伝統板・第二 2546762

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


(四月)の法語

1:伝統 :

2024/04/01 (Mon) 05:01:09

このスレッドでは、他の掲示板等から、次の7つの法語を紹介してまいります。


(1)『 生長の家 』 昭和二十五年四月号法語  ( 六日の法語 ~ 三十日の法語 )

   *Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html (消滅)

(2)『 生長の家 』 昭和二十六年四月号法語 ( 一日~九日 、 十九日~三十日の法語 )

   *Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html (消滅)

(3)『 生長の家 』誌 昭和四十九年四月号の箴言 ( 一日~九日の法語)

   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

(4)『白鳩』 昭和四十年四月号『女性のための智慧』(一日~十六日の法語)

   *Web《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》からの転載です。
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

(5)『理想世界』昭和四十三年四月の法語  
    
   *伝統板・第二「輪読のための青年法語  国内に滲潤しつつある革命思想」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

(6)『 生長の家 』 昭和四十八年四月の法語 

   *伝統板・第二「入龍宮不可思議境涯綴」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

(7)『 白鳩 』 昭和四十八年四月の法語

   *伝統板・第二「白鳩箴言~生命の尊重と佛性の囘復」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375


なお、それぞれの法語は、上記のように限定したものがありますので、
一部については、間を、別の真理の言葉を紹介してまいります。


・・・


【一日の法語・言葉(4月1日)】

(1)《民主主義の根本信念》~『生長の家』(昭和21年4月号 巻頭言)

   宗教と云うものは、自己と云う存在を「肉体」であるとの自覚から、
   「霊的実在」であるとの自覚に転回せしめるものであり、

   自己が「霊的実在」であるが故に、「霊的本源者」即ち神とのつながりを可能ならしめ、
   人を通じて神を此の世に実現せしめるものなのである。

   人に内在する神なしには民主主義と云うことはあり得ないのである。
   民主主義は、人間の本質の尊厳の平等を要求するのである。

   人間の本質の尊厳とは何によって可能であるか。
   それは猿やアミーバから、人間にまで進化したのであって、
   人間の本質は「アミーバ」なるもの、「猿」なるものが宿っているからだ
   と云うのでは説明にはならないのである。


   唯一の尊厳者は神のみである。凡そ人間に「尊厳」と云うものがあり、
   「民主」だとか「人主」だとか云い得るものがあるならば、先ず人間に神が宿っている
   と云うことを肯定してかからねばならないのである。

   色々に才能がわかれ、個性の差別があっても、
   人間の本質に神が宿っていることに於いては平等である。

   この平等の神的本質を指して吾々は『生命の實相』と称ぶのである。
   そして本質のみ真実であり、実在であるが故に、人間は『神である』ほか
   何物でもあり得ないのである。


   どんな悪人も、それは外見かく見えるにすぎないのであって、
   みんな彼らも『神である』ほかあり得ないのである。

   此の真実がわかるならば、すべての人間は互にその特長や欠点があらわれているままで、
   彼らを、その本質が、『神である』ゆえに礼拝し得るのである。


   私の考えでは民主主義を教育するためには、人間の生命の實相が『神である』ことを知らしめ、
   互に礼し敬し拝み合えるように、其の根本信念を確立せしめなければならぬ。

   これをなくしてただ自己の待遇改善を要求し、
   相手を非難し悪口する自由のみを獲得するのを民主主義と考えるならば、
   大変な間違いであると思う。

   http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22512134.html (消滅)

・・・

(2)《自己を幸福にするには》

   あなたの言葉、行い、想念、ことごとく
   神の国に 相応(ふさ)わしきものでなければならない。

   神の国には 讃嘆の言葉のみ充(み)ち満ちているのであって、
   決して憎みや、怨みや、呪いや、他(ひと)の悪を探す言葉には
   充ちてはいないのである。

   自分を最も害する言葉は、人を害する言葉であり、
   自分を最も害する想念、行動は、人を害する想念行動である。

   この真理が直ちに全人類にわかったとき全世界に平和が来るのである。
   自分を最もよくする想念感情は 「 愛 」 である。

   人のため人のためにと 愛念を起していると、
   愛念は 愛念を招(よ)びむかえ、
   自分自身が幸福になって来るのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html(消滅)

・・・

(3)《善(よ)き言(ことば)の創化力を祈りに利用せよ》

   “ ことば ”は アイディアを乗せた生命の波動であり、
   アイディアに描かれたる事物を 生命エネルギーを組み立てて
   創造する本質であり、材料であり、力である。

   それゆえに 何を“ ことば ”で唱えるか、
   何を“ ことば ”で念ずるかによって、
   その人の運命が支配され、

   善きアイディアを内容とする“ ことば ”を毎日念ずることにすれば、
   家庭は調和し、事業は繁栄し、家庭及び自分の健康は増進するのである。

   最近(昭和四十九年当時)発行された『 ジュニア希望の祈り 』というのは
   小中学生の年齢の児童たちが、“ 善き言葉 ”で毎日念ずることによって、
   健康で、善良な性格の、成績優良な子供になるための
   “ 祈り ”につかう、簡単な“ことば”を集めたものであるから

   子供をお持ちの方は、是非一冊をひとりひとりの子供のポケットに入れてあげて
   必要に応じて、どの言葉で祈るがよいかを辞書をひくように検索し得るよう
   小見出しをつけて工夫されたものである。

   大人の人たちの祈りのためには『 私はこうして祈る 』という本があるから、
   それによって検索して適当なコトバでお祈りになるとよいと思う。

   しかし本号には読者がすぐに利用できる短い“ 祈りの言葉 ”を書いて
   皆さまに差し上げることにした。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『天地一切のものに感謝して』

   今日いちにちの開始を先ず感謝することから始めようではありませんか。

   先ず神に感謝し、祖先に感謝し、父母に感謝し、良人に感謝し、
   子供に感謝し、家庭にはたらく全ての人々に感謝し、
   勤め先のすべての人々に感謝し、

   住む家に感謝し、一切の身の廻りの品々に感謝し、
   これら一切のものの根源となった神の御恩、衆生の御恩に
   感謝することから今日一日を始めようではありませんか?

    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)【”痴”が一切の不幸の根源である】

   釈尊は、人間にとってもっとも慎むべき悪徳として
   貪(とん)・瞋(じん)・痴の三つを数えて“三毒”と称せられたのである。

   その中で痴が最も根源的な”悪”の培養素であると私は思う。

   痴とは「知る」力が病にかかって充分に働かないことを
   あらわした象形文字である。

   明朗な「知」を失っている者は、
   現象の混乱を見て、それに心が巻き込まれてしまって、
   自分では正義のために大いに奮起しているつもりで、
   実は、日本侵略の赤い魔手の手先になっていることがあるのである。

   私たちは毎日神想観を実修して、神の叡智を感受して事物を判断するのに
   精確を期し、更に先見の命を持ち、そのままでは将来に起こるであろう
   人類又は国民の不幸を、未然に防ぐ手を打っておかなければならないのである。

   それが政治の要諦というものである。

     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【すぺての宗教はその眞髄に徹するとき】 

   最近、日本教文社から、
   宗教的救ひについての深い眞理の書が二種?出たのである。
 
   それは谷口清超氏の『念佛信仰の神髄』といふ本と、

   私の『生命の實相』の中から“罪業もとより形なし、
   それは妄想の描く影“といふ眞理に關する部分を類によつて
   抜粋、整理整頓したところの
   類纂・生命の實相『人類無罪宣言』といふ本とである。

   清超氏の『念佛信仰の神髄』の本は發行後、間もなく
   江湖の注目を浴びて重版をかさねてゐるといふことである。

   この書は一遍上人の語録を解釈したもので、一遍上人の、
   「吾が體を捨て南無阿彌陀佛と獨一なるを一心不亂といふなり。
    されば念々稱名は念佛を申すなり・・・・・」
   の語録の一節の解釋から始まつてゐる。

   この「念々稱名は念佛が念佛を申すなり」といふ語の意味を本當に知るには、
   自分自身が一遍上人の心境に到達した人でないと
   本當にわかるものではないのである。
 
   清超氏の解説はよく念佛信仰の神髄を捉へて、
   それを最も端的に表現してゐるのである。

   “念佛信仰の神髄”と假りに謳つてあるけれども、これこそが、
   すべての宗教信仰の神髄であり、あらゆる宗教をそこまで深く神髄に
   穿ち入る時、すべての宗教は一つの神髄的眞理に到達し
   萬教歸一が成就することになるのである。

   その萬教歸一的眞理を説いて一宗一派に偏らない信仰が
   “生長の家”なのである。

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)”神”は決して單なる個人の空想による觀念的存在ではない

   ユングの心理學の本が近く日本教文社から
   『ユング心理學』と題して新しく出るさうだが、ユングの心理學は、
   生長の家の教義を理解する上に非常に參考になるものなのである。

   マルキシストその他の唯物論者は、”神”の客觀的存在を否定して、
   ”神”とは、人間自身が勝手に發明した空想的存在又は觀念的存在である
   と説くのであるが、ユングはそれを次のやうに説明するのである。--

   「心理的な出來事は、我儘勝手な憶測からうまれた恣意的な産物であるとか、
    更に進んでは、それらはそれらの生みの親である人間が發明したものであるとか
    いふ考へ方に餘りにも馴染んでしまつてゐるわれわれは、

    心理やそのもろもろの内容は吾々自身が勝手に發明したもの、ないしは、
    色々な推測や判斷にもとづいて多かれ少なかれ空想的にでつち上げられたものに
    他ならないといふ先入觀念からなかなか脱却することが出來ないのです。

    ところが事實はどうであるかといへば、
    ある種の觀念は、伝播や傳承とは全然關係なしに、殆どいたる所で、
    しかもあらゆる時代に現はれて來ますし、場合によつては
    自然に發生してくることすらあり得るのです。

    これ等の觀念は個人によつてつくられるのではなく、
    個人の方がこれらの觀念に遭遇するのである。

    いやそれどころか、これらの觀念は無理やりに個人の意識の中に
    侵入して來るのだのだと言つた方がよいかも知れません」と

   彼は強く言い切つてゐるのである。

   ”神”なる 觀念も、そんな觀念が、たつた一人の個人の心理の中に
   表れてゐるだけだつたら、それは單なる心理的主觀的なものだけれども、

   「このやうな觀念が、ほとんど到る處で、あらゆる時代に、
    一定數以上の共有になつた場合にはそれは客觀的なものである」と

   ユングは説くのである。

    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

・・・

<参考:4月の谷口雅春先生の言葉>

(1)若葉寄り繁る~「生命の實相」第37巻幸福篇上
   → (光明掲示板・第二) 
     http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1436(消滅)

    伝統第二「(四月)若葉寄り繁る(光明掲示板・第二) 」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7841017

(2)信仰の本質~光明法語<道の巻>
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=81

(3)相倚(あいよ)よりたすける~光明道中記
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=82

            <感謝合掌 令和6年4月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/04/02 (Tue) 04:59:10


(1)《時節ということ》~『生長の家』(昭和23年4月号)

   『時が解決する』と云う言葉がある。
   時節というのは、神の心の世界に描かれたところの秩序であり、順序である。
   事物の発展して行く順序というものは砕くことは出来ないものである。

   種子を蒔いて一遍に花を咲かせようと思っても順序を経ねば花は咲かないのである。
   今年種子を蒔かねば、その発生伸展の順序はその植物の一周期おくれる。

   それと同じように國の運命も、蒔くべき時に誤って『善行』が蒔かれなかったら、
   その國の一周期だけその國の運命の伸展がおくれるのである。

   しかし今年花を咲かない朝顔も、来年蒔き直せば朝顔の花は咲くのである。
   咲くと咲かぬとに拘らず花の理念は永遠不滅であり、
   咲くときにはその順序をもって展開するのである。

   日本の國の理念も善行の種子を蒔かないからその展開がおくれている。

   今、咲かないからとて朝顔の花の理念の不滅と、
   その開くときに伸展する順序とを疑ってはならぬと同じように、

   日本の國の理念も、これから国民が善行の種子を蒔くようにすれば必ず、
   その展開は日本の栄えとなってあらわれる。

   今のように国内互いに奪い合うようでは『大和』の理念などあらわれようがないのである。

      http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/21412717.html (消滅)

・・・

(2)《人類よ 互に賞讃し合え》

   「 人を審判(さば)くこと勿(なか)れ 」 とキリストは教えたが、
   自分を最も害する想念及び言葉は、人を審判く想念及び言葉なのである。

   世界の平和が脅かされるのも 他を審判く心と言葉との交錯によるのである。

   昔は 井戸端会議によって人を審判き、それによって近隣の不和を招いたが、
   今は ラジオによって全世界が審判き合って
   国と国との平和を害し合いつつあるのである。

   文明の利器も、それを使う人が光明思想にならない限りは、
   刀剣を小兒(こども)に弄(もてあそ)ばせるのと同じで、
   却って人類の不幸を来すのである。

   若(も)しラジオで全人類が互いを賞讃し合うことにしたならばどうであるか。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12195203.html (消滅)

・・・

(3)《無限の可能性を実現する祈り》

   【 祈り 】

   【 私は毎日 常に 自己が“ 神の子 ”であり、自己の内に無限の可能性を有し、
   常に一層 ゆたかに 健全に その可能性が 現実化するのである。

   わたしは 此の事を念じ 唱え 信ずるが故に
   わが希望する一切の善き事は 必ず 実現するのである。 】

   あなたの職業が何であろうと、今いるあなたの位置が何であろうと、
   あなたは今の時点に於いて、
   あなたでなければ創造することの出来ない個性ある価値創造をなすために、
   神の生命と智慧と愛とが噴出するための 噴出口であるのである。

   謂(い)わば、神の個性ある自己実現の中心なのである。

   それ故、自己の無限の可能性を信じ、その可能性が、あらゆる事物について
   健全なる方向に発揮されるようこの祈りを、
   毎日、寸暇を利用して 瞑目して 深呼吸の如く深く静かに息しながら
   数回宛(ずつ)念ぜられるがよい。

   言葉は その繰返しによって 一層 深く 潜在意識に印象せられ、
   宇宙の潜在意識にそれが感応せられて、
   それを実現するために 宇宙のあらゆる要素が あなたを中心に寄せ集められて、
   ついに 祈りの言葉の通りが 具体化することになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『すべて在るものの神秘を讃嘆せよ』

   感謝の次に必要なのは讃嘆である。

   感謝は受けることに対する受動的反応の要素を
   ‘より’多く含んでいるのであるが、

   讃嘆は積極的にこちらから賞讃の言葉を
   対象に対して打ちそそぐのである。

   天を仰いで日光の燦然たる美しさを讃嘆し、
   俯して地を見て万物を生い育てるその逞しき生命力を讃嘆せよ。

   あなたの子供の元気溌剌たることを讃嘆せよ。

   一輪の花の美しさをも讃嘆せよ。

   人々がその日その日の仕事を滞りなく遂行しつつある神秘を讃嘆せよ。

   小鳥の啼き声の美しさを讃嘆せよ。

   今自己が生きてある、そして生かされている神秘を讃嘆せよ。

   人は一切存在の神秘に目覚めるとき
   本当に自己の“生き甲斐”を感ずることができるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)革命は少数者の武装蜂起で成就する

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【我も佛もなかりけり】 

   一遍上人は、紀州鷲峯山興国寺の開山なる
   覺心和尚(龜山上皇より法燈禪師と謚(おくりな)せられ、
   更に後醍醐天皇より法燈園明國師と勅禪せられた名僧)
   について參禪修行中「南無阿彌陀佛」といふ公案を與へられ、
   「南無阿彌陀佛」を一心に稱名中、その悟るところを、

     唱ふれば我も佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして

   といふ歌に托して法燈國師に捧呈されたが、
   法燈國師は允可を與へ給はなかつた。

   そこで一遍は更に坐禪稱名、念想工夫を積み、その結果得たる悟りを、

     唱ふれば我も佛もなかりけり 南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛

   といふ歌に詠じて法燈國師に捧げられた時、國師はつひに
   「善いかな、善いかな」と允可を與へられたのだと傳へられてゐる。

   この「我も佛もなかりけり」の状態が“無心”といふのである。

   そしてその“無心”の中に、「何もないのか」といふと、
   何もないのではないのである。

   本當に現象への執著を滅して無心になった時、
   唯「實相」のみが獨在するといふ眞相が出て來るのである。

   “無心“になるまではその”有心“の妄想が「實相」
   を隠覆してゐて實相獨在の眞実があらはれないものなのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)”生命”は單に空想された觀念ではない

   ”生命”といふ觀念も”神”といふ觀念も同じく、
   ”生命”そのものは肉眼には見えないものであるけれども、
   それは「傳播や傳承」とは全然無關係に、

   ほとんど到る處であらゆる時代に、
   すべての人種を通じて「一般的同意」を得てあらはれているものだから、
   それは客觀的の存在だとみとめてよいものである。

   ”生命”とは決して單なる觀念ではなく、
   個人の恣意的な勝手な空想ではないのである。

   そこに「生命尊重」といふ語が「一般的同意」を得て、
   個人の利己的私欲的行爲を生命尊重の立場から制約し得る所以があるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/04/03 (Wed) 05:01:16


(1)《『続々甘露の法雨』を詠む》~『白鳩』(昭和47年4月号)

   生長の家の経典の一つに『続々甘露の法雨』があります
   その一部から・・・

         天使(てんのつかい)つづいて説きたまふ。
         家庭の争ひ、
         嫉妬、
         憎悪、
         復讐、    
         憤怒の念(こころ) ――
         全ての悪念は健康の快復を妨ぐるなり。
         若しかかる悪感情起こらば
         速やかに『神の子・人間』に本来かかる悪感情
         無しと観じて、
         かかる感情を断ち切るべし。
  
   『生命の實相』を読み、人間は《神の子》であって、
    本来完全圓萬であるから病気は無いと
   いう《實相哲学》が理解できたつもりでいるのに、
   どういうのか病気が治らないで悩んでいる人があります。


   こんな場合には、家庭の内部に人間関係で
   不調和がありはしないかを脚下照顧し、反省し、
   家庭内に暗黙のうちに争いの精神状態又は、
   嫉妬、憎悪、復讐、憤怒その他いろいろの
   反感や逆念やがもしあれば、
    
   それを解消するために、もし自分があやまった方がよいと思うならば、
   素直にあやまり、互に打ち融けて感謝し合い、調和の心境に、
   家族中がなることが出来れば、その病気は消えてしまうのであります。

   茲に、『家庭の争い、嫉妬、憎悪、復讐、憤怒の念
   ―― 全ての悪念は健康の快復を妨げるなり』
   と示されているのはそのためであります。


   何故これらの悪念が家庭にわだかまっていますと、
   『人間・神の子』の真理がわかっていながら、
   病気が治らないかと言いますと、

   本当に自分が《神の子》だと悟られているならば、
   嫉妬や、憎しみや、恨みや、怒りや、悲しみや、口惜しさなどの感情が
   起こる筈はないのであります。

   そんな不浄な悪感情や悪想念が起こるのは、《人間・神の子》の真理が、
   頭脳(あたま)の表面(うわつら)ではわかっていましても、
   潜在意識の底の底まで全身全霊をもって
   《人間・神の子》の真理を自覚し得ていないからであります。


   それに《人間・神の子》の真理を頭脳で理解していましても、
   憎しみや、争いや、恨み、悲しみ又は不平等の感情がありますと、

   現象世界というものは、心の所現でありますから、
   その心の通りの形が肉体や環境にあらわれて来るのは
   当然なのであります。

   だから心の中に、不平や怒りの《心の固まり》が出来ますと、
   その感情を長くもち続けますと、やがてそれが肉体に具象化して、
   肉体に癌とか腫瘍とかの固塊があらわれて来るのであります。

   だからそんな病気があらわれましたら、『生命の實相』をよく読んで
   『人間本来、病なし』の真理を尚一層よく知ると同時に、

   《本来ない》ところの病があらわれているのは、
   『自分の心の反映(かげ)』であると知り、心を一変して
   心に感謝の念を満たし、教えを真剣に行ずるようにすると、
   本来無い病なのだから、《無》の實相をあらわして消えてしまうのであります。

    http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18655226.html (消滅)

・・・

(2)《難問題を神に委(ゆだね)よ》

   どんな借金でも神なら払えるのであり、
   神にまかせて解決しない問題は無いのである。

   「 神様、この問題は肉体の人間としての私には解決することが難しいのです。
   しかし神様は 無限の愛であられます。無限の智慧であられます。

   貴方(あなた)様の智慧によって解決しない問題はないのでございます。
   貴方様の愛によればすべての事がすべての人の幸福になるように
   解決することが出来るのでございます。

   この問題を、神様あなたに委ねます。
   あなたはこの問題をすべての人の幸福になるよう調和した状態で
   解決して下さいます。 」

   こう神想観中に繰返し念ずるようにするならば
   自然に解決の途(みち)が開けて来るものである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12198708.html (消滅)

・・・

(3)《“ 類 ”によって幸福を招き寄せる》

   【 祈り 】

   【 宇宙には“ 類は類を招き寄せる ”という法則があるのである。
   わたしは神の子たる自己の実相を自覚し、
   常に明るい心を維持し、明るい事柄のみを想念するが故に
   常に明るい幸福なるもののみがわれに集まり来るのである。】

   日本には、古来、

   “ 類を以って集まる ”とか、
   “ 笑う門には福来る ”とか、
   “ 泣き面に蜂“とか
   “ 瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なすび)は生(な)らぬ ”とか

