伝統板・第二 2550885

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英霊の言乃葉 21

1:夕刻版 :

2023/04/01 (Sat) 14:37:36


靖国神社社頭掲示~令和5年4月

御両親様

陸軍大尉 渡邊 勇 命

昭和二十年八月四日 松島基地付近にて戦死 

北海道北見市山下通出身 二十五歳


冠省(かんしょう)

御両親様 達者にて御暮しの事と存じます

                 小生

出撃に当り何等(なんら)思ひ残す事はありません

二十有五年の御高恩に対し 何等為(な)事なくして
死ぬる身の不孝深くお詫び申します。

悠久の大義のもと 歓喜邁進立派に頑張り抜きます
御安心ください

御長命の程(ほど)祈(いの)り上(あげ)ます

                     敬具
                    勇生

父上様
母上様

 一(ひと)すじに みことかしこみ 征(よ)かむ身の
   大和(やまと)島根(しまね)を 護るうれしさ

           <感謝合掌 令和5年4月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/04/02 (Sun) 13:57:22


妻と新入学の娘へ

陸軍上等兵曹 大山竹市 命

昭和十九年八月二日 マリアナ諸島にて戦死 

岐阜県土岐郡 駄知町出身 三十六歳


春雨がしとしとと降る今朝、此の手紙を書く、
近頃は大変に暖かく暮らし良き時と成りましたが、
此の二、三日何か寒くて折角桜も開きかけたのに又、
蕾(つぼ)んでしまいそうです。

(中略)

敏子には先日も知らせた通り、
カバン及び学用品を買ってやつて下さい。

(中略)

敏子モイヨイヨニユウガクデスネ、ガツコウにユケバ、
センセイノイフコトヲヨクキイテ、トモダチトナカヨクシテ、
イツシヨウケンメイニベンキヨウシテ、
リツパナヒトニナツテクダサイ。

ウチデハオアカアサンヤ、オヂイサンヤアバアサンノイフコトヲ、
ヨクイテ、オツカイナドモヨクヤリナサイ、マタ、
チヅコヤタケヲトモナカヨクアソビナサイ。

オリコウノコドモニナレバ、オトウサンカラ、
ナニカヨイゴホウビヲオクリマス。

              サヨウナラ

   三月三十一日
                   オトウサンヨリ

敏子サマへ

 「きみ お前の写真を一枚撮(うつ)して送って呉れないか
  お前だけ写真が無くて淋しいから早い所で一つお願ひします。」

    *「きみ」は、竹市命の奥様

           <感謝合掌 令和5年4月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/04/03 (Mon) 13:20:25


母上様


陸軍大尉  野本 憲志 命

昭和19年7月18日
マリアナ諸島・サイパン島にて戦死

愛媛県八幡浜市大平出身 22歳



拝啓 一日一日春風が濃くなって来ました。
本桜は既に降り八重(やえ)の重厚な蕾が今やほどなく
絢爛(けんらん)たる開花の日を偲ばせてをります。

其の後一同益々御壮健の由(よし)何よりです。

家も変はられたとの事、何時か皆揃って家の前に集まった
写真を一枚送って下さい。

私の方の写真は後(あと)しばらく ――
昨今なかなか多忙で、外へもゆつくり出てをれません。

二十三日は軍旗を立てて靖國神社に部隊参拝、
続いて二十九日は栄(は)えある近衛騎兵中隊長として
陛下の御馬前(おんばぜん)に分列を行ひます。

何としても当日の快晴を祈らざるにはをれません。
来週から、早速、観兵式準備です。

(中略)

東京は愈々(いよいよ)空襲時期に入りました。
これだけは天命、何時おだぶつになるかも知れませんが、
武人の覚悟だけは物心両面とも如何なる時にも
失はなぬつもりです故(ゆえ)、御安心ください。

では御壮健で、又。

                     敬具
  
  四月十八日
                     憲志

母上様

・・・

<参照>
ひとりの「みはた会」
http://ginnews.whoselab.com/210410/tsuido.htm

            <感謝合掌 令和5年4月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/04/04 (Tue) 14:56:23


あと1時間にて当基地を立ちます

陸軍少佐 片岡 喜作 命

昭和二十年四月二十二日
沖縄周辺にて戦死

茨木県筑波郡大穂町出身

三十一歳


お父様

お母様

                 喜作


長い間我儘(わがまま)を申し、何等(なんら)子としての
努めを果たし得ずして去ること何卒(なにとぞ)お許しください。
あと1時間にて当基地を立ちます。

然(しか)し喜作は良き部下を頂(いただ)き、且つ世の人から
誠心からの世話を受け幸福の裡(うち)に敵艦に人機(じんき)
命中し去り行きます。

必ず大物を轟沈し御恩に報ゆる覚悟です。


一、作四月十九日、最後の座談会にて録音を取り、
  近く放送せらるる由(よし)なれば、お聞きください。
  また小倉放送局より音盤をお送りくださるはずです。


一、当地にての遺品は当部隊にて発送してくれます。

  (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

・・・

銀座展望台(2020-4-4)
http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=3693


         <感謝合掌 令和5年4月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/04/05 (Wed) 13:34:30


遺書

陸軍兵長 玉田久太夫(きゅうたゆう)命

昭和20年4月8日
フィリピン ルソン島にて戦死

兵庫県多可郡中町出身
33歳


其の後変はりなきや、俺はこの度戦地に向かふについて最後に一言記す。
お前は俺のもとに嫁いで一意貞節をもって又、温情をもって今日まで
約十ヶ年、本当によく盡してくれた事を深く感謝する。

お前と結婚して十ヶ年、あまり長い契りとも言へないが、
思い出せば懐かしく又、嬉しき事もあり、だ。
しかし、俺も一度家を出たからは、敢(あ)へて生還は期すことは出来ないと。

しかし、これこそ皇国男子の本懐だ。

又、俺の戦死を聞いても決して取り乱した振る舞ひはしてくれるな。
俺は一足先にあの世とかへ行って、お前の必ず来るのを待ってゐる。
二十年三十年は長い様でも悠久の天地から見れば、ほんの一瞬だ。

(中略)

何卒、今後は身の重責を自覚して健康に注意して、俺亡き後は
心丈夫にしっかりとこの世の中を渡ってくれる事、
靖国の社内より祈って居る。

又、幼児(おさなご)成長すれば一度は靖国神社へ連れて参ってくれ。

では家内皆、達者で暮らしてくれ。
なほ村の人や親類や友達にも宜しくね。

                       玉田久太夫          

玉田志ずゑ殿

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

・・・

拝殿掲示の御製は

『戦日に逝きし船人を悼む碑の彼方に見ゆる海平らけし』

(平成四年一月二十日、天皇陛下行幸の際、戦没船員を悼んでお詠みになられたうたです。)

     (http://www.dairo.website/cn107/cn110/pg1245.html

         <感謝合掌 令和5年4月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/04/06 (Thu) 14:01:30


遺書

海軍少尉 上田 兵二 命

昭和二十年四月十六日  
沖縄県近海にて戦死
兵庫県揖保郡余部村出身 
二十三歳
 

絶筆 出撃寸前
謹呈

小生いよいよ 出撃突入す

遺品送り方頼みし故
すぐ着く事と存じます

電替も送り返す様お頼み致しました
遺品喜んでお受け取り下さい

公電が有れば赤飯で祝つてくれ

乱筆にて

    昭和二十年四月二日
       
               海軍一等飛行兵曹
                 上田 兵二

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6b0cd280589aa518b69c5c4f2b189b04 )

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

・・・

『4月拝殿掲示』
       
     明治天皇御製

      祝  (明治40年)
   
   神がきにぬさをささげてたひらかに
   をさまれる世をいはう春かな

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/category16-2.html )

         <感謝合掌 令和5年4月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/04/07 (Fri) 15:18:17


元気で征きます

陸軍大尉 小林克己命

昭和20年4月13日
千葉県上空で敵機と交戦被弾し戦死
新潟県新潟市島屋野出身
二十三歳 


暫く出発となりました。
今更もう何も申し上げる事もありません。

今私は己が幸福に感激しつつ、何等後顧の憂ひなく
欣喜雀躍(きんきじゃくやく)征途に就かむとして居ります。

何卒、健康に御留意の上、御長生あらむ事を御祈り申し上げます。

では元気で征きます。

                       克己

御両親様

   膝下

https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/83909fef340a1e1c1dc989b18d605c82 )

・・・

『4月拝殿掲示』
       
     明治天皇御製

        軍人      (明治44年)
   
   こともなくをさまる世にも國守る
   ますらたけをはこころたゆまじ  

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=3423 )

         <感謝合掌 令和5年4月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/04/08 (Sat) 11:59:56


