伝統板・第二 2515241

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神示とは ⑨

1:伝統 :

2022/09/27 (Tue) 08:41:50

(九月の神示)【大調和の神示】

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の萬物何物も汝を害することは出來ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪靈に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解してゐない證據であるから省みて和解せよ。
われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教へたのはこの意味である。

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。
天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。

本當の和解は互ひに怺へ合つたり、我慢し合つたりするのでは得られぬ。
怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合つたとき本當の和解が成立する。

神に感謝しても天地萬物に感謝せぬものは天地萬物と和解が成立せぬ。
天地萬物との和解が成立せねば、神は助けたうても、
争ひの念波は神の救ひの念波を能(よ)う受けぬ。

皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。汝の夫または妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。
天地の萬物(すべてのもの)に感謝せよ。

その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。

われは全ての總(すべ)てであるから
すべてと和解したものの中にのみわれはゐる。
われは此處に見よ、彼處(かしこ)に見よと云ふが如くにはゐないのである。

だからわれは靈媒には憑(かか)らぬ。
神を霊媒に招(よ)んでみて神が來ると思つてはならぬ。
われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。

われは愛であるから、
汝が天地すべてのものと和解したとき其處(そこ)にわれは顯れる。

(昭和六年九月二十七日夜神示)

・・・

大調和 の 神示 ( 七つの燈台の 点灯者』の神 示)
http://sninagano.web.fc2.com/image/inori/inori-daityouwa.pdf


『大調和の神示』谷口雅春先生ご朗読
生長の家大神(2017/03/02)
https://www.youtube.com/watch?v=r_2i4oxg5Bg


『大調和の神示』谷口雅春先生ご朗読
無礙光(2018/06/25)
https://www.youtube.com/watch?v=FxpVqKdc4jE

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151

(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8213395

(6)伝統板・第二「神示とは ⑥」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8239192

(7)伝統板・第二「神示とは ⑦」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8254025

(8)伝統板・第二「神示とは ⑧」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8267834

           <感謝合掌 令和4年9月27日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/09/28 (Wed) 09:25:36


キリスト再び臨(きた)りて審判(さば)くとは今のことである。

キリストとは肉體にあらず、『眞理』である。
キリストとは肉體にあらず、『光』である。

肉體のわれの臨るを待ち望むな。
吾れは既に此處に臨(きた)れるに非ずや、
吾れは道である、眞理である、光である。

『眞理(われ)』來つて虚妄(まよひ)を審判き、
『光(われ)』來つて暗黒(やみ)を審判き、
すべての虚妄(まよひ)と暗黒(くらき)とを
地獄の火に投げ入れてこれを燒き滅ぼす。

今こそ最後の審判(しんぱん)であると知れ。

されど恐るる勿れ、吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず。

虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き
暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。

病ひは癒やされ、惱みは消えん。
燒かるる者は『汝』にあらずして、『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるにあらず、
神より出(い)でざる汝は實在にあらず、
實在に非(あらざ)る汝はその眞相(しんそう)を暴露して消滅せん。

わが臨れるは『眞』と『僞』と、
『實在』と『虚妄(こまう)』とを選(よ)り別けて、

『僞(ぎ)』と『虚妄(こまう)』とを永久(えいきゅう)に
非實在(ぢごく)の中に葬りて封印を施(ほどこ)さんがためである。

(昭和六年九月二十八日朝神示)

               ・・・

『最後の審判の神示』谷口雅春先生ご朗読
生長の家大神(2017/03/05)
https://www.youtube.com/watch?v=stCWaMvMKfY

           <感謝合掌 令和4年9月28日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/09/29 (Thu) 07:50:04


     *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
      《最後の審判に就いての神示》」より

(1)この神示の特徴は漢字に特殊なフリ仮名が附してあることであります。

(2)(聖書には、キリストの再臨を種々示されているが)
   ここに示されている神示は、キリストの再臨を
   「イエスの再生」として見ずにキリストを「真理」そのものとして、
   超越的な意義をお示しになっているのであります。

(3)「真理」は既に諸賢(みなさん)の内に宿っているのです。
   しかし「虚妄(まよい)」の妄心(もうしん)によってくらまされていて、
   自覚しないのであります。

   超越的内在的に「キリストの再臨」ということを解釈しますと、
   真理を告げるラッパの声によって皆さんの内に宿る真理(キリスト)が
   目を覚まして顕現するのが「キリストの再臨」であります。

           <感謝合掌 令和4年9月29日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/09/30 (Fri) 07:38:11


(4)超越的内在的意味に於ける”キリストの再臨”による”最後の審判”は、
   本来無いところの「虚妄(まよい)」の無を「無」として判決宣告して、
   永遠に出て来られない世界に堕獄し、

   本来人間の実相たる「完全人間」を実在なりと判決宣言して、
   それを如実にあらわすところの審判でありますから、

   「吾が宗教(をしへ)は恐怖の宗教(をしへ)にあらず、
   虚妄(まよひ)を燒かるる者は却つて生き、
   暗黒(やみ)を燒かるる者は却つて光をあらはさん。
   病ひは癒やされ、惱みは消えん」とあるのであります。

   「燒かるる者は『汝』にあらずして
   『虚妄(にせもの)の汝』であるからである。

   『虚妄(にせもの)の汝』は神より出(い)づるに非ず、
   神より出(い)でざる汝は實在にあらず」と示されております通り、

   「病んだり、悩んだりしている汝」は、真に実在するのではなく、
   夢の中の人物のようなもので、「本来無い」のであります。

(6)「真理の光」に照らして、「汝らは、神より出でざるが故に、
   如何に実在の仮面を被るとも実在にあらず」と、
   最後の最高裁判所的裁決を下すのが、
   真理(キリスト)の再臨による「最後の審判」なのであります。

