伝統板・第二 2583260

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人格の陶冶③

1:夕刻版 :

2023/05/30 (Tue) 04:50:49


《自己をもっと信頼しましょう》

         *『 生長の家 』(昭和29年5月19日の法語)より

自己を信頼するということは強固なる人格の特徴である。

自己を「神の子」なりと信頼する者は、一時如何なる逆境におかれようとも、
やがては必ず立ち上がる勇気と手段とを見いだすことができるのである。

一ぺんや二編の失敗で失望落胆してしまう者は、
無限の可能性がある「神の子」の自覚が足りないのである。

「神の子」の自覚を快復したならば、弱者もたちまち強者となるのである。

「神の子」に貧乏はない、病弱はない。

貧乏や病弱の想念をあなたの心の隅々から抹殺せよ。

あなたの動作、表情、寝具、服装ー等ーあなたの身辺にある一切のものから
貧乏と病弱との想念を抹殺せよ。

そこから本当の「富」が芽生え始めるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2311

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「人格の陶冶①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6916982

(2)伝統板・第二「人格の陶冶②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7651993

          <感謝合掌 令和5年5月29日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/06/18 (Sun) 04:57:35


       *「光明法語」(6月18日)より

「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、
不成功に終らせたりするのである。

ある人は「人格」の力で、
人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。

ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、
その人に功を成さしめない。

では「人格」の目に見えない雰囲気を
どうしたら発達せしめることが出来るか。

それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。

《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。

           <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/06/19 (Mon) 04:52:55


       *「光明法語」(6月19日)より

日常断えず思っている「思い」の集積が、
人格の雰囲気となって現れる。

たえず善き「思い」を起こしている者は
よき人格の雰囲気をもち、

断えず卑しい「思い」を起こしている者は
何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。

威厳の雰囲気を放つ者あり、
慈悲の雰囲気を放つ者あり、
柔和の雰囲気を放つ者あり、

剣気の雰囲気を放つ者あり、
邪気を放つ者あり、

徳気を放つ者あり、

人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、
一時人前を繕っても駄目である。

第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。

         <感謝合掌 令和5年6月18日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/07/19 (Wed) 04:52:39


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。

彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/07/27 (Thu) 13:06:23

       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.26)より

   (奈良県立大学客員教授、岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…)