でつかい奴を沈めます


陸軍少尉 加 藤 虎 男 命 

昭和二十年五月四日
沖縄方面にて戦死

東京都目黒区駒場出身 
二十歳



お母さん

大元気で、でつかい奴を沈めます。

御祖母様

お元気にてお暮らし下さい。
小学校に通つて居た頃、滑り台より落ちて祖母さまに手当てして
頂いた事を思ひ出しました。
虎男は立派に働いて死にます。


功兄、麗子へ
元気で暮らして下さい。
必ず命中します。
自分の居なくなつた後は、兄さんと麗子だけがお母さんの世話が出来るのだ。
麗子、お母さんには心配を掛けるなよ。


 何を惜しまん 君が御楯となれる我は
 五尺の身 粉々になるとも

第一〇九振武隊 加藤虎男


( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/d3bf4b43a665a7f06fd1d54a507671f5 )

・・・

『4月拝殿掲示』

  貞明皇后御歌
            
       靖国神社大祭のおこなはれけるをりに    (昭和14年)

     うからどち神をろがみていまさらに
     かど出のさまをしのびてやなく

     (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=2996


         <感謝合掌 令和5年4月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/04/09 (Sun) 15:07:49


遺言書


陸軍憲兵軍曹
相馬竹三郎命

昭和二十三年四月八日
セレベス島メナドにて法務死

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町出身
二十九歳

(前略)

我が身は既に陛下に捧げ奉りし身にて、何等惜しくありませんが
戦ひ終りました今日、国の為にたてた勲が仇となり、
刑場の露と消えるのは残念至極です。

只皇国の復興と郷里に遺せる祖父弟妹の身上が案ぜられるのみです。

今後の兄上様の前途は多岐多難なるも祖父弟妹と御互に扶け合ひ、
又夫婦仲良く暮されん事を望みます。

今となっては何も思ひ残す事もありません。

(中略)

では兄弟よ、長い間の生涯本当に御世話様になりました。
一足先に永遠の庭へ心静かに旅立ちます。
元気にて御身体を大切に、

さよなら。

昭和二十三年二月十七日


                       相馬竹三郎

大日本帝國万歳
天皇陛下万歳
大アジア万歳 

 遺詠

国破れ捕はれの身となりつれど 天地の神に恥づる事なし

  ( http://seirei.org/?p=670 )

  ( https://ameblo.jp/pika-fujikawa22/entry-12016337803.html )

  ( https://koubeinoko.exblog.jp/d2015-04-21/  ) 

・・・

『4月拝殿掲示』

大正天皇御製(大正3年)

「春の夜のほがらほがらとあけそめてあらはれ渡る庭桜花」

   (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=2289 )

         <感謝合掌 令和5年4月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/04/10 (Mon) 13:17:10


九段のお社でお待ちして居ります


海軍少尉 川越 勇命

昭和二十年四月十四日
朝鮮延海にて戦死

宮崎県東諸縣郡本庄町出身    
三十六歳


紀子(としこ)さんへ          

                   父ちゃんより

紀子さんは小さくて良くわからないかも知れないが、
父さんは海軍軍人として天皇陛下様の御為、悦んで死〇ます。
父さんはこんな嬉しい事はありません。

    *〇:ね

父さんは何時も忙しい体で、
紀子を可愛がる事も出来ませんでしたが、ゆるして下さい。

之(これ)から父さんはいなくても、
一番良いお母様やオヂイ様オバア様方の教へを良く聞いて立派な人になって下さい。
さうして大きく成ったら、お母様にたくさん孝行をして下さいね。

貴女方はお父さんの子として、決して恥しくない人になって下さいね。
お願ひします。

そして、お母様達と靖國神社に会ひに来て下さい。
お父さんは九段のお社でお待ちして居ります。
お会ひしたらお約束のお土産を上げませうね。

紀子達には、良いお母様が居ます。
さびしがらず立派な強い日本人になって下さい。

お父さんは何時も貴女達をお守りします。
御幸福を祈ります。御機嫌宜しく。


  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/861c15a5e33eac28262f95160b9f5d5a )

・・・

『4月拝殿掲示』

     昭憲皇太后御歌

       親           (明治22年)

    なほざりにききてすぎにしたらちねの
    親のいさめぞ今はこひしき

    (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1947 )

         <感謝合掌 令和5年4月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2023/04/11 (Tue) 15:18:36


遺言


陸軍中尉 長崎太郎命

昭和二十年四月十六日
ニューギニア、パンガンにて戦死

福岡県宗像郡福間町出身
二十五歳



御両親様。太郎ハ、オ先キニ逝キマス。
二十三才ノ今日マデノ御恩情ニ、ムクユルコトナク不孝之罪、
御赦(ゆる)シ下サイ。

御両親様ニハ、入営ヨリ御覚悟ノコトト思ヒマス。
太郎ハ、父上ノ子デモナケレバ、母上ノ子デモアリマセン。
御天子様ノ赤子(せきし)デス。

太郎ハ、二十一才ニテ長崎家ト別離シマシタ。
家ニハ正ガ居マス。弟達ガヰマス。
長崎家ノ将来ハ万々歳デス。

ミツエモ、母上ヲオ助ケ申シテクレ。
妹弟ノ者ニモ兄トシテ、何ニ一ツシテヤルコトモナク、済マナカッタ。
之カラ兄ノ分マデ、皆デ仲良ク御両親様ニ孝行タノムヨ。

病気スルンヂャナイゾ。仲良クナ。
申シ上ゲルコトモアリマセン。長崎家之万福ヲ祈リマス。

  昭和拾八年一月五日
                        長崎太郎
    長崎家御祖先様
    長崎武雄 様
    長崎タマノ様
    長崎ミツエ殿
    長崎 正 殿
    長崎哲也 殿
    長崎俊之 殿
    長崎正幸 殿

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2013-04-29-1 )

・・・

『4月拝殿掲示』

   明治天皇御製

     花         (明治45年)

    たかどのの 窓てふ窓 あけさせて 四方の櫻の さかりをぞみる

     (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20130405.html )

         <感謝合掌 令和5年4月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2023/04/12 (Wed) 13:33:09


我が故郷

海軍大尉  小久保節彌命

昭和二十年四月十六日
南西諸島にて戦死

愛知県渥美郡伊良湖岬村出身
二十四歳


我が故郷。

何と美しき四季とりどりの花は咲き、鳥は歌い山あり海あり。
太平洋の何と雄大なる、あの土用波の光景が眼にうかぶ。

椿は咲く。紅い花が咲く。
その下で図画を書いた事もあったっけ。
ゑのぐ筆をなめなめ稚い絵を書いた。

或いは夕野田に鮒釣に行った。
稲を荒して叱られた事もあったっけ。

海 そのもつひびき何と雄々しき事よ。
幼時より海辺に育ち真に偉大なる海に親しむ事が出来た。
ドンとうつ波の音は太古より未来永久につづくであらう。

我が故郷よ。無尽の幸あれ。
然して生れ来る国の童等を何時までも何時までも育んで呉れ。

我がふるさと人よ。
何時までも何時までも、純粋であってくれ。

(遺稿『句集 はまゆふ』から抜粋)

   ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2012-04-22-1 )

・・・

『4月拝殿掲示』

  昭和天皇御製

      別府の宿にて      (昭和33年)

    桜花 今を盛りと 咲きみちて 霞にまがう 宿の見わたし

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=984 )

         <感謝合掌 令和5年4月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2023/04/13 (Thu) 15:18:57


生還もとより期せず


陸軍中尉  森脇誠次郎命

昭和二十年四月十二日
沖縄島方面にて戦死

静岡県浜名郡長上村出身  
二十三歳


御両親様

永き間の御恩に、報ずるの秋(とき)至り候(そうろう)。
誠次郎は今、一身を以て御国の興廃を担(にな)ふの重任に喜びつつ、
攻撃に赴く可(べ)く候。

神機到来迄はと忍びつつ、ありし日の無念さを今こそ晴すべく候。
先輩逝き、同期生逝くを我一人残りたるの淋しさ比するものなく、
今日はその仇討(あだうち)に力一杯の奮闘を期し居り候。

生れしより憧れ候、大空に行くの光栄、之(これ)に過ぐるもの無く、
浜松の空に育まれし幸福無上のものに御座(ござ)候。

我儘(わがまま)のみ申し 真に不孝のみ致し、
更に先立ちて逝くの事申訳無く候共、
御国の守として悠久の大義に生くるを信じ居り候間、
御許被下度(くだされたく)候。

生還もとより期せず。仮令(たとい)、身は南海の涯(はて)に散るとも、
七度(ななたび)生れて寇敵(こうてき)を討たん決意に燃え居り候。

幼時より御世話に相成り候人々に、よろしく御伝被下度、願上候。
兄の如く思ふ先輩と共に、此の栄(はえ)ある攻撃に臨(のぞ)むを、
此の上無き喜と存じ居り候。

勇みて出撃仕り候。
                             謹 言

                
                        誠 次 郎

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/91942222101c71485cc2141b5df10be1 )

