伝統板・第二 2553469

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無我 ⑥

1:伝統 :

2023/08/18 (Fri) 09:24:23


「“わたし”」なるものは本来無い

   *「光明道中記」(8月18日《無恐怖の心境の日》)より抜粋

【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】


世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「無我 ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853330

(2)伝統板・第二「無我 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7616202

(3)伝統板・第二「無我 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7804252

(4)伝統板・第二「無我 ④」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7990560

(5)伝統板・第二「無我 ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8232485

          <感謝合掌 令和3年8月18日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/09/01 (Fri) 13:06:25


     *「光明道中記九月こころ極まる<はじめの言葉>」
      (初出は「生長の家」誌・昭和14年9月巻頭言)

宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。

天皇の大御心である。

「忠(ちゅう)」とは大御心に無我帰一する心である。

すなわち天之御中主大神の心に「中(ちゅう)」する心である。
「中(ちゅう)」とは的(まと)に中(あた)るであり、
御本質に貫き徹するのである。

宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、
無我になりて宇宙の心に従うのである。

吾らが大御心を行ずるのは、
それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。

そう云う第二次第三次の事物よりも、
尚々(なおなお)すぐれて無上價値なるものが大御心である。

その大御心を実現することは無上価値であるが故に、
そのような第二次、第三次のお蔭などは
心に微塵も止(とど)めないで、大御心を行ずるのが「忠」である。 

そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる爲に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。
戦場に於て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。

これを「死」と云う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、
「肉体なし、物質なし」と吾らは云う。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。

そこに「大御心《のみ》あり」の大肯定がなければならぬ。
生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在とも言う。

          <感謝合掌 令和3年9月1日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/10/16 (Mon) 13:05:03

      *メルマガ「致知BOOK」(2023.4.2)より

━━━━━━━━━━━━━━━━━━

さて、安岡正篤師の著書といえば、
難解そうなイメージを持たれる方もおられますが、
本書は、聴衆に向けて語られた講話録のため、
安岡師の肉声を間近に聴いているような臨場感があり、
また非常に読みやすいことも特長の一つです。

『活学』第一編の中から、
「老子と現代」の演題で紐解かれた
『老子』の解説の一部をご紹介いたします。


…………………………………………………
私を去ることによってこそ真に私を為す
…………………………………………………

  天は長く地は久し。
  天地の能く長く且久しき所以の者は、
  其の自ら生ぜざるを以ての故に能く長生す。
 
  是を以て聖人は其の身を後にして身先んじ、
  其の身を外にして身存す。

  其の私無きを以てに非ずや。
  故に能く其の私を成す。

…………………………………………………

「天は長く地は久し。」


インスタントはいけない。
天地の能く長く且つ久しき所以の者は、
其の自ら生ぜざるを以ての故である。

自分から色々の心を持ったり作為したりしない。
よく自然に則るから長生を得るのである。



「是を以て聖人は其の身を後にして身先んじ。」


自分が欲望や私心で先頭に立つのではない。
自分の身を後にする。

後にするから、いつの間にか人が立てる。
だから自分が先になる。



「其の身を外にして身存す。」


自分自身を考えないから、
却って自分の身を存続させることが出来る。


「其の私無きを以てに非ずや。故に能く私を成す。」


つまり人間が私利私欲、けちな考えをなくすると、
却って自分の存在を確立することになる。

自分というものを真実に打ち立てることが出来る。

余り私に走るということは、
これは枝葉末節に走ることであるから、
却って生命が短くなる。
誠にその通りであります。

人が為すと書いて偽と読みますが、
人為が偏向すると、文字通り偽になってしまう。

今日までの学問技術が、科学の名によって自然から離れて、
余りに人為になり過ぎて多く偽りであったという事が、
新しい科学によってどんどん発見されつつあります。

がわれわれは私を去ることによって、
はじめて本当に私を成すことが出来るのであります。


<参照>

生き方のヒント
伊勢ー白山 道(2023-10-15)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/00e66dc2262fcced9c44b6adc908ae82

       <感謝合掌 令和5年10月16日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/10/30 (Mon) 09:15:47


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

         <感謝合掌 令和5年10月30日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/11/01 (Wed) 09:18:57


      *「光明道中記」(11月1日《手垢のつかぬ愛行をする日》)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 令和5年11月1日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/11/07 (Tue) 09:55:25


      *「光明道中記」(11月6日《七たび我を棄てる日》)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
 眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。

 私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
 先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。

 事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。

 私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
 可哀相さに同情して

 『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』

 と申しました。

 そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと
 仲人が言いますので、その女を妻に貰い受けました。

 ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、
 一つも除ってくれません。

 そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
 この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

 それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
 それから胸を痛めたらしいのです。

 私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
 そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
 到頭昨夜はひどい喀血を致しました。

 死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

            ・・・

    *「光明道中記」(11月7日《自己を深く見詰める日》)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものは
そんなにも握り育てていなければならないものだろうか。

「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは
「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところの
ニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、
死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との
区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。

自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、
旧我であっては何ともならぬ。

「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 令和5年11月7日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/11/08 (Wed) 08:56:01


     *「光明道中記」(11月8日《仕事に愛をそそぐ日》)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

・・・

<参照>

自分の「我がまま」を無くせば、どんな中でも天国です
伊勢ー白山 道(2023-11-03)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/96b2cd7959e254cab05c37286d16efaa

          <感謝合掌 令和5年11月8日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/11/16 (Thu) 12:57:00


    *「光明法語」(11月16日の法語傲(たか)ぶる心を捨てよ)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 令和5年11月16日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/11/19 (Sun) 10:10:11


       *「光明法語」(11月19日の法語)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、
海水によって成立っているのだと知るとき、
自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」
「悩めるもの」「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが
神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

          <感謝合掌 令和5年11月19日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/11/28 (Tue) 10:32:23


     *「光明道中記」(11月28日《功成りて功に居らざる日》)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば
自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 令和5年11月28日 頓首再拝>
11:伝統 :

2023/12/01 (Fri) 11:45:30


       *「光明法語」(12月1日の法語)より

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
 あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。
 我をなくならしめ給え。
 わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

       <感謝合掌 令和5年12月1日 頓首再拝>
12:伝統 :

2023/12/02 (Sat) 10:26:49


    *「光明法語」(12月2《神に波長を合わせ》語)より

神は善人にも悪人にも、
太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。

それを受けると受けないとは、
自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみ
よく一切のものを受け入れ得るのである。

       <感謝合掌 令和5年12月2日 頓首再拝>
13:伝統 :

2023/12/07 (Thu) 11:18:16


     *「光明法語」(12月7日《逆らえば順潮も逆潮》)より

一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。

自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。

波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

         <感謝合掌 令和5年12月7日 頓首再拝>
14:伝統 :

2023/12/09 (Sat) 10:36:12


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、その程度に応じて、
神の光は蔽(おお)われるのである。

「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

       <感謝合掌 令和5年12月9日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/01/26 (Fri) 11:47:38


         *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

            <感謝合掌 令和6年1月26日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/01/29 (Mon) 11:45:41


       *「光明法語」(1月29日)より

吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。

吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。

だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。

唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。

            <感謝合掌 令和6年1月29日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/04/19 (Fri) 14:25:25

心を空(カラ)にする大切さ
伊勢ー白山 道2024-04-19
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/8facb5fa97294fc3265d77a4697eab85

            <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>

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