伝統板・第二 2581277

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(五月)の法語

1:伝統 :

2024/05/01 (Wed) 04:56:52

このスレッドでは、他の掲示板等から、次の7つの法語を紹介してまいります。


(1)『 生長の家 』  昭和二十五年五月号
            谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱より紹介
            http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


(2)『 生長の家 』  昭和二十六年五月号 
            谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱より紹介
            http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


(3)『 生長の家 』  昭和三十二年五月号
            『 真理 』第9巻 生活篇第11章
             「 自己が自己の主人公となること 」


(4)『 生長の家 』 昭和二十九年五月号
            (「実生活を改善する心の持ち方」1日~23日に限定)
            生長の家「本流復活」について考える~聖典引用 板 より紹介
            https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/
            (2013/05/01<2237>~2013/05/28)

(5)『 生長の家 』  昭和52年5月号(1日~10日に限定)
            唯神實相哲学を学ぶ女性のための掲示板
            http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

(6)『 理想世界 』  昭和48年5月
            伝統板・第二「青年法語~”幸ひ”と”仕合はせ”といふこと」
            https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

(7)『 白鳩 』    昭和47年5月
            伝統板・第二「白鳩箴言~女性のための智慧」
            https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8331168


・・・

【一日の法語(5月1日)】

(1)《吾(われ)は常に平和と安静と明朗である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   外界に如何(いか)なる混乱状態が起って来ようとも、
   吾(わ)が内には 常に平和と安静と明朗とがあるのである。

   吾は如何なる場合にも神の方へ心を振り向け、
   現象界の不調和に心を捉(とら)えられるということをしないのである。


・・・

(2)《祈りは父子相互の霊交である》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   祈りは、吾が内在の神が、宇宙の大神に近づくところの道である。
   即ち「神の子」が「親様」へ霊交するところの方法であるのである。

・・・

(3)《暗黒の時には黎明が近づいている》

   あなたの心の想い(これを想念と云います)を積極的に、建設的に、
   明るい方向に、常に保つように心懸けなさい。

   外観が如何に悲観的に破壊的に見えようとも、
   外観の暗黒さに心を奪われてはなりません。

   事件が破壊的に進行していることは、
   何か新しい建築がはじまろうとしていることの証拠です。

   あなたの焼け跡の地面でも、恐らく其の焼け跡に何かを建築する計画のあるまでは、
   焼け跡にある色々のものを毀しはしなかったでしょう。
   また折角、建っている家を毀すときには、
   屹度もっと大きな新しい計画があるからでしょう。

   だから今ある事物が毀れて行きつつあるのを悲しんではなりません。
   外見の暗黒さに心を引っかからせはなりません。
   常に明るい実相を見るのです。

   暗い心をもってはなりません。
   明るく愉快に現在に、誠実をもって実行を続けると必ず道が開けて来るのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P285~286>)

・・・

(4)《自信力は推進の原動力である》

   全ての資格や能力が同じであったら、その人が成功し、又は幸福を得る程度は、
   その人の自信力の多少によって定まるのである。

   優秀なる才能を持ちながら自信力が欠乏しているために、常に後退していて、
   その優秀なる能力を発揮し得ないで、いたづらに為す事なく
   人生を過ごしてしまう人も多いのである。

   自信力は船を推進する力のようなもので、
   「優秀なる能力」という宝を満載している船も、
   その船を推進する力を持たない場合には、
   その船は立ち往生して目的の所へ運んで行く事はできないのである。

   自信力というのは心の力である。
   それは内部にある「素晴らしきもの」を表現するための原動力であるのである。

   内部に「神の子」として素晴らしいものを包蔵しようとも
   表現することが出来ないならば甲斐なき事である。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2237

・・・

(5)《太初にコトバありコトバは神と偕にあり》

   宇宙はひとつの霊的磁石的中心をもつ生命の波動の世界である
   と謂うことができるのである。

   星雲は、まだハッキリした太陽系の如き中核体をもたない
   大生命の波動の幼児期のようなものである。

   けれども、それはひとつの霊的磁石的中心をもってはげしく渦巻いているのである。

   その渦巻の中心にアイディアをもつ霊的生命が、
   そのアイディアを放出しつつ、次第にその渦巻をアイディアの形相(かたち)にまで
   具体化する過程を徐々につくりつつあるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)日日是れ前進の祝福の日

   人間は”神”なる親樣から出現したところの
   各々特殊の個性ある神の自己顕現であるから、
   その自己實現又は自己顕現に必要なる力は既に與へられてをり、

   その自己顕現に必要なる環境と絛件とは、
   時間的經過と共に、順次必要に從つて、それは恰も
   春夏秋冬の移り行く環境に從つて花咲き、實を結ぶが如く、
   その時節々々に必要なる要素を備へ乍ら展開して行くのである。

   それ故に、あなたの環境が、今たとひあなたにとつて木枯風が
   吹きすさぶやうに苛辣な状態であらうとも、やがて萬物萌へさかる
   春が來るやうに、あなたの希望が花咲き實を結ぶ季節が來るのである。

   どんな環境絛件も、皆、自己の個性を鍛へるための絛件として
   必要なのだと歡喜して努力精進前進せよ。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)日本國家が生命體であるいふ意味 

   日本國家が生命體であるいふ事は何を意味するのであらうか。

   それは部分部分が何らかの偶然の集まりで結合して
   全體が出來たといふのではないといふ事である。

   生命が先にあつて部分を集めて全體ができたといふことである。


・・・

<参考:5月の谷口雅春先生の言葉>

(1)陽めぐりいず~「生命の實相」第37巻幸福篇上
   → (光明掲示板・第二) 
     http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1570 (消滅)

   → 伝統第二(五月)陽めぐりいず(光明掲示板・第二)
     http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7859021  

(2)神に全托する~光明法語<道の巻>
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=85

(3)聖泉(いずみ)湧き出ず~光明道中記
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=86

            <感謝合掌 令和6年5月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/05/02 (Thu) 05:02:52


(1)《吾は吾を唯幸福にのみ導き給う神を信ずる》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   外の世界に如何なることがおこって来ようとも、
   吾は吾を唯幸福に導きたまう神のあることを信ずるのである。

   吾々は現在の状態を人間の努力によって変化しようと
   力む必要はないのである。


・・・

(2)《祈りには心境が変ることを先(ま)ず願え》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   自分の心境だけの御蔭を頂くのである。

   神に祈ればその間だけでも、神の方へ心が振向けられ、
   自分の心が感化せられる、それこそが真の御利益である。

   「 神よ、みこころの如くならしめ給え 」 と
   神の方へ心を振向けることを専(もっぱ)らにする方が、
   心境の変化のためには一層よいのである。

・・・

(3)《肉体の習慣性に負けてはならない》

   祈りを伴わない実行は、時として失敗します。
   人間に於いてサカシキものも神の み前に於いては愚かなるものであります。

   霊的進歩をとげなければ、一時的の成功はあっても、
   永遠の勝利と云うことはありません。
   霊的進歩を遂げるには、是非とも神との一体感を深めなければなりません。

   そのためには神想観とか、祈りとか、坐禅とか、念仏三昧とか、
   名称は異なれども、宇宙の偉大なる実在と瞑合し融合する修行を行なうことが必要です。

   私たちの肉体は結局、物質として顕れていますから、それ自身に生命(せいめい)はなく、
   物質の動きは唯惰力によって与えられた方向に与えられた運動量だけ動くだけのもの
   ですから、結局「なまけ者」であります。

   それは成るべく努力しないで楽をしたがります。
   「神想観などしたくない、面倒くさい」と思うかもしれません。
   その面倒くささに打ち勝つのが霊の働きであります。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <286~287>)

・・・

(4)《心の深層にある劣等感》

   自信力の必要なことが解っただけで、
   その自信力を養成する方法を知らなければ何にもならない。

   自信力は養成し得るものであることを先ず知らなければならない。
   自信力は先ず「心」の中にあるのである。

   その「心」というのも、
   表面の心即ち「現在意識」の中にのみあるのではなくて、
   心の深層すなはち「潜在意識」の中に印象されている
   「劣等感」としてあるのである。

   すなはち、「自信力の養成」は必然的に
   「劣等感の克服」という問題を含んでいるのである。

   自信力がないということは、先ず、幼い時に何かをやって失敗した 、
   その印象が深く心の深層に残っていて、
   「今度もまた失敗するに違いない」という予想が先に立って
   何事も出来なくさせているのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2243

・・・

(5)《宇宙創造の二つの面》

   ついにその霊的生命は単に、単純な渦巻きの形をしているだけではなく、
   アイディアの形相(かたち)にまで具体化する。
   所謂る太陽系統の如き具体的組織が生成されるのである。

  
   単なる星雲の如き生命の波動の渦巻きが、
   太陽系統、の如きものを生成するには二つの作用が行なわれるのである。

   それは“分化”と“統合”の二つである。
   宇宙創造はこのような二つの原理によって行なわれるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

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(6)春爛漫の櫻花を見て

   もしあなたが、嚴寒の如き苛辣な環境絛件に遭遇した場合に、
   それがあなたの魂の鍛錬生長のためだといふことに考へ及ばず、
   生命の前進の努力を停止してしまつたならば、

   生命の前進の停止は”死”であるから、
   それは冬枯れの?態のまま、生命が停止してしまつた枯木のやうに
   あなたも枯れてしまふほかないのである。

   生命が生きるためには常に、どんな苛辣な環境の下に於ても
   前進を繼續することが必要なのである。

   春爛漫の花を咲かせる櫻の木を見るがよい。

   枯木のやうに落葉し切つた状態に於ても、失望も落膽もせず、
   間斷なく、”花咲く”といふ將來の目的のために生命の前進の
   努力を續けて來た結果、春爛漫の花を咲かせ得るのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)人間は生命體である

   人間は生物である。
   生物とは生命體だといふ事である。

   われわれは蛋白質を食べる。
   魚肉を食(くら)ひ、鳥肉を食ひ、或る人は獸の肉をも食べる。

   何が食べるのだらうか。

   口が食べるのだらうか。
   舌が食べるのだらうか。

   咽喉が食べるのだらうか。
   食道が食べるのだらうか。
   それとも胃腸が食べるのだらうか。

   口も舌も咽喉も食道も胃腸も食物を食べるのではない。
   それは食物の通る路に過ぎないのである。

   生命が食物を食べるのである。

   そして生命がその食物の中から、自分を表現するのに必要な蛋白質とか、
   澱粉とか、脂肪とか、ミネラルとか、色々の成分を抽出して吸収し、
   その吸収した成分の分子を自分の個性を持つたものに作り替へて、

   自分の欲するところにその成分を配置して、
   個性ある人體を作り上げるのである。

            <感謝合掌 令和6年5月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/05/03 (Fri) 04:50:53

(1)《物事を良くするのは心配によってではない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   「思い煩い」を唯 捨てて
   神に任せるがいいのである。

   何事をするにも神とともに歌を歌う積(つも)りで
   明るくすることが大切である。

・・・

(2)《先ず 「 内 」 なる宝を発見せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   外の力に頼るな。先ず自分を発見せよ。
   自分の内の力を発見したら 先ずその力を働かせることが必要である。

・・・

(3)《神想観の注意》

   神想観は先ず教えられた通りの基本的神想観のやり方から
   入って行かなければなりません。

   心がそれによって神との一体感に慣れて来ますと、
   危急の場合、神想観も祈りもする余裕がなくて、
   唯一言(ただひとこと)「神様 !!」と言っただけで、

   神との一体感を得、そのために自動車や汽車に
   撥ねとばされたが身に微傷だも
   受けなかったと云うような実例がでて来ます。

   毎日同じ言葉を念じていると退屈になり、
   却って雑念が浮かんで来て、精神統一が失われて来るような場合には、
   如意宝珠観や、普賢菩薩観や、浄円月観を行なうと
   不思議に精神が統一するものである。