   いう諺があるのである。

   福の神の如く、常ににこやかに笑って、明るい心を持続していると、
   明るい運命が引き寄せられて来るのである。

   これに反して、常に“ 憂い顔 ”をし、“ 泣き面(づら)”をしていると、
   類に従って、ますます“ 憂える事 ”は増加し、泣き面をかかねばならぬ
   ような出来事が身辺に集まって来ることになるのである。

   それ故に私たちは、今如何なる非常事態が出現し、
   前途が暗澹(あんたん)として見える時にも、

   今の暗黒状態は、過去に蓄積された“暗い心の思い”が形にあらわれて、
   その業(ごう)が消えて行く姿であるから、

   台風一過したあとに必ず青空が晴れ渡るように、
   何か、非常事態が出現して来た時には、

   「これで過去の業は消えてしまって、今後は、明るい善い事のみが
   あらわれて来るのである。ありがとうございます 」

   と感謝のみ ことばを繰り返すがよいのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『感謝と讃嘆とは幸福の筐を開く鍵である』

   あなたは他から感謝された時、心に悦びを感ずるであろう。
   そしてその人に何かもっと善き事をしてあげたいと思うであろう。

   また人から讃められたとき心に悦びを感ずるであろう。
   そして、もっと讃められるようなことをしてあげたいと思うであろう。

   では感謝と讃嘆とは相手から「善き事」を引き出すところの鍵である
   ことに気がつかれたに相違ないのである。

   それは神に対しても、子供に対しても同じことである。

   神の愛は無限であり、子供が親に対する愛も無限である。

   しかし、それらの愛は、或る程度以上は、
   こちらが感謝と讃嘆の鍵をもって開くまでは出て来ない
   “秘密の筐”の中に収められているのである。

   神に感謝し、神を讃嘆せよ。

   子供に感謝し、子供を讃嘆せよ。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)青年を惑わす有力新聞の言論

   (抜粋として)

  ①政府も国民も時局認識が甘すぎる。

  ②アメリカが日本を防衛してくれなかったら、
   ソ連は、ハボマイ、シコタンのところで
   日本への侵略を中止したであろうか。

  ③中共が日本に進駐して来ないのは、
   アメリカが日米安保条約によって、
   他国の軍事侵略に対してニラミをきかしていてくれるからなのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【何故、法燈國師は允可せられなかつたか】 

   「唱ふれば我も佛もなかりけり南無阿彌陀佛の聲ばかりして」の歌には、
   まだ本当の悟りが顕れてゐないので、
   法燈國師は允可せられなかつたといふのは、當然のことである。

   念佛稱名して無心となり、我も心もなくなつたまではよろしいが、
   「南無阿彌陀佛の聲ばかりして」ゐるといふのでは、
   まだ“救ひ”が無いのである。

   この場合聲は英語で謂えばSoundに當たると思ふのである。
   贔屓目に見てもVoiceである。

   それは單なる音響又は聲音にすぎないのである。
   それは録音されたテープから出て來る音聲のやうなものであつて、
   阿彌陀佛の生きた生命はないのである。

   それはLogos(言ことば)ではないのである。

   「耳にナムアミダブツと聞える音」でありさへすれば
   その音を聞きさへすれば極樂往生疑ひなしであるとすれば、
   録音テープに「ナムアミダブツ」と吹き込んでおいて、
   臨終の人の枕元で録音機にスイッチを入れて
   聞かせてやりさへすれば皆成佛するだろう。

   そんな事なら、お寺も僧侶も教會も要らないではないかと
   私は時々揶揄して話すことがあるが、全くその通りなのである。

   だから「南無阿彌陀佛の聲ばかりして」の一遍の心境に対して
   法燈國師は允可を與へられなかつたのである。

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)唯物論では”生命の尊重”は出て來ない

   ”生命”は單に空想された觀念ではない。
   それゆゑに生長の家發祥時の”七つの光明宣言”の第一絛に書かれてゐる。

   「吾らは宗派を超越し生命を禮拜し、
    生命の法則に随順して生活せん事を期す」

   が正當な意義を持つて來るのである。

   ”生命”が何故尊重せられなければならないかといふと、
   それは單なる物質の結合より生ずる化學作用ではないからです。

   もしそれが物質の化學作用で「生命」といふものが生れて來、
   その生命が大腦を作り、大腦から精神が生れて來て、
   そのために苦痛の意識や惱みの感情がわいてくるのであれば、

   その化學作用の根源となる物質の結合(肉體)を破壊してしまふならば、
   苦痛も惱みもなくなる
   ――それこそ”根本的救ひ”といふことになるはずである。

   つまり「安樂殺人」が根本的救濟といふことである。

   このやうな唯物論的人間觀からは
   「生命の尊重」といふ事は發生しがたいのである。

   更に況んや「生命を禮賛」といふやうな
   深い心境は生れて來ないのである。  

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/04/04 (Thu) 04:59:01


(1)《『個性を発揮しながら中心を逸脱しないこと』》
   ~『理想世界』(昭和46年4月号)

   創始者への恩を背かず、創始者の発見した真理の基礎の上に立ちながら、
   単なるその亜流にならずに、独創的な業績あげ、世界の文化に貢献しつつ、

   世界の渦の中に巻き込まれて個性を失うようなことはせず、
   更に一層大きく発展させるものこそ
   真に創始者の弟子だということが出来るのである。

   真理は中心であり、
   創始者はその中心の周囲に自己の時間の許す限りの輪を描く。

   彼の人生の時間には限りがあるから、
   ある程度以上に大きな円を描くことはできない。 

   次に続くものが、創始者の円の上に同じような円を重ねて描く。 
   そして一歩もその円周は創始者のそれよりも大きくならないならば、
   これが所謂亜流である。

   しかし同じ中心を周って図を描きながら創始者よりも包容面積の広い同心円を描く。 
   更にその次に続く者は一層直径の広い同心円を描く。 
   それは同心円であるから真理の中心から逸脱する事はない。

   こうして多数の後に続く者がより一層包容面積の広い同心円を描きながら、
   その真理から拡がっていく。 

   しかもその同心円は中心から外れていないから
   自然にひとつの中心に集まる組織となっていて、その団結が崩れる事がない。

   そしてその同心円を
   仮に黄色とか緑色とか紫色とかに着色してみると美しい図柄ができる。 

   その各々異なる色合いがその後継思想家の個性を表現するものと理解すればよい。

    http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19694729.html (消滅)


・・・

(2)《人に金を貸した場合》

   人に金を貸して払って呉(く)れない場合には、
   その反対に、「 彼は必ず 払ってくれるのだ 」
   と念ずるがよいのである。

   「 彼は 払う意思がないのだ 」 と考えたり、
   「 彼は とても払えないだろう 」 と考えたりすることは、

   心に描くことが形にあらわれる世界であるから却って、
   彼に払いたくない心を起させ、
   又、払えないような状態を惹起(じゃっき)するのである。

   自分の借金のある人に悪意を抱いてはならない、
   今払えないからとて憎みを抱いてはならない。

   悪意を抱いたり憎みを抱いたりするならば、
   やがてそれが形の世界にあらわれて、相手に悪意を抱かせ
   支払う心を杜絶(とぜつ)することになるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12201616.html (消滅)

・・・

(3)《過去を心から放ち去る祈り》

   【 祈り 】

   【 過去は既に過ぎ去ったのである。過去は既に無いのである。
   それは鳥が飛び去った跡の蒼空(あおぞら)のようなものである。
   私は過去に私に害を与えたすべての人を宥(ゆる)し、
   心から放ち去ったのである。

   私がすべての人の過ちと罪とを宥し去った如く、
   神も私の過去の一切の過ちと罪とを赦し給うて、
   今、私には一点の濁(にご)りもなき清浄潔白な実相があらわれたのである。

   それ故に今後は、私には 善き事、裕(ゆた)かなる事、美しき事、
   調和せる事、幸福なる事のみがあらわれて来るのである。】

   人間は“ 神の子 ”であるから本来自由自在で、
   凝滞(ぎょうたい)なくすべての事物の進行が円満に行われ、
   その希望することは必ず成就するように創造(つくら)れているのである。

   すべての事物の滞(とどこお)りや難航は、
   現象界の事物の動きに、“心”が捉えられ、
   それに“心”が引っかかっていて、
   “心”が自由自在を失ってしまった結果なのである。

   それだから、あなたは、心の中に“過去”を把んでいてはならない。

   神想観を実修して、神の智慧の導きを受け、
   “ 今 ”目前にあらわれている事物に、
   その智慧を集中して、誠をはげみ、

   過去もなく、未来も無く、ただ“今”
   神の智慧と一体となって神と偕に動いていると
   いう自覚の下に、自己の働きを集中するとき、

   自己のはたらきは必ず、神の働きとなり、
   如何なる事物も都合よく すらすらと進捗(しんちょく)する
   ようになるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『周囲の雑音に巻き込まれてはならない』

   外からなる雑音に耳を傾けること勿れ。

   雑音は純粋なる音楽の美しさを掻き乱してしまうように、
   あなたの純粋なる清き心の波を混乱状態に陥れて
   あなたを不幸に陥れるものである。

   あなたは“神の子”としてただ純粋に
   “愛”と“調和”と“美”と“感謝”と“讃嘆”との
   心の音楽を奏でるだけでよいのである。

   純粋に、外界の雑音に巻き込まれることなく、
   “神の子”として、神授の生命の音楽を奏でているか、
   ただひたすらにそれのみを念願して美しく、清く、愛の生活を送りつつ、
   すべての物と、事と、人とに感謝と讃嘆の声と想念とを送るようにする
   がよい。

   やがて一切の雑音は消え、
   周囲のすべてがあたなに感謝し讃嘆する声を聞くであろう。

・・・

(5)社会党の目指すもの

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【南無阿彌陀佛のみの實在について】 

   われわれが“南無阿彌陀佛“と至心廻向して稱名念佛するとき
   救はれるというのは、その聲音がナムアミダブツと聞えるから
   救はれるのではないのである。

   稱名念佛としてその極致において心が廻轉して”無心”となった時、
   現象を見聞覺知する心が、”無”となるために、實相を覺知する
   内在の佛性があらはれる(これを吾々は實相覺と稱している)。


   そして内在の佛性が普遍の佛性を覺知し、儘十方に滿つるところの
   南無阿彌陀佛を自覺するに至るのである。

   これが、一遍上人の悟りの御歌――

   「唱ふれば我も佛もなかりけり 南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛」である。

   「我も佛もなかりけり」の“我に対する佛”は我に相對するところの現象佛
   であるから、それは假想であつて、實相佛ではないから
   「なかりけり」で即ち消えてしまふ譯である。
  
   そして其処に否定しやうにも否定し得ないところの
   “南無阿彌陀佛“のみが遍滿實在し給ふのを見るのである。

   「南無」は歸一である。無心によつて、實相に歸入する時、
   阿彌陀佛に中心歸一する實相巌淨の世界の實在を見るばかりである。

・・・

(7)” 生命の尊重”に人類全體の”一般的同意”が得られるのは

   ”生命の尊重”が叫ばれると、殆どすべての人間が、
   場所も時も人種も超えて「一般的同意」(general consensus)を與へた
   といふ事實は、 

   ”生命”といふものの實在(實在しないものは尊重に價しない)を
   すべての人間が潜在意識の底に信じてをり、”生命”といふものが
   物質の單なる化學的結合によつて生じたものではないといふ事を知つてゐる
   證據だとみとめられるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/04/05 (Fri) 04:11:04


(1)《果報は寝て待て》~『光の泉』(昭和34年4月号)

  「果報は寝て待て」 と云う諺がありますがね、
   「果報」 というものは、原因に対して起る結果としての報いであります。

   悪い原因に対して起る結果は悪い報いとしてあらわれて来ますが、
   「果報は寝て待て」 と云う場合の 「果報」 は“善い果報” であります。 

   “善い果報” を得るには、「我」 のはからいで盲動してはならない。 
   心を鎮めて、そのままの動きにまかせよと云うのが 「寝て待て」 であります。

   「我」がなくなり天地自然と一つになって、自然と眼が覚めて天然自然にあくびでもして、
   ‘ほっ’と“伸び”でもしたら、棚にゴツンと、伸ばす手があたると、
   自然に棚から‘ぼた餅’が落ちてくるのであります。 

   それは「我」のはからいでなく、自然の動きであります。 

   「動き」がなければならない。 
   行動化がなければならないが、「我の心」の行動化ではなく、
   天地自然の動きそのままに動くことが必要なのであります。

   紛失物を探すのにも、我々がうろたえ騒いでさがし廻ると、なかなか見附からないもの
   ですけれども、そう云うときに落着いて、心を鎮めて神想観をして、天地自然の智慧と
   一つとなって、‘ふと’明けたくなって抽斗を開いてみると、

   「ああ、ここに探していた品物があった。不思議だな、さっき此の抽斗の中の物を
   ひっくり返して調べてみたのに、あの時はどうしても見附からなかった。 
   それなのに、神想観をしてから、‘ふと’開くと‘そこ’にあった」 

   というようなことがおこってくるのであります。

   すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで
   「我」の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。

   「祈り」 又は 「神想観」 によって天地の智慧の中に没入し
   「我」と云うものが無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
   何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

   併し祈ったり「神想観」すると言っても、
   動かないで祈っておったらいいというわけではありません。

   祈り且つ神想観をすれば、心が整って、実相の智慧と一つになるのです。 
   実相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという内からなる
   “催し”が自然と湧いてくるのです。

   その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動する
   という所に信仰が行動化し、そこに実相の完全さが、その行動を通して実現して来る
   ということになるのであります。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19662144.html (消滅)

・・・

(2)《恩を施して恩返しを期待せず》

   人に恩を施して、心の中に恩に着せる心を持っている限り、
   相手は束縛せられた気持になって、
   こちらに対して恩を返さなくなり勝である。

   若(も)し恩を与えながら、恩に着せる心がなくなるならば、
   束縛されることなく、従って反撥(はんぱつ)心がなくなり、
   相手は正直に恩を受けていることを承認して
   却って恩を返すようになるものである。

   喜んで相手を助けて、
   あとは忘れてしまっているようなのが本当によいのである。

   相手が恩を返さないので、
   やむを得ず、恩返しされることをあきらめたのと、

   全然恩返しなどを期待しないで
   相手に与えたのとは 余程 相違があるのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12206004.html (消滅)

・・・

(3)《不安恐怖を去り問題を解消する祈り》

   【 祈り 】

   【 神言い給う 「 我に来れ、我れ汝を安息(やす)ましめん 」 と。
   わたしは 此の “ 神の言葉 ” にこたえて一切の “ 自我の心 ” を棄て、
   ひたすら心 神に向かう。

   私は 神に無条件に全托し、すべての問題を神に委(ゆだ)ねて
   神にそのまま 倚(よ)りかかる。

   それ故に 何の不安も心配もなく、神の平和と調和と健康と悦びとは
   そのまま わが平和となり、調和となり、健康となり、悦びとなったのである。

   すべての問題は、すべての人間を幸福にし給う
   神の智慧と愛とによって解決せられて、
   皆が悦び、私もまた悦ぶのである。

   われ神に感謝し奉る。ありがとうございます。 】


   あなたは自分の手をひろげて、またそれを握って見てご覧なさい。
   握っている掌(てのひら)の中には
   極(ごく)わずかの分量しか入らないでしょう。

   併(しか)し その掌をひらけば その上に虚空が載るのです。

   禅宗には 「 空手還郷(くうしゅげんきょう)」
   という語(ことば)があります。

   心の把みを放して、心が空っぽになって故郷(ふるさと)に還りなさい。
   そこは 自由自在の境であり、無限供給の世界であるという意味である。

   故郷というのは 自分の 「 実相 」 のことです。

   みんな悩んでいる人は、過去をつかみ、人の過ちをつかみ、
   自分の失敗をつかみ、問題をつかみ、
   自分勝手に、神の子本来の自由自在を棄てて悩んでいるのです。

   本来神の子の実相郷里に還れば、
   其処(そこ)は既に天国であり、龍宮城であり、
   無限の宝の世界なのであります。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『清き想念は天国を開く鍵である』

   愈々あなたの“心”が純粋となり、清らかとなり、
   本来の美しさが現象にまで展開してくるとき、
   あなたの一挙手一投足ことごとく神に導かれて
   間違いなく榮えの方向に動き出すことになるのである。

   清く美しき純粋なる“心”の想いというものが天国をひらく鍵であり、
   天国の音楽を受信して地上にそのままにその天楽を再現するための
   アンテナとなり、ラジオ・セットとなるのである。

   その時、あなたの生活には、ひとつとして過ちなく、行き過ぎなく、
   不足なく、圓萬完全なる調和したものとなるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)【社会党の目指すもの】

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【先入觀念を棄て去ること】 

   嘗て――戰前の事であつたが、花王石鹸の山崎副社長のお宅であつた
   誌友の集まりの際に招かれて出席したことがあつた。

   その時、山崎さんはご自分が神戸のキリスト教のミッション大學である
   關西學院の出身であること、靑年時代から宗教に關心を持つて色々の
   宗教家の門をたたいてその見解(けんげ)を尋ね歩いて、
   一応宗教的眞理は領解(りょうげ)した氣持ちになつてゐた頃、

   禪で有名な南天棒老師の教へを受けようと思つて老師の住持せるそのお寺に
   参詣して來意を告げると、入口に近い一室で待たせられて、
   なかなか老師が出て來られなかつた。

   やがて小僧が煎茶茶碗と土瓶とを携へて來て、その茶碗になみなみと
   お茶をついでくれて「どうぞ召し上がれ」といふのである。

   そこで山崎さんはそれを飲み了ると、また、なみなみとお茶をついでくれて
   「どうぞ、どうぞ」と飲むやうに促すので、またそれを飲み干すと、
   小僧は又なみなみと注いでくれる。

   それを繰返してゐるうちに胃の腑はお茶でいつぱいになつてしまつて、
   もうどうにも飲むことは出來なくなつた。

   それで、山崎さんは「もうお腹いつぱいで入りません」といつた。

   すると小僧はそのまま一揖して立ち去つたが、それきりいつまで経つても
   老師は無論、小僧も出て來なかつた。

   そして山崎さんの前には、もう飲むことが出來ない茶碗に
   一杯の煎茶が湛へられたままそこにあつた。

   山崎さんは、その茶碗の煎茶を眺めながら、ハッと悟つたといふのである。

   いろいろと宗教の學説や諸家の教説や見解を一杯詰め込んでいる限りは、
   本黨の眞理の話をしてあげても、それが自分の魂の榮養として
   取り入れることが出來ないのである。

   眞理を知るには今までの先入觀念をきれいに拭ひ去つて、
   無心になつてしまはねばならないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

   (このお話については、「真理第一巻入門篇(P188~189)」
    にもあります。https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251349 )

・・・

(7)生命は何故尊重されるか

   ”尊重”の感情が湧いて來るのは、そのものに”價値”があるからである。

   ”價値”があるのは、そのものが”本當に存在する”からである。

   ”価値”があると思つて貰つたものが、掌の上で消えてしまつたならば、
   それは”價値”がないのであり、”價値”があるとだまされてゐたのである。

   ”生命の尊重”といふものが尊重されるには、
   それは”本當に存在する”からであり、
   ”本當に存在する”ものを”實在”といふのである。

   ”生命”はそれみづから實在する。
   それゆゑにそれは尊敬され尊重されるのである。

    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/04/06 (Sat) 04:59:11


(1)《如何(いか)なる暗黒に面しても自分は人を憎まない》

   如何に周囲のものが辛くとも、如何に悲しみがおそいかかって来ようとも、
   吾(われ)は決して そんなことによって人を憎むことはないのである。

   そのような不完全な姿が現われて来るのは、その不完全を通してさえも
   「 完全なる本当の存在の実相 」 をみる力を
   吾(わ)が魂に養(やしな)わしめんがためであるのである。

   吾々が困難に対して自分自身が しばられなくなった時にのみ
   本当に吾々は自由を得たということができるのである。

   みせかけの不完全な状態に苦しまなくなり、
   黒雲の奥に輝いている太陽をみて感謝する心境になった時にのみ
   その人は本当に自由になったのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html(消滅)

・・・

(2)《神の供給は無限である》

   宇宙は 無限の神の創造であるから、
   宇宙に於ける供給は 無限であるのである。

   吾々は 此(こ)の宇宙無限の供給を心に描いて
   自分に流れ来つつある有様を想念することによって、
   それを自分のものとすることが出来るのである。

   何人(なんぴと)も彼が神の子である限り
   欠乏すると云うことはないのである。

   すべての人は平等に富んでいるのである。
   それを欠乏させるものは 欠乏の感じにほかならないのである。

   「 欠乏を満たし給え 」 などと欠乏の語(ことば)を使って祈ることは
   心に「 欠乏 」 の感を深く印象することになって、
   その祈りは却って逆効果になるのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12208729.html (消滅)

・・・

(3)《自己の想念の型を変えましょう》

   【 祈り 】

   【 わたしは “ 神の子 ” であり、
   神に導かれて想念感情の従来の型を一変したのである。

   私は今後、幸福のみを想うが故に幸福のみが来るのである。
   私は今後、裕(ゆた)かさのみを想うが故に無限の裕かさが来るのである。
   私は平和と調和のみを想うが故に平和と調和のみが来るのである。

