伝統板・第二 2547878

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


真理の生活 ⑲

1:伝統 :

2024/01/16 (Tue) 11:44:58


《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》

         *「光明法語」(1月16日)より

新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。

この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。

もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。

現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8209345

(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335

(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8250384

(14)伝統板・第二「真理の生活 ⑭」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8263502

(15)伝統板・第二「真理の生活 ⑮」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8290983

(16)伝統板・第二「真理の生活 ⑯」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8305125

(17)伝統板・第二「真理の生活 ⑰」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8315921

(18)伝統板・第二「真理の生活 ⑱」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8331438

       <感謝合掌 令和6年1月16日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/01/18 (Thu) 12:53:34

過去の記憶の処理次第で、人の人生は変わる
伊勢ー白山 道(2024-01-18)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/09d1ace353ed0d261b4beedb014a283a

       <感謝合掌 令和6年1月18日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/01/19 (Fri) 10:52:17


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より

心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。

心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。

これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。

それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。

腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。

         <感謝合掌 令和6年1月19日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/01/22 (Mon) 11:42:45


       *Web:かんながら(2024年01月21日)より
            ~見つかるよ~

人生とは自分の外側に展開している状況ではありません。

人生とはその状況に対してどう感じるかの連続です。


でもマインドは自分をだまし続けます。

意識をいつも自分の外側に向かせようとするのです。

そして外側に見える事象をより良くさせるのが人生だと思わせます。


真の成長のターニングポイントは、意識が外側から内側に向かうこと。

これが本当の回心です。


たとえ何十年生きてこようと、
その方向が間違っていればどこにも行き着きません。

行き着いたような気がしても、また振出しです。


だから回心してみましょう。

やっと真実の幸せと、生きる価値を見つけることができます。


このような生き方を始めるのに何歳だろうと関係ありません

早いも遅いもないのです。

だって「いま」だから。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12664608.html

         <感謝合掌 令和6年1月22日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/01/23 (Tue) 13:23:40

「むだに腹を立てる内は、天国には入れない」
伊勢ー白山 道(2024-01-23)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/997cf8ff678148d3325f95a995c3a917

         <感謝合掌 令和6年1月23日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/01/25 (Thu) 11:04:28


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月25日)より

悲劇は深淵であり、どん底であり、暗黒であるかもしれぬが、
悲劇を深刻だというのはまちがっている。

深刻とは深切と同じ意味の言葉であって、
人間の 魂 の深奥から湧き出でるところの、
深々とした生命(せいめい)の表現、叡智の表現、法愛の表現が、
深切であり深刻であるのである。

深切を親切などとまちがえて書かれている世の中であるから、
なれなれしく親しくするのが深切だと思っている人もあるが、
深切とは時として峻厳な統制であり、
仮借(かしゃく)することなき規律である。

人類の 魂 の《深》奥から《切》実に深々として湧き出でるかぎり、
どんな明るいものでも深刻である。

人類は深刻と暗黒とを混同する愚(ぐ)から避けねばならぬ。

           <感謝合掌 令和6年1月25日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/01/30 (Tue) 09:06:11


       *「光明道中記」(1月30日《美点を見る日》)より

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)】

心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが
決して存在せぬことを根本に知ることである。

一局部だけを見ずに大局を見る。
短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。

心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。
気にくわぬことは忘れること。
呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。
他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

人生の戦いはその人の執(と)る生活の角度で最初にきまるのである。

負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、
既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、
既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って
嘆き悲しみ呪い呟く。

呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、
日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

        <感謝合掌 令和6年1月30日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/01/31 (Wed) 10:26:18


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を
得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、
「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても
無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

        <感謝合掌 令和6年1月31日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/02/02 (Fri) 10:07:39


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.3)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   一人さんは、お弟子さんたちに
   「真面目」と「立派」を禁止しているんです。

   なぜですかって、日本人は、
   真面目と立派って自己犠牲だと思っているからなの。

   真面目で立派に生きるために、
   自分のことは後回しにしなきゃいけない。

   自分を優先しちゃいけない。

   みんなそう勘違いしているから、ダメだよって言うんです。


   自己犠牲ってね、他人には優しいかもしれない。

   でもね、そのしわ寄せが、自分や家族にいっちゃうんだよ。

   自分が壊れちゃったり、
   奥さん(もしくは旦那さん)とか子どもとかが
   我慢のはけ口になっちゃったりね。

   自分を犠牲にするだけじゃなく、大切な人まで犠牲にしてしまうんです。


   だから、真面目と立派はやめなって。

   まずは自分に優しく。

   それができたら、人にも優しくすればいいんだよ。


   人に優しく、自分に厳しくっていうのは、
   真面目でも立派でもないからね。

   で、真面目と立派は禁止って言うと、
   じゃあなにをしてもいいんだなって、失礼な ことを言う人がいるの。

   あのね、それは一人さんに言わせると「常識以下」だよ。

   愛がなかったら、ただの嫌なヤツです(笑)。


   あなたの表情に、愛はあるかい?

   あなたが発する言葉に、愛はあるかい?

   愛があるように見せかけて、
   実は人を馬鹿にしたような言葉や嘲笑もあるの。

   それじゃダメだよ。

   人を喜ばせたり、癒したり、和ませたりするのが愛ですよ。

      <『斎藤一人 絶対、なんとかなる!』マキノ出版>

        ・・・

斎藤一人さんは、《「真面目」と「立派」》、

じゃなくて

《「楽しく」と「笑い」》が大事だという。


『一人さんは、ひたすら毎日を楽しく生きています。

 湯水のようにジョークを連発して、自分も周りも楽しませているの。

 私は、楽しいことを考えるのが仕事だと思っているから、
 毎日を全力で楽しくしているんです。

 だから、日常会話が笑い、そのものなんだよね。

 普通の人は、笑いを求めて テレビでお笑い番組を観たりするんだけど、
 一人さんの場合は息をするように笑いが出てくる。

 お弟子さんやなんかも、
 テレビを観るより私と一緒にいるほうが楽しいって、
 延々と側にいたがるくらいなの(笑)。

 もちろん、テレビ番組だっていろんな工夫がされていて、
 すごくおもしろいんだよね。
 テレビがつまらないと言っているわけじゃないですよ。

 でもね、テレビに頼らなくても、
 自分で自分を楽しませる力があるって、すごく重要なことなんだ。

 あなたは朝から晩まで、楽しいことを考えていますか?

 24時間、自分を楽しませ続けていますか?

