伝統板・第二 2580848

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神示とは ⑬

1:伝統 :

2024/01/15 (Mon) 10:55:15

【完成(ななつ)の燈臺(とうだい)の神示】(昭和六年一月十五日)

時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。

二千年前、キリストが
『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顯される時期が來たのである。

『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
『生長の家』は今かの黙示録が預言した『完成(ななつ)の燈臺』として
人類の前に臨むのである。

此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの樂園追放以後、人類を惱ましたところの
『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消盡するのである。

光が近附くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。

疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。

(昭和六年一月十五日神示)

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
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(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
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(6)伝統板・第二「神示とは ⑥」
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(7)伝統板・第二「神示とは ⑦」
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(8)伝統板・第二「神示とは ⑧」
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(9)伝統板・第二「神示とは ⑨」
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(10)伝統板・第二「神示とは ⑩」
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(12)伝統板・第二「神示とは ⑫」
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           <感謝合掌 令和6年1月15日 頓首再拝>
2:伝統 :

2024/01/18 (Thu) 10:09:33


    *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《完成の燈臺の神示》」
        (P231~242)より抜粋

(1)この神示は、病人の枕許で厳かな語調で読んで聞かせて上げると、
   信仰心が高まり、それと共に自然良能を高めるのに効果があります。

   この文章のリズムが人の心を打って変化させる力を持っているのです。

(2)『黙示録』にある「人の子の如き者」は「久遠のキリスト」であり、 
   生長の家の神様であるのであります。


(3)この神示にある「エデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの
   『罪』と『病』と『死』との三暗黒」を消尽して、
   光明遍照の天国浄土へ再び人間を復帰せしめるには、
   「生命の實相」とは如何なるものかという
   真理の光によって照らさなければならない。

(4)すなわち、今迄「罪」と「病」と「死」とに悩まされておったところの人間が

   『生命の實相』の本を読んで生命の実の相を知り、

   「ああ人間本来神の子である! 罪は無いのである!」

   ということが解りますと、罪から解放されるのであります。

(5)この真理を教える神聖なる使命を果すのが生長の家の教えなのであります。
   そして、この世界最後の教えをすべき時が来た訳なのであります。

           <感謝合掌 令和6年1月18日 頓首再拝>
3:伝統 :

2024/01/25 (Thu) 11:14:30

【自然流通の神示】  (昭和八年一月二十五日)


『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。
『生長の家』は奇蹟を無くするところである。

人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。
人間は本來健康なのであるから、健康になるのは自然であって奇蹟ではない。

『生長の家』はすべての者に眞理を悟らしめ、異常現象を無くし、
當り前の人間に人類を歸らしめ、當り前のまゝで其の儘(まま)で喜べる
人間にならしめる處である。

あらゆる人間の不幸は、當り前で喜べない爲に起るものであることを知れ。
當たり前で喜べるようになったとき、
その人の一切の不幸は拭(ぬぐ)ひとられる。

病氣もなければ、貧乏もない、
また搾取された富もなければ、搾取した富もない。
蹂躙(ふみにじ)られた弱者もなければ蹂躙つた強者もない。

唯、一切が渾然(こんぜん)として一切の者が富んでゐる。
此れが實相である。

大いなる生命の流れが一切者に貫流し、
とゞまらず、堰(せ)くところなく、豊かに流れて、
物の供給もおのづから無限である。

一切のもの必要に應じて流れ入ること、
一つの大河の流れより水を汲みとれば、
隣の水來りて其の虚を埋めるのと同じさまである。

流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、
富に執せざるが故に他を搾取(さくしゅ)せず、
流通せざる固定の富なきが故に、

みずから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占拠せず、
執着せず、來(きた)るに從つて拒まず、
受けて更に価値を増して他を霑(うるお)す。

自給自足などとは自他に捉われた狭い考へである。
自他は一つである。

『生長の家』は自給他足、他給自足、循環してとゞまらず、
大實在の無限流通の有様を見て、その有様の如く現實世界を生きるのが
現實界の『生長の家』 である。

貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』 人ではない。

當(あた)り前の人間を自覚し、當り前に生きるのが
『生長の家』 の人である。
「當り前の人間」 が神の子である。

皆此の眞理を悟つた人が少い。

「當り前の人間」のほかに「神の子」 があるやうに思つて
異常なものを憧(あこが)れるのは、
太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。

皆の者よ、人間の生命の實相を悟つて病氣が治るのは、
病念と云う異常現象が止んで、人間本來の自然に帰るからである。

異常現象はすべて病氣の一種である。
貧しさも異常現象であるから、
人間の心が自然に還ればなほるのである。

異常現象のなかに神があると思ふな。
そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。

怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、
他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。

異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。

當り前の人間になることが大切である。

當り前の人間のほかに神の子はない。

 (昭和八年一月二十五日神示)

           <感謝合掌 令和6年1月25日 頓首再拝>
4:伝統 :

2024/01/26 (Fri) 11:53:22


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(1)悟りというものは観念の遊戯ではない。
   生活の実践なのです。

(2)行(ぎょう)とは「おこない」ということで
   日常生活のことであります。

   神想観も飯をたくのも同じように尊い行(ぎょう)であります。

(3)日常生活の当たり前のことが当たり前に喜べるようになると
   心が当たり前になるから、間違った心の結果起こっていた病気が治る
   というような事が起こるが、これは奇蹟ではない。

   当たり前のことだというのです。

           <感謝合掌 令和6年1月26日 頓首再拝>
5:伝統 :

2024/01/27 (Sat) 11:36:59


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(4)人間巧者の工夫というものが無くなって、「そのままの工夫」 ―― 
   「実相の催し」というものが出て来なければ本物ではないのであります。

(5)人間智慧の”はからい”というものが消え、”計らわないところの計らい」
   というものが出てくると、それは本来一体なる「実相」からの
   内部的催しでありますから、もうどこにも衝突するということが
   出て来なくなるのであります。

(6)「そのまま」の心で生活する人には
   決して貧乏というものがないのであります。

(7)「そのままの心」になれば、自然に汚(きた)ないものを
   きれいにしたいという衝動が起こって来る。
   その巡り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

           <感謝合掌 令和6年1月27日 頓首再拝>
6:伝統 :

2024/01/28 (Sun) 09:37:32


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(8)すべての人間は、神の子なんでありますから、裕かなのが実相で
   ありまして、貧乏な状態になっているのは実相ではないのであります。

(9)愛するということは、単に「性」を与えるということではない。
   あらゆることを貴方の望まれることなら何でも致しましょうという
   心であります。

(10)みずから富みたいと思う人は、
   「すでに私は神の子であるから無限の富者だ」という自覚を
   潜在意識に持つ事が、富者になってることの始まりであります。

   ところが多くの人は潜在意識の底に、「富」を「搾取の産物」として
   憎む心をもっております。富豪に対して憤(いきどお)りを感ずる
   というのは、自分にも向けられて自分が貧乏するのであります。

           <感謝合掌 令和6年1月28日 頓首再拝>
7:伝統 :

2024/01/29 (Mon) 11:52:07


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(11)人間は他(ひと)から同情されたいと思うような心を持っていると、
   その人は豊かにもなれないし、大いに伸びる事は出来ないのであります。
   自己憐憫は宜しくない。

   私(谷口雅春)もそうでしたが、皆さんも

   「我(われ)は《いと》優れたものである、
    神の子である、仏子である。

    我が行く所には如何なる妨礙(ぼうがい)も、ことごとく崩れ去って、
    何者も自分の行く所を妨げる者はないのである」

   というような、そういう素晴らしい信念を持って
   生活を勇敢に進めて行ったならば
   好い事が出てくるのであります。

(12)「我(われ)は最勝なる者である」と自覚せられたのが、
   仏の悟りであります。

           <感謝合掌 令和6年1月29日 頓首再拝>
8:伝統 :

2024/01/30 (Tue) 09:12:16


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(13)何物も自分のものは無い。
   すべてのものは神様のものであります。

   ありと凡(あら)ゆるもの神様のものならざるはないのであって、
   そして神様の生命(せいめい)の中に融け込んで、任運無作の循環に
   任せて、さからいがなくなって、法爾自然、法のそのままに
   自然に動いて行くというと、そこに本当の流通無限の自由自在の
   生活というものが現れてくるのであります。

