伝統板・第二 2546775

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賢者の一日一言(R6年4月)

1:夕刻版 :

2024/04/02 (Tue) 04:55:33


このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「リーディング(エドガー・ケイシー)22(R4.4)」
   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8255356

(2)伝統板・第二「安岡正篤・一日一言」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812217
  
(3)伝統板・第二「松下幸之助 一日一話」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7811995

(4)伝統板・第二「吉田松陰・一日一語」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7733095

(5)伝統板・第二「ひかりの一日一言85~~心と肉体と形の世界・人生調和の原理」
   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8255241

・・・

賢者の一日一言《1日》

(1)【 4月1日 】 

   謙虚な心と、労働の喜びをもって仕事に励みなさい。
   それによって平安と豊かな祝福がああたにもたらされるでしょう。

   Enter into the work, then, with an humble heart,
   and with the joy of the labor,
   and the peace and the blessings of many will come to thee.

   (900-16)

・・・

(2)【 4月1日 】理想を持つ

   あらゆる面において生命力の旺盛な少年時代・青年時代には、
   必ずこれから先ああしてこうしてといろいろな考えを持つ。
   これを「理想」という。

   その理想が、その人間に照らしてあまり実現性がないという場合に、
   これは「空想」ということになる。
   その人間に実力があれば空想に非ずして、理想になる。

   だから理想を持つということは、これは人間生命の必然の作用であって、
   その理想をいかに空想に堕さしめざるかということが
   人間修行の一番大事な点である。

・・・

(3)【 4月1日 】 縁あって

   袖振れ合うも他生の縁 ―― という古いことわざがあるが、
   人と人とのつながりほど不思議なものはない。

   その人が、その会社に入らなかったならば、
   その人とはこの世で永遠に知りあうこともなかっただろう。


   考えてみれば人びとは大きな運命の中で、
   縁の糸であやつられているとも思える。

   こうしたことを思うと、人と人とのつながりというものは、
   個人の意志や考えで簡単に切れるものではなく、
   もっともっと次元の高いものに左右されているようである。


   であるとすれば、
   お互いにこの世の中における人間関係をもう少し大事にしたいし、
   もう少しありがたいものと考えたい。

・・・

(4)【 4月1日 】 晩節を全うするに非ざれば

   国強く勢盛んなる時は、孰(た)れも忠勤を励(はげ)むものなり。
   国(くに)衰(おとろ)へ勢(いきおい)去(さ)るに至りては、
   志を変じ敵に降(くだ)り主(あるじ)を売る類(たぐい)寡(すくな)からず。

   故に人は晩節を全うするに非ざれば、
   何程(なにほど)才智学芸ありと雖(いえど)も、
   亦(また)何ぞ尊(たっと)ぶに足らんや。
   明主(めいしゅ)に忠あるは珍しからず、暗主に忠なるこそ真忠なれ。

             安政二年十一月十二日「講孟剳記」


   【訳】

   国が強く勢いが盛んな時には、誰でもまごころを尽くすものである。
   しかし、国が衰え、勢いが去ってしまうと、
   志を変えて敵に降参し、主人を売るようなタイプの人間も少なくない。

   人は晩年の節操を全うするものでなければ、
   どれ程才能があり、頭の回転が速く、幅広い知識があったとしても、
   尊敬するほどの価値はない。

   立派な主人に仕えてまごころを尽すことは、珍しいことではない。
   愚かな主人にまごころを尽すことこそ、本当の忠臣である。

・・・

(5)《1日 人間の本当の心とは①》

   桜の花は桜色、藤の花は藤紫、たれが見てもそう見えるのであります。
   カラスは「カァ、カァ」と鳴き、雀(すずめ)は「チュウ、チュウ」と鳴く。
   誰が聞いてもそう聞えるのであります。

   芝居を見ても、役者が舞台で泣くところは、観る人も泣く。
   笑うところは誰が見ても笑います。
   《しんみり》するところは、誰もが《しんみり》する気持になります。

   これは、誰にやどっている「心」も、
   みな天地の心、神さまの同じ心がやどっているからであります。

   この神さまの「心」が自分の本当の心であります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P193)より

           <感謝合掌 令和6年4月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/04/03 (Wed) 04:58:04

(1)【 4月2日 】 

   すべての経験と状況は有用な経験であり、
   躓きの石か踏み石のいずれかに変えられる。

   Every experience and condition is a useful experience,
   and these are either made as stumbling-blocks or stepping-stones.

   (1424-2)

・・・

(2)【 4月2日 】教育の使命

   人間が成長するということは、
   児童・少年の頃に与えられているところの自然的素質・能力を
   いかに深くするかということだ。

   それが教育の使命である。
   だから幼少年を研究してみると、
   人間というものはどういうものかということがはっきりわかる。
 
   幼少年時代によく教育すると、十七、八歳で立派に人として大成する。
   幕末、明治の人物はみな二十歳前後で堂々たるものです。

・・・

(3)【 4月2日 】 人間はダイヤモンドの原石

   私は、お互い人間はダイヤモンドの原石のごときものだと考えている。
   ダイヤモンドの原石は磨くことによって光を放つ。

   しかもそれは、磨き方いかん、カットの仕方いかんで、
   さまざまに異なる、さん然とした輝きを放つのである。

   同様に人間は誰もが、磨けばそれぞれに光る、
   さまざまなすばらしい素質を持っている。

   だから、人を育て、活かすにあたっても、
   まずそういう人間の本質というものをよく認識し、
   それぞれの人が持っているすぐれた素質が活きるような配慮をしていく、
   それがやはり基本ではないか。

   もしそういう認識がなければ、いくらよき人材があっても、
   その人を活かすことはむずかしいと思う。

・・・

(4)【 4月2日 】 禽獣に異なる所以

   学問の道、禽獣に異なる所以(ゆえん)を知るより要(よう)なるはなし。

             安政二年十一月十四日「講孟剳記」


   【訳】

   学問においては、人と禽獣との違い、
   つまり人間は鳥や獣とどこが違うのか、
   ということを知ることが最も重要である。

・・・

(5)《2日 人間の本当の心とは②》

   「心」はすみきりのものでありまして、色(いろ)がない。
   水よりも、もっと透きとおっていて、あるかないかわかりませぬ。

   鏡よりもなお一層、曇(くもり)がなくて、
   何でもその通りにうつるのであります。

   だから桜の花は、桜色にうつり、
   藤の花は、藤色に見えるのであります。

   そのようにすべてのものを映してハッキリわからすのが「心」です。

   しかし、それは相手に応じてあらわれるので、
   相手の自分の前から無くなれば、鏡にうつった姿もない。

   馬鹿な者が、目の前にいるときには、馬鹿に見えるが、
   目の前から無くなれば、何もない。

   心はカラリと晴れていて、
   「心」には何のくもりもなければ、傷もつかない。

   ちょうど、カラリと晴れた青空のようなもので、
   その青空の「青さ」さえもない、

   実に透きとおり、澄み切った清らかなのが
   人間の「本心(ほんしん)」すなわち本当の心なのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P193~194)より

           <感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/04/04 (Thu) 04:54:19


(1)【 4月3日 】 

   偶然に入る魂は一人もいない。

   これまで求めて来た理想、
   今なお求めている理想を達成するために入るのである。

   No soul enters by chance,
   but that it may fill that it has sought and does seek as its ideal.

   (3051-2)

・・・

(2)【 4月3日 】三学戒

   少くして学べば壮にして為すあり。
   壮にして学べば老いて衰えず。
   老いて学べば死して朽ちず。

   (佐藤一斎 言志晩録)

 
   若い者の怠けて勉学せぬ者を見る程不快なものはない。
   ろくな者にならぬことは言うまでもないが、
   まあまあよほどのろくでなしでなければ
   それ相応の志くらいはあるものである。

   壮年になると、もう学ばぬ、学ぼうとせぬ者が随分多い。
   生活に逐われてだんだん志まで失ってしまうのである。

   そうすると案外老衰が早く来る。いわゆる若朽である。

   能く学ぶ人は老来ますます妙である。
   ただし学は心性の学を肝腎とする。


   雑学では駄目である。
 
   細井平洲も敬重した川越在の郷長老、奥貫友山の歌に
   「道を聞く夕に死すも可なりとの言葉にすがる老の日暮し」と。

・・・

(3)【 4月3日 】 まず人の養成を

   最近では、サービスの大切さということがさかんに言われ、
   どういう商売でも、それなりの制度なり、体制というものを
   逐次充実させつつあると思います。

   そのことは大いに結構であり、必要なことでしょうが、
   その任にあたるサービス員の養成が十分でないと、
   せっかくの体制も、いわゆる画龍点睛を欠くということになって、
   魂の入らないものになってしまうおそれがあります。


   ほんとうにお客様に喜んでいただけるサービスをしていくには、
   やはり会社を代表して適切にものを言い、適切に処置ができるという
   人の養成、訓練を第一に大切なことと考え、
   その労を惜しまないということだと思います。

・・・

(4)【 4月3日 】 友とは

   友とはその徳を友とするなり。

             安政二年十一月ニ十四日「講孟剳記」


   【訳】

   友とはその人徳を友とするのである。
   簡単なようで一番難しいことです。

   友達・・・遊ぶ友はいても悩み、苦しみを相談でき、
   親身になってくれる友は何人いるだろう。

・・・

(5)《3日 肉体は人間のカラです①》

   人間の本体は、この澄み切りの形のない「心」なのです。
   この「心」が抜けてしまったら肉体は、人間ではない。

   人間のカラだ。
   だから肉体のことを「カラダ」と云うのです。

   体は人間のカラだから、焼けば灰になり、埋めると土になる。
   その他(た)のものは水蒸気や、炭酸ガスや、窒素ガスなどになって
   空中をガス体でふらふらしているが、やがてそれは動物や植物の
   いろいろの働きを通して土へかえって来る。

   形があるものは皆、地即ち土にかえる。

   それで昔の人は「カタチ」と云ったのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P194~195)より

           <感謝合掌 令和6年4月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/04/05 (Fri) 04:08:36


(1)【 4月4日 】 

   謙虚な心と、労働の喜びをもって仕事に励みなさい。

   それによって平安と豊かな祝福がああたにもたらされるでしょう。

   Enter into the work, then, with an humble heart,
   and with the joy of the labor,

   and the peace and the blessings of many will come to thee.

