伝統板・第二 2559110

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人類光明化 ③

1:伝統 :

2023/02/14 (Tue) 06:47:07

人類光明化の協力者

   *「光明道中記」(2月13日《人に物を施す日》)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。
 それを出すとき彼の心は天地にひろがる。(『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、受ける人がなかったら、
此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、
その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向があったのを
粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で
人類光明化の協力者だと云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には
永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、自分自身が人類光明化のシテである
という主体性の自覚の発生と共に信徒は情熱をもって
真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「人類光明化」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7097424 

(2)伝統板・第二「人類光明化 ②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7961270

           <感謝合掌 令和5年2月14日 頓首再拝>
2:伝統 :

2023/02/23 (Thu) 07:26:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月23日)」より

ある教化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。
彼はその教化団体で救われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるから
そのことを聴衆に語りたかった。

どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、
自分の過去の生活を述べねばならない。

彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって
女を騙したことや、酒を飲んだことなどを
過去の生活を懺悔のつもりで50分間も喋り続けた。

そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、
その転向の明暗を明朗(はっきり)させるつもりであったのだが、
彼が50分間も自分の過去の罪悪を喋っている間に、
聴衆は「そんな悪い人の話は聴く必要はない」と一人去り二人去りして、
彼が本当によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。

懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。

言葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。

美人の色の白さを引き立てるための斑点美粧(ビューティ・スポット)も、
それが顔半面イッパイに及ぶようになっては痣(あざ)としてまちがえられる。

光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。  

           <感謝合掌 令和5年2月23日 頓首再拝>
3:伝統 :

2023/06/14 (Wed) 04:56:40


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月14日)より

安田良忍氏は仏教僧侶であり、生長の家誌友であり、一ヵ寺の住職であり、
生長の家の誌友会をお開きになっている。

死骸にお経をあげるをもって能事足れりとせず、
生ける人間に説法してこれを教化するのを本職としていられる。

この安田氏から『般若心経』の現代語訳を送って来られた。
その翻訳は次の通りである。

これで完璧だとは思わないが、せっかく送って来られたから
参考のため日記に写しておくことにする。


   無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
   我今見聞得受持 願解如来真実蔵

「実相訳 摩訶般若波羅蜜多心経」

観自在菩薩  深般若の智を獲(え)たまい、
人の真性は仏なるがゆえに無礙自在なり、
人々おのおの観自在菩薩なりとの悟りを行得したまいて、
その自覚により現象界は空なり無なりと照見し、
いっさいの苦厄を済度したまうの時、
かくのごとく説きたまう―

汝仏の子よ、諦(あきら)かに聴け、色は空に異ならず、物質なし、
空は色に異ならず、無よりして一切を生ず、
色すなわちこれ空、有るように見えても実在せず、
空すなわちこれ色、そのままに真空妙有なり。

感受するも、想うも、行なうも、識(こころ)の主体もまたまたかくのごとく、
有るがままにして空、無きままにして有(あ)るなり。


汝仏の子よ、この如来の法、実相は久遠の実在なれば生ぜず、滅せず、
無垢、清浄にして完全円満なれば、増せず、滅せず、
このゆえに実相には、色なく、受なく、想なく、行なく、識なし。

肉体なく、五官なく、五官に映ずる世界もなし。

光明世界なれば無明なく、無明の尽くることもなし。
久遠生き通しなれば老死もなく、また老死の尽くることもなし。

四諦(したい)によって悟るにあらず、そのまま安楽行なり。
智慧を磨きて悟るにあらず、つかむところの所得なくして、
実相そのままに、円満具足せり。


神の子仏の子は実相智によるがゆえに、心にさし障(さわ)りなし。
さし障りなきがゆえに、吾れ仏の子の自覚にて恐怖あることなし。
恐怖なきがゆえに、いっさいの悩みをはなる、
本来仏なれば涅槃を究竟(くきょう)す。


三世仏の子の兄弟は実相智によるがゆえに正しき悟りを得(う)。
まことに知んぬ。実相智はこれ神の御言葉なり。これ明智の御言葉なり。
これこの上なき言葉なり。これ等しきものなき無上言葉なり。