   神想観を修するには、同一の言葉を念じても
   常に新鮮な感情を籠めて念ずるように心掛けなければならない。

   言葉がただ形式や、何の意味も感じも起らない
   呪文的繰り返しに陥らないように
   溌剌たる意味をもって念ずることが大切です。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P287>)

・・・

(4)《誰にでも失敗はある、失敗に悲観するな》

   誰でも、どんな能力のある人でも、現象界にそれを応用する場合には、
   10の成功のうちには2つや3つは旨く行かぬ事柄があるものである。

   どんな横綱でも百場所のうち15日間を
   全部を勝ちはなすことは出来ないのと同じ事である。

   そのような場合に「旨くいかなかった」場合だけを心にとめて、
   「自分はダメだ!」と思い込んでは
   劣等感を増加するばかりだと言う事になるのである。

   いっぺんの失敗でも、百遍心に繰り返せば、
   百遍自分の心に印象されることになるのである。

   こうして、いっぱんの失敗は、それを思い起こすたびに、
   百倍、千倍、萬倍に印象されることになる。

   そして、これが劣等感の原因になる。

   だから、劣等感を無くしようと思ったならば、
   失敗をしたことを嘆く事を止めて
   成功した事を数える方が良いのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2245

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(5)《胎児は母体から分離する――分化が行なわれる》

   “分化”があるので“形”があらわれるのである。
   赤ちゃんが形をあらわすのは、
   “母”の生命から、嬰児の生命が分化するのである。

   もう“母”の中に“胎児”を孕んでいる如き
   “一体”の状態ではないのである。

   “胎児”は“母”から分離して
   別の肉体となり、別の人格を形成しつつあるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)靈的無限力のバルブを開く道

   生命の前進の努力をつづけるには
   諸君は希望を持たねばならないのである。

   希望を失はないためには、
   自分の希望の實現を支へてくれてゐるところの、
   自分の肉體力よりも一層偉大なる力が大自然には存在するのだ
   といふ信念をもたねばならないのである。

   そのためには諸君は、自己自身の生命力を、單にこの小さな肉體といふ
   物質の塊から生じたるエネルギーだなどといふ”有限弱小の存在”だ
   と觀る人間觀を棄てなければならないのである。

   あなたは先ず”人間”を單なる”肉體”に過ぎないといふ
   唯物論を棄て去らねばならないのだ。

   そこから、物質以上の靈的力が、あなたの内から湧き上がつてくる
   導管のバルブが開かれることになるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)人間は鳥を食つても鳥にならない

   人間は魚を食ひ、鳥を食ひ、獸の肉を食ひ、
   それらの食物から蛋白質を抽出して、
   自分の身體(からだ)の蛋白質とする。

   けれどもわたし達の身體には、
   あちらに魚の蛋白質が附着してをり、
   こちらに鳥の蛋白質が附着してをり、といふ風に、

   魚や鳥や獸の蛋白質が
   そのまま人體の構造要素として附着して
   配置されてゐるのではないのである。

   そこには必ず、個性ある成分に作り替へが行はれるのである。

            <感謝合掌 令和6年5月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/05/04 (Sat) 05:00:51


(1)《吾れ神と共にあり、何を恐れんや》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   今 眼の前にあるものは
   過去の想念の影であるのである。

   それはすでに ないのである。
   ないものに心を捉えられるな。

   神は今日ここにましますのである、自分の中に。
   されば吾は何を恐れんや。

・・・

(2)《真に神のパイプとなるには》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   祈りによって神の御心(みこころ)と同調し、行動の方向が決定せられ、
   その決定せられた方向に行動をとることによって、
   その人は本当に神のパイプとなり、
   神の自己実現となるのである。

・・・

(3)《常に神想観を怠らないこと》

   神想観は毎朝毎晩必ず実修する習慣をつけるが宜しい。
   朝は早く目が覚めず、すぐに仕事にかからなければならぬし、
   夜は、眠くて身体(からだ)がだるくて合掌するにも疲れていて
   仕方がないと言うような場合には、
   夜、床に入って仰臥したまま、ただ

   「神と我とは一体である。神は完全であるから我も完全である。
   神と我とは一体である。神は霊であるから我も霊である。
   霊は金剛不壊であるから我も金剛不壊である。金剛不壊であるから
   如何なる病菌にも気候の変化にも冒(おか)されない・・・」

   (これは健康を欲する場合の思念の例)と云う風に、
   一念その思いに心を集中して
   念じながら何時(いつ)の間にか眠ってしまうがよい。

   もっと簡単な”思念の言葉”としては、

   「神の生命(いのち)われに流れ入りてわが生命(いのち)となりたまう。
   われは無限智慧、無限愛、無限生命(せいめい)、無限健康」
   と繰り返しつつ眠るがよい。

   罪の観念や悔恨の観念が起って
   不安な感じがとれないと云うような場合には、

   自分の胸を自分の両手で抱きながら其の両手を
   「神の慈手(みて)」であると想像しつつ

   「神は我が罪をゆるしたまいてわれをその慈手(みて)に抱きたまう。
   われは完全に赦されたり」

   と念じながら眠るがよろしい。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P288~289>)

・・・

(4)《失敗をいかに取り扱うか》

   失敗を考えず、成功したことばかり考えて有頂天になっているのでは、
   脚下照顧を忘れることが起こる。

   却下をしっかりとみつめて行かなければ
   断崖絶壁から奈落底へ墜落するかもしれない。

   そこで失敗は再び奈落底へ墜落しないために
   何事かを教えているということを知らなければならない。

   「失敗」を見るに、自分の「能力の低い証拠」として見ないで、
   今後の「成功」を約束するための「教科課程」として、
   「何故にこれは失敗をしたか、その原因を知れ」という問題が出たとして、
   その失敗の「原因」を検討して、再びその原因を繰り返さないようにすれば、
   「失敗の原因」がなくなるから「結果としての失敗」もなくなる。

   失敗を自分の「無能力」と連想させないで、
   将来の成功を約束する「教科課程」と見る事が必要である。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2248

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(5)《イザナミの神われに宿り給う》

   星雲がいつまでもガス状の一個渦巻であって、
   分化が行なわれなければ、太陽も遊星も創造されることはない。

   分化があるので新しき形相がうまれ、
   新しき人格が生まれ、創造が行なわれる。

   それは“イザナミの原理”である。

   “原理、”という語と、同様の意味を含む“神“という語で置き換えれば、
   それはイザナミの神の御はたらきである。

   それは“母”の原理である。

   イザナミの神“母”に在してわれを産み給うたのだ
   ということができるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)物質にあらはれている單位知性とその綜合

   考へても見給へ。

   物質分子にどんな知性があるか、親和性のある他の分子と出逢へば
   化合する場合、それは相手と自分とが親和する性質を持つことを
   知る知性がある。――といふ風に私は考へる。

   そして、萬物は分子と雖も、鑛物と雖も、神の生命の或る段階に
   於ける自己實現であると私は解釋するのであるけれども、

   各々の物質分子や鑛物における知性は、極々低度の知性であり、
   幼稚な知性であり、それは極めてわずかな”知性の芽生へ”
   みたいなものに過ぎないのであり、

   そんな單位知性だけが、いくら集まつても雄大崇嚴な天國的構圖の實現
   といふやうな理想や希望が現出して來る筈はあり得ないのである。

   そんな單位知性を適當に集合・綜合する大知性が人間に天降つて來てゐて
   ”神の子・人間”の出現となつてゐるからこそ、人間は雄大崇嚴な天國の
   構圖を心に描いて大なる希望をわれわれは描くことが出來るのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)人體の拒絶反應

   魚を食べ、鳥獸の肉を食べてその蛋白質を人間が吸収しても、
   人體の蛋白質は、もう既に魚の蛋白質ではないのである。

   人體の蛋白質は魚の蛋白質でも、鳥の蛋白質でも、獸の蛋白質でもない、
   人體の蛋白質は、人體の蛋白質である。

   しかも大ざつぱに「人體の蛋白質」といつてもよいといふやうには、
   すべての人の蛋白質が同質なのではないのである。

   それゆゑに、同じ「人間」といふ種族の肉であつても、
   各人はそれぞれ自己の個性ある特異の蛋白質をもつてゐる。

   他の個性を持つた蛋白質が自分の生命の中に入つて來ると、
   それを碎いて自分の個性の中に取り入れることを拒絶し、
   分離し、剥落させ、排泄してしまふのである。

   移植された心臓が暫くは、自己の人體につながつてゐて
   生理作用を営んでゐるけれども、究極的には無効であり、
   拒絶されてしまふのはそのためである。

            <感謝合掌 令和6年5月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/05/05 (Sun) 04:57:25


(1)《自分を害する人にさえ其(そ)の幸福を祈れ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)
   
   神はすべてを良くし給う力である。
   神の力が自分より完全にそそぎ出(い)でるためには
   まず吾らはすべての人を赦さなければならないのである。

   すべての人を赦して、而(しか)して後に
   神に対して凡ゆるよきものを願う所の祈りが
   神に対して波長が合うのである。

・・・

(2)《実相は金剛不壊完全である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。

   遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
   その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。

・・・

(3)《あなたは今何(ど)んな位置に立っているか》

   人間は 「 神の子 」 である。
   何(なん)らかの点に於いて 神の最高の自己実現なのです。
   だから何らかの使命 又は 天分を 神は人間に与えているのです。

   若(も)し あなたが現状に不満足を感ずるならば、それは
   あなたが まだ自分に与えられた 「 使命 」 の上に乗っていないで、
   その途中にあるか、別の方向に往(ゆ)きつつあるかしているのです。

   若し今あなたの位置が本当に、神があなたを使命した位置にあるならば、
   あなたは何となく自然に幸福感に満たされ、心が幸福で、
   伸び伸びして自縛しないですから、計画も自由自在になり、事業は発展し、
   肉体の健康も おのずから増進するのであります。

   そのような時には 其の事業を遂行(すいこう)するに必要な経費も
   自然に裕(ゆた)かに入ってくるようになります。

   併(しか)し あなたが、若し神が
   あなたに使命づけた位置にいないならば
   どんなに物質に豊かであっても本当の幸福感は得られないでしょう。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P289~290>)

・・・

(4)《失敗と成功とを如何に扱うか》

   失敗を「成功のための過程」として扱うと同時に、
   成功や勝利を「ただ偶然の産物」として有頂天になって
   「われ神の子だから、何でも出来る」といい加減な安心感をもっているだけでは、
   将来、必ず成功と勝利とが得られるか、どうか、疑わしいのである。

   「我、これをなさんとす、神がなさしめ給うのであるから必ず成就する」
   という最初の信念が必要なのは言うまでもないのであるが、
   その信念だけで万事終われりとして手をこまねいているだけでは
   成功は得られないのである。

   成功と勝利との要素には緻密なる計算と、
   用意周到なる実行とが必要なのである。

   そのためには「失敗」を将来の「成功のための教材」として研究する
   と同時に過去の「成功」について何が故に成功したかを
   周密に検討することが必要である。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2251

・・・

(5)《創造とは“漂えるもの”に秩序あらしめること》

   しかしイザナミの原理だけでは、ただ分化するだけで、
   分化されたものが、一定のアイディアによって組織される
   ということがないのである。   

   海の波を見てもわかるが、それは漂える姿であって、
   定着すべきアイディアの中枢的統制がないのである。
   ナミは波であって組織されることなく散ってしまうのである。

