伝統板・第二 2471620

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賢者の一日一言(R4年9月)

1:夕刻版 :

2022/09/02 (Fri) 02:00:23

このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。


このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「『一日一語』(二宮尊徳) 」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7539379

(2)伝統板・第二「修身教授録・一日一語(森 信三)」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7150729

(3)伝統板・第二「一日一言(坂村真民)」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6747223

(4)伝統板・第二「吉田松陰・一日一語」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7733095

(5)伝統板・第二「ひかりの一日一言66~実相を礼拝して 生活を光明化するには」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8003480

・・・

賢者の一日一言《1日》


(1)【 9月1日 】天に勝つ事あたわず

   俗歌に「箱根八里は馬でも越すが馬で越される大井川」と言へり。

   其の如く人と人との上は智力にても、
   弁舌にても、威権にても通らば通るべけれど、
   天あるを如何せん。

   智力にても、弁舌にても、
   威権にても決して通る事の出来ぬは天なり。

                  (夜話一四七)

   【略解】
 
   いかなる知力・権力にても勝つことが出来ないのは、
   天の支配力である。

・・・

(2)【 9月1日 】無量の鉱石を掘り起こす

   お互い人間として最も大切なことは、
   単に梯子(はしご)段を一段でも上に登るということにあるのではなくて、

   そのどこか一力所に踏みとどまって、
   己がカの限リハンマーをふるって、
   現実の人生そのものの中に埋もれている無量の鉱石を、
   発掘することでなくてはならぬ。

・・・

(3)【 9月1日 】 《三不忘》

   貧しかった時のことを
   忘れるな

   苦しかった時のことを
   忘れるな

   嬉しかった時のことを
   忘れるな

・・・

(4)【 9月1日 】 公(おおやけ)に背(そむ)いて私に徇(したが)ふこと

   公(おおやけ)に背(そむ)いて私(わたくし)徇(したが)ふ(う)こと、
   吾(わ)れ万死(し)すとも能(あた)は(わ)ざるなり。

             安政六年二月二七日
              「要駕策主意(ようがさくしゅい) 上(じょう)」

   【訳】

   国家に背いて、自分一身の欲望を満たすことなど、
   私は何回殺されても、そんなことはできない。

・・・

(5)《1日 天上天下唯我独尊の自覚》

   正しい信仰というものは、
   釈尊が尼蓮禅(にれんぜん)河畔(かはん)で迷いを去って

   悟りをひらかれた時のように

   「 天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」 と

   知ることであり、


   キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り、

   「 われ神の子 」 と宣告されたように、

   あなたも亦(また)、
   「 われ神の子、天上天下唯我独尊 」 と悟ることなのである。

   この「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、
   決して、利己主義でも個人主義でもないのである。

   自己( 自個 )の内に“ 独尊 ”の絶対価値をみとめるとき、

   はじめて“ 他個 ”の中にもある
   “ 独尊 ”の絶対価値を見ることが出来るのである。

   自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、
   どうして“ 他個 ”のうちに絶対価値をみとめて、
   それを礼拝することができるのであろうか。

      『 生長の家 』昭和44年12月1日の法語

           <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/09/03 (Sat) 05:00:04


(1)【 9月2日 】仁義礼智の徳性を

   人心は譬(たと)へば、
   田畑に生ずる莠草(はぐさ)の如し、
   勤めて耘(くさぎ)り去るべし。

   然(しか)せざれば、
   作物を害するが如く、道心を荒す物なり。

   勤めて私心の草を耘り、
   米麦を培養するが如く、
   工夫を用ひ、
   仁義礼智の徳性を養ひ育つ可し。

              (夜話一三三)

   【略解】
 
   人心の雑草を除去し、
   道心の徳性を培養すべしとの教えである。
   道心とはに義礼智の心をいう。

・・・

(2)【 9月2日 】自己を築く道具とこつ

   人間も自己を築くには、
   道具やこつが必要です。

   この場合道具とは読書であり、
   こつとは実行をいうのです。

   このニつの呼吸がぴったり合うところに、
   真の人間はでき上がるのです。

・・・

(3)【 9月2日 】 《序詩》

   花咲けば
   共に眺めん

   実熟せば
   共に食べん

   悲喜分かち
   共に生きん

・・・

(4)【 9月2日 】 悪(あく)決して為すべからず

   天道人心(てんどうじんしん)は昭々明々(しょうしょうめいめい)たり、
   悪決(あくけつ)して為(な)すべからず。

              安政六年四月二十四日
             「范滂(はんぼう)、子を顧みるの語(ご)を釈(しゃく)す」

   【訳】

   宇宙の道理や人の心はあきらかで、晴れ晴れとしたものである。
   悪いことは決して行ってはいけない。

・・・

(5)《2日 天地の万物一切に絶対価値を見出すこと》

   「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、
   「 有情(うじょう)・非情(ひじょう)同時成道(どうじじょうどう)」
    の悟りに連るのである。


   自分だけが“ 独尊 ”であって、
   他のものは悉く自分より下等なものであるというような
   “ 自己 ”中心的な“ 他個 ” 軽蔑的なものの考え方は
   凡そ悟りから遠いものなのである。


   “ 有情 ” 即ち “ 情(こころ)あるもの ” も
   “ 非情 ” 即ち “ 情(こころ)なきもの ”( 無機物 ) に至るまでも悉く、
   同時に“ 道 ” の現成であるということが「 有情・非情同時成道 」 である。

   “ 道( コトバ ) ” は天地に満つる “ 法 ” であり、
   「 太始( はじめ )に道( コトバ )あり 」( ヨハネ伝 )の
   “ 道( コトバ )”であり、“ 仏性 ”であり、“ 法身の如来 ”であり、
   天地の理法であり、“ 神 ”である。


   かくして、有情・非情を“ 法身の如来 ” が
   そこに姿を顕わされたものであるとして見るとき、

   天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢(ごうまん)のかげもなく、
   その独尊の絶対価値を 天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/76456cb2933201398ca8056aec3cb528

           <感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/09/04 (Sun) 04:59:58


(1)【 9月3日 】大海の家台船

   家屋の事を、
   俗に家船(やぶね)又家台船(やたいぶね)と云ふ、
   面白き俗言なり。

   家をば実に船と心得べし。
   是を船とする時、主人は船頭なり。
   一家の者はみな乗合ひなり。
   世の中は大海なり。

   然る時は、
   此の家船に事あるも、
   又世の大海に事あるも、
   皆遁れざる事にして船頭は勿論、
   この船に乗り合せたる者は、
   一心協カこの家船を維持すべし。

                (夜話八八)

   【略解】

   この家台船の説には衷心より納得するものがある。
   慎まなければならない。

・・・

(2)【 9月3日 】優れた師① 叱ずして悦服させる

   本当に偉い方というものは、
   そうみだりに声を荒らげて、
   生徒や門弟を叱られるものではないのです。

   第一その必要がなかろうと思うのです。 

   大声で生徒を叱らねばならぬということは、
   それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠です。

   つまりその先生が、
   真に偉大な人格であったならば、
   何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはすであります。

・・・

(3)【 9月3日 】 《一遍一念》

   この世は
   一遍きり

   だから
   一念を
   貫いてゆこう

・・・

(4)【 9月3日 】 天下(てんか)一人(ひとり)吾れを信ずるものなきも

   天照(あまてらす)豈(あに)に霊なからんや。
   先公(せんこう)豈に神(しん)なからんや。

   霊神(れいしん)蓋(けだ)し謂(おも)ふに、
   吾が誠未だ至らず、

   姑(しばら)く吾れに戯むるるに艱難を以てし、
   吾れを欺くに挫折を以てするか。

   天下一人の吾れを信ずるものなきも、
   吾れに於ては毫(ごう)も心を動かすに足るものなし、

   独(ひと)り天照(あまてらす)・先公(せんこう)の棄つる所となるは、
   吾れ其れ勝(た)ふべけんや。 

                  安政6年3月23日「※和作に与ふ」


   【訳】

   天照大神にどうして霊魂がないであろうか。必ずある。
   これまでの歴代藩主にどうして神霊がないであろうか。必ずある。

   思うに、私の誠が足りないから、それらの霊魂は
   しばらく私に辛い苦しみを与え、また私の思いをくじくのであろうか。

   この天下に一人も私を信じてくれるものがいないとしても、
   私にとっていささかも心を動かすものではない。

   ただ、天照大神や歴代藩主の霊魂に見捨てられたら、
   私はどうしてそれに耐えることができようか。できはしない。

          ※和作は入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟である野村和作。
           後の子爵 野村靖。

・・・

(5)《3日 実相の完全さを礼拝せよ》

   万物に内在する絶対価値を見出すには、
   浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、
   心を引っかからせてはならないのである。


   浮動変化して常なき有様が ――  時には現象の表面に
   不完全な様相をあらわすような事があっても、それは唯、外見であって、
   内には完全円満な“ 如来 ”を蔵するものである。

   その内に埋没せる“ 如来 ”は、
   外面の不完全さのみを見ていては 現れて来ないのである。

   どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
   実相の完全さを見るとき、それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、

  “ 内在の如来 ”の完全さがあらわれて来るのである。

 (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f575134098da0c0f7b97d38f01fab3f

           <感謝合掌 令和4年9月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/09/05 (Mon) 04:45:50


(1)【 9月4日 】婦女子の教訓書

   若(も)し男子にして「女大学」を読み、
   婦道はかかる物と思ふは以ての外の過ちなり。

   女大学は女子の教訓にして、
   貞操心を鍛錬するための書なり。

   夫(そ)れ鉄も能々(よくよく)鍛錬せざれば、
   折れず曲らざるの刀とならざるが如し。

   総て教訓は皆然り。

   されば男子の読むべき物にあらず、
   誤解する事勿(なか)れ。
   世に此の心得違ひ往々あり。

          (夜話一五五)

   【略解】
 
   貝原益軒の「女大学」に対する評価と共に
   男性の誤解をとかれる細心の用心に頭が下がります。

・・・

(2)【 9月4日 】優れた師② 共に道を歩む

   優れた師匠というものは、
   常にその門弟の人々を、共に道を歩む者として扱って、
   決して相手を見下すということをしないものであります。

   ただ同じ道を、
   数歩遅れてくる者という考えが、
   その根本にあるだけです。

   ですから、
   自分一人が山の頂上に腰を下して、
   あとから登ってくる者たちを眼下に見下して、
   「何を一体ぐずぐすしているのか」
   というような態度ではないのです。

・・・

(3)【 9月4日 】 《フラフラするな》

   人間は徒労と思えるようなことを、
   一しょうけんめいすることだ。

   坐でもそうだ。
   何にもならんかも知れぬ。

   しかしその何にもならんと思われるなかに、
   限り知れないものがあるのだ。

   詩作もそうだ。

   フラフラするな、

   グラグラするな、

   現代を見つめ、
   現代に動かされるな。

・・・

(4)【 9月4日 】 剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)

   文武(ぶんぶ)御興隆(ごこうりゅう)の大本)おおもと)は(中略)
   剛毅木訥の風(ふう)を成し候段(そうろう)、第一義と存じ奉り候。 

             嘉永4年2月20日「文武稽古万世不朽の御仕法立気付書」

   【訳】

   学問と武芸を盛んにするために、最も大切なことは(中略)
   意志がしっかりしていて、飾り気がないという精神的な雰囲気を
   作り上げることだと思います。

・・・

(5)《4日 子供を優良にするには》

   実相は既に円満完全であるという真理を前提として立って、
   その円満完全さは観じて礼拝することによって
   現実となるのであるという方法論を生活に応用すれば、