           <感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/10/03 (Mon) 10:05:58


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(1)「合掌の権威」

  ①合掌感謝行は単なる形式的行事ではないのでありまして、
   心の中に本当の感謝が湧きおこることが大切であります。

  ②感謝の感情が自然に湧き出でて、
   私の合掌と「ありがとうございます」の感謝の言葉が
   出て来たのでありますが、

   心身相関の理によりまして、笑えば「おかしくなる」と
   同じように、本当に感謝の格好をして合掌し、感謝の表情をつとめてして
   「ありがとうございます」と言葉で唱えていると、実際心の中にも、
   「ありがたい感謝の念」が湧き出て来るのであります。

  ③「合掌」と「感謝語」の形式からのみで感謝に入るのでは、
   どうしても付焼刃の感謝になりがちであります。

   そこで形式から入るほかに、
   真に吾々が感謝すべき無数のものにとりまかれているということを
   読書、又は講演、座談等によって知らせることが必要なのであります。
 
   そこで、講師は吾々を取りまいているすべての事物が、
   吾々自身製造したものでもないのに、ふんだんに与えられている事実を指摘して
   それに感謝するように誘導するのであります。

  ④心の中に感謝すべき内容を充分思い浮かべて、その感謝の内容の表現として、
   「合掌」して「感謝語」をとなえるとき、その「合掌」がその感謝の言葉が
   生きて来るのであります。

   あなたが合掌して感謝の言葉をとなえて人生の行路を進むとき、
   どんな荊蕀(けいきょく)も切りひらかれ、隘路(あいろ)は広い大道となり、
   調和があなたを取り巻いてくれるのであります。

  ⑤人に見られようと思ってする感謝合掌、形だけを真似てみる感謝合掌、
   それだけで人の心を打つことはできません。

   本当に感謝する心になって合掌して「ありがとうございます 」と唱えるとき、
   そこに無限の功徳があらわれるのであります。

           <感謝合掌 令和4年10月3日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/10/04 (Tue) 07:14:37


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(2)「生命の礼拝」

  ①生長の家の発祥と同時に発表した「七つの光明宣言」というのがあります。
   その第一項に、「我らは宗派を超越し、生命を礼拝し、
   生命の法則に随順して生活せんことを期す」と書かれております。

   生長の家はこの「生命の礼拝」即ち生命を拝むということから出発したので、
   その行事も生命を拝むことが、中心になっているわけであります。

  ②生命を礼拝するのは心で拝んでおったらよいじゃないか、
   何も手を合わさなければならぬことはないじゃないか、
   と考える人もありましょうが、

   本当に礼拝する心になれば、自然に肉体も、礼拝の形をとるのであります。

   また礼拝の形をして合掌しますと、自然に有難い気持ちもわいて来ます。

   こうして生長の家の練成道場における感謝合掌の行持というものは
   始まることになったのであります。

  ③道場や宿泊室でみんなの中に交わっておりますと、互いに拝み拝まれるうちに、
   自分の内に宿っている処の「キリストなるもの」内在の基督(キリスト)
   ―― 内在の仏性が現われてまいりまして、

   「有難うございます、有難うございます」という言葉の力によって、
   ヒロポン中毒も治るし、親不孝も治る、そしてその人に宿っている
   素晴らしい善さが出てくることになるのであります。

           <感謝合掌 令和4年10月4日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/10/05 (Wed) 07:25:13


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(3)「祈り」

  ①病気を見ず、死を見ず、もう一直線に、ひたむきに病気なしの健康の姿を、
   実相を直視する眼でシューッと観る。
   そうすると健康の姿がシューッと出てくるのです。

  ②生長の家では、"現象なし"というのであります。
   現われている象(かたち)を「ある」と思ってはいけない。

   本当にあるものは唯"実相"(実の相・すがた)だけであって、
   現われているのは仮の相だ。
   仮の相はニセモノで、ウソの相で、本当に「ある」のではない。

   本当にあるのでないものは、幾ら現われていても、絶対「ない」んだから、
   無いものは唯"無い"でよろしいんだ。

   それを遠回しにいろいろ説明せねばならぬことはない。
   そんなものはない。悪い病気も、放蕩の親爺もいくらあるように見えても、
   そんなものは絶対無い、無いものをアルと掴むからいかぬ。

  ③"憎んでいる人と和解する"時に念ずる言葉

   眼をつむりまして、眼の裏に、相手の姿を思い浮かべて、名前を唱えて
   その相手を呼び出す気持ちになります。そうして、こう念ずるのです。

   「私はあなたを赦(ゆる)しました。貴方も私を赦しました。
   貴方と私とは神に於いて一体でございます。

   私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
   私と貴方は神に於いて一体であります。

   私は貴方に感謝しております。貴方も私に感謝しております。
   貴方と私は神に於いて一体であります。

   有難うございます。有難うございます。」

   こう一通り念じましたら、また始めに返って、

   「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。‐‐‐‐」こう繰り返して、
   一回二十分ばかり念じます。

   その念ずるときには、眼の前にその人が居られるかの如くに、精神を統一して、
   相手を赦し、相手と既に愛し合って、相手と既に感謝し合っているその相を、
   一心に思い浮かべるのであります。

           <感謝合掌 令和4年10月5日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/10/06 (Thu) 07:16:41


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(4)「放つものは生きる」

  ①心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。

  ②心の世界では、こうして"つかむ"というこが罪なのであります。
   ともかく、つかむという事は、
   病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。

   「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。

   放てば生きる!