   風格とはいったい何であろうか。

   『新選国語辞典』(小学館)によると、

   「1.ふうさいと品格。ひとがら。 2.おもむき。味わい」

   とある。

   しかしどうも品格と風格は異なるものではないかと思う。

   もちろん風格は品格を包含する、
   えも言われぬ有り様というか、
   醸し出される雰囲気というか、
   表現しがたい状態だ。


   東大寺の長老で書画にも名高い清水公照(こうしょう)師は、
   しばしば焼き物で仏や人物を作られて、

   これを「泥仏(でいぶつ)」と呼んでおられた。

   常識や思い込みを超越した、
   脱俗の泥仏は飄飄(ひょうひょう)としていて今も人気がある。

   師の百の流儀をまとめた「泥仏放語集」に「ぼけにも風格」と
   書かれたものを見たことがある。

   これを見た時、えも言われぬ感慨を覚えた。


   人がたどって来た人生の果てに生ずるのが風格であって、
   その有り様はどれ一つとして同じものはなく、
   個々区々(まちまち)なのである。

   つまりその人の人生の香りというか、結果の立ち姿である。


   人生の舟に、知識や経験や想いを積めるだけ積んで川を下っていく。

   しかし全てを持っては死〇ないから、
   ある年齢に達した時は、これを捨てて行かねばならない。

   昨今はやりの断捨離だ。

   しかしいくら捨てて行っても、本当の事は遺(のこ)る。真実は遺る。

   残り香(が)のように。
   その残り香が美しいのである。


   若い頃、献茶の担当をしていた。

   神前への家元の御献茶が済んで、
   何席かある茶席廻りの時に、家元の内弟子のご老人のお供をした。

   ご流派では名のある先生だから、
   その先生が席に入られるやいなや、席は静まり凛とした空気が漂った。

   ところがその先生は、
   わざと寛(くつろ)がれ、お話も楽しいし、
   作法もサラリとこなされる。

   茶杓の拝見などは、
   しっかりと要点を押さえつつも、型にとらわれる事もなく、
   自然で美しいものだった。


   捨てた姿は美しい。

   但しそれは修めて修めて、
   修め尽くした人が捨てた姿が美しいのであって、

   修めもせず、舟の荷物も少ない人が捨て去った後には、
   全く何も遣っていないのである。

   中途半端に修めた人と、修め尽くした人とでは
   全く仕上がりが違うのである。

   たどって来た先にあるもの、
   全てを呑みこんでから吐き出した後に遺るもの。

   つまり人生の残り香と余韻こそが風格というものではなかろうか。

    《風格とは、捨てても捨てても遺るもの》

     <『日本人よ、かくあれ』ウェッジ>

       ・・・

「別れたあとに、また会いたいと思うような余韻や余情を残す人は
 魅力的な人間である」(行徳哲男)


余韻とは、鐘の音などが消えたあとも、なお耳に残る響きのこと。

その一番中心にあるものが、
なんともいえない温かでしみじみとした人間関係。


また、虚飾を捨て去ったあとに残るものが、「素朴愚拙」という魅力。

「素」とは、枝葉を取り払ったあとの、何も身につけていない魅力。

「朴」とは、朴訥とした、泥臭さのこと。

「愚」とは、よく見せようとか、かっこつけようとしない、バカになれる魅力。

「拙」とは、要領よくない、へたくその魅力。


なんともいえぬ残り香と余韻のある人…

人間としての「風格」を少しでも身につけたい。

           <感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/07/31 (Mon) 12:21:27


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より

人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。

人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。

他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。

他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。

         <感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/10/03 (Tue) 13:21:02


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.10.1)より

   (東洋思想研究家、田口佳史(よしふみ)氏の心に響く言葉より…)

   人間関係をよくするには、自分自身が人格者でないといけません。

   人格の劣ってい る人は尊敬されないし、
   人望を集めることもないでしょう。

   いい人間関係の土台には、自分自身の人格がある。

   そこはしっかりふまえてください。


   では、「人格者」とはどんな人物か。

   そのことを考えるうえで大事なのは、
   「陰陽のバランスを取る」という考え方です。

   中国古典思想では、森羅万象、あらゆる物や存在、事象を
   「陰」と「陽」に分類します。

   この「陰陽思想」は、対比的な矛盾に満ちた社会を、
   すっきり説明することのできる概念といえます。


   大ざっぱに説明すると、
   「陰」は内へ、内へと向かう働きがあって、受動的な性質。

   「陽」は正反対で、
   外へ、外へと向かう働きがあって、能動的な性質です。


   大事なのは、ここから。

   「陰」は「陽」が、「陽」は「陰」があって、
   はじめて一つの要素となりうる、ということです。

   両方の要素が溶け合って一つになった状態を完璧とする。

   このことを、 「陰陽和して元となす」といいます。

   中国古典思想を象徴する考え方ですね。


   人格に関連していえば、
   私たちが生来持っている欲望は「陽」に当たります。

   その欲望にブレーキをかける「陰」として作用するのが、
   人として守るべき道理です。

   その陰陽が備わっている完璧な人…つまり「バランス感覚の備わった人」
   こそが 「人格者」と呼ぶにふさわしい人物なのです。


   菜根譚にも「陰陽のバランスの取れた人格者」について
   説いた章句がたくさんあります。


   《清なるも能(よ)く容(い)るる有り、
    仁なるも能く断を善(よ)くす。
    明なるも察(さつ)を傷つけず、
    直(ちょく)なるも矯(きょう)に過ぎず。》(前集2)

   陰陽、対立する要素を並べて、

   「清廉潔白だが、包容力がある。思いやりがあるが、
    決断力にも優れている。頭が切れるが、人の考えも尊重する。
    正直だが、人のことを、とやかくいいすぎない」 と、