(14)人間が健康なのは当たり前であって、
   病気になる方が奇蹟なのであります。

   神示に次のようにあります。

   「怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
   ──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。
   異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。」

(15)病気が治るのは奇蹟じゃないというのは何故であるかと言うと、
   これは心霊科学的な事実であるからであります。

(16)人間の心が当たり前になって迷いが消えたとき病気が消えたのであって、
   奇蹟の如く見えても奇蹟ではないのあります。

(17)『生命の實相』という本は、この現象界の人間を救うだけで無しに、
   霊界に居るところの霊魂の迷いをも救う力があるのです。

           <感謝合掌 令和6年1月30日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/02/04 (Sun) 10:45:13


『生命の實相』を讀んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものは
まだ“生命の實相”を悟ったものではない。

眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、
其處に『結び』の力が發現するのである。

『結び』は愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力である。

これを日本古道ではムスビ(産靈)と言ひ、ムスビによつて醸生(神)の力、
即ち生々化育の力が發現して來るのである。

だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、
ただ、話をするだけで病氣が治るのである。
話が下手なら『生命の實相』の中で『光明の眞理』のところを、
本の由來を話してから讀んで聞かせてもよい。

神の道では『結び』の反對『切る』ことを最も厭ふのである。
怒つたり、審判いたりするのでは心で切るから善くない。
離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。

『神』は『道』であると云ふのも『道』と云ふものは
離れてゐるものを結び合はす働きがあるから『道』即ち神である。

結び合わす働きがなくて、審判く働きばかりあるものはどんな善人でも神に遠い。

一人の男子が縁あって一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、
それを圓く結んでやるのが道である。

神の道を知り『生命の實相』を知ると云ふことも
その道びきになる人々の間には深い因縁があることであるから、
橋掛けになつた人の恩を忘れてはならぬ。

自分はもう神と直取引が出來るから、
橋掛けになつた人の恩は忘れても良いと思ふやうな人は、
自分はもう神を知つたから神に背いても好いと云ふのと同じく不合理である。

『生長の家』を知らしてくれる人は
其の人にとつて天の使ひであるから何日までも恩を忘れてはならぬ。

日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである。

今度の戰ひは國民の魂の質から言へば知恩と忘恩との戰ひ、
『結び』働きと、バラバラに分離する働きとの戰ひである。

バラバラに分離する働きは結局自滅して『結ぶ働き』が世界を統一する。

醫學でも大和の醫學は結合の醫學であるが外國の醫學は分析の醫學である。
『生命』は綜合の統體であるからバラバラの醫學では解らぬ。

(昭和七年二月四日神示)

           <感謝合掌 令和6年2月4日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/02/05 (Mon) 11:30:12


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(1)人間の生命(せいめい)は、神より出で、
   すべての人類は「神の生命(せいめい)」を宿していられるので、
   自己の生命(せいめい)と他己の生命(せいめい)とは一体であります。
   
   だから他の人たち全部が真理を悟らない限り、
   自己は真理を悟っていないのであります。

(2)菩薩たるものは人類全体の苦悩を自己に摂取する結果、
   人類すべてが苦悩を脱しない限りは自己の苦悩が去らないので、
   聖者は永遠に人類救済にその全力を尽すのであります。

(3)”ムスビの力”こそ万物を生々化育する生命発現の力であり、
   一切のものを醸成する力であり、それが愛の力であり、
   慈悲の力であり、神仏の力なのであります。

           <感謝合掌 令和6年2月5日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/02/06 (Tue) 10:22:36


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(4)自他一体なるがゆえに全世界がこの真理によって救われるまでは、
   この真理の宣布を根(こん)かぎり、精力の続くかぎり
   行なわずにいられない筈です。

   この心境に達したというのでなければ、
   生命の実相を悟り得たなどと口幅ったい事は言われない訳であります。

   そこで先ず『生命の實相』を読み、少しでも真理をわかりかけた人は
   他の人へ伝えることを実践しなければならない訳です。

   真理を伝えた結果、相手が癒やされ、その癒やされた人自身の悦びが
   自分に反照して来るとき、自他一体の実相を自覚することが得られ、
   それによって、『生命の実相(ほんとうのすがた)』
   の本当の悟りが得られるのであります。

(5)この「自他一体」の真理の実践が「結び」と言うのであります。
   「自他一体」をこわして、孤立又は独善に陥ることを、
   「結び」の反対なる「切る」と言うのであります。

(6)「神は道(ことば)である」というのは、
   「道(ことば)」即ち神なのであります。

   単に言語というような簡単な意味での「言(ことば)」が神ではないのであって、
   宇宙の首(はじめ)なるもの、無形の「道理」なるものを神と言ったのである。

           <感謝合掌 令和6年2月6日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/02/08 (Thu) 09:01:10


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(7)大東亜戦争では負けましたが、
   それまで日本が何処の国と戦っても強かったのは忠孝一貫して、
   天皇の恩を忘れず、親の恩を忘れず、天皇のため、両親のために
   誠心(まごころ)を尽して挺身する美徳があったからであります。

(8)神示にある「知恩と忘恩との戰ひ」は対外的な戦争のことではなく、
   天皇や、国家や、祖先や両親に対する恩を知る者と、
   天皇の恩も、国家の恩も、両親の恩も忘れて、

   誰が日本の国を統治しても、個人が幸福になればよいではないかという
   所謂る「赤い思想」の者との戦いのことを指していられるのであります。

   この神示の出た頃には、一時的方便として天皇を金看板に使いながら、
   日本国を焦土とし、結局共産革命にもって行こうとしていた
   所謂る進歩的文化人があったことは明らかであります。

   「天皇のご命令だ」という金看板で我意を遂行しようとしていた
   当時の軍閥の中にも、社会主義革命遂行の前哨戦的手段として
   戦争を煽動していた者もあったのは事実で、

   日本が戦争に負けた一つの原因も、
   そのような背信行為に裏をかかれて
   戦争すべからざる時期に戦争したことにあります。

   併しやがてはバラバラに分離する働きは自滅して、
   世界全体が一つに融合する時代が来るに相違ないのであります。

           <感謝合掌 令和6年2月8日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/02/09 (Fri) 10:34:27


【上求菩提(じゃうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)の神示】  

實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである。
實生活を捨てるのも自分だけ淨まるために捨てるのと、
他(ひと)を救ふために捨てるのと二種類ある。

實生活をあまり忙しがるな。
皆の者が『道』をきき病ひを癒して貰ひたうても遠慮して頼みに來にくい。
そのうちに救はれる機縁を失うて取返しがつかぬやうになる人もあるのが可哀さうだ。

同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である。

わが第一の神殿は皆の誠によつて形の世界へ顯はれたから
第二の神殿に取りかゝつて貰はねばならぬ。

第一の神殿は聖典『生命の實相』であつて《智慧の神殿》である。
第二の神殿は《愛の神殿》であって、神が愛であり、
愛は癒やす力であることを知らす『見眞道場(いのちゆには)』である。

智慧と愛と兩(ふた)つの神殿が『生長の家』に揃へば
全世界の他上天國建設の心柱(しんばしら)が出來るのである。
この心柱は心の柱で智慧と愛との十字である、卍(まんじ)である。

  (昭和七年二月九日神示)

           <感謝合掌 令和5年2月9日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/02/10 (Sat) 09:50:41


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。


(1)「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ」

  ①釈尊やイエスは、特殊な使命を果すために、實生活を捨てました。
   そのため、釈尊の生活もキリストの生活も、
   家庭生活や、実際生活という面では、
   それを成就したと云うことができません。

   特殊な使命と天才とを持った人のほかには、
   このような家庭生活や国家破壊の道には、ついて行けないのであります。

   そこに彼らの教えの足らない所があるのです。

   その足らない所を補うために、
   そして釈尊の教え、キリストの教えを成就するために
   出現したのが生長の家であります。

  ②「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである」
   と神示に仰せられています。

   家庭も生かさなければならないし、国家も生かさなければならない。
   そこで「捨てずして捨てる生活」「有たずして有つ生活」という
   両方生かす生活が必要になって来るのであります。