  ③吾々がこの世に生まれて、苦しい悲しい悩ましい思いを起し、
   いろいろの悩みの種になるのは何かというと、「掴む」ことです。

   何を掴むかというと、「現象」を掴むんです。
   「現象」を掴んで、どこそこで、誰が、何時、何をした、何を言ったと掴む。

   それは悉(ことごと)く過ぎ去ってしまった時の事なのに、
   何時までもそれを掴んで、
   それでああだ、こうだ、ああだこうだ、こう言っているんですね。

   そのために自分も苦しいし、それによって人も攻撃するから、人も苦しい。
   そして修羅場を演じている――という事になっている。

   だから過去は過ぎ去るものであって無いのだ。
   過去は無いんだ。「今」しか無いのだ。

   「今」"しか"と言ったっても、
   今見えている「現在の悪」があるというのではない。
   
   その「今」は、過去・現在・未来に非ざる処の、時間空間を超えたところの、
   もう一つ奥にある「今」なんです。

           <感謝合掌 令和4年10月6日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/10/07 (Fri) 08:41:22


    *「光明道中記」(10月7日《黙示を受くる日》)より

【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで
 「生命」の黙示そのままが精神に顕れて来る状態である。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、民間市井の巫女的現象、口寄現象、
二重人格として出て来るのは、いずれも霊示であって、
その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて一(ピン)から十(キリ)まで
あって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。

と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、
(『生命の實相』霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が
来(きた)ったと思って、思いあがってはいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、
その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の悪戯(いたずら)である。
斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。
それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

           <感謝合掌 令和4年10月7日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/10/08 (Sat) 08:32:19


    *「光明道中記」(10月8日《神は善のみと知る日》)より

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。
                    (『生命の實相』第一巻)】

「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、
パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、仏教では般若波羅蜜多の行があり、
五蘊皆空と観じ、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、
眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、
・・・斯くの如くして一切の引っかかりを無くして初めて、
「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

           <感謝合掌 令和4年10月8日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/10/09 (Sun) 07:33:40


    *「光明道中記」(10月9日《ここに彼岸ありと悟る日》)より

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。(『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、
それが二重人格式に他から教えられるだけで、一重式にその人の生命
そのものの自覚となって来ないのは真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、
”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 令和4年10月9日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/10/10 (Mon) 09:55:51


      *「神ひとに語り給う』神示講義 
         教えの巻 《大調和の神示》」より抜粋

(5)「今」新たに生まれ更る

  ①「今」その一切の現象的な時間空間を超えて、
   吾れ今五官の世界を去って実相の世界に在る。今此処が実相の世界である。

  ②現象に、どんな相が現れておっても、
   その悪い相は「影」であって、本来無いんだ――
   という訳で、一遍その悪い相に目をつむって、
   そして、新たなる眼を開くんです。
   これが新たに生まれ更るでありますね。

   「汝の目のおおいをとれ」と神様は仰せられているのでありまして、
   目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、
   新天新地となって現れて見えるのです。

   病気は消え、貧しさは消え、
   ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。

  ③それにはどうしても「現象の抹殺」という事が必要なんです。
   「現象の抹殺」といっても、
   原子爆弾でみんな吹き飛ばしてしまうというのではないのであって、
   心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、
   そんなものは実は「幻」であって、本当は無いんだ。

   「無」だと悟るんですね。

  ④「無」を知ることが大切なんです。
   「無」の関所を一遍超えなくては、
   実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

   「無」は何も無いんじゃないのであって、その「無」の関所を超えたときに、
   無尽蔵のよきものの充つる世界が出て来る。

   それにはやはり一切の現象を一応「無い」と断ち切らんといかん。

  ⑤肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、
   そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを
   発見することが出来る事になるのであります。

   これが「新たに生まれる」ということです。
   人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」と
   キリストはニコデモに教えているのであります。

   肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、
   神の国を見出すことはできないのであります。

           <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/10/17 (Mon) 07:53:55


大調和の神示(谷口雅春先生ご朗読)
https://www.youtube.com/watch?v=FxpVqKdc4jE

           <感謝合掌 令和4年10月17日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/10/18 (Tue) 09:06:36


大調和の神示講義①
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=VgizmeNHhD8

           <感謝合掌 令和4年10月18日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/10/19 (Wed) 11:36:02


大調和の神示講義②
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=UeFTAftYHbc

           <感謝合掌 令和4年10月19日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/10/20 (Thu) 12:05:26


大調和の神示講義③
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=SDWU0hZ7YOY

           <感謝合掌 令和4年10月20日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/10/22 (Sat) 08:15:40


大調和の神示講義④
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=mxG98HO2c2k

           <感謝合掌 令和4年10月22日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/10/23 (Sun) 10:28:38


大調和の神示講義⑤
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=3-D899OeOQ0

           <感謝合掌 令和4年10月23日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/10/24 (Mon) 07:26:00


大調和の神示講義⑥
無礙光(2014/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=_tSa2pnc0_I

           <感謝合掌 令和4年10月24日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/10/26 (Wed) 10:07:54


Web:光の進軍
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/33daichouwa.htm

(以下は、「大調和」に関する部分の抜粋の紹介です)


「生長の家」の教義の中心となる神示は、「大調和の神示」であります。

この神示の中で大切なところは

「天地一切のもと和解せよ」

「天地の万物に感謝せよ」

というところであります。

生長の家では、私達が、天地一切のものとの和解が成立する時は
天地一切のものが私達の味方になると教えているのであります。

つまり敵と云うものは本来ないと云うことであります。
この事は大変大切な事であります。

 
ですから神示のなかには

「天地一切のものが汝の味方となるとき、
 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ」

と断定して、教えられているのであります。

敵を認めて、何とかしてその敵と和解しなくてはならないと考えている人は、
すでにその人は心の中に敵を認めているために「認めたものは現れる」という
心の法則によりまして、その人の環境から敵と見えるものは、消えないのであります。




「大調和の神示」の中には、

「天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である」、

「感謝し合ったとき本当の和解が成立する」、

「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いをうけるであろう」

と、この様に示されているのであります。

実相を直視して、徹底感謝の生活をすることが、
大調和の世界を顕現する為には大変大切な事なのであります。

           <感謝合掌 令和4年10月26日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/10/28 (Fri) 09:42:47


多くの母親は子供のことを餘りに取越苦勞するために、
却つて子供に惡思念を放送して子供の健康や運命を害してゐる。
或る母親は一瞬間でも自分の眼の前にゐないと心配でたまらないのである。

彼は自分の想像の中(うち)で、躓いて轉んでゐる自分の子供の姿を思ひ浮べる。
自動車にひかれて死にかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。
水に陥(はま)つて溺れかゝつている自分の子供の姿を思ひ浮べる。

世の母親よ、何故(なぜ)あなたはこの反對をして可(い)けないのか。
こんな取越苦勞が起るのは、子供を神の子だと思はないで人間の子だと思ふからである。

神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。

人間の子だと思ふものは終世(しゅうせい)、取越苦勞をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思ふものは、子供を尊敬して出來るだけその世話をさせては頂くが、
神が守つてゐ給ふと信ずるが故に取越苦勞は必要はないのである。