   だから『古事記』には、

   「是(ここ)に天神(あまつかみ)、諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、
   伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の神に詔りたまいつらく、
   “是のただよえる国を修理り固め成せ”と、天沼矛を賜いて、言依さし賜いき」

   という風に書かれているのである。

   「ただよえる」という語が、その次の、
   これを「つくり固め成せ」という命令に対して用いられていることを
   考慮に入れて解釈すると、ナミは波であってバラバラに散ってしまう。

   それらの波動を散り崩(くだ)けないように固めることが必要である。

   これが創造のハタラキである。

   そのバラバラに分散するナミを分散しないように
   理念の相(すがた)にまとめて秩序あらしめるのには、
   どのようにすればよいかとというと、
   『古事記』の本文は「修理固成」という文字を使っている。

   すなわち、「創造する」ということは、
   “理”即ちアイディアをもって“修める”ことであると示しているのである。

   そのとき定形なきナミが一定のアイディアの形に固成されるのである。

   「修める」は「治める」に通ずるのであって、修身治国と熟語される語である。
   理に随って、あるべきものを、あるべきところにあらしめて、
   秩序あらしめることを「おさめる」というのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)綜合知性は神の生命の天降りである

   われわれの肉體が構造單位の上から觀るならば、物質分子の集合体に
   過ぎないにしても、その單位知性を複雑精巧に組合はせ、
   その單位知性を互ひに連絡させて統一ある生理作用を營ませ、

   更に、統一ある精神活動を可能ならしめる如きことは、
   物質分子の單位知性の能くなし得ることではないのである。

   そのやうな不可能を可能ならしめる綜合知性はすべてのものを総覧し得る
   ”最高知性”―“神の生命”の天降りに由る外はないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)人體の排泄作用は拒絶作用である

   生命體は、自己の内に入り來つたものを同化して、
   それに自己の個性を賦與するか、

   或は、自己の個性的創造に役立たないものは
   排泄してしまふかのどちらかをするのである。

   食物も全部を吸収しないで排泄物を出すのはそのためである
   といふことが出來るのである。

   排泄物とは謂はば同化し得ないものを拒絶する
   一種の”拒絶反應”であるのである。

            <感謝合掌 令和6年5月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/05/06 (Mon) 04:59:08


(1)《復活の力は「 赦し 」から出て来る》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   キリストが十字架から復活した様に、
   凡ゆる不幸の中から復活する力が
   自分の中に宿っているのである。

   神はすべての罪をすでに赦し給うたのである。
   自分も亦すべての人を赦したのである。

・・・

(2)《真の正しき祈りとは》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   神想観は、実相観であり、実相において全てのものが
   既に与えられていることを確認し肯定するため強き祈りであり、

   既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
   ほめ讃(たた)え、感謝する祈りである。

・・・

(3)《生存競争の必要はない》

   神は萬物のつくり主であり、神は無限でありますから、
   神はすべての人間ひとりひとり各々使命を与えているのであります、

   神は同じ顔を二つ作らないように、寸分同じ形の花を決して作らないように、
   各人の演ずる役割も、各人とも各々異なる役割を与えられているのであります、

   それですから各人同じ位置で同じ仕事をするように計画されていません。

   従っ真の意味に於いて各人は同じ位置を占めるべく、
   同じ職につくべく争う必要は全然ないのです。

   そこに一つの位置があるとすれば、
   そこに坐るべき人はたった一人と云うことになっています。

   この真理が分れば本当にこの世界には生存競争はあり得ないし、
   嫉妬や、利益の分け前で争うことの必要もないのである。

   あなたが何か現状に不満足であるならば、
   あなたの内なる神が、あなたの本当の位置を探しているのです。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P290>)

・・・

(4)《臆病を無くするには》

   さて、その「失敗の原因」となった要素が、
   自分の臆病から来たものということが過去の事物を検討してわかったならば

   「自分は臆病だから駄目だ」と考える事を止めて、
   「臆病」とは全然反対の要素を自分の「心」の中へ追加するようにすれば
   よいのである。

   「臆病」の反対の要素というのは「大胆」と「勇敢」とである。

   こういう場合には、「自分は神の子であるから、決して何事も恐れない。
   自分は大胆と勇敢との美徳を兼ね備えているから、
   常に断行すべき場合には、何事にも大胆勇敢に邁進するのである。
   自分は”大胆”そのものであり、”勇敢”そのものである」

   という言葉を起床時、就寝時の精神の落ち着いた時、又は神想観のときに
   自己暗示するようにすれば、臆病の欠点は除かれて断行の勇気を得るのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2254

・・・

(5)《イザナキの大神の理念によって動き出した宇宙》

   「故(かれ)、二柱の神、天浮橋(あめのうきはし)に立たして、
   其の沼矛を指し下して画きたまえば、塩こおろこおろに画き鳴して、
   引き上げたまう時に、其の矛の末より垂(したた)り落つる塩、
   累(かさな)り積りて嶋と成りき。是(これ)オノコロ嶋なり」

                       (『古事記』天地創造の巻)

   イザナギの大神・イザナミの大神二柱、天の浮橋に立ちたまう。
   まことに雄大な光景である。
   “天”は“天球”すなわち“大宇宙”のことである。

   「塩こおろこおろに画き鳴して」とは、
   水(し)火(ほ)(陰陽)の電気を帯びた微粒子の回転旋回する有様を
   形容したものであるが

   「画き鳴して」というのはイザナギの大神の心に浮べられたアイディアが
   音を立てて旋回しつつ、そのアイディアの形をなすよう
   核融合が行なわれつつある光景である。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)茶碗も、本來の目的に向つて生きる時

   人間が幸福になるためには、
   人間とは何ぞやの根本を知らなければならないのである。

   茶碗に若し意識があつて 幸福になるためには茶碗は
   何の目的に作られたのであるか知らなければならないのである。

   それを尿瓶と間違へられ、茶碗は排尿を溜める器であると思つて、
   それに尿を注がれたりしたら茶碗としては幸福ではあるまい。

   茶碗が幸福な時は、茶碗としての本來の目的に鄭重に使はれる時である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)宮崎信夫君の心臓移植手術

   拒絶反應とは個性の純粋を保持するための洗浄作用である。

   札幌医大の和田教授による宮崎信夫君に施した心臓移植は、
   死後の解剖所見によると心臓移植手術は成功して、
   その縫合部は分離してをらず、拒絶反應はみとめられなかつたといふ。

   そのやうな結果を得るために和田教授は”拒絶反應”を
   麻酔せしめるための強力な注射薬を投与してゐたといふことである。

   結局、宮崎信夫君の死因は”拒絶反應”を失つたことだつたのである。

            <感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/05/07 (Tue) 05:03:24


(1)《消極的な考えを捨てよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   吾々を不幸にするものは外界の状態でも、
   時代の流れでもないのである。

   それは自分の心が消極的に傾いていることである。

   これらの消極的な心の態度を克服する時、
   直ちに積極的な働きが自分の内から生まれて来るのである。

   而して何よりも、人間が神の子であるということを知ることである。

・・・

(2)《困難な時ほど 「 神の子 」 を自覚せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   困難が来たときに其の人の信仰がテストされるのである。

   そんなときに言葉の力によって自己が神の子であることを強調し、
   「 吾れは神の子であり、神の愛に強く支えられているから
   如何(いか)なる困難をも克服し得るのである。
   神よあなたの愛に感謝いたします 」 と

   繰返し念ずることは信仰を更に強め困難を乗り切る力を与えるのである。

・・・

(3)《心はレンズである、向ける方向のものを映し出す》

   あなたの現象不満足は、
   神があなたに欲する事物を与えないからなのではないのです。

   神は既に、あなたにとって最も適当な唯一の「位置」を
   与えておられるのです。
   現象不満足に就いて神に責任を負わせてはなりません。

   神は既に必要なものを「実相」に於いては与えておられるのです。
   併し現象界は、現象顕現の法則に支配されているのです。
   即ち現象界はあなたの「心の影」だと云うことです。

   それは神罰でもなければ、神の側の「経費節減」で、
   あなたを貧しくしているのでもないのです。
   あなたの心がどちらを向くかと云うことなのです。

   現実の欠乏を見て、「欠乏」の光景ばかりに
   「心のレンズ」を向けていますと、現象界に映ってくる光景は
   唯「欠乏」ばかりになって来ます。

   私たちは実相の「完全な供給」の方に
   「心のレンズ」を向けるようにしておれば、
   現象界に映ってくる姿は「完全な供給」のみとなって来るのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P291>)

・・・

(4)《神の智慧を受け取るためには》

   もし、我々が計画に智慧を欠いていたために失敗したのであったならば、
   「自分は智慧が足りない。もう駄目だ」などとは考えないで
   智慧をグングン自分に流し入れるようにしたら良いのであります。

   実際そんな事ができるかと疑う人があるかも知れませんが、
   それは何でもありません。

   宇宙には無限の智慧が満ち満ちているのであります。
   その智慧を自分に汲み取れば良いのです。

   そのためには、神想観のときに次のように祈ると宜しい。

   「神よ、私の生命をあなたが私に使命づけられた仕事のために捧げます。
   その使命を遂行するために必要な智慧を私に与えたまえ。」

   このように一心に祈ってから暫く、その智慧の流れ入るのを受けるつもりで、
   「受身」の心で静かに精神統一して待つが宜しい。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2256

・・・

(5)《創造神による天地創造はこのようにして行なわれる》

   天地創造は、このようにして神の生命の波の上に
   アイディアの波動が音を立てて旋回して行なわれる。

   アイディアの波動の音をコトバと言うのである。

   「はじめに言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき、
   よろずの物これに由りて成り、成りたるものにして一つとして
   之に由らで成りたるものなし」とはこの事を述べたのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)人間も、本來の目的に向つて生きる時

   人間も幸福になるためには、自分自身を金を溜めておく金庫と間違へたり、
   膣の中へ射し込む”ゴムの道具”だ位に間違へられたりしたのでは、
   その人間は幸福になれる筈はないのである。

   人間が人間として幸福であるためには、人間は何の目的で地上に出現したか、
   その眞實目的を知り、その目的にむかつて自己自身を使う時に本當の幸福感
   ―― すなわち生甲斐を感ずることが出來るのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)個性ある生命體は拒絶反應を失へば死ぬ
  
   拒絶反應といふものは健全な生命體には
   是非なければならないものなのである。

   何故なら、自己の個性に同化しないものが、
   雑然同居してゐるといふのでは、
   人體は多種多様の別々の個性ある細胞が同棲してゐて、
   バイキンの巣みたいになつてしまつて、

   一個の生命體としての意識統一が出來ないし、
   彼の意識が元來統一制御してゐた生理作用が
   バラバラの不統一状態になつてしまふからである。

   宮崎信夫君の死體解剖所見によると、宮崎信夫君は、
   痰が詰まつて呼吸が出來なくなつて死ななくとも、
   ”拒絶反應”を麻酔させてゐたために、

   普通、健全なる人體には寄生し得ない弱體の綠膿菌が
   内臓の諸方に聚落をつくつて繁殖してゐたので、
   結局、綠膿菌繁殖によつて殺される運命にあつたので、

   あの心臓移植手術は本來無効だつたといつて攻撃してゐる
   死体解剖に立會つた醫者もあつた。

            <感謝合掌 令和6年5月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/05/08 (Wed) 05:02:42


(1)《不幸を数えるよりも幸福を数えよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   「 私は神の子だ。私は神の子だ 」 と
   常に間断なく心の中に宣言せよ。