   (900-16)

・・・

(2)【 4月4日 】朝

   活きた時間というのは朝だけだ。
   言い換えれば本当の朝を持たなければ一日ダメだ。

   昔から優れた人で早起きできない人はいない。
   ただ人々が寝静まって、周囲が静かになった夜でなければ仕事ができない
   という人は別だが、常態では朝が一番大事だ。

   これを外したら一日ダラダラと無意味に終わってしまう。

・・・

(3)【 4月4日 】 会社に入ったからには……

   会社を選ぶということは、
   みなさんの将来の方向を決定する一番重大な問題だったろうと思います。

   単に一ぺん入ってみようかということではなく、
   この会社に生涯職を奉じようという固い決意を持って臨まれたと思うのです。


   だから、今後長い生涯におもしろくないことや、
   いろいろな煩悶が起こることもあるでしょう。

   しかしだからといって会社を辞めるというような
   頼りないことを考えるのではなく、
   やはりどこまでもこの会社の社員として道を開いていこうという
   覚悟を持っていただきたいと思います。

   うまくいかない場合には他に転向するというようなことでは、
   そこに力強いものは生まれてこないと思います。

・・・

(4)【 4月4日 】 人に交わるの道

   凡そ人に交わるの道、怨怒する所あらば、直ちに是れを忠告直言すべし。
   若し忠告直言すること能わずんば、怨怒することなきに若かず。

   君子の心は天の如し。
   怨怒する所あれば雷霆の怒を発することあれども、
   其の事解くるに至りては又天晴日明なる如く、一毫も心中に残す所なし。

   是れ君子陽剛の徳なり。

             安政二年十一月ニ十一日「講孟剳記」


   【訳】

   人と交際する際には、怨み怒るようなことがあれば、
   直ちに遠慮なく、自分の信ずるところの、まごころをもって指摘し、
   戒め諭すべきであろう。

   もしも、それができないのであれば、最初から怨怒などしないほうがいい。

   心ある立派な人の心は空のようなものである。
   怨怒することがあれば、雷のように怒りを発することもあるが、
   それが終われば再び、雲一つない青空のように、
   その気持ちを心の中に残す、ということはない。

   これを君子の太陽のような、強く堅固な徳という。

・・・

(5)《4日 肉体は人間のカラです②》

   今の人は、そのつづきでやはり「形(かたち)」と云っています。
   「カタチ」は「形地(かたち)」ですね。

   印度などでは、「カタチ」の元になるものを四つにわけて、
   四大と云いましたね。
   すなわち地水火風という四つのものに分けたのです。

   地と、水と、温(ぬく)みの力と、瓦斯体(ガスたい)とに分けたのです。
   地は固体、水は液体、風は瓦斯体、そして火は熱エネルギーです。
   これらが集って形あるものが出来たのです。

   しかしこれらは皆、天体に属するものですから、
   ひっくるめて云うと地に帰るのです。
   カタチあるものはみんな「地」にかえるのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P194)より

           <感謝合掌 令和6年4月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/04/06 (Sat) 04:54:42


(1)【 4月5日 】 

   主の平安があなたの報酬である。

   His peace is thy reward.

   (2796-1)

・・・

(2)【 4月5日 】高邁な人

   粗忽・がさつは最も人格の低劣を表す。
   高邁な人格はいかに剛健・活発にみえても、
   その人のどこかに必ずしっとりした落着きや静けさを湛えているものだ。

・・・

(3)【 4月5日 】 学ぶ心

   人は教わらず、また学ばずして何一つとして考えられるものではない。
   幼児のときは親から、学校では先生から、就職すれば先輩から、
   というように教わり、学んでのちはじめて自分の考えが出るものである。


   学ぶという心がけさえあれば、宇宙の万物はみな先生となる。
   物いわぬ木石から秋の夜空に輝く星くずなどの自然現象、
   また先輩の厳しい叱責、後輩の純粋なアドバイス、
   一つとして師ならざるものはない。

   どんなことからも、どんな人からも、謙虚に、素直に学びたい。
   学ぶ心が旺盛な人ほど、新しい考えをつくり出し、
   独創性を発揮する人であるといっても過言ではない。

・・・

(4)【 4月5日 】 肯綮を得る

   書は肯綮(こうけい)を得るを貴(たっと)ぶ。

             安政三年三月二十二日「講孟剳記」


   【訳】

   読書というものは、その「急所」の意味をよく理解して、
   自分のものとすることが大切である。

   ただ読むだけでなく、何を得るのかをよく理解しなくては
   折角の読書も無意味に終わってしまうのだろう。

・・・

(5)《5日 形あるものは皆元素の集まりです》

   今では四大と云わずに、九十六元素と云うように、
   物質の元素をわけていますが、分けかたが細(こまか)くなっただけで、
   形あるものは結局、地球の物質です。

   蟻も、蜂も、蚤も、犬も、猫も、牛も、馬も、
   鳩も、烏(からす)も、雀(すずめ)も、
   すべての魚(さかな)も、人間も、皆、地球の物質です。

   すなわち九十六元素のうちのどれかがあつまって出来たものです。

   だから焼けば、人間も動物も虫けらも同じことです。
   それですから、人間が、動物や虫けらとちがうと云うのも、
   生きている間のことです。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P195~196)より

           <感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/04/07 (Sun) 04:58:16


(1)【 4月6日 】 

   神を知ろうとする者は、神がおられることを信じなければなりません。

   そして、何よりも、そのように行動しなければなりません!

   They that would know Him must BELIEVE that He is;
   and most of all ACT that way!

   (1158-9)

・・・

(2)【 4月6日 】師を持つ ①

   若いあいだに、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物を持たない、
   理想像を持たない、
   私淑する人物を持たないのと持つのとでは大きな違いです。

   なるべく若い時期にこの理想精神の洗礼を受け、
   心の情熱を燃やしたことは、たとえ途中いかなる悲運に際会しても、
   いかなる困難に出会っても、かならず偉大な救いの力となる。

・・・

(3)【 4月6日 】 会社のよさを話す
  
   外に出て自分の会社のことを悪く言う社員がいる。
   それはやはり社員の教育が十分にできていないからであろう。

   つまり、中には個人的不満があって会社の欠点を言う人もあろうが、
   より多くは、会社のよさというものが社員によく理解されていないから
   そういうことになるのだと思う。


   この会社はこういう創業の理念を持ち、こういった歴史、伝統があるのだ、
   こういうことを使命としているのだ、そしてこのように世間に貢献し、
   これだけの成果を上げているのだ、
   ということを常日ごろから社員に教えるというか訴える。

   そういうことがきわめて大事だと思うのである。

・・・

(4)【 4月6日 】 我れは我れたり

   汝(なんじ)は汝たり、我(わ)は我たり。
   人こそ如何(いかん)とも謂(い)へ。

             安政三年六月二十七日「講孟剳記」


   【訳】

   お前はお前である。私は私である。
   人は何とでもいえ
   自分は自分である己の信念を信じよということか。

・・・

(5)《6日 「生きている」とはどんなことですか》

   それでは生きていると云うことはどう云うことでしょうか。

   「生きているもの」と、「死んでいるもの」との区別は、
   「生きているもの」には「心」があり、
   「死んでいるもの」には「心」がないということです。

   「心」がぬけたら結局、おそいか早いか、地に帰るのです。

   九十数元素の物質が、或る形にならんで、
   鳥(とり)は鳥の形、犬は犬の形、猫は猫の形、象は象の形、
   人間は人間の形、
 
   人間は人間でも、太郎さんは太郎さんの顔、
   次郎さんは次郎さんの顔、花子さんは花子さんの顔、
   芳子さんは芳子さんの顔をしているのは何故でしょうか。

   それは、その体の中にやどっている「心」の形がちがうからです。
   みんな「心」のとおりの「形」をしているのです。

   だから、どんな「心」をしているかは、
   その人の顔を見ればわかるのです。

   観相家でなくとも、顔を見れば、だいたいどんな心の人か、
   怒っているか、喜んでいるか、不平でいるかがわかるのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P196~197)より

           <感謝合掌 令和6年4月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/04/08 (Mon) 04:57:35


(1)【 4月7日 】 

   愛は一切の悪を思わず、それ自身のことを思わず、高ぶることもない。
   愛は、裁判に訴えられても、悲しい目に遭っても弱まることがなく、
   愛はあらゆることを耐え忍ぶ。

   For love thinketh no evil, it thinketh not of itself,
   it is not puffed up; it is not weakened by prosecution,
   by sorrow; it endureth ALL things.

   (1073-4)

・・・

(2)【 4月7日 】師を持つ ②

   若いときにそういう経験を持たなかった者は、
   いつまでたっても日陰の草のようなもので、
   本当の意味において自己を伸ばすということができない。

   ことに不遇のときに、失意のときに、失敗のときにこの功徳が大きいものです。

・・・

(3)【 4月7日 】 同僚の昇進に拍手

   われわれ人間としてありがちなことですが、
   いかにも肚が小さいのではないかと思うことがあります。

   たとえば、同じ職場の同期の誰かが昇進すると、
   それをしっとする、そしてひがむということが少なくありません。

   また反対に失敗した人があると、
   かげで喜ぶという心の貧困な風景もあるようです。

   そういう人は、それこそ昇進させるに不足な人間なのです。
   人間ができていないことを公表しているようなものだと思います。


   人の昇進や成功に拍手を送る素直な心を持ち、
   日々の仕事に命がけで打ち込むなら、
   そういう人に適当な処遇をしない職場は、
   まずないであろうというのが、私の考えです。

・・・

(4)【 4月7日 】 心程

   心程(こころほど)人の能く知るものはなし。
   耳目四体は相(あい)見(まみえ)ざれば或は知らず。

   心に至りては一見せずと云へども、名を好み利を好み、
   徳を好み勇を好むの類(たぐい)、
   一として人目(じんもく)に逃るる所なし。

   畏(おそ)るべきの至りと云ふべし。
   然れども是れ亦(また)頼母敷(たのもしき)の至りと云ふべし。 

           安政三年三月二十六日「講孟剳記」

          
   【訳】

   心ほど、人がよく知っているものはない。
   耳目や全身は直接会わなければ分からないであろう。

   しかし、心は会わなくても、名誉を好むとか、利益を好むとか、
   また、徳を好むとか、勇気を好むということは、
   一つとして、人に知られないものはない。

   最も恐るべきことというべきである。
   しかしながら、同時に最も頼もしいものというべきである。

・・・

(5)《7日 心の形とはどう云うことですか①》

   「心」には形がないから、
   「隔(へだ)て」とか「仕切り」とか云うものがない、
   みんなに同じ「心」が宿っている。

   その同じ心は、澄み切りの、清らかな、
   神さまの「心」だから、みんな同じ「心」です。

   それなのに、何故みんな「心」がちがうかと云いますと、
   「心」そのものは「神さまの心」であって、かわりないのですけれども、

   その「心」のうえに思いうかべている「思い」や、「感じ」がちがうから、
   その「思い」や「感じ」の通りの姿に、養分や成分になる物質がならんで、
   色々の人相や、かたち姿になっているのです。

   「心」は本体、「神さまの心」であって、どんな形もない、
   「心」のうえに浮んだ「思い」が、心の姿と云うものです。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P197)より

           <感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/04/09 (Tue) 04:57:01


(1)【 4月8日 】 

   「経済的に」という考え方をやめなさい。
   経済は、あなたが正直で誠実な生き方を心がけ、
   他の人々があの道を知ることができるような人物になろうとする
   ことの結果としなさい。

   そうすれば神が増し加えてくださいます。

   Leave off "financially."
   Let the financial be the result of honest,
   sincere desire to be and to live so that OTHERS may know the way also.

