伝統板・第二
神示とは ⑰ - 伝統
2025/05/24 (Sat) 11:57:30
(五月の神示)【久遠天上理想國實現の神示】
『生長の家』の因縁を書き置く。
『生長の家』とは人間が附けた名ではない。
神がつけさせたのである。
『生長の家』とはタカアマハラのことである。
|(たて)に無限に生(の)びることを『生(せい)』と言ひ、
一(よこ)に無限に長(の)びることを『長(ちょう)』と言ひ、
|(たて)と―(よこ)とが十字に交叉した中心を
息叉(いへ)(家<いへ>)と言ふ、
|(たて)の生命(せいめい)と―(よこ)の生命とが
交叉した中心が『家(イヘ)』である。
イヘの《ヘ》は交叉の形を象徴(かたちど)つたものである。
家(いへ)のことを巣と言ひ、住むと言ふ。
住むと云ふのは中心に集まることである。
一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによつて澄む
即ち淨められるのである。
中心のないものは統一がないので、雑然として言噪(ことさわ)ぐのである。
今の國際連盟を見るが好い、中心が無しに
いつまで論爭(ことあげ)して見たところで、善きことは生れぬ。
論争(ことあげ)したすべての國が一つの中心にあつまりて、
統一せられねば全世界は一つの『家』にならぬのである。
久遠天上の『生長の家(たかあまはら)』が地上に顯現して全世界が
『生長の家(せいちょうのいえ)』にならねば永遠理想世界は地上に來ぬ。
《久遠天上》とは地に対する《天》ではない。
實相世界のことである。
イエス・キリストも『み心の天に成るが如く地にも成らせ給へ』と祈つたが、
實相世界では既にひとつの極身(きみ)に統一せられて、
常樂の淨土となつてゐるのである。
地上にも實相世界が形を顯(うつ)して
天國が地上に天降つてくる時期が近づいたが、
今の世界は下照姫(したてるひめ)に心を迷はせてゐて
下照姫の言ひなり通りになつてゐるから、
その迷ひの自壞作用として、地上全体が
『生長の家(たかあまはら)』になるまでにまだまだ
色々な難問題が起つて來る。
皇典にある下照姫と云ふのは地鑛の下で光つてゐる金(きん)のことである。
全世界が一つの『生長の家(せいちょうのいえ)』となり、
實相の世界の『生長の家(せいちょうのいえ)』が地上に顯(うつ)つて來る時には
是非とも此の世界も一つの中心に統一せらねばならぬ。
|(たて)と一(よこ)との十字の中心は
”光の放射”を象徴(かたど)つたものであつて
その中心を『光(ひ)の本(もと)』と言ふのである。
日本(ひのもと)は光(ひ)の中心(もと)である。
十字架の中心ユダヤにあると思つてゐたら大なる間違ひである。
十字架の中心は日の本にあり
キリストの本地(ほんじ)も日本(ひのもと)にある。
十字架の放射光線が皇統連綿の國であると云ふことが
何人にも判つて來なければ此の世は治らぬ。
久遠皇統連綿と云ふことは偶然になることではない。
形の世界が心の世界の影であることが解り、
實相世界が久遠常住の世界であると云ふことが判れば
久遠皇統連綿と云ふことは
實相世界の久遠常住性が最も迷ひの念なしに形に顯れたのが
日本國だと云ふことが解るのである。
興廃常なき世界の國々は常住性のない迷ひが影をあらはしたのであるから、
生滅常なきは當然である。
今の世界で實相世界の常住性を形に顯(うつ)し出してゐるのは
たゞ日本の國ばかりである。
生滅常なき現實世界が變じて久遠實相世界の常住性を顯現するには、
常住性ある國がひろがりて常住性なき國を包みて、十六方位の世界を
一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬのである。
十六菊と云ふのは光が十六方位にひろがりて、
十六方位の國ことごとくを中心に統一せる
ことを象徴(かたちど)つたものである。
十六の數は一と六と合はせて《七つ》を意味し、
《全て》を意味し、七つの燈臺が十六方位の中央に輝きて
十六方位の國ことごとくが一つの生長(みずほ)の家(くに)となると、
そこに久遠實相の高天原が形に顯現して
常樂の國土が地上に涌出(ようしゅつ)する。
太陽はまだ昇り始めたばかりである。
生長の家を、高天原と假名附けさせたり、
生長(みずほ)の家(くに)と假名附けさせたが、
