伝統板・第二 2547535

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生命の教育 ⑪

1:伝統 :

2023/08/21 (Mon) 13:35:08


谷口雅春先生のお言葉(令和3年8月号「生命の教育」誌)より


【すべてを一体として愛するのが日本人の精神】

《日本人は古来から、すべては一つの信念をもっている》

      *「眞理」第2巻初学篇第18章(P283~284)より

日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれているのを一つに
綜合(そうごう)するところの天分を持っているのでありまして、
日本の国の名前を「大和(やまと)」と名づけられたということも、

「や」というのは「弥々(いよいよ」と云(い)う字が当てはまるので、
いよいよ多いという意味であります。

「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。

弓で射る「的(まと)」を「まと」というのも、同じことでありまして、
中心に纏(まと)まって」いる姿を現わしています。

いろいろに分かれていても、その悉(ことごと)くが
一つに纏(まと)まるべきものであって、決してバラバラのものは存在しない、
宇宙は一つである、世界は一つであるというところのその人生観が、

古代の日本民族を通して現在の日本民族に至るまで
ずっと貫き通しているところの民族的信念とでもいうべきものなのであります。

    
・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「生命の教育 ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6833626

(2)伝統板・第二「生命の教育 ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673404

(3)伝統板・第二「生命の教育 ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7745476

(4)伝統板・第二「生命の教育 ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812318

(5)伝統板・第二「生命の教育 ⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7865326

(6)伝統板・第二「生命の教育 ⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7966921

(7)伝統板・第二「生命の教育 ⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8019877

(8)伝統板・第二「生命の教育 ⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8203325

(9)伝統板・第二「生命の教育 ⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8262390

(10)伝統板・第二「生命の教育 ⑩」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8308316

          <感謝合掌 令和5年8月21日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/09/08 (Fri) 14:43:25


谷口雅春先生のお言葉(令和5年9月号「生命の教育」誌)より

【明るい家庭をきずくために】

時間を生かすとき、無限の価値があらわれる
(時間の無限の生み出し方)

      *光明思想社版『人生読本』210~211頁 より
       「人生読本」(P180~181)より
        
私達が、もし自分のすべての時間を本当に生かすという事ができますれば、
私達は恐らく、今生きている何倍、否、何十倍も
生きられることになるでしょう。

単に時間的に考えると、一日に四時間雑談に使うところを、
その四時間だけ何か勉強すれば、ただそれだけでも、
一つの事柄の大学者になることができるのであります。

(中略)

その上、四時間を勉強すればその四時間だけ助かると思いますけれども、
それはそんな小さな問題ではないのであります。

その四時間の時の流れの時々刻々を本当に生きてゆく事にしましたならば、
その四時間の中の時々刻々、一分一秒一瞬が又おのおの無限の価値をもって
くるのであります。

そうなりますと、私達の時間の生かし方によっては、
計算のできない無限の価値がそこから生まれてくるのであります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年9月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

          <感謝合掌 令和5年9月8日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/09/09 (Sat) 11:04:10


谷口雅春先生のお言葉(令和5年9月号「生命の教育」誌)より

【明るい家庭をきずくために】

生かされていることを拝む気持ちになって
(時間を拝んで使え)

      *光明思想社版『人生読本』211~212頁 より
       「人生読本」(P181~182)より

ですから私達は常に時間をどう使ったらよろしいかというと、
拝んで使うようにするとよいのであります。
時間を拝む気持ちになるのであります。

私達は常になんでも拝む事を忘れてはならないのであります。

(中略)

時間もやはり神の生命(いのち)の流れだと考えて
拝むように使うのがいいのであります。
とにかく、時間は尊ばなければならない。

単に利益だけを考えて、「これだけ捨てたら惜しいものである」と思って、
時間を大切に使うのも結構ではありますが、もっと深く考えますと、
ここにこういう時間に生きているという事は、

これは神様の生命の流れの中に一日一日をこうして生かされているということで、
実にありがたい事である、と、こう思う事によって、
私達は今この生きている事実に、
本当に掌(て)を合わして拝む気持ちが出てくるのであります。

そうして今までここにこうしてこの位置に生かされているという事、
それ自体が実にありがたい事であると拝めるようになりますと、
本当に時々刻々が捨てられないところの一つの尊いものになってきて、
自然に時間を無駄にしなくなるのであります。

          <感謝合掌 令和5年9月9日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/09/11 (Mon) 11:55:12


谷口雅春先生のお言葉(令和5年9月号「生命の教育」誌)より

【明るい家庭をきずくために】

明るい家庭には善いことが集まってくる

        *新装新版『生活読本』(154~156頁)


人間に一番大切なことは、自分自身を美しく生きることです。

(中略)

美しく生きるということは、 自分の心がいらいらせず、
くよくよせず、人を突き倒すような悪いことを考えず、
自分ばかり得がゆけば人がどうなってもよいというような考えをおこさず、
人のためを思って、やさしく深切(しんせつ)に
愛の心をもって人々のためにつくしてあげることです。

自分のことばかり考えて欲ばっている人を
「あの人は汚ない人だ」というでしょう。

(中略)

きれいな心の人はまるで太陽の光や青空を運んでくる
ような人です。その人の行(ゆ)く所に何となくあたたかみが
さしてくるものなのです。

取越(とりこし)苦労や心配は光の射すよなそんな明るい気持の
人の近くへ来ると、自然に和やかになって消えてしまうのです。

(中略)

明るい生活の中にはすべての善いものが集ってくるのです。

昔から「笑う門(かど)には福来(きた)る」という
諺(ことわざ)がありますが、にこにこ笑っていると、
自然に善いことが集ってくるのです。

人をたのしく愉快(ゆかい)にしてあげることは
美しい行いであり善いことであります。

その楽しく愉快にしてあげるには、色々の贈物(おくりもの)
をさしあげるのも、一つの方法でありますけれども、

物をさしあげなくとも吾々(われわれ)がにこにこたのしい顔つきをして、
たのしい心を他の人に移してやればそれが最も深切(しんせつ)な、
人に幸福を与える方法であります。