   GOD giveth the increase.

   (2409-1)

・・・

(2)【 4月8日 】日用心法 ①

   第一、毎日の飲食を適正にやっているか。

   第二、毎晩よく眠れるか。

   第三、自分の心身に影響を与えているような悪習慣はないか。

   第四、適当な運動をしているか。

   第五、日常生活上の出来事に一喜一憂しやすくないか。

   第六、精神的動揺があっても、仕事は平常どおり続け得るか。

   第七、毎日の仕事に自分を打ち込んでいるか。

   第八、自分は仕事にどれだけ有能か、自分は仕事に適するか。

・・・

(3)【 4月8日 】 魂を入れた教育

   “事業は人なり”と言われるように、
   人材の育成ということは非常に大切だと思います。

   最近ではどこの会社や商店でも、
   従業員教育の制度や組織をもうけたりして、
   教育に力を入れているようですが、

   やはり何よりも大切なのは、
   その教育にいわば魂を入れることだと思うのです。


   つまり、経営者なり店主の人格の反映というものが、
   そこになくてはならないということです。

   それは言いかえれば、経営者なり店主が働きにおいて
   模範的であること、熱心であるということです。

   経営者、店主にそういうものがあればしぜん従業員にも反映して、
   従業員の模範的な働きが生まれ、人が育ってくると思うのです。

・・・

(4)【 4月8日 】 貴き物の己れに存在するを

   人々貴き物の己れに存在するを認めんことを要す。

           安政三年三月二十八日「講孟剳記」

   【訳】

   人間は人として大切なものが生まれつき
   自分の中に存在していることを認めることが大切である。

・・・

(5)《8日 心の形とはどう云うことですか②》

   古い歌にこんなのがあります。

      水の面(おも)に夜(よ)な夜(よ)な月は通へども

            思ひもとめず跡ものこさず

   水の面(おも)と云うのは、
   池などの澄み切った水の表面のことであります。

   夜(よ)な夜(よ)なの「な」は、
   「ならぶ」とか「なれる」とかの「な」でありまして、
   「同じものが続く」意(い)であります。

   そこで、夜な夜なと云うのは夜(よる)がつづく意味で、
   「毎晩」と云うことであります。

   毎晩、池の水の上にお月さまが影をうつしても、
   そのお月さまが出ている間は、お月さまが映ってはいるが、
   お月さまがかくれてしまうと、水はそのまま澄み切って、
   心の月の跡をのこさないと云う意味であります。

   これが「神さまの心」が人間にやどっている「本当の心」であります。
   この「本当の心」のうえに、波のように色々の思いが浮ぶ、
   これが「心の形」であります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P198)より

           <感謝合掌 令和6年4月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/04/10 (Wed) 04:39:59


(1)【 4月9日 】 

   あなたが今どのような状況にあろうと、
   その状況こそが、現時点のあなたにとって
   もっともふさわしい状況であると理解しなさい。

   Know that in whatever state ye find thyself,
   THAT - at the moment is best for thee.

    (369-16)

・・・

(2)【 4月9日 】日用心法 ②

   第九、現在の仕事は自分の生涯の仕事とするに足りるか。

   第十、仮に自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、
      自分の生活が退屈であるとすれば、自分の満足は何によって得るか。

   第十一、自分が絶えず追求する明確な問題を持っているか。

   第十二、自分は人に対して親切か、誠実か。

   第十三、自分は人格の向上に資するような教養に努めているか。

   第十四、特に何か知識技術を修めているか。

   第十五、自分は何か信仰・信念・哲学を持っているか。

・・・

(3)【 4月9日 】 国民の良識を高める

   民主主義の国家として一番大事なものは、
   やはりその民主主義を支えてゆくにふさわしい良識が
   国民に養われているということでしょう。

   さもなければその社会は、いわゆる勝手主義に陥って、
   収拾のつかない混乱も起こりかねないと思います。


   ですから、国民お互いがそれぞれに社会のあり方、
   人間のあり方について高度な常識を養っていかなければなりません。

   国民の良識の高まりという裏付けがあってはじめて、
   民主主義は花を咲かせるのです。

   民主主義の国にもし良識という水をやらなかったならば、
   立派な花は咲かず、かえって変な花、醜い姿のものになってしまうでしょう。

・・・

(4)【 4月9日 】 武士たる所は

   武士たる所は国の為に命を惜しまぬことなり。

   弓馬刀槍?の技芸に非ず。
   国の為に命さへ惜しまねば、技芸なしと云えども武士なり。

           安政三年四月三日「講孟剳記」

   【訳】

   武士が武士である所以は、国家のために命を惜しまないことである。

   弓、乗馬、刀、槍、小銃や大砲などの技術があるからではない。
   国家のために命を惜しまないようなら、技術がないとしても立派な武士である。

・・・

(5)《9日 「本当の心」は汚れない①》

   波がゆれても、水は殖えるものでも、減るものでもない。
   これを仏教では不増不減と云うのです。

   「人間の心」は「神の心」がやどっていて、
   思いが波のように起っても殖えもせねば減りもしませぬ。

   「人間の心」は神の心ですから、はじめから澄み切りのものであって、
   これから浄(きよ)らかになるとか、
   垢(よご)れるとか云うものでもありません。

   これを仏教では不垢不浄(ふくふじょう)と云っているのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P198~199)より

           <感謝合掌 令和6年4月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/04/11 (Thu) 04:48:47


(1)【 4月10日 】 

   (問)この人はどのようにすれば心配事をなくすことができますか?

   (答)心を何か他のことで満たすことだ!


   (Q) How may the body better leave off the mental worries
     or go about to eliminate them?

   (A) Fill the mind with something else!

   (294-91)

・・・

(2)【 4月10日 】勝縁を結ぶ ①

   平生(へいぜい)からおよそ善い物・善い人・
   真理・善い教・善い書物、
   何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、
   できるだけ縁を結んでおくことです。

   これを勝縁といい、善縁といいます。

   とにかく、折角善い人に会い、
   善い書を見、善い話の席につらなりながら、
   キョトンとしたり、欠伸(あくび)をしたり、
   そっぽを向いたりしている人間はだめであります。
   うつけ者です。

・・・

(3)【 4月10日 】 新入社員を迎えて

   新入社員を迎えると、会社にも個々の職場にも新鮮な雰囲気が生まれてくる。
   先輩の人びとも、自分の初心を改めて思い起こし、
   そこにみずから心機一転の思いを持つ。

   この時期は一つの飛躍のための得がたい機会であるとも言える。


   しかし、そうしたプラス面とともに、
   新入社員が加わることによるマイナス面も見忘れてはならない。

   いかに優秀な素質を持った人でも、
   仕事についてはまったく経験がないのだから、
   先輩が一から教えなければならない。

   ということは、先輩たちの能率も落ち、
   会社全体の平均的な実力は一時的には低下してしまう。

   このことをはっきり認識した上で、
   さらに気を引き締めてやることが大切だと思う。

・・・

(4)【 4月10日 】心一杯の事を行ひ尽す①

   其の心を尽すとは、心一杯の事を行ひ尽すことなり。
   力を尽すと云へば、十五貫目持つ力ある者は十五貫目を持ち、
   二十貫目持つ力ある者は二十貫目を持つことなり。

   是を以て考ふべし。
   今人未だ曾て心を尽さず。
   故に其の一杯の所を知ること能はず。

   【訳】

   その心を尽くすとは、心一杯、自分の限界まで行い尽くすことである。
   力を尽くすといえば、
   十五貫目のものを持つ力があるものは十五貫自のものを持ち、
   二十貫目のものを持つ力のあるものは二十貫目のものを持つことである。

   このような例で考えるべきである。
   今の人はこれまで一度だって心を尽くさない。
   だから、自分の心がどこまで力があるのかを知ることができない。

・・・

(5)《10日 「本当の心」は汚れない②》

   花に向えば花がうつり、月に向えば月が映るが、
   その花の心が水にしみついて、水が真赤になると云うことがないように、
   思いも止めず、跡も止めない
   ― それが人間の本性(すなわち神の心で)人間の実相であります。

   「人間の本性」は神の心であります。
   「神の心」がなくなれば、「人間の本性」がなくなる。
   ですから「心」がぬければ、たとい人間の形をしていても
   「人間」ではないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P199)より

           <感謝合掌 令和6年4月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/04/12 (Fri) 04:53:53


(1)【 4月11日 】 

   人の魂をその造り主から引き離すのは諸々の欲と肉欲だけです!

   NOTHING may separate the soul of man from its Maker but desires and lusts!

   (1293-1)

・・・

(2)【 4月11日 】 勝縁を結ぶ 2

   大体そういう人間なら、
   諸君は決して事を共にしてはいけない。
   そういう人間を友にしてはいけない。

   むしろ何でもないようなことでも、
   耳を傾けたり、眼を光らせる人であったら、
   何か見どころのある人間なのです。

   もちろん形骸(けいがい)は眠っておるようでも
   魂が輝いておる人もおりまして、
   凡眼ではなかなか見わけがつきません。

・・・

(3)【 4月11日 】 夢中の動き

   「この観音さまはノミがつくってくれた。自分は何も覚えていない」
   というのは、版画家、棟方志功さんの言葉である。

   私はたまたまこの棟方さんが観音さまを彫っておられる姿をテレビで拝見し、
   その仕事に魂というかすべてをつぎ込んでおられる姿に深く心を打たれた。

   一つ一つの体の動きが意識したものでなく、
   まさに“夢中の動き”とでもいうか、そんな印象を受けたのである。

   その姿から、人間が体を動かしてする作業というものの
   大切さをつくづくと感じさせられた。

   機械化に懸命な今日だからこそ、魂の入った作業というものの大切さを、
   お互いに再認識する必要があるのではないだろうか。

・・・

(4)【 4月11日 】 「心一杯の事を行ひ尽す」

   一事より二事、三事より百事千事と事々類を推して是れを行ひ、
   一日より二日、三日百日千日と、日々功を加へて是れを積まば、
   豈に遂に心を尽すに至らざらんや。

   宜しく先づ一事より一日より始むべし。 

           安政3年5月14日「講孟剳記」

          ・・・

   【訳】

   一つのことより二つ、三つより百、千のことと、
   一つのことから他のことと押し広めて実行し、
   一日より二日、三日より百日、千日と努力をして功績を積み上げていけば、
   どうして、心を尽くすことができるようにならないであろうか。

   必ずできるようになる。
   志を立てたならば、まず一つのことから、
   思いついたその日から始めるべきである。

・・・

(5)《11日 「生命の実相」とはどんなことですか》

   「人間の本性(ほんしょう)」を
   生長の家では「生命の実相」と云っております。
   吾々の生命(せいめい)の本当の相(すがた)と云う意味であります。

   人間は生命(いのち)が本体で、
   肉体はその容れ物、すなわちカラであります。

   生命(いのち)が本物で、肉体として
   カリにあらわれている人たちが集っている世の中ですから、
   此の世界を仏教ではカリの世と云うのです。

   水に映っている影みたいなものです。

   あるように見えていて《ない》のです。
   ですから、今日(きょう)肉体は生きているように見えても無いのです。

   「心」のほかになにもない。
   「心」がなくなれば、肉体は、ほっておいても
   腐って形がなくなるのは、
   もとから肉体はカリのものであって、無いからです。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P199~200)より

           <感謝合掌 令和6年4月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/04/13 (Sat) 04:52:29


(1)【 4月12日 】 

   毎日、あなたが何か言うことで、少なくとも3人の人を心から笑わせなさい!

