伝統板・第二

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困難に戯れよ⑥ - 伝統

2024/10/16 (Wed) 11:29:29


《難儀は人生の好機会である》

     *『 生長の家 』(昭和24年7月17日の法語)より

人生には千百の好機会がある。
その好機会とは困難である。

天理教祖は「 難儀は節じゃ、節から芽が出る 」と
いったのはそのことである。

噴水は 狭いところへ押し込まれたので高く昇るのである。

困難の暴風は 臆病(おくびょう)者を吹きとばし、愚者を放逐し、
勇敢と賢明とをよびいだし、人格を鍛えて堅忍不抜の者とするのである。

余りに安易に得られたる富は 人間性を堕落せしめるものである。

巌(いわお)にあたってくだけてのみ 、その水は高く空に上(のぼ)るように

人間の魂も困難にあってくだけてのみ 高く上(のぼ)るのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/71dc66790f336c692af2243176a628c7

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「困難に戯れよ! (10457)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2004 (消滅)

   (再掲示)伝統板・第二「困難に戯れよ(光明掲示板・第二)」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7897491

(2)光明掲示板・第三「困難に戯れよ! (70)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=36

(3)光明掲示板・伝統・第一「困難に戯れよ! (28)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=16

(4)伝統板・第二「困難に戯れよ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463677

(5)伝統板・第二「困難に戯れよ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879318

(6)伝統板・第二「困難に戯れよ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7897577

(7)伝統板・第二「困難に戯れよ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8018654

(8)伝統板・第二「困難に戯れよ⑤」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8249264

       <感謝合掌 令和6年10月16日 頓首再拝>

困難を遊戯化する日 - 伝統

2024/12/04 (Wed) 11:13:04


           *「光明道中記」(12月4日)より

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。
 何事も魂の生長の養分である。 (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、
その人にとって一つの誘惑であることがある。
通らないことが時にはあるので、
自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、
我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

            <感謝合掌 令和6年12月4日 頓首再拝> 

困難を恐怖するなかれ! - 伝統

2024/12/17 (Tue) 11:14:50


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より

恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。

人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。

もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。

困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。

困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。

            <感謝合掌 令和6年12月17日 頓首再拝> 

困難には意義がある - 伝統

2024/12/18 (Wed) 11:42:02


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日)より

およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。

与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。

わたしはある日、鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を失ってしまったことがある。

板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、
かえって救いの手であったのだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、
与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、呪詛を感じ、
そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまったのであった。

困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。

静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康となるための
素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。

            <感謝合掌 令和6年12月18日 頓首再拝> 

《困難、困難に非ず》 - 伝統

2025/01/22 (Wed) 12:52:13


        *「光明法語」(1月22日)より

あらゆる見せかけの困難はすでに困難ではないのである。

吾は何事は起って来ようとも
神之(これ)を解決し給うことを信ずるのである。
如何なる出来事もこの信念を打ちこわすことは出来ないのである。

吾は目の前に起って来る如何なる困難をも
呪(のろ)いはしないのである。
すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。
吾が魂を磨く《やすり》である。

吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝く様になった時、
もはやそのようなあらあらしい砥石は
自分の魂に不必要になって来るのである。
従ってそのような困難は消えてしまう。

            <感謝合掌 令和7年1月22日 頓首再拝>

困難が困難でなくなる - 伝統

2025/02/10 (Mon) 11:17:29


   *「光明道中記」(2月10日《困難を超えて向上する日》)より

【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
                     (『生命の實相』十一巻)】

魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。

甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を
振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。

かくの如くして吾々の力が向上するに従い、
困難が困難でなくなるのである。

吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、
吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。

最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。

お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、
吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。

最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。

お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても
実力がないから次の時に失敗する。

         <感謝合掌 令和7年2月10日 頓首再拝>

【制限があってこそ人生は輝く】 - 伝統

2025/03/09 (Sun) 11:55:33


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.12.14)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

    《制限の中において初めて 名人はその腕を示す》(ゲーテ)


