伝統板・第二

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実相を観ずる~「神想観」⑥」 - 伝統

2023/02/03 (Fri) 05:09:06

神想観(如意宝珠観) 谷口雅春先生指導 生長の家
tmr0423(2013/07/18)
https://www.youtube.com/watch?v=RpMB1BQiusI

         ・・・

神想観-如意宝珠観-
Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(二〇一二年一二月五日)
http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/18363937.html


神想観-如意宝珠観-

1.各種の神想観

 基本的神想観に習熟し、
 坐法や呼吸法なども正しくできるところまで進んだ方は、
 次の各種の神想観を実修されることをお勧めします。

 各種の神想観には、

 「神を讃える神想観」「蓮華日宝王地観」「如意宝珠観」「浄円月観」
 「四無量心を行ずる神想観」「大日本神国観」等ありますが、

 基本的神想観に加えて各種の神想観を実修することで、
 魂の底から新鮮な悦びと感動が沸々と湧いてきて、
 より一層 神との一体感を深め、実相世界の荘厳さを観想することができるのです。

 生長の家創始者・谷口雅春先生は、新版『詳説神想観』の中で、
 各種の神想観についてお説き下さっていますが、
 その中で「如意宝珠観」について、次のようにご教示下さっています。

 「竜宮観」或いは「如意宝珠観」と言われる神想観であります。

 「今、ここが竜宮城 である」と観ずるのでありますが、

 (中略)

 竜宮の世界、極楽浄土の世界、キリスト教で言えば、
 「天国」はすがた形がないかと言うと、
 肉眼では見えないけれ ども、実際はすがた形がある世界であります。

 この肉眼で見えるような艶消(つやけ)しの世界ではなくて、
 光明燦然と輝いている所の素晴しい世界が今ここに あるのであります。

 (中略)

 本当の世界、実相の世界はもっと素晴しいものが充満している、
 その有様をじっと観ずるのが如意宝珠観であります。


2.如意宝珠観の念じる言葉 (参照:『詳説神想観』121~130頁)

 如意宝珠観では、招神歌を唱え、気合をかけて次のように念じます。

 「吾れ今(いま)五官(ごかん)の世界を去って実相の世界に入(い)る。
  はるばると目路(めじ)の限りながむるに、十方世界(じっぽうせかい)
  悉く神なり、吾れ十方世界を礼拝す。

  十方世界の一切のものありがとうございます、ありがとうございます。」
 
 こう念じて、十方世界の一切のものに感謝して、
 神様の波長に合うように心を整えて、
 「十方世界(じっぽうせかい)悉(ことごと)く神なり。

神の無限の知恵の海なり、………、
神の無限の愛の海なり、 ………、
神の無限の生命の海なり、………、
神の無限の供給の海なり、………、
神の無限の悦びの海なり、………、
神の無限の調和の海なり、………」

 こうくり返し念じ、神の知恵、愛、生命、供給、悦び、調和の御徳が
 光明燦然と輝いて充ち満ちている有様をじっと心の眼(まなこ)で
 見つめる気持になります。

 つづいて、

 「この大調和の実相の大海原(おおうなばら)に宮柱(みやはしら)太しく立ち、
  甍(いらか)高く聳(そび)えたり、ここ竜宮城(りゅうぐうじょう)なり、
  綿津見(わたつみ)の神の宮なり、塩椎(しおつち)の神の宮なり、
  一切の宝周(あまね)く満ち、一切の調度(ちょうど)尽く
  七宝(しっぽう)もて荘厳(しょうごん)せり。」

 綿津見の神、塩椎の神とは竜宮界(実相世界)の神様です。

 調度(ちょうど)とは日常使う道具・家具等で、

 七宝(しっぽう)とは金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・
 珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)等であり、