能くいっさいの苦しみを除く、真実にして虚(むな)しからず、
ゆえに実相の御言葉を説く、
その言葉に曰く、羯締(ぎゃてい)みずから極楽にすでにあり。

羯締他(た)にもこれを覚らしめ、波羅羯締自他ともにこれを悟り、
波羅僧羯締皆ことごとく今ここ浄土にありて、
菩提僧婆訶覚りの道(みち)成就して歓喜に充ち満てり。


摩訶般若波羅蜜多心経。


願わくばこの功徳をもって普(あまね)く一切に及ぼし、
われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを ――。

・・・

谷口雅春先生による 『般若心経』のご講義 については、
当掲示板「伝統板・第二」内の”『般若心経』講義”にて
ご確認ください。

 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6995626

           <感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>
4:伝統 :

2023/06/15 (Thu) 04:39:49


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月15日)より

今日は、安田良忍氏の『阿弥陀経』の訳を紹介する。

聖経『甘露の法雨』を読誦すれば、それだけでよいはずであるけれども、
真宗などの人で、その家の老人が真宗の経文でなければ、
どうしても救われないという先入観念を握っていて離さない場合には、
『阿弥陀経』を解りやすく訳したものの方が
その家の老人を喜ばし、一家を調和の状態に導き入れることができると思う。

実相訳というのは「実相」を通して解しえた
『阿弥陀経』の意訳という意味であろうか。

良忍氏は「一宗一派にかたよった学者や専門家のために書いたのではないから、
その方面の方が見ればまちがっているかもしれません」と謙遜していられる。

こんなに解する真宗僧侶もあるのである。さてその訳 ――

如来を讃め奉る歌

   稽首天人所恭敬(けいしゅてんにんしょくぎょ) 
   阿弥陀仙両足尊(あみだせんりょうそくそん)
 
   在彼微妙安楽国(ざいひみみょうあんらくこく)
   無量仏子衆囲繞(むりょうぶっししゅういにょう)
 

  「実相訳 仏説阿弥陀経」

かくのごとくわれ聞けり。

ある時見真道場において、悟道に達せる聖(きよ)き弟子多く集まりて。
誌友の兄弟より指導者と尊敬せられたる人々なり。

釈尊を中心として、その衆囲には諸仏菩薩および、
仏法守護の諸天、無量善神に囲繞せられたり。

その時釈尊(ほとけ)告げ給うには、
仏子よこの現象世界の奥に実相世界あり、極楽と名づく。
そこに阿弥陀と名づけ奉る仏まします。
今現に十方にひびきわたる音声(おんじょう)にて説法したまう。

その国にはいっさいの苦しみあることなく、
ただ諸々の楽しみのみがあり、このゆえに極楽という。


また仏子よ、その世界には、地には七重(ななえ)の欄干あり。
空(そら)には七重の網あり。中には並樹(なみき)が栄えたり。
それには金銀、瑠璃、玻璃の宝玉をもって飾り立てあり。


また七宝の宝池(ほうち)あり。
八功徳水(はっくどくすい)なみなみと満ちみてり。
池の底には金の沙(いさご)が敷きつめられたり。

宝池(たからのいけ)の周(めぐ)りには
四宝を組み合わせたる階道あり。その上には楼閣あり。
七宝をもってまばゆく飾り立てられたり。


池の中の蓮華大きさ車論のごとし。
その華の色は青き色には青き光。黄なる色には黄なる光。
赤き色には赤き光。白き色には白き光あり。

その香りのよきこと綺麗なることとても
現象界の言葉にては言い尽くし難し。


仏子よまた空(そら)には妙なる音楽鳴りひびけり。
大地はすべて黄金(おうごん)にて、昼夜六時に曼荼羅華を雨ふらす。


実相世界の人々は、その華をもって全宇宙の諸仏を供養し、
食事前に浄土に帰り、食事終われば宝林宝池の間を遊行す。
実相世界は、かくのごとき尊き荘厳なり。

また種々の奇妙なる鳥あり。昼夜六時に上品なる声にて鳴きさえする。
その声はあらゆる尊き教えの響きなり。


浄土の人々はその声を聞き終わりて。
悉く三宝の恩徳を念(おも)う心が自然に起こるなり。

しかし、仏子よこの鳥は現象界に見るがごとき、
念(ねん)の具象化の現われにあらず。
この鳥は阿弥陀仏の御慈悲の現われなるがゆえに。
実相世界には地獄、餓鬼、畜生などの悪しき世界は実在せず。


