伝統板・第二 2543643

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(三月)の法語

1:伝統 :

2024/03/01 (Fri) 04:55:41

このスレッドでは、他の掲示板等から、次の8つの法語を紹介してまいります。


(1)『 生長の家 』 昭和二十三年三月号法語 

   *Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13096845.html?type=folderlist (消滅)

(2)『 生長の家 』 昭和二十四年三月号法語

   *Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/d/20140514

(3)『 生長の家 』誌 昭和二十五年三月号の箴言 (一日の法語 ~ 二十八日の法語)

   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

(4)『 生長の家 』誌 昭和四十年三月号の箴言
   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

(5)『 生長の家 』 昭和四十六年三月号法語 
   *Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12621806.html (消滅)

(6)『 理想世界 』 昭和四十三年三月号法語 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7703461

(7)「白鳩箴言~神と人間との交渉」(昭和四十八年三月)」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351

(8)『 生長の家 』「われら神の世嗣として(昭和48年3月)」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8322420


・・・

【一日の法語・言葉(3月1日)】

(1)《人生の問題は向上の段階》

   人生の問題は
   エスカレーター見たいなものである。

   それに乗る事によって
   人間の魂は進歩する。

   それを避ける事によっては
   人間は一層高き段階に上る事が出来ない。

   併し人間は完全な自由を許されているから、
   みずから進んで其のエスカレーターに乗らない事も可能である。

   併し問題を避ける事によっては
   人間は進歩しない。

   問題は 人間を一層高い世界へ誘う招待状みたいなものである。

   問題の解決は 唯 上昇の足場に過ぎない。
   いかにそれを扱うかの心境に魂の進歩がある。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13096845.html?type=folderlist (消滅)


・・・

(2)《人間は神の自己顕現である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ea6279982ab50e1bf49551141362d738


   (抜粋として)

   大自然は人間を神の自己顕現として、
   肉体の上からも、精神の上からも、能力の上からも、
   最高完全の神的標準に到達することを望んでいるのである。

・・・

(3)《神は到(いた)る処(ところ)に在(いま)す》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神は到る処に みちみちていられるのである。
   神は 無限の愛であり 無限の智慧であり 無限の生命であり、
   常に吾らを その無限の愛をもって 護(まも)っていられるのである。

・・・

(4)《神を金融業者と間違えてはならない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神は高利貸でも、銀行屋でもないから、上手に説き服せたら
   金を貸して下さるというような方ではないのである。

   キリストが説いたように
   「 人は二人の主(しゅ)につかえることはできない 」のである。

   私たちは「 物質の幸福 」を求めている限りに於いて、
   霊的な主につかえることはできないのである。

・・・

(5)《“二つの世界”に生きる私達 》

   私たちは、二つの世界に住んでいるのである。

   それを縦横十字の線で表現してみるならば、
   縦の線は、神からつながる生命の線であり、
   神から延長された“ 実相世界 ”を表現するのである。

   そして横の線は、
   空間的に横にひろがる現象世界を表現するのである。

   図解的にいえば、
   その縦横十字の交叉点に存在するのが吾々の生命である。

   縦の生活に於いては
   神からつながる“ 神の生命 ”( 神の国 )を生き、

   横につながる“ 心の展開 ” としての世界では
   現象世界を生きているのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12621806.html (消滅)

・・・

(6)《人間は目的をもち理想をもたねばならぬ 》

   人間として地上に生まれた限り、
   あなたは生きるための”目的”をもたねばならぬ。

   目的という語ではいくぶん足りない気がする。
   それでは“理想”をもたなければならない。

   目的を持たず、碌々として人生を行き当たりバッタリに生活している者は、
   その人の経済的状態が豊かであっても、精神的には浮浪者であり、ルンペンである。

   近頃、フーテン族という種類の若い人があらわれて来て、
   髪を長く伸ばして額と顔の半分ほどを乱れた髪で蔽い、
   何の働きをすることもなく、食べ物を、他人の戸口で乞い歩く者が
   出ているが、人生に目的も理想も持たない場合には
   自然にこんな姿になりさがってしまうのである。

   肉体も服装もすべて自分の心の投影であるからである。

・・・

(7)物質文明のもたらす精神的公害

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   「國民所得が豊かな先進國ほど、犯罪の發生が多くなつてゐる。
    これは高度に物質文明が發展した國の人々は、
    かへつて不幸な人生をもつている一つの證據である。」

   「個人の人生に生き甲斐が失はれてゐるために、
    いろいろな事件が續發する。」

   「日本などでは物質文明の發達に伴ふ物質的公害などといふものが
    世界の先端を切つて問題にされてゐるけれども、
    更に精神環境の惡化といふことについて、
    その原因をはつきりしなければならない。」

・・・

(8)あなたの自縄自縛を解け

   あなたは自分の”心”を自己劣等感や、無駄な躊躇逡巡で、
   自縄自縛してはなりません。

   あなたは”神の子”として、神の最高實現として此の地上に
   生を享けたのであるから、神から遺傳され、神の世嗣として
   あたへられてゐる能力は、神そのものの如く無限なのですから、
   自己縮小する事を止(や)めなさい。

・・・

<参照:3月の谷口雅春先生の言葉>

(1)弥々生うるいのち~「生命の實相」第37巻幸福篇上
   → (光明掲示板・第二) 
     http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1215 (消滅)

   伝統板・第二「弥々生うるいのち」(光明掲示板・第二)
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7828988  

(2)神は愛なり~光明法語<道の巻>
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=72

(3)弥生「万物めぐむ」~光明道中記
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=73

            <感謝合掌 令和6年3月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/03/02 (Sat) 05:01:17


(1)《同じ問題でも受け方で魂の向上が異う》

   かりに或る人が泥棒に着物をとられたとする。

   甲は それに対して嘆き かなしみ失望し落胆する。

   併し乙は それに発奮して、
   とられた以上のものを稼ぎ出そうとして 大いに仕事に努力する。

   丙は 俺もとられた、だから取り返してやれと思って
   自分も泥棒になる。

   丁は 自分の不注意に気付いて
   今後の生活をもっと慎重にする。

   戊は 自分の不注意に気づいて
   一層 謙遜になる。

   広島の宮田講師は 「 自分の着物は 余っているのであるから
   自分で持って往って差し上げたいと思っていたのに、
   取りに来て下さって有難い 」 と合掌した。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13098489.html?type=folderlist (消滅)

・・・

(2)《楽なと云う誘惑に負けるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a6b2c549cb3d7b00ec804b63ed14c8da


   (抜粋として)

   すべて物事を完成するのは
   「 この方が楽だ 」 という誘惑に耳をかさず、
   
   法則の示す所に鞏固(きょうこ)なる意志をもって
   進んで行く事によって得られるのである。

・・・

(3)《人間は神の意識的顕現》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   人間は神の創造力の最も精巧なる現れであり、
   神の最高顕現として、また意識的顕現として
   一切の現象を支配する力を与えられているのである。

   神だけでも宇宙の創造は完成しないのであって、
   神と人間と相よって宇宙の創造は完成するのである。

・・・

(4)《霊か、物質か、いずれを選ぶか》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神はただ霊の賜物(たまもの)のみを与えたまうのである。

   「 神は霊なれば拝する者も霊と真(まこと)とをもて拝すべきなり 」

   (『ヨハネ伝』第四章二四節)とイエスは教えていられるのである。

・・・

(5)《自己拡張欲の衝突の世界》

   人間は、横につながる“ 心の展開 ”としての現象世界では、
   彼の内包する“ 無限 ”を空間的に表現せんと欲するが故に、
   自己拡張、自己伸展を主として願うのである。

   しかもその表現の場である地球という天体は面積に限りがあるが故に、
   自己拡張せんとする者たち互いに衝突し、自己伸展せんとする者同士が
   奪い合いを演ずることになるのである。

   これは、“ 無限 ”と“ 有限 ”とが交叉する一点に立って
   人間が生活しているが故に、

   そしてその“ 無限 ”が“ 有限 ”を通して表現せんとする
   自己矛盾を原因とした宿命的事実から生ずるとも解釈できるのである。

   兎(と)も角、今までの地球上の生物の生活は、
   この“ 無限 ”が“ 有限の世界 ”に於いて自己発展し、
   自己主張するため 闘争の世界であったと言い得るのである。

   中東でのイスラエルとアラブ諸国との紛争、
   アメリカ陣営と共産陣営との紛争又は戦争、
   いずれも異るアイディアの自己表現・自己主張・自己拡大の衝突である。

   私は悲しい思いでそれを看戍(みまも)っているのである。

   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12621860.html (消滅)

・・・

(6)《百合には百合の目的が、人間には人間の目的が》

   人間が地上に生を享けて目的をもち理想をもつためには、
   ”人間とは何ぞや”の根本自覚を先ず得なければならないのである。

   人間がユリの花であるならば百合の花を咲かす目的又は理想をもつであろうし、
   人間が桜であるならば、桜の花を咲かす目的又は理想をもつであろう。

   無論、人間は植物ではない。

   地上に人間が生まれた目的は百合の花を咲かせることでも、
   桜の花を咲かせることでもない。

   しかし私が言いたいのは、
   百合には百合でなければ咲くことのできない花を咲かせるし、
   桜には桜でなければ咲くことが出来ない花を咲かせるという事である。

   そこにはその食属独特の特徴ある花の形を発揮するという事である。

   そうすれば、人間は、どんな植物にもどんな動物にもない独特の特徴ある
   天分を発揮するところに、吾々人間がこの世に生まれた目的があり、
   理想があるのではないだろうか。

・・・

(7)科學文明よ傲ること勿れ

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   これは物質的欲望がいかに滿足せしめられても、
   魂は却つて飢ゑるといふことをあらはしてゐるのである。

   だからイエスは

   「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づる言葉による」

   といつてゐるのである。

   愛のない物質的な社會施設だけでは
   人間の魂の飢を滿たすことはできないのである。


   物質的な日本列島改造よりも、その改造の最も根源的なる
   ”精神的なるもの”が改造せられなかつたら、改造を加へれば加へる程、
   また次の別の公害があらはれて來るのである。

   科學文明よおごる勿れである。

・・・

(8)あなたの”内”にある大力量人を覺醒させよ

   神をあなたの外にあつて、
   あなたを規制してゐる権威だと思つてはなりません。

   神はあなたの魂の底の底に、生命の根底に存在したまふ
   あなたの實相なのであります。

   その實相が肉體といふ物質層に埋められたまま、
   長い間忘れられてゐたのです。

   この事を『無門關』の公案二十則には、

   「大力量の人、甚(なえ)に因つてか脚を擡(もた)げ起さざる」

   と示されてゐる。

   わたし達の”生命の根底”に、魂の底の底に、
   神の生命なる” 大力量の人”が宿つてゐる。

   その” 大力量の人”を何故お前は目醒めしめて活躍せしめないか
   といふ意味である。

            <感謝合掌 令和6年3月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/03/03 (Sun) 05:02:54


(1)《祈りの実現には時間的要素がいる》

   祈りは必ず成就するのである。

   祈りとは 常に深く魂の奥底で
   繰返している言葉である。

   呟(つぶや)く者には
   呟くような事が出て来るし、

   悲しむ者には
   悲しむような事が出て来る。

   喜べば 喜ぶような事が出て来る。

   併し今日祈ったからとて
   明日必ず成就するとは決まっていない。

   種子を蒔いても
   明日生えるとは定まっていない。

   併しそれは永久に生えないのではない。
   性急では いかぬのである。

   花を求めているのに、
   嫩葉(ふたば)が出たからとて
   祈りが きかれぬのではない。

   嫩葉は 花のもとである。
   (抜粋として)

   祈りは必ず成就するのである。

   祈りとは 常に深く魂の奥底で
   繰返している言葉である。

   併し今日祈ったからとて
   明日必ず成就するとは決まっていない。

   併しそれは永久に生えないのではない。
   性急では いかぬのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13102172.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《神業を成就せんがために肉体を正しく使え》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d63e57736d0871bf7c1900b6faaba805


   (抜粋として)

   吾々が人生に生まれたる目的は 常に云う通り、
   神の み業を地上に於て成就せんがためである。

   従って吾らが地上に生まれたる目的は
   働くことによって 神の目的を成就するにあるのである。

・・・

(3)《法則は受動者であり 人間が主動者である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   人間は自然界の法則を駆使して事物を創造する。

   法則は 神の 「 受動的現われ 」 であり、
   人間は 神の 「 能動的な現われ 」 である。

・・・

(4)《天国を地上に実現するには》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   天国が地上にあらわれるためには、
   人間自身が一変して、地的な欲望を去り
   天的にならなければならないのである。

   神は霊であるから、神を愛するならば、
   もっぱら霊を愛しなければならないのである。

・・・

(5)《わが国は此の世の国に非ず》

   イエスは矢張(やは)りこのような闘争の世界を悲しんだのであろう。
   何故、人間は争ったり、戦ったりしなければならないのだろうか。

   イエスは「 此の世の力 」 ( 現象界の政治的権力及び宗教的権力 )
   に抗(こう)して起った。

   彼はローマ政府の迫害を受けた、
   そしてローマ政府に勝つことが出来ないで、
   十字架に磔(はりつ)けられたのであった。

   しかしイエスは 「 わが国はこの世の国に非ず 」 と言い、
   また 「 われ世に勝てり 」 といっているのである。

   現象の世界にいくら勝利を得たにしても、
   結局は現象界はうつり変る世界であるから、
   その勝利した状態は、やがて “ 無 ” に帰する世界である。

   私たちが本当に勝つのは「 “ 無 ” に帰する世界 」 でない
   ところの世界に於いてでなければならない。

   即ち 「 わが国はこの世の国に非ず 」 でなければならないのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12627438.html(消滅)

・・・

(6)《人間は植物以上、動物以上に超出しなければ意義はない》

   百合にも桜にも、潜在的な意識があるので春が来ればそれを知り
   新緑の新しき若葉を出し、それぞれの季節を知って、
   その季節に応じて花を開く。(拙著『生命の謎』参照)

   しかしこれら凡ての植物には”意識的な心“又は”自覚的な意識”
   心理学用語で言えば、“現在意識”と称するような心はないのである。

   ここに吾々は人間が地上に誕生した意義又は目的を見出すことが出来るのである。

   人間は百合でも、桜でも、豚でも鶏でもないのである。

   人間は植物以上のものであるのは勿論のこと、動物以上のものである。
   人体の一部の構成要素の中には植物的働きをする神経繊維もあれば、
   植物性酵素のような成分もある。

   更に脊椎動物と殆ど異ならない生理的構造と性欲及び食欲の如き
   動物と全く異なることなき本能的欲望を備えている。

   この限りに於いて、そしてその本能的欲望を満足させることだけしか
   人間がしないならば、彼は、動物の高さ以上に一歩も出ないのであって、
   特に人間として地上に吾らが生を享けて誕生した意義も目的も理想もない
   と言わなければならないのである。


・・・

(7)人生の厩橋側と上野公園側と

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   わたしたちの運命は”自分の心”のタイプに從つて、
   同じタイプのものが引き寄せられて
   運命の形を生成して行くのである。

   科學的に安全だと思ふ方に走つても、
   それは却つて”死滅の道”であることがあるのである。


   たとへば五十年前の關東大震災のとき、わたしは
   東京淺草區松葉町にある寺院の境内に建てられてゐた
   二階家を借りて執筆生活をしてゐたが、

   大正十二年九月一日、正午二分前になると突然二階は
   將に難破せんとする小船のように揺れ出したのであつた。

   辛うじて階下に降り、境内の地面の上にとび出して、
   その後の地震の繼續の有樣を見てゐたのであるが、
   餘震は暫くでは止みさうもないのである。

   揺れが静かになりかけたと思ふと以前より大きくまた激しく揺れる。

   その内に四方八方、焔の海になつて來たのであつた。

   私たちの逃れて行く道は唯二つあつた。

   一方は厩橋の方であり、もう一方は上野公園の方であつた。
   どちらを選ぶかは、瞬時を爭ふ危急の場合で理屈はないのである。

   人間は、ただ「フト思ひついた方」へ走り出す。

   そして厩橋の方へ逃れて行つたものは、焔にとりかこまれ
   酸素に欠乏した空氣の中で倒れて數萬人が焼け死んだのであつた。

   わたしは幸ひにして上野公園の方に逃れたので、
   公園には延焼して行くべき密集した建物が無いので、
   焔にとりまかれることはなく數萬人がそこへ逃れて助かつたのであつた。


   死の方向を選ぶか、生の方向を選ぶかには咄嗟の場合で理屈はない。
   ただ「フト思ひ浮かぶアイディアに動かされて行動するだけなのである。

   その「フト思ひ浮かぶ」といふのは果たして何者が「フト思ひ浮かばす」
   のであらうか。

・・・

(8)あなた方は皆、大通智勝如來である

   『無門關』といふのは御存知の通り禪宗の經典のうちでも特にすぐれたる
   公案集だと言はれてゐるのであるが、
   その第九則に「大通智勝」といふ公案がある。

   これは法華經の”化城喩品(けじょうゆほん)”の中にある大通智勝如來
   といふ久遠無窮の過去から存在したまふ大通力無限智の如來が
   十劫の間も結跏趺坐して悟りを得ようとしたが、尚この如來悟りを得ず、
   佛法がこの如來の生活に實現しなかつたといふ事が書かれてゐる。

   その法華經の一節を採り上げて、或る僧が興陽の譲和尚に問答を仕掛けた
   言葉のやり取りが公案になつてゐるのである。

   その言葉のやり取りは、

   「興陽の譲和尚。因みに僧問ふ、
    大通智勝佛、十劫道場に坐して佛法現前せず・・・・・既に是れ道場に坐す。

    なにとしてか佛道を成ずることを得ざる。

    譲曰く、伊(かれ)が成仏せざるが爲なり」

   となつてゐる。

   この「伊(かれ)が成佛せざるが爲なり」といふことが
   公案解決の中心命題なのである。

 
   誰でも大通力、無限智能を備へてゐる。
   神の子である。

   謂わば各人それぞれが” 大通智勝如來である”のに、何故、
   その大通力を發揮して決然と起ちあがらないのであるかといふのは、
   禪宗の坐禪修行の公案だけの事ではないのである。

   各人が今各自の人生に於て與へられてゐる『人生の公案』なのである。

   各人自らこの人生の公案を解決する時、各人はそれぞれその大通力を
   發揮することが出來るのである。

   だから無門和尚の評譯には「凡夫若し知らば即ちこれ聖人」とある。

     (谷口雅春著『無門關解釋』参照)

            <感謝合掌 令和6年3月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/03/04 (Mon) 05:01:53


(1)《花を求めて果実を与えらる》

   大抵の人は自分自身の与えらるべき、
   そして成しとげ得べき能力を自覚していないので、
   それより小さいものを求めがちである。

   然も最初に与えられるのは、
   自分の求めたものより小さいのである。

   それは花を求めて 嫩葉(ふたば)を与えられた如きである。

   併し神は花以上に、
   更に吾らに大いなる美味なる果実を与えるべく
   嫩葉を先ず用意せられたのである。

   祈りが成就しないのではなく、
   祈りは成就しつつあるのである。

   それなのに ただ自分が性急な為に
   成就しないと見誤るのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13105196.html?type=folderlist (消滅)

・・・

(2)《健康とは調和である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6f45f7a9ae28413739cf381ebfe69b51


   (抜粋として)

   健康とは 肉体が完全に調和して活力が旺盛であり、
   心の命ずる所に従って自由に肉体が動作し、
   脳髄がその機能を営み、

   しかも長く疲れないで
   その働きが 常に活発であるという事である。

・・・

(3)《物質は法則の現われ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   法則は材料であり、人間が創造者である。

   だからどんな物質でも、それ自身は法則の現われであって、
   毒になるとか薬になるとかというような
   自性(じしょう)はないのである。

   だから物質には自性はなく、人間が主動者であるのである。

・・・

(4)《戦争は 「 心の状態 」 の投影である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   一所懸命 祈ったら、神はその祈りに答えて下さりそうなものであるのに、
   何故 その祈りがきかれないで、戦争は止(や)まなかったのであろうか。

   それは人間自身が変らないからである。人間自身を変えないでいて、
   戦争と称する 「 物質的状態 」 だけを変えようと試みたからである。

   「 物質的状態 」 は 「 心の状態 」 の投影(かげ)であるから、
   「 心の状態 」 を変える祈りこそ 先ず為すべきであったのに、
   それが為されていなかったのである。

・・・

(5)《“ 肉体 ” は本当の自分ではない》

   現実の人間は、“ 肉体 ”と称する“ 物質の体(たい) ” と
   霊体(又は幽体)と称するところの
   “ 物質以上の霊的な体(たい) ” と、

   その奥に、“ 実相 ” と称するところの
   “ 理念の体(たい) ” をもっているのである。

   一般人は、肉眼で “ 肉体 ” だけを見て、
   それを “ 自分 ” の全部だと思って、

   ” 肉体 ” を楽しませる事を“ 自分 ”を良くすることだと思って、
   肉体的、物質的な利欲の追求に余念がないような状態であるけれども、

   肉体という “ 波動の体(たい) ” は、
   地上で、その人の生命が使命を果すための一種の宇宙服であって、
   地上の使命が終ると結局消えてしまう運命にあるのであって、

   それは、 “ 本当の自分 ” ではないのである。

   “ 本当の自分 ” というものは、永遠の価値あるところの
   永遠に存在するものでなければならないのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12630675.html (消滅)

・・・

(6)《動物性の土台に神聖性を接木した人間》

   僕が不思議に思うことは、現行の日本国憲法はが、食欲や性欲の如き
   動物的欲望の満足を願うことを基本的人権として大いにそれを尊重し、
   その追求満足を擁護し、推奨しているという事である。

   つまり、人間存在の意義を動物性の欲望の水平面まで押し下げていることである。
   そしてそれを「人間性の復活」の如く世界人権宣言の実行の如く
   誤解させていることである。

   岡潔先生もいわれるごとく、「人は動物だが、単なる動物ではなく、
   渋柿の台木に甘柿の芽を接いだようなもの、つまり動物性の台木に
   人間性の芽を接木したものと言える」のである。

   動物性の本能を持った脊椎動物と異ならない台木の上に、
   人間性(もっとと精確に言うならば神性)の芽を接木したようなもの
   が人間である。

   これは渋柿の台木の生命力が強いので、甘柿の美味しさを具体的に
   果実として押し出すために渋柿の生命力を利用したのであって、
   渋柿そのものの“渋い味”を発揮させるためや渋柿の果実を得るため
   ではなかった筈である。

   それなのに現行の日本国憲法が動物的な食欲と性欲とを基本的人権として
   奨励鼓舞していることは、接ぎ木の台木それ自身から芽を出して
   “渋柿”の果実を得るように奨励しているようなものである。

   これでは神様(又は“大自然”)が、動物性の上に更に人間性(又は神性)を
   接ぎ木せられた意義が失われてしまっているのである。

              ・・・

   (*岡潔先生 参考Web:則天去私(2018年02月22日)天才―岡潔
          → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/74564237.html )