   At least make three people each day laugh heartily,
   by something the body says!

   (798-1)

・・・

(2)【 4月12日 】 本物は感化する

   枝葉末節(しようまっせつ)のものほど、
   非常に移り変わりが激しいから
   影響力が大きくみえるが、
   それはまことに影であり響であって空しいものだ。
   直(す)ぐに消えてしまう。

   本質的なるものの影響は影響ではなくって、
   それはもう骨髄に入る。
   ものになる。身になる。身に附く。

   これは影響ではなくって感化と言う

・・・

(3)【 4月12日 】 使命観を持つ

   人間は、ときに迷ったり、おそれたり、
   心配したりという弱い心を一面に持っている。

   だから、事を成すに当たって、ただ何となくやるというのでは、
   そういう弱い心が働いて、力強い行動が生まれてきにくい。

   けれども、そこに一つの使命を見出し、使命観を持って事に当たっていけば、
   そうした弱い心の持ち主といえども、非常に力強いものが生じてくる。

   だから指導者は、つねに事に当たって、何のためにこれをするのか
   という使命観を持たねばならない。
   そしてそれをみずから持つとともに、人びとに訴えていくことが大事である。

   そこに“千万人といえども我ゆかん”の力強い姿が生まれるのである。

・・・

(4)【 4月12日 】「真心を行ふを貴ぶ」

   男子事を立つる、真心を行ふを貴ぶ。 

        安政6年2月上旬「※入江杉蔵あての書翰」

          ・・・

   【訳】

   男子がことを行う時には、まごころを尽くすことが大切である。

    ※長州藩の足軽 入江杉蔵。松陰の高弟。野村和作は実弟。

・・・

(5)《12日 肉体の事を思わず、金を思わず働けば金持になる①》

   この肉体と云うものが自分の本物でない、
   「心」こそ「本物の自分」だと云うことを知らぬものだから、
   目がさめると、すぐ何かほしい。金がほしい。

   ああしたいこうしたい、と考える。

   「何をするにも金次第じゃ。金がなければどうもならぬ。
    人をだましても、おどしても、ごまかして金をこしらえよう」
   などと考える。

   そして新聞の三面記事に色々の悲惨事が書かれることになるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P200)より

           <感謝合掌 令和6年4月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/04/14 (Sun) 04:57:52


(1)【 4月13日 】 

   消化吸収と排泄が正常に近い状態で保たれるなら、
   その寿命はその人が望むだけ延ばすことができる。

   If the assimilations and the eliminations
   would be kept nearer NORMAL in the human family,
   the days might be extended to whatever period as was so desired.

   (311-4)

・・・

(2)【 4月13日 】 人は環境を作る

   環境が人を作るということに
   捉(とら)われてしまえば、
   人間は単なる物、
   単なる機械になってしまう。


   人は環境を作るからして、
   そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある、
   自由がある。
   即ち主体性、創造性がある。

   だから人物が偉大であればあるほど、
   立派な環境を作る。

   人間が出来ないと環境に支配される。

・・・

(3)【 4月13日 】 運命を生かすために

   サラリーマンの人びとが、
   それぞれの会社に入られた動機には、いろいろあると思う。
   中には何となく入社したという人もあるかもしれない。

   しかしいったん就職し、その会社の一員となったならば、
   これは“ただ何となく”ではすまされない。

   入社したことが、いわば運命であり縁であるとしても、
   今度はその上に立ってみずから志を立て、
   自主的にその運命を生かしていかなくてはならないと思う。

   そのためにはやはり、たとえ会社から与えられた仕事であっても、
   進んで創意工夫をこらし、みずからそこに興味を見出してゆき、
   ついには夢みるほどに仕事に惚れるという心境になることが大切だと思う。

・・・

(4)【4月13日】 「一日此の世にあれば」

   人一日此の世にあれば一日の食を食ひ、一日の衣を着、一日の家に居る。
   何ぞ一日の学問、一日の事業を励まざるべけんや。 

                安政3年5月14日「講孟剳記」

          ・・・

   【訳】

   人は一日この世にいれば、一日分の食事をし、
   一日分の衣服を着、一日分、家にいるのである。
   とすれば、一日分の学問、一日分の事業に励まなければいけない。

・・・

(5)《13日 肉体の事を思わず、金を思わず働けば金持になる②》

   目に見えているものは、皆カリの世のものでありますから。
   肉体と云うカリの姿があらわれている間だけのものです。

   肉体から「心」がぬけ出して、あの世へ行くときには、
   金も、なにも、形のある一切のものは、もって行けませぬ。

   人間の本体は「心」ですから、
   「心」でもって行けないようなものは、
   ただカリにあるだけです。

   何も、そんなに命がけになって争うほどの
   値打のあるものは形の世界にはない。

   金(かね)など、どうでも好(よ)いではないか。

   生命(いのち)が今働けばよいのです。
   と云っても貧乏になれと云うのではありません。

   この心意気になって働いたら自然に金持になれるのであります。

           <感謝合掌 令和6年4月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/04/15 (Mon) 05:02:20


(1)【 4月14日 】 

   人生をもっと価値あるものにするような何かを、
   他の人々の人生の中に作り出すことをあなた自身の楽しみとしなさい。

   Make self interested in something
    that will make in the lives of some individual,
   or individuals, that that makes life more worth while.

   (2096-1)

・・・

(2)【 4月14日 】 お辞儀の意義1

   たいていの人は、お辞儀というのは
   「相手に敬意を表する」ことと思っているが、
   それは第二義である。

   第一義は相手を敬するということではなくて、
   「自らを敬す」ということである。

   例えば仏典にお辞儀ということを説いて、
   「吾を以て汝(なんじ)を敬し、汝を以て吾を敬す」と言っている。

   つまりお辞儀をするということは
   「自分が相手に敬意を表すると同時に、
    相手を通じて
    自分が自分に対して敬意を表する」ことである。

・・・

(3)【 4月14日 】 知識は道具、知恵は人

   知識と知恵。いかにも同じもののように考えられるかもしれない。
   けれどもよく考えてみると、この二つは別のものではないかという気がする。

   つまり、知識というのはある物事について知っているということであるが、
   知恵というのは何が正しいかを知るというか、
   いわゆる是非を判断するものではないかと思う。

   言いかえれば、かりに知識を道具にたとえるならば、
   知恵はそれを使う人そのものだと言えよう。

   お互い、知識を高めると同時に、
   それを活用する知恵をより一層磨き、高めてゆきたい。

   そうしてはじめて、真に快適な共同生活を営む道も
   開けてくるのではないかと思うのである。

・・・

(4)【4月14日】 「よしあし事もいはばいへ」

   世の人はよしあし事もいはばいへ賤が心は神ぞ知るらん。 

        安政元年4月19日「※白井小助あて書翰」

          ・・・

   【訳】

   世の人は、(私の)よきことも悪しきことも、いいたければ、
   好きにいったらいい。
   私の心は神様だけが知っていてくださるのだから。

    ※長州藩の重臣 浦氏の家来 白井小助。江戸遊学以来の友人。
     下田事件時、松陰のために奔走した。

・・・

(5)《14日 肉体の事を思わず、金を思わず働けば金持になる③》

   ありがたき神の生命(いのち)を今いきて、

          今を生きればそれが金持(かねもち)

   と云う歌がありますが、

   肉体は「心」の容(い)れ物で、カラであり、
   「心」が自分の生命(いのち)だとわかれば、
   肉体の骨身(ほねみ)を惜しまずに働くことが出来るのです。

   金(かね)、金、などと思わないで、骨身を惜しまずに働いていますと、
   却って、人から尊ばれ、財産も、求めないでも、
   沢山出来ることになるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P201)より

           <感謝合掌 令和6年4月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/04/16 (Tue) 04:38:34


(1)【 4月15日 】 

   あなたの運命は、あなたが自らの理想に対して何を為すかにかかる。

   What thy destiny is depends upon
   what ye will do with thyself in relationship to thy ideal.

   (2021-1)


・・・

(2)【 4月15日 】 お辞儀の意義 2

   鳥獣はお辞儀をするということを知らない。
   ということは、自らその真理、価値というものを
   尊重することを知らない。
   まだ精神生活が発達していない。

   人間になると初めてそれが発達してきて、
   お互いに挨拶(あいさつ)をする。

   お辞儀をするということは、
   お互いに相敬するということであり、
   自ら他に挨拶をするということは、
   同時に他を通じて自己を敬すということだ。

   そこにお辞儀というものの厳粛な意義がある

・・・

(3)【 4月15日 】 ガラス張り経営

   私はいわば“ガラス張り経営”とでもいうか、
   経営なり仕事のありのままの姿を社員に知ってもらうという方針でやってきた。

   それによって全員が経営しているのだという意識がごく自然に生まれ、
   自分の自主的な責任において仕事をしていくという好ましい気風が
   でてきたように思う。

   また人もおのずと育つということにもなった。

   そういうことを考えてみると、やはり従業員に対しては
   その時どきの方針はもちろん、経営の実態についても、
   できるだけ秘密を少なくして、いいことにせよ、悪いことにせよ、
   いろいろ知らせるようにしてゆくことが望ましいし、大切なことだと思う。

・・・

(4)【4月15日】 「片意地者に非ざれば」

   人は小事にても是非善悪必ず信をば失はぬと云ふ片意地者に非ざれば、
   何事も苟且のみにして、執持する所はなきものなり。 

                 安政3年4月15日「講孟剳記」

          ・・・

   【訳】

   人間はどんな小さなことでも正しいか正しくないか、よいか悪いか
   という点において信念を失わないという頑固なものでなければ、
   何をさせてもちょっとしたことしかできす、
   しっかりとしたことを行うことはできない。

・・・

(5)《15日 自分を、有限な肉体だと思ってはならぬ①》

   人間の《いのち》は物質ではないのです。
   《いのち》が物質をつくり固めて肉体をこしらえたのです。

   その《いのち》は神の《いのち》が流れ入ってあらわれる
   出口になるのが肉体の人間ですから、
   出口は五尺三寸で、目方は13貫でも、
   そこから流れ出る《いのち》の力は無限なのです。

   それなのに、自分の力は、この小さな身体からだけ出るものだ
   と思っていますと、心のなかで、
   神の無限の《いのち》の流れと云うものを、

   「これだけが自分だ」と云う迷い心で、
   ぴしゃりとバルブを閉めてしまう事になりまして
   神の生命(いのち)が流れ入(い)って来ないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P202)より

           <感謝合掌 令和6年4月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/04/17 (Wed) 04:55:37


(1)【 4月16日 】 

   知識や理解とは、あなたがいま手に持っているものを使うことです。

   Knowledge, understanding, is using, then,
    that thou hast in hand.

