余り、囲んでいました。
   その間、雨が降っても、風が吹いても、少しも、油断せず、
   敵の様子に、気をつけていました。
   そして、しまいに、敵を打ち破りました。

   何事をするにも、辛抱が、大事であります。

(9)第九 「勇気」

   後光明天皇は、雷がお嫌いなのを、直そうと思し召して、
   雷が、激しくなった時、わざと、みすの外に、出て、座って御出になりました。
   それからは、雷のお嫌いなことが、お直りになりました。

   勇気を、養わねばなりません。

(10)第十 「物事に慌てるな」

   日本武尊が、蝦夷を御征伐に、御出になる途中で、
   悪者どもが、野に、火をつけて、尊を焼き殺そうとしました。

   尊は、ちっとも、慌てず、こちらからも、火をつけて、
   悪者どもに、お勝ちになりました。

   何事にも、慌ててはなりません。

(11)第十一 「難儀をこらえよ」

   日本武尊は、色々の御難儀に、お遭いになっても、
   よく、ご辛抱なさって、悪者どもを、御征伐になりました。

   何事をするにも、難儀をこらえねばなりません。

(12)第十二 「正直」

   ワシントンは、庭に遊びに出て、
   お父さんの、大事にしていた桜の木を、切り倒しました。

   「これは、誰が切った。」と、お父さんが、尋ねました時、
   「私が切りました。」と、隠さずに、答えて、詫びました。

   お父さんは、ワシントンの正直な事を、たいそう、喜びました。

(13)第十三 「心の咎めることをするな」

   この女の子は、お母さんの言いつけに、背いて、買い食いをしました。
   後で、あー、悪いことをしたと、思って、心が咎めてなりませんでした。

   お母さんが、その様子を疑って、尋ねましたので、
   この子は、そのわけを話して、詫びました。

   心の咎めることを、してはなりません。

(14)第十四 「自慢するな」

   昔、タイマノケハヤという人がありましたが、
   「自分ほど、力の強い者は、あるまい」と、言って、自慢しておりました。

   その時の天皇が、それをお聞きになって、ノミノスクネという人を呼んで、
   力比べをおさせになりましたが、ケハヤは負けました。

   力が強くても、学問が出来ても、自慢してはなりません。

(15)第十五 「度量を大きくせよ」

   昔、貝原益軒という名高い学者がありました。

   留守の内に、弟子が、相撲を取って、益軒の大事にしていたぼたんの花を、折りました。
   弟子は、叱られるかと、心配して、人に頼んで、詫びてもらいましたが、
   益軒は、少しも、怒らずに、許してやりました。

(16)第十六 「健康」

   益軒は、小さい時から、身体が弱いので、常々、養生をしました。
   それで、丈夫になって、八十五までも長生きしました。

   健康は、大切であります。
   丈夫な心は、丈夫な身体に、宿る。

(17)第十七 「倹約」

   徳川光圀は、女中達が、紙を粗末にするので、紙漉き場を見せにやりました。
   女中達は、紙漉女が、冬の寒い日に、水の中で、働いているのを見て、
   紙漉仕事の、難儀なことを覚りました。

   それから紙を、大切に、使うようになりました。

   ものを、無益に、使ってはなりません。

(18)第十八 「慈善」

   鈴木今右衛門夫婦は、情け深い人でありました。
   その子に、十二になる娘がありましたが、
   ある寒い日、同じ年頃の女の子が、ものもらいに来ました。

   今右衛門の妻は、娘に向かって、「あの子は、単衣物一枚で、震えていますが、
   お前の着ている綿入れを、一枚、脱いでやりませんか。」と、言いました。

   娘は、おとなしく、良い方の綿入れを脱いで、与えましたので、
   今右衛門夫婦も、たいそう、喜びました。

   難儀な人を、救わねばなりません。

(19)第十九 「召使いを憐れめ」

   田邊晋齋は、寒い晩に、供を連れて、人の家に行きました。
   帰る時、供のものが、門の外に、寒そうに、立っているのを見て、
   「あー、気の毒であった。」と、言って、労りました。

   それから、寒い晩は、なるべく、外へ、出ないように、気をつけました。
   召使いを、憐れまねばなりません。

   良い主人の下に、良い召使い有り。

(20)第二十 「恩を忘れるな」

   弥兵衛の主人が、島流しに遭いました。
   弥兵衛は、ご恩返しは、この時だと思って、
   まず、一心に、船をこぐことを習いました。

   そして、はるばる、島に渡って、主人に会いました。
   主人が、許されて、帰ってからも、親切に世話をしました。

(21)第二十一 「友達」

   伊藤冠峰と南宮大湫とは、仲の良い友達でありました。
   大湫は、家族を残して、江戸に行きましたが、
   火事にあったため、家族を、呼び寄せることが、出来ませんでした。

   冠峰は、それを、気の毒に、思って、旅費をこしらえて、
   大湫の家族を、江戸まで、送ってやりました。

   友達には、親切に、せねばなりません。

(22)第二十二 「人をそねむな」

   吉田松陰の弟子に、高杉と久坂という二人の書生がありました。
   高杉は、勉強しませんから、松陰は、常に、久坂を褒めて、高杉を戒めました。

   高杉は、それから、良く、勉強して、学問が、進みましたので、
   松陰は、高杉を褒めて、何事も、高杉と相談するようになりました。

   それでも、久坂は、決して、高杉をそねまずに、
   「高杉君は、偉い人だ。」と、言っていました。

   高杉も、「久坂君は、立派な人だ。」と、褒めていました。

   松陰は、この事を聞いて、たいそう、喜びました。

   人を、そねんではなりません。

(23)第二十三 「礼儀」

   ある所に、一人の娘がありました。
   八歳になっても、礼儀を守りませんから、
   お父さんは、どうかして、それを直したいと、思いました。

   ある日、お父さんは、娘を呼び寄せて、礼儀の大切なことを、教え、
   そして、一枚の紙を、壁に、貼り付けさせて、娘が、卑しい言葉遣いや、
   不作法な振る舞いをするたびに、その紙に、黒星をつけることにしました。

   年の暮れになって、娘に、その数を数えさせて、戒めました。

   娘は、それから、だんだん、礼儀を守るようになって、
   とうとう、一つの黒星も、つかないようになりました。

(24)第二十四 「預かり物」

   太郎は、自分の家に、預かったこうもり傘をさして、出かけようとしました。

   姉さんは、それを止めて、「それは、預かりものであるから、勝手に、
   使ってはなりません。自分のを、おさしなさい。」と、言いました。

   太郎は、姉さんの言うことを聞いて、その傘を、元の所に、しまって、
   自分の傘をさして、行きました。

   預かりものを、勝手に、使ってはなりません。

(25)第二十五 「近所の人」

   佐太郎は、近所の人たちに、親切を尽くしました。

   ある時、近所の人の家の屋根が、破れているのを見て、
   村の人たちから、わらをもらってやって、それを直させました。

   また、火事にあった人には、竹を切って、与えました。

   近所の人は、仲良くして、助け合わねばなりません。

(26)第二十六 「公益」

   佐太郎の村に、土橋がありましたが、
   たびたび、損じて、村の人たちが、難儀をしました。
   佐太郎は、人々と相談して、それを石橋に、掛け替えました。

   それからは、壊れることもなく、村の人たちは、たいそう、喜びました。

   世のためになることをするのは、人の務めであります。

(27)第二十七 「復習」

   良い日本人になるには、忠義の心を、持たねばなりません。

   お父さんや、お母さんには、孝行を尽くし、兄弟とは、仲良くし、
   友達には、親切にし、召使いを憐れみ、近所の人には、良く、つきあわねばなりません。

   何事にも、正直で、心の咎めるようなことをせず、
   勇気があって、辛抱強く、物事に、慌てないようにし、
   自分のことは、自分でし、そして、難儀をこらえねばなりません。

   また、身体を丈夫にし、倹約を守って、仕事に、精出さねばなりません。

   そのほか、礼儀を守り、自慢をせず、恩を受けては、忘れないようにし、
   人をそねむようなことなく、度量を大きくし、人のものを、大事にせねばなりません。

   かように、自分の行いを謹んで、良く、人に交わり、
   その上、世のため、人のために、尽くすように、心がけると、良い日本人になれます。

・・・

<関連Web>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   「教育勅語渙発五十周年に方りての講話(昭和15年10月23日)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=40

(2):光明掲示板・第一「教育勅語 (8421)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1586 >

(3)「わらいこうたろうの「教育勅語」ブログ~「教育勅語」は<いのち>の根ッコです。」
    → http://blogs.yahoo.co.jp/kyouiku88kyouiku/54105978.html

(4)愛国本流掲示板「谷口雅春先生の御遺言は「教育勅語の復活」であった。 (2495)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=930

(5)光明掲示板・第三「教育勅語渙発124年」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=277

           <感謝合掌 平成27年4月11日 頓首再拝>

(現行小学三年生用)第二期 尋常小学修身書 第三学年用 - 伝統

2015/04/19 (Sun) 03:00:55

(1)第一 「皇后陛下」 第一期と同じ。

(2)第二 「忠君」

   和気清麻呂は宇佐八幡の神の御教えを承って参りました。
   「臣下の身分で天皇の御位を望むような者は、早く除けと、神がお告げになりました。」
   と、道鏡の聞いているのも恐れず、天皇に申し上げました。

(3)第三 「孝行」

   渡辺登は家が貧しい上に、父が病気になったので、
   家の暮らしを助けるために、絵を描くことを稽古しました。

   また長い間父の看病をして、少しも怠りませんでした。
   父母の恩は山よりも高く、海よりも深し。

(4)第四 「兄弟」

   家が貧しかったため、登の弟や妹は、皆早くからよそへやられました。
   登が十四の年、八つばかりになる弟もほかへ連れられて行くことになりました。

   その時登は雪が降って寒いのに、遠い所まで送って行って、泣く泣く別れました。

(5)第五 「勉強」

   登は絵を売って家の暮らしを助けながら、なおなお絵の稽古を励みました。
   またその間に学問もしました。

   学問する暇が少ないので、毎朝早く起きて、ご飯を炊き、
   その火のあかりで本を読みました。

   艱難、汝を玉にす。

(6)第六 「規律」

   登はだんだんと重い役に取り立てられましたが、
   日々の仕事の時刻を定めておいて、毎日その通り行いました。

   このように規律正しくしましたので、絵もたいそう上手になり、
   学問も進んで、後には偉い人になりました。

(7)第七 「正直」~第一期(12)「正直」と同じ。

(8)第八 「友達」

   昔細井平洲という学者がありました。
   仲の良い友達が頼って来た時、長い間家に泊めておいて、
   一緒にむつましく暮らしました。

   近所の人達は、まことの兄弟だと思っていました。

(9)第九 「師を敬え」

   上杉鷹山は平洲を先生にして学問をしました。
   ある年平洲を自分の国へ招きました。

   平洲が来た時、鷹山は身分の高い人でありましたが、
   わざわざ遠くまで、迎えに出て、丁寧に挨拶をしました。

   それから近所の寺に行って休みましたが、
   途中自分が先生より先に立つようなことはしませんで、深く敬いました。

(10)第十 「規則に従え」

   春日局は、ある夜遅く、お城に帰って来ました。

   門が閉まっていたので、開けさせようとしましたら、
   門番の役人が「上役の許しがあるまではお通し申すことは出来ません。」
   と言いました。

   局は「それはもっともなこと。」と言って、寒い夜風に吹かれながら、
   門の開くまで外に待っていました。

(11)第十一 「行儀」

   松平好房は小さい時からかりそめにも、
   父母の居る方に、足を伸ばしたことはありませんでした。

   よそに行く時も、帰って来た時も、必ず父母の前に出て、その事を告げました。

   父母から頂いた物は大切にして、いつまでも持っていました。
   また人が父母の話をすると、いつも正しく居直って聞きました。

(12)第十二 「勇気」

   木村重成は豊臣秀頼の家来で、勇気のある人でありました。
   秀頼が徳川家康と戦をした時、重成は二十歳ばかりでありましたが、
   勇ましい働きをしました。

   間もなく秀頼が家康と和睦をすることになった時、
   重成は家康の所へ使いに行って、怖めず臆せず立派に役目をし遂げて帰りました。

(13)第十三 「堪忍」

   ある時小坊主が重成をさんざん罵った上、打ってかかろうとしたことがあります。
   けれども重成は逆らわずに堪えていました。

   見ていた人々は重成を臆病者と思いました。
   その後、重成が戦に出て、勇ましく働きましたので、
   本当の勇気のある人だと、皆々感心しました。

   ならぬ堪忍、するが堪忍。

(14)第十四 「物事に慌てるな」

   毛利吉就の奥方は、近所に火事があった時、
   家来の人々から早く立ち退くようにと勧められました。

   奥方は落ち着いていて、かえって人々の慌てるのをとどめ、
   荷物をかたづけたり、火を防いだりさせたので、屋敷は無事に残りました。

(15)第十五 「祝日」

   我が国の祝日は、新年と紀元節と天長節とであります。

   新年は年の初め、紀元節は神武天皇の御位にお就きになった日、
   天長節は天皇陛下のお生まれになった日で、いずれもめでたい日であります。

(16)第十六 「皇室を尊べ」

   徳川光圀は深く皇室を尊んだ人であります。
   人々に日本の良い国柄であることを知らせて、忠義の心をおこさせるために、
   多くの学者を集めて、日本の歴史を書かせました。

   また楠木正成の石碑を湊川に立てて、その忠義をあらわしました。

(17)第十七 「倹約」~第一期(17)「倹約」と同じ。

(18)第十八 「慈善」~第一期(18)「慈善」と同じ。

(19)第十九 「恩を忘れるな」~第一期(20)「恩を忘れるな」と同じ。

(20)第二十 「謙遜」~第一期(22)「人をそねむな」と同じ。

(21)第二十一 「寛大」~第一期(15)「度量を大きくせよ」と同じ。

(22)第二十二 「健康」

   益軒は小さい時には、身体が弱かったので、常々養生をしました。
   それで身体が次第に丈夫になって、八十五歳までも長生きをし、
   多くの本を著す事が出来ました。

   薬より、養生。

(23)第二十三 「自分の物と人の物」

   馬子が家に帰って馬の鞍を下ろすと、財布が出ました。
   これは先に乗せたお客の忘れ物だろうと思って、すぐにその宿屋に返しに行きました。

   お客はたいそう喜んで、お礼の金を出しましたが、
   馬子は「あなたの物をあなたが受け取るに、何でお礼が要りますか。」と言って、
   なかなか受け取りませんでした。

(24)第二十四 「共同」

   年寄りが子供達に、「この三本の棒を立てて、その上に絵本を乗せてごらん。」
   と言いましたが、誰にも出来ませんでした。

   その内一人の子供が棒を寄せて、ひもで中程をくくり、端を開いて、
   その上に絵本を乗せました。

   そこで、年寄りは「一本ずつでは立たないが、三本一緒になると、
   このように立って、絵本が乗ります。人も共同すれば、一人一人で出来ないことも
   良くできます。」と言って聞かせました。

(25)第二十五 「近所の人」~第一期(25)「近所の人」と同じ。

(26)第二十六 「公益」

   佐太郎は村役人になりました。
   村の往来の土橋が度々損じて、人々が難儀をするので、
   佐太郎は仲間の人達と相談して、それを石橋に掛け替えました。

   それからは、壊れることもなくて、皆々喜びました。
   その他にも色々村の公益になる事をしましたので、
   佐太郎は村役人の頭に上げられました。

(27)第二十七 「良い日本人」~第一期(27)「復習」と同じ。

           <感謝合掌 平成27年4月19日 頓首再拝>

(現行小学三年生用)第三期 尋常小学修身書 第三学年用 - 伝統

2015/04/25 (Sat) 04:44:37


(1)第一 「皇后陛下」

   皇后陛下はお小さい時から質素にあらせられ、
   また下の者をお憐れみになりました。

   皇太子妃にならせられましてから、ご自身で蚕をおかいあそばしたり、
   戦の時には包帯をお作りになって、軍人にたまわつたりなさいました。

   また皇后におなりあそばしてのちも、教育のことや産業のことにお心をとめられ、
   貧しいものをお憐れみになるなど、ありがたいことがたくさんございます。

(2)第二 「忠君愛国」
    ~第一期 尋常小学修身書 第三学年用「忠義」とほぼ同じ内容

(3)第三 「孝行」

   二宮金次郎は、家がたいそう貧乏であったので、小さい時から、父母の手助けをしました。
   金次郎が十四の時父が亡くなりました。

   母は暮らしに困って、末の子を親類へ預けましたが、
   その子の事を心配して毎晩良く眠りませんでした。

   金次郎は母の心を思いやって、
   「私が一生懸命に働きますから、弟を連れ戻して下さい。」と言いました。

   母は喜んでその晩すぐに親類の家へ行って、預けた子を連れて帰り、
   親子一緒に集まって喜び合いました。

   孝は徳のはじめ。

(4)第四 「仕事に励め」

   金次郎は12の時から父に代わって川普請に出ました。
   仕事を済まして、家へ帰ると夜遅くまで起きて草鞋を作りました。

   そうして明くる朝その草鞋を仕事場へ持って行って、
   「私はまだ一人前の仕事が出来ませんので、皆様のお世話になります。
   これはそのお礼です。」と言って人々に贈りました。

   父が亡くなってからは、朝は早くから山へ行き、
   柴を刈り、薪を取って、それを売りました。

   また夜は縄をなったり、草鞋を作ったりして良く働きました。

(5)第五 「学問」

   金次郎は十六の時母を失いました。
   やがて二人の弟は母の里に引き取られ、
   金次郎はまんべえという叔父の家へ行って、世話になりました。

   金次郎は良く叔父の言いつけを守り、一日働いて、
   夜になると、本を読み、字を習い、算術の稽古をしました。

   叔父は油がいるのを嫌って夜学を止めましたので、
   金次郎は自分でアブラナを作り、その種を町へ持って行って油に取り替え、
   毎晩勉強しました。

   叔父がまた「本を読むよりは家の仕事をせよ。」と言いましたから、
   金次郎は夜遅くまで家の仕事をして、その後で学問をしました。

   金次郎は二十歳の時自分の家に帰り、精出して働いて、後には偉い人になりました。

(6)第六 「整頓」

   本居宣長はたくさんの本を持っていましたが、
   いちいち本箱に入れてよく整頓しておきました。

   それで夜は明かりをつけなくても、思うようにどの本でも取り出すことが出来ました。

   宣長はいつも家の人に向かって、
   「どんなものでも、それを探す時の事を思ったならば、仕舞う時に気をつけなければ
   なりません。入れる時に少しの面倒はあっても入り用の時に、早く出せる方がよろしい。」
   と言って聞かせました。

(7)第七 「正直」

   ある呉服屋に、正直な丁稚がありました。
   ある時客の買おうとした反物に傷のあることを知らせたので、
   客は買うのを止めて帰りました。

   主人はたいそう腹を立て、すぐに丁稚の父を呼んで
   「この子は自分の店では使えない。」と言いました。

   父は自分の子のしたことは褒めて良いと思い、連れて帰って他の店に奉公させました。
   この子はその後も正直であったので、大人になってから立派な商人になりました。

   それに引き換えて、先の呉服屋はだんだん衰えました。

(8)第八 「師を敬え」

   上杉鷹山は細井平洲を先生にして、学問をしました。
   ある年平洲を江戸から米沢へ招きました。

   鷹山は身分の高い人であったけれども、わざわざ一里あまりも迎えに出て、
   ある寺の門前で平洲を待ち受け、丁寧に挨拶しました。

   それから寺で休もうとして、長い坂道を登っていくのに、
   平洲より一足も先へ出ず、また平洲がつまづかないように気をつけて歩きました。

   寺に着いた時も、丁寧に案内して、座敷へ通し、心を込めてもてなしました。

(9)第九 「友達」

   友蔵と信吉は親しい友達で、同じ学校を卒業した後、
   二人とも同じ工場に雇われて一緒に働いていました。

   ところが信吉は過ちがあって暇を出されました。

   友蔵は友達の為に色々と謝ってやりましたが、主人が許しませんので、
   仕方が無く、折を見てまた頼もうと思っていました。

   ある時友蔵は新しい機械を工夫しました。

   主人はそれを褒めて、「何でも望みを叶えてやる。」と言いました。
   友蔵は「それでは信吉を元の通りに使って下さい。」と願って、すぐ許されました。

   主人はまた「褒美に家を造ってやろう。」と言いましたら、
   友蔵は「友達が許されました上は望みはございません。」と断りました。

   それからすぐに信吉を連れて帰って、二人で喜びました。

(10)第十 「規則に従え」
    ~第二期 尋常小学修身書 第三学年用「規則に従え」とほぼ同じ内容

(11) 第十一 「行儀」
    ~第二期 尋常小学修身書 第三学年用「行儀」とほぼ同じ内容

(12)第十二 「勇気」

   木村重成は豊臣秀頼の家来で、勇気のある人でした。
   秀頼が徳川家康と戦をした時、重成は二十歳ばかりでしたが、
   勇ましい働きをしました。

   また重成は家康の所へ使いに行きました時、少しも恐れず、家康の前へ出て、
   書き物を受け取ろうとしました。

   見ると家康の血判が薄かったので、「今一度、目の前でして下さい。」と
   怖めず臆せず言いましたので、家康はやむを得ず改めて血判をしました。

   重成が帰った後で、家康はじめその場にいた人々は
   皆重成の立派な振る舞いを褒めました。

(13)第十三 「堪忍」

   重成の十二、三歳の頃でした。

   大阪の城で掃除坊主と戯れていたら、坊主が腹を立てて
   重成をさんざんに罵った上、打ってかかろうとしました。

   その時重成は少しも取り合わずにいたので、
   見ていた人々は重成を臆病者と思って誹りました。

   後に徳川方との戦が始まった時、重成が外の人にまして勇ましく働いたので、
   前に誹った人々も、本当の勇気のある人だと感心しました。

   ならぬ堪忍、するが堪忍。

(14)第十四 「物事に慌てるな」

   毛利吉就の奥方が住んでいた屋敷の近所に火事がありました。
   家来の人々は驚いて「早くお立ち退きになるように。」と勧めました。

   その時奥方は人々の慌てるのをとどめ、「まずめいめいが大切にするものを
   かたずけよ。慌ててこちらからも火を出すことのないように、火の元に気をつけよ。
   立ち退く時には女子供は自分と一緒に行くようにせよ。」と指図をしました。