   私は常に人に親切と愛とを与えることを想うが故に、
   すべての人から親切にされ愛されるのである。
   ありがとうございます。 】

   人には従来の生活習慣から持続して来たところの
   想念の癖(くせ)又は型があるのである。

   人の欠点のみを見る癖をもっている人もあれば、
   その人が来れば、必ず問題を惹(ひ)き起すような
   物の考え方をする人もある。

   それによって、それらの人々は自分の想念の癖の通りの運命を
   自分自身で造り出しているのである。

   だから、以上のような言葉を神想観中に念じて、
   暗い方面を兎(と)もすれば観る心の習慣をクラリと転じて、
   人及び事物の明るい面を見る心の習慣をつけるように致しましょう。

   必ずあなたに明るい運命が訪れてまいります。

   人間の運命は外から運命の神様がそれぞれの人々に割当てられるのではなく、
   自分の想念が内から造り出して外にその映像をうつし出すのであります。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『“迷いの心”は何処から来たか』

   人間は神の最高の自己実現であるから、本来健康であるのである。

   虚弱とか病気とかいうものは、
   “迷いの心”のあらわれにすぎないのである。

   ではその“迷いの心”は何処から来たのかというと、
   “迷いの心”という‘もの’があって、
   それが何処かの国から旅行して此処へやって来た
   というようなものではないのである。

   それは自己が“神の子”であり、
   “神の最高の自己実現”であるという
   霊的実相を自覚しない‘あらわれ’である。

   それは心が半覚半睡の状態に於いて夢を見るようなものである。

   その夢の中に於いて“病気”を現実として見、
   不幸を現実として見、災害を現実として見る。

   そして夢が醒めない限り、夢中の人にとっては
   たしかに病気その他の一切の悪も不幸も現実であって、
   いくら非存在だといわれても、非存在だとわかる筈はないのである。

   『無門關』の第九則に 
   「大智勝如来は十劫の間道場に坐禅して尚悟りをひらかなかったのは何故であるか」 
   の公案があり、

   「‘彼が’悟りをひらかざるなり」ということがその公案の解決となっているが、
   人間は全能全智〈大通智勝〉の“本源仏”または、“神の”自己顕現であっても、
   みずからがその瞼を開かないで実在を見ないでいる間は、
   非存在の“夢中事実”を実在だと見るほかはないのである。

          〈※参照 谷口雅春先生著 『無門關解釋』〉

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)自己を衛るものは自己である

   「神はみずから助くるものを助く」という有名な諺がある。

   自分のことには自分が責任をもって自己発展すると共に、
   自己防衛しなければならないのである。

   これはすべての生物界での鉄則であり、人間だけ、又は国家だけ、
   他の力に防衛して貰って、自分だけレジャー・ブームや、昭和元禄生活で
   浮かれてばかりいて可いというものではないのである。

   「四十歳を過ぎたら自分の容貌に責任を負わなければならぬ」という諺がある。

   自分の顔だけではない、自分の住む国家がどんな姿であるかは、
   国民の精神がどんな状態で続いているかが、
   国家の容貌にあらわれているのである。

   国家の防衛は他国任せで、自分の生活は安易な享楽気分で浮かれている精神で、
   もう十年も続いていたら、日本国の将来が思いやられるのである。
 
   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【兎もすれば人間には增上慢の心がある】 

   釋尊が「四十餘年間、未だ眞實を顕はさず、今まさしくその時なり、
   これから眞實を説くぞ」といふので、法華經をお説きにならうとすると、

   その集會中の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等が、
   罪根深重にして且つ增上慢にして、未だ得ざるを得たりと思ひ、
   未だ證せざるを證せりと思つて、釋尊の説法を聴聞せずに立ち去つた
   といふことが『法華經』の方便品に出てゐるのである。

   眞理の教へを聴いて救はれるためには、
   「未だ得ざるを得たり」と思ふ增上慢の心を棄て去つて
   無心になることが必要なのである。

   花王石鹸の山崎副社長が南天棒老師を訪問されたが、
   つひに老師に面會の機を與へられずに立ち去らねばならなかつたのも、
   この增上慢の心が看破されたからに他ならない。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)神モーセにその名を語り給ふ

   ”生命”は實在する。
   それゆゑに生命は「實在」である。

   唯一の「實在」は”神”のみである。


   モーセがエジプトからの俘囚から解放される直前の出來事である。

   モーセが家畜の群れを引き連れてホレブの山に到れるとき、
   棘(しば)の中の輝く焔の中に”神”が現れたまふ。

   モーセこれを見るに棘が炎に包まれてあるのにその棘燒けず。

   神言ひ給ふ

   『我必ず汝と共にあるべし。
    是はわが汝をつかはせる證據なり。
    汝、民をエジプトより導きい出したる時、汝らこの山にて神に事へん』と。


   モーセ神にいひけるは、

   「我イスラエルの子孫(ひとびと)の所にゆきて、汝らの先祖等(たち)の神、
    我をなんぢらに遣はしたまふと言はんに、
    彼等も其の名は何と我にいはば何とかれらに言ふべきや」


   神モーセにいひたまひけるは

   「我はありてある者なり」

   神またモーセにいひたまひけるは、

   「汝かくイスラエルの子孫にいふべし”我有り”といふ者、
    我をなんぢらに遣はしたまふと」(『出埃及記』

   これが唯一神なる實在者なる神のみ聲である。

    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/04/07 (Sun) 05:02:49


(1)《人間は外界に左右されては自由人ではない》

   外界にしばられている限りは
   人間は決して自由人だということはできないのである。

   吾々は外界を超えなければならないのである。

   内界によって外界を完全に支配することができた時にのみ
   自分が自分で自分の運命の主人公となったのである。

   今自分の肉体の力は如何に弱くとも
   それを本当の自分が弱いのだと思いあやまってはならないのである。

   本当の自分は 自己に宿る 「 久遠のキリスト 」 であり、
   自己に宿る 「 久遠の釈迦(しゃか) 」 であるから、
   すべての不幸をこえ、死をさえもこえる所の力をもっているのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786946.html(消滅)

・・・

(2)《欠乏を豊富にかえる思念》

   チャールス・フィルモァは 欠乏を満たすための祈りとして
   次の言葉を推奨(すいしょう)している。

   「 神はわが供給の本源であって、
   わがあらゆる事物に豊かなる供給を満たしたまうがゆえに、
   自分は最早(もはや)経済問題に
   何等(なんら)心配の感を抱かないのである。

   正直、迅速、能率、秩序等 経済上に必要なる一切の徳は
   神から与えられて
   わが経済は順調に進むのである。

   自分は量に於いても質においても
   凡ての有限の感じから解放されたのである。

   キリストの超無限の富は今わがものであるのである。
   自分はあらゆる点に於いて繁栄し隆昌しているのである。」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12212649.html (消滅)

・・・

(3)《人を審(さば)く心を棄てるための祈り》

   【 祈り 】

   【 神は“ 人を審くこと勿(なか)れ、
   人を秤(はか)りたる量目(はかり)にて
   また汝も審かれん ” と仰せられました。

   私は今後、決して人の善悪を現象の姿を見て
   判断しようとは思わないのである。

   すべての人間は “ 神の子 ” であり、
   悉く皆、神の善徳を、実相のうちに
   包蔵しているのである。

   私は常に人を観るに、その実相完全の姿のみを観て、
   感謝し礼拝し讚嘆するのである。

   それ故に、人もまた私を見るのに、実相の円満完全な姿のみを見て、
   私を賞め讚え礼拝してくれるのである。

   その結果、私には、常に一層実相の完全な相(すがた)があらわれ、
   一層よくなるほかはないのである。

   ありがとうございます。 】


   あなたが若(も)し人を見て、その欠点を見出し、
   それを批難し攻撃したい感情が起って来たならば、
   此の祈りを思い出しなさい。

   そして、“ 私は神の子 ” であるから、
   人を見るのに神の子なる実相のみを
   観ることが出来るのである。

   人の欠点を観て、それを攻撃批難しようという心が起って来たのは、
   これは私の“ 本当の心 ”(実相の心)ではない。

   それは“ ニセモノの心 ”であるから、
   そんな心の惑わしに引っかかる事なく、
   あの人の実相の完全を観る力を私は本来授けられているのである
   と思い返して

   あの法華経にある「 常不軽(じょうふきょう)菩薩 」のように、
   現象の姿を一時見ないために肉眼をとじて、
   心に相手の完全な相(すがた)を描いて
   心で礼拝し讚嘆するようにつとめなさい。

   屹度(きっと)相手たるその人の性格や行動に変化が起り、
   立派な人になって頂けます。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『今、あなたの想念次第で一切が一変する』

   すべての人に与えられた仕事は
   自己内部の完全なる実相を外部に表現するための
   “魂の研磨修練”である。

   それを他から課せられたる重圧だと考えるときは、
   それは重圧としてその人の生活に‘のし’かかる。

   それを自己を一層美しき姿に研き上げるための“恵み”として受けとれば、
   それは“恵み”に変貌するのである。

   それは想念は一切を変貌する力をもっているからである。

   人生を支配する秘訣は、今まで自己が単に受動的に受けていたものを、
   自己を能動的に働かして、自己が積極的に能作者となることである。

   自分が自分の主人公となることである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)昭和四十五年の革命への実力テスト

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【增上慢の實例を讀む】 

   天岫接三(あまくきせつさん)師の禪話の中にもこんな話がある。

   明治御維新の當時、京都の相國寺に越渓禪師といふ高僧があつた。

   日清戰争當時に外務大臣になつてゐた陸奥宗光の父に當たる人で、
   相當な儒者であった伊達翁が、偶々相國寺を訪れて
   越渓和尚に面會を求めて教へを請うた。

   「私は御承知かとも存じますが、儒學を修めたもので、道の何たるか位は
    一通りは心得てをりますが、禪の道はまた格別でございませうで、
    今日は一つ道の御話でも承りたいと思うて御邪魔致しました。」といつた。

   その刹那、和尚は何を思つたか、
   いきなり大きな平手で伊達翁の横面をピシャリと打たれた。

   これは儒學という先入觀念でいつぱい頭に詰め込んでいて、
   何でも道の事なら知つてゐるといふ增上慢の心が見え透いた
   伊達翁の初對面の挨拶だつたからである。

   「一つ道の話でも」などと、“でも附き”で
   悟りの話を聴かして貰はうといふやうな處に
   越渓和尚は我慢がならなかつたのだと思はれる。

   “道”といふものは番茶でも飲むやうな輕い氣持で聴くものではないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)神は名前を付けて限定することはできない

   神は本來”無名”であり給ふ。

   神は絶對者であるから、限定しがたきものである。

   若し名前を付けたら、名前の表現し得る内容にしたがつて、
   それだけ”神”を限定してしまふ事になるのである。

   だいたいモーセが神のお名前をたづねたことが、
   まだ彼が”神”を人間と對立的にある存在だと見てゐた
   モーセの妄想からである。

   もっとも棘の燃えずしてしかも輝く焔の上る靈光の中から
   神はモーセに語り給ふたのであるから、モーセにとつて見れば、
   その神は、自分の外にあつて自分に對立してゐる神であり、
   多神教的に色々の神々の中のひと柱の神であると感じたのも無理はないのである。

    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/04/08 (Mon) 05:03:20


(1)《神と共に戦う者は平安なり》

   困難に面して自分の力を以(もっ)て戦うと思うな。
   自分の力で戦うと思うものは、
   力が尽きてしまって結局 挫折してしまうのである。

   自己の内に宿る神の力に頼る者は
   永遠に挫折するということはないのである。

   ここに無我全托(ぜんたく)の全勝である秘密があるのである。

   自分が謙遜(けんそん)になった時にのみ
   神は力を与えて吾々を支え給(たま)うのである。

   神は常に自分を護(まも)り給い 幸福にし給い、平和を与え給うのである。
   どんな困難が来た時にも 自分の力で それに対抗しようと思ってはならない。

   「 吾 神と共にあり、吾 神と共に生く、何をおそれんや 」 と
   念じ乍(なが)ら進むが好(よ)いのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786986.html(消滅)

・・・

(2)《感謝の念は供給を増す》

   チャールス・フィルモァは 『 心の原子爆弾的力 』 と題する書のなかで、

   『 我らが既にもてるもの、又は神の子として我々自身に期待し得るものに対して
   感謝する言葉は、唯(ただ)の一語でも、神の無限供給の本源より
   豊かなる供給を発掘する力があるのである 』 と云っている。

   それをメリー・ルーイズ・キュープファール女史は 註釈して、
   その感謝の実践は 「 什一税の実践 」 が最も好いのであるとしているのである。

   什一(じゅういち)税と云うのは 自分の収入の十分の一を神に感謝の意味で
   献げることなのである。

   その什分の一を献納することも
   慾ばる心や、単に機械的に行うのでは可(い)かぬ。

   真実感謝の念が伴わなければならないのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12215673.html (消滅)

・・・

(3)《“ 神は愛なり ” の祈り》

   【 祈り 】

   【 私は“ 神の子 ”である。神は愛である。
   私の内に神さまの愛を実現するセンターがあるのである。

   それ故に私はすべての人間に対して、常に愛行を怠らず、
   愛行を実践するたびに生き甲斐を感ずるのである。

   ありがとうございます。 】

   生き甲斐というものは、自分自身が本来の生命の姿そのままに、
   それを歪(ゆが)めることなく、曲げることなく、抑える事なく
   発顕(はつけん)せしめ得たときに感じられるところの
   内部的“ 自覚感情 ”である。

   『 生命の實相 』の“ 生活篇 ”の中に一国の王子に生まれて、
   物質的には何不自由なく、求めて得られざるものとてもない
   裕(ゆた)かなる環境条件の中で育ちながら幸福感が得られないで、
   いつも悒鬱(ゆううつ)な顔をしているので

   父王(ふおう)が心配して、

   この王子の心を幸福感に充たされ生き甲斐を感じるようになるように
   善き智慧をかしてくれたる者があったら、褒美(ほうび)の金は望み次第だと
   いう布令を出したら、色々の案をもって来る者があったが、いずれも落第で、

   最後に最高の案をもって来たのは一人の魔法使であったが、
   彼は一枚の「あぶり出し」の白紙を置いて去った。

   それを火の上にかざして炙(あぶ)ると、その白紙にあざやかに、
   「 毎日必ず誰かに深切を施せ 」 という文字(もんじ)があらわれて来た。

   王子はそのように実行すると、生き甲斐の悦びが感じられ、
   顔は幸福感に充たされて悦びに輝いて来たという
   例話(れいわ)が書かれている。

   「 深切を施す 」ということは“ 愛 ”を実践することであり、
   神は“ 愛 ”であり、“ 神の子 ”たる人間の本質も“ 愛 ”であるから、

   愛を生活に生きるようにしたとき、
   自己の生命の本質を完全に生きることになるから
   生き甲斐が感じられて来るのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『あなたの家庭を天国に致しましょう』

   自己が自己の絶対的主人公となるためには、
   自分自身を“肉体”と称する物質的存在ではないと知り、
   自己の生命の実相を、一切のものの上に君臨する“神”の生命が、
   今自己に天降って顕現しているのだと知ることが必要である。 
 
   あらゆる“場”又は境遇又は環境は、自己の実相なる完全さを、
   より一層明らかに開顕するための道場であると信ずるがよい。

   何物もあなたを害する者はないのである。

   若し何らかの摩擦が、周囲の人々との間に起るならば、
   金鉱の荒鉱を精錬して純粋の“金”として
   光を放たらしめるための手続きが行われつつあるのである。

   父母・舅姑・兄弟姉妹。小姑・その他すべての家族は
   悉く自己の魂にとって先生であり、
   色々の教訓を与え給うているのである。

   このようにみずからが、自分の自由意志で想いを旋らし、
   一変するとき其処がその侭天国となるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243
・・・

(5)共産革命は甘い平和国家が樹立される事ではない

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【伊達翁に越渓和尚の痛棒の意義】 

   越渓和尚に頬ぺたをシタタカ擲られた伊達翁は、
   驚いて思はず室外に飛び出したが、無念でたまらず、
   自分は主君三代に仕へて來た武士であるのに、
   未だ嘗て主君からさへ一指を添へえられたことがないのに、

   この和尚の無禮、武士としての面目、もはや容赦はならぬ、
   斬つて捨てようと刀のツバに手を掛けて、
   今にも老師の室へ斬つて入らうとする姿勢である。

   これを見た一人の弟子の僧が、

   「何事か存じませぬが、お茶でも召し上がつて落ち着いてお話をすれば
    分ることだと存じますから、どうぞこちらへいらしてください」と
   茶の間へ案内し番茶を汲んで出した。

   伊達翁がその茶を飲もうとして、口の辺りまで持つて行つた時、
   その僧は伊達翁の、茶碗を持つた手の方の着物の袖を何気ないふりをして
   引くと、腕が振るえて、茶がこぼれて畳の上は一面茶の海となつた。

   その時、僧は、

   「先ほど一寸うかがへば、あなたは“道”の何ものか位は一通り
    心得て居られるとの事でしたが、承りませう。如何なるか是れ道?」

   と禪問答を仕掛けて來た。

   伊達翁は四書五經中のどの句を持ち出して答へようかとアクセク考へたが、
   急に適切な文句が見付からない。

   それで答へずにいると、僧は、

   「如何なるか是れ道?」と更にたたみかけて問ふ。

   さう畳みかけられたのでは、却つて返事が出來ないのである。
   すると、僧は、

   「甚だ失禮ですが、私共の“道”をお目にかけませう」というかと思ふと、
   手近にあった雑巾をとつてこぼれた番茶を拭ひ終わると、

   「私共の“道”はこれであります」といつた。

・・・

(7)”ヱホバ神”の本當の意味について

   神はその時、「我有り」といふ者が自分だと答へられたのである。

   英語聖書では「我有り」と和譯された部分をI AMと英譯されてゐるのである。

   すべての人に、物に、宿り給ふI AMこそが、
   「我有り」(われは實在者なり)といふ”神の本體”なのである。

   即ちすべての人に物に宿り給ふ「内在の神性」が「我有り」なのである。

   ヘブライ語では、この「我有り」といふ語をYahowah(ヱホバー)と言ふので,
   神はモーセの問に答へて「ヱホバー」と言ひ給うたのである。

   人々これを勘ちがひして「ヱホバ」といふ固有名詞の名前の付いた神だと思つて
   「ヱホバ神」といふ個別的な神にしてしまつたのである。

    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/04/09 (Tue) 05:01:42


(1)《自分が無くなり神に全托すること》

   吾は 今 神の無限の力に信頼 して、
   すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。

   私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
   私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。

   私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
   自分の生命を神に全く うち任せたのである。

   ‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
   それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。

   「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
   いい給うているのが それが神であるのである。

   神にすべてをまかす吾は強いのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html (消滅)

・・・

(2)《神と一体となりて仕事をするには》

   神にすべての仕事をゆだねよ。

   神にすべての仕事をゆだねると云っても
   自分が何事もなさないと云うことではないのである。

   自分が神の力の流れ出(い)ずる
   パイプとなり出口となると云うことである。

   何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
   数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
   疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。

   すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。

   すべての仕事を神に導かれ為すところの
   自己向上の途(みち)であると思ってなせば
   楽しく好成績に順潮に運ぶのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html (消滅)

・・・

(3)《わが家を天国浄土にする祈り》

   【 祈り 】

   【 わたしは今、静かに神の御前(みまえ)に座して神想観を修し、
    自己に宿り給う生命の本質が“ 神 ”であることを自覚するのである。

    神われに在り給い、われ神の内にあるのである。
    内外ともに神であり、私は神と一体なのである。

    神は善であり、全智であり、全能であり、無限愛であるから、
    愛に背くもの、智慧に背くもの、善に背くものは
    何一つ此の世に存在しないのである。

    神と一体である自分が今住んでいる我が家は
    まことに“神の国”であり、天国浄土である。 】


   あなたは平和を求めるとき、調和を求めるとき、
   そして一切の不調和を消し去って、
   自分の住む世界を天国浄土とならしめたい時、
   上のごとく念ずるがよいのである。

   そして自己の全生活と、全心身とを神の中に投げ入れ、
   没入させるがよいのである。

   更に自分の家族たちに何か不完全に見えることがあるにしても、
   人間的知恵をもって、
   その不完全の存在を認めてそれを匡(ただ)そうとしないで、

   神の叡智の導きにそのまま委(まか)せ切って、
   神のおはからいにその人間又は問題を完全にお預けするとき、
   神にまさる知恵はないのであるから、どんな問題もスラスラと解決し、
   どんな人間も、神の子の実相があらわれて善化するに至るのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

・・・

(4)『この世界は想念の展開である』

   私たちの見渡すところ、一切の家、家具、什器、衣服、食卓にある食物、
   自動車、電車、飛行機等ことごとく、
   想念によって現在の形になっているのである。

   人間の想念の通りに、物質が形をかえて
   人間に利用される姿となっているのである。

   想念は万物を変貌する驚くべき力をもっているのである。

   戦争も平和も、破壊する力も、建設する力も
   悉く想念の顕現ならざるものはないのである。

   現代の人間社会の生活状態は、その社会の棲む
   すべての人々の想念の集結であるということができるのである。

   時代により、人種によって、文化が異り、生活様式が異るのは、
   その時代又は人種一般の想念の相異によるのであって、
   形の世界は、単に其の想念の状態の影に過ぎないのである。

   あなたの生活が現在不幸であるならば、
   それはあなたの過去の想念の投影が
   現在の時間空間面に映っているからに過ぎない。

   あなたの未来を幸福にしようと思うならば、
   今直ぐあなたの想念に「幸福」を描くことにすべきである。

   そしてその「幸福」の想を持ち続けなければならない。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)【労農階級専制の軍国政府】