   生活が裕かになり、教育に応用すれば子供が良くなり、
   治病に応用すれば、健康が増進するのである。


   神想観の姿勢をとり、合掌瞑目して、
   自分の子供が既に円満完全であるところの理想的姿を
   眼瞼(まぶた)の裏に描いて、それをジッと見詰めながら、

   “ ありがとうございます。私の良い子よ ” と念じて礼拝し感謝するがよい。


   この行事を毎日つづけるならば、
   あなたの子供の完全なる実相が現実化して、
   本当に優良な子供になって来るであろう。

   但し、
   「 この子は、“ どうも不良であるから ”、こうしてその不良を治すのだ 」
   などと
   考えてはならない。

   「 不良である 」 という前提を深く信念に握っている限り、
   その信念が現実化するから不良が治らないのである。


   「 この子は、神の子であって、本来も、今も既に完全である 」 と見立てて、
   礼拝し感謝するのでなければならない。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7139d937f364779ae4208dbb0affa066

           <感謝合掌 令和4年9月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/09/06 (Tue) 04:48:32


(1)【 9月5日 】恩あればなり

   たとひ明日食ふべき物なしとも、
   釜を洗ひ膳も椀も洗ひ上げて餓死すべし。

   是れ今日まで用ひ来りて、
   命を繋(つな)ぎたる、恩あればなり。

   これ恩を思ふの道なり。
   この心ある者は天意に叶ふ故に長く富を離れざるべし。

                      (夜話二〇一)

   【略解】
 
   いただいた恩を忘れず少しでも報いようとする心がけは、
   天意に叶う第一条件ではないだろうか。

・・・

(2)【 9月5日 】四十歳

   人生を山登りに喩(たと)えますと、
   四十歳はちょうど山の頂(いただき)のようなもので、

   山の頂に立って見ますと、
   わが来し方も、
   初めてしみじみと振り返って見ることができると共に、

   また後半生をいかに生きたらよしカということも、
   仄(ほの)かながら見え始めて来るようであります。

   それはちようど山登りにおいて山の頂に達すれば、
   わが来し方を遥かに見返すことができるとともに、
   また今後下り行くべき麓路も、
   大体の見当はっき始めるようなものです。

   それ故(ゆえ)人間も四十歳前後になったならば、
   自分の一生について、
   大体の見通しがつきかけねばならぬと思うのです。

・・・

(3)【 9月5日 】 《一心不乱》

   心を一つにして乱れず

   これだ
   これだけでいいのだ

・・・

(4)【 9月5日 】 一路あるのみ

   遇(ぐう)に安(やすん)じ天を楽しむの一路あるのみ。 

               安政6年5月2日「知己難言(ちきなんげん)」

   【訳】
 
   今ある境遇に安んじてあくせくしない、という生き方があるだけである。


・・・

(5)《5日 神想観によってあなたの健康を》

   人間の実相は本来完全であるという真理の前提に立って、
   その本来の健康をあらわすためには、

   やはり、その実相の完全さを心に描いて、
   それを凝視し、礼拝し感謝するがよいのである。


   病気を“みとめて”、それを治そうとして、
   単に、「 手段 」のために「 完全さ 」を心に描いて礼拝しても、

   「 人間は不完全で、病気になる 」という前提が、
   心の奥ふかくつかまれているならば、
   心の奥ふかくつかまれている想念の姿が、形の世界にあらわれるのであるから、

   「 人間本来病むべきもの 」という迷いの観念を
   心から放してしまうことが 先ず 必要なのである。


   それが即ち 神想観の最初の“ 唱(とな)え言(ごと)”

   「 われ今、五官の世界を去って実相の世界にいる 」である。


   心が五官の世界を去ったら、
   「 人間本来病むべきもの 」という現象界の前提がなくなる訳である。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/da726a043db7f9335da3991d73ec3726 )

           <感謝合掌 令和4年9月5日 頓首再拝>

6:伝統 :

2022/09/07 (Wed) 04:23:10


(1)【 9月6日 】智・礼・義・仁の次第

   夫(そ)れに仁義礼智を家に譬(たと)ふれば、
   仁は棟(むね)、義は梁(はり)なり。札は柱なり、智は土台なり。

   (中略)

   家を作るには先づ土台を据え、
   柱を立て梁を組んで、
   棟を上げるが如く、
   講釈のみ為すには、
   仁義礼智と云ふべし。

   之を行ふには、
   智礼義にと次第して、
   先づ智を磨き礼を行ひ義を蹈みにに進むべし。

                  (夜話二一八)

   【略解】
 
   修身は仁義礼智に尽きるが、
   その順序次第としての智礼義ににも尊徳翁の洞察眼が光っている。

・・・

(2)【 9月6日 】人生の分水嶺

   人問も、
   三十五歳から四十歳にかけては、
   人生を二等分する分水嶺とも言うべき年齢であって、

   人間も四十の声を聞けば、
   かの一葉落ちて天下の秋を知るというように、
   落莫(らくばく)たる人生の秋風を身に感じ始める年配です。

   それというのも、
   四十の声を聞く頃には、
   たいていの人がまず肉体の秋を感じ始めるのが普通と言ってよいでしょう。

   ですから、
   人間も四十を超えてなおかつ
   わが生命の愛惜(あいせき)に思い至らぬというようでは、
   よほどどうかしていると言われても致し方ないでしょう。
   ・
   愛惜=大切にする

・・・

(3)【 9月6日 】 《坐ること》

   とにかくすわることだ。
   坐ってさえおれば、
   道はひらけててゆく。

   そして、その道は正しい道である。

   坐り方が足らないと、
   邪道に走ったり、病気をしたりする。

   坐はわたしの詩の骨髄である。
   タンポポもしつかり大地に坐っているのだ。

   これを学ばねばならぬ。

   禅を頭で考える人は、
   結局どこかにだめな処がある。

・・・

(4)【 9月6日 】 人は唯だ真なれ

   人は唯(た)だ真(まこと)なれ。
   真、愛すべく敬すべし。 安政6年5月4日「※和作に与ふ」

   【訳】

   人はただまごころだけである。
   まごころは愛すべきであり、敬うべきである。

     ※和作は入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟である野村和作。
      後の子爵 野村靖。

・・・

(5)《6日 祝福を与える者はまた祝福せられる》

   何事によらず、何物であろうとも、
   一切の事と物とを祝福することは、
   事態を好転するための驚くべき不思議な力となるのである。

   「 祝福する 」とは「 詛(のろ)う 」ことの反対である。

   相手の前途に対して、必ず良き事が来ると祈ってあげ、
   且つそれを信ずることである。

   “ 希望の光 ”をもって相手を鼓舞してあげることである。

   「与えよ、さらば与えられん 」の法則に従って、
   あなたが、他の人々を祝福して“ 希望の光 ”を与えてあげるならば、

   あなたは神から、又は何かのルートを通して
   一層“ 希望の光 ” を与えられるに相異ないのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/edceaabd05d4073ac16ddff0f64835fc

           <感謝合掌 令和4年9月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/09/08 (Thu) 04:51:15


(1)【 9月7日 】天に善悪なし(一)

   天に善悪なし故に、
   稲(いね)と莠(ほくさ)とを分(わか)たず、
   種(たね)ある者は皆生育(せいいく)せしめ、
   生気(せいき)ある者は皆発生(はっせい)せしむ、

   人道はその天理に順(したがう)といへども、
   其内に各区別(くべつ)をなし、

   稗莠(ひえはぐさ)を悪とし、
   米麦を善とするが如き、
   皆人身に便利(べんり)なるを善とし、

   不便(ふべん)なるを悪とす。

             (夜話二)

   【略解】
 
   「天に善悪なし」
   とは生々化育を旨とする天意の働きを指すが、
   誤解なきように願いたい。

   「天網恢々疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず」
   の語あり、
   天罰覿面(てきめん)を意味する。

   この場合の天は天道人道を総合したものである。

・・・

(2)【 9月7日 】魂の必然 

   敬うとは、
   自分より優れたものの一切を受け入れてこれを吸収し、
   その一切を奪いとって、
   ついにはこれを打ち越えようとする強力な魂の、
   必然的な現れと言ってもよいでしょう。

・・・

(3)【 9月7日 】 《大きな広い心で》

   宇宙観に立てば
   地獄も極楽もない

   すべては心から
   来ているからである

   苦しむな
   悩むな

   大きな広い心で
   生きてゆくのだ

・・・

(4)【 9月7日 】 死狐 丘に首す

   縦(たと)ひ仁人(じんじん)の譏り(そしり)を受(う)くとも、
    死狐、丘に首す、
    誓(ちか)って正者(せいじゃ)の志(こころざし)を遂(と)げん。

               安政六年五月六日「庸書(ようしょ)の檄(げき)」

   【訳】

   狐(きつね)は死に際し、元々自分が住んでいた丘に首を向ける、
   つまり、本(もと)を忘れないという。
   そのように、たとえ心ある人の非難を受けたとしても、
   誓って、私は正しい志を遂げよう。
 
・・・

(5)《7日 あなたの言葉で人を傷つけてはならない》

   誰でも不快なことを聞くと、自分が不快になるのである。

   人に不快なことを聞かせることは、人に不快な目をさせることになる。

   人に不快な目をさせることは、相手の心を傷つけることである。
   それは相手の肉体を傷つけるよりも一層大なる罪悪である。

   何故なら、“ 心 ” は “ 肉体 ”よりも一層大切なものであるからである。

   人の心を傷つけながら、自分が相手を傷つけている事を知らぬ人がある。
   そして常に、人に“不快な言葉”を聞かせて、
   常に人を傷つけて止まるところを知らないのである。

   だから、釈迦は
   「 悪いと知らずに犯す罪の方が、悪いと知って犯す罪よりも重い 」
   といって教えられたのである。
 
   あなたは決して“不快な言葉”を人に話してはならないのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3190094d2d8a3520db72dc9a8636c921

           <感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/09/09 (Fri) 05:01:44


(1)【 9月8日 】天に善悪なし(二)

   爰(ここ)に到(いたり)ては天理と異なり、
   如何となれば人道は人の立てる処(ところ)なればなり、

   人道は譬(たとえ)ば料理(りょうり)物の如く、
   三倍酢(ばいず)の如く、

   歴代(れきだい)の聖主賢臣(せいしゅけんしん)料理し
   塩梅(あんばい)して拵(こし)らへたる物なり、

   されば、
   ともすれば、
   破れんとす故に政(まつりどと)を立て、
   教を立て、刑法を定め、礼法を制し、
   やかましくうるさく、世話をやきて、
   漸く人道は立つなり、

   然るを天理自然の道と思ふは、
   大なる誤(あやまり)なり、
   能(よ)く思ふべし。

         (夜話二)

   【略解】
 
   天道に従って人道の誠を尽くす、
   これが人間の生き方です。
   それ故、政治、教育、法律ならびに礼儀作法が必要となります。

・・・

(2)【 9月8日 】気品

   気品というものは、
   人間の修養上、
   最大の難物と言ってよい。

   それ以外の事柄は、
   大体生涯をかければ、
   必すできるものですが、

   この気品という問題だけは、
   容易にそうとは言えないのです。

・・・

(3)【 9月8日 】 《サラリ》

   サラリと
     生きてゆかん
      雲のごとく

   サラリと
     忘れてゆかん
      風のごとく

   サラリと
     流してゆかん
      川のごとく

・・・

(4)【 9月8日 】 一身の憂楽を捨てて

   凡そ今日に生れ世禄(せろく)の沢(たく)に浴する者は
   一身(いっしん)の憂楽(ゆうらく)を捨てて、
   国家の休戚(きゅうせき)を以て吾が休戚となすべきこと論を待たず。

   苟も此の志なき者に人に非ざるなり。 

                  安政2年7月17日「講孟箚記」

   【訳】

   だいたい今日に生まれて、世禄の恩恵に浴しているものは、
   一個人の憂いや楽しみを捨て、国家の喜び、悲しみを
   自分のそれとするべきであることは、いうまでもない。

