伝統板・第二

3000737
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

ひかりの一日一言117~ひかりの語録(12月) - 伝統

2024/12/01 (Sun) 05:05:49

ひかりの一日一言《1日》

一人として他人はないのであります。
他人なる理念などと云うものはないのであります。

金光教祖も
『天(あめ)が下(した)に他人と云うものはないものぞ』
と仰せられました。

何故(なぜ)なら神は一つであり、凡(すべ)てのものは
一つの神によって造られたものであるからです。

神の造り給うた世界には、
神より出でないものは何一つもないのです。

宇宙全体の人間が一つの兄弟である。

      *「美しき生活」(P25)

       <感謝合掌 令和6年12月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2024/12/02 (Mon) 05:06:30


決して他人なるものはない。

そこでみんな拝み合って、そうして感謝し合わねばならぬ。

みんな拝み合い感謝し合うところに本当の天国浄土と云うものが、
そこに顕れてくると云う風になるのであります。

      *「美しき生活」(P25)

       <感謝合掌 令和6年12月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2024/12/03 (Tue) 05:03:26


夫婦の調和が本当に完全に整ったなら、
子供などは放っといても伸びるのであります。

親が育てなくても神様が育てて下さる、
親は不調和な念波で邪魔しなければそれで好いのであります。

神様と云うのは何処(どこ)にあるかと云うと、
それは宇宙に満ちておられるけれども、
ただ拝み合うところにのみ出て来られるのです。

親たる夫婦が拝み合わないところに神は顕れない、
従って子供もよく育たないのであります。

      *「美しき生活」(P26)

       <感謝合掌 令和6年12月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2024/12/04 (Wed) 05:06:00


本当に夫婦が拝み合う家庭に於いては
そこに神様が出ているのでありまして、

ほっておいても  ―― ほっておくのではないのですが  ―― 
神様に委(まか)せておくと神様がいいようにして下さるので
あります。

凡(すべ)ての生み出す力の元は陰陽の結びが本(もと)で
あります。


親子の間では、親は天即ち陽(よう)、子は地即ち陰(いん)と
見立てて、陰陽の結びの順序によって拝み合って行(ゆ)かねば
なりません。

      *「美しき生活」(P26~27)

       <感謝合掌 令和6年12月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2024/12/05 (Thu) 05:06:16


宇宙、人生、家庭の生々化育の根本となるところの一番大切なものは
陰陽の調和であるのであります。

この陰陽の調和が破れた場合には、国が栄えない、家庭が繁昌しない、
子供が病気になる、また成績が悪くなる、夫婦のうち誰かが病気に
なると云う風に、色々の不幸、困難が現れてくるのであります。

そう云うときに一番可哀相なのは子供であります。

夫婦自身はみずから好んで夫婦喧嘩をしているのですから、
それで病気になっても自分で諦めもつきましょうけれども、
夫婦の不和の結果、子供が病気になるなどは実に子どもに対して
申し訳がないのであります。

子供を若(も)し愛するならば、夫婦は仲良くしなければ
しなければならないのです。

尤(もっと)もこれはどちらかた仲良くすれば好いかと申しますと、
先ず気が付いた方から仲よくするしか仕方がありません。

      *「美しき生活」(P42)

       <感謝合掌 令和6年12月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2024/12/06 (Fri) 05:05:27


三界は唯心の所現、立ち向かう人の心は
みんな自分の心が映っているのでありますから、

奥様の心が良人(おっと)に映り、
良人の心が自分の心に映るのです。

ですから、どちらでも先に気づいた方から先ず始める。

『気がついた』と云うのは神様の智慧がそこに自分を通して
顕れたと云う事であり、その人の心の中に智慧の光が
点(とも)されたわけでありますから、点(とも)された
方から照らすより仕方がありません。

自分が先ず輝いて、そうして相手を照らしさえすれば、
相手もまた明るく照らすようになってくるのは当然であります。

      *「美しき生活」(P42~43)

       <感謝合掌 令和6年12月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2024/12/07 (Sat) 05:05:32


相手を照らす場合には下から照らさなければならないのです。
下から照らすとは上から引っ張り上げるような態度をとらずに
下から押し上げると云うような態度をとるのです。

自分の方が貴方(あなた)より偉いから引き上げてあげましょうと
云うのではなしに、自分は低く謙(へりくだ)って
下から相手の神性を拝むようにするのです。

拝めば光が出てくるのです。
拝まなければ光が出て来ないのであります。

凡(ずべ)て実相と云うものは拝んだ時に出てくるので、
軽蔑したり擲(なぐ)ったりしたら出て来ないのであります。

      *「美しき生活」(P43~44)

