伝統板・第二 2473060

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英霊の言乃葉 ⑱

1:夕刻版 :

2022/08/02 (Tue) 04:48:04

靖国神社社頭掲示~令和4年8月


淡々として征途に就かんのみ

陸軍大尉 酒井 源兵衛 命


昭和二十年八月十日

フィリピン・ルソン島にて戦死

兵庫県多紀郡丹南町出身 三十一歳


悠久三千年の歴史に輝く皇國の興廃を決するの秋(とき)、
正に来(きた)る。恰(あたか)もよし。

此(こ)の秋今日、最後の決戦場に臨(のぞ)まんとす。
男子の本懐(ほんかい)之(これ)に過(す)ぐるものなし。

生死固(もと)より天にあり。
唯(ただ)、至誠以て任務に邁進せんのみ。

顧(かえりみ)れば、生を受けしより三十年。
今日あるは諸々(もろもろ)の恩恵によるは勿論なるも、
父上母上の陽(ひ)になり陰(かげ)に亙(わた)る慈愛に負(お)う所
最も大なり。(中略)

今回辱(かたじめな)くも
恩賜品(おんしひん)を拝受(はいじゅ)するの光栄に浴(よく)せり。
今日までの不孝、之(これ)に依(よ)り諒(りょう)とし給はんことを、
今は何ら思ひ残すことなし。
淡々として征途(せいと)に就(つ)かんのみ。

仮令(たとえ)、戦死の報(しらせ)到(いた)るとも、
悲嘆に捕(とら)はれ給ふこと勿(なか)れ。

人間には肉体を超越せる何物かが存在す。
生死に拘(かかわ)らず、我等は常に一体なり。

老齢、故郷に帰り給ふとも、
孝養を盡(つく)すべき男子二児(にじ)共に戦野にあり。
日夜の御辛苦(ごしんく)推察す。

唯、天なり命なり。
幸に自重・自愛・天寿を全うせられんことを遥(はる)かに祈り続けむ。

  昭和十九年十月
                        源兵衛

父上様
母上様

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

            <感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/08/02 (Tue) 15:55:44


遺言書


陸軍兵長  金須 正一 命

昭和20年5月15日
沖縄本島運玉にて戦死

北海道河東郡鹿追村出身 23歳


金須多利治様
外御一同様


天皇陛下の御(おん)ために戦死しました。
武人の面目にて男子の本懐なり。

是(これ)も偏(ひとえ)に二十有余年間御養育下されし
御両親様始め兄弟一同、又中隊長殿始め各先輩の入隊以来の
御指導及び戦友の友情にて今日の栄を得たり。

父母上様に先立つも君(きん)に忠(ちゅう)なれば、
又親にも孝(こう)なり。

正一の戦死を御喜び下さい。

老いたる父母上様を残して先立つは忍びざるも仕方なし。
何分兄弟相助けて亡き正一の分まで孝養を盡して下さい。

実に親の恩は深重(じんじゅう)です。
時折態度の悪かった事も御免(ごめん)下さい。

(中略)

常に皆さんの身を守ります。
今度逢(あ)ふ日は靖國の御社(みやしろ)で。
兄も待ってをるだらう。兄とも逢へると思ふと嬉しいです。

笑ってお先に参ります。
立派に働いて戦死した事をお喜び下さい。終はりに
天皇陛下萬歳(ばんざい)と皆様の御健康をお祈りして、
お別れ致します。

御機嫌やう。
隣近所の方々にもよろしく。

国蔵よ元気で立派な軍人になって呉(く)れ。

                    金須 正一

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

       <感謝合掌 令和4年8月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/08/03 (Wed) 12:01:09


お父さんより

陸軍少佐 森 美喜 命

昭和十七年十二月二十一日
ソロモン群島カダルカナル島戦死

鳥取県気高郡美穂村出身

三十九歳


お父さんより

美知枝に


美つちゃんが出生することをお父さんとお母さんは
真面目に祈っていたのです。

そしてお母さんも、お父さんもとても元気でした。
美つちゃんがお母さんの胎内にある時、お母さんの栄養の摂取は勿論
立派な美つちゃんが生まれ出るやめに、色々な栄養や健康法に努めたのです。