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【“道”は常住坐臥の生活に在り】

   正しい信仰は正しい日常生活となり、「謙りたる愛行」となるのである。
   茶がこぼれたら、きれいに拭き取るのが正しい日常生活であり、愛行である。

   そこに「日々是れ好日」がある。

   ”道”は邇(ちか)きに在るのである。

   イエス・キリストは、弟子の足を洗つたのである。

   常住坐臥、行届いたる愛行の中に“神”があらはれるのである。

   みずから高く傲慢に上がる者は墜され、
   謙りて自己を低くするものは却つてあげられる。

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=819809

・・・

(7)舊約の靈媒的豫言者にあらはれたるヱホバ神

   舊約聖書には、多くの”靈”が「ヱホバ神」の名を用ひて
   諸々の豫言者に靈媒的現象を起させて豫言をしてゐるのである。

   その豫言の中には正しいものもあれば、荒唐無稽なものもある。

   「本當の神は靈媒にはかからぬ」のである。

   しかし時にはある階級の正しき高級靈が、
   宇宙不遍の「唯一神」の神意を受けて、”唯一神”の名のもとに
   神意を傳へるところの正しき預言を語ることがある。

   それは、勅使が、一天萬乗の天子の御諚を携へて來て
   天使の名に於てその御諚を朗讀するのにも似てゐるのである。

   だからそれらの預言には、實際、神意を傳へてゐる部分も多いのである。

    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/04/10 (Wed) 04:43:11


(1)《感謝と祝福の日》

   吾は今日 感謝を以て この日を始めるのである。
   この日は 神に祝福されたる日である。

   よきことの外(ほか)は決して自分にはやって来ないのである。
   悪(あ)しきことは存在しないのである。

   神は吾を祝福し給うのである。
   その如(ごと)く吾も亦(また)すべての人を祝福するのである。

   わが住む世界を祝福し 人類を祝福し、国家を祝福し、社会を祝福し、
   両親を祝福し、夫又は妻を祝福し、子供を祝福し、
   部下を祝福し、召使を祝福し、凡(あら)ゆるものを祝福するのである。

   吾すべてのものを祝福するが故(ゆえ)に
   神の吾に対する祝福は実現するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13793097.html(消滅)


・・・

(2)《「天上天下唯我独尊」の意味と自覚 》~『光の泉』(昭和33年4月号) 

   人間というものは、“オギァー”と産まれた時に、生じて来たものであると、
   こう思っている限りには、“死すべきところのもの”なのであります。 
   生じたものは滅しなければならないというのが、自然の法則であります。

   だから吾々が“死なない道”を発見しようと思ったならば
   “生れない道”というものを発見しなければならないわけであります。

   その “生れない道” を釈尊が発見されたのが 「生すでに尽きたり」 であります。 
   その時に 『天上天下唯我独尊』 と言われた。

   『天上天下唯我独尊』 というのは、
   わしが一番偉くなって他の奴は皆馬鹿だという意味ではないのであります。

   それは、総ての時間空間の、そういう束縛の世界から解放されて了って
   何物にも縛られない完全自由のものになったのだから、 

   『天上天下何物も私を縛るものがない、実に素晴らしき尊い存在が私である』 
   のであるということをお悟りになって、その境地を 『天上天下唯我独尊』 という語で
   表現なさったわけであります。

   その語を自分だけの 『独尊』 という意味にとるといけません。

   キリストでも 『自分は神の子の一人子』 と言って居りますけれども、
   一人という名辞がついているから、キリストだけが “神の子” で、
   他の人は皆「罪人」 だといわれているように思う人もあるかも知れませんけれども、
   そうじゃないのであります。

   釈尊が 『独尊』 と言われたその一人というのも矢張り決して 
   “わたしひとりだけが尊い” というのでは決してないのであります。

   『人間は神の子であって、総ての人間が尊い』 という自覚のお持ちになった上での、
   その『一人』は、結局生きとし生ける者を蔽い包んで居るところの 
   『全体者』 としての自覚ですから、釈尊の 『独尊』 ということも、

   キリストの 『神の一人子』 ということも、自分だけが一人尊い
   ということじゃないのであって、自分が一切のものである。 

   自分が悟れば一切が悟るというような自他包容の 『独尊』 の自覚であります。

   だから釈尊が悟りを開かれた時に、
   『山川草木国土悉皆成仏』 とこう仰せられたのであります。 
   山も川も草も木も、国土も、悉皆、悉くみな “成れる仏” であるというのであります。

   『独尊』 といわれたのだから 『一人だけ尊い』 のかと思ったら、そうじゃないのであって、
   万物が皆 “成れる仏” であるという自覚があります。 
   これが本当の 『独尊』 の自覚であります。

    http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19577838.html (消滅)

・・・

(4)『あなたは自己の運命の創造者である』

   あなたは今何を考えていますか。

   一日のうち明るい事を考える時間が多いですか、
   暗い事を考える時間が多いですか。

   人を憎みとがめる想いを起す時間が多いですか。
   感謝し、讃嘆する想いを起す時間が多いですか。

   そのあなたの想念があなたの性格を決定し、
   あなたの人生の在り方を決定しつつあるのです。

   運命は、決して
   他の人又は神に支配されているのではないのです。

   自分自身が刻一刻、自己の想念によって
   自己の“運命”と名づける自分自身の肖像を
   彫刻しつつあるのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)純情な青年学生のために歎く

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【十日のことば~神心(みこころ)を行ずる者のみ神の國に入る】

   傳道に熱心な玉井洋子さんから愛行実踐のお手紙を頂いた。

   この事は後に書くが、
   哲學は理論を追つて眞理に到達しようとするのであるけれども、
   宗教的信仰は生活に愛を実踐して、
   自己の生活に“眞理”を實現するのである。

   “眞理”とは“道”の事である。

   キリストは「吾は真理なり道なり、生命(いのち)なり」といつてゐられる。

   実踐の伴はない信仰は、イエスの言はれたやうに
   「中うつろにして大きく鳴るラッパの如し」である。

   又イエスは「主よ、主よという者必ずしも神の國に入るに非ず、
   天に在す父の御心を行ずる者のみ神の國に入る」と
   喝破してゐられるのである。

   眞理の説法を幾ら上手にしても自分の生活に愛行を伴はないならば、
   まことに「中はうつろにして大きく鳴るラッパ」に過ぎない。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)「われは何々である」といふ通りにあらはれる

   モーセが、棘の燃ゆるが如き靈光の中にあらはれた神に對して

   「その神樣のお名前は何と傳へたらよろしうございますか」とたづねたのに對して、

   神は「我有り」(I AM)とも言はれたが
   「我有りて在る者なり(I AM that I am・・・・)」

   と先ず答へられてゐるのである。

   これは

   「われは心の法則として汝の内に宿るところのものなり」

   といふ意味なのである。


   (I AM that I am・・・・)を直譯するならば、

   「我は” I am sick”(私は病氣です)」と言へば
   病氣の姿を以てあらはれるものであり、

   ”I am son of God”(われは神の子”である)と言へば
   ”神の子”の完全な姿をもつてあらはれるところの
   唯心所現的實態であるといふ意味である譯である。

   だからわれわれが言葉を使ふ場合、
   「われは何々である」といふ其の”何々”を
   「立派なもの」に定置しておかなければならない。

   われわれは言葉を慎んで、
   苟くも惡を表現する言葉を慎まねばならないのである。


   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/04/11 (Thu) 05:01:11


(1)《神の智慧と調和が満ちている》

   神の智慧は 到(いた)る処(ところ)にみちみちているのである。
   神の智慧は 調和であり、平和であり、智慧であり美であり、繁栄である。

   その同じ智慧が自分の内にも宿っているのである。
   その同じ調和と平和と秩序と美と繁栄とが自分の内に宿っているのである。

   外にあるそれらと 内にあるそれらとは、唯(ただ)一つの神から
   来たるものであるが故に、決して衝突するということはないのである。

   内外一環、吾は 富と健康と幸福との世界に押し進めらるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13798254.html(消滅)


・・・

(2)《“迷いの心” は何処から来たか》~『白鳩』昭和40年4月号

   人間は神の最高の自己実現であるから、本来健康なのである。 
   虚弱とか病気とかいうものは “迷いの心” のあらわれにすぎないのである。

   ではその “迷いの心” は何処から来たのかというと、 
   “迷いの心” という‘もの’があって、それが何処かの国から旅行して
   此処にやって来たというものではないのである。

   それは自己が “神の子” であり、 “神の最高の自己実現” である
   という霊的実相を自覚しない ‘あらわれ’ である。

   それは心が半覚半睡の状態に於いて夢を見ているようなものである。 

   その夢の中に於いて “病気” を現実として見、
   不幸を現実として見、災害を現実として見る。 

   そして夢が醒めない限り、夢中の人にとってはたしかに病気その他の
   一切の悪も不幸も現実であって、いくらそれは非存在だといわれても、
   非存在だとわかる筈はないのである。

   『無門關』 の第九則に 
   「大通智勝如来は十劫の間道場に坐禅して尚悟りをひらかなかったのは何故であるか」 
   の公案があり、 「‘彼が’悟りをひらかざるなり」 ということが
   その公案の解決となっているが、

   人間は全能全智 〈大通智勝〉 の “本源仏” または “神” の
   自己顕現であっても、みずからがその瞼を開かないで実在を見ないでいる間は、
   非存在の “夢中事実” を実在だと見るほかはないのである。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18550487.html (消滅)


・・・

(4)『あなたを神の最高の自己実現なりと想念せよ』

    劣等感を棄てなさい。

    自己を「劣等のもの」だと想念すれば、
    自己が“劣等の者”となり、
    自分の子供を「劣等のもの」だと想念しつつづけるならば、
    あなたの子供は、その想念の表現として“劣等のもの”と
    なるのである。

    それゆえにあなた自身を、そしてあなたの良人を、
    あなたの子供を、優秀にして卓越せる立派な者だと
    想念することによって其の通りになるのである。

    そしてこの世界で「最も優秀にして卓越せる立派なもの」とは
    「神」であるから、その神の子又は「神の最高の自己実現」だ
    と想念することによって

    あなた自身も、あなたの良人も、あなたの子供も、
    素晴らしく立派なものになることは当然なのである。

    http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)革命が完遂すればどんな国家ができるか

   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【六波羅蜜に就いて】

   釈尊が悟りに到る六つの道として示されたる六波羅蜜といふのがある。

   即ち布施・持戒・忍辱・精進・禪定・般若の六徳目であるが、
   その中でも、外に対し、衆生に対して
   積極的に働きかける愛行は、最初の布施である。

   其の他の五つの徳目は、自分自身の内的修行である。

   即ち戒律を守り、よく耐え忍び、精進努力を惜しまず、禅定を修して
   精神をよく整へ、般若の叡智の悟りの境地を開くのである。

   しかし布施はよく衆生に積極的に働きかけて自分以外の人々を救ふのである。
   それ故に六波羅蜜の内で最第一に位置されてゐるのである。

・・・

(7)一遍上人の語録は素晴しい

   最近『念佛信仰の神髄』と題する善い本が谷口清超宗教論集の
   完結集(第十二巻)として出たのを讀んだ。

   一遍上人の法語の神髄を解説した眞理の書であるが、
   序文よりも本文が素晴しい。


   ”決定(けつじょう)往生の信たらずとて人ごとに歎くはいはれなき事なり。
   凡夫のこころには決定なし。決定は名號なり。しかれば決定の信たらずとも、
   口にまかせて稱せば往生すべし。是の故に往生は心によらず。
   名號によつて往生するなり。”

   といふのが一遍上人の法語の一節である。

   「口にまかせて稱せば往生すべし」といふ事があり得るのは、
   人間の本體はI AMであり、
   「南無阿彌陀佛」(英語で譯せばアイ アム ナミダブツ)といへば、
   自分自身が阿彌陀佛になつてしまふのである。

   往生極樂がこの身此の儘、今實現するのである。

   名號の秘密神通力ともいふべき不可思議力は、神は「唯心所現の法則」として
   萬人に宿つてゐられるのであるからである。

   兎も角一遍上人の語録の清超先生の解釋を幾度も心讀して
   自己に宿る秘密神通力を悟られるがよいと思ふ。


   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/04/12 (Fri) 04:58:16


(1)《自分は愛を放射する》

   神は自分に於いて最高に自己顕現し給うのである。
   神は愛である。
   自分は神が放射し出す愛の中心点であるのである。

   光の射(さ)す所が明るくなる様に、
   吾の行く所は 又 愛にみたされるのである。

   自分は愛を放射するが故に
   吾が周囲には 愛が自(おのず)から集って来るのである。

   吾は 神の愛が出現する為の出口であるのである。

   されば今日より後、私は決して人を憎まないのである。
   人をさばかないのである。

   唯 人を愛することのみを行ずるのである。
   人の幸福になるようにのみ実践するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13798311.html (消滅)

・・・

(2)《法爾自然》~『光の泉』昭和34年4月号

   《法爾自然 ― 無我になったら天地ひろびろ》
 
   悪業の循環をたち切る方法は、一跳、躍入して仏と一体となるか、
   つぐないのための苦行をするとか、いろいろあるのですけれども、
   天理教では因縁を切るには 「我が身忘れて“ひのきしん”」 と言われていますね。 

   “ひのきしん” というのは、公けのために自己の損得を考えず毎日の勤労を寄進する、
   奉仕する、と云うことでありますが、寄進というのは捧げ物をすることで、
   「愛を与える」 「生命を与える」 そうして公けの為に尽すということでありまして、
   必ずしも天理教に入って労働奉仕せんならんということはない。

   どんな宗教でも、「救われる根本原理」 ― すなわち、自分を縛っていた悪業の鎖を
   断ち切って本来の自由自在の実相をあらわす原理は同じことなのであります。 

   我が身のことをわすれて日毎日毎に愛行をすることであります。 
   我が身を忘れて、すなわち 「無我」 になって愛行するのです。


   「自分」 というものが、“がん” と掴まれておって、
   それが原動力となって悪業というものを起こしているんです。 

   すなわち、好き、嫌い、惜しい、欲しい、口惜しい、残念、憎い、原が立つ ・・・・ 
   まあいろいろありますが、「我」 という仮りの本体があって、それが憎いとか、悲しいとか、
   嬉しいとか、欲張り根性とかいろいろの心の波をこうおこしているのですから、

   この 「我」 という本体を否定して、「無我」 だと悟れたら、
   業の本体が消えるから、業の循環も消えるのです。 もう業がないんです。 
   それで 「我が身忘れて」 ということが大切なのであります。 
   「わしが」 「わしが」 と云うその 「わし」 というものがなくならんといかんのです。


   世界の争いの因は 「わしが」 「わしが」 という自己中心の心であります。 
   アメリカでも、ソ連でも、「わしが」 「わしが」 と言っている。 
   わしの得になるように。 わしの領土がひろくなるように。 わしが儲かるように。 

   わしの権威を損じやがったから承知できぬ。 というようなことで、
   原水爆やミサイルをつくって、互に威脅し合っているのであります。

   「わし」 というものがなくなってしまったならば、天地はひろびろとしたものであって、
   何事も衝突するものもなければ摩擦するものもなくなる。 
   自分がなくなるのですから、天地宇宙と一体で、ふらっとしている ― 謂わば、風来坊ですね、
   それがその侭なんですよ。


   此の間も白鳩会で 「『法爾自然(ほうにじねん)』 の四字を
   先生がよく掛軸に書いて下さるが、一体どういう意味ですか話して下さい」 
   とたずねられたのでありますが、

   「法爾」 の “法” は 「宇宙に満つる真理」 ですね。 
   「宇宙の法則」 と言ってもよろしい。 「天地を貫く法則」 ですね。 
   これが神だというわけですが、「宇宙の大法そのままに」 と云う意味が 
   「法爾」 であります。

   「爾」 は 「そのまま」 「さながら」 と云うことです。 

   神は宇宙に満つる無限の智慧であり法則であって、一箇の人体を考えてみましても、
   四百兆もある細胞が集団している複雑な此の人体組織をひとつも矛盾せぬように、
   ちゃんと調和さしている所の “法” 即ち “則” というものが宇宙にみちているのです。 

   だからこの世界のことを法界と言う場合もあります。

   その宇宙の大法というものにね、自分がぴったりと一つになって、
   その 「思い」 や 「行為」 が自然に調う。 
   これが 『法爾自然』 であります。


   此の宇宙の大法と一つになろうと思ったならば、
   「自分」 という 「我」 の塊があったら決して一つにはなれません。 
   「自分」 という塊がとけてしまわなければならない。 

   ミキサーにかけるように、「自分」 と云う塊を完全に融かして壊いてしまった時に、
   宇宙の実相の円満な智慧と一つになることができるのです。

   宇宙の智慧というものが、どんなに円満なのかと言いますと、
   一個の人体をとって考えてみましても四百兆もある人体の細胞が複雑に組織されて
   オートメーション的に、少しも狂いなく運転している
    ― そういうすばらしい構造を編み出した智慧であります。

   その素晴しい智慧は、単に人体だけではない、宇宙の森羅万象、あらゆる物象の中に、
   そしてまた吾々の日常生活のいろいろの出来事の中に、網の目をひいたように法則が
   張りわたされて秩序が保たれてあるわけであります。

   世界における出来事は一見混沌としているようだけれども、
   原因結果の法則の下に、実に秩序整然と運行しているのであって、
   自分の播いた種は必ず穫り取らねばならぬようになっている。


   その宇宙の中に張りめぐらされた因果の法則の中に 
   「わしが」 という固まりが出来たら、それが衝突のもとになり、
   その衝突が連鎖反応を起こして、無限に原因結果が循環するのであります。

   だから 「原因結果の法則」 による 「悪業の循環」 から逃れようと思ったら、
   「わしが」 という固まりがなくなってしまって、天地に充ち満ちている完全な 「実相」 
   の智慧そのままの中に融けこんでしまって、その侭働くのです。 

   これが 『法爾自然』 の動きです。

   『法爾自然』 というのは、実相の完全な法さながら、真理そのままに、
   自然に動きでることであります。 動かないんじゃないのであります。 
   動かなければいけません。 しかし 「我」 で動いては駄目です。 
   天地の法そのままに、実相の智慧そのままに動くのであります。


   すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで 
   「我」 の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。 

   「祈り」 又は 「神想観」 によって天地の智慧の中に没入し 「我」 と云うものが無くなり、
   天地自然の智慧と一つになって動き出したら、何事でも調和した姿に現れてくることは
   間違いがないのであります。 

   併し祈ったり 「神想観」 すると言っても、
   動かないで祈っておったらいいというわけではありません。 

   祈り且つ神想観をすれば、心が整って、実相の智慧と一つになるのです。 
   実相の智慧と一つになって、そこから 自然法爾 (じねんほうに) に動き出そうという
   内からなる “催し” が自然と湧いてくるのです。

   その内からなる “催し” に素直に従って、その導きのままに行動するという所に
   信仰が行動化して運動化し、そこに実相の完全さが、その行動を通して実現して来る
   ということになるのであります。

   http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19215269.html (消滅)

・・・

(4)『朗報は常に内から来るのである』

   あなたの容貌もあなたの想念なのである。

   毎時、毎分、刻々思う感情が
   あなたの表情に鋭敏にあらわれる事はご存じの通りであります。

   常に晴れやかな精神をもっておれば、
   その明るい精神があなたの容貌に刻まれて、
   あなたの容貌を魅力ある晴やかなものにします。

   表情だけではありません。

   此の世界には 『類を以て集る』 という法則がありまして、
   あなたの身辺に“明るい内容”をもった出来事が呼び寄せられて
   あなたの運命を明るいものにしてくれます。

   結局、外界は内界〈心〉の投影であって、
   朗報は外から来るように見えても実は内から来るのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)レーニンの革命聖典『国家と革命』より
 
   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【眞理の宣布に會場を供養すること】

   布施はよく愛他行として他を救ふのであるが、その救ひ方に、
   物質又は財貨を施して救ふところの、”物施”と、

   他に眞理を施してよくその魂を救ふと共に、
   日常生活を支配する心の在り方を眞理に則らしめて、
   相手を根本的に救ふところの“法施”とがある。

   眞理を施すのには、
   眞理を口誦する場所即ち道場又は會場を施すところの供養と、
   眞理を説くところの聖典・経典・書籍・雑誌等を布施する
   ところの供養とがある。

   ここで、玉井洋子さんが白鳩會の支部として
   自宅を供養せられる事にした報告の手紙の一部を引用する。

   『合掌ありがとうございます。私の白鳩支部の発会式を三十一日に致しました。
    尾形先生も御招きしましたら御夫妻で来て下さり大変お世話になりましたと
    私に御礼を申して下さり又、御自分の入信体験も少し話して下さいました。

    法貴先生にも今まで白鳩でお世話になりました御礼に
    一月号「白鳩」を又千部配本させて頂きました。

    配本も百部一括と同じように組織の力を使いましたならば
    早くそして全東京に配本できますことを常々思います。

    学校時代の恩師は御祝においしいお茶沢山下さいました。
    また妹は早くから手伝ってくれ横山会長を車でお送りしてくれましたので
    助かりました。

    発会式には他の支部に属していらっしゃる人が応援に来て下さるようですが
    人様の力に頼るまいと決心いたしましたからいままで最寄りの会に
    来て下った人たちの他に新しい人をお一人でも多くお誘いすることに
    しましたので全く初めての人三人も来てくださいました。

    新しい人の中に佼成会の人もいられお揃いで来て下さいました。

    その人は伝導員のような役をしておられるそうです。

    腰が痛くて、医者に通っているとの事でしたので
    翌日御礼に行ってお話をしましたところ人工流産児が
    八人あり死産児が一人あるとの事でびっくりしました。