・・・


 『4月拝殿掲示』

 明治天皇御製

    花 (明治19年)

 高殿にのぼりて見ればをちこちの
 花も今日こそ盛りなりけれ

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=493 )

         <感謝合掌 令和5年4月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2023/04/14 (Fri) 14:57:26


私が死んだら


陸軍少尉 山 川 弘 至 命

昭和二十年八月十一日
台湾屏東南飛行場にて戦死

岐阜県郡上八幡町出身
二十八歳



私が死んだら

私は青い草のなかにうづまり
こけむしたちひさな石をかづき
青い大空のしづかなくものゆきかひを
いつまでもだまつてながめてゐやう。

それはかなしくもなくうれしくもなく
何となつかしくたのしいすまひであらう。

白い雲がおとなくながれ
嵐が時にうなつて頭上の木々をゆすぶり

ある朝は名も知らぬ小鳥来てちちとなき
春がくればあかいうら青い芽がふき出して
私のあたまのうへの土をもたげ

わたしのかづいてゐる石には
無数の紅の花びらがまふであらう。

そして音もなく私のねむる土にちりうづみ
やがて秋がくると枯葉が
日毎一面にちりしくだらう。

私はそこでたのしくもなくかなしくもなく
ぢつと土をかづいてながいねむりに入るだらう。
それはなんとなつかしいことか。

黒くしめつたにほひをただよはせ
私の祖父や曽祖父や
そのさき幾代も幾代もの祖先たちが
やはりしづかにねむるなつかしい土

その土の香になつかしい日本の香をかぎ
青い日本の空の下で
私は日ごとこけむす石をかづき
天ゆく風のおとをきくだらう。

そして時には時雨がそよそよとわたり
あるときは白い雪がきれいにうづめるだらう。

それはなんとなつかしいことか。
そこは父祖のみ魂のこもる日本の土
そこでわたしはぢつといこひつつ
いつまでもこの国土をながめてゐたい。

ただわたしのひとつのねがひは

――ねがはくは 花のもとにて 春死なん
 そのきさらぎの もち月のころ――

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2010-04-12-1 )

・・・

 『4月拝殿掲示』

 昭和天皇御製

    平和条約発効の日を迎へて (昭和27年)

 風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし 八重桜咲く 春となりけり

https://blog-imgs-44-origin.fc2.com/i/m/p/impressions2/yasukuni_shrine-will-2010_04_02.jpg

         <感謝合掌 令和5年4月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2023/04/15 (Sat) 17:53:21


御母さん笑顔で送って下さい


陸軍軍曹 永留 忠男命

昭和二十年四月十六日
伊豆諸島御蔵島周辺海域にて戦死

鹿児島県鹿児島郡伊敷村出身 
二十三歳


御母さん暫(しば)らく御無沙汰致してゐます。
忠男も益々元気で毎日御奉公一途で励(はげ)んでゐます。

此の度突然重大使命を帯びて某(ぼう)方面へ出発致します。
思残す事はありませんが、二十有三年の間立派な帝国軍人と成る迄
訓育下された御恩に何一つ報(むく)いる事なく御別れ致すのが心苦しき次第です。

御母さんの今迄の苦労は筆舌(ひつぜつ)に尽しても余りあると思ひます。
何時かは母上を幸福にさして上げたいと念願致して居りましたが、
今となっては仕方はありません。

しかし大日本に生を禀(う)けし男として
最上の孝行の道にのぞまんとする今喜んで征きます。

御母さん笑顔で送って下さい。

      (中略)

では最後に御母さんの幸福を祈ると共に、
親戚及近所の皆様の御多福を祈りつゝ笑って征きます。

     四月五日
                                  忠男
母上様

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/872d45d37465f0f50dbc9ff8c37f1d0c )

・・・

 『4月拝殿掲示』

 明治天皇御製

    馬 (明治38年)

 たたかひの いとまある日は 軍人 手(た)なれの駒を いつくしむらむ
 
https://blog-imgs-31-origin.fc2.com/i/m/p/impressions2/yasukuni-shrine-will2009-04-2s.jpg

         <感謝合掌 令和5年4月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2023/04/16 (Sun) 14:46:55


遺 書


陸軍伍長 茶谷 武命

昭和二十年四月二十三日
フィリピン群島ルソン島
タクボにて戦死

神奈川県足柄下郡温泉村出身
二十三歳


 武モタウ(*繰返し)オ役ニ立ツ時ガ参リマシタ。
 生ヲ稟ケテ二十余年、唯ノ一度モオ心ヲ安マセルコトナク過シテ来タコトヲ
 オワビ致シマス。

 今ノ私ノ氣持ハ吉田松陰先生ノ
 「親思フ心ニ勝ル親心今日ノ訪レ何トキクラン」
 ト歌ハレタ氣持ソノマヽデアリマス。

 今思ヒマスニ人一倍子ボンノウノ父上ニトッテ、
 コレヲヨマレレバドンナデアルカハ、
 ヨシ全部デナクテモオシハカルコトガ出来マス、
 デモ此ノ皇國危急秋私達ノ涙ハカクサレネバナリマセン。

 私ノ肉体ハコヽデ朽ツルトモ、私達ノ後ヲ私達ノ屍ヲノリコエテ
 私達ヲ礎トシテ立チ上ッテクル第二ノ國民ノコトヲ思ヘバ、

 又之等ノ人々ノ中ニ私達ノ赤キ血潮ガウケツガレテヰルト思ヘバ、
 決シテ私達ノ死モナゲクニハアタラナイト思ヒマス。
 日本ニ生レタ者ノミニ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス。

 之等ノ事ヲ思ヘバ私達ハ涙ヲ流ス前ニ故國ノ勝利ヲ、
 天壌無窮ヲ祈ラネバナリマセン。

 ドウゾ私ノコトヲ笑ッテホメテ下サイ、
 武モ笑ッテ散リマス、

 デハ父上母上オ身体ヲ大切ニシテ下サイ。
 サヨウナラ
                武ヨリ

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/8a3fc4aac932a65c142dddccbfda8d19 )

・・・

 『4月拝殿掲示』

 明治天皇御製

    花 (明治38年)

   花かげに つどへる人も たたかひに  いでにし人の うへやいふらむ

   (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=49&cid=1&uid=3 )

         <感謝合掌 令和5年4月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2023/04/17 (Mon) 15:20:34


愛しきものへ

書遺申候

陸軍軍曹 下 忠夫 命
昭和十九年十一月十日
比島方面にて戦死
広島県出身
二十四歳


和夫様

気ヲ大キク強ク持ッテ希望ニ向ッテ進メヨ
実行力強キモノ即チ日本青年ナリ
然シテ希望達セバ兄ノ分マデ盡サレヨ

兄弟妹揃ッテ御孝養アラン事ヲ願フ
一、身體第一
ニ、男ラシク勇敢ニ
三、素直デアレ

                 忠夫


律子 光江様

女ハ心第一デス
立派ナ女性ニナッテ下サイ
(母上ノ様ニ)
ソシテ皆デ御孝養願ヒマス

右書遺申候

                 忠夫

 昭和十九年

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/m/200704 )

         <感謝合掌 令和5年4月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2023/04/18 (Tue) 13:13:25


戦 没 者 遺 書

海軍兵曹長 第六十六警備隊 近藤 八郎 命 
昭和十九年二月六日 
マーシャル群島クェゼリン島にて戦死
長崎県出身
二十七歳 


短期間の実に楽しい結婚生活であった。
厚く御礼を申す。

俺も此の度は生還は帰し難し。
武人の妻として誇を持ち絶対に取乱してならぬ。
七転八起の精神を振ひ起し、世の荒波を乗切る様。

くどい事は申さぬ。
幾時も申してゐた言の葉を思ひ起し、老先短き両親に仕へる様。

尚坊やの顔も見たいけど致方ない。
清く美しく育てて呉れ。

男子の場合は姓名近藤征一郎。
女子の場合は姓名近藤洋子と命名して呉れ。


暑さ寒さに留意され自愛専一に。

二十二日夜認ム
                        敬具

                        夫より
マスエ殿
                    
(原文のまま)

 ( https://ameblo.jp/nkn-jj/entry-12061235259.html )

         <感謝合掌 令和5年4月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2023/04/19 (Wed) 14:36:09


遺  書

海軍中将 有賀 幸作 命

戦艦「大和」艦長
昭和20年4月7日
南西諸島にて戦死
長野県出身47歳


八紘一宇大東亜共榮の新秩序建設に宿望の指令として
然も帝国海軍最新最鋭の駆逐隊を率ゐて外敵の撃滅に當り得るは
誠に無上の本懐なり元より生還を期せず武運目出度克く任を全うし
皇恩の万分の一にも報い奉るを得ば祝福あり度


母上様  

家運再興のため御老年にも拘らず永年に渡る御辛苦御努力
誠に感激の外なく思茲に至れば常に涙なき能はず厚く御礼申し上ぐる
と共に生前至らざる事のみ多かりしを深く御詫申し上げます