高天原(たかあまはら)── 瑞穂の國 ── 生長の家(せいちょうのいえ)──
この三つは三位にして一體である。
『生長の家』とは『長生(ながいき)の家』、『無量壽の家』、
即ち『不滅の家』であって、
實相生命の不滅の相(すがた)が家系となつて連綿と続く家である、
日本に於ては國と家とは一体である。
全世界もまた家と國とが一体である事を教へたのがイエス・キリストであつて、
そのために彼は人間同士を兄弟と呼ばせたのである。
併し兄弟があるばかりで兄弟相爭つては家は治まらぬのである。
兄弟があり、家長があり、其処に統一があつて始めて此の世が淨(きよ)まつて
生長の家となり、不滅の家となるのである。
家と云ふのは生命(せいめい)が中心に交叉し集まることを意味すると教へたが、
國と云ふものも交叉する意味のクミ(組<くみ>)から來た語である。
今の國々は皆形がクミ合つてゐるだけで、
中心の生命(せいめい)(息<いき>)が一つに統一してゐぬから
”國即家”の實が挙がつてゐぬのである。
一つの中心にすべてが統一せられて、萬民その天分に応じて其の堵(と)に安んじ、
需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶやうに、
全体の細胞へ各々適當な資料を、適當な分量だけ過不及なく與へるやうになったとき、
《國》は即ち《家》となり始めて本当の”國家”となるのである。
かくの如き國家にては凡てのものが瑞々しく穂(ひい)で、
その國家は『瑞穂の國』であると同時に『生長(せいちょう)の家(いへ)』であり、
久遠實相の生長の家(たかあまはら)の地上的顯現であるから、
高天原と、瑞穂の國と、生長の家とは三位にして一體であると言ふのである。
高天原の『高』とは|(たて)に無限性を示し、『原』は一(よこ)に無限性を示し、
『天(あま)』は|(たて)一(よこ)陽陰相交叉して運行する結果、
至大天球と成ることを示したのであり、
一一(てんち)の間に『人(ひと)』の生まれ出でたる象(かたち)が
『天(あま)』であり顯圓(あま)である。
天地の間に生れ出でたた本當の人間はいづれも日月(かみ)の子(こ)であり
顯圓(あま)であるから完全圓滿なものである。
天津日嗣の御子と言ふのはその完全圓滿さが
何の迷ひにも隠される事なく明らかであるから
生命の實相の久遠常住性が形に其のまま顯(うつ)し出されて
連綿と無窮につづいてゐるのである。
全世界が『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつたら
各人の家系もまた連綿につづくやうになるのである。
家が中途で絶えるのはその家が迷ひに捉はれて
『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつてゐないからである。
(昭和七年五月二十七日神示)
<感謝合掌 令和7年5月24日 頓首再拝>
【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ① - 伝統
2025/05/25 (Sun) 11:08:11
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋
(1)久遠天上とは地に対する天ではない。
実相世界のことである。
(2)「久遠天上の生長の家」というのは、
キリストの”主の祈り”にあるところの
「みこころの天になるが如く地にもならせ給え」の
”天(てん)上の生長の家であり、
その”天”とは「理念の世界」なのであります。
<感謝合掌 令和7年5月25日 頓首再拝>
【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ② - 伝統
2025/05/26 (Mon) 11:58:45
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋
(3)今の時代は、物質的な利害関係に人類の心が支配されているももですから、
地上に実相世界に既に存する構図のように「一つの極身(きみ)に
統一された、常楽の浄土」とは中々成らないのであります。
まことに残念なことなのであります。
主権国家が沢山あり、それぞれが軍備をもっていて、