 そういうことが言いたいんです。

 あのね、頻繁につらいことが起きる人は、
 ふだんから苦しくなるようなことばっかり考えているからだよ。』



真面目で立派なタイプの人は、
ついつい自己犠牲してまで頑張ろうとする。

そして、
結局自分の身体をこわしたり、精神を病んでしまったりする。


そういう人に絶対的に欠けている考え方が、

「楽しむこと」と「笑い」だ。

楽しんだり、笑ったりしていると、
不真面目で、不謹慎だと思ってしまう。

スポーツなどで、
ニコニコしながら練習したりしていると、
「真面目にやれ!」などと怒鳴ってしまうタイプだ。


「真面目」と「立派」をやめて、

「楽しむこと」と「笑い」を

大事にする人でありたい。

       <感謝合掌 令和6年2月2日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/02/04 (Sun) 10:31:54


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.6)より

   (幸田露伴の心に響く言葉より…)

   いまの人に欠けているのが「恐れの気分」であり、
   もちたがらないのが「恐れの心情」である。

   恐れるということは、
   けっして卑小(ひしょう)なことを意味していない。

   真摯(しんし)で敬虔(けいけん)な、正直で謙遜(けんそん)な、
   そして心の奥底に勇猛精進の精神を抱いている者は、
   必ず恐れの心があるはずである。


   その「恐れかしこむ」ということは、
   いいかえれば自分は小さな存在だから少しずつ大きくなろうと希望し、
   自分は弱いから少しずつ強くなろうと願い、

   愚かだから少しずつ賢くなろうと思い、
   また徳が足りないから少しずつ徳を積みたいとか、

   何事においても
   誇れるものがないから少しずつ積み上げたいと、
   謙虚に願うことである。

   自分の過去と現在すべてを
   これでよしと満足せず、美しいとせず、正しいとせず、

   恐れつつしみながら真剣に努力をしようとするのが、
   人間の本来あるべき心情ではあるまいか。


   何を恐れるのか、
   何に恐れるのか。

   それを「神」であるとしてもよいし、
   言葉を変えて「天」としてもよいだろう。

   それをつきつめなくてもかまわない。


   いっさいの雑念を捨てて恐れかしこむ心境に到達したときが、

   われわれのもっとも真実の生き方を実感できたときであり、
   これによって大いに力づけられていることは、
   多くの人たちの体験するところであろう。

   われわれは自分たちの生活を真実のものとし、
   それを充実させるためにこそ努力をする。

   しかしその努力が恐れにつながったものでなければ
   底の浅いものであって、その努力が長つづきするかどうか疑問である。

   真に恐れかしこまなければ、
   真に修省(しゅうせい)することはできず、

   真に修省できなければ、真の努力はできず、

   真の努力がなされなければ、
   真の天の助けをもらうことはできない。

    <『幸田露伴「修省論」を読む 得する生き方 損する生き方』
                      (渡部昇一)三笠書房>

       ・・・

伊與田覺(いよださとる)氏は、
「月刊『致知』の『中庸』に学ぶ人間学」の中でこう語っている。


『其(そ)の賭(み)ざる所に戒慎(かいしん)し、
 其の聞かざる所に恐懼(きょうく)す。

 隠れたるより見(あらわ)るるは莫(な)く、
 微(すこ)しきより顕(あき)らかなるは莫(な)し。

 故に君子その獨(ひとり)を慎(つつし)むなり。』《中庸・第一章》



君子は誰もみていないところでも、心を慎み戒(いまし)める。

誰も聞いていないところでも、自分の言動を恐れる。

隠れて誰も分からないように思うけれども、
それを長く積み重ねていくというと、
思いがけない時に明らかになってくる。

だから、君子は独りでいる時も、自分自身を慎まねばならない、と。


「君子は獨(ひとり)を慎む」という言葉の由来だ。

そのためには、
自分は、まだまだ未熟、まだまだ足りない、と思うこと。

すると、そこに謙虚さが生まれる。


「恐れかしこむことの大事さ」を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和6年2月4日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/02/05 (Mon) 11:25:24


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

        <感謝合掌 令和6年2月5日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/02/06 (Tue) 10:12:12


         *「光明道中記」(2月6日 一切に感謝謝する日)より抜粋

【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】


「あなたは心に不平を持っているから、それを直さなければ、
その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。

すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。

負債があるのに負債のあることに気附かず、
借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。

そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、
自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。

そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら直ぐ
「チェッ雨が降って来て弱った!」と言って
天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。

不平を持たぬ心とは、どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。

            <感謝合掌 令和6年2月6日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/02/09 (Fri) 10:10:28


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.14)より

   (精神科医、ゆうきゆう氏の心に響く言葉より…)

   アメリカのインディアナ大学の心理学者である、エドワード・ハートは、
   こんな実験を行いました。

   まず、彼は被験者たちを2つのグループに分けて、

    A.楽しい映画を見せる

    B.悲しい映画を見せる

   としました。


   そしてその上で、それぞれにある作業をやらせたところ......。

   Aの楽しい映画を見せたグループは、
   Bの悲しい映画を見せたグループに比べて、
   20%以上も作業効率がアップしていたのです。


   当然と言えば当然かもしれません。

   人間、気持ちが落ち込んでしまうと、色々とスピードは落ちてしまいます。

   人間の気分と、作業の速度というのは比例します。

   気持ちが楽しければスピーデ ィーになり、
   落ちてしまうと遅くなってしまうわけです。


   これ、実は逆でも同じです。

   作業や行動を早くすれば、無意識に気持ちはイキイキしてくるもの。

   反対にゆっくりしていると、どんどん判断も鈍ってきて、
   気持ちだって落ちてしまうことも多いのではないでしょうか。


   実際、多くの心理学調査によって、
   「判断や行動が早い人ほど、気持ちも明るい」
   ということが示されています。

   とにかくすべてにおいて、行動は早い方がいいわけです。

    <『人生を好転させるシンプルな習慣術』海竜社>

        ・・・

森信三先生は世俗的な雑事、雑務の処理の切り抜け方は、
「スグサマ着手」、
「即刻処理」以外にない、と語っている。

世の中の瑣事(さじ)の処理は、意外に面倒くさいことばかり。

だからこそ、マメであることが必要だ。


「返事をする」、
「礼状を書く」、
「頼まれごとの処理」…

これらの処理が早ければ早いほど、信用され信頼される。

そして不思議に、
マメであればあるほど、気持ちは明るくなり、イキイキとしてくる。


どんなときも、スグサマ着手、即刻処理に徹すること。

年を重ねれば重ねるほど、
その早さが、凄(すさ)まじくなる人でありたい。

       <感謝合掌 令和6年2月9日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/02/10 (Sat) 09:36:17


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、
人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をすることを全然やめた時に、
自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために
神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は

「神と自分との間にある通路は、
 實に何でもないとおろそかにする小事によって
 塞がれてしまうことがある。

 一寸したズルい行為。
 一寸した不深切な嘲笑。
 一寸した世間話。
 一寸した酷評。

 すべて一寸した愛にそむく行為によって」

と言っている。

          <感謝合掌 令和6年2月10日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/02/12 (Mon) 10:02:35


           *「光明法語」(2月12日)より

本人のいない前で悪口を言うのは実に卑怯な行為である。
若し相手が悪いのならば本人に直言すべきである。

若し相手に悪がないのに虚構して悪口するのであれば尚一層卑怯である。
誰も警戒していないのに後ろからバッサリやるのは昔から“悪ざむらい”の所行である。
本人のいないところで悪口言うのは後方からバッサリ斬るのと同じことだ。

そんな行為は常に自分と神との間を遮断するものなのである。

そんなことは愛深き神の波長と会わないのである。

幸福になろうとする者は人の美点を賞めることから始めよ。

          <感謝合掌 令和6年2月12日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/02/13 (Tue) 09:13:08