御健康と御幸福を奉祈ます 
逆乍ら好子並に子供の事宜しく御願ひします
尚好子等住所に関しては其の希望を御容れ下さい


好子どの

遇する事の薄かりしに拘らず仕ふる事の申分なかりしを深謝す
常々申渡ありて今更別に述る事なきも
母上様への孝養と子供の養育を全うせられ度  
   
     (中略)

正幸 良江 弘明 公子殿

兄弟相授け平素の父の訓を守り心身の鍛練に學業の成就に努め
忠孝の道を全うし皇國臣民の本分を果すべし

昭和16年11月15日夜認む    有賀幸作
(封書)「戦死の場合開封、それ迄好子保管のこと」 (原文のまま)

 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/8d2798f1357d708ee149c90124262dca )

         <感謝合掌 令和5年4月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/04/20 (Thu) 15:22:21


心残りありません

海軍少佐 中西達二 命  

神風特別攻撃隊 常盤忠華隊 

昭和20年4月12日南西諸島にて戦死

山口県出身 二十二歳



現在の私には何等心残りありません。

唯父上母上に対する不孝と不忠、父上母上の悲しみが気にかかります。

父上にも母上にも私の死は最大の悲しみだろうと思います。

悲しんで戴ければ私も安心して出てゆける思いがします。

がしかし、私は決して死にません。
悠久の大義の道に何時までも歩を進めています。

そうして必ず帰ってきます。
あの靖國神社に、あの護国神社に、また、父上母上の枕元に。

山口にも桜が咲いているとおもいます。
明日散る桜が私だと思ってください。

(中略)

山口のあの山、この川、あの道、この家、今眼前に次々と映じてきます。
先日こちらに来るとき、山口の上空を旋回して、
皆さんにお別れしようと思っていましたが、エンジンが少し悪くなったので
宇佐に下りて修理したため、時間がなくて山口までいけなかったのが残念です。

しかし、大島郡を眼下に見て、方便山もはるか彼方に見、
確かに機上で皆とお別れした気でいます。

・・・

(以下は、Webより)

中西達二の手紙


 出撃の前日、南九州某基地にて私の雑感雑念をしたためて、
 御両親様へ不孝をお詫びする次第であります。

 生をうけてここに二十有三年、その間を回顧すれば限りなし。
 誰のためにもあらず唯御両親様へ育まれて今日に至りました。

 ああ我その御恩に報ゆること何一つなし、万感交々(こもごも)至り筆進まず。

 大日本帝国の危機愈々(いよいよ)到来しました。
 この時に当たり私は出撃を望み、選ばれて特攻隊員となりました。
 私の宿願達せられ無上の光栄に思って居ます。

 「南西諸島の戦闘は、我が国の存亡にかかはる戦いであるが、
  全力をあげてその目的を達成せよ」とのお言葉をいただきました。

 連合艦隊長官は彼のZ旗をあげられました。

 この時体当たり部隊の一指揮官として出撃する私の本懐、これに過ぐるものはありません。

  父上、母上、泣いて下さい。
  いくら泣いてもよろしい、泣いて私を弔って下さい。

 しかし父上、母上、私の本懐を察して下さい。
 その昔姉の云った言葉、私はまだ忘れては居ません。
 姉も墓の下で私を待っていてくれるとと思ひます。

  現在の私には何等心残りはありません。

 唯父上母上に対する不孝と不忠、父上母上の悲しみが気にかかります。
 父上にも母上にも私の死は最大の悲しみだらうと思ひます。

 悲しんで戴ければ私も安心して出てゆける思ひがします。
 が、しかし、私は決して死にません。
 悠久の大義の道にいつまでも歩を進めています。

 そうして必ず皈(かえ)って来ます。
 あの靖国神社にあの護国神社に、又父上母上の枕元に。

 山口にも既に桜が咲いていると思ひます。
 明日散る桜が私だと思って下さい。

 私はかつて「忠花」といふ名前をつけました。
 忠花があす散るのです。

 或いは未だ開かずに散るかもしれませんが、
 私の隊は出来れば「忠花隊」と名づけたいと思っています。

 山口のあの山、この川、あの道、この家、今眼前に次々と映じて来ます。
 先日こちらに来る際山口の上空を旋回して、
 皆んなにお別れをしようと思っていましたが、
 エンヂンが少し悪くなったので宇佐に下りて修理したため、
 時間がなくなって山口まで行けなかったのが残念です。

 しかし大島郡は眼下に見て、方便山もはるか彼方に見、
 たしかに機上で皆にお別れをした気でいます。

 不忠の臣達二は今ここにやうやく忠義の大道に取付かうとしています。
 しかしまだ忠の道は深遠です。
 不忠の臣達二が不忠の臣で終るのは当然であり、私は満足であります。

 私は教官となって以来、出来るだけの努力をしてご奉公をつづけて来ました。
 私は全力を尽して御奉公し得たと信じて今満足しています。

 今出撃するに当たり、多くの人々から惜しまれる私は実に幸福と思ひます。
 短かった人生を、私ほど運よく華やかに過したものは少いだらうと感謝しています。
 多くの人々のおかげです。

 明日私は十一時二十分、魚雷と同じ大きさの爆弾をかかへて、
 後に予備学生出身の田沢少尉と予科練出身の阿部二等飛行兵曹とを乗せて出発します。

 後日新聞社からもしくは大本営からか、
 三人で一緒にとった写真が届くかもしれませんが、
 その時は一緒に弔ってやってください。

 又私の隊の中には上羽坂の滝本少尉(恭三と同級の滝本君の兄さんで、
 私よりも附属のときも山中のときも一年上級だった人です)が一緒にゆきます。
 嘗ての上級生ではありますが、今では私の部下となって喜んでついて来て呉れます。

 共に秋枝中佐にまけまいと約束しています。
 私もあと二十日で大尉に進級するのではありますが、
 死んで中佐にならうと、少佐にならうと、階級はどうでもよろしい。

 大義の道にかわりなく敢て進級を望みません。

 私は父上、母上から宗教心を持つ様に言はれましたが、
 何もこれとて考へませんでした。

 しかし今別に迷ひません。唯後日体当たりをするときに、
 寸前どんな気持ちになるかが気にかかります。
 これも父上母上のいはれる通りにしなかったためだと後悔しています。

 迷わぬために歌でもうたって体当たりしてやらうと思っています。
 我に天佑神助あり、必中轟沈の確信があります。
 どうか四月十日前後の戦果をもう一度見て下さい。
 その中には私が沈めた空母が一隻ある筈です。

 先日多数の同級生と教へ子のものが第一陣をうけたまわって、
 特攻隊として出てゆき大戦果をあげましたが、
 皆んなニッコリと笑って元気に私に挨拶して出てゆきました。

 今度は私がニッコリ笑って元気に出てゆく番です。
 私達三人がドカンとやれば、何千人かの米軍が道づれに
 地獄まで来てくれるかと思へば実に愉快です。

 人生これ程胸のすくことはないですよ。
 明日の出発はよくよく考へてみると実に楽しい気がします。
 こんなに嬉しく出てゆける私は又幸福者と思ひます。


 さて最後に一つ、父上様、私はからうじて家門を汚しはしなかったと確信しています。

 寧ろ衰へかけた中西家の誉を、一部分とりかへし得たと思ひます。
 あとは恭三にたのみます。
 恭三もきっと立派にお国のために働いてくれるものと信じます。


  父上には失礼かもしれませんが、私は中西家の断絶をいとひません。
 「家亡ぶとも国全ければ悔ない」といふ考えであります。

 今国の危機です。我が大日本帝国が亡んだとしたならばどうなる、と思ふとき、
 家はどうでもよいといふ感を深くします。

 我が国に於ては家だけでは成り立ちません。
 わが国に於ては国家あってはじめて成り立ちます。

 我が中西家は父上一代で断絶するとも、どうか父上おゆるし願いたいと思ひます。
 ああ、とりとめもなく唯思ひつくままに書きつらねました。
 一応これで筆をおきます。  

 父上、母上様の莫大なる御恩も、体当たり一事を以てお報ひする覚悟であります。
 どうか御両親様益々御自愛されて御多幸ならむことを地下よりお祈りいたします。 


  散る桜 残る桜も散る桜

     散って護国の花と惜しまん

  嵐吹けば 蕾桜も惜しからず

     手折りて捧げむ 大君のため

  仇しふね うち沈めてぞ地獄なる

     鬼へあたへむ わが手土産を

  すめろぎの 大和島根よ安かれと

     南海深く 身は沈みつつ

  (http://www.naniwa-navy.com/senbotu-nakanisitatuji1.html )


         <感謝合掌 令和5年4月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2023/04/21 (Fri) 13:00:53