・・・

(7)人間の運命を指導する神祕な力

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   人間の運命 ―- 時としては國家の運命 ―― をすら
   左右する不思議な力であるところの” フト思ひつく”といふ想念は
   一體どこから來て私たちを導くのであらうか。

   ある人は、「この株を買つたら、儲かるだらう」とフト思いついて
   株を買つたら暴落して大損をするのである。

   またある人は「この馬こそ一著になる大穴馬だ」と思つて
   馬券を買つて損をする。

   その反対にフト思いついた事業が大發展して一大資産をつくる人も
   あるのである。


   心理学者は、この不思議な”聲なき囁き”の正體を
   潜在意識の囁きだと解釋する。

   あなたの潜在意識には一體何が潜んでゐるのであらうか。

・・・

(8)汝のうちにある神性を”言葉の力”によつて喚び出すこと

   三月號の『光の泉』の「易しく書いた”生命の實相”讀本」の欄に、
   私は肺動脈瓣狭窄症といふ重症の心臓弁膜症にかかつて
   長期間病床に横たはつて恐怖のために動けなかつた安藤嚴君が

   「今斷々乎として病なきことを信じて起て」といふ『生命の實相』の生活篇
   にある文章に奮起して病床から起ち上がつた事實を書いたのであるが、

   安藤嚴君は、その體験談の中で
   生長の家の推薦する神性自覺を喚び出す祈りの

   「わが魂の底の底なる力、無限の力湧き出でよ」

   といふ言葉を幾度も幾度も繰返し、つひにその言葉の力によつて
   「人間は病むべきもの」といふ迷妄を吹き祓つて
   つひに健康體として起ち上がつたのであつた。

            <感謝合掌 令和6年3月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/03/05 (Tue) 06:08:44


(1)《謙遜にそして勇敢に》

   自分を高慢(たかぶ)っても可けないが、
   自分を買いかぶっても可けない。

   全てのみわざは神が成し給うので
   自分が偉いのではないから
   高ぶってはならない。

   併し全ての“みわざ”は神がなし給うのであるから、
   そんな力はないなどと
   自分を卑(いや)しめてもならない。

   「 謙遜にそして勇敢に 」 と云うことが
   神の子の標語でなければならない。

   神に泣きつくように 「 どうぞこれを成し給え 」 と祈るのは
   神を信じないものである。

   魂の底深き願いが起るのは、
   既に内在の世界で成就しているからである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13107742.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《人生の目的達成には健康が必要である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9bba2a69c7a35da352ed611c201ffad0


   (抜粋として)

   もし肉体の健康が低下するならば
   心の能率も低下するのである。

   そこで肉体の完全なる健康は
   如何にして得ることができるかが問題となるのである。

・・・

(3)《法則も智慧も神から来る》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   法則を駆使する所の力は 吾々の智慧から出て来るのである。
   その智慧は 神から出て来るのである。

・・・

(4)《世界平和のための祈り》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   戦争は結果であり、争闘精神が原因でありますから、
   戦争の根源となるべき
   争闘精神が無くなることが先ず必要なのである。

   私たち生長の家の信徒は、
   唯(ただ)

   「 神の無限の愛 われに流れ入り給いてわれに於いて光明燦然と
   輝き給い、その光 愈々輝きを増して全地上を覆い すべての人類の心に
   愛と平和の思いを以って満たし給う 」

   と祈ることにしたのである。

   愛と平和の思いに満たされたら争闘精神はなくなり自然に戦争はやみ、
   平和が招来されるからである。

・・・

(5)《人間の実相は “ 無限に生きるもの ”》

   “ 本当の自分 ”というものは 変化し、常住の姿なく、
   移り変って結局消えて行くような「 肉体 」ではない、ということは
   どうして判るのであるか ー というと、

   私たち人間は、心の奥底に、
   みな永遠に生きたい願いをもっているからである。

   “ 有限の肉体 ”が どうして
   “ 永遠の生命 ”(無限)を願うのであろうか。

   “ 有限 ”から“ 無限 ”が出て来る筈(はず)は
   あり得ないのである。
   “ 無限 ”は“ 無限 ”からのみ出て来なければならない。

   “ 無限に生きたい ”という願いが
   人間の心の奥底から生まれて来るのは、

   “ 無限に生きること ”が人間そのものの本性(ほんしょう)で
   あるからでなければならないのである。

   それ故に 人間の実相は
   “ 無限に生きるもの ”であるといわねばならない。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12633110.html (消滅)

・・・

(6)《動物以上の人間の特長とは何であるか》

   人間が単に、動物と異ならない食欲、性欲の満足以上に
   高邁神聖なる本性を発揮し得ないならば、
   それは「人体の形を備えた動物」であって、
   神が特に人間を地上に生み給うた目的又は意義を完うするとは言えないのである。

   人間が人間たるためには、食欲、性欲の如き、動物との共通性以上に、
   特に「人間」なるものの特長を発揮しなければならないのである。

   人間が人間たる特徴とは何であろうか。

   食欲性欲を単に本能の跳梁に任せず、それを道徳的目的――愛他的目的――
   のために制御統制して秩序あらしめることである。

   乱倫乱婚の如き状態は、人体を備え乍ら、
   なお動物的境涯をその人は脱していないことをあらわしている。

   或る○○をしている少女を捕えて、警官が補導したら、その少女は
   「どうして○○が悪いのか私にはわからないわ。自分も楽しくて
   相手の人も楽しんで、そしてお金が儲かるんだもの。どこが一体悪いの?」
   と酒蛙々々(しゃあしゃあ)と言ったのには、補導の警官も
   説明の仕様がなくて困ったという事がある週刊詩に書いてあった。

     〇〇=春を売る事。

・・・

(7)吾らはみな”天才”である

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   われわれが研究して結論を得た心靈學では、
   人間の魂が地上に降誕すると、それを指導するための守護神が、
   祖先靈の内の靈的に發達したる高級靈に属する靈が産土神により
   指名せられて、その人間の一生涯の守護神となるのである。

   これを正守護神といふ。

   それは一生涯交代することなくその人に付き添ふて
   その人の魂を指導するのである。

   (中略)

   いづれにせよ、高級靈なる神秘的叡智者なる靈がわれわれには、
   生まれるとすぐ吾らと偕にあり、その叡智に感應して
   ”天才”が發顕して來るのである。

   だから吾々は本來皆”天才”であり、
   肉體智以上の力を發顕し得る素質を備へてゐるのである。

   われわれは皆”天才” (ゲーニウス)を内に宿しているけれども、
   現象的には皆”天才”になれる譯ではないのである。

   それは何故であらうか。

   守護神は”靈”であつて肉體ではない。

   われわれ自身と守護神(または守護靈)との關係は、
   霊と靈との關係であるから、靈的に互ひに波長があつてこそ、
   互ひに感応通行し得るのである。

   ところが肉體を現じている人間は往々にして
   肉體的欲望及び物質的欲望の虜となり、
   その精神が物質的方向に傾けば傾くほど、その人の精神波動は、
   守護神の高級な靈的波動の振幅に周波數が合はなくなる。

   そのために、その人の魂は、折角つきそつてゐて下さる守護神の
   助言の囁きが聴えなくなり、不測の災禍が起る直前に、
   守護神は「早くここから逃れよ」と囁くけれども、

   その囁きを聴くことが出來ずに、その人は
   不測の慘禍をまともに受けることになるのである。

・・・

(8)”甘える心”を棄て去ること

   人が”神の子”たる實相を自覺する上に
   障碍(しょうげ)となるところの想念感情は
   ”甘える心”を起す事である。

   換言すれば”同情されたい”といふ念を起す事である。

   また「このくらゐなら、人が我慢してくれるだらう」と考へて、
   自己の努力を最大限迄出さずに、他の人の寛大さや、
   甘さに縋つて行かうとする生活態度である。

   また、病氣や色々の都合を、自分が全力を出し切らずにゐられることの
   口實やアリバイに使おうとするすることである。

   これらの「甘える心」又は「甘える生活態度」はその人の能力の發揮を
   自縄自縛してしまひ、最高の高さまで自分の天分を發揮することが出來ず、
   自分自身を一般凡用者の一群の中にまで堕落させてしまふ事になるのである。

   安藤嚴君は自分自身が病氣を口實にして母親に甘えるための
   資料としてゐた事を反省した時、彼の難治の肺動脈瓣狭窄症から
   起ち上つたのであつた。(『光の泉』三月號参照)

            <感謝合掌 令和6年3月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/03/06 (Wed) 05:00:25


(1)《争い勝つ祈りはきかれない》

   神は一人の人間の親に非ず、全ての人間の親であるから、
   一人の人間のみ、又は一個の民族のみ栄えて、
   他の人 又は 他民族の栄えぬ様に祈る祈りはきかれない。

   凡(おおよ)そ、他と争うて自分が勝つ為の祈りはきかれない。

   「 祈りがきかれる 」 とは 実相世界にある永遠の秩序を
   言葉の力によって呼び出すのであるから、
   実相世界に“ない”ものをいくら祈っても
   それは“神によっては”与えられるものではない。

   実相世界には争いもなく、
   争いに勝つと云う事もないから
   争い勝つ祈りはきかれない。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13111474.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《心を楽観的に有(も)て》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/786363eb0e47603eeb0fa3f979b655ab


   (抜粋として)

   すべて楽観的な人生観をもたない時には
   人間は決して健康を長く持続することはできないのである。

・・・

(3)《神を内に自覚する時、力が湧き出(い)でる》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神は 常に吾と ‘ とも ’ にあるのである。
   
   いつでも吾々がそれを自覚する時、
   神の力が湧き出て来るのである。

・・・

(4)《“儲け”ないで“儲かる”方がよい》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   「 儲けよう 」 と思ってする仕事は儲からず、
   本当に、最大多数の人のためになる仕事をしようと、
   「 儲け 」( 物質的欲望 ) を度外にして、

   人類の為になる新しきアイディアに燃える人が却って儲かるのである。


   リコーの市村社長も“ 儲‘け’る事業と儲‘か’る事業 ”と
   ‘け’ と ‘か’のたった一字違いだが其処に非常な相違があることを
   指摘しているのである。

・・・

(5)《肉体としての自覚から脱却して》

   肉体というものは毎日死滅しているのである。
   それを普通われわれは新陳代謝と称しているのである。

   即ち 古き細胞は 間断なく死んで
   新生をした細胞と置き換わっているのである。


   「 死すべきものは我にあらず 」 と 『 久遠いのちの歌 』 にあるように、
   そのように新陳代謝する肉体は、人間のほんとうの「 我 」ではない
    ー 「本当の自分」ではないのである。

   肉体というものを「 本当の自分 」だという自覚しかもっていないものは、
   創世記の第二章に録(しる)されているところの
   「土の塵(ちり)にて造られたもの」であり、

   「 汝は塵なれば塵に還るべきなり 」(「 創世記 」第三章十九節)と
   神に宣告されたる者に過ぎないのであって、それには永遠の生命はなく、

   寿命尽きたら“ 塵 ”( 微粒子 ― 宇宙の物質的元素 )に帰るほかは
   ないのである。

   私たちが“ 永遠の生命 ” を得るためには、
   私たちは人間を「 塵 」(物質的元素)の集合体ではなく、
   「 霊的実在 」 であるという自覚にまで復活しなければならないのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12637259.html (消滅)

・・・

(6)《台木ばかり発達して精神の枯れた人間》

   岡潔先生は「戦後、義務教育は延長されたのに
   女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっている。

   ・・・・・人間性を抑えて動物性を伸ばした結果に他ならないという気がする。

   たとえば、牛や馬なら生れ落ちてすぐ歩けるが、
   人の子は生まれて、一年間ぐらいは歩けない。

   そしてその一年の間にこそ大切なことを準備している。

   とすれば、成熟が三年も早くなったのは、人の人たる所以の
   ところを育てるのをおろそかにしたからではあるまいか」
   と言っていられる。

   私は人間の肉体面の成熟が三年も早くなったのは、肉体的欲望を基本的人権として
   大いに鼓舞奨励し、各県や各学校に体育館の設立を促進して肉体ばかりの発達を促す
   国家の政策(その奥には現行日本国憲法がある)が大いに影響している
   と私は思うのである。

   体育館はあるけれども心育館も養心会館もなく、
   その方面には政府はタッチしてはならない。

   宗教に政府が援助してはならないのは勿論、教育は中立性を持たねば
   ならぬから文部省が教科課目などに干渉してはならぬことになっているので、
   政府は肉体の方の発達ばかりに、吾々の税金を使うばかりである。

   だから、渋柿の台木に接いだ甘柿に「人間」というものを喩えるならば、
   渋柿の台木の方から出る芽ばかりを尊重して、その方ばかりを伸ばす
   肥料をやっているから、渋柿の台木から旺んに渋柿の新芽を吹いて
   元気旺盛で、それに折角接ぎ木をした甘柿の芽の方は伸びるに伸びられず
   枯れそうになっているという訳だ。

   体育旺んにして心育を忘れたのは、“肉体”という台木に“神性”の
   新芽を接ぎ木した人間という存在が神性の新芽は枯れて肉体の台木のみ
   旺んに性欲、食欲、所有欲の芽を吹いている恰好である。

   この状態がいつまでも続くならば、地球上には人間は一人もなくなって、
   ”人間”の形をした動物ばかりになってしまうのである。

   これで、いくら”平和”を叫んでみても、動物性と言うものは結局、
   性欲、食欲、所有欲のために争闘する程度の発達しか遂げていないので
   あるから、地上に平和が持ち来たされることは到底不可能のことと
   いうほかはないのである。

(7)古代ギリシャ人の考へた守護靈

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351

・・・

(8)自己憐愍(れんびん)の心を棄てよ

   自分自身を”弱い”などと考へる心は”甘える心”だ。
   それは自己憐愍の心であつて、自分が自分に甘えてゐるのだ。

   自己憐愍を棄てない限りは人間は強くなれない ―― 換言すれば
   ”神の子”の自覺と能力を完全に發揮することが出來ないのである。

            <感謝合掌 令和6年3月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/03/07 (Thu) 04:59:35


(1)《人類の進歩に逆行する祈りはきかれぬ》

   凡そ人類の進歩に逆行する祈りはきかれない。

   神は地上に自己の無限内容を
   無限生長 又は 無限進歩の形で表現したまうのが
   現象世界の使命であるからである。

   アメリカで始めてトーキー映画が登場したときに、
   その音楽だけは 生きた音楽家を出演させてくれねば、
   多くの音楽家の死活問題であるからとて、
   生きた音楽家の出演しない映画館に対して
   入場拒絶同盟を結ぼうと云うので調印を求めて廻った者があった。

   その時、光明思想家のテリル・マン氏は
   それは人類の進歩に逆行すると云って其の調印を拒絶した。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13115133.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《「 人生 」 を彫刻する道具を大切にせよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/83cdf00cc2b4683e48b89e6342f96730


   (抜粋として)

   肉体は吾々が目的を達成する為に使う
   一種の道具の様なものである。

   芸術家は制作に要する道具を大切にするのであって、
   制作に要する道具を大切にしないような者は
   良い作品を得られぬのである。

・・・

(3)《失業は他(ほか)の地盤に魂の栄養を見出(みいだ)さんがため》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   失業を恐れてはならない。

   神が今までの仕事を停止せしめ給うたのは
   他にもっと重要な仕事があるからである。

   失業の中に 神の導き と 祝福 とを感じて
   感謝することができるならば、
   あなたは間もなく新しき職業を発見する。

・・・

(4)《「祈る心」と「念仏申す心」》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神は霊であるから、神は無限の救いの霊波を放送していられるけれども、
   人間の霊的部分の、而(しか)も波長の合う部分にだけ感応するのであるから、
   特に霊的に波長を合わした人だけが、神の霊波に感応して救いを受けることに
   なるのである。

   祈りや念仏は、それによって神仏が動かされて、特別 「 祈る人 」 や
   「 念仏する人 」 だけに恩恵を与え給うというのではないのである。

・・・

(5)《みずからを「土の塵」として神から絶縁したる人間》

   土の塵にてつくられたる肉体人間 ― アダムとイヴとが、
   蛇の知識にて瞞(だま)され「 知識の樹(こ)の果(み) 」
   を食して、知識が愈々(いよいよ)明らかとなり、

   「 自分というものの本質が、物質分子の集合体に過ぎない 」
   と科学的に究明せられたとき、

   アダムとイヴとは、エデンの楽園 ( 神の祝福の満ちみちた世界 )
   から追放されることになったのである。

   「 追放される 」 とは、神の “ 祝福 ” 又は “ 神の護り ” から
   断絶状態に置かれたという意味であって、
   ある地域から地域に移送せられたという意味ではないのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12641456.html (消滅)

・・・

(6)《道徳生活の黄金律》

   動物性の台木の上に接ぎ木された“人間性”は如何なる特長を持つのであろうか。
   単なる動物の本能以上のものを持っているに違いないのである。

   私はそれを「五日のことば」の中で、
   ”道徳的目的”とまたは”愛他的目的”という名称で呼んだ。

   此の事を岡潔先生は次のように言って居られる・・・・・。

   「人の人たる所以んはどこにあるのか。
   私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。

   人がけものから人間になったというのは、
   とりも直さず人の感情が判るようになったという事だが、
   この、人の感情が判るというのがじつにむつかしい・・・・・」

   この、人の感情が判って人の悦ぶことをしてあげたい、
   自分の肉体的欲望を抑えてでも人を悦ばしてあげたい、
   人を悲しませることや、人に不快な感じを与えることはしたくない
   というのが道徳的感情であり愛他的感情である。

   即ち、「自己が為られんと欲する如く他に施せ」
   これが道徳生活の黄金律であるが、
   それには”人の感情が判る”ようにならなければならないのである。

(7)” 内なる聲”にもこんな低級靈の聲がある

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   ”内なる聲”にも心靈學上に分析して行けば、
   決して内容が同一ではなく、いろいろあり、
   ”善霊の聲”もあれば”悪靈の聲”もあのである。

   (中略)

   本當の神は「人に内在する”靈的”なもの」であつて、
   二重人格的に話しかけたり、問答できたりするのは、
   ある階級の靈であるが、高級靈は少ないのである。

   大抵は迷へる”浮浪の靈”が多いのであるから、
   靈媒現象的にそのやうな靈に話しかけたり、問答するのは、
   以上の如き危険を伴ふのであるから決して試みてはならないのである。

・・・

(8)”甘え”の心を棄てて全力を出し切ること
  
   あなたが自分の仕事に全力を盡さないで、
   易々加減で片付けて置くやうなことがあるならば、
   それは”甘えの心”の表現である。

   「他の人がこの位ならば我慢してくれるだらう」と甘えてゐるのである。

   そんな事では、あなたは折角”神の子”として大力量人として
   資格と能力とを與へられてゐるのに、その大力量人を發揮せずに
   生涯を終つてしまふ事になるのである。

   「私は神の子、大力量人」と

   心の中で唱へながら仕事に懸命なさるがよい。

   屹度立派にあなたは神から授けられた天分を發揮することが出來るでせう。

            <感謝合掌 令和6年3月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/03/08 (Fri) 04:59:38


(1)《人間の職業は無限》

   手繰りの紡織機械の後に機械力の紡織機械が出現した時、
   多くの手繰りの手繰り娘や、機(はた)おり娘は
   失業したかの如く見えたのである。

   併し決してその失業は長く続くものではなかったのである。

   人間の進歩は無限であり、
   従って人間の職業の範囲も無限である。

   何も人間はいつまでも手繰り紡織娘である必要はないし、
   映画館の伴奏者でなければ生活出来ないと云うものではない。

   今までの職業がふさがれて来る事は、
   神が既に新たなる職域を準備していられる証拠である。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13118214.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《仕事の質と量とは 肉体の健康に左右せられる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ef6eae2970b16d98b4b74b3632f26661


   (抜粋として)

   世の中には吾々の道具である所の肉体が
   錆びた大工道具のように、
   いつも不健康で鈍(なまく)らであるがために、

   善き仕事をしようと思いながらも
   できないで斃れてしまう人が
   随分沢山あるのである。

・・・

(3)《職業を得るには心を明るくせよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   職業を得(え)んとする者は
   まず明るい雰囲気をもたなければならない。

   その人が ただいるだけでも、
   周囲の人の能率をあげ得るような明るい雰囲気をもつ人は、
   誰(たれ)でも その人を雇いたくなるのである。

・・・

(4)《人間は肉体の自力によって救われるのではない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   人間が救われるのは肉体の意識的努力によってではなく、
   その人間に宿っていて、まだ眠っている
   “神の子”なる“実相”に神が触れたまい、
   その眠りを醒まさせ給うた時に始まるのである。

・・・

(5)《神との断絶関係にある人々》

   神から、みずから絶縁し、神と断絶関係にある人間は、
   この世界と、この自分(人体)とを、物質としてみとめるが故に、
   それは有限であることは止むを得ない。

   しかし、彼自身はその内性又は実相に於いては、
   “ 神のいのち ”が宿って“ 彼自身 ”となっているのであるから、

   無限に伸展したい自己拡張・自己発展の願いが
   その抑えがたき意欲として内部から
   湧きあがって来るのである。

   しかも彼自身が物質としてみとめる地盤の上において、
   無限に自己拡張したい願いをもつ多数の人間が、
   地球上にひしめき合っているのであるから、

   其処に衝突や、食い合いや、奪い合いや、戦いが
   起って来るのは当然のことなのである。

   「 神につくられたる世界に、
   どうしてこのような争いが満ちているのだろうか 」の疑問は
   そこから起って来るのである。

   しかし、現象世界は、“ 蛇の知識 ”(「創世記」第二章)にあざむかれ、
   この世界と人間と本質を“ 有限なる物質 ”と観ているのであるから、
   “ 有限世界 ”に“ 無限の欲望 ”を実現し得ない悲しみが湧いて来て、

   イエスの如く「 わが国はこの世の国に非ず 」と
   嘆声を発せずにはいられなくなるのである。

   「 知識の樹(こ)の果(み)」を食して、
   こうして楽園から追放せられた人間が、

   楽園に復帰するためには「 生命の樹の果 」即ち
   “ 生命の実(じつ)の相(すがた)”を食して、
   「 生命は神より来る 」という霊的自覚を
   蘇生(よみがえ)らすほかはないのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12656059.html(消滅)

・・・

(6)《人間の感情がわかるのでなければ》

   「人類が人の感情がわかるようになるまでには、何千年どころでなく、
   無限に近い年月を要したに違いないと思われるくらいにわかりにくい。

   数え年で三つの終わりごろから感情という事がややわかるが、
   それはもっぱら自分の感情で、他人の感情がかすかにわかりかけるのは
   数え年で五つぐらいのことからのようだ。

   ・・・・・そのデリケートな感情がわからないうちは道義の根本は
   教えられない」と岡潔先生は言われるのである。

   近頃のテレビやラジオの座談会やドラマの主人公などに出て来る
   若い人を見ていると、非常に個人主義で、親が子供を思う感情など
   全くわからない子供が多いのである。

   「自分で考える」「何ものにも影響されないで自分の信ずる通りにやるのが
   民主主義の生活で、正しいのだ。親の考えなどに影響されるのは封建的だ」
   というような学校教育を受けている子供が多いからだと思う。