   バランスを取ることの重要性を説いています。

   たしかに、清廉潔白な人は自分にも人にも厳しく、
   少しの悪事や過ちも許さず、包容力に欠けるところがあるものです。

   でも、人格者は、
   「場合によっては寛大に受け入れる包容力を有している」としています。


   また思いやりのある人は、人の気持ちを考えるあまり、いろいろ迷いがち。

   決断力を発揮することも忘れてはいけません。


   頭の切れる人は人の意見などおかまいなしに、
   なんでも自分の思いどおりに進めていこうとする傾向があります。

   自分の才に溺れず、周囲の声に耳を傾けることを
   大事にしたほうがいいでしょう。


   正直者は正直な物言いを信条としていますが、
   正直であればいいというものではありません。

   人を傷つけるようなことをいったり、
   人のやっていることに余計な口出しをしたりするのは
   控えるべきでしょう。

   こんなふうに
   「清」「仁」「明」「直」はどれもすばらしい資質ですが、

   それが裏目に出る場合もあることに用心しなくてはいけない
   と警告しているのです。

     <『仕事で一生悩まないための 菜根譚の教え』三笠書房>

            ・・・

本書の中で、人格者を食べ物にたとえて、こう表現している。


《是れを密せん甜(あま)からず、海味からからずと謂(い)う。
 わずかに是(こ)れ、い徳なり。》

「甘いお菓子だけど甘すぎず、海産物だけどしょっぱすぎない。
 そういう人こそ美徳を備えた人格者である」

みなさんも自身の性格をふまえて、その逆の資質を意識するといいでしょう。

たとえば、「細心と大胆」「勇敢と慎重」「柔軟と剛直」
「穏やかさと激しさ」「悲観的と楽観的」「勤勉と怠惰」
「粘り強さとあきらめのよさ」など、“甘辛気質”を磨きましょう。



「陽」を含む言葉には、陽気、陽光、太陽、一陽来復、というように、
明るくて元気な「陽(日)の光」のイメージがある。

しかし、人生においては、
どんな人も、日のあたる場所ばかり歩いてきた人はいない。

ときには、失敗したり、失意のどん底に落ちたりと、
やることなすことうまくいかないような、日の当たらないときもある。


だからこそ、自分を磨き上げるには、陽だけでなく、
陰もあわせ飲むような度量が必要だ。

つまり「清濁併(せいだくあわ)せのむ」という姿勢。

正も負も、善も悪も、いいも悪いも、併せのむということだ。


稲盛和夫氏は、

「正気と狂気」とか「優しさと厳しさ」、「雇用と解雇(悪い人を切る)」
といった相反することを平然と、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなくできる人を
名経営者という、と言っていた。


優しい人だが、厳しさもある。

まっとうな常識人だが、事があったら狂気も発動する。

善人だが、悪の手口も知っている。

まじめだが、遊ぶときには徹底的に遊ぶ。


陰陽のバランスの取れた人でありたい。

         <感謝合掌 令和5年10月3日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/12/24 (Sun) 14:50:30


     *「光明道中記」(12月24日《人格完成の日》)より

【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。
                   (『生命の實相』第八巻)】

資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。

併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、人間の人格の自然な成長を害することになる
のである。

梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。

それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。

人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨は
すべて遺しておかなければならないのである。

彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。

それだけに必要以上の蓄積することに時間をつぶして、
一体それが何の獲得であるのだろうか。

財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。

           <感謝合掌 令和5年12月24日 頓首再拝>
9:伝統 :

2024/05/07 (Tue) 05:00:56


        *「生命の實相」第29巻女性教育篇(P127~130)より

常にわれわれが善き念波を起こすようにしていますと、
人格の雰囲気というものが善くなってまいります。

人格の雰囲気というものはなかなか一日や二日で
変わってくるものではないのでありまして、
それは長時間の間自分の心に持続する精神波動が人相に変化を及ぼし、
態度姿勢にまで変化を及ぼして、