   (262-89)

・・・

(2)【 4月16日 】 真剣と浮気

    又つねの御すすめに云う。
    往生極楽をまめやかに思い入りたる人のけしきは、
    世間を一くねりうらみたる色にてつねにあるなり云々。


   法然上人の言葉である。

   真剣と浮気は正反対である。

   適切な例を引けば恋愛を考えるがよい。
   真剣に恋する女はわが恋人以外の世間の男一般は皆一向につまらない。

   一くねり世間の男を白眼視するようでなければ誠の恋でなないのである。

   上人のこの語、人の心をぴたりと掴むものがある。

   軽薄者の到底及ばぬところと思う。

    小児の母を頼むは、またく故を知らずただのもしき心ある也。
    名号を信敬せんことかくの如し。


   涙ぐまれる言葉ではないか。

・・・

(3)【 4月16日 】 文明の利器は人類の共有財産

   私は、人類の生み出したさまざまな利器は、
   それが誰によって発明され、どこの国で開発されたものであっても、
   原則としては人類全体で分け持つべきであり、
   正しく生かし合うべきだと考えている。

   つまりそれらは人類の共有財産なのであって、
   その価値を国境を越え、人種を越え、あるいは時代を越えて
   分かち合おうと願うのは、これは人間として当然持つべき心情であり、
   社会的態度だと思う。

   衆知を生かし合い、協力して共同生活を高めていくところに、
   人間本来のすぐれた特性がある。

   そのことをお互いに自覚実践することなくして、
   自他ともの繁栄、平和、幸福は求められないであろう。

・・・

(4)【4月16日】 「暫時の間なり」

   今世学問をする者己れの年少を恃み、何事も他日と推延ぶる者あり、
   殊て知らず、人生一世間、
   ※白駒の隙を過ぐるが如し、仮令百年の命を全くすとも、誠に暫時の間なり。 

                 安政3年5月14日「講孟剳記」

          ・・・

  【訳】

   今、学問をするものは、自分がまだ年少であるということを口実として、
   何事につけても、いつの日にか、などといって、実行を延期するものがいる。

   人生というものは、「白駒の隙を過ぐるが如し」といわれるように、
   歳月の過ぎ去ることは、大変早いというこがどうして分からないのであろうか。

   たとえ百年生きたしても、本当にわずかな間でしかないのに。

   ※荘子の著書『荘子』の言葉。
    荘子は、中国の戦国時代、宋国に生まれた思想家。
    道教の始祖の一人とされる人物。

・・・

(5)《16日 自分を、有限な肉体だと思ってはならぬ②》

   此の五尺三寸の体(からだ)のタンクにあるきりが、
   自分の力の全部だと思って惜しみながら使っていますと、

   幾ら惜しんでも矢張り息もしなければならないし、
   胃腸の消化作用も行われますから、お腹が減るだけ、
   エネルギーが減ると云う事になるのであって、
   惜しみながら使ったら減らぬと云うわけではないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P202~203)より

           <感謝合掌 令和6年4月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 04:59:50


(1)【 4月17日 】 

   自分のいるところで努力しなさい。

   召し出された人々に次の言葉が与えられました。
   「あなたの立っている場所は聖なる地である」と。
   あなたの居るところから始めなさい。

   Work where you are.
   As was given to those who were called,
   "The ground upon which ye stand is holy".
   Begin where you are.

   (4021-1)

・・・

(2)【 4月17日 】 恋 愛

   いかなる異性に恋するかは
   自己人格と密接に関係する。

   すなわち自己の人物相応に恋する。

   故に人は恋愛によって
   自己を露呈するのである。

・・・

(3)【 4月17日 】 人をひきつける魅力を持つ

   指導者にとって、きわめて望ましいことは、
   人をひきつける魅力を持つということだと思う。

   指導者に「この人のためには……」と感じさせるような魅力があれば、
   期せずして人が集まり、またその下で懸命に働くということにもなろう。

   もっともそうは言っても、そうした魅力的な人柄というものは
   ある程度先天的な面もあって、
   だれもが身につけることはむずかしいかもしれない。

   しかし、人情の機微に通じるとか、人を大事にするとかいったことも、
   努力次第で一つの魅力ともなろう。

   いずれにしても指導者は“ひきつける魅力”の大切さを知り、
   そういうものを養い高めていくことが望ましいと思う。

・・・

(4)【4月17日】 「道義の外に」

   道義に従ひて禍罪に遇ふは其の道を尽すの極にして、
   凡そ人は道義の外に行くべき処なし。 

                    安政3年5月14日「講孟剳記」

          ・・・

   【訳】

   人の行うべき正しい道に従い、その結果として、災難や刑罰に遭遇するのは、
   その正しい道を尽くした果て、というべきである。
   だいたい、人は人の行うべき正しい道以外に行くべき所はない。

・・・

(5)《17日 自分を、有限な肉体だと思ってはならぬ③》

   その上、また心を消極的に使うと云うことは、
   例えば会社で働いておりましても、「怠ける」ことにしていると、
   気がとがめたり、上役と摩擦の心を起しますから、
   吾々は二重に精神を疲労しなければならないのです。

   気がとがめるだけでも病気を起すことがありますから、
   楽しくみずから進んで仕事をすれば、
   血のめぐりがよく健康になるのであります。

   「なまける」と云っても、出勤している以上は、
   一つも仕事をしないと云うわけにはいかない。

   月給貰ってる以上は、仕事を全然しないわけにはいかないから、
   《やっている》真似をする。

   真似をしているのでは本当にやっているんじゃないから、
   上役の人にでも見つけられやしないかと一所懸命それを警戒して
   恐れていなければならない。

   何か自分をとがめるものがやって来はしないかと
   キョトキョトしていなければならないと云う事になります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P203)より

           <感謝合掌 令和6年4月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/04/19 (Fri) 04:58:44


(1)【 4月18日 】 

   あなたが為すべきと知っていることを今日行いなさい。
   そうすれば、次に進むべきところがあなたに与えられるでしょう。

   Do that thou KNOWEST to DO TODAY,
    and THEN the next step may be given thee.

   (601-11)

・・・

(2)【 4月18日 】 本質と附属

   人間には、
   これあるによって初めて人間であるという本質的要素と、
   必ずしもそうでない附属的要素との二つがある。

   古神道でいう、心が明るい、清い、汚れがない、
   人を愛する、人を助ける、人に報いる、
   精進する、忍耐する等々の徳性こそがその本質だ。

   これあるによって
   初めて人間となり得るのである。

   これに対して、
   智能や技能というものはあるにこしたことはない。

   確かに大事なものだけれども、
   それは特別の例外を除けば
   程度の差というべき附属的要素である。

   それよりも更(さら)に大切なのは、
   良い習慣、習性を持つことである。

・・・

(3)【 4月18日 】 寝食を忘れて

   よく「寝食を忘れて打ち込む」と言いますが、
   自転車用のランプを造ったときの私は、
   まさにそんな状態だったように思います。

   しかし、つらいとか苦しいといったことは少しも感じませんでした。

   それはやはり私が、それまでの自分の体験なり世の人びとの姿から、
   このままでは不便だ、何とかより便利なものを造り出したいという
   強い願いを持ち、と同時に私が、
   そのような仕事が非常に好きだったからだと思います。

   「必要は発明の母」という言葉がありますが、
   新しい物を生み出すためには、その必要性を強く感じ、
   その実現のために一生懸命打ち込むことが大切だと、
   そのとき、しみじみと感じました。

・・・

(4)【4月18日】 「強恕の道」

   強恕して行ふ、仁を求むることこれより近きはなしとは、
   何等の親切の教ぞや。

   大儀なることを勉強してすると、
   人の情を思ひ遣りて己の行ひをすると
   より学問は始まることにて、是れ強恕の道なり。 

              安政3年5月14日「講孟剳記」

          ・・・

   【訳】

   強恕、つまり大いに努力し、まごころから人をおもいやることこそ
   仁を求めるには最も近い方法である。
   とは本当に親切な教えであるなあ。

   骨の折れることを強いて行うこと、また人の気持ちを思いやりながら
   自分が実践することから学問は始まるのである。
   これが孟子のいう強恕という生き方である。

・・・

(5)《18日 恐れる心は血液に毒素をつくる》

   この恐れる心 ―― 人が何とか自分の悪を非難しやしないかと恐れる心
    ―― この恐れる心ぐらい吾々の精力を浪費させるものはない
   のであります。

   これはエネルギーの逆用でありまして、常に自分のいのちを疲労せしめ、
   血液の中に毒素をつくり、仕事のために力を使わないでも、
   毒素のために自分の身体を一層疲れさせる事になるのであります。

   恐れると吾々は血液の中に毒素が出来ると云う事は、
   ハーヴァード大学のゲーツ博士が色々の実験に依ってそれを
   ハッキリ証明したことは前に書いたことがありますが、

   恐れていると急に疲れてふらふらになることは
   皆さんにも経験にもありましょう。

   又おそれていると、人相なども段々悪くなって来ます。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P204)より

           <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/04/20 (Sat) 04:56:11


(1)【 4月19日 】 

   あなたが一番嫌いな人の人生とその活動の中に、
   あなたが《創造主》の内に崇拝する何かを見出せないうちは、
   あなたはまだ正しく考え始めていないことになる。

   For until ye are able to see within the life
   and activities of those ye have come to hate the most,
   SOMETHING ye would worship in thy Creator,
   ye haven't begun to think straight.