   つまり人の感情など思いやる必要はない、
   大いに自己中心的にやれという教育が行なわれている結果である。

   岡潔先生も、

   「どうも今の教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。
   そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴が如何にも
   無慈悲なことにあると気付く。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだ
   と思う」といっておられる。

・・・

(7)”内なる聲”の分析について

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   しかし單に「内なる聲」に聴けといふやうな場合、
   その”内なる聲”といふ表現が曖昧であつて、

   頭の中で二重人格的に喋る靈の聲であるか、
   そのやうな聴覺的な聲ではなく、”良心の囁き”として、
   内在の神性(又は佛性)の催しとして一種の直感的な”魂の叫び”
   (カントが”實踐理性”と呼んだ如き、道徳的理性の囁き)であるのか

   ハッキリしないのであるが、
   實は、是はハッキリさせて置かなければ、
   頭にバケツを被つて、その、靈の聲をアースしようと試みた人のやうな
   重大な間違ひを引き起こす事にもなりかねないのである。

・・・

(8)”甘える心”を棄てること
  
   病氣を口實にしてはならないし、
   あなたの體に本當に病氣らしい症候を示してゐても、
   それを人々に大袈裟に語つてはならない。

   コトバで表現することが現實化するのであるから、
   言葉であなたの病氣や不幸を大袈裟に表現すればするほど、
   あなたの病氣は増悪して來るだらうし、
   不幸は類を呼んで集つて來るであらう。

   病氣の苦痛を人に訴へるのは、矢張り”甘える心”であり、
   他から同情されたい心があるから、同情されねばならないやうな
   不幸な状態を作り出すことになるのである。

   總じて ”甘える心”は、
   甘えても差し支へないやうな卑屈な状態をみづからつくりあげて、
   甘え得る資格を作り出さうとすることになるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/03/09 (Sat) 04:58:45


(1)《神は新陳代謝の神である》

   今までのものを掴むこと勿れ。

   過去のものは
   過去に意義があったのである。

   神は停滞の神ではなく、
   「 新陳代謝 」 の神である。

   今迄のものに別れる事によって
   新しいものを迎えることが出来るのである。

   と云っても 今までのものを好い加減に胡麻化して置いて、
   転々と職業を変われと云う意味ではない。

   実(み)熟せば その樹は使命を終って枯れるのである。

   今までの職業環境 ― それは自分の 「 魂の進歩 」 と云う結実を
   齎(もたら)す為の樹であったのである。

   既にその使命を終れば環境職業も変わる。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13121590.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《常に鋭く希望に燃えるには》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e5cea46adbcbc6da4fb29709d36e342c


   (抜粋として)

   人間は 常に健康でなければならない。
   希望は 常に鋭く燃えなければならない。

   エネルギッシュでその希望実現のためには
   どこどこまでも勇往邁進し得る意志力をもつものは
   遂に 「 人生 」 を傑作たらしめるのである。

・・・

(3)《明るさは最大の美徳である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   明るさは何よりも最大の美徳である。

・・・

(4)《神、汝の実相に触れ給う》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   諸君が 「 生長の家 」 を知ったのは、実は、諸君自身が知ったのではなく、
   神が諸君の実相たる“神の子”に触れ、その眠りを醒まさせられたのである。

   換言すれば 「 汝われを選びしにあらず、われ汝を選びしなり 」 と
   神は 諸君に対して呼びかけていられるのである。

   諸君はこの光栄に感激感謝しなければならないのである。

・・・

(5)《神の祝福を受ける唯一の道》

   自分を物質的“ 肉体人間 ”だという唯物論的知識
   (注。「知恵の樹の果」にあたる)を食して
   エデンの楽園から追放された境涯にある人々は、
   神の国から追放されているのであるから、

   神の国の放送から切り離されてしまっていて、
   神からの祝福や恵福(けいふく)の放送を
   受信することはできないのである。

   彼は「 物質の世界 」に放逐(ほうちく)せられたのであるから、
   物質の法則に支配されるばかりであって、
   神の愛の法則、恩寵(おんちょう)の法則に支配されることはできない。


   即ち「 汝は苦しみて子を産まん」とエホバ神が宣告されたように
   出産の苦しみを免れることはできない。

   また「 汝は塵なれば塵に帰るべきなり 」と
   エホバ神によって宣告されたように、
   死は永遠からの“ 生命の断絶 ”そのものとなって、
   「 永遠の生命 」を得ることはできないのである。

   何よりも大切なのは、神の“ 祝福 ”の放送や、
   神の恩寵の放送を受像し得るように、
   “ 自分の心 ”という受信機を調整するよりほかに、
   神の国の至福無限の状態を地上に実現することはできないのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12660019.html (消滅)

・・・

(6)《人間の資格喪失》

   ここで渋柿の台木に、甘柿の新芽を接ぎ木したという喩えに還ると、
   “渋柿の心”にあたるのが、無慈悲で利己主義で、
   自分に都合さえよければよいのであって、
   人の感情のわからない、思いやりのない心に当る。

   民主主義だとはき違えて主張している生き方は、この“渋柿の心”なのである。

   だいたい唯物論的人間観を学校で教えられていると、
   物質的存在としての面の人間、肉体存在としての人間、
   そして肉体的欲望の遂行の合理化のみを教えられるから、

   肉体の物質面は、他人が酒を飲んでも、自分が酔う訳ではなし、
   人が快楽を遂行しても、自分が快楽を味わうことが出来る訳ではない、

   つまり彼我断絶で、共同的な同悲同喜の面が無いから、
   自然に利己的になり、個人的になる。

   そして愈々個人的になることを“個人の目醒め”などと言って
   尊敬すべき事の如く教育されるのだから、益々冷酷で残酷で愛のない
   「思いやりのない」人間が養成される事になるのである。

   これでは人間が人間である資格は「思いやりの感情」があることだと
   岡潔先生のいわれる其の”人間の資格”の喪失した人間ばかりが
   造られることになる。

   諸君はそのような資格喪失の人間になってはならないのである。

・・・

(7)”守護霊の聲”と”良心の囁き”との差別 -

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   (ソクラテスや金光教祖や天理教祖)は
   二重人格的にあらはれた”神”の聲を聞いてゐられるのである。

   それは「良心の囁き」とか「神格の内流」とかいふやうな、
   單なる”自己の魂の深層”から催して來た”内なる聲”ではない。

   ソクラテスや金光教祖や天理教祖が、そのやうな”神霊の聲”を素直に信じ、
   その通り実踐して、間違つた行動をせず、人類を善導する光となり得たのは、
   たまたまこれらの聲の主が低級なる迷靈の出鱈目の饒舌ではなく、

   高級靈が教祖を選んで、その肉體を使つて人類を救濟せんとする悲願を
   達成しようとせられたものであつたに違ひない。

   そのために、これら教祖やソクラテスは二重人格的にあらはれた
   ”霊の聲”に素直に從つても間違を犯すことなく却つて
   人類の”光”となり得たものである。

・・・

(8)傳道のきびしさをイエスが示された範例

   ヨハネ傳第二章第一節に次のやうなイエスの逸話が書かれてゐる。

   「三日目にガラリアのカナに婚禮ありて、イエスの母そこに居り、
    イエスも弟子たちと共に婚禮に招かれて給ふ。葡萄酒つきれば。

    母はイエスに言ふ。「彼らに葡萄酒なし」
 
    イエス言ひ給ふ
    「をんなよ、我と汝となにの關係あらんや、
     我が時は未だ來らず」・・・・・」
 
   このブッキラボーに母に對して何故イエスは
   『我と汝となにの關係あらんや』などと冷淡な言葉を發したのだらうか。
   もつと愛情を含んだ語調で物が言へないものだらうか。

   神は”愛”ではないか
   ―― と私は久しく疑問に思つてゐたのであるが、

   これは「眞理の傳道者」が自分自身に對して”甘える心”を
   切り棄てるきびしい訓練をしなければならないことを
   イエスが實踐によつて示されてゐるのだとわかつた。

   一燈園などではこれを”棄恩入無爲”と稱してゐる。
   家族的な愛情は、それに甘えてをれば、眞理の傳道に出かける
   機會を失つたり、縮小したりすることになるのである。

   片手間で人類を救ひ得るなどといふ事は
   『甘えた考へ方』に過ぎないのである。

   イエスが『我が時は未だ來らず』といつてゐるのは、

  「お母さん、あなたとパーソナルな家庭的な團欒の歓びを持つ時は、
   私が十字架にかかつた時です。
   それまではそんな悠長なことはできなのです」

   といふ意味なのである。

 
   そしてイエスは、十字架に釘けられた時、
   ヨハネ傳第十九章によれば、

   「イエスの十字架の傍らには、その母と姉妹と、
    クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立つてゐた。

   イエスはその母とその愛する弟子達が近くに立つてゐるのを見て、
   母に『をんなよ、視よ、なんぢの子なり』と言ひ給ひ、

   そして弟子達には『視よ、汝の母なり』と言ひ給ふた」

   とあるのである。

   「我が時は未だ來らず」と先に言つてゐられたところのその時が來て、
   イエスは、はじめて肉親の母と子の愛情を示し給ふたのであつた。

   傳道のみちはきびしいのである。

   片手間でやれると思ふのは「甘える心」である。

            <感謝合掌 令和6年3月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/03/10 (Sun) 05:04:00


(1)《自分を与えて、他から与えられる》

   金を儲けたいと思って小説を書いても
   其の小説は人の心を動かすことは出来ないであろう。

   人を動かす文学的作品は
   人を動かす文学的使命のみを深く感じた人のみによって
   製作せられるのである。

   人を動かす宗教的作品もまた然りである。

   金を神に祈っても何にもならぬ。
   神の世界には 「 金 」 などは存在しないのである。

   よき生活とか、豊かなる生活とか、美しき生活とか、愛深き生活とか、
   そう云うものは 実相の世界にもあるものだから祈れば与えられる。

   しかし先ず 「 自分の全力 」 を
   自分から与えねばならぬ。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13124555.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《肉体は生命力の貯水池》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ebd6d39a4ba597c90a3de1f23b6b5a38


   (抜粋として)

   吾々の肉体は
   吾々の生命力の貯水池のようなものである。

   吾々の生命力は
   肉体の中に仮りに体力として貯えられて
   各方面の用に使われるのである。

・・・

(3)《明るい心が幸福の根元である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   明るき心には 波長の共鳴の原理によって、
   明るきもの、楽しきもの、愉快なるもの、
   凡(およ)そ 見て楽しく喜ばしきもののみが集って来る。

   神は 「 喜び 」 であり、
   神の喜びが自分を通して表現されつつあるのである。

   喜びを表現しないものは 自己に宿る神を窒息せしめつつあるものである。

・・・

(4)《肉体的自覚の外皮を脱ぎ棄てること》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   この「 肉体としての自分の自覚 」 を脱ぎ棄てる程度にしたがって、
   内部にある「 神なる生命 」 が愈々(いよいよ)はっきりと展開して
   益々 その実相の完全さを発揮するのである。

・・・

(5)《何故、この世界に不幸が存在するのだろう》

   もし愛ふかき“神”というものがあり、“神”がこの世界をつくり、
   “神”が人間その他の生物をおつくりになったのだったら、
   どうして色々の生物は互いに殺し合い、食い合い、

   人間もまた他の生物と同じく、常に争い、殺し合い、傷つけ合い、
   病気に罹(かか)り、色々の悩み苦しみを嘗(な)め味わねばならぬ
   のだろうか ー こういう疑問が、

   常に“物質のみの世界”に生きている人から、
   無神論を正しいとする側の證明として提出せられるのである。

   しかし“霊の世界”に住み給う神にとっては 
   “物質の世界”にのみ住んでいる人間とは
   断絶関係にあるのだから、

   “神”は実在し給うてもどうすることも出来ないというのが
   現在の“神”と“人間”との関係なのである。

   その断絶関係を打破して、神と人間との関係を、父と子との関係に、
   神は“親様”であり人間は“神の子”であり、
   神は霊であり、人間も“神の子”であるから、

   どちらも霊であるから、神と人間とは互いに霊交できるという
   自覚に立ち帰ってこそはじめて、人間は神の祝福の霊波に波長が合い、
   色々の楽しい恩寵をゆたかに受け得るようになれるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12662814.html (消滅)

・・・

(6)《人類が肉食を止めなければ世界に平和は来らない》


   ちかごろの人間が“思いやりのない”冷酷、残酷な個人主義的感情を持っていて
   人間資格喪失の状態になっている原因の一つには、戦後の食物の変化が
   重要な役割を演じてると思われるのである。

   近頃の栄養学は、動物的蛋白質を良質の栄養素として宣伝し、料理法でも
   テレビの宣伝で、動物蛋白、幾グラムという風に教えるのである。

   動物の肉を摂取することは、
   動物の精神を自分の内部に吸収することなのである。

   肉というものはただの物質ではないのである。

   それは『甘露の法雨』に”心の絲を組み合わせて肉体の繭をつくり”とあるように、
   動物の肉は「動物の心の糸を組み合わせて」動物肉が出来ているのであるから、
   動物の肉を食うという事は、”動物の心”を自己の肉に摂取吸収することである。

   それだけ人間感情が動物感情に似て来るのである。

   動物を殺して食しながら平和論を唱えて見ても、
   それはただ偽善であり、滑稽なだけである。

・・・

(7)迷靈には問答打ち切り宣言が早いほどよい

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   迷靈との問答は、長くかかはり合つてゐると、
   人間を翻弄して樂しみたいのが彼らの人間に話しかける動機であるから、
   いつまでもその迷靈が粘り著いて間斷なく話しかける爲
   人間の方がノイローゼになつてしまふ。

   イエスと迷靈サタンとの問答は極めて簡潔にして、
   イエスは「去れ」といつて、迷靈を突き放してゐるのである。

・・・

(8)西田天香先生の示された傳道の範例

   私は傳道のきびしさを憶ふとき、いつでも一燈園の
   創始者西田天香先生の聖なるきびしさを思ひ出すのである。

   天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも
   測り知ることが出來ないで近親者がその枕邊に集つてゐるとき、

   天香先生は

   「人類が私の救ひを求めて私を呼んでゐるのだ。
    私はその方に赴かねばならぬ。
    それがまた保太郎の菩提のためであるのだ。さやうなら」

   といつて危篤の子どもを殘して人類救濟のために
   旅立つて行かれるのであつた。

   それは最近親者たる母に向つて
   「われと汝と何の關係あらんや」と淡々と言ひ切つて、
   「わが時は未だ來らず、また時が來たら會はうよ」と

   十字架上で母と再會する約束をしたイエスの心境と
   よく似てゐるのである。

   義は重く、眞理傳道の使命は重く、
   肉親の愛情はそれに比べれば輕いのである。

            <感謝合掌 令和6年3月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/03/11 (Mon) 04:59:43


(1)《より高き仕事に対する立場》

   「 斯う云う仕事はつまらない 」 と
   今従事している仕事に不満足な感じが起るのは、

   自分の内部生命が、もっと高い仕事を求めており、
  “ もっと ” 高い仕事に対する能力が
   自分に“ ある ” 事を内部から告げているのである。

   と云って今ある仕事を疎(おろそ)かにしては、
   “ もっと ” 高い仕事は恐らくは出て来ないであろう。

   高い仕事に対しては時としては
   見窄(みすぼ)らしい足場が与えられる。

   それに全力を尽すとき次なる足場が与えられる。

   現在の仕事に全力を尽し乍(なが)ら、
   その余裕で新しい仕事をやるのは好(よ)い。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13127396.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《一度失われた其の日の生命力は取り返されぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/43c6ce7d70d244e87e64f86abf60df4c


   (抜粋として)

   失われたその日の時間のエネルギーは
   再び取り返す事は出来ないのである。

・・・

(3)《彼を神の御手に預けるよう祈れ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神は決して誰一人をも見逃し給うことはないのである。
   彼も亦神の救いの御手の中にあるのである。

・・・

(4)《神想観を繰り返して 「 自覚 」》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神想観を実修する度毎に、
   自己の生命は暦(こよみ)の年齢によって老衰せず、
   如何なる外部的状態によっても破壊されざる金剛不壊の存在であることを
   知るのである。

・・・

(5)《あなたの祈りがきかれない場合》

   不幸は、神がつくったものではないのである。

   それは神から引き離された( 換言すれば“神の子”たる自覚を失って
   “エデンの楽園”から追放された )結果、恰(あたか)も、
   本来、法的には大富豪の跡継ぎ息子で無限の富をもっていながら、

   幼い時から家出をして、迷い児となり、放蕩息子となっていて、
   自分が大富豪の跡継ぎ息子であるということを自覚できない状態で、
   いろいろ艱難辛苦を重ねているようなものである。

   “ 大富豪 ”は吾々人間の“ 親様 ”の譬(たと)えであり、
   そんな場合、艱難辛苦を重ねている息子がいくら大声をあげて、
   「お父さん、どうぞ私を救けて下さい」と叫んでも、
   大富豪のお父さんには聞こえないのである。

   この大声あげて「お父さん、救けて下さい」と叫ぶ事が、
   恰度(ちょうど)、不幸や病気や災難で苦しんでいる人間が、
   神に祈って救いを求めていることに当たるのである。

   しかしその祈りは神に達しないのである。
   何故であるかというと、彼は物質の法則の支配する物質の世界にいて、
   神の霊波には波長の合わない、次元の異る世界に住んでいるからである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12666350.html (消滅)

・・・

(6)《松下幸之助氏の羽田騒動観》

   誰からか「経済雑感」と題した松下幸之助氏講演会の速記録が送られて来た。
   パラパラと頁をめくっていると“治安と物価”という小見出しのところに
   次のような文句が目についた。

   「・・・・・この前の羽田事件の問題でも、われわれの税金によって
   作られた立派な自動車が八台も焼かれました。
   これは皆さん、新聞でご存知だと思います。

   誰もおらんところで焼かれるのであるならば、これは焼き得るのであります。
   しかしあの前には千人の警官が警戒して焼けていく姿を
   じっと見ていたわけですね。そういう状態において八台の国家財産が
   消失してしまうという姿ですね・・・・・」

   私はこれを読んで今迄尊敬していた松下幸之助氏に対する尊敬が
   スーッと消えて行く感じがしたのである。

   長者番付のトップにのし上がり、その会社はついに半期に百億円を
   超える事業収益によって日本の実業家のトップに立った。

   すると人からやんやとはやし立てられて、
   日本で自分が一番偉い気になり、好い気になって説教をはじめる。

   そしてあの羽田事件で警官が五百名以上も重軽傷を負いながら、中には
   永久に不具廃疾になるような、脊髄骨を角材で殴られて重傷を負ってまでも、
   全学連を制するために戦っているのである。

   それなのに松下幸之助氏は、「あの前には千人の警官が警戒して
   焼けていく姿をじっと見ていたわけですね」と、

   警官は何もしないでじっと拱手傍観していたかの如き口調で、
   警官の在り方が治安の維持に責任がある、その責任を果さないで、
   ジッと見ていて国家の財産である自動車を八台も焼いたというような
   攻撃口調の講演となっているのである。

   これが今「日本の良識」の代表のように言われている松下さんの
   発言なのであるから私は茫然としてしまうのである。

・・・

(7)”聲ある聲”の靈の導きに警戒せよ

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   人間に話しかける靈が必ずしも善靈ばかりに決まつてゐない。

   第三者又は第二者の「聲ある聲」による”靈の聲”には
   關り合はない方が危険が少ないのである。

・・・

(8)眞理の傳道は命懸けの使命である

   「眞理の傳道」をイエスは「人の前にて我を言ひあらはす者」
   といふ表現を用ひてゐられる。

   「我は道なり真理なり、生命なり」とイエスは言つてゐられるので、
   「我を言いあらはす者」とは眞理を言いあらはす者
    ―― 即ち内在のキリスト ―― 佛教的にいへば
   ”内在の佛性” ―― を傳道する者の事である。

   イエスは次の如く言ひ給ふ。

   「暗黒(くらき)にて我が告ぐることを光明(あかるき)にて言へ。
    耳をあてて聴くことを屋(やね)の上にて宣べよ・・・・・
    凡そ人の前にて我をいいあらはす者を、
    我も又天にいます我が父の前にて言ひ顯さん。

    されど人の前にて我を否(いな)む者を、
    我もまた天にいます我が父の前にて否まん。

    われ地に平和を投ぜんが爲に來れりと思ふな。

    平和にあらず、反つて劍を投ぜんが爲に來れり。

    それ我が來れるは人をその父より、娘をその母より、
    嫁をその姑より分たん爲なり。

    人の仇は、その家の者なるべし。

    我よりも父または母を愛する者は我に相應(ふさは)しからず、
    我よりも息子又は娘を愛する者はこれを失ひ、
    我がために生命を失う者は、これを得べし。」
               (マタイ傳第十章第二七節三九節)

   どんなに眞理の傳道がイエスに於いてはきびしものであつたか、
   それは現象の生命よりも尚、尊いいのちがある。

   その實相のいのちを傳道するためには汝の父を、汝の母を、
   汝の息子を汝の娘を”執着の愛”から引き離たなければならない。

   「人の仇は、その家の者なるべし」とイエスは宣言してゐるのである。

   三島由紀夫氏はある意味に於いて、眞理のために、
   自己をその家族より引き離し、更に現象の生命や、
   文學的天分からさへも引き放し
   みづから進んで十字架の道を選んだのであつた。

            <感謝合掌 令和6年3月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/03/12 (Tue) 04:04:10


(1)《祈りは不断の生活にある》

   祈りというものは、必ずしも或る一定時間
   大声又は黙念で神に懇請する事ではない。

   常に魂の奥底で念じている事、常に言葉で話し合ったり、
   呟いたりしている事も 「 祈り 」 であるから、
   神想観の時間にのみ、 「 自分は既に健康である 」 と念じても、

   その他の時間に於いて、自分の苦痛を他に訴えたり、
   出来るだけ同情して貰おうと思って、病苦を誇張して
   語ったりする様では駄目である。

   病気や不幸や悩みは 常時、出来るだけ言葉に出さず、
   心に認めず、思わず、光明のみを念ぜよ。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13140836.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《金儲けに狂奔(きょうほん)して生命を縮めるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a57e6da6e05bc0cc5356a5baad19975c


   (抜粋として)

   吾々の生命力の尊さは、
   到底(とうてい)金銭を以て償うことはできないのである。

   金もうけに狂奔して健康を犠牲にし、
   肉体を完全に健康に守る所の法則を破って省みないという人が多いのは
   まことに残念なことである。

・・・

(3)《神は一羽の雀(すずめ)も見戍(まも)りたまう》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)
 
   愛する者が失敗しようとしているのを嘆くことは いらぬのである。
   その人は失敗するようにみえていても 神が導いて訓練していられるのである。

   神は決して その人から目を放ち給うことはないのである。
   あなたの智慧の導きよりも 神の導きは もっと正しく彼を導くのである。

   神に祈れ。 「 彼をあなたの完全なる智慧によって導き給え 」 と。

・・・

(4)《覆土(ふくど)を排除することによって新芽は伸びる》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   実相を観じていさえすれば、安保条約や軍備がなくてもよいではないか、
   憲法改正などしないでもよいではないか。ソ連からでも中共からでも、
   日本へ来たい者は自由に入国させてやればよいではないか ー などという議論は、