お母さんもお父さんもとてもうれしく気持ちよく日々を送りました。
そして、美つちゃんが生まれ出る時が来ました。

(中略)

美つちゃんは、まるまる肥えて元気らしく、ほんとに赤ちゃんといったふうで、
綺麗でした。そしてお母さんのお乳に元気よく食いついて飲んでくれました。

(中略)

美つちゃんは、きっと立派な女性、大和民族として、その美性をそなへ
智格を保ち枝性を垂れて、人生の本分に邁進せよ。
お父さんはしばらく戦場にあつて、戦争目的を達して帰る。
留守中にきっと利巧な美つちゃんなっているであらう。

お母さんの教へを守り、早く成長してお母さんを助けなさい。
そして兄二人と仲良く三人が手を握り合つて、
お父さんのために、お母さんのために三人の名を挙げなさい。

 ではこれで失礼する。

 昭和十七年十一月十五日

                         父 森 美喜

森 美知枝 殿

  (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

           <感謝合掌 令和4年8月3日 頓首再拝> 
4:伝統 :

2022/08/04 (Thu) 13:23:16


遺詠


陸軍伍長 京 直衛 命

昭和ニ十年ハ月十七日
満州吉林省 陶家屯駅北方にて戦死

秋田県能代市大町出身
二十九歳



  大君に召(め)されて征(ゆ)くや益荒男(ますらほ)が
             草むす屍(かばね)何か惜しまん


  子の親となりて強し吾(わ)が母の
             尊き愛の心にぞ触(ふ)る


  身はたとひ広野(こうや)の果(は)てに散(ち)ろうとも
             捧げた命(いのち)何か惜しまん


                          京 直衛


   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和4年8月4日 頓首再拝> 
5:伝統 :

2022/08/05 (Fri) 14:40:35

誠教(しげのり)君へ


陸軍大佐 横田庄三郎 命

昭和17年1月3日
中華民国湖南省長沙付近にて戦死

鳥取県気高郡大郷村出身 46歳


ダイ一ガッキ セイセキハ タイヘンヨクデキ
オトウサンモ ヨロコンデヰマス 四日モケッセキシタノハ
ビヤウキデヤスミマシタカ スキナナツヤスミモスンデ
マタ ガクカウガ ハジマッタデセウ ダンダン
スズシクナリマスカラ ベンキヤウモシ ウンドウモセネバ
ナリマセン オトウサンノキズモ スッカリナホッテ
ゲンキデハタライテヰマス サヤウナラ

八月十七日

              オトウサンヨリ

誠教君

 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/fbbe1eb4bc0a604098def3cdcc00fb52 )

           <感謝合掌 令和4年8月5日 頓首再拝> 
6:伝統 :

2022/08/06 (Sat) 13:11:51


永へに皇国を護らむ


陸軍中尉  青木 輝雄 命
昭和十九年八月二十一日
トラック諸島夏島にて戦死
長野県下高井郡中野町出身 
二十四歳



大君の命(みこと)かしこみ大船の
  行きのまにまに仇撃ち征かむ


大命にもとづき勇躍征途に就く
男子の本懐、是に過ぐるものなし

生死、勿論戦場の常
生くべきは生き、死すべきは死す
何ぞ恐るるに足らむ

若し万一の事あるも、我靖國の杜にありて
永へに皇国を護らむ

墓標は、つとめて小たるべし
書籍なども一般に不必要のもの多かるべし
よく暹(のり)殿と相談の上、これ等は国民学校に寄贈

以て我が志を国民教育の上に生かされたし
皇国の弥栄を祈りて擱筆(かくひつ)す

紀元二千六百四年四月大吉日
              輝雄

父上様

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/8054a319f9e57163a336612a7eb96027 )