 それらの七宝で飾られ、宮柱が太しく立ち、
 甍が高く聳えている竜宮城の荘厳なる光景を観じ、次のように念じます。

 「住む人悉く身健(みすこや)かに、心美しく、
  相形(すがたかたち)美(うる)わしく
  和顔(わがん)愛語(あいご)讃歎(さんたん)に満たされたり。」

 こう念じて、住む人悉く竜宮の乙姫(おとひめ)様のように、
 相形(すがたかたち)美わしく
 和顔、愛語、讃歎に満たされている有様をじっと観じます。

 そして、家族お一人お一人を思いうかべて、

 「わが父、誰(たれ)それは身健かに、心美しく、
  相形(すがたかたち)美(うる)わしく、
  和顔愛語讃歎に満たされたり。
 
  わが母、誰それは身健かに、…………。
  わが夫、誰それは身健かに、…………。
  わが妻、誰それは身健かに、…………。」

 とくり返し念じます。

 家族お一人お一人の名前を唱え、皆んな健康で心美しく、相形美わしく、
 和顔愛語讃歎に満たされている有様をじっと心に描くのがよいのです。
 描いたものは必ず実現するということになるのです。

 最後に自分に移って、

 「われ今此処(ここ)竜宮城に坐して、塩椎(しおつち)の大神より
  如意宝珠(にょいほうじゅ)を得たり、わが全身如意宝珠なり、
  光明燦然(さんぜん)として十方世界を照らす、
  十方世界光明遍照(こうみょうへんじょう)、わが全身光明遍照、
  十方世界光明遍照、……」

 何回でもくり返します。

 そして自分の身体(からだ)から光明が十方世界に照り渡り、
 その光線の反射が十方世界から照り返してきて、無限に照る光と、
 照り返 す黄金色の光とが交錯(こうさく)して、
 荘厳(そうごん)なる光景が心に描かれるまで、

 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照、十方世界光明遍照、……」

 とくり返し、光明燦然と輝く自己と十方世界の有様をじっと見つめるのです。

 そして、

 「わが全身如意宝珠なり、潮満(しおみつ)の珠(たま)なり、
  汐干(しおひる)の珠(たま)なり、
  欲するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、
  欲せざるもの好ましからざるもの自から去る。」

 こう念じまして、最後に「ありがとうございます、ありがとうございます…」と
 感謝の言葉を唱え、また、2回目はもとに帰って、

 「はるばると目路(めじ)の 限りながむるに、十方世界悉く神なり、
  神の無限の知恵の海なり、……」とくり返し、
 竜宮界(実相世界)の荘厳さをじっと観想するのです。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 (消滅)

   伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」(光明掲示板・第二) 」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7917883

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

(4)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369

(5)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879320

(6)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673407

(7)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7917801

(8)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8200207
        
          <感謝合掌 令和5年2月3日 頓首再拝>

『如意寶珠觀』講義〔1〕 - 伝統

2023/02/13 (Mon) 07:41:41


      *『生長の家』(昭和23年3月号 5頁 ~7頁)
        ― 『維摩経』を劇化して上演せられし時の講話 ― より

生長の家で行う観法のなかに 『如意寶珠觀』 といって、
自分の身を、全身を、全身の細胞悉く如意宝珠なり
と観ずる行法がありますが、

実際吾々の全身は、
こんな光明のない穢い糞雑衣のような塊ではない。 

光明輝いている如意自在の法身なのであります。

 
如意宝珠というと、こんな小さな一定寸法の宝珠
という意味じゃないのであって、法身のことであります。 

自分は法身である。 
法の体であり真理の身であると云う事であります。

 
「真理は汝を自由ならしめん」と
キリストが 『ヨハネ傳」 にいっていらっしゃいますが、
此の法身・真理の体こそ如意宝珠であって、
それこそが応に本当の「我」であると云うのであります。 

又 『仏身こそ応に「我」なり』 と維摩経にありますが、
仏の身が本当の自分であります。

仏の身というのは、決して死人のことではないのであります。 
死んだらその死骸を「よい仏になった」と云う人がありますけれども、
あれは仏身の脱け殻であって、潜水服にすぎないのであります。 