   「 実相の芽 」が顕われるために「覆土(ふくど)」を排除しないでもよい
   ではないかという議論に似ていて、実相の完全さと現象処理の問題とを
   混同した議論である。

・・・

(5)《祈っても通じない場合と、祈らなくても既に備わる場合》

   神に波長を合わして、自分の祈りを神に通じようと欲するならば、
   “物質”の次元の世界から、自分の“存在の自覚”を去って、
   “霊的次元の世界”に超入し、神と同じ次元の人となる時、

   換言すれば、自分は“神の子“であり、
   神の有(も)ち給える一切の御徳を継承する権利を
   そのまま既にもっているのであるという自覚を得たとき、

   もう神に向って叫ばなくても、要求しなくても、
   そのまま彼は“神の子”であり、
   既にあらゆる善(よ)きものが“自分のもの”となるのである。

   生長の家で、人間は“神の子”であり、
   祈っても、祈らくても、そのまま救われているのだと
   説くのは、そういう意味においてであるのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12669621.html(消滅)

・・・

(6)《全学連騒動の原因について》

   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7703461

・・・

(7)役職に從つて特命の守護神が與へられる

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   人には生れた時から生涯その人を指導守護するために任命された
   正守護神のほかに、その人の役職が重大な仕事である場合は、
   その役職について經験の深い高級靈が
   その職務遂行の守護の靈として命ぜられて付き添ふて來るものである。

   それを生誕と同時に來つた正守護神と區別するために
   假に副守護神といふことがある。

・・・

(8)悅びの生活への新生

   あなたは”神の子”であるから、
   その毎日を”神の子”の自覺をもつて迎へなければならない。

   ”十字架を負ふ”とは悲しむことではないのである。
   十字架はX(クロス・抹殺)と同時に
   +(プラス・復活)であるのである。

   それは過去の抹殺であり、唯物論の抹殺であり、
   ”神の子”靈的生命の復活であり、悅びの生活への新生である。

   生きる歡喜と情熱を持つて生活しなければならない。
   本當は、自分自身を肉體といふ物質的塊に過ぎないと
   思つてゐた限りにおいては

   あなたは本當の生き甲斐は感じられないで、
   ただその時その場の感覺の刺戟によつて快感を感ずるといふ
   物理化學的な反應みたいな生活をしてゐたのである。

   何故なら物質には希望も理想も使命感もなくただ
   ”不可不の法則”(斯くなるより仕方がない法則)に
   機械的に支配されてゐたにすぎなかつたのである。

   今より後、あなたは”神の子”の自覺を得たのであるから、
   靈的法悅の聖歡喜が充滿する生活を營むことが出來るのである。

   それゆゑにあなたは今朝から必ず毎朝起床と同時に

   「私は神の子、これから神の子の悅びの日が始まるのである。
    私は喜びを持つて生き甲斐ある一日の仕事に臨む。

    私は健康に恵まれ、良き家庭に恵まれ、深切な友人や同僚に恵まれ、
    私の仕事は樂しいのであり、現在の繁榮と將來の無限の發展とが
    約束されてゐるのである」

   といふ風に念じてから、その出發をなさるがよい。

   言葉は種子(たね)であり、よき言葉で想念することは、
   その善き言葉の内容を發芽させ、生長させ、開花させ、
   結實させることになるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/03/13 (Wed) 04:45:28


(1)《朝の祈りは斯くせよ》

   朝起きた時、眠いのに面倒だとか寒いのに辛いとか思うな。

   すぐ思いを神に転ぜよ。そして

   「 神よ、わが眠りのうちにも呼吸せしめ給い、
   血液を循環せしめ給い、消化と栄養と休養とを与え給いて、
   新しき今日の生活に準備せしめ給いし事を感謝します。

   是は皆神の創り給いし霊的法則によって行われたのでございます。

   夜中 安全に守られ 祝福せられました如く、
   今日も亦 安全に吾等を祝福し給いて
   家業(又は営業)にいそしましめ給え。
 
   神様 あなたの守りに感謝致します。」 と 祈れ。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13143699.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《始めから疲れているような人間になるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/336669be970d5b34e8d0e58cf8adf110


   (抜粋として)

   吾々の健康力は
   非科学的な出鱈目(でたらめ)な生活や、
   悪習慣や、放蕩三昧の行いや、
   その他 面白からぬ精神感動等によって
   低下せしめられるのである。

   会社員は、出勤して事務所に到達した時に、
   すでに疲労したような顔をしているのである。

   そんなことで良い仕事の出来ようがないのである。

・・・

(3)《目が覚めると先(ま)ず神を思い起せ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   毎朝 目が覚めたら まず神を思いおこすべきである。
   然(しか)らば 神も亦 あなたを思い起し給(たま)うであろう。

・・・

(4)《何故、現象界の処置が必要であるか》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神は無敵であるということは、
   何もしないで外敵に身をさらすということではない。

   時と処と相手に応じて、神が適当な処置をとらせ給うて、
   自然的過程を通じて敵と見えたものが害をしなくなるということである。

・・・

(5)《神は頼まなくとも常に恵みを与え給う》

   だいたい、神に祈るという形で、
   泣訴(きゅうそ)嘆願(たんがん)してみて、

   それによって神の心が動かされて、
   神が何とかしてくれるだろうなどという考えを
   今までもっていたのが間違いだったのである。

   神は頼まなければ、その愛のはたらきを営まない
   というような怠け者でも、
   感情の動きの鈍い鈍重(どんじゅう)な存在でもないのである。

   金光教祖がいみじくも喝破(かっぱ)したように、
   神は「 頼まないでもお陰はやってある 」と仰せられているのである。

   使徒パウロは、真理の伝道を妨げるためにイエスを迫害した ー
   換言すれば「光をくらました自分の心」の反影として「
   光を見ない盲人」となったのだが、

   その後、転心して「光を見る心」になったとき、
   片眼が見えるようになったのである。

   もう一方の眼は時々ぼんやりと見えたり、見えなかったりするのだった。

   それでパウロは、その見えない片眼の方も
   癒して貰いたいと思ってキリストに祈ったとき、

   キリストは天空から「わが恵み汝に足れり」と答えた
   と伝えられているのである。

   神は私たちに向って「神は、お前たちが頼まなくても、お陰は既にやってある。
   わが恵み汝に足れりなのだ」と仰せられているのである。

   神を放送局にたとえてみれば、頼んでも頼まないでも、
   視聴料を支払っても、支払わないでも、
   平等に全人類にお陰(放送番組)を与えておられるのである。

   しかもそれは充分に既に与えておられるのであるから、
   「わが恵み汝に足れり」なのである。

   しかもその恵みが完全に自分の身辺や境遇や健康にあらわれないのは、
   自分の心を波長のちがう処に向けているからなのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12669692.html(消滅)

・・・

(6)《何が青年を左翼運動に駆り立てるか》

   大分以前のことであるが、当時全学連の執行委員長をしていた一人の東大生の青年に、
   どうしてそのような全学連運動に挺身するようになったか尋ねて見たら
   次のような回答を得たと

   国民文化研究会(編集委員代表・小田村寅次郎氏)編集の
   『国民同胞感の探求』なる本の13頁に記載されているのである。

   「高校生(新制)のころから私には
   今の日本がずいぶん矛盾だらけに見えて来た。

   政治家や実業家たちの腐れ縁も新聞をにぎわしていた。
   上層部の人達の邪悪が、自分の心を捉えて離さなかった。

   やがて私はなんとかして世の中を改善する方法はないかと考えるようになった。
   書物を読みたくなったし、正義感から来る世の中を改善する方法はないものか
   と考えるようになった。

   その時たまたま、ほんとうに偶然であるが、
   手にするようになったのがマルキシズムの本であった。
   そしてそれを教え導いてくれる年長者と接する機会が与えられた。

   それからといいうものは、ただひたむきに心を弾ませながらそれを学んで来た。

   しかし、もしも私が高校生の時に、マルキシズムでない別のものに触れ、
   それを教え導いてくれる人たちに接していたとしたならは、
   その方向にまっすぐに進んでいたかも知れない。

   今から考えて見ても、その時はそれほど社会悪に憎悪と憤りを感じ、
   世の中をよくする方法を求める気持ちで一杯であった。」


   この言葉の中には社会正義を求める純情な青年の精神が満ち漲っているのであって、
   一方に於いて毎月幾百万円ところがり込む松下幸之助氏のような大富豪と、
   その日の衣食住にも事足りない貧民階級の人々とが、非常な懸隔をもって
   青年の目の前に立ちふさがっている事も、青年が赤化したり、
   全学連の人たちが社会革命運動を起こす根因があることを知らねばならない。

   松下氏はこのようなことを反省してみた上で、治安の問題など、単に
   政治家や警察官の不手際だと第三者の出来事の如く批評が出来るであろうか。

   全学連下運動のような危険な運動を阻止するには、もっと視野を広くして
   多くの階層の人達が真剣に協力する必要があるのである。

・・・

(7)副守護神と司配靈とについて

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   普通、副守護神と稱する場合には、誕生の時以來、
   生涯を通じて守護して下さる高級靈なる正守護神以外に、

   後からその人に扈從又は憑依してゐる守護霊のあらゆる種類を
   ひつくるめて稱する場合が多いのである。

・・・

(8)心と行動に太陽をもて

   あなたは一分一秒といへえども暗い想念や陰鬱な感情で
   自分の心を滿たしてはならないのである。

   常に積極的に、前進的に、物を考へ、明るい心をもつて、
   常に今よりも一層善き状態が顕れて來ることを信じて、
   勇氣を以て仕事に取り掛かるのがよいのである。

   あなたは自分の”生命エネルギー”を情熱をもつて獻げなければならない。
   豐かに獻げることをもつて歡びとせよ。

   豐かに獻げるとき、
   報い求めずして却つて一層大いなる報いが返つて來るのである。

            <感謝合掌 令和6年3月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/03/14 (Thu) 04:18:24


(1)《顔を洗う時の祈り》

   顔を洗う時にも、神に感謝せよ。
   和解するとは感謝することである。
   先ず神に和解しなければならない。

   洗面の水を汲んでは、

   「 神よ、あなたの創造(つく)り給いし水に感謝致します。
   わが顔を洗う事は
   過去に過ちて人を憤り 憎み 恨みたりし 不快な思いを
   悉(ことごと)く洗い流して、
   新しく悦びに満ちた生活を始める象徴として感謝します。

   水は 神の愛の現(あらわ)れであります。
   この愛に浴せしめたまいて わが生活を浄め給え。

   この水によって わが皮膚が美しく清らかに保たれます事を感謝致します。」

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13146472.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《奉仕する心で働かない者は多くの報いは期待できぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/17cc10be369b926cf12f5351b88e4602


   (抜粋として)

   「 与えれば与えられる 」 が心の法則であるから、
   人に奉仕する心なくして出し惜しんだ働きで、
   多くを与えられることはあり得ないのである。

・・・

(3)《他(ほか)から妨げられるのも神の導きである》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神の智慧に頼るものは、
   自分の動きが たとい他から妨げられることがあっても、
   それに対して不平をおこす事はないのである。

   自分にとって適当でないものが自(おのず)から妨げられて行く所に
   本当の神の導きがあるのである。

・・・

(4)《実相の顕現としての幸福生活》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   本当に永遠にくだけない不滅の幸福生活というものは、

   それは自己の生命の深層に横たわる普遍なる神(実相)から
   汲みだされて来てあらわれて来るものなのである。

・・・

(5)《祈りがきかれる場合の機構について》

   神が鈍重で動いてくれないのを、叩き起すために、
   私たちは祈るのではないのである。

   神は冷酷で、私たちが憐れみを乞わなければ救けてくれないからとて、
   神の憐れみを乞うために祈るのではないのである。

   “人間”自身の心境が、物質界の方向へばかり意欲が向(むか)いていて、
   心のアンテナが、神の「恵み番組」の放送局の方へ向(む)いていないのを、
   匡(ただ)すために、“自分の心”(これがアンテナに当たる)の向き方を
   変えるために祈るのである。

   そして神に対して一心に祈っているとき自然に自分の“心のアンテナ”が
   “神の放送局”の方へ向くことになり、既にあり、またこれからも常にある
   ところの“神の恵み”の放送を受像し、それが眼に見える形で、
   自分の健康状態や境遇や運命にあらわれて来ることになるのである。

   その時、
   人間は、「祈りがきかれた」「祈ったものが与えられた」と思うのである。

   本当は、祈らなくとも与えられていたものが、
   祈りによって人間自身の心の波長が、
   既に与えられていた恵みを受像し得るようになったのである。

   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12673972.html(消滅)

・・・

(6)《資本主義社会の欠陥について》

   無論、どんな経済組織の中にあっても、微賤貧困より立ち上がって
   大富豪になる人も、位人臣をきわめる人達もある。

   現に松下幸之助氏の如きは、その最たるものであって、
   小学校教育さえ碌々受け得られない境遇の中に育ちながら
   今日の大を成し得た立志伝中の人である。

   私は資本主義経済組織の下積みとなって社会を詛い、国家を呪っている
   人たちを反省させたり激励するために、ヘンリー・フォードが一介の
   機械職工であったのが自動車王になり得たり、高橋是清(嘗ての大蔵大臣)氏
   がアメリカで皿洗いをしていた貧しい青年であったことや吉川英治氏が
   船の錆落としの製罐工であったり、山岡荘八氏が親の貧困を救けるために
   新聞配達の少年として苦労の末、今日の大を為した事等の実例を挙げて、

   資本主義社会は、共産主義や、社会主義社会よりも、立身出世の機会が
   多い事実を挙げて、呪詛することの代わりに、心を一転せよと、
   慰撫と激励の資料とすることはある。


   けれども資本主義社会には根本的欠陥があるのである。
   それは優勝劣敗の世界であるという事である。

   本当に愛深い人は「劣敗」のある世界を調和ある世界だと
   見ることは出来ないのである。

   爰(ここ)に、「資本主義世界に於いても立身出世の実例はある」と、
   いくら前記の如き人々の名を挙げて見ても、劣敗者なき調和ある世界を
   希望する青年には世界革命の希望を捨てることが出来ない理由があるのである。

・・・

(7)絶對の神は、相對の人格神となつて自己完成する

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   ”神”が救済を完うし得る本當の神となり得るためには、
   絶對者が相對的人格神としてあらはれて
   救濟の御業を現實になさなければならない。

   即ち法身の阿彌陀佛が、
   報身又は應身の佛如來として顕現しなければならないし、

   「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして
   顕現しなければならないし、

   天之御中主神が住吉の大神として顕現しなければならないし、
   宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。

   神が神たる慈悲の本來をあらはし、神たる使命を完了するためには
   色々の宗教に於て”教祖神”として”神”はあらはれなければならないのである。

   神の具體的な人格的慈悲の完成は
   應身の教祖となつて顕はれることによつて完成する。

・・・

(8)あなたの肉體を完全健康に復するには
 
   あなたが神想觀を實修して、自己の心を調律し、
   神なる本源に波長を合はせる時、神の無限の智慧が
   豐かにあなたに流れ入つて來ることになるのである。

   私たちの體は決して單なる”物質身”ではないのである。

   それは神の智慧によつて支配されて出現した
   ”アイディア”の體である。

   神の智慧が完全にあなたの體を支配してゐるとき、
   あなたの體は最高の健康さを發揮するのである。

   もしあなたの體から神の生命が脱出し、
   神の智慧の支配がなくなるとき、直ちにその肉體は
   原形をとどめることができず、崩壊はじめるのである。

   もしあなたの體に病弱の徴候があらはれるならば、
   神の智慧の支配の他に、人間の雑念が混入して肉體を支配はじめて、
   ただ”一つ”の最高の叡智に支配される%が減じ始めた徴候であるから、

   神想觀を充分實修して自己の想念感情を神の波長に同調し得るやうに
   調律するがよいのである。

   完全に調律せられれば、完全な健康が囘復するのである。
 
            <感謝合掌 令和6年3月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/03/15 (Fri) 04:59:26


(1)《顔を剃(そ)るときにも》

   顔を剃る時もその剃刀(かみそり)に感謝せよ。

   「 この剃刀は 神の愛と智慧との表れでございます。
   之によってわが容貌が美しく保たれ
   清々(すがすが)しい気持を蘇生(よみがえ)らせて頂きます。

   この剃刀の切れ味は、神の智慧の現れでございます。
   顔に‘ふき’出物もなく美しく滑かなる皮膚は
   神の愛の現れでございます。」


   眼を洗っては

   「この眼は 神様の光を見る眼でございます。
   もっと多く神様の光を拝ませて頂く様に
   心の眼を開かしめ給え。

   如何なる複雑なる物の奥にも
   神の愛が満ちている事を見せしめ給え。」


    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817365.html(消滅)

・・・

(2)《休日の翌日の勤務状態は大抵悪い》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ac7ff90053dbf2987efeb6ee3a37674d


   (抜粋として)

   大抵の社員は休日の翌朝出勤すると、
   まだ出勤したばかりであるのに
   既に長期間の激務に従事した後であるかの如くすでに疲れており、
   できるだけ早く自宅へ帰って休みたいような様子に見えるのである。

   そして全く仕事が手につかない。

・・・

(3)《そのままの心が神に一致する》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   心が型に捉(とら)われず、偏らず、かたくなにならず、
   すなおに、そのままに、のんびりとなっている時に
   神の智慧と本当に一致するのである。

   そのままが最も善いのである。
   道元禅師の身心脱落、脱落身心の境涯である。

・・・

(4)《脚下にしっかりと実相を踏んまえて》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

   (抜粋として)

   神想観中には、
   現象を観るな。
   実相ばかりを観よ。

   実相を観ずることに徹底せよ。

   そして内部から催して来る智慧によって外界に向って行動せよ。

・・・

(5)《肉体という“ 道具 ”の主人公となること》

   新たに生まれるということは、
   肉体の習慣性や本能に左右せられることなくして、

   神からのアイディアを受信して、
   肉体の習慣や、物質の法則や、種族の本能などを利用しつつ、

   それを道具として、神の国にあるアイディアを
   現象世界の姿に構築することなのである。

   ここに注意すべきは、肉体の習慣性や本能を無視するのではなく、
   それに支配されることなく、それを道具として
   地上に天国を建設することなのである。

   煩悩をそのまま菩薩に転ずることなのである。

   欲望をすべて煩悩として排斥してしまったら、
   人間に行動の意欲がなくなってしまうから、
   それではいけないのである。

   煩悩は肉体に属する“ 機械の運転力 ”見たいなものである。

   その機械をどの方向に利用するかは、
   人間の魂の指揮権に属することである。


    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12678404.html(消滅)

・・・

(6)《社会主義は果たして人間を幸福になし得たか》

   しかし資本主義社会をつぶして共産主義社会や社会主義国家を
   つくり出しても果たして人間は幸福になれるだろうか。

   ソ連の民族はアメリカの民衆よりも裕かで幸福であるだろうか。
   ソ連にも階級があり僻地の寒村の農民の生活とフルシチョフや
   コスイギンやブレジネフの経済生活は平等であるだろうか。

   革命後五十周年を経て、今日の安定を得るまでにソ連国民は
   千万人単位で数えるほどの粛清の犠牲者を出したといわれている。

   優勝劣敗の世界の劣敗者のなき世界をつくりたい真に愛深き青年は、
   そのような犠牲者を出す革命を「善し」と観ずることができるだろうか?