人間力で子供を生かし得ると思ふなら終日終夜起きて子供の番をしてをれ。
それは出來なかろう。
出來ない間に子供を生かしているのは神の力である。

(日付不明)

           <感謝合掌 令和4年10月28日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/10/31 (Mon) 08:01:46


     *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《児童教育に關する神示》」
      より抜粋

(1)教育の根本は、
   「人間神の子」は実は「人間の子」ではなくして
   「神の子」であということであります。

(2)「神の子は神を育てる」のである。

(3)教育の根本は、人間を単なる肉体的存在だと思わず、
   ”神の自己実現”であると尊敬して、人のうちに内在する
   神性・仏性な”無限の可能性”を拝み顕(いだ)すところに
   あるのであります。

           <感謝合掌 令和4年10月31日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/11/01 (Tue) 08:49:02

(4)教育に最も大切なのは”観”をかえることであります。

   人間を”無限の可能性”を内に蔵する”神の子”として観じ、
   その”無限の可能性”を愛語と讃嘆の言葉の力にて
   引き出すことが本当の教育なのであります。

(5)両親の心配は”精神波動”の放送となり、それを子供は受像して、
   心配した通りの状態をテレビの受像機のように
   眼に見える象(かたち)にあらわす事になるのであります。

   だから子供を愛する親たるものは、「常に子供が”神の子”で
   あって神に護られている」ということを念じて、平和と調和と
   幸福の”精神波動”を子供に対して放送するようにしなければ
   なりません。

(6)子供の姿は、親の心の姿の投影(かげ)なのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月1日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/11/04 (Fri) 07:55:27


聖書に吾らが祭壇に對して供物(そなえもの)を獻ずるに當つては、
先(ま)ず兄弟と仲直りしなければならないと云(い)ふことが書いてある。

吾らは食事をとるに當つても矢張り
これと同じことをしなければならないのである。

何故(なぜ)なら食事は
自己に宿る神に供へ物を獻ずる最も嚴肅な儀式であるからである。

一椀を手にしては
是れ今迄過ちて人に對して憎み怒りし自己の罪が神によって
許されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)ひて食せよ。

二椀を手にしては
是れすべての人の罪が神によりて許されんがための供物(そなえもの)
であると念(おも)ひて食せよ。

三椀を手にしては
是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんが為の供物であると念(おも)ひて食せよ。

而(しか)して一杯の飲料を手にしては
すべての人の罪をこの水の如く吾が心より洗ひ流して
心にとゞめざらんがための象徴(しるし)と思ひて飲め。

若(も)し病人にして醫藥を服用する者あらんには
それを四口(よくち)に分けて飲み、
この同じ想念をなして飲めば病(やまい)必ず速(すみやか)に癒えるのである。

すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、
吾らの過(あやまち)をも亦大生命なる神より
恕(ゆる)されんがためである。

若(も)し吾等(われら)が心を閉ぢて他(た)を恕(ゆる)さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて
吾等に流れ入ることは出來ないのである。

   (昭和五年十一月四日神示)

           <感謝合掌 令和4年11月4日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/11/05 (Sat) 07:21:48


     *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《食事の神示》より

(1)現在は『生長の家の食事』ですが、
   昭和24年4月の『生長の家』誌において
   『和解の神示』として書かれてあります。
   その点をふまえて谷口雅春先生の御講義をお読みください。

(2)食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるのです。

(3)大生命の癒能(ゆるすちから)を流れ入らしめるには、
   すべての他の人の罪を恕(ゆる)すことが必要なのです。

           <感謝合掌 令和4年11月5日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/11/06 (Sun) 07:17:22



(4)着衣喫飯みな仏法。

  ①生活の作法というものは其の儘精神に影響するものでありますから、
   非常に大切な事なのであります。

  ②しかし、型から入りながら、型を行じながら型を超えて、
   自然そのままになっている境地を目指すのです。

(5)食物は、その奥にある霊的生命を観て、
   それに感謝して食物をいただくとき、
   内在価値が展開してくるのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月6日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/11/07 (Mon) 08:13:31


(6)人間は、「聖霊なる神の生命」の顕現であり、その「聖霊なる神の生命」に
   供え物を献納するところの行事が、三度の食事であるというのであります。

(7)神示にある通りの神聖なる行事(罪を「洗い流す」象徴的行事)を通して、
   「心の世界」に潜在化している罪を洗い流し、一層ハッキリと罪を消すことが
   出来るのであります。

(8)肉体の病気なんか、たとい治っても、その肉体は十年先か二十年先か知らぬが、
   やがて死んでしまう。

   けれども、人を怨んだり憎んだりしておったら、其の人の肉体は死んでも、
   魂が霊界に行ってからも、まだ怨んだり憎んだりしておって、それこそ、
   其の人の霊魂は地縛の亡者になって彷徨(さまよ)わなければならんということに
   なるのであります。

   ですから、肉体の病気が治るということよりも、「人を憎む」という心の病気の
   治ることの方がよっぽど素晴らしい功徳なのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月7日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/11/08 (Tue) 07:29:34


(9)眠りしなに心の重荷を卸(おろ)すための祈りの言葉

   「私は今、神の無限の愛の御手に抱かれているのである。
   神が全ての私の罪を恕し給うごとく、私も亦全ての人の罪を恕すのである。
   私が全ての人の罪を恕すかの如く、神は吾が全ての罪を恕し給い、
   愛の御手を以て、私を抱き給うのである。」

(10)私たちの怒り憎みというものを人類全体から無くする運動こそ
   本当の平和運動だと言うことができるのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月8日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/11/10 (Thu) 07:22:33


病んでゐると云う病は本來ない、苦しんでゐると云う苦しみは本來ない。
『これだけ自分は苦しんでゐる』と、その苦しみを自慢するやうな心は、
却つて病氣を招く心である。