脱け殻を人間だと間違えているから間違が起るのであります。 

吾々は潜水服や「脱け殻」を人間だと思わないで、
仏身こそ応に「我」である、仏のいのちこそ自分だ。 

『金剛身こそ応に「我」だ』 
自分は宇宙に充満している真理のからだだ。 

宇宙に充満している真理のからだだから金剛不壊なのだ
と知らねばなりません。

 
真理は金剛不壊であって、何時まで経っても滅びるものではない。 
2+2=4 というのは数学上の真理であるとすると、
2+2=4 ということは、何年経っても何百年経っても
是は消えるものではない、この数字は消えますが、その真理は消えない。 

それと同じようにこの身体は消えましても、
自分の真理の身体は決して消えないのであります。

 
肉体は 『縁』 によって生じたものであります。 
父母を縁とし、食物空気等を縁とします。 

ところが、吾々の真理の体というものは
縁に依って生じたのではないから消えはしない。 

因縁に依って生じたものは、因縁の寄せ集めです。 
因縁の寄せ集めは因縁の変化で状態が変る。 

或は食物を食べ、空気を吸い込んで、
それを縁として此の頭脳で何か考えている。 

そういう自分というものは
モルヒネをちょっと注射したらものを考えなくなる。 

「我」「我」 と思っている「我」というものはどっかへ行ってしまう。 
そんな詰らない「我」で頑張っても話にならないのであります。

1グラムのモルヒネにも対抗することが出来ないような
そんなものを「我」と思わず、

金剛不壊の「我」を、火にも焼けず、水にも溺れざるところの
金剛不壊の「我」を知らねばなりません。 

宇宙に充満している法身であり如意宝珠であるところのものが私である。 
久遠不滅の永久に死なないものこそ「我」である。 
尽十方に満つるものこそ「我」であると知らねばなりません。


神想観なり、如意寶珠觀と云うのは、即ちそれを自覚する方法で、
自分の体は神の生命そのものだ、仏のいのちなのだ、
仏身だ、法身だと観じて、実際に光明輝いている相を
一念不動の状態で心に思い浮かべるのであります。

じっと坐って自分の全身が神の生命そのものに満たされて
輝いている状態を心に描いてそれを見詰めておりますと、
最初は「自分」と云うかたまりが中核体として輝いているけれども、
次第にその輝きが宇宙全体に満ちひろがって来るように観じられ、
自分から発する光波が宇宙にみち満ちて
我と宇宙とが一体になった感じが得られます。 

こうして尽十方に満ちみちている自分を
如実に体得することが出来るのであります。

自分と云うものは、
こんな五尺何寸かの小さな塊のようでありますけれども、
実は宇宙に満つる一大実在であります。 

空を仰いで見ますと、無際涯と見える空間に
星が無限に並んでおりますが、そういうものを吾々は知ることが
出来るのは何故であるか、

それは自分の心が全宇宙を包んでしまうことが出来る
ということをあらわしております。

自分の心が全宇宙を包んでしまうことが出来るというのは何故であるか。 

それは自分の生命が全宇宙にみちているということであります。 
自分には全宇宙を包む無限大の心がある。 
自分の生命は宇宙にひとしき無限大の自分の生命だと云うことを
知るとき吾々は何を小さなことにクヨクヨする必要がありましょう。