   私は目的のためには手段を選ばず、その過程に於いてそのような
   犠牲者を出す如き運動には反対せずに居られないのである。

   一人の人間と雖も、神から何らかの使命をもって
   地上に誕生せしめられたる者である。

   手段のためにそれらの人々を一人でも殺すことは
   神に於いて許さるべきことではない筈である。

   そして常に目的のために手段を選ばず、
   そしてその目的は何時になっても完全に達成することが出来ず、
   常に手段手段の生活のみを営んでいる如き運動に対しては尚更である。


   諸君はこのような運動に迷わされることがあってはならないのである。

   要するに資本主義も社会主義も結局”物質”の裕かなる配分方法によって
   人間に幸福が来るという幻覚の上に成立っている点に於いて、
   どちらも唯物論の落し児であって、どちらの制度も経済組織も
   真に人間を幸福にすることは出来ないのである。


   真に人類を幸福にする道は、
   人間そのものの自覚に革命が行なわれなければならないのである。

・・・

(7)宗教にも色々の段階がある

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   宗教にも高級な宗教から狐狸の類の靈示による宗教に至るまで、色々の段階があり、
   それに魅せられたり、その教へに同調する心の持主が信者となるのである。

   そして色々の新興宗教や疑似宗教的なものが發生するのである。

   その指導靈又は司配靈の正邪及び力量によつて、最高といへないが、
   或は人間を正しく導く宗教もあらはれ、或は時には淫祠邪教となつてあらはれる。

・・・

(8)人體を再創造する不思議な力

   あなたの人體を設計し、胎児の間から今日の成人の姿になるまで
   造構して來た神秘な智慧は今もあなたの體内で活動を
   つづけてゐるのである。

   人體を創造したところの智慧は、
   その人體に欠陥や消耗が生じ機能が減退して來たならば、
   それを再創造する智慧と力とを持つてゐるのである。

   それは激しい勞働で指紋が擦れちびて消えてしまつてゐても、
   また元の指紋を間違ひなく作り出すことが出來るやうに、
   内臓や腦組織の?陥でも、本來の規格の通りに
   再創造することが出來るのである。

   しかし私たちは、その再創造の力を信じなければならないのである。
   もしそれを信じないで、自分の勝手気ままな腦髄の不完全な知識で、
   何とか修理しやうと思ふならば、

   この本質の人體に宿つてゐる叡智はソッポを向いてしまつて、
   人間知識の不完全な修理をただ傍觀してゐて、ただ御座なりの
   生理作用を習慣的に繼續することになるであらう。

            <感謝合掌 令和6年3月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/03/16 (Sat) 05:02:48


(1)《食事の時の祈り》

   食事の時の祈り方は 『 生命の實相 』 地の巻の巻頭にある。
   併し必ずしも一字一句あの通り祈らなければならぬと云うのではない。

   起床でも、洗面でも、髭剃りでも、食事でも、
   それを機会に神様の徳を讚え、神様に感謝する念を起すが好いのである。

   「 宇宙の大気と光線と土壌とから、
   この美しく美味なる食物をつくり出し給いし
   神の不思議な力に感謝致します。

   種子、太陽、土壌、雨、農人、悉く神の愛の現れでございます。
   神とこの食事を造りたまいし人々に感謝致します。」

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13158902.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《休日を生命力の浪費に使うな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/404686637c8d16490700313d1d84fffe


   (抜粋として)

   彼らはそれをレクレーションと思い違え、
   「 人生を享楽(きょうらく)した 」 と考えて、

   その享楽のために
   如何に尊い生命力を犠牲にした事に気がつかない。

・・・

(3)《神は 光である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神は光である。
   どこにも暗(やみ)はないのである。

   もしあなたが神の智慧の方へ振り向くならば 一瞬の中(うち)に、
   神から射(さ)してくる光は 事件の全体を照して、
   直ちに その事件を光明化してしまうことができる。

・・・

(4)《悪しき存在はすべて迷いの影である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   此の世界は、善なる神の創造せる世界であり、
   神のみが唯(ただ)一(ひと)つの存在の根源であり、
   人間は、善なる “ 神の子 ” であるから、
   悪なる存在もなければ、悪なる人間もないのである。

・・・

(5)《“ 肉体 ”という皮袋を装って》

   肉体という“皮袋”を装って生まれ出たために、
   霊的感覚を謂わば“目隠し”されているようなのが人間である。

   そんな人間が“霊”そのものなる“神の国”への旅をつづけるには
   余程の勇気と忍耐と努力の継続とを必要とするのである。

   私たちは、時々、その目隠しを外して、霊的世界を直視する努力を
   続けなければならないのである。

   即ち 眼を瞑(と)じ、肉体の感覚を蕩尽(とうじん)して、
   ひたすら心を“実相の世界”に振り向け、

   その“神の国”の状態と、
   “神の国”に棲む一切生物の調和せる状態とを凝視して、
   その印象を肉体の潜在意識に刻みつけ、

   その潜在意識の波長が、常に、“実相世界”(神の国)の状態を
   現象世界にそのまま歪めずに映出する“媒介”となるように
   しなければならないのである。

   私たちの潜在意識の波長が常に“実相世界”(神の国)の波長と
   合うようになっているならば、つねにスイッチを入れて
   放送局にアンテナを向けて波長の微調整を終ったテレビ・セットのように、
   “神の国”そのままの映像を現象世界に常に実現することが
   できるようになるのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12681508.html(消滅)

・・・

(6)《吾らの人類光明化運動》

   人間の自覚の革命のみが、人間を真に幸福にすることが出来るのである。

   この自覚の革命運動が生長の家の人類光明化運動なのである。

   自覚革命が出来た時、その社会体制がどうあろうとも、
   その経済組織がどうあろうとも、その人の身辺には
   ”福の国”とも謂うべき至福調和の状態が顕現するのである。

   そして大多数の人々の自覚の革命が成就した時、自覚の革命の反映として
   社会体制と経済組織も自然に一変して来るのである。

   この自覚の革命を得ることをイエスは「新たに生まれる」といい、
   「人新たに生まれずば神の国を見ること能わず」と訓(おし)えたのであり、

   この自覚の革命を得ることを釈尊は「悟りを開く」といったのであり、
   維摩経には「菩薩、心浄(きよ)ければ浄土浄し」と訓えているのである。

   自覚の革命なしに、物質の配分方法さえよければ人類に幸福来るなどと考えるのは
   「いたずらに夢を追いて走る者にして、永遠に神の国を見ることを能わず」
   (『甘露の法雨』釈意)であるのである。

・・・

(7)このやうにして發生する宗教もある

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   或る時、東京都に”宇宙教”とみづから稱する宗教が發生したことがある。
   その教祖といふのは婦人であつて、自己催眠状態又は神憑り状態になつて
   喋り出す時には、みづからを宇宙創造神であることを名乗り

   人智では量りがたいやうな神秘なことをいふらしいので、
   それに魅せられてその信者になつた白鳩會の一部會員もあつたほどであつた。

   近いうちに谷口は死んで、生長の家は後繼者もなく亡びるとか、
   生長の家の本尊は何とかいふ天體から天降つて來た邪靈であるから滅びるとか何とか、
   立證の仕様もない事を眞實めかしい信念の語調でいふものだから、
   却つて魅力があつて人を引き付けたのであつた。

    (中略)

   それからもう十五年も繼つが、こちらの方は彼女の豫言通りには死なないで、
   立派な後繼者も出來て教勢は日に日に發展しつつあるのである。

   以上の程度の司配靈や野心のある邪霊が神示と稱するものを喋つて立派に
   長く存續することもあり得るのである。

・・・

(8)われ等、神の最高の自己實現として
 
   わたしたちの心は、表面にあらはれて、
   今明らかに動いてゐると見える現在意識は、
   心の一少部分であつて、

   意識されない意識は――即ち”無意識”とか”潜在意識”とか
   稱せられる意識は、われわれの心の大部分を占めてゐるのである。

   ある心理學者は、現在意識を心の5%とし潜在意識を心の95%
   といふ風に心の領域を分割してゐたが、實際は、

   潜在意識の領域は95%とハッキリ言ひ切ることが
   出來るやうな狭隘なものではないのであつて、

   その底邊は人類全體の潜在意識(人類意識)につながり、
   更に宇宙意識につながり、又更にその最深層に於いては
   超越意識ともいふべき”神の意識“につながるのである。

   だからもし私たちが潜在意識の深層に横たはる叡智と力とを
   動員することができるならば、人間は本當に神の最高の自己實現
   たるにふさはしく想像に絶する力を發揮することができるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/03/17 (Sun) 05:01:13


(1)《凡ゆる機会に祈ること》

   出勤の時、電車に乗っても 其の電車に感謝するのである。
   かくの如く凡ゆる機会を 神に対する感謝の機会とするのである。

   かくて、その人の生活全体が 「 祈り 」 となり
   「 念仏申す心 」 となるのである。

   「 この電車は 神の愛と、智慧と、吾々を生かしたまう力との
   表現(あらわれ)でございます。神の法則がこの電流の中に行われ、
   それによって電車が動いているのです。

   私がこの電車に乗ることによって、
   私は神の智慧と愛と生命とに直接接触しているのです。

   この電車を動かす偉大なる力は私の中にも流れているのです。」

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13161387.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《憐(あわ)れなる人々を見よ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a3c4877a8482c4d01684e83a701730e9


   (抜粋として)

   大抵の人たちは 休日を
   直(ただ)ちに 「 心身を休める日 」 として用いないで、
   心身を一そう疲労さす日として用いるのである。

   次の日の能率が上がらないのは当然である。
   そしてそれらの人達は 自分の精神力の低下、能率の不足を、
   与える仕事量の少なさを省みないで他を呪う。

・・・

(3)《自己に光を点(とも)すには》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神の光を受けるには、 「 与えるものは 与えらる 」 の法則に従って、
   自分自らが 他の人に光明を与えるものとならなければならないのである。

   まず 喜びの微笑(ほほえみ)を与えよ。人に慰めを与えよ。
   人々に希望を与えよ。深切を与えよ。

・・・

(4)《馬を“宝の車”の後ろにつなぐ勿(なか)れ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 が
   正しき順序であるのである。

   多くの人たちは 「 その余のもの 」 (現象存在)を先ず求めて、
   それが沢山整うたら「神の国」ができ上がるように思っている。

・・・

(5)《潜在意識に“ 神の国 ”が印象されているならば》

   私たちの潜在意識に、“ 神の国 ”の完全世界の光景が、
   恰もテレビのビデオテープのように印象されているならば、
   そのビデオテープを放送セットにかけて放送すれば、

   ビデオテープに印象されている“神の国”の光景が
   受像セットにあらわれて来るのと同じように、

   常に吾々の住む世界に“神の国“の調和した光景があらわれて来るのである。


   それは突如として“神の国”の光景があらわれるというよりも、
   法則的秩序を通し、時間の流れを通して、空間面に
   それがあらわれ来(きた)るのである。

   先ず“神の国”を実現するためのアイディアが
   私たちの肉体の脳髄に閃(ひらめ)き
   出(い)でて来ることになるのである。

   そしてそのアイディアを実践することによって、合理的順序を踏んで、
   あなたの環境が“ 神の国 ”的調和した姿となってあらわれて来るのである。

  http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12687565.html(消滅)

・・・

(6)《どうして大人と若い人との考え方に断層が穿たれたか》

   戦前、戦中、戦後の日本人はそれぞれものの考え方が違っていて
   其処に深い断層があるように言われている。

   戦前(概ね、明治時代)に生まれた人には、しっかり勉強して大いに
   立身出世をしよう――それを理想としてコツコツ勉強し仕事に精励する
   所謂る”立身出世型”の人が多かった。

   そして君に忠に、父母に孝に、兄妹夫婦仲よく相和し一旦緩急あらば、
   義勇公に報ずる堅実な道徳型タイプの人が多く、所謂る「教育勅語」型が
   理想像で、そのような人が尊敬せられていたのであった。


   ところが戦中になると、立身出世型は個人主義・利己主義的であると排斥せられ、
   一切の個人的欲望を廃無して天皇中心に義勇公に奉ずる全体主義的生き方が
   尊重せられ、日本は独逸及びイタリーと結んで、天皇を中心とする
   ファシズム的全体主義に否応なしに追随せしめられることになった。

 
   ところが敗戦によって戦後となると、今迄の一切の個人的欲望を棄て、
   全体を衛るために戦った戦争を「侵略」であると決めつけられ、

   戦争中の愛国者は戦争犯罪人として起訴されたりこき下ろされたりした結果、
   全体即ち「公け」のために尽すよりも個人主義的に生きるのが、

   所謂る民主主義的で時代即応の生活だという事になり、戦中に国家主義的に
   戦争を煽って来た文化人の中には、転身いち早く進歩的文化人となって、

   戦中の顔を洗って戦中の自分の言論など全く忘れたように、
   日教組の講師団のメンバーとなり、反国家的マルキシズムの思想を宣布する
   闘士になった人たちも可成り多く、

   これ等の人々が教壇に立って、反国家的、反天皇的、反全体的、反公け的
   こそ新しき個人の目覚めでありこれこそ正しい生き方であると
   生徒や学生たちに教えるようになった。

   そのような教育を受けた人が所謂る戦後に育った若い人であり、
   戦後既に二十二年も経過した今日では、そのような教育を受けた人が
   既に学校教師として、自分の好きなように、個人主義的、利己主義的
   に生きる事こそ基本人権尊重の生き方であり、

   家や国家や父母その他の目上の者に対する孝養を尽すなどという事は
   封建的、反動的で間違った道徳だと訓えるようになった。

   こうして明治や大正生まれの人達の考えた道徳観とは全然別の
   人生観に立つ青少年が族出することになって、明治時代の人間と昭和時代の
   若い人との考え方に深い断層が穿たれることになったのであった。

・・・

(7) 『自靈拜の哲理』と”實相禮拜”

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   以上の如く佐藤博士の言はれる意味に於て”個”に宿る”超越者”を、
   自己の”實相”として禮拜するのが「自靈拜」であり、
   生長の家に於ては『實相禮拜』なのである。

・・・

(8)人間の地上降誕の意義について
 
   人間は神の最高の自己實現として、神なる普遍的大生命につながり、
   その普遍の表現力に押し出されて、

   彼でなくてはできないところの特殊な個性的使命を持つて、
   神の叡智と無限大の生命力とを流し入れられて、
   ”神の愛”を地上に實現しようとする使命を
   意識的又は無意識的に行はうとしつつあるのである。

   そしてその使命が順調にのびのびと遂行される時には、
   その使命を遂行することが、彼が地上に降誕した目的なのであるから、
   彼は生き甲斐を感じ、

   さうでないときは生きる歡びが感じられないので、
   それを胡魔化すために肉體の享樂に走つたり、憂鬱にとぢ籠つて、
   時には”死”さへも希望するのである。

            <感謝合掌 令和6年3月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/03/18 (Mon) 04:59:57


(1)《車中の群衆に祈ること》

   車中の群衆に もまれながらも祈れ。

   「 これらの群衆は皆神の子であり、吾々の兄弟である。
   その一人一人は神から与えられた尊き使命を果さんがために
   今 此の車中にいるのである。

   ある人は人類に驚くべき祥福を与えるための使命をもって行く途中である。

   神よ 此等の人々を祝福したまえ。
   此等の人々が皆 無事で幸福に目的地に達することが出来ますように。
   また この電車に故障がありませんように。

   これらの人々の家に残っている家族たちが皆な幸福で健康でありますように、
   神よ 彼らに祝福を与えたまえ。 」

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13216454.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《自分の運命は自分が造る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5798ef1d2f7a1b278ba30ff640148c2b


   (抜粋として)

   自分の運命が向上しないのは、
   自分の与える分量が少ないからである。

   すべて自分の運命は
   自分自身で作るのである。

・・・

(3)《神を生きる自分》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   吾が生活は 神の生活である。
   吾が身は 神の身である。

   常に神は わが血液とともに全身をめぐる。
   わが全身は常に健やかであるのである。

・・・

(4)《私たちは自己の運命の主人公である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   現象世界が、実は、「 生活する人 」 自身の
   “ 心の状態の顕われ ” であることを知るとき、

   その人は自分の心を支配することを通して、
   病気をはじめとして人生の諸問題を自己の欲する方向に
   変化する事ができるのである。

・・・

(5)《あなたは常に進歩することができる》

   私たちの潜在意識が “ 実相世界 ” に
   波長が合うように調整されているならば、

   “ 実相世界 ” には、無限に良きアイディアが
   充満しているのであるから、

   私たちは常に実相世界から放送されている新しきアイディアを
   次から次へと受信することが出来るのである。

   神は無限であり、神の国も無限であるから、
   “神の国”にあるアイディアも無限であり、

   古きアイディアを重複して再放送しなければ
   アイディアが足りなくなるような
   人間界の放送局とは異るのである。

   常に新しきアイディアを受信し、
   それを実践することによって人間は常に無限に進歩し向上し、
   文化も無限に発達することになるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12688064.html (消滅)

・・・

(6)《占領軍は日本国民の結束力の破壊に成功した》

   占領中に言論統制を、日本弱体化の方向に集中した占領軍は、
   日本が世界五十二カ国を相手として、あれだけよく戦うことが出来た
   日本国民の結束力を緩めようとして、国民結束の中心であった天皇から
   一切の権能を剥奪して、結束の中心を失わしめるように努力したのだ。

   そして、国民が結束するよりもバラバラになることが人権尊重の近代思想
   であること、国家のために忠義を尽すなどは最も馬鹿げたことであって、
   その馬鹿げたことを演じた結果が、国土の至る処をこのように灰に
   してしまったではないか――と焦土と化した大都市の当時の現状を
   証拠物件として、所謂る愛国心の愚かさを強調したのであった。

   そしてその愚かな愛国心が崇拝した”中心”が天皇であり、
   天皇崇拝、天皇国家崇拝ほど馬鹿らしいものはない。

   国家を護るには、天皇の御名御璽で出た宣戦の詔勅などに従うべきではない
   のであって、自分の国家は、今後馬鹿げた戦争などをしないように
   国民みずからが国家の主権をもって、国家の進む方向を決めなければならない

   ――こういう考えに誘導して国民結束の中核たる天皇から主権を奪って、
   「主権は国民に在りと宣言し」と冒頭に謳った現行の日本国憲法が
   押し付け的に制定されることになったのであった。

・・・

(7)”神の間”は”空”である

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   生長の家の建物に圓塔がある。
   これは七階に造られていて、その最上階が”神の間”であり、
   そこには何も物質的な形あるものは安置してない。

   (中略)

   ”神の間”が何もなく空であるのは、普遍の超越神の御座所であり、
   何かを安置すればそれだけ超越神を、人間の觀念で固定することになるから、
   それを避けるためである。

・・・

(8)個性の發揮と全體の調和と

   宇宙普遍の神の叡智は、夫々の人間をその創造の起點及び據點とし、
   新しきアイディアを各人の心の中に注ぎ込み、
   その人でなければならない獨特の個性ある姿にて、
   宇宙ぜんたいに美しき曼陀羅を織りなし給ひつつあるのである。

   創造の本源者は”唯一”であるから、
   各人の生活や行爲や創造はそれぞれ個性を發揮しながら、
   與へられた個性が完全に發揮されれば發揮される程全體の調和が取れ
   全體の美しき構圖の意義が發揮されるのである。
 
            <感謝合掌 令和6年3月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/03/19 (Tue) 04:58:30


(1)《蒔いた種子だけ生える》

   普通の人間の望むところは
   健康と富と幸福感とである。

   幸福感のうちには
   自分の能力の生長感や、
   世間や家族から感謝尊敬せられたい念や、

   事業の繁栄伸展や、
   よい考えが浮かぶと云う事や、

   愛されている感じ、
   愛している感じ、

   創造にともなう幸福感などがある。

   それを得るにはどうしたら好いか。

   愛されたければ
   先ず愛することである。

   尊敬されたければ
   先ず他を尊敬することである。

   家族を尊敬する家長は 家族から尊敬せられ、
   工員を尊敬する工場主は 工員から尊敬せられる。

   蒔いた種子のみ生えるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13221451.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《肉体は生命の乗馬》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/38206a9621f5c0c5901a36ffcc053d47


   (抜粋として)

   霊魂は騎手であり、
   肉体は それに乗って人生を走るところの 「 馬 」 である。

・・・

(3)《自分の心が変れば周囲が変る》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   自分の心の通りの世界が現われるのである。

   自分自身の心が変れば 周囲が自から変るのである。

・・・

(4)《自己の自覚の程度の投影としてのその人の現実生活》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   一切の不調和がまだその人の運命、境遇、環境、家庭等から消えないのは、
   その人が本当に「 実相 」の完全さを自覚していないか、
   たとい自覚していても、心が「 実相 」の完全さにのみ集注しないで
   道草を食っているからである。

   私たちは「 実相 」以外のものに、「 神の国 」以外のものに、
   心を止めて道草を食ってはならないのである。

・・・

(5)《神の自己実現としての生き甲斐》

   私たちは、神想観を毎日怠らず実修して、潜在意識を浄化し、それを微調整して
   “ 神の国 ”に心の波長を合わすことにしているのである。

   それゆえに毎日毎日私たちは新しきアイディアを受信し、それを実行して、
   毎日向上するのである。

   「 人間は病むべきもの、死すべきもの 」などという肉体の習慣的想念を、
   神想観による神との一体感を通して毎日一層多くそれから脱却するがよいのである。

   人間は神の自己実現であるから、「 人間知恵 」 の迷いのレンズを通して、
   神からの自己実現の映像を曇らせてしまわない限りは、

   自然に自分の意欲するところが“ 神からの催し ” であり、
   自然に自分の環境にあらわれて来る人間関係や経済事情が、
   神さまから与えられた「 人生学校 」 となり、

   色々の教訓をそこから学びとり、学びとるに従って魂が向上し、
   魂が向上するに従って、物質的次元以上のよろこびを魂が味わうことが出来、
   生き甲斐が増して来るのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12692749.html(消滅)

・・・

(6)《植民地文化の花咲く日本》

   こうして戦後の若い人たちは、物心のつく怱々愛国心のバカらしさ、
   天皇崇拝のバカらしさを教えられ、恰もその時、占領行政によって
   日本赤化の目的で占領軍が刑務所から解放した共産党員及びその主義者が
   中核となって出来上がった教員の団体日教組が日本の教育を支配するようになった。

   これらの共産主義者は天皇あるが故に、旧体制の日本国あるが故に、
   不敬罪や治安維持法に引っかかって投獄された人たちであるから、
   根本的に日本国に対する復讐的立場に立っており、天皇攻撃、
   旧体制日本国破壊を目ざして教育もし運動もして来たのであった。

   そのような赤化運動の中で、そのような赤化教育の中で育って来た
   戦後の若い人たちが、古来今日に至るまで、日本の国土に於いて、
   日本民族が旧き時代より祖先代々積み上げて来た国家形成の独特の美点も、
   すべての文化的遺産の美しさをも、掻い撫でに一切排除すべきものとして
   戦勝国追随の植民地文化を花咲かせ始めたのも無理からぬことである訳だ。

   しかし日本国は果たしてこれでよいかということだ。

・・・

(7)本尊として祭祀する「實相」の由來

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   (宗教法人法の規定により)

   禮拜の對象として何か本尊を安置しなければ
   ならなくなつたのである。

   さて、何を本尊として安置しようかと考へた擧句、形ある本尊を
   安置しては、超越的内在の超越者を象徴することは出來ないし、
   といつて、神は無相であるといつても、形ないものを安置する譯にも
   いかないので、

   形がありながら、形なき超越的内在の意味を持つものを
   本尊として祭祠するほかはない。

   そのためには『實相』といふ文字を選んで本尊として掲げるのが
   適當であると考へ、私の自筆の「實相」といふ文字の”額”又は、
   ”掛軸”を本尊として掲げ、

   地方の教化部や道場は勿論、相愛會等のごとき信徒の集會ある場所には、
   その「實相」といふ文字を本尊として安置し各自の内在の實相たる
   ”神性”をその本尊に移入して、宇宙普遍の神靈との合一點として、

   そこに”内在超越”の神靈を禮拜するための
   ”心の焦點”をつくることにしたのであつた。

・・・

(8)神への忠實と”自己”への忠實との一致

   わたし達の”心”は” 全體の心”につながり、
   今日思ふ”想念”は明日思ふ”想念”の土臺となり、

   それは一連續に發展していくものであるから、
   わたし達は、今日何を思ふかといふことを、
   かりそめにもおろそかにしてはならないのである。

   わたしたちは創造の本源者たる神の構圖を完成するための
   一員なのであるから、常に心を神に振り向け、その叡智の導きを
   受けて生活し、神の全體の構圖からはみ出ることのない
   完璧な生活を營むやうにしなければならないのである。

   それを完全に成し遂げることが、神への忠實の道であると共に、
   ”自己”に對しても忠實である道でもあるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/03/20 (Wed) 05:01:21


(1)《天地一切のものに感謝せよ》

   神に乞食の様に頼みこまねばならぬことはない。
   卑屈や賄賂で動かれ給う神ではないからである。

   金光教祖も云われた様に
   「 頼まないでもお蔭はやってある 」 と
   神様は仰せられる。

   吾々は皆神の子であるからである。
 
   吾々が祈るのは 「 既に与えられている実相の恩寵 」 に
   如何にして波長を合わすかの問題である。

   乞食の様に卑屈に頼み込むよりも、
   既に与えられている恩寵(めぐみ)に感謝する事が
   最も完全な波長を合わす道である。

   神と、神の被造物(周囲の一切のもの)に感謝せよ。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13221520.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《五官の奴隷になってはならぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/85b12df2e85c7c6a75e0cd30e10a5f61


   (抜粋として)

   真に神から与えられたる天分を享(う)け楽しみ、
   それを伸ばして行く喜びこそ
   本当に 「 人生を享楽する 」 ことである。

   神の子の完全なる姿を実現せんとするものは、
   五官の奴隷になってはならぬ。

・・・

(3)《周囲の光景は自分の心の影》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   吾々は、谷に対して叫ぶが如(ごと)く ただ自分の言葉の反響を聞いて
   それを相手だと思うにすぎないのである。

   自分の口より出(い)ずる言葉が やさしければ
   相手から出る言葉も やさしいのである。

・・・

(4)《誰かの役に立つ事をしましょう》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。
   大いなる仕事が見つからなかったら、
   目の前にある瑣細(ささい)な愛行や、
   深切な言葉や、奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