   人々はその落ち着いた指図に励まされ、力を合わせて火を防ぎましたので、
   屋敷は無事に残りました。

(15)第十五 「皇大神宮」

   ここに年経た杉の木の茂り合った中に、尊い御宮が見えます。
   この絵は伊勢にある皇大神宮の御有様を写したものでございます。

   皇大神宮は天皇陛下の御先祖天照大神をお祀りもうしてある御宮で、
   陛下にあらせられましても常に御大切にあそばされます。

   我々日本人はこの御宮を敬わなければなりません。

(16)第十六 「祝日」
    ~第二期 尋常小学修身書 第三学年用「祝日」とほぼ同じ内容

(17)第十七 「倹約」
    ~第一期 尋常小学修身書 第三学年用「倹約」とほぼ同じ内容

(18)第十八 「慈善」

   昔羽前の鶴岡に鈴木今右衛門という慈善の心の深い人がありました。
   大飢饉の時、田畑をはじめ家の道具まで売って多くの人を助けました。

   今右衛門の妻も心だての良い人で、施しをするために、着物類を売り払い、
   晴れ着が二枚だけ残っていましたが、「着替えがなくなって外へ出ることが
   出来なければ、くしやかんざしの入用もありません。これらの物を金にかえて、
   もっと多くの人を助けましょう。」と言って、
   晴れ着と共にくし・かんざしも皆売ってしまいました。

   今右衛門夫婦に十二歳になる娘がありました。

   ある寒い日同じ年頃の女の子が物もらいに来ました。

   母はそれを見て、娘に「あの子は単衣物一枚で震えています。
   お前の着ている綿入れを一枚やってはどうです。」と言いましたら、
   娘はすぐに上に着ている方のを脱いでやりました。

   我が身をつねって、人の痛さを知れ。

(19)第十九 「恩を忘れるな」

   永田佐吉は十一の時美濃の竹ヶ鼻から尾張の名古屋へ出て、ある紙屋に奉公しました。
   佐吉は正直者で、良く働きますから、主人に可愛がられていました。
   また暇があると学問をして楽しんでいました。

   朋輩の者どもが佐吉を妬んで店から出してしまうように主人に迫りました。
   主人は是非無く佐吉に暇をやりました。

   佐吉は家に帰ってから、仲買などをして暮らしを立てていましたが、
   主人の恩を、忘れないで道のついでには、きっと訪ねて行きました。

   その後紙屋は衰えましたが、佐吉は折々見舞って、物を贈り、暮らしの助けにしました。

(20)第二十 「寛大」

   昔貝原益軒という名高い学者がありました。
   ある日外に出ていた間に留守居の若者が隣の友達と、庭で相撲を取って、
   益軒が大切に育てていたぼたんの花を折りました。

   若者は心配して、益軒の帰りを待ち受け、隣の主人に頼んで、過ちを詫びて貰いました。

   益軒は少しも腹を立てた様子が無く、
   「自分がぼたんを植えたのは楽しむ為で、怒る為ではない。」と言って、
   そのまま許しました。

(21)第二十一 「健康」
   ~第二期 尋常小学修身書 第三学年用「健康」にほぼ同じ内容

(22)第二十二 「自分の物と人の物」
   ~第二期 尋常小学修身書 第三学年用「自分の物と人の物」にほぼ同じ内容

(23)第二十三 「共同」

   ある時毛利元就はその子の隆元・元春・隆景の三人に一つの書き物を渡しました。

   その中に「三人とも毛利の家を大切に思い、互いに少しでも、隔て心を
   持ってはならぬ。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景は良く兄に仕えよ。」
   とありました。

   また隆元に別の書き物を渡して、
   「あの書き物を守りとして、家の栄えを図れよ。」と懇ろに戒めました。

   それで、兄弟一緒に名を書き並べた請書を父に差し出し、
   「三人が共同して、御戒めを守ります。」と誓いました。

   その後隆元は早く死んで、その子の輝元が家を継ぐことになりましたが、
   元春・隆景は良く元就の戒めを守り、心を合わせて輝元を助けたので、
   毛利家は長く栄えることになりました。

(24)第二十四 「近所の人」
   ~第一期 尋常小学修身書 第三学年用「自分の物と人の物」にほぼ同じ内容

(25)第二十五 「公益」
   ~第二期 尋常小学修身書 第三学年用「自分の物と人の物」にほぼ同じ内容

(26)第二十六 「生き物を憐れめ」

   昔木曾山中に孫兵衛という馬子がありました。
   ある時一人の僧がその馬に乗りました。

   道の悪い所にかかると、
   孫兵衛は「親方危ない、危ない。」と言って馬を助けてやりました。

   僧は不思議に思って、そのわけを尋ねましたら、孫兵衛は
   「私ども親子四人はこの馬のおかげで暮らしておりますから、
   親方と思って労るのでございます。」と答えました。

   やがてある宿へ着いて、僧は賃銭を渡しますと、
   孫兵衛は、その中で餅を買って馬に食べさせました。

   それから自分の家の前へ行くと、
   孫兵衛の妻がすぐに出て来て馬にまぐさをやって労りました。

   僧はそれを見て孫兵衛夫婦の心がけの良いのに深く感心しました。

(27)第二十七 「良い日本人」

   良い日本人となるには、常に天皇陛下・皇后陛下の御徳を仰ぎ、
   また常に皇大神宮を敬って、忠君愛国の心を起こさなければ成りません。

   父母に孝行を尽くし、師を敬い、友達には親切にし、
   近所の人には良くつきあわなければなりません。

   正直で、寛大で、慈善の心も深く、人から受けた恩を忘れず、
   人と共同して助け合い、規則には従い、自分の物と人の物との分かちをつけ、
   また世間のために公益を図らなければなりません。

   その外行儀を良くし、物を整頓し、仕事に骨折り、学問に励み、
   身体の健康に気をつけ、勇気を養い、堪忍の心強く、物に慌てないようにし、
   また倹約の心がけがなければなりません。

   かように自分の行いを謹んで、良く人に交わり、世のため人のために尽くすように
   心がけるのは、良い日本人になるに大切なことです。

   そうしてこれらの心得は真心から行わなければなりません。

           <感謝合掌 平成27年4月25日 頓首再拝>

(現行小学三年生用)第四期 尋常小学修身書 巻三学年用 抜粋 - 伝統

2015/05/01 (Fri) 04:08:08


(1)第四 「こうこう」

   二宮金次郎は、家が大そうびんぼうであったので、
   小さい時から、父母の手助けをしました。

   金次郎が十四の時、父がなくなりました。
   母は、くらしにこまって、金次郎と次の子を家におき、
   すえのちのみごをしんるいにあずけました。

   しかし、母は、その日から、あずけた子のことが気にかかって、夜もよく眠れません。
   「今ごろは、目をさまして、ちちをさがして泣いているであろう。」と思うと、
   かわいそうでならなくなり、いつも、こっそり泣いていました。

   金次郎は、それに気がついて、

   「おかあさん、どうしておやすみになりませんか。」と聞きましたが、母は、

   「しんぱいしないでおやすみ。」

   というだけでした。

   金次郎は、
   「これは、きっとあずけた弟のことをしんぱいしていらっしゃるのにちがいない。」
   と思って、

   「おかあさん、弟をうちへ連れてかえりましょう。赤んぼうが一人ぐらいいたって、
   何でもありません。私が、一生けんめいにはたらきますから。」

   といいました。
   母は、大そう喜んで、すぐにしんるいへ行って、赤んぼうを連れてもどりました。
   親子四人は、一しょに集まって喜び合いました。


   孝は徳ノハジメ。


(2)第五 「しごとにはげめ」

   金次郎の村のさかいを流れている川には、たびたび大水が出て、土手をこわしました。
   そのために、村では、どの家からも一人ずつ出て、毎年、川ぶしんをしました。

   金次郎も、年は若いが、この川ぶしんに出てはたらきました。
   しかし、まだ力がたらないので、おとなにはかなわないと思って、
   どうかしてしごとのたしになることはないかとかんがえました。

   そうして、昼のしごとをすまして家へかえると、
   夜おそくまでおきていてわらじをつくり、あくる朝、それをしごとばへ持って行って、

   「私は、まだ一人前のしごとが出来ませんから、みなさんのおせわになります。
   これはそのおれいです。」

   といって、みんなの人におくりました。

   しかし、金次郎は、人の休んでいる間でも、休まずはたらいたので、
   土や石をはこぶことは、かえっておとなよりも多いほどでした。

   金次郎は、家のしごとにもよくはたらきました。

   朝は早くから山へ行って、しばをかり、たきぎをとり、
   それを売って金にかえました。

   また、夜はなわをなったり、わらじをつくったりして、
   少しのじかんもむだにしませんでした。
   こうして、母を助けて、小さい弟たちをやしないました。


(3)第六 「がくもん」

   金次郎が十六の時、母がなくなりました。
   それで、二人の弟は、母の生まれた家に引取られ、
   金次郎は、おじの家にせわになることになりました。

   金次郎は、おじのいいつけをまもって、一日中、よくはたらきました。
   そうして、夜になると、本を読み、字をならい、さんじゅつのけいこをしました。

   しかし、おじは、あぶらがいるので、がくもんをすることをとめました。
   金次郎は、「自分は、しあわせがわるくて、よそのせわになっているが、
   今がくもんをしておかないと、一生むがくの人になって、家をさかんにする
   ことも出来まい。自分で油を求めてがくもんをするなら、よかろう。」
   と思いました。

   そこで、自分であれ地を開いてあぶらなをつくり、
   そのたねをあぶらやへ持って行き、あぶらを取りかえてもらって、
   毎晩、がくもんをしました。しかし、おじがまた、

   「本を読むよりも、うちのしごとをせよ。」

   といいましたので、夜おそくまでおじの家のしごとをして、
   その後で、がくもんをしました。

   二十さいの時、金次郎は、あれはてた田や畠を買いもどし、
   家もさかんにしました。また、世のため、人のためにつくして、後々までも
   たっとばれる、りっぱな人になりました。


(4)第七 「せいとん」

   本居宣長は、わが国の昔の本を読んで、
   日本が大そうりっぱな国であることを人々に知らせた、
   名高いがくしゃであります。

   宣長は、たくさんの本を持っていましたが、
   一々本箱に入れて、よくせいとんしておきました。
   それで、夜、あかりをつけなくても、思うように、
   どの本でも取出すことが出来ました。

   宣長は、いつもうちの人に向かって、

   「どんな物でも、それをさがす時のことを思ったなら、
   しまう時にきをつけなければなりません。入れる時に、
   少しのめんどうはあっても、いる時に、早く出せる方がよろしい。」

   といって聞かせました。

   宣長が名高いがくしゃになり、りっぱなしごとをのこしたのには、
   へいぜい物をよくせいとんしておいたことが、
   どれだけやくにたったか知れません。


(5)第十二 「かんにん」

   木村重成は、豊臣秀吉のけらいで、
   小さい時から、秀頼のそば近くつかえました。

   重成が十二三のころのことです。
   ある日、大阪の城の中で、そうじ坊主とおもしろくたわむれていましたが、
   どうしたわけか、相手が、急に本気になって、大そう腹を立て、
   さんざん悪口をいった上、重成にうってかかろうとしました。

   い合わせたおとなの人たちは、どうなることかとしんぱいしました。

   重成は、ぶれいなことをすると思いましたが、じっとこらえて取合わず、
   そのままおくへはいりました。人々は、いがいに思って、
   重成をおくびょうものだといって笑いました。
   それからは、そうじ坊主がいばってしかたがありませんでした。

   後に、秀頼が徳川家康といくさをした時、重成は、人をおどろかすほどの
   勇ましいはたらきをしました。
   そこで、前に重成をおくびょうものだといって笑った人たちまでが、

   「重成こそ、ほんとうのゆうきのある人だ。」

   といって、かんしんしました。

   ナラヌカンニン、スルガカンニン。


(6)第十三 「ゆうき」

   家康が、大軍を引連れて、秀頼のいる大阪の城にせめて来た時のことです。
   重成は、二十さいばかりでしたが、一方の大将となって、城からうって出て、
   大ぜいの敵とたたかい、勇ましいはたらきをして、敵みかたをおどろかしました。

   後に、いくさの仲なおりをすることになって、
   重成は、家康のじんやへ使に行きました。

   重成は、家康始め、大ぜいの敵の大将の並んでいる所へ出ましたが、
   びくともしません。そのうち、書き物を受取ることになりましたが、
   見ると、家康のけっぱんがうすいので、

   「もう一度、目の前でしなおして下さい。」

   と、少しもおそれずいいました。しかし、家康は、

   「年をとったかげんで、うすいのだろう。」

   といって、聞入れないようすでした。

   けれども、重成が、ただだまってすわっていますので、
   家康も、しかたがなく、とうとうけっぱんをしなおして、重成に渡しました。

   重成がかえった後で、家康を始め、そばにいた大将たちは、
   みんな重成のりっぱなふるまいをほめました。


(7)第十四 「正直」

   昔、正直な馬方がありました。

   或(ある)日、馬方は、一人のひきゃくを馬に乗せて、
   遠い所へ送って行きましたが、家にかえって馬のくらをおろすと、
   金のたくさんはいって居るさいふが出ました。

   「これは、さっき乗ったひきゃくの忘れた物にちがいない。」と思って、
   つかれて居るのに、遠い道もかまわず、すぐに走って行って、
   ひきゃくにあいました。

   そうして、くわしく尋ねた上で、其(そ)のさいふを渡しました。
   ひきゃくは、大そう喜んで、

   「此(こ)の金がなくなると、私の命もあぶないところでした。
   あなたのごおんは、ことばで言いつくすことが出来ません。」

   と、ていねいにれいをのべました。それから、別に持って居た金を取り出し、

   「これは、わずかですが、おれいのしるしに受取って下さい。」

   と言いながら、馬方の前へさし出しました。馬方は、おどろいて、

   「あなたの物をあなたがお受取りになるのに、
   おれいをいただくわけがありません。」

   と言って、手もふれません。ひきゃくがいくらすすめても、
   どうしても受取らず、其のままかえろうとします。

   ひきゃくは、どうかして受取ってもらおうと思って、金をだんだんへらして、
   しまいには、ごくわずかにして、

   「せめてこればかりは、どうぞ受取って下さい。
   でないと、私はねてもねられません。」

   と、むりにすすめました。馬方は、

   「おれいをいただいてはすみませんが、そんなにまでおっしゃいますなら、
   今夜、休むところをここまで来ましただちんだけ、此の中からいただきましょう。」

   と言って、ほんのわずかの金を受取りました。


(8)第十八 「きそくをまもれ」


   松平定信は、ばくふの重い役人でありました。
   或年、地方に見まわりに出かけた時、或関所を通りました。

   其の時、定信は、何の気なしに、かさをかぶったまま通り抜けようとしました。
   すると、関所の役人の一人が、

   「関所のきそくですから、かさをおとり下さい。」

   と言って、ちゅういしました。定信は、それを聞いて、

   「なるほど、そうだった。」

   と言って、すぐにかさをとって通りました。

   其の日、やどに着いてから、定信は、その土地の上役の者に、

   「きょう、かさをかぶったまま関所を通ろうとしたのは、まことに
   自分のふこころえであった。それをちゅういしてくれた役人に、
   あつくおれいを伝えてもらいたい。」

   と言って、ていねいにあいさつしました。


(9)第二十三 「協同」

   昔、毛利元就という人がありました。
   元就には、隆元・元春・隆景という3人の子があって、
   元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。

   元就は、3人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、
   いつも、「3人が一つ心になって助け合うように。」といましめて居ましたが、
   或時、3人に一つの書き物を渡しました。

   それには、

   「3人とも、毛利の家を大切に思い、たがいに、少しでもへだて心を
   持ってはならない。隆元は2人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄につかえよ。
   そうして、3人が一つ心になって助け合え。」

   と書いてありました。

   また、元就は、隆元に別の書き物を渡しましたが、それにも、

   「あの書き物をまもりとして、家の栄をはかるようにせよ。」

   と、よく行きとどいたいましめが書いてありました。

   書き物をもらった兄弟は、3人の名を書きならべた請書を父にさし出し、

   「3人は、心を合わせて御いましめをまもります。」

   と、かたくちかいました。

   其の後、元就のあとをついだ隆元は早く死んで、其の子の輝元が家をつぎました。
   元春・隆景は、よく元就のいましめをまもって輝元を助けましたので、
   毛利の家はながく栄えました。


           <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

(現行小学三年生用)第五期 尋常小学修身書 巻三学年用 抜粋 - 伝統

2015/05/07 (Thu) 03:50:38


(1)第五 「時のきねん日」

   六月十日は、時のきねん日です。

   この日は、今から千三百年ばかり前に、天智天皇がごじしんでお作りになった
   水時計で、始めて、みんなに時をお知らせになった日であります。

   天智天皇の、お作りになった水時計というのは、
   水のもれるしかけで、時をはかる時計です。

   今では、はしら時計や、おき時計や、うで時計や、たくさんあって、
   正しい時を知らせてくれますが、昔の人は、時を知るのに、
   いろいろと工夫したものであります。

   しかし、どんなにりっぱな時計があっても、私たちが、時を知るだけでなく、
   時を正しく守るように、心がけなければ何にもなりません。

   学校の授業は、時間通りにおこなわれます。
   家にかえっても、おさらいとか、運動とか、ごはんとか、
   みんな時をきめて、それをよく守らなければなりません。

   そうでないと、人にめいわくをかけるばかりでなく、
   からだを弱くしたり、病気になったりします。

   時を守ることは、やさしいようで、なかなかむずかしいことです。
   時計を見るたびに、私たちは、正しくときを守るように心がけましょう。

   時のきねん日をきねんして、みんなで、きまりよくくらすように心がけましょう。


(2)第十二 「心を一つに」

   昔、元という国の大軍が、支那をせめ取った勢で、
   日本まで押し寄せて来るといううわさが、つたわりました。

   「来るならいつでも来い。一人も上陸させないで、みんなたたきつぶしてやろう。
   もしも来なければ、こっちから海を渡って、元の国へせめこんで行こう。」

   というので、日本では、石のとりでをきずいて、いつ敵軍が来ても、
   打ちはらうことのできる用意をしました。また方々に立札が立って、

   「今度、元の国へせめて行くことになった。
   これにくわわりたい者は、名前と年とを書いて、とどけるように。」

   というおふれが出ました。

   立札の前は、毎日黒山のような人だかりです。
   中でも勇ましい武士たちは、この立札を見て、みんな勇み立ち、
   われもわれもと、あらそって出征するように願い出ました。

   こういうおじいさんもありました。
   お国のために、自分もどうかして出征したいと考えましたが、
   八十五歳という年よりなので、歩くことさえできません。

   すると、六十五になった子どもと、四十になった孫とが、

   「しんぱいなさらないように。私たちが、あなたに代って出征して、
   きっと、りっぱなてがらを立てますから。」

   といいました。

   おじいさんはたいそう喜んで、

   「私は、八十五でざんねんながら、おやくに立ちませんが、
   子と孫とはぜひ出征させます。」

   というとどけを書いて、やくしょにさし出しました。

   また、こういうおばあさんもありました。
   年を取っていたので、子どものせわになっていましたが、
   このおふれを聞くと、自分のふじゆうなどはかまわないで、

   「私は、女で戦争に出られませんが、子ども二人は、どんなにしても出征させます。
   きっと、夜を日についで、かけつけるでしょう。」

   というとどけを出しました。

   こうして、その時の日本人は、男も女も、年よりも子どもも、
   みんな心を一つにあわせ、国のためにつくそうという心にもえ立ちました。

   そののち、元の大軍は、日本に押し寄せて来ましたが、
   さんざんに破られてしまいました。


(3)第十九 「負けじだましい」

   板垣退助は、小さい時から負けぎらいでした。
   すもうがすきで、仲よしの後藤象二郎と、よくすもうをとって遊びました。

   象二郎が強いので、何度とってもかないません。
   けれども、退助は、投げられても、倒されても、起きあがるとすぐ、

   「もう一度やってくれ。」

   といって、とびかかって行きました。

   退助があまりこんきよいので、しまいには、象二郎の方で、
   「わたしが負けた。わたしが負けた。」
   といって、退助の負けぎらいなのに感心しました。


   後藤新平は、まずしい家に生まれたので、子どものころは、いつも、
   つぎのあたった着物を着ていました。けれども、新平は、平気で学校へ通いました。
   夜は、眠くなるのをふせぐために、てんじょうからなわをつるして、
   それでからだをしばって、勉強をつづけました。

   大山巌が、若い時のことでした。
   イギリスの軍艦が、鹿児島へせめ寄せて来たことがあります。

   海と陸とで、はげしく大砲をうちあいましたが、なかなか勝ち負けがつきません。

   これを見た元気な巌は、いきなり着物をぬぎすて、
   刀をせおって、敵艦めがけて、勢よく泳いで行きました。
   敵軍は、この勇ましい姿を見て、びっくりしました。

           <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第一期 尋常小学修身書 第四学年用 - 伝統

2015/05/13 (Wed) 04:04:38

(1)第一 「大日本帝国」

   天照大神は、御孫ニニギノミコトに、三種の神器をお授けになって、
   「この日本国を治めよ。」と、仰せられました。

   ニニギノミコトの御子孫の神武天皇は、悪者どもを御征伐になって、
   天皇の御位にお就きになりました。

   これが、わが大日本帝国のはじめであります。

(2)第二 「大日本帝国」(続き)