    今迄伺った中で五人という人があり驚いておりました。
    それからお兄さんのところは大分大きくなった女の子を堕していて
    自分はその子を見たと仰いますので生長の家の供養をして頂きました。

    また「甘露の法雨」をお見せしましたら読んでよいかしらと仰るので
    曹洞宗でありながら佼成会のお経を読んでおられるのだから
    「甘露の法雨」も大丈夫ですよと申しますと明日から「甘露の法雨」も
    あげると約束してくださりそれを買ってほしいとお金を渡されました。

    ほんとに有難い事でございます。

    近所に少し知恵遅れの幼児を持たれる若いお母さんがあります。
    おすすめしましても”この子は平等の権利があり四、五年先には
    それが認められて平等になる。
    私たちはその仕事で毎日忙しい”との事です。

    神の子の話をしましても”次元が違うのです”とおっしゃいますので
    それ以上おすすめいたしませんでした。

    この辺りはキリスト教代田教会、天理教、
    共産党、公明党の支部がありますので
    私も益々がんばらなくてはと思って楽しく張り切っております。

    合掌再拝   

    二月九日             玉井洋子

    谷口輝子先生』

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)自分が阿彌陀佛になり切る

   一遍上人の語録には、

   「決定といふは名號なり。わが身わが心は不定なり。
    身は無情遷流の形なれば念々に生滅す。心は妄心なれば虚妄なり。
    たのむべからず」

   とある。

   身は無情であつて常に變化して念々に
   その細胞は死滅して新生細胞にとつて代られる。

   そんな肉體の腦髄から生じた”心”なんて他愛もない。
   ニセモノの心である。

   そんな心で信心して極樂へ生れるとか、
   そんな肉體の唇で稱名をしたところが何の役にも立たぬ。

   變化無情の”非存在の者”が信心しようが稱名しようが、
   そんなことで人間が極樂往生できるわけではない。

   そんな虚妄の體を捨てなければ本物が出て來ないといふのが
   一遍上人なのである。

   體を捨てていのちぜんたいが名號そのものになり切る。

   自分の實相が阿彌陀佛であり、
   その實相即ち名號が名號を稱へて阿彌陀佛に成り切る。

   これが即得往生極樂なのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/04/13 (Sat) 04:55:11


(1)《自分は画家、環境は画布である》

   吾は 神の生命の自己実現の中心である。

   吾々の周囲に自分を妨げる様に現われている所の事物は、
   決して自分を妨げるためにあるのではなく、
   それは画家のカンバスが画家の前に現われて 画家をして美しき絵を
   その上に描かしめんがためにあるのと同じことである。

   吾々は自分の前に立ちふさがるすべてのものを 自分を表現する所の
   カンバスであると思って 感謝すればいいのである。

   自分の心が美しくなれば そのカンバスには美しき境遇が描かれ、
   自分の心が豊かになれば 豊かなる境遇が描かれるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13804727.html (消滅)

・・・

(2)《“神らしくなる” こと》~『白鳩』(昭和40年4月号)

   人間が “神らしくなる” ということは、
   物質的なもの、時間空間的なものに支配されなくなり、
   必要に応じて超時空的能力を発揮し得るということであり、

   罪の観念に縛られて自己を自縄自縛しなくなることであり、
   自己処罰しなくなることである。

   その人は物質的なものに縛られなくなるために、
   経済的の変動で、一時、株が暴落するようなことがあっても、
   必ずそれは反騰するものであることを知って心が動揺しないことであり、

   また大いに儲かっても、それは神の愛の実現であるとして
   私的使用に浪費することなく、公けなることに
   悦んで献げ得る心境であるということであり、

   時間に束縛せられないから、愈々多忙にして疲れることなく、不平なく、
   忙中なお閑を蔵して悠々神想観をなし、愛行を重ね得ることである。

   自己処罰をしなくなるということは、
   自然に災害の起るところに近寄らなくなり、
   みずから不幸をもとめて自虐状態に立ち到らなくなることである。


   “神らしくなる” ということの一つは、自己に “絶対価値” を求め、
   他と比較して自己を劣等であると考えないことである。

   たとえば自分の眼の形や鼻の形が、他の人々と比較して、
   大きすぎるとか、小さ過ぎるとか、高すぎる低すぎる
   とかいうことによって価値づけをしなくなるということである。

   すべての人間は、神の絶対美 〈超比較美〉 の個別化した
   自己表現であるから、その人でなければ表現できないところの
   比較を絶した美しさがあるということである。

   たとえば、美空ひばりにも、江利チエミにも、雪村いずみにも、坂本九にさえも
   神は、彼又は彼女でなけれならない魅力的な美を与えていられるのである。 
   ロダンの 「鼻欠けの像」 にすらすばらしい美が表現されているのである。

   “生命” は “神” であるから、“生命” の発現するところ
   必ず其処に素晴しい美が輝きいづるのである。

   あなたは何よりも自己の “生命” を溌剌と発揮しなければならない。 
   妻が生き生きと明るい美を湛えている家庭は常に幸福である。


   “神らしく” あるという事の一つの特徴は、
   その人が自然にそのまま健康であるということである。

   神は絶対健康であるから、あなたが毎日神想観を実修し、
   自己の実相たる 「神の生命の内在」 を心で見詰め、
   それを念じつづけている限りは絶対健康であるのは当然のことである。


   併し肉体は 「心の影」 であるから
   周囲の人々との間に “心の世界” に摩擦や憤りや憎しみや
   反感や嫉妬や恨みがある場合は、その感情の蓄積が或る程度以上にたまると、
   それが具体化して病気の形をもって自壊して行くことになるのであるから、
   周囲り人々と和解し、調和し、すべての人に物に事に
   感謝するようにしなければならない。

   神想観のとき、あらゆる人に物に事に愛念を送り、
   感謝の念を送るようにしなさい。 
   それが絶対健康を得るもとになります。

   http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19195431.html (消滅)

・・・

(4)『毎朝このように念じて幸福になりましょう』

   あなたは毎朝 「私は神の子だから、今日は必ずよい事が来る」 と
   2.30遍念じてから、朝食をとるなり仕事にかかるように
   するならば、あなたの運命は屹度幸福にならざるを得ません。

   その反対に、 「今日も亦何か悪い事がくるかも知れない」 と
   眼が醒めた瞬間から考えて、毎日を始める婦人が多いのは、
   「想念は力であり、想うことはあらわれる」という
   心の法則を知らないからであります。

   次の如く朝の出発〈起床直後、又は食前の祈り〉に念じましょう。


   『わたしの家庭は神の子の家庭であります。

    常に青天の太陽の光が照り輝いている如く、

    神の愛が照り輝き、すべての人が神の智慧に導かれています。

    各人の幸福と希望との成就は

    神によって導かれている私達の決定的運命であります。

    毎日の神の護りと神の導きとに感謝いたします』

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)何故、全学連が警官を傷つけるか

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269


・・・

(6)【眞理は與へるほど殖えるのである】

   眞理の宣布にその集會所となる家、座敷、室等をある日を定めて
   供養すること位は六畳敷或いは八畳敷の御部屋と、
   誠心と深切があれば誰にでも、出來ることなのである。

   そこに眞理の宣布の據點がつくられ、據點がつくられるだけ
   多くの人たちが救はれることになるのである。

   誌友相愛會でも、既に多数の誌友を自分の管轄区域を持つてゐる人は、
   その誌友會を分蘖(けつ)して、熱心な誌友の御宅を供養して貰つて、
   そこに眞理の法燈を掲げる別の據點をつくることが大切である。

   自分ひとりで多勢の誌友を自分の管轄下において、
   自分の相愛會の教勢が今は盛んなのに、
   「これを分蘖しては損が行く」などと思ふのは間違である。

   「與へれば與へられる」といふ法則は、
   眞理宣布の會場や據點を多く與へれば與へるほど、
   その報いが自分の功徳として天の倉にたくはえられ、
   やがて時期が來て現象的にも報はれる時が來るのである。

   會場を独占したいと思つたりして、
   誌友の傳道範囲を束縛してはならないのである。

   獨占欲といふものが、
   どんなに人生に災ひをつくつてゐるかは、
   人生到る所にその實例が見られるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)大信心は佛性の發顕である

   その事を一遍上人は、

   「我が體を捨て南無阿彌陀佛と獨一なるを一心不亂といふなり。
    されば念々稱名は念佛が念佛を申すなり」

   と説かれてゐる。

   これは親鸞聖人の和讃に

   「信心よろこぶその人を如來と等しと説き給ふ。
    大信心は佛性なり。佛性すなわち如來なり」

   とあるのと同じである。

   ―― 即ち佛性が大信心を起すのであり、
   その佛性とは自己に宿る如來である。

   如來が念佛して如來の實相があらはれるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/04/14 (Sun) 05:00:41


(1)《人間には四つの体がある》

   吾々が自己表現をとげるためには
   色々の食物(たべもの)がいるのである。

   肉体を養うためには 物質的食物がいるのである。
   吾々の魂を養うためには 魂の食物がいるのである。

   人間は 色々の波動の体の合成体であるのである。
   肉体もあれば、エーテル体もあり、幽体もあり、霊体もあるのである。

   その奥に本当の自分なる 「 実相 」 があるのである。

   吾々は 画家が色々の絵具(えのぐ)を以(もっ)て絵をかく様に、
   色々の 「 波動の体 」 を以て 人生に絵をかくのである。

   吾々は 肉体は 「 本当の自分 」 ではないが、
   それを浪費することはいらないのである。

   画布や絵具を浪費してはならぬと同じように。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13815379.html (消滅)

・・・

(2)《悪を否定し善を肯定する審判》~『白鳩』昭和47年4月号

   聖典の読み違いがあってはいけない ― 悪を否定し善を肯定する審判
 
   ある誌友が肺結核をわずらっていたが、
   『生命の實相』 の “人間無病の哲学” に触れて癒された。 

   そこで歓喜し報恩のために、この人は地方講師の試験をうけて、人々を指導し、
   かれによって救われた人もたくさん出て来たのであるが、

   此の人はある日キリスト教の聖書の 
   『マタイ伝』 にある山上の垂訓を読んだのである。 

   それにはこのように書いてあった。

   「なんじら人を審くな。 審かれざらん為なり。 
   己がさばく審判きにて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。 
   何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか」

   これを読んだとき此の人は心が痛んだのであった。 

   この人は病人を指導する際に、「あなたの此の心の持ち方が悪い」 といって
   その心の欠点や感情の歪みを指摘し、それを是正させることによって
   多くの病人を癒して来たのであった。

   併し爰には、イエスは 「なんじ人を審くな」 と教えていられる。 

   「審く者は審かれるのだ。 私は神の審判をまぬがれることは出来ない」 
   かれは斯う思うと、もう人を指導することが出来なくなり、
   心が自責に満たされてどうすることも出来なくなった。 

   そしてその後は心が内向的になり陰気が内に篭るようになり、
   それが肉体に具象化してついに肺結核の虜となって死んでしまった。


   これは聖書の読みちがい、意味のとり間違いから来ているのである。 

   自分の立っている心の立場から見て、
   自分ひとり善しとして他を批難攻撃する場合は、
   その審きはよくないのである。

   それ故に 「何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、
   おのが目 〈自分の見る立場〉 にある梁木を認めぬか」 
   とイエスは続いて説いていられるのである。

   「ここは正しい道ではありません」 と真理の立場から
   盲目の人の歩む道を正しく導いてやる審きは、神の愛のあらわれなのである。

 
   人を審判いてもよい場合があるのである。

   それは梁木が視界を曇らせている自分の心の目で見ないで、
   真理の輝く目で 〈真理の立場から〉 見て、

   これは真理、これは非真理と審判するのは、
   善と悪とを明瞭にし、実相と仮相とを区別し、

   悪が 「われ存在す」 と主張するのを、
   「悪を神はつくらないから、如何に悪があるかの如く姿を
   あらわすとも、汝は存在しないぞ」 

   と審判を下す。

   これこそ正しい審判であり、イエスは常にこの種の審判を為し給い、

   ラザロの 「死」 があると自己主張するときも、「死せるに非ず、眠れるなり」 と 
   “死” を否定する審判をすることによって、
   ラザロを復活せしめたりしていられるのである。

   そして最も正しき審判は 「キリストの再臨による最後の審判」 であるが、
   この 「最後の審判」 についての正しき解釈は  
   『秘められたる神示』 の本の中に詳しく書いたから参照せられたい。

   http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18921530.html (消滅)

・・・

(4)『信仰には中断は禁物である』

   あなたの家庭は、毎日一層幸福となり、
   家族は毎日一層健康に元気となり、
   家業は益々一層繁栄するように決定されているのです。

   何故なら、あなたの明るい言葉の祈りが毎日行われるとき、
   その1日ごとには明瞭ではなくとも、片栗粉に湯をそそぐように、
   その祈りの“明るい想念”が蓄積せられて、
   やがて必ず片栗粉が透明になるように、
   あなたの運命は目に見えぬうちに既に好転しつつあるのだからである。

   しかし片栗粉に湯をそそいでも、
   最初の数滴の湯では透明にならないというので、
   途中で湯を注ぐことを中断しては、最初に注がれた湯は無駄になる。

   信仰と祈りは中断せず、
   毎日持続(つづけ)するところに効果を発揮するのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)何故、左翼新聞はこうして世論をデッチ上げる

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【胎児虐殺の怨念はどうなる】              

   玉井洋子さんのお手紙を見て驚いたことには
   「人工流産児が八人あり、死産児が一人ある」
   といふやうな婦人があつたといふことである。

   しかも、その婦人がある新興宗教の傳道員のやうな役職を
   持つてゐる人だといふのに、その殺した胎児の霊魂を
   祀つていなかつたといふので私は驚いたのである。

   流産児には戒名をつけて位牌をつくり、祭祀してその靈の冥福のため
   聖經を讀誦してあげなければ、その人工流産児の怨靈がその母体たりし
   婦人の近邊に執著によつて漂うてゐて色々の禍を為すものである。

   その事をその新興宗教では知らないのか、
   知つていてもその婦人だけが実行しないのか知らぬが、

   こんな婦人が日本國中にはたくさんあつて、戰後、堕胎罪が罰せられない
   やうになつて以來、約五千萬人の胎児が殺されて子宮から引き出され、
   小間切りにして棄て去られてゐるのである。


   ルパング島に残つてゐるたつた一人の元軍人を探し出すために
   多勢が動員され巨額の費用が使はれてゐるといふのに、

   吾々生長の家以外の人たちは毎日五千人以上の胎児が殺されてゐる現實を
   意に介しないといふのは、靈界と現實界の關係を知らないからだと思ふ。

   知らないで犯す罪には歯止めがないから、
   知つて犯す罪よりも重いのであつて、
   誠におそろしい事なのである。

   “公害々々”といつて、一酸化炭素や亜硫酸ガスや窒素酸化物が空中に
   “何とかPPM”とか、人體許容量以上に含まれてゐるとかいつて
   戰々恐々としているが、

   五千萬人の殺された胎児の怨念が、鬼哭啾々として悲しみと、
   呪いの怨念をもつて日本列島を覆つていて、それが無數の禍の原因と
   なつてゐるのに、その公害の怖ろしさを知らないで、
   堕胎自由の法律を改めようとしないのも、まことに遺憾なことである。

   しかしその内に、吾々の努力が實り、
   堕胎のむつかしくなる法律改正が行はれることになると信じてゐる。

   吾々が生長の家政治連合(略称・生政連)を結成して
   國会に吾々の代表を送らうとした最初の動機の一つは、
   この目的を達成する為であつた。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)瓦礫は磨いても寶石にはならない

   本来、如來でない者がいくら念佛しても如來になれるものではない。
   本來寶石でない瓦礫はいくら磨かれても寶石にはなることは出來ない。

   寶石のみが寶石になれるのである。

   如來のみが如來になれるのである。

   人間は本來如來なのである。

   念佛は如來がするのである。
   如來が念佛して、如來の實相があらはれるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/04/15 (Mon) 05:04:32


(1)《相手に従う者が相手を支配する》

   人間が現在のように環境を支配することができたのは
   環境に対して その他の生物よりも適性をもっていたからであるのである。

   適性をもつということは
   自分が すなおに相手に従って適して行くということである。

   即(すなわ)ち
   すなおに相手に対して従うもののみが 相手を支配し得る実例である。


   喬木(きょうぼく)は 風に弱く、柳の枝は 風に折れないのである。
   かたいものが弱く、軟いものが強いのである。

   悪に抗せず、環境に逆わず、そのまますなおに
   凡(あら)ゆる環境に従い乍(なが)ら、
   その環境が与うる所のよきものを吸収する時、
   その人は 遂に環境を支配して主人公となるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817799.html (消滅)

・・・

(2)《何故、組織に参加するのか》~『白鳩』(昭和47年4月号)

   一人の人の “信仰” 又は “信念” という “心” の力は、
   その人の周囲に影響を及ぼすのである。 

   しかし、その影響範囲には限度があるので
   自分の受持区域以上に達しなかったという例がある。

   それ故に各人は各人それ自身の心相応の運命を受けるのであって、 
   「戦争は無い、戦力はいらない。 本来、実相に於ては敵はないのだから」  
   と‘その人’が信じ、その‘念ずる人’の数が少なければ、
   日本全体にその “心の平和” の影響を具体化することはできないのである。

   だから同志同信の人々を殖やすために組織をつくり、
   団体の心の力が協同して、世界平和に貢献しなければならないから、
   読者諸氏には、単なる読者になるだけでなく、
   組織の中に入って協力して下さいと御願い申上げるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18455330.html (消滅)

・・・

(4)『祈りの持続の目的は人間の魂の向上にある』

   祈りをつづけることは単に家族の健康がよくなり、
   成績が上昇し、家業が繁昌するというだけではなく、

   人間自身の実相の完全さがあらわれて来て人格が向上し、
   祈る人その人自身の魂の“神らしさ”があらわれて、
   毎日一層「人間そのもの」が輝いてくることになるのである。

   これこそが祈りの本当の効果であり、目的であって、
   現象的な利益などは、本当は単なる随伴的功徳に過ぎないのである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)北朝鮮の米艦拿捕事件の教えるもの

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【機縁が熟する時まで肥料を與へて待ちませう】 
        
   玉井さんの近所に、少し知恵遅れの幼児を持つている
   若いお母さんがあつて、生長の家をお勧めしても
   “次元がちがうのです”といふお答へだつたといふことであるが、
   本當にこんなお母さんは、吾々と次元のちがふ世界に
   住んでゐられるのであらう。 

   吾々は、”心の法則”や“靈の法則”の世界に立つて
   人生を見てゐるのである。

   しかし、この知恵遅れの子どもを持つ若いお母さんは、
   「平等の権利」だとか、法律上の世界や、物質社会の中でのみ
   生活していらつしやるのでその物質世界の生活が、
   もうどうにもならないやうに行き詰まつて來るまでは
   “靈的な世界”や ”心の法則の世界”へは振向いて來られないのであらう。

   悲しい事であるけれども、縁の熟するまでは、
   果物はその果樹から落ちては來ないのである。

   しかしすべての人間には佛性が宿つてゐるから、その人にも、
   やがて時期が熟して佛性が現實に開顕する時が來ると思ふ。

   “縁なき衆生”はないのである。
   まだ機縁が熟しないだけであつた。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)妄念が念佛して何の甲斐もない

   谷口清超氏の『念佛信仰の神髄』には、一遍上人の

   「・・・・・我よく意得、我よく念佛申して往生せんとおもふは、
    自力我執がうしなへざるなり。

    おそらくかくのごとき人は往生すべからず。

    念不念・作意不作意、總じてわが分にいろはず、
    唯一念佛に成るを一向専念といふなり」

   といふ語録を引用して、

   ”罪人である「私が」「念佛を」申して「往生せん」と
    思ふやうなバラバラの信仰ではない。
    そのやうな信仰は自力我執であつて本當の他力絶對の信仰ではあり得ない。

    「私が」「念佛する」といふ場合には、
    もうその「私」なるものは「念佛」と離れた「私」である”

   と説いてゐられる。(『念佛信仰の神髄』参照)

   一遍上人によれば我執のある肉體人間が念佛しても、それは何の甲斐もない。

   「妄執は所因もなく實體もなし」と説いてゐられるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/04/16 (Tue) 04:49:16


(1)《神は無限の表現である》

   吾々は 常に変化する環境の中に住んでいるのである。

   その変化に最も適する様に対応することができるためには
   自分の心に 「 こりかたまり 」 が あってはならないのである。

   自分に 「 こりかたまり 」 があっては
   自由自在に変化することができないから
   適応性を失ってしまうのである。

   善に捉(とら)われれば 善も悪となるのである。
   悪に捉われて悪から はなれることのできないものは
   滅びるしか仕方がないのである。

   神は無限であり、吾(わ)が内に宿って、
   無限の表現を欲しておられるのであるから、
   いつも同じ様なことばかりは出て来ないのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817900.html (消滅)

・・・

(2)《戸締りをせず、相手を誘惑するようなスキを造るのは罪悪である》
    ~『白鳩』(昭和47年4月号)

   戸締りの錠が破られて盗賊が侵入しないのは、
   やはり 「力のバランスの原理」 によるのである。 

   “力のバランス” が破れて、盗賊の方の錠前をねじ切ったり、
   巧みなる合鍵を操作したりする力がすぐれていたならば、
   盗賊は忍び入って、その家の財宝を盗むことになるのである、 

   戸締りの錠前がチャチな脆弱なものであっては、
   強力な錠破りの専門家の賊にかかっては何の役に立たないのである。 
   それは “力のバランス” の物理的関係である。

