伝統板・第二 2548490

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ひかりの一日一言109~ひかりの語録(4月)

1:伝統 :

2024/04/01 (Mon) 05:03:04


ひかりの一日一言《1日》

救われると救われぬとは、本人が真理を理解するとせぬとによる。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P96)より

       <感謝合掌 令和6年4月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/04/02 (Tue) 05:00:46


同じ家族でも、サトリの程度は別々であるから、
ひとりひとりの運命は別々である。
 
良人が悟っても妻がサトルとは言えぬ。

子供の運命も別々であるが、
まだ独立した人格でない嬰児の運命は
母親のサトリがより多く関係している。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P96、97)より

       <感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/04/03 (Wed) 05:03:11


『生長の家』を読んで真理を知るのは面倒くさい。

真理は知りたくないが病気は治りたいと
いうような場合は一番困りものである。

真理を知ることと病気が治ることとは同一事(どういつじ)であり、
病気であることと真理を知らぬことは同一事であるからである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97)より

       <感謝合掌 令和6年4月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/04/04 (Thu) 05:00:56


言葉で人は満足するのである。

優しい言葉が自然に湧いてくるような性格は人生の宝である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97)より

       <感謝合掌 令和6年4月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/04/05 (Fri) 04:14:52


他(ひと)に自分の欠点を指摘されたら、ありがたいと思え。
他(ひと)が怒ったら、ことの善悪にかかわらず
相手の心をかき乱してすまなかったと思え。

平明(へいめい)に自分の過ちを承認せよ。
自分の過ちを素直に承認される瞬間その人の神性は高いのである

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97)より

       <感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/04/06 (Sat) 05:01:04


こちらが防御的態度になるほど相手は攻撃的になる。

心の法則は国家でも個人でも同じことである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97)より

       <感謝合掌 令和6年4月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/04/07 (Sun) 05:04:43


われを有限だと思うな。
わが内(うち)に永遠が生きている。

内(うち)といっても、
肉体の内(うち)ということではない。
 
覚(さと)らぬものはしかたがない。
覚(さと)ったら解(わか)るのだ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97)より

       <感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/04/08 (Mon) 05:05:05


負けまいと思うな。

高飛車に出て威張ってみても、
中の空っぽなのが見え透(す)くだけだ。

人間の尊さはそんなところにはないと言うのに。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97)より

       <感謝合掌 令和6年4月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/04/09 (Tue) 05:03:32


威張れば威張るほどその人間の小ささが目につく。

小さい値打(ねうち)の者は
虚仮威(こけおど)しに威張るのがかえって見苦しい。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P97、98)より

       <感謝合掌 令和6年4月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/04/10 (Wed) 04:45:02


宝を毀(こわ)して平気でいるような人がこの世の上に立つ人に多い。

どんなに荒々しい言葉を使っても、
誰も自分に抗(むか)うものがないということは、
その人にとって一つの誘惑である。

心はあらゆる宝の中で至上の宝であるのに。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P98)より

       <感謝合掌 令和6年4月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/04/11 (Thu) 05:03:19


ダイヤモンドをいくら糞土(ふんど)で包んでも、
ダイヤモンドそのものは穢(けが)れることはない。

ただ かくれているだけであって、
穢(けが)れているのは糞土(ふんど)そのものだけである。

人間の霊もそのごとくいくら罪(つみ)にまみれても穢れるということはなく、
ただ姿を隠しているだけである。

この世に罪人(つみびと)は一人もないというのはこういう意味である。
罪は罪だけが穢れているので人は決して罪人(つみびと)ではない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P98)より

       <感謝合掌 令和6年4月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/04/12 (Fri) 05:00:56


罪(つみ)がないと知った瞬間、罪は消えている。

罪は許されるとはこの意味である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P98)より

       <感謝合掌 令和6年4月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/04/13 (Sat) 04:57:06


本当は「まかす」ということは
「はからい心(ごころ)」でまかせるのではない。

実相の世界に、何も不調和な不完全なものはないと悟ったとき、
はじめて「本当にまかす」ことができるようになるのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P98)より

       <感謝合掌 令和6年4月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/04/14 (Sun) 05:02:32


結構に坐ったり寝たりする座敷があるのに
椅子がないと腰掛けがなくて不便だと言い、
椅子をもし買ってもらうと高すぎて足が宙吊りで不便だと言う。

こういう人は何をしてもらっても結構ということを知らない人である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P98)より

       <感謝合掌 令和6年4月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/04/15 (Mon) 05:06:14


何をしてもらっても常にありがたく感じる人は常に幸福であるが、
何をしてもらっても常にありがたく感じない人は
常に幸福を知らないかわいそうな人である。

不平家ほど気の毒なものはない。
 
人の幸福は心の中(なか)にあるのだ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/04/16 (Tue) 04:53:04


自分の本質の善(よ)さを信ずること、
これが神に一致する一つの要件である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/04/17 (Wed) 05:01:03


自分を軽蔑するものは神を涜(けが)すものである。

自分は神の子だからである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 05:04:19


神はすべての物を造(つく)り給(たま)うて 
その創造物を善しと見給(たま)うた。

神は自分自身の善(よ)さを信じ
自分自身を祝福し給(たま)うのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/04/19 (Fri) 05:03:03