   凡ゆる神の祝福が神の子には
   与えられているのである。

   まず不幸を数えあげるよりも、
   幸福を数えるようにすべきである。

・・・

(2)《困難を克服する言葉》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   困難に面したときは 次の如(ごと)く念ずるが好い。

   「 困難と見え、病気と見えるのは仮想であって
   本当の相(すがた)ではないのである。

   吾れは神の創造(つく)りたまいし 此(こ)の世界が常に善に、
   永遠に善であり、常に調和していることを知るのである。
   されば吾れに敵対する者は 何一つあり得ないのである。 」

・・・

(3)《心は「実相」と「現象」とをつなぐパイプである》

   また心は一種の「パイプ」に喩えることが出来ます。
   そのパイプの一端は「実相」(無限供給の世界)につながっているのです。
   パイプのもう一方の端は「現象世界」につながっているのです。

   そして「供給」は、常に豊かなる「実相」から
   現象世界に流れ下っているのです。

   そしてそのパイプに其の流れが妨げるようなものが何一つなかったならば、
   豊かなる供給は常に現象世界に流れ出て来るのです。

   ところがパイプ中に何かがつまります。
   悲しみが詰り、憤(いかり)が詰り、不平が詰り、
   憎みが詰り、欠乏が詰る。

   すると、それが流入パイプをふさぐ邪魔物になって、
   実相世界の無限の供給を妨げるものとなるのです。

   私たちが若し、この神の無限供給 ―― 智慧の供給、愛の供給、
   生命(せいめい)の供給、富の供給、歓喜の供給、調和の供給を
   邪魔しさえしなければ、無限に楽しい極楽浄土が
   此の儘地上に実現するのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P292>)

・・・

(4)《運命の転換のための自壊作用》

   仕事の成功を求めるために、
   「神よ、私の生命をあなたが私に使命づけられた仕事のために捧げます。」
   と言って祈った場合、あなたはその仕事に失敗するかもしれません。

   それを自壊作用と言うのです。

   あなたが現在やっている仕事が、「神があなたに使命づけられた仕事」
   ではなかった場合には、その仕事を自然に止めるようになるのは
   当然のことなのです。

   いくらあなたが「神の使命づけられない仕事」に一時的に成功なさいましても、
   「神の使命づけられない仕事」は恰も根のない樹のようなものですから、
   やがては枯れることになるのは当然なのです。

   しかし、「神が使命づけられた仕事」に到著するまでは、
   現在与えられている仕事は、その使命に到達する過程としての練成であると思い、
   一心に真心をもってその仕事に邁進すれば、
   やがてはそれを踏石として次の仕事が現れて来るのです。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2262

・・・

(5)《各人はそれぞれ自己の創作した“天地”に住む》

   創造神による天地創造はこのようにしてコトバによって行なわれたが、
   “人間の住む天地”は神の創造し給える天地の中に、
   人間みずからが心に描いた想念(コトバ・アイディア・発想)が、
   それみずからを具体化してつくられる。
 
   それゆえに、四十億の人類はそれぞれ個性ある“自己の天地”に住むのである。

   それぞれ個性ある“自己の天地”のうちには
   極楽世界をあらわしているものもあるが、
   地獄相をあらわしているものもある。
 
   それらの差別不同は神が人間に課したものではなく、
   人間みずからが、自由意志によって創作顕現した世界である。  
 
   各人は各自の創作した天地に住んでいて、彼らは皆その天地の“主人公”である。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)神は無相にして無限相である 

   人間の地上誕生の目的は何であらうか。

   『創世記』には「神の像(かたち)の如く人を造り、
   これを男と女に創造り給へり」と録されてゐるのである。

   「神の像とは如何なるものであらうか。日本的語源によれば、
   カミは”隠身(カミ)”即ち「隠り身」又は幽身(カミ)」であつて
   幽玄の身にして肉眼には見えないところの隠れたる身(ミ)なのである。


   それは”理念の體”といつてもよい。
   肉眼で見るならばその相形(すがたかたち)はみえないのであるから

   「夢相といつてもよい。しかし、それは肉眼によつて視るから
   相が見えないのであつて、「理念」そのものは不可視の形相を備へてゐるのだ。

   そして、「神の像のごとく人を創造り」と『創世記』にあるのは、
   その不可視の理念的形相を、神自身の肖像畫のごとく、
   時間・空間の世界に映し出したのが人間であるといふのである。

   換言すれば無相なる神が、無數の人間としてその肖像を現實世界に
   寫し出したのが、現實の人間誕生なのである。

   それ故に人間を”神の子”と稱し、神を”無相にして無限相”と説くのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)生命體の中樞となるべき要素は理念である

   生命體の本質は、個性ある「理念」の存在が中核となつて、
   その「理念」が選擇した要素を生命體の部分として集め、
   以て生成し構築して一個の生命體を形成するのである。

   人間の場合にはそれが「人體」といふものである。

   部分がテンデン・バラバラに集つて
   人體のやうな複雑微妙な組織體が出來上がる筈はないのである。

   こんな微妙複雑な組織が、どこにも不調和なしに運轉するためには、
   全體が統一する意識の存在がどうしても必要なのである。

   部分が必要な形に生成され、それが組織體として組み合はされるまでに、
   その靑寫眞とか模型とかを心に描く主體なる”理念”の存在が
   どうしても必要なのである。

            <感謝合掌 令和6年5月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/05/09 (Thu) 05:01:14


(1)《感謝と愛念をすべてに送れ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   自分の目の前にあるすべての事物に感謝と愛念を送ることは、
   そのすべての事物を完全ならしむる所の
   もっともよき方法である。

   自分は今日から凡(あら)ゆる事物に
   感謝と愛念を送り、
   さらにすべての人々に感謝と祝福の念を送るのである。

・・・

(2)《勝利者としての確信》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   「 われ常に人生に於いて勝利す 」 と云うのが
   我らの標語でなければならないのである。

   神はわが生命(いのち)であり、
   わが内に神いまして、わが事業を導きたまい、
   わが肉体の健康を維持したまうのである。

   これを信ずるとき 如何なる病いも如何なる不幸も
   我を害することは出来ない。

・・・

(3)《すべての「善き物」と「幸福」は「実相」から来る》

   多くの人達は、内を調(ととの)えずして、外からの栄養剤や薬物をもって
   健康を保とうとし、外物を色々と工夫して幸福を得ようとし、外的な技巧や工夫で
   繁栄を来たそうとしますけれども、それは結局不結果に終わるのです。

   何故ならそれは、「実相」(無限供給の世界)から流れ来るパイプの内に、
   その「供給」を求めずして、外に何かを工夫すれば「供給」が流れ入るだろうと
   考えているからです。

   それは喩えば、水源池から来るパイプの外から水道の水は流れてこないと同じように、
   「実相」から来るパイプ以外からは何の供給が来る筈もないからです。

   私たちは、すべての善き物を唯、
   「神」からのみ、「実相」からのみ得ることが出来るのです。

   では「神」に祈ってばかりおり、「実相」を観じてばかりおれば、
   何も行動しないでもよいかと云うと、決してそうではありません。

   では、どうすればよいか?
   考えて下さい。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P293>)

・・・

(4)《成功と繁栄との要素》

   成功の要素の一つは、「精神の明るさ」という事です。
   それが成功の要素の全てではありませんが、非常に重要な要素です。

   あらゆる成功の他の要素を備えていても、
   「精神の明るさ」が無いために人から排斥され、
   仕事が繁盛しなくなる事もあるものです。

   しかし、心さえ明るくしておれば他の要素は不必要か
   と言うと、そうではありません。

   商売なら顧客を礼拝し感謝する。
   このことを常に起こし、そして儲けるよりも顧客のためを思う心になって、
   顧客に喜んでもらいたいという心を起こす事が必要です。

   「ぜひ、買ってもらはなければならなぬ」という心を起こしてはなりません。
   そんな心を起こしたら「相手を縛る心」ですから、
   客が窮屈に感じて店に入って来ないのです。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2264

・・・

(5)《自己の想念が錬成で一変すると
    今まで住んでいた世界が地獄から極楽世界に変った》


   各人はそれぞれの自己の想念が創作した天地に住む実例として
   まことに適切な体験を書いて来られたお手紙を頂いたので、
   その手紙を次に掲げる。

   原文のままであるが、句読点は編集部でつけて貰った。

   『合掌 ありがとうございます。
   総裁先生におかれましては、御健勝にて、日夜
   神国日本の実相顕現のため御尽力、誠に有難く感謝申し上げます。

   突然手紙など差上げ、先生の貴重なお時間を
   私などのため浪費申し上げては失礼とは存じ躊躇致しておりましたが、
   遂こらえ切れずに失礼致しますことおゆるし下さい。

   私は昭和二十七年六月頃でしたが、ノイローゼにかかり、
   松本市の或る書店で、服部二郎先生著“胃腸病は必ず治る”という本を買い、
   生長の家を知り、病本来無しの真理を知りました。

   それからすぐに誌友会の存在を知り、青年会にも入り、
   全国大会には数年続けて参加させて頂きました。

   当時の青年会の委員長は小路(眼鏡をかけ背の低い方)委員長でした。
   それから今九州別格本山にいられる良本峯夫さんに変わるまで、
   私としましては、熱心に青年会に活動したつもりでしたが、

   まだまだ時期が早や過ぎたのか、み教えから遠のいてしまいましたけれど、
   完全にみ教えから離れられなく悩み続けておりました。

   しかし、こんな私を神は見捨て給わず、又もノイローゼになり
   二年間苦しんだあげくの果て、遂に神は私を九州別格本山へ呼んでくれました。

   昨年11月二十日から12月二十日迄、私は命をかけて錬成させて頂きました。 

   病後の(ノイローゼ治療につかった薬で全身湿疹と
   二十一日間も熱病にかかった様に寝ていたので足腰がふらふらしていました)
   体を鍛えるため、進んで献労に参加、一日を真剣に生きました。

   夜寝る時は、もうくたくたで、明日はどうなることか不安でした。
   しかし一夜明けると、又新しい活力が全身にみなぎり、
   ほんとうに神の子無限力を理解することが出来ました。

   よごれた心を清めるため、今まで一度も掃除できなかった錬成員宿舎の
   中から外を、時間のゆるす限り、(錬成期間中ほんとうに息のつく間もない位
   いそがしかった)これ清掃につとめました。

   この事は部長さん並びに部長の奥様が良くご存知です。 

   そして三十日間を有効に過すため、
   朝の行事、夜の行事も一番前に陣どり、真剣に行じました。
   けれども神想観は、足がいたくてたまりませんでした。

   三十日間九州別格本山での特訓は、私の人生を三百六十度変えました。
   今までの性格がまる切り正反対になりました。
   消極から積極へ、暗黒から光明へと展開しました。

   人生がバラ色に輝いております。
   無口陰気が雄弁で快活になりました。

   職場では、今までほこりで汚れていた床を私一人で磨き、
   ピカピカになり、生まれ替った様になりました。

   仕事も順調に不可能はないという様な気持ちで、
   毎日が充実しております。

   又、私の職場の場合は全逓で、左翼の組合ですが、
   今までしりごみしていましたが、積極的に行動でみ教えを実行しています。

   同僚も私の積極性にカブトをとり始めています。

   色々まとまりのない事を書きおゆるし下さい。
   同封の“しらかば”に、私の体験の一部が載っております。
   御笑覧くださいませ。(下略)


   昭和五十二年ニ月二十八日
       長野県 藤原載吉

   生長の家総裁
   谷口雅春先生様』

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)唯一神と人間との關係

   人間は、神なる理念的存在が、
   その肖像を現實界にあらはしたところのものである。

   それ故に神の生活を現實に生きることが
   人生の目的であると言ひ得るのである。

   無相なる神が、無數の人間としてその肖像を現實世界に寫し出したのが、
   吾々であるといふことを聖經『天使の言葉』には
   次の如く録されてゐるのである。

   ”汝らの先ず悟らざるべからざる眞理は、
    『我』の本體がすべて神なることなり、

    汝ら億兆の個霊(みたま)も、
    悉くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ。

    喩へば此處に一個の物體の周圍に百萬の鏡を按きて
    これに相對せしむれば一個もまた百萬の姿を現ぜん。

    斯くの如く汝らの個霊も

    甲乙相分れ、

    丙丁互ひに相異なる相を現ずるとも、

    悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
    これを汝ら互ひに兄弟なりと言ふ”

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)卵が先か、鶏が先か?
    