   さらに、戸締りを全然しないで、玄関の格子戸があいた侭で
   外出したりしているような場合には、盗みの常習犯でなくとも、
   一寸その格子戸の中を覗いてみたいような誘惑を感じ、

   中へ入って見ても誰もいないのに、其処に立派な宝石でも
   置いてあるのが眼につくと、思わずそれがほしくなって、
   それを懐に入れて走り出すかも知れない。 

   これは 「戸締りしない人」 の方に 
   「盗心を誘い出した罪」 を犯した過ちがあるのである。

   戸締りをしないことは、そのような業を発動せしめる
   環境をつくることになるのであるから、
   やはり丈夫な戸締りは必要なのである。 

   軍備もその意味に於て、
   相手に “国土を盗みたくなる” 業 〈空地領有本能〉 を
   発動せしめないために必要なのである。 

   スキを自宅 〈又は自国〉 につくって、そのスキから
   侵入したくなるような本能を誘惑することは寧ろ罪悪だと
   いわなければならないのである。

   単に、一人一人の心の中だけで 
   「相手国は平和国家だから決して侵入しない」 と念ずるだけの事で
   平和が保てるような甘い考えは間違いである。 

   そう言えば 「念ずる通りにあらわれる」 「想念は現実の母」 
   などという “心の法則” や “唯心所現の哲学” は単なる
   机上の空論なのかと反駁して来る人があるかも知れないが、
   これは決して机上の空論ではないのである。

   全世界に平和を “心の力” でもち来たすためには、
   全世界の殆ど全部が 「この世界は神につくられた世界であり、
   人間は皆 “神の子” であって互に兄弟姉妹であるから
   決して侵し犯されるような事はない。 敵というものは存在しないのだ」 
   という深い信念をもつようにならねばならぬ。 

   全人類のそのような深い信念の具象化によってのみ、
   全人類の世界に永久の平和がもち来されるのであって、
   全人類がそのような信念に到達するには、まだまだその時期は
   今後さらに遠き未来に属することなのである。

   全人類がまた心中に仮想敵をもっている限りは、
   その信念の具象化として戦争も起り、防衛のための軍備も必要なのである。

   全人類の大多数は今も、仮想敵国、又は潜在敵国というものは
   存在するのであるから軍備を忘れてはならないという信念
   をもち続けて来ているので、

   日本を除く世界各国は悉く 「その国の独立と平和のためには
   国防のための軍事力を保持することが不可欠である」 という大前提の下に、
   防衛の方法や軍備力の規模などが国民的論議の対象となっていて、

   それについて国会で予算を計上することを当然のこととしていて、
   それを 「軍国主義だ」 などといって、
   国内でも国外で批難されることはないのである。

   「非武装平和論」 をとなえる社会党にしても、
   やはり心の中に 「敵」 とか 「戦争勢力」 の存在をみとめていて、
   アメリカを戦争勢力であるといい、ソ連や中共を平和勢力であるという

   不可思議な対立抗争の観念をもっているのであるから、
   やはりそのような対立抗争の観念又は信念の具象化として、
   いつの日か、何処かに戦争が具象化することは “唯心所現” の法則として
   避けることは出来ないのである。

   そして戦争が不可避であるとするならば、戦力の乏しい方が敗けて、
   みじめな目を見るのは当然であるのである。 

   戦争が将来起る可能性がある限り、防衛のための兵器による戦力が必要であり、 
   「非武装平和論」 など何の役にも立たないことが明かなのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25639827.html (消滅)

・・・

(4)『“神らしくなる”ということ』

   人間が“神らしくなる”ということは、
   物質的なもの、時間空間的なものに支配されなくなり、
   必要に応じて超時空的能力を発揮し得るということであり、

   罪の観念に縛られて自己を自縄自縛しなくなることであり、
   自己処罰しなくなることである。

   その人は物質的なものに縛られなくなるために、
   経済的の変動で、一時、株が暴落するようなことがあっても、
   必ずそれは反騰するものであることを知って心が動揺しないことであり、

   また大いに儲かっても、それは神の愛の実現であるとして
   私的利用に浪費することなく、公けなることに悦んで献げ得る
   心境であるということであり、

   時間に束縛せられないから、愈々多忙にして疲れることなく、
   不平なく、忙中なお閑を蔵して悠々神想観をなし、
   愛行を重ね得ることである。

   自己処罰をしなくなるということは、
   自然に災害の起るところに近寄らなくなり、
   みずから不幸をもとめて自虐状態に立ち到らなくなることである。

   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=243

・・・

(5)【充分な軍備は戦争を抑止する】

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(3)【環境破壊は自分の心の影である】 

   『浪漫』といふ日本精神の文藝總合誌がある。
   その三月號に新日本製鐵の副社長藤井丙午氏と評論家の福田恒存氏との
   對談が出てゐる。

   どちらも私の尊敬する人であるが、近頃”公害云々”と旺んに呼ばれて
   起業家を責める論議が多い中で、
   福田恒存氏は次のやうな事を話してゐられるのである。――

   「コロンビア大学で日本文学を教えているドナルド・キーンさんと
    話したことがあるんですが、非常に皮肉なことを言っていましたよ。

    日本人が自然を大切にするということを私は信用しませんよというんです。

    昔の話ならどうか知らないけれども、現代ではたとえば箱根山へ行くと
    美しい乙女峠から富士が見えるところに
    紙くずや弁当の屑がヤマを為している。

    まさに山国、山を為すです。

    それから、大磯の海では自然を本当に楽しんで
    海水浴をやっているかと言えば、
    浜にやぐらを組んでスピーカーで流行歌を流している。
 
    こういう日本人が自然を愛するというのは信用できないというんです。

    ところが、そういう人たちに限って、
    ある企業が公害を出し環境汚染をやると、むきになって怒る。

    自分たち一人一人が自然をほんとうに愛している気持がないのに、
    企業にだけそれを期待する。

    或は政府にだけ期待したり、地方自治体に期待する。

    ですから、私は日本人自身の内にも、個人個人の内に、
    ほんとうに文化というものが大切だという観念が
    なくなっているんではないかという疑問を持っているんです」

・・・

(7)地獄も極樂も自分の心の中にある

   妄執が念佛に執著して極樂へ往かうと思つても
   「所因もなく實體もない妄執」が極樂へ行かれる譯はない。

   妄執や執著がなくなつたとき、そこに極樂があるのである。
   念佛妄執で、念佛に執著して他宗と喧嘩してゐる宗教家もある。

   その喧嘩の心の相が修羅の妄執であり、
   修羅道に墜ちてゐるのだといふことが出來るし、
   その互に責め合ふ相が地獄の有様であり、
   地獄に墜ちてゐるといふ事も出來るのである。

   責め合ふことがなくなり、妄執に縛られなくなつたとき
   そこが極樂であるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/04/17 (Wed) 04:58:55


(1)《凡ゆる環境は自己表現の好機会 》

   吾は 凡ゆる機会を自己表現のチャンスであるとみるが故に
   如何(いか)なる変化をも恐れないのである。

   吾は 常に よろこぶのである。
   吾は 如何なる環境に対しても
   自己表現の機会であるとして感謝するのである。

   画家は自分の写生する景色が常に同じ景色であっては
   完全に自己表現をとげることができないのである。

   だから色々の景色の所へ でかけて行って それを写生するのである。

   それと同じ様に 吾は自分を迎えてくれる凡ゆる境遇(かんきょう)を
   自己表現であるとして感謝するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817989.html (消滅)

・・・

(2)《軍備・戸締り論》~『白鳩』(昭和47年4月号)

   “敵” と見るから、相手が “敵” としてあらわれて来るのであって、
   実相に於ては敵はない、すべての人間はみんな “神の子” で、
   互いに兄弟姉妹であるから侵入して来る敵もないから、それを防ぐ軍備は必要ではない。 

   軍備は必ず敵を仮想しての上であるから、敵を想えば敵が出て来る。 
   だから敵を想わず従って軍備をつくらず、これが最高の国防である。  
   それなのに生長の家で軍備の必要を説くのは自己矛盾ではないか
    ――  という投書もある。

   実相観に立てば、いちいち御もっともなことばかりであるが、
   それは全世界のすべての人々が敵を観ないで、 「みんな “神の子” の兄弟だ」 
   という実相だけを観得る境地になり得たときに軍備は不要となる。  

   そのような時が成るべく早く来るように吾々は 
   「みんな神の子」 の実相哲学をひろめるのに懸命であるが、
   いまは、まだ “時” 到らず、機熟せず、人至らず、所を得ずである。

   なかなか日本国内だけでも互に敵視して、
   権力の争奪戦、利欲の争奪戦をやっているのである。 

   もし国内に警察というものが無ければ、
   治安の維持が出来るかすこぶる疑わしいのである。


   たびたび言い古された問題であるが、 
   「軍備・戸締り論」 というのがある。 

   もし戸締りがなく、門戸に錠をおろさずに自由に這入れるようにしておいたら、
   人は誘惑を感じて戸内に入って見たくなり、其処に財布でもあるのに目がついたら、
   ついにその財布を自分のふところに入れて持って来たくなり、
   却ってその人に “盗み” の罪を犯さしめるに至るのである。 

   だから “取締り” をつくらない事が実相の完全さをあらわすことにならず、
   取締りを造って、侵入の誘惑を感ぜしめないようにして置くことこそ
   実相の完全さをあらわす 「勝方便」 となるのである。

   軍備というものは、凡ゆる力と形とがバランスを得て大調和し、
   互に侵す者なき実相の世界を現実にあらわすための方便として、 
   「力のバランス」 を得さしめるために必要なのである。 

   バランスが崩れるとき、現象界には実相世界の調和が消え、
   破壊と混乱が生ずるのである。

   実相の調和せる世界は、中枢に統一意識の中心 (神) は在まし、
   形のバランスを得、力のバランスを得、
   そこに微妙な美しい美を実現せる世界なのである。 

   その実相世界の美しき構図を現象世界に実現し、
   それを現実化するためには、形のバランス、力のバランスを得た構図が
   地上に実現することを要するのである。

   形と力のバランスが得られたとき、そこに実相的構図の美が展開し出ることは、
   生花の構図が、中心があり、中心に帰一しつつ、
   枝や花や葉の形と力のバランスが得られて、抜き挿しならぬほどに
   精巧なバランスが完成しているとき、その生花は傑作だと言い得るのである。

 
   それと同じく、人間同志の関係や、国際的な国家と国家との関係も、
   形と力のバランスが得られてこそ、実相世界 (天) の美を反映した
   現実界 (地) として、調和せる世界を実現し得るのである。 

   これが “御心” が天になるが如く地に成らしめることなのである。  
   それならば、この現実界も形のバランスと、力のバランスが得られることが
   必要なのである。  それは看易き道理である。

   国際的に形のバランスと、力のバランスの得られた状態こそ、
   実相世界の映し絵としての現実世界だということが出来るのである。 

   実相世界の映し絵として国際的に形のバランスを得るとは、
   国土の形とか、領土の形というよりも、
   世界各国の政治形態のバランスが得られることである。

   隣国と力のバランスを得しめるための軍備というものは、
   このような意味に於て “神の御心” にかなうものであり、
   是非その維持が必要なのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/25635026.html (消滅)

・・・

(5)【日米安保条約はこの通り必要である】

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【衆生病むが故に國家病む】

   福田氏が傳へたコロンビア大學の日本文學教授の、

   「日本人は自然を愛していない」といふ批評は、
   現代の日本人にとつては痛い警告である。

   自然が破壊されて公害が出て來るのは、
   何も當該企業だけの責任ではないのである。

   維摩経には「衆生病むが故に吾れ病む」といつてゐるが、
   多くの民衆の心の状態を反映して、
   そのやうな企業が民衆歡迎されるがために、
   そのやうな生産會社が出現して來たのである。

   吾々の住む世界は、
   吾々多數者の心の投影として姿をあらはしてゐるのである。

   災害を起してゐるやうな會社は「病める會社」である。

   しかもそのやうな會社の存在がある時期には日本國民に求められて、
   そのやうな会社が出來たのである。

   會社が病んでゐるのは、
   その會社を生み出した國民の心が病んでゐるのである。

   國民が自然を愛するよりも金銭を愛した。
   そして自然を犠牲にして
   今二百億ドル程の外貨を保有して困つてゐるのである。

   衆生病むが故に國家病むである。

・・・

(7)極樂とは場所ではない

   一たい極樂とは如何なる境であらうか。

   それは一定の面積を持つた場所の事ではないのである。

   完全に繋縛から脱して、
   何にも縛られなくなつた自由解脱の境なのである。

   極樂は場所ではなく境涯である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 05:02:10


(1)《相手が自分を苦しめるのは自分の心の不調和が因(もと)》

   自分が誰かと不調和な状態になったり、
   誰かが自分を苦しめると思えるようになった時には
   それは自分の心の影であるから自分の想念感情を振りかえって見て反省せよ。

   自分自身の心がおだやかとなり、
   自分自身の態度が相手に調和する様になった時、
   相手は自分にとって味方となってくれるのである。

   相手がたとい利己主義であっても それに対して腹を立て、
   攻撃しては 相手の利己主義は治らないのである。

   自分が彼を愛してやり、自分が彼に感謝してやることによってのみ
   彼の利己主義は治るのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825912.html (消滅)


・・・

(2)《軍備は国家の威厳である》

          *「真理」第9巻生活篇(P126~127)より

   「予想する」と云うことは一種の「祈り」である。
   不幸や災厄や戦争や病気を予想することは、
   それらの不祥事を起るように祈っているのと同じことである。

   「軍備は戦争を予想するから却って戦争を招く」と主張する者もあるけれども、
   「国家の威厳」として軍備をととのえるとき
   「その威厳によって、決っして他国は自国に侵略などしてくるものではない」
   と云う信念が湧いて来るならば、軍備は決して戦争を予想することにはならないのである。
 
   軍備と云うものを、ただ戦うためのものだと考えることは間違いである。
 
   軍備は女郎蜘蛛や毛虫が毒々しい色をしているために鳥類からの
   捕獲をまぬがれるのと似ている。

   鳥類が昆虫をとろうと思えば、毒々しい色彩などは何ら防禦の実力はないのであるが、
   それがあるために一種の威厳を備えていて、小鳥は此らの蜘蛛や毛虫には近寄ることを
   敢えてしないのである。

・・・

(5)アメリカの報復水爆はこうして日本を守っている

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【神國日本の實相は金剛不壊】

   ある國家を愛する熱情の靑年から、こんなお手紙を頂いた。

   こんな青年ばかりが日本の國民の中の大部分を占めてゐたら
   その心の反映として、公害もなく、自然もむやみに破壊されず、
   日本國はもつと立派になつたらうと思ふのである。

   その手紙に曰く。――

   「現下の日本の情況を眺める時、
    日本国弱体化の目論をもって施行された現憲法は、
    その害毒をもって、日一日と日本国の生命を蝕みつつあります。

    谷口先生の切なる憂国とは裏腹に悪化の一途を辿る如き状況にあり、
    多くの愛国者、有識者の悲憤慷慨は、
    生長の家の全信徒においても変りなきことだと思います。

    だが、小生が最近感じますことは、
    憂国のあまり、多くの誌友、同志の中には
    悲壮な、絶望的な気持に陥入り、

    そのために、時として先生の説かれている
    重大な真理を見失っている時があるのではないかと感じられます。

    その真理と言いますのは、
    「神国日本の実相は金剛不壊」であるということであります。

    先日拡大首脳者会議の席上で、

    「共産党は黴菌みたいなもので、本当は存在しないのだ。
     それは、吾々の心の中に共産党なるものが存在する
     のであって、その自分の内にある共産党を取り除くことによって、
     無いものは消滅してゆく」

    という意味のことをお説き下さいましたが、

    吾々は、日本国実相顕現の運動を展開するにあたっては、
    この事を肝に銘じ、強力な活動を展開せねばならないと考えます。

    そこで、この本当は無いところの、バイキンみたいな共産党を
    旗頭とした闇の軍勢を消滅させるには、

    “無いものは無い!”とはっきり認識し、
    同時に、実在するもの、真の「日本国の実相」を
    強く認識肯定しなければならないと考えます。

    丁度それは
    「闇があるかの如く見えても、それは光の非存在であるという
     消極的な状態でしかない」とお説き下さっている如く、

    共産主義という闇が、日本にはびこるのは、「日本国の実相」という光が、
    不完全にしか現れていないことだと思われます。

    この事を感じる時、現下の日本の情況化の中で、吾々が今、
    最も強烈に認識しなければならない事は、

    「神国日本の実相は金剛不壊」であるという絶対事実を、
    強力に認識せねばならないことだと思います。

    如何に共産革命を防御しようと必死になりましても、
    吾々の中に、共産党を旗頭とする、闇の軍勢を撃退し得るだけの
    ”光”を持っているかどうかが問題であると考えます。

    この事は、我々一人の中に如実に、
    大日本帝国(仏教の説く蓮華蔵世界=大日輪なる国土)が、
    絶対の肯定として把握されているかどうか、これこそが、
    赤き思想の闇に対して、断固撃退し得るところの“光”であると信じます。

    (こういう信念が実際活動する時の強力なエネルギー源になると信じます)」

    https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)”救はれる”といふこと

   一體、宗教的に”救はれる”といふ意味は如何なることであるであらうか。

   ”救はれる”といふことは、
   何ものにも縛られない自己解放を得ることなのである。

   色々の煩惱に縛られて自由を失つた状態のままで
   「罪ある儘で救はれる」といふ言葉に騙されて、

   たとひ「ここは極樂淨土です」と標札がたてられてゐる場所に入れてもらつても、
   その人の心がクヨクヨといろいろの俗世間の出來事に煩はされてゐる心を持ち、
   肉體の欲望に縛られて渇欲にさいなまれてゐるならば、

   いくら住む場所が淨土であつても、その人は「救はれてゐない」のである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/04/19 (Fri) 05:01:04


(1)《相手を自分の 「 好き 」 に強制してはならぬ》

   相手が自分の思う儘(まま)にならないとて
   相手を自分の思うままにしようと思ってはならないのである。

   人間は神の子であり、神は無限であり、凡ゆる人間に
   それぞれ個性ある表現を求めていられるのである。

   自分を彼たらしむることはできないと同様に、
   彼を自分たらしむることもできないのである。

   彼が彼であることが神さまにとっての 栄(さかえ)であるのである。

   「 彼を私の思う通りにならせて下さい 」 と祈るな。

   彼が神さまの み心によって設計せられた通りの道を
   進むようにならせて下さいと祈る時、
   彼は本当に善き人となるのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825964.html (消滅)

・・・

(2)《自然療能に感謝なさい》

   取越し苦労をやめなさい。

   脳髄で心配しないでも、脳髄なんか存在しない卵の間から、
   ちゃんと 「 神の力 」 は貴方(あなた)の身体のすべての
   内臓を設計し構造して来たのです。

   取越苦労するだけ、
   胃袋でも心臓でも肺臓でも働きが悪くなって来るのです。


   それよりも其の 「 神の力 」 を信じなさい。

   そして取越苦労をするひまに、寝ている間(ま)も忘れている間も、
   血を循(めぐ)らせ、消化をつづけ、呼吸をつづけさせていて下さる
   不思議な力に感謝しなさい。

   病気を思い出す暇があったら、その不思議な力を思い出して、
    「 今もその不思議な力が自分を生かしていてくれ、
   内部から自分を治しているのだ、有りがたい 」 と心の中で感謝しなさい。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12221336.html (消滅)

・・・

(5)不滅のものに生命を捧げよ

   古代エジプトは滅びたが、古代エジプト人の造ったピラミッドは滅びなかった。

   やがて、そのピラミッドも風化して崩れ去る時が来るにしても、
   ピラミッドを造った芸術精神はギリシアにもローマにも受け継がれて、
   やがて近代美術家の精神の中にも生きており、
   それは永遠の生命として人類の魂の中に脈打っているのである。

   滅びるものを追求するよりも、滅びないものにも生命を献げよとは、
   こういう意味である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【現象と實相とに就いて】

   「神國日本の實相は金剛不壊」といふ聖句は、長く生長の家の實相哲學を
   研鑽なさつた人には、説明を要しないでもよく理解されると思ふけれども、
   卒然としてこの句に觸れた人には意味不明瞭かも知れないと思ふので、
   少し説明しておきたいのである。

   “實相”といふ語(ご)は“現象”に相對する語(ことば)である。
   現象とは現はれている象(かたち)“である。
   現はれている象は常に變化するのである。

   變化するといふことは”先の象”が消え去り、
   ”後の象”が現れるといふことである。

   ”先の象”が消えるのであらうか。

   ”本當にあるもの”(實在)は消えることはないのである。
   實在しないで、ただ現れてゐるに過ぎないから消えるのである。

   日本も現象に於ては戰争に勝つたり、負けたり、
   領土が擴張したり狭小になつたり、常に變化して來たのである。

   これを“現象無情”といふ。

   仏教では“諸行無常”と謂ふのである。

   そして、そんな無情なものに心を捉へられて煩腦を起してはならぬと
   釈尊は教へられたのである。

   これを生長の家では「現象本來無し」と教へるのである。
   仏教の「色即是空」にも通じる。 

   物質的現象にあらはれている勝つたり負けたりする日本は
   ”本來ない、”空なるもの“なのである。

   その現象の奥に、勝つことも負けることもない
   常住不滅の神のつくり給へる
   本來清淨の金剛不壊の大日本帝國がある。

   これを稱して「神國日本の實相は金剛不壊」といふのである。

   ”是空”の否定を通して
   金剛不壊の實相の自覺による大肯定がなされるのである。

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)人間の”救はれる可能性”