  ③生活の必需品は、必需だから「有たねばならない。」
   しかし有っては執着がかかって、心が汚れる。だから「有ってはならない。」

   「有たねばならないが、有ってはならない」ということになり、
   結局「有たずして有つ」「無所有の所有」ということが
   必需になって来るのであります。

   形の上では「有っている」けれども、
   「自分の所有だ」という観念を有たないで、
   「神様からあづからして戴いている」という自覚に立ち還ることであります。

  ④「すべてのものは自分のものでない」と自覚し、それは「神のもの」と知り、
   心の世界で、一切の所有を「自分名義」から「神様名義」に書き換え、

   この「所有」を預からせて頂いているのは、
   神様のものを預からせて頂いているのであるから、
   神様の御用に、神様のみこころに従って使わして頂きましょうと決意する。

   これが「有たずして有つ」であり、そこから、實生活を捨てながら、
   実生活が成就する道がひらけて来るのであります。

           <感謝合掌 令和6年2月10日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/02/11 (Sun) 13:43:14


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。


(2)「實生活をあまり忙しがるな」

   どんなに忙しい場合にでも悠々乎(ゆうゆうこ)としているべきで、
   あまり「忙しい、忙しい」などとつぶやいてはなりません。


(3)「同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である」

  ①家族それぞれは、その信念に従って、その行動は自由でなければなりません。

  ②自分が充分悟りを開いたつもりになったからとて、
   人それぞれの行動を強制してはなりません。

   あまり強制すると、
   却って家族の精神が互いに反目するようになったりします。

           <感謝合掌 令和6年2月11日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/02/12 (Mon) 10:07:17


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。

(4)智慧の神殿と愛の神殿

  ①聖典『生命の實相』は人を真理に導く”智慧の神殿”であるとするならば、
   講師がいて直接愛情をもって指導してあげる”場”となる道場は
   ”愛の神殿”とも称すべきものであり、

   愛は癒やす力であるから、講師たるものは、智慧のハタラキで、
   高座におってただ真理さえ教えたらよいのだというようにあってはならない。

   相手に随って、対機説法自由自在、或いは打ち、あるいは柔げすると同時に、
   「自分の力」が癒やすのではなく、自分を媒介として「神の愛」が
   癒やしたまうのだということを知り、「神の愛」の媒介となるように、
   自分自身、相手の人に対する愛念を深く起すようにしなければならぬ。

   道場を神様は総括して「見信道場(けんしんどうじょう)」となづけられ、
   これを”いのちのゆには”と訓読するように示されているのであります。

  ②『生命の實相』その他の書籍の智的な「真理の柱」と、
   「見眞道場(いのちのゆには)」と謂う道場の愛の「真理(しんり)の柱」とが
   十字に卍字に交叉して、全世界に地上天国建設の 心柱(しんばしら)が
   出来上がるのだと示されているのであります。

   最近続々と各地に道場ができつつあるのは地上天国成就の機運が
   近づきつつある兆候としてまことに有難き極みであると、
   地方の熱意ある同信の諸賢に対して感謝している訳であります。

   因みに、「見眞道場(いのちのゆには)」は
   道場の総括的名称であり普通名詞であります。

   現在“いのちのゆには”を固有名詞的名称として使っているのは
   九州福岡市の道場だけでありますが、

   「いのちのゆには」とは「生命(いのち)の斎庭(ゆには)」という意味で、
   「斎」は“きよめる”といふ意味、「庭」は“場”又は“道場”の意味で、
   生命(いのち)を浄めて、今まで隠覆埋没されていた、
   生命(いのち)の完全な實相を開顕して個人の生活を健全化し、

   更に進んでは地上に天国を建設する拠点となる場を意味するので、
   この建設のために意をつくされる功徳は実に偉大なるものがあるのであります。

           <感謝合掌 令和6年2月12日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/03/17 (Sun) 12:10:34


見眞道場(いのちのゆには)とは
眞(まこと)を見(あら)はす齋(きよ)めの場(にわ)である。

『眞(まこと)』とは『生命の實相(まことのすがた)』のことである。

齋(きよ)めるとは迷ひを除くことである。
人は神の子であるから、その實相を見(あら)はせば
病なく、惱みなく、死なく、一切の不幸は無い。

人の世は、神の子と神の子とが相寄って造つてゐる世界であるから、
その眞実の姿があらはれれば、
人と人、階級と階級、國と國との爭い戰いも自然に消える。

實相をさとつた人が少ないために皆が苦しむのである。
假相を實相だと思ひ誤り、皆が苦しんでゐるのが可哀相であるから、
さきには智慧の光で迷を照破するために、
聖典『生命の實相』を造らせたのである。

これを讀むだけで救われる人は餘程神縁の深い人達である。
此の神縁をおろそかにせずに人に傳へて尚々多くの兄弟を救ふやう協力せよ。
人はすべて神に於て兄弟である。

人を救ひ道を傳へようと思へば、それが愛即ち神心であるから、
その人に神は偕にありて神の言葉を其の人に話さすのであるから、
自分はまだ人に話すだけの力がないなどと思わず、
其の時に『生長の家』について思出したことを話せば、
それが種子(たね)になつて相手が救はれる。

人は種子(たね)を播きさへすれば好い。
教への種子(たね)は神が人の心の中へ吹き込むから、
思ひ出すまゝに語ればそれで相手が救はわれる。

人ひとりでも救ふのは神の前に大いなる仕事である。此の事はだいじである。

本だけ讀んで悟れるほどの境に達していない人のためと、
人を救ふために尚一層深く知りたい人のために、智慧の光に、
愛の温かさを加えて色々世話をやくやうに
智と愛との十字で曼陀羅を織らせるのが見眞道場(いのちのゆには)である。

これから人を救ふための天使の靈の宿つてゐる善き人たちが諸方から
此の道場(ゆには)へ集まつて來て、奇蹟(てほん)を此の道場(ゆには)で見せる。

愛の心で來るものは神德を受けて歸るが、
審判く心や素見(ひやか)し心で來るものは
神と心の波長が合はぬから其の心が直らぬうちは神德は受けられぬ

(昭和七年三月十四日神示)

            <感謝合掌 令和6年3月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/03/18 (Mon) 11:58:11

(三月の神示)【至上者の自覺の神示】
 
人即ち神であると云ふ眞理を知らぬ者が多いのは氣の毒である。

『生長の家』 が此世に出現したのは
すべての人々に此の至上の眞理を知らさんが為である。

自己が神だと悟つたら人間が傲慢(ごうまん)になるやうに誤解したり、
自己の本生が神だと悟つたものを謙遜が足りぬと思ふ者は大變な思ひ違ひである。

斯(か)くの如き想像する者は
自己が神だと云ふ眞理をまだ一度も悟つて見たことがないからである。

自己が神だと悟れたら人間は本當に謙遜(けんそん)になれるのである。
キリストが弟子の足を洗ふことが出來たのも、自己が神だと悟つてゐたからである。

本當の謙遜は「神の自覺」 から來る。
神を自己の本性(うち)に自覺しないものは、いくら謙遜らしく見えても、
それは卑屈(ひくつ)にすぎない。

卑屈(ひくつ)と謙遜とを思ひ誤るな。

本當の謙遜とは「自己は神より出でた神の子である。
従つて神そのもののほか何者でもない」と云ふ眞理を
何らの抗(さか)らひもなしに承認することである。

此の眞理を承認するものを謙遜と云ひ柔和と云ふ。

この眞理に逆ふ者を傲慢(ごうまん)と云ふのである。

すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神成り』の眞理を承認しないところの
根本傲慢より分化し來(きた)るのである。

觀点の違ふ者には解りやうがない。

人間の偉大な仕事を皆憑靈(ひょうれい)の仕事のやうに説いて、
人間をたゞ憑靈の傀儡(かいらい)のやうに教へるものがあるが邪教である。

人間の本性(うち)に憑靈の示唆(しさ)よりも偉大なものがあることを
教へるものこそ正しき教である。

《人間は肉體でもなければ傀儡(かいらい)でもない》、
人間は靈であり神であり自主である。

若し憑靈が「靈」 であるが故に偉大なる教(おしへ)を説き、
偉大なる仕事が出來るならば、人間自身も「靈」であるが故に、
偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出來ることも当然でなければばらぬ。