また微風(みふう)そよ吹けば、宝の並樹、金銀の網の鈴。
百千の音楽鳴りひびき、たえなる音(ね)を出(いだ)しその音を聞く人は、
自然(じねん)に仏を念(おも)い教えにいそしみ、人々にありがとうと
ほめ讃える心を起こすなり。これもまた仏の覚りの顕われなり。

仏子よ彼仏(かのぶつ)の光明は限りなく、
全宇宙を照らしたまうになんら障(さわ)りなきがゆえに、
阿弥陀と名づけ奉る。

また彼仏(かのぶつ)の光明。百千万憶無量無数(むしゅ)の
光明と分かれ、そのいちいちの光明は個々の実相人間なり。


また無量寿仏の寿命およびその土(ど)に往生せる人の寿命も
無量無限にして始めもなく終わりもなし。

また仏子よ実相世界の人は皆同じ悟りなれど、
極楽の秩序荘厳として菩薩声聞縁覚人天と
種々の相好(そうこう)あり、皆一味平等の仏そのままの実相にして
その数きわめて多く無限の長時間かかりても計り尽くすこと能わず。

彼土(かのど)はかくのごとく尊き聖者の群によって飾られたり。


仏子よ上(かみ)のごとき極楽の有様を聞く人々は、
宜しく願いを起こして生まれんと念ずべし。
その国に生まるれば、かような勝れたる良き人々と
一所に会うことができうるなり。


仏子よ人間知の浅はかなる計らいにては彼国(かのくに)にゆくこと能わず。
もし人ありて阿弥陀仏の仰せを畏(かしこ)み、吾仏の子なりと悟り、
その名(みな)を信じ称えて、あるいは一日ないし七日、
あるいは生涯心を一つにして、散乱することなかれ。

かくのごとき時信の心さらにゆるがず、
阿弥陀仏もろもろの聖者在(ましま)す極楽世界に往生するなり。


仏子よ、わたしはこの利益(りやく)を見るがゆえにかくのごとく説く。
諸人(もろびと)よ真理の書を読みこのことを聞信し、
まさに願いを起こして彼御国(かのみくに)に往生せよ。


仏子よ、わたしが今阿弥陀仏の不可思議なる功徳利益(りやく)を讃美すると等しく、
東方、南方、西方、北方、下方、上方等の六方の無量の数限りなき諸仏が、おのおの
その国において大音声をもって、あまねく全世界を覆うて真実の言葉を語り給う。

なんじらこのすべての仏の護り讃えるこの教えを信ぜよと説かせらるるなり。

仏子よ、何(いか)んが故にあらゆる諸仏の念じ護らせ給う教えと呼ぶかと。
仏子よ、もし人この諸仏のほめ給う阿弥陀仏の御名とその教えを聞くならば、
彼らはいずれも諸仏にみまもられ正しき覚りより退(しりぞ)くことなし。

仏子よ汝ら一同わたしのこの教えと諸仏の御言葉とを信ずべし。


昨日も、今日も、明日も、御国に生まれんと欲(おも)わん人は今を生かせ。
いずれも皆正しき覚りを得て皆すでに生まれておるなり。


仏子よわたしは今諸仏が阿弥陀仏を讃うるとともに、またわたしを讃うる言葉を聞く。
現象としては時の流れに随(したが)い濁りは増し、邪見はみち、悩みは心を毒して
行い淨(きよ)からず、短命(たんみょう)を来たす。

この世界にあって釈迦は無上の正覚(しょうかく)を得て
いっさいの人の信じ難き教えを説くことかくのごとし。


現象を実在と観て実相を覚らざる人多き世の中に、わたしは今、
阿弥陀仏の御光を仰ぎ無上の正覚を得て
すべての世にこの信じ難き教えを説きたるなり。


かかる世の中にこの教えを説くこと甚だ難きと言うべきなり。

釈尊この教えを説き終わらるるや。無量の諸仏菩薩。諸天大衆等。
歓喜し信受し合掌して退きぬ。

 仏説阿弥陀経

 南無阿弥陀仏(七遍)