・・・

『8月拝殿掲示』

       昭和天皇御製

           全国戦没者記念日    (昭和63年)

     やすらけき世を祈りしもいまだならず
     くやしくもあるかきざしみゆれど

     (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20170815.html )

           <感謝合掌 令和4年8月6日 頓首再拝> 
7:伝統 :

2022/08/07 (Sun) 13:44:38


遺言状

陸軍大尉 岡 研磨 命 

昭和十九年九月二十一日
西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳



人生草露の如し。

今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに
過ぐる事なし。

母上に対し孝養足らず。
遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。
深くこれを謝す。

人生の行路平坦ならず。
一同力を合はせ御国の為
勇往邁進(ゆうおうまいしん)せよ。

吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん。

・・・

<参考Web:美しく 樹つる 石が根(2016-08-01)
       → http://chan75.hatenablog.com/entry/2016/08/01/233722 >

・・・

『8月拝殿掲示』

       皇后陛下御歌

           終戦記念日に    (平成8年)

     海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
     あまたのみ霊(たま)国護るらむ

     (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-3134.html )

           <感謝合掌 令和4年8月7日 頓首再拝> 
8:伝統 :

2022/08/08 (Mon) 13:33:06


天皇陛下の御為に

陸軍曹長 木 崎 徹 治 命 
昭和二十年一月三日
フィリピンミンドロ島にて戦死

埼玉県北葛飾郡豊野村出身 
二十三歳


天皇陛下の御為に、米英撃滅の決戦の大空に悠久の大義に就かんとす。
男子の本懐此れに優(すぐる)無し。

長年の御教訓に遵(したが)ひ死所を得たる徹治は幸福者です。
貧苦の中にも良き御教育の道を戴き有難うございました。

徹治戦死の報あるも決して悲しんで下さるな。
一日も早く病全快せられ、御母様共々末長く達者で御暮らしの程御祈り致します。

彰介は立派な人間にして下さい。
小生の貯金其の他は、弟妹等の教育費に御使用願ひます。

兄上木崎家の更隆を切に御願ひ致します。
弟妹達仲良く身体を大切に勉強して立派な人間になって
孝養を盡(つく)すを怠るな。

嗚呼(ああ)、大東亜永遠の平和確立の暁を見よ快なる哉(や)。
                             

             徹治
父母様
兄弟妹様

  (https://blog.goo.ne.jp/papa_mama_001/e/e5d0ac9b1f2e59bee322a2bc6c8c9e47?fm=entry_awp )

・・・

【平成27年8月拝殿掲示】

 昭和天皇御製

    千鳥ヶ淵戦没者墓苑(昭和34年)

 国のため命ささげし人々の
 ことを思えば胸せまりくる
     
 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20150815.html

           <感謝合掌 令和4年8月8日 頓首再拝> 
9:伝統 :

2022/08/09 (Tue) 14:29:12


遺書

海軍兵曹長 庄司猛夫命

昭和十九年十一月二十一日
フィリピン東方海面にて戦死

福島県岩城郡内郷町出身 
二十七歳


我今より我が大日本帝国の決戦場に向ふにあたり一言遺言す。

我もとより戦場に向ふに心残りなし。

今大君の御為、大和民族の盾となれるを喜ぶ。

家人よ嘆く勿れ、むしろ祝すべし。

我が家にも名誉の戦死の記されることを地下より喜ぶ。
二十六年の間、海よりも深き父母の恩に報い得ざるは、残念なり。
残る弟妹達、兄たる小生の分も孝行されたし。

節子よ、兄の墓は敵の重艦で大きく立派なものだ。
此の海を今にお前たちが船に乗って通ることもあるでしょう。

兄は喜んで見上げるよ。
母さんに孝行、父の言を守り弟妹共の指導をたのむ。

(後略)