   神武天皇から、引き続いて、御位にお就きになった御代々の天皇は、
   みな、その御子孫であります。

   かように、万世一系の天皇をいただくことは、
   世界の国々に、たぐいのないことであります。

   御代々の天皇は、臣民を子のように、思し召し、あつく、お恵みになりました。

   我ら臣民は、このお恵みを忘れずに、
   我が大日本帝国のために、尽くさねばなりません。

(3)第三 「愛国」

   昔、元の兵が、我が国に攻め入ろうとした時、
   我が国の武士は、勇ましい働きをして、とうとう敵を討ち退けました。

   中にも、河野通有は、小さい船に乗って、大きな敵の船に近づき、
   帆柱を、はしごにして、その船に乗り移り、大将を虜にして、帰ってきました。

   通有は、身を捨てて、我が国を守った人であります。

(4)第四 「忠君」

   北条高時が、後醍醐天皇の仰せに従いませんでした。
   天皇は、楠木正成をお召しになり、「高時を討て。」と、仰せられました。

   正成は、「私の生きておる限りは、必ず、ご運の開けるように致しましょう。」
   と、お答えを申し上げました。

   それから、わずかの兵をもって、たびたび、高時の大軍を打ち破りました。

   そのうちに、天皇のお味方をするものができて、
   高時は、とうとう、滅ぼされました。

(5)第五 「忠君」(続き)

   その後、足利尊氏が謀叛して、大勢の兵を連れて、都の方へ、攻め上りました。

   正成は、心の中で、このたびの戦には、とても、生きては帰れまいと思い、
   子の正行に向かい、「父が亡くなった後も、忠義の心を失うな。
   孝行の道は、これより他にはないぞ。」と、教えて、国に返しました。

   そして、湊川で、大勢の敵と戦って、討ち死にしました。

   正行は、父の討ち死にを聞き、悲しがって、腹を切ろうとしました。
   正行の母は、その腕を押さえ、「お前は、父上の教えを忘れたのか。」と、
   言って聞かせました。

   この後、正行は父母の教えを守り、立派な忠臣となりました。

(6)第六 「孝行」

   お房は、家が貧しいため、八つの頃から、
   子守りなどに雇われて、暮らしを助けました。
   また、父が草履や、草鞋を作るそばで、藁を打って、手伝いました。

   十一の時から、奉公に出ましたが、
   主人からいただいたものは、父母に送りました。

   かように、二親を大切にしたので、役所から、褒美をいただきました。

   孝は、親を安んずるより、大なるは無し。

(7)第七 「兄弟、姉妹」

   昔、兄弟二人で、田地を争って、役所に訴えたことがありました。
   泉八右衛門という役人は、二人を自分の家に呼び、
   狭い部屋に、待たせておきました。

   二人は、一緒に、一つの火鉢に当たって、待っていましたが、
   そのうちに、小さかった時、父母のそばで、仲良く、遊んだことを
   思い出し、今更、こんなに、争うのは悪いと、後悔して、仲直りをしました。

   八右衛門は、二人の仲が、直ったのを見て、たいそう、喜びました。

(8)第八 「共同」

   ある日、四、五人の子供が、年寄りの家に遊びに行きました。

   年寄りは、三本の棒と、絵本とを出し、
   「この棒を立てて、その上に、絵本を乗せてごらん。」と、言いました。

   子供は、色々、工夫したが、立ちません。

   そのうちに、一人の子は、三本の棒を寄せて、真ん中をくくり、
   両端を開いて、立て、上に、絵本を乗せました。

   そこで、年寄りは、「一本ずつでは、立たんが、三本一緒になると、
   良く立ちます。それは力を合わせるからである。」と、言って聞かせました。

   兄弟や、友達は、力を合わせて、助け合わねばなりません。

(9)第九 「勤勉」

   高田善右衛門という人は、十七の時、自分で働いて、
   家を興そうと、思い立ち、父に頼んで、わずかの金を借りました。

   それを元手にして、灯芯と、傘とを、仕入れて、
   遠い所まで、商いに、出かけました。

   善右衛門は、険しい山や、淋しい野原を越え、雨風の日にも休まず、
   長い間、精出して、働きましたので、たいそう、金を儲けました。

   それから、その金で、呉服を仕入れて、売りました。

   いつも、正直で、倹約で、商いに、勉強しましたから、
   たいそう、立派な商人になりました。

   何事にも、骨を惜しまずに、働くと、立派な仕事が出来ます。

(10)第十 「時を重んぜよ」

   ダゲッソーというフランス人は、規律の正しい人で、
   正午になると、すぐに、食堂に行きました。

   折々、食事の用意が出来ておらず、待たせられることがありましたから、
   後には、筆と紙とを食堂に備えておき、待っている間に、
   考えついたことを書き記しておきました。

   それが、積もり積もって、十年の内に、立派な本になりました。

   これは、時を重んじたからであります。
   時は金なり。

(11)第十一 「志を固くせよ」

   イギリスのジェンナーは、植え疱瘡の仕方を発明した名高い人であります。
   ある時、ふとしたことから、植え疱瘡の仕方を工夫しようと、思い立ちました。

   人に笑われても、ちっとも、かまわずに、色々と、工夫を凝らし、
   23年もかかって、とうとう、その仕方を、発明しました。

   この仕方を発明してからも、色々と、悪口を言われました。
   それでも、志を変えずに、工夫を続けておりましたので、
   だんだん、世間に広まりました。

   一旦、志したことは、必ず、し遂げるように、心がけねばなりません。

(12)第十二 「勇気」

   昔、ギリシャに、ソクラテスという名高い人がありました。

   戦に出た時、兵糧が、足らないことがあって、他の兵士は、皆、弱りましたが、
   ソクラテスは、堪えて、いつものように、働きました。

   また、ある寒い朝、兵士は、皆、着物を重ねて、厚い毛皮を足に巻いて、
   出ましたが、ソクラテスは、いつものままで、出かけました。

   この戦に、一人の仕官が、傷を受けて、倒れましたら、
   ソクラテスは、すぐに遠い所に連れて行って、介抱しました。

(13)第十三 「身体についての心得」

   身体を丈夫にするには、運動するのが、大切であります。
   着物は清潔にし、眠りや、食事は、規則正しくせねばなりません。

   身体に、垢をつけておくのは、病気の元になります。
   薄暗い所で、本を読むなどすると、目を痛めます。

   我々は、身体を丈夫にして、強い日本人となろうではありませんか。

(14)第十四 「知識を磨け」

   八幡太郎義家は、ある日、よそに行って、戦の話をしていました。

   大江匡房という学者が、それを聞いて、
   「良い武者であるが、惜しいことには、戦の方を知らん。」と、
   独り言を言いました。

   義家の共のものが、それを聞いていて、義家に告げました。
   義家は、すぐに匡房に頼んで、戦の方を学びました。

   その後、また、戦があって、義家が敵を攻めに行った時、
   遙か彼方の田へ、多くの雁が降りようとして、
   にわかに、列を乱して飛び去りました。

   義家は、匡房から、教えられたことを、思いだし、
   「雁の列が乱れるのは、伏兵があるためであろう。」と、
   言って、兵士に、探させました。

   果たして、大勢の敵が、隠れていました。

   何事をするにも、知識を磨かなければなりません。
   玉磨かざれば光無し、人学ばざれば知無し。

(15)第十五 「迷信を避けよ」

   臆病な侍が、闇の晩に、淋しい道を通りました。

   垣の上から、大頭の化け物が見えたので、
   驚いて、刀を抜いて、斬り付けました。

   翌日、行って見ますと、ひょうたんが二つに切れていました。

   ある所に、祈祷をする者がありました。

   ある日、祈祷をして、みきどっくりの中へ、ごへいを差し込むと、
   ごへいが、動き出しました。

   「これは、神が、ごへいに、乗り移った証である。」と、
   人々に告げていましたら、風のために、みきどっくりが、倒れて、
   中から、どじょうが、4,5匹、躍り出ました。

   世間で、言いふらす怪しいことは、多くは、このたぐいであります。

(16)第十六 「礼儀」

   人は、礼儀を守らねばなりません。
   礼儀を守らないと、人に卑しまれます。

   人には、言葉遣いを丁寧にし、また、行儀を良くせねばなりません。
   人から手紙を受けて、返事のいる時は、速やかに、返事をせねばなりません。

   人と親しくなると、礼儀を忘れるように、なりやすいが、
   親しい仲でも、礼儀を守らないと、長く、仲良く、付き合うことが出来ません。

   親しき仲にも、礼儀あり。

(17)第十七 「人の名誉を重んぜよ」

   この若者は、人の悪口を言うことを好み、
   良い人にも、色々のあだ名を付けて、あざけりました。

   それがため、村の人に、憎まれ、
   とうとう、その村に住んでいることが出来なくなりました。

   人を悪く言えば、人から憎まれます。

   すべて、人の名誉を傷つけるようなことをしてはなりません。

(18)第十八 「博愛」

   水夫虎吉らは、暴風にふき流され、2ヶ月ばかりも、海の中に漂っていました。
   そのうち、貯えの食物もなくなり、たいそう、難儀をしました。

   やがて、アメリカの鯨を捕る船に、出会いましたが、
   船長は、親切に、虎吉らを労り、アメリカから、香港へ通う船に、頼んで、
   香港まで、送ってくれました。

   香港には、日本人で、仕立屋を業としている者がおり、
   親切に、世話をして、フランスの船に頼んで、
   清国の港まで、送ってくれました。

   それから、船に乗って、日本に帰ることが出来ました。

   外国の船が、ふき流されて、我が国に着いたことも、たびたび、ありましたが、
   我が国でも、これに食物を与えて、無難に、帰れるように、世話をしました。

   こういう事をするのが、博愛の道であります。

(19)第十九 「公益」

   京都の西に、大堰川という川があります。
   流れも平らかでなく、川の中に、多くの岩があって、
   舟を通わすことが出来ませんでした。

   三百年ほど前に、角倉了以という人が、初めて、
   この川を開いて、舟の通うようにしました。

   これには、色々と、工夫して、し遂げたのであります。

   その後、了以は、また、富士川の川ざらえを言いつけられ、
   それをもし遂げました。

   また京都の賀茂川に沿って、高瀬川という川を掘り割ったので、
   それで、大阪と京都との運送の便利が、良くなりました。

   これらは、全て、公益を、図ったのであります。

(20)第二十 「兵役」

   我が国の男子は、満十七歳から、満四十歳まで、
   国のために、兵役に就く義務があります。

   それゆえ、我らは小さい時から、気をつけて、
   行いを慎み、身体を丈夫にしておいて、兵役に就き、
   国民の義務を尽くさねばなりません。

(21)第二十一 「納税」

   我が国には、たくさんの兵士があって、国を守っています。
   また、多くの役所があって、人民のためを図ったり、
   悪い者を罰したりして、色々の政治を行っております。

   また、たくさんの学校があって、国民に大切な学問を教えております。

   国民は、これらの費用に充てるために、租税を納める義務があります。
   租税を納めるについては、偽りを申し立てたり、
   期限に遅れたりしては、なりません。

(22)第二十二 「教育」

   我が国を盛んにするには、国民一人一人が良い人にならねばなりません。
   それには、皆が、教育を受けて、徳を修め、知を磨くのが大切であります。

   我が国民は、満六歳になると、尋常小学校に入って、教育を受けねばなりません。

(23)第二十三 「議員選挙」

   市には市会、町には町会、村には村会があって、
   その市町村の公の事柄を評議します。

   その議員は、皆、市町村の公民が、公民の中から、選挙した者であります。

   選挙をするには、市町村のためを良く考えて、良い人を選挙せねばなりません。
   議員に選挙されたら、市町村のためを考えて、
   十分に、その務めを尽くさねばなりません。

(24)第二十四 「法令を重んぜよ」

   幕府の重い役人に、松平定信という人がありました。
   ある年、京都へ上る道で、笠をかぶったまま、箱根の関所を通ろうとしました。

   関所の役人は、声をかけて、
   「規則によって、笠をお取り下さい。」と、言いました。

   定信はこれを聞くと、すぐに、笠を取って、通りました。

   やがて、使いをその役人のもとにやって、
   「先程、笠をかぶったまま、関所を通ろうとしたのは、
   我が不注意で、まことに、悪かった。
   関所の規則を曲げずに、良く、咎めてくれた。感心なことだ。」と、褒めました。

   法令を重んぜねばなりません。

(25)第二十五 「人は万物の長」

   人は万物の長と申します。

   そのわけは、草や木は、自由に、動くことも出来ず、
   魚や鳥や獣は、動くことが出来ても、人のような知識がありません。

   また、人には良心があって、良し悪しをわきまえ、
   悪いことをしようと思うと、良心が咎めます。

   また、人は、世のため、人のために、なることをするのが、務めだと知っています。

   それゆえ、人は万物の長と申すのであります。
   万物の長と生まれた者は、徳を修め、知を磨き、
   人の人たる道を尽くさねばなりません。

(26)第二十六 「男の務めと女の務め」

   男は、家の主人となって、家業を務め、
   女は、男を助けて、家の世話をするものであります。

   男の務めと、女の務めとには、かように、違う所がありますから、
   その心がけも、違わねばなりません。

   修身の心得は、男も女も守らねばなりません。
   男は活発で、女は優しくなければなりません。
   
   礼儀作法は、男にも、女にも、大切であります。

   知識は、男にも、女にも、大切でありますから、
   おのおの、その務めを尽くすために、必要な知識を磨かねばなりません。

   女を男よりも劣っているものだと思うのは、間違いであります。

   ただ、男の務めと、女の務めとは、違うことを思って、
   銘々、その本分を忘れないようにせねばなりません。

(27)第二十七 「良い日本人」

   神武天皇が、お位にお就きになってから、今日まで、二千五百余年になります。

   その間、御代々の天皇は、臣民を子のように恵み給い、
   臣民も、また、皇室の栄えるように願いました。

   我らも、良い日本人となって、
   皇室を敬い、我が大日本帝国を守らねばなりません。

   我らは、父母に孝行を尽くし、兄弟の間は、仲良くし、
   親類と親しみ、召使いを憐れまねばなりません。

   我らは、常に、学問を励み、知識を磨き、迷信を避け、
   身体を丈夫にし、勇気を養い、志を固くして、
   忍耐の習慣を作らねばなりません。

   また、正直で、約束を守り、時を無駄にせず、勤勉で、倹約で、
   友達には、信義を尽くし、自分のことを誇らず、

   人の過ちは、許し、自分は、過ちをしないように気をつけ、
   人の名誉を重んじ、人には、親切を尽くし、
   人に交わるには、礼儀を失わないようにせねばなりません。

   また、人と力を合わせ、近所の人と親しみ、広く、人を愛し、
   また、世のため、人のために、有益な仕事をせねばなりません。

   その上、公民としては、公民の心得を守り、
   国民としては、国民の心得を守らねばなりません。

   常に、これらの心得を守ると、明治23年10月30日に、
   下された勅語の御趣意に、従い奉ることになります

           <感謝合掌 平成27年5月13日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第二期 尋常小学修身書 第四学年用~その1 - 伝統

2015/05/19 (Tue) 04:45:51

(1)第一 「天皇陛下」

   明治27、8年の戦の時、天皇陛下は大本営を広島へ御進めになりました。
   その時の御座所は粗末な西洋作りの一室であったので、
   おそばの人々がたびたび御建て増しのことを申し上げました。

   けれども陛下は「今日の場合それにはおよばぬ。」と仰せられて、
   御許しがありませんでした。

   また陛下は朝早くから夜遅くまで、御軍服のままで、戦のことを初め、
   色々の事を御指図あそばされて御いそがしくあらせられたことは、
   まことにおそれ多いことでありました。


(2)第二 「能久親王」

   清国が台湾を我が国に譲った時、
   台湾に居った清国の者が、なお我が国に、手向かいました。

   能久親王はこれを御征伐になりましたが、
   兵士と共にたいそう御難儀をなさったけれども、少しもおいといになりませんでした。

   その後、親王は御病気におかかりになりましたので、
   軍医は、御留まりになって御養生あそばされるように申し上げました。

   親王は「我が身のために国の大事をおろそかにすることは出来ぬ。」と仰せられ、
   かごに乗って御進みになりました。

   親王はかように国のために御尽くしになりましたが、
   御病気が重くなって、終に御隠れになりました。


(3)第三 「忠君愛国」

   明治10年熊本の城が賊軍のために囲まれました。

   その時城を守っていた谷少将は城の中の様子を遠くの官軍に知らせようと思い、
   その使いを谷村計介に言いつけました。

   計介は身にすすを塗り込み、着物を替え、夜に紛れて城を出ました。

   途中で賊のために二度も捕らえられ、色々難儀な目に遭いましたが、
   とうとう官軍の本営に行き着いて、首尾良くその使いを果たしました。


(4)第四 「靖国神社」

   靖国神社は東京の九段坂の上にあります。
   この社には国のために死んだ人々を祀ってあります。

   春と秋との祭日には、勅使を遣わされ、臨時大祭には
   天皇・皇后両陛下の御地神に御参拝になる事もあります。

   忠臣義士のためにこのように懇ろなお祭りをするようになったのは、
   天皇陛下の思し召しによるのであります。

   我等は陛下の御恵みの深い事を思い、ここに祀ってある人々に習って、
   国のため君のために尽くさなければなりません。


(5)第五 「志を立てよ」

   豊臣秀吉は尾張の貧しい農家の子で、8歳の時父に別れました。
   秀吉は小さい時から立派な人になろうと志を立てていましたが、
   16歳の時ただ一人遠江へ行って、松下加兵衛という武士に仕えました。

   秀吉は主人のためによく働いて、だんだん引き立てられましたが、
   仲間の者にそねまれたので、暇を貰って尾張へ帰りました。

   その後、秀吉は織田信長が偉い大将であるということを聞いて、
   つてを求めて信長に仕えました。


(6)第六 「職務に勉励せよ」

   秀吉は信長に仕えてからも、人に優れて良く働きました。
   その頃木下藤吉郎秀吉と名乗っていましたが、ある日信長が敵を攻めるため、
   夜の明けないうちに、城を出ようとした時、秀吉はただ一人馬に乗って待っていました。

   ある年城の塀が百間ばかり崩れました。

   信長は家来に言いつけて普請をさせましたが、
   二十日ほどたってもはかどりませんので、改めて秀吉にその役を言いつけました。

   秀吉は人夫を急がせて、明くる日にそれを仕上げました。
   秀吉はこんなに仕事に励みましたから、次第に重く用いられました。


(7)第七 「皇室を尊べ」

   秀吉は信長の亡くなった後国内を平らげ、おいおい高い位に昇りました。
   その頃世の中が乱れていたために、皇室は大そう御不自由がちであらせられたので、
   秀吉は力を尽くして皇室の御ためをはかりました。

   秀吉は京都に屋敷を構えて居りましたが、
   ある年その屋敷に天皇の行幸を御願い申しました。

   御道筋には多くの人々が拝観していて、中にはこの太平の有様に感じて
   涙を流して喜んだ者もありました。

   この時秀吉は大名達に皇室を尊ぶことを天皇の御前で誓わせました。

   京都の豊国神社は秀吉を祀ってある社であります。


(8)第八 「孝行」

   昔播磨にお房という孝行な女がありました。
   家が貧しいため、8歳の時から、子守りなどに雇われて、暮らしを助けました。
   また父が草履や草鞋を作る側で、藁を打って手伝いました。

   11歳の時から、奉公に出ましたが、主人から頂いた物は父母に送りました。
   また暇があれば主人の許しを受けて家に帰り、懇ろに両親を慰め労りました。

   お房はかように親を大切にしたので、役所から、褒美をいただきました。

   孝は親を安んずるより大いなるはなし。


(9)第九 「兄弟」

   昔兄弟二人が田地の争いをして、役所に訴え、裁判を願いました。

   泉八右衛門という役人は、その裁判をするために、
   二人を自分の家へ呼び寄せ、狭い一室の中で待たせておきました。

   二人は初めは離れていて、話もしなかったが、
   長い間待っているうちに、だんだん一つの火鉢によって手をあぶり、
   互いに話をするようになりました。

   そのうちに小さい時、父母のそばで仲良く遊んだことなどを思い出し、
   今更こんな争いをしたことを後悔して、仲直りをしました。

   その後二人は仲の良い兄弟になりました。

   兄弟は両手の如し。


(10)第十 「召使」

   お綱は15歳の時、子守り奉公に出ました。

   ある日主人の子供をおぶって遊んでいると、
   一匹の犬が来て、お綱にかみつきました。

   お綱は驚いて、逃げようとしましたが、逃げる暇がなかったので、
   おぶっていた子供を下ろし、自分がその上にうつ伏せになって子供をかばいました。

   犬は激しく飛びかかって、お綱に食いつき、多くの傷をおわせましたが、
   お綱は子供をかばって少しも動きませんでした。

   その内に人々が駆けつけて犬を打ち殺し、
   お綱を介抱して主人の家に帰らせました。

   子供には怪我がなかったが、お綱の傷は大変に重くて、
   そのために、とうとう死にました。

   これを聞いた人々はいずれも感心して、お綱のために石碑を建てました。


(11)第十一 「身体」

   伴信友は朝起きた時と、夜寝る時には、いつでも姿勢を正しくして座り、
   三、四十回も深呼吸をし、また毎朝冷たい水で頭を冷やしました。

   そのほか朝と晩には弓を引いたり、刀を振ったりして、運動を努めました。

   かように信友は常に身体を大切にしたので、年を取っても丈夫で、
   たくさんの本を著す事が出来ました。

   我等は常に姿勢に気をつけ、運動を怠らず、着物は清潔にし、
   眠りや食事は規則正しくしなければなりません。

   また身体に垢をつけておいたり、薄暗い所で物を見たりなどしてはなりません。


(12)第十二 「自立自営」

   高田善右衛門は十七歳の時自分で働いて家を興そうと思い立ちました。

   父からわずかの金をもらい、それを元手にして灯芯と傘を買入れ、
   遠い所まで商売に出かけました。

   そこには山が多くて道が険しかったので、
   大きな荷物を担いで通るにはたいそう難儀でありました。

   善右衛門は苦しい思いをして幾たびも険しい山坂を越えました。

   また時々淋しい野原を通った事もありました。

   このように難儀をして村々を廻って歩き、雨が降っても、風が吹いても、
   休まずに、何年も働いたので、僅かの元手で多くの利益を得ました。


(13)第十三 「自立自営」(続き)