   ”部分が先か、全體が先か”といふ事が、いつも問題になるのである。

   それは”卵”が先か鶏が先かといふ問題によく似てゐるのである。
   鶏は卵から生まれ、卵から鶏は生まれるのである。

   しかしその現象にあらはれる以前の父母未生の鶏の所在は如何?

   本當は、現象にあらはれた”部分”も”全體”も、
   それは現象以前の”靈的構圖”に先立たれて、
   その姿を現象界に投影したのが、現象界の”部分”及び”全體”であるのである。

   この現象以前の”靈的構圖”を指して”理念”と言ふのである。

   この”理念”が先ず存在して、靈的次元の世界の理念の姿が
   現象界の時間空間次元の世界にあらはれるとき、
   部分が生長して全體が構築されるやうにあらはれるのである。

            <感謝合掌 令和6年5月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/05/10 (Fri) 04:57:19


(1)《神の扉は暴力では開けない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   まず神の扉を開くことが第一である。

   神の扉は 暴力では開けない。
   我(が)の力でも開けないのである。

   それは感謝によって開かれ
   愛念によって開けるのである。

・・・

(2)《先ず人生観を変えよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

   (抜粋として)

   人生が思うようにならないとか、
   健康が思うようにならないとか云うものは、
   自己の想念を変化し、自己の人生観を変化し、
   生活感情全体が変化しなければならないのである。

   楽観的な気持をもって、自己内在の力を出来るだけ出すようにするならば、
   事業に於いては新しき機会が、健康に於いては新しき活力が、
   おのずから目覚めて来って、
   輝かしい成功と健康とを実現することが出来るのである。

・・・

(3)《神の智慧を頂くこと》

   私たちは本当の幸福は、
   外的な技巧や工夫によって得られるのではないと云っても、
   現象界で現象的努力をするなと云うのではありません。

   現象界でする努力が、実相界から流れ入る智慧によって、
   実相界の「完全な状態」を現象的に現像する工程として、
   自然法爾に流露して来る「自然の努力」になる事が
   必要なのであります。

   実相界からの智慧を遮断されたる「人間的工夫」ほど
   愚かなものは無いのです。
   それは賢(さか)しらに見えつつ却って失敗するのです。

   私たちの努力は自力で計らう努力でなくて、
   神の智慧が「自分」と謂うパイプを通して流れ入り、
   神の智慧に計らわれえている努力にならないと可(い)けないのです。

   即ち、計らわずして計らわれている其の儘自然のハタラキに
   ならなければ可(い)けないのです。

   先ず仕事や勉強を始める前に暫く祈って、
   神の智慧と能力を頂いてから始めましょう。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P294>)

・・・

(4)《全てを祝福するための祈り》

   「神のみが実在であって、今、われを祝福したまう」

   事務所で仕事をしている時にも、ご飯を食べている時にも、
   店でお客と応対している時にも、この言葉を心のうちに唱えて、

   この「仕事」が神であって今私を祝福してい給うのである。
   このご飯が神であって、今、私を祝福し養い給うのである。
   このお客が神であって今私を祝福しに来ていられるのである。

   こういう気持ちにあることが、あなたを繁盛させ成功させ
   幸福にならしめる心的原因になるのである。

   もし、気に喰わぬ人が来た場合にはやはり
   「神のみが実在であって、今、この人を通して
   私を祝福するために来たり給うたのである」

   と繰り返し念ずるならば、敵と見える人も味方と変じ、
   自分の不快感情も腹立ちの感情も
   自然暖かい感情に変化してしまうのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2265

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(5)《『真理の吟唱』をカセットで夜徹し聴聞して》

   以上のお手紙は、長野県南安曇郡梓川村の藤原載吉氏からのものである。

   「30日間の特訓」を九州別格本山で受けたというのは、
   この本山の練成会に参加して“長期錬成”の課程をふむ人のうち
   最も短い期間の長期錬成がこの30日間の錬成なのである。

   本山に奉納する費用は僅か3万円だそうである。
   (普通の練成会は毎月初旬1日から10日までの10日間で終る)

   長野県教化部から出ている『しらかば』紙にはこの藤原載吉氏の体験を
   「住吉大神が呼んでいる」と題して次のように書いている。

   『昨年11月に、九州別格本山の練成会を1ヶ月間受けて帰られた
   梓川村の藤原載吉さんより次のような喜びの体験記が寄せられました。

     住吉大神が呼んでいる       梓川村 藤原載吉

        精神科へ入院したが

   藤原さんは昭和四十九年末からノイローゼにかかり、
   約2年間暗黒の闘病生活を送った。
   家庭内、職場内が不調和で遂に松本市の城西病院へ入院するはめになった。

   しかし御教えに25年前からふれている藤原さんは絶対に生長の家で治す、
   と決意し、病院を飛び出した。

        カセット『真理の吟唱』で奇蹟が

   夜、床について寝ながら、谷口先生の御朗読のかセットテープ
   『真理の吟唱』その他をイヤホーンを耳にして一晩中、
   全身これ耳にして熱心に聞いた。

   すると夜半突然、全身に落雷を受けた様な大きなショックを受け、
   全身がシビレた様になったと同時に、次の瞬間、
   心の底から何とも言えない有難いという素晴らしい気持ちが湧き
   素直に合掌できたのである。

   この時、神癒を受け何物かが私の体から抜けて行った様な感じを受け
   全身がすっきりした。入信後25年目にして初めて合掌でき、
   真の感謝が出来たのである』

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7

・・・

(6)人間の本質の自覺について

   また聖經『甘露の法雨』には
   次の如く示されてゐるのである。――


   ”神は人間の光源にして
    人間は神より出でたる光なり。

    光の無き光源はなく、
    光源の無き光はなし。

    光と光源とは一體なるが如く人間と神とは一體なり。

    神は靈なるが故に
    人間も亦靈なるなり。 

    神は愛なるが故に
    人間も亦愛なるなり。

    神は智慧なるが故に
    人間も亦智慧なるなり。”

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)拒絶反應を失つた”生命體”は死を招く

   拒絶反應を失ひ、又は麻痺せしめられた生命體は、
   全體の生理作用が統一意識によつて一元的に統治せられないで、
   複数の異なる微生物その他が自由に侵入して、
   その肉體を支配しやうとするから生理作用がみだれて、
   その生命體は死に至るのである。

   宮崎信夫君の内臓の各所に、普通の健全體だつたら寄生繁殖しない
   綠膿菌が聚落をつくつて繁殖してゐて、それが死因のうちの一つである
   といはれるのもそのためである。

   國家も生命體であるから拒絶反應を失つて、
   外來の生命が 聚落繁殖すれば死ぬ。

            <感謝合掌 令和5年5月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/05/11 (Sat) 04:56:46


(1)《内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
   凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。

   吾に宿る神の子は、
   自己に宿るキリストであり、
   内在の仏性である。

   それに目覚めることが第一である。

・・・

(2)《神に対して心を調節せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   常に、自分の心を神に向って調節せよ。

   暇ある毎に5分間でも3分間でも利用して、眼をつぶり、

   「 自分は神と一体である。神は愛であるから、
   自分は常に神の愛に護られている 」 と

   暫時(ざんじ)思念することは、心の調律に大変よい。

・・・

(3)《或る西洋の寓話》

   或る日、父と子供とが花園の手入れをして草花に水をやっていました。
   子供は水道の栓にゴム・ホースをつないでホースの先から出る水を
   草花に濯(そそ)いでやるのが、楽しみでした。

   ところが突然その水道の水が停(とま)ってしまったのです。

   「お父さん、水が出なくなりました!! 」と其の子供は叫びました。
   父は振り返ってゴム・ホースを見ました。
   見ると、其の子供自身がゴム・ホースを右足で踏んでいるのです。

   「お前がホースを踏んでいるではないか」と、父は子に言いました。
   子供は気がついて右足を挙げますと、また元の通りゴム・ホースから
   水が豊かに噴出しはじめました。

   ところが暫くする子供はまた叫びました。
   「お父さん、また水が停まりました。
   足は挙げているのに水が停まったのです。」

   父がまた振返って見ますと、
   今度は子供の左足がゴム・ホースを踏んでいました。

   親からの無限供給があなたの日常生活に杜絶(とだ)えるのは、
   ちょうど此の譬え話の通りであります。

・・・

(4)《自覚と目的と行動と》

   今、神が私を祝福したもう。
   この「今」の自覚が大切なのである。
  
   常に「今、ここに神が吾とともにあり給うてわれを祝福し護りたもう」
   と念じ、信ずることが大切であるのである。

   次には、「今」既にわが求むる事物は実際にここに与えられているのだ
   と信ずることが必要である。

   かくて、「神とともにある力」が第1に確認され、
   次に、何を得べきかが定められ ―― それが実際にある
   ということが確認されたわけで、

   その次には「その既にあるもの」を得るように行動することによって、
   それが現実に得られることになるのである。

   いくら信念を持ち、目的物を定めても、実際に行動を起こさなかったら、
   その目的物は自分の方へ飛び込んでは来ないのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2270

・・・

(6)人間の幸福は”神”から”末”への先き延(は)へである

   人間の本質をこのやうに自覺して始めて、
   何が本當の幸福であるかが判り、何を爲すべきかかがわかるのである。

   幸福といふ事を日本人は二つの語で表現したのである。

   その一つは「さいはひ」でありもう一つは「しあはせ」である。

   「さいはひ」の語源は「先き延へ」といふ意味から來てゐる。

   「人間は神より出でたる光なり」であるから、
   神との關係が斷絶してしまつたら、
   神から先端(さき)に延へて來る恵みも中斷してしまふのである。

   わたしたちが本當に幸福生活を生きやうと欲するならば、
   神との關係を斷絶しないやうにし、
   神が自分に如何なる使命を與へてゐられるかを知り、

   神が「汝これを爲せ!!」と仰せられるところを爲すとき、
   神からの生命と智慧と愛の流通を得て、
   それが” 先き延へ”である天國的状態が自分の生活及び環境に
   あらはれて來て、本當の幸福感が得られるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)生物は互に心が感じ合ふ

   生長の家の初期時代に活躍した講師で杉浦慶一君といふ人があった。

   賀川豐彦氏に師事してゐて濱松市に、協同組合などを作つて
   民衆の日常必需品の配給を安價にする試みをやりつつ、
   自宅を日曜學校として子供にキリストの愛の精神を植ゑ付けてゐた
   まことに敬虔なクリスチャンであつた。

   彼は『生命の實相』を讀んで非常に共鳴して、
   生長の家の第一回講習會に受講すべくやつて來て、
   次のやうな體験談を述べたのであつた。

   『日曜學校を經營してゐる自分の自宅に家ダニが發生して、
    それが日曜學校に集つて來る子どもたちについて螫(さ)すものであるから、
    子供が痒い痒いといふので、消毒藥で殺虫するのは殺生で可哀相であるから、