キリストの受難に倣(なら)つて自分も亦苦しまうなどと云ふ心も
愚かな心である。

キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。
十字架も受難ではなく受苦ではなく法樂である。

神の子には『難』の受けやうがなく『苦』の受けやうがなく
任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
すべてが惟神(かんながら)の法樂である。

斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭ふ心も
おのづから消え去つてしまひ、苦もなく、艱難もなく、
苦樂を超越した本當の樂想を生じ、吾れが一變し、天地が一變し、
人生はただ歡びの讃歌に滿たされるのである。

實相は苦樂を超越する法樂であって、
實相をもつて苦もなく樂もないと云ふのは謬見である。
汝らが『樂』と稱する『樂』は本当の『樂』ではないから、
『樂』を求むれば必ず苦を生ずるのである。

五官のうちに、感覚の惑はしのうちに
「樂」があるのとするのは謬見である。

五官の『樂しみ』は
その本性決して『樂』に非ざるが故に『苦』に變ずるのである。

實相はかくの如き假相の苦樂を超越すれども、眞相の『樂』そのものである。
法悦そのものであり法樂そのものである。

その『樂そのもの』が『常住の我』であつて、これが『神の子』である。
『神の子』が『人間そのもの』であつて、その外に『人間』はない。

人間とは常樂を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不惱を言ひ、不懷を言ふ。
肉體は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、
足跡(あしあと)である。
破懷すべきものは人間ではない。

汝らよ、汝ら自身の不苦不惱無病の實相を見よ。  
 
                 (昭和七年十一月十日神示)

           <感謝合掌 令和4年11月10日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/11/12 (Sat) 07:39:25

『無病常楽の神示』朗読~谷口雅春先生
生長の家大神( 2017/03/02)
https://www.youtube.com/watch?v=vjtRhhTeLOU

           <感謝合掌 令和4年11月12日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/11/13 (Sun) 08:07:25


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
          《無病常樂の神示》」より抜粋

(1)神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく、
   任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
   すべてが惟神(かむながら)の法楽である。

(2)「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物ではない。

(3)先ず自分がなくなることが必要である。

   「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れ入るように
   「神」を流れ入らしめたら、「吾れが一変し、天地が一変し、
   人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

   実相は苦楽を超越する法楽であって、
   実相をもって苦もなく楽もないというのは謬見である。

           <感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/11/14 (Mon) 06:53:01


(4)実相というものは、相対の「楽」ではなくて、「絶対楽」であり、
   その「楽」そのものが「本当の人間」だと言うのであります。

   「本当の我」と「楽」とは一体てであるというので、
   爰には涅槃経の"常楽我浄"の大乗仏教思想と同じものがあらわれているのです。

   苦しんでいるのは「本当の我」ではないのであって、
   「本当の人間」とは常楽即ち常に楽しいのであります。
   「人間」とは本来無病のものなのです。

(5)本当の人間は「神の子」ですから、
   絶対に病気もしないし苦しみもしないのであります。

   だから神示には
   「人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う」
   とあるのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/11/15 (Tue) 07:31:06


(6)肉体の現在の状態は心の足跡でありますから、
   心がどこを歩むかということによって、
   肉体の健、不健の状態の現れようが変って来るのであります。

   肉体は人間じゃなくて「心の痕跡」であるとは巧みな形容であります。
   だから、病気が現れておっても、それは「人間」が病気をしているのではなくて、
   「心の足跡」がそんな姿にあらわれているのに過ぎないものですから、
   「病気は無い!」とはっきり言えるのであります。

(7)生長の家の神様は罰を与えないけれども、
   自分自身で自己処罰して罰を与えるのです。

(8)人間は「肉体」ではないのですから
   霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、
   他を生かすようにしていれば、自分が生きて来るようになるのです。

           <感謝合掌 令和4年11月15日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/11/16 (Wed) 07:41:23


(9)「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら、
   自然に他の人にも、その真理を伝えたくなるのです。

   他に伝えたくならないようだったら、
   「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。

(10)人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、
   全体とのつながりに於いて生かされているのであるということが、
   神の子の自覚であるということを忘れてしまって、

   自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、
   そういう間違った考えを起すことになるのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月16日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/11/25 (Fri) 07:30:14


物質の束縛に縛られざるものを人間と言ふのである。
眞の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉體ではない。
肉體ではないから物質の世界に出入(しゆつにふ)する事もない。

物質の世界に出入(しゆつにふ)する事がないから
物質の世界より見れば人間は不生(ふしやう)である。
不生であるから滅することも亦ないのである。

物質界は念に從つて生ずる念の映像なるが故に、從つてまた滅すれども、
『人間』は本來物質界に生ぜざるを以て又滅すると言ふ事もない。
人間は本來『生(しょう)』である。

『滅』に対する『生』ではなく本來『生(しやう)』であるから、
老なく、病なく、死なく、破壞がないのである。

老とは『生(しやう)』の衰耄(すいもう)を言へども、
人間は本來『生(しやう)』であるから衰耄せず老朽しないのである。

衰耄は『生(しやう)』にあらず、人間に非ず。
衰耄なきを『人間』と言ひ、老朽せざるを『人間』と言ふ。
病なきを『人間』と言ひ、死なきを『人間』と言ふ。

釋迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言へども、
釋迦はそのときまだ『人間』を見てゐたのではない。
念の影を見て『人間』と思ひ違ひしていたに過ぎない。

釋迦が此の世を見て無常と觀じたのも『眞の人間』の世を觀たのではない。
それは無明の投影の世を觀て無常としたのである。

眞の人間は無常の中にあらず、肉體の中にあらず、
人間は永遠不死、金剛身、如來身、實相身、清浄身である。

人間は神の子なるが故に本來『淨(じやう)』にして不淨ではない。
人間を指して不生不滅不垢不淨(ふしやうふめつふくふじやう)と言ふのは眞相ではない。

般若(はんにや)の思想は無常想から實有(じつう)想に到る過渡的思想であるから、
不生不滅不垢不淨を説きたれどもこれは物質に譬喩しての方便説である。

人間は不生不滅ではなく、本來生(しやう)にして不滅がその實相である。
また人間は不垢不淨ではなく眞清淨真無垢(しんしやうじやうしんむく)がその實相である。

本來生(しやう)、不滅、本來清淨眞無垢なる人間の實相を知つたとき
汝らは歡びに滿されて手の舞ひ足の踏む所を知らないであらう。

                   (昭和七年十一月二十五日神示)