「民族の誇り」を胸に

海軍少佐 西田 高光 命

昭和二十年五月十一日
神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として「爆装零戦」に搭乗、
鹿屋基地を出撃、南西諸島洋上にて戦死

大分県大野郡合川村出身
大分師範学校 海軍第十三期飛行科予備学生
二十二歳


学鷲は一応インテリです。
さう簡単に勝てるなどとは思つていません。
しかし、負けたとしても、そのあとはとどうなるのです…
おわかりでさう。

われわれの生命は講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながつていますよ。

さう、民族の誇りに…

  ( https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1922071787?org_id=1922116355 )

         <感謝合掌 令和5年4月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2023/04/22 (Sat) 13:57:25


いざ 征かん南の空へ
   
       
海軍少佐 末吉 實 命  
      
昭和二十年四月六日南西諸島方面にて戦死
海軍第十三期飛行科予備学生 
浜松高等工業高校

福岡県小倉市出身 二十五歳


遺書

 突然でさぞお驚きの事と存じますが、私も身を以て國難に当る時が参りました。
只今本隊より懐かしい名古屋を右に見てこの鈴鹿空に到着、
愛機即ち棺桶の中で之を書いて居ります。

思へば二十有五年の筆舌にせざる御慈愛と御苦労に何等報ゆるなく
親不孝の数々、誠に何とお詫びしてよいやら、一人涙がにじむのみです。

お蔭様にて私も他より先に進級致し、
只今では神風特別攻撃隊第二筑波隊々長として
同期の櫻を率いて敵空母に体当たりする機会を得ました。

男子の本懐之に過ぐるものはありません。
必ず兄上の仇は引受けました。
明日の戦果を御期待下さい。
  
出撃数日前に家の消失を知りました。
うち続く打撃でさぞ御落胆なさる事と存じますが、     
何卒お力落しの無い様、近所の人達と協力、復興にお勤め下さる様御願ひ致します。

何事も気の持ち様ですから、しつかりした気持で
天壽をうされん事を最後迄祈つて居ります。

ではそろそろ転進の時間が来ましたので之で失礼を致します。

昭和二十年四月五日 午後二時

御両親様
 
只今より必死必殺の攻撃に征く 心の平静たる
 本日の空の如し 白木の箱の整備なる 
いざ 征かん南の空へ

吾が予定突入時刻
 昭和二十年四月六日 一七・○○
  潔く散れや 筑波の若櫻       以上

 ( https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1951084039?org_id=1932297887 )

         <感謝合掌 令和5年4月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2023/04/23 (Sun) 18:23:05


お父さん、お母さんとさけびます


海軍一等飛行兵曹 椎根 茂 命

神風特別攻撃隊第二護皇白鷲隊
昭和二十年四月十二日 南西諸島方面にて戦死
海軍第十二期甲種飛行予科練習生
東京都荒川区出身 二十歳


気のせく儘(まま)に乱筆にて断片的に私の現在の心境を書き遺します。
私此の世に生を亨け二十有一年御両親様の一方ならぬ慈愛のもと
私は今に至る迄日本一の幸福者と思つて居ります。

翻つて戦局を見るに敵は有り余る兵力と物資に物を言はせ
遂に沖縄に迄魔の手を延ばして来ました。

三千年の光輝ある歴史を有する大日本帝国未曾有の困難に
私は特攻隊を志願致しました。

一切の私心を捨て、悠久の大義に生きます。

私この期に及び只一つの心残りは
今迄私はお父さんお母さんに只一度も安心せしめた事もなく
親孝行の模倣だに出来ずに散るのが残念です。

しかし私は立派に手柄を立てて死んで見せます。
我々和気隊白鷲隊が新聞に出た時は私が真先に突込んで
行つたと思つて下さい。

私も最後の親孝行そして椎根家の名誉として
驕敵米兵共数千と船一隻を太平洋の藻屑として見せます(中略)

兄さん姉さん八重子等にも書き残し度い事も少し有りますが急ぎますから…
只兄さんは立派な体になつて私の分迄孝行をして下さい。

さやうなら

私の突込む時は必ずお父さんお母さんとさけんで突込めます。

茂より

御両親様

   ( https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1929153724 )

         <感謝合掌 令和5年4月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2023/04/24 (Mon) 14:12:19


<突進致します>


陸軍大尉 安部正也命

昭和二十年四月二十九日
沖縄方面にて戦死
福岡県出身 二十二歳


秋(とき)到る

愈々(いよいよ)突進致します

必ず成功致します

御照覧あれ

必死必沈以(もっ)て悠久の大義に生きむ

死亦楽しからずや

命降る今ぞ此の身を捧ぐれば

皇國は永久に栄えまつらむ

敵艦に当り砕けて散る桜

永久(とわ)に残さん花の香りを


母上様、御元気で

自分は幸福です

斯(か)くも崇高な任務に死し得るとは男子の本懐之に過ぐるは無し

必勝を信ず

・・・

<参照>

安部正也少尉【命降る今ぞ此の身を捧ぐれば…】
https://ameblo.jp/pw20twhq/entry-12702144629.html


安部正也少尉の謎
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/abe.htm

         <感謝合掌 令和5年4月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2023/05/01 (Mon) 15:21:57


遺言状

陸軍伍長  山田 豊吉 命

昭和19年3月3日
西部ニューギニア・マノクワリ沖にて戦死

福井県三方郡十村出身 37歳




我(われ) 今 国の為に死す。
必ず 必ず 嘆く勿れ、泣く勿れ。

男子 皇国に生を受け、君国(くんこく)の為に戦の庭に
殉死するは、至上の栄誉なり。

此の肉体は、異国の土と化するとも、心霊は故国に帰り、
永遠(とわ)に生き延びて祖国日本を護るなり。

我 亡き後は身を修め、家を整へ、益々銃後の務めに奮励し、
軍人遺族として恥かしからざる様(よう)、精進すべし。

我が子は、自己の再生なり、一子(いっし)、和枝の養育に、
特に意(い)を用(もち)ゐ立派に成人さす様、
呉々(くれぐれ)も頼むなり。

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

            <感謝合掌 令和5年5月1日 頓首再拝>
26:伝統 :

2023/05/02 (Tue) 19:49:29


妻への手紙

陸軍伍長  天野 悦雄 命

昭和19年7月18日
マリアナ諸島にて戦死

静岡県庵原郡富士川町出身 35歳


軍人として起(た)つ以上、生還は望めない。

生きんとせば卑怯な者として、末代までの不名誉なり。

我今(われいま)陛下の赤子として三十三歳補充兵として中部三部隊に
召され1年9ヶ月。引き続き第一線に出陣するに当たり生は望めず。

殊(こと)に皆より起(た)つ俺の気持ち。
二十四余間、若くして父を亡くし苦節で育て来た母上。
最愛なる妻。
可愛い我が子供。

助け合ふべき姉兄弟と別れて行く小生の気持ち察してくれ。
母上然(しか)り。

  何事も天命として
    人事をつくして
      天命を待つ他なしだ


故に皆力強く生きて、子供達を、孫を良い子に育て下さい。

   五月五日

  懐かしの原隊(げんたい)にて記す

               陸軍上等兵 天 野 悦 雄

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

            <感謝合掌 令和5年5月2日 頓首再拝>
27:伝統 :

2023/05/04 (Thu) 18:41:22


すみ子 へ


陸軍少尉  齊藤 一六 命

昭和20年3月10日
スマトラ島バレンバン州にて戦死

大分県別府市大字別府出身 31歳


                        我は

大君の赤子なり。今大君の御為、果つるは男の本懐なり。

              御前(おまえ)も軍人の妻

覚悟は有りと信ず。決して嘆くべからず。

我なき後は
小生の分まで御両親に孝行たのむ。

大野の父を呉(く)れぐれもたのむ。

又孤独になりしすみ子
良縁あらば結ぶべし。

南方の空より最愛のすみ子の幸福を祈りつつ。

    昭和18年11月18日書

                       一六

 (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html
       
       <感謝合掌 令和5年5月4日 頓首再拝>
28:伝統 :

2023/05/05 (Fri) 04:03:17



死して國を護ります

陸軍薬剤少尉 長野 功 命

昭和二十年八月十七日
東京都北多摩郡にて自決

東京都文京区出身
ニ十九歳


先立つ不孝をお許しください。

敵の上陸を待つて斬り込む覚悟で居りましたが、
斯(か)かる結果になつて真に残念であります。

予(かね)て心に定めてゐた通りに帝國軍人としての最期を全うします。


折角な舞を癒(いや)して戴いたのに、命を絶つたことを
お嘆きなさるかもしれませんが、昭和十七年に入院した時すでに
功の命は無かったので、今迄生きて居られたのは、全く皇室の御鴻恩、
御両親様、兄上様、医官殿のお蔭であります。厚く感謝して居ります。