   善右衛門はその後呉服を仕入れて売りに歩きました。
   いつも正直で、倹約で、商売に勉強しましたから、立派な商人になりました。

   ある時善右衛門は商売の荷物を持たないで、ある宿屋に泊まりました。

   知り合いの下女が出て来て、
   「今日はお連れがございませんか。」と言いました。

   善右衛門は不思議に思って、「いつも一人で来るのに、お連れとは誰の事ですか。」
   と尋ねましたら、下女が、「それは天秤棒のことでございます。」と言いました。

   善右衛門は常に自分の子供に「自分が家をおこすことの出来たのは、
   精出して働いて、倹約を守り、また正直にして無理な利を
   むさぼらなかったからである。」と言って聞かせました。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第二期 尋常小学修身書 第四学年用~その2 - 伝統

2015/05/25 (Mon) 04:27:26

(14)「志を固くせよ」

   イギリスのジェンナーはふとした事から、種痘の事を思い付きました。

   人に笑われても、少しもかまわずに、色々と工夫を凝らし、
   二十三年もかかって、とうとう、その仕方を発明し、
   まず自分の子に植えてみた上、書物に書いて世間の人に知らせました。

   発明をしてからも、ジェンナーは色々と悪口を言われましたが、
   ますます志を固くして工夫を続けておりました。

   その内にこの発明の事がだんだん世間に広まり、
   今では我等もそのおかげを被って居るのであります。


(15)第十五 「知識を広めよ」

   八幡太郎義家はある日よそへ行って、戦の話をしていました。

   大江匡房という学者がそれを聞いて、
   「良い武者であるが、惜しいことには、戦の学問を知らない。」と、
   独り言を言いました。

   義家の共のものがそれを聞いて、義家に告げました。

   義家はすぐに匡房に頼んで弟子になり、戦のことを学びました。

   その後また戦があって、義家が敵を攻めに行った時、
   遙か彼方の田へ、多くの雁が降りようとして、にわかに列を乱して飛び去りました。

   義家は匡房から教えられたことを思いだし、
   「雁の列が乱れるのは伏兵があるためであろう。」と言って、兵士に探させました。

   果たして大勢の敵が隠れていました。

   玉磨かざれば光無し、人学ばざれば知無し。


(16)第十六 「迷信を避けよ」

   ある町に目を患っている女がありました。
   迷信の深い人で、かねてある所のお水が目の病に良いという事を
   聞いていたので、それを用いました。

   けれども目は日々悪くなるばかりでありました。

   ある日親類の人が見舞いに来て、病気の重いのに驚いて、
   無理に医者の所へ連れて行って見て貰わせました。

   医者は診察をして、
   「早くお出でになったら良かったに、今になっては直す事が難しい。」と言いました。

   これを聞いて病人は初めて道理に合わぬ事を信じたのを後悔しました。


(17)第十七 「克己」

   後光明天皇は御生まれつきたいそう雷が御嫌いであらせられました。
   ある時書物を御読みになって御感じになり、
   雷の御嫌いなのを直そうと思し召されました。

   それで雷が激しく鳴った日わざとみすの外へ御出になり、
   雷のやむまで静かに座って御出になりました。

   それからは雷を御恐れあそばす御模様がなくなりました。

   自分の性質を直すのを克己と申します。

   良い人になろうとするには克己は大切な事であります。


(18)第十八 「礼儀」

   人は礼儀を守らなければなりません。
   礼儀を守らなければ人に卑しまれます。

   常に言葉遣いを丁寧にし、また行儀を良くしなければなりません。
   人から手紙を受けて返事のいる時は、すみやかに返事をしなければなりません。

   人と親しくなると礼儀を忘れるようになりやすいが、親しい仲でも
   礼儀を守らなければ、長く仲良く付き合う事が出来ません。

   親しき仲にも礼儀あり。


(19)第十九 「生き物を憐れめ」

   ナイチンゲールはイギリスに生まれ、小さい時から情け深い娘でありました。
   ある時羊飼いの犬が足を傷めて苦しんでいるのを見て、
   傷口を洗い、包帯をしてやりました。

   明くる日もまた行って手当をしてやりました。

   それから二、三日たって、ナイチンゲールは羊飼いの所へ行きました。

   犬は傷が治ったと見えて、羊の番をしていましたが、
   ナイチンゲールを見ると、嬉しそうに尾を振って、
   お礼を言うような様子をしました。


(20)第二十 「博愛」

   ナイチンゲールが三十四歳の頃クリミア戦争という激しい戦がありました。

   戦が激しかった上に、悪い病気がはやったので、
   病兵や負傷兵がたくさん出来ましたが、医者も看護をする人も少ないため、
   たいそう難儀をしました。

   ナイチンゲールはそれを聞いて、大勢の女を引き連れて戦地へ出かけ、
   看護の事に骨折りました。

   戦争が済んで国へ帰りました時、
   ナイチンゲールはイギリスの女帝からお褒めにあずかりました。

   また人々もその博愛の心の深いことに感心しました。


(21)第二十一 「国旗」

   この絵は、紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、
   子供等が見て、喜ばしそうに話をしている所であります。

   どこの国にもその国の証の旗があります。

   これを国旗と申します。

   日の丸の旗は我が国の国旗であります。

   我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。
   その外、我が国の船が外国の港に泊まる時にも之を立てます。

   国旗はその国の証でありますから、
   我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。


(22)第二十二 「祝日・大祭日」

   我が国の祝日は、新年・紀元節・天長節の三つで、これを三大節と申します。

   新年は年のはじめ、紀元節は二月十一日で、神武天皇が御位につかせられた日、
   天長節は十一月三日で、天皇陛下の御生まれになった日、
   いずれもめでたい日であります。

   大祭日は一月三日の元始祭、一月三十日の孝明天皇祭、春分の春季皇霊祭、
   四月三日の神武天皇祭、秋分の秋季皇霊祭、十月十七日の神嘗祭、
   十一月二十三日の新嘗祭であります。

   祝日・大祭日は大切な日で、宮中ではおごそかな御儀式があります。

   我等はよくその日のいわれをわきまえて、忠君愛国の心を養わなければなりません。


(23)第二十三 「法令を重んぜよ」

   昔幕府の重い役人に松平定信という人がありました。

   ある年京都へ行って御所に行きました。

   下乗の立て札のある所でかごから降り、槍などもそこに残しておき、
   よく御規則を守って、少しも無礼な振る舞いがありませんでした。

   またある年定信は笠をかぶったまま根府川の関所を通ろうとしました。
   関所の役人の一人が「規則によって笠をお取り下さい。」と言いました。
   定信はこれを聞くとすぐに笠を取って通りました。

   その日宿に着いて後、定信は来合わせていた小田原藩の家老に
   「今日笠をかぶったまま関所を通ろうとした時、一人の役人が心付けてくれたのは
   真にありがたい。その者に厚く礼を伝えてくれよ。」と挨拶をしました。


(23)第二十四 「公益」

   昔栗田定之丞という役人がありました。

   海岸の村々では暴風が砂を吹き飛ばして、家や田畑を埋める事が毎度あったので、
   定之丞は之を防ごうといろいろ工夫しました。

   まず海岸の風の吹く方に、藁束を立て連ねて砂を防ぎ、
   その後ろに、柳やグミの枝をささせました。

   皆芽をふくようになってから、更に松の苗木を植えさせましたら、
   次第に大きくなって立派な林になりました。

   定之丞は18年の間この事に骨折りましたが、
   そのために風や砂の憂いが無くなって、畑も多く開けました。

   この地方の人々は今日までもその恩をありがたがり、
   定之丞のために栗田神社という社を建てて、年々のお祭りを怠りません。


(25)第二十五 「人の名誉を重んぜよ」

   昔伊藤東涯・荻生祖来という二人の名高い学者がありました。

   祖来は常に東涯のことを褒めたり誹ったりしていましたが、
   東涯は少しも祖来のことをとやかく言いませんでした。

   ある日東涯の弟子が祖来の書いた文を持って来て、東涯に見せました。

   その場に弟子が二人居合わせましたが、これを見てひどく悪口を言いました。

   東涯は静かに二人に向かって、
   「めいめい考えが違っても、軽々しく悪口を言うものではない。
   ましてこの文は立派な物で、外の人はとても及ばないであろう。」
   と言って聞かせたので、弟子どもは深く恥じ入りました。


(26)第二十六 「人は万物の長」

   人は万物の長と申します。

   そのわけは、草や木は自由に動くことも出来ず、
   鳥や獣は動くことが出来ても、人のような知識がありません。

   また人には良心があって、善悪をわきまえ、
   悪いことをしようと思うと、良心が咎めます。

   また人は世のため人のためになることをするのが務めだと知っています。

   それゆえ人は万物の長と申すのであります。

   万物の長と生まれた者は、徳を修め知を磨き、
   人の人たる道を尽くさなければなりません。


(27)第二十七 「良い日本人」

   我等は常に天皇陛下の御恩を被る事の深い事を思い、
   忠君愛国の心を励み、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、
   祝祭日のいわれをわきまえて、良い日本人になろうと心がけなければなりません。

   日本人には忠義と孝行が一番大切な務めであります。

   父母には孝行を尽くし、兄弟仲良くして互いに争うことなく、
   召使いとなっては主人を大切に思わなければなりません。

   人に交わるには、良く礼儀を守り、他人の名誉を重んじ、
   公益に力を尽くし、博愛の道に努めなければなりません。

   そのほか知識を広め、迷信を避け、身体を丈夫にし、
   克己のならわしをつけ、志を立てて自立自営の道をはかり、
   職務には勉励し、志を固くして事をし遂げなければなりません。

   また人は万物の長であることを忘れないで、人たる道を尽くさなければなりません


           <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その1 - 伝統

2015/05/30 (Sat) 04:02:09

(1)第一 「明治天皇」

   明治天皇は常に人民を子のようにお慈しみになり、
   之と苦楽をともにあそばされました。

   明治11年天皇は北国巡幸の時、新潟県で目の悪い者が多いのを御覧あそばされて、
   それを直す為に御手元金を下されました。

   また天皇は地震・洪水・火事などの災難にかかった人民を度々お救いになりました。

   明治22年愛知県で大演習のあった時、天皇は激しい雨の降る中で、
   兵士と同じように御頭巾をも召されず、御統監になりました。

   明治27、8年の戦の時、天皇陛下は大本営を広島へ御進めになりましたが、
   大本営は質素な西洋作りで、その一間が御座所でございました。

   天皇はこの御間にばかり始終お出でになって、
   朝早くから夜遅くまで、色々御指図あそばされました。

   天皇は常に御質素にあらせられました。

   表御座所でお用いの硯箱や、筆・墨などもみな普通のもので、
   これを役に立たなくなるまで、お使いになりました。

   またこの御間の敷物は、古くなって色が変わってもおかまいなく、
   御椅子の下の毛皮も、破れた所をたびたび繕わせて、
   なかなかお取り替えになりませんでした。


(2)第二 「能久親王」

   能久親王は明治28年5月台湾の賊軍を御征伐なさるために、
   かの地へお渡りになりました。

   お着きになってもお休みになるような家がないので、
   砂の上に幕を張り、粗末な、薩摩芋の蒸し焼きを差し上げました。

   それからだんだん軍をお進めになりましたが、兵士と共にたいそう難儀をなされ、
   御病気におなりになっても少しもおいといなされず、御指図なさいました。

   賊は大抵平らぎましたが、南の方にまだ残りの賊がいましたので、
   その方へお進みになりました。

   その途中また御病気におかかりなさいました。

   軍医は「御留まりになって御養生あそばしますように。」と申し上げましたが、
   親王は「我が身のために国の事をおろそかにすることは出来ぬ。息のある限りは続ける。」
   と仰せられ、窮屈なかごに乗って御進みになりました。

   親王はかように国のために御尽くしになりましたが、
   御病気が重くなって、間もなく御隠れになりました。


(3)第三 「靖国神社」

   靖国神社は東京の九段坂の上にあります。
   この社には君のため国のために死んだ人々を祀ってあります。

   春4月30日と秋10月23日の祭日には、勅使を遣わされ、
   臨時大祭には天皇・皇后両陛下の行幸啓になることもございます。

   君のため国のために尽くした人々をかように社に祀り、
   また丁寧なお祭りをするのは天皇陛下の思し召しによるのでございます。

   私どもは陛下の御恵みの深いことを思い、ここに祀ってある人々に倣って、
   君のため国のために尽くさなければなりません。


(4)第四 「志を立てよ」

   豊臣秀吉は木下弥右衛門の子で、
   尾張の貧しい農家に生まれ、8歳の時父に死に別れました。

   秀吉は小さい時から偉い人になろうと志を立てていましたが、
   良い主人に仕えようと思って、16歳の時遠江へ行きました。

   途中で松下加兵衛という武士にあって、その人に仕えることになりました。
   秀吉はよく働きましたので、主人の心にかない、だんだん引き立てられました。

   けれども仲間の者にそねまれたので、暇を貰って尾張へ帰りました。

   その後秀吉は織田信長が優れた大将であるということを聞いて、
   つてを求めて信長の草履取りになりました。

   これから秀吉はだんだん出世をしました。


(5)第五 「皇室を尊べ」

   秀吉は信長の亡くなった後、国内を平らげ、おいおいと位が昇って、
   仕舞いには関白太政大臣となり豊臣の姓を頂戴しました。

   その頃の天皇は正親町天皇と申し上げましたが、世の中が乱れていたために、
   おそれ多くも皇居の御普請も十分出来ず、御不自由がちであらせられました。

   秀吉は力を尽くして皇室の御ためをはかりましたので、天皇は御喜びになりました。

   その後秀吉は京都に屋敷を構えて聚楽と名を付けましたが、
   ある年その屋敷に後陽成天皇の行幸を御願い申し上げました。

   その時秀吉は文武の役人を従えて、御共を致しました。

   御道筋には多くの人々が拝観していて、久しぶりにこの太平の有様を見て喜びました。

   また聚楽では秀吉が大名達に皇室を尊ぶことを天皇の御前で誓わせました。

   京都の豊国神社は秀吉を祀ってある社でございます。


           <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その2 - 伝統

2015/06/05 (Fri) 04:08:39

(6)第六 「孝行」

   渡辺登は十四歳の頃、家が貧しい上に父が病気になったので、
   どうかして家の暮らしを助けて、父母の心を休めたいと、考えました。

   登は初め、学者になろうと思って、学問を勉強しましたが、ある時、人から
   「絵を描くことを稽古したら、暮らしの助けになるだろう。」と勧められ、
   すぐある先生について、絵を習いました。

   父は二十年ばかりも病気をしていましたが、
   登はその長い間、看病をして、少しも怠りませんでした。

   父が亡くなった時、たいそう悲しんで、泣きながら、筆を取って、父の顔形を写しました。

   葬式が済んだ後も、朝晩着物を改め、謹んで父の絵姿に礼拝をしました。

   孝は親を安んずるより大いなるはなし。


(7)第七 「兄弟」

   登の弟や妹は、皆早くからよそへやられました。

   八つばかりになる弟が、外へ連れて行かれる時、登は弟の不幸せを悲しんで、
   雪が降って寒いのに、遠い所まで送って行って別れました。

   その弟が知らない人に手を引かれ、後ろを振り向きながら行った姿が、
   あまりに可哀相であったので、登はいつまでもその時のことを思い出して歎きました。


(8)第八 「勉強」

   登は先に人の薦めにより、ある先生について、絵を習っていましたが、
   お礼が十分に出来なかったため、2年ばかりで断られました。

   登は力を落として泣いていたら、父が「これくらいな事で力を落としてはならぬ。
   外の先生について勉強せよ。」と言いました。

   登は父の言葉に励まされて、外の先生について習いました。
   その先生は良く教えてくれられましたから、登の技はだんだん進みました。

   そこで登は絵を描いてそれを売り、家の暮らしを助けながら、
   なおなお絵の稽古を励みました。

   またその間に学問もしましたが、暇が少ないので、
   毎朝、早く起きてご飯を炊き、その火の明かりで本を読みました。

   艱難汝を玉にす。


(9)第九 「規律」

   登は父が亡くなってから、その跡を継いで、だんだん重い役に取り立てられました。
   その頃から日々の仕事を定めて、朝昼晩ともそれぞれ時刻に割り当て、
   それを箇条書きにして、その通り行いました。

   こんなに登は規律正しくしたので、絵がたいそう上手になったばかりでなく、
   学問も進んで偉い人になり、世間の人々から敬われるようになりました。


(10)第十 「克己」

   高崎正風は薩摩の武士の家に生まれました。

   九歳の頃、或朝、食事の時に、「おかずがまずい。」と言って食べませんでした。

   召使いは何か他におかずをこしらえようとしますと、隣の間に居た母が来て、

   「お前は武士の子でありながら、食べ物についてわがままを言いますか。
   昔戦の時には殿様さえ召し上がり物がなかったこともあるというではありませんか。
   どんな苦しいことでも我慢をしなければ、良い武士にはなれません。
   このおかずがまずければ食べないがよろしい。」と言って正風の膳を持ち去りました。

   正風は一度母の言をひどいと思いましたが、
   遂に自分のわがままであったことに気が付いて、
   何遍も母に詫び、姉もまた詫びてくれましたので許されました。

   その時、これからは食事について決してわがままを言うまいと誓いました。

   それから正風はこの誓いを守るばかりでなく、どんな難儀なことでも、
   よく我慢したので、後には、立派な人になりました。

           <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その3 - 伝統

2015/06/12 (Fri) 03:32:16

(11)第十一 「忠実」

   お綱は若狭の漁師の娘で、十五歳の時、子守り奉公に出ました。
   ある日主人の子供をおぶって遊んでいると、一匹の犬が来て、お綱に飛びかかりました。
   お綱は驚いて、逃げようとしたが、逃げる暇がない。

   急におぶっていた子供を地面に降ろし、
   自分がその上にうつ伏せになって、子供をかばいました。

   犬は激しくお綱にかみついて、多くの傷をおわせましたが、
   お綱は少しも動きませんでした。

   その内に人々が駆けつけて、犬を打ち殺し、
   お綱を介抱して、主人の家に帰らせました。

   子供には怪我がなかったがお綱の傷はたいそう重くて、そのために、とうとう死にました。

   これを聞いた人々はいずれも深く感心して、お綱のために石碑を建てました。


(12)第十二 「身体」

   伴信友は常に健康に心掛けました。

   毎日朝起きた時と、夜寝る時に姿勢を正しくして座り、
   三、四十遍も深呼吸をし、また毎朝冷たい水で頭を冷やしました。

   その他朝晩弓を引いたり、刃をつぶした刀を振ったりして、良く運動しました。

   かように身体を大切にしたので年を取っても丈夫で、
   たくさんの本を著すことが出来ました。

   すべて身体を丈夫にするには、姿勢に気をつけ、運動を怠らず、
   着物は清潔にして、厚着や、薄着に過ぎない様にし、
   眠りと食事は規則正しくしなければなりません。

   また身体を汚くしておくと病気が起こりやすく、薄暗い所で物を見ると目を痛めます。


(13)第十三 「自立自営」

   近江に高田善右衛門という商人がありました。

   17歳の時、自分で働いて家を興そうと思い立ちました。

   父からわずかの金をもらい、それを元手にして、灯芯と傘を買入れ、
   遠い所まで商売に出かけました。

   道には険しい山坂が多かったので、善右衛門はかさばった荷物を担いで登るのに、
   たいそう難儀をしましたが、片荷ずつ運び上げて、ようよう山を越えたこともありました。

   また時々は淋しい野原をも通って、村々を廻って歩き、
   雨が降っても、風が吹いても、休まずに働いたので、
   僅かの元手で、多くの利益を得ました。

   その後呉服類を仕入れて方々に売りに歩きました。

   いつも正直で、倹約で、商売に勉強しましたから、だんだんと立派な商人になりました。


(14)第十四 「自立自営」(続き)

   善右衛門は人に頼らず、一筋の天秤棒を肩にして商売に励みました。
   ある時善右衛門は商売の荷物を持たないで、いつもの宿屋に泊まりました。

   知り合いの女中が出て来て「今日はお連れはございませんか。」と言いました。

   善右衛門は不思議に思って、「始終一人で来るのに、お連れとは誰の事ですか。」
   と尋ねましたら、女中が、「それは天秤棒のことでございます。」と言いました。

   善右衛門は常に自分の子供に教えて、
   「自分は初めから人に頼らず、自分の力で家を興そうと心掛けて、精出して働き、
   またその間倹約を守り、正直にして無理な利益をむさぼらなかったので、
   今のような身の上となったのである。」と言って聞かせました。


(15)第十五 「志を堅くせよ」

   イギリスのジェンナーはふとした事から、
   牛痘を植えて疱瘡を予防する事を思い付きました。

   友達にその話をすると、友達は皆あざけり笑って、
   「付き合いを止める。」とまで言いました。

   それでも少しも構わず、二十年余りの間様々に工夫を凝らし、
   とうとう種痘の法を発明しました。

   まず自分の子に牛痘を植えてみた上、書物に書いて世間の人に知らせました。

   ジェンナーはその後も色々と悪口を言われましたが、
   ますます志を堅くして研究を続けていました。

   その内に種痘が人助けの良い法であると知れて、広く世間に行われるようになりました。
   今では我等もそのおかげを被って居るのでございます。

           <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その4 - 伝統

2015/06/18 (Thu) 04:05:46

(16)第十六 「仕事に励め」

   円山応挙は毎日京都の祇園社へ行って、多くの鶏の遊ぶ有様をじっと見ていたので、
   人々が馬鹿者ではないかと思いました。

   こんなにして1年も経って、衝立に鶏の絵を描いたら、生きているように出来ました。

   その衝立は祇園社に納めました。

   これを見る人々はみんな立派だと褒めるだけでしたが、
   ある日野菜売りの老人がしばらく見ていた後、
   「鶏の側に草の描いてないのがたいそう良い。」と独り言を言いました。

   応挙は老人の家へ訪ねて行ってそのわけを尋ねると、
   老人は「あの鶏の羽の色は冬のものです。それで側に草の描いてないことが
   たいそう良いと思ったのです。」と答えました。


