伝統板・第二 2549837

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無限の富を汲みだす⑩

1:伝統 :

2023/05/24 (Wed) 12:23:29

《富は「善き考え」の具象化》

      *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895683  

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7752637

(9)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895248

(10)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989074

(11)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8084722

(12)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑧」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8235501

(13)伝統板・第二「無限の富を汲みだ⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8261485

           <感謝合掌 令和4年5月24日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/05/25 (Thu) 12:16:50


      *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、
既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、深切を、
充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ
神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

           <感謝合掌 令和5年5月25日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/06/07 (Wed) 10:00:44


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、
減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃ
という考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和5年6月7日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/06/21 (Wed) 05:07:54


   *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)より

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。
                   (『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。

その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ
吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、
自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、
日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると
思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、
有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとは
ただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

           <感謝合掌 令和5年6月21日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/06/22 (Thu) 05:06:07


   *「光明道中記」(6月22日《神意(みこころ)を行ずる日》)より

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。
                (『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずして
みだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費に
と貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、
やがて頭脳が役に立たなくなって来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

           <感謝合掌 令和5年6月22日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/06/23 (Fri) 04:56:41


       *「光明法語」(6月23日)より

弱き善人は、強き悪人に及ばない。
善人は強くならなければならない。

悪人は金を集めてその勢力を次第に増大して行くが、
善人は金を集める事を穢(きたな)いとみずからの手に手錠をかけるが故に
悪人の力に滅ぼされてしまうのである。

善人はもっと勇敢に金を集めなければならないし、
よき事の為に金を集める事を穢いと思ってはならないのである。

金は穢いも綺麗もない。
それは如何に何に使うかによって綺麗と穢いとの区別が出来る。

釈迦曰く「飢饉の時には一層托鉢せよ」と。
釈迦は自分が貧乏だから行乞(ぎょうこつ)したのではない。

        <感謝合掌 令和5年6月23日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/06/24 (Sat) 05:01:56


       *「光明法語」(6月24日《今此処が天国》)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受し
これを生かし働かすとき其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき
天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/07/14 (Fri) 06:54:41


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月14日)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、
法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 令和5年7月14日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/09/05 (Tue) 09:00:44


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月5日)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、
「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、
どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを
「お蔭」(神からの供給)の考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは

「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、

債務者の方からは、

「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。神の無限の
 供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、
 ありがとうございます」

と考えるがよい。

             <感謝合掌 令和5年9月5日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/09/06 (Wed) 12:13:19


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月6日)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方が、
実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、

「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、
特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 令和5年9月6日 頓首再拝>
11:伝統 :

2023/09/08 (Fri) 12:31:35


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月8日)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、
豊かなる供給を与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。

富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを
排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。

貧しき者、損をかけた者を、
「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

         <感謝合掌 令和5年9月8日 頓首再拝>
12:伝統 :

2023/09/12 (Tue) 14:07:51


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

         <感謝合掌 令和5年9月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2023/09/13 (Wed) 10:14:28


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」とかの
観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、
そこには債権者も債務者もないのである。

そこは、ただ恵まれている世界である。

その恵みに報謝する働きをしておれば
必要なものはことごとくやって来るのである。

       <感謝合掌 令和5年9月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2023/09/20 (Wed) 12:09:45


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

        <感謝合掌 令和5年9月20日 頓首再拝>
15:伝統 :

2023/11/04 (Sat) 10:04:40


    *「光明道中記」(11月4日福徳円満の日)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                     (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、
自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、
近来、資本主義の爛熟期に到達するに及んで「設け」ずして、
金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

          <感謝合掌 令和5年11月4日 頓首再拝>
16:伝統 :

2023/11/05 (Sun) 09:25:33


          *「光明道中記」(11月5日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。
                (『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、
金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、

金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、
金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、
其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 令和5年11月5日 頓首再拝>
17:伝統 :