 願わくばこの功徳をもって平等にいっさいに施し
 同じく菩提心を発して安楽国に往生せん。――


生長の家は何宗といえども排斥するものではないのである。
そのまま寺院の宗教も生かし、すべての宗教を仲よくならしめ、
万人和合の天国浄土を地上に建設せんとする運動である。

           <感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>
5:伝統 :

2023/06/15 (Thu) 12:47:35


       *「光明道中記」(6月15日)より

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                  (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

           <感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>
6:伝統 :

2023/06/16 (Fri) 05:05:23


       *「光明道中記」(6月16日)より
        ~知ったら直(す)ぐ行う日

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、
 道を知って道を行なうことである。(『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも
「我(が)」の思念の力では駄目である。

強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、
栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば
自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に
火を点(つ)けねばならぬ。

人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

           <感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>
7:伝統 :

2023/08/10 (Thu) 10:06:02


        *生長の家』(昭和36年9月号~谷口雅春先生)
         (指導者特別詳密教修会 速記録)

皆さんのうち誰でも病気が癒されるのは、
自分が神を利用して助かるために癒されたのではなく、
神様の栄えを現さんが為に神様が奇蹟を演じたまうたのであります。 

それを自分だけが治ったらそれを隠して置いて、自分だけ得を取って、
人に功徳を施さないで、 「恩返しに教を伝えましょう」 と云う
心を起さないのは、又逆戻りするのであります。

 
奇蹟が起るのは、神の栄えを現す為に神様を知らないような人に 
“私は斯う云う体験がある” と体験によって神様を指し示す為に、
そういう奇蹟というものが出て来る訳であります。 

神様はこんな肉体みたいなものを治してみたってつまらんと考えておられる。
それは肉体をいくら治して置いたとて、何百年も保つものではないのであって、
どうせ今は治っても腐ってしまうもんですから、
そんなに治してみたってつまらん ―― という事になるんだけれども、

神様はその肉体の奥にある其の人の魂を向上せしめたいというわけで、
その機会を与えるために病気を治し、 “神の存在を知らしめたい” 
というのが、これが神様の願いであるのであります。

それですから、癒された人はその栄えを神に帰して、
神様の道を弘めようとする時に、その治りが更に色々の経済的な状態にまで
発展して行って豊かになるという事になるのであります。 

だから生長の家講師たる者は、一時的に病気が治って、
あとから又再発するような治し方をしてはならない。


本当の癒しというものは、単に肉体の一部が病気が癒されるだけではなく、
人間全体が全面的に癒されなければならない。 

病気だけが癒された結果、身体が丈夫になったから神様が太くなって、
どんな悪いことも平気で出来るとか、恩を忘れて利己主義者になるよな
導き方をしてはならない。 

肉体だけでなく、心も魂も癒されるように導いてあげなければ、
本当の導き方にはならないのです。

治して貰っておいて、あちらを向いて “さよなら” 
というように導いたら、それは人間を恩知らずに導いたのであって、
それは魂の上から言うと却って悪く導いたという事になるのであります。

だから皆さんは折角この教えを伝えるときには、
その伝えられた人が必ず少なくとも十人には伝えるというように
導いて頂きたいのであります。 

誰でも十人位は勧め易い近親者や友人があるでしょ。 
生命保険でも外交員になったらですね、最初は誰でも親類の人や、
知人の人に頼んではいってもらって、責任契約額を果すのであって、
それから後は、その人の熱意と手腕とにあると言われています。 

生命保険でさえもそうでしょう。 
そうすれば人を救ける、真に生き甲斐を与える生長の家の教えは、
一人が十人位に伝える位の事くらい何でもない易しいことだと
私は思うのであります。 

こうして一人が十人に伝えたら、
十人のうちの一人や二人位は本当に又真剣になり、
本当に神から与えられた使命を自覚して、
神様の為に伝道しようという人が出来て来るに相違ないのであります。 

そうすれば本当に真剣に真理を伝える人が次第に倍加倍加して行って、
ついに人類全体を光明化することも可能となるのであります。

だから、肉体を癒すことだけを主眼にしないで、魂を救い、
それによって神の栄えを現す人数を倍加、倍加していって頂きたい
のであります。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p14.html
晴れときどき(November 27, 2013)

           <感謝合掌 令和5年8月10日 頓首再拝>
8:伝統 :