   仮にも、このような志のないものは、人ではない。

・・・

(5)《8日 “ 縁なき衆生は度しがたし ”》

   迷いの中に悩みながら、こちらが救けてあげたいと思うけれども、
   宗教とか信仰とかというものに興味のない人がたくさんある。

   このような人を救うにはどうしてあげたらよいのであろうか。

   釈尊はこういう人の事を「 縁なき衆生は度(ど)し難し 」と仰せられた。
   「 度す 」というのは「 済度(さいど)する 」ことである。

   実相光明世界 ― 即ち「 彼岸 」に度(わた)してあげたいけれども、
   「 縁 」 即ち触れ合う、機会が無いということである。

   肉体は互いに触れ合い、目に触れてはいるけれども、
   「 機 」即ち「 心のはたらき 」が互いに「 会う 」ことがないのである。

   それは恰(あたか)も、
   ラジオの放送電波は現実に今此処に到達しているけれども、
   放送電波と受信機との波長があわないので、

   いくら「 善き助言 」を放送してあげても、
   彼らは波長の合わぬラジオ・セッとのようなものであって、
   心の触れ合う機会がないのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/90d1630fffc8c1e30fcfaf4649754c1d

           <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/09/10 (Sat) 04:56:01


(1)【 9月9日 】実地実行を尊ぶ

   朝夕に善を思ふと云へども、
   善事を為ざ座れば、
   善人と云ふべからざるは、

   昼夜に悪を思うと云へども、
   悪を為さ座れば、
   悪人と云べからざるが如し、

   故に人は悟道治心の修行などに暇(いとま)を費さんよりは、
   小善事なりとも、
   身に行うを尊(とうと)しとす、
   善心発(おこ)らば速(すみやか)に是を事業に表すべし、
 
   親ある者は親を敬養すべし、
   子弟ある者は子弟を教育すべし、
   飢人を見て哀(あわれ)と思はば、
   速に食を与ふべし、

   悪(あし)き事仕たり、
   われ過(あやま)てりと心付とも、
   改めざれば詮(せん)なし、
   飢人を見て哀と思ふとも、
   食を与へざれば功なし、

   故に我が道は実地実行を尊ぶ、
   夫(そ)れ世の中の事は実行にあらざれば、
   事はならざる物なればなり。

         (夜話一四〇)

   【略解】
 
   観念的なキレイごとに終わらず実地・実行・実践を重んずる
   尊徳翁の考えが端的に示されております。


・・・

(2)【 9月9日 】人格的価値の根本

   人間の人格的な価値というようなものも、
   その人が、
   かようかようのことをしたとか、
   言ったとかいうことよりも、

   そうした見えるものを越えて香る気品の床(ゆか)しさにこそ、
   その根本はあると言えましょう。

・・・

(3)【 9月9日 】 《余光》

   年をとると
   沈んでゆく日が
   心にしみる

   特に海に沈んでゆく日の
   静けさ
   温かさ

   その余光の
   美しさ

   人生もかくあれと
   知らせてくださる
   ありがたさよ

・・・

(4)【 9月9日 】 屈を厭はず

   烈夫は屈を厭はず、隠忍(いんにん)して大功を成す。 

                  安政元年9月以降「五十七短古」

   【訳】

   節義のかたい人は、一時的に失敗することをいやがらない。
   じっと耐えて、大きな仕事をなし遂げる。

・・・

(5)《9日 本当は「縁なき衆生」はない》

   では、本当に「 縁なき衆生は度し難し 」なのだろうか。

   「 縁なし 」といって放置して見殺しにしておいて、よいものだろうか。


   現象面では波長が異なり、肉体は触れ合っていてすらも、
   心は互いに断絶していて互いに触れることが出来ないかも知れないけれども、

   実相は彼らも亦“ 神の子 ”であり、本来“ 仏性 ”であり、
   彼らの生命の根元的な面に於いては、互いに密接に“ 一体 ”なのである。

   だから彼らを救ってあげようと思えば
   彼らの生命の根元的な面で彼らと接触すればよいのである。

   即ち、彼らの「 実相 」の円満完全さを心で凝視し礼拝する行事を
   つづけるがよいのである。

   彼らにも“ 実相の完全さ ”が宿っているのであるが、
   彼らの肉体は“ 実相 ”の波長には全然波長の合わない迷妄の波長を起しているために、
   “ 実相 ”と“ 肉体 ”との間が相互断絶していて
   “ 実相 ”は隠覆(いんぷく)されて、恰も眠ったような状態になっているのである。


   私たちが彼らを救わんがために、
   彼らの「 実相 」の円満完全さを凝視して礼拝するのは、

   その眠っている「 実相 」に対して、
   波長のあう霊波を起して「 実相 」を霊波で叩いて
   目を醒(さ)まさせて「 実相 」のハタラキを表面にあらわすためなのである。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ec63f26f27c152f150d8979445c3ea8

           <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/09/11 (Sun) 05:00:34


(1)【 9月10日 】太陽の徳(一)

   此の如く太陽の徳は、
   広大なりといへども、
   芽を出さんとする念慮、
   育んとする気カなき物は仕方なし、

   芽を出さんとする念慮、
   育たんとする生気ある物なれば、
   皆是を芽だたせ、
   育たせ給ふ、

   是太陽の大徳鳴り、
   夫(そ)れ我が無利足金貸付の法は、
   此太陽の徳に象(かたど)りて、立たるなり。

             (夜話六五)

   【略解】
 
   太陽の徳とは大慈大悲の万物をいつくしむ心です。
   尊徳翁の「無利息貸付の法」も、
   この太陽の徳の実践の一つです。

・・・

(2)【 9月10日 】雑務は心がつくる

   雑務という言葉は、
   私達の良く耳にする言葉ですが、

   「一言もってその人を知る」
   まさにこのような場合にも当てはまるかと思うほどです。

   それというのも、
   その人自身それを雑務と思うが故に雑務となるのであって、

   もしその人が、
   それをもつて自分の修養の根本義だと考えたならば、
   下手な坐禅などするより、
   はるかに深い意味を持ってくるでしょう。

・・・

(3)【 9月10日 】 《芙蓉の花》

   私は芙蓉の花が好きである。
   なぜかというと落花が実にいいからである。

   庭に二本の白花があるが、
   その白花さえ落ちる前には薄い紅色がさしてきて、
   天平の乙女(菩薩のと言ってもよい)髪の形をして、
   なにかはじらいつぶやくような身振りで、
   ぽっと落ちる。

   落ちてころりと二回転するのもある。

   それが実に可憐である。

   殆どの花は落花がみじめだが、
   芙蓉の花はまるくおのれをつつんでつつましく落ちる。

   人間かくのごとくありたいものだと思いながら、
   深まりゆく秋の庭に咲く芙蓉の花を、
   朝毎夕毎ながめるこのごろである。

・・・

(4)【 9月10日 】 家の本は身に在り

   〇家の本は身に在り。(孟子本文)

    反求(かえりてもとむ)の二字(にじ)、聖経賢伝百千万言の帰着する所なり。
    在身(みにあり)の二字も亦同じ工夫なり。
    天下の事大事小事此の道を離れて成ることなし。 

                  安政2年8月29日「講孟箚記」

   【訳】

    〇家の本(もと)は身に在り。(家の本は我が身にある)。(孟子本文)

    「反求(かえりてもとむ)」、反省して自分を責めよ、という二文字は、
    聖賢の書に記されている無数の教えの結論である。

    「在身(みにあり)」、全ての問題の原因は我が身にある、という二文字も、
    また同様に、精神の修養に心を用いる方法を説いたものである。

    天下のことは、全てこの修養の道を離れて成就できるものはない。

・・・

(5)《10日 われ常不軽菩薩たらん》

   実相礼拝の行事によって、
   恰も「縁なし」と見える衆生の仏性を目醒(めざ)めしめようとせられた方が、
   法華経の“常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)”なのである。

   この菩薩は「 われ常に軽んぜず 」と唱えて、
   いかなる浮浪者でもヤクザでも、
   また彼を石をもって打擲(ちょうちゃく)しようとした者すらをも、

   「あなたの実相は“如来”でいらっしゃいます。
    当来 必ずその如来の実相のあらわれる方であります」と

   いって、ひたすら相手の実相たる“ 内在の如来 ”を礼拝したのである。

   生長の家人の生き方は、この常不軽菩薩の生き方をすべきである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/abeba2be8eabd8f9b60ae0ebbb0883dd

           <感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/09/12 (Mon) 03:58:36


(1)【 9月11日 】太陽の徳(ニ)

   故に如何なる大借と云へ共、
   人情を失はず利足を滞(とどこお)りなく済(すま)し居る者、
   又是非とも皆済して他に損失を掛(かけ)じ、
   と云念慮ある者は、

   譬(たと)へば、芽を出したい、
   育ちたいと云う生気ある草木に同じければ、
   此無利子金を貸して引立べし、

   無利子の金と云へども、
   人情なく利子も済さず、
   元金をも踏倒(ふみたお)さんとする者は、
   既(すで)に生気なき草木に同じ、

   所謂(いわゆる)縁無き衆生なり、
   之を如何ともすべからず、
   捨置(すてお)くの外に道なきなり。

           (夜話六五)

   【略解】
 
   「無利足貸付の法」は翁独特のに慈の法で、
   再起開拓の気力を増進せられた。

・・・

(2)【 9月11日 】仕事の心がけ①自覚

   大切なことは、
   仕事の処理をもって、
   自分の修養の第一義だと深く自覚することでしょう。

   この根本の自覚がなくて、
   仕事を単なる雑務だなどと考えている程度では、
   とうてい真の仕事の処理はできないでしょう。

・・・

(3)【 9月11日 】 《ありがたいなあ》

   ありがたいなあ
   ありがたいなあ

   どんなに苦しいことがあっても
   生きていることは
   ありがたいなあ

・・・

(4)【 9月11日 】 其の人なし

   将弱くして厳ならず、教道(きょうでおう)明らかならず、
   吏卒(りそつ)常(つね)なく、
   兵を陳(つら)ぬること縦横なるを乱と曰ふ。

   是れ則ち将と吏卒と、皆其の人なし。
   正に今時(きんじ)の弊(へい)なり。

   一旦事あらば、大乱立ちどころに至らん。
   今幸に事なくして、乱形暫く伏す。
   危いかな。 

              安政4年以降「孫子評註」

   【訳】

   大将に能力がなく、威厳がない。
   教えが明確でない。
   指揮官も士卒も平常心がなく、
   防備態勢の立て方が混乱していることなどを乱という。

   これはつまり大将や指揮官、士卒にふさわしい人がいない
   ということである。
   将に現在の(我が国の)弊害というべきである。

   一旦、非常事態ともなれば、すぐに大混乱となるであろう。
   今は幸いにも、そのような状況がまだおこっていない。
   実に危ない状況というべきである。

・・・

(5)《11日 子供の成績をよくするには》

   子供が不成績であっても、その不成績や、智能の低さを見ないで、
   神想観中に、その子の、完全にして全智全能なる“ 神の子 ”である
   実相を観じて拝むようにするならば、
   実相の完全さがあらわれて成績が優秀となるのである。

   決して、
   「この子は頭が悪いから、神想観によって頭の悪さを治してやるのだ」
   などと考えてはならない。

   「頭が悪いから」という前提をもっていてはならないのである。

   そんな前提を心にもつ事は、「迷いの雲」の中に自分がひっかかって
   光の輝く実相青空に出られないことを意味する。


   「頭が悪い」という“現象の雲”をつきぬけて、
   一躍超入、その子供の“ 神性 ”を把えてそれを凝視し、礼拝するがよい。

   (谷口雅春著『 優良児を作る 』参照)

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/b977ab9ad238b4ac8dcef8d83d8431f2

           <感謝合掌 令和4年9月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/09/13 (Tue) 04:54:30


(1)【 9月12日 】変に備える為なり

   人は云ふ、
   我教へ、倹約を専(もっぱ)らにすと。

   倹約を専らとするにあらず。
   変に備へんが為なり。

   人は云ふ、
   わが道、積財を勤むと。

   積財を勤むるにあらず、
   世を救ひ世を開かんが為なり。

        (夜話一三)