   何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

・・・

(5)《神との一体感が深まれば》

   神との一体感が深まり、生き甲斐の感じが増して来るに従って、
   仕事に悦びが感じられて来、疲れることがなくなり、

   すべての暗い感情はあとかたもなく消えてしまい、
   その人の家庭も事務所も工場も神の祝福と光明とに
   包まれた状態となるのである。

   神は愛であるから、神との一体感が深まれば、
   神の如く愛を行ずることが悦びとなるのである。

   神は智慧であるから、神との一体感が深まれば、
   時に応じ、機に応じ、処に応じて縦横無礙(むげ)の神智が
   湧き出て来ることになるのである。
 
   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12696377.html(消滅)

・・・

(6)《国民の思想をこうして植民地思想で放置してよいか》

   『国民同胞感の探求』の冒頭にその編集者は曰う。

   「一国の将来を予測するには、つねにその国の青年学生の動向を見れば
   よいと言われる。その国の青年や学生たちの志向が、高邁であるか、
   卑賤であるかは、確かに大きな分岐点であろう。

   その国の若人たちの資質が堅実であるか、柔弱であるかによって国の運命が
   左右される事も、古今東西諸国民の興亡に歴史がよくこれを示している。

   しかし高邁とか卑賤とか、又堅実とか柔弱とかいう抽象的な比較は、
   もはや国家の運命を測る尺度ではなくなって来た。

   卑賎な志や柔弱な資質を不可とする青年学生たちが、決して少なくない
   にも拘らず、その人達の志向するところが、自国の運命の断滅をはかる
   方向に進む場合には、もっと別な角度からの見方が必要になって来る。
   思想が国家にとって大切な問題点となって来るのはそのためであり・・・・・」

   ここに一国をリードする思想が如何なるものであるかが、
   真に日本国の将来を慮かる者にとっての重大関心事となって来るのである。

   日本の青年の大部分は決して柔弱ではない、行動的だ。

   その行動的な青年がどんな思想に動かされて行動するかが重大な問題であるのだ。

・・・

(7)神饌捧獻の儀式について

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   供物奉獻の行事について

   アメリカにある生長の家の道場でも、
   さういふ供物奉獻の行事が行なはれる事がある。

   ところが、生長の家大神の神示には、「われに供へ物は要らぬ」と
   書かれてゐるのと神饌を供養する儀式とは一致しないので、

   アメリカ人の信者から、
   「何故、”生命の實相”の本にある神示と違ふことをするのか」
   といふ質問があり、

   神に食物をお供へする習慣に乏しい西歐人には
   神への供物奉獻の事は異樣な出來事だと感じられるらしいのである。

   それでアメリカ駐在の本部講師に最近命ぜられた
   ルードルフ・ゴーゾラさんから「信徒に對してどう答へたらよいか」
   といふ質問が來てゐたのである。

   まことにもつともなことである。

・・・

(8)”生命の樹”に到る道

   もし、あなたが常に神想觀を怠らず、
   神の智慧とつながつて生活するならば、
   あなたの判斷は萬事において間違いなく
   聡明なる決定が出來るのである。

   その決定は神の”全體智”につながるが故に、
   己のみ利して他に公害を蒙らすやうな事業經營は
   自然となくなるのである。
 
   神の智慧は「すべてを知る智慧」であるから、
   その知慧に導かれたやうな經營にある限り、後から、
   氣がついて収拾することの出來ないやうな公害が
   出て來る筈はないのである。

   現在、日本をはじめとして全世界にあらはれてゐる公害は、
   要するに、神の叡智から離れた、”蛇の知恵”に導かれて
   「知識の樹の果」を食した結果生じたる所謂”樂園追放”の
   『創世記』が預言せる通りの結果があらはれてゐるのである。

   しかしまだ救濟の道はないことはないのである。
   それは「生命の樹の果」を食して、神の生命と人間の生命との
   活きたつながりを自覺して、新たに生活と經營とを出直す事である。

   『生命の樹の實』を食するとは『創世記』(第三章二十四節)と
   黙示録(第二十二章)とに預言されてゐる象徴的神話であるが、

   今迄”蛇の智慧”(唯分論的人間観)にあざむかれてゐた生活を停止し、
   自己の生命の實相はいかなるものであるかをよく研究し、
   自己が靈的實在なる”神の子”なることを自覺し、
   神なる親樣の方へ振り返つて神の智慧の導きを受けることである。
 
            <感謝合掌 令和6年3月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/03/21 (Thu) 05:03:41


(1)《仕事中には斯く祈れ》

   仕事をしている時には 机に、机の上の帳簿に、ペンに、
   カードに、インキに感謝せよ。

   インキやメモや雑用紙をもって来てくれる給仕や下役に感謝せよ。
   勿論上役にも感謝せよ。

   仕事の合い間、合い間に
   「 この仕事は、私と私の家族とを祝福する為の祈りである。
   この仕事を与え給いし事を感謝致します 」 と念ぜよ。

   感謝と幸福感との中で行われる仕事は
   能率も上り、品質も精巧であり、疲労も少ない。

   上役に感謝すれば、念は通ずるから
   其の人は間もなく上役から認められる。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13221566.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《自己の煩悩を克服する者が真の勇者である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2e7878132963d2752305f67c4761ed4f


   (抜粋として)

   奴隷は主人になることはできぬ。
   いわんや神の子たる資格はない。

   まず 「 自己 」 の煩悩を克服するもののみが
   真の勇者であり、勝利者である。

・・・

(3)《肉体の死は 「 滅ぶべきもの 」 からの脱却である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   肉体の死は ある意味から云(い)えば
   「 死すべきもの 」 からの脱却であるということができるのである。

   肉体の死とともに 人間は 「 滅ぶべきもの 」 から解き放たれるのである。

・・・

(4)《あなたの生活を天国生活にするには》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   小我(しょうが)に仕えるか、大我(たいが)に仕えるかだ。
   肉体の欲望や権勢欲や名誉欲に仕えるか、
   それとも唯、神に“のみ”仕えるかである。

   それによって、その人の生活が地獄にもなり、極楽にもなるのである。

・・・

(5)《神の生命との一体感が深まれば》

   神との一体感が深まれば、神は完全なる生命であるから、
   神の完全なる生命の流入によって
   生かされている人間が病気するということはなくなるのである。

   そして病気があらわれれば、
   神の完全なる生命が流入する通路となる「 心のレンズ 」に
   何らかの迷いの曇りがあるに相異ないことを知り、

   心を反省してその“迷いの心の曇り”を取り除くようにすれば
   病気は間もなく雲散霧消することになるのである。

   “生長の家”が病気を治すのではないと説きながら、
   多くの病気の治癒現象があらわれるのは、

   真理を知れば、“迷いの心”によって
   自縄自縛せられていた自己の“神の子”なる生命が
   解放されて自由自在を得られることになるからなのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12697468.html(消滅)

・・・

(6)《青年にどうしたら正しい思想を教育し得るか》

   マルキシズムの思想に動かされつつ、この「自国の運命の断滅の方向に」
   日本の若い熱情が勇敢に起ち上って具体的な闘争を実践しようとしたのが
   羽田騒擾事件であるのである。

   『国民同胞感の探求』の編集子は続いて言う。

   「・・・・・らの行動が過激化し、常軌を逸することは批判さるべきであるが、
   それは別として、その道に進まざるを得なかったプロセスを見落してはなるまい。

   知性と青春と熱情と捨身と、それらを殉教的気魄に統一し、
   みずからの信ずる方向に集中する姿、世の邪悪を吹き飛ばそうとする
   彼らの清新なエネルギーにも、注目を寄せるべきであろう・・・・・
   立派な日本の青年学生たちを何故そうした方向に進ましめたのか。

   問題はそこにある。

   そうだ問題はそこにあるのである。

   爰に、嘗ての全学連の中央執行委員長をしていた一人の東大学生が、
   この編集子にいった言葉「若しも、私が高校生の時に、マルキシズムでない
   別のものに触れ、それを教え導いてくれる人たちに接していたとしたら、
   私はその方向に真直ぐに進んでいたかも知れない」
   という事に注目しなければならない。

   日本の若い人の高校生時代に、もっと日本の祖国を愛する心を、
   日本の伝統の善さを、日本独特の誇るべき特殊の文化を愛するように
   導かなければ、

   今後ともにこの若き精鋭のエネルギーが、
   自国の運命断滅の方向に向かって情熱をつくして行動する人数が
   殖えて行くおそれがあるという事である。

   併しマルキシズムで武装した日教組に属する高校の先生方が、
   赤い思想の網を張って、これら純情の青年たちの思想を一方的に歪んだ方向に
   統制して行きつつある危険なる状態が、日本の教育界の現状であり、

   それを破るために、文部省が乗り出そうとするならば、
   「思想の自由」を基本的人権として強調する現行の日本国憲法に
   抵触するために、文部省は違憲として批難される。


   教育の中立性の必要は、理論として誰もが認めているが、
   日本の学校の教育は著しく左方に傾いているのであって、
   現状のままでは決して中立性ではない。

   それを国家や為政者が中立不偏の方向に引き戻す事は、
   日本国憲法が許さないのである。

   そこで吾々民間の団体が協力して立ち上がるほかに
   将来の日本を救う道はないのである。

   ”国民同胞”の同志による大学生の合宿教室や、生長の家が学校の
   冬期休暇や夏季休暇を利用して、小、中、高、大学生等の短期練成会を
   催している其の意義の重大さがそれによって解ると思う。

・・・

(7)神は「物質」の食物を食し給はない

   宇宙普遍の神に對して、物質的食物等をお供へすることは不必要である。

   神は”靈”であるから物質の食物をお喫りにならないからである。

   だから神御自身の方から言へば
   「われは供へ物は要らぬ」と仰せられるのは當然のことである。


   しかし日本には、「収穫の初穂を神にお供へする』といふ行事が
   自然發生的にあり、從來、それは國家的祝祭日として
   ”神嘗祭”と名付けられてゐたのである。

   靈なる神が物質的食物をお喫りにならないのは明らかではあるけれども、
   収穫の初穂をお供へするのは、

   「この収穫は、神樣あなたの恵みの結實として得られたものでございます。
    こんなに立派に出來ましたから御覧下さいまして、お悦び下さいませ」

   といふ氣持で、神にその結實の立派さをお見せ申して
   お禮を申し上げる程の氣持で獻饌するのである。

   それが終戰前の”神嘗祭”の意義であつた。

・・・

(8)神智の生活と人間智の生活との相異

   神の叡智に導かれて生活する時、
   一方で福祉を増進しながら、他方で福祉を破壊してしまふやうな
   自己矛盾や公害などは生じやうがないのである。

   神の叡智は全體智であるから、
   全体を構成する要員の中に抵抗や衝突が起こる筈はないのである。

   神の叡智は常に全體調和の姿をもつてあらはれるのである。

   何人か、何國かを犠牲にしなければ
   自分または自國の安全や殷盛を成就し得ても、

   それには、神の智慧でない人間の利己的知識がはたらいてゐるから、
   長い目で見れば、その福祉は空中樓閣のやうに消えてしまふのである。

            <感謝合掌 令和6年3月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/03/22 (Fri) 05:04:08


(1)《感謝は周囲を光明化す》

   斯くして一切のものに対する感謝が実践せられるとき、
   周囲が、環境が、仕事が、断然今までとは別様の姿を呈するのである。

   今までは不快の念が、一切の周囲の事物と人とを塗りつぶしていたから、
   一切が暗黒に自分に好意を有(も)たぬものに見えたが、

   今度は、一切の周囲の事物と人とを感謝の念で塗りつぶすのであるから、
   一切の周囲の事物と人々とは光明に輝いて見えるのである。

   感謝の波長が実相の完全な姿と波長をあわす祈りとなったために、
   そこに実現するのは実相の光明 輝く姿のみとなるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13224919.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《秩序によって生命は具象化する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e1809f1cebc3b0ff31831ad0897bc252


   (抜粋として)

   すべての生命は 秩序によって発現するのである。

・・・

(3)《心の種子(たね)は 蒔(ま)いた時 既に発芽しつつある》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   吾々の祈りは、それが真に自分の求むる
   魂の叫びであるならば必ず聴かれるのである。

   実際に目に見える変化の前に、目に見えない変化が行われるのである。
   だから心静かに信じて待って 信念を失わないことが必要である。

・・・

(4)《祈りの方法及び意義について》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神は既にあらゆる恵みを遍在的に放送していられるのに
   私たちが霊的に波長を合わさないときは、それを受信することができないのである。

   祈りは、自分の心のひびきを調律して神に波長を合わせる方法であり、
   神に懇請(こんせい)、懇願(こんがん)して、神を説得する方法ではないのである。

   だから 既に与えられている恵みに感謝の念を起す神想観が最も正しい祈りである。

・・・

(5)《“ 霊 ” と “ 心 ” と “ 肉体 ” と》

   人間が“神の子”であるということは、神は“霊”であるから、
   人間は“霊”であるということである。

   “霊”と“心”とをひとつに考えて、“心霊”と熟語する場合もあるけれども、
   “心”は“霊”の謂わば“道具”であり、触手であり、
   それは恰も、蜘蛛(くも)が自分の本体から吐き出した糸みたいなものである。

   それによって外界を捕捉するのである。

   そしてそれが何であるかを知り、更に“心”のはたらきが具体化して、
   肉体という一層固形的な道具となって外界を捕捉するのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12702694.html(消滅)

・・・

(6)《一日も早く現行憲法の失効を宣言する必要がある》

   現行の憲法は、日本が敗戦の結果、占領軍が上陸しその軍政下に於いて、
   治下の日本国民に対する愛国心を失ってしまって、占領軍に抵抗できない
   腑抜けの魂になるような計画の下にこの憲法を一方に押付けておいて、

   他方に於いて占領軍の示唆により反祖国的思想を国民が持つように
   マス・コミが統制せられ、赤化の思想的種子を学校の教壇から
   児童の潜在意識に播種しておいて憲法の定むる「思想の自由」の名の下に
   反祖国的思想が幾ら萌え盛っても是を抑圧することが出来ないように
   周到な計画がめぐらされていたのである。


   この憲法が温存されている限り、日本弱体化の精神的種子と、
   赤化の思想的種子から芽を吹いた日本覆滅の思想がどんなに跋扈しても、
   その思想を抑圧したり、刈り取ることは憲法違反という事になるのである。

   現行憲法の虚偽術策による不合法な制定をハッキリさせて、
   その無効を宣言すること、一日早ければそれだけ国家の危機が軽減するのである。

・・・

(7)神よりも民を優先さす民主主義

   かうして日本には神祭りの日に神饌を捧げる儀式が
   行はれる習慣になつていたのである。

   そして人間が最初の収穫を神に感謝して食する祭日を
   ”神嘗祭”として國家的大祭日と定められてゐたのである。

   ところが占領軍が上陸して來て信仰は自由であるが、
   國家が宗教的行事に觸れるのを禁ずる指令を出して、
   ”國祭日”はなくなり、神嘗祭、新嘗祭の代りに
   「勤勞感謝の日」といふ國民的休日が設けられることになつた。

   神嘗祭、神嘗祭とも神に感謝する祭日であつたのであるが、
   それに代置せられた「勤勞感謝の日」といふ神に感謝し神を讃へる
   祭日ではなくなり、収穫のために勞苦した人間に感謝する意味の
   休日となつたのであつて、全然違質のものとなつたのである。

   民主主義といふものは、”神”が主でなく、
   ”民”が”主”であるから”民”にだけ感謝すれば足りるといふ譯である。

   神を見失つて、自我(小我・肉體我)だけを認めることによつて、
   日本人の道徳的墜落は始まつたのであつた。

・・・

(8)”嘘(うそ)”の上に築かれたる繁榮はやがて消える

   あなたは自分の安全を人の損失の上に築き上げてはならないのである。

   わたし達は自己の安全と幸福を
   ”神”と謂う鞏固な地盤の上に築かなけばならないのである。

   人の”損失”の上に築き上げられた繁榮と幸福は、
   ”損失”といふものはマイナスの別名であるから、
   マイナスの上に築かれたる繁榮と幸福であるから
   ”砂上の樓閣”又は、空中に築かれた樓閣みたいなものである。

   だから、それらは、やがて蜃氣樓のやうに消えて行く運命にあるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/03/23 (Sat) 04:56:47


(1)《人を呪わば穴二つ》

   すべての正直な仕事、人類のためになる仕事は、
   それが感謝の念をもって行われるとき、それは尊き祈りであり、
   その祈りによって彼自身の運命も祝福せられるのである。

   自己のみに利益が得られ、
   それによって他の者が損害を受けるような仕事は、
   一時その人の運命がよくなるように見えても、

   結局はその人自身の運命を
   目に見えぬ世界から毀して行きつつあるようなものである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13227795.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《自己の肉体の性能を知って使わなければならぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/553062294d09d68942d966e67fb38d84


   (抜粋として)

   人間には、同じ人間であっても、
   その体質には色々あり、
   甲の人に適するものが、必ずしも乙の人に適しないこともある。

・・・

(3)《不完全な姿は 本来ない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   現象に尚 不完全なことが現われて見える時にも、
   不完全な姿は 本来ないのであって、
   神の善が現われて出ようとする前兆にすぎないのである。

・・・

(4)《天国を地上にあらわすためにあなたの心を調律しましょう》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神様の霊波(心の波長)に人間の心の波長を合わすと、
   神様の世界(実相世界)に実在する状態が肉眼に見えるように
   自分の周囲にあらわれて来る。即ち地上に天国が実現するのである。

   「 祈り 」というものは 懇請や“泣き付き”ではなく、
   自分の心を調和した状態にすることである。

・・・

(5)《人間は絶対自由の主体である》

   人間の本体である“霊”は、“神の子”即ち“神の分霊”であるがゆえに、
   それ自身完全なる自由をもつのである。

   その人間本具の自由を私たちは“人格の自由”と呼ぶのである。

   人間に“人格の自由”があるのは、
   完全自由の“本体”たる“神”の分霊が“人間の本体”であるからである。

   本来の自由は 自分の“内”にあるのであって、
   “外の束縛”を破ることによって辛うじて得られる如き
   頼りない自由ではないのである。


   “生長の家”の真理が断想的形式で書かれている「智慧の言葉」には
   「縛られていても自由自在」という聖句がある。

   これは相対的境地を超えて、絶対自由を説いたものである。
   人間は“神の子”であるから、絶対自由を有するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12705562.html(消滅)

・・・

(6)《国家の理想像について》

   昨年の十二月福岡市に於ける九電体育館で生長の家の講習会があった時に、
   ひとりの高校の教師をしている人が演壇にあがって自分の思想遍歴の体験談をした。

   この人は人類を救済する道は共産主義によるしかに道はないと信じて、
   つい最近まで運動を続けて来たのであった。

   ところが或る事情で生長の家に触れ、諸方の誌友会場に出席してみる事にした。

   すると会の終末には天皇の徳を讃え、天皇に対して感謝をして終るので、
   馬鹿馬鹿しくなって軽蔑して帰るのであった。

   併し彼は、生長の家の色々の出版物を読んでいるうちに、
   『秘められたる神示』という神示解説の書物に触れ、

   生長の家の描いている国家の理想像というものは、天皇中心の社会主義国家
   というようなものであるという事が書かれているので、はじめて釈然として、
   これよりほかに人類を救済する道はない、
   自分の生涯の生命を捧げる決心をしたと発表されたのであった。

   思うにどんな社会主義国家でも、策謀をもって既成の政権を打倒した
   悪賢い或る一党の実力者が中心になっているのであるから必ず敵があり、
   反対党があり、そのためその政権は安定していないのであり、
   それを長く安定させるためには反対思想に対する強力な弾圧や、
   反対思想家への広汎な粛清が行なわれなければならないのである。

   そこに残虐行為が常に伴い、人類の幸福を目蒐(めが)けながら、
   常に人類を非人情的な不幸に陥れる結果となるのである。
   (中共初期の人民裁判や最近の紅衛兵騒動を見よ)

   しかるに、天皇のみは無私である。

   何党にも属せず、国民が危機に曝される時には、
   「唯自分のみ罪あり」として国民の身代りになろうとせられる。

   このような精神的主柱が“天皇”という具体的人格として国家の中心で
   あり給う社会主義国家ならば、最も安定した基礎に立って、万民等しく
   恵福を均霑(きんてん)し得る理想国家が出現する筈なのである。

・・・

(7)宗教運動に參加する靈の組織群

   ある教祖が靈應を得て宗教的な人類救濟運動が起ると、
   その運動に共鳴するところの現實界の人々がその運動に集まつて來て參加し、
   能力に應じて適當なる部署につく組織が發展してくるのは當然であるけれども、

   その人々の役職に應じて、特命の守護神がその人々に配属して守護したり、
   指導したり、することになり、そこに靈界に於ても、その宗教それぞれに
   參加する靈たちの組織群ができることになるのである。

   これらの靈の組織群が人類光明化にあたることになるのである。

   その靈たちのうちには「お供へ物は要らぬ」といふ程度の高級靈界の
   位にある(佛教で謂へば”無色界“に属する色身(幽體及び靈體)を超越せる)
   神通自在の靈もあるが、

   尚、幽界に属してゐて、幽體を具へてゐて、
   肉體を具備した時代の食習慣を忘れかねて、何か食べねば、
   腹が減つたやうな氣がして精力減退し、”何かたべたい“と考える程度の靈も
   混じつてゐるのである。

   それ故にこれらの靈に對して食物を供へてあげることは、
   まことに合理的であり、また必要な事であるのである。

・・・

(8)壞けない神の地盤の上に立ちて
 
   ”神”といふ大慈悲・大智慧・大生命の上に築かれたるあなたの幸福は
   地震(なお)揺り、洪水起り、山は崩れ、地は割れ、建物は火災を起して、
   殆どすべてが灰燼に歸する時が來るとも、

   決して毀けるといふことはないのである。

   『法華經』の”如來壽量品”の自我偈に、

   「衆生、劫盡きて大火に燒かるると見る時にも、
   わが此の土は安穏にして天人常に充滿せり」

   とあるのがそれである。

   砕け滅び去る現象の地盤の上に生活を築くことなく、
   壞けない生命の實相の上に生活を築くものは永遠の地盤の立つてゐて、
   その幸福が壞けることはないのである。
 
            <感謝合掌 令和6年3月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/03/24 (Sun) 05:00:34


(1)《感謝は休息の本質である》

   感謝のない休息は
   本当の休息とはならない。

   感謝のない安眠は
   本当の安眠とはならないものである。

   時々刻々の感謝は、
   時々刻々の休息となる。

   休憩したら「ありがとうございます」と
   感謝すること。

   安眠の直前に神に感謝し、
   会社、官庁又は家族の各員に感謝し、

   「 有りがとうございます 」 と心の中で念じつつ、
   その 「 有りがとうございます 」 の言葉が
   呼吸と共に全身に爪先まで満つる様な気持で就寝すれば、

   その眠りは安らかであり、
   病気があっても速やかに癒えるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13230320.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《自己の性能をよく知ること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9bfc10bfa4a1048ecf952bc0029acbdf


   (抜粋として)