2023/11/16 (Thu) 12:54:30


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月16日)より

法(ほう)があっても法はコトバであるから
説く者がなければ法は成就しない。
説く者があっても聴かせる者がなければ成就しない。

法は真理の法体であり、コトバである。
これを説く者は仏である。

成仏とは仏が法(しんり)を説き始めたことである。
大通智勝如来といえども法を説くまでは成仏しなかったのである。

仏法を説くとも、
これを聴取させる媒介者がなければ衆生の耳に入らないのである。
その聴取の媒介者 ―― 取次者が僧である。
衆生それを聞いて法を行じて仏成就す。

法、仏、僧、衆生・・・・・と次第に法が循環するのが転法輪である。

           <感謝合掌 令和5年11月16日 頓首再拝>
9:伝統 :

2023/11/22 (Wed) 09:36:42


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月22日)より

今日はわたしの誕生日である。

この誕生日にわれわれの団体の指導精神となるところのものを
書いておくのも無駄ではあるまい。

われわれを指導する者は、たった一つ神の意志である。
神は人の悪口(あっこう)を言うことを許さないもである。
悪口を言ったとき、その人はもはやわれわれの同志ではないのである。

しかしわれわれは寛大である。
一度悪口を言った人でも、再び神の意志にしたがって、
人々を賞め讃(たた)え感謝しあうことができるようになったら、
われわれはいつでもその人をわれわれの同志として迎えるのである。

「悪」は積極的存在でないから、それが「悪かった」と気がついたとき
たちまち消えてしまうのである。

過去を過去として過ぎ去らしめよ。
われわれは日々新生するのである。
新しく生れる者は、他(ひと)の旧(ふる)き悪に捉われるものではない。

われわれの同志は、同志としての権利と義務とを自覚しなければならぬ。
それは、一日でも早く光明思想によって目覚めた者は、神から一日早く光明思想を
生活に行ずべく指名せられたる者であるということである。


われわれの指導者は「神の意志」であるから、神がわれわれにかく行ずべく
光明思想を知らせ給うた以上は、この無上の指導者の意志に従わねばならぬ。

われわれは一日早く光明思想を知らされたがゆえに、後至者(あとよりきたるもの)に
一人でも多くこの光明思想を次に伝うべき義務を有する者である。

義務は、われわれに対してあるのではなく、「神の意志」に対してあるのである。
そしてその義務を遂行するための協同体としてわれわれの教化団体はあるのである。


誌友会や、白鳩会や、その他の集会で ある一人が他(ひと)悪口を言った場合には、
それに対して相槌を打つことは、われわれの協同体においては禁ぜられている。

ある人が某(それがし)の人の「悪」を言った場合には
われわれの協同体に属する人の言うべき答えは
「いいえ、あのひとはけっしてそんな悪い人ではありません。あの人は本当によい人です」
と証言することである。

すべての人が、一人の人を「善人」であると証言するならば、
その人がたとい「善」から踏み外れようとしていた場合でも、
言葉の力によってその人は「善」にまで呼び戻されて来るものである。


われわれの協同体は「神の意志」によって組織されているのであるから、
定(さだ)められたる役役はそれぞれの上置されたる位置の者に
絶対に服従しなければならぬ。

たとい自己の意見が上置者の意見と相異していようとも
「そのまま素直にありがた」とそれに対して従順に従うのが「神の意志」である。
この場合、上置者は私人として上置せられているのではない、
公の意志によって上置せられているのである。

理窟はどうにでもつき、また立場にしたがって意見はどうにでも変わるものである。
意見は立場の変わるだけ複数にあるであろう。
いちいちの意見を主張していたら紛糾を重ねて収拾することができなくなるだろう。

ただ上置された時は、その下(しも)のものに対して絶対の命令権を持ち、
下(しも)の者は絶対の従順をもってそれに服するとき、
そこに「神の意志」が行じられるのである。

有利に見える「我(が)」の意見を通すよりも、不利に見える上置者の命令に
黙々服従する方が、神において価値が認められるのである。

定(さだ)められたる勤務時間には1分間でも遅刻なく必ず出勤すべきものである。
それは仕事の分量のためではない。仕事の分量のためならば自宅でたくさん仕事を
してきて出勤は遅刻してもよいであろうが、そうではない。