ただその教(おしへ)や仕事に高下(こうげ)があるのは
靈界の靈にも、人間にも、自己内在の無限性の掘りさげ方に
差があるからである。

釈尊は決して憑靈の傀儡ではない、
基督(キリスト)も決して憑靈の傀儡ではない。

いづれも自己内在の無限性を堀下げて、
終(つい)に佛性(ぶっしょう)に達し、神性に達したから、
靈界の諸靈來たつて此の二聖に事(つか)へたのである。

釈耶(しゃくや)の憑靈ばかりを觀て釈迦が自覺したところの佛性、
イエスが自覺したところの神性を見ない者は憐(あわ)れである。

憑靈が説くほどの教なら人間自身も靈であるから説き得(う)べきであるのに、
釈耶(しゃくや)の教を釈耶自身の教ではなく釈耶の憑靈の教であると説く
スピリチュアリズムは自己撞著(どうちゃく)に陥(おちい)つてゐるのである。

人間よ、人間自身の尊嚴を自覺せよ、
これを自覺することは人間自身の尊嚴を奪還することである。

『生長の家』は人間自身の尊嚴を奪還せんがために出現した人生の燈臺である。

         (昭和八年三月十六日神示)

           <感謝合掌 令和6年3月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/03/21 (Thu) 11:16:47


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
          《いのちのゆにはの神示》」より抜粋。

(1)『眞(まこと)』とは「現実の人間」の彼方に実在するところの、
   化して見えざる「精髄の人間」即ち『甘露の法雨』に「真性の人間」と
   書かれているところの「《まこと》の相(すがた)の人間」のこと
   であります。

(2)見真とは、その「実相」の完全さをあらわすことであります。
   人間の「実相」の完全さは化して見えないものでありますが、
   それを目に見える象(かたち)にあらわすのが「見真」であります。

   真を見(あら)わせば人間の円満完全なる真実があらわれて、
   一切の不幸、病気、災難等が消えてしまうのであります。

(3)神様の世界では、生長の家の道場はその大小にかかわらず、
   すべて「いのちのゆには」即ち
   「生命(いのち)の齋(きよ)めの庭」なのです。

(4)『生命の實相』の本を書かしめられたのは神様であります。

(5)人を救う愛の念願を起して、道を伝えようと思えば
   神の心と波長が合うのでありますから、
   自然に相手を救う適当な言葉が口を衝いて出るようになるのであります。

(6)内部霊魂の導きの催しによって道場に集まった人が、
   道場で講話をきいていると、神の力を示現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

           <感謝合掌 令和6年3月21日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/03/22 (Fri) 08:47:36


(7)天使の霊の宿っている人々

   そこへ集って来る霊の多くは、
   肉体の脳髄にも真理を悟らせて人を救いたいという熱願ある
   「高級霊」の方が多いのであります。

   こういう人を救いたい熱願をもっていられる
   「高級霊」の宿っている人を「天使の霊の宿っている人」と
   申されているのであります。

   既に真理を悟っている高級霊(菩薩に当たる)でも、
   その宿っている肉体の頭脳が真理を知らないと大変都合が悪い。

   人生に於ける行為は霊と肉体との協同動作によって行なわれるのですから、
   その人の霊魂だけが高級霊で、
   肉体の脳髄は「真理」を知らないのでは可けないので、

   霊魂は、其処に生長の家の道場が出来たとか、
   講習講演会が催されるとかいうことが肉体の眼にとまると、
   内部から「何となくその講習会講演会に行きたい」という念を
   起こさせる。

   この場合、肉体の脳髄が「講習に参加しよう」と思ったようだけれども、
   実は内部霊魂の導きによる催しである場合が多いのであります。

   斯ういう人たちが道場に集って講話をきいていると、
   神の力を至現するための
   模範的奇蹟的治癒のようなことが起こるのであります。

   治癒と言っても、単に病気だけのことではありません。
   悟りによって悪い運命が好転に一転するのも治癒であります。
   不調和な家庭生活が調和に一転するのも治癒であります。

   そのような奇蹟が「手本」となって他の人々が
   神の存在をみとめて悟りに入る媒介となるのであります。

   このようにして無数の奇蹟的治癒の行われる道場へ来ても、
   何ら神徳を受けることのできない人もないことはありません。

   「愛の心で来るものは神徳を受けて帰るが、
    審判く心や素見し(ひやかし)心で来るものは、
    神の心と波長が合わぬから其の心が直らぬうちは神徳は受けられぬ」
   とあるのであります。

   即ち心の波長が神の波長に同調すれば、
   神の御徳が現象界にカゲを映して来るのであります。
   それで「神徳」と書いてオカゲと振仮名することもあります。

(8)実相に於ては人間は万徳円満でありますが、
   現象界に於てオカゲ(神徳)が得られるか得られないかは、
   その人の心次第ということになるのであります。

           <感謝合掌 令和6年3月22日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/03/23 (Sat) 12:24:59


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《至上者の自覺の神示》」より抜粋

(1)「人即ち神である」というのは
   「人間の本性又は実相は神である」ということです。

(2)人間に”内在する仏性”こそが人間の実相であり、
   「本当の人間」であり、肉体と見えるのは「人間の仮相(かそう)」に
   過ぎないのであります。

   仮相はそれがアルかの如く見えても、「無い」でありますから、
   「実相」のみがアルのであります。

(3)「神」という語を定義すれば
   「至上者(いとたかきもの)」ということであります。

   「至上者」とは、”至上最高の自由を得た者”ということであります。

(4)実相は完全であっても、現象は、その人の”心の影”として
   唯心所現的にあらわれます。

   その人の心が何を想念するかによって、
   その人の現象界の幸不幸はあらわれてくるのであります。

           <感謝合掌 令和6年3月23日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/03/24 (Sun) 10:18:17


(5)「人間はみな神の子」であると悟ったならば、
   自分も”神の子”であると同時に、相手のすべての人も
   ”神の子”であるということがわかりますから、
   相互礼拝ということが自然に行なわれるようになります。

(6)自己内在の「神の子」が目覚めていましたら、
   「人間は神の子じゃよ」と言われたら、素直に従順に
   さようでございます。その通りでございます」と、
   少しも剛情に逆らうことなくその真理を受けることができるのであります。

(7)「内在の神」を自覚いたしますと、悠々として人に処し事に処して
   行くことが出来ますから、常に柔和なのであります。

・・・

<参照>

(1)Web:神の智慧と愛の“ひかり”(2022年5月12日)
   https://kibounohikari777.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-d9598f.html


   『自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。』


   『「人即ち神である」という教えが生長の家の教えの根本を成している
    のでありますが、この場合、注意しなければならないのは、
    用語の定義をハッキリさせて置かないと誤解を生ずることであります。

    先ずこの場合の「人」というのは「人の本性」又は「実相」のことであって、
    「肉体人間」のことではないのであります。

    乃(すなわ)ち「人即ち神である」というのは
    「人間の本性又は実相は神である」ということです。』


(2)Web:神の智慧と愛の“ひかり”(2022年5月13日)
   https://kibounohikari777.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-2bb3c0.html

   旧約聖書『詩篇』を引用
   『(前略)『詩篇』第八十二篇にも、

    「なんじらは神なり、なんじらはみな至上者(いとたかきもの)の子なり。
     然(さ)れどなんじらは“人”のごとく死にもろもろの侯(きみ)のなかの
     一人(ひとり)のごとく仆(たお)れん。」

    と示されているのであります。

    実相は「神」であり、「神の子」であっても、
    現象は「肉体としての人」のごとくに死ぬというのであります。

    茲(ここ)にはハッキリと、人間の実相と現象との区別が
    旧約聖書にも書かれているのであります。』


   『法句経(ほっくきょう)』を引用

   『「我が生(しょう)は已(すで)に安し。
    怨(うらみ)を慍(いか)らず、衆人に怨(うらみ)ありとも、
    われは無怨(むえん)を行ず。
 
    我が生は已に安し。病(やまい)を病(や)まず、
    衆人に病ありとも、われは無病(むびょう)を行ず。
 
    我が生は已に安し。憂(うれえ)を慼(なや)まず、
    衆人に憂ありとも、われは無憂(むいう)を行ず。
 
    我が生は已に安し。清浄無為(しょうじょうむい)なり、
    楽(らく)を以(もっ)て食(じき)となす、

    光音天(こうおんてん)の如(ごと)し。」

    まことに素晴しく明るく清浄で平和で健康な心境であります。
    「人は神の子なり」の真理を如実に知ったならば、
    この釈尊のような境地になれるのであります。』