       *「光明法語」(2月13日《自己の不運をかこつな》)より

不深切、残忍、卑怯、殺人、盗罪ーそのようなことは神の愛にそむくのである。
神は愛であるから、神の愛にそむく一切の行は神と波長が合わないのである。

吾々が人の悪を決して云わないことに決心し、
それを実行した時に屹度その人は運が向くのである。
更に自分の不運をかこたぬことにしたら一層運が向くだろう。

他人の不運(悪口)を呟くのも、どちらも神の子をけがす罪なのである。
キリストはすべての罪は赦されるけれども
聖霊をけがす罪は赦されないと言っている。

聖霊の出生である人間の悪口を言ってはならぬ。

            <感謝合掌 令和6年2月13日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/02/15 (Thu) 12:44:52


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より

どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。

これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。

とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。

まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。

暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。

とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。

           <感謝合掌 令和6年2月15日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/02/16 (Fri) 11:05:30


     *「光明道中記」(2月16日《自己の尺度を捨てる日》)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
 相手を害(そこな)い、自分を害う。    (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、
実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、
悉く異なって見えるものである。

争いは、見る立場は一つしかないと云う
根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、
或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。

もっと委(くわ)しく分けるならば、
一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに
相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、
「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」
と言ったが、

今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

           <感謝合掌 令和6年2月16日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/02/17 (Sat) 09:46:28

        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.16)より

   (精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…)

   「一張一弛(いっちょういっし)」(礼記・らいき)


    なにごとも「ほどほどに」とセーブしていれば、
    トラブルにまでは至らないと思う。

    ことわざに「過ぎたるは及ばざるがごとし」ともいう。

    「ほどほどに」することで、
    仕事でもプライベートでも角が立つのを防ぐことができる。


    私が座右の銘としている言葉に、
    『礼記』にある「一張一弛」という言葉がある。

    「一張一弛」、つまり
    「ひとしきり張りつめた気持ちで緊張したら、次は弛緩=リラックスさせる」
    ということだ。

    しばらくリラックスをしたら、
    再び緊張し集中できるような状態になれるということでもある。


    とある学会で、その場の雰囲気が緊張していたので、
    この「一張一弛」という言葉を紹介したところ、
    ずいぶんと好評だった。

    学会などで緊張して、講演に集中するのはいいが、
    何時間も続くと、いくらなんでも疲れてしまう。

    私の講演が終わって、
    会議のあとには酒食が用意されたレセプションもあるし、

    「この『一張一弛』の精神で、
     そろそろベ〇トでも弛めてくつろぐ準備をしてください」
    とやった。

    これは大受けだった。

    緊張も「ほどほどに」ということだ。



    新しい発想というものは、
    みんなでない知恵を振り絞っても、出ない時は出ないもののようで、
    ふとリラックスした瞬間に生まれる傾向がある。

    作家や漫画家の先生方も、
    お風呂の中や散歩の途中で新しい話を思いつき、

    中にはトイレで座っている時にアイデアが浮かぶという人もいる。

    将棋のタイトル戦などは、
    温泉地のおもむきある宿などで行なわれることが多いようだが、
    それにも理由があるそうだ。

    激しい戦いを続けて緊張している中で、休憩時間に、
    窓の外の湯煙が上がる山里の風景を見ていたりすると、
    閃光のように必勝の新しい手が浮かんできたりするという。

    これなどは、
    なにごとも「ほどほどに」して、
    「一張一弛」でいくほうが効率がよくなるというよい例だろう。

     <『モタさんの10倍ツキを呼ぶ50の言葉』知的生き方文庫>

       ・・・

安岡正篤師が紹介している「六中観」(百朝集)という言葉がある。

死中有活

苦中有楽

忙中有閑

壺中有天

意中有人

腹中有書


死中有活(しちゅうかつあり)

絶体絶命の中にも活路はあり、死ぬ気でやれば道はひらける


苦中有楽(くちゅうらくあり)

どんな苦しい中にも楽しみは見出せる


忙中有閑(ぼうちゅうかんあり)

すさまじい忙しさの中、一瞬の閑、これが一番ほっとする時間


意中有人(いちゅうひとあり)

心の中に尊敬する師を持ち、誰かに推薦できる人があること


腹中有書(ふくちゅうしょあり)

自分の哲学や座右の銘、愛読書を持っていること


壺中有天(こちゅうてんあり)

狭い壺(つぼ)の中に広々とした天(空)があるという意味で、
何か事あった時には
「誰にも邪魔されない心休まる自分の別世界を持つことが必要だ」
ということ。



まさに、「一張一弛」の世界だ。

そして、その上、なお自分の中に、
心休まる別世界を持っている人は強い。

どんなに忙しくても、
どんなに苦しくても、
どんなに行き詰ってしまっても、

そこに行けば、自分が癒され、
ほっとする場所。


「一張一弛(いっちょういっし)」の気持ちで日々すごしたい。

            <感謝合掌 令和6年2月17日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/02/20 (Tue) 12:03:56


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月20日)」より

伸びることを忘れた時に凋落が始まる。

樹木を見て、その真理を悟れ。

            <感謝合掌 令和6年2月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/02/26 (Mon) 10:49:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月26日)」より

腹を立てることと、相手に対して悪意を抱くことは相手を殺すことになる。

今日(きょう)、中島さんが入って来てこんな話をした。
○○電気局長のN氏、ある婦人と婚約したが、
しばらくの後その婚約した婦人のところへN氏から送られて来たものは、
N氏がすでに別の婦人と結婚したという通知のハガキであった。

あとで聞いてみると、さきの婦人はその時ハッと思っただけで
深く怨みに思ったわけではなかったというが、ともかく重大な問題について
約束を破られたのであるから、強い衝動を受けたということは明らかである。

それからが問題である。――

爾来、N氏の結婚生活は不幸であった。
N氏の新妻は常に病気で、ほとんど健康な日とてはなかった。
その間に一人の女児を儲けたが、
N氏の家族は妻の病気のために不快な日がつづいた。

N氏が三回目に逓信省の辞令によって洋行したとき、N氏はどういう考えだか、
その夫人との13年間の結婚生活を解消すべく離縁状を送った。

夫人が結婚生活以来13年間の病気は、その結婚解消と同時に
たちまち完全に治ってしまったのであった。

N氏は今また別の婦人と夫婦生活を営んでいるが、
常に夫婦喧嘩の絶え間がないそうである。
中島さんの話はこれだけである。

あとはわたしの感想である。

第一の約束は先取的特権として最高権威をもち、
ぜひとも守られるべきものである。

守らないくらいならば、
イエス・キリストも「誓うなかれ」といったように
約束すべきではなかったのである。

やむをえずに約束を破らねばならぬようになったならば、
一片の葉書などで破約すべきではない。
先方が大調和の心持で快諾するまで十分話し合って、
心残りのないように十分合理性を持たせて事件を落着せしむべきものである。

最初の約束を破って、N氏が結婚した二人目の夫人が始終不健康であったのは、
最初の婦人の恨みの念が、二番目の婦人を縛っていたのだとも解することが
できるのである。

あるいはN氏自身の自己審判の潜在意識が夫人に移入して
夫人が13年間も病気していたのだとも解せられる。

ともかくとうとうN氏は二番目の婦人を去ることによって、
最初に約束をしたその婦人に申し訳をしたのである。

言葉で十分相手に申し訳をして潜在意識がその行為の合理性に
納得せしめられていたならば、生活や行為に不幸な現象を現わして
最初の夫人に申し訳する必要はなかったに相違ないのである。