それは法則に従順であるためと、法則を定(さだ)めたる上置者に対する
従順の美徳のためである。
美徳は仕事に上置せられる。

さらにわれわれ協同体においては厳重である。
定(さだ)められたる出勤時間よりも十数分も早く出勤して、
定刻が来るまでに自分の室(しつ)や自分の机の回りを掃除して、
室と机に感謝し、定刻が来るとともに直ちに仕事を始められるように
準備するほどの者でないと、われわれの協同体の役員ということはできないのである。

われわれの協同体ではみんなそれをやっているし、
われわれはそれを尊敬しているのである。
われわれの協同体のこういう習慣に反対である者は、
いつの間にかわれわれの団体にはいづらくて去って行くのである。

ヒットラーは
「規則の侵犯は自由の損失と国民性の破壊を招来することになつ」と言った。

われわれの協同体は理想によって「神の意志」を行ずるために集まってできたのである。
われわれはこの協同体に属することを名誉とし、みずから進んで
その仕事に生命(せいめい)を献(ささ)げているのであって
一人として報酬のために、生計のために集まっている者はない。

報酬は協同体から与えられているが、それはその人の働きが協同体の意志すなわち
「神の意志」に協(かな)っていることが認められているからである。
報酬は結果であって目的ではないのである。

もし報酬が目的である人がまちがえて内部へ来るならば、
間もなくそういう人は恥ずかしくなって去ってしまうのである。

われらは名誉と矜持(ほこり)とをもってわれわれの協同体に属しているのである。

われわれはわれわれの属している協同体の世話になったり寄生したりする者ではないし、
またそうあってはならないのである。

われわれの属している協同体は、人類光明化の公な使命を現実にまで持ち来たす
ために選ばれた団体なのであるから、この協同体の世話をやくことは
矜持(ほこり)であるから、この団体に加わっているのであって、
逆にこの協同体から何かの利益を得るためでも、寄生するためでもないのである。

われわれはこの協同体をより大きく、より力強く、より立派に築き上げることに
「神の意志」を感じ使命を感じているものである。

自分はこの協同体に寄生し、私利を貪ろうとする者や、
この神の意志を行じようとする協同体に害を与えようとする者には、
いつでも全力をもって闘う用意ができているのである。

われらの本部が巍然として美しく聳(そび)え立つことは、
形は内容の影とするならば、われわれの内容が次第に巍然として聳えてきたことを
表わしているのである。

これはわれらの本部であってわたしの本部ではない。


われわれの同志は外に対して強くならなければならぬ。
内部に対して寛大でなければならぬ。

寛大であってもルーズであってはならぬ。
寛大とルーズとは似ているけれども根本的に異なるのである。

われらは内に黙々としてジムを抜目ない注意深さで執(と)るが、
外に向かっては猛烈なる闘志をもって光明思想の普及をなすべく働きかけるのである。
内に黙々たる従順さのある者は尊敬せられ、外に対して猛烈なる働きを示す者は
讃嘆せられる。


わたしは個人的な理由で、わが協同体に属する何人にも差別待遇を与えない。
差別があるのは能力と天分と置かれたる役割とに「おける等差によるのであって、
この等差あるによって協同体の仕事が順調に運びうるのである。

私的感情で偏愛することも偏憎することもありえない。
何人もわたしから一番愛されていると信じてさしつかえないのである。

何人(なんぴと)も一番愛されながら別々の位置に置かれ、
いろいろの役割が分担せしめられているのである。

           <感謝合掌 令和5年11月22日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/12/01 (Fri) 11:53:28


           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。
                    (『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、
戦友と同じく落伍することではない。

尚(なお)一層の元気を奮い起して
人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた
他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、
その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎するではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

           <感謝合掌 令和5年12月1日 頓首再拝>
11:伝統 :

2024/01/24 (Wed) 09:29:17


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月24日)より

人々の苦しみをして避けるものが、
神の前には尊きものであるという考え方が、
敬虔なる宗教人に唱えられたる時代があった。

貧乏は人々の苦しみを避けるものであるがゆえに尊い。
不幸は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。
病気は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。

かかる考え方は人類の潜在意識が有していたがゆえに、
人類の潜在意識に心の創化力を動員して、その尊いと思う「貧乏」を、
その尊いと思う「不幸」を、その尊いと思う「病気」を、
創作しつづけてきたのである。