           <感謝合掌 令和6年3月24日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/03/25 (Mon) 12:59:14


(三月の神示)【使命邁進の神示】

人がどう思ふかも知れぬと、そんなことばかり氣にかけてゐるやうなことでは
心の苦しみは絶えぬものだ。

自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考へるが好(よ)い。

肉体の人間は誤解するものだとあれほど言ひきかしてある。
肉体は念の集積で出來たレンズ又はプリズムであるから、
人によつて其の『眼鏡』は違ふから、
どんな光線でもみんな屈折して見えるし、
人によって屈折の仕方も違ふのだ。

三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。
深切で言つたつもりが悪意にとられたり、
失敗(しくじ)つて言った言葉でおかげを受ける人もある。

誰が何と思つても、それは迷ひで屈折して色々に觀るのであるから、
たゞ神に知られることだけを求めて人に知られようなどと思はぬが好い。

人間の苦しみの一つの元は上(うわ)べを飾りたい心である。

(昭和七年三月十五日執務中神示)

           <感謝合掌 令和6年3月25日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/03/26 (Tue) 12:10:25


      *『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《使命邁進の神示》」より抜粋

(1)人の思わくなどを気にせず、

   「自分がその位愛したか。そればかりを考えるが好い」

   と神さまは仰せられるのである。

(2)神はマコトひとすじであって、無限の叡智と愛とをもって、
   一切のものを正しく見給うのであるが、
   人間の見解は、恰も色々の異なる屈折度のレンズ又はプリズム
   によって色々に見るのである。

(3)人類の危機、国家の危機を目の前に観ながら、
   天皇のことを説いたり、愛国心を説いたり、古事記を講義したら、
   「右翼」と誤認せられて、自分に非難が集中するかもしれないからとて、

   人の思惑に気兼ねをして、この危機から人類及び国家等を
   救おうとしないことはまことに愛なき事だど言うほかはないのである。

(4)この神示を読むとき、

   「お前はどれだけ人類を愛したか」
   「お前はどれだけ国家を愛したか」
   「お前はどれだけ愛の仕事を遂行したか」

   と問い詰められるような気がするのである。

   本当に人類を愛し、国家を愛するならば、此の人類及び国家及び
   一人ひとりの人間の破滅の危機が近づいている現代に、
   人の思惑を気にして日和見的態度をとるなどという
   事は決して出来ないことだと思うのであります。

           <感謝合掌 令和6年3月26日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/04/05 (Fri) 11:48:37


われに姿かたちあるやうに言ふものもあれどわれは姿なきものである。

われは道である。われは靈性である。

智慧である、愛である、生命である、
われは如來である、われは一つにして多である。

信仰深き諸方の靈覚者にわが神姿を示したることあれども、
そはわが眞の姿に非ず、見えたる神姿は靈覚者の心識の所現にも非ず。

そは、われ神通力によつて、疑ふ者の蒙を啓かんがために、
異る場所と異る人とに同じき一定の神姿を示して、
神の客観的存在を實証したに過ぎない。

されど、本來われに一定の神姿はない。
如何なる姿も欲(おも)ひのままに現ずることが自由である。
されば、嘗(かつ)てわれ汝に告げたのである『われに神殿は不要である』と。

われは神殿がないとて身の入れ場所に困るやうな神ではない。
供へ物も要らぬ。わが姿を見んと欲ふものは『生長の家』を読め。
われは言葉である。吾が言葉を盛る雑誌こそ吾が神殿である。

この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。
われにすがた形はない。われは靈の海である。大海原である。
すべての宗教(おしへ)流れ來りて吾れに入らん。

吾れは完成する者である。われは『七つの燈臺』に燈を點ずる者である。
古道も、仏教も、キリスト教も、天理教も、金光教も、黒住教も、大本教も、
すべての教我に流れ入りて生命を得ん。

われは大(おほい)なるものなるかな。
すべての教を呑吐(どんと)して、これに生命を与へ、すべての相爭ふ教を
その眞髄に於て握手せしめる。吾れはすべてを包容し、すべてに光を与へ、
すべてに栄養を与へ、すべてを生かす地下水である。

他の如何なる宗教をも誹(そし)らず批(う)たず、常に讃頌(さんしょう)と、
善き言葉とを雨ふらして、それを淨めその眞髄に燈を點ずる。

あらゆる宗教がその眞髄を礼拝して手をつなぐやうにならねば
此の現實世界の改造は完成せぬ。
精神界が先きで現實界はその影である。

元乱れて影完(まった)からず、宗教家よ、宗派爭ひをしてゐる時ではない。 

(昭和六年四月五日神示)

          <感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/04/06 (Sat) 11:11:59


        *「『神ひとに語りたまう』神示講義 教の巻
          《万教帰一の神示》」より抜粋

(1)本源の神は如何なるものか

  ①神は無相にして無限相。
  ②宇宙の中に神様が生まれたのではなく、
   神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。
   宇宙そのものが神様であるわけです。

  ③神は普遍的でありますから、普遍的根本神は、霊媒にはかからぬのであります。
  ④何処にでも到るところに、我の内に、すべての人のうちに、宿ってましますのが
   宇宙の大神であります。

(2)カミの語源について

  ①神というのは「幽かなる身」
   あるいは「隠れている身」、「輝く身」、「翔り身」。

  ②第一義の神
   神様は姿形が見えずして、遍在であり、
   宇宙到る所に、何処にでも充満しておられて、
   吾々の生命となっておられるのであります。

  ③第二義の神
   無相にして無限の姿の本源の神様が、
   無限の姿の一つを化身として現されたものであります。
   例として、観世音菩薩であるとか、
   白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に、生長の家の神様。

  ④第三義の神
   個別霊即ち個々別々の霊魂、神格を得られている人間の霊魂、自然霊・・・。

(3)実相の世界とは

  ①霊界と一口に申しますけれども、
   一番深奥にある実在の世界は実相の世界でありまして、
   これが第一義の世界であります。

  ②既に完全円満に成就せる世界であります。

  ③「天国浄土」、「極楽」、「龍宮」、「天」、
   「真空妙有の世界」等と名づけられている。
   これが実相の世界で、これが「本体界」であって、
   「吾々の本体」が生活しております。

           <感謝合掌 令和6年4月6日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/04/07 (Sun) 10:35:16


(4)自然霊のこと

  ①地上には一遍も肉体を持って来ないで、初めから霊体だけで、
   「霊の世界」に今もおるのが「自然霊」であります。

  ②天候を司っているのが「自然霊」であります。
   自然霊という「生きもの」が自由意思で(天候を)動かしているのであります。

  ③人間の心が和順して天候を司る自然霊を怒らせぬように、
   調和したような状態になりますと、豊作につながるわけであります。

  ④自然界というものは、生き物(自然霊)で左右せられていますから、
   人間の心が感応して、左右せられます。

  ⑤それにはやっぱり、生長の家の「天地一切に調和する」精神の
   政治の首班が出来まして、その心境が自然霊と調和して、
   自然霊のこころを悦ばすようにして置く必要があると思うのであります。

(5)自然現象を受持つ諸霊

  ①自然現象を受持っている霊は自然霊でありまして、神秘なる力を有して、
   肉眼には見えませんから「カクリミ」即ち神様でありますけれども、
   これは絶対の神様じゃありません。

   それは個別霊でありまして、
   宇宙全体に充ち満ちていられる普遍的な神様じゃないのであります。

  ②大きな自然現象を左右するものだけが自然霊かと言いますと、必ずしもそうではない。
   自然霊にも小さなものもあります。

   龍神に属する自然霊でも、大きく雨を降らしたりする働きのものもあるけれども、
   それほどでないのもある。酒なんか飲ませると、喜んでいるのもあります。

(6)色々の邪霊について

  ①黴菌も、結局自然発生の自然霊なのであります。

  ②大は台風を起し、竜巻を起し、気象を変化するような龍神から、
   人間の体内に症候変化を起さしめる黴菌のようなものに到るまで、
   自然霊にも色々の段階があるのであります。