           <感謝合掌 令和6年2月26日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/02/27 (Tue) 11:57:45


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と広告をしているのだし、
ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と広告しているのである。
膨れっ面は、不平な人を広告しているし、泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

           <感謝合掌 令和6年2月27日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/03/02 (Sat) 12:29:31


           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

           <感謝合掌 令和6年3月2日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/03/03 (Sun) 10:05:22


           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

           <感謝合掌 令和6年3月3日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/03/04 (Mon) 09:21:08


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.12)より

   (福島正伸氏の心に響く言葉より…)

   《大人がワクワクすると 子供もワクワクする》

   大人になるということは
   夢を持ってワクワクしながら生きること

   子供はワクワクしている大人を見てワクワクする


   もしも電車の中で、駅のホームで
   大人が笑顔で夢を語り合っていたら
   子供は早く大人になりたいと思う


   そして
   こんなルールがあったら、子供たちのワクワクは最高潮になる

   「夢は大人になってから」

   早く大人になりたい!

         <『夢が現実に変わる言葉』王様文庫>

      ・・・

毎日家で、親が疲れ切って、愚痴や泣き言や不満ばかり言っていたら、
子供はどうなるだろうか。

大人になるってことは、そういうことなんだ、と思う。

未来は、つらいこと、つかれること、嫌なこと、苦しいことのオンパレード…。

子供の夢をつぶすのは大人。


大人は、今、ワクワクして生きているだろうか。

面白がって生きているだろうか。

楽しんで、大騒ぎして生きているだろうか。


苦しいことや嫌なことだって、楽しむことはできる。

それがカッコいい大人。


「今、ワクワクして生きているか」

そんなカッコいい姿を子供たちに見せることができる…

素敵な大人でありたい。

       <感謝合掌 令和6年3月4日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/03/05 (Tue) 09:35:03


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.2.25)より
  
   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   九十年の生涯を修養に生きた常岡一郎氏の言葉がある。

   「勤勉、努力、誠実の積み重ねは明るい心を生む。
    わがまま、勝手、怠け、不実、その積み重ねが暗い心、冷たい心、
    ずるい心、苛立つ心になる」

   修養は明るい心をつくる努力、とも言えよう。


   人の上に立つ人の心得を説いた古典の名著『大学』は「
   修己治人(しゅうこちじん)」と教える。

   己を修めて初めて人を治めることができる、ということである。

   「治める」は支配することだけではない。

   「治」には助ける、育てるという意味がある。

   人は己を修めた分だけ人を助け、育てることができる、と
   『大学』は教えているのだ。


   修養のないところに人生の繁栄、発展はない。

   後世に伝承すべき人生の大事である。



   安岡正篤師が若かりし頃の豊田良平氏(コスモ証券元副社長)に
   語った言葉が思い出される。


   「賢(けん)は賢なりに、愚(ぐ)は愚なりに、
    一つのことを何十年も継続していけば必ずものになるものだ。

    君、別に偉い人になる必要はないではないか。

    社会のどこにあっても、
    その立場立場においてなくてはならぬ人になる。

    その仕事を通して世のため人のために貢献する。
    そういう生き方を考えなければならない」


   その立場立場においてなくてはならぬ人になる
   ・・・安岡師がすべての人に託した願いである。

     <『小さな幸福論』致知出版社>

           ・・・

百歳を超えた松原泰道(たいどう)氏はこう語ったという。

「佐藤一斎(いっさい)が『言志晩録(げんしばんろく)』の中で、
 たとえ視力や聴力が落ちても、見える限り、聴こえる限り、
 学を廃すべからず、と言っている。私も老いてきましたが、
 この言葉を糧として死ぬ間際まで読むこと、書くこと、話すことは続けていきたい」


同様に、百歳を超えた伊與田覺(いよださとる)氏の言葉。

「東洋の老いは人間完成に向けた成熟期なのです。
 年を取るほど立派になり、息をひきとる時にもっとも完熟した人格を備える。
 そういう人生でありたい」


まさに、この言葉、姿勢が、明るい心を生む。

そして、「一燈照隅(いっとうしょうぐう)」の生き方でもある。

最初は一隅を照らすような小さな燈(ともしび)だとしても、
それが百人、千人、万人と集まれば、最後は、国の隅々まで照らすことができる。

そのためには、
「社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる」ということ。


賢は賢なりに、愚は愚なりに…

一生、修養を続ける人でありたい。

       <感謝合掌 令和6年3月5日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/03/06 (Wed) 12:29:22


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

         <感謝合掌 令和6年3月6日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/03/07 (Thu) 11:05:28


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、
この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。

そして本当の「私」でない者に、
今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 令和6年3月7日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/03/08 (Fri) 09:51:14


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 令和6年3月8日 頓首再拝>
30:伝統 :

2024/03/09 (Sat) 12:15:20


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 令和6年3月9日 頓首再拝>
31:伝統 :

2024/03/10 (Sun) 11:56:35


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.21)より

   (大久保寛司(かんじ)氏の心に響く言葉より…)


   ある日、私のセミナーに、素晴らしい方が来てくれました。

   年は30代前半。

   彼の人生観の基本。

   人間、金が全て。

   人は信じるな。


   父親から教えられたことは、この2つ。

   それだけで30歳過ぎまでやってきた人。

   金を儲けるのに学歴はいらない、ということで彼は実質、中学卒。


   でも、20代前半で10億のビジネス。

   数十万円のスーツを着て、外車を乗り回す日々。

   でも、その時彼はあまり幸せを感じていなかったそうです。


   この話を一人で45分してくれました。

   勉強会の第1回目この自己紹介で、
   45分は大変長いと思いますが、 私はあまりに面白かったので、

   「なるほど。 すごいね」 と言って、時々途中で質問しながら、
   結局、3時間のセミナーのうち、
   彼 一人の話で1時間15分を費やすことになってしまいました。