家の中に一人でも不機嫌な人がありますと、
その家の人達の心全体が乱れてくるのです。

そして家族は始終(しじゅう)病気をしたり、
面白(おもしろ)くないことばかり起ってくるのです。


そんな家に住んでいる人は、
お金が百万円つんであっても幸福だということはできません。

幸福な生活とは心がたのしい生活です。

家族互(たがい)にうれしそうな顔をして
にこにこせずにはいられない生活が幸福な生活です。

          <感謝合掌 令和5年9月11日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/09/12 (Tue) 14:09:59


谷口雅春先生のお言葉(令和5年9月号「生命の教育」誌)より

【明るい家庭をきずくために】

あなたの明るい顔が必要なのです

        *新装新版『生活読本』(165頁)

うれしい顔をするには何の資本もいりません。

深切な目附(めつ)きをするにも何の資本もいらぬのです。

吾々は、この人をよろこばしてあげたいとただ思うだけで
深切な顔になれたり、愉快な微笑を顔に浮(うか)べたりできるのです。

あなたの愉快な顔つきは曇った日にさしこんで来た太陽の光のようなものです。
周囲の人が苦虫(にがむし)をかみつぶしたような顔をしていればいるほど、
あなたの明るい顔が必要なのです。

どんな富や財産をもっているよりも明るい心をもっているものは、
もっとも尊い宝をもっているものだといわなければなりません。

          <感謝合掌 令和5年9月12日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/11/17 (Fri) 09:57:19


谷口雅春先生のお言葉(令和5年11月号「生命の教育」誌)より

【親の心を変え、子供に「神の子、無限力」の自覚を】

子供を萎縮させる言葉を口にしていませんか

      *(新編『生命の實相』第47巻17~19頁)
      *(『生命の實相』頭注版第30巻12~14頁)

多くの子供たちは、親がまちがった心の波を起こし、
まちがった言葉の波を起こしているために
非常に損(そこ)なわれているのであります。

多くの人たちは、子供を愛するあまりに
悪(あ)しきことばかりを見つけて、「お前はここがわるいのだ」
ということを始終(しじゅう)言うのであります。

そう言われるとその子供は萎縮(いしゅく)してしまいます。

そういう子供は、
たとい勉強は辛(かろ)うじてよくできたにしましても、
大いに伸びるということはできないのであります。

「勉強しろ、勉強しろ」と言わなければ勉強しないから、
やむをえず「お前はそんなことではできないから勉強せよ」
と言うのだという人があるかもしれませんけれども、

「勉強せよ、勉強せよ」と口癖(くちぐせ)のように言うと、
いくら勉強してもかえって心に憶(おぼ)えないのであります。

これはまたおかしい現象でありますが、原理は簡単です。

「勉強せよ、勉強せよ」と言うような親は、
子供に対してどういう心の態度をとっているかといいますと、

「お前はできがわるいのだよ」
という考えを懐(いだ)いているのであります。

できるに定(き)まっておれば、 「勉強せよ」とは申しません。

「できがわるい」と信じているから、
「勉強しろ、勉強しろ」とこう言うのであります。


「うちの子供はできが悪い」と、言葉に出さなくとも、
心に念(おも)うだけでも一つの波を起こすことであります。

親または教育者が、心の中で、
「この子供はできがわるい」という精神波動を起こしまして、
その子供をそういう心で見つめているかぎりは、
その子供は決して学習がよくできるものではありません。

勉強室にいまして、勉強しているような真似をしておっても、
心は親の心で縛られておりますから、
勉強が愉快でないのであります。

そういう場合には、勉強室に坐(すわ)っておりますと、
なんとなしに窮屈な、縛られたような感じがいたしますので、

その窮屈な中にいるのではのびのびと生命(せいめい)が生長しませんから、
そこでいくら勉強しても深く心に愉快が刻(きざ)まれるということが
ないのであります。

そのためにせっかく勉強しても能率が上がらないのであります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年11月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和5年11月17日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/11/18 (Sat) 09:58:39


谷口雅春先生のお言葉(令和5年11月号「生命の教育」誌)より

【親の心を変え、子供に「神の子、無限力」の自覚を】

人間は一旦憶(おぼ)えたものは決して忘れない

      *(新編『生命の實相』第47巻36~37頁)
      *(『生命の實相』頭注版第30巻26頁)

それから、もう一つ教育の上で必要なのは、人間は一旦
憶(おぼ)えたことは忘れるものでないということを自覚する
ことが必要であります。

多くの人達は自分の頭は物憶えが悪いのだと信じている人がありますが、
そういうふうな人はその信念に依(よ)って、折角記憶の罎(びん)の
中に一ぱい記憶の内容が這(は)入(い)っているけれども
栓をして出ないようにしているのです。

自分の記憶の壺(つぼ)からは決して出ないのだと思って、
その思いの栓で蓋(ふた)をしているのです。

その邪魔物のその栓を引(ひき)抜(ぬ)いてしまったならば、
一遍憶えたことは必ず必要な時に悉(ことごと)く
思い出せるのであります。

       <感謝合掌 令和5年11月18日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/11/19 (Sun) 11:20:34


谷口雅春先生のお言葉(令和5年11月号「生命の教育」誌)より

【親の心を変え、子供に「神の子、無限力」の自覚を】

子供のときから「人間神の子」の自覚を与えよう

      *(新編『生命の實相』第47巻44~47頁)
      *(『生命の實相』頭注版第30巻32~33頁)

人間の記憶というものはいったん潜在意識に印象されたことは
永久に忘れるものではない。

(中略)

だから学校で一度習ったことを思い出すくらいはなんでもないのであります。

(中略)

勉強しないといっても、やはり学校で先生に習った時には、
本も見、先生の話も聞いているのです。
本を見、先生の話もきいているからやはり一度は頭に這入っているのです。

ですから、一遍習ったことをいつでも思い出せる状態においたならば、
家へ帰っても学習しなければならんということは必ずしもないのであって、
一遍覚えたことを試験の時や入用の時に思い出しさえすれば、
それで勉強しないでも百点がとれるということになるのであります。