   偉人の言葉というのは、古今東西を問わず、人の心を打つものがあります。

   ドイツの大文豪ゲーテのこの言葉もその一つです。

   文の達人は人生の達人でもあったことが、この言葉から窺えます。


   昔、大学を何年も留年し、
   一向に卒業しようとしない大学生にこういう話をしたことがあります。

   「ミレーの絵も、ゴッホの絵も、どんな名画も額に収まっている。
    もし額がなく、どんな 広さで描いてもいいと言われたらどうなるか。

    かえって絵は描けない。

    額があることによって、つまり制限の中で描くからこそ、名画は名画たり得る。

    人生も同じだ。

    制限があってこそ人生は輝く。

    何の制限もないようなところで生きていると、人間は堕落するだろう。

    人生もいつまでも生きているわけにはいかない。

    限られた時間の中でどう生きるか、
    それが人生の質を決定する。

    早く大学を卒業せよ」


   この言葉に何かを感じ取ってくれたのか、彼はその年に大学を卒業しました。
   これが足りないと言っている間は、未(いま)だしです。

   制限の中において、いや制限の中にあるすべての条件を生かして、
   どう自分の理想を実現するか、自分の人生を充実させるか。

   そこに名人としての呼吸があるということを、
   ゲーテのこの言葉は教えてくれています。

           <『人生心得帖』致知出版社>

        ・・・

「人間というものは、どうも何処(どこ)かで
 阻(はば)まれないと、その人の真の力量は出ないもののようです」

森信三師の言葉だ。


長い人生、一つの問題や厄介事もなく、順風満帆に行ける人など一人もいない。

何らかの障害があるものだ。

しかし、逆に言うなら、そういう障害という制限があるからこそ、
我々は工夫し、考え、動き回って、必死の努力をする。


「制限があってこそ人生は輝く」

という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和7年3月9日 頓首再拝>

希望が困難を克服する決意と能力を高める - 伝統

2025/03/16 (Sun) 10:03:42


        *『ダライ・ラマの智恵 幸せな生き方、満ち足りた死に方』
          ダライ・ラマ十四世 テンジン・ギャツォ著(ハート出版)
           (P12~13)

あらゆる種類の幸せと苦しみを、精神的なものと物質的なものという、
二つの主なカテゴリーにわけることが出来ます。

この二つのうち、私たちの多くに最も大きな影響を及ぼすのは心です。
重病を患ったり、基本的な生活必需品を欠いていない限り、
私たちの物質的な状態は人生において二次的な役割にとどまります。

身体が満たされていれば、私たちは実質的に身体のことを顧みません。

けれど心は、どんなに些細な出来事でも、すべてを記録します。
ですから、私たちは心の平和をもたらすために、
最も真剣な努力を尽くすべきなのです.


もっとも深い内なる平穏は、愛と思いやりを育むことによってもたらされる

(中略)

他者の幸せを大切にすればするほど、私たち自身の幸福感がたかまります。

希望を失い落胆すれば、困難に立ちむかう能力が弱まってしまいます。

一方で、もし私たちが、苦しみを経験するのは自分たちだけではなく、
誰しもがそうであることを思い起こせば、より現実的な視野が開けて、
困難を克服する決意と能力を高めてくれるでしょう。

       <感謝合掌 令和7年3月16日 頓首再拝>

【人生というのはマラソン】 - 伝統

2025/04/16 (Wed) 09:05:48


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2025.1.3)より

   (井上裕之氏の心に響く言葉より…)」

   《人生というのはマラソンなんだから、
    百メートルで一等をもらったって しようがないというわけです》

           (石坂泰三(たいぞう)・東芝元社長)


   石坂泰三氏は、第一生命保険や東京芝浦電気(現・東芝)の社長を歴任。

   その後、第 二代経済団体連合会会長となりました。

   順風満帆な人生を送っているようですが、
   「中学受験に失敗」
   「大蔵大臣の打診を断り、倒産寸前の東芝の社長に就任」
   「組合との長い交渉」
   「日本万国博覧会協会会長時の官僚たちとの戦い」など、
 