    『生命の實相』の本に書いてある原理にしたがつて、家ダニに和解し、
    家ダニを拜んでやらうと思つて、私は家ダニを拜んで次のやうに念じたのです。

    ”家ダニさん、家ダニさん、あなたも何らかの使命があつて
    地上に生れて來たのですから、別に私はあなたを殺そうとは思ひません。

    處構はず、吾々人間の住む世界を侵されるのでは、
    子供が痒がつて仕方ありませんから、出て往つていただきたい。

    しかしあなたも住むところがなかつたらお困りでせうから、
    この四畳半の部屋だけは、あなたの住む世界として貸してあげますから、
    この四畳半だけに住んで下さい。
    そして、この部屋の外へ出ないやうにしてください”

    このやうに念じましたら、何萬といふ家ダニがぞろぞろと集團移動し始めて
    指定された四畳半の部屋だけに集つて、他の部屋にはゐなくなり、
    子供も家ダニに螫されなくなりました。

    生命體といふものは、皆、神の命が宿つてゐるから、
    心が互に通ひ合ふものであります』
 
   この話は、まことに『生命の實相』の眞理の具體化として、
   眞理を實證するものとして、私は非常に共鳴感動した。

   それで私は杉浦君に、

   「君、生長の家に來て本部の講師にならないか」
   といつた。

   「先生が本部講師になれと被仰るのなら何時でも上京いたします」と
   杉浦君は即座にこたへて、私の住む”お山”の下の環状道路を隔てたところに
   貸家があつたので、そこへ引越して來たのであつた。

            <感謝合掌 令和6年5月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/05/12 (Sun) 04:58:19


(1)《不幸と見えるものは 「 過ぎ行く 」 波である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   何事か自分を傷つけるものがおこって来たならば、
   それを唯(ただ) 「 過ぎ行く姿 」であると観ぜよ。

   すべての悪く見えるものは すぎ行く。
   そしてよきものが顕現する過程である。

・・・

(2)《神の愛を 「 自己 」 を通して表現せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   どんな困難な事態でも、
   真に神の愛が貴方(あなた)を通して実現するならば、
   調和が現れるほかはないのである。

・・・

(3)《執着なき「其の儘の心」に本当の智慧が湧きます》

   ゴム・ホースの寓話は何を語るものでしょうか。

   水道の水は「神の無限供給」の喩(たと)えです。

   柔らかいゴム・ホースは、
   其の儘素直な柔(やわら)かな「受け入れる心」です。

   そのまま受ける柔(やわらか)い心である限りは
   自然法爾に供給が無限にやってくるのです。

   それに「自分の心」の執着の重荷がかかりますと、
   それが知らず識(し)らず人間的なハカライになって、
   無限供給のゴム・ホースの通路をふさいでしまうのです。

   「傍目八目(おかめはちもく)」と云う諺(ことわざ)があります。
   碁を打っている本人には「勝とう」と云う「執着の重荷」が
   「神の智慧の無限供給」のホースを時々踏み押(おさ)えてしまうから、
   神の智慧の流通を妨(さまた)げて、却(かえ)って
   ヘマな所へ石を打ったりするのですが、

   第三者たる観戦者は、自分が「勝とう」と云う執着の重荷がないから
   神の智慧が其の儘素直に流れ入(い)って来て、当事者その人よりも
   傍目(おかめ)で見ている人の方が良き智慧が湧いて来ると云う意味です。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P296>)

・・・

(4)《流れる水は腐らない》

   どんなに清らかな水でも
   流れずにじっと溜まっていたら腐ってしまう時が来るのである。

   どんなに繁盛している職業でも常に一層改善される方法を研究し、
   注意深く一層能率を挙げ、一層よき物を提供するように努力を払わなければ、
   流行に遅れるし、新しき設備は他に設けられ、
   自分の事業は退転するより仕方がなくなるのである。


   「人間」そのものの養成も同じ事である。

   百年1日の如く、その「人間」そのものが進歩しないでは、
   その人間は陳腐くさくなってしまい、世界の進歩におくれてしまい、
   世の中から顧みられなくなってしまうのです。

   絶えず進歩する者は心が常に新しいから
   老いることも少なく常に健康でありうるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2273

・・・

(6) ”仕合はせ”とは愛の實踐である  

   日本人は幸福の事を、また「しあはせ」といつたのであるが、
   「しあはせ」は”仕合せ”であり、
   深切の行爲を互ひに”仕合す”ことである。

   相手は今、何を求めてゐるか、何を欲してゐるかを察して、
   それを互ひに仕合すのである。

   ”愛”とは、相手が何を求め欲してゐるかを知り、
   その求め欲しているものを互ひに仕合ふこと事が”愛の實踐”である。
   そしてその求め欲してゐるものを互ひに仕合ひ、與ヘ合ふとき、
   「私はしあはせだ」といふ感じがするのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)”天地一切のものと和解せよ”と言ふ意味
   
   當時、杉浦慶一君と吉田國太郎君とは、
   眞理の理解に深い靑年講師として各地で悦ばれ迎へられてゐた。

   ある年のこと、横濱市の記念館で私の講習會がひらかれて、
   杉浦慶一君が前座に立つて講演してくれた。

   私はそれを演壇の横の席から聴いてゐたのであるが、
   杉浦君は”病氣の非存在”を説いて結核菌など決して恐るるに足りない
   ことを聴衆に分らせやうとして次のやうな事をいつたのである。

   「すべての生物は、内に神の生命が宿り、神によつて生かされてゐるから、
    互に兄弟姉妹であつてバイキンと言へども、吾々を、
    本來害するものではないのである。

    それなのに、彼らを害するものであると恐怖して、敵として立ち向ふから、
    彼らは敵としてあらはれ、つひに吾々を害する病菌となつてしまふ。

    私などは結核菌と和解して、兄弟姉妹と思ふから少しも恐ろしくない。

    吾々の肺臓は左が二室、右が三室、合計五室あるアパートみたいなものだ。
    だから私は結核菌よ、もう三室ぐらゐは空間があるから、
    君たち、來たかつたらいつでも來て住みなさいと結核菌に呼びかけてゐる」

 
   私はそれを聴きながら、これは間違つた考へ方で、
   本人を呼んで訂正しなければ危険なことになると思つた。

   何故なら、天地一切のものと和解せよとは、味噌も糞も、
   ”そのあるべき場”を混同して一緒クタにすることではないからである。

            <感謝合掌 令和6年5月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/05/13 (Mon) 05:04:12


(1)《汝(なんじ)の舌にて善き言葉のみを語れ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   常に神にふりむけ、
   そして愛の言葉のみを語れ。
   人のよきことのみを語れ。

   かくれたる所にて 凡ゆる人々をほめよ。

   それが自己に於いて 神を現わす所の最善の智慧である。

・・・

(2)《如何なる時にも相手の内に 「 愛 」 の心を見よ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   真に幸福なる生活を送ろうと思うならば、
   周囲の人々に対して絶対調和した心持で
   いなければならないのである。

・・・

(3)《冷淡すぎるものは執着よりも尚悪い》

   「執着がないその儘の心」と云うのは、
   「なげやりの無関心の心」とはちがいます。

   人が碁を打っている時、傍から非常な興味をもって
   それに注視しているのが「傍目八目の心」です。

   それは欠点も見、長所も見、すべての細目を見のがさない心です。
   しかし「自分が勝ちたい」と云うような執着はないのです。


   ところが「なげやりの無関心の心」と云うのは、
   碁の場合に喩えて見れば、別に囲碁の盤面に興味をもたず、
   煙草でもふかしながらヨソ見をしているような心です。

   執着はないが、同時に愛情も興味も誠実もないのです。
   そんな執着のない心では駄目であります。

   愛は一歩あやまれば執着となり、
   正しくそれが行なわれれば誠実となります。

   「愛が全然ない」位ならば「執着の愛」でも、
   無いよりもある方がよろしい。
   其処から愛が発展し浄化されれば、執着が浄まって誠実となります。

   煩悩そのままに菩提(さとり)となるのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P297>)

・・・

(4)《生きている物は新しい芽を出す》

   樹木でも生きている限りは、絶えず新しき芽を出し、
   一寸でも一分でも必ず常に伸びて行くのである。

   今年は芽が出ないし、枝も伸びないのはどうした訳かと調べてみると、
   その木は既に枯れているのである。

   人間でも、もう少しも新しい計画(新芽)を考える力がなくなり、
   少しも新しく発展しなくなったときには、
   既にその人の生命は枯れつつあるのである。

   常に新しきことを考え、計画し、新しき事に興味を持つ者は老いないのである。
   常に何事でも、少しづつでも改良して行く心掛けは、
   新しき想念を生み出す原動力となるのある。

   そして、想念こそ肉体を崩壊せしめず或る一定の形に維持する力であるから、
   新しき想念を生み出している限り人間は老いないのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2279

・・・

(6)やがて消えるものは”本當の値打ち”ではない 

   わたしたちは値打ちのある生き方をした時生き甲斐を感ずるのである。

   人は皆値打ちを追求する。

   しかし肉體人間は、自分が現象的存在であるものだから、
   現象的な値打ちを追求する。

   そしてこれから値打ちの上るものを買ひ漁つたり、
   いつまでも續かない肉體の快感をもとめたり、
   肉體が死んだとき、靈界には持つて行けない値打ちを追求したりしてゐる。

   靈界には持つて行けない値打ちといふのは本當の値打ちではないのである。

   それはやがて消えて行くべき値打ちである。

   それは“眞實の値打”の如くあらはれてゐるけれども
   それは“眞實の値打”の影であつて、本物の價値ではない。

   わたしたちは”本當の價値”を求めて生き、
   ”本當の價値”を生活する時、本當の生き甲斐が出て來るのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)人體は拒絶反應を失つたら死ぬ

   天地一切のものと和解するとは、
   あるべきものが、あるべき位置に配置され、
   互に犯し合ふことなく調和した姿で仲良く各自個性を發揮しながら、

   その個性が他から侵害されることなく、
   生かし合ひの關係になることなのである。

   人間には人間の生きる”場”があり、
   結核菌には結核菌の生きる”場”がある。

   人間の生きる”場”に 結核菌の生きる”場”を與へる事は、
   これは和解ではなく侵害なのである。

   人間が結核菌(その他の病菌を含む)に對して抵抗を示すのは、
   自己の個性的存在を守るための「拒絶反應」の一種なのである。

   「拒絶反應」を生命體が失つた時、
   生命體として存在するための絛件である全身の生理作用を
   統制する意識の統一がなくなるのである。

   つまり多數意識の共存といふ事になり、
   腦髄の中樞意識の統制に從はない細胞が出て來て
   生理作用が攪き亂される。

   そして癌細胞や癌腫、肉腫等の發生となり、
   ある部分に潰瘍を生じたり、中樞神經の統制に服しないで
   勝手に手足が動き出すところの舞踏病の如き症状が
   起つて來るのである。

            <感謝合掌 令和6年5月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/05/14 (Tue) 04:43:16


(1)《吾が真実の自分は 「 神の子 」 である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)
 
   吾に宿り給う 「 神 」 が本当の自分である。

   神は吾にその生命を
   投げ入れ給うたのである。

   それ故に吾も神に吾が生命を
   投げ入れるべきである。

・・・

(2)《如何なる場合にも相手の仏性を見よ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   人の表面の言葉や、行いで、其の人の愛を疑ってはならない。
   現象を見て人を審判(さば)いてはならないのである。
   どんな人にも仏性が宿っており、キリストが宿っているのである。

・・・

(3)《神から与えられた「生命(せいめい)」はその絞りようでどんな形にも変化する》

   私たちの一挙手一投足が、神の智慧の流入を受け、神の智慧に導かれ、
   自分自身が神の指定したまえる軌道の上におのずから載っているとき、
   私たちは幸福感に満たされるのです。

   しかし其の様な状態になるためには如何にすべきでありましょうか?