   ある時応挙はまた寝ている猪を描こうとしました。

   八瀬の柴売り女が自分の家の後ろの竹藪に一匹の猪が寝ていると知らせたので、
   すぐ一緒に行って、その有様を描きました。

   鞍馬から来た炭売りの老人が、その絵を見て、
   「この猪は背中の毛が立っていないから、病気にかかっているのでしょう。」
   と言いました。

   その後で八瀬の女が来て「あの猪はあそこで死んでいました。」と告げました。

   そこで応挙は改めて達者な猪の寝ている所を見て描きましたら、
   世間の人が褒めそやして、一時に応挙の評判が上がりました。


(17)「迷信に陥るな」

   ある町に目を患っている女がありました。

   迷信の深い人で、かねてある所のお水が、目の病に良いという事を聞いていたので、
   それを貰って来て用いました。

   けれども病は日々重くなるばかりで、何の徴も見えませんでした。

   ある日親類の人が見舞いに来て、驚いて、
   無理にお医者の所へ連れて行って、見て貰わせました。

   お医者は診察をして、「これは激しいトラホームです。右の目は手遅れになっているので、
   治すことが出来ません。左の目はまだ見込みがありますから、手術をしてみましょう。
   これも今少し遅れたら、手の着けようもなかったでしょう。」と言いました。

   その後手術を受けたおかげで、左の目はようよう治りましたが、
   その女は、「自分の愚かなため、道理に合わないことを信じて、まったくの
   めくらになろうとしました。恐ろしいのは迷信でございます。」と常々人に話しました。



(18)「礼儀」

   人は礼儀を守らなければなりません。

   礼儀を守らなければ、世に立ち人に交わることが出来ません。

   人に対しては、言葉遣いを丁寧にしなければなりません。

   人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、
   目配せしたりするような不行儀をしてはなりません。

   人に送る手紙には、丁寧な言葉を使い、
   人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。

   また人に宛てた手紙を、許しを受けずに開いて見たり、
   人が手紙を書いているのを、覗いたりしてはなりません。

   その他、人の話を立ち聞きするのも、人の家を透き見するのも良くないことです。

   人と親しくなると何事もぞんざいになりやすいが、
   親しい仲でも礼儀を守らなければ、長く仲良く付き合う事が出来ません。

   親しき仲にも礼儀あり。


(19)第十九 「良い習慣を造れ」

   良い習慣を造るには常に自分を振り返って見て、善い行いを努め、
   悪い行いを避けなければ成りません。

   瀧鶴臺の妻がある日袂から赤い鞠を落としました。

   鶴臺があやしんで尋ねますと、妻は顔を赤くして、
   「私は過ちをして後悔することが多いございます。それで過ちを少なくしようと思い、
   赤い鞠と白い鞠を造って袂へ入れておき、悪い心が起こる時には、赤い鞠に糸を巻きそえ、
   善い心が起こる時には、白い鞠に糸を巻きそえています。

   初めのうちは赤い方ばかり大きくなりましたが、
   今では両方がやっと同じ程の大きさになりました。
   けれども白い鞠が赤い鞠より大きくならないのを恥ずかしく思います。」

   と言って、別に白い鞠を出して鶴臺に見せました。

   自分を振り返って見て善い行いを努めることは初めは苦しくても、
   習慣となればさほどに感じないようになるものです。

   習、性となる。

           <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その5 - 伝統

2015/06/26 (Fri) 03:30:46

(20)第二十 「生き物を憐れめ」

   ナイチンゲールはイギリスの大地主の娘で小さい時から情け深い人でございました。

   父が使っていた羊飼いに一人の老人があって、犬を一匹飼っていました。
   ある時その犬が足を傷めて苦しんでいました。

   その時ナイチンゲールは、年取った僧と一緒に通り合わせて、
   それを見つけ、たいそう可哀相に思いました。
   そこで僧に尋ねた上、湯で傷口を洗い、包帯をしてやりました。

   明くる日もまた行って、手当をしてやりました。

   それから二、三日たって、ナイチンゲールは羊飼いの所へ行きました。

   犬は傷が治ったと見えて、羊の番をしていましたが、
   ナイチンゲールを見ると、嬉しそうに尾を振りました。

   羊飼いは「もしこの犬が物が言えたら、さぞ厚くお礼を言うでありましょう。」
   と言いました。


(21)第二十一 「博愛」

   ナイチンゲールが三十四歳の頃、クリミア戦役という戦がありました。

   戦が激しかった上に、悪い病気がはやったので、負傷兵や病兵がたくさんに
   出来ましたが、医者も看護をする人も少ないために、たいそう難儀をしました。

   ナイチンゲールはそれを聞いて、大勢の女を引き連れて、
   はるばる戦地へ出かけ、看護の事に骨折りました。

   ナイチンゲールはあまりひどく働いて病気になったので、
   人が皆国に帰ることを勧めましたけれども、聞き入れないで、
   病気が治ると、また力を尽くして傷病兵の看護をいたしました。

   戦争が済んでイギリスへ帰った時、ナイチンゲールは女帝に、
   拝謁を許され、厚いお褒めにあずかりました。

   また人々もその博愛の心の深いことに感心しました。

           <感謝合掌 平成27年6月26日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その6 - 伝統

2015/07/03 (Fri) 04:18:02

(22)第二十二 「国旗」

   この絵は紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、
   子供達が見て、喜ばしそうに話をしている所です。

   どこの国にもその国の証の旗があります。
   これを国旗と申します。

   日の丸の旗は、我が国の国旗でございます。

   我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。
   その外、我が国の船が外国の港に泊まる時にも之を立てます。

   国旗はその国の証でございますから、
   我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。

   また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わなければ成りません。


(23)第二十三 「祝日・大祭日」

   我が国の祝日は新年と紀元節と天長節・天長節祝日とでございます。
   新年は一月一日、二日、五日、紀元節は二月十一日、天長節は八月三十一日、
   天長節祝日は十月三十一日でいずれもめでたい日でございます。

   大祭日は元始祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・明治天皇祭・秋季皇霊祭
   ・神嘗祭・新嘗祭でございます。

   元始祭は一月三日で、宮中の賢所・皇霊殿にてお祭りがあります。

   神武天皇祭は四月三日、明治天皇祭は七月三十日でございます。

   神嘗祭は十月十七日で、この日にはその年の初穂を伊勢の神宮にお供えになり、
   新嘗祭は十一月二十三日で、この日には神嘉殿にて神々に初穂をお供えになります。

   また春分の日、秋分の日に、御代々の皇霊をお祭りになるのが
   春季皇霊祭・秋季皇霊祭でございます。

   祝日・大祭日は大切な日で、宮中では天皇陛下御自らおごそかな御儀式を行わせられます。

   我等はよくその日のいわれをわきまえて、忠君愛国の精神を養わなければなりません。


           <感謝合掌 平成27年7月3日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その7 - 伝統

2015/07/10 (Fri) 03:21:13

(24)第二十四 「法令を重んぜよ」

   昔ギリシャの大学者ソクラテスは色々国のために尽くし、
   また若い人達に正しい道を教えました。

   ところがソクラテスを憎む人々に訴えられて、とうとう死刑を言い渡されました。

   弟子のクリトンは獄へ面会に行き、「罪もないのに死ななければならない道理はありません。
   今、獄を逃げ出す道があるから、すぐにお逃げなさい。」と言って、しきりに勧めました。

   ソクラテスは「自分は今まで国のために正しい道を踏んできたから、
   今になってそれを破ることは出来ない。国法に背いて生きているよりも、
   国法を守って死んだ方がよい。」と言って、落ち着いていました。


(25)第二十五 「公益」

   昔、羽後の海辺の村々では、暴風が砂を吹き飛ばして、家や田を埋める事が毎度ありました。

   栗田定之丞という人が、ある郡の役人であった時、その害を除こうといろいろ工夫しました。

   まず海辺の風の吹く方に、藁束を立て連ねて砂を防ぎ、その後ろに、
   柳やグミの枝をささせましたら、皆芽をふくようになりました。

   そこで更に松の苗木を植えさせました。
   それが次第に大きくなって、遂に立派な林になりました。

   その後定之丞は他の郡の役人になりましたが、そこでもこの事を土地の人に勧めました。
   初めは激しい反対を受けたけれども、色々と諭し、自分が先に立って働いたので、
   また松林が繁るようになりました。

   定之丞は十八年の間もこの事に骨折りました。

   そのために風や砂の憂いが無くなって、粟などの畑も所々に開け、
   また松露や、はつだけも生ずるようになりました。

   この地方の人々は今日までもその恩をありがたく思い、
   定之丞のために栗田神社という社を建てて、年々のお祭りを致します。

   ・・・

   栗田定之丞
    → http://www.aica.ac.jp/furusato/search/1_history/053_kurita.html

    → http://blog.livedoor.jp/ijinroku/archives/51806668.html


   公益(栗田定之丞)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/29407795.html


   栗田神社

    栗田神社は。飛砂の被害から新屋を救った
    栗田定之丞の恩に報いるために建てられた神社である。

    祭神は、栗田定之丞如茂大人(ゆうきしげうし)。
    定之丞は、病をえて文政10年(1827)に60歳の生涯を閉じた。

    砂防林事業にあたり定之丞に献身的に協力した大門武兵衛と佐藤藤四郎の二人が、
    翌文政11年、割山の旧新川通(船場町、渡部豆腐店裏の小丘の辺り)に
    小祠(しょうし)を建て、栗田大人を祀った。
 
    村人たちも深くその功徳を追慕し、天保3年(1832)に藩儒奥山君鳳に碑文を請い、
    「栗田君遺愛碑」を建立した。

    そして安政4年(1857)、村人たちは藩に請願して、
    特に一社を建て、栗田大明神と称することを許され、
    今の雄物川放水路の中程あたりにこの神社を建立した。

    その後、雄物川改修工事(1912年)の際、社殿を現在地に移転した。
    また、1935(昭和10)年に新築され現在にいたっている。

    鳥居をくぐるとゆるい傾斜地のその奥に社殿が建ち、入り口の右手には
    1832(天保3)年に刻まれた「栗田君遺愛碑」がある。

    砂地の松林のなかにある社殿は、
    植林に一生を捧げた定之丞にふさわしいたたずまいを見せている。


    Web:栗田神社の写真
        → http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/akita/akita/kurita/kurita.html
        → http://www.tkcnf.com/tax-saito/work/kurita.html

           <感謝合掌 平成27年7月10日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第三期 尋常小学修身書 第四学年用~その8 - 伝統

2015/07/17 (Fri) 04:13:18

(26)第二十六 「人の名誉を重んぜよ」

   昔京都に伊藤東涯という学者がありました。

   江戸の荻生祖来と相対して、共に評判が高うございました。

   ある日、東涯の教えを受けている人が、
   祖来の書いた文を持って来て、東涯に見せました。

   その場に他の弟子が二人居合わせましたが、
   これを見てひどく悪口を言いました。

   東涯は静かに二人に向かって、

   「人はめいめい考えが違うものである。軽々しく悪口を言うものではない。
   ましてこの文は立派な物で、外の人はとても及ばないであろう。」と

   言って聞かせたので、弟子どもは深く恥じ入りました。


(27)第二十七 「良い日本人」

   天皇陛下は明治天皇の御志を継がせられ、ますます我が国を盛んにあそばし、
   また我等臣民を御慈しみになります。

   我等は常に天皇陛下の御恩を被る事の深い事を思い、
   忠君愛国の心を励み、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、
   祝祭日のいわれをわきまえなければなりません。

   日本人には忠義と孝行が一番大切な務めであります。

   家にあっては父母に孝行を尽くし、兄弟互いに親しまなければなりません。

   人に交わるには、良く礼儀を守り、他人の名誉を重んじ、
   公益に力を尽くし、博愛の道に努めなければなりません。

   そのほか規律正しくし、学問に勉強し、迷信に陥らず、
   また常に身体を丈夫にし、克己のならわしをつけ、
   良い習慣を養わなければ成りません。

   大きくなっては志を立て、自立自営の道を図り、忠実に事に当たり、
   志を堅くし、仕事に励まなければなりません。

   我等は上に挙げた心得を守って良い日本人になろうと努めなければ成りません。

   けれども良い日本人となるには多くの心得を知っているだけではなく、
   至誠をもって良く実行することが大切です。

   至誠から出たものでなければ、良い行いのように見えても
   それは生気のない造花のようなものです。

           <感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第四期 尋常小学修身書 第四学年用~その1 - 伝統

2015/07/24 (Fri) 03:50:22


★ 第一 「孝行」

渡部登は、田原藩士で、号を崋山といいました。
小さい時からすなおな人で、よく父母のいいつけを守り、
少しでも父母に心配をかけるようなことはありませんでした。

十四歳の頃、家がまずしい上に、父が病気にかかったので、くらしは一そう苦しくなりました。
登は父の背中をさすったり、くすりをすすめたりして看病に手をつくしました。

また其のひまには、母の手助けをしました。
そればかりでなく、何か仕事をしてうちのくらしを助け、
父母を安心させたいものと、しじゅう考えていました。

登は、始め、学者になろうと思って学問を勉強していましたが、
或時、したしい人をたずねて、身の上をそうだんしました。すると、其の人は、

「学問が好きのようだから、学者になろうと思っているのもよいが、
しかしそれでは、今すぐくらしの助けにはなるまい。
画が上手だから、画をかくことをけいこした方がよくはないか。」

と、しんせつにすすめてくれました。

登は、それを聞いて、「なるほど、そうだ。」と思って、
すぐ或師匠について画を習い始めました。

父の病気は長びいて、二十年ばかりも床についていました。
時には大そう苦しんで、幾日もしょくじの出来ないようなこともありました。

登は、其の長い間、くらしを助けながら、少しも看病をおこたらず、
一心に全快をいのっていましたが、其のかいもなく、父はとうとうなくなりました。

登の悲しみはたとえようもなく、父をしたう余りに、泣きながら、
ふでをとって父の顔かたちをうつしました。

そうしきがすんだ後も、毎晩、着物をあらためて、
つつしんで父のえ姿にれいはいをしました。

孝ハ親ヲ安ンズルヨリ大イナルハナシ。

           <感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第四期 尋常小学修身書 第四学年用~その2 - 伝統

2015/07/31 (Fri) 03:31:12


★ 第五 「兄弟」

登のうちには、登をかしらに、たくさんの子供がありました。
うちがまずしい上に、父が病気になったので、

父母は、みんなの子供をやしなうことが出来ず、仕方なく、
弟や妹を早くからよそへようしにやったり、ほうこうに出したりしました。

中でも、一番かわいそうであったのは、
やっと八歳ばかりになる次の弟が、お寺へやられた時でした。

雪の降る寒い日でしたが、登は、小さい弟が父母のもとをはなれて、
よそへ連れて行かれるのがかわいそうでなりませんから、
遠い所まで送って行ってやりました。

別れる時、登は弟に向かって、

「病気をしないようにして、よくお寺の人のいうことをききなさい。」

と言って、涙を浮かべて別れをおしみました。

弟は、知らない人に手を引かれ、後をふり向きふり向き行きました。

登も、雪の中に立って、寒い風に吹かれながら、弟の姿が見えなくなるまで、
あとを見送っていました。登の目からは、あつい涙がとめどもなく流れました。

別れた時の弟の姿が、あんまりかわいそうであったので、
登は、いつまでも其の時のことを思い出して悲しみました。


★ 第六 「勉強」
登は、人のすすめにより、或師匠について画を習うことになりました。

登は、母からわずかな金をもらっては紙を買い、夜昼ねっしんにけいこをしていましたが、
師匠に十分のおれいをすることが出来なかったため、二年ばかりでことわられました。

登は、一日も早く上手になって、父母に安心させようと思っていましたから、
大そう力を落して、泣き悲しみました。父は、それを見て、

「それくらいのことで力を落すようでは、だめだ。
外の師匠について、しっかり勉強するがよい。」

と言ってきかせました。

登は、父のことばにはげまされて、又外の師匠につきました。
其の師匠は、気のどくに思ってしんせつに教えてくれ、登も一心に勉強しましたので、
画がぐんぐん上手になりました。

そこで、登は、画をかいてそれを売り、うちのくらしを助けながら、
なおねっしんにけいこにはげみました。

其の間に、登は、又学問にもはげみましたが、
ひまが少いので、毎朝早く起きて御飯をたき、其の火のあかりで本を読みました。

カンナン、汝ヲ玉ニス。


★ 第七 「規律」

登は、父がなくなってから、其のあとをついで、だんだん重い役に取立てられました。

登は、大そうきまりのよい人でした。
重い役になっても、うちに居る時は、朝・昼・晩、
それぞれじこくにわりあてた仕事の時間割を作って、其の通りに行いました。

時間割は、大体次のようなものでした。

一、午前四時から午前六時まで
  これまで読んだ本の復習をすること。又、其の日にすべきことを考えること。

一、午前六時から午前八時まで
  本を読むこと。或は児童に教えること。

一、午前八時から午前十時まで
  前の続き。或は、げきけんなどのけいこをすること。

一、午前十時から正午まで
  人からたのまれた画をかくこと。

一、正午から午後二時まで
  前の続き。或は、殿様や親に仕える外、お客にあうこと。

一、午後二時から午後四時まで
  前の続き。

一、午後四時から午後六時まで
  昔の名高い画を手本として、一心に習うこと。

一、午後六時から午後八時まで
  読みたい本を読んだり、書きぬいたり、又は文を作ったりすること。


かように登は、日々の仕事をきめて、規律ただしくしたので、
画が大そう上手になって、人々にもてはやされたばかりでなく、
学問も進んで、世間のためになりましたので、りっぱな人としてうやまわれました。


           <感謝合掌 平成27年7月31日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第四期 尋常小学修身書 第四学年用~その3 - 伝統

2015/08/07 (Fri) 04:29:04


★ 第八 「発明」

種痘の法を発明した人は、ジェンナーという医者であります。
ジェンナーがこれを発明するまでには、長い間、いろいろと苦心をしました。

ジェンナーは、今からおよそ190年ほど前、イギリスに生まれました。
少年の頃、或医者の弟子になっていました。

或日、牛乳しぼりの女がしんさつをしてもらいに来ました。
其の女は、顔一面にひどい吹出物が出て、みるもあわれな様子をしています。
ジェンナーは、何という気のどくな病気だろうと思いました。

これをしんさつした医者は、

「疱瘡です。」

と申しました。すると、其の女は、

「私は牛痘にかかったことがありますから、疱瘡にかかるはずはありませんが。」

と、ふしぎそうに申し立てました。


ジェンナーは、そばで聞いていて、

「これはふしぎな話だ。ひょっとしたら、此の女の言うことには、
何か深いわけがあるかも知れない。もしそうであったら、それを研究して、
何かよいちりょう法を発明し、こういう気のどくな病人をすくってやりたい。」

と考えました。

それから人の体に牛痘をうえて、疱瘡をよぼうすることを思い立ちました。

友達に話をしますと、皆あざけって、

「つき合いをやめる。」

とまで言いました。

ジェンナーは、それでもかまわず、二十年余りの間、
いろいろと牛痘や疱瘡のことをしらべ、さまざまにくふうをこらしました。

其のかいがあって、とうとうたしかな種痘の法を発明しました。
それで先ず、自分の子に牛痘をうえてみて、それから疱瘡のどくをうつそうとしましたが、
うつらなかったので、其の事を本に書いて世間の人に知らせました。


ところが、世間の人は、此のよい発明を信じないで、かえって、

「牛痘をうえられた子供は、顔が次第に牛ににて来て、声も牛のほえるようになる。」

などと、悪口を言う者がありました。

しかしジェンナーは、此の発明が人々のためになることを信じて、
ますます一心に研究を続けました。

其のうちに、ジェンナーの発明した種痘が人助けのよい法であるということが知れて、
広く世間に行われるようになりました。今では、私たちも、皆其のおかげを受けているのです。

           <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第四期 尋常小学修身書 第四学年用~その4 - 伝統

2015/08/13 (Thu) 04:39:22


★ 第九 「迷信におちいるな」

第三期 尋常小学修身書 第四学年用に同じ


★ 第十 「身体」

伴信友は、いつも健康に気をつけて、年をとるまで学問の研究につとめましたので、
一生の間に、有益な本をたくさんあらわすことが出来ました。

信友はいつも姿勢に気をつけました。
朝起きたときと、夜寝るときには、姿勢をただしくしてすわり、
体に元気が満ちて来るように感ずるまで、三四十回、静かにいきを深く吸い、
しばらくして静かにはき出しました。

一日中、机に向かって、勉強しているときでも、少しも姿勢をくずしませんでした。

信友は、又、だらしのないふうをしないようにちゅういして、
精神を引きしめることにつとめました。

夏のまっさかり、どうかすると、気持がだれるようなときには、
天井から刀をつるし、其の先が頭の上とすれすれになるようにして、本を読みました。

又、冬の寒い日でも、こたつを用いませんでした。
家の人が心配して、こたつにはいるようにすすめても、

「精神が引きしまらないから。」

と言って、ききませんでした。

信友は、朝は早く起きました。
そうして、顔を洗うときには、つめたい水でひやしました。

家の人たちに、「とりのなく頃に起きることがむずかしければ、夜明にはきっと起きよ。」
と言って、早起をすすめましたので、家中、早起の習慣になりました。

信友は、朝夕、庭に出て弓を引きました。又、刃をつぶした刀をとって、何百ぺんもふりました。
こうして、暑い時でも寒い時でも、一日も運動をやめたことがありませんでした。

信友は、かように身体をきたえましたので、
年をとっても丈夫で、たくさんの本をあらわすことが出来たのです。


★ 第十二 「仕事に忠実に」

第三期 尋常小学修身書 第四学年用にほぼ同じ


★ 第十六 「寛大」

第三期 尋常小学修身書 第三学年用に同じ

           <感謝合掌 平成27年8月13日 頓首再拝>

(現行小学四年生用)第四期 尋常小学修身書 第四学年用~その5 - 伝統

2015/08/21 (Fri) 04:43:00


★ 第二十一 「志を立てよ」

野口英世は、三歳の時、ろにころがり落ちて、ひどいやけどをしました。
母の一生けんめいのかいほうのかいがあって、命だけは助かりましたが、
左の手に大きなきずが残り、指先のきかぬ不自由な体になりました。