   【略解】
 
   尊徳翁の教えの真義を承り、
   なるほどと全面納得するものがある。

・・・

(2)【 9月12日 】仕事の心がけ②本末軽重

   次に大切なことは、
   このような自覚に立って、
   仕事の本末軽重をよく考えて、
   それによって事をする順序次第を立てるということです。

   すなわち一般的には大切なことを先にして、
   比較的軽いものを後回しにするということです。

   時には、
   軽いものは思い切って捨て去る場合もないとは言えないでしょう。

   捨て去る場合には、
   断乎として切って捨てるということが大切です。
   これ畢竟するに私欲を断つの道でもあるからです。

   同時に、
   このような私欲切断の英断が下せなければ、
   仕事はなかなか捗(はかど)らぬものです。 

・・・

(3)【 9月12日 】 《敬老》

   わたしは自分の力で生きているとは思っていない。
   諸神諸仏諸菩薩諸天、その他多くの方の
   おん守りによって生かされていると思っている。

   それがはっきりわかる齢になった。

   でもここで大切なことは、わかったならば何か
   御恩返しをするということである。

   何でもよい、自分にできる御恩返しをして
   軽い気持ちになり、合掌してこの世を去ることである。

   老いたる人を敬うことは大切なことであるが、
   果たして本当に敬われることをしてきたか、
 
   そういうことをしっかり考えることも
   敬老の日だと思う。

・・・

(4)【 9月12日 】  片時も

   有志の士は片時(かたとき)も
   空々(くうくう)茫々(ぼうぼう)の間(かん)なし。 

              安政3年5月23日「講孟箚記」

   【訳】

   志のある侍は、わずかな間でも、空しく、ぼーっとしている時間はない。

・・・

(5)《12日 非行少年を良くする道》

   不良化した子供を、正常の子供にするのも、
   成績不良の子供を成績優秀の子供にするのも
   同様の原理にもとづくのである。

   不良児とか、異常児とか、非行少年とかいうものは「 本来無い 」のである。

   その本来無いという事実を知って、その外観を超越して直接、
   「神の子」なる子供の実相を心に描いて、
   その姿を心で凝視するがよい。

   その観が本当に徹底したら、本来の良き子供の実相があらわれる。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/097dd924f18cb436954ef71f9bb6908e

           <感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/09/14 (Wed) 04:58:42


(1)【 9月13日 】迷悟一体

   佛に所謂(いわゆる)
   「本来東西なし、
    何処に南北あらん、
    迷うが故に三界城(さんかいじょう)、
    悟るが故に十方空」とあり。

   佛家この語を書し、
   之を死人に付すれば、
   則ち天魔も襲う能(あた)わず、
   狐狸(こり)も犯す能わず、

   何ぞや。
   天魔狐狸以前の空に帰すればなり。

           (語録三二六)

   【略解】
 
   尊徳翁はこの佛語をよく引用せられた。
   この一隻言こそ、
   相対界と絶対界につき鮮明に表現せられたもの他に類なしと言えましょう。

・・・

(2)【 9月13日 】仕事の心がけ③先後の順序

   次に大切なことは、
   同じく大事な事柄の中でも、
   大体何からーから片付るかという前後の順序を明弁するということです。

   この前後の順序を誤ると、
   仕事の処理はその円滑が妨げられることになります。
   そしてこの前後の順序を決めるには、
   実に文字通り明弁を要するのであります。

   理論を考える上にも、
   明弁ということが言えないわけではありませんが、
   しかし現実の実務における先後の順序を明らかにするに至って、
   文字通り明弁の知を要すると思うのです。

・・・

(3)【 9月13日 】 《会いたき人あれば》

   会いたき人あれば
   一輪の花にも
   こころときめき

   一羽の鳥にも
   むねをあつくす

・・・

(4)【 9月13日 】  千載の図を空しうするなかれ

   一朝(いっとう)の苦を顧(おも)うて、
   遂に千載の図(と)を空しうするなかれ。 

               安政元年9月以降「五十七短古」

   【訳】

   一時的に苦しいからといって、
   永遠にその名が朽ちることのない雄大なはかりごとを
   途中で投げ出すようなことがあってはならない。

・・・

(5)《13日 劣等観を去るための神想観》

   人間の不幸のすべては殆どみな劣等観に基いて
   本来の偉大なる潜在能力を発揮せずに、
   その出口を塞いでしまうことから起って来るのである。

   そのような劣等観をなくするためには、
   次のように神想観をして祈るがよい。―


   “ 私は神の子である。
    神は全能である、その全能の力が私に宿っているのである。

    私は神の子である。
    神は全智である、その全智なるすぐれたる智慧が私に宿っているのである。

    そして時に応じ、処に応じ、人に応じて、
    その全智全能なる智慧と力とが自由自在に
    発現してくるのである。

    それゆえに私は何物をも恐れることはないのである。”

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9ca5ddcfd20b24aaf94d3b2e9e335e00

           <感謝合掌 令和4年9月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/09/15 (Thu) 04:51:33


(1)【 9月14日 】循環して止まず

   日月星辰寒暑昼夜循環して止(や)まざるは天地の常道なり。
   人世の万事も亦然り。

   (中略)

   善悪邪正、
   禍福吉凶貧富存亡の類、
   循環して窮尽することなし。

   是れ循環の世に在って、
   其の循環を知らざるは哀むべきなり

               (語録三八五)

   【略解】

   循環は天理なれど、
   人の世の栄枯盛衰をまぬがれる道がある。

   これ人道にして、
   勤労に努め分度を守り譲を計る道なりと教えられる。

・・・

(2)【 9月14日 】仕事の心がけ④着手

   次には、
   このように明弁せられた順序にしたがって、
   まず真先に片付けるべき仕事に、
   思い切って着手するということが大切です。

   この「とにかく手をつける」ということは、
   仕事を処理する上での最大の秘訣と言ってよいでしょう。

・・・

(3)【 9月14日 】 《めぐりあい》

   人生は深い縁えにしの
   不思議な出会いだ

・・・

(4)【 9月14日 】  我が党平生(へいぜい)の志す所

   〇天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行き、
   志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。
   富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず。
   此れを之れ大丈夫と謂ふ。(孟子本文)

   此の一節反復熟味すべし。
   我が党平生の志す所此の外他事なし。
   今悉く其の義を釈せず。 

               安政2年8月21日「講孟箚記」

   【訳】

   〇天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行き、
   志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。

   富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず。
   此れを之れ大丈夫と謂ふ

   (仁という天下の広い住居におり、礼という天下の正しい位置に立ち、
   義という天下の大道を歩む。志を得て、世に用いられぬならば、
   天下の人民と共にこの正しい道を行い、志を得ないで、用いられぬならば、
   自分一人でこの道を行う。

   財貨が多く位が高くても、その心を墜落させることができず、
   逆に、貧乏で身分が低くても、その心を変えさせることができない。
   威光や武力をもってしてもおびえさせることができない。
   こういう人をこそ、本当の男児という)。(孟子本文)


   孟子のこの一節を、何度も繰り返して拝読し、
   自分のものとしなければならない。
   私共が日頃目標としていることも、これ以外にはない。
   今、その意味を全て解釈しないでおく。

・・・

(5)《14日 あなたが完全な自由を得るために》

   あなたが何物か外界又は他者によって縛られていて
   自由が得られない感じがするならば、

   その自由を外界や他者に対して求めることを止めて、
   自分の“実相”に対して求めるがよいのである。


   次のように念じなさい。

   ”私は神の子である。

    神が××(自分の姓名を唱える)となって此処にあらわれているのである。

    神が私なのである。神が私なのである。

    私は今完全に自由なのである。

    何ものも私の自由を縛ることはできないのである。”

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/46eb21bebef7354d2b70d079452f475d )

           <感謝合掌 令和4年9月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/09/16 (Fri) 04:53:05


(1)【 9月15日 】富貴貧賤

   富貴を好み貧賤を悪(にく)むは人の情なり。

   然れども富貴貧賤は天にあらず、
   地にあらず、
   又国家にあらず、
   唯々人々の一心にあるのみ。

   身を修め人を治むる者は富貴を得、
   懶惰(らんだ)にして人に治めらるる者は貧賤を免れず。

                     (語録三三三)

   【略回】
 
   富貴貧賤は、
   ただ人々の一心にありという一語こそまさに痛切な戒めである。

・・・

(2)【 9月15日 】仕事の心がけ⑤拙速主義

   次に大切なことは、
   一度着手した仕事は一気呵成(いっきかせい)にやってのけるということです。

   同時にまたそのためには、
   最初から最上の出来映えを、
   という欲を出さないというこです。

   すなわち、
   仕上げはまず八十点級というつもりで、
   とにかく一気に仕上げることが大切です。

   これはある意未では拙速主義と言ってもよいでしょうが、
   このいい意味での拙速主義ということが、
   仕事の処理上、
   一つの秘訣と言ってよいのです。

・・・

(3)【 9月15日 】 《若い好漢》

   先生ちかごろはどこにもお出でになりませんね。
   若い彼は来るなり、わたしに向かってそう言った。

   何か私に言いたいような口ぶりであったが、
   わたしがいまのわたしには、
   沈黙が最大のエネルギー、最良の食べ物なんだ、

   どこにゆかなくても世界の針は却ってはっきり見え、
   人々の動静も心電図のように明確にわかる。

   ウコサベンする年でもなく、
   心にもない世辞を言う配慮もいらぬ、

   長明は方丈の小庵こもり無常をしるし、
   武蔵は洞窟にこもり五輪の書をかいたではないか、

   わたしもタンポポ堂にこもり詩魂を練るのだ、

   そう答えて、この若い好漢と対坐した。

・・・

(4)【 9月15日 】  居の安きを求むるは

   悪衣悪食(あくじき)を恥ぢ、居(きょ)の安きを求むるは則ち志士に非ず。 

              安政3年8月以降「武教全書講録」

   【訳】

   粗末な服を着ることや粗末な食事を恥ずかしく思い、
   立派な家に住みたいと望むことは、
   道に志し、正しい生き方をしようとする武士のあり方ではない。

・・・

(5)《15日 あなたの境遇をよくする秘訣》

   私たちは今すぐ自分の境遇を幸福なものに変化することが出来るのである。

   それは自分自身の心が先ず変ることである。

   「心はすべての造り主」であるからである。


   先ず 自分自身が調和の心を起すがよい。

   そのためには人の欠点を見つけて、あれこれ批評したり、
   悪口を噂したりする心を棄て、それに置き代うるに、人の美点のみ見つけて、
   それを称讚し、祝福の念を送るようにすることだ。

   また自分の今ある生活の不足を数えて
   それを不平に思ったり呪ったりすることを止め、

   どんな貧しい生活の中にも見出される幸福を
    ー 空気がある幸福を、食物がある幸福を、
   兎も角、住む部屋があり、兎も角、今着ている衣服がある幸福
   ・・・等々を、かぞえて、それに感謝する心を起すことである。

   そこからあなたの一層幸福な境遇が展開して来るのである。

   とも角、不平を思う代りに感謝するようにしなさい。

   そこからあなたの幸福な境遇も環境も生まれて来るのである。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/980012aca462fb48c91cbd059f831b52 )

           <感謝合掌 令和4年9月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/09/17 (Sat) 04:58:11


(1)【 9月16日 】心・枝・体

   余かつて鍛冶(かじ)を視るに、
   その槌(つち)を執る者腰肩手一と為り以て震撃す。

   心と槌と亦一と為り、
   他心あるなし。

   二三子我が道を学ぶも、
   亦斯(かく)の如くんば、
   則ち何ぞ成らざるを患えんや。

                   (語録三四二)