 
宇宙にひとしき尽十方にみつるところのものが本当の自分である。 

こんな小さい肉体の体が自分ではないのだ。 

まことにも 『尽十方に満つるものこそ応に「我」なり』 
と喝破した 『維摩経』 はまことに素晴しいと云わねばなりません。


こんな素晴しい教が仏教にはありますのに、
それが生活に生きなかったのは何故でしょうか。 

それはそう云う高尚なことは印度哲学であって、
生活と遊離した、ただの「学」だと考えていたからではなでしょうか。 

或は、実相の自分は、そんなものでも、
現象の肉体の自分はやはり弱いものだと、
実相と現象とを別々に分けて考え、

実相の自分は金剛不壊でも、現象の自分は弱小なもの
として取扱わねばならぬと区別した所に、
実相無限の力が現象界に現れ得なくなったのだと考えられるのです。

 
ところが生長の家では 「現象なし」 と
一度キレイに現象を際断してしまいます。 

そして 「実相のみがある」 と自覚して、
実相に跳躍して生活を生きる。 

其処に「弱さ」を心に描かぬから、「弱さ」に捉えられなくなり、
現象界にまでも強力な実相の力が投影して来る事になるのであります。
          
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/660ab5aa6ecc5feaffe5e9b8b9e08257
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-23)

          <感謝合掌 令和5年2月13日 頓首再拝>

『如意寶珠觀』講義〔2〕 - 伝統

2023/02/17 (Fri) 07:36:23


      *『生長の家』(昭和23年3月号 5頁 ~7頁)
        ― 『維摩経』を劇化して上演せられし時の講話 ― より

『龍宮觀』 或は 『如意寶珠觀』 と言われる神想観であります。

「今、此処が龍宮城である」と観ずるのでありますが、
「龍宮城」と言うと、一体何処であるかと言うと、海の底であると、
こう考えられているのでありますが、

「うみの底」と云うのは凡てのものを生み出す根底の世界、
即ち現象界のありとあらゆるものが生れて来るところの
元の世界でありまして、所謂 「実相世界」 のことであります。 

それを 「龍宮城」 と、こう言うのであります。 
「龍宮海」 とも言う。

この世界は「極楽浄土」と言われる世界であって、
住み吉き所のゴクラクでありますから、
神道の方では「住吉の世界」と言われているのであります。 

極楽世界の御本尊は阿弥陀仏でありますが、
それを住吉の世界と称える場合には、住吉の大神、
或は海の底の神でありますから龍宮の大神、
或は綿津見の大神、又は塩椎の大神とも言われているのであります。

「わだつみ」と云うのは、「わだ」と云うのは海であります。 
「つ」は「の」であって「み」というのは身体でありまして、
海の御本体の神様であると云う訳であります。 

住吉の神と言うと、その御働きの方である‘すみよき’ところの
御働きを人格化してあらわしているので住吉の大神と
申し上げるのであります。

塩椎の神と言う場合には「し」というのは「水」であります。 
タオルを絞るとしづくがシタシタと下に‘し’たたる、
すると下が‘し’めると云う具合に皆「し」がつきますが、

「し」と云うのは水の言霊でありまして、
その「し」と云う言葉そのものに水の韻きがあるのであります。 

「ほ」と云うのは火であります。 
火は赤く燃え上がるもの、火事を「ぼや」と言う。 
或は‘ほのほ’と云う、或は船の帆、麦の穂と云う。 

そこで「し」は水であり陰である。 
「ほ」は火であり陽である。 
「つ」は‘つながり’。 

陰陽のつながり結び合って一切のものを生み出すところの
本源の神と云う意味で塩椎の神と、こう言われているのであります。

そこで塩椎の神も、綿津見の神も、住吉の神も同じ神であるわけであります。 
それが仏教では阿弥陀仏と申し、極楽浄土の主人公であって、
無量寿国にいらっしゃる。 

無量寿国とは無限の‘いのち’の国であると云うわけであります。

ところがその龍宮城に浦島太郎が行きましたとき、
龍宮海に居ったときは浦島太郎は年が寄らなかった。 

即ち無限の生命の国に居った訳でありますから、
何時までたっても年が寄らない。 

それは時間・空間を超えている世界であります。 

無限と言っても、一つ、二つ、三つと数える無限じゃなくって
その数を超えた無限であります。 

その数を超えた彼方の世界という意味で十万億土の彼方と言って、
極楽浄土はその十万億土を超越したと、
こう形容した訳で矢張り同じことであります。

極楽浄土は年の寄らない無量寿の国である、
そこの御主人公は阿弥陀仏であり、
龍宮城と云う場合は住吉の大神、或は塩椎の大神であり、
塩釜神社としても祭られているのであります。 