   (1776-1)

・・・

(2)【 4月19日 】 命を知る

   命とは
   自己に発せる造化のはたらきである。

   命を知るとは、
   一方に於(おい)て
   真の自己に反(かえ)ること、

   他方に於て
   無限に真己(しんこ)を進歩
   させることでなければならぬ。

・・・

(3)【 4月19日 】 社会人としての義務

   われわれお互いが、みずから進んで常識を豊かにしてゆくとか、
   仕事の力をさらに高めてゆくということは、
   もちろん自分自身のためではありますが、
   それは同時に、社会に対する一つの義務でもあると思います。

   たとえば、われわれの社会で、すべての人が一段ずつ進歩したとするならば、
   社会全体も一段向上します。

   ところが他の人がみな三段進歩したのに自分は一段も進歩しなければ、
   社会全体の平均の段数は三段上がらないことになります。
   自分ひとりのために全体の水準の向上が犠牲になるわけです。

   われわれは、このような社会人としての義務感をしっかり認識し、
   日々努めなければならないと思います。

・・・

(4)【4月19日】『武士の恥を知らざること』

   君子は徳義なきを恥、小人は名誉なきを恥ず。
   君子は才能なきを恥、小人は官禄なきを恥ず。

   小人の恥ずるところは外見なり。
   君子の恥ずるところは内実なり。

   そもそも恥じの一字は本邦武士の常言にして、
   恥を知らざる程恥なるはなしなし。
   武士の恥を知らざること今日に至り極まれり。

          ・・・

   【訳】

   心ある立派な人は、人として踏み行うべき義理の心が足らないことを恥じ、
   つまらない人は名誉がないことを恥じる。

   君子は才能がないことを恥じ、小人は官位や俸禄がないことを恥じる。

   小人が恥じるのは外見である。

   君子の恥じるには心の内面である。

   だいたい恥という一字は我が国の武士が常に口にする言葉である。
   恥を知らないとほど恥ずかしいことはない。

   その武士たる者が恥を知らないこと、今日ほどひどい状態は未だかつてない。

・・・

(5)《19日 目付が悪いと運が悪い①》

   目付なども上目(うわめ)三白眼(はくがん)と云って
   泥棒目付になって来ますから、
   折角、よい働き口があって就職に行きましても、
 
   「どうもあの人を使っても、目付が悪いから、折角就職に来たけれども
    あんな感じの悪い人は事務所にいても気持がわるいから、断ってやろう」
 
   と云う事になるのであります。

   娘さんの縁談などでも、仲人のところではいい具合に進んでおりましても、
   見合をしたら思ったより娘さんの目付が悪かったと云うので、
   折角の好い縁談も順調に運ばないと云う事にもなりがちであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P204~205)より

           <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/04/21 (Sun) 04:16:32


(1)【 4月20日 】 

   外見は色あせる。
   しかし、生命の美しさ、人間性の美しさは、
   自己のパーソナリティを通して輝き、色あせることのない美を与える。

   For the external fades,
   but that beauty of life,
   of individuality shining through that personality of self,
   gives the beauty that fades not.

   (2071-2)

・・・

(2)【 4月20日 】 命名

   名前をつけるということは大事だ。
   だから、名前はおろそかにしてはいけないので
   「命名」と言う。

   「命」と言う字は
   絶対的という意味でいのちという。

   だから非常な意味をもって付ける。

   子供なら
   「お前は大きくなったら
    お前の名の通り、
    この通りに修行すればいいんだよ」
   という意味でつけるのが、命名だ。

・・・

(3)【 4月20日 】 信頼すれば……

   人を使うコツはいろいろあるだろうが、
   まず大事なことは、人を信頼し、思い切って仕事をまかせることである。

   信頼され、まかされれば、人間は嬉しいし、それだけ責任も感じる。
   だから自分なりにいろいろ工夫もし、努力もしてその責任を全うしていこうとする。

   言ってみれば、信頼されることによって、
   その人の力がフルに発揮されてくるわけである。

   実際には100%人を信頼することはむずかしいもので、
   そこに、まかせて果たして大丈夫かという不安も起こってこよう。

   しかし、たとえその信頼を裏切られても本望だというぐらいの気持があれば、
   案外に人は信頼にそむかないものである。

・・・

(4)【4月20日】 「賢者の楽しむ所は」

   賢者の楽しむ所は道のみ、好む所は善のみ。
   勢位利禄、一も心に入ることなし。 

               安政3年5月17日「講孟剳記」

          ・・・

   【訳】

   心ある立派な人が楽しむのは、人としての正しい道だけである。
   また、好むのは、善だけである。
   権勢や地位、利益、俸禄などは、一つとして心にかかることはない。

・・・

(5)《20日 目付が悪いと運が悪い②》

   人間の運命と云うものは目付にあるのでありまして、
   目は心の窓とも云われています。

   人を観わけるのに、目を見たら大抵どんな人か分るのです。

   目が本当に澄み切った好い綺麗な目をしているような人は、
   必ず綺麗な心をしているのでありまして、
   目がどんよりと曇っているような人は矢張り心がどんより曇っている。

   目が愛らしい人は矢張り心も愛らしいし、
   目に嶮のある人は矢張り心にも嶮があるのでありまして、
   これは争う事の出来ない事実であります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P205)より

           <感謝合掌 令和6年4月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/04/22 (Mon) 04:56:52


(1)【 4月21日 】 

   人生の小さなことにも忠実でありなさい。

   主があなたの人生に、
   満足と喜びと命と愛という冠をかぶらせてくださいます。

   Be thou, then, faithful in the little things of life
   and He will crown thine efforts with contentment,
   with joy, with life, with love.

   (281-17)

・・・

(2)【 4月21日 】 六十にして六十化す

   『淮南子(えなんじ)』に、
   「きょ白玉(はくぎょく)、
    行年五十にして四十九年の非を知り、
    六十にして六十化す」
   という名言がある。

   これは人間に通じて来ないとわからない。
   年をとるにつれて身に泌(し)む言葉だ。

   人間は五十歳にもなれば或(あ)る程度
   人生の結論に達する。
   と同時に心のどこかに自らを恕(ゆる)す、
   肯定しようとする意志が働く。

   その時に
   「五十にして四十九年の非を知る」、
   今までの自己を一度否定することは、
   これは非常に難しい。

   だが過去の非を知り、
   自分が自分に結論を下すことは、
   新たにやり直すことであって
   五十になってやり直し、
   六十になればなったでまた変化する。

   いくつになっても溌剌(はつらつ)として維新してゆくことだ。

・・・

(3)【 4月21日 】 しつける

   日本人は、頭もよく、素質も決して劣っていない。
   だから何がいいか、悪いかぐらいは百も承知しているはずであるが、
   さてそれが行動になって表われたりすると、
   たちまち電車に乗るのに列を乱したり、公園や名所旧跡を汚したりしてしまう。


   やはりこれはお互いに「しつけ」が足りないからではないかと思う。
   いくら頭で知っても、それが子どものときからしつけられていないと、
   いつまでたっても人間らしい振舞が自然に出てこない。

   つまりせっかくの知識も「しつけ」によって身についていないと、
   その人の身だしなみもよくならず、結局社会人として共に暮らすことが
   できなくなってくるのである。

・・・

(4)【4月21日】 「決して言はれぬなり」

   各々其の職の上に於て、天命時運と云ふことは決して言はれぬなり。
   (中略)
   己が職を自ら廃し、是れを時運天命に附せば、
   不忠不孝、不仁不義、皆時運天命になるなり。 

          安政3年5月17日「講孟剳記」

   【訳】

   それぞれの人が、自分の職務上のことについて、
   天によって定められた宿命であるとか、
   時の巡り合わせであるなどということは、決していうことはできない。

   (中略)

   自分の職責を自分から放棄し、これを時運や天命の責任というのであれば、
   不忠、不孝、不仁、不義なども、みんな時運、天命となってしまう。

・・・

(5)《21日 目付が悪いと運が悪い③》

   目と云うものは同じ人でも
   怒っている時と笑っている時とは
   目の光が違うのであります。

   これは直接的に自分の心の波と云うものが
   そこから出ているのであって、
   これは何人(なんぴと)も否定する事が出来ないのであります。

   常に、より多くどんな目付をしているか、
   その目付が習慣性になって参りますと、
   何も考えずにぽかんとしている時も、

   常にしている目付をつづけているので、
   いつも争いの心を起している人は何も考えない時でも
   習慣性にその争いの波を眼の光から出しておりますので、
   何時(いつ)も怒ったような鋭い嶮のある目つきをしていると云う事になり、
   人から嫌われることになるのであります。

   そこでいつも戦々兢々として囚人が看守を恐れるかの如く、
   会社の上役の来るのを恐れるのは、仕事をなまける人の心理でありますから、
   自分の人相を囚人のように悪くし、従ってまた自分の運命を悪くする
   と云う事になるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P205~206)より

           <感謝合掌 令和6年4月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/04/23 (Tue) 04:55:00


(1)【 4月22日 】 

   日々にあなたの手が見出すものを、あなたの力を尽くして行いなさい。

   たとえその仕事が賤しいものに見えたとしても、
   心をおろそかにしてはなりません。

   そこにおいて、あなたは輝く自分の魂を見出すかもしれないのですから!

   Do with thy might what thy hands find to do day by day,
   being not unmindful that though it may appear to be the more menial job,
   in same ye may find thine own soul shining through!

   (2823-1)

・・・

(2)【 4月22日 】 世話役

   なるべく人の世話役を心がけよ。

   そして、報(ほう)を望むな。求むるな。

・・・

(3)【 4月22日 】 自分の会社を信頼する

   新しく会社に入られたみなさんにとって大事なことはいろいろあるでしょう。
   しかし、私は基本的に言ってまず一番大事なのは、
   みなさんが自分の会社を信頼するこということではないかと思います。

   みなさんの会社が、みなさんを迎えたのは、みなさんを信頼しているからです。
   またみなさんもその会社を信頼して入ったわけです。


   だからみなさんは、自分は会社を信頼しているのだ、そしてよき社員になるのだ、
   そして会社を通じて、人間として社会奉仕をするのだと考える。

   そう考えていたなら、まず失敗することはないだろうと思います。

・・・

(4)【4月22日】 「勇なくんば」

   人苟も勇なくんば、仁智並びに用をなさざるなり。 

         安政3年5月20日「講孟剳記」

   【訳】

   人は真の勇気というものがなければ、
   慈しみ、思いやりの心や物事を理解し、
   是非・善意を弁別する心をもっていたとしても、
   何の役にも立たない。

・・・

(5)《22日 目付が悪いと運が悪い④》

   又娘さんがお嫁に行きましても、
   舅姑(しゅうとしゅうとめ)さんなどに対して、
   おそれる心で警戒心を抱いておりましては、
   屹度、仲好い家庭生活は出来ません。

   何か自分の欠点でも見つかりはしないか、
   何か《アラ》を捜されやしないかと思って、
   お嫁さんの心がキョトキョトとして、
   姑さんに対して恐れる、《目つき》でつかえていますと、

   「どうも自家(うち)の嫁は私に懐(なつ)いてくれない」
   と云って気持悪がられて、
   嫁と姑との仲が悪いと云うことにもなってくるのであります。

   それはどうしてそうなってくるかと云いますと、
   仲が悪い原因は何であるかと云うと、
   姑と嫁とは、自他一体、互に一つだと云う事を忘れているからです。

   互に一つであると云う事を忘れておったら、
   互に離れる心ですから仲の悪い事は当然であります。

   「仲が好い」と云うのは「互に一つ」である事を
   認めていることが仲がいいのです。
   「一つ」位仲の好いものはありません。

   上役と社員とは別々である、
   とこう思っておれば上役と社員とは仲が悪いのです。

   そんな会社では成績も上らず、事業も栄えないから、
   月給も充分あがりません。

   家庭の中で姑と嫁とは別々のものである、とこう思っておりますと、
   そう考えていること《そのもの》が仲が悪いのです。

   そして互に欠点を見られると思って警戒していますと、
   益々仲の悪い事が現われてくるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P206~207)より

           <感謝合掌 令和6年4月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/04/24 (Wed) 03:03:50


(1)【 4月23日 】 

   あなたはむしろ、あなたの選んだ活動の中で、
   父である神がその力を現されるための水路になることを求めなさい。

   Be rather thou the channel through which He, God,
   the Father, may manifest His power
   - in whatever may be the chosen activity of the entity.