五歳・六歳となって、英世は、外に出て近所の子供たちと元気よく遊ぶようになりましたが、
きょうそうでもして英世が勝ったときなどは、負けた子供たちは、
くやしまぎれに、英世のかたわの手を笑いました。

小学校に行くようになっても、友達はやはり其の手を笑いました。

英世はそれをざんねんに思い、

「手は不自由でも、一心に勉強して、きっと、今に、りっぱな人になって見せるぞ。」

とかたく決心しました。

英世は、うちがびんぼうでしたから、毎朝早く起きて、近所の小川や沼に行って
川魚をとって来て売り、其の金でふでやすみなどを買いました。

又、夜、本を読みたくても、あかりをともすことが出来ませんから、
冬はろのたき火をたよりにし、夏は学校の小使室に行って、
ランプの光で本を読みました。

英世はこうして、ゆうとうで尋常小学校をそつぎょうしました。

それから、或人の世話で、高等小学校に行くことが出来ましたが、
英世は、遠い道をかよって一生けんめいに勉強しましたので、
せいせきは一そうよくなりました。

其のうちに、人々の親切で、
医者のしゅじゅつを受け、手が余程自由に使えるようになりました。

手がよくなるにつけて、英世は、医術の人を助ける仕事であることを知り、
医者の学問をして、世のため人のためにつくしたいという志を立てました。

そこで、高等小学校をそつぎょうすると、
さきにしゅじゅつを受けた医者にたのんで、其の弟子にしてもらいました。

それからの英世の勉強は、一そう烈しくなりました。
医者の手伝をするひまに、いろいろ医学の本を読み、
外国語のけいこまでしました。

其の後、英世は、東京に出て、二十一歳の時、医者のしけんを受けますと、
見事にきゅうだいして、一人前の医者になりました。

それからますます研究を進めるために、アメリカ合衆国に渡り、
夜を日についでおこたらず勉強しました。

そうして、医学の上でりっぱな発見をして世界に名高い学者になりました。
又、いろいろのむずかしい病気をなおす方法をくふうして、人々を助けました。

昭和3年、アフリカへ渡って、人の恐れる熱病を研究しているうちに、
それがうつって、53歳で、かの地でなくなりました。

人々は、英世をあっぱれ人類の恩人と言って惜しまぬ者はありませんでした。


★ 第二十五 「人の名誉を重んぜよ」

第三期 尋常小学修身書 第四学年用に同じ

           <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用 抜粋 - 伝統

2015/08/27 (Thu) 04:43:08


★ 第五 「宮古島の人々」

明治六年、ドイツの商船ロベルトソン号は、日本の近海で、大あらしにあいました。
帆柱は吹きおられ、ボートは押し流され、あれくるう大波の中に、
三日三晩、ゆられにゆられました。

そうして、運わるく、沖縄県の宮古島の沖で、海中の岩に乗り上げてしまいました。

船員たちは、こわれた船に取りついて、一生けんめいに助けをもとめました。

この船をはるかに見た宮古島の見張りの者は、すぐ人々を呼び集めて、助け舟を出しました。
しかし、波が高いので、どうしても近づくことができません。
日はとっぷりとくれました。

しかたなく、その夜は、陸にかがり火をあかあかとたいて、
ロベルトソン号の人たちをはげましながら、夜を明かしました。

あくる日は、風もおとろえ、波もいくらか静かになりました。
島の人々は、今日こそと勇んで、海へ乗り出しました。
船は、木の葉のようにゆられ、たびたび岩にぶつかりそうになりましたが、
みんなは力のかぎりこいで、やっとロベルトソン号にたどり着きました。

そうして、つかれきっている船員たちを、残らず助けて帰りました。

薬をのませたり、傷の手当をしたりして、島の人々はねんごろにかいほうしました。
ことばが通じないので、国旗をいろいろ取り出して見せますと、
始めてドイツの人であることがわかりました。

こうして一月あまりたつ間に、ドイツ人は元気になりました。
そこで島の人々は、一そうの大きな船をかして、ドイツ人を本国へ帰らせることになりました。
出発の日、島の人々は、かねやたいこで、にぎやかに見送りました。
何人かの人は、小船に乗って、案内をしながら、はるか沖あいまで送って行きました。

船員たちは、月日を重ねて、ぶじに本国へ帰りました。
うれしさのあまり、あう人ごとに、しんせつな日本人のことを話しました。

そのうわさが、いつのまにか、ドイツの皇帝に聞えました。
皇帝は、たいそう喜んで、軍艦に記念碑をのせて宮古島へ送りました。
その記念碑は、今もこの島に立っていて、人々の美しい心をたたえています。

           <感謝合掌 平成27年8月27日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用 抜粋 - 伝統

2015/09/03 (Thu) 04:56:08


★ 第九 「焼けなかった町」

大正十二年九月一日、東京では、朝からむし暑く、ときどきにわか雨が降ったり、
また急にはげしい日がさしたりしました。

ちょうど、お昼になろうとする時でした。
気味のわるい地鳴りとともに、家もへいも、一度にはげしく震動しました。
がらがらと倒れてしまった家も、たくさんありました。

やがて、倒れた家から、火事が起りました。
あちらにも、こちらにも、火の手があがって、見る見るうちに、一面の火の海となりました。

水道は、地震のためにこわれて、火を消すこともできません。
火は、二日二晩つづいて、東京の市中は、半分ぐらい焼けてしまいました。

ところで、この大火事のまん中にありながら、町内の人たちが、心をあわせて
よく火をふせいだおかげで、しまいまで焼けないで残ったところがありました。

この町の人たちは、風にあおられて四方からもえ移って来る火を、
あわてずよくおちついて、自分たちの手でふせいだのです。

まず、指図する人のことばにしたがって、人々は二列に並びました。
第一列のはしの人が、井戸から水を汲んで、バケツやおけに移すと、
人の手から手へとじゅんじゅんに渡して、ポンプのところへ送りました。

第二列の人たちは、手早く、からになったバケツやおけを井戸の方へ返して、
新しい水を汲みました。

そのうちに、こういう列の組が、いくつもできました。
みんな、一生けんめいに水を運びました。

また、ほかの一隊は、手分けをして、火の移りやすい店のかんばんを取りはずしたり、
家々の窓をしめてまわったりして、火の移らないようにしました。

こうして、夜どおしこんきよく火をふせぎました。
年よりも子どもも、男も女も、働ける者は、みんな出て働きました。
自分のことだけを考えるような、わがままな人は、一人もいませんでした。

次の日の晩おそくなって、やっと火がもえ移る心配がうすらいで来ました。
みんなは、それに力づいて、とうとうしまいまで働きつづけました。

見渡すかぎり焼野の原になった中に、この町だけは、りっぱに残りました。

           <感謝合掌 平成27年9月3日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用~その3 - 伝統

2015/09/12 (Sat) 04:43:55


★ 第十一 「山田長政」

今から三百二十年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。
シャムというのは、今のタイ国のことです。

このころ、日本人は、船に乗って、さかんに南方の島々国々に往来し、
たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町というものができました。
シャムの日本町には、五千人ぐらい住んでいたということです。

二十何歳でシャムへ渡った長政は、やがて日本町の頭になりました。
勇気にみち、しかも正直で、義気のある人でした。

シャムの国王は、ソンタムといって、たいそう名君でありました。

長政は、日本人の義勇軍をつくり、その隊長になって、
この国のために、たびたびてがらを立てました。

国王は、長政を武官に任じ、のちには、最上の武官の位置に進めました。

日本人の中で、武術にすぐれ、勇気のあるもの六百人ばかりが、
長政の部下としてついていました。長政は、これら日本の武士と、
たくさんのシャムの軍兵をひきいて、いつも、堂々と戦に出かけました。

長政が、ひおどしのよろいを着け、りっぱな車に乗り、シャムの音楽を奏しながら、
都にがいせんする時などは、見物人で、町という町がいっぱいだったということです。

長政は、こうして、この国のために、しばしば武功をたて、高位高官にのぼりましたが、
その間も、日本町のために活動し、日本へ往来する船のせわをし、
海外ぼうえきをさかんにすることにつとめました。

身分が高くなってからは、ほとんど毎年のように、自分で仕立てた船を日本へ送っていました。

長政がシャムへ渡ってから、二十年ばかりの年月が過ぎました。
名君のほまれ高かったソンタム王もなくなり、年若い王子が、相ついで国王になりました。

こうしたすきに乗じたのか、そのころ、シャムの属地であったナコンという地方が、
よく治まりませんでした。そこで、国王は、あらたに長政をナコン王に任命しました。

そのため、王室では、さかんな式があげられました。
まだ十歳であった国王は、特に国王のもちいるのと同じ形のかんむりを長政に授け、
金銀やたからものを、山のように積んで与えました。

長政は、いつものように、日本の武士とたくさんのシャムの軍兵をつれて、任地へおもむきました。
すると、ナコンは、長政の威風に恐れて、たちまち王命をきくようになりました。

おしいことに、長政は、ナコン王になってから、わずか1年ばかりでなくなりました。

長政は、日本のどこで生まれたか、いつシャムへ行ったかもはっきりしません。
それが一度シャムへ渡ると、日本町の頭となり、海外ぼうえきの大立者となったばかりか、
かの国の高位高官に任ぜられて、日本の武名を、南方の天地にとどろかしました。

外国へ行った日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人にために気をはいた人は、
ほかにないといってもよいでしょう。

           <感謝合掌 平成27年9月12日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用~その4 - 伝統

2015/09/18 (Fri) 03:52:25

★ 第十四 「雅澄の研究」

土佐の国に、鹿持雅澄という学者がありました。

まずしい家に生まれたので、勉強しようにも、本をもとめることができません。
雅澄は、知合いの人から本をかりて来ては、熱心に読みふけりました。

家の屋根がいたんでも、つくろうことができず、雨の降る日には、もらないところに、
机の置場所を移しながら、研究を続けました。どんなに苦しいことがあっても、気を落さず、
一生けんめいに勉強して、とうとう万葉集古義百三十七巻を書きあげました。

万葉集というのは、日本の遠い昔の人たちの歌を集めた、大切な本です、
雅澄は、万葉集の古いよみ方や意味をよくわかるようにし、
日本の道を明らかにしたのであります。

日本の中央からはなれた土地ではあり、ゆききにも不自由な時代のことでしたから、
こんなりっぱな研究も、世間に広く知られませんでした。

「自分の研究は、死んでからでなければ、世の中には出ないだろう。」

と、雅澄はそういって、下書を書いたままで、なくなってしまいました。

その後20年ばかりたって、明治天皇は、雅澄の研究についてお聞きおよびになり、
かしこくも、大御心によって、「万葉集古義」が、宮内省からしゅっぱんされることになりました。

こうして、雅澄の心をこめた大研究が、始めて全国に知られ、光をあらわすことになりました。

           <感謝合掌 平成27年9月18日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用~その5 - 伝統

2015/09/26 (Sat) 04:40:05


★ 第十五 「乗合船」

若い男が、さもとくいそうに、経書のこうしゃくを始めました。

昔の乗合船の中のことです。
乗っている人は、二十人もありましょうか。見たところ、お百姓か、大工さんか、
商人らしい人ばかり、あとは女が二三人です。

若い男は、口にまかせて、しゃべりたてました。

つい、調子にのると、いいかでんなでたらめも出て来ます。
しかし、そんなことに気のつくえらそうな人は、一人もいないと、若い男は思いました。

「どうだ、感心いたしたか。」

こうしゃくが終ると、若い男はこういって、みんなを見渡しました。

「いや、ありがたいお話でございました。」

と、いかにも正直者らしいお百姓が、ていねいに頭をさげました。

「なかなかむずかしくて、私どもにはわかりかねますが、
先生は、お若いのに、たいそう学問をなさったものでございますな。」

と、これは商家の番頭らしい人がいいました。

「先生」といわれて、若い男は、いっそうとくいの鼻をうごめかしました。

「いや、なに、たいしたことでもないが、これでわしは、ごくおぼえのいい方でな。
神童といわれたものだよ。」

「神童と申しますと。」

「神童がわからないのか」-そう思うと、若い男は、いっそう相手をみくびって、
ことばづかいが、こうまんになります。

「おまえたちにはわかるまい。神童とは、神の童と書く。童は子どものことだ。」

「へえ、では神様のお子様でございますか。」

「はははは、無学な者には、そうとでも思うほかはあるまい。」

若い男は、大きく笑いました。

しかし、この若い男に、ふと一人の人が気になりだしました。
最初は、これも百姓だろうぐらいに思って、気にもとめませんでしたが、
どこか品のある中年の男です。

「医者かな。医者なら、少し学問もあるはずだが、あの男は、こうしゃくを聞くでもなし、
聞かないでもなし、今みんなが、こうほめているのに、ただ、だまっている。
どうせわからないのだろう。してみると、やっぱりいなか者で、少しばかりの金持であろう。」

若い男はそう思って、たってそれ以上、気にもとめませんでした。

いよいよ、船が陸に着くまぎわになりました。みんなは、船をおりる用意をします。

「おたがいに、名をいって別れることにしよう。」

と、あの若い男がいいました。

「私は、番頭の半七と申します。」

「早川村の百姓、義作でございます。」

「大工の八造と申します。」

一同が、順々に名のりました。そうして、あのいなかの金持らしい人の番になりました。

「福岡の貝原久兵衛と申す者。」

いかにもおちついたことばでいいました。


この名が、おの若い男の頭に、がんとひびきました。
「貝原久兵衛」とは、世にかくれもない貝原益軒先生であることを知っていたからです。

若い男は、そのまま逃げ出すよりほかはありませんでした。
ひらりと岸にとびおりるが早いか、一もくさんにかけ出しました。

「ははははは。」

と笑う声が、後から追いかけるような気がします。

「ばか、ばか。ばかだな、おれは。」

若い男は、自分自身をあざけるように、こういいながら、わけもなく走っていました。

           <感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用~その6 - 伝統

2015/10/04 (Sun) 03:15:04


★ 第十七 「乃木大将の少年時代」

乃木大将は、小さい時、からだが弱く、その上、おくびょうでありました。
そのころの名を無人といいましたが、寒いといっては泣き、暑いといっては泣き、
朝晩よく泣いたので、近所の人は、大将のことを、無人ではない泣人だと、
いったということであります。

父は、長府の藩士で、江戸にいましたが、自分の子どもがこう弱虫では困る、
どうかして、子どものからだを丈夫にし、気を強くしなければならないと思いました。

そこで、大将が四五歳の時から、父は、うす暗いうちに起して、
ゆきかえり一里もある高輪の泉岳寺へ、よくつれて行きました。
泉岳寺には、名高い四十七士の墓があります。
父は、みちみち義士のことを聞かせて、その墓にお参りしました。

ある年の冬、大将が、思わず「寒い。」といいました。父は、

「よし。寒いなら、暖くなるようにしてやる。」

といって、井戸ばたへつれて行き、着物をぬがして、
頭から、つめたい水をあびせかけました。

大将は、これからのち一生の間、「寒い。」とも「暑い。」とも
いわなかったということであります。


母もまた、えらい人でありました。
大将が、何かたべ物のうちに、きらいな物があるとみれば三度三度の食事に、
かならずそのきらいな物ばかり出して、すきになれるまで、うちじゅうの者が、
それをたべるようになりました。
それで、まったく、たべ物にすききらいがないようになりました。

大将が十歳の時、一家は長府へ帰ることになりました。
その時、江戸から大阪まで、馬にもかごにも乗らず、父母といっしょに歩いて行きました。
そのころ、からだが、もうこれだけ丈夫になっていたのです。

長府の家は、六じょう、三じょうの二間と、せまい土間があるだけの、
小さなそまつな家でありました。けれども、刀、やり、なぎなたなど、
武士のたましいと呼ばれる物は、いつもきらきら光っていました。

この父母のもとで、この家に育った乃木大将が、一生を忠誠と質素で押し通して、
武人の手本と仰がれるようになったのは、まことにいわれのあることであります。


           <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

(現行小学4年生用)第5期 国民学校初等科修身二 第四学年用~その7 - 伝統

2015/10/12 (Mon) 04:44:02


★ 第十八 「くるめがすり」

でん子は、自分の着ふるした仕事着をつくろっていました。
まだ12歳ですが、ひじょうにりこうで、ほがらかな子どもです。
7、8歳の時から、はたおりのけいこをして、今では大人に負けないほど、上手になりました。

つくろっている仕事着は、ひざのあたりが、すり切れかかっています。
よく見ると、黒い糸が、ところどころ白くさめて、しぜんと、もようになっています。

「まあ、おもしろい。」

と思いながら、でん子の目は、急に生き生きとしました。
仕事着の糸をていねいにときほぐして、黒と白との入りまじったぐあいを、
熱心に調べ始めました。

それから後は、御飯をたべるのも忘れて、一心に工夫していました。
四五日たって、でん子は、おり残りの白い糸を、ところどころ堅くくくって、

「これを、このまま染めてください。」

と、こうやに頼みました。

染ができると、くくり糸をといて、縦糸と横糸とに、うまくとり合わせて、
こん色の地に、雪かあられの飛び散ったような、美しいもようが現れました。

できあがったものは、しまでもなければ、しぼりでもありません。
今までだれも見たことのない、めずらしいおり物でありました。

父母や近所の人たちは、目をみはって、

「これは、かわったものだ。めずらしいものを思いついたね。」

といって、ほめました。

でん子は、いろいろながらを、次々に工夫しておりあげました。

でん子の父は、「くるめがすり」と名をつけて、それを世にひろめました。

「めずらしいがらだ。女の子が思いついたのだそうだ。」

「12の娘が作ったとは、えらいものだ。」

世間では、たいそうなひょうばんです。
そのうちに、おり方を習いたいという者が、出て来るようになりました。


★ 第十九 「工夫する少年」

でん子の家から少しはなれたところに、久重という少年がいました。
細工をすることがすきで、毎日2階にとじこもって、からくり人形を作ったり、
ばね仕掛けのすずり箱を作ったりして喜んでいました。

久重は、ときどき、でん子の工場へ遊びに来ました。
でん子は、今では大人になって、かすりをおるのにいそがしく、大勢の人を使って
はたをおっていましたが、久重は、それをおもしろそうに見ていました。

ある日、この少年が、でん子にいいました。

「ねえ、おばさん。かすりで絵をおることはできないでしょうか。」

「絵とは、もようのことですか。」

「はい。花でも、鳥でも、絵にかいたとおりを、もようにおり出すのです。」

「あなたは、小さいのに、えらいことをいいますね。」

「なぜ。」

「わたしは、ずっと前からそれを考えていました。
しかし、絵をおるには、いろいろ仕掛けもいるし、工夫もむずかしい。
わたしは、このとおりいそがしいので、まだそこまで考えるひまがないのですよ。」

「それならひとつ、私が考えてあげましょうか。」

「そう、久重さんは考えることもうまいし、細工も上手だから、どうか頼みますよ。」

久重は、すっかりのみこんだような顔をして、帰って行きました。

どんなに、考えることがうまいといっても、まだ小さな子どものことです。
でん子は、頼みはしたものの、あてにはしないでいました。

すると、10日あまりたって、何かいろいろのものを持った久重が、
にこにこしながらやって来ました。

「おばさん、できました。」

「何がさ。」

「この前、約束したものですよ。」

「そう。」

といって、持って来たものを調べ、その説明を聞いてみると、
でん子もびっくりしないではいられませんでした。

「まあ、久重さん。一人で考えたのですか。」

「ええ、ちょっと骨が折れました。」

「えらいね。ありがとう。ほんとうにありがとう。」

でん子は大喜びで、久重に何べんもお礼をいいました。

それから、2人が力を合わせて工夫したので、りっぱな絵がすりができるようになりました。  
   
           <感謝合掌 平成27年10月12日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その1 - 伝統

2015/10/19 (Mon) 04:01:06


☆ 第一 「天皇陛下」

明治二十七、八年戦役の時、天皇陛下は、八ヶ月の間、
広島にあらせられて、戦の御指図をあそばされたり。

この時の御座所は粗末なる西洋作りの一間のみなれば、あまりに、ご不自由なるべしとて、
宮内省よりも、内閣よりも、御建て増しのことを、たびたび、申し上げしが、
陛下は「今日の場合、これほどの不自由、何かあらん。」と仰せられて、
御許しあらせられざりき。