それが、憶(おも)い出せない。

憶い出せないようにしているものはなんであるかというと、
「人間は(直ぐ)忘れっぽいものである」という一つの
「まちがいの信念」であります。

(中略)

「人間は忘れる動物だ」とのまちがいの信念を、
いかにして打ち破るかというと、

それには
「人間は神の子である、全智全能の神の子であって、
全智全能が自分の頭にあるのだから決して忘れるものではない」
という大自覚を人類に与えることが必要なのです。

(中略)

常に子供に対して

「あなたは神の子ですよ。
 神の子だから必ず頭がよくて記憶力はよいのですよ」

ということを教える。

「あなたは神の子だから、本を一遍読んだら決して忘れるものではありません。
 先生から一遍聞いた話はもう決して忘れはしないのですよ。
 必要な時には必ず思い出せる」

ということを常に言葉の力によって
生徒たちの頭に印象するようにするのであります。

そうして、試験場または実際問題に臨(新編では「莅」)んだ時に、
「人間は神の子である」ということを思い出して、

「自分は神の子だから、必ず憶い出せるのだ。
 必ずよい考えが浮かんでくるのだ」

と、こう心に唱えて、心を落ちつけて、さて問題に対したならば、
必ずそこに出されている問題に対する適当な回答が思い出されてくる
のであります。

人間の能力を発達せしむるには、そういうふうに子供のときから

「我は神の子、無限力」

の自覚を与えることが肝要であります。

       <感謝合掌 令和5年11月19日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/12/09 (Sat) 10:38:53


谷口雅春先生のお言葉(令和5年12月号「生命の教育」誌)より

【明るく調和した家庭を築きましょう】

子供は小さい時から、親の姿に影響を受ける

      *(新編『生命の實相』第22巻43~44頁)

夫婦喧嘩というものは、子供の教育に非常に影響するのであります。

実験心理学の実験に於(おい)て、皆さんの前に一様(いちよう)
に水を入れたコップを入れておいて私が水を飲めば、
皆さんもその通りに水を飲まれる。

それと同じく親が心に怒(いか)れば、
その通り子供の形に現れて来るのです。

これを児童の模倣性と申しております。

親が夫婦喧嘩をしているのを子供の時に見せておくと、
子供が成人して大人になると同じように
夫婦喧嘩をするようになるのであります。

子供を叱(しか)る場合などでも、皆さん反省して御覧になれば、
きっと、自分が子供の時、親から叱られた通りの言葉をいって
子供を叱りつけている事実に、みずから愕然(がくぜん)として
驚く事があるのであります。

それは知(し)らず識(し)らずの中(うち)に心の中(うち)に
蓄積された観念が、長い年月(としつき)を経(へ)ても失われずに
現れて来るのであります。

そう考えると、何事でも悪い手本は迂濶(うかつ)には見せられない
と思わせられるのであります。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和5年12月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和5年12月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/12/14 (Thu) 10:31:41


谷口雅春先生のお言葉(令和5年12月号「生命の教育」誌)より

【明るく調和した家庭を築きましょう】

夫または妻の「神」なる実相を見る

      *(新編『生命の實相』第24巻128~130頁)
        (頭注版『生命の實相』第14巻87頁)

人間の実相は 「神の子」 であり 「仏子」 であり、ミコトであります。
われわれはわれわれの良人(おっと)の中に、妻の中に、
その実相を見て家庭生活を営まねばならないのです。

われわれは、互い互いの人格の内に 「神の子」 を見、「仏子」 を見、
ミコトを見て尊敬しなければならないのであります。

いったん迎えた良人なり妻なりは外面に現れた現象がどうあろうとも、
その現象の悪さをもって、良人そのもの、または妻そのものの悪さと
思ってはならないのであります。

ジャンバル・ジャンが盗みをしても盗みをしていない
本来善い人間であるところの実相を見て、
ついにジャン・バルジャンを善人にしてしまった

彼(かれ)ミリエル司祭のように、
われらは良人または妻の本来 「神」 なる実相を
見なければならないのであります。

できるだけ妻は良人の、良人は、妻の、欠点を見ないように、
暗い方面を見ないようにしなければならないのであります。

       <感謝合掌 令和5年12月14日 頓首再拝>
11:伝統 :

2023/12/15 (Fri) 11:37:16


谷口雅春先生のお言葉(令和5年12月号「生命の教育」誌)より

【明るく調和した家庭を築きましょう】

相手の善さを観(み)るとき、善き家庭が現れる

      *(新編『生命の實相』第24巻133~134頁)
        (頭注版『生命の實相』第14巻90頁)

現(げん)に悪(あ)しく現れている良人(おっと)、または妻を、
どうしてその善さのみを見ることが出来るでありましょうか。

問うをやめよ。
肉体としての顕(あらわ)れは《人間》ではないのであります。
彼自身ではないのであります。

《真の人間は》、《真の彼自身は》、肉体の奥に埋(かく)されている
「神性(しんせい)」であり「仏性(ぶっしょう)」であります。

現(あら)われはいかにともあれ、
常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のように、
良人(おっと)は妻の、妻は良人の、実相(じっそう)を観(み)て、
その「神なるもの」を賞め讃えなければならないのであります。

「ああここに真実よき良人がいる」「ああここに真実よき妻がいる」
「ああここに真実よい子がいる」そう思って皆様よ、家族のものたちよ、
互いに相愛(あいあい)せよ。

われらすべての人間の実相(じっそう)は「神子(かみのこ)」であり、
「仏子(ぶっし)」であり、どれほど讃嘆し合っても言い顕わすことが
できない善美(ぜんび)の真(まこと)を備えているのであります。

そう思って人間を観よ、良人を観よ、妻を観よ、両親を観よ、子を観よ。

そう努めるとき、その善さはしだいにハッキリ見えてくるでありましょう。

相(あい)対(らい)する人間が変貌し、家庭が変貌し、全世界が変貌し、
全世界のすべてがその人の前で光り輝いて見えてくるでありましょう。

なんというそれは愉快なことでありましょう。

       <感謝合掌 令和5年12月15日 頓首再拝>
12:伝統 :