既得権をを主張する限りに於いては、永久平和の世界・常楽の浄土などは
地上に実現することは望み薄であります。
(4)各国がそれぞれ主権をもちながら、世界連邦政府の統一主権を尊重し、
中心帰一の世界が実現するまではどうも永久平和の世界は出来上がる
見込みは薄いのであります。
(5)実相世界にある高天原 ―― 天国 ―― 浄土が地上に顕(うつ)って
来るときには、天上の中心帰一が地上に反映して、世界連邦中央主権に
中心帰一する世界が実現しなければならないのであります。
<感謝合掌 令和7年5月26日 頓首再拝>
【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ③ - 伝統
2025/05/27 (Tue) 11:37:25
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋
(6)”日の本”は”光の本”であり、それは実相世界にあるのであって、
イエスが「吾国(わがくに)は此の世の国にあらず」と言われた
久遠天上の世界であり、その久遠天上の世界は実相世界であります。
(7)実相世界の秩序なる”永久変わらざる中心に帰一されたる状態”が
最も完全にあらわれている国を地上に求むれば、日本国しかないのであります。
日本国は実相世界の「光(ひかり)の本」が最も完全にあらわれている国
であるから、 実相世界の「光(ひ)の本」現象化して「日の本」となり
「日本」となっているのであります。
<感謝合掌 令和7年5月27日 頓首再拝>
【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ④ - 伝統
2025/05/28 (Wed) 12:02:21
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋
(8)この世界は陽陰の結合で出来ています。
現象界の一切のものは、無形の陽陰の原理が表現されているのであります。
男女の肉体は、無形の陽陰の原理が象徴的にあらわれたに過ぎません。
(9)神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、
極微の原子から極大の太陽系に至るまで、変わることなき
中心があるということであります。
(10)現象界が変化つねなきものであるのは、
それは真に実在するのではないからであります。
<感謝合掌 令和7年5月28日 頓首再拝>
【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ⑤ - 伝統
2025/05/29 (Thu) 11:38:32
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋
(11)家系の連綿たる存続は実在世界の価値を現象世界に実現する上に
是非とも必要な事柄なのであります。
ミロクの世ともなればすべての「家」は家系連綿として不滅に続き、
実相世界の不滅価値を現象化することになるのであります。
この家系連綿の価値を国家に於いて実現しているのは万世一系の
聖天皇を載(いだ)いている日本国のみであります。
<感謝合掌 令和7年5月29日 頓首再拝>
【久遠天上理想國實現の神示】(講義) ⑥ - 伝統
2025/05/30 (Fri) 10:52:35
*『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《久遠天上理想國實現の神示》より抜粋
(12)全世界の人類が互いに一つの神から生まれた兄弟姉妹であるということを
自覚して、家長があり、兄弟姉妹が、それぞれの位相に従って、
その責任と義務とを切実に履行するようにならなければ本当の永久平和
というものは実現しないのであります。
(13)世界は、《永遠不滅の一つの中心》が渝(かわ)ることなく永続しながら、
それが君主専制などになることなく、天皇の御心に、万民の心が反映し、
天皇がそれをあきらかに「知ろしめし」て、中心と周辺とが啐啄同時に
愛合するというように、相互にピッタリ瞬刻限を同じくして、
呼べば応えるような国とならなければならないのであります。
<感謝合掌 令和7年5月30日 頓首再拝>