   【略解】
 
   鍛冶打つ手と槌、
   腰と肩の身心一如の集中力に学ぶべきを教えられる。 

・・・

(2)【 9月16日 】時間の問題を解く

   ほんとうの真面目な生活、
   すなわち全力的な生活に入るには、
   どうしても時間の無駄をしないということが、
   何よりも大切な事柄とな成るわけです。

   しかしこの時間の問題も、
   結局はその人の根本の覚悟いかんによって決まると言ってよいでしょう。

   すなわち人間は、
   人生に対する根本の覚悟さえ決まっていれば、
   わずかな時間も利用できるようになるものです。 

・・・

(3)【 9月16日 】 《リンリン》

   燐火のように
   リンリンと
   燃えていなければならない

   鈴虫のように
   リンリンと
   訴えていなければならない

   禅僧のように
   リンリンと
   鍛えていなければならない

   梅花のように
   リンリンと
   冴えていなければならない

・・・

(4)【 9月16日 】 其の嘲りに任す

   粉々たる軽薄子、百喙(ひゃっかい)其の嘲(あざけ)りに任(まか)す。
   猶(な)ほ喜ぶ夢寐(むび)の裡(うち)、却つて故友に逢ふことを得。 

              安政元年9月以降「五十七短古」

   【訳】

   多くの軽薄なものたちが口うるさく(私の)悪口をいうが、
   私は一切意に介しない。
 
   そんなことよりは、眠っている間に(夢の中で)
   昔からの友と会うことができたことの方が嬉しい。


・・・

(5)《16日 “富”の種子を植えて育てること》

   「自分は貧しいのだ」とう考えを棄てなさい。

   そして「 既に富める“神の子”の実相 」を心に描いて、
   「 すでにわれ富めり、有りがとうございます 」と心に唱えて感謝するがよい。

   それが“ 富 ”の種子を現象界に植えつけたことになるのである。


   その思いを常にもち続けることが必要なのであって、
   ある時間だけ、祈りや、神想観の時だけではなく、

   常に、その“富相(ふうそう)”をもちつづけ感謝の念をもち続けることによって、
   実相世界にある無限の富が、現象化してあらわれることになるのである。


   もし途中で、まだ現象に残存する“貧しさの影”を見て、
   「やっぱり駄目だ、私は貧しい」と考えれば、

   その考えが想念の種子となり、雑草となって萌えひろがり、
   折角(せっかく)、以前に播いた“富想”の種子の上に覆いかぶさって、

   “富想(ふうそう)”はついに芽を出すことなく、
   枯れてしまうことになるのである。


   “貧しさ”の雑想雑念は早く刈りとるがよい。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/341e28ddc7181dbee15db19dc3134230

           <感謝合掌 令和4年9月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/09/18 (Sun) 04:59:44


(1)【 9月17日 】三才の徳

   我が道は天地人三才の徳に報いるにあり。

   三才の徳とは、
   日月が遂行し、
   四季循環し、
   万物を生滅してやまないのが天の徳なり。

   草木百穀を生じ、
   鳥獣魚類繁殖し、
   人をして生命を養わしめるが地の徳なり。

   祖宗が人道を設け、
   王侯が天下を治め、
   家老武士が国家を護り、
   農民が農業に勤め、
   工人が大小建築物を造り、
   商人が有無を通じて、
   人生を安らかにする。
   これ人の徳なり。

                (報徳外記)

   【略解】

   それゆえ我々の本務は天地人三才の徳に報いることこある。

・・・

(2)【 9月17日 】睡眠の工夫

   私は、
   夜遅くなったなと思うと、
   なるべく時計を見ないで寝ることにしています。

   でないと朝起きてから、
   「昨夜は何時間しか寝ていないんだから―」と、
   つい睡眠不足が気になって、
   余計に疲れるからです。

   つまり、
   われわれは時計を見て、
   人間はどうしても、
   八時間寝なければいけないように思っているのです。

   しかし睡眠も、
   いたずらに長いばかりが能ではなくて、
   深い眠りなら八時間眠らなくてよいのです。 

・・・

(3)【 9月17日 】 《光る》

   海から日は出で
   満山の露が光る
   まさに華厳(けごん)

   この時からわたしはしっかりと
   光を求めて歩み始めた

・・・

(4)【 9月17日 】 大節に臨みて

   名利(みょうり)の寰区贋かんくがん)も真と作(な)る、
   誰れか大節(だいせつ)に臨(のぞ)みて其の身を致さん。 

              安政2年2月2日
                「※僧月性(そうげっしょう)の詩を読む」

   【訳】

   名誉や利益ばかり追い求める俗世間においては、
   時にニセモノがホンモノとされる場合がある。

   しかし、節義を貫かねばならない時に、
   一体、誰が身を捨ててことに当たるであろうか。
   そんな人は本当に少ないものである。

    ※周防国遠崎村(現、山口県柳井市遠崎)妙円寺の海防僧月性。松陰の同志。

・・・

(5)《17日 あなたが困難な問題に面したとき》

   時々、あなたの魂を鍛えるために、
   困難な問題や、艱難辛苦がやってくるかも知れない。

   冷たい風に触れずに温室育ちのような生活を送っているものは、
   人格の強さを鍛え出すことはできないのである。

   それゆえに人生に、色々の問題が起って来ることは、
   あなたの魂が健実に強固に育つために是非必要な条件なのである。

   だから、起って来る困難な問題に対して感謝せよ。

   問題は必ず解答が出るようにできているのである。

   その問題を解くように考えをめぐらすことは、
   あなたが学校でむつかしい数学の問題を
   出されて考えているようなものである。

   学校でむつかしい数学の問題が出て来るのは、
   あなたの能力を増すためにある。


   では、人生でむつかしい問題が出て来るのは、
   あなたの魂の力を強くするためだと解るであろう。

   人生に困難の問題が出て来たとき、あなたは、

   「 この問題で私の魂は鍛えられて向上する。ありがとうございます 」

   と感謝するがよい。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/90442007959e1673f682730248f7da1f

           <感謝合掌 令和4年9月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/09/19 (Mon) 04:16:35


(1)【 9月18日 】鍬鎌(すきかま)の宝器

   夫(そ)れ鍬鎌(すきかま)は農をいとなむの重宝、
   民を救ひ国を安んずるの宝器、
   一日もなくてはかなわず。

   そもそも古を考ふるに、
   わが神代のむかし豊葦原を安国と治め給ひしより、
   今日只今に至るまで、

   国を富し、
   家を斉ひ人命を養ふ、
   是より尊きはなし、

   能(よ)くカを尽せば、
   天地の感応目前に顕れ、
   米麦雑穀湧出し、金銀財宝功徳を照らす。

      天津日の恵み積みおく無尽蔵
        鍬(すき)でほり出せ鎌でかりとれ

                   (遺副集)

   【註】
 
   鍬鎌の宝器たる所以(ゆえん)をおさえられた
   哲人尊徳翁の風格ある論説です。

・・・

(2)【 9月18日 】人問をつくるもの

   人問の精神的弾力というものは、
   書物と取り組むカによって鍛えられるものです。

   また人問のたしなみというものは、
   言葉を慎むところから始まるものです。 

・・・

(3)【 9月18日 】 《ねがい》

   あなたに合わせる手を
   だれにも合わせるまで
   愛の心をお与え下さい

   どんなに私を苦しめる人をも
   すべてをゆるすまで
   広い心をお授け下さい

・・・

(4)【 9月18日 】 大ぞらの恵はいとど遍ねけり

   大ぞらの恵(めぐみ)はいとど遍(あま)ねけり
   ※人屋(ひとや)の窓も照らす朝の日  

                安政元年以降「和歌」

   【訳】

   大空の恵みというものは、残すところなくますます行き渡るものだなあ。
   牢獄の窓さえも照らしてくれる朝の光であることだなあ。

    ※萩の野山獄

・・・

(5)《18日 神の放送番組に波長を合わしなさい》

   今あなたの身辺にある恵みに感謝せよ。 

   恵みの数々をかぞえあげて、そのいちいちに
   「 ありがとうございます 」と感謝の念を送るがよい。

   神の恵みに対して起す感謝の念は、
   神の放送される無限の善き番組に波長を合わすことになるので、
   次から次へとあなたの人生に、好き番組が展開して来るようになるのである。

   あなたが、神の放送せられる幸福番組に心の波長を合わせていられる限り、
   決して、何者もその幸福番組の実現を妨げることはできないのである。

   何故なら神の霊波は、
   どんな人間の妨害電波よりも強大な力で放送されているからである。

   併(しか)し、唯一つ、神の霊波を受信することを妨げるものがある。

   それはあなた自身が、神の霊波に波長の合わぬところの不平の念や、憎悪、
   悲哀、恐怖、嫉妬(しっと)、貪欲(とんよく)、呪詛(じゅそ)
   ・・・等の念を起すことである。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d7066ecc6c1d498e5862f2cab1c8fe90

           <感謝合掌 令和4年9月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/09/20 (Tue) 04:48:51


(1)【 9月19日 】職業に貴賤なし

   人皆その職を貴ぶべし。

   家老が代々官録を以て勤仕するも、
   豆腐屋が豆挽(ひ)くも同じことなり。

   然るに豆腐屋は恥(はず)かし思ひ、
   家老は楽なりとするは誤なり。

               (金言集)

   【註】

   「職業に貴賤なし」。
   その職に対する誠心誠意の如何こそ一番大事である。

・・・

(2)【 9月19日 】己を正しく保つ

   謙遜ということは、
   わが身を慎んで己れを正しく保つということが、
   その根本精神を成すのであります。

   つまりいかなる相手に対しても、
   常に相手との正しい関係において、
   自己を取り失わぬということです。

   すなわち必要以上に出しゃばりもしなければ、
   同時にまた妙にへコへコもしないということであります。

・・・

(3)【 9月19日 】 《ユニテ》

   わたしが
   ねがうのは
   ユニテ(一致)

   どんなに
   ちがったものでも
   どこかで
   一致するものがある

   それを見出みいだし
   お互い
   手を握り合おう

・・・

(4)【 9月19日 】  古人を友とす

   図書に山水(さんすい)を按じ、文書に古人(こじん)を友とす。 

               安政2年「※松岡良哉が相模に之くを送る」

   【訳】

   図書をみて、各地の山水の風光を想像し、
   書を読んで、昔の心のある聖賢を友とする。

    ※長州藩の医者の子。時々松陰を訪ね、教えを受けたといわれる。

・・・

(5)《19日 陰極は陽転する、陽転のためのアイディアを受けよ》

   事物の悲観面に心を注いで、悲観面に心が捉われてはならないのである。


   今までの生活のやり方や、考え方や、行動や計画の進行に間違いがあって、
   愈々その間違いの結果、事態が破局の最悪状態に近づきつつあっても、
   それに心が捉えられて、心が挫折してしまってはならないのである。

   そんな時ほどあなたの心は明るく保たれなければならないのである。

   「 事態が破局に近づきつつある 」ことを悲観的に考えないで、
   そこに陰極が陽転せんとする契機が孕んでいることをみなければならない。

   生命が生きてある限り陰極は必ず陽転するのである。

   その“ 陽転 ”に対して心を開いて、神から放送されて来る、
   “ 陽転のためのアイディア ”に波長を合わせるがよいのである。

   心に強く描いて波長を合わせたものが現実化するのである。

   破局を恐怖して、破局に心を集中してはならない。

   心を転ずることによってのみ“ 陽転 ”の機会をつかむことができるのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a2a5f6f82ed0f191f6b7f590dc542cd8

           <感謝合掌 令和4年9月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/09/21 (Wed) 04:40:33


(1)【 9月20日 】農民の耕耘、工匠の勤労

   農民の耕耘なかれば次年の衣食なし。
   次食の衣食は農民の耕耘に在り。

     ○

   工匠の勤労なければ諸舎造建されず。
   諸舎の造建は工匠の動労に在り。

                (金言集)

   【註】
 
   われわれの生活は、
   農民の耕耘、工匠の勤労に負うところが大きい。

・・・

(2)【 9月20日 】謙遜は自己の確立から

   人は真に謙遜ならんがためには、
   何よりもまず自己というものが確立している事が大切だと言えましょう。

   すなわち相手が目下であるからとて調子に乗らず、
   また相手が目上なればとて、
   常に相手との正しい身分関係において、
   まさにあるべきように、
   わが身を処するということです。 