2023/12/17 (Sun) 12:48:39


谷口雅春先生のお言葉(令和5年12月号「生命の教育」誌)より

【明るく調和した家庭を築きましょう】

幸福な家庭を築くのは、あなたの心次第

      *(新編『生命の實相』第24巻161~163頁)
        (頭注版『生命の實相』第14巻109頁~110頁)

およそ相手を良くするには自分を良くすることが第一であります。
自分がよくならないのに相手をよくなしうるということは困難であります。

そしておよそ自身を良くするための方法は、
自分の心の中に《光明の精神波動》を照り輝かすことであります。

(中略)

人の欠点を見るとき、その欠点に自分の心が捉われ、
それをとやかく言挙(ことあ)げするとき
自分の心の中には暗黒の思念が波打たずにはいられないでしょう。

「暗黒の思念」は決して相手を良化することはできないのです。

良人を良くしてと思って小言(こごと)をいう細君(さいくん)が
良人(おっと)を益々(ますます)悪くするのは、細君の心の中に
「暗黒」の思念が波打っているからであります。

細君を良くしてやろうと思って叱(しか)りつける良人(おっと)が
細君を良化し得ないのも、細君を叱るときの良人(おっと)の心には
「暗黒の思念」が波立っているからであります。

相手を良化しようと思うならば、まず自分の心の中から
「暗黒の思念」を除去(とりさ)らなければならない。

まず自分自身を、「光明思念」でみたさなければならない
――換言すれば《相手の悪を見るような心になってはならないのです》。

(中略)

妻は良人(おっと)の実相の円満完全なる姿を見るようにするとき
良人(おっと)と完全に調和してしまうのです。

良人(おっと)は妻の円満完全なる姿を見るようにするとき
妻と調和してしまうのです。

親は子の実相を、子は親の実相を見、執着(しゅうじゃく)の念を
捨て、神の完全な護りの中(うち)にあることを信じて、
相手を神にまかせ預けるとき、親子は調和したものとなってしまうのです。

そしてその家庭は幸福の家と化(か)し、
その生活は天国浄土となってしまうのであります。

        <感謝合掌 令和5年12月17日 頓首再拝> 
13:伝統 :

2024/01/20 (Sat) 11:57:49


令和6年1月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供の善性を言葉によって引き出そう

言葉は不思議な力をもっている

      (光明思想社版『人生読本』315頁)
        『人生読本』(P269))

言葉というのは不思議な力を持ったものです。

「あなたは温順(おとな)しい良い子ですね」と言いますと、
その子供は温順しくなります。

「この子は悪戯(いたずら)ッ子で仕方ない子ですよ」と言いますと、
その子供はますます悪戯ッ子になります。

これを言葉の力と申します。
言葉というものは、それを聴く人の心に、
その言葉とおりの心を流し込む役目をするのです。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和6年1月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

         <感謝合掌 令和6年1月20日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/01/21 (Sun) 12:31:52


令和6年1月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供の善性を言葉によって引き出そう

心で想うとおりに姿形となってあらわれる

         *(新装新版『真理』第1巻141頁)より

吾々の心の中は「花園」や「花畠」みたいなものでありまして、
そこに、どんな種(たね)でも蒔(ま)くことが出来るのであります。

心の花園に蒔く種は「思い」と云う種であります。
心に何を「想う」かと云うことが心の花園に蒔く種を
定(き)めることになるのであります。

悪い「想い」を心の中に蒔きますと、悪い事が出来てまいります。

(中略)
   自分は「ただ心で一寸(ちょっと)思っただけなのに」などと考えても、
   それは種を蒔いたのですから、その通りのものが、
   形になってあらわれて来ても驚いてはなりません。

「あの人は悪い人だから嫌いだ」と心で想(おも)いますと、
「あの人」が悪い人になってあらわれて来ます。

「あの人は神の子だから屹度(きっと)善い人だ。私は好きだ」と思っていますと、
その人は、屹度(きっと)、あなたに深切な善い人になってあらわれてまいります。

         <感謝合掌 令和6年1月21日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/01/22 (Mon) 11:49:14


令和6年1月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供の善性を言葉によって引き出そう


善い言葉が善い運命を造り出す

        *(新装新版『真理』第3巻112~113頁)
          真理 第三巻P133~134

先ず自分に対して

「私は神の子だ。何でも素晴しく出来る。私の運は必ずよい、
 神様が護(まも)っていて下さるのだ」

と、朝目がさめたとき自分の耳にきこえる声で自分自身に
二十遍(ぺん)ずつ呼びかけなさい。

これが「言葉の力」と云(い)う法則を使う第一歩であります。

それから起(おき)上(あ)がったら、顔を洗うにしても、
ほこり叩(たた)きで払(はら)うにしても、箒(ほうき)で
はき浄(きよ)めるにしても、その間じゅう、

顔を洗う水に、塵(ちり)をはらうハタキに、
座敷を掃(は)く箒(ほうき)に
……その他(た)、何にむかってでも「有難うございます」と
口のうちで感謝の言葉をとなえるのです。

あらゆる物に感謝の言葉をとなえますと、
それがすべての物を祝福する言葉になり、自分が祝福されることになるのです。
これが「言葉の力」を使う第二歩となるのです。

水は川に流れていても、その水を漕(こ)がないと船は動かないのです。

言葉の力が宇宙にみちみちていて、 万物をつくっていましても、
貴方(あなた)が、 「言葉の力」で善い言葉をとなえないと、
「善いもの」は出て来ないのです。

         <感謝合掌 令和6年1月22日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/01/23 (Tue) 11:38:44


令和6年1月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供の善性を言葉によって引き出そう


子供の姿は親の言葉のあらわれ

        *(新編『生命の實相』第22巻44頁)