   (3183-1)

・・・

(2)【 4月23日 】 余 裕

   「千万人と雖(いえど)も吾往かん」
   と言った孟子が同時に別面において、
   「豈(あ)に綽々(しゃくしゃく)余裕有らざらんや」
   と言って余裕というものを論じておりますが、

   こういう乱世になればなるほど、
   われわれは余裕というものを
   持たなければならない。

   余裕があって初めて
   本当に物を考えることも出来る、
   本当に行動を起こすことも出来るわけです。

   殊(こと)に善人は神経が細いから、
   尚更(なおさら)本当の意味の余裕が必要であります。

・・・

(3)【 4月23日 】 目標を与える

   指導者にとって必要なことは、目標を与えることである。
   指導者自身は特別な知識とか、技能は持っていなくてもよい。
   それは専門家を使えばいいのである。

   しかし目標を与えるのは指導者の仕事である。
   それは他の誰がやってくれるものでもない。
   もちろん、その目標自体適切なものでなければならないのは当然である。

   だからそのためには、指導者はそういう目標を生むような
   哲学、見識というものを日ごろから養わなくてはならない。


   自分の哲学なり、体験に基づいて、
   その時どきに応じた適切な目標を次つぎと与える。

   指導者はそのことさえ的確にやれば、あとは寝ていてもいいほどである。

・・・

(4)【4月23日】 「事省くべく」

   事省くべく、事省いて而して志専らにすべし。
   志専らならば則ち奇策雄論論往々将に得る所あらんとす。 

   嘉永4年4月21日「※阿兄に与ふ」

   【訳】

   くだらない世事は省略するべきである。
   省略して、今抱いている志に専念すべきである。
   専念すれば、奇抜な策略やすばらしい考えが、やがて思い浮かぶことであろう。

・・・

(5)《23日 嫁に往ったら家庭に一つに融け込まねばならぬ①》

   そこでこのお嫁においでになりましても一番必要な事は
   その家庭に融け込んでしまうと云う事です。

   一つに融け込む事が出来なかったら始めから仲が悪いんです。

   仲がいいと云うのは融け込んで一体になっているからです。

   『生命の實相』の第一巻の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」
   と云う言葉がありますが、
   天地一切のものの中に融け込んでしまう事が出来れば、
   天地一切のものと仲がよくなり天地一切のものが自分の味方になるのです。

   吾々は天地一切のものと一つに融け込んでしまわなければならない。
   家族のものたちは互に一つの家族にならなければならないのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P207~208)より

           <感謝合掌 令和6年4月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/04/25 (Thu) 05:02:31


(1)【 4月24日 】 

   不親切に語ることをやめなさい。
   人について良いことを言うことが出来ないなら、黙っていなさい
   --たとえ、あなたの言うことが真実だとしても。

   Leave off speaking unkindly.
   If it is impossible to say nice things about a person, keep silent
   - even though what you might say may be true.

   (3376-1)

・・・

(2)【 4月24日 】 学問の四焉(えん)

   学問には四焉(えん)の境地がある。

   これこれ第一が修焉、之(これ)を修め、次に焉(これ)を蔵し、
   次の次に息焉、漢字の先生は之に「いこい」之に「やすみ」というふうに、
   学問研究の中に、ゆっくりと焦(あせ)らず入ることと説きますが、
   私はこれをその通り息(イキ)と解してよいと思うんです。

   之に息するとは、学問を人間の呼吸と同じようにするという意味です。


   我々の息が健全であるように、学問も自然に乱れないことです。

   最後は遊でありますが、
   漢民族の歴史は黄河の水をどう治めるかに終始しますが、
   その結論は、水の流れに下手に逆らわないで、
   ゆったりと遊ばせる優遊の境に到ったわけです。

   人間も気まま、わがままにゆきながのり乍(なが)ら、
   矩(のり)を超えざる境地に到ることを理想としたのです。

・・・

(3)【 4月24日 】 心が通った商売

   商売というものは、形の上だけで見れば、
   品物を売って代金をいただくということですが、
   それでは自動販売機と変わりません。

   そこにやはり買っていただいてありがたい、という感謝の気持、
   お客さまが大事、といった気持を持つことが、
   商売本来のあり方だと思います。


   よく昔の商人は「お客さまの家の方には足を向けて寝ない」
   というほどの感謝の気持で客に接したと言います。

   そうすると、そういうものがおのずと客にも伝わり、
   同じ品物でもあの店で買おうということになって、
   両者の心が通い、社会全体が潤いのあるものになってきます。

   私は商売にも“物心一如”ということがきわめて大切だと思うのです。

・・・

(4)【4月24日】 「かくすれば」

   かくすればかくなるものとしりながら、やむにやまれぬやまとだましひ  

          安政元年4月24日「獄中より※家兄伯教に上る書」

   【訳】

   このようなこと(※下田事件のこと)をすれば、
   このようになるということは知ってはいた。
   しかし、それでもやらねばならなかったのは私の大和魂ゆえである。

    ※1 この歌は実際には、安政元年(1854)4月15日、
       下田事件後、下田から江戸伝馬町獄へ護送される途中、
       泉岳寺の前を通過した時に歌ったものである。

    ※2 兄 杉梅太郎。字は伯教。生涯、松陰を理解し、助けた。
       後、民治と改名した。

    ※3 安政元年(1854)3月27日の夜半、
       松蔭が下田停泊中の米艦に乗り込んだ事件。
       密航とされているが、私の研究では、ペリー刺殺が主目的であった。

・・・

(5)《24日 嫁に往ったら家庭に一つに融け込まねばならぬ②》

   お嫁さんの場合を考えますと、
   「私は余所の家から嫁に来たので、
    自分は仮にこの家に居(お)るんだけど、
    ここは生れた家じゃないんだ」と云うような

   一つに融け込まない気持で、自他分離の感じを持っておりましたら、
   決して仲が良くなれないのであります。

   そう云う風な人が時々私の所にも相談に来られて云われます。

   「先生私は姑さんに対して出来るだけ勤めて、
    姑さんの御機嫌を害しないように、害しないようにと、
    出来るだけ一緒懸命につくして居りますけれども、
    姑さんに嫌われて、事毎に意地悪されるのですが、
    どうしたら宜しいでしょう」

   と云うような事を訊かれる場合があるのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P208~209)より

           <感謝合掌 令和6年4月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/04/26 (Fri) 04:49:42


(1)【 4月25日 】 

   自分を気の毒に思ったからといって、それが何かの助けになりますか?

   If ye feel sorry for self, is there any help?

   (5302-1)

・・・

(2)【 4月25日 】 人物をみる八観法

   一、通ずれば其の礼する所を観る

     すらすらうまく行き出した時に、どういうものを尊重するかを観る。


   一、貴(たか)ければ其の進むる所を観る

     地位が上がるにつれ、其の登用する人間を見て人物が分かる。


   一、富めば其の養う所を観る   

     金ができると何を養い出すか。


   一、聴けば其の行う所を観る  

     善いことを聞いたら、それを実行するかどうかを観る。


   一、習えば其の言う所を観る

     習熟すればその人間の言うところを観る。


   一、止(いた)れば其の好む所を観る

     この「止」は板につくという意味。
     一人前に仕事ができるようになると、何を好むか。


   一、窮すれば其の受けざる所を観る

     貧乏したときに何を受けないかを観る。


   一、賤なれば其の為さざる所を観る

     人間落ちぶれると何をするかわからない。
     だから為さない所を観る。

・・・

(3)【 4月25日 】 福祉はみずからつくるもの

   お互いの福祉を向上させていくことは好ましいことであり、
   基本的には大いに推進されていい。
   しかし問題は誰がそれを生み出すかである。


   今日、一つの風潮として、国民は国がいろいろやってくれるだろうと思い、
   国は国民の税金を頼り、足りなければ増税したらいいという安易な考えがある。

   それぞれが何とかなるだろうと考えているわけである。

   しかし、福祉を高めていくのに必要な資金は、
   みな国民が営々として働き生み出した税金にほかならない。

   つまり福祉を行なうのは形の上では国であっても、国民なのである。
   そういう認識を深くし、福祉の向上のためにお互い何をすべきかを
   考えることがきわめて大事だと思う。

・・・

(4)【4月25日】 「学と云ふものは」

   凡そ学問の道死して後已む。
   若し未だ死せずして半途にして先づ廃すれば、前功皆棄つるものなり。

   学と云ふものは進まざれば必ず退く。

   故に日に進み、月に漸み、遂に死すとも悔ゆることなくして、
   始めて学と云ふべし。  

                 安政3年5月23日「講孟剳記」

   【訳】

   大体、学問というものは、死ぬまで継続すべきものである。
   もしも、死んでもいないのに、途中でやめてしまえば、
   それまでの努力して得たものは全て捨ててしまったことになる。

   学問というものは、進まなければ、必ず後退するものである。

   だから、日に進み、月に進み、その結果、死ぬとしても
   後悔することがないようになってこそ、初めて学問ということができる。

・・・

(5)《25日 嫁に往ったら家庭に一つに融け込まねばならぬ③》

   私がそう云う方に申上げるのは、
   「それは貴女、勤めると云う気持があるからいかんのだ」
   勤めると云う気持の中にはどう云う気持があるかと云うと、

   「若し私が勤めなかったら、
    姑さんは私に意地悪の心をもって見るかも知れない。

    本来、姑と云うものは嫁に対して仲がわるいものである。
    姑は嫁を愛する筈はない。
    意地悪な批判的な目ばかりで見て、嫁苛(いじ)めをするものだ」

   と云う予想が、先ず自分の心の中にあるから、

   そこで「私は勤めなければならない」と云うような気持が起こってくるのです。

   そして「姑さんの気に入ろう、気に入ろう」として
   勤めているような気持、そんな勤め方は、本当は初めから、
   自分と姑とは互に「仲が悪い」と云う事を認めて
   やっているのですから駄目なのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P209)より

           <感謝合掌 令和6年4月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/04/27 (Sat) 04:28:01


(1)【 4月26日 】 

   忍耐は受動的、消極的なものではありません。

   忍耐は建設的な力であり、積極的で活動力を与えるものです。

   Patience is not passive nor negative;

   it is a CONSTRUCTIVE influence, a positive activative force.