   再び「水道の水」とゴム・ホースの喩えをもって話すことに致しましょうか。

   ゴム・ホースから噴出する水は、ホースの先に色々の形の孔(あな)のあいた
   金具をつけて、水の出方を絞ることによりまして、水は太い噴水のようにも、
   細い噴水のようにも、霧のようになっても出ます。

   そのホースの向け方によって、火事を消す働きにもなりますし、
   家中水浸しにしたり、自分の顔にまともに水を浴びることにもなります。

   その水は建設的にも破壊的にも使えるのです。

   私たちは神から与えられたる「生命(せいめい)の水」を
   破壊的に使うことを止めて、建設的に使うようにしなければなりません。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P298>)

・・・

(4)《競争者を進歩の契機だと思え》

   競争者が現れるということは、その人の内部に宿っている「無限の可能性」を
   現象界に引き出す契機を与えることになるのであるから、
   競争者を憎んではならないのである。

   殺し合いの戦争というものは好ましくないけれでも、戦争というものは
   生命を賭けて競争をする者であり、敗ければ殺されるのであるから、
   戦争に間に発明される科学的装置というものは平和時のそれに比べると
   十数倍するのである。

   吾々は、ストライキなどに自分の生命を浪費する暇に平和時において、
   戦争時と同じような生命を賭けての真剣さをもって、新しき創意を工夫し
   新計画を発案し、それを平和産業や、人類の厚生のために応用するならば、
   賃金闘争などせずとも日常生活に物資の豊かな世界が現れる。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2283

・・・

(6)眞の”愛”と”愛慾”とは次元が異なる 

   ”愛”は永遠の價値であり、實在の價値である。
   神は”愛”であり、唯一の實在者であるからである。

   ”愛”とは、セックスの快感のことではない。
   また享樂のことでもない。
   そんな唇の皮膚や粘膜の皮膚の快感のことではない。

   ”愛”はもつと神聖なものである。
   神聖とは肉や物質を超越して、
   もつと崇高な存在に名付けられる語である。

   その代はりに”愛”は嚴しきものである。

   ”愛”を成就するためには
   肉體を苦しめることさへ避けてはならないことがある。

   キリストの十字架は”愛”の本當のシンボルである。

   三島由紀夫は祖國日本を”愛”するために、
   あの美しき肉體を殺す事さへ厭はなかつたのである。

   肉體の愛慾に耽溺しながら、「私は愛を完うした」などと考へるものは、
   ”靈の世界”の事を知らない。

   ただ、”物質の世界”に生きてゐる人々の考へ方に過ぎない。
   次元が異なるのである。

・・・

(7)肺臓を病菌に貸してはならぬ

   私は杉浦慶一君に、

   「結核菌に肺臓への侵入を招待するやうな事を言つてはいけない。
    それは人體の拒絶反應を自己放棄することになるから」

   と注意しようと思つたが演壇をおりた杉浦君は
   直ぐ次の講演場へ駆けつけるために自動車に乘つて姿を消した。

   私は、直ぐ演壇に立つて講話することになつてゐたので、
   私と杉浦君は、その後やや久しく逢ふ機會がなくて、
   その問題も私の意識の表面から忘れ去られてしまつてゐた。

   ところが、その後、杉浦君は結核菌が、彼自身が招待した通り、
   彼の肺臓の三分の二位の範圍に移轉し住み着くことになり、
   重症の胸部疾患に罹つて死んでしまつたのであつた。

            <感謝合掌 令和6年5月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/05/15 (Wed) 05:00:53


(1)《敵はないのに敵と見るな》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   あなたの幸福が誰から奪われるかも知れないとあなたが恐怖する。
   そしてあなたが相手を敵と認める。敵はないのに敵を認める。

   想像の敵が具体化して遂にあなたを不幸に陥れることになるのである。

・・・

(2)《人を審判(さば)く心なかれ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   外見にあらわれている悪(病気、悪意、不調和等)を
   存在すると思ってはならないのである。

   現象(あらわれ)を見て心がひっかかってはならない。

   人を審判く心は、痛みや、狭窄(きょうさく)や、胃潰瘍や、
   出血性の病気や、高血圧病の原因である。

・・・

(3)《生命(せいめい)の輸送管をふさぐ汚物》

   私たちが、破壊的なことを思ったり語ったりするとき、
   事物の暗黒面を語ったり思ったりするとき、

   また私たちが利己主義の心を起こしたり、高慢な心を起こしたり、
   恐怖したり、不平の念を起こしたり、自己憐愍の感情に捉えられたり、
   人を憎んだり、恨んだり、悪しざまに批評して鬱憤をはらしたり、

   無駄な持越苦労や取越苦労に自分の生命力を浪費したりするとき、

   私たちは神から与えられた「生命(せいめい)の水」を破壊的に使う
   ことによって浪費しているのです。

   これらの破壊的な想念感情は、此の世界を美しい花園にするための
   「生命(せいめい)の水」を流通させるゴム・ホースに、汚物をもって
   栓をすることになるのです。

   其処から精神的にも肉体的にも経済的にも色々の故障が起こって来るのです。

   私たちは此のような心の塵をもって生命(せいめい)の輸送管を
   つまらせないようにしましょう。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P299>)

・・・

(4)《人間が新しくなるために》

   繁昌している店のショーウインドウの陳列品は1週間して行ってみると
   全然新しくなっているのである。

   百年1日のごとく同じ商品を同じように列べている店は繁昌しようがないのである。

   地方の洋装店主や美容術師は1ヶ月に1度位は上京して最新の東京の
   流行と雰囲気に触れねば、洋装のスタイルも、洋髪のスタイルも
   流行おくれになって客が来なくなるのである。

   都会は常に新しい想念で動いている。

   それは悪い意味では軽薄だと言う事も出来るが、
   それだけ生命が溌剌として動いているのである。

   田舎の流動のテンポが遅いのである。
   新しい想念がないから田舎の人は空気が良い割合に早く老いるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2290

・・・

(6)”仕合せ”は神の宇宙設計の永遠構圖である

   人間の幸福は「仕合せ」によつて得られるといふのは、
   「仕合せ」は神による宇宙設計の中の根本構圖であるからである。

   神による宇宙設計の中の根本構圖が、現象界に先き延へ來つて
   人間が ”愛”による行爲を、互ひに仕合はせすることになるのである。

   『創世記』によれば、
   神は自己の生命の肖像として先ずアダムを造りたまひ、
   更に「人ひとりなるは宜しからず」と言ひ給うて
   アダムの肋骨の一部をとつてイヴを造りたまひ、
   神御自身の生命の肖像として男と女とが出生したのである。

   何故「人ひとりなるは宜しからず」であるかといふと、
   ひとりでは互ひに”仕合せ”することが出來ないからである。

   人は何かを相手のために爲てあげることと、
   その爲てあげることを受けてくれる者と
   ―― ”與へる”と”受ける”と ―― 此の授受の關係において、
   ”仕合せ”の自覺、すなわち幸福感が得られるのである。

・・・

(7)日本國家が生命體として存續するためには
  
   日本國家が統一意識を備へた生命體として存續して行くためには、
   日本國家の個性に反する「意識」の侵入を拒絶しなければならないのである。

   即ち、日本國家の個性ある精神形態を破壊する如き思想の侵入及び
   かくの如き思想教育を行つては、國家は國民の意識統一を失ひ、
   舞踏病的状態に陥り、生命體としての完全なる機能を果たすことが
   できなくなるのである。

   ところが占領憲法は、その第十九絛に於て
   「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定められてあり、

   第二十一絛には、
   「集會の結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と
   あり、

   又反國體思想を取締らうとしても
   「検閲は、これをしてはならない」とあり、

   第二十三絛には
   『学問の自由は、これを保障する』とあるので、
   どんな反國體思想言論出版のマスコミに載せてこれを、宣傳しても、
   又それを大學等で教へても政府はこれを取締まることは出來ない。

   結局、この占領憲法によつて、日本國家は、「拒絶反應」を失つた
   心臓移植後の宮崎信夫君みたいになつてしまつてゐるのである。

   このままでおいては、日本國家は宮崎信夫君と同じやうに
   生命體の機能を失ひ、滅びて行くほかはないのである。

   それを事前に防ぐためには、憲法を自主的に制定して國家としての
   「拒絶反應」を囘復する道を講じなければならないのである。

            <感謝合掌 令和6年5月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/05/16 (Thu) 04:59:23


(1)《神の子たる貴方(あなた)の幸福は 自身以外の誰も奪うことは出来ぬ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   この世界は神の造り給うた世界であるから
   何事も恐るべきものは真に存在することはできないのである。

   他の人が何と云おうと、何をなそうと、
   彼らが吾々自身の幸福を奪うことはできないのである。

   人間は神の子であるから、
   神の子には幸福がつきものであるのである。

・・・

(2)《先ず神の智慧に導きを願えよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   神の智慧に接触するには、決して複雑、多言の祈りの言葉を
   要するものではないのである。

   神の智慧に振り向いて、「神よ」 又は 「父よ」 
   と称えて心が平和に本当に落着いて、
   神の心と波長が合えばよいのである。

・・・

(3)《暗黒から光明に転向すること》

   神から来る智慧と能力と生命力と、あらゆる善きものとの
   供給を、少しも絞らずに豊かにそれらを受けよと思うならば、

   自己中心・利己主義の心を止(や)め、愛他的の心を起こし、
   心を寛大にして他(た)を赦すと共に、
   すべての人々に調和と善意の心を持ち、
   自己をも”罪”の観念に依って縛らないようにしなければなりません。

  「罪」は「包み」であり「隠覆(いんぷく)」であり、
  「光」に向かわず、「光」に背を向けている状態に過ぎません。

  「悔い改め」と云うのは「ああ、今まで私は光に背を向けていた、
   間違っていた、済まなかった」と気がついて、
   クルリと向きをかえて光に面することを言うのです。

   暗黒から転向して光に向かうことが完了しなければ、
   本当に「悔い改め」が完了したのではありません。

   いつまでも暗い方を向いて「自分は悪かった、悪かった」と
   自己責罰の感情に捉われているのは「悔い改め」ではありません。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P299~300>)

・・・

(4)《日に進歩する店と進歩する人》

   毎日見ている自分の店の格好などは、見るに慣れてしまって
   その欠点がわからないが、都会の流行を見て来た客がたまにその店を訪れて
   百年1日のような品物の並べ方をしてあるのを見れば、

   その店の進歩のなさが眼について
   その店の品物など買う気にならないのに相違ないのである。

   東京の大百貨店でも、数年に1度は大改装や大増築を行って、
   日に日に進んで行く大衆の鑑賞眼におくれないようにしなければ、
   その百貨店は流行遅れになってしまって繁昌しなくなるのである。

   私は店や商売のことばかりを言っているのではない。

   店でさえその通りであるから、人間は毎日何事かを自分について改良し、
   何事か新しき想念を加え、日に日に新しくならなければ
   人後に落ちることを言いたいのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2300