昭和十八年一月十日



・・・

『8月拝殿掲示』
       
    昭和天皇御製
            歌会始御題   光    (昭和35年)

     さしのぼる朝日の光へだてなく
     世を照らさむぞわがねがひなる

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-2122.html )

           <感謝合掌 令和4年8月9日 頓首再拝> 
10:伝統 :

2022/08/10 (Wed) 12:44:22


自分ノナマヘカケマスカ


海軍上等水兵 吉田 勝 命

昭和十九年八月十日
マリアナ諸島方面にて戦死

東京都北区田端町出身
三十六歳


明子チャン、大変ニオリコウサンニ、ナッタサウデスネ。
オ父サンハ、ヨロコンデヰマス。

ヨク通子トモ遊ンデヤルトノ事。
オヂイサン、オバアサン、オ母サンノ云フコトヲヨクキイテ、
マスく良イ子ニナッテ下サイ。

オ父サンモ、ココカラ元気ニ、ヘイタイサンニナッテ、見テヰマス。

塗絵タイヘンヨクデキマシタ。
モットモットカイテ、ナニカヒトリデ、カイテ下サイ。

自分ノナマへカケマスカ。
マダムリデスカ。

マタ、オモシロイハナシヲ、タクサンキカセテアゲマス。

通子、順子ニモヨロシク。

サヨナラ


父ヨリ

明子チャン

           <感謝合掌 令和4年8月10日 頓首再拝> 
11:伝統 :

2022/08/11 (Thu) 13:22:31


立派に軍人の本分を尽す覚悟であります


海軍一等機関兵曹 柳澤幸信命

昭和十九年八月十日
マリアナ諸島グアム島にて戦死

徳島県徳島市矢三町出身 二十一歳


拝啓。
初秋の頃と相成りました。

其の後、お父さん始め御一同様には、何のお変りもなくお過しの由、何よりと存じます。
降って、小生も日々元気旺盛、軍務に精励致してゐます故、他事乍ら御休心下さい。

お願ひして御座居ました品物及び千人針、お守確かに受取りました。
いざと言ふ時には、この千人針をしっかりと腹に巻き、
立派に軍人の本分を尽す覚悟であります。

もう故郷の方も稲の穂も頭を下げ、お祭の近づいた事を見せてゐる事でせう。
小生も去年は、内にゐて御馳走をたんまり食べましたが、今年はもうだめですね。
ハ・・・。

それから、尚もう一つお願ひがあるのですが、家内一同写した写真がありましたら、
一枚お送り下さいますか。
もう半年、家内の者の顔を見ぬと一人淋しくなります。

では、今日はこれくらいでお別れします。
向秋の折、御一同様呉々もお体大切に。 又後便にて

幸信

懐かしい 御一同様へ

           <感謝合掌 令和4年8月11日 頓首再拝> 
12:伝統 :

2022/08/12 (Fri) 13:00:08



しっかり頑張りなさい

海軍軍属(学徒)  立川絹江命

 昭和二十年八月二十三日

 原子爆弾のため本籍地にて戦傷死
 佐賀県杵島郡橘村出身 十九歳


安ちゃん。

お手紙ありがたう。

もっと早く返事書かうと思ってゐましたが、
なかくひまがないのでこんなにおそくなってしまひました。
ごめんなさいね。

皆がおりこうさんで暮してゐるので、
お父さんも姉ちゃんも非常によろこんでゐます。

これからも、もっとくヨイコになってお母さんのお加勢し、
お父さん達を安心させなさいね。

それから尚男ちゃんの病気はなほりましたか。
永い間下痢したのなら、やせてしまったでせう。
どんなにしてるかしらと心配です。

邦子ちゃんはどうしてゐますか。
もう大分(だいぶ)おしゃべりになってることでせうね。

安ちゃん。もう学校に行ってゐるとのことですが、学校はいかがですか。
なれないうちはいやな日や、つらいこと等あるでせうが、
もう一時(いっとき)してるとだん々々おもしろいやうになりますよ。