それからなんとなしに懐かしい、親しみやすい、信頼しやすい
というような空気の出る人もあれば、ある人の所に行くと、
窮屈で煙たくてしかたのないという人もある。

あるいはあの人の顔を見ると、気持が悪くてムシズが走るような気がする
というような人があるというぐあいに、
人それぞれに人格の雰囲気がちがうのであります。

これはいくら紅をつけても、白粉おしろいをつけても、
そんな表面のごまかしではどうにもならないのでありまして、
やはり常に持続している自分自身の念(こころ=ねん)の波が
肉体に現われているということになるのであります。

その一例としましては、今は亡くなりましたが岡田式静坐法の先生で
小林參三郎という京都の東寺の境内にある済生病院の院長をしておった人の
著書に『生命の神秘』とか、『自然の名医』とか題する本の初めのところに
書いてある話に、

ある非常に良い人相見が知合いの役者に遇いましたら、
とてもその知人が悪人の相をしておって、今に不幸な運命の危害が
加えられるというような人相が現われている。

それを指摘して言ってあげようかと思ったけれども、
それを言ってあげたらその人が心配するといけないからと思って、
その時は言わないで別れてしまった。

それから半月ほどして、同じ役者に同じ人相見が遇ったのであります。

すると今度はあべこべに非常に良い人相になって、
いかにも天が祝福しているような人相をしているのだそうです。

それから今なら言っても心配することはなかろうと思って、
「実は、今君の顔を見るととても輝いて天が祝福しているような顔をしているが、
この間、半月ほど前に遇った時には実に悪相をしておった。

今にも君の身に危害が加わるような人相しておったが、
どうしてこんなに変わったのか」といったそうであります。

そうすると、その役者が言うには
「実はあの時は原田甲斐という悪役の芝居をしておった。
それでその芝居をやっている間中原田甲斐になりきってしまって
そういう人相をしておったのでしょう。
ところが今は大石内蔵助をやっている」と言うのです。

それはむろんよく鑑定のできる人相見だからこそ、
はっきり人相にその微妙な変化がわかったのでありましょうけれども、

毎日いつまでも心にそういう原田甲斐のような心を持てば
人相見ならずとも普通の人が見ても「あいつはやはり悪人であるな」
ということがわかるほどに人相が具体的に変わってくるにちがいないのであります。

ですからわれわれは人相がよくなりたい、
不幸を受けないような人相になりたいと思うと、
忠義な深切な大石内蔵助のような良き念を常に思い浮かべるようにして、
良き雰囲気を自分の全身から立ち騰のぼらせるようにしなければならないのです。

深切は人のためならず自分のためであります。
深切の念をわれわれが起こせば、宇宙に充ちている幸福の念波、
生かしてやろう、育ててやろうという念波を受ける、
そうして良き考えを自然に思い浮かべることになり、
自然と良き方に引きずられてゆくのであります。

それですから生長の家の説く心の法則によりますと、
善人のみ栄えて悪人は栄えないことになるわけであります。

世の中にはよく善人のくせに不幸に陥おちて悪人が栄えているじゃないか、
生長の家の言うことは嘘だと考える人があるかもしれませんけれども、
決してそうではないのであります。

よく善人で周囲と衝突したり、周囲に容れられないで不幸になる
ような人の中には、こせこせして善に執われたり、頑固で強情で、
自分の考えばかりをよいと思って、
自分の「善の尺度」で人を批判して悪口ばかり言ってるような人が
たくさんあるのであります。

そういうふうな善人は、どんなに善人みたいに見えても
本当の善人ではないのであります。

それはこの人の心が非常に狭くて他の人を生かさないことを
現わしているのであります。

ともかく、深切ということは深く切なるていねいな思いである
とともに広々とした思いであり、自分の尺度に執着しないで
相手を生かす思いであることを知らねばなりません。

〔編者曰く〕これは昭和十一年八月二十九日、
谷口先生が比叡山の講習よりお帰りになって二日目に
生長の家家庭光明寮で御講話になった聖典講義の速記である。

           <感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>

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