帝國軍人たるの名誉を永遠に保ち、死して國を護ります。

決して功は死んだのではなく、新しく生きて居るのですから
却(かえ)つて喜んでください。


では、天寿を全うなされんことを祈り上げます。

多勢の方々にお世話になりました。
何分宜しく御礼申し上げて下さい。

  昭和二十年ハ月十六日

                    長野 功

御両親様
兄上様

    (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

         <感謝合掌 令和5年5月4日 頓首再拝>
29:伝統 :

2023/05/05 (Fri) 18:13:47



遺書

陸軍少佐 安齋 昌(あんざいさかえ)命

昭和十九年五月一日

インド フェンニイ付近にて戦死
宮城県仙台市郡山出身 
二十五歳


二十有余年を顧みて、今日(こんにち)私が斯くも立派に死所(ししょ)を
得ましたのも、一重に御両親様はじめ兄上様、弟両君(りょうくん)等の
御厚情、御薫陶の賜(たまもの)と深く深く感謝しつつ喜んで国難に殉じて行きます。

今にして思ひを過ぐる日に致しますれば、此の御厚情に何ら報い奉る事も得られず、
唯(ただ)々己が不孝に涙を禁じ得ない次第であります。

何卒、此の不孝をお許し下さい。


  御両親様
  兄上様方
  姉上様方
  弟両君

皆様の御隆昌と御健康を御祈り致します。

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和5年5月5日 頓首再拝>
30:伝統 :

2023/05/06 (Sat) 19:08:54


遺言書

陸軍伍長 宮井 倞一 命

昭和二十年九月二十四日

中国牡丹江省寧安県にて戦死
大阪府岸和田市土生滝町出身 二十四歳


   皇國(みくに)の為に死するとも
       軍人の本懐なり
     
   我行かん
       靖國社頭の若櫻 七生報國

   敵の為に死するとも
       再度生まれて敵を倒さん



 遺言としても自分には心残りは無し
唯(ただ)、御両親にこれといふ孝行も致さず
先立つ不孝を御許し下さい。

   生母の愛を
       我天に聞く

   昭和二十年一月十四日

      陸軍一等兵 宮 井 倞 一

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/e5ba95d7a44325a86d358a2930122cf0 )

・・・

『5月拝殿掲示』
       
     御製
        第46回全国植樹祭広島県    (平成7年)
   
   平らけき世をこいねがひ人々と
   広島の地に苗植ゑにけり

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=3855

           <感謝合掌 令和5年5月6日 頓首再拝>
31:伝統 :

2023/05/07 (Sun) 12:55:34


愛する成子よさらば


陸軍少尉 齋藤 良雄 命

昭和二十年五月二日
中華民国湖南省にて戦死
青森県北津軽郡嘉瀬村出身 
三十六歳


明日出征にあたり一言す。

皇国未曾有の難局に処し、父は明日出征す。
もとより男子の本懐
平素の覚悟なり。

(中略)

成子よ、父がなくとも決して悲観をするな。他人を羨むな。
父は必ずお前たちの側に居るのだ。お前たちを守ってゐるのだ。

もし淋しかつたら父の名を呼べ、必ず父はお前の心に答へるであらう。
もし父と会ひたくば、靖国神社の社前に来たれ。父は必ず生きてゐる。

決して淋しがつてはならぬ。
強く正しく清く、而(しか)も女は優しく生きてゆくことだ。
父はお前達の成長をどこかで守つてゐるのだ。決して心配するな。

(中略)

たとへ貧しくとも明朗に幸福に生活せよ。
母に良く仕へ、祖母に父に代はり孝養を尽くせ。

(中略)

別れるにあたり、言ひたいことは沢山あるが、要は立派に生きてゆくことだ。
決して父のないことを悲観するな。

愛する成子よさらば。

健康と幸福を祈る。


昭和十九年七月十六日
                        
父 良雄

成子殿

  (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/914761c415efb8972722d790ae8c5bbd )

・・・

『5月拝殿掲示』
       
  明治天皇御製
    
       をりにふれたる   (明治45年)

    國のため人のためにとますらをが
    おもひさだめしことなたがへそ

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20170528.html

           <感謝合掌 令和5年5月7日 頓首再拝>
32:伝統 :

2023/05/08 (Mon) 18:47:59


愈々(いよいよ)第一線へと出発致します


陸軍兵長 古川清博 命 

昭和二十年五月二十日
ギルバート諸島タラワにて戦死

鳥取県東伯郡松崎村出身 
二十四歳


父上、母上、清博今、愈々第一線へと出発致します。

清博は、今こそなんの心残りなく戦友に負けず勇躍征途につきます。
死して再び帰らず。
清博は、南で喜んで建設の小さな礎石と化すの覚悟であります。

博惠のこと、鈴子のこと万事父上にお任せします。
宜しく御願ひします。

清博のことは決して御案じなき様、何事も他に負ける様なことは致しません。
初陣には手柄ニュースでも皆に御知らせ致します。
留守中父上に御任せ致し、元気一杯勇んで征きます。
呉々も御安心下さい。

かりにも私事に悩み大切な御奉公怠る様な清博ではありませんから
呉々も御安心下さい。

先立つ不孝は御許し下さい。
又、我亡き後は別紙遺書の如く御取り計らひ下さい。

清博には、鈴子こそ広い社会にたった一人の真実の女性であったことを御信じ下さい。

乱文にて取り急ぎ。

昭和十八年十一月十九日夜

            
                          清博拝

御両親様

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/5eb18c9ae8f8cd0d3c7d1daf81107685 )

・・・

『5月拝殿掲示』

       昭和天皇御製
            平和条約発効の日を迎えて    (昭和27年)

     風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし
     八重桜咲く春となりけり

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20160504.html )

           <感謝合掌 令和5年5月8日 頓首再拝>
33:伝統 :

2023/05/09 (Tue) 17:30:36


遺書


海軍少佐 沖山文忠命

昭和二十年五月十五日
南西諸島方面にて戦死

東京都八丈島大賀郷村出身 
二十五歳


(前略)
今、敵米英艦隊が断末魔の苦しみにもがいて居る戦場に程近い基地で待機、
今日明日の必死必中攻撃を待って居ります。

今は何も憶ふ事はありません。

唯、青史(せいし)まさに三千年ゆるぎなき神州に生を享けて二十有余年、
広大無辺なる鴻(こう)恩(おん)に浴し父母の慈愛に育まれ、
山よりも高く海よりも深い師の導きにより、大東亜の盟主たる皇国民として
大過なく今日あるを得、

今又赤子の一人として神風特攻隊員として
神州の不滅を確信しつつ悠久の大義に生きる。

例へこの身は敵米艦と共に太平洋のもくずとならうとも、
日本男児と生を享け之に過ぐ可き本懐が又とありませうや。

(中略)

皇国の興廃を賭するこの一大過渡期に当りて、
君の御楯と散り行くわが身は実に幸福であります。

最後に臨み申し上げ度き事は、皇室のご安泰と大東亜の健全なる発展を
神かけてお祈り申し上げると云ふ事であります。

尚、亡き母は勿論、父上始め肉親の皆様、
長々とご苦労のみお掛けして何等為す処もなく、孝養らしき事すらせずして
去り行く私を何卒お許し下さい。

では皆様末長くお幸福に。
 
 昭和二十年五月六日
 
                         沖山文忠


沖山徳三郎殿   

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/1a9fb4fdcf22d544f1d8902e88bd6f86 )

・・・

沖山中尉は昭和20年5月15日菊水第5号作戦発動により
台湾新竹基地から神風特攻振天隊として97式艦上攻撃機2機で
沖縄特攻に出撃、戦死された。

戦死後2階級特進された。

菊水作戦は米軍の沖縄上陸とともに
昭和20年4月6日から7日にかけて行われた
第1号作戦から10号作戦(6月21日から22日)まで実施された。

出撃した特攻機は陸海軍あわせて2500機に及ぶ。
米軍の厚い防御陣を突破して体当りを敢行、200隻に上る艦船に損害を与えた。

 (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=2317&uid=3

           <感謝合掌 令和5年5月9日 頓首再拝>
34:伝統 :

2023/05/10 (Wed) 12:31:01


遺言書


陸軍准尉 喜多富夫命

昭和二十一年五月二十三日
シンガポール・チャンギーにて法務死

大阪府茨木市大字道祖本出身 三十歳


国に生を禀(う)け最後の筆を執る。

拾有余年、軍隊生活を満洲、支那に将(はた)又(また)南方戦線に移戦、
敢闘茲(ここ)に御慈悲深き御両親、血肉分けたる兄弟及び妻子より先逝し、
従容(しょうよう)として死に就き国家の礎となる。

思ふに生を稟(う)くる間、
御情け深き御両親の御意志にも副(そ)ひあたはず、実に申訳なく存じます。

脳裏を故郷に回顧せば隆々たる喜多家に生ひ立ち、
彼の家屋、彼の門其の幼相面影懐かしく、唯感慨無量に堪へず、
私の死は決して万人に恥づる事なきを堅く誓ふ。

細部は必ず誰か達すると思考するも、
天は知り神も能(よ)く御御存じの筈です。

私生存中の気質承知の筈、信じて下さい。

唯々世間に与へる風評其れのみが非常に心配であり、心残りであります。
亦、血肉わけたる兄弟の安否を気遣ふ。    

沖縄九州方面に奮戦中の吉治兄は?
原子爆弾に依る広島の敏時兄は?     
ビルマ方面に勇戦敢闘中の一夫弟は? 
国土防衛空の荒鷲の勉弟は?