  ③そういうものがおって色々の禍いをするのです。
   尤も禍いだけじゃない、良い事もするのです。

           <感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/04/08 (Mon) 10:38:47


(7)産土神と氏神

  ①肉体を脱した人間の霊魂の世界を行政的に取り締まっているのが、
   産土の神様であります。

  ②氏神というと、祖先に当る古代の神様のことをいうのであります。

  ③祖先が守護神として、吾々を守護しているのは事実であります。
   生長の家では「××家先祖代々親族縁族一切之霊」として
   祖先霊をまつりますから、その中に氏神も含まれて、
   別に霊媒を通して、氏神が何某(なにがし)の命という
   古代の神様だということを知らないでもよいということになっております。

(8)産土神の役目に就いて

  ①産土神という神様は霊界に於ける知事とか、市長とかいうのに当ります。

  ②宇宙普遍の神様は遍在しておられて、到る所に充満しておられるために、
   産土神様のように、吾々に対立的には働き掛けられるのではなく、
   直接、吾らの内部から、働き掛けられるのであります。

  ③内在の神から、宇宙普遍の神に通じ、宇宙普遍の神の霊波が産土神に通じ、
   産土神様が中継放送局みたいになって、具体的な人間に働くのであります。

  ④霊界にも色々役目の神様(諸霊)の配置があって分担しているので、
   直接最も関係の深いのは、産土神様であります。
   だから産土神様への毎月一回は参拝ということを忘れてはなりません。

  ⑤住所を変更したり、土地を購入したとかいうようなときには、
   産土神様へ行って報告するのが当然なすべきことで、

   新年には勿論、毎月一回は産土神様にお礼まいりをして、
   日々の御守護をお願いし、御礼を申し上げる
   ということにするのがよいのであります。

(9)守護神

  ①守護神は、その子供が大人になっても、老人になっても、死ぬまで、
   一代のあいだその人間を守るべき役目を与えられて、
   その人に常に付き添うているのであります。

   その守護神というのは、その人の祖先の中の優秀なる霊魂が、
   産土の神の命令により、その役目に当っているのであります。

  ②守護神というのは、私たちが生れると直ぐついて
   一生涯守護してくれるのでありますが、これは正守護神であります。

   ところが、後天的に一時守護する守護神もあります。
   その人がある仕事に就きますと、その仕事の種類に随って、
   ある特別の守護神がつく訳です。

  ③しかしながら、その役柄の守護神が付いても、吾々の心境が低下して、
   その守護神の波長と合わなくなったら、
   守護神がおれども居らぬと同じ状態になるんです。

   だから、吾々の心境が高まなければ、
   良き導きを受けるわけにゆかないという事になるのでありますから、
   やっぱり「自分が」高まるより仕方がないということになるわけであります。

           <感謝合掌 令和6年4月8日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/04/09 (Tue) 12:15:44


(10)正神界と邪神界

  ①霊魂の中には、(心の波長の)高い霊と、低い世界にフラフラしている霊と、
   非常な罪悪を犯して、地獄のような煉獄のような世界に、
   落ちている霊とがあります。

   それで高き世界に上がっている霊の世界を正神界と称しまして、
   間違って邪道に落ちている霊魂の世界を、
   邪神界ということになっているのであります。

  ②邪神界の頭目を『黙示録』などでは、「赤き龍」と言っているのであります。

  ③正神界と邪神界との中間ともいうべき霊の世界に、天狗界があります。

  ④稲荷(いなり)といわれるのは「稲生り」で、
   五穀豊穣の天地の生成化育の働きをする
   普遍的な神のお働きを人格化して、祭祀したのであります。

   だからこれは実相の普遍的な創造神の方に入るわけであります。

   なのでありますけれども、稲荷の眷(けん)族として、
   稲荷を中心にして集っているところの霊界のグループがある。
   これが伏見稲荷のグループとか、豊川稲荷のグループとかいう風にあります。

   その眷族の神々の中には、色々の階級や種別の霊がいるんです。
   その神々の中には、天狗もおれば、武士の霊などもあります。
   正神邪神の中間階級の親分みたいな霊たちが稲荷の眷族となっております。

・・・

<参照>

(1)伝統板・第二「稲荷神社」
   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6656517

(2)伝統板・第二「稲荷神社②」
   https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8366934

           <感謝合掌 令和6年4月9日 頓首再拝>
30:伝統 :

2024/04/10 (Wed) 10:43:19

(四月の神示)【無相圓相一切相の神示】

吾が臨(きた)れるは物のためではない。生命のためである。
肉のためではない、靈のためである。
これを覺(さと)ものは少ない。

物の生滅に心を捉へられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減つたときに信仰を失ひ、
身體が健康になつたときに神を讃へ、家族の誰かに病氣が起つたと云つては
信仰を失ふが如きは、神を信じているのではなく物を信じてゐるのである。

物は結局移り變わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰は、
物の移り變わりによって懷れるのである。
  
神が病気を治して見せるのは、肉體は心でどうにでも移り變わらせることが出來ると云う
事實を見せて、『體(たい)』は念(こころ)の影だという眞理をさとらせるためである。

念(こころ)の影だと云ふ『體(たい)』とは肉體ばかりのことではない。
幽體も靈體もすべて念(こころ)の影である。

『死は無い』と云ふのは肉體のことではない。現に肉體細胞は刻々死滅し流轉している。

生き通しであるのは、斯くならしめている『生命(せいめい)』のみである。
『生命』のみが《吾れ》であり《汝》であり、
そのほかに《吾れ》も《汝》もないのである。

此の『生命』を“みたま”と云ふ。
“みたま”の形は球(たま)のやうに眞ん圓(まる)いから“みたま”と
云ふように解するものもあれど、眞ん圓いのは形のことではない。

神は本來形無く、空(くう)のうちに圓滿具足して自由自在であるから
仮りに稱して圓相と云ふのである。

自由自在なるが故に或時は龍神の姿を現じ、また或る時は衣冠束帶の姿を現じ、
或る時は天使天童の姿を現ずる。いづれの姿も權化であつて僞りではない。

しかし一つの形に執して、それのみを吾れであると思ふものは、
吾が眞実を知らざるものである。吾が全相を知らざるものである。

汝ら心して眞(まこと)を知れ。
汝たちも《神の子》であるから我れと同じきものである。

肉體は汝の一つの現れであつて汝の全相ではない。

 (昭和七年四月十日 神示)

           <感謝合掌 令和6年4月10日 頓首再拝>
31:伝統 :

2024/04/11 (Thu) 10:28:06


         *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《無相圓相一切相の神示》」より抜粋

(1)宗教の御利益というのは肉体が治るよりも、心が一変することなのです。

(2)神様は肉体的にもお蔭を与えておられるけれども、
   それは「肉体は心の影である」という真理を知らせるための
   実験みたいなものに過ぎないのであります。

(3)神は、肉体を癒すのはその目的ではない、
   魂が真理に目覚めて向上することであります。

(4)肉体の恢復を契機として、人間は神の子であって、霊的存在であると気付き、
   「永遠の生命」をさとり、現象の消長、盛衰、変遷に引っかからず、
   常に感謝の心境になれることこそ、神から人間に与えられた
   本当の救いなのであります。

           <感謝合掌 令和6年4月11日 頓首再拝>
32:伝統 :

2024/04/12 (Fri) 09:09:46


(5)生長の家に入教されて病気が治るのは、必ずしも患者自身が
   悟りを本当にひらいて自由自在の心境に達して治るのではなく、
   「神が病気を治して見せ」られるのであります。

   この場合の神というのは、実相に於て既に完全に人間をつくっていられる
   神が既に“完全なる人間”を癒すということはあり得ないのですから、
   実相本源の神から使命を受けて人類光明化運動に参加していられる
   高級霊を爰(ここ)では「神」と称するのであります。

   高級霊の強力な光明霊波に照らされると、
   病念の具象化であった肉体の波動が、
   光明の波動に同化されてしまいますから、
   自然に肉体が健康化されてしまうのであります。