   人間が少なくとも救はれる可能性があるならば、
   今は濁つて不透明な原石だけれども、その原石の奥底を磨けば、
   完全な光を發する寶石となる本質があるとのと同じやうに、

   人間の本質に、一見その不透明な濁つてゐると見える肉體的欲望の
   その奥に”本來救はれてゐる本質”があるからなのである。

   宗教といふのは、その”本來救はれてゐる本質”(即ち實相)をあらはすために、
   色々の修行又は行持を行はしめることによつて人々を導くのである。

   その導き方の相異によつて宗派が分かれて來るのであつて、

  「人間を救ふ眞理」が宗派によつて色いろ異なつてあるといふ譯ではないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/04/20 (Sat) 04:58:25


(1)《軽蔑(けいべつ)する心だけが軽蔑さるべきである》

   他(ひと)を軽蔑してはならないと同時に、
   自分自身を軽蔑してはならないのである。

   「 自己劣等観 」 が 凡ゆる罪悪の根源なのである。

   多くの罪人は 自分は まとものことでは生活できない
   という劣等観があるが故に罪を犯かしているのである。

   吾々はたとい失敗するとも、方向がまちがっていたと思えば
   直ちに光の方へすすめば好(よ)いのである。

   光は光を呼び、暗(やみ)は暗をよぶのである。
   過去に暗を歩いたことを悔(く)い悲しんで 暗の方ばかりを向いて
   ぐじぐじ呟(つぶや)いていても暗は消えないのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13834059.html (消滅)
・・・

(2)《健康を常に思い浮べよ》

   健康になろうと思えば、健康の想念を起さなければならない。
   想念は想念する事物を作るからである。

   だから健康になりたい人がどうしたら この病気がなおるかと、
   「病気」のことばかり思い浮かべているのでは、
   その病気は なおりっこはないのである。

   よろしく病気を思う心を放ち去り、

   「 神の無限の癒(いや)す力流れ入って
   光が暗(やみ)を消しつつあるかの如(ごと)く
   愈々(いよいよ)益々(ますます)健康が増大しつつあるのだ 」 と念ぜよ。


   この思念を毎朝起床時 及び 就寝時に、眼を閉じ合掌して念ずるのである。

   重態にて起きられない人は 寝床の中で合掌しても好(よ)いのである。

   又、随時、疲労を感じたときに かく念ずると健康回復に絶大な効果がある。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12224992.html (消滅)

・・・

(5)【吾らの永遠に生くる道】

   人間は肉体の中に生きているのではない。
   肉体はやがて滅びる。
   行為は滅びないのである。

   その人の業績は消えるかも知れないが、行為は次から次へと伝わって
   永遠に次の時代の人々を動かす力を持っているのである。

   あなたが何を為すかという事は、
   未来の世界をどのように動かすかという事につながっている。

   善き行為に、いのちを献げるがよい。

   それがあなたが永遠に生きる道である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

(6)【現象無常の奥にある常恒不變のもの】

   現象は常に變化する。

   例をもつて謂へば、あなたの肉體は“あなた”の現象である。
   それは假の姿であつて實相ではないから常に變化する。

   先の舊細胞は死滅して搬び去られ、
   次の新しき細胞がつくられて置き換はる。
   これを新陳代謝といつてゐる。

   變化するといふことは“先の象”が消え、
   ”次の象”が現れることであるが、

   “先の象” ”次の象”とが、全然異なるものであつたら、
   それは變化したとは言はないで、
   「別のものがあらはれた」といふのである。

   變化するといふことは“先の象”が消え、”次の象”が現れても、
   それは別のものではないといふことである。

   變化する奥に變化しないところの「常恒不變のもの」があつて、
   その”變化の象”は、その「常恒不變のもの」の現われに過ぎない
   といふことである。

   その現象の變化の奥にある「常恒不變のもの」を、
   そのものの實相といふのである。

   谷口は赤ん坊の時から八十歳の老人になる迄、
   その大きさから容貌から細胞の分量や、その配列状態に至るまで
   常に變化して來たのである。

   その變化にも拘はらず、この谷口は“同じ谷口”なのである。
   この變化しない常住の谷口を「谷口といふ人間の實相」といふのである。

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)華嚴の”三無差別”と白隠の”坐禪和讃”

   白隠禅師は、その”本來救はれてゐる人間の本質”について、
   その御作「坐禪和讃」の中に單的に次の如く説いてゐるのである。


     衆生本來佛なり 水と氷の如くにて

     水を離れて氷なく 衆生の外に佛なし

 
   衆生といふのは一般生類すなわち「生きとし生けるもの」を
   意味するのであるが、狭い意味にとると”人間たち”とか
   人類とかいふ意味である。

   時には”凡夫”といふ意味に使はれる語でもある。

   人間が救はれるのは、人間は本來佛であつて、
   はじめから救はれてゐる本質(實相)をもつからである。


   華嚴經には「心(しん)・佛・衆生・三無差別(むしゃべつ)」と説かれてゐる。

   ”心(こころ)”が悟れば”佛”となり、
   ”心”が迷へば”衆生”となるといふ意味である。

   佛といつても衆生が離れてあるのではないといふことである。

   このやうな場合には”衆生”は”凡夫”といふ意味につかはれてゐる。


   華嚴の” 三無差別”と白隠禅師の
   「衆生本來佛なり、水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に佛なし」
   とは一應一致するのである。


   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/04/21 (Sun) 04:20:28


(1)《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て
   生活せんことを期するのである。

   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は
   「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。

   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ
   人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html (消滅)

・・・

(2)《愛は神の癒す力を喚起する》

   愛は癒す絶大なる力をもっている。
   その反対に憎みは絶大なる破壊力を有しているのである。

   多くの人達の病気は何時(いつ)の日にか誰かに対して
   憎しみの感情を起して、それを赦していず、
   その念が鬱結(うっけつ)しているために起っているのである。

   先ずすべての憎んでいた人々を思い起して、心の中でその人を赦すべし。

   その人々を憎んだことを詫(わ)び、その人たちを祝福せよ。

   多くの病気は人を愛することによって癒されているのである。

   「 愛 」 は神であるから、 「 愛念 」 を起すことは、
   神の癒す力を揮(ふる)い起すことと同じ効果があるのである。

   人のみならず、仕事を愛することも亦、病いを癒す力がある。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12231413.html (消滅)

・・・

(5)【善き想念を行動化せよ】

   行為は想念及び感情によって動かされる。
   何よりも善き想念を持つことが必要である。

   しかし善き想念を持ちながら、それを行動しないときは、
   折角の善き想念も、墜落してグリーンランドの海底に沈んだ
   水爆のように力がありながら、その力は埋没したままとなるのである。

   水爆のエネルギーは埋没したままの方が良いけれども、
   善き想念は埋没したままでは余りに惜しい。

   それを是非とも行動化せよ。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

(6)【日本國の現象と實相について】

   日本國は現象に於ては常に變化した。
   それは現象の歴史を観れば解る。

   日清戰争に勝つた日本、日露戰争に勝つた日本、
   大東亜戰争に負けた日本・・・・・等々。

   現象では變化の日本であつたけれども、
   終始一貫、變化しない同一人格の「日本國といふもの」があるのである。

   だから、周恩來は日清戰争の責任を「今の日本」に問はうとしたり、
   ソ連は日露戰争の責任を「今の日本」に問はうとしたりして、
   大東亜戰争の末期に日ソ中立絛約を破つてソ連が日本領土に侵攻したのは
   日露戰争の復讐などといふのである。

   常に移り變はる現象の奥に、
   移り変はらない「常恒不變の實在」の日本がある。
   それを「日本國の實相」といふのである。

   その日本國の實相は如何なるものであるかを考へてみることにする。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)人間の實相は凡夫であるか如來であるか

   私は大分以前の講習會で華嚴經の一節を講義してこの
   「心・佛・衆生・三無差別」の思想を批判して、

   「心が悟れば佛に成り迷へば衆生となる」といふ句には
   一つの陥穽(おとしあな)があるのであつて、多くの佛教者は
   此の陥穽にひつかかるといつて指摘したことがある。

   即ち人間の實相は、
   ”心が迷へば衆生となり、その衆生の心が悟れば佛になる”では、
   ”衆生”の方が實相なのか、”佛”の方が實相なのか、
   差別なくどちらが、實相なのであるか有耶無耶になつてしまふ。

   つまり”心”といふ者は無自性の”空”なるものとなり、
   人間の本體が” 無自性であるならば、如何に生きるが正しいのであるか
   基準も理想も規範もなくなる。

   これを白隠の如く水をもつてたとへれば、
   ”水”を”心”の譬とし、蒸氣を”衆生”の譬とし、氷を”佛”の譬とした場合、
   衆生が實相であるか、佛が實相であるか不明となる。
  
   ”水”が本來の姿なのか、
   ”氷”が本來の姿なのか、
   蒸氣といふ”ガス體”が本來の姿なのか、

   この三者のうち主體はどれであるか判らなければ、
   人間は、蒸気として生きるのが正しいのか、
   氷となつて生きるのが正しいのかわからなくなる。

   だから南方の佛教者は「實相・完全の姿」を生活し得ずして
   ”空”に捉はれ、乞食のような貧しい生活をし、
   國家までも空じ去つて、その國が滅びてしまつてゐるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/04/22 (Mon) 04:58:50


(1)《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》

   神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
   凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
   不思議なる力がわが内に宿っているのである。

   その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
   自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから
   神の無限の癒やす力が豊かに流れ入らないのである。

   自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
   自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。

   自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、
   ゆったりとした時に
   神の癒やす力が豊かに流れるのである。

     http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html (消滅)

・・・

(2)《速やかに治らぬ場合には》

   愛念を起しても忽(たちま)ち病気が治らなくても
   悲観してはならない。

   現象に 「 念 」 が具象化するには
   それ相応の時間と現象的過程とを要するのである。

   あなたの病気が形にあらわれたのも、
   あなたが病気にふさわしい 「 念 」 を起してから
   相応の時間をかけて現実化して来たのであるから、
   今度はその逆のコースを行くのである。

   常に間断なく人を愛せよ、仕事を愛せよ。
   人に感謝せよ、仕事に感謝せよ。

   常に間断なく善きこと楽しきことのみを想(おも)えよ。

   悪しきこと悲観すべきことを心より放ち去れ。

   病気の症状を心より放ち去れ。
   もっとひどくなるかと恐怖する勿(なか)れ。

   「 既にもう治っているのだ 」 と念ぜよ。
   それは間もなく実現せん。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12233407.html (消滅)

・・・

(5)【善事に向かって躊躇する勿れ】

   確固たる決意、断行の勇気のないところに自由はない。
   それは躊躇逡巡という縄によって自縄自縛しているからである。

   「断じて行えば鬼神も避く」という諺がある。
   障害は外界にあるのではなくして、内部の心にあるのである。

   善事と判断し「これが国家を救う」と判断したならば、
   断乎としてそれを遂行せよ。

   自分の卑怯さで“断固遂行”を胡魔化してはならない。
   時は過ぎ行く。

   今が機会である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

(6)【”神の靈、水の面を覆ひたりき“】

   日本國の實相を説明する前に、「存在するもの」は
   如何にして存在に入つたかを解明しておかなければならない。

   宇宙の生成せられる以前には、この世界には何物もなかつた。

   無論「世界」と名付くべきものも無かつた。

   この事を創世記には、“闇”(黒闇)、淵(わだ)の面に在り、
   神の靈、水の面を覆ひたりき」と示されている。

   ” 淵”といふのは非存在の空虚の深淵」の象徴でる。
   “闇”(黒闇)といふのは、光の欠乏
    ―― すなはち波動の非存在を象徴する。

   これをまとめて解釋するならば、非存在の空虚の深淵には、
   どんな形にもどんな色にも顕れる”空”の原理がある。

   その“空”の原理は“波動”の變化によつて
   どんな形象(かたち)にもあらはれるのである。

   その“空”の可塑自在の原理の上に神の靈が覆つていて、
   神の靈が動き出して波動を起したら、その波動のリズムに從つて
   どんな形象にもあらはれてくることになつてゐるのである。

   宇宙出現の最初の?態を端的にいふならば、
   ”神の創造力”が“無”を將に征服せんとする構へである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)實相獨在・圓滿完全・萬福現在

   人間の生命の實相は”佛”であり、”如來”であり、”神の子”なのだと
   生長の家では大声疾呼するのである。

   たとひ”心”が迷つて”凡夫”となつてあらはれてゐても、
   本當は”心を觀ずるに心無し”であり、(『觀普賢菩薩行法經』)

   從つて、その本來無い心が悟つて成る”佛”も無しであり、
   況んや”心”が迷つて生ずる”凡夫”もないのである。

   ただ「萬福現在」の實相のみが獨在する。

   それ故に我らは、

   「實相獨在・圓滿完全・萬福現在」

   といふ聖句を常に誦行するのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/04/23 (Tue) 04:57:31


(1)《我 今、神の子として新生せり》

   今、自分は新生したのである。
   肉の子なる夢さめて、霊の子に新生したのである。
   物質の自分はなくなって神の子の自分となったのである。

   吾は 新たに生れ更(かわ)ったのである。

   過去の失敗は決して自分を悩ますことはできないのである。
   過去はないのである。

   唯(ただ) 「 今 」 のみがあるのである。


   今 自分は 新生したのである。
   
   今自分は過去の放蕩(ほうとう)息子であった姿をすてて
   父の家に帰ったのである。

   吾は 新たに衣をぬぎかえたのである。

   吾は 神の独子(ひとりご)である。

   神のもち給(たま)うすべてのものは わがものである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843022.html


・・・

(2)《「 心 」 の安静が 「 実相 」 の完全さを歪みなく現象する》

   安静療法を必要とする病気もあるが、
   安静の内、もっとも大なる安静は 心の安静であるのである。

   心の安静のうち最も大なる安静は 神想観であるのである。

   瞑目(めいもく)して

   「 神の大いなる癒す力 全身に流れ入り、既にわれは癒されたのである 」
   と念ずるときほど心の安静を得ることは 他(ほか)にないのである。

   すべての癒す力の根元は 内部の 「 完全なる実相 」 である。

   その実相を完全に現象化する力は
   「 心 」 と云う歪(ゆが)みないレンズである。

   「 心 」 が平静を失えば、いくらあなたの実相が完全であっても、
   現象的には不完全にあらわれて来るのである。

   だから何よりも先ず 「 心 」 の安静を得ることが必要である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12235748.html


・・・

(5)【困難に面して後退するな】

   ”困難”という値を払ってかち得たる何ものかは、
   安易に努力を払わずして得られた幸福よりも
   数層倍の“生命的価値”があるのである。

   青年のみが勇敢に理想実現の為に
   困難と闘う勇気とスタミナを有するのである。

   青年が理想を心に描きながら、
   困難の幻想の前に後退(たじろ)いて
   実行の勇気を失ってしまうならば、
   その時、汝は、みずからを「青年」と呼ぶ資格を失うのである。

   青年のみ困難と闘う資格があるのだ。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

(6)【神の創造の過程を分析する】

   その時創世記は次の如く書いてゐる。

   「神、”光あれ”と言い給ひければ光ありき」。

   ”神“と”無“の對決がどのやうにして創造に展開したかといふと、
   「”光あれ”と言い給ひければ」である。

   神の生命がコトバとなつて波動を起したのである。

   その波動のリズムが、どんなものであるかによつて、
   顕はれる事物の形象が定(き)まつて來るのである。

   即ち神は「光」といふコトバを出し給うたのである。

   神のコトバとは神の生命の振動である。

   それは單なる物理的振動ではなく、
   「光」といふ想念を神は起されたのである。

   物質ではなく靈であられる神は、「動く」といふのは、
   物質の運動のやうに位置が動いたりするのではなく、
   “心”が動くのである。

   “心”が動くとは、
   何かの想念(アイディア)を思い浮べられることである。

   そのアイディアを乗せた”生命の振動”がコトバなのである。

   かくて”光”といふ想念が具象化して、
   ”光”といふものに成つたのである。

   これが「神、”光あれ”と言ひ給ひければ光ありき」
   といふ聖句の意味である。

   かうして、神は天地と、天地間に存在する色いろのものを
   コトバによつて次々と創造せられたのである。

        (谷口雅春著『神、真理を告げ給う』参照)

・・・

(7)死の刹那に於ける人間の念力

   水と氷の譬で思ひ出したのであるが、白隠は二十四歳の時、
   越後の高田の英巖寺で催された夏安居(げあんご)に加はり、
   性徹和尚の下で修行してゐられた時、

   たまたま『正宗賛(しょうじょうさん)』といふ禪書に、
   禪家の大徳嚴頭和尚が常に衆に向つて

   「老僧去る時、大吼一聲して了つて去る」といつていたが、

   その語の通りに賊の爲に首を斬られ、その刹那大いに叫んだその聲が、
   數里の彼方に聞えたといふ公案が書かれてあつた。

   白隠はこの嚴頭和尚臨終の奇蹟を讀んで、

   「嚴頭和尚のやうな高僧の老師でさへも
    賊の爲に首を斬られるやうな災難に遭ふのはどうした事だらう。

    どこかに矢張り迷があつたのだらうか。

    さうすれば私のやうな凡人がどうして長夜の心の迷から醒めて
    悟りを開くことが出來るであらうか」

   と大いに惱んだのであつた。

   しかし本當は、嚴頭、死の刹那の奇跡的大音聲は
   不思議でもなんでないのである。

   これは心靈學上時々引例せられる「死の刹那における人間の念力」として
   知られるものであつて、

   難破した船の乗組員も刹那に家族を思ひ詰めたその念力で、
   數百里を隔てた郷里の父母や妻子の枕元に姿を現す如き
   實例が隋分あるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/04/24 (Wed) 03:06:24


(1)《我は一切を祝福して奉仕する》

   吾(われ)は 今 自分の人生を祝福するのである。
   吾を生み給いし父母を祝福するのである。
   わが住む境遇を祝福 し、わが住む国を祝福するのである。

   何故(なぜ)なら 吾は一人でなく、
   凡ゆるものの恩恵によって
   今日ここに存在するのであるからである。

   吾が目の前に環境、吾が前に堆(うずたか)くつもっている仕事、
   それは吾を苦しめるために存在するのではなく、
   吾の内にひそむ所の大いなる力を発揮せしめんがために存在するのである。

   吾は仕事を祝福 し環境を祝福 し、仕事に感謝し、環境に感謝して、
   よろこんで奉仕するのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843077.html (消滅)

・・・

(2)《仕事をするのが安静療法である》

   アセルこと、イライラすること、イソグこと、アワテルことなどは
   「 心 」 の安静とは反対であるから
   病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのである。

   仕事は急がず着々とやるべきである。

   急ぐなと言えばなまけることだと考えている人があるかも知れぬが、
   なまけるのは生命の停滞であるから却って病気の原因となる。

   着々と楽しく仕事を悦びながら 急ぐことなく、アセルことなく、
   イライラすることなく、感謝しながら仕事をなせば、
   仕事そのものが却って安静健康法となるのである。

   安静療法、安静療法ととなえながら、
   身体を楽にしているので暇があり過ぎて
   「 病気 」のことばかり心配しているのでは安静にはならない。

     http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12237754.html (消滅)

・・・

(5)【偉大なる政治家、何を為すべきか】

   偉大なる芸術家は、鋭敏に対象の生命を観る。

   そして勇敢に、その生命そのものを筆端に縦横に走らせてそれを描く。

   偉大なる政治家は、先ず国家の生命を鋭敏に把握する。

   そして国家の生命を生かすために今何を為すべきかを自覚して、
   勇敢に、芸術家が縦横に筆を走らす如く、縦横無尽に躊躇なく、
   他人や他党の顔色を見ることなく、断行すべきことを断行するのだ。

    〇〇首相に是を望む。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【實相世界の事物は金剛不壊である】

   以上の如く、
   神が一切のものを創造せられたる過程を分析して見るならば、
   一切の事物の本質は、”神の生命”を實質とし、
   その實質をある象にあらはしめたのは想念(アイディア)である。

   即ち事物が”ある象”をあらはして其処にあるといふことは
   神の思ひ浮かべられた想念を乗せた神の生命が、
   そこに姿をあらはしているといふことである。

   この神の想念をわれわれは「理念」と呼ぶのである。

   「實相世界」すなわち「實在の世界」における一切の事物及び事象は、
   神の生命を實質とし、それが神の想念せられたアイディア(理念)によつて
   賦形せられたものである。

   神は壞けるものでないから、
   神の想念せられた理念も壞けるといふことはないのである。

   したがつて理念を實質とする實相世界の一切のものは
   絶對に壞けるといふことはない。

   その絶對堅固にして壊れないことを金剛不壊と稱するのである。

   神の發せられた理念が永遠に壊れないといふ實例は、
   たとへば、數の理念を観ればわかる。
   “二二ンガ四”は數の理念であり、
   理念は肉眼には見へないが永遠にくだけないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)「念體」といふもの

   死の刹那に於ける人間の念力が、個性を持つた”念體”といふ
   獨立した靈體を以て活動し、その死者に生前又は死の直前加害を
   與へたところの人を惱ます實例などは市井の度々見られるところの事である。

   殺人犯人が、警察の手を逃れて諸方に匿れ隠れしてゐても、
   夜な夜なその被害者の靈が枕邊に出て惱ますので、苦しくて仕方がないので、
   つひに「こんなに苦しい位なら自首して出て刑を受けた方がましだ」と
   自首して出る實例も時々ある。