       <感謝合掌 令和6年12月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2024/12/08 (Sun) 05:05:16


何時(いつ)でしたか『生長の家』誌の巻頭言に『ミレーの晩鐘』
の絵のことが事が書いてあって、あの絵の主題である農夫が
拝んでいつ姿が神の姿であると説明してありましたが、

拝んでいる姿、拝んでいる心が神の姿、神の心であります。

拝むのも神、拝まれているのも神様なのです。

さればこそ神様の救いの波が拝む人に感じられて来て
そこに御利益が実現するのであります。

拝まない処(ところ)には折角神様の救いの電波の放送があっても、
そこに感じ得るように実現して来ないのであります。

      *「美しき生活」(P44)

       <感謝合掌 令和6年12月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2024/12/09 (Mon) 05:06:36


自分の方から拝んだら損だと思う人があるかも知れませんが、
実は拝む人が得(とく)なのです。

拝んだらそこに神様が現れるのであります。
自分のうちに神様が現れる  ―― 謂わば、
自分が神様になる道が拝むことなのです。

      *「美しき生活」(P45)

       <感謝合掌 令和6年12月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2024/12/10 (Tue) 04:52:05


皆様、本当に拝んで御覧なさい。
本当に『有難い』と云う心そのものに拝み切って御覧なさい。

そうして自分自身が『有難い』と云う心そのものに
成り切って御覧なさい。

其処に自分のうちに神さまの心のリズムが感じられます。
自分の内に神様が宿っていることが如実に感じられるので
あります。

      *「美しき生活」(P45)

       <感謝合掌 令和6年12月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2024/12/11 (Wed) 05:05:59


夫婦(互いに)拝み合って御覧なさい。
自分の内に、そして配偶の内に神様がいますことが
如実に感じられてくる。

そしてその家庭は実に円満な神の子の家庭になって
来るのであります。

拝み合うのは必ずしも夫婦間だけの事ではない。

親子の間でも同じ事であります。

親は天であり子は地であります。
天は地を拝み、地は天を拝む。

そして親子の拝み合いが本当に完全に行なわれた時に、
そこが本当の生長の家になるのであります。

      *「美しき生活」(P45)

       <感謝合掌 令和6年12月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2024/12/12 (Thu) 05:06:41


吾々は此の世界を神の《まこと》の現われと信じます。

神が人を愛していられる其の切実なる《まこと》は
どんな相(すがた)に見えようが見えまいが
現れがどうであろうがあるまいが、それは真(まこと)で
あって是(これ)は打ち消す事ができない事実なのであります。

      *「美しき生活」(P46)

       <感謝合掌 令和6年12月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2024/12/13 (Fri) 05:05:43


真(マコト)そのもの、真心(マゴコロ)そのもの、
天地間に満ちているところの、眼に見えない神秘な力、
生きとし生けるものを生かさずに置かないところの
《いのち》の本質が『天(てん)』であり、『マコト』であり、
『真如(しんにょ)』であります。

日本の国を本来『ヤマト』と云う。
『ヤマト』は『大和(だいわ)』と云う意味で同時に
『弥誠(いやまこと)』であります。

吾々は大和(やまと)の民族でありますから世界平和のために
貢献すべく使命づけられた民族であります。

      *「美しき生活」(P47~48)

       <感謝合掌 令和6年12月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2024/12/14 (Sat) 05:04:02


樹木があんなに生き生きと若葉が萌出(もえで)ている、
その萌出(もえだ)さずにおかない《いのち》の力が
神の生かさずにいないマコトです。

太陽が暖かく照っている、あの太陽は照らさずにおかない所の
真心(まごころ)の力(ちから)なのです。

そのマコトが、マゴコロが事物の本質なのです。

物(もの)の本質は真(まこと)そのものである。

ですから、心の眼を開いて見れば、
天地間には真(まこと)が満ちている事が判るのであります。

天地間マコトの現れでないものはない。

そこで吾々が真(まこと)を出して
『あの人に深切をしてあげたい』と思えば、直(ただ)ちに、
そこに真如(しんにょ)から来生(らいしょう)したところの
如来の相(すがた)が現れているとも云えるのであります。

      *「美しき生活」(P48)

       <感謝合掌 令和6年12月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2024/12/15 (Sun) 05:03:22


吾々が『あの人に深切をしてあげたい』と思ったなら、
そこに真心(マゴコロ)が輝いて、そこに真如から出て来た
ところの真(マコト)が出ているのでありますから、
ここに如来が出ていられるのであります。