   強烈な鍛錬に堪(た)え得るような体質もあるし、
   又 できるだけいたわって、余り強烈なことをせずに、
   静かな精神的仕事ならば 何時間働いても
   体にさわらないような体質もあるのである。

   すべて生活設計に於て、
   その人の肉体にぴったりあてはまる所の生活方法があるのである。

   それを巧(たく)みに使いこなせば 多くの仕事が出来るのである。

・・・

(3)《すべての人々を礼し敬せよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   吾々は 自分自身を神の子だと認めるだけでは足りないのである。
   すべての人々を神の子であると信じて、礼し敬しなければならないのである。

・・・

(4)《神が唯一の創造者である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   万物は霊の世界に於いて神の想念によって創造され、
   それが時間空間の「認識の形式」を通して
   現象界に転現して、吾々はそれを見ているのである。

・・・

(5)《一切の悪や不調和は非実在である》

   根本的に知らなければならない事は、
   唯一の実在は“ 神 ”そのもの及び、“ 神 ”の延長として、
   又は“ 神 ”の展開としての実相世界のみであるということである。

   神は唯一の実在であり、そのほかに実在するものは存在しないのであるから、
   神は普遍的存在であり、無限であり、一切の存在は神の無限内容の展開である
   ということである。

   そして神は愛であり、無限智であり、無限生命であり、善であるから、
   神の無限内容が展開して万象となるとき、それは善なるものとなり、愛の道にかない、
   智慧によって全てが適当に排列されて計画されているから、
   不調和や不完全はあり得ないのである。

   従って一切の不幸や災害や病気や諸々の悪現象は
   “ 実相に於て ”存在しないのである。

   この実相を知ることを ー “ 真理を悟る ”と言うのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12708750.html(消滅)

・・・

(6)《洗脳された人間に本当の“思想の自由”はない》

   兎も角、現行憲法の「思想の自由」は大変結構なことだと
   考えている人が多いけれども、その思想なるものは日本国民が
   自由な状態に於いて発想したる自主的思想ではないのであって、

   占領中の軍政下に於いて、毎日毎日ラジオ放送によって、

   「日本は侵略国だ。」
   「日本は戦争中にこんな残虐行為をしたぞ。」
   「天皇は戦争につながる。」
   「天は人の上に人を造らず、人の下に人をつくらず。」
   「民主主義だけが理想的人間観である。」

   こういうような言葉を繰り返し繰り返し毎日毎日きかされるのである。

   それがイヤでも応でも聴く人の潜在意識の底に印象せられて、
   それ以外の思想の自由を失ってしまわされたのである。

   これが所謂る“洗脳”というやり方である。

   洗脳されて自由発想が出来ないように教育されておいて、「思想の自由」と称して、
   その人の自由発想にまかしたような顔をしていると、
   その洗脳作業中に暗示されたような思想だけが、恰も自分自身の思想であるかの如く
   潜在意識から浮かび上がってくるのである。

   進歩的文化人やそれに教育された若い人が、自分自身の自主的な発想を失って、
   「社会主義こそ人類救済の道である」と思い込み、

   ソ連の現状や、中共の現状を聴かされても、その不幸な国情に耳を傾ける
   自由を失っているのは戦後占領軍が日本人に施したマス・コミを道具に使っての
   ”洗脳”という催眠術にかけた結果なのである。

   ”洗脳“された人間には本当の思想の自由はないのであり、
   思想の自由を与えられた顔をして、暗示された通りの思想を
   繰り返し思い浮かべているだけである。

・・・

(7)靈魂の食する食物について

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   しかしまだ充分悟りをひらかず、まだ自己を一種の幽體的存在である
   といふ自覺で、食物に關心をもつ程度の靈魂は、
   物質的食物を供へられれば、その食物の幽體を食するのである。

   すべて「生きてゐる食物」(化學的食品ではないこと)には
   人間と同じく幽體があり、まづ念の作用により幽體が發生して後、
   その念の形に幽體の被覆層として”物質の體”がつくられるのである。

   幽界の靈魂は果物なら果物の” 物質の體”は食しないで、
   その果物の幽體(幽質と言つてもよい)を食するのである。

   肉體が死して後、まだ長期間の淨化の過程を経ない靈魂には食欲が存續し、
   食物の幽體を食してそこから活力を得るのである。

   それ故、死後、まだ短年月の靈魂を祭祀する際には食物を供へて置いてから、
   聖經を讀誦してあげるのがよいのである。

・・・

(8)無限生長を約束された吾等

   神は無限の内容を持ち給ひ、
   それが時間空間面に表現せられるのが現象世界であるから、
   われわれの現象世界の生活は、常に新しき内容が展開して來るのであつて、

   それを一連續として觀察する時、それは生命體(人間を含む)に於いても、
   文化に就いて言つても「無限生長」といふ樣相を持つて展開する事になる
   のである。

   それ故に、人間も文化も途中に於いては
   一進一退の現象をあらはすと雖も結局は無限の生長であり、
   無限の進歩であり、無限の前進であるのである。

  我らに宿る”神の生命”に於いては退歩や停屯といふことは
  あり得ないのであつて常に積極的な前進あるのみなのである。

            <感謝合掌 令和6年3月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/03/25 (Mon) 04:59:45

(1)《先ず神の国を求めよ》

   「 神と富とに兼ねつかうること能わず 」 と云う聖書の言葉を誤解して、
   富めば神様にきらわれるように思い、

   「 富める者の神の国に入ることの難きこと駱駝の針の孔を通るが如し 」
   と云う言葉を貧乏にならねば神の国に入れぬと解釈して、
   いつも貧乏の生活を青年時代にしていたのは私であった。

   今は神の国に入れば無限の豊富さが
   自然に備わっていることを知るようになったのである。

   「 富 」 を神の国の外に求めるから、
   「 神と富とに兼ね仕えること 」 になるのだが、
   先ず「 神の国を求めよ、富は自ずから汝に随い来るのである。」

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13233937.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《自己に当てはまる生活設計がある》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/93c64f8d716832dcd2c38169d06c23ee


   (抜粋として)

   諸君がもし自分の身体を、一個の写真機械よりも愛して使いたいと思うならば、
   自分の肉体に 如何なる睡眠法が、食事法が、仕事の順序配列が、
   如何なる休養方法が、如何なる生活様式が もっとも適当するかということは
   数年ならずして自分自身に会得することができる筈(はず)である。

・・・

(3)《我は 到(いた)る処(ところ)に唯(ただ)善のみを見る》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   凡(あら)ゆるものの中に 神がみちみちていられるのであるから、
   吾々は 神から逃げだすことはできないのである。

   神は善であるから 吾々は善から逃げだす事はできないのである。
   されば 心の眼(め)を開いて見れば
   吾は到る処に唯 善のみをみるのである。

   神は自分の智慧であるが故に、
   吾は到る処に神の導きを見るのである。

・・・

(4)《如何にして現象界に不調和があらわれるか》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   私たちの生命は時間空間という「 認識の形式 」を“ 心でつくって ”、
   その形式面上に具象化して見るのである。

   そのような「 認識の形式 」を通して見る其(そ)の途上に於いて、
   あらわれる形に歪(ゆが)みがでて来たのが、色々の現象界にあらわれる
   擾乱(じょうらん)であり、混乱であり、病気であり、災害である。

・・・

(5)《“迷い”は虚像にすぎない》

   “迷い”は真理を知らないために生じた虚像であるから
   真理を悟れば“迷い”が消えるのである。

   そして病気は“迷い”のあらわれであるから、
   “迷い”が消えれば病気が消えるのである。

   人間は“霊”であるから物質的束縛によって縛られることはないのである。

   “霊”は完全に自由であるから、それが縛られるのは
   自分自身が自己限定して自縄自縛するに過ぎないのである。

   その自縄自縛を称して“迷い”と称するに過ぎないのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12714145.html(消滅)

・・・

(6)《中共に於ける“洗脳”方法について》

   (前半省略)

   これが即ち中共に於ける“洗脳”作業の実体なのである。

   上記の如き“洗脳” 方法が、終戦直後、占領軍が日本国民全体に対して
   実施したという事を知らぬ人が多いのである。

   即ち、毎日毎日私たちはラジオ放送で

   「戦争は悪い事である、日本は戦争を仕掛けた悪い国である。
   それは愛国心が悪いのである。天皇の命令で戦争したからこんな目に遭ったのである。
   日本軍は戦争中こんな残酷なことをした。日本は侵略国である・・・・・」

   此の種の言葉の繰返しを、腹が減ってフラフラになり、
   くたびれ切っている国民の潜在意識に、愛国心や天皇崇拝のつまらぬ事、
   日本国は侵略国で悪い国だという一方的な考えを吹き込まれたのである。

   こういう催眠術的言語暗示の繰返しで多くの国民は洗脳されたのである。

   そして戦中に愛国者として当時の戦争の神聖性を力説した人間が、何時の間にか、
   自発的な思想転向であると自分では錯覚して、進歩的文化人となり、
   平気で戦争中に言った自分の言葉と全然反対なことを言って
   日教組の講師団の一員として革命思想の宣伝に狂奔することになったのである。

   此の種の変節的な人達は、こういう洗脳方法に対し抵抗力の弱い
   気の毒な暗示感応性の鋭敏な人達だったのである。

   そして今も、祖国の伝統的日本思想や日本文化の善さに目覚めることができないで
   革命に狂奔している所謂る進歩的文化人なるものは、進歩的どころか、
   占領軍が洗脳のために注ぎ込んだ繰返しの言語暗示が、
   今尚、潜在意識に残続していて、自主的発想の能力を喪失したままでいながら、
   自発的思想転向だと思い込んでいるのであり、

   憲法が幾ら「思想の自由」を強調していても、是等の人には、
   彼らの思想を自由に放任するならば、彼ら自身の思想ではなく、

   終戦直後、洗脳するために注ぎ込まれた「祖国侮辱の思想」が恰も
   「自分自身の思想」のような顔をしてのさばり出るだけなのである。

   彼ら進歩的文化人には真の思想の自由はない。
   カリモノの注ぎ込まれた思想の自由跳梁があるだけである。

・・・

(7)餓鬼道に墜ちるといふこと

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   餓鬼といふ位は必ずしも、餓鬼道といふ、六道輪廻の境涯中の
   一種の生活?態に陥つてゐる者だけを謂ふのではないのである。

   通俗には餓鬼道に墜ちたものは、飢餓状態で空腹でたまらないが、
   食物を供養されてそれを食しようと思つて、食べようとすると、
   その食物が焔となつて燃え去つてしまふので、いつまでたつても
   空腹感が癒されないないやうな靈界での境涯にあるものを謂ふのであるが、

   それは死後の事であるが、現實界における人間の道徳生活に
   これを當て嵌めていふならば、いくら儲かつても、いくら昇給されても、
   いつまでも「足らぬ、足らぬ」といふ飢餓感に惱まされている心境にあるものを
   ” 餓鬼道に墜ちた亡者”だと揶揄的に謂ふのである。

・・・

(8)”神の子”たる資格證明書の提出

   あなたは自分が”神の子”である
   といふ實相をハッキリと受納れなければならない。

   神を無限の富者にたとへれば、
   あなたはその無限の富を繼承する資格をもつところの
   唯ひとりの嗣子であるのである。

   既に嗣子たる資格はありながらも、それをあなたが確認しないで、
   「私は猿の子孫でございます」などと自ら言つて
   ”神の子”たる資格證明書を提出しない限りは、

   神の嗣子たる資格は先天的に持ちながらも、
   現實的には、何ものをも神から繼承することはできないのである。

   あなたが神想觀中に

   「神の生命流れ入つてわが生命となり給へり、もはや、われ生くるに非ず、
    神の生命ここにあつて生くるなり」

   と確乎として念ずるならば、
   あなたは神の戸籍役場に、”神の子”たる資格證明書を
   提出してゐることになつてゐるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/03/26 (Tue) 05:03:16


(1)《富とは一切の豊富さである》

   人間が貧しいのは
   何処か心の持ち方が間違っているからだ。

   富が決して悪いのではない。

   富が若し悪いものならば、
   無限の富者である神は
   無限の悪の所有者だと云わなければならない。

   然るに本当は、全ての豊富と云うことは美徳であり、
   素寒貧である事は悪徳又は劣徳であるのである。

   富とは必ずしも金の事ではない。
   金があっても富んでいない人が沢山ある。

   富とは、よき考え、よき家族、よき師、よき弟子、よき雑誌、
   よき性質、よき能力、それを表現する機関・・・等々。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13237011.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《ゲーテの健康法》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3b65b1ef55792bff232e540ea9c6fefc


   (抜粋として)

   私は必ずしも諸君に、晩年のゲーテの健康法を実行せよというのではない。

   ただ云いたいのは、肉体を諸君が人生の目的を達成するための道具として
   軽んじてはならぬと云うことである。

・・・

(3)《神から来る赤信号》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   もし何かの不調和が外界に現われて来たならば、
   それは 何か 自分の心か、言葉か、行いかが
   神から はなれたものであったからであるのである。

   それは神から与えられた 「 一種のストップ信号 」 であるのである。

・・・

(4)《神の智慧のままに生活する者は幸いなるかな》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   率直な心で神の智慧を受ければ、
   自然に何時(いつ)、如何になすべきかが示されるのである。

   イエスは「 空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈(か)らず、倉に収めず、
   然るに 天の父はこれを養いたまう 」といっている。

・・・

(5)《自己を “ 神の子 ” と直観智で知る瞬間》

   “ 神 ”は“ 霊 ”であるから、物質界の現象を認識するための道具としての
   “ 脳髄智 ”を持ってしては完全に知ることはできない。

   “ 脳髄智 ”は 懐中電灯の中にとじ込められた電池のハタラキによって生じた
   光のようなものであって、全体の存在を明るく照らすことはできないのである。

   それは脳髄組織の中にある生理作用によって生じた“ 光 ”であるから、
   その視野は狭くして縦横厚みの三次元空間の存在だけを照らすに過ぎないのである。

   従って“ 霊 ”なる神を知ることは出来ないし、
   霊なる人間の実相を知ることはできないのである。

   私たちが神を直観し、自己の実相が“ 神の子 ”であり、
   霊的実在を直観することが出来るのは、
   縦横厚みの三次元認識の牆壁(しょうへき)が砕け去った瞬間に於てである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12717736.html(消滅)

・・・

(6)《ベトナム戦の本質を見過してはならない。》

   ベトナム戦争は手套(てぶくろ)をはめた拳闘戦

   (中略)

   この戦争は手套をはめた拳闘であり、
   現実的危険を賭けたトランプ遊びなのである。

   この戦争の本質を見逃がして、平和工作をやってみても何の効果もない。

   北べトナムにもベトコンにも停戦の意志はない。
   そして長引けば長引くほど、世界の同情はベトナム解放戦線側に集まり、
   よその大陸から対兵を派遣しているアメリカ側が侵略国だという
   印象を強めるだけのことなのである。

   アメリカは悪い籤を引いたものである。

   この戦争の本質を知らないでいるならばアメリカは何時まで経っても
   此の泥沼から脱することは出来ないに決まっている。

・・・

(7)肉體死後に於ける病氣の繼續 -

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   靈魂の肉體死後、間もなくの状態は、
   現實世界の臨終の状態のつづきの状態を經驗するのである。

   心境が急激に變ることはないからである。

   靈魂が肉體を脱皮して新たなる境涯に入る過程は、

   それは”靈界への出産”ともいふべき?態で、
   出産の陣痛ともいふべき斷末魔の苦しみを經驗する。

   (もつとも悟境に入つてゐる靈魂は無痛分娩とでもいふべき安樂の?態で、
    意識を持續しながら靈界に移行する)

   斷末魔の苦しみを伴ふ靈魂は、神の慈悲により、或る程度以上の苦痛を
   免除する爲に、靈界に移行時に意識を中斷せしめられて無意識の
   感覚麻酔状態に入り、肉體を脱皮してある期間、

   (人により長短があり、間もなく意識を恢復するものもあるが、
    長きは數十年にわたつて人事不省の無意識状態)

   が長きにせよ、短きにせよ、いづれにせよ、靈界に於て意識を恢復したときには、
   (その人にとつては無意識中の事は心の中に存在しないのであるから)生前、
   臨終の際の状態が、記憶の世界によみがへつて來て、
   癌の症?をその幽體に繼續する状態で苦しまなければならないのである。

・・・

(8)今此処が天國淨土となること

   あなたが神想觀を實修して、
   意識の上に於いて神と融合し神と一體になるならば、

   あなたの世界は神の國の平和と調和と歡喜と豊穣とに滿たされて、
   其処に直ちに” 神の國”が實現することになるのである。

   それは大無量壽經に
   「至心廻向即得往生」と示されてゐることが實現するのである。

   佛教では佛の名號を稱へて至心に心を廻らして佛に向へば即座に
   ”極樂往生”即ち極樂世界に往(ゆ)いて生れることを得るといふのであるが、
   ”至心”といふのは、

   キリストが弟子に對して
   『汝精神を盡し力を盡して汝の神を愛すべし』といつてゐる
   ――その精神の全力を盡して心が佛に向ふのが” 至心廻向”である。

   そして「心の世界」に於いて完全に佛と一體になつた時、
   自分が佛であり、佛が自分であるから、
   佛の住み給ふ世界が極樂世界であるから、今此處が極樂淨土になるのである。

   往かずしてそのまま極樂に往いて生れたことになるのである。

   何故ならこの世界は唯心所現の世界であるからである。

            <感謝合掌 令和6年3月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/03/27 (Wed) 04:57:27


(1)《金を愛するな》

   富を愛することが悪いのではなく、
   金‘のみ’を愛することが悪いのである。

   金で‘もの’云わそうと云う根性が悪いのである。
   金はある程度まで人間の欲する物を与える。

   そのために人は、人間の欲するものの代表として
   「 金 」 そのものを愛する様になり勝ちである。

   併し金で買えないものがある。
   人間の愛であり誠である。

   人間の愛と誠とは、
   こちらが愛と誠とをもってしなければ購うことは出来ない。

   貨幣でツラをはろうと思っても
   本当の愛と誠のある人は金では自由にはならない。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13239072.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《人間の幸運と不幸とは自分自身の使い方にある》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/26dd104521bba4661342b5bd10bd8e38


   (抜粋として)

   人間の幸運と不幸とは、
   決して偶然の他力(たりき)に支配されているのではなく、
   同じ隣接地でも 甲の農家と乙の農家に貧富の差ができるように、

   自らのやり方で運命を作るのである。

・・・

(3)《神の愛は宇宙の到る処にみちみちている》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   神の愛は 宇宙の到る処にみちみちていて 吾らを護り給うのである。
   吾々の一本の毛も悉(ことごと)く神の目から見逃される
   ということはないのである。

   そのことに吾々は信仰をもたなければならない。

・・・

(4)《我みずからにては何事をも成し得ず》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   「 われみずからにては何事をも為し得ず、
   天の父われにいまして、この人体を造り給うたのである。」

・・・

(5)《“ 神の恵み既に汝に足れり ”》

   神を信ずることによって、
   神をして吾々に一層深切に仕えせしめようというような
   考えを棄てなければならないのである。

   神が使徒パウロに言いたまいし如く「 吾が恵み汝に足れり 」である。

   既に「 足れり 」即ち「 十全の恵み 」
   「 至らざる処なき完全不欠の恵み 」を
   神は吾々に与えてしまっていられるのである。

   「 それを何故 お前はとらないのか 」と神は仰せ給うているのである。

   神を私たちの祈りによって「 使おう 」と考えてはならないのである。

   私たちは如何にして自分をして神の恵みの流通する
   中カラッポのパイプになればよいかを考えればよいのである。

   私たち自身が、一切の私欲を去り、私心を去り、
   中カラッポに成り得た程度に従って、私たち自身が、
   神の最高の自己実現の役目を果たすことができるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12720463.html(消滅)

・・・

(6)《条件反射で動いている革命の闘士たち》

   戦争直後のラジオ放送による洗脳が実に多くの日本人の潜在意識に浸透して、
   戦中の愛国者を、赤色革命の闘士に転向せしめたのは、

   当時日本国内の事情が食料の欠乏、それと闘うための肉体の極度の疲労困憊
   ―そして戦争の悲惨が目の前に立証されている焼野原――
   そうした条件の下に、条件反射の生理・心理学的方法を応用したからである。

   (中略)

   “蛇使い”と同じやり方で多くの日本人は洗脳されて、その時注ぎ込まれた
   暗示の効果(観念の自動作用)で今もって動かされながら、
   それを「思想の自由」だなどと錯覚しているのである。

・・・

(7)臨終の苦しみは過去の業因の清算である

   壽命と病氣とは別なのである。

   三十年もそれ以上も病苦に惱みながら、なかなか死なぬ人もあれば、
   殆ど病氣をしたこともない頑健そのもののやうな健康體でゐながら
   突然死ぬ人もある。

   病氣は人間を殺すのではなく、人間が死が近づくに從つて自己の生涯の業因を
   ある程度清算淨化し、整理し、調整するために必要な仕事として
   各人それぞれの病苦をあらはすのである。

   そして病氣となるべき業因が清算し盡されたり、
   眞理を悟つて「病氣本來無」の境涯に達したりして、
   病氣が消え去つたのちでも、その人の地上の豫定された壽命が盡きれば、
   その人の靈魂は肉體を去つて(所謂る”肉體の死”)靈界に移行するのである。

   このやうな場合には「病氣が消へて」(從つて”病氣”の想念を持續せずに)
   靈界に行くのであるから、その人の靈魂は靈界に於て、
   その幽體に病氣を顕すことなく健康そのものの快適な靈界生活を營み、

   時來れば、またその靈魂が今までとは異なる環境の地上に生れて來て、
   今迄とは異なる方面の魂の能力が研かれることになるのである。

・・・

(8)あなたは神の宇宙創造の據點である

   今、此處、此の自分が、神の宇宙創造の起點であり、據點であるのである。

   わたし達は自分を輕んじてはならない。

   毎朝目が醒めた時、

   「今、此處、此の自分が、神の宇宙創造の起點であり、據點である」と

   十囘以上念じて起き上がれ。

   そしてその自覺をもつて愼重に誠意をもつて
   神の宇宙創造の發出口として生活するがよい。

   あせることはいらない。
   急ぐこともいらない。

   神と偕に神の智慧と共に、前進して行く者には自然に道が開かれ、
   平和と調和と、そして自然に協力者があらはれて來るのである。

   神の創造の據點であるといふ自覺は
   一種の磁石的力となつて同志を呼び寄せることになるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/03/28 (Thu) 05:00:15


(1)《金を儲ける秘訣》

   金を儲けるのも、

   金は本来物質ではなく、神の生命と愛との表現が、
   人間の経済制度を通して
   かくの如き姿に現れたものであるから、

   「 金々々 」 とそれを求めても、
   大いに得る事は出来ない。

   グレン・クラーク教授は、
   ある人が神様に 「 金を与え 」 と祈ったら、

   愛深き神様は直に天の使いに命じて、
   神様の世界に在りと凡ゆる倉庫を調べさせて
   若し金があれば其の人に与える様に命じたけれども、

   結局そのような金と云うものは神様の世界にはなかったと
   譬喩を以って書いている。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13243154.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《努力や克己の代価を払わずには立派な仕事は出来ぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3f63c93b87a61146cf6b62391cc61790