塩釜の神様はお産の神様であるとされているのは、
「しほがま」というのは「しは交む」で、陰陽が交み合わされ、
結合して一切のものを産み出す神様であるからであります。 

そこで生長の家を信ずる人は無痛分娩であると云う事が
事実にあらわれているのであります。


さて、今此処が龍宮城であり、極楽浄土でそしてそれが
十万億土の彼方にあると云うのは決して距離の問題ではないのであって、
今ここにあるけれども波長が合わなかったら十万億土の彼方である。 

それで、 「吾れ今五官の世界を去って実相の世界にいる」  
と云うのは、五官の世界、肉眼の世界を去って、
今ここが龍宮城であると斯く観ずるのであります。

龍宮の世界、極楽浄土の世界、キリスト教で言えば、
「天国」はすがた形が無いかと云うと、肉眼では見えないけれども、
実際はすがた形がある世界であります。 

この肉眼で見えるような艶消しの世界ではなくて、
光明燦然と輝いている所の素晴しい世界が今ここにあるのであります。

けれども、そのうちの一部分だけを吾々の五官を通して、
感じているのです。 

それは丁度色彩が豊富なこの世界を白黒の写真に写して
見ているような世界が現象世界であって、
実物はもっと素晴しいんだけれども

肉眼で見る世界はその実物の素晴しさを大部抜きにして、、
影だけを見ている丁度白黒の、厚みの無い写真を見ているような
世界が現象世界で、本当の世界、実相の世界はもっと
素晴しいものが充満している、そ

の有様をじっと観ずるのが  『如意寶珠觀』  であります。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e1a9444997586934525d16c69ee948d0
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-24)

          <感謝合掌 令和5年2月17日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2023/03/20 (Mon) 05:08:11


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって
不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を
強力に、精神集中的に起こすことは「不完全な念波」を
消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

          <感謝合掌 令和5年3月20日 頓首再拝>

無限供給を実現する神想観 - 伝統

2023/03/29 (Wed) 07:34:10


      *『大調和』有留弘泰著 昭和44年3月1日初版発行より、

神は全ての全てであります。
一切供給の本源は神であります。

この真理のみが無限供給を実現するところの鍵であります。

われわれが成功し繁盛し、神の子らしき豊かにして
調った生活をすることは、親様としての神の願いであります。 

宇宙の全ての善きものは神の自己顕現でありますから、
われわれが無我になって神そのものの顕現力を自働せしめることができるならば、
成功と繁盛と健康とは必ず実現するほかはないのであります。


無限供給を実現するために、次のごとく思念しましょう。


「吾れ今五管の世界を去って実相の世界に入る。

 此処は神の海である。

 霊の海である、

 無限供給の海原(うなばら)である。

 風が吹けば波が起るように、
 吾が思念する通りのものが、霊の海、無限供給の海原に起るのである。

 吾れは無限供給を想念するが故に無限供給は来るのである。

 吾れは神の智慧に導かれ、ただ成功し繁栄する想念のみ
 思い浮かんでくるのであり、その通りに実行する勇気が与えられるのである。

 何時(いつ)、如何に、何を、誰になすべきかは、神の智慧が導き給うのである。」

  
かく念じたる後、"神の繁栄の智慧流れ入る、流れ入る、・・・・・・・”と
繰り返し念じながら、”智慧”の流れ入る思いで静かに吸気すること数分間、
完全に神に全托の感情の中に打ち浸るのである。