また、早朝より御寝なるまで、御軍服を脱がせ給わず、御指図をあそばされ、
その御いそがわしさは、まことに、おそれ多きことなりき。

天皇陛下は、かかる御不自由を忍ばせたまいて、御勉強あらせられ、
ひたすら、国威の盛んならんことをはかりたまえり。

我等臣民たる者、謹んで、その御徳の高きを仰ぎ奉るべきなり。


☆ 第二 「北白川宮能久親王」

明治二十七、八年戦役により、台湾は、我が国の領地となりしが、
その地にありし清国の将士は土民を集めて、我が国に手向かいたり。

天皇陛下は、近衛師団長北白川宮能久親王をして、これを征伐せしめたまえり。

台湾は気候熱くして、土地も不便なれば、進軍の困難ひとかたならざりしが、
親王は、常に、兵士と難儀をともにして、進みたまえり。

五ヶ月ばかりの後、北の方は、ほぼ、平ぎしが、
なお、南の方の賊を討たんとて、進みたまい、途中にて、病にかかりたまえり。

この時、軍医等は、留まりて御養生あそばされたきよし申し上げたり。

されど、親王は「一身のゆえを以て、国家の大事をなおざりにするに忍びず。」と仰せられ、
病をつとめて、進みたまいしが、御病、次第に、重りて、ついに薨じたまいき。

親王が、かく、一身を捧げて、国家のために、尽くしたまいしは、
まことに、ありがたき御ことと言うべし。

          <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その2 - 伝統

2015/10/28 (Wed) 04:44:36

★ 第三 「身を立てよ」

豊臣秀吉は尾張の貧しき家に生まれたり。

幼き時より、世に優れたる功名をなさんと志し、
十六歳の時、わずかの金を持ち、ただ一人、故郷を立ち出で、
遠江の松下加兵衛という武士に仕えたり。

かくて、よく、主人のために、働きしかば、
加兵衛に信用せられ、着物や道具の出し入れをする役を言いつけられたり。

されども、仲間の者にそねまれ、やがて、故郷に帰れり。

その後、秀吉は織田信長の武勇優れたるを慕い、人を頼みて、これに、仕えたり。

これ、秀吉が身を立つる基なりき。


★ 第四 「職務に勉励せよ」

秀吉は、信長に仕えし後も、人に優れて、働きたり。

信長、ある日、明け方より、狩りに出でんとして、「誰かある。」と呼びしに、
秀吉は「藤吉郎、これにあり。」と答えて、立ち出でたり。

ある年、清洲の城の塀、百間ばかりも、崩れしことあり。

信長、部下の者に言いつけて、これを普請せしめしに、
二十日ばかりをすぐれども、工事はかどらず、
よって、改めて、秀吉にその役を命じたり。

秀吉は人夫を十組に分かち、組組に工事を割り当てて、急ししかば、
翌日になりて、残らず、出来上がりたり。

秀吉は、常に、かく、職務に勉励せしかば、
信長の信用を得て、次第に、重く用いらるるに至れり。



★ 第五 「皇室を尊べ」

秀吉は、おいおいに、立身して、関白、太政大臣となれり。

これより先、国内、戦乱うち続きて、皇室、大いに、衰えたり。

秀吉これを嘆きて、皇室のために、尽くししこと少なからざりき。

秀吉は、京都に聚楽の第をつくりて、これに、おりしが、
あるとき、後陽成天皇の臨幸を仰ぎたてまつりたり。

かかる臨幸の儀式は、久しく、絶えたりしことなれば、
人々、遠近より来たりて、拝観し、中には、
「はからずも、かかる太平の有様を見る事よ。」とて、大いに、喜びたる者ありき。

秀吉は、諸臣一同に、皇室を尊ばしめんと思い、
御前において、これを誓わしめたりき。



★ 第六 「進取の気性」

秀吉は、かねてより、国威を海外に輝かさんと思いいたりしが、
国内多事のため、その志を果たすことあたわざりき。

国内平定するにおよび、明国を征伐することとなり、
朝鮮をして、先導をなさしめんとしたれども、朝鮮は明国を恐れて、応ぜざりき。

よって、秀吉、大軍をつかわして、まず、朝鮮に攻め入らせたり。

明国、大軍を送りて、朝鮮を助けしかど、しばしば、我が軍のために破られ、
大いに、恐れて、和睦をなさんとせり。

秀吉、数カ条の約束を定めて、これを許さんとせしに、
明の使い、我が国に至り、さきの約束に違いて、
秀吉を日本国王となさんとするむねを告げしかば、秀吉、大いに怒りて、
その使いを追い返し、再び、大軍を興して、朝鮮に攻め入らせたり。

この役、前後七年にわたりしが、戦争の未だ終わらざるに、秀吉、病にかかりて没せり。

秀吉のごときは進取の気性に富みたる人と言うべし。

          <感謝合掌 平成27年10月28日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その3 - 伝統

2015/11/07 (Sat) 03:28:52


★ 第七 「正直は成功の基」

昔、ある学者の塾に、一人の老いたる僕有り。

この塾に通学する多くの書生の中にて、
この僕が、良き人にならんと見込みし書生は、多くは、成功せしかば、
人々、その見込みの誤らざるに感じたり。


ある日、塾長は、この僕を呼びて、「汝は、いかにして、書生を見わくるか。」と尋ねしに、

僕は「別に、難しきわけもなし。ただ、借りたるものを、間違いなく、返す人は、
後、必ず、成功するなり。にわか雨のおり、塾より下駄や傘を借りて家に帰り、
翌日、持ち来たりて返しし人には、その業を成し遂げたるもの多し。」と答えたり。


借りたる下駄、傘を返すがごときは、ささいなることなれども、
常々、かかる心がけある人は、何事につきても、正直にて、
その業の進むことも早く、人にも信用せられて、立身するなり。

          <感謝合掌 平成27年11月7日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その4 - 伝統

2015/11/16 (Mon) 04:35:47


★ 第八 「仁と勇」

加藤清正は仁と勇とを兼ねたる大将なり。

秀吉の朝鮮征伐の時、清正、先手の大将として、朝鮮に攻め入りたり。

会寧府の城にあるもの、二人の王子を縛りて、清正に降参せしとき、
清正はその縄を解きて、あつく、これを労れり。

明国のもの、清正の武勇を聞きて、大いに、恐れ、使いを使わして、清正に説きけるは、
「明国の皇帝、四十万の大兵をいだして、すでに、日本軍をほろぼしたれば、
汝も、二人の王子を送り返して、国に帰れ。しからずば、汝が軍を打ち破らん。」と。

しかるに、清正は「汝が国の大軍きたらんには、われ、これを皆殺しにし、
かの二王子のごとく、汝が国の皇帝をもとらえん。」と、少しも、恐れず、答えたりとぞ。


★ 第九 「義侠心」

清正は、また、義侠心に富みたり。

秀吉の二度目の朝鮮征伐の時、浅野幸長、蔚山の城にありしが、明国の大兵に攻められて、
甚だ、危かりしかば、使いを清正のもとにつかわして、救いをこわしむ。

清正これを聞き、「われ日本国を発せしとき、幸長の父長政、われに、
くれぐれも、幸長のことをたのみたり。今、もし、幸長を救わずば、
われ、何の面目ありて、長政にあわんや。」と、

直ちに、部下のものを率いて、蔚山の城に入り、幸長を助けたりき。

格言

義を見てせざるは、勇なきなり。


★ 第十 「誠実」

清正は、また、誠実なる人なりき。

石田三成の讒言によりて、秀吉の怒をうけいたりしが、
ある夜、伏見に大地震ありしとき、秀吉の身を気遣い、直ちに、部下のものを率いて、
秀吉の城に駆けつけ、夜のあくるまで、その門を守りたり。

これより、秀吉の怒りとけ、その無実なること、明らかになれり。

秀吉没せし後、その子秀頼、幼かりしかば、徳川家康の勢い盛んになり、
豊臣氏の恩を受けしものも、次第に、家康につき従いて、秀頼を顧みるもの少なかりき。

されど、清正は、常に、良く、秀頼に仕え、大阪を過ぎれば、必ず、秀頼の安否を訪ねたり。

ある時、秀頼、京都に至りて、家康に会えり。

この時、清正は秀頼の身を気遣い、自ら、付き添いて、
しばしの間も、そのそばを離れず、さて無事に帰りし後、
「今日、いささか、太閤の恩に報いることを得たり。」と言いきとぞ。

          <感謝合掌 平成27年11月16日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その5 - 伝統

2015/11/25 (Wed) 03:19:53


★ 第十一 「志を固くせよ」

上杉鷹山は秋月家より出で、上杉家を継ぎて、米沢藩主となり
、心を政治に用いて、賢君の誉れ有りし人なり。

鷹山の、藩主となりし頃は、上杉家の借財、はなはだ、多く、
いかにも、困難の有様なりしが、鷹山は、このままにて、家の滅ぶるを待つべきにあらず
と思い、倹約をもととして、家を立てなおさんと志したり。

されど、藩士の中には、鷹山に服せずして、
「鷹山は小藩に育ちたれば、大藩のふりあいを知らず。」など言いて、そしる者もありしが、
鷹山は、少しも、その志を動かすことなかりき。

格言

精神、一度、到らば、何事か、成さざらん。


★ 第十二 「倹約」

鷹山は令を出して、倹約を進めしが、自ら、まず、これを実行せんとて、
大いに、その衣食の料などを減じたり。

鷹山の側役のものの父、ある時、田舎に行きて、親しき人の家に泊まり、風呂に入らんとして、
着物を脱ぎしが、粗末なる木綿の襦袢のみは、丁寧に、屏風にかけおきたり。

主人、あやしみて、そのわけを尋ねしに、
「この襦袢は藩主のお召し下げにて、わが子がたまわりしを、さらに、もらいしものなり。
それゆえ、丁寧に、取り扱うなり。」と答えたり。

主人はこれを聞きて、深く、鷹山の倹約に感じ、その襦袢を示して、家内の人々を戒めたり。


格言

塵も積もれば山となる。


★ 第十三 「産業を興せ」

鷹山は産業を興さんとて、新たに、荒れ地を開きて、
農業を営まんとする者には、家作料、種籾などを与え、3年の間、租税を免じたり。

また、村々に馬を飼わせ、馬市を開きなどして、農業の助けとしたり。

鷹山は、また、養蚕をも進めしかど、初めの間は、桑を植えることあたわざるもの多かりしかば、
我が衣食の料の中より、年々、五十両ずつを出し、その中にて、桑の苗木を買い上げて、
分かち与え、また、新たに、桑畑を開く者には、金を貸して、その業を励ましたり。

その上、奥向きにて、蚕を飼い、女中に絹を織らせなどしたり。

鷹山は、また、女子にも職業を与えんとて、
越後より機織りに巧みなるものを雇い入れて、その法を教えしめたり。

これ、世に名高き米沢織りの初めなり。


★ 第十四 「孝行」

鷹山は孝行の心深き人なりき。

常に、父重定のもとに行きて、その安否を尋ね、
重定の没するまで、少しも、怠ることなかりき。

重定、能楽を好むこと、はなはだしかりしかば、
鷹山、自ら、父の前にてこれを稽古し、父の心を慰めたり。

また、江戸にありしとき、
能楽に巧みなる者を、はるばる、米沢まで使わして、
父を慰めしこともありき。

ある時、重定は、その屋敷の庭を広げて、面白く、造らんと思いしが、
上下、ともに、倹約を守るおりからとて、遠慮して、見合わせしを、

鷹山は「御老年のお慰み、これにますものなかるべし。」とて、
人夫を使わして、父の心のままに、造らしめたりき。

          <感謝合掌 平成27年11月25日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その6 - 伝統

2015/12/04 (Fri) 04:39:33


★ 第十五 「礼儀」

人は礼儀を重んぜざるべからず。

常に、身なりを、良く、整え、食事の時、不作法に流れず、室の出入り、
戸、障子の開け閉てなどを荒々しくすべからず。

また、汽車、汽船などに乗りたる時、無礼なる振る舞いや、卑しき言葉遣いをなし、
集会場、停車場、渡し場、その他、人の込み合う場所にて、人を押しのけて、進むなど、
すべて、人の迷惑を顧みぬは、いずれも、悪しき行なり。



★ 第十六 「習慣」

立派なる行を成せば、人に尊ばれ、悪しき行を成せば、人に卑しまる。

これ、良き習慣をつくると、つくらざるとによる。

されば、常に、心を用いて、良き習慣をつくることを努むべし。

世には、酒のために、健康を損ない、身を滅ぼすにいたるものあり。

これ、多くは、はじめより、酒をたしなむにあらざれども、知らず知らず、飲み習いて、
ついには、やむることあたわざるにいたれるなり。

規律を破り、怠惰に流るるも、多くは、この類なり。

されば、平生より、悪しき習慣をつくらざるように心がけるべし。

少年の時には、その性質、良きにも、悪しきにも、動かされ易きものなれば、
ことに、良き習慣をつくり、悪しき習慣をさくべし。


格言

習慣は第二の天性。



★ 第十七 「良き習慣を作る工夫」

良き習慣をつくらんがためには、常に、自ら省みて、悪しき行を避け、良き行いを成すべし。

瀧鶴臺の妻、ある日、袂より赤き手毬を落としたり。

鶴臺あやしみて、たずねしに、妻は顔を赤らめて、言うよう、

「われ愚かにして、過ちをなし、後に悔いること多し。
されば、これを少なくせんと思い、赤き手毬と白き手毬とを袂に入れ置き、
悪しき心起これば、赤き手毬に赤糸を巻き添え、良き心起これば、白き手毬に白糸を添えたり。

そのはじめ、1,2年の間は、赤き方のみ、大きくなりしが、
今は、二つとも、同じほどの大きさとなりたり。
されど、なお、白き方の、赤き方より、大きくならざることを、恥ずかしく、思う。」

と言いて、また、一つの白き手毬を出して、鶴臺に示したりとぞ。

*瀧鶴臺
 → https://library.city.shunan.lg.jp/bunka/chuoshoga40.html

*瀧鶴臺の妻
   江戸時代中期の女性。良妻として知られる。
   つねに赤白2色の毬(まり)をもち,善行をすれば白い糸を、
   悪行のときは赤い糸をまいて反省したといわれる。名はたけ。

          <感謝合掌 平成27年12月4日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その7 - 伝統

2015/12/11 (Fri) 04:14:58


★ 第十八 「自立自営」

フランクリンは北アメリカの人にして、自立自営の心に富みたりき。

その家、貧しくて、兄弟多かりしかば、10歳の時、学校を退き、家業の手助けを成したり。
されど、学問を好む心深く、小使銭を蓄えて、書物を買い、少しの暇にも、これを読みたり。

12歳の時、兄の家に行きて、印刷業の職工となり、良く、働きて、
やがて、一人前の仕事を成すにいたれり。
その間にも、暇あれば、書物を読むことを怠らざりき。

16歳の時、兄の家を出でしが、生活の費用を倹約し、
書物を買い、時を惜しみて、これを読みたり。

されば、よく、その職業を励みし間にも、学問を成すことを得たり。

格言

困難は最良の教師。


★ 第十九 「規律正しくあれ」

フランクリンは規律正しき生活を成すがために、時間割を定めて、これを守れり。

朝は、5時に起き、それより8時までの間に、顔を洗い、
その日に成すべき仕事を考え、次に、学問を成し、朝飯を食す。

8時より正午までは、労働を成し、正午より午後2時までの間に、
読み物、または、勘定を成し、昼飯を食す。

2時より6時までは、再び、労働を成し、6時より夜にかけて、物事を整頓し、
夕飯を食し、音楽、遊戯、または、談話などに時を移し、その日に行いしことを調べ、
10時より翌朝5時まで、眠ることとしたり。

かくのごとくにして、フランクリンは、規律正しき習慣をつくりたりき。



★ 第二十 「公益」

フランクリンは、その住みいたるフィラデルフィア市中の人々と相談し、
金を出し合いて、図書館を建て、大いに、公衆の便益をはかりたり。

その後、また、日常の教えとなるべき格言を書き加えたる暦を発行せしかば、
家に一冊の書物を有せざるものも、これによりて、有益なる事柄を知るを得たり。

フランクリンは、また、新聞紙を発行したり。

その頃の新聞紙には、人の名誉を傷つけるがごときことを載せるもの多かりしが、
フランクリンが発行せし新聞紙は、少しも、さることなく、世を益することのみを載せたり。


★ 第二十一 「公益」(続き)

その頃は、消防の法、なお、いまだ、備わらず、火事あるごとに、
多くの家焼けて、損害、おびただしかりき。

フランクリンは有志のもの30人と相談して、消防組を作り、
フィラデルフィア市中の人々に、大いなる利益を与えたり。

また、市中の道路、はなはだ、悪しくて、通行に不便なりしかば、
フランクリンはこれを改良する方法を考え、また、街灯を、家々の前に、
立てることをもすすめたれば、通行人は、これがために、大いなる便利を得たり。

フランクリンは、これのみならず、
金を集めて、学校を建てるなど、常に、市民の利益をはかれり。


          <感謝合掌 平成27年12月11日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その8 - 伝統

2015/12/18 (Fri) 04:25:08


★ 第二十二 「勤労」

人、ややもすれば、勤労をいといて怠惰に流れることあれども、これ心得違いなり。

人、もし、何事をも成さずして、怠け暮らす時は、身体も弱くなり、心も楽しからざるべし。

また、立派なる仕事は、勤労によらざれば、成し遂げるべからず。

人は、生涯、勤労をいとうべからず。

まして、これより、志を立て身をおこさんとするものは、早くより、勤労の習慣をつくるべし。


格言

勤労、門を出れば、貧苦、窓より入る。

          <感謝合掌 平成27年12月18日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その9 - 伝統

2015/12/25 (Fri) 03:00:20


★ 第二十三 「忍耐」

コロンブスはイタリアの人にて、14歳の頃より、船乗りとなりたり。

ある時、思いけるよう、地球は水と陸とよりなりて、その形、たまのごときものなれば、
東より西に向かいて、まっすぐに、進み行けば、ついには、これを一巡りすべしと。

かく、考えたれども、これを実行せん資金なきに苦しみしが、後、
イスパニアの皇后イサベラの助けを得、三艘の船を以て、イスパニアを出帆せり。

かくて、大西洋を、西へ西へと、進めども、陸地の影だに見えざれば、
水夫は、大いに、恐れて、引き返さんことを迫り、コロンブスの聞かざるを見て、
ついには、海中に沈めんとはかりしものさえあるにいたれり。

されども、コロンブスは、忍耐の心強く、水夫を、ある日は、慰め、ある日は、励まし、
七十日の後、ついに、新しき島を発見したりき。

これ、すなわち、今のサン・サルバドル島なり。

これより、ヨーロッパ人は、大西洋の向こうに、新陸地あることを知り、
やがて、アメリカ大陸をも発見するにいたれり。


          <感謝合掌 平成27年12月25日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その10 - 伝統

2016/01/03 (Sun) 03:57:10


★ 第二十四 「生き物を憐れめ」

ナイチンゲールはイギリスの婦人にて、幼き時より、憐れみの心深かりき。

ある時、犬が足を傷めて、苦しめるを見て、
傷口を洗いやり、明くる日も、また、手当を成しやりたり。

かくて二、三日の内に、はや、犬の傷癒えたり。

その後、ナイチンゲール、牧場に出でしに、犬は足下にとびきたり、
懐かしそうに、足をのべ、尾を振りて、礼を言うがごとき様を成したりとぞ。

すべて、生き物は、これを憐れみ、その苦しめるを見ては救いやるべし。


★ 第二十五 「親切」

ナイチンゲールは、犬をも憐れむほどなれば、
わけて、親の無き子や、貧しき人を憐れみて、助けたること多し。

また、頼り無き人にて、病めるものあれば、
遠き所にても、行きて、これを慰め、力の及ぶ限り、介抱せり。

また、我が家に近き鉱山の役夫の怪我せるを聞くごとに、
これを見舞いて、いたわりしかば、彼らは、深く、その親切を喜びたりとぞ。

ナイチンゲールは、暇あるごとに、貧民学校、病院、監獄などを見回りて、
改良の道を考え、ことに、その頃の看護婦が、患者を、むごく、取り扱う風あるを見て、
これを改めたしと思いいたり。

その後、父母共に、フランス、イタリアなどの諸国をめぐり、
またドイツに行き、看護婦学校に入りて、勉強し、
さらに、フランスに行き、名高き病院にて、実地の研究を成し、
本国に帰りて後、救済院と看護婦学校とを監督しいたり。



★ 第二十六 「博愛」

その頃、イギリス、フランス、トルコの三国とロシアとの間に、
クリミア戦争という激しき戦争起こりたり。

その戦争の激しかりしと、流行病の盛んなりしとのため、
イギリス、フランスの軍中には、病兵と負傷兵との数、おびただしかりしかど、
遠く、本国とへだたりたる戦地のこととて、医師も乏しく、看護人も少なく、
従軍の兵士は、いずれも、非常の難儀にあいたり。

ナイチンゲールはこれを聞き、三十四人の婦人を率い、
海を渡りて、戦地に向かい、力を尽くして、看護に従事したり。

戦をはりて後、本国に帰りしが、女皇はナイチンゲールに謁見をたまいて、
その功を褒め給い、人民も、また、その功に感ぜぬものなかりき。

ナイチンゲールのごときは、まことに、博愛の心深き人というべきなり。


          <感謝合掌 平成28年1月3日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その11 - 伝統

2016/01/09 (Sat) 04:22:43


★ 第二十七 「祝日祭日」

我が国の祝日は、新年、紀元節、天長節にて、これを三大節という。

新年は年の始まりを祝い、
紀元節は二月十一日にて、我が帝国の紀元を祝い、
天長節は十一月三日にて、天皇陛下の生まれたまいしを祝うなり。

祭日は一月三日の元始祭、
一月三十日の孝明天皇祭、
春分の春期皇霊祭、
十月十七日の神嘗祭、
十一月二十三日の新嘗祭なり。

これ等の祝日、祭日は、いずれも、我が国にとりて、大切なる日にて、
宮中にては、天皇陛下、自ら、御儀式を行わせたまう。

          <感謝合掌 平成28年1月9日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第一期 高等小学修身書 第一学年用~その12 - 伝統

2016/01/17 (Sun) 03:56:26


★ 第二十八 「復習」

人の一生を木に例えれば、少年はその苗のごとし。

苗のときに曲がらぬようにし、その曲がれる時、これをためおかざれば
、長じて後、よき木材とはならざるべし。

人も、少年の時に、よく、学びて、身を修めおかざれば、成長の後、良き人となりがたし。

良き日本人とならんとするものは、天皇陛下を尊び奉りて、我が国を愛すべし。

職務に勉励することは、秀吉のごとくせよ、
誠実にして、義を重んずることは、清正のごとくなれ。

鷹山は倹約を守りて、産業を興し、
フランクリンは、よく、勤労し、よく、公益をはかりたり。
ナイチンゲールは生き物を憐れみ、人に親切を尽くしたり。

良き日本人とならんとするものは、これ等の人々の行いに鑑み、
学校にて授けられたる色々の教えを身に行うように心がけるべし。

我等の守るべき道多けれども、その中にて、深く、心得おくべきことは、
正直なること、人のためを思うこと、喜んで良き行いを成すこと、行儀を良くすることなり。

我等、教育を受けたる者は、良く、これ等の心得を守らざるべからず。

          <感謝合掌 平成28年1月17日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その1 - 伝統

2016/01/26 (Tue) 03:31:13


★ 第一 「大日本帝国」

昔天照大神、ニニギノミコトを降ろしてこの国を治めしめ給えり。

尊の御曾孫は神武天皇にまします。

天皇御即位の年より今日に至るまで二千五百七十余年にして、
御子孫世々相次ぎて天皇の御位に登らせ給えり。

世界に国は多けれども、
我が大日本帝国の如く万世一系の天皇をいただくものは他に存せざるなり。

また御代々の天皇は臣民を子の如く愛し給い、
我等の祖先は皆皇室を尊びて忠君愛国の道をつくせり。

我等はかかるありがたき国に生まれ、かかる尊き皇室をいただき、
またかかる美風をのこせる臣民の子孫なれば、天晴れ良き日本人となりて
我が帝国のためにつくさざるべからず。