実験心理学の実験に於(おい)て、皆さんの前に一様(いちよう)に水を
入れたコップを入れておいて私が水を飲めば、皆さんもその通りに水を飲まれる。

それと同じく親が心に怒(いか)れば、
その通り子供の形に現(あらわ)れて来るのです。

これを児童の模倣性(もほうせい)と申しております。


親が夫婦(ふうふ)喧嘩(げんか)をしているのを子供の時に見せておくと、
子供が成人して大人になると同じように夫婦喧嘩をするようになるのであります。

子供を叱(しか)る場合などでも、皆さん反省して御覧(ごらん)になれば、
きっと、自分が子供の時、親から叱られた通りの言葉をいって
子供を叱りつけている事実に、みずから愕然(がくぜん)として
驚く事があるのであります。

それは知(し)らず識(し)らずの中(うち)に心の中(うち)に
蓄積(ちくせき)された観念が、長い年月(としつき)を経(へ)ても
失われずに現れて来るのであります。

そう考えると、何事でも悪い手本は迂濶(うかつ)には見せられないと
思わせられるのであります。

         <感謝合掌 令和6年1月23日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/01/24 (Wed) 09:35:57


令和6年1月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供の善性を言葉によって引き出そう


子供の「本当の自分」を引き出す言葉を

        *(新編『生命の實相』第22巻161~163頁)

人間の本性(ほんせい)の尊いこと、その潜在能力の無限であることを
子供の心に吹き込むようにすれば好(よ)いのである。

すると、子供は次第に「本当の自分」が如何(いか)に崇高(けだか)く
霊妙(れいみょう)なものであるかを知りはじめる。

そしてその「本当の自分」を実現することが彼の生涯(しょうがい)
の理想となり、従来の小さな虚栄(きょえい)や、小成(しょうせい)
に安(やす)んずる慢心(まんしん)や、狡(ずる)い利己心は消滅して、
本当に彼は謙虚な心持(こころもち)で生長の本道(ほんどう)を
辿(たど)り得(う)ることになるであろう。

(中略)

「下手だ」とか「悪い」とかいって叱りつけて、児童の心に自己の悪い
方面を印象せしめるような旧式の教育法は断然改めなければならないのである。

といって、下手のままで「これで善い」と慢心せしめるような教育法も
失敗だといわなければならないのである。

「非常に上手に出来たが、
 ここをもう少しこうしたら一層出来ばえがよくなるだろう。
 それ御覧(ごらん)、こうなるだろう。

 今度はここをもう少し注意してやって御覧なさい。
 きっとまだまだ上手になる。

 この子は少しでも善くないところはすぐ改める子だから、
 どれだけでも上手になる子だ。
 将来どれだけ天才になるか、私はお前を楽しみにしているのだ」

こういうふうな言葉を使って、善くないところを改善することに歓びを
見出(みいだ)すような誘導法を用いるのが最も好(よ)いのである。

常に子供を批評するときには、確定的な言葉で、彼の将来を祝福してやり、
子供の上達に親たちが望みをかけており、彼が上達することが
真(しん)に親たちの喜びであることを、ハッキリと彼の心に感じられるように
してやるが好(よ)いのである。

         <感謝合掌 令和6年1月24日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/02/07 (Wed) 11:28:01


令和6年2月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供が神秘として感じる心を大切にしよう

一層大いなる生命に目覚めさせる

      *(新編『生命の實相』第22巻92~94頁)

或(あ)る児童教育の本で、小学生に授業をはじめる前にあたって
五分間ほど目をとじしめ、静坐(せいざ)せしめたところが、
その教室全体の児童の成績が見ちがえるほどに善くなったということを
読んだことがある。

これは実にさもあるべきことだ。

児童が八、 九歳にも達したならば、毎日数分間ずつ静坐せしめて
自分の生命力を自由に一ヵ所に集める練習を積ませることが必要である。

この練習には父母と共に毎朝神仏に礼拝(らいはい)せしめる習慣を
つけるが一等好(よ)いのである。

その家の宗教が神道(しんとう)で、神の宮の前で礼拝する習慣ならば、
その神の宮に精神を集めさせ、

その家の宗教が仏教で仏壇の前で礼拝する家ならば、
仏壇の中の仏像に精神をあつめさせ、

その家がキリスト教で神棚や仏壇なしにお祈りをする習慣のある家ならば、
掌(て)を合わしてその手のひらに精神をあつめさせて礼拝さすのである。

このことは子供に《いろは》を教えると同じほどに、否(いな)、
それよりも尚(なお)必要な事である。

それによって子供は一層大いなる生命
 ―― 吾(われ)らの生命の親様 ―― の聖旨(みこころ)に
したごうて生きようという最初の敬虔(けいけん)な傾向を
やしなうことになるのである。


・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和6年2月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

         <感謝合掌 令和6年2月7日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/02/08 (Thu) 08:58:39


令和6年2月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供が神秘として感じる心を大切にしよう

生命の不思議さにビックリする心

      *(新編『生命の實相』第22巻116~118頁)
        頭注版『生命の實相』第14巻(P158~159)

少年よ、少女よ、あらゆる事象にビックリせよ。
ビックリせよといっても、こわがれというのではない。

その事象の奥にある「生命」の不思議に驚異(きょうい)するのだ。

林檎(りんご)が落ちても、その落ちる力の不思議さにビックリせよ。
鉄瓶(てつびん)の蓋(ふた)が持ち上がるならば、
それを持ち上げる湯気(ゆげ)の力にビックリせよ。

美しく咲いた花を見るときには、その咲く花の力の不思議さにビックリせよ。
また自分自身の生きている力にビックリせよ。


少年よ、少女よ、青年よ、否(いな)、壮者(そうしゃ)も、老者(ろうしゃ)も

「あなたが生きているのは心臓が動いているからです。
 心臓がとまれば死にます」

などという医学の教(おしえ)で
この不可思議な生命を当り前の現象だとは思うな。

医学には心臓が動く事は判(わか)っていても心臓が何故(なぜ)
動くかは判らないのだ。

生命がどこから来るかは判(わか)らないのだ。
まだまだ当り前だというには早いのだ。
好(よ)い加減なところでビックリすることを止(や)めるな。

リンゴが落ちたのを見て、その不思議さに驚異したニュートンや、
湯気(ゆげ)が鉄瓶(てつびん)の蓋(ふた)をうごかす力に驚異した
ジェームズ・ワットは、科学界の大天才となったのである。