【“心の法則”と“平和への道”の神示】 - 伝統
2025/05/31 (Sat) 11:37:22
(五月の神示)【“心の法則”と“平和への道”の神示】
吾が來れるは古へ誤れる道徳観念を修正し、
新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。
『治にゐて亂を忘れず』と云ふのが古き人類の道徳であつたが、
『生長の家』の生き方は亂にゐて治を忘れざる生活である。
亂を忘れざる者はつひに亂に逢ふ。
亂を忘れざるが故に常に恐怖し、亂を忘れざるが故に武備をたくはへ、
武備を蓄ふるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、
近隣また恐怖して武備を増す。
かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自國は更に兵を加へて互に虎視眈々として
近隣相睥睨す。武備に國費を要し、教育費は削られ、俸給は縮められ、民に正色なく、
國に寧日なきは當然である。
汝ら、若し治にゐて亂を忘れざらばつひに亂に會ひ、
亂にゐて治を忘れざらば平和に逢はん。
亂を忘れざるを教へたる古き教も吾前には愚かなる者なるかな。
治にゐて亂を忘れざる者は健康にゐて病ひを忘れざる者である。
健康にゐて病ひを忘れざる者は、如何なる善行の者も、如何なる積德の者も、
すべては病ひに逢わん。
忘れずと云ふことは、心の力にて呼び寄せることを意味する。
求めよ、與へられん。呼べよ、答へんと吾れ汝に告げたであらう。
呼ぶものは皆來ることを疑ふな。
高德の人が病氣になるのは實に不思議だと思ふ人があるかも知れぬが、
治にゐて亂を忘れざるを高德と稱すべくんば、健康にゐて病ひを忘れざる高德者が、
病氣になつたとて不思議ではないのである。
吾れは汝に、死を豫想するなと言ひ、遺言状を書くなと教へたることがあらう。
また、不幸に對して用意すな、病氣の起る時の用意をして藥をて携へ歩むなと
教へたことがあらう。
すべて是れ『心の法則』である。
如何なる高德の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。
汝ら心して亂を思ふこと勿れ、心して病ひを思ふこと勿れ、
亂の眞つただ中にゐてすらも、實相の世界の常住平和を思へ。
汝ら眞に實相世界の平和を思へば、汝の世界にも平和は來たるのである。
また汝ら病ひの眞つただ中にゐてすらも、本當の汝の常住健康を思へ。
汝ら眞に實在の汝の健康を念へば健康は來たるのである。
されど悲しいかな。
いま實在世界の常住平和を知るものは 寥々なる暁天の星であるぞ。
いま皆のものは一刻と雖も亂を思はない時とてない。
逆の精神波動が積り積つて、汝ら世界はもう累卵の危ぶさである。
近いうちに汝らの世界には一大変動が來るであらう。迷ひの自壊作用である。
○○は○○○と戦はねばならぬ。
神はその時の惨害を出來るだけ少なくするやうに努力してゐるが、
人間の方でもその惨害を出來るだけ少なくするやうに協力するやう頼む。
協力と云ふも何も難しいことではない。
亂の中にゐても心の平和を失はぬ修行をすることである。
そのためには常々神想觀の修行をさしてある。
(昭和六年五月三十日夜神示)
<感謝合掌 令和7年5月31日 頓首再拝>
【“心の法則”と“平和への道”の神示】(講義)① - 伝統
2025/06/02 (Mon) 10:42:27
*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より抜粋
(1)「治にゐて亂を忘れず」などというようなことは、
それは近視眼的に、眼先の現象処置をする上での
適当な準備をするという準備工作としての智慧であって、
或る期間には必要でありますが、
適当な準備をした上では、乱に心に描かず、完全なる安心をもって、
「調和の世界」を心に描くことによって、
却って此の世界に平和を持ち来たすことができるのであります。
(2)この神示が発せられたのは満州事変の直前でありますが、
唯今の世界情勢にもこの神示はピッタリと当て嵌るのであります。
(3)日本の国土は、強国に囲まれおり、
実力のない中立主義は番人も戸もない羊小屋のようなものであります。
それでは、強国の餌食となることに甘んじてしまい、