その次にかく念ずる-

「神の智慧が私の智慧である、神の智慧が私の智慧である。
 私はすべての行動や計画が神の智慧に導かれるが故に
 私は凡(あら)ゆる計画が成功し事業は繁栄するのである。

 私は無限供給の大生命の大海原に、
 わが想念の起こす通りの形を無限供給されるのである。

 私に必要な一切の智慧と協力者と計画と資金と資材とは
 豊かに集ってくるのである。」

ここまで念じて、

「私に必要な一切の智慧と協力者と計画と資金と資材とは
 豊かに集ってくるので」

の一句を数分間繰返し、
静かに受身の心持ちにてそれが流れ入ることを念じ、

最後に、

「わが願いは既にきかれたり」と繰返し、

「常にわが願いをきき給う神に感謝いたします。ありがとうございます。」

 と繰返して思念を終わります。


亀の子ブログ(二〇一八年如月八日)
http://kamenoko4126.livedoor.blog/archives/2219752.html

・・・

無限供給を実現する神想観

『詳説神想観』 にも 『聖光録』 にも収録されていないこの神想観は、
東京・原宿に本部会館が建設される時、

献資をされる信徒の皆様が豊かに楽々となるよう、
尊師谷口雅春先生が昭和26年7月に「ハガキ通信」で発表されたものです。



【無限供給を実現する神想観】

[前文]

神は全ての全てであります。
一切供給の本源は神であります。
この真理のみが無限供給を実現する処の鍵であります。

吾々が成功し繁昌し、神の子らしき豊かにして整った生活をすることは、
親様としての神の願いであります。

宇宙の全ての善きものは神の自己顕現でありますから、
吾々が無我になって神そのものの顕現力を自働せしめる事が出来るならば、
成功と繁昌と健康とは必ず実現するほかはないのであります。

無限供給を実現するために次の如く思念しましょう。


[本文]

「吾今五官の世界を去って実相の世界にいる。

 此処は神の海である。
 霊の海である、
 無限供給の海原である。

 風が吹けば海に波が起るように、吾が思念する通りのものが、
 霊の海・無限供給の海原に起るのである。

 吾れは無限供給を想念するが故に無限供給は来(きた)るのである。

 《註: そよ風吹けば小波が起り、大風吹けば大波が起るように、
     小さい根性には小なる供給、大なる根性には大富の大波が起るのである。》


 吾は神の智慧に導かれ、
 ただ成功し繁栄する想念のみ思い浮んでくるのであり、
 その通りに実行する勇気が与えられるのである。

 何時、如何に、何を、誰になすべきかは、神の智慧が導き給うのである」


 (かく念じたる後、“神の繁栄の智慧流れ入る、流れ入る ………… ”
 と念じながら、“智慧”の流れ入る思いで静かに吸気すること数分間。

 〈吸気を丹田に充実し、その間
  “神の繁栄の智慧充満し、吾が無限供給を実現し給う”と念ずるもよし〉
  完全に神に全托の感情の中に打ち浸るのである。 その次に斯く念ずる)


「神の智慧が私の智慧である、神の智慧が私の智慧である。
 私はすべての行動や計画が神の智慧に導かれるが故に、
 私は凡ゆる計画が成功し事業は繁栄するのである。

 私は無限供給の大生命の大海原に
 わが想念の起す通りの形を無限供給されるのである。

 《註: 大きくも小さくも吾が想念通りの
     無限供給が適確に与えられるのである。》

 私に必要な一切の智慧と協力者と計画と資金と資材とは
 豊かに集って来るのである」


ここまで念じて、

「私に必要な一切の智慧と協力者と計画と資金と資材とは
 豊かに集って来るのである」

の一句を数分間繰返し、静かに受身の心持にてそれが流れ入ることを念じ、

最後に、

「わが願いは既にきかれたり」 と繰返し、

「常にわが願いをきき給う神に感謝致します、有難うございます」

と繰返して思念を終ります。


VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ
2018-12-06
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/5f1a983770912649d627cfc4341b0235