・・・

(3)【 9月20日 】 《手と足 ①》

   手は何のためにあるのか、

   それは落ちてゆく自己を支えるためである、
   とリルケは言っている。

   そういう言葉からわたしはリルケに接近していったが、
   リルケはキリスト教国の生まれだから手をいったのだろう。

   わたしは仏教国の生まれだから、
   足はなんのためにあるのか、

   それは落下してゆく自分を、
   どこで踏み止めるか、
   そのためにあると言おう。

・・・

(4)【 9月20日 】  人情は愚を貴ぶ

   人情は愚を貴(たっと)ぶ。益々愚にして益々至(いた)れるなり。

               安政二年八月十六日「講孟箚記」

   【訳】

   人情は愚直であることを大切にする。
   愚直であればあるほど、人情は切実となる。

・・・

(5)《20日 先聖(せんしょう)の精神をもって新しく前進すること》

   人は今までの考え方や、やり方の習慣の中に安住して、
   新しい生活や事業を開いて行こうとしない傾向があり勝ちである。

   昔のままで動かないでいることが、不安がなく落ち着く気持ちがするので、
   安易な方を選ぼうとするのである。


   しかし人類は進歩する、社会も進歩する、科学も進歩する、
   私たちはそれらの進運(しんうん)にとり残されてはならないのである。

   「 古きを温(たず)ねて新しきを知る 」( 温故知新 )ということは、
   特に先聖(せんしょう)の人々の生活の行履(あんり)に
   われわれの精神の行き方を学ぶことが大切であることを言ったものであるが、

   その先聖の精神が示された行き方によって、
   新しいものをきり開いて行くことが大切なのである。

   先聖は決して旧態依然たる古い習慣にしがみついたりしてはいられなかったのである。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/de70f22feac7a5abadc04506f56b6520

           <感謝合掌 令和4年9月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/09/22 (Thu) 04:56:26


(1)【 9月21日 】誠心・勤労・分度・推譲

   誠心を以て本と為す。
   動労を以て主と為す。
   分度を以て体と為す。
   推譲を以て用と為す。

        (金言集)

   【註】
 
   誠心・勤労・分度・推譲の四綱領こそ翁の説かれる「生き方」の根幹である。

・・・

(2)【 9月21日 】真の誠

   真の誠とは、
   その時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら、
   しかも常にその足らざることを歎くものでなくてはならぬ。
   ・
   歎く=嘆(なげ)く 

・・・

(3)【 9月21日 】 《手と足 ②》

   わたしは一白水星の生まれだから、
   低い処低い処へと流れてゆく水の性を身につけている。
   そしてこれが宇宙の運行だとも思っている。

   だから私は足を大事にし、
   落下していく自分を支えてくれと頼むのである。

   地球を絶滅させる核兵器を作り出す頭よりも、
   間違った自分を、どこで踏みとどまらせるかの
   足の重要性を、私は強調したい。

・・・

(4)【 9月21日 】  気旺ならば

   勢(いきおい)振(ふる)はば天下に強敵なく、
   気(き)旺(さかん)ならば天下に難事なし。 

               安政元年冬「※金子重輔に与ふる書」

   【訳】

   意気込みが盛んであれば、この世界に手強い敵はなく、
   気持ちが意気盛んであれば、この世界に難しいことはない。

    ※長州藩の農民 金子重之助。松陰が下田で米艦へ乗り込む際、従った同志。

・・・

(5)《21日 神の “ 新しき智慧 ” に波長を合わすこと》

   過去の生活習慣にも善いものもあれば悪いものもある。

   過去の生活習慣を全部善いと思ってそれに泥(なず)むのもよくないが、
   過去の生活習慣を悉く“古くて駄目だ”と軽蔑して、
   棄(す)ててしまうのも問題である。


   棄てるべきは棄てなければならないし、
   温存すべきは温存しなければならない。

   それを正しく分別するのが“新しき智慧”である。

   その“新しき智慧”は神から来るのである。

   私たちは、常に神想観を怠ることなく、
   神の“新しき智慧”の導きに波長を合わすことを
   忘れてはならないのである。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8caefbd0670806cc4c79f8577c48613e

           <感謝合掌 令和4年9月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/09/23 (Fri) 04:57:02


(1)【 9月22日 】一身保存の根元

   我(われ)と云ふ其の大元(おおもと)を尋(たず)ぬれば
                    喰ふと着るとのニつなりけり

                      (二宮翁道歌)

   【略解】
 
   一身の保存の根元をつきつめていくと、
   衣食住の三大恩恵に帰着しますが、
   とりわけ、衣食こそ、
   二大根元と申せましょう。

   別の道歌に「飯と汁木綿きものは身を助く、
   その余は我をせむるものなり」とあります。

   辛酸痛苦の体験者にして知る真理でありましょう。 

・・・

(2)【 9月22日 】上位者に対する心得

   上位者に対する心得の根本を一言で申しますと、

   「すべて上位者に対しては、
    その人物の価値いかんにかかわらず、
    ただその位置が自分より上だという故で、
    相手の地位相応の敬意を払わなければならぬ」

   ということでしょう。

・・・

(3)【 9月22日 】 《大木の幹》

   大木の幹にさわっていると
   大木の悲しみが伝わってくる

   孤独というものは
   猛獣にすらあるものだ

   万年の石よ
   沈黙の鬱屈よ

   風に泣け

   月に吼えろ

・・・

(4)【 9月22日 】 縄なかるべからず

   木には縄なかるべからず、鋳(ちゅう)には模(かた)なかるべからず。 

               安政2年「象山先生感懐の作に追和す、並びに引」

   【訳】

   木を用材とするには、墨縄が必要である。
   鋳物を作るには、型が必要である。

   (転じて)学問をするには、師が必要である。

    ※松代藩士 佐久間象山。幕末期の我が国を代表する兵学者で、松陰の師である。

・・・

(5)《22日 家族に病気が出た場合》

   誰か家族の内に病人が出たときには、
   それが一層悪くなるであろうと考えて恐怖してはならない。

   病気は「 病める気 」即ち「 不調和な心 」の状態のあらわれであって、
   恐怖すれば「 心の不調和 」が増大するばかりであるからであるからである。


   そこで 病人が自分の家庭にあらわれたとき、
   家族同士の中に「 心の不調和 」がなかったか、
   互いに「 不平不満足 」の念を起したことがなかったかを反省してみるがよい。

   そして「 心の不調和 」や「 不平不満足 」があったならば、
   それを去って、家族互いに心を調和させるがよい。


   そのためには何か互いに気まずい事があって腹が立ったりしているならば、
   あなたが先ず率先して詫びるがよい。


   そして互いに詫び合って、互の心のもつれが
   解きほぐされたときの心の爽(さわ)やかさを味わうがよい。

   その時“ 神癒の力 ”を完全に受けとる“ 心の波長 ”が起るのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/55d2bfff50ecbb8650ebb2f463f6bcae )

           <感謝合掌 令和4年9月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/09/24 (Sat) 04:11:17


(1)【 9月23日 】命綱を編む

   天地の捫(もじ)り尽(つ)きせぬ命綱
           ただ長かれとねがふ諸人(もろびと)

                        (二宮翁道歌)

   【略解】
 
   捫(もじ)るとは、
   綱をよるのに右に左に交互によって編んでゆくことで、
   ただその綱が長ければいいというものではない。

   そのもじり方が問題であって、
   しっかり丹誠こめて結んでいくことが大事である。

   せっかく天地の命綱をいただいているのだから、
   日々の誠実な生き方こそ大切である。 

・・・

(2)【 9月23日 】目下の人に対する心得

   目下の人に対する心得の一つとして、
   目下の人だからと言って、
   言葉遣いをぞんざいにしないように―ということでしょう。

   これはうっかりすると気付きにくい点ですが、
   大体人間の人柄というものは、
   その人が目下の人に対する場合の態度、
   とくにその言葉遣いによって分かるものであります。

・・・

(3)【 9月23日 】 《影》

   影あり

   仰げば
   月あり 

・・・

(4)【 9月23日 】 吾が心遂に忘れず

   龍蛇(りゅうだ)時(とき)に屈すれども、吾が心遂に忘れず。 

               安政5年正月四日「新年三十短古」

   【訳】

   龍は時を得れば天まで勢いよく駆け上り、
   得なければ、蛇となって地に伏し、屈するものである。

   私は(何度屈したとしても)龍となって、
   天に駆け上がらん、との志を忘れない。

・・・

(5)《23日 天地一切のものに感謝し和解すること》

   “神癒の力”は常に宇宙に充ち満ちているのである。
   何故なら、神は、何時でも、何処にも、到る処に、常にいますからである。

   それはラジオの放送が常にあるようなものである。
   しかし常にあるラジオ放送も、こちらがスイッチを入れて、
   波長を合わすまでは、それを受信することはできないのである。


   あなたが神に祈ることは、受信セットにスイッチを入れたことに当る。

   しかしスイッチを入れただけで、波長を合わせねば、
   神癒の霊波の放送を受けとることはできないのである。

   神癒の霊波を受信するためには、
   あなたの心の波長を調整する必要があるのである。


   その調整の道が天地一切のものと和解することである。
   天地一切のものに感謝することである。

   誰かを恨んだり、憎んだり、不平に思ったりしていたならば、
   そのことに対してお詫びの心を起して、新たにその相手の人に感謝の念を起し、
   感謝の言葉を心の中で繰り返すがよい。

   あなたが相手の人に感謝の念を起していることを
   相手が知っておろうと、知らないでいようとそんなことはどうでもよい。

   あなた自身の心の波長の問題である。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/58811a44dbaacb809ccd19be36f0b3a3

           <感謝合掌 令和4年9月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/09/25 (Sun) 04:54:22


(1)【 9月24日 】一輪の福寿草

   天地(あめつち)の和して一輪福寿草
             さけやこの花いく世ふるとも

                 (二宮翁道歌)

   【略解】

   春の始めに咲く一輪の福寿草には、
   まことにめでたい万物生々の息吹を感ずるものです。

   天地和楽のシンボルともいうべきで、
   子々孫々の繁栄を象徴するものです。

・・・

(2)【 9月24日 】下坐を行ずる①

   下坐行とは、
   自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。

   言い換えれば、
   その人の真の値打よりも、
   ニ、三段下がつた位置に身を置いて、

   しかもそれが「行」と言われる以上、
   いわゆる落伍者というのではなくて、
   その地位に安んじて、
   わが身の修養に励むことを言うのです。

   そしてそれによって、
   自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。

   すなわち、
   身はその人の実力以下の地位にありながら、
   これに対して不平不満の色を人に示さず、
   真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。

・・・

(3)【 9月24日 】 《月を愛する》

   わたしはみずから光る太陽も偉大だと思う。
   しかし太陽の光を受けて光り返す月に、
   何とも言えない親近感と慈愛とを持つのである。

   時には大きな光の環ができて、
   安らかに眠っている人々を、
   静かに守り照らしているのである。

   そういう美しい月を仰いで、
   宇宙の心というものを知り、

   わたしもしみじみと、
   人間と人間との光の環を、
   大きく広げてゆきたい思念に燃えるのである。 

・・・

(4)【 9月24日 】 天の我れを待つ

   姫昌(ひしょう)の易卦(えきか)、
   囚(しゅう)と作(な)りて明かに、
   丘(きゅう)や春秋(しゅんじゅう)試(もち)ひられずして成(な)る。

   古(いにしえ)より英雄多くあらず、
   天の我れを待つ亦(また)軽(かろ)きに非(あら)ず。

    ※1姫昌(きしょう)の易卦(えきか)、囚(しゅう)と作(な)りて明かに、
    ※2丘や春秋試(もち)ひられずして成る。
      古より英雄多くあらず、天の我れを待つ亦軽きに非ず。 

