伝統板・第二
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神は愛なり⑩
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1:伝統
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2023/09/21 (Thu) 09:50:19
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愛せよ、先ず真に愛せよ。
*「光明法語」(9月21日《良き芸術、良き科学》)より
愛は生命の純粋感情であるから、
真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。
真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、
如何なる知的な作業も可能ならしめる。
想念も実は愛の産物であり、
愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。
愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251
(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818
(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841
(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817467
(5)伝統板・第二「神は愛なり⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7907586
(6)伝統板・第二「神は愛なり⑥」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7996672
(7)伝統板・第二「神は愛なり⑦」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8139213
(8)伝統板・第二「神は愛なり⑧」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8234927
(9)伝統板・第二「神は愛なり⑨」
→ https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8269228
<感謝合掌 令和5年9月21日 頓首再拝>
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2:伝統
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2023/09/22 (Fri) 09:35:42
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*「光明法語」(9月22日)より
汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。
汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。
そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を
彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。
牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、
朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。
<感謝合掌 令和5年9月22日 頓首再拝>
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3:伝統
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2023/09/23 (Sat) 07:15:41
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*「光明法語」(9月23日)より
小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。
それは執縛であり執着である。
日本の言葉は執縛をも執着をも、
ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。
それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、
相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。
多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。
愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。
<感謝合掌 令和5年9月23日 頓首再拝>
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4:伝統
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2024/01/01 (Mon) 09:34:30
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*「光明道中記」(1月1日《必ず楽しの日》)より
【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】
愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。
太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。
天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。
人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。
人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。
愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、生き甲斐を失い、
病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、死へ近づいて来る
と云うことは当然なことである。
愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。
人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。
そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。
人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。
<感謝合掌 令和5年1月1日 頓首再拝>
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5:伝統
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2024/01/30 (Tue) 09:08:53
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*「光明法語」(1月30日)より
愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。
人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。
けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。
最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。
・・・
<参照>
自分から他への「愛情を出す」ことで自身が満たされます
伊勢ー白山 道(2023-11-17)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bbfd5e07c3e2d274736dab9508bdfc01
命の光と愛の力
宇宙の兄弟たちへ2023年6月26日
https://www.spacebrothers.jp/2023/06/blog-post_26.html
<感謝合掌 令和6年1月30日 頓首再拝>
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6:伝統
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2024/02/06 (Tue) 10:08:52
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*「光明法語」(2月6日)より
キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』
と言っていられる。
ここに言葉をききて素直に守ることが
『愛すること』である事が表されているのである。
父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。
良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。
愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。
本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。
<感謝合掌 令和6年2月6日 頓首再拝>
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7:伝統
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2024/02/14 (Wed) 10:11:50
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*「光明道中記」(2月14日報い求めぬ愛の日)より
【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
(『生命の實相』第十一巻)】
もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。
誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。
まこととは全事(まこと)である。
「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは
錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。
それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。
報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。
相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。
<感謝合掌 令和6年2月14日 頓首再拝>
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8:伝統
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2024/03/10 (Sun) 12:01:17
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*「光明法語」(3月10日)より
《なろうと努力するより既によしと信ぜよ》
其の婦人は今まで「仲好くしよう」と努力したけれども仲好くなれなかった。
それは意志の努力であった。
彼女は「仲悪し」を心の中に思い浮かべて、
「仲好くなろう」と努力したから仲好くなれなかったのである。
また「愛されたい」と求める心でいるばかりで、
積極的に愛しようと努力しなかったから仲好くなれなかったのである。
愛せよ、与えよ、与えるのが愛である。
無条件に与えよ。無条件に与え切るとき、
自分が愛されるようになるのである。
愛とは与えることである。放つことである。
<感謝合掌 令和8年3月10日 頓首再拝>
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9:伝統
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2024/03/11 (Mon) 11:59:51
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*「光明法語」(3月11日)より
愛は感情である。
美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。
しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。
いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。
しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。
真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。
<感謝合掌 令和8年3月11日 頓首再拝>
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10:伝統
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2024/03/16 (Sat) 09:24:37
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*「光明法語」(3月16日)より
愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。
愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。
愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。
愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。
信と敬と解放とである。
<感謝合掌 令和8年3月16日 頓首再拝>
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11:伝統
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2024/03/18 (Mon) 12:56:12
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人類が気付いていない救世の力とは
伊勢ー白山 道(2024-03-18)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/af41f61f360df1b101550217ae2d4bfa
<感謝合掌 令和8年3月18日 頓首再拝>
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12:伝統
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2024/03/24 (Sun) 10:00:06
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*「光明法語」(3月24日)より
神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。
だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。
人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。
汝ら互いに相愛せよ。
<感謝合掌 令和6年3月24日 頓首再拝>
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13:伝統
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2024/03/30 (Sat) 11:51:02
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*「光明法語」(3月30日)より
吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。
「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。
「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。
愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。
<感謝合掌 令和6年3月30日 頓首再拝>
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14:伝統
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2024/03/31 (Sun) 12:05:53
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*「光明法語」(3月31日)より
愛するとは可哀相だと思うことではない。
「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」
と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。
愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。
「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。
<感謝合掌 令和6年3月31日 頓首再拝>
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15:伝統
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2024/04/01 (Mon) 13:37:27
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*「光明法語」(4月1日)より
先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。
「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。
その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」
<感謝合掌 令和6年4月1日 頓首再拝>
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16:伝統
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2024/04/02 (Tue) 11:39:37
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*「光明法語」(4月2日)より
「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して
友好関係にあるのである。
もう赦すと云うことさえなくなったのである。
はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。
かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。
次にかく思念せよ。
「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
それより逃れることは出来ないのである」
<感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>
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17:伝統
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2024/04/05 (Fri) 11:37:09
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より
精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。
子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。
愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。
人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。
みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。
<感謝合掌 令和6年4月5日 頓首再拝>
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18:伝統
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2024/04/20 (Sat) 11:35:49
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*「光明法語」(4月20日)より
神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。
愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。
愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。
相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。
愛は相手の生命を自由に解放して、
その生命の本然のところに行かしめるのである。
<感謝合掌 令和6年4月20日 頓首再拝>