生老病死の四苦(しく)を見てビックリした釈迦は
一大宗教的天才となったのである。

自分に肉親の父親がないことを知ってビックリしたイエスは、
天に父を発見してこれも宗教的天才となったのである。

自然や人間の美を見てビックリした多くの人々は、ラファエルとなり、
ミケランジェロとなり、ミレーとなり、ロダンとなり、
シェイクスピアとなった。

実際、天才とはいつまでも少年少女時代の「ビックリする心」を
成長後も有(も)ち続けている人のことである。

この幼年時代の「ビックリする心」を平凡化するな。

この神秘に驚異する心をいたわり育ててやるようにつとめよ。

         <感謝合掌 令和6年2月8日 頓首再拝>
20:伝統 :

2024/02/09 (Fri) 10:31:41


令和6年2月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供が神秘として感じる心を大切にしよう

神秘を「当り前」と押し消してはいけない

      *(新編『生命の實相』第22巻118~119頁)
        頭注版『生命の實相』第14巻(P159~160)

諸君は、子供が「なぜ空にお星様があるの、お星様は何故落ちないの、
お星様はまぜ何故光っているの……」などというほとんど無限に尽きない
質問を矢(や)つぎ早(ば)やに浴(あ)びせかけられて弱らされたことは
ないであろうか。

「もうこの子のうるさいのには閉口する」と
小言(こごと)をいったことはないであろうか。

「お星様が光っているのは当り前じゃないか。
 花が咲くのは当り前じゃないか」などと

あらゆる神秘を「当り前」という説明に押しつけて、
子供の「ビックリする心」を押し消してしまったことはないであろうか。

そういう時にはこういって答えよ――
「それは実に貴(とうと)い不思議なことだ。
 眼(め)に見えない不思議な神様の息がかかるとお星様は光るのだ。
 眼に見えないところにも神様はいなさるのだ。

 お星様が落ちないのもその神様のお力だ。
 花が咲くのもその神様のお力だ。
 神様のお力をお迎えするようにこうして水をかけ土を耕して
 人間が待っているのだ」と。

かくの如(ごと)くいって子供の「神秘がる心」を生かせ。
それを押し消すな。

「神秘がる心」こそインスピレーションの源泉である。

直覚(ちょっかく)は神秘にあこがれる心にのみ、
照射(しょうしゃ)して来(く)る神秘界からの光であるのだ。

         <感謝合掌 令和6年2月9日 頓首再拝>
21:伝統 :

2024/02/10 (Sat) 09:48:03


令和6年2月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

子供が神秘として感じる心を大切にしよう

神秘を感じる心から子供の天才が発揮される

      *(新編『生命の實相』第22巻121~122頁)
        頭注版『生命の實相』第14巻(P161~162)

神秘なことを神秘として教えよ。

深く考えれば実に神秘であるところの現象を、
当り前の茶飯事だとして、見のがしてしまうような習慣をつけてはならぬ。

人間を心臓というモーターで動く機械だと教えてはならぬ。

草木(そうもく)を唯(ただ)の毛細管(もうさいかん)現象で
生長(せいちょう)する機械だと教えてはならぬ。

神仏を偶像であると教えてはならぬ。

あらゆる物にやどる生命(せいめい)の神秘を教えよ。

神秘に驚異(きょうい)し、生命(せいめい)を崇敬(すうけい)し、
その生命(せいめい)の神秘に一歩でも近づくことを名誉と思い、
生命を合掌(がっしょう)礼拝(らいはい)するように
子供を教えよ。

嗚呼(ああ)!

生命の神秘を驚異し尊ぶ心
 ―― 隣人愛も、生物愛護も、敬虔(けいけん)なる宗教心も、
画期的な科学的発明も、

偉大なる哲学も、妙(たえ)なる芸術も、
それから実業界の素晴しき成功さえも、

皆(みな)この生命(せいめい)の神秘を礼拝する心によって得られるのだ。

         <感謝合掌 令和6年2月10日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/02/20 (Tue) 12:06:34


           *「光明法語」(2月20日)より

無意識の心的影響は、親が子供に対して教育する場合には特に著しくあらわれる。

母親が姑に対して物言うまいと決心したりしていると、
時として物言わぬ白雉の子供が出来たりすることがある。

親が人々に対して好悪の感を著しく抱いていると、
子供が食物に対して好き嫌いをするようになったりする。

親がうちの子は間違いないと信じていると間違いない子供になる。
うちの子供は虚弱であると信じていると、実際虚弱になってしまう。

しかし信ずると云うことは捨てて置くことではない。
信じて好(よ)き機会を与えることである。

         <感謝合掌 令和6年2月20日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/02/25 (Sun) 12:47:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月25日)」より


たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。
そうでなければ極端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、
その人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものである
ということを幼い時から子供に知らすことが肝要である。

子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、
腹立ち声を出すことはなんの益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。

その性質は生長後も時として一生涯つきまとい。
その人の運命の重荷となることがあるものである。
親が子を害していると知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して
本能的に恐怖の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。

もし子供をよくしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、
普通の話以上の高声を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。

もし相手に訓示を与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、
それは反抗となってせっかく話したことが反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。
高音を出して恐れさせれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。

貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、
物を教えるときに使う荒立った高声(こうせい)である。  

           <感謝合掌 令和6年2月25日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/03/04 (Mon) 11:13:38


令和6年3月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


本を読むことで子供の人生も豊かになります

      *(新装新版『生活読本』137~138頁)

本というものは、 「心」が外の景色を見るための窓のようなものです。
私が中学生の時分(じぶん)には、中学に図書室がありまして、
昼の休憩時間に一しょけんめい読んだものです。

それが今でもたいへん私の役に立っているのであります。
「本のない部屋は窓のないようなものだ」といった人もあります。

よい本がならんでいるのを見るだけでも、
自分の心に楽しいよろこびをあたえるものです。

よい本をしっかり読まない人で、立派になった人はありません。

ほかの玩具(おもちゃ)や、遊び道具を買ってもらうよりも、
よい本をお父さま、お母さまに買ってもらって、
それをつねに読むように心がけなさい。


・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和6年3月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