皆夫々推察する時、生死を超越し
御両親の御膝下(しっか)に帰しあるを神掛けて祈るのみです。

(中  略)

命日は昭和二十一年五月二十三日と思考。

連合国軍より遺品として将校用絨製(じゅうせい)軍衣袴(私製)を送付せられる筈。
当服は小官常時着用せるものであります。

最後に喜多家御一同様の隆替(りゅうたい)と万福を祈り、之を守護す。

  昭和二十一年五月二十三日 三時書く         陸軍准尉 喜多富夫

喜多佐太郎様
同  キト様
御一同様

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/ca56b64b91f4dc008f9976d747bdd5e8 )

・・・

『5月拝殿掲示』

     皇后陛下御歌

       歌会始御題  苗           (平成8年)

    日本列島田ごとの早苗そよぐらむ
    今日わが君も御田にいでます

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?m&no=1997 )

           <感謝合掌 令和5年5月10日 頓首再拝>
35:伝統 :

2023/05/11 (Thu) 18:23:15


更級横多神社 社頭に於いての出征挨拶


陸軍大尉 望月重信命

昭和十九年五月二十二日
フィリピンにて戦死

長野県更級郡篠ノ井町出身
三十五歳


本朝はかくも早々皆様の熱誠なる御歓送をいただきまして、
まことに感謝に堪へません。
私は皆様の御心に報ゆべく、必ず全力を尽して御奉公を致す覚悟であります。

今やこの非常時は、今までの戦争の様に、
単に世界の地図が塗り変へられるといふ丈(だけ)のものではありません。
世界人類の歴史の上に、数百年の大きな時代を画(かく)して、
人類の人生観が、国家観が、世界観が、政治の上にも、教育の上にも、
経済の上にも、芸術の上にも、宗教の上にも、
その他一切に大ひなる飛躍をなさむとしてゐるのであります。

新らたなる世界が、我が皇国日本を母体として生れむとしてゐるのであります。

(中略)

戦死すると云ふ事は、人生本来の約束から観れば、
それ程驚く可き事でも、またさして悲しむべき事でもありません。
増してや、天皇の御為にこの一命を捧げます事は、日本男子の本懐であります。

吾等は只、この生れては死に、死んでは生れてゆく悠久なる人生の連鎖に於て、
如何にして永遠の生き甲斐に生き、さうして不滅の死に甲斐に死ぬか
と言ふ事であります。

(中略)

私は本日、大命を拝して勇んで戦線にのぞみます。
もとより生還は期して居りません。

然し、私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、
あとに残られた皆様の責任であります。

今後まだまだ大なる、それこそ非常なる艱難(かんなん)が
国家の上に、皆様の上に、必ず振りかゝって来るでありませう。

その時になって、どの様な苦しい事があっても、
皆様は決してへこたれたり、悲鳴をあげるやうな事があってはなりません。

どうかこの事をこの社前におきまして、
くれぐれもお願ひ致しまして出発のご挨拶と致します。

終りにのぞみまして、村内皆様の御健康を祈ります。

終り

    昭和十四年五月一日    

・・・

<関連>   
                  
フィリピン人に愛国心を教えた望月重信中尉

フィリピンにおいて日本の戦局が悪化しはじめる中、
拘束したフィリピン人ゲリラに対して、宣伝班の望月中尉は
「日本はフィリピン支配を考えておらず、アジアを白人から解放したい」
という教育を施し、次々とゲリラを釈放するなどした。

この経験から、望月中尉はフィリピン青年に優秀な若者がいることを感じ、
皇道精神の普及のため、全寮制の農業教育訓練所を組織する。

ちなみに、訓練所には60名の定員に対して2000人もの応募があるほどの人気ぶりだった。

 
後に卒業生は望月中尉の言葉に感銘を受けたと回顧している。
望月は、まずフィリピンを愛すること。
そして、日本とフィリピンが戦うようなことになったら、
フィリピン軍の中核として戦うこと、を教えていたという。

結局、望月中尉は、1945年の5月、第3期の教育計画を進めようとした矢先に、
強盗との銃撃戦で命を落としてしまう。

そして、1977年、訓練所の卒業生たちは、望月の遺族に感謝状を贈った。

(Web:日刊SPA!PLUS <2016年09月02日>)
     https://nikkan-spa.jp/plus/1190262

・・・

『5月拝殿掲示』

   皇后陛下御歌

     出雲大社に詣でて     (平成15年)

    国譲り祀られましし大神の
    奇しき御業(みわざ)偲びてやまず

 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1539 )

           <感謝合掌 令和5年5月11日 頓首再拝>
36:伝統 :

2023/05/12 (Fri) 14:55:08


お母さん


陸軍衛生軍曹  向川敬昌命

昭和二十年五月十七日
比島群島ルソン島ヌエバビスカヤ州
ラクタワンにて戦死

富山県西砺波郡石動町出身
二十六歳



お母さん。

敬昌は立派に天皇陛下万歳と笑って、祖国の為に南に散って征きます。
二十何年の長い間の限りなき愛を思へば、有難く只感謝の外ありません。

それに引きかへ、何ら御両親の恩愛に報いる事の出来なかった
不甲斐ない己を想ふと、悲しく心から泣けます。
不孝の罪は御許し下さい。

敬昌は、今は宿敵米撃滅の鬼となり、尊い血汐を流し比島の土と化します。
長い間、有難う御座いました。
後の事は宜敷く御願ひ致します。

お母さんも達者で、長寿を全うされん事を、
遠い異国の草葉の陰より御祈り致して居ります。

姉にも妹にも悪い兄であり、弟であった事を深く御詫び致します。
私に
   金銭の借し賃りなし
   婦女の関係なし   
                            比島にて
                            向川敬昌拝
母上様

 一、ちりほどに  心に残る  何もなし
    今日限りの  夕暮れのそら

 一、今はただ   怒りに燃へて  夷(えみし)らを
    根こそ攘(はら)はむ  いのち捧げて

   ( https://devlin.blog.ss-blog.jp/2012-05-27 )

           <感謝合掌 令和5年5月12日 頓首再拝>
37:伝統 :

2023/05/13 (Sat) 13:00:59


絶   筆


海軍大尉  碓本 守命

  昭和二十年五月四日
  南西諸島方面にて戦死
  滋賀県大津市下平蔵町出身 二十五歳


拝啓、長い間御無沙汰許(ばか)り致し、誠に申訳ありません。
皆々様、何時も御元気の由、慶賀に堪へません。
私も元気です。

愈々出撃です。
長い二十五年、本当に有難う御座居ました。
私は悠久の大義に生きて行きます。

私の今まで詫間に於ける状況は、私の教へた練習生が、
今度大津空へ行きましたから、その練習生から聞いて下さい。

では、皆様いついつまでも元気にやって下さい。

父上、母上、幸子、智、榮子、千ちゃん、皆さようなら。

                        
                        守

皆々様

荷物の方も行李(こうり)だけは後から送ります。
トランクは練習生が外出の時、家まで持って来て呉れます。
練習生が遊びに来た時は、可愛がってやって下さい。

この練習生は、練習機で離着水だけやって後、取止めになったのです。
残念ですが致し方ありません。

師範学校の方にも宜敷(よろしく)。
川瀬、猪飼の小母さんにも宜敷。 

  (https://ameblo.jp/ponpokopong/entry-11268217908.html )

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/d6986e70d050f668908b1d8c8b8339a3 )

           <感謝合掌 令和5年5月13日 頓首再拝>
38:伝統 :

2023/05/14 (Sun) 18:13:39


弟妹に遺す


陸軍中尉 吉村春平命

昭和二十年五月十六日
ビルマにて戦死
山口県熊毛郡阿月村出身


兄ハ喜ビテ大日本帝國ノ為天皇陛下ノ御為ニ瞑ス
喜ベ、此兄ニシテ陛下ノオ役ニ立チタリ
況(ま)シテヤオ前等ハ兄以上タルベシ

心アラバ白木ノ位牌ニ一杯ノ水ヲ汲メ
生存中ハ兄トシテ弟妹ノ指導不行届ニシテ模範ヲ示シ得ズ。

兄ノ志ヲ継ギ益々皇国ノ為奮闘セラレン事ヲ祈ル。

尚兄ノ分迄孝養忘ルゝ勿レ

一、大忠大孝ノ道ニ生キヨ

二、常ニ天皇陛下ト父母ヲ忘ルナ

三、常ニ健康ニ注意セヨ

四、男ハ男ラシク女ハ女ラシク

五、満平ハ皆ンナシテ可愛ガレ

六、家名再興ハ弟妹仲良ク一致シテ計レ

          
 吉村春平

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2010-05-06 )