★ 第二 「皇后陛下」

皇后陛下は教育の事に深く御心を用いさせ給い、さきに東京女子師範学校に

  みがかずば玉も鏡もなにかせん 学びの道もかくこそありけれ

という御歌を賜い、また華族女学校を建てさせ給いて「金剛石」「水は器」の御歌を賜えり。

皇后陛下は我が国の産業にも御心をとどめさせ給い、
かつて宮中にて蚕を養い給いしことあり。

また赤十字社事業の発達を思し召さるること深くして、
日本赤十字社総会には常に行啓あらせらる。

明治三十七、八年戦役の時、皇后陛下は出征軍人の身の上を思いやり給いて
御手づから包帯を造りて下し給い、また傷病者を病院に御慰問あらせられしなど、
御仁徳の高きは国民の仰ぎ奉る所なり。


          <感謝合掌 平成28年1月26日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その2 - 伝統

2016/02/04 (Thu) 04:52:19


★ 第三 「忠君愛国」(その一)

昔元の兵我が国に攻めよせたることありき。

この時九州の海岸を守りいたる勇士の中に河野通有という人ありしが、
忠君愛国の心深く、故郷を出でし時、敵もし十年の内によせ来らずば
我より渡り行きて合戦せんと誓いを立て、待つ事八年の久しきに及べり。

弘安四年敵船海を覆いて至れり。

通有は時こそ来れと勇み立ち、手勢を2艘の船に乗せて海上にこぎ出たり。

やがて一際目立ちたる敵の大船に近づきしに、敵は激しく矢を放ちて之を防ぐ。

通有は左の肩に傷を受けたれども事ともせず、
己が船の帆柱を倒してはしごとなし敵の船に乗り移り、自ら数人を斬り伏せ、
遂にその中の大将とおぼしき者を生け捕りて帰り来れり。


★ 第四 「忠君愛国」(その二)

北条高時、後醍醐天皇を廃し奉らんとして大軍をつかわせり。

この時天皇を守り奉る者少なかりき。

楠木正成、天皇の召しに応じて直ちに河内より来たり、御前に出でしに、
天皇は深く之を嘉し、みことのりして高時を討たしめ給う。

正成「勝負は戦の習いなれば、たまたま敗れることありとも叡慮をなやまし給うことなかれ。
正成一人生きてありと聞召さば、御運必ず開かるべしと思召し給え。」と頼もしげに言上して退けり。

かくて正成は僅かの兵を以て勤王の軍を上げ、謀をめぐらせて、しばしば高時の大軍を悩ませしが、
天皇の御味方をなす者次第に多く起こりて、遂に高時を打滅したり。

天皇隠岐より都に帰り給う時、道に正成を召して大いにその功を褒め、
やがて正成に命じて御車の前駆をなさしめ、めでたく都に入らせ給えり。

          <感謝合掌 平成28年2月4日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その3 - 伝統

2016/02/11 (Thu) 03:27:50


★ 第五 「仁と勇」

加藤清正は仁と勇とを兼ねたる大将なりき。

豊臣秀吉の朝鮮を征伐せし時、清正先手の大将として朝鮮に攻め入りたり。

会寧府の城にあるもの二人の、王子を縛りて清正に降参せしに
清正はその縄を解き、あつくこれをもてなしたり。

明国のもの清正の武勇を聞きて大いに恐れ、使いを使わして清正に説き、
「明国の皇帝四十万の大兵を出して、すでに日本軍をほろぼしたれば、
汝も二人の王子を返して国に帰れ、しからずば汝が軍を打ち破らん。」と言う。

清正「汝が国の大軍きたらんにはわれこれを皆殺しにし、
かの二王子のごとく汝が国の皇帝をもとらえん。」と少しも恐れず答えたり。

              ・・・

★ 第六 「信義を重んぜよ」

清正はまた信義の心強き人なりき。

秀吉の二度目の、朝鮮征伐の時、浅野幸長蔚山の城にありしに、明国の大兵来たり攻む。

城中の兵少なき上敵の攻めること激しく、日に増し危うくなりしかば、
幸長使いを清正のもとにつかわして救いをこわしむ。

清正これを聞き、

「われ日本国を発せしとき、幸長の父長政くれぐれも幸長のことを我にたのみ、
我もまたその頼みを引き受けたり。今もし幸長の危うきを見て救わずば、
われ何の面目ありて再び長政にあわんや。」

と直ちに部下のものを率いて蔚山の城に入り、幸長と力を合わせて立てこもりたり。

格言 義を見てせざるは勇なきなり。

              ・・・

★ 第七 「誠実」

清正はまた誠実なる人なりき。

石田三成等の讒言によりて秀吉の怒をうけ、朝鮮より召し帰されてつつしみいたり。

ある夜伏見に大地震あり、清正、秀吉の身を気遣い、部下のものを率いて、
真っ先に城に駆けつけ、夜のあくるまでその門を守りたり。

これより秀吉の怒りとけ、その罪無きことも明らかになれり。

秀吉薨じて後、その子秀頼幼かりしかば、徳川家康の勢い盛んになり、
豊臣氏の恩を受けしものも次第に家康につきて、秀頼を顧みるもの少なかりき。

されど清正は常に良く秀頼に仕え、大阪を過ぐる毎に必ず秀頼の安否を訪ねたり。

ある時秀頼京都に至りて家康に会えり。

この時清正は秀頼の身を護りて、しばしの間もそのそばを離れず。

さて無事に帰りし後、「今日いささか太閤の恩に報いることを得たり。」と言えり。

              ・・・

★ 第八 「油断するなかれ」

清正、秀吉の召しによりて朝鮮より日本に帰ろうとし、途中密陽の城を過ぎたり。

この城を守りたる戸田勝隆は清正の友なれば大いに喜び、
重臣を使わして清正を道に出迎えしむ。

出迎えの者は羽織・袴にて行きしに、
清正主従はいずれも甲冑をつけて戦場にのぞむが如き様にて来れり。

清正やがて城に入り、座敷に入ろうとして腰に着けたる袋を降ろしたり。

見れば中には米・味噌銭などを入れたり。

勝隆あやしみて「このあたりは敵もあらざるに何とてかくは給うぞ。」と問う。

清正答えて

「とかく事の破れは油断より起こるものなり。
まして我に少しの油断あらば士卒の心ゆるみて急の役に立たざるに至るべし。
之を恐れてかくはするなり。」

と言えり。


格言 油断大敵。

          <感謝合掌 平成28年2月11日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その4 - 伝統

2016/02/17 (Wed) 03:03:36


★ 第九 「志を固くせよ」

上杉鷹山は秋月家より入り上杉家を継ぎて米沢藩主となりたる人にして、
心を政治に用い賢君の誉れ高かりき。

鷹山の藩主となりし頃は、上杉家の借財はなはだ多く、いかにも困難の有様なりしが、
鷹山はこのままにして家の滅ぶるを待つべきにあらずと思い、倹約をもととして
家を立てなおさんと志したり。

されど藩士の中には鷹山に服せずして、
「鷹山は小藩に育ちたれば大藩のふりあいを知らず。」など言いてそしる者もありしが、
鷹山は少しもその志を動かさざりき。

為せばなる為さねばならぬ何事も ならぬは人の為さぬなりけり


★ 第十 「倹約」

鷹山は令を出して倹約を進めしが、
自らまずこれを実行せんとて、大いに衣食の料などを減じたり。

鷹山の側役のものの父、ある時在方に赴きて知り合いの人の家に泊まりたることあり。

その人風呂に入らんとして着物を脱ぎしが、粗末なる木綿の襦袢のみは丁寧に屏風にかけおきたり。

主人あやしみてそのわけを尋ねしに、
「この襦袢は藩主の召されたるものにてわが子にたまわりしを
さらに我のもらいしものなればかくはするなり。」と答えたり。

主人はこれを聞きて深く鷹山の倹約に感じ、その襦袢を示して家内の人々を戒めたり。

格言 倹を尊ぶは福を開くの源。


★ 第十一 「産業を興せ」

鷹山は産業を興して領内を富ましめんとはかり、
新たに荒れ地を開いて農業を営まんとする者には農具料種籾等を与え、
3年の間租税を免じたり。

また村々に令して馬を飼わせ馬市を開きなどして農業を勤める上の助けとしたり。

鷹山はまた養蚕をも進めしかど、領内の民貧しくて桑を植えること
あたわざるもの多かりしにより己の衣食の料の中より年々五十両ずつを出し、
その中にて桑の苗木を買い上げて分かち与え、または桑畑を開く者に貸し付けて
その業を励ましたり。

なお鷹山は奥向にて蚕を飼わせ、絹・紬を織らせなどしたりしが、
更に領内の女子に職業を与えんと思い、越後より機織りに巧みなるものを雇い入れて
その法を教えしめたり。

これ世に名高き米沢織りの初めなり。


★ 第十二 「孝行」

鷹山はまた孝行の心深き人なりき。

常に養父重定のもとに行きて安否を尋ね、その喜ばしき顔を見るを楽しみとし、
重定の没するまで少しも怠ることなかりき。

ある時重定はその屋敷の庭を広げて面白く造ろうと思いしが、
上下ともに倹約を守るおりからとて、遠慮して見合わせたり。

鷹山これを聞き、「御老年のお慰みこれにますものなかるべし。」とて、
人夫を使わして重定の心のままに造らしめたり。

またある時鷹山、重定を招待し、領内の老人を集めて料理を与えしことありしが、
付き添い来たりし子や孫の睦ましげに老人に給仕する様を見て深く感心し、
これより重定を招く時は常に自ら給仕して仕えることとせり。

          <感謝合掌 平成28年2月17日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その5 - 伝統

2016/02/25 (Thu) 03:43:01


★ 第十三 「兄弟」

伊藤小左衛門は伊勢室山町の人にして味噌・醤油を造るを家業とせり。

小左衛門に三人の弟ありしが、互いに心を合わせて家業に励み、
室山味噌の名をして世に高らしめたり。

ある年大地震ありてその倉多くはつぶれ、加うるに雨長く降り続きしため、
味噌・醤油の類ほとんど皆腐りて家運にわかに傾けり。

世人はいずれも「室山の味噌屋とて、もとの身代に復すること難しからん。」と思えり。

されど小左衛門は三人の弟にはかり、人手をからず
3年を期して家運を建て直さんと兄弟任を分かちて働き、日夜怠らざりしかば、
期に先立ちて優れる倉を建てることを得たり。

その後小左衛門は製茶・製糸等の業を営みしが、
常に兄弟力を合わせ合い助けて業に励みしかば、家門ますます栄えるに至れり。


★ 第十四 「進取の気象」

横浜の港開けたる頃、小左衛門は外国にて茶・生糸を要する事多きを知りて
製茶・製糸の業をはじめたり。

小左衛門まず自ら茶畑を開きて試みに茶の実を蒔き、
培養の方法を研究して大いに発明する所あり。

数年にして多くの茶を製するに至れり。

またその地方の人々にも製茶の利あることを説きて、茶の木を植えることを勧めたり。

小左衛門また桑の苗木を己が畑に植え蚕を養い、
初めは手繰りにより後には機械を用いて生糸を製せしが、
その品質不良にして損失を招けり。

小左衛門更に機械を改良しその数を増して業に励みしかども、
品質なお不良にして更に損失を重ねたり。

されど進取の気象に富める小左衛門の事とて少しも之に屈せず、
別に新たなる機械を備え、また親類の者を上野の富岡に使わして製糸の方法を習わしめ、
心を専らにして改良を加えしかば、遂に外国商人等もその品質の良きを褒め、
名声大いに高まるに至れり。

          <感謝合掌 平成28年2月25日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その6 - 伝統

2016/03/03 (Thu) 03:03:41


★ 第十五 「忍耐」

アメリカ発見によりて名高きコロンブスはイタリアの人にて14歳の頃より船乗りとなれり。

ある時種々の記録等によりて研究し、大地は水と陸とよりなりてその形たまのごときものなるべく、
ヨーロッパより西に向かいて進み行く時はアジアの東に達することを得べしと考えたり。

されど当時にありては、誰一人之を信ずる者なく、かえってあざけり笑うのみなりき。

されどコロンブスは少しも屈せず、熱心に研究を積みて、ますます己の信ずる所をかたくせり。

さて之を実行せんとせしかど、家極めて貧しく、資金を得るの道なくして
多年その志を遂げることを得ざりしに、イスパニアの皇后イサベラに知られ、
その助けを得て、3艘の船を以てイスパニアを出帆することとなれり。

かくて大西洋を西へ西へと進みしが、日数経れども、陸地の影だに見えざれば、
水夫は大いに恐れを抱き、引き返さんことをコロンブスに迫り、その聞かざるを見て、
コロンブスを海中に沈めんとはかりしものさえあるにいたれり。

忍耐の心強きコロンブスのことなれば騒げる水夫をある日は慰め、
ある日は脅し、百万艱苦を凌ぎて進み行きしが、70日の後ついに新しき島を発見せり。

これすなわち今のサンサルバドル島なり。

          <感謝合掌 平成28年3月3日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その7 - 伝統

2016/03/10 (Thu) 03:09:49


★ 第十六 「礼儀」

人は常に礼儀を守らざるべからず。

礼儀を守らざれば人をして不快の念をいだかしめまた己の品位を損ずるものなり。

されば言語・挙動を慎み、、身なりを整え、食事の際不作法に流れず、
戸・障子の開け閉てなどを荒々しくせざらんことを要す。

汽車・汽船などに乗りたる時無礼なる振る舞いや、卑しき言葉遣いをなし、
集会場・停車場その他人の込み合う場所にて人を押しのけて進み、
また通行人等に対しその身なりや様子を指差し笑い悪口するなどは、いずれも悪しき行なり。



★ 第十七 「習慣」

善き習慣をつくらんがためには常に自ら省み、良き行いを努めて悪しき行を避けるべし。

瀧鶴臺の妻、ある日袂より赤き手毬を落としたり。

鶴臺あやしみてたずねしに、妻は顔を赤らめて言うよう、
「われ愚かにして過ち多し。さればこれを少なくせんと思い、赤き毬と白き毬とを造り
袂に入れ置き、悪しき心起こる時は赤き毬に糸を巻き添え、良き心起これば白き毬に糸を添えたり。

はじめの程は赤き方のみ大きくなりしが、今は二つとも同じほどの大きさとなりたり。
されど白き鞠の赤き鞠より大きくならざることを恥ずかしく思うなり。」と言い、
さらに白き毬を出して鶴臺に示せり。

鶴臺の妻の如きは善き習慣を造る事に工夫をこらしたる者というべし。

自ら省みて善き行いを努めるは初めは苦しくとも、
習慣となればさほどに感ぜざるに至るものなり。


松平定信幕府の老中となりし時、
上下共に驕りの風をなすことを禁じ、自ら先んじて倹約をなせり。

人々之を評して、「定信こそ身にとりて苦しからめ。」と言う。

定信之を聞き、「否、我は幼き時より衣食すら心のままならず育ちたれば、
今倹約を行えども少しも辛き事為し。」と言えりとぞ。

格言 習、性となる。


          <感謝合掌 平成28年3月10日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その8 - 伝統

2016/03/18 (Fri) 04:24:12


★ 第十八 「勉学」

新井白石は9歳の時より日課を立て、日の中は三千字、夜は千字を習うことを定めとせり。

冬は日短くして、課業未だ終わらざるに日の暮れんとすること度々なりしかば、
西向きなる竹縁の上に机を持ち出して、ようよう書き終わりたり。

また夜は眠気さしてたえ難かりければ、二桶の水を用意しおき、いたく睡の催せる時、
衣服を脱ぎ、一桶の水をかぶりて字を習い続け、程すぎて身暖になりまた睡の催し来る時、
他の一桶の水をかぶりて遂にその課業を終わりたり。

白石はまた撃剣を学びしが、勉強のしるしありて速に上達し、
ある時己より年上なる少年と三度し合いて皆勝つことを得たり。

また書物を読み習うに定まりたる師なく、唯字引によりて独習せしのみなりきという。



★ 第十九 「盟友」

白石の師木下順庵、白石を加賀侯にすすめんと思いて、その由を白石に告げたり。

同じ門に加賀の生まれにて岡島石梁という人ありしが、
之を聞き「加賀には年老いたる我が母のおわするあり。我もし先生のすすめによりて
加賀侯に仕えることを得たら一生の願い足らん。」と言う。

白石直ちに順庵のもとに至り、
「我の仕えるは何れの地にてもよろしければ加賀には岡島をすすめ給え。」と言いしに、
順庵は深くその友情の厚きに感心し、やがて岡島を加賀にすすめたり。

後2年にして白石は順庵にすすめられて甲斐侯に仕えしが、
侯は後に将軍となり白石為に重く用いられて大功を立てたり。

          <感謝合掌 平成28年3月18日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その9 - 伝統

2016/03/26 (Sat) 03:49:17


★ 第二十 「主人と召使」

中江藤樹は近江の小川村の人なり。

幼より祖父の家に養われ、その後を継ぎて伊予の加藤氏につかえしが、
故郷にある母を養わんがため、つかえをやめて小川村に帰れり。

この時伊予より一人の召使い従いきたれり。

されど藤樹は家貧しくしてこれを雇いおくことあたわず、
よりて己がもてるわずかばかりの銭の中よりその過半を分かち与え、
「故郷に帰り商売をなして生計をたつべし。」という。

召使いは「お志はまことにうれしけれども、われはいささかも金銭を受けんとは思わず、
ただいつまでも仕えて艱難をともにせんことを願うなり。」と答えた。

藤樹はその心をあわれとは思いしが、せんかたなくあつくこれをさとしたれば、
召使いも涙を流して帰りゆけり。


★ 第二十一 「徳行」

藤樹は貧しき中に老母に仕えて孝行を尽くし、
また常に学問にはげみ、ついに名高き学者となりたり。

されば遠き所より来たりて学ぶ者も多く、
文字を知らざるものまでもその徳に化せられ、
人みな近江聖人ととなえて敬いたり。

その死後多くの年月を経たけれども、村民今なおその徳を慕いて年々の祭りを怠らず。

ある年一人の武士、小川村のほとりをすぎ藤樹の墓をたずねんとて、
畑を耕せる農夫にその道を尋ねたり。

農夫は自ら案内すべしとて、先に立ちて行きしが、
途中にて己が家に立ち寄り、衣服をあらため羽織を着て出で来れり。

武士は心の中に我を敬うがためにかくするならんと思いしが、
藤樹の墓にいたりし時、かの農夫、垣の戸をひらきて武士をその中に入らしめ、
おのれは戸の外にひざまづきて拝したり。

武士はここにはじめて
さきに農夫の衣服をあらためしは藤樹を敬うためなりしことをさとり、
深く心に感じ、ねんごろに墓を拝して去りたりとぞ。

          <感謝合掌 平成28年3月26日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その10 - 伝統

2016/04/04 (Mon) 04:40:21


★ 第二十二 「度量」

藤原行成は一条天皇の御代の人なり。

ある時宮中にて藤原実方と事を論ぜしに
実方怒りて行成の冠を打落し、之を小庭に投げ捨てたり。

人々いかになり行かんかと心配して見居たるに、
行成は騒げる色もなく人を呼びて冠を取り寄せもとの如くかむり、

静かに実方に向かいて、
「如何なればかくは折檻せさせ給うぞ。その故を承りてとも角も仕らん。」と言いしに、
実方は大いに恥じてその座にたえず、そのまま退出せり。

天皇はこの様を御覧じ給い、
行成は器量すぐれたる者なりとて、やがて高き役を仰せつけ給えり。

・・・

<参考:藤原行成>

書道の世界には「三蹟」と呼ばれる書の達人が3人います。
その一人が藤原行成です。

しかし彼は書家としての顔だけでなく、 「四納言」と呼ばれる
(一条天皇、藤原道長の時代に活躍した)貴族官僚の一人としてもその名を残しています。

藤原行成は972年(天禄3年)に太政大臣藤原伊尹の孫である右近衛少将義孝の長男として生まれました。

行成がようやく活躍するようになるのは995年に蔵人頭に任ぜられたことがきっかけとなっています。
このころ疫病の流行により 政界でも勢力図が大きく変化していったことがしられています。

道隆、道兼が死去し、道長が政治の実権を握るようになる過程で、
道長と 道隆の子伊周との対立が起こっていた時代ですが、
蔵人頭であった源俊賢の推挙により行成が蔵人頭に任ぜられます。

これによって行成に 活躍の道が開かれ、
やがて「四納言」の一人として後世扱われるようになるのです。

行成は一条天皇からの信頼も厚く、また道長からの信頼も厚かったということが
998年に道長が病に倒れたときの天皇と道長のやりとりに関 わったことからも
うかがい知ることが出来ます。


行成は後に書家の流派の名前としても使われた世尊寺を建立したことでもしられています。
もともとは祖父の邸宅の一つであった桃園第を受け継ぎ、これを寺としたのが世尊寺でした。
1001年に世尊寺供養を盛大に行いました。

行成は道長の側近として公務に精励するより他無かったようです。
なお、行成は道長と 同年である1028年のしかも同日に死ぬという奇妙な偶然の一致もあったりします。

http://historia334.web.fc2.com/history/gyakubiki/Fujiwara-no-Yukinari.html

          <感謝合掌 平成28年4月4日 頓首再拝>

Re: 教育勅語① - yfxzdromveMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:01:29

伝統板・第二
[url=http://www.gb237278kr85u7rw92bg42lsufy75yq3s.org/]uyfxzdromve[/url]
<a href="http://www.gb237278kr85u7rw92bg42lsufy75yq3s.org/">ayfxzdromve</a>
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