悟るということは、
悟りが迷いを征服するというような対立的な出来事ではない。

神の子がそこに生まれるということである。
それは征服でなく、新生である、創造である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/04/20 (Sat) 05:00:21


神は何ものをも征服しない、征服する相手がないからである。

誰かを征服しなければ強者でないように思う者は
自己の生命(せいめい)の実相を知らないものだ。

自己の実相を知ったら誰を征服しないでも
そのままで自己が強者であることがわかるのだ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/04/21 (Sun) 04:22:38


自己が神の子であること そのことが強者なのだ。

そのほかに附加物を必要だと思う者は 迷いに捉われたものである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99)より

       <感謝合掌 令和6年4月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/04/22 (Mon) 05:00:27


形(かたち)を追いかけるな。
形は生命(せいめい)が通過した痕跡(こんせき)に過ぎない。
 
自動車を走らすのにタイヤの痕(あと)を
地(ち)に印(しる)そうと思って走らせる者はあるまい。

自動車はそれ自身の目的をもって走る時、
地(ち)にはひとりでにタイヤの痕(あと)が出来るのだ。

生命(せいめい)もそのとおりだ。
生命(せいめい)が厳(おごそ)かに生きるとき、そこに厳かな形ができる。
生きることが第一で、形(かたち)が第二である。

生命(せいめい)をそれ自身の相(すがた)で生かしめよ。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P99、100)より

       <感謝合掌 令和6年4月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/04/23 (Tue) 05:02:14


他(ひと)を自分の型(かた)に嵌(は)めようと思う者は躓(つまづ)く。
他(ひと)をして自分の道を歩ませようと思う者は躓(つまづ)く。
 
各人(かくじん)には各様(かくよう)の道(みち)がある。
方向も別々に進んで行く。
電車道(みち)もあれば自動車道(みち)もある。
 
それでいいのだ。
「それでいい」と解(わか)るのが知恵である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P100)より

       <感謝合掌 令和6年4月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/04/24 (Wed) 03:12:47


他(た)に行きつまらない道の方向を示すことはできるが、
彼を行きつまらない道へ引張って行くことはできぬ。

引張って行っても人間は救われるものではない。
反対の方向へ行く者は行かしめよ。
 
そこで彼は行きつまって、はじめてこの道は行きつまると悟って道がひらける、
彼にとっては「行きつまる」ことそのことが救いの始めである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P100)より

       <感謝合掌 令和6年4月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/04/25 (Thu) 05:07:40

各人別々の道を歩く。
人間は顔の異なるように同じ道を歩けるものではない。

他(ひと)を強制できるものでないと知った時、
「人間は離れ離れなものだ、誰一人自分と同じ道を歩く者がない」と
知って淋しい。

その淋しさに徹せよ。

その淋しさを突き貫いて行った時、
忽焉(こつえん)、本当の歓びが湧いてくる。

各人別様の道を歩いているので各人が
皆一つの神に支配されて別々の使命に割当てられているということ 判って、
皆を宥(ゆる)せて、広々として包容力のある愛が湧いてくるのである。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P100、101)より

       <感謝合掌 令和6年4月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/04/26 (Fri) 04:54:26


「死」は無い。
滅する者は本来無かったものばかりである。

「生命(せいめい)」は本来「生命(せいめい)」であるから
永遠に「死」はない。
死んだと見えるのは夢にすぎない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P101)より

       <感謝合掌 令和6年4月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/04/27 (Sat) 04:32:20


何事もこの世に悪いこと起こらない。起りようがない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P101)より

       <感謝合掌 令和6年4月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/04/28 (Sun) 04:59:12


何物も穢(きたな)いものはない。

いっさいのものは見様(みよう)によっては穢いが、
生かして使えば糞尿(ふんにょう)の肥料の中からでも立派な野菜がとれる。

人造肥料は糞尿よりも綺麗だと思うのは迷いである。

自然にできた糞尿は人工でできた人造肥料よりも綺麗なのは当然である。

その人造肥料でも生かして使えば穢くない。
何物も穢いものは一つもない。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P101)より

       <感謝合掌 令和6年4月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/04/29 (Mon) 04:57:14


不平が起こるのは、他(ひと)に余り求めすぎるからだ。

ひとにはひとの立場があり生活がある。

その立場と生活を認めてやり、
なるほど彼がそうするのは無理もないと認めてやり、
反対の立場も包容しきれるようになったとき
その人の心ははじめて楽になる。

心が楽になれないのは心が狭いからである。
狭いところにいて楽なはずがないではないか。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P101)より

       <感謝合掌 令和6年4月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2024/04/30 (Tue) 05:04:56


親は子を生(い)かそう生かそうと考えているのに、
親の霊魂や先祖の霊魂が祟(たた)るはずがない、
そんなことは信ぜられないという人がある。

親は子を生かそう生かそうと考えていても、親が真理を知らなければ、
子のため子のためと思って子を毒している親もある。

先祖の霊魂が子孫を病気にしている場合はこれに当たる。

先祖を供養して子孫の病気が治るのもこれに当たる。

先祖の供養のうち《物施》といって物をお供(そな)えするよりも
《法施》を第一とする。
《法施》とは真理を供養することである。

霊前で、『生命の實相』を読むのもその一方法である。

        *「生命の實相」第22巻聖語篇(P101、102)より

       <感謝合掌 令和6年4月30日 頓首再拝>

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