・・・

(6)”仕合せ”を得る秘訣  

   『生命の實相』の”生活篇”の中に次のやうな物語が書かれてゐる。
   概略を摘記すれば――

   昔あるところに大きな富める國があり、
   その國王には一人の賢い王子があつて、王様はその王子を愛して
   王子の欲するものをすべて叶へてあげることにした。

   國中の一切の富は、擧げてこの王子の欲するままになつた。

   それなのに王子は常に何か不滿足な浮かない顔をしてゐるのであつた。

   王様はある日、王子を呼んで、

   「お前は何故そんなに幸福でないのかね。
    何でもお前のほしいものをとて叶はないことは一つもないのに。
    何か心に秘密な惱みでもあるのかね」

   とたづねた。王子は、

   「私にしようと思つて出來ないものはありませんから、
    別に秘密な惱みなどある筈はありません。それなのにどういふものか
    私は人生に、輝くやうな悦びが感じられないのです。
    自分にも譯がわかりません」

   といふのだつた。

   そこで王様は國中に布令を出して
   王子を幸福にしたものには褒美の金は望み次第
   といふ懸賞付きで王子の幸福生活法を募集したのであつた。

   いろいろと幸福になる方法を応募してくる者があつたが、
   その中にある日、一人の魔術師が來て

   「王子を幸福にする方法を知るものは私一人です。
    その方法はこの白い紙に白い文字で書いてあります。

    私が去つてから、この紙を蝋燭の火にかざしてあぶつて下さい。
    すると、この紙に文字が出てきます。

    王子様が此の文字の通りにして下さるならば
    屹度王子さまは仕合せになります」

   と魔術師は言ふかと思ふと、その姿は消えてしまつた。

   王子はその紙を?燭の炎にかざして暖めながら見ると、
   それは”あぶり出し”の文字であつて、

   「毎日一度は誰かに深切にせよ」

   と書いてあつたのだ。

   これこそ幸福生活の秘密であつたのである。

   この魔法使の教へに從つたので
   王子は直ぐその日から幸福になつたといふのである。

   これは『生命の實相』生活篇の一部の要點を書き抜いたのであるが、
   ここに”仕合せ”の秘訣があるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)”契約國家”とその憲法

   現在世界に存在する諸々の國家の大部分は”契約國家”とも稱すべきものであり、
   一地域に住む人間が自分達の生活の安全を保障し、外敵や、諸種の侵害に
   對抗するためには、一つの共同自治團體を作つて扶け合ふことが必要である

   といふので生活の安全と利益とを共同して衛るために團體を作り
   その團體を「何某國」と稱し、統制力のあるものをその團體の首長として選び、
   それを統治權者とし、統治權者と國民との間にその生活上に起る
   各種の問題について契約をして成立した國家なのである。

   その統治權者と國民との契約を文書に表現した根本規約が
   これら”契約國家”の憲法なのである。

   契約國家といふものは謂はば、國民を組合員とした
   組合員の生活と利益を護る一種の福祉組合なのである。

            <感謝合掌 令和6年5月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/05/17 (Fri) 06:36:13


(1)《難問題の解決は神にゆだねよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   難問題に面した時には、直ちに神にふりむく事が必要である。

   かかる際には
   「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」
   と念ずることが必要である。

   この言葉を数回念じて 心を平静にしていると
   自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、
   如何なる難問題も解決されることになるのである。

・・・

(2)《心を明るく持てよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   心の明るさと云うことが第一に必要である。
   神は光であるから、
   神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。

   「 私は朗らかである。私は神の子であるから、
   親様なる神が 私のすべての事を見戍(みまも)り給うから、
   私は神にすべてをまかせて、心平和である。
   すべての事は必ずよく成就するのである。」

   と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
   心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。

・・・

(3)《「罪」より転向するとは?》

   「光」に向きかわるには
   「神」の方へ完全に向き変わらなければなりません。
   「過去の悪」や「過去の罪」の方へ向いて、
   グジグジ思いわずらってはなりません。

   神は貴方を常に赦していられるのに、
   貴方自身が貴方をゆるさないような事では、
   貴方自身が神に背いていることになります。

   光に面したとき、すでに暗黒(やみ)は存在し得ないように、
   あなたが神の方へ完全に向き返ったとき、
   最早「罪」も「悪」も存在しないのです。

   しかし本当に「光」の方へ振向くのにはそうずればよいのでしょうか。

   一方に於いて破壊的な暗黒的な想念感情を起こさないようにする
   と同時に、他方に於いて神に祈ることです。神想観を行ずることです。

   神以外の何かをもとめる祈りは、本当の祈りではありません。
   神以外の何かを目的とする神想観は本当の神想観ではありません。

   「神よ、み国を来(きた)らしめ給え、み心の天に成るが如く、
   地にも成らしめ給え。」

   これこそ純粋なる祈りであります。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P300~301>)

・・・

(4)《貧乏に打ち克ちましょう》

   貧乏というものも単に物資が足りないだけのものではなく、
   これは心の病気であり、間違った考え方が
   経済界に現れたものに過ぎないのである。

   人間は神の子であり、神は宇宙の創造り主であり、
   神の子たる人間を豊かに生活せしめ給うのが神の意志であるから、
   本来、人間はその可能性として「無限の富」を内に蔵しているのである。

   その人間が偶々貧乏であったりするのは、
   それは当たり前のことではなく異常現象だと
   言わなければならないのである。

   貧乏は人間が神の子たる本質と矛盾するのである。
   人間が富むためには、先ず自覚を変えなければならない。

   人間は貧乏が当たり前だと信じていて貧乏から脱出する努力を続けても
   その効果は乏しいのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2305

・・・

(6)”深切”と”親切”について  

   私は”深切”といふ語を常に書くやうにして、
   大抵”親切”となるべく書かないやうにしているのである。

   本當の”深切”は”親しらしい眞似”をすることではないからである。

   しかし親しらしいマナーをするやうな意味を重點に於て書くときには、
   時に私も「親切」と書く時もある。

   たまたま『無門關』を讀んでゐたら「親切」といふ熟語が出て來て、
   此の熟語が支那製造の熟語だと知つたこともある。

   本當の深切は、肉體の表層の甘い感じの言葉をかけることではなく、
   實相の深いところからの切に催して來るところの、
   實相顕現の言葉であり、思ひであり、行爲でなければならないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7) ”神の國”に生まれたる” 神の民”
  
   日本國家は本來、そのやうな、國民が先に存在し、

   「吾々の利益と安全を護るため一つに團結して”國”といふものをつくつて衛らう」

   といふ風に、國家の單位細胞となる人間が先に立つて發案し計画して、
   政府を作り政府と國民とが契約して成り立つたものではないのであつて、

   神意の天降りとして實現した國家なのである。

   即ち、天照大御神の御心の中に
   ”日本國家の在り方”の原型(國體の理念)がつくられ、

   「豐蘆原の瑞穂の國は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき國なり」

   と仰せられて、その”理念”が地上に天降つたのが瓊瓊杵尊の御降臨であり、

   その理念が建國といふ形で具體的に顕現して來たのが、
   神武天皇の建國であるのである。

   だから神武天皇はその御即位の勅語は

   「上(かみ)はすなはち天津神の國を授け給ふ御徳(みうつくしみ)にこたへ」

   と仰せられてゐるのであつて、日本國家は「神授の國家」であつて、
   民が任意に集合し團結して建國された國ではないのである。

   わたし達は、神の建てたる國に生まれたる
   ”神の子”であり、”神の民”なのである。

            <感謝合掌 令和6年5月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/05/18 (Sat) 04:58:25


(1)《すべての事物は結局は最善の結果へ向かう》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


   (抜粋として)

   もし吾々がここが神の世界であり、
   凡ゆるものが自分を祝福するために
   共同作用を営みつつあるものだということがわかるならば、

   吾々は 現在目の前に進行している出来事が
   どんな不幸の様に見えても
   それについて思い煩う必要はないのである。

・・・

(2)《何が神の導きかの判断について》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


   (抜粋として)

   神の導きは、神の利己主義ではないから、
   自他一体の幸福になるような願いは神の導きなのである。

・・・

(3)《短時間の祈りを度々繰り返すこと》

   神想観は普通1回30分間朝晩行なうのでありますが、30分間と、
   まとまった時間が得られない人にとってはもっと短い時間の祈りを
   1日10回乃至20回行なうがよいと思います。

   神想観は観法ですから一定時間の持続を必要としますけれども、
   祈りはもっと短い時間で事足りるのであります。

   祈りが純粋であるためには、
   「幼な児」の心、完全なる謙抑(へりくだり)の心、
   無我の心にならなければなりません。

   「神よ、み国を来たらしめ給え。み心の天に成るが如く地にも成らせたまえ。
   わが欲することを求むるに非ず。み心を・・・み心を・・・み心を・・・」

   こう念じて、自己を思わず、何事をも何物をも求めず、心をひたすら、
   「自己臍下丹田の神」にふり向け、御心のかすかなる響きをも、素直に
   聴き漏らすまじと熱心に傾聴する気持ちをもちつづけること1回3分間
   ――― これを毎日10回乃至20回繰り返すのです。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P301~302>)

・・・

(4)《富を得るには》

   ストライキをして大金持ちになった人を見た事はないのである。
   努力と働きを出来るだけ少なく出して、出来るだけ多くの賃金を得よう
   と考えそのものが「心の法則」に対して貧乏を呼び出しつつあるのである。

   世界中の貧乏人の90%までは、「暗い考え」をもっている。
   常に「自分」を改造し進歩さす努力が足りない。
   常に自分の「仕事」を改良する努力が足りない。

   多分に利己主義であって、目先の小利を小掬いするために他に損をかけていて、
   他を喜ばすにはどうすればよいかを考えないのである。

   真理を言えば、富というものは他を喜ばした報酬として
   自分に与えられるものであるから始終より良く他を悦ばすために、
   常に自己改造と自分の「仕事」又は商品の改良をしている者のみが
   本当に富んでくるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2306

・・・

(6)神と人間との”仕合せ”について 

   「人ひとりなるは宜しからず」といふエホバ神の語は、
   人間が社會的生物として、相互共存的に生きるのがその使命である
   といふことを表現してゐるのである。

   それと共に、

   「人は自分だけで生きてはならない、
    人ひとりで生きてゐる時にも、彼は神と二人である。
    その人の他にもう一人ゐるところの神を忘れてはならない」

   といふ意味が含まれてゐるのである。

   神は、人間の生きるために
   各方面から無限の恵みを授けられてゐられるのである。

   空氣も日光も色々の食物も・・・・・しかしそれは、
   人が自分の力ひとりで生産し、生きてゐると思つてはならない。

   われわれは神から生まれ、神によつて生かされてゐるのだといふ
   眞實を知り、神から受けるだけではなく、神の御意圖を成就するために、
   人間は神のために盡さなければならないといふ意味も含まれてゐるのである。

   神は人間のためにしてくれる。
   人間は神のために仕なければならない。
   そこに相互に「仕合せ」が成就するのである。

   人間の仕合せは、神の仕合せであり、
   神の”仕合せ”は人間の”仕合せ”であるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8244242

・・・

(7)神の愛の實現としてのあなたの産業

   神は無限の愛である。

   天照大御神が”太陽神”として象徴的に呼びならはされてゐるやうに、

   神の愛は普遍的にして、善人にも惡人にも(本當は惡人はない。
   善が未だ花咲き顯はれないに過ぎない)平等にその光と熱とを與へたまふ如く、
   その無限の愛をもつて普く人間に必要な”なくてならぬもの”を
   與へ給うてゐるのである。

   それ故に、人間の計畫するあらゆる産業は、最初、神によつて計畫され、
   人間にその”計畫”がアイディアとして孕み、それを人間が委任されて
   遂行することになつてゐるのである。

   もしその産業が思うやうに發展しないならば、
   それは、人間が、それを遂行する途上において、
   神の御心に反する心を起し、
   神の叡智の導きを受信する機能が低下した結果に他ならないのである。

            <感謝合掌 令和6年5月18日 頓首再拝>

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