   (抜粋として)

   何事に対しても、払っただけの代価にふさわしきものを得る
   ということは 真理である。

   秩序整然 と 健全なる生活を送るためには、
   それだけ 「 意志 」 や 「 努力 」 や 「 忍耐 」 や 「 克己 」 や
   如何なる誘惑にも屈しない所の 高貴なる節操の代価を払わなければならない。

・・・

(3)《病気を癒(いや)すには》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67


   (抜粋として)

   「病気は自分の心の迷いである。今自分は心の迷いを去って
   神の姿そのものの完全なる姿をみるのである 」

   かく心の中(うち)に深く念じて 神の姿そのままに完全な自分の姿を
   心に描いてみつめるようにするならば
   やがてその病気は消えてしまうのである。

・・・

(4)《自己に宿り給う神を悦ばすこと》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   そのためには私たちは日常生活に、
   その「 神 」を悦ばすような愛行と善行とを
   しなければならないのである。


・・・

(5)《あなたが 「 神意実現 」 のパイプとなること》

   イエスのゲッセマネの祈りは、「 願わくはこの苦き盃をわれより取り去り給え。
   されどわが意を成さんとには非ず、御心の如く成らしめ給え 」というのであった。

   これが正しい祈りの極致であるのである。

   我意を通すために「 “神”という無限の力を利用しよう 」
   という考えほど不遜な考えはないのである。
   人間はもっと謙遜にならなければならないのである。

   「 我意を通すために 」ではなく「 神意を通すために 」
   「 私心を無にして、私をカラッポのパイプと成らしめ給え 」
   でなければならないのである。

   そのように自己を“ 無 ”にして神に全托するとき、神は無限の愛であり無限の智慧であり、
   その全智によって計画されたる「 愛の天国 」は、自然に私たちの「 カラッポの無私の心 」
   を通して現象界に流れ入って来て、あなたの身辺が自然に地上天国となるのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12725762.html(消滅)

・・・

(6)《ソ連の洗脳方法について》

   (前半省略)

   私は正常の人間を白痴にすることは、
   その逆より遥かに容易であることを発見した。

   ルーズな監視の下にきつい肉体労働を課し、
   系統的に食を減ずれば素晴らしい効果を生む。

   その場合囚人をさまで殴る必要はない。

   通常二ヵ年ほどその状態におくと、
   人間の知的能力は五十パーセント喪失するものである。

   もちろんこれは集団の場合で、
   個々の場合はより顕著な効果が得られるのである。」

   (ウラディミル・ペトロフ著『シベリアの果て』『国民同胞感の探求』八十頁より孫引)


   シベリアに捕虜として抑留された日本人はこのようにして減食と
   激しい労働の中で健康な判断力を喪失せしめられ、
   そのような条件の中で赤い色に洗脳を完了したと認められた者から、
   順次、日本へ帰還せしめられたのであった。

   それ等の人達の内、洗脳されたまま祖国覆滅の闘士となって
   今尚活動を続けている者も多いのである。
 
・・・

(7)病氣が治つて健康状態で靈界に移行する魂

   ある喉頭結核の患者があつたが、生長の家の教へに触れ、
   毎日『生命の實相』を讀み、且つ聖經『甘露の法雨』を讀んで、
   「病氣本來無」の眞理を毎日々々、自己の潜在意識の中に
   印象蓄積して往つたのであつた。

   その結果、彼は喉頭結核をいやされたのであつた。

   癒されたけれども、地上生活の死期は迫つて來たのであつた。

   彼は、クリスチャンであつた。

   生長の家は萬教同根共通の根本的眞理を説くのであるから、
   クリスチャンはクリスチャンの儘で、
   イエスの教への根本的眞理に入ればキリスト教そのものが一層深くなり、
   病人は病氣が消へ、不幸は消へ幸福は來るのである。

   彼は病氣が治つたけれども地上生活の壽命が終りつつあることを自覺した。

   彼は朗々と讃美歌を朗誦して神をたたへ、
   唱へ終ると家族及び周圍の人たちに感謝の言葉を述べて瞑目すると、
   魂は靈界に移行したのであつた。

   彼は重症の喉頭結核を患つてゐたので、
   ふだんは、低いカスレた聞き取れない程の聲で物言ふのであつたが、
   死の直前、彼が朗誦した讃美歌は、まことにハッキリした朗々たる響きを立てて
   周圍の人々を驚嘆せしめたのは、既に彼が喉頭結核の治つた證據であつた。

・・・

(8)あなたは大生命のエネルギーの噴出口である。

   神の創造の據點であり、起點であるあなたが、その使命を自覺して、
   實踐に踏み切る時大生命の偉大なるエネルギーが、滔々とあなたに流れ入つて、
   偉大なる活力となり勇氣となり、斷行力となつて
   あなたを大人物たらしめるのである。

   如何なる大事業も、困難と見える事業も、
   神の大なるエネルギーの行進するところには困難の扉は開かれ、
   人事所三相應するはたらきが縱横無盡に出來るのである。

   あなたはそれを信ずるが故に、常に神に護られてゐる自覺で、
   心は常に明朗で愉しく希望と生き甲斐に滿ちた生活が出來るのである。

            <感謝合掌 令和6年3月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/03/29 (Fri) 04:59:33


(1)《富の本源は 愛と智慧とサービス》

   金と云うものは
   神様の世界にはないのであるから、

   金を与えたまえと
   神様に祈っても与えられない。

   吾々は 愛を 智慧を サービスを 与えたまえと祈って、
   自分が又 愛を 智慧を 奉仕を 世間に対して与えるとき、
   それが神の世界のそれと波長が合うから、

   神の 愛が 智慧が サービスが
   吾々の 愛と 奉仕に 触れて富として実現する。

   恰も太陽からの放射線が
   地球の圏内に入って
   光となり熱となって現れるようにである。

   地球の雰囲気がなかったら
   太陽の放射線も光熱とはならぬ。

   神の愛も
   人間の愛がなかったら富とはならぬ。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13244831.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《何人も皆天才である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a4d2130b191eac505e47012874c8e640


   (抜粋として)

   何人も自己に与えられている天分の100%を発揮する時、
   必ず天才であり、必ず世に立って人々から喜ばれ 尊ばれる所の人
   となることができる。

・・・

(4)《一切万事、神より来る、唯感謝あるのみ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   「 神 」即ち「 生命力 」が去ったならば、
   一瞬間もあなたは立っていられないのである。

・・・

(5)《“ 無私の祈り“としての神想観》

   神想観は最も完全なる無私の祈りであるのである。

   「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」とは、
   「五官の世界」即ち「現象世界」の一切の意欲を去ることである。

   意欲を去るだけではなく、現象世界の一切のものは、既に「五官の世界」を去った今は、
   “自分の心”の中にないのであるから、現象世界の何ものをも求めないのである。

   そして自分の欲望の願いも何もなく、ひたすら心が“神”と“神の創造せる世界”
   (実相世界)に振り向いて、実相世界の一切の善きものが自分を通して流入する無私の
   パイプとなることである。

   このとき実相世界に吾々の生命が、直接対面するのである。

   すると其処は、
   神の無限の智慧の海であり、
   神の無限の愛の海であり、
   無限の生命の海であり、
   無限にゆたかなる供給の海であり、
   無限の歓喜の海であり、
   無限の調和の海であるのである。

   それを心の眼をもってハッキリと観るのである。
   観ることは既にあるものを受け容れることである。

   それをハッキリと受け入れたとき、
   実相世界の天国状態がハッキリ現象世界にその姿を映し出して、
   此処に地上に、天国が現出することになるのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12729823.html(消滅)

・・・

(6)《諸君は真に自由思想人とならねばならぬ》

   洗脳された人間は、「思想の自由」で、自主的に発想しているつもりで、
   実は洗脳訓練中に暗示的に潜在意識に注ぎ込まれた“観念“の自動力で
   動かされているから、ものの考え方が自由を失って偏っているのである。

   (略)

   日本の若い人よ、”洗脳”の呪縛を断じて截ち切って、
   先ず完全な自由人となって、自由な考え方をすることだ。

・・・

(7)精靈崇拜の原始人的信仰

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   自然界の一切の事象及び存在を”佛”のいのちの現成とみるのである。

   水を”水の神”の現成であり、
   火を” 火の神”の現成であり・・・・・等々と見、
   それを單なる物質と見ないのである。

   そこに恐懼し謹んで使はして頂くのである。

   このやうな恐懼畏敬禮拜の心をもつて自然界のものを
   使はわして頂くならば、今、日本を始め全世界の物質文明國が
   なやんでゐる工業公害の問題など起らなかつた筈である。

   現在の公害の起つている原因は自然界とそこから産み出される資源を
   ただの「物質」として見て自然を征服し、利用し、

   今の段階で利用價値のないものは流し捨て、吹き捨てさへすれば
   それでよいと考へて「拜む心」を失つて、「使ひ捨て」にした結果、
   使ひ棄てられたものが反撃して復讐に出たといふ因縁因果のあらはれが
   公害であり、人類の”エデンの楽園”追放なのである。

・・・

(8) ”われ動けば宇宙動く”

   あなたは、”神の子”であり、想念といふ鋭利な掘削機を與へられて、
   どんな困難な岩窟をも貫いて進むことが出來るのである。

   あなたの想念は、あなたが神との一體感を強めるならば、
   神から天降り來つた創造的なアイディアがあなたの想念となつて
   發想せられるのである。

   あなたは、”神の子”として、今此処に神の無限の力を発揮し得て、
   あなたに割り當てられた獨創のアイディアを實現するために、
   勇敢に前進することができるのである。

   あなたの獨創は神の獨創であり、
   神の創造の全體智の中の必須かくべからざる一部分をなすのである。

   それ故にあなたの勇敢にして大膽なる遂行は、
   全體の創造の一部分として他の人人すべてを
   直接または間接に生かす事になるのである。

   「われ動けば宇宙動く」と「實相を觀ずる歌」にあるが、
   その通りにあなたの動きが宇宙全體に影響を與へるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2024/03/30 (Sat) 04:13:24


(1)《致富の秘訣は二つの真理にある》

   ラッセル・H・コンウェルの「 致富講演 」 によると
   致富の原理は大体次の二つである。

   第一は 最大多数の人類に広く要求せられるものを与える事。

   第二は、資本や門閥やそのほかどんな力をも借りずして、
   自分で新しく其の仕事を出発せしむることである。

   先ず新しい考案が必要である。
   その新しい考案が人類的要求に応ずる事が必要なのである。

   日本でも 「 亀の子たわし 」 一つ考案して
   数百万円を贏(か)ち得た人もあるし、

   ビール糟(かす)をビタミン剤として
   数千万円を贏ち得た人もある。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13248280.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《精力を分散するな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e6402870302165fdff52653ecd4e2778


   (抜粋として)

   全生活力をもって
   勉強又は仕事と取り組むことが出来る者は
   必ず優勝強者となる。

・・・

(4)《すべての人種は悉く 「 神の兄弟 」 である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   自己の内に宿り給う神、それがあなたの生命である。

   皮膚の色が異るとて、その人々に宿る「 神の生命 」は
   本来「 一つの神 」であるから互いに兄弟姉妹なのである。
   皮膚の色に拘(かかわ)らず兄弟姉妹互いに愛し合うべし。

・・・

(5)《“ 神の国 ” は汝の内に在り》

   「人間が神の子である」という真理は、
   換言すれば“凡ての力”は既に与えられているのだということである。

   “凡ての力”が与えられているだけではなく、
   “神の国”(又は天国)は自分の内にあるということである。

     〈 注。「神の国は汝の内にあり」(イエス) 〉

   先ず自己の内にある神の国を知ることが第一であり、
   それを「今此処に神の国がある」として瞑想することである。
   その瞑想が神想観である。

   しかし瞑想さえすれば何も行動を起さなくてもよいかというと、
   決してそうではないのである。

   瞑想によって“神の国”が正しく確実にハッキリと観じられたならば、
   その“神の国”が現象化して出て来るための自然の行動というものが、
   内から催して来て、それが具体的行動となって実践されるのである。

   知ることは行うことである。

   もし行となり、実践となって出て来ないならば、
   それは“まだ本当に知られていない”のであるから、
   尚一層、神想観の実修を励むがよい。

   「 神の国は汝の内に在り 」 そして
   「 在るもの 」は “認める”ことによって、
   “知る”ことによって、必ず現れて来るのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12734045.html(消滅)

・・・

(6)《日本人は六年間も洗脳された被害者である》

   第二次大戦の終結によって、占領軍は日本に上陸して来て
   その洗脳作業を六年間にわたって続けたのであった。

   洗脳は空腹にしておいて重労働を課し、肉体も精神も虚脱状態にして
   批判精神を麻痺状態にしておいて、いかにも尤もらしい語調で暗示を与える。

   (略)

   催眠術をかけて、その人を暗示感応状態にしておいて、
   「明日の午后三時になると君は晴天でも雨天でも必ず雨傘を差して
   お庭を三辺回る。そしてそれが私が君に暗示した結果だという事は
   思い出さない」と残続暗示を与えておいて覚醒状態に導くと、

   その人は暗示された通りに、翌日の午后の三時になると、晴天であっても、
   雨傘を開いて、それを差しながらお庭を三辺回るのである。

   そして、それは自分の意思の自由、行動の自由で、自発的に意思して
   行動しているのだと思っているのである。

   今ごろ”日の丸“や”君が代“が戦争につながると反対している人は、
   暗示にかかって晴天に雨傘を差してお庭を三辺回っている人に類するのである。

・・・

(7)精靈信仰と大乘佛教

   山には山の神があり、野には野の神があり、川には川の神があり、
   井戸には井戸の神があり、竈には竈の神があるといふ信仰は、
   「山川草木國土悉皆、佛性の顕現である」といふ大乗佛教的な信仰とは
   多少異なるのである。

   精靈信仰は多少二元的なところがあり、
   或る「物」に「精靈」が宿つてゐると信ずるのである。

   しかし後者の「悉皆佛性」又は「悉有佛性」(道元禅師)の大乗佛教は
   「有るもの悉く佛性そのものの現成」と解するのである。

   しかし兩者は同一系統に属するもので、そのプリミティーブ(幼稚)なものが、
   精靈信仰(アニミズム)であると言へる精靈信仰が一層具體化して、

   人格的顕現として、降霊會又は實験場にあらはれ、肉體から分離した靈魂が
   靈媒者を通してわれわれに話しかけ、或は物理的心靈現象を起して、暗室で、
   空中にメガホーンが舞ひ上がつてものを言つたり、

   寫眞靈媒を通して、死者の靈魂が生前の容姿を持つて寫真にあらはれ、
   靈魂が肉體死後も、個別的個性ある人格としてあらはれるといふ實證を示すものが、
   スピリチァリズム(神禮主義とも稱するが適譯ではない)である。

   (谷口雅春著『靈界の妻は語る』『人間死んでも死なぬ』
    『生命の實相』“靈界篇”参照)

・・・

(8)“観る”ことは”顕はす”ことになる

   あなたは、今、自己が”神の子”であり、神の無限の愛に護られ、
   神の無限の智慧に導かれ、神の無限の生命力を動力として、
   神があなたに與ヘ給ふた偉大なる使命を遂行せしめんがために、

   地上に神から遣はされた、天の使ひであることを知るが故に、
   常に心明朗にして、決して暗い事を考へないのである。

   決して貧しさや、病氣や、行き詰まりや、不幸や、
   災難などを考へないのである。

   想念は磁石であり、想念するところのものを引き寄せるのであるから、
   あなたの想念しないところの貧しさや病氣や、行き詰まりや、災難は
   決してあなたに近づいて來ることはないのである。

   あなたは常に、自己自身をその實相であるところの”完全な姿”で観るのである。

   観ることはあらはす事となるのである。

            <感謝合掌 令和6年3月30日 頓首再拝>
31:伝統 :

2024/03/31 (Sun) 04:58:43


(1)《人類の日常生活に奉仕せよ》

   「 諸君の富は諸君の頭の中にあるのであって
   何処かの銀行にはないのである 」 と
   テリル・マン氏は云っている。

   先ず頭によって人類に今あるよりも一層役に立つ考案を考えることである。

   戦争中でもアメリカ人は一個の万年筆や時計の竜頭(りゅうず)にさえも
    「 尚一層便利 」 と 「 美 」 と云うことを発明し考案して、
   人類の日常生活になお一層奉仕しようとしていたのである。

   パーカー51号の万年筆や、
   ネジを廻さないでも竜頭がスポンと脱けるようになっている
   懐中時計の如きは其の例である。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13252992.html?type=folderlist(消滅)

・・・

(2)《「 仕事の奴隷 」 になってはならぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fab0aaa08dd54ddb32c3963f44ab32a6


   (抜粋として)

   人は全生命力をもって「仕事」と取り組まなければならぬ。

   しかし徒(いたず)らに「仕事」「仕事」と仕事ばかりに熱中して、
   「仕事の奴隷」になってしまったために
   折角の天才が早く生涯のエネルギーを使い果して廃人となったり、
   短命に終ってしまったような例を見ることは、まことに悲しいことである。

   これは、自己を知らぬことと 不完全なる生活設計から来るのである。

・・・

(4)《天地万物 相互礼拝 相互感謝 の生活》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


   (抜粋として)

   神は到る処に充ちていられる。

   釈尊はこの真理を直感せられた。
   そうして「 有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏 」
   と讚歎せられたのである。

   山も川も草も木も国土も悉く皆、仏のいのちの現成せるものである。
   宇宙の一切悉く神なる大生命の顕現ならざるものはないという意味である。

   この覚(さと)りに立って生活するとき、
   一切を礼拝し、一切に感謝する相互礼拝、相互感謝の生活が始まるのである。

     ( 谷口雅春著『 無門関解釈 』参照 )

・・・

(5)《“ 神の生命はわが内に在り ”》

   私たちは“神の子”で“ある”から、“神の生命”がわが内に“ある”のである。
   その神の生命の時間空間面に於ける自己顕現が私たちの肉体であるのである。

   肉体が単に三次元空間面にある物質の如く見えているのは、
   それは「見えている」だけのことであって本当は物質ではないのである。

   私たちの肉体は神の生命の自己顕現であるから、
   神の無限に完全なる叡智の顕われであり、
   従ってどんな不完全さもあり得ないのである。

   従って病気に罹(かか)るなどということは、本来あり得ないのである。

   若したまたま病気に罹るような事があるならば、
   それは神の叡智の表現のパイプとなる“自分の心”に
   何かその表現の通路を邪魔しているような想念感情があるのである。

   心の表現通路を邪魔している阻礙(そがい)物とは
   憎しみ、悲しみ、憤(いか)り、嫉(ねた)み、口惜しさ、呪い、貪欲(とんよく)、
   抑圧感情、秘密、恐怖、不安、孤独等の感情である。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12743787.html(消滅)

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(6)《日本人よ、戦後の洗脳から目を覚せ》

   戦後の若い人と、戦前又は戦中の老年層又は壮年層の人との間には、
   互いに理解しがたい「ものの考え方」に断層があり、その断層が中々に
   越えがたい溝を形成しているというのは、

   洗脳によって物の考え方が戦前戦中の年齢層とは全然異なる方向に
   歪められているからだと解釈すると、原因がはっきりするのである。

   洗脳されないような、しっかりとした思想の愛国者は悉く追放になり、
   天皇があるので治安維持法に触れて獄中に監禁された結果、

   天皇を恨んでいる階層と、容易に洗脳されたところの、占領軍の
   日本弱体化政策にマンマとのせられた連中どもが教壇に立ったり、
   マス・コミを支配して言論統制力を握って、洗脳工作としての
   「言語暗示」をラジオ及び新聞(占領軍の検閲下の)によって流して、
   感じ易い若い人々に、反国家的思想の暗示を毎日毎日六年間も
   印象させたのである。

   そして洗脳された少年の中から又若い教育者が出て、自分が洗脳された結果、
   そのような反国家的思想をいだいていると自覚しないで、

   自由意志で、自主的発想のつもりで自信を持った口調で、
   又次代の子供を教育するから、洗脳は洗脳を呼び、将棋倒しのように
   反国家的な思想で、若い人たちが洗脳され続けるのである。

   この現状が継続すれば、明治、大正生まれの比較的、占領軍の洗脳に対して
   抵抗力の強かった老年層壮年層の人達が死に絶えてしまったら、
   日本国は運命はどうなるか、まことに日本国の存在そのものに
   危機が迫っているのである。

   そこで”教育の中立性”だとか、大学の自治などといって、
   洗脳後の赤い教師の自由選択に教材や教科書を任せておいたら、

   ”教育の中立性”どころか、洗脳効果ばかりが若い人にあらわれ、
   実に偏向極まりなき教育が国民に施されことになるのである。

   しかし政府が教育に直接干渉しようと思っても、
   現行の憲法が有効だと認められている限りそれは出来ない。

   すべからく、出来るだけ早く現行憲法の失効を宣言しなければ、
   悔いを千載に残すことになるのである。

・・・

(7)靈媒現象に接した時の注意

   (全文は)
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8251351


   (抜粋として)

   靈媒に接する場合には、靈媒にあらはれた靈が
   「如何なる階級の靈か、高級靈か、まよへる亡靈か、動物變化の靈であるか」
   充分審判した上で、その靈に對應すべきである。

   この靈の等級、種類等を審判する者を「審神者」といふのである。
   審神者となる資格は自己に天眼通的靈能があつて、

   相手の靈がどんなに變化して出現して、恰も高級靈の如く變貌して來ようとも、
   天眼によつて見破り得る靈能がなければならない。

   また自分自身が靈媒となつた場合には、自分自身を自己審判して、
   如何なる靈がかかつて來ているかを知つて、徒に”天地創造の神”だと
   その靈が自稱しても、そんな事を信じてはならないのである。

・・・

(8)あなたは”神國建設”の聖業を割り當てられた

   ”神の子”たるあなたは、あなたがそれを自覺しようと自覺しまいと、
   實相に於いては神の生命に包まれ滲透せしめられてゐるのである。

   神の智慧はあなたを通して、
   この世界に”神の國”を實現すべく導いてゐられるのである。

   どんな人間的な大事業でも、
   ”神の國”を地上に顕現する大聖業にくらぶれば、いと小さきものである。

   あなたは特に神から選ばれて神の” 神の國建設”の聖業を
   割り當てられたればこそ”生長の家”に觸れ、”心の法則”を知り、
   神と人間との關係を知り、
   眞理を傳へることによつて人の病を癒す力すら授かつてゐるのである。

   嘗て人類に与へられたる仕事のうち
   ” 神の國”建設の聖業程偉大にして神聖なる仕事は他にないのである。

   それをあなたが本當に自覺する時
   歡喜勇躍手の舞ひ足の踊ることを禁ずることができないであらう。

   天の使ひたるあなたに感謝し奉る。

            <感謝合掌 令和6年3月31日 頓首再拝>

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