           <感謝合掌 令和4年11月25日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/11/26 (Sat) 07:03:15

本来生、不滅の神示    谷口雅春
tmr0423(2020/07/01)
https://www.youtube.com/watch?v=lP5SW7txUzs

           <感謝合掌 令和4年11月26日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/11/27 (Sun) 07:28:49


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
          《本來生、不滅の神示》」より抜粋

(1)「物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。
   真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。
   肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。

   物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。
   不生であるから滅することも亦ないのである。」

(2)「不生」とは「生れぬ」と書いてありますが、
   人間は肉体がオギャーと生まれた時に生れたのではないのでありまして、
   それ以前からおるのであります。

   久遠不滅の神の「いのち」が
   今此処に生きているのが人間ですから、人間は「不生」である。
   不生であるから死ぬこともないというわけであります。

           <感謝合掌 令和4年11月27日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/11/28 (Mon) 07:59:11


(3)吾々の五感による感覚には人間はオギャーと生れた時に
   「生れたいのち」を知るのですけれども、
   生れたものは亡びなければならない。
   生じたものは滅しなければならない。

   これは永久に変わることなき真理であります。

   だからこの「生じたところの肉体」を
   「自分」だと思っている限りに於いては、
   人間は死ななければならないのであります。

   「不生」を得るには、
   その考えをクラリと換えることが必要なんであります。

(4)人間は物質に非ず、肉体に非ずと生長の家で教えられる。

   今迄物質だと思っていた世界が、物質じゃないのであって、
   霊であるということが判るわけであります。

   即ち釈迦が悟られた時のように山川草木国土悉皆成仏
   ――みんな仏の「いのち」の「現れ」である
   ということが判るのであります。

   そして一切のものが「物質」ではなく、人間も「肉体」ではなく、
   「物質」ではないということがわかります。

   そうしますと、人間の"rebirth"即ち「新たに生れる」「生れ更り」
   というものが成就するのであります。

   その「生れ更り」が成就すれば、
   世界そのものが変貌するのであります。

           <感謝合掌 令和4年11月28日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/11/29 (Tue) 07:21:43


(5)本来『生』というところが注目すべき焦点であります。

   人間は「不生」なんですけれども、本来『生』なんです。
   つまり始めなき初めから"生きて"いるのです。

   人間は生命"そのもの"なのです。
   現象界に生れたり滅したりするのではなくて、永遠に「生」なのであります。


(6)肉体というのは念の影であって、
   「人間ではない」というのが神様の教えであります。

   そして「念」というものが形に現れる。
   「念があらわれる」いうのは、私だけの念があらわれるのじゃなくて、
   〇〇億の人類というものはみんな「肉体というものは老いるものである」
   という念波を起しているのであります。

   それでその人類の念が、誰の肉体にもあらわれるのであります。

   それを人類の念(即ち人類意識)の具象化と申します。

   その人類意識の具象化に逆らって、多少でも若いのは、
   私の特殊の精神波動という面が形に現れて、
   割合若く見えているというだけのものであって、
   その若く見えている肉体が人間ではない。

   それは人間の念の影で出来た皮袋であって、
   「人間を見ない」ものであるということになるわけであります。

   だから「老朽せざるを人間といい、病なきを人間といい、
   死せざるを人間というのである」と神様は宣言せられた。

   何という素晴らしい宣言ではありませんか。
   これ一つを聴くだけでも、素晴らしい大真理を知らされたものだと
   歓喜勇躍すべきものであります。

           <感謝合掌 令和4年11月29日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/11/30 (Wed) 07:28:54

われは七つの燈臺に火を點ずる者である。
われは白髪の老翁である。
白髪とは久遠永劫よりつゞく無量壽の象徴である。

われは彦火火出見尊が魚釣(なつ)らす鈎(つりばり)を失ひ給ひて
憂い泣きたまふ海邊に來りて、尊を龍宮界に導きたる
鹽椎神(しほつちのかみ)である。

鹽椎神とは水火土之神(しほつちのかみ)の謂(いひ)である。
靈は水火土と顯れ、一切のものは水火土から生れたのである。
われは靈の海、創造の神である。

水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土(つち)』の働きとがあって
萬物は生ずるのである。

黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鍵を持てり』
と録(しる)されてゐるのがそれである。

われを單に海の神だと思うな。
龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、
龍宮無限供給の神のシンボルである。

われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無盡藏である。

日本の國が貧しくなつたとて嘆くことはない。
日本の國は不幸にして我れを容れなかつたのである。

キリストの教會を閉鎖せしめ、そのほか色々の壓迫を加へた。
『生命の實相』も不當に用紙を配給せぬやにしてその出版を閉鎖したのである。

われは愛の神であるから神罰を當てたのではない。
眞理に目を閉ぢ、『我』を突き貫(とほ)してつひに自壞するときが來たのである。

日本の國民よ、嘆くな。
迷ひの自壞の後には必ず《住みよし》の世界が來るのである。

われを戰ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。
住吉とは平和の理想境と云ふことである。

わが行くところに平和は來り、わが行くところに龍宮無限の供給は來るのである。
キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのがいかぬのである。

陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、
鹽釜の神を傍(かたはら)に押し込めてある。

軍國主義の神を正座に置いて、平和の神を別座に一段下におとしてあるの
が今までの日本の姿であつたのである。

このやうな状態では日本が負けたのも仕方がない。
折角今此處にある無限の供給を閉ぢ込めて置いて、
増産を高唱してもそれは空念佛である。
 
まだ日本の眞の姿はあらはれてゐない。
今は伊邪那岐神の禊祓のときである。
伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。

これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍(まが)が出て來るが、
それは、日本が『穢(きたな)き』心になつてゐたときの
汚れが落ちる働きであるから憂ふることはない。