         <感謝合掌 令和6年3月4日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/03/05 (Tue) 09:38:34


令和6年3月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


本を読むことで子供の人生も豊かになります

本を可愛(かわい)がって読めば力がつく

      *(新装新版『生活読本』(140~141頁)

勉強室は、すきな本をたくさんならべておいて、気がむいたとき、
自然に、自分でよろこんで読むことにする方が、力がつくのであります。

いやいや人から「読め」といわれて、気がすすまぬのに読んだのでは、
心の窓がしまっていて、本に書いてあることが充分頭へ《はいらぬ》
のであります。

本を可愛(かわい)がって、その本をひらくことが、
楽しい気持になって「わたしの可愛い本よ」といって可愛がってから
本を読めば、本に書いてあることが、一層よく心の中にはいって来る
のであります。

         <感謝合掌 令和6年3月5日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/03/07 (Thu) 10:59:30


令和6年3月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


本を読むことで子供の人生も豊かになります

本を読むにもコツがあります

      *(新装新版『生活読本』(143~144頁)

魚をとるには魚をとる方法があります。

小さな魚を、目のあらい網でとろうと思っても、
とれるものではありません。

それと同じように本を読むには、本を読む方法があります。
読みかたが大切なのであります。

(中略)

心が「うわの空」になって本を読んでいるのでは、
それは人間の生命(いのち)と時間との無駄使いをやっているに
すぎないのであります。

本を読んでも、その著者は誰か、中味には何が書いてあったか、
何をおしえるためにその本は書かれていたか ―― 
こんなことさえ気がつかないで本を読んだ気持になっている人も
随分(ずいぶん)ありますが、それは実におろかな本の読みかたです。

         <感謝合掌 令和6年3月7日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/03/08 (Fri) 09:16:30

令和6年3月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


本を読むことで子供の人生も豊かになります

立派な人の伝記をお読みなさい

      *(新装新版『生活読本』(143~144頁)


本にかいてあることは、
ただお料理の材料みたいなものであります。

その材料をどのように組みあわせて美味しい料理にし、
それを自分の心の滋養物にするかどうかは、
本を読む人自身にあるのであります。

材料のよいところは捨ててしまって、
《くず》のところばかりを集めて料理を拵(こしら)えても
おいしい事はありません。


本を読んでも、《くず》のところばかりを
「面白い、面白い」といって読んで、《ため》になるところを
捨ててしまっては読まぬほうがましな位です。

面白いばかりを目的に書いた本よりも、昔から立派な人になったり、
世の中のために尽くした人々の伝記をお読みになることは、
たいへんためになります。

文章はコトバの力で、書いてあることと同じように、
読む人をならせる力をもっているのです。

つまらぬ本を読んでいますと、詰まらぬ人になりますし、
聖人の伝記を読んでいますと、聖人になりますし、
英雄の伝記を読んでいますと英雄になるものです。

         <感謝合掌 令和6年3月8日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/03/09 (Sat) 12:13:13


令和6年3月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


本を読むことで子供の人生も豊かになります

善い本は同じ本でもたびたび読みなさい

        *(新装新版『生活読本』146~147頁)

数をたくさん読むよりも、すこしの立派な本を
よく味わいながら読むことは、その人の精神を立派なものにします。

むやみに大食(たいしょく)するよりも、
適当な養分を適量にいただくほうが健康によいようなものであります。

よい書物は一遍(いっぺん)や二遍(にへん)へん読んだだけで
捨ててしまわないで、十回でも二十回でも、繰返し読むことです。

本の表紙は大切にして上包(うわづつ)みでもして、
一遍読み終るごとに取りかえて、新しい気持を出すのがよろしい。

本の中味は、読んで感心したところに赤い線を一度引いておき、
その次にまた感心したところには青い線を引いておくなどもたいへんよろしい。

本にすじを引くのを遠慮することはいりません。
読んだときの感想などを本の余白に書いて置くことはあとで
たいへん参考になり、大人になってからも、自分の少年少女時代
にこんなところを、こう考えながら読んだのだな

――― と思い出すのも楽しいものです。

         <感謝合掌 令和6年3月9日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/03/12 (Tue) 09:52:23


令和6年3月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


本を読むことで子供の人生も豊かになります

元気になる本を読みなさい

        *(新装新版『生活読本』149頁)

悲しいことの書いてる本や小説を読んではなりません。

悲しいことの書いてある本を読みますと、
心の中に悲しいことを思いますから、心が悲しくなり、
悲しいことがあつまってきて、身体(からだ)も弱くなります。

勇敢なことの書いてある本、勇気の出る本、元気になる本、
男らしい冒険のことの書いてある本、人に深切(しんせつ)をする
喜びの書いてある本などを読むと、

読んだ通りに、勇気のある、元気な、健康な、深切な人になります。

         <感謝合掌 令和6年3月12日 頓首再拝>

30:伝統 :

2024/04/11 (Thu) 10:25:21


令和6年4月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【子供は無限の可能性に満ちあふれている】

明るい面のみを見る習慣を

        *(新装新版『生活読本』233頁)

多くの人たちは自分自身の生活習慣そのものによって、
自分の生命の伸びる力に堰(せき)をしている人たちが多いのであります。

まずその一つは消極的な悲観的な物の暗い面を考える考え方です。

石橋をたたいて渡るという確実性は必要でありますが、
それが病的になってしまって「何か悪いことがおこるかもしれぬ」と
不安であらゆる出来事を打診しているような心の状態になってしまっては、
その人は伸びることができないのであります。

吾々(われわれ)は物の暗い半分を必ず見る習慣をすてて、
明るい面のみを見て前進する習慣をつけなければならないのです。

・・・

<参照>

「生命の教育」誌(令和6年4月号)
https://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

       <感謝合掌 令和6年4月11日 頓首再拝>
31:伝統 :