此の場合、《自分が如来なのです》。
真(マコト)から来たり生まれたところのものが出ているのです。

ですから生長の家では、人間はみんな如来の子である、
仏の子である、神の子であると云うのです。

真(マコト)を出した時に、皆な如来なのであります。

      *「美しき生活」(P48~49)

       <感謝合掌 令和6年12月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2024/12/16 (Mon) 05:04:46

真(マコト)を出した時に、如来が生まれ出るのでありまして、
その時に初めて、吾々は自分自身を神の子だと云えるのです。

このマコトの来生せる有様(ありさま)を如来と云い
天使(てんのつかい)と云うのでありますから、
天使(てんのつかい)は到る所に満ちておられるのです。

(中略)

或いは光波(こうは)になり、或いは熱の波になり、
吾々を生かして下さる、これは如来の働きであり、
天使(てんのつかい)の働きであります。

或いは雨が降って草木(そうもく)を潤してくれるのも、
或いは色々美しい花が咲いて吾々を楽しませてくれるのも、
或いは小鳥が囀(さえず)っているのも、

これ皆天地間の真(マコト)と云うものが現れているのであります。
ですから天地間に如来は充満している。

華厳経には『無盡平等の妙法界には如来身充満し』と書いて
ありますが、其の通り、
真(マコト)が現れている相(すがた)はみんな如来であります。

      *「美しき生活」(P49)

       <感謝合掌 令和6年12月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2024/12/17 (Tue) 05:05:13


天地間悉く生きとし生けるもの有りとし凡(あら)ゆるもの
みんな如来の相(すがた)であります。
吾々はみんなを拝まずにはおれないと云う事になるのです。

吾々が生きている以上、生かされている以上、
一切のものを生かさずにはおかない、不思議な天地の
真(マコト)の力と云うものが満ちていることを
吾々は感ずる事が出来るのであります。

      *「美しき生活」(P50)

       <感謝合掌 令和6年12月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2024/12/18 (Wed) 05:05:29


天地間に満ちている真(マコト)の力が吾々に現れると
真心(マゴコロ)となって現われ、君(きみ)に忠(ちょう)、
親に孝(こう)、人に深切と云うような働’はたらき)と
なって出てくるのであります。

如来と云っても、仏さ(ほとけ)さまと云っても天地間に
満ちておって、来(きた)って来(きた)るところなく、
去って去るところなく、宇宙に満ちているのですが、

併(しか)し救いの霊波が現れるという意味を『出て《来る》』
と云う意味にとって如来の来と云う字を使ってあるのであります。

      *「美しき生活」(P50)

       <感謝合掌 令和6年12月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2024/12/19 (Thu) 05:02:59


『甘露の法雨』の冒頭に『或る日』とありますが、これは
日に新(あら)たなる『毎日』であり、
時間を超越せる『今日(こんにち)』でありまして、

『今(いま)』心の耳を開いて神の声を聞けば、
その声を『今(いま)』聴くこともできるのであります。

      *「美しき生活」(P51)

       <感謝合掌 令和6年12月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2024/12/20 (Fri) 05:06:32


皆さん自身が『天の使い』であり如来である、
『今』その大宇宙の真理を宜(の)り響かせている、
この自覚が大切であります。

この自覚に伴われた『まこと』であってこそ
力を現わすのであります。

      *「美しき生活」(P53)

       <感謝合掌 令和6年12月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2024/12/21 (Sat) 03:57:11


真心(まごころ)は五感を超越していると申すのです。

真心(まごころ)と云うものがある事は誰でも知っているが、
どんな形、音、匂(におい)、形、感触と云っても判らない。

      *「美しき生活」(P54)

       <感謝合掌 令和6年12月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2024/12/22 (Sun) 05:02:18


吾々は普通の五感の他(ほか)に第六感が又五種類あるのですから、
みんなで《十種》の感覚をそなえているとも云えるのですが、
そういう十種の感覚で幾ら感じても

本当の神様の姿はそれ以上のものであって、到底感ずる事が
できないものである、神様は『まこと』とか『聖(せい)』とか
云うより表現し方がないのであります。

      *「美しき生活」(P58~59)

       <感謝合掌 令和6年12月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2024/12/23 (Mon) 05:03:22


聖(せい)は字相(じそう)で見ると耳と口との王でありまして、
地上の言葉であらわすことが出来ず、地上の耳では聞くことが
出来ない神聖なるものであることを表しております。