却って、戦争の原因となるのであって、(そうならないために)
日本は恐れず猛獣に立ち向かえる実力を蓄えなければならないのです。
実力を持って猛獣に恐れず立ち向かうとき猛獣も尻尾を巻いて後退すると
『続々甘露の法雨』には示されているのであります。
<感謝合掌 令和7年6月2日 頓首再拝>
【“心の法則”と“平和への道”の神示】(講義)② - 伝統
2025/06/03 (Tue) 11:34:45
*「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より抜粋
(4)「戸締り」をしないで、
「いつ猛獣が襲って来るか、襲ってくるか」と戦々恐々と
猛獣を《恐れて》いるよりも、
「戸締り」を厳重にして
「これならだいじょうぶ」の態勢をとり、
《恐れずに》正面から猛獣の眼をみつめている方が、
猛獣に咬みつかれないことになるのであります。
(5)唯「実相の円満完全」を念じておれば平和が来るのではないか
―― と考えるのは、
「ただ人間の実相の完全円満を祈っておれば
現象的にはどんな処置を講じないでも肉体は健康になるのではないか」
と言うのと同じであります。
「実相の既にある完全さ」と、
「現象にそれを実現する処置」とを混同するところに、
現象的な適当な処置を不要とするような
間違った論議を生ずるのであります。
(6)「恐るる勿れ」は「永遠に変わらない黄金律」でありますが、
「恐れない心境」になるためには、「戸締り」がある方がよいか、
「戸締り」がない方がよいかはその時の現象界の情勢次第であります。
(7)「戸締り」を一層強固にして、「これだけ戸締りがあるから大丈夫だ」と、
大船に乗った気持ちになって、恐怖心を滅して大安心」の心境である方が
「心の法則」にかなった平和への道なのであります。
<感謝合掌 令和7年6月3日 頓首再拝>
【歸幽の神示】 - 伝統
2025/06/26 (Thu) 10:41:37
【歸幽の神示】(昭和六年六月二十六日 神示)
汝の肉體は汝の《念絃》の彈奏(だんそう)する曲譜である。
生命が肉體に宿ると云ふのは二元的な考へ方であつて眞理ではない。
正しく云へば、生命はその念絃の彈ずる曲譜に従つて肉體を現すのである。
肉體と云ひ、複體と云ひ、幽體と云ひ、靈體と云ふはこれ悉く念の映像に過ぎない。
汝の念譜の種類に從つて或は肉體を現じ、或は複體を現じ、
或は幽體を現じ、或は靈體を現ずる。
すべての人はいつか肉體を失ふであろうが死ぬのではない。
人は神の子であるから不死である。
念譜の形式が變わるに從つて汝の假有の形式が變わるのである。
すべての人の假有は念の異なるに從つて、その顯現を異(こと)にする。
念の形式に大變動を生ずれば、汝の假有は他界に顯現し、
今迄の念の顯現たる肉體は速かに自壞自消する。
これを人々は死と呼ぶが死ではない。
それは『生命』が念の絃をもつて一曲を彈じ終つてそれを止め、
他の奏曲に移らんとするにも等しい。
『生命(せいめい)』の彈ずる念の曲譜の形式に大變動を生ぜず、
その念絃の律動にただ調和を缺きたるのみなるを病と云ふ。
かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。
併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲を必ず終つて
一層高き形式の《曲譜》を學ばねばならない。
吾が云ふ意味は地上の生活は必ず終らねばならないと云ふことである。
地上の生活は汝の初歩の一曲である。
速かにこれを終るものは、初歩の教本を速かに終えたものである。
一曲が終らんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。
その前に調律者が來て汝の念絃の調子を正すであろう。
この調律のため一時汝の假有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。
此の世の一曲が終る前に肉體の調子が亂れたやうに見えるのは
此調律のためであつて眞に調子が亂れたのではない。
汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。
一曲は終るとも彈き手は終るのではない、