2024/04/16 (Tue) 10:04:44


令和6年4月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【子供は無限の可能性に満ちあふれている】

親の尺度で子供をはかってはならない

      *(新編『生命の實相』第47巻129~130頁)
      *『生命の實相』第30巻児童教育篇P98~99)


子供を育ててゆく上において、まず心得ておかなければならないのは
人間は皆(みな)一様(いちよう)のものでないことであります。

天分もちがえば過去の念の集積もちがう。

われわれは過去何十回、何百回と生(うま)れ更(かわ)ってこの世に出て
来ているのであって、その間(あいだ)にいろいろの体験を積み、
いろいろの過去を持っているのであります。

だから双生児(ふたご)で生れた子供でも、同じ環境で、同じ人が
同じ食物(しょくもつ)で同じ教育法で育てても
すっかり性質が異(ちが)うことがあるのであります。

ですから、子供をよくしようと思う時に、大人の、しかも《自分だけの尺度》
でもって判断しすぎて善悪を評価するといけないのであります。

人間というものは皆個性がちがう。
個性がちがうところにそこに価値がある。

桜の花とバラの花とはどちらが美しいかというと、
これは評者の好き嫌いで定(き)まるので、

桜がいっそう美しいという人もあれば、
バラがいっそう美しいという人もあります。

それを自分だけの好き嫌いでもって、 「お前桜のように、そんなに
一晩(ひとばん)で散るような淋しい姿じゃいかん。バラの花
のようにならねばいかん」と言ったところが、それはできない事を望むの
であります。

桜は桜でその良さを認め、バラばバラでその良さを
認めなければならないのであります。

人を教育するには自分が「こうありたい」という《一つの尺度》
をもって、その《尺度》にちがうものは皆(みな)悪いと考え、
お前は悪い悪いという批評を加えてゆきますと、

その批評の言葉の力によってその児童の天分は伸びず、
「僕は悪いものだ、劣等児だ」という観念を心に植えつけられて、
ついにせっかくの天才児も一個の劣等児になってしまうのであります。

            <感謝合掌 令和6年4月16日 頓首再拝>
32:伝統 :

2024/04/17 (Wed) 09:51:40


令和6年4月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉


【子供は無限の可能性に満ちあふれている】

子供の内部には無限の生命が宿っている

       *(新編『生命の實相』第22巻159~160頁)
         頭注版『生命の實相』第14巻教育篇(P188~189)

人間の内には実に無限の潜在能力が埋蔵せられているのである。
深く穿(うが)つに従ってどれだけでも豊かにその潜在能力を
掘り出すことが出来るのである。

穿(うが)つとは自覚するということである。
自覚しさえすれば埋蔵せる宝は常に掌中(しょうちゅう)のものと
なるのである。

だから表面にある能力だけを自分の全部だと子供に思わすな。
表面にある「自分」は「真の自分」の唯(ただ)の「小出(こだ)し」
にしか過ぎないことを知らせよ。

「小出し」は使うのに便利かもしれないが、
この「小出し」を自分の全部だと思ってしまったならば
大いなる発達は望めないのである。

常に子供に教えて小成(しょうせい)に安(やす)んずるなといえ。
小成は自分の「小出し」に過ぎないこと、今ある彼の能力はすべて
「小出し」に過ぎないこと、 「小出し」は決して誇るに足りないこと、
つねに「小出し」に満足せず本源、即(すなわ)ち無限の潜在能力 (神)
より汲(く)むように努力すること

 ―― 常にかくの如(ごと)き真理を子供に解る言葉で教えるように
心懸(こころが)ければ、

現在の自分に満足する子供の傲慢心(ごうまんしん)は打砕(うちくだ)かれ、
驕傲(きょうごう)は消滅せしめられ、永遠に能力の伸びる精神的基礎は
築かれるのである。

自分の内部の生命が無限の大生命に連(つらな)っており、
そこに自分の本当の宝が在(あ)るのだということが判(わか)るとき、
いま僅(わず)かに掘り出した能力の「小出し」位(くらい)に
傲慢(ごうまん)になっていることは出来なくならざるを得ないのである。

            <感謝合掌 令和6年4月17日 頓首再拝>
33:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 09:33:03


令和6年4月号の谷口雅春先生(「生命の教育」創始者)の言葉

【子供は無限の可能性に満ちあふれている】

子供にある無限の能力を発揮させましょう

       *(新編『生命の實相』第22巻161~162頁)
         頭注版『生命の實相』第14巻教育篇(P189)

「無限の自己」――これを真如(しんにょ)とも、法性(ほっしょう)とも、
自性(じしょう)とも、仏性(ぶっしょう)とも、実相とも、
「本来の面目(めんもく)」とも、 「自己に宿るキリスト」とも、
「彦(ひこ)<日子(ひこ)>または姫(ひめ)<日女(ひめ)> としての
自己の本質」ともいうのである。

しかしかくのごとき言(ことば)を解(かい)せぬ幼き子供に対しては、
「人間は神の子だ。子の顔が親の顔に似ているように、なんじの能力と
 性質とはは神の姿に肖(に)せてつくられているのだ。

 神はこの世界の万物をつくられたのであって、人間は神の子として、
 神の無限に大きな能力の《あとつぎ》に造(つ)くられているのだ、
 だから神の子は神の子らしく生きねばならぬ。

 神から譲られている無限に大きな能力を発現しようと思わないものは、
 親からせっかく頂いた宝の庫(くら)を開かないで棄(す)ててしまう
 ものだ」

こういう意味の話を時々言葉を変えて子供に話して聞かせることにして、
人間の本性(ほんせい)の尊(とうと)いこと、その潜在能力の無限である
ことを子供の心に吹き込むようにすれば好(よ)いのである。

すると、子供はしだいに「本当の自分」がいかに崇(け)高(だか)く
霊妙(れいみょう)なものであるかを知りはじめる。

            <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>
34:伝統 :

2024/04/22 (Mon) 10:21:40

子供に宿る「無限の力」を引き出すために 谷口雅春先生
seimeinojissoh(2022/05/09)
https://www.youtube.com/watch?v=FBVMI29ZfQA

          <感謝合掌 令和6年4月22日 頓首再拝>

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