この禊祓(みそぎはらひ)によつて日本國の業が消え、
眞に淨まつた日本國になるのである。

心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、
禍(わざはひ)を傳じて福となさねばならぬ。

かくて齋女(いづのめ)の神はあらはれ、
本當にこの世が齋(いつ)き清められて、
その後(のち)に住吉の神があらはれるのである。

住吉の神はまだ本當にあらはれていぬ。

併(しか)しもうあらはれるに間もないのである。
住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が眞に清められて、
日本の實相莊嚴の姿があらはれるのである。

古事記の預言を廢(すた)れりと思ふな。預言は成就しつゝあるのである。
たゞその預言を間違つて解釈する人が多いのである。

            (昭和二十年十一月二十七日未明神示)


          <感謝合掌 令和4年11月30日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/12/02 (Fri) 07:57:00


       *『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《終戦後の神示》より抜粋

(1)水火土之神(しほつちのかみ)は創造の本源の神であるから
   「無にして無尽蔵の神である」から この神の御意(みこころ)の
   ままに波長を合して実践すれば、其処には龍宮無限の供給が
   現実にあらわれ来るのだと教えていられるのであります。

(2)敗戦や敗戦後の日本は、それまでの自壊作用が具象化したのであります。
   併し自壊作用として病気のような状態があらわれた後(あと)には
   必ず恢復期が来るのであります。

   何故なら現象界に事物があらわれるのは、内部にある想念感情又は
   業の蓄積が象(かたち)にあらわれることによってそのエネルギーが
   消滅するのですから、屹度その次には良き事が来るのであります。

          <感謝合掌 令和4年12月2日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/12/03 (Sat) 07:48:30

(3)作者不明の年代不詳の古代から伝わっておりますお伽話(とぎばなし)
   というものは、一種の神話でありまして、真理の童話の形をもって
   表現されているのであります。

   「桃の実」というのは、桃は「生命の樹(き)」の象徴であります。

   「生命の河」を流れ下る「桃の実」は、生命の河の両岸に茂っている
   ”生命の樹(き)の実」(略して生命の実)であります。

   「その樹(き)の葉は諸国の民を医(いや)すなり」というのは、
   「生命(せいめい)の実(じつ)の相(すがた)を語る”言の葉”」
   は諸国の民を医(いや)すということであります。

(4)まだ住吉大神の本当の宇宙浄化のおはたらきは
   あらわれていないのであります。

   住吉大神の みおしえ は既にあらわれているけれど
   宇宙浄化の御働きがあらわれていない。

   或いは今後キリストの最後の審判としてあらわれるかも知れないので
   ありますが、愈々住吉大神(キリスト)宇宙浄化(最後の審判)の
   おはたらきが顕れて来て、

   伊邪那岐(日本国の象徴)の左の眼が真に浄(きよ)められると、
   天照大御神(日本の実相)がその左眼からお生まれになる、
   即ち「左」は日足りで、光輝く日本の実相荘厳の姿があらわれるので
   あります。

          <感謝合掌 令和4年12月3日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/12/04 (Sun) 07:47:49


(7)私たちは常にこの久遠滅びざる人間を見ることが必要なのであります。
   この久遠病まず、老いず、滅びざる人間を観るとき、
   現象的には病気しておっても「病気していないのだ。病気なんて無いぞーッ!」
   と言うことが出来るのです。

   現象的には老人になっていても、
   「老いるってことは無いぞーッ!」と言えるんです。
           
(8)人間を観れば、「人間<そのもの>」人間の実相を観ることが必要なのです。
   実相を観るのです。実相です。
               
   自分の実相というものは、神の「いのち」そのものであるのです。

          <感謝合掌 令和4年12月4日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/12/05 (Mon) 10:06:49


信仰生活とは、無用意の生活ではない。
すべてに於て完全に用意されてゐる生活である。
凡そ信仰生活ほど完全に用意されてゐる生活はない。

それは心が完全に用意されてゐるだけでなく、
物質にも完全に用意されてゐる生活である。
物質は心の影であるから心が完全に用意されてゐるとき
物質も必要に應じて完全に與へられるのである。

家庭は一つの有機體であるから、
良人が明日の用意をしないときには妻が明日の用意をするやうになる。
妻が明日の用意をしないときには良人が明日の用意をする。

右の手が利かなくなつたら左の手が利くやうに成るのも同じことだ。
それは自然の代償作用でさう成るやうに計らひがあるのである。
それは有難い自然の計らひであるから、夫婦互いに感謝するが好い。

信仰生活とは明日の用意をしない生活だと思つて、
明日の用意をする配偶(つれあひ)を信仰がないと思つて
夫婦が爭ふ信仰深い家庭があれどもみんな誤つた信仰である。

『明日のことを思い煩うな』と云ふ意味は、
『明日の用意をするな』と云ふことではない。
信仰生活とは冬が來てから綿入を縫へと云ふやうな生活ではない。

秋から冬に要る綿入を縫うて置いても、それは『取越苦勞』ではない。
心が整へば秋から冬に要るものがちゃんと判つて、
自然法爾(ひとりで)に其の要る物を用意したくなるのである。

自然法爾(ひとりで)と云ふものは、外から自然に與へられることばかりではない、
内から自然に催して來るこころの中にも自然法爾(ひとりで)がある。

心が亂れて病氣になつたとき心が調へば
その病氣を治すに適當な食物が欲しくなるのも自然法爾(ひとりで)である。

野の鳥も卵を産む前に自然に巣を作りたくなる。
卵を産む前に巣を造つても小鳥は取越苦労をしてゐるのではない。

『生長の家』の生活は物質に捉はれない生活だと言っても、
物質をきたながる生活ではない。

金銭を穢いもののやうに思つてそれを捨てねば氣が安まらぬやうな心も
物質に捉はれてゐるのである。
物質は影であるから綺麗も穢いもない。

卵を産む前に小鳥が巣を造りたくなるやうに自然に用意をしたくなる時には
内からの囁きに導かれて好い、心が調へばその心の展開として用意すべきものは
適當の時に用意したくなる。