               安政2年9月7日「戯言」

   【訳】

   周の文王は殷の獄舎である?里(ゆうり)に囚われて、易の六十四卦を作った。
   孔子は諸侯に採用されなかったので、『春秋』を著(あらわ)したという。

   昔より、順調な人生を送り、英雄となった者は多くない。

   (私も今、野山獄にいるのだから)
   天が私に期待していてくれるものは決して軽いものではない。
   (天の期待に応えなければいけない。)

    ※1 姫は周の姓、昌は文王の名。

    ※2 丘は孔子の名。

・・・

(5)《24日 卵の中に既に雛(ひな)がある》

   あなたが魂の奥底に於て実現したい希望は、
   既に「実相の世界」に於て成就して、既に実在するのである。

   実在するが故にこそ、切実にあなたの内部から、
   それが浮び上がって来るのである。

   ここに「実相の世界」といったのは、
   キリストがいった「神の国」に相当するものである。

   キリストは「神の国は汝の内にあり」といった。

   あなたの内に既に「実相の世界」があり、
   そこに成就しているものが、内から押し出すように
   浮かび上がって来るのが切実なる魂の願いである。

   それは卵の中に既に雛があるのと同じことである。

   まだ現象の形にはあらわれていない雛が
   だんだん生長して具体的な形を備えた雛となってあらわれて来るように、
   既にあるあなたの希望の雛は次第に成長して形を備えつつあるのである。

   あなたは、その希望の雛を温めることを忘れてはならないのである。

   希望の雛を温めるのは、
   次の如き祈りによる想念によって毎日温めるのである。―


   「神さま、私の希望××(この希望の内容を述べる言葉)は
    あなたさまのお陰で既に実現いたしました。
    ありがとうございます 」

   親鶏(おやどり)が毎日卵を温めるように、
   この言葉を心の中に繰り返して希望の卵を温めるがよいのである。

 (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/71a3dadb4b25bc5d5778e6b40dfd2a4a

           <感謝合掌 令和4年9月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/09/26 (Mon) 04:56:16


(1)【 9月25日 】一挺の鍬

   ある時青木村を去ろうとする貧民に、
   一挺の鍬(すき)を与えて言われるのには

   「この鍬を以て貧苦を除き、
    負債を償却し、
    一家の福を得なさい」と。

   貧民は答えて

   「鍬一挺が翁の言の如くならばどうして他村に流浪寸るまでの窮乏に陥ろうか」
   と申したので、

   翁はこの鍬の破れるまで日夜の勤勉、
   荒地の耕耘(こううん)にあたることを諄々(じゅんじゅん)と諭された。

                        (逸話集)

   【註】

   翁の懇篤なること誠にかくの如しと言うべし。

・・・

(2)【 9月25日 】下坐を行ずる②

   世間がその人の真価を認めず、
   よってその位置がその人の真価よりはるかに低くても、

   それをもって、
   かえって自己を磨く最適の場所と心得て、
   不平不満の色を人に示さず、
   わが仕事に精進するのであります。

   これを「下坐を行ずる」というわけです。

・・・

(3)【 9月25日 】 《自分の詩》

   自分の詩を書くのだ

   ほかの人の詩なんか
   どうでもよいのだ

   どんなに上手でも
   うらやましいと思うな

   自分は自分の詩を
   一生懸命
   書いてゆけばいいんだ

   字だってそうだ
   自分の字で押し通してゆくのだ

   いのちあふれた字を
   書いてゆけばいいのだ

・・・

(4)【 9月25日 】 質実欺かざるを以て要と為し

   士の行は質実欺かざるを以て要(かなめ)と為し、
   巧詐(こうさ)過(あやまち)を文(かざ)るを以て恥と為す。
   光明正大、皆是れより出づ。 

               安政2年3月「士規七則」

   【訳】

   武士の行いは、飾り気なく、真面目で、
   自他をだまさないことを最も大切な中心とする。
   ごまかし偽って失敗を隠すことを最も恥とする。

   人として明るく希望に満ち、正しく堂々とした態度や行動などは、
   みなここから生まれる。

・・・

(5)《25日 生命は物質を創造し物質を支配する》

   青春の泉は、物質の栄養剤にはないのである。

   物質は、物理化学的な力を及ぼすけれども、
   細胞の老衰を食いとめる力はないのである。

   生命は ある物質条件が整うと、そこに姿をあらわすけれども、
   物質が生命をつくるのではないのである。

   生命自身が物質をつくり、物質の条件をつくり出して、
   そこに生命は“ 生物 ”として姿をあらわすのである。

   生命は 物質を左右し、物質をつくり出し、
   その条件をかえる力があるのである。


   地球上では近頃「 土地の造成 」ということが行われているけれども、

   天地創造の最初には、大生命が、真空の中に“ 水素 ”をつくり出し、
   “ 水素 ”を集めて大いなる球体として、それを太陽その他の天体とし、
   天体の地表に鉱物、植物、動物を生み出したのである。


   これは全く“ 生命 ”が物質を創造し 天体を創造し
   動物、植物、鉱物等をつくり出す力があることを示すのである。


   生命は 原子を転換して他の元素をつくることも出来るのである。

   かくて、最初は“ 水素 ”だけの固まりであったところの天体に
   多くの元素をつくり出したのである。


   祝福すべきかな生命の力、
   偉大なるかな生命の力、
   尊敬すべきかな生命の力、
   ありがとうございます。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5a8699a8a6a08783fb87b1d2823812e2

           <感謝合掌 令和4年9月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/09/27 (Tue) 04:59:18


(1)【 9月26日 】豆という字

   相馬の藩士富田高慶は江戸の聖堂で十年も儒教を学んだ人であるが、
   野州桜町にきて二宮翁に面会を求めたが、
   断乎として面会を謝絶された。

   しかし高慶もさるもの、
   今でいう青年夜学校を開いて若い者を教育しながら翁への入門の叶うのを待った。

   約半年後、
   面会の許される機会が来た。

   高慶が翁の前に出ると、
   翁はいきなり「お前さんは豆という字を知って居るか」と問いかけ高慶は
   「左様心得ております」と申上げると門弟に紙と筆とを用意させた。

   高慶は筆を揮って豆という字を明瞭に書いた。

   ところが翁は「お前の書いた豆は多分馬が食うまい」と言いつつ
   門弟に倉から一掴みの豆を持ち来らせ、
   「俺の作った豆は馬が食う」とそれを高慶の前に置かれたということである。

   高慶はいたく理窟の国家天下を救うに足らないということを知って、
   誠心誠意を尽くして翁の弟子になったということである。

                         (逸話集)


   【註】
   尊徳翁と富田高慶との出会いの一節は、
   心にのこる逸話です。
   尊徳翁独特の導き方の一例です。

・・・

(2)【 9月26日 】精神の死

   人問も、
   読書をしなくなったら、
   それは死に瀕(ひん)した病人が、
   もはや食欲がなくなつたのと同じで、

   なるほど肉体は生きていても、
   精神はすでに死んでいる証拠です。

   ところが人々の多くは、
   この点が分からないようです。

・・・

(3)【 9月26日 】 《馴れ》

   もっとも恐ろしいのは、この馴れ。
   暁天祈願も、彼岸の祈りも、
   馴れたら、もうおしまい。

   初心忘るべからずというのも、
   この馴れの恐ろしさを言っているのである。

   (中略)

   ものを作る者に一番の危険は、
   この馴れである。
    
    「湯之盤の銘に曰く日に新たに
     日日に新たに又日に新たなり(大学)」

   お互い毎朝顔を洗う時、そういう心でありたい。

   信仰だけではなく、芸術もそうであるし、
   ピチピチと生きている詩、
   生きている文字、それが一番大切だと思う。

   それにしても今は暖衣飽食に慣れて
   頽廃の色があまりにも濃い。

   「学道ノ人、衣食ヲ貪ルコトナカレ」
    (道元禅師学道用心集)

   これは千古の鉄言である。

・・・

(4)【 9月26日 】 真骨頂なくては

   龔勝(きょうしょう)・范文粲(はんぶんさん) 餓死と黙死と、
   天下の苦節と云(い)うべし。
   此(か)くの如(ごと)きの真骨頂(しんこっちょう)なくては、
   男児(だんじ)と称(しょう)するに足(た)らず。

               安政六年五月二十二日「照顔録(しょうがんろく)」

   【訳】

   龔勝の餓死といい、范文粲の黙死といい、苦しみの中にあっても節操を変えない、
   あっばれな生き方というべきである。

   このような、真骨頂とするものがなくては、男児と称するにはたりない。

   ※1 龔勝(きょうしょう)-中国、漢の人彭城(ほうじょう)の人。
      新(しん)の王莽(おうもう)に招かれたが、
      二君に仕えることを恥じ、絶食して死んだ。

   ※2 范文粲(はんぶんさん)-中国、晋の人。
      上司と意見を異にし、門を閉じ、沈黙を守って死んだ。

・・・

(5)《26日 和顔愛語が天国をつくる》

   あなたの言葉の中に温かい“ 愛 ”を満たせよ。
   その時、あなたの言葉は神の言葉となるであろう。

   決して冷酷な激しい言葉や、罵(ののし)りの言葉を出してはならないのである。

   もしあなたが激しい罵りの言葉を出すならば、
   あなたの住む世界は阿修羅(あしゅら)の世界となるであろう。

   若しあなたが怒りによって他に復讐をするような言葉を出せば
   この世界は地獄になるであろう。

   地獄も阿修羅も極楽もあなたの言葉がつくるのである。

   愛情のこもった言葉、愛情に満ちた眼光(まなざし)
   ・・・愛の表現のみが
   この世界に天国をつくるのである。

 (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0c790c07d43e869d21c1d50b8eabe508

           <感謝合掌 令和4年9月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/09/28 (Wed) 04:47:38


(1)【 9月27日 】茄子という字

   不退堂という男は京都の北面の武士で書を能(よ)くかいた人であるが、
   翁のことを聞き態々野州桜町に行って面会を求めた。

   ところが例の如く面会を謝絶したので、
   七日間飲まず食わすで翁の門前に座ったまま動かなかったので、
   七日目に初めて面会を許された。

   その時翁が「お前は学者だそうだが茄子という字を知って居るか」と問われたので、
   不退堂は筆を執って書いたところ、
   「茄子が先に出来たか字が先か」と言われ、
   出鼻をまず挫かれた。

                    (逸話集)

   【註】

   現物(現場・現実)を重んじられた尊徳翁の流儀の一端を示す話です。

・・・

(2)【 9月27日 】伝記の効能

   偉人の伝記というものは、
   一人の偉大な魂が、
   いかにして自己を磨きあげ、
   鍛えていったかというその足跡を、
   もっとも具体的に述べたものですから、

   抽象的な理論の書物と違って誰にも分かるし、
   また何人にもその心の養分となるわけです。

・・・

(3)【 9月27日 】 《六魚庵信仰歌》

   迷いながら
   躓きながら
   求めながら

   失いながら
   憎みながら
   愛しながら

   泣きながら
   堪えながら
   責めながら

   怖れながら

   己をつくり
   神へ近づく
   仏へ近づく

・・・

(4)【 9月27日 】 千磨して

   平生(へいぜい)志す所あり、鉱璞(こうはく)肯(あえ)へて自ら捐(す)てんや。
   千磨(せんま)して玉(ぎょく)彌々(いよいよ)瑩(あきら)かに、
   百錬して鉄(てつ)転(うた)た堅し。 

               安政2年9月7日「感を書す」

   【訳】

   日ごろから、心に期する所がある。
   私の志は、掘り出したままの粗金や、まだ磨いてもない玉と一緒で、
   (まだ果たしていないからといって)どうして自分から捨てようか。捨てはしない。

   千回磨くことによって、玉は名玉となり、
   百回鍛錬をすることによって、鉄は更にかたくなるのであるから。(志も同様である。)