   他の参加者からすれば、非常に不愉快だったそうです。

   彼の話を聴くために、高い金を払ったわけではないと。


   でも、そのあと毎月のように、
   彼はどんどん人間が変わっていきました。

   3回目に会った時、

   「今、金はないけれど、僕は幸せです。人生、金なんかじゃないですね」
 
   と言い始めました。

   4回目には、ある自然災害を受けた地域にボランティアに出かけたことを
   話してくれました。


   「先日、ボランティアに行ってきました。
    周りには“ボランティアに来てやった”“○○をしてやった”
    と言っている人が 何人かいました。

    とっても見苦しいと思いました。
    ボランティアというのはさせてもらうものですよ」

   金が全て、人は信じるなという人生哲学、信念を持っていた人が、
   どうして、こんなに変わってしまったのか。

   私にも他の参加者にも 不思議なことでした。


   なぜ、変わったのか、そのことが分かる時がきました。

   「大久保さんは僕の話を本当に心から一所懸命聴いてくれました。

    今まで私の話を聴いて、“すごいね” と言ってくれた人は、
    必ずそのあとで私を利用しようとしていた人たちばかりでした。 

    でも、あなたはただ心から、 “すごいね。ふーん” と言って、
    ずっと聴いてくれたんです。

    世の中にはこんな大人もいたのかと、人生の衝撃でした。
    あの瞬間から、私は生き方を変えました」

    「え、私はあの時、ただすごいから、“すごい” と言っただけなのに、
     それだけであなたは、 生き方を変えたの?」

   「はい、そうです」


   その時、彼から私は学びました。

   判断しないで、そのまま受け取ることの大切さを。

   良い悪いではなく、そのまま受け取ることが、
   相手を素晴らしい方向に変えるんだなと。


   そして、どう見ても変わりそうにない人でも、
   やはり、変われるんだなと。

   参加者からは
 
   「人の話を真摯に聴くことがいかに大切なことかを、
    あなたは私たちの目の前で見せてくれました」

   と感謝されました。

      <『あり方で生きる』エッセンシャル出版>

      ・・・

自分の判断や価値観を表に出さず、ただひたすら「黙って聞く」
ということがいかに難しいか。

多くの人は放っておくと、
自分のことばかり、際限なくしゃべってしまう。

自分のことを分かって欲しい、認めて欲しいという
自己承認欲求が強く出てしまうからだ。


人の話を聞き続けるには、ある種の「忍耐」が必要だ。

つまらない話や、自分に興味のない話だと、
それがすぐに顔に出てしまう人がいる。

話を聞ける達人は、
どんなつまらない話であろうと、前に聞いた同じ話だとしても、
黙ってニコニコして聞くことができる。

相手の話をさえぎって、自分の話をしたくてうずうずしたとしても、
「忍耐」が必要だ。


「判断しないで、そのまま受け取ることの大切さ」

ただ黙って、人の話をニコニコしながら聞ける人でありたい。

・・・

<参照>

【要約・書評】『あり方で生きる』から学んだ3つのポイント
https://chamublog.com/live-way/

   ポイント1:聴く力を磨く

   ポイント2:指は自分に向ける

   ポイント3:言葉の本質はエネルギー


【書評】『あり方で生きる』
https://happiwebe.com/2020/01/01/book_review_arikata/

   (1)真心と常識で判断する

   (2)求めていることは、求められていること

            <感謝合掌 令和6年3月10日 頓首再拝>
32:伝統 :

2024/03/11 (Mon) 08:35:10


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.23)より

   (安岡定子氏の心に響く言葉より…)

   《道に志し、徳に拠(よ)り、仁(じん)に依(よ)り、芸に遊(あそ)ぶ。》
                           (述而七・じゅつじ)

   (人は正しい道を求め続け、それによって得た徳という高い品格を拠り所とし、
    また仁という人間愛を頼りとし、その上で豊かな教養の世界を気ままに楽しむ。
    これこそがまさしく君子の姿なのだ。)

   これは、実に端的に孔子の考えを表している言葉です。

   まず志を持つ。

   それを実践する時には、高い品格がなければいけない。

   しかもそこには、情愛もなくてはいけない。

   かなりレベルの高い生き様が要求されています。

   だから『論語』は堅苦しくて嫌いだ、
   押しつけがましいという声が聞こえてきそうです。


   確かに窮屈な感じがするかもしれませんが、
   よくよく考えてみれば、当たり前の原理・原則を述べているにすぎません。

   この言葉の最後には「芸に遊ぶ」とあります。

   芸と聞くと、お稽古事などを思い浮かべる方もあるでしょう。

   しかしこの芸は六芸という当時の六つの必修教科のことを指します。


   書・数・礼・楽・御・射の六つです。

   書は古典、数は数学、礼は礼節、楽は音楽、御は馬術、射は弓道です。

   これらを学ぶ時にも、心に余裕を持って、それぞれの世界を
   逍遥(しょうよう)できるくらいのおおらかさがないといけないと言っています。


   「芸に遊ぶ」の一言が加わっただけで、ずいぶん趣きが変わります。

   六芸を仕事に置き換えてみれば、

   誠実にひたむきに取り組むことももちろん重要ですが、

   そこに心の余裕が加われば、
   仕事の仕上がりも違ってくるでしょう。

   客観的に全体像を観られる、
   予定外のことが起こってもうまく切り抜けられる、
   まさに臨機応変に事に臨めます。


   茨城県水戸市にある旧水戸藩の藩校・弘道館には
   「游於芸(げいにあそぶ)」という扁額がかかって います。

   これは水戸藩九代目藩主・徳川斉昭公によるものですが、
   この「論語」の言葉からとられています。

   文武に凝り固まることなく、悠々と身を修めるという意味です。

        <『実践・論語塾』ポプラ社>

      ・・・

論語の中に次のような言葉がある。


「之(これ)を知る者は、之を好む者に如(し)かず。
 之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。」

      (『論語』雍也篇)

物事を単に知識として知っているだけの者は、
これを好きな者には勝てない。

好きでやっている者は、
それを心から楽しんでいる者にはかなわない。


「芸に遊ぶ」とはまさに、それと同じで、芸を楽しんでいること。


小林正観さんは「人生は楽しむためにある」という。

人生は、

「喜ばれるための場」であり、
「感謝をする場」であり、
「楽しむための場」であって、
修行の場ではないということ。

それを楽しむ人は、時間のたつのも忘れて、それに没頭できる。

そこには、苦労や努力や頑張る、という修行のような概念はなく、
ただひたすら「楽しくて仕方ない」という気持ちだけ。


昨今は学校だけでなく、あらゆる場所に、学びのコミュニティがある。

社会人になってからや、
リタイアしてからの学びほど楽しいものはない。

強制ではなく、
自発的に好きなことを学ぶからだ。

それが、悠々として身を修めること。

「芸に遊ぶ」

悠々として身を修める人でありたい。

        <感謝合掌 令和6年3月11日 頓首再拝>
33:伝統 :

2024/03/12 (Tue) 13:09:27

打ち消す波の法則
伊勢ー白山 道(2024-03-12 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e2c1172fbd211264e851f775922e7fde

        <感謝合掌 令和6年3月12日 頓首再拝>
34:伝統 :

2024/03/13 (Wed) 09:00:04


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.27)より

   (精神科医、和田秀樹氏の心に響く言葉より…)

   どうすれば明るい気持ちになり、
   毎日を笑顔で過ごすことができるのでしょうか?