すべて用意するものを信仰浅きものと思ふな。
用意しないで取越苦勞をしてゐる生活もあれば、
取越苦勞をしないで自然に用意している生活もある。

(昭和六年十二月五日神示)

           <感謝合掌 令和4年12月5日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/12/06 (Tue) 07:43:41


      *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
        《信仰生活の神示》」より抜粋

(1)受験勉強

   入学試験に際してでも、
   「神まかせ」といって勉強しないのがよいのではなくて、
   神に導かれながら勉強するのがよいのであります。

(2)夫婦補完の作用

   夫婦は互いに一体でありますから、
   妻が明日の用意をしないときには夫が明日の用意をします。
   右の手が利かなくなったら左の手が利くように成るのも同じことであります。

   それは自然の代償作用でそう成るように計らいがあるのであります。
   それは有難い自然の計らいであるから、夫婦互いに反対の性質をもっていて、
   足らぬ所を補ってくれるのを感謝するが好いのであります。

           <感謝合掌 令和4年12月6日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/12/07 (Wed) 07:58:45


(3)「取越苦労するなかれ」とは

   「取越苦労するなかれ」ということが
   『生命の實相』の生活篇に教えられていますが、

   「取越苦労しない」ということを、将来のことについて
   「何もしない」ということになってはならないのであります。

   信仰生活を送っているものは、神様の智慧に導かれ、内からの催しに動かされて
   自然に準備が出来て来るようになるのであって、
   夏のうちに冬の用意をちゃんとして置いても、
   それは取越苦労の生活ではなく、信仰ある者の正しい準備の生活であります。

(4)自然法爾

  ①心が整えば自然の摂理で、先見の明がひらいて来て、
   何でもあらかじめ自然に準備されることになるのであります。

   小鳥が卵を産む前に、巣を造りたくなるように、自然に用意したくなる時には、
   内からの囁きに人間も導かれるようになると、失敗がないのであります。

  ②心が整えば、その心の展開として、
   用意すべきものは適当な時に用意したくなるのであります。

   だからすべて用意すべきものを適時に用意する者を、
   信仰浅きものと思ってはならないのであります。

   用意しないで物が乏しくなって、取越し苦労をしている生活もあれば、
   取越し苦労をしないで、自然にゆたかに用意している生活もあるのであります。

           <感謝合掌 令和4年12月7日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/12/08 (Thu) 08:02:27


(5)捉われない生活

  ①物質を用意しても、必ずしも物質に執着しているとは限らないのであります。
   物質でもお金でも、物質そのもの、お金そのものがきたないのではありません。

  ②物質やお金を利己的目的のために執着するのがいかんのであります。
   財というものは、それ自体は綺麗も穢いもないのです。

   それを何に対して如何なる心境で使うかという事によって、
   それが綺麗にも穢くもなるのであります。

  ③だから生長の家の生活は物質に捉われない生活だと言っても、
   物質を穢ながる生活じゃない。

   物質に執着しないが、却って自由自在につかえるのであります。

  ④物質というものは影であるから、綺麗も穢いもない。
   心が調うたら、影が自然と整うようになるのであります。

  ⑤併し、また宗教に対する献金は清浄なものですから、
   苟(いやしく)も無駄に使ってはならないのであります。

   清らかな心で出された献金は清らかであります。
   清らかな心で使う金は清らかであります。

   清らかな献金を利己的目的に使ってはならないから、
   私は出来るだけ本部の経費もきりつめて、
   自動車なども整理したのであります。

   これが信仰生活であります。

   無限供給であっても傲(おご)ってはならないのです。

           <感謝合掌 令和4年12月8日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/12/09 (Fri) 07:31:12


(6)無限供給とは

  ①「一千万円もらったら何に使おうか」と考えて、
   自分の家を建てて、立派な着物を着て、
   楽をして酒をのんで、遊び女を買ってなどと思うような人は、
   中々一千万円は集まらないのであります。

   もし一千万円が出来たときに、それを何に使おうという立派な使い道があり、
   それにふさわしい能力がチャンと出来たときに、
   「神よ、この目的のために、一千万円を与えたまえ」と念じたら、
   一千万円集まって来ます。

  ②だから、人類のために或いは神様のために、
   この世を光明化するためにという目標が定まって、
   しかも、それを無駄なく有効に使う力が出来てこそ、
   初めて富を祈れば、富が来るということになるのであります。

   若し集まって来た富を使いこなす事が出来ない人に、
   偶然多額の富が集まって来たら、
   小人はそれに振り廻され、その富に翻弄されて、
   自分が危険な所に放り込まれるという事になるのであります。

  ③先ず自分自身の魂が清らかになること、
   自分の心が利己的にケチでなく豊かになること、
   そして心にそれを何に使うかという完全な理想が描かれること、

   その上その理想を実現する能力が研(みが)かれたならば、
   その理想実現に必要なものは、自ずから集まってくるのであります。

           <感謝合掌 令和4年12月9日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/12/10 (Sat) 07:38:00


(9)自己の中に「無常」でないところの、
   本来「常恒不変」なる実在が自分に宿っておって、
   その「常恒不変なるもの」が自分の本質であり、
   本当の「いのち」であるから、
   「無常」というものに満足出来なくなるのであります。

   即ち私たちの「いのち」の本質は「本来常恒」
   ――常に在って滅びないところのものであるわけであります。

          <感謝合掌 令和4年12月10日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/12/11 (Sun) 08:25:34


(10)本当の救いというものは、

   「人間は神の子である。老朽せざるを人間という。
   病まざるを人間という。死せざるを人間という。
   真清浄真無垢なるところの神の『いのちそのもの』が人間だ」

   ということを自覚させて、

   永遠に朽ちざる生命の自覚を与える宗教が一番素晴らしい宗教であり、
   この最も高い救いを与えるのが、生長の家であるのであります。

   そういう真理がこの神示には示されているのであります。

   すなわち、

   「本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき
   汝らは歓びに満たされて、手の舞い足の踏む所を知らないであろう」

   と示されている所以であります。

          <感謝合掌 令和4年12月11日 頓首再拝>

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