潜在意識が欲する病気を創作することは、
世界大戦時における戦争麻痺症がこれを証明している。

病人においては「富」は罪への誘惑となりうることはある。
しかしそれが「富」そのものの罪でないのは、
白刃(はくじん)が殺人の用に供されようとも、
白刃そのものの罪でないと同様である。

罪は「使用方法を誤る」ということと、
「処を得ない」ということにある。

白刃も富も、処を得て正しく使用せられるとき、
天下を平定する剣となり富となる。

われわれの欲しないものを神が欲し給うかもしれぬという考えは、
神人分離の考えである。

われわれの欲せぬことを神が欲し給うかもしれぬというのであるならば、
あらゆる道徳の根拠は不確かなものとなってしまう。

われわれが善と思ったものが善でないかもしれず、
悪と思ったものが悪でないかもしれぬとしたら、
われわれは何を行なったらよいか分らぬことになり、

われわれは他人の貧乏を救うことも、
不幸を救うことも、病気を救うこともできぬことになる。

貧乏や不幸や病気が「善」であれば、
それから人を救い出そうとする努力は、
人を「善」から追放する罪悪となるであろう。

しかし、何人(なんぴと)も、
病気や不幸や貧乏から人々を救い出すことを
善事だと認めずにはいられない。

そうしたならば、病気や不幸や貧乏は「悪」であり、
神の欲し給わないものであることにまちがいはない。

では、病気や、不幸や、貧乏は
人々が苦しいとして避けるものであるがゆえに
尊いという誤れる迷信を捨てなければならぬ。

人類が、病気や、不幸や、貧乏を真に尊敬しなくなり、
それを口実にして同情を求めなくなり、
悲劇を深刻だというような迷信から醒めるようになったとき、
人類の病気、不幸、貧乏は今よりも半減するであろう。

         <感謝合掌 令和6年1月24日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/02/05 (Mon) 11:27:48


           *「光明道中記」(2月5日強くなる日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、
この世に存在しないと云う思想が光明思想である。(『生命の實相』第十三巻)】


同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招く
ということが『生命の實相』第九巻にも書いてある。

人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の同情的世界を超克し去りたる
超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、
これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。

”人間・神の子”の自覚があっても、
甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。
若し贈呈出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも
真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

            <感謝合掌 令和6年2月5日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/02/11 (Sun) 13:30:47


        *「光明法語」(2月11日《悪評は盗罪、嘲笑は殺人》)より

「人の悪評をつたえるのは、人からその名声を奪う盗罪である。

人を嘲笑するのは人の尊敬の念を殺す殺人である。

盗みとは物質ばかり盗むのだと考えてはならないのである」と
ガードナー・ハンチング氏は言っている。

人間がそのゴシップ中で人を賞めることばかりをやっていたならば、
どんなにか此の世天国になるであろう。

誌友会が段々衰微して来るのは、いつも所謂る常連ばかりが集って
真理の話はもうすでに言い飽きたと云うので、人の噂話ばかりを始めるからである。

人の噂をするよりは神を讃めたたえる話をせよ。

         <感謝合掌 令和6年2月11日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/02/12 (Mon) 10:04:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月12日)」より

わたしは御影町(みかげまち)および住吉村に住んでいたとき、
たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。
そこころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。

その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁(しおつちのおじ)、
筒男神(つつのおのかみ)であらせられると知らされ、
ハットしてその端倪(たんげい)すべからざる因縁に驚いたのである。

塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。
水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、
一切を生み出す「生みの神」である。

だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は古来安産の神として称せられ、
エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて子を産まん」
という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。

生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。
塩釜大神(しおがまのおおかみ)とは水火醸神(しおかみのかみ)として
陰陽交叉(いんようかみあ)いて生み出す神という意味である。

生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、塩釜神社に参拝するのもよい。
われわれの団体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、
拝殿もなければ御祈祷をするということもない。

ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって老病死を克服する教化団体である。

           <感謝合掌 令和6年2月12日 頓首再拝>
15:伝統 :