   私は人が人生を楽しく生きて、幸福を感じるための一番のカギは
   「いろいろなことを試してみる」という
   前向きな姿勢にあると考えています。

   世の中のことは、どんなことでも
   「やってみなければわからない」ことばかりです。

   誰にも答えがわからないからこそ、「何でもやってみる」ことが大切なのです。


   ビジネスの世界の成功者に限らず、
   人生が最終的にうまくいく人というのは、
   いろいろなことを「めげずに試し続ける人」だと思います。

   明るい気持ちで「いろいろなことを試す」という姿勢を続けていると、
   仮に失敗しても「次はもっと工夫してみよう」と思うことで
   人生が楽しくなりますし、

   ヒットが出れば嬉しくなって、これまた人生が楽しくなります。


   人生がうまくいく明るい人というのは、
   決してポジティブ思考とかプラス思考ということではありません。

   「今よりよくなりたい」と思っているということです。

   現状維持で満足している限り成長はないということです。

   何かやらないことには、今よりよくなることはありません。

   何かを勉強するというのは、
   答えを見つけるためではなく、試すために勉強をするのです。


   「うまくいくかどうかはわからないけど、わからない方が面白い」

   謙虚な姿勢でいろいろなことを実験していけば、
   自然と明るい気持ちに切り替わっていくのです。

      <『明るい人の科学』クロスメディア・パブリッシング>

      ・・・

本書の中に「お坊ちゃんオーラ」の話があった。


『何の不自由もなく恵まれて育った人には、
 なぜか独特の「お坊ちゃんオーラ」がありますから、
 その言動には周囲を巻き込むチカラがあります。

 天性の「能天気さ」とか「おおらかさ」があるのです。

 恵まれて育つというのは、お金持ちという意味ではなく、
 周囲の人に愛されて育ったということです。

 愛されて育った人というのは、
 素直に他人の愛を受け入れられるので、
 人に対してあまり疑心暗鬼になりません。

 無理して威張る必要もないのです。

 政治の世界で、二世議員の多くが愛想がいいのは、
 そうした理由が背景にあります。』


二世議員が、いいとか悪いという話ではなく、
明るさとか、おおらかさや、くったくない笑顔と言ったものは、
周囲の人に愛されて育つと身につきやすい、ということだ。

つまり、大人になってからでも、
周囲の人に愛される環境にある人は
「お坊ちゃんオーラ」が身につく可能性が高いということ。

そのためには、自分から周りの人に「愛」を与える必要がある。


「愛」とは、仏教でいうなら
「和顔愛語(わげんあいご)」の実践をすること。

和顔愛語とは、
和(なご)やかな顔(笑顔)と、思いやりのある言葉。

そして、和顔愛語の後には

「先意承問(せんいじょうもん)」

と続く。


先意承問とは、
先に相手の気持ちを察して、相手のために何ができるかを
自分に問うこと、与えること。

つまり、相手に笑顔になって欲しいなら、
自分が先に笑顔でいること。

思いやりのある「優しい言葉」に囲まれたいなら、
自分から思いやりのある「優しい言葉」を発すること。


「和顔愛語」の実践を重ねたい。

・・・

<参照>
なぜか人生がうまくいく「明るい人」の科学
https://bookreviews.hatenadiary.com/entry/CheerfulPerson


【なぜか人生がうまくいく「明るい人」の科学】から
ポジティブ思考のメリット紹介
https://richpapa777.hatenablog.com/entry/umakuiku


【ベストセラー】
「なぜか人生がうまくいく「明るい人」の科学」
を世界一わかりやすく要約してみた
【本要約】( 2022/11/09)
https://www.youtube.com/watch?v=QRCgZ6HNsH8

       <感謝合掌 令和6年3月13日 頓首再拝>
35:伝統 :

2024/03/14 (Thu) 11:41:04


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月14日)」より

現象界においては時節が事を成就する。
時節に乗ると乗らぬとは、成敗(せいはい)の基(もとい)である。

時節に乗る秘訣は神に一致すること。
神に一致するには、《今ある》状態をまずありがたいと享受して、
そこで百%を行ずること。

急ぐはことを破壊し、急ぐ息はセク息である。

            <感謝合掌 令和6年3月14日 頓首再拝>
36:伝統 :

2024/03/15 (Fri) 09:23:35


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.26)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   《人生には、

    「いま、取り組むべき課題」という短期テーマ、

    「人生をどう生きるか、何を残していくか」という中期テーマ、

    「魂が何千回、何万回と生まれ変わって追い求めていく」長期テーマ

    の3つの「テーマ」がある。

    「テーマ」とは、 must(ねばならない)ではなく、
    「やらなくてもよいこと」を自分に課すこと。》



   ある有名な禅宗のお寺で、雲水(修行僧)たちが
   「一番つらい修行はなんですか?」と 質問されました。

   一人の雲水が
   「私が答えてよろしいですか」と進み出ました。

   その寺の冬はとても厳しいし、
   素足で石の上に座って礼拝するつらい修行もある。


   でも、本当につらいのは、そんなことではないとのこと。

   修行僧には掃除の担当が決まっていて、
   廊下やお堂などが一人ひとりに割り当てられている。

   でも、掃除を見に来る人はいないし、チェックされることもない。

   しかも、一日中 使われなくて きれいなことも多いから、
   さぼっても手を抜いてもわかりません。

   そんな中で、雲水たちは “怠け心”と戦わなければならない。

   それが一番つらいことだそうです。


    「しなくてもいい」という状態に置かれて、
   「自分の意志で何をし続ける」か。

   これが人生における「テーマ」です。


   雲水のテーマは
   「いま、何をするか」という短期のテーマですが、

   ほかにも、
   私たちは人生を通じて試みたい「中期のテーマ」と、

   人生を超えてまでし続けたい 「長期のテーマ」があります。

   これらは決して「やらなければならない」というものではなく、

   自分の意志で「やろう」と決めることです。

   人生を味わい深いものにするコツの一つでもあります。

       <『心を軽くする言葉』文庫ぎんが堂>

       ・・・

(1)《短期テーマ》は、「いま、取り組むべき課題」。

   森信三先生は「仕事の三ヶ条」についてこう語っている。

  ①即今着手
   とにかく、すぐに手をつける、これが何よりも大事な秘訣。

  ②一気呵成(かせい)
   仕事の二等分線(半分)をこえるまでは、一点集中で一気にやり遂げる。

  ③拙速主義(せっそく)
   仕上げは80点でよいので、 スピード感を持ち、絶対に期日厳守のこと。


(2)《中期テーマ》は、
   「人生をどう生きるか、何を残していくか」。

   幸田露伴は、「幸福三説(こうふくさんせつ)」を唱えた。

  ①《惜福(せきふく)》とは、福を全部使ってしまわずに惜しむこと。

   人気絶頂の俳優が、まだあと何十年と活躍できるにもかかわらず、
   惜しまれながら引退する、というようなこと。

  ②《分福(ぶんぷく)》とは、人に福を分けること。

  ③《植福(しょくふく)》とは、
   子孫や未来の子供たちのために、福を植えておくこと。

(3)《長期テーマ》は、
   「魂が何千回、何万回と生まれ変わって追い求めていく」。

   稲盛和夫氏は「人生の目的」についてこう語っている。

   『死を迎えるときには、現世でつくりあげた地位も名誉も財産も
    すべて脱ぎ捨て、「魂」だけ携えて、新しい旅立ちをしなくてはなりません。

    だから、「この世に何しにきたのか」と問われたら、私は、

   「生まれたときより、少しでもましな人間になる、すなわち、
    わずかなりとも美しく崇高な魂を持って死んでいくためだ」と答えます。

    様々な苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながら、息絶えるその日まで、
    倦(う)まず弛(たゆ)まず一所懸命に生きていく。

    その日々を磨砂(みがきずな)として、人間性を高め、精神を修養し、
    この世にやってきたときよりも少しでも高い次元の魂を持って
    この世を去っていく。

    私はこのことよりほかに、人間が生きる目的はないと思うのです。』


人生を味わい深いものにするため…

人生の3つのテーマを追求し続けたい。

            <感謝合掌 令和6年3月15日 頓首再拝>
37:伝統 :

2024/03/17 (Sun) 10:31:14


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.28)より

   (臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…)