           <感謝合掌 令和6年4月12日 頓首再拝>
33:伝統 :

2024/04/13 (Sat) 09:03:35


(6)肉体は霊魂が地上生活をいとなんで向上するための
   道具としての被服であります。

   物質は燃えつきて常に変るが、
   その精神的設計の“主体”(生命)は常に変らないので『死は無い』と言い、
   『人間は生き通し』と言うのであります。

   その生き通しの『生命』のみが「本当の自分」であり、諸君自身であり、
   肉体は単なる作業服であるにすぎないのであります。


(7)あらゆる姿を完全に全部そなえているのが神であるから、
   「完全に全部をそなえている」という意味での「円相」であり「みたま」である
   とお示しになっているのであります。

   この神示で大切なところは「汝(なんじ)ら心して真(まこと)を知れ。
   汝たちも神の子であるから我れと同じきものである」というところであります。

   「神」と「神の子」とは一体であり、神が「みたま」であり完全円相であるが如く、
   人間も「みたま」であり、完全円相であると教えられているのであります。

   その神が各人の「生命」であり「真我」であり各人の“I am”なのであります。

           <感謝合掌 令和6年4月13日 頓首再拝>
34:伝統 :

2024/05/02 (Thu) 11:54:43


われは道である。光である。生命(せいめい)である、智慧である。
光は先づ東方より現はれて遍く一切を照らすのである。
生長の家が日本に現はれたのも因縁のあることである。

老子が《谷神》死せずと云つたのも吾れのことである。
釈迦が過去無量千萬億阿僧祇《東方世界》に國あり。
此の國に佛いまして《多寶如來》と稱(とな)ふと云ひたりしも吾れのことである。

天地一切を渾球(こんきゅう)と云ひ渾球をタカ《アマ》ハラと云ひ、略してアマと云ひ、
天地一切を照らすときの名を天照大御神(あまてらすおほみかみ)と云ふ。

神の名はそのハタラキを示したのであって
ハタラキに從って相(すがた)もまた異(ことな)る。

吾れが一切多寶の供給無盡藏なるハタラキをするとき多寶如來と云ふのである。
《一切の寶一切の善一切の美一切の生命より出でざるはない》。

吾が姿の一つは太陽である。
諸方の信仰厚き人々に吾が太陽の靈姿を靈眼で見せてあるが、
《天文學上の對象になっている太陽はわが影に過ぎない》。

釋迦が法華經を説くとき、われは地より湧き出で、
空中に『七寶の塔』となって出現したのである。

『七つの燈臺』は世を照す光の側よりわれを見たのであり、
『七寶の塔』は多寶無限供給の側よりわれを見たのである。
『七つ』と云うのは一切と云ふことである。

吾れは吾が誓願の如く、誰にてもあれ《『生命の實相』を説くところに顯れ》、
《彼を讃嘆し彼に半座を分つて偕に坐し彼と一體となることを示す》。

釋迦が法華經を説くときわれがあらはれたのは、
釋迦が法華經を説いたとき『生命の實相』を説いたからである。

『生長の家』にわれが顯はれたのは
『生長の家』のとくところは『生命の實相』であるからである。
『生長の家』も久遠の昔からあり、
『生命の實相』も久遠の往昔(むかし)からある。

《わが靈身は『生命の實相』そのものである》から
『生命の實相』が説かれるところ、讀まれる所、披(ひら)かれるところに
吾は顯はれざるを得ないのである。

吾れは光明遍照世界(たかあまはら)の主宰者大日如來であり
千萬億阿僧祇久遠の昔より成佛せる釋迦であり、
アブラハムの生まれざる以前より既に救ひ主なりしキリストである。

吾れに汲むものは涸(かわ)かず、
吾れは無限の光、無限の生命(せいめい)、無限の愛、無限供給の泉である。

(昭和七年五月五日神示)

           <感謝合掌 令和6年5月2日 頓首再拝>
35:伝統 :

2024/05/03 (Fri) 08:57:07


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《無限供給の神示》」より抜粋

(1)生長の家の人類光明化運動をはじめられた神は、
   決して一宗一派の神ではないのでありまして、
   「われは道である」と仰せられております。

(2)「道」とは、一切のものの初めであり始原であり、一切のものに先行して、
   それみずから存在するものであります。

(3)神は遍在し給い、何処にも彼処にも「満ち満ち」ていますから
   ミチと言うのであります。

   「道(みち)」(宇宙に満ちている状態)が動けば、それが「光」となり、
   「生命(せいめい)」となり、「智恵」となってあらわれるので
   ありますが、「道(みち)」の未だ動かない状態が「空(くう)」で
   あります。

(4)宇宙に満つる普遍的実体なる神が動き出せば、「波動」即ち「コトバ」と
   なるのでありまして、「コトバ」というのは動的状態に入(はい)った
   「道(みち)」であります。

           <感謝合掌 令和6年5月3日 頓首再拝>
36:伝統 :

2024/05/04 (Sat) 12:07:29


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《無限供給の神示》」より抜粋

(5)あらわれている現象の奥には、「谷(たに)」すなわち凹(へこ)んでいて
   見えない「空(くう)」なるののがある。
   「空(くう)」というのは「有無相対」の「無い」ということではない。

   一切が「空(くう)」のうちに包蔵され、一切が「空(くう)」によって
   支えられているのであります。

   「空(くう)」は一切の本源であり、一切のところに普遍している
   実在であります。その本源普遍の神が「谷神(こくしん)」であります。

   「谷神死せず」というのは、
   その本源普遍の神は不滅の実在であるということです。

(6)現象は無常でありますけれども、「空(くう)」なる実在は不滅である。
   「空(くう)」とは何もないのではなく一切がそのうちに蔵されている
   のであります。

(7)谷神(こくしん)は「空(くう)」であり、一切所に普遍しているので
   ありますけれども、

   普遍神が、応化神として、人格神としてあらわれる場合には、
   「光は東方より」の諺の如く、東方に出現するのであります。

           <感謝合掌 令和6年5月4日 頓首再拝>
37:伝統 :

2024/05/05 (Sun) 09:27:14


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《無限供給の神示》」より抜粋

(8)多宝如来とは、本源の神の「無限供給」の面を名称にあらわしたので
   あります。

(9)生長の家は、それが地上に発祥したときに始まったのではない。
   「久遠の昔」から存在して、世界周期の最後が近づいた今、
   人類救済の瞬刻限に出現したのであります。

(10)この神示には「わが霊身は『生命の実相』そのものである」とあります。
   無量寿の普遍的な本源神の生命(せいめい)が、すべての人間に宿って、
   すべての人間の生命(せいめい)となり、吾々は生かされているので
   ありまして、それが吾々の『生命の実相』なのであります。

   だから吾々自身の生命の実相は、無量寿普遍の本源神の生命(せいめい)
   と一体であり、『生命の實相』が読まれ、説かれ、それが明らかに
   されるところ、

   そこに宇宙の本源神が「幽之幽」なる世界から「顕」の世界にあらわれ、
   無量寿の完全生命(せいめい)が顕われるので、自然に病いは消え、
   一切の不幸も災いも滅することになるのであります。

           <感謝合掌 令和6年5月5日 頓首再拝>
38:伝統 :

2024/05/06 (Mon) 12:00:19


見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の蔽ひをとれ、

われは新しき智慧である。
新しき生命である。
新しき宇宙である。
新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神祕を見て人々よ、目覺めよ、
覺めてわが新しき光に照らして存在の眞實を見よ。

われは存在の實相を照らし出す完成(ななつ)の燈臺に
燈(ひ)を點ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに變るであろう。

病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命(せいめい)を受けよ。
われを拒(こば)むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。
われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に「神想觀」 と云ふ觀行を教へたれば、それを爲せ。

われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、
汝らのために汝らの重きくびきを輕からしめる。

なんぢ一人なれば吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。

惱める者よ、わが言葉を讀めば苦しめる魂も輕くなり、
悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、
自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。
汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もつと兄弟たちに『生長の家』を傳へよ。
神の愛は貰ひ切りではならぬ。
頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、
『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで
新しき生命(せいめい)を得るのだ。

わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。
教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

(昭和六年五月六日神示)

           <感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>
39:伝統 :