2024/02/13 (Tue) 09:17:29


           *「光明道中記」(2月12日)より

【托鉢は物を乞うかわりに、相手に惻隠の心、憐れみの心、慈悲の心を起させる。
 即ちそれは仏性を施したことになるのである。(『生命の實相』第九巻)】

生長の家発祥当時、財の奉納を信者から乞わないことにした。
私は托鉢的な行持(ぎょうじ)を省いて了(しま)って何物も
本部は信者から乞わないことにした。

所がその弊害があらわれて来た。
信者を称して吾々は信者と言わないで誌友と言っていたのであるが、
その誌友本部発行の書籍の購買者と云う形をとっていた。

従って吾等は托鉢と云う乞食(こつじき)的形式を去った代りに、
信者は慈悲深き「施主」であることの代りに、
書籍販売所の「顧客」の形をとることになった。

「施主」は惻隠の心の表現であるが、「顧客」は営利主義の表現となり易い。
自分は「顧客だ」と無意識に思っている誌友たちは、病気が治ったら、
薬を止(や)めると同様な気持で、月刊雑誌の購読を止める人が出て来た。

本山が「乞食(こつじき)」的立場で、
相手を「施主」にしたのが今迄の宗教であった。
私は本山を「乞食」にせね為に信者を顧客の如くしてしまったとすれば、
それは失敗である。

清くなることは甚だ難しい。

それから信者みずからが人を救う喜びのために会費を持ち寄る
聖使命会が出来た。

乞食も施主もない、販売者も顧客もない。

神一元の世界が本当の世界である。

           <感謝合掌 令和6年2月13日 頓首再拝>
16:伝統 :

2024/02/23 (Fri) 13:40:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月23日)」より

ある教化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。
彼はその教化団体で救われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるから
そのことを聴衆に語りたかった。

どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、
自分の過去の生活を述べねばならない。

彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって
女を騙したことや、酒を飲んだことなどを
過去の生活を懺悔のつもりで50分間も喋り続けた。

そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、
その転向の明暗を明朗(はっきり)させるつもりであったのだが、
彼が50分間も自分の過去の罪悪を喋っている間に、
聴衆は「そんな悪い人の話は聴く必要はない」と一人去り二人去りして、
彼が本当によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。

懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。

言葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。

美人の色の白さを引き立てるための斑点美粧(ビューティ・スポット)も、
それが顔半面イッパイに及ぶようになっては痣(あざ)としてまちがえられる。

光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。  

           <感謝合掌 令和6年2月23日 頓首再拝>
17:伝統 :

2024/03/27 (Wed) 11:57:14


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 令和6年3月27日 頓首再拝>
18:伝統 :

2024/04/26 (Fri) 09:27:39


           *「光明道中記」(4月26日)より

【吾々の徳と云うものは既に吾が実相の中にあるのです。吾が実相が神であって、
 その中に万徳が既に備わっているのです。    (『生命の實相』第十七巻)】


私の写真を頒布するのは私の写真を《拝ましめる》ためではない。
それは、私たち夫婦を懐かしがって時々私たちの写真を見たくなる人たちのお部屋に、
写真となってお伴したいからである。

写真収入の幾らかは本部維持費に一部になっているのであろう。
信者たちに私の肖像を拝ましめるためならば第一本部道場に掲げて置くべきであるが
本部道場には私の写真は1枚も掲げていないのである。

各地方の教化部に掲げられている私たちの写真もその教化部の責任者が個人として私
を懐かしがって、写真代を出して自発的に求められたものばかりである。

見本を写真部にでも出して置けばもっと申込者があると思うが、写真の善悪良否を
考えて求める人のところへは私は行きたくないので、
私は最も非効果的な宣伝方法で写真を頒布しているのである。

私の養母(はは)は98歳で亡くなられたが、生きているとき
私の肖像写真が頒布されているのを聞いたとき、
「雅春も近頃は身売りしているそうじゃ」と嘆息された。

私は私の写真を拝ましめるところか身売をしているのであった。
ただその身売りが人類光明か運動の経費を造るために使われるので
普通の身売と異(ちが)う。
私は衆(しゅう)のために身売するものである。

          <感謝合掌 令和6年4月26日 頓首再拝>
19:伝統 :

2024/04/27 (Sat) 11:32:55


           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、
 我が身は無いと云う実相を知ることです。(『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、
時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

          <感謝合掌 令和6年4月27日 頓首再拝>

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