彈き手は神の子であつて不死であるぞ。
(昭和六年六月二十六日神示)
<感謝合掌 令和7年6月26日 頓首再拝>
帰 幽 の神示 谷口雅春 - 伝統
2025/06/27 (Fri) 11:01:39
帰 幽 の神示 谷口雅春
tmr0423(2020/07/04)
https://www.youtube.com/watch?v=36N36WBYTBU
<感謝合掌 令和7年6月27日 頓首再拝>
【歸幽の神示】講義① - 伝統
2025/06/28 (Sat) 12:01:19
*「『到彼岸の神示』神示講義
自覚の巻 《歸幽の神示》」より抜粋
(1)肉体というのは、『甘露の法雨』には
「心の糸を組合せて、肉体の繭を作り」と
書かれているのであります。
(2)「生命(せいめい)」は空間的広がりの世界には無いのであって、
その空間的広がりの無い世界から
”コトバ”即ち「生命の波」を起すのであります。
その結果、時間空間というものが生じ、現象界に波が現れて、
だんだん振動数の迅い小さい波から振動数の大きい波になって、
拡がって行く訳です。
(3)「無にして無限相」である人間の本体(神霊)が「振動」を起して、
その「振動」によって現わしている所(霊体→幽体→エーテル体→肉体)
のものが肉眼で見える世界であり、人間であるという訳であります。
(4)「無空間の世界」にある所の本体の「生命(せいめい)」が振動を起すと、
その振動の範囲が空間として吾々に認識され、その振動の持続が時間として
認識されるという事になっているのであります。
<感謝合掌 令和7年6月28日 頓首再拝>
【歸幽の神示】講義② - 伝統
2025/06/29 (Sun) 11:05:58
*「『到彼岸の神示』神示講義
自覚の巻 《歸幽の神示》」より抜粋
(5)人間はそれぞれその人の心境に従って
異なる色の後光(オーラ)を放っている。
(「生命の謎」参照)
(6)自心の延長としての環境
①本体から出たところの心の波が
「霊体」となり、「幽体」となり、肉体となり、
更に「オーラ」となり、更にそれが遠くまで及んで、
自分の「環境」として現れたのだとみることが出来るのであります。
②自分の環境にあらわれて来るものは皆自分自身なんであります。
「外にあるものは一つもない、一切が自分である」
という事になるのであります。
③だから環境に何事があらわれて来ても、
それは自分自身の心の影だと反省しなければなりません。
<感謝合掌 令和7年6月29日 頓首再拝>
【歸幽の神示】講義③ - 伝統
2025/07/01 (Tue) 10:36:57
*「『到彼岸の神示』神示講義
自覚の巻 《歸幽の神示》」より抜粋
(7)エーテル体
①感覚の「座」であります。
②同時に幽体から発する感情の爆発を被覆して
それを調和ある程度に調節する役目をしているのであります。
③エーテル体は全身に満ち満ちておりまして、
それが神経系統というコードを流れているときに感覚や知覚が起るのです。
④エーテル体の一部は精神が集中するところへ集り、
また時々体外へ放出されます。
それは、手の指先、掌、眉間または額から放出されます。
吐く息と共にも放出されます。
これをインドのヨガの行者などは、プラナと言っているのであります。
(8)幽体
①幽体というのは、
それは「想念感情の媒体」になっているところの体でありまして、
感覚や知覚よりも一層複雑な「想念感情」の媒体であります。
②悲しい、口惜しい、残念だ、嬉しい、楽しい、腹が立つ・・・。
このような感情の「媒体」となり、それの「座」となり、
「レコード」にもなって、
感情が其処に印象され、蓄積される「場」であります。
③「もの言わぬは腹ふくるる業(わざ)なり」と
兼好法師が『徒然草』に書いてある様に、
想念感情を表現することが出来ない場合はふくれるのであります。
心に想う通りの形に幽体というものは直ぐ姿が変わるのであります。
④私たちの起した想念感情のエネルギーは蓄積され残っているのであります。
これが仏教でいわゆる「業(ごう)」であります。
この蓄積されているところは、
その「場」を「体」としてみるとそれは「幽体」であります。
其の蓄積の「場」を心理学的に言いますと、
「潜在意識」という事になる訳であります。
<感謝合掌 令和7年7月1日 頓首再拝>