   こんな例では、それは加害者本人の良心のトガメから來た妄想だと
   いふ解釋もあるであらうし、その解釋が正しい場合もあるであらうが、
   實際「念體」(怨靈)が惱ます場合も儘々あるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/04/25 (Thu) 05:04:51


(1)《常に 「 父 」 に呼びかけよ》

   神の意思は 人間の幸福ということである。

   神は 決して人間に罪を与えたり不幸を与えたりしようと
   計画しては いられないのである。

   神は 吾らを富ましめ、吾らの病を癒やし、
   吾らの家庭を幸福にならしめるべく
   内から導いておられるのである。

   その導きに従わないで、楽園の外にとびだそうとしているのが
   我(が)の人間であるのである。

   まず 神の善を信ぜよ。神の無限力を信ぜよ。
   神が常に恵み深き吾が父であることを信ぜよ。

   そして時々 「 神よ 吾を導き給え 」 と念じながら
   目をとじて 新たなるよき想念が天降って来るのを
   まつことにするがいいのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13845881.html (消滅)

・・・

(2)《感謝はあなたを健康ならしむ》

   毎日自分の身体に感謝せよ。
   それを物質として感謝するのではなく、神の「 霊身 」 として、
   神の霊がわが肉現として顕(あら)われましますとして感謝せよ。

   瞑目して 自己の頭髪に感謝せよ。脳髄に感謝せよ。
   脳髄が常に若くその血管が柔く弾力があり、
   判断力も記憶力もいつまでも優秀であることに感謝せよ。

   自己の眼(め)が神様の眼であり、神の創造の美しさを
   神自身 見たもうための器官であることを感謝せよ。

   自己の耳が神様の耳であり、神の創造せる妙(たえ)なる自然の言葉を
   神自身 味いたまうための器官であることを感謝せよ。

   かくて鼻に感謝し、口に感謝し、すべての内蔵に感謝するのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12241704.html(消滅)

・・・

(5)【妥協している間に全身に毒がまわるか】

   譲歩と妥協とによって一時的に偸案(どうあん)姑息の平穏を国内に
   保っていても、それは麻酔剤で腹痛を抑え、熱さましで体温を
   一時降下しているのと同じことなのである。

   腹痛が麻酔によって軽減し解熱剤で体温が一時的に降下し、肉体の状態が
   一見安静を保っていると見えている間に、体内に侵入した病菌又はビールスは
   勢いを得て確固たる足場を体内につくる。

   譲歩と妥協とによる一時的平和ムードで現行の憲法を温存しておく間に、
   病菌の如くビールスの如く,赤化思想が国内に滲透して病菌体が
   人体を滅ぼす如く、国家を滅ぼしてしまうのである。

   今の内に国家を滅ぼす病菌の培養基のようになっている現行憲法の失効を
   宣言しなければ、日本はひどい事になり、取り返しのつかぬことになり
   つつあるのである。

    (拙書『憲法の正しい理解』参照)

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

           ・・・

   *参照
    亀の子ブログ(二〇二一年皐月朔日)
   『憲法の正しい理解』
    http://kamenoko4126.livedoor.blog/archives/9592879.html

・・・

(6)【人間の想念は萬物を假創造する】

   人間は神の子即ち神の最高の自己實現として、
   一切萬物の霊長としてそれを支配する權能を賦與されて
   この世に出現したのであるから、

   人間は神と同じく、
   コトバ(アイディアを乗せた生活の動き)によつて
   萬物を假創造することが出來るのである。

   假創造といふのは、人間はアイディアの自由を神から許されてゐて、
   神の意圖に反するアイディアでさへも思ひ浮かべることが出來、
   その想念の結果、神の意圖に反する事物
   (病氣とか戰争と・・・・・等)でも

   想像された事物は恰も實在するが如く見えるけれども、
   神の創造の延長線を行くものでない限りは、それは實在しない、
   それは假現にすぎないのであるからやがて消えるものである。

   それ故人間の想念によつて創造せられたるものは
   “眞創造”でなくて“假創造”であり、
   眞に實在するものではないのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)首を斬られた嚴頭和尚は無かつた

   白隠の一大疑團は、そんな實例が「念體」か「良心の譴(とがめ)」の疑問でなく、
   「このやうな大徳が盗賊に首を斬られて死ぬ」といふやうな悲惨な果報を
   受けなければならぬのは何故であらうかといふ疑惑であつたと思はれる。

   この問題を解決しなければならぬと白隠は、
   坐禪瞑想に専念して三昧の境地に入つた時、

   「阿可々!! 嚴頭和尚・萬福現在。
    生死(しょうじ)の厭ふべきなく、
    涅槃の求むべきなし」

   と大悟したといふ事である。

   白隠は「ア、可々」と大笑したのだ。

   禪師は「現象の無」を悟つたのであつた。

   そして實相の嚴頭和尚を悟眼を持つて見た時に、
   既に萬福現在・五體圓滿具足してゐて、
   首の刎ねられてゐない完全な相を見たのである。

   首をはねられるとか、生きたとか死んだとか、迷つてゐる自分が今、
   涅槃の境地に入つたとか、そんなことは迷人夢中の幻影であり、
   涅槃を求むべきもなく、厭つて免れるべき生死流轉もない。

   既に萬福現前する如來(神の子といつてもよい)そのものが
   人間の實相であると大悟したのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/04/26 (Fri) 04:52:15


(1)《内在のキリストは 吾が道である》

   キリストは 「 吾は道なり真理なり、生命(いのち)なり 」
   といい給うたのである。

   吾々が苦難に面して どの道をとればよいかわからない時には、

   「 吾に宿るキリストよ。あなたは道であります。眠りより覚め給え。
   復活して吾に道を示し給え 」 と静かに数分間念ずるようにすれば
   自然と道が開けてくるのである。

   何故なら キリストは 「 吾が道 」 であるからである。

   自分の生命が危険に陥り、医者もどうすることもできないという時に
   「 吾に宿るキリストよ 吾に生命を与え給え。
   あなたは生命でありますから 」 と

   念ずるようにするならば
    自(おのず)から無限の生きる力が わきでて来て
   その人は健康となるのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13848135.html (消滅)

・・・

(2)《具体的に神に近づけ》

   あなたを生かしているのは 神の全能の力である。
   全能の神の力が宿ってあなたの「 生命 」となっているのである。

   それを読み、それを知るだけで尚(なお)健康になれないのは、
   飯を消化して自分の血液になっているのであると読み知るだけで
   腹がふくれて来ないのと同様である。

   腹がふくれ、元気が出るためには、
   具体的に食事をとり、それを同化する必要がある。

   それと同じく、あなたが真に健康となるためには、
   具象的にあなたは神に近づかねばならぬ。

   新しき感情と想念と意思とをもって
   神の波長と自分の生命との波長を合わすように
   努力しなければならぬ。

   「 神 」をわがものとしてそれを同化しなければならぬ。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12244780.html (消滅)

・・・

(5)【青年よ日本の歴史を動かす人になれ】

   世紀の上に足跡を残す人となれ。

   何も足跡など残すことを目指さなくてもよいが、
   歴史は人が造るということである。

   一国のその時代の歴史は
   その時代にその国に生きた偉大なる人物の足跡みたいなものである。

   ひとりの人間がどちらを向くかという事で
   その国の運命が発展もするし衰頽もするのである。

   吉田茂は平和条約をあそこまで漕ぎつけて、日本の経済復興に
   偉大なる足跡を残したのは、彼が硬骨漢であって敗戦国の日本代表
   でありながら勇敢に自分の主張すべきことを主張したからだ。

   併し彼は平和条約と同時に、占領憲法が無効となったことを宣言することを
   忘れたために赤化思想が国民の間に深く滲透することになったのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【人間がつくつた契約國家としての海外諸國】

   さて、この邊で、
   日本の國は人間が想念を起して創造したものであらうか。
   それとも神の想念即ち理念の實現としての日本國家であらうか
   といふ問題に立ち帰つて論じてもよい段階に來たと思ふのである。

   海外の諸國は、それぞれの地域に住む住民が、
   互ひに孤立しているのでは、その安全も福祉も保障せられ得ないから
   互ひに團結して相互扶助し、相互扶助に適する規約をつくつて、
   これを守らうとする契約を住民が互ひにつくつて團結して
   出來てゐるのである。

   これは契約國家とでもいふべき國々である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8198097

・・・

(7)”凡聖(ぼんしょう)不二”か”凡聖不一”か

   水と氷との譬で、連想されるのは、

   ”凡聖一如”とか
   ”迷悟不二”とか
   ”生佛一如”とかいふ

   佛教の成句があることである。

   けれども、これは大變誤解されやすい言葉である。

   凡夫とあらはれ、聖人とあらはれ、
   ”迷”とあらはれ、悟りとあらはれ、
   衆生とあらはれ、佛とあらはれるのが、

   皆、”不二”であり、”同一”であるならば、
   何も悟る必要もない譯だ。

 
   彌勒菩薩も五十六億七千萬年修行してから彌勒佛に成る必要もない譯だ。

   だから凡夫と聖人とは”不一”である。つまり凡聖不一である。

   しかし、凡夫が悟れば佛となる――これは”佛”といふ別人が
   出て來るのではなく、同一人が聖人または佛となるのである。
   さうすれば凡聖不二であり、凡佛一如である。

   凡夫とあらはれるのも、聖人とあらはれるのも、
   別人でなく同一人であるからだ。

   ”凡聖不一”であると共に、 ”凡聖不二”でもある譯だ。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/04/27 (Sat) 04:30:28


(1)《本当の幸福とは魂が向上することである》

   如何(いか)なる人生の体験も すべて何かの教訓を含んでいるのである。
   神は偉大なる教師であって、魂を高めるために 常に適当なる課題を
   吾々に与え給うているのである。

   出された問題そのものが問題ではないのである。
   それは試験問題の如(ごと)きものである。
   それを通過することによって 魂の力が増加し、魂が向上するのである。

   神は 魂のみを見ておられるのである。
   人間智(ち)は 魂の向上をみないで、
   現象の出来事と損得を考えがちである。

   そして不幸だとか幸福だとか判断する。

   本当の幸福とは 魂の向上することであり、
   本当の不幸とは 魂の堕落することなのである。

     http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13851127.html (消滅)

・・・

(2)《病気や不幸を信じてはならぬ》

   あなたは「 神 」 を信ずるか、「 現象 」 を信ずるかです。
   現象にあらわれている「 病気 」を実在であると信ずるのも信仰です。

   自分は信仰がないと云う人も、実は何かを信じているのです。
   恐らく「病気」を信じているか、「不幸」を信じているのでしょう。
   だからこそ「病気」になり「不幸」になっているのです。

   それよりも、「神」を信じなさい。
   神がすべての創造主であり、神は「善」であるから、
   「善」なる神が病気や不幸を決して創造(つく)らないと信じなさい。

   しからば、今あなたに現れている病気は、不幸は、一体何ですか。
   それは貴方の信仰の反映です。

   映画の如く、あなたの信仰の波があらわれているのです。
   信仰をかえなさい。幸福になり、健康になれます。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12251301.html(消滅)

・・・

(5)新聞はこうして世論を偏向させる

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【神が想念せられた理念の實現としての日本國家】

   しかし日本國家は住民が相互扶助のために契約して集まり、
   團結した國家ではないのである。

   天照大御神(天は”天球”即ち、宇宙のこと。
   宇宙を十方無礙の叡智をもつて照らし護り給うた神)が

   「豊蘆原の瑞穂の國は世々わが子孫(うみのこ)の
    王(きみ)たるべき地(くに)なり」

   と みことのらせ給うたコトバによつて肇まり、
   それがやがて具體化して神武天皇建國となつて出現した國なのである。

   その神勅(ミコトバ)を建國といふ具體体的事象にまで展開せしめられた
   神武天皇は、その橿原即位の勅(みことのり)に、

   「天津神、國を授け給う徳(みうつくしび)にこたへ」

   といふ風に仰せられてゐて、人間が相互扶助・安全保障のために
   相談して造つたやうな國家ではなく、

   天照大御神がその御想念によつて
   國家のあり方(國體)の圖形を心に描かれ、

   それを「豊蘆原の瑞穂の國は世々わが子孫の王たるべき地なり」

   とコトバによつて表現せられたところの謂はば、
   「理念日本國」が天降つて來たのを、その理念を受けて、

   その皇祖の御徳にこたへ奉るために建國せられた國家が日本國家である。

   だから、この日本の國は實相世界に於ける理念日本國が天降つて來て
   現象界に顕現しつつある國家なのである。

   決してわが國は海外の諸國家のやうに人間のみの想念の實現として
   假創造せられたる國家ではないのである。

   このやうな假創造の海外の國家は單なる現象無常の國家であつて、
   常に起滅つねなく、建國以來ズーッとその存在をつづけてゐる國はない
   のである。

   しかし神の想念(理念)の實現として顕現しつつある日本國家は、
   まだ、完全にはその實現の素晴しさが、實現してゐないけれども、
   建國以來、二千六百三十三年の今日に至るまで、たとひ大東亞戰争に於て
   敗れたりと雖も、

   「天皇國家」としての本質は滅びることなく繼續してゐるのである。

   といふ譯は、「理念」は2×2=4の數の理念が永遠不滅であるやうに
   不滅であるから、神の理念の實現として建國せられた日本國家も
   決して毀(くだ)けることはないといふ原理によるのである。

・・・

(7)”現象佛”も”現象凡夫”も本來無し

   「凡聖不二か、凡聖不一か」「凡佛不二か凡佛一如」の微妙な問題を、
   もつと明解に説くことができないだらうか。

   そこで生長の家はかく説くのである。

   ―― 悟つて佛になつたり、また迷つて衆生に成つたりするやうな
   グラグラと迷悟の間をふらついてゐるやうな
   「「心・佛・衆生三無差別」のやうな”現象佛”も、”現象凡夫”も
   本來無いのだと。

   それなら本來本當にあるのは何か

   といふ問に答へて、

   それは、現象佛や現象衆生の去來や轉換を超越して存在する
   圓滿完全・萬福現在の、實相如來である。

   その實相如來こそ自分そのものであるのだと説くのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/04/28 (Sun) 04:57:09


(1)《われ今日斯(か)く念ずる》

   『 吾は 静かに目をつぶって実相の世界に入るのである。
   吾は すでに実相の世界にいるのである。
   今迄(まで)吾は 現象の世界のみをみていたのである。

   今や吾は 実相の世界の完全さのみをみるのである。
   
   吾は ここで神と直接対面するのである。

   吾は 神の無限の智慧(ちえ)を受けるのである。
   吾は 無限の愛 を受けるのである。
   吾は 無限の生命 をうけるのである。

   吾には 今後 如何なる不幸も悲しみも おそいかかって来ないのである。
   吾は 一切の悪と不幸を 自分の心の外に追放したのである。
   吾は ただ 善のみ を見、 幸福のみ を見て、神に感謝するのである。 』

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13853443.html(消滅)

・・・

(2)《今ある恵みに感謝せよ》

   この病気を、この不幸をと
   自分の肉体や環境を呪(のろ)う時間があるならば、
   
   同じ手間であるから、
   何か自分にとって与えられている恵みがあるならば
   それを思い出して祝福せよ、感謝せよ。

   眼(め)が見えるならば眼に感謝せよ。
   耳が聴こえるならば耳に感謝せよ。

   肺臓が悪いからとて、
   他のところまで呪う必要はないのである。

   その呪う心、感謝の足りない心が 胸にたまって胸の病いとなり、
   腹にたまって腹の病いとなっているのである。

   感謝と愛とは
   病いと不幸を癒(いや)す車の両輪になっているのである。

   愛も愛着では可(い)かぬのである。
   愛は 「 人のために捧げること 」 である。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12256328.html(消滅)


・・・

(5)佐世保市民が学生の資金カンパに応じたのは何を意味するか

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【價値の本質と價値生活について】

   そこで吾ら何を爲すべきかの問題が起るのである。

   人間として地上に生を受けて出た以上は、
   單に“性”と”食”との本能だけで動いてゐる低次の動物のやうに
   酔生夢死の無價値な生活は送りたくないのである。

   何らかの價値ある生活を送りたいといふのは
   人間として當然の願ひであるに違ひないのである。


   そこで價値とは何ぞやといふ問題が出て來るのである。

   價値の本質は「神聖さ」と「實在する」といふことの二つである。
   存在するやうに見えても「實在」しないで
   やがて消えてしまふものには價値はないのである。


   ところが、たとひ其のものが實在するにしても
   「神聖なもの」でなければ價値はないのである。
   汚いものはマイナスの價値である。

   われわれが價値生活即ち價値ある生活を送らうと思ふならば、
   實在するところの神聖なものにつながる生活を送らなければ
   ならないのである。

・・・

(7)生死・涅槃ともに昨夢の如し

   この事を『圓覺經』には、
   「始めて知る衆生本來成佛、生死・涅槃、猶、昨夢の如し」とあるのである。

   「人間は本來如來であつて、悟つてから如來になるのでも佛になるのでもない、
    本來如來が實相である。

    生死の世界を去來したり、迷を去つて涅槃(さとり)の境地に入る
    などといふことは、なほも昨日の夢の如しぢや」

   といふのがこの『圓覺經』の意味である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/04/29 (Mon) 04:55:00


(1)《われは神の愛を実践する》

   吾は 今 すべての人の罪を赦したのである。
   すべての人をさばく心を捨て、赦す心にみたされているのである。

   神の愛が私の心を占領したのである。
   吾は 無条件に吾が全心身を明け渡して 神の愛に占領せしめたのである。
   吾は 決して神の愛にそむくような 如何なることをも行わないのである。

   吾は 人を憎まない。吾は 人と争わない。

   吾は 唯 幸福のみを見、光のみを見、美点のみを見、繁栄のみを見、
   すべての人に感謝し、すべての人を祝福するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13861952.html (消滅)

・・・

(2)《言葉に善事(よいこと)のみを語れ》

   何事についても絶望的な言葉を吐くな。
   悲観的な言葉を告げるな。

   言葉は宇宙に放送されて やがて具体化するのである。

   楽観的な言葉を吐けば 楽観的な事柄があらわれて来、
   悲観的な言葉を吐けば 悲観的な事柄があらわれて来るのである。

   世間話を慎め。ゴシップに気をつけよ。
   苟(いやしく)も他(ひと)の悪を語るゴシップに交ることなかれ。

   不景気を語るな。常に好景気のみを語れ。
   人の善意のみを語れ。

   何事か悪しきが如(ごと)く見えても、
   それは現象であり、仮想であって、
   実相ではないのである。

   神のつくり給える実相は 久遠(くおん)に完全であって、
   今も尚(なお)、その完全さが存在するのである。

   言葉の魔術で 実相の完全さを曇らしてはならないのである。
   
    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12258815.html (消滅)

・・・

(5)国防はすべて不時の攻撃を仮想した防禦施設である。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851269

・・・

(6)【吾らの最も高き價値生活】

   神聖なものとは、神そのもの及び、神の創造になるものである。

   『私』といふやうな、小さな人間がケチくさい利害得失の考へで、
   假創造したやうなものは神聖なものではないのである。

   ケチくさい利害得失の人間的な考へが加はれば加はるほど
   それは汚れたものとなる。

   汚(けが)れるの語源は「氣枯れ」又は「氣涸れ」である。

   氣とは生氣であり、“宇宙生大氣”である。
   “宇宙生大氣”とは“神”のことである。

   氣枯れるとは、神の宇宙生大氣と絶縁?態にあつて
   宇宙生大氣に欠乏しているといふことである。

   いつまでも氣枯れないものは、
   神御自身と神の創造になるもののみである。

   國といふ國の中で、
   私的な利害得失で住民たちが團結してできた國でなくて、
   神のミコトノリによつて出來た日本國のみが本當に神聖なる國である。

   この國は永遠ほろびない實在の國であるから、
   それが神聖であると共に、實在價値のある國である。

   それは天照大御神のミコトバによつて創造せられて
   實相世界に既にある理念國家である。

   その理念國家が恰も蒔かれたる種子の如くなつて
   現象界に発芽し生長しつつあるのが、今の日本國家である。

   建國以來二千六百三十三年といふけれども、
   悠久の宇宙と比ぶればまだ發芽したばかりで、

   これから吾々が、それを培ひ、育て、施肥して
   悠久の大樹にまで生長せしめるのが吾らの神聖使命である。

   この使命に邁進する事こそ、永遠に滅びない價値につながり、
   神聖なるものにつながる吾らの最も高き價値生活と
   いはなければならないのである。

・・・

(7)すべての人間は如來の智慧徳相を本具する

   佛子、如來の智慧徳相、所として遍ねからざるなし。何を以ての故に。
   一衆生として如來の智慧を具有せざる者なければなり。
   只妄想顛倒(もうぞうてんどう)の執著を以て、而も證悟せず、
   若し妄想を離るれば一切智,自然智、無礙智現前する事を得ん。

            (『法華經』如來出現品)

   『涅槃經』には
   「一切衆生悉く佛性あり煩惱の覆ふが故に見る能はず。」とある。

   一切衆生本來、佛の徳相を具有してゐるのに、それをあらはれないのは、
   『法華經』に於ては” 妄想?倒”の執著が覆ふが故にと説かれてゐる。

   これによつて是を観れば
   「妄想顛倒による執著」と「煩惱」とは同一のものである
   といふことが解るのである。

   從つて、本来本具の圓滿完全な如來の智慧徳相(實相)をあらはすには、
   「妄想顛倒による執著」即ち「煩惱」を去ればよいといふ事になるのである。

   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8264375

            <感謝合掌 令和6年4月29日 頓首再拝>

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.