            <感謝合掌 令和5年3月29日 頓首再拝>

神の導きを受けて生活を出発する - 伝統

2023/04/16 (Sun) 07:28:31


         *『栄える生活365章』(P19)より

毎朝、三十分間を神想観の時間として神と対坐せよ。
神を自己の内に招じ、神を自己の指導者とし、
神の導きを受けてその日の生活を出発せしめよ。

毎朝の、神と偕に坐す三十分間は、決して無駄に失われることなく、
神の導きを受けて生活する一日は、常に平安に、憂えなく躓きなく、
悦びと感謝に満たされて、何事もスラスラと順潮に事がはこび、
健康と繁栄とは結局あなたのものになるに相違ないのである。

神を自己の内に招じて、神を顧問として生活が行われるとき、
自分自身のすべての物事に対する考え方や観方が異(ちが)って来るのである。

そして自分自身の考え方が異(こと)なって来るとき、
“外界の事物”の動きが変わって来るのである。

結局“外界の事物”は本当は外界にあるのではなく、
自分の心の反映に過ぎなかった事が判ってくるのである。

そして、険しき道は平らかとなり、難事は解決し、
すべては円滑に事がはこび、調和おのずから備わる事になるのである。

・・・

基本的神想観
谷口雅春 音声集(2016/04/18)
https://www.youtube.com/watch?v=u96T_DAhFq8&t=5s

          <感謝合掌 令和5年4月16日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2023/04/17 (Mon) 07:42:25


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                        (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
   坐する者も神である。
   (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
   吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、
自分の周囲と内部、悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを
悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも周章狼狽することなく、
必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、
好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

          <感謝合掌 令和5年4月17日 頓首再拝>

《現象に目を瞑じて、仏のみの世界を見ましょう》 - 伝統

2023/05/21 (Sun) 09:11:24


       **「眞理」第2巻基礎篇第5章(P145~146)より

「まこと、恨(うら)み心をもってしては恨みを解くことは出来ない。
 恨みなき心を持って来てこそ恨みを解くことが出来るのである」

と法句経の中で釈尊が教えておられます。

悲しい心で悲しむまいと思ってもそれは出来ないことです。
腹立つ心で腹立つまいと思っても、それは出来ないのです。

ですから、悲しい出来事、腹立たしい出来事がいくら出てこようとも、

   「そんなことは現象であって、実在ではない」

実在でないものは、「ある」ように見えても「ない」のだと、
それに眼を瞑じて、

   「自分も仏、あの人も仏、みんな仏」

と念じて、争う者のない世界をじっと心の眼で見つめるがよいのです。

これが神想観であります。

観(かん)が徹底すれば、
眼の前から憎むべきもの悲しむべきものが消え、
光明のみが現れてまいります。

          <感謝合掌 令和5年5月21日 頓首再拝>  

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2023/05/28 (Sun) 11:34:58


        *「光明法語」(5月28日)より 

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、
其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

          <感謝合掌 令和5年5月28日 頓首再拝> 

深く神想観を励む日 - 伝統

2023/06/14 (Wed) 05:02:07


       *「光明道中記」(6月14日)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に
 行く手を照らす炬火(たいまつ)である。(『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、
人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

        <感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2023/06/25 (Sun) 07:51:28


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。

「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、

「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った

「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
 神想観をしてから無限供給が来るのではない。
 われらの本体がすでに無限供給である。
 観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。

神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、
病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

         <感謝合掌 令和5年6月25日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきる尊き神想観 - 伝統

2023/07/23 (Sun) 08:41:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と

瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、神の生命(いのち)が、
宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの内に、

そして

「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
 それに生かされている」

との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、
そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 令和5年7月23日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる神想観 - 伝統

2023/07/25 (Tue) 11:18:45


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月25日)より

今日はさらに、

「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」

と念じよう。

そしてすべてのものの内に、
宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを
深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、
その反映として自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを
心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。

飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 令和5年7月25日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2023/07/28 (Fri) 11:01:42


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                       (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人で
あったから、雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
 粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。汝らの面前になげ向(だ)す。
 灯台下暗しで判るまい。
 判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
 自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
 その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、
宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>

《足を踏みしだくこと》 - 伝統

2023/08/01 (Tue) 10:06:59


          *「光明道中記」(P238)より

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、
まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に
上位をして完全に下位を下属せしめていることを
実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて
腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)ことには、
到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が
会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって
下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、
足全体を完全に全身の下位にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 令和5年8月1日 頓首再拝>

神想観はただ神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2023/10/07 (Sat) 09:11:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月7日)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、
その後に起こる事件の処理中には(病気ならば回復の過程において)
悪化と見える出来事が起こってくるかも知れないのである。
これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに

「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
 神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」

と念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 令和5年10月7日 頓首再拝>

實相のみをみよ - 伝統

2023/10/09 (Mon) 11:26:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月9日)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 令和5年10月9日 頓首再拝>

神想観と愛他の行を行なえ - 伝統

2023/10/10 (Tue) 09:10:19


    *「光明道中記」(10月10日《般若波羅蜜多を行ずる日》)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることなく
自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。

神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)
として観ずるのであるから、般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを
同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 令和5年10月10日 頓首再拝>

「ありがたい」情感の神想観 - 伝統

2023/10/23 (Mon) 12:13:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 令和5年10月23日 頓首再拝>

神に融け入る神想観 - 伝統

2023/10/27 (Fri) 09:42:42


    *「光明道中記(10月27日)」より
      ~神に融け入る神想観をする日

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、
自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。
そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、
ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との充ち満ちてある
その妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 令和5年10月27日 頓首再拝>

神想観では、実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝する - 伝統

2023/10/28 (Sat) 10:55:25


    *「光明道中記」(10月28日《良き種を蒔く日》)より 

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを
具体的に認めることが出来ないならば、吾々の現実生活にも
それらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を
現象面に創造するのではなくして、ただ実相妙有の相(すがた)を
眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

       <感謝合掌 令和5年10月28日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2023/12/13 (Wed) 09:46:41


   *「光明道中記」(12月13日《神の叡智につながる日》)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。

神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、
行ずる意志力を招び出だし、その行じ得させて頂く
その事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、
反対の方向へ向かって行じているのでは
却って逆効果を呈することになる。


そこで神想観によってその行ずる方向を
神の叡智によって導いて頂くのが、

「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」

と観ずる神想観である。



実行の意志力を強めるところの神想観は、

「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」

と観ずる神想観である。



「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」

と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。


吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。

叡智なき行は崩れる。
行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

       <感謝合掌 令和5年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2023/12/24 (Sun) 13:01:00


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
 今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
 神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)が
 わたしである。

 わたしは喜びそのものである。
 わたしは幸福そのものである。
 私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思って
も心が統一し難いものである。

覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、
直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

        <感謝合掌 令和5年12月24日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2024/03/20 (Wed) 11:24:57


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 令和6年3月20日 頓首再拝>

實相の完全さのみを観よ - 伝統

2024/04/06 (Sat) 10:20:18


       *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、
神想観をしたら、こんな現実的結果が得られるから神想観をする
と云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、
”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

       <感謝合掌 令和6年4月6日 頓首再拝>

神と實相のみを愛せよ - 伝統

2024/04/07 (Sun) 10:32:52


       *「光明法語」(4月7日)より

祈りも、神想観も、
結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ
行なえば好いのである。

神よりも御利益を愛するもの、
實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

       <感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2024/04/17 (Wed) 09:53:43


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                        (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
   坐する者も神である。
   (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
   吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、
自分の周囲と内部、悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを
悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも周章狼狽することなく、
必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、
好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

          <感謝合掌 令和6年4月17日 頓首再拝>

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