2023/11/11 (Sat) 08:20:03

       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、
他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、
 平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、
ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

       <感謝合掌 令和5年11月11日 頓首再拝>
18:伝統 :

2023/12/16 (Sat) 09:33:22


         *「光明法語」(12月16日)より)

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

        <感謝合掌 令和5年12月16日 頓首再拝> 
19:伝統 :

2023/12/25 (Mon) 09:34:26


      *「光明道中記」(12月25日《必ず一人を救う日》)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                     (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

          <感謝合掌 令和5年12月25日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/12/26 (Tue) 10:41:33


   *「光明道中記」(12月26日《愛念雲の如く湧く日》)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、
自働的にそれが富自身を追求するようになる時、

それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

           <感謝合掌 令和5年12月26日 頓首再拝> 
21:伝統 :

2023/12/27 (Wed) 12:07:41


     *「光明道中記」(12月27日《無限供給の日》)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

           <感謝合掌 令和5年12月27日 頓首再拝>
22:伝統 :

2024/01/21 (Sun) 11:45:05


     *「光明道中記」(1月21日笑門福来七宝充満の日)より抜粋

ケチな心は貧しい心、出し吝(おし)みする心であるから、
一時は出口を押さえる力で蓄積が出来るものであるが、

やがてその人の周囲にはケチな心、
出し吝(おし)みする心の持ち主ばかりが集って来て、
ついにはその人自身が立たなくなり衰微して滅んでしまうのである。

贅沢な心のところにも富は永遠にいないものである。

何故なら物の価値を知らないで、湯水のように贅沢に恵みを悟らずに
使いほかしにする心の処には神の恵みは何時迄も停(とどま)らない。

          <感謝合掌 令和6年1月21日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/01/23 (Tue) 11:43:42


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より

心の平和を得ることが幸福の本である。

心が平和を得なければ億兆の富といえども
なんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、
われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

         <感謝合掌 令和6年1月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/02/18 (Sun) 09:44:13

           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロック〇ェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

         <感謝合掌 令和6年2月18日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/02/25 (Sun) 12:53:05


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。
人のためになることを余計すればするほど、その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもので、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

         <感謝合掌 令和6年2月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2024/03/20 (Wed) 11:22:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 令和6年3月20日 頓首再拝>
27:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 09:41:23


        *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、
ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ
太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわない
と云うことはないのである。

         <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>
28:伝統 :

2024/04/19 (Fri) 12:00:33


        *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

         <感謝合掌 令和6年4月19日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/04/20 (Sat) 11:33:19


           *「光明道中記」(4月20日)より抜粋

世間にはただ投機的な活動や、自分が儲けたら他が損をするような職業を営んでいて
巨利を博している人たちがあるにはあるが、そう云う人たちは
精神的には実にみじめな生活をしている。

それは隙を見て奪うにも似たる生活であるから、
その先鋭的な精神状態は自分自身を傷(きずつ)けて、
自分自身が神経過敏状態になるか、身体の各所に病気を持っている。

更にその尖鋭な精神状態は家族を傷け、家族たちがヒステリーに陥るか、
身体の各所に病気を持っているであろう。

労(サービス)せずして得たる金銭は、その人の身につく資格なきものであるから、
それは必ずその人から飛び去ろうとする。

その飛び去る際に、その持主を肉体的快楽の賎奴(せんど)とするか、
執する物に離れる愛別の苦痛を与えて飛び去るのが普通である。
或る場合には金が溜(たま)れば必ず医者にとられる。

考えて見るならば金銭は何処(どこ)がそんなに尊いのであろう。
それは隣人を救う時に利用されるとき、自分を高め勉強さすように利用されるとき、
その時にのみ尊いのである。

隣人から奪ってこれを苦しめ、自分を肉体的快楽の奴隷にまでならしめるような
金銭は却って地獄の使者(つかい)である。

            <感謝合掌 令和6年4月20日 頓首再拝>

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