2024/05/07 (Tue) 11:40:37


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(1)宗教の本質は何であるか

  ①自分とは如何なるものか、それを明らかにする所の教えが宗教であります。
   汝自らを知るという事が宗教であります。

  ②「人間というものは、そういう物質の塊ではないのだ」という事を自覚して、
   人間自らは如何なるものであるかという人間の実相を知る事が宗教である訳です。

  ③人間は肉体ではない、久遠の生命であるという事を自覚せしめるのが、
   宗教である訳であります。

   だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるという事を
   自覚する教えが宗教である、という訳であります。


(2)「七つの燈台」の意味するもの

  ①「七つの燈台」という言葉は、『黙示録』第一章にあります。

  ②「吾はαなりωなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり」
   とこう言われたところの白髪の老翁は、生長の家の神様であって、
   「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。
   キリスト教的に言えば、「久遠のキリスト」であります。

  ③「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく、
   宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。

   その真理そのものは久遠不滅であるから、
   初めであり終りであり、永遠に不滅である、
   というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている
   ――こういうことになっているわけであります。

           <感謝合掌 令和6年5月7日 頓首再拝>
40:伝統 :

2024/05/08 (Wed) 12:07:59


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(3)内にやどるキリスト

  ①パウロは、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」
   と言っておりますが、この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。
   肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。

  ②皆さんは、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、
   深い意味に於いて如実に知ってですね、

   「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、
   キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。

   これを忘れるから不可(いか)んのですよ。

  ③「人間は神の子である」という事が判りますと、
   人それぞれに「神の子」である実相があらわれて来るのです。
   実相は神の子で完全ですから、その完全さが出て来るのです。

           <感謝合掌 令和6年5月8日 頓首再拝>
41:伝統 :

2024/05/09 (Thu) 11:24:48


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(4)七つの燈台に燈を点ずる者

  ①燈台というのは、世を照らす光であって、
   世の光となる宗教の象徴であります。

  ②生長の家は、凡ゆる宗教に真理の光を点ずるのです。
   その代りにその各々の宗教が光を放って人類を救ってくれたら
   もうそれで宜しいのです。

  ③生長の家は一宗一派ではない、あらゆる宗教は、
   宇宙唯一の救いの本尊からあらわれた七色の放射光線みたいなもので、
   その色は各々異なるけれども、皆それぞれの宗教に救いがあることがわかる。

           <感謝合掌 令和6年5月9日 頓首再拝>
42:伝統 :

2024/05/10 (Fri) 12:28:12


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(5)神示に、

   「見よ、吾れ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の覆いをとれ。」

   とあります。

   現在既に、新たなる天地があるというのであります。

   そして、心の眼をひらいて神様の智慧を戴き、生命を目覚めさせて、
   既に今此処にある天国浄土を見ればよいのであります。

           <感謝合掌 令和6年5月10日 頓首再拝>
43:伝統 :

2024/05/11 (Sat) 09:27:28


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(6)神示に、

   「われは新しき智慧である。新しき生命である。
    新しき宇宙である。新しき光明である。」

   とあります。

   神様そのものが宇宙なのです。

   「既にある新しき世界」が、既に常住の天国浄土として、存在しているけれども、
   今まで眼の覆いがしてあって、その存在に気がつかなかったのです。

           <感謝合掌 令和6年5月11日 頓首再拝>
44:伝統 :

2024/05/12 (Sun) 12:04:05


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(7)神示に、

   「吾れ臨(きた)って此の世界は変貌したのである」

   とあります。

   七つの燈台に燈を点じて、無明の暗黒を消してしまわれたら、
   この世界の相が変って、至美至妙の"善き世界"が現れて来るのであります。

   それで、その"善き世界"が忽然とあらわれて来るのが、
   恰も神秘的に奇蹟的に見えるのであります。

           <感謝合掌 令和6年5月12日 頓首再拝>
45:伝統 :

2024/05/13 (Mon) 11:25:33


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(8)神示に、

   「既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、
    苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ。」

   とあります。

   この無明の暗幕が取り去られた結果、
   信徒や誌友たちに色々の奇蹟みたいな体験があらわれて来るのです。

   神秘というのは、人間智慧では分からぬような不可思議な現象であります。

   そういう神秘が現れて来るから、
   それを見て先ず心の眼を覚ませと仰せられているのです。

           <感謝合掌 令和6年5月13日 頓首再拝>
46:伝統 :

2024/05/14 (Tue) 11:45:54


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(9)神示に、

   「悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
    汝の悲しみは喜びに変わるであろう。
    病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。
    われを拒むな。」

   とあります。

   私たちは悲しみに泣き濡れる必要はないのです。
   ただ眼をあげて、神の光を見れば、喜びに変わるのです。

   既に人間の実相は、自性円満であって、
   既に完全にまんまるく欠くる所がないのです。

           <感謝合掌 令和6年5月14日 頓首再拝>
47:伝統 :

2024/05/15 (Wed) 10:29:45


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(10)神想観をすることが大切であるのです。

  ①皆さんのうちにキリストが宿っている。
   これをキリスト教的に言えば、「内在のキリスト」である。

   しかしそれに気が付かなかったり、
   気が付いていても呼ばなかったら駄目なのであります。

   呼ぶことが必要であります。それが神想観です。

  ②尤も簡単な神想観は、

   「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」

   という言葉を眼をつむって、
   精神を統一しながらジーッと念ずるがよいのです。

  ③自分の内から、内在の神を呼び出す歌が、招神歌であります。

           <感謝合掌 令和6年5月15日 頓首再拝>
48:伝統 :

2024/05/16 (Thu) 10:51:53


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(11)皆さんが子供を善くするには

  ①先ず、自分の子供を「神の子」として、
   その完全さを信ずる事が必要であります。

   また子供は、親の型に嵌めて縛ろうと思うといけません。
   こうしなければいかんと子供を縛るといかんのです。

   しかし、放任してもいかんのであります。

  ②子供を信じてその実相の完全さを信じて、
   それを観ることが必要であります。

   「観る」ことは「あらわす」ことでありますから、
   観れば観られた通りに現れるのであります。

  ③子供は余り放任するのもいけませんし、縛るのもいけません。

   縛らずに、実相の完全さを信じて、
   その完全さをじーっと観る、という事ですね。
   これが子供をよくする上に大切なことであります。

           <感謝合掌 令和6年5月16日 頓首再拝>
49:伝統 :

2024/05/17 (Fri) 09:30:48


     *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(12)人類光明化ということ

  ①神示に、「神の人類光明化運動」と、
   こう書かれていることを看過してはなりません。

  ②この真理で救われた人は勿論、この真理に共鳴する人は、
   この運動(神の人類光明化運動)に
   協力しなければならないと思うのであります。

(13)運動の拡大につれて

  ①すべての積極的運動というものには、その運動が拡大するにつれ、
   どうしても費用が拡大して来るのであります。

  ②(はじめの頃)私だけの費用だけで弘めていたのですが、
   それでは、宣布の拡大力が減少して、
   早くひろく人類に普及することができないから、

   皆と協力してやろうというので、
   「人類光明化のパテントは、皆さんに譲った」と
   いう事にしたのであります。

   皆さんも人類光明化に要する費用の幾分を
   負担して頂くことになったのであります。

  ③人類光明化運動に参加せられた株主たる聖使命菩薩に対しましては、
   もっと素晴らしい功徳が循環して返って来るのであります。

   最近までは私が主として功徳を積んでいたのですが、
   皆さんがそれを分担されることによって、
   その功徳が、皆さんにも及ぶのです。

   そこにも、幸福のための黄金律「与えよさらば与えられん」が
   真実であります。

  ④今までは、「私の人類光明化運動」だったのが、
   今後は皆さんの出資と力に於いて
   人類が光明化されてゆくのですから、

   救われた人のその功徳というものが、
   皆さんの子々孫々に報いとして伝わります。

   これは天に積まれたる処の配当金でありまして、
   銀行に預けた遺産のように、
   遺産相続ごとに減って行くようなものではありません。

   それは皆さんのそして皆さんの子々孫々の魂の上に
   善根功徳として蓄えられるのであります。

           <感謝合掌 令和6年5月17日 頓首再拝>

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