  ( https://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10532422010.html )

・・・

拝殿掲示の御製

 明治天皇御製(巌上松・明治37年)

  「苔むせる いはねの松の 萬代も うごきなき世は 神ぞもるらむ」

  (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=1119&uid=3 )

           <感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>
39:伝統 :

2023/05/15 (Mon) 15:45:57


よき同伴者を求めてください


陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命

昭和十九年七月十八日
マリアナ諸島にて戦死
愛知県北設楽郡名倉村出身 二十六歳


季代子、かう呼びかけるのが最後になりました。
短かったけれど優しい妻でした。
有難く御礼を申上げます。

(中略)

折角、永遠の誓ひを致しながら、
最後になりますのは何かしら心残りですけれど、
陛下の御楯として果てる事は私にとりましても光栄と存じます。

短かい生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき
申訳なく死に切れない苦しみが致しますが、
すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。

若い身空で未亡人として果てる事は決して幸福ではありませんから、
佳(よ)き同伴者を求めてください。

私は唯幸福な生活をして頂けますれば、
どんな方法を選ばれませうとも決して哀しみません。

(中略)

どうぞ御健やかに御活(おくら)し下さいます様お祈り致してゐます。

さやうなら

昭和十九年五月三日

伊藤 甲子美

季代子様

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-05-10-1 )

  ( https://ameblo.jp/gokoku-jinjya/entry-11788268847.html )

           <感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>
40:伝統 :

2023/05/16 (Tue) 12:59:16


遺 書

海軍少佐 古谷眞二命

昭和二十年五月十一日
海軍第十三期飛行科予備学生
攻撃第七〇八飛行隊
南西諸島にて戦死

東京都京橋区槙町出身
二十三歳



 皇國の一男子として生を享けて以来二十有余年、
國を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、
正に之に過ぐるものなし

(中略)

過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、
甚だ深くして、浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず、
その深遠厚大なるに対し深く深く、厚く厚く
御礼申し上ぐるものなり。

御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして
無事帰還の譽を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは
之親子の情にして当然也、

不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、
目出度く帰還の後、孝養を盡くしたきは念願なれども、

蓋し、時局は総てを超越せる如く重大にして
徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。


大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、
すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり、
幸ひ弟妹多く兄としてのつとめは果せざるを遺憾とは思ひつゝも
願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。


死すること、強ち忠義とは考へざるも、自分は死を賭して征く、
必ず死ぬの覚悟で征く、萬事頼む 

                         眞二

 十八年六月十日 箱根小涌谷にてしたゝむ

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/051a5c71a7dc09aa795772b4abe3071f )

・・・

<参照>

古谷少佐と三島由紀夫氏

三島自身の死の一か月前、この遺書を読んで

「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。
 俺は命をかけて書いていない。」

と語ったという。

https://ameblo.jp/meguken-keio/entry-12286523125.html

           <感謝合掌 令和5年5月16日 頓首再拝>
41:伝統 :

2023/05/17 (Wed) 14:42:51


遺書

陸軍少尉 土屋 正 命

昭和20年3月17日
フィリピン群島レイテ島にて戦死
千葉県出身 
29歳


親愛なる弟妹等よ。
健く清らかに強く次代の皇民たれ。
吾が霊、常に汝等の前途を護らん。


敬愛なる靜枝よ。
汝によりては余は人生に一段と潤ひを知れり。
別離3年、終始渝(かわ)らざる愛情と絶えざる激励とは
戦陣に仕へる余の志気に鼓舞する事如何に大なりしか。

最期に臨み深甚なる謝意を表し旁(かたがた)、
毫末も為し与へざりしを謝す。

今より先、強く正しく朗らかに、皇国の母たるの途を邁進せられよ。
吾が身、東亜の涯に埋むとも魂魄(こんぱく)永く九段の社頭に在りて
汝が前途を護るべし。

昭和18年

土屋 正

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/m/200705 )

           <感謝合掌 令和5年5月17日 頓首再拝>
42:伝統 :

2023/05/18 (Thu) 13:32:20


吾等は最善を尽くしました

海軍大尉 細田春中 命

海軍第10通信隊 ペナン島第四分遺隊長
昭和二十年八月二十三日 ペナン島にて責任自決
東京外国語学校卒 山梨県大泉村出身 
二十八歳


正義の戦と確信し最終の勝利を確信した私の信念も、終に破れました。

思へば昭和十八年六月十二日、
再度南方勤務の命をうけ昭南に飛来して着任した当時は、
此の信念にいささかも変りなかつたのですが、

第十方面艦隊通信部隊長と云ふ学徒出身将校としては異例の抜擢を受け、
ペナン市の指令部に着任して敵國の無電を接受する様になつてから、
八ヶ月を経るに従ひ戦局に不安を感ずるようになりました。

しかし斯くも無慙な、斯くも悲痛な敗戦の幕を閉ぢやうとは信じられない現実です。

が、吾等は最善を尽くしました。

今更、戦争の指導者も、戦争財閥も恨みますまい。

要は化学兵器に対し精神力兵器が敗れたのです。

井中の蛙大海を知らずを、如実に物語つて居ります。

元より私は一点の濁りもない崇高な気持で昇天の精神を以て、
従容死に着くのでありますから、一掬の泪で満足致します。

ではお父さん、お母さん、
永々の御薫陶を万謝致しますと共に天寿を全うせられ、
幼き弟妹を立派に御訓育下さいますやう、切に切にお願ひ致します。

ではこれでお訣れと致します。

(『英霊の言乃葉』第四輯/P10-9 昭和五十三年五月 靖國神社社頭掲示)


           <感謝合掌 令和5年5月18日 頓首再拝>
43:伝統 :

2023/05/19 (Fri) 13:27:59


今日限りの日記


海軍中尉 沢田 泰男 命

昭和二十年五月八日 横須賀上空にて戦死
大阪市天王寺区出身 東京帝国大学
海軍第十四期飛行科予備学生 二十三歳


四月十二日

心は明鏡、後顧の憂は更になけれど、
ただ一度父母の顔をみて征きたい。
心ゆくまで話して征きたい。

しかも、それさへも、もう、かなはぬ。

せめて写真でも持つていれば良かったのに、
…俺は親不孝だつた。…
進発まで、時日余裕も少い。

とびとびながら一ヶ年近く北浦の学生生活を綴って来たこの日記も、
今日限りやめることとする。

特攻隊員に命名されて、体当りするまでの気持なんていふものは、
とても筆などにては真を写し切れるものではない。
この心境は、かかる経験を有する者のみが味はひうるものとして書くことは止めやう。

さらば、父母、弟妹、師よ、御健康をお祈りします。


[昭和四十二年五月靖国神社社頭掲示]
https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1931431907?org_id=1929696920

           <感謝合掌 令和5年5月19日 頓首再拝>
44:伝統 :

2023/05/20 (Sat) 14:48:16


雲湧きて流るるはて


海軍少佐 古川 正崇 命

昭和二十年五月二十九日 沖縄近海にて戦死
海軍第十三期飛行予備学生
大阪外国語学校
二十三歳


出征の日に私は友の前で、
「大空の彼方へ我が二十二歳の生命を散華せん」と詠つた。

さうして今その二十四歳の生命をぶち投げる時がきた。
出征の日に私は机に
「雲湧きて流るるはての青空のその青の上わが死に所」と書いてきた。

さうして今その青空の上でなくして、
敵艦群がる大海原の青に向かつて私の死に所を定めやうとしている。

しかも人生そのものにやはり大きな懐疑を持つている。
生きているといふこと、死ぬといふことも考へれば考へるだけ分からない。

ただ分かつていることは、
今、日本は大戦争を行つているといふこと、
神州不滅といふこと、

その渦中に在る日本人として私の答はただ、死なねばならぬ、といふことだけである。
絶対に死なねばならぬ。

我が身が死してこそ國に対する憂ひも、人間に対する愛着も、
社会に対する憤懣もいふことができるのだ。
死せずしては、何ごともなしえないのだ。

今、絶対絶命の立場に私はいる。
死ぬのだ。
潔く死ぬことによつて、このわだかまつた気持ちのむすび目が解けるといふものだ。

[昭和二十年四月二十五日台湾新竹基地]


大阪護国神社社務所 平成二十三年五月 社頭掲示
https://open.mixi.jp/user/55071592/diary/1926718837?org_id=1927113217


心の琴線に触れた言葉…46(英霊の言乃葉/古川 正崇 命)
https://ameblo.jp/tukino17/entry-12357040395.html

           <感謝合掌 令和5年5月20日 頓首再拝>

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