   古来禅家では
   「臨済の喝、徳山(とくさん)の棒」といって、
   一棒をくらわし一喝(いっかつ)をくらわして
   弟子を鍛え、教えを伝えてきた。

   教えを学んでも、頭で考え思慮分別するあまり、
   本質を見失ってしまうことがある。

   考えることは大切であるが、
   いつまでも考えてばかりいては何もならない。

   実践が大事である。

   それには一喝して自ら決断を下すことが必要である。


   小池心叟(しんそう)老師は、常々我々弟子には、
   決してむやみに(人様に)一喝をするべきではないと戒められた。

   一喝をするのであれば、まず自らに一喝をせよと教えられた。

   この教えは今も胸に刻んでいる。


   怠惰な私など、 自らに一喝するのが精一杯で
   とても人様に一喝できるものではない。

   坂村真民先生は、最晩年に至るまで、

   「しっかりしろ しんみん」と
 
   自ら鞭打たれていた。

   また「七字のうた」という詩も残されている。

   「よわねをはくな くよくよするな なきごというな うしろをむくな......」
   (『坂村真民全詩集第五巻』) という。

   これなどはまさに、自らに一喝する言葉でもある。


   人は誰しも思い悩むことがある。
   そんな時にこそ、腰骨を立てて、臍下丹田に気力をウンと込めて、

   「よわねをはくな、喝!」

   「くよくよするな、喝!」

   「なきごというな、喝!」

   「うしろをむくな喝!」

   と自分自身に一喝するといい。

   すると「七字のうた」は、こう続いている。


   「ひとつをねがい 
    ひとつをしとげ 
    はなをさかせよ 
    よいみをむすべ」

   と。

   きっと、時が来れば
   自分自身の花を咲かせ、良い実が結ばれるであろう。

   喝。

      <『人生を照らす禅の言葉』致知出版社>

     ・・・

相撲では、
自分のまわしや頬っぺたをたたいたりして活を入れる。

柔道や剣道では、
組み合うときや、試合中も、大きな声で自分に気合を入れる。

自分を鼓舞(こぶ)し、気力を奮い起こすためだ。

自分にハッパをかけ、叱咤激励することでもある。


「水は低きに流れ、人は易(やす)きに流れる」

という。

放っておいたら、楽な方へ楽な方へ流れてしまう。


「一日作(いちじつな)さざれば、一日食らわず」

という禅の言葉がある。

百丈和尚が80歳になった時、
炎天下でも畑仕事をしていたが、
それを見て、弟子たちが健康を気遣って「作務をやめてください」と言った。

それでも百丈和尚は作務をやめなかったので、
畑仕事の道具を取り上げてしまったところ、
和尚は食事をとらなかったという。

その時に言った言葉がこの「一日作さざれば一日食わず」。


元気がなくなったら…

自分で自分に喝を入れたい。

         <感謝合掌 令和6年3月17日 頓首再拝>
38:伝統 :

2024/03/18 (Mon) 11:53:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 令和6年3月18日 頓首再拝>
39:伝統 :

2024/03/19 (Tue) 12:44:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。
地上に悲惨があればこそ、われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。
委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 令和6年3月19日 頓首再拝>
40:伝統 :

2024/03/22 (Fri) 08:38:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 令和6年3月22日 頓首再拝>
41:伝統 :

2024/03/26 (Tue) 11:31:41


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.5.29)より

   (精神科医、保坂隆氏の心に響く言葉より…)


   《とりあえず一歩を踏み出してみる。すべてはそれから始まるものだ》


   「妙薬篋(みょうやくはこ)に盈(み)てども、
    嘗(な)めずして益なし」(『遍照発揮性霊集』)


   たとえ、よく効く薬が箱の中にたくさんあったとしても、
   それを服用しなければ効果はない。

   薬をきちんと飲まなければ病気は治らないというわけです。

   じつは、空海が最澄に送った手紙の中にある言葉で、
   どれほど優れた教えを理解したところで、
   それが実践されなければ意味がない
   と説いています。



   「できない理由を探すな」という言葉があります。

   さて、あなたは新しいことを始めようするときや、
   リベンジを期して再度チャレンジしようと決意したとき、
   その日からスタートしていますか。

   たいていの人は
   「せっかくだから新年の一月一日から」や「新年度の四月一日から」とか、
   あるいは「次の誕生日から」といったように、何かの区切りとなる日から
   スタートしようと思いがちです。

   しかし、ただでさえ落ち着かない年末年始や、慌ただしい年度始め、
   誕生日であれば食事会や飲み会の予定が入るなどして、気がつくと
   スタートを切るはずだった日から何日かたっていたりするものです。

   その結果、また次の機会にしようと、
   結局は先送りになっているのではないでしょうか。



   スイスの思想家ヒルティは『幸福論』の中で、

   「何よりも肝心なのは、思いきってやり始めることである。
    一度ペンを取って最初の一線を引くか、
    あるいは鍬(くわ)を握ってひと打ちするかすれば、
    それでもう事柄はずっと容易になっている」
   と主張しています。

   とにかく最初の一歩を踏み出すことが肝要という考えでしょう。


   私の知人は「何かを始めようと思ったら誰かに宣言するといい」
   と話していました。

   「思い立ったが吉日」「善は急げ」ともいわれます。

   いつか始めようではなく、やると決めたら、思い切ってすぐにスタート。

   とにかくやってみることが、すべての始まりといえるでしょう。


   《頭ではわかっていても、なかなか行動に移せないのが人間。
    最初の一歩を踏み出すのは難しいが、
    思い切って始めれば、何かが起きるだろう。》

         <『空海のことば』MdN新書>

      ・・・

行徳哲男師はこう語る。(感奮語録/致知出版社)より


『現代人は考えすぎる。

 しかし、考えて解決する問題など皆無である。

 問題を解決するには行動するしかない。

 考えることは行動にブレーキをかける。

 考えるから行動しない。

 行動渋滞が起きる。

 行動しなければ証は何も得られない。

 禅の教えにもある。

 「行ずれば証はそのうちにあり。
  行ぜずして証は得ることなし」と。』



『金や財産、名誉や地位を失っても、
 ほんの一部を失ったにすぎない。

 しかし、勇気を失ったらすべてを失う。

 勇気は頭からは生まれない。

 勇気を生むのはただ行動のみ。

 行動が勇気を起爆させるのである。』


とにかく、一歩を踏み出してみる。

すべてはそこから始まる。

       <感謝合掌 令和6年3月26日 頓首再拝>
42:伝統 :

2024/03/26 (Tue) 13:33:34

「すべては逆である」「すべては逆に成る」
伊勢ー白山 道(2024-03-26)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/04ddb34c507abb30c207109130df1832

       <感謝合掌 令和6年3月26日 頓首再拝>
43:伝統 :