『聖(せい)』をその訓(よ)み方で申しますと、《ひじり》で
ありますが、聖(ヒジリ)の『ヒ』と云うのは、霊(ひ)、日(ひ)、
火(ひ)、光(ひ)であり、明らかに照らすもの、明徳、霊徳を
表わしております。

聖(ヒジリ)の『ジリ』と云うのは『著(し)るし』と云う言葉で
あります。

明徳、霊徳の著(いちじ)るしき方(かた)を
聖(ひじり)と申すのであります。

      *「美しき生活」(P59)

       <感謝合掌 令和6年12月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2024/12/24 (Tue) 05:08:41


聖(ひじり)の光(ひかり)は無礙光であって、
遮(さえぎ)られるところなき光なのです。、

まことに著(いちじる)しき光(ひかり)なのですから、
聖(ひじり)<光著(ひじり)>であり、無礙光であります。

      *「美しき生活」(P59)

       <感謝合掌 令和6年12月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2024/12/25 (Wed) 03:08:24


有りと凡(ら)ゆるものの中に
行き亙(わた)っているところの『光(ひかり)』。

あらゆる物のの中に宿っている生命(いのち)の光(ひかり)、
愛の光(ひかり)、智慧の光(ひかり)、真心の光(ひかり)
であります。

万物が兎も角も存在し生きているのは此の『真心の光(ひかり)』が
中にあって存在を支えてくれているのであります。

      *「美しき生活」(P60)

       <感謝合掌 令和6年12月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2024/12/26 (Thu) 05:06:14


皆さんの身体(からだ)には『真心(まごころ)』が行(ゆ)き
亙(わた)っているのであります。

(中略)

吾々は神様の真心(まごころ)に生かされているのだ。
吾々は神様の愛に生かされているのだ。

これは事実であってどんな理屈を云ってみても
否定の仕様(しよう)がないのであります。

それが判れば、吾々は自然に他(た)に対しても
不深切は出来なくなります。
誠心(まごころ)を出さずにはおれなくなるのであります。

      *「美しき生活」(P60)

       <感謝合掌 令和6年12月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2024/12/27 (Fri) 04:59:17


自分の生命(いのち)と云うものはみんな
神様の真心(まごころ)の力である。

そうすると皆さんの御本質は神様の真心(まごころ)であるから、
皆さんはその真心(まごころ)を出した時に
如来の生命(いのち)が顕(あらわ)れたのであります。

      *「美しき生活」(P61)

       <感謝合掌 令和6年12月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2024/12/28 (Sat) 05:04:41


その真心(まごころ)を出さないでいて、
ご利益が欲しいとか、自分は神の子だから何に対しても
悪(あく)はないなどと云う人は
人間神の子と云うのを肉体の事じゃと間違えているのです。

肉体は本来存在しないのであって、
皆さんの本質が、いのちの本質が神の真心(まごころ)である。

だから真心(まごころ)を出したとき吾々は是(これ)を称して
如来である、神の子であると云うのであります。

      *「美しき生活」(P61)

       <感謝合掌 令和6年12月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2024/12/29 (Sun) 05:01:44


神は聖(せい)である。

耳聴くこと能わず、
口言うこと能わず、
眼見ること能わず、

神は誠(まこと)であるから、
ただ吾々の心が浄(きよ)まり誠(まこと)の心を
起こしたときにのみ それを感ずることが出来るのであります。

      *「美しき生活」(P62)

       <感謝合掌 令和6年12月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2024/12/30 (Mon) 08:08:10


神は無相であると同時に無限相でありますから、心が清ければ、
すべての物を見て、其処に『神』を感ずることが出来るのであります。

誠(まこと)を以って対し、
『聖(せい)』なる心を以って萬物に対すれば、
萬物悉(ことごと)く神ならざるはない。

つまり萬物に宿る誠<まこと>(真<まこと>) ――
実相(じっそう)を見ればそれはそのまま『神(かみ)』で
あり、『仏(ほとけ)』であって、拝めると云うことになる
のであります。

      *「美しき生活」(P62)

       <感謝合掌 令和6年12月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2024/12/31 (Tue) 05:00:15


本当に悟れば事々物々(「じじぶつぶつ)神ならざるはない。

すべての事物に対する神を拝することが出来るのが
『心の清き者は神を見ることを得(う)』であります。

(中略)

自分に『誠(まこと)』の心が起こっている時が
神を心の中に『体験』する時でありますから、その時だけが
真(まこと)に神の相(すがた)を見ているのであります。

      *「美しき生活」(P62、63)

       <感謝合掌 令和6年12月31日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.