伝統板・第二 2552480

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神人一体 ③

1:伝統 :

2023/06/17 (Sat) 05:03:03


宇宙力と一体なり

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神人一体」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7063440

(2)伝統板・第二「神人一体 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7912804

           <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/06/24 (Sat) 05:03:42


      *「光明道中記」(6月24日)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあると
エマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、
全宇宙がその人を護りたまうのである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。
利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)うていることを
私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

       <感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/07/11 (Tue) 09:23:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は
幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、
    感ずる対象と同じ波をこちらが起さねばならぬ。
    神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。

すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、すべてを生かす心を起したときに、
その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、
「個(ひとり)」と「全体」とのつながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、
神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 令和5年7月11日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/07/24 (Mon) 11:37:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月24日)より

瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。

そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された
普遍意識(すべてに満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる
反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、
われらはこの普遍意識の中に没入し、普遍の智慧と一つになるとき、
知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

         <感謝合掌 令和5年7月24日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/08/29 (Tue) 08:36:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」

とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように
「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。

阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
 あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
 わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
 今本当に融け込んでいるのです! 
 だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」

という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

      <感謝合掌 令和5年8月29日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/11/05 (Sun) 09:28:00


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月5日)より

神と人とが一体であることを、書籍の上で読むだけではなんにもならぬ。
神と人とが一体であることを、行じねばならぬ。

神の愛が、神の御心がなんじによって行じられねばならぬ。

なんじは神の表出口である時にのみ、
神に結ばれて神によってその存在意義がみとめられるのである。

         <感謝合掌 令和5年11月5日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/11/17 (Fri) 09:53:48


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

         <感謝合掌 令和5年11月17日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/11/18 (Sat) 09:36:23


       *「光明法語」(11月18日の法語)より

「天の父」と「神の子」との一体融合を阻礙(そがい)するものは、
あの氷山の表面のみを見つめる如き「傲慢なる」孤立の心である。

氷山はどうして浮いているかと云えば、
その下にある「無限につづく海水」の力によるのである。
「無限につづく海水」とは、無限につづく神の生命の譬喩(たとえ)である。

われらは氷山の個別的突出のみを見る。
「わしが、わしが」と高ぶる心を捨てなければならない。

氷山は脚下を見なければならない。
脚下の海水を見て、自分が存在する所以(ゆえん)を知らねばならぬ。

         <感謝合掌 令和5年11月18日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/11/25 (Sat) 12:08:39


  *「光明道中記」(11月25日《一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日》)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                       (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。

然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、
また若し神が私を導いて下さらなかったら今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 令和5年11月25日 頓首再拝>
10:伝統 :

2024/01/06 (Sat) 10:53:47


       *「光明法語」(1月6日)より

まず神と和解することが必要なのである。
神の救けを得ようと思ったら
天地一切のものと和解した関係に入(い)らねばならぬ。

神より悪なるものが来(く)ると考えることは
神と和解しているのではない。

神よりは善のみしか来らないと信ずることが
神に対する和解の第一歩である。

その神を対立的に観ることも神に対する和解ではない。
神と和解するには神と一体にならねばならぬ。

即ち神はわが内にやどりたまい、吾が目をもって見給い、
わが耳をもって聴きたまい、わが呼吸器をもって呼吸したまい、
わが声をもって語りたまうと信ぜよ。

           <感謝合掌 令和6年1月6日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/04/19 (Fri) 12:02:49


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。
実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。

どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。

打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、
性欲が汚れたものに見えてくる。

         <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>

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