・・・

(5)《27日 実相を観ずれば相手の善なる仏性が顕現する》

   あなたが人に対する時には、常にその人が“神の子”であり、
   神の愛と智慧とがその人に宿っており、自分に好意をもっており、
   決して自分に災いを為す人ではない、

   この人は自分に祝福をもって来て下さったのだと信じて、
   その人の実相なる“神の子”を心に描いて
   礼拝し感謝する気持で応対するがよい。

   たといその人が、実は、こちらに対して悪意をもち、
   謀略をもって自分を陥れるためにやって来ていたにしても、

   あなたが真に相手の悪意のない完全な“神の子”の実相を拝んで
   相対するならば、相手の当初の悪意は消えてしまい、
   敵であった者がついに味方になってしまうのである。

   ここに実相を観ずる力の秘密があるのである。

   これが法華経にある常不軽菩薩の行き方である。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/1c19b3d5b7a0394769b3af6d1942ac80

           <感謝合掌 令和4年9月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/09/29 (Thu) 04:53:00


(1)【 9月28日 】善人顕彰

   先生曰く、
   それ仕法の道は善を賞し不能を教ふるを以て主とせり。

   善人を挙げて大いに賞を行ふ時は、
   不善者みな善に化す。

   語に言はずや、
   直(なおき)を挙げて、
   枉(まが)れるを措く時は、
   枉れるものをして直からしむと、
   一邑を風化するも此の道を要とせり。

   況(いわ)んや領中に選びて一番に仁沢を希(し)き、
   之を安撫するは豈(あに)大賞にあらずや。

                   (報徳記)

   【註】

   一村を立て直す仕法の道として翁は善行者の表彰にカを尽されました。

・・・

(2)【 8月28日 】大欲の立場にたつ

   人問が真に欲を捨てるということは、
   実は自己を打ち越えた大欲の立場にたつということです。

   すなわち自分一身の欲を満足させるのではなくて、
   天下の人々の欲を思いやり、
   できることなら、
   その人々の欲をも満たしてやろうということであります。

・・・

(3)【 9月28日 】 《人なり》

   芸も人なり
   詩も人なり
   書も絵も人なり

   人なりと言うは
   その人の心を
   表わすものなりということだ

   心せよ心せよ

・・・

(4)【 9月28日 】 城府を設けず」

   僕(中略)人を待つに城府(じょうふ)を設けず。 

               安政4年10月18日「※中村牛荘先生に与ふ」

   【訳】

   私は(中略)人と接する時に、身構えたりしない。

    ※長州藩士 中村伊助。明倫館学頭。松陰の友人百合蔵の父。
     松陰は牛荘に『中庸』の教えを受けた。

・・・

(5)《28日 環境はこのように念じて祝福しなさい》

   人間を拝むと同時に環境をも祝福するがよい。

   あなたの住む環境が如何に苛辣(からつ)な状態であろうとも、
   その現象的状態を見て恐れたり腹立てたりしたならば、環境は愈々苛辣な状態となり、
   人々はあなたに対して一層攻撃的になって来て、
   収拾(しゅうしゅう)がつかなくなるかもしれないのである。

   そんな苛辣な環境に対したときには、
   あなたはその環境と、そこに集まっている人々、又はそれに関連のある人々を
   “神の愛”をもって祝福しなければならないのである。

   次の如く、心を静めて繰り返し念ずるがよい。

   ”此処は神様の愛の支配するところである。
    神の愛が今此処に充ち満ちているのである。

    神の愛が、ここに集まっている人々、
    この問題に関係あるすべての人々を引き包んで、
    それらの人たちの心を平和ならしめ、愛と調和の精神をもって充たし給い、
    神の智慧をもって、すべての人々が調和して満足できる解決を与え給うのである。”

   この種の思念をつづけていると、
   はじめに争いの念をもって人々が集まっていた会場は
   次第に平静となり、争いの心は鎮(しずま)り、
   人々は互いに協調の精神を起して、大調和の状態を呈するに至るのである。

      (ホルナディ博士著、谷口雅春訳『今日如何に生きるか』参照)

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/041fbf9e7e44a064a5b4bda19365c731

           <感謝合掌 令和4年9月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/09/30 (Fri) 04:49:32


(1)【 9月29日 】善人を賞美す

   先生年すでに六十七歳病後いまだ快然たらず。

   食もまた平生に復せず。
   炎暑燃ゆるが如くなるに、
   この険路を推歩し、
   村々の盛衰を鑑み厚く善人を賞美し、
   鰥寡(かんが)孤独身に便りなきもの又は困窮のものを恵みたり。

   各々その次第に由って或は金一両より五両に至る。
   又は農業を勤め衰貧に陥(おちい)らざるの村に至りては、
   或は金十金十五金を以て邑中の民を賞す。

                    (報徳記)

   【註】

   尊徳先生はよく善人表彰にカを尽くされた。
   鰥寡とは妻を失った男と、夫を失った女。
   そうした人たちへも心を配られた。

・・・

(2)【 9月29日 】一日の終わり、人生の終わり

   われわれが夜寝るということは、
   つまり日々人生の終わりを経験しつつあるわけです。

   一日に終わりがあるということは、
   実は日々「これでもか、これでもか」と、
   死の覚悟が促(うなが)されているわけです。

   しかるに凡人の悲しさには、
   お互いにそうとも気付かないで、
   一生をうかうかと過ごしておいて、
   さて人生の晩年に至って、
   いかに歎き悲しんでみたところで、
   今さらどうしようもないのです。

   人間も五十をすぎてから、
   自分の余生の送り方について迷っているようでは、
   悲惨と言うてもまだ足りません。

・・・

(3)【 9月29日 】 《二つの言葉》

   画家の高山辰雄さんが、いいことを言っておられた。

   いい絵というのは肋骨に引っかかってくるものを持っている。
   ゴッホの烈しさはやさしさからきていると。

   この二つの言葉はよかった。
   最近の若い人は絵画でも陶器でも実に器用で、すぐに個展を開く。
   別にそれを非難するつもりはないが、感心はするが感動はしない。
   つまり肋骨に引っかかってくるような玄なるものを持たないのである。

   (中略)
 
   また烈しさはやさしさからきているという言葉も、
   うーんとうならせるものであった。

   わたしはこの言葉を耳にした時、道元の『正法眼蔵』の烈しさを思った。
   そして、あれは禅師のやさしさからきているんだなと、
   今までのとかくの誤解が氷解していった。

   シャカやキリストの烈しさ、あれもやさしさからきているのだ。

・・・

(4)【 9月29日 】 己が任と為す

   綱常(こうじょう)名分(めいぶん)を以て己が責と為し、
   天下後世を以て己が任と為すべし。

   身(み)より家に達し、国より天下に達す。
   身より子に伝へ孫に伝へ、雲仍(うんじょう)に伝ふ。
   達せざる所なく、伝はらざる所なし。

   達(やつ)の広狭(こうきょう)は、行(ぎょう)の厚薄を視(しめ)し、
   伝の久近(きゅうきん)は、志(こころざし)の浅深(せんしん)を視(しめ)す。  

               安政3年7月18日「久坂玄瑞に復する書」

   【訳】

   人としての正しいあり方を守ることを自分の責任とし、
   天下後世を維持発展させることを自分の任務と自覚しなさい。

   人としての正しいあり方を、我が身から家に広げ、国家から天下へと広げる。
   また、子・孫へ伝え、更には雲仍、八代目の孫にまで伝える。

   (正しい教えであるから)広がらない場所はなく、伝わらない世代はない。
   広がりの広狭は、己の行いが誠実であるか否かを示し、
   また、どの世代まで伝わるかは、志が高いか否かを示す。

    ※ 長州藩医の子 久坂玄瑞。松陰が高杉晋作と共に最も期待した高弟の一人。
             吉田松陰の妹文が嫁いだ。

・・・

(5)《29日 “ 愛 ”がなくなれば魂は窒息する》

   神は愛であり、人間は“ 神の子 ”であるから、
   “ 愛 ”がなければ生きられないのである。

   人間の魂にとって、“ 愛 ”が必要なのは、
   人間の肉体にとって“ 空気 ”が必要なのによく似ている。

   空気が無ければ人間の肉体は窒息してしまうが、

   “ 愛 ”が感じられなくなると、人間の魂は窒息しそうになり、
   たまらなく苦しみを覚え、麻薬中毒患者の禁断症状のように、
   あばれ廻り、のたうち廻る衝動にかられるのである。


   学生のゲバ棒騒動の奥にも、親と子、教師と学生、社会と個人、国家と国民との間に、
   断絶状態が起っていて 愛が感じられない結果、
   魂の のた打ち廻る姿が行動化しているのだと見ることもできるのである。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/295dabc5ee4968b1e4d7b7e2c1b8ae84 )

           <感謝合掌 令和4年9月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/10/01 (Sat) 04:44:37


(1)【 9月30日 】困苦を厭わず

   先生高山を越え、
   深谷を渉り、
   疲労極(きわま)るに至っては路傍の石上に休し、
   又は草原に息して推歩せり。

   従者手に汗を握り病ひの発せんことを恐るると雖(いえど)も、
   先生自若として困苦を厭(いと)はず。
   惟(ただ)下民を安んずる事のみに労せり。

   人々その誠心慈仁の至れることを感歎す。

                    (報徳記)

   【註】
 
   先生はもとより身体強健でしたが積年の疲労の蓄積が原因となり、
   いたましき次第となりました。

・・・

(2)【 9月30日 】鍛錬

   われわわれ凡人は人生のある時刻において、
   何らかの意味でかようなきびしい鍛錬をその師から受けない限り、
   真の人間とはなれないのではないでしょうか。 

・・・

(3)【 9月30日 】 《心棒》

   独楽(こま)が回るのは
   心棒があるからだ

   しんみんの心棒は
   念ずれば花ひらく
   大宇宙大和楽

・・・

(4)【 9月30日 】 疾しからざるにあり

   英雄自(おのずか)ら時措(じそ)の宜(よろ)しきあり。
   要(よう)は内に省みて疾(やま)しからざるにあり。  

               安政6年10月25日「留魂録」

   【訳】

   英雄といっても、その折々のあるべき振る舞いというものがある。
   大切なことは、心中を顧みて、やましい所がないということである。

・・・

(5)《30日 占領憲法下の老人は気の毒だ》

   何らかの不快感や寂寥(せきりょう)感が起って来るならば、
   “愛”があなたの魂に欠乏して来ているからである。

   それは肉体が空気の乏しい高空にのぼった時のようなものである。

   老人の寂しさは、もう既に、自分が愛して、
   手をとって愛撫しながら一緒に人生を歩むような子供が
   無いということである。


   前には、手を引き、抱きあげ、玩具(おもちゃ)を買ってやり、
   時々美味しい料理をたべさせる店で珍しい食物を子供に食べさせて、
   その嬉しがる表情を見て、愛し合う者の悦びを感じた者が、
   老人には、そんな子供は既にない。

   むかし子供だった息子も娘も独立して
   自分自身の好きな人生の快楽を享受しているのであって、
   自分の息子や娘と老人とは断絶の関係にある。

   老人が孫を直接可愛がることが出来れば、
   その悦びは一入(ひとしお)であろうけれども、

   孫はその直接の両親の管理下にあって
   古い老人が嘴(くちばし)を入れる余地もなければ、
   相談を受けることもないのである。

   ここには老人と孫との間も断絶の関係にあるのである。
   ― ある老人は、私にこんな事を語って、寂しい微笑をした。

   私はこの老人を慰めるために、
   「それは“断絶の時代”だからよ。息子や娘が悪いのではない、
   憲法が家の制度を破壊してそうさせたのだよ」といってみたが、

   この老人をどう言って慰めてよいかわからなかった。

   スウェーデンやデンマークという最も完備した老人ホームがつくられているその国で、
   最も老人の自殺が多いということを私はその時思い出していた。

   (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ab0bd0408f22a774c38962df973abb3

           <感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝>

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