   (815-2)

・・・

(2)【 4月26日 】 親父の役割

   人間はやはり、
   良心・霊性・魂にひびかなければ、
   何事も真の解決は出来ないのであります。

   然(しか)もそういう純な心は
   もう二つ三つの幼児の頃から、
   子供は本能的に
   鋭敏(えいびん)に受け取ることが出来る。

   だから子供は言説で教えるよりも、
   情的に感じ取らせることの方が大事なのです。

   親父は千言万言を費やして説教するよりも、
   黙って子供に見せることであります

・・・

(3)【 4月26日 】 知識を活用する訓練

   松下政経塾には、優秀な先生方に講師として来てもらうわけですが、
   普通の学校のような授業はやらない。

   まず、学生が質問をしてそれを先生に答えてもらう形式をとる。
   質問するものがなかったら、
   先生は何も言ってくれないというようにしたいんです。

   質問をするためには疑問を持たなければならない。
   疑問を持つに至るまでの勉強は自分でやらなければならないというわけです。


   つまり、知識を与えるのではなく、
   持っている知識を活用する能力を育てていく訓練を重ねて、
   自分の考えを堂々と主張できるような人間になってもらいたい
   という願いを持っているのです。

・・・

(4)【4月26日】 「一善を行へば」

   一善を行へば一善己れに存す。
   一益を得れば一益己れに存す。
   一日を加ふれば一日の功あり。
   一年を加ふれば一年の功あり。

   人を教ふる者かくこそ言ふべし。  

        安政3年5月23日「講孟剳記」

   【訳】

   一つのよきことを行えば、その善は自分のものとなる。
   一つの有益なものを得れば、それは自分のものとなる。
   一日努力をすれば、一日の功績がある。
   一年の努力をすれば、一年の功績がある。

   人を教えるものは、このようにこそ(門人を)教え導くべきものである。

・・・

(5)《26日 本当に仲よくなるには①》

   そこで本当に姑さんと仲よくなろうと思いましたら
   どうしたらいいかと云うと、
   姑さんの懐(ふところ)の中に跳び込んで行けば宜しいのです。

   姑さんの懐の中に跳込んで自分と他(た)とが一つになるのであります。

   「私は余所(よそ)から来たのである」と云うような感じを捨ててしまって、
   「この方が自分の生みの親である」と云うような気持になって、
   その懐の中に跳込んで行くと云うようにしますと、
   互に気が楽になり、本当に仲がよくなるのです。

   つまり自分がなくなってしまうのです。
   そして姑の懐に跳込んで一つになるのです。

   自分と云う我(が)があって、相手と分れていると思う限りは
   本当に仲よくはなれないのであります。

   世界でも家庭でも一つになるところに仲が好くなる道があるのです。

   これが矢張り宇宙の初めから、『はじめに神天地を創造(つく)り給えり』と、
   この「はじめ」が神と一つであると云う根本実相を、
   実際生活にも応用すると云う事になるのであります。

   この初めが「一つ」であると云うこの根本実相を実際生活に応用する事が、
   凡ゆる場合に総ての事を解決して行くところの鍵になるのでありまして、
   これは幾ら説明しても、終(しま)いにならないくらい
   応用の広いものだからであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P209~210)より

           <感謝合掌 令和6年4月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/04/28 (Sun) 04:55:09


(1)【 4月27日 】 

   夢は、その人を教化するためにやって来る。

   The dreams come for the entity's edification.

   (538-15)

・・・

(2)【 4月27日 】 子供の気持ち

   幼児は痲疹(はしか)よりもっと恐れや怒り、
   憎しみや冷淡に感染し易(やす)い。

   自分が好かれているか、嫌われているかということに、
   子供は食物と同様に反応する。

   一家の感情の中で自分の占めている立場をよく覚(さと)る。

   親の精神状態は直(じか)に子供に反応する。

   特に親の怒りは子供に大きな衝撃を与えます。

・・・

(3)【 4月27日 】 賢人ばかりでは

   世の中は賢人がそろっておれば万事うまくいく、
   というものでは決してありません。

   賢人は一人いれば、それで十分なんです。
   さらに準賢人が三人、準々賢人が四人ぐらい。
   そんな具合に人が集まれば上々でしょう。

   賢人ばかりですと議論倒れで一向に仕事がはかどらない
   といったようなことになりがちです。


   一つの実例をあげれば、ある会社で三人の立派な人物が、
   お互いに協力しあっていたはずなのにどうもうまくいかない。

   そこで一人を抜いてみた。
   すると残る二人の仲がピタッと合って非常にうまくいき、
   抜かれた人物も他の分野で成功した。

   そんなことがよくあるものなのです。

・・・

(4)【4月27日】 「一世の風俗を以て」

   平士の職は一身の脩治を本とし、一世の風俗を以て己が任となすべし。 
 
                 安政3年5月28日「講孟剳記」

   【訳】

   平士たるものは、自分一身を修めることを根本とし、
   その時代の風俗をよきものとすることを、自分の任務と自覚すべきである。

 
     ※平士:一般の藩士で、役職に就いていない武士。

・・・

(5)《27日 本当に仲よくなるには②》

   あるとき、こう云う人が来られましたが、
   これは逆に嫁さんに苛(いじ)められる姑さんであります。

   先の方は姑に苛められる嫁さんでありましたが、
   嫁に苛められる姑さんもありますから、皆、その人の心々で
   色々の状態があらわれて来るのであります。

   その人はもう60過ぎた姑さんでありましたが、こう云われました。

   「私はクリスチャンでありまして、
    40年前からクリスチャン生活をしておりまして、
    人と云うものは犠牲になると云う事が尊いものだと教えられ、
    私は40年の間、自分の嫁の犠牲になって参りました。

    犠牲になる事が神の道である。
    犠牲犠牲と思いまして、自分を殺し殺しして犠牲の生活を送って参りましたが、
    未だにどうしても嫁と仲好しになれません。

    わたしはこれは自分の犠牲になり方が足りないのだと思いまして、
    出来るだけ努めて、犠牲の心持ちで嫁の汚れた着物も自分が洗濯してやって
    干してやりますと、

    嫁は『お母さんが洗ってくれて一層穢れたから、もう一ぺん洗い直す』
    と申しまして、又洗い直すと云うような当てつけがましい事をやりまして、
    とても辛くて仕方がないのです。どうしたら宜しいでしょうか」

   とこう云う質問なのであります。

   そこで私が申上げたのです。

   「それは貴女が間違いだ。自分を犠牲にすると云う考えがあるからいけない。
    犠牲と云う言葉は矢張り自他対立の言葉で、自己犠牲と云う事は一寸よいように
    思われるけれども、キリスト教の牧師なら大いに賛成したかも知れないけれども、
    生長の家では、犠牲と云うことをそんなに尊ばないのであります。

    誰かが代りに犠牲にならねば、ほかの人が幸福になれないような
    不完全な世界を神様はつくっておられないのです。

    自分を殺すと云うと、善いことのようだが、自分を犠牲にしている
    と云う考え方は自他対立しており、自他分離対立しているから一つに融合しない、
    そこに仲の悪い因(もと)がある」

   と云う事を申上げたのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第13章(P210~212)より

           <感謝合掌 令和6年4月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/04/29 (Mon) 04:53:03


(1)【 4月28日 】 

   あなたは自分自身の心の内に、意識の内に、神を見出すのです!

   Ye find Him within thine own heart, within thine own consciousness!

   (281-41)

・・・

(2)【 4月28日 】 真理は内在する

   陽明は石槨(せっかく)を為(つく)り自ら誓って曰く、
   吾今惟(た)だ命(死)を俟(ま)つのみと。

   一夜霊感あり、
   夢幻(むげん)の間に人あって語る如(ごと)く、
   多年の疑問氷解し、
   大声を発し、
   躍り上って狂人の如くであった。

   彼は始めて真理は我が外に在るものではなく、
   内在するもの(良知)であり、
   我を舎(お)いていたずらに
   理を事物に求むることの誤りを悟ったのである。
   根本義に於(おい)て彼は始めて人間の生に徹したのである。

   この体験は主観にしても客観にしても
   単なる知性では到達出来ない。
   全生命を賭(か)けて始めて得ることの出来る体験である。

   そしてこれはひとり東洋学道だけのものではない。
   今世紀の偉人シュバイツァーの生の大悟(たいご)にこれをみる。
   仏領アフリカのランバレネの上流イジェンジャ村で豁然(かつぜん)として、
   「生を貴ぶことが善の根本たる」悟りを得たという。

・・・

(3)【 4月28日 】 会社は道場

   仕事というものは、やはり自分でそれに取り組んで、
   体得していかなければならないものだと思う。

   しかし自得していくには、そのための場所というか、
   道場とでもいうものが必要であろう。


   ところが幸いなことにその道場はすでに与えられている。
   すなわち、自分の職場、自分の会社である。

   あとはその道場で進んで修業しよう、
   仕事を自得していこうという気になるかどうかということである。

   しかも会社という道場では、
   月謝を払うどころか、逆に給料までくれるのだから、
   こんな具合のよい話はない。

   このような認識に立てば、仕事に取り組む姿も、
   謙虚に、しかも力強いものになるはずである。

・・・

(4)【4月28日】 「万事自ら」

   文王を待ちて而る後に興る者は凡民なり。
   夫の豪傑の士の若きは文王なしと雖も猶ほ興る。
   凡民と豪傑の分を明かに知るべし。

   豪傑とは万事自ら創して敢へて人の轍跡を践まぬことなり。  

            安政3年5月17日「講孟剳記」

   【訳】

   文王のような心のある立派な王の指導を受け、
   その後で意気を奮い起こすようなものは凡民、一般の民衆である。

   豪傑、つまり傑出した人物というものは、
   文王の指導を受けなくても、みずからの力で興起するものである。

   凡民と豪傑との違いをはっきりと知るべきである。
   武勇にすぐれ肝っ玉のすわっている人は何事も自分で創意工夫するものであり、
   決して他人の行った真似などはしないものである。

    ※文王:?~紀元前11世紀ごろ。 中国の周朝の始祖。

・・・

(5)《28日 本当に仲よくなるには③》

   自分と他(た)と分離するような感じが仲の悪くなる因(もと)でありますから、
   殺すべき対立的な「自分」も《ない》と云うところまで、解らなければ、
   本当にその人は仲好しになれないのであります。

   自分を「犠牲」にする事は、もう一つ言い換えますと、
   「お前の為に私はこんなに犠牲になって苦しんでいるぞ」と
   云う事になります。

   「私はお前の犠牲になっているんだぞ」と始終こう云われますと、
   あまり好(い)い気持ちは致しません。

   「なに! 犠牲になんかなってくれなくてもいいんだ。
    私は、なにもそんなに貴女を苛(いじ)めてなんかいないよ」と
   云いたくなるのでありまして、

   「犠牲になる」と云う考え、そのものの中に自他分離 ―― 
   争いの感じが含まれているのであります。

   「私はお前の自己犠牲になっている。私はお前の犠牲になっている」と、
   犠牲と云う言葉を振廻されるくらい、気持のわるいものはありません。

   私は、お前を犠牲にしていると云う事は、
   お前を私を苦しめていると云う事になるわけです。

   そこで「犠牲」「犠牲」と云う言葉を振廻されると、
   「お前は何時も私を犠牲にして私を苦しめているんだ」と云う事を
   反面から云っているのですから、結局、仲好くなれないのであります。

        *「眞理」第1巻入門篇第14章(P212~213)より

           <感謝合掌 令和6年4月28日 頓首再拝>

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