2024/03/28 (Thu) 10:42:02


    *メルマガ「致知BOOK」(2023.6.29)
      ~京大元総長・平澤興先生の語録集 より

(1)ある一事を通して、ものの深さを知ることが出来れば、
   その目、その頭で万事を考えるようになる。

   そしてその真実に近づけるのである。

(2)経験を大切にしながらも、経験にとらわれない、
   にごりのない清らかな澄んだ目が必要である。

(3)自分を拝むことが出来なければ、
   ほんとうに人を拝むことは出来ない。

   自分を拝むということは、
   自惚れとは違い又自信とも違う。

(4)一期一会には、その日一日に
   自分の生命をかける感激と夢をもった祈りがなくてはならない。

   今日一日を祈るのである。

(5)情熱は年齢ではなく、燃ゆる心の力である。



<参照>

平澤興『生きよう今日も喜んで』を読みました
https://mobility-career.jp/2022/03/23/ikiyou_kyoumo_yorokonde/

(以下は抜粋です)

(1)朝に希望 夕に感謝

(2)人生に無駄はない

(3)仕事は祈り

(4)癖は飾りもの

(5)一流の人は明るい

(6)道は自分で創る。歩くと道ができる

(7)生かされて生きる

(8)自己との対話

(9)自らを拝む

(10)一日生涯

(11)四苦即四喜

       <感謝合掌 令和6年3月28日 頓首再拝>
44:伝統 :

2024/04/04 (Thu) 10:54:58


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月4日)」より

環境が彼の表現欲望を強いて抑えつけるならば、
人間は狂乱状態に陥るか、ヒステリーになるか、
生命(せいめい)が委縮して病気になるかする。

ロシアのある囚人の刑務の一つとして
終日2つのバケツに同じ水を交互に空(あ)けかえる仕事を課したときには、
その囚人は気が狂ったという。(ドストエフスキー『死人の家の記録』)

これは仕事が強制として課せられて
「自己自身の生命」を表現するなんらの道を与えられなかったからである。

またある精神病者は、
自己の好む仕事に熱心に従事せしむることによって治ったという。
彼はその「仕事」の中に「自己」を表現する道を見出したからである。

自己創造のない「仕事」は人類を窒息または狂死せしめ、
自己創造のある「仕事」は人類の生命を伸び伸びせしめ、
たえず自分に生気を吹き込み、たえず自分を若返らしめる。

「仕事」が面白くない人は、その仕事に自分の生命を打ち込まないからである。
自己創造をしないからである。いかなる仕事の中にも自己創造ができる。
仕事に愛を持つとき、愛は生み出す力であるから自己創造となる。

与えられただけの仕事のみをするところに自己創造はありえない。
仕事を愛して、与えられた以上にその仕事の発展のために工夫するところに
自己創造があるのである。

与えられただけの仕事だけしかしない人はロシアの囚人に甘んずる人である。
彼はただ生命を擦(す)り減らし、老いゆくのみである。
今ある立場において、与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、
常に老いない者である。

            <感謝合掌 令和6年4月4日 頓首再拝>
45:伝統 :

2024/04/17 (Wed) 09:46:53


      *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、
進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者は
ついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

         <感謝合掌 令和6年4月17日 頓首再拝>
46:伝統 :

2024/04/20 (Sat) 13:16:21

「やり返さない勇気」の意味
伊勢ー白山 道(2024-04-20)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/f5cdb33212dd1b04dbe7b1fbf1bf80a6

         <感謝合掌 令和6年4月20日 頓首再拝>
47:伝統 :

2024/04/21 (Sun) 09:27:36


       *メルマガ「勝ち神からの手紙」(2024.4.17)より

新入生が会社や学校に入り、新たな環境の入口に立っています。

迎える側としては、この新入生が成長していくようにと教育が始まります。

この時、良く語られるのは「初心不可忘」、
つまり「初心忘れるべからず」についてです。


これは室町時代の世阿弥の書き記した
「花鏡」の中に出てくる有名な言葉です。

世阿弥は、申楽(能)を大成させた人物ですが、
観阿弥からその奥義・秘伝を受け継いでいます。

観阿弥から学んだことをまとめたものが「風姿花伝」です。

この「花伝」には、7歳から申楽を始め、
その芸道を極めるための秘伝の教育が記されています。

「花」のある演者を極めるためには、
師から何を学び、何を演じていけばいいのか具体的に書かれています。

新入社員や、自分の後継者を育てていく時には、現代でも十分通用します。
子育てをする親、新人を受け入れるベテラン社員には是非読むべき書籍です。


「花」が何を意味するのか、
この秘伝書を読んだ人それぞれに解釈が違うと思います。

親が子に、そして師が弟子に、
「花」を伝えることで、その道は永遠に続いていくことになります。

「秘してこその花」という言葉もあるように、
本来この「花伝」は秘するべきものであり、
世阿弥もその後の「花鏡」とともに、世に出さない秘伝として扱っていました。

今ではその秘伝も誰でも手にでき、触れることができるようになりましたが、
そのようになればなるほど、「秘伝」が秘伝でなくなり、
ここから学ぶ人も少ないのは残念です。

巷には多くの教育本が出版され、
それぞれの著者が思い思い勝手な論調で教育を語っています。

それらは、著者の実践経験から得られたものであり、
決して間違いではないと思います。

しかしながら、書かれていることは、500年以上前の室町時代には、
世阿弥によって秘伝としてまとめられているものが多いものです。

日本の伝統芸能である申楽(能)は
聖徳太子の時代から受け継がれ、発展してきました。
その集大成が、観阿弥と世阿弥の親子によってなされました。

何故この秘伝書をまとめたかと言えば、
申楽(能)という伝統芸能を永遠に引継ぎ残すべきと
考えられていたからだと思います。

人を教育する立場になったら、まずは風姿花伝と花鏡を読み、
秘伝を学ぶことが必須ではないでしょうか。
それを学ばないから、悩み苦しみが生まれて、
そこから抜け出せずにいるのではないでしょうか。


さて、花鏡についてですが、これは世阿弥自身が62歳の頃に、
40歳以後に自分で感じた奥義をまとめたものです。

その中の奥の段に「初心不可忘」が出てきます。
現代では「初心忘れるべからず」の解釈は、
世阿弥が記したものとは少し意味が違っているように感じます。

今は「物事の始まりにおいて、自分の決意や覚悟を忘れてはならない」
というように伝えられているように思います。


いつのころからそのように解釈されるようになったのかわかりませんが、
世阿弥の記すものは別の意味があると思います。

別の意味というよりは、もっと深い意味があるように感じています。

その証拠に、世阿弥は「3つの初心」、
つまり「3箇条の口伝あり」と記しているのです。
しかもそれは当流の万能一徳の句という訳です。

初心は以下のように口伝されています。

「是非の初心を忘れるべからず」
「時々の初心を忘れるべからず」
「老後の初心を忘れるべからず」

の3箇条です。

詳しくは「花鏡」を読めば理解でき、納得できると思います。

どのような段階に到達しても自分自身の「未熟さ」に
気がつかなければならない、忘れてはならない・・・
と私自身は解釈しています。

未熟さとは「未完成」という意味です。

年をとってベテランになっても、己の未完成に気づけば、
いつまでも技を磨くことができます。

この「初心」を伝えることこそが、
教育であり、伝統を絶やさないことになるのです。

生涯において「初心」を忘れずにいれば、
「初心」を子孫に伝えていくことができる。

これこそが、芸道の奥義そのものであり、
初心を伝える限りは代々継承することができる。
このように、世阿弥は「奥の段」で締めくくっています。

         <感謝合掌 令和6年4月21日 頓首再拝>

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.