   いくつもの困難を乗り越えて決ました。

   そんな石坂氏だからこそ、長期的な視点でものを考えることの
   大切さを知っていたのでしょう。


   東大教授で蓄財の神と言われた本多静六先生は、
   「途中を楽しみながら登ること」と言っています。

   思うようにいかないときは、
   マイナスの先にプラスがあると信じてみましょう。

   成功する人は、長いスパンで物事を考えられる人です。


   人生は長いのです。

   浮き沈みの楽しさを感じなければ疲れてしまいます。

   人生はいつもいいときばかりではありません。

   下がるから、上がったときに喜びがあるのです。


   人生はある意味実験です。

   うまくいかなければ、他の実験をして成功させればいいのです。


   また、本多先生は
   「その時節の到来は必須なのだ」とも言っています。

   悪いときが永遠に続くことはありません。

   時がくれば必ず盛り返せます。

   成功のときが必ずくると信じて、日々頑張っていれば、
   いつか必ずいいときがきます。


      《長期戦に挑む(いどむ)と幸運がやってくる》

         <『不敗の人生をつくる言葉』致知出版社>

        ・・・

中国明末期の洪自誠(こう・じせい)が書いた
「菜根譚(さいこんたん)」の中にこんな言葉がある。

「人を看(み)るには、只だ後の半截(はんせつ)を看よ」


人の値打ちは後半生で決まる。

後半生の生き方をみるだけで、その人の価値がわかる。

人の真価は、人生の後半生の生き方にかかっている、ということだ。


前半生、どんなにいい学校を出ようが、一流の会社に入って、
豪華な家を建て、お金を稼いで日の当たる道を歩こうが、

後半生が不遇で、幸せとは程遠い人生を送るなら、
それは寂しい人生で終わることになる。

「終わりよければすべてよし」というシェイクスピアの言葉の通り、

映画でも同じだが、途中どんなにひどいことやつらいことが起ころうと、
最後のエンディングがハッピーで終わるなら、
ハッピーな映画ということになる。

これは人生も同じだ。


前半生での華々しい経歴、学歴や職歴、
あるいはスポットライトを浴びた様々な受賞歴も、
称賛された素晴らしい美貌も、仕事の成功体験も、いずれも
100メートル走で1等になったようなもの。

長いマラソンのような人生においては、一瞬の出来事だ。

だからこそ、人生の後半生で大事なことは、
後半を過ぎれば過ぎるほど、気を抜いてはいけないということ。


前半生より、さらに・・・

自分に厳しく生きようと思うこと。

自分を磨くこと。

学ぶこと。


「人生というのはマラソン」

という言葉を胸に刻みたい。

・・・

<参照>

いかに〝負けない人生〟を実現するか
——『不敗の人生をつくる言葉』の著者・井上裕之氏に聞く
https://www.chichi.co.jp/web/20250325_fuhainozinsei_inoue_hiroyuki/

            <感謝合掌 令和7年4月16日 頓首再拝>

《問題は必ず解決する》 - 伝統

2025/05/13 (Tue) 08:59:21


       *「光明法語」(5月13日)より

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。

         <感謝合掌 令和7年5月13日 頓首再拝>

困難消滅する日 - 伝統

2025/06/03 (Tue) 11:25:39


       *「光明道中記」(6月3日)より

【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
                        (『生命の實相』第一巻)】

人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。

実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。

併し今私は試練の火が必要であったのでも、
困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。

試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。
自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と
調和しなかったのである。

みずから神から離れたるものと誤覚し、
「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。
今よりのち試練を神からきたものと考えまい。

私が悪いのである。
すべては私の責任である。

試練を神に帰することは神を残忍者であると観、
神を不完全であると観ることになる。

斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。

心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。

           <感謝合掌 令和7年6月3日 頓首再拝>

逃げ出さず、困難に向かって平気で進んで行く - 伝統

2025/06/11 (Wed) 11:38:48


      *「光明道中記」(6月11日) より
       ~困難を征服し宝石を得る日

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、
それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多い
のと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが
生長の家の生活ではない。

盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、
盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。

不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから
得られるのである。

       <感謝合掌 令和7年6月11日 頓首再拝>

すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 - 伝統

2025/07/03 (Thu) 11:33:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月3日)より

われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、

われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。

深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。

どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。

            <感謝合掌 令和7年7月3日 頓首再拝>

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