武雄の人に負けぬやうしっかり頑張りなさい。
それには毎日くたとへ少しの時間でもよいから、
机に向って予習復習をかかさぬ様になさい。

毎日の予習復習を立派にすれば学校の勉強はどんくおもしろく進みますよ。

安ちゃんは今からが一番大切な時ですから、
分らぬところは勝さんや、望ちゃん、照ちゃん等にきいてしっかり勉強しなさい。

姉ちゃんも戦争に勝ち抜くまではうんとがんばる覚悟です。
ではお元気でおくらしなさい。

安ちゃんへ                          
さやうなら

 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/5133bf3df719983d0714f6a26ba38933 )

・・・

 8月の拝殿・社頭の昭和天皇の御製(昭和57年)

 「八月(はずき)なる嵐はやみて夏の夜の空に望月のかがやきにけり」

  (http://ginnews.whoselab.com/110820/tsuido.htm )

           <感謝合掌 令和4年8月12日 頓首再拝> 
13:伝統 :

2022/08/13 (Sat) 15:53:48

謹みて靖国神社の神霊に申す


陸軍憲兵軍曹 近 藤 巖 命

昭和二十年八月十九日
東京九段靖国神社にて責任自決

愛知県出身 二十二歳


謹みて靖国神社の神霊に申す

本日復員の命下れり。
皇國の必勝を信じ、護持の大任を完(まっと)ふされし
靖国の神霊に何と申し上ぐべきや。

只、吾が責務の完(まった)からざるを思ひ、此処に一死以て詫びんとす。

陸軍憲兵軍曹 近 藤 巖



遺言

謹みて御両親様に申し上げます。

本日復員の命下り、帰郷の余儀なきに至りました。
真に無念に存じます。
多くの戦友に先立たれ、軍人の本分を完(まっと)ふせず、
今更何んで帰られませう。

巖の胸中、お察し下され。

武人として、又、自己の信念の大道を進むべく、此処に死を決します。

お許し下され。

生を受けてより此の方、二十四年有余。

此の間の御両親様の御辛労、深く深く感謝致します。
後に残りし弟二人、立派に御薫陶の上、
皇國護持の為に尽さしめられたくお願ひ申し上げます。

折角御自重遊されたく。

昭和二十年八月十八日



御両親様

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6d9d276361604a2b41d0c46d92a9adb0 )

           <感謝合掌 令和4年8月13日 頓首再拝> 
14:伝統 :

2022/08/14 (Sun) 02:41:09


       *Web:産経新聞(2022.08.13)より

先の大戦の終戦時、旧日本陸軍の第五方面軍司令官として、
ソ連の北海道侵攻を阻止したことで知られる
樋口季一郎中将(1888~1970年)の功績を後世に伝える銅像が、
出身地の淡路島にある伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)に建立される。

孫で明治学院大名誉教授の隆一氏(76)が会長を務める顕彰会が建て、
樋口中将の命日にあたる10月11日に式典を行う。

樋口中将は淡路島内にある現在の同県南あわじ市出身。

旧満州国のハルビン特務機関長時代に、ソ連やナチスドイツに迫害されて
逃れてきた約2万人のユダヤ難民を救ったとされる。

「命のビザ」で知られる駐リトアニア領事代理だった外交官、杉原千畝氏と同様に
その人道主義が国際的に評価されている。


終戦時には北海道や当時日本領だった南樺太、千島列島の防衛担当の司令官。

終戦の玉音放送が流れた昭和20年8月15日以降も侵攻するソ連軍に自衛戦で挑み、
スターリンに北海道占領を断念させた。

隆一氏は「北海道の分割、ひいては日本の分割占領を免れた」と指摘している。


伊弉諾神宮の本名孝至宮司や隆一氏によると、建立される銅像は等身大。
軍服姿で軍刀を手にしているという。
全国から顕彰会に寄せられた浄財を活用する。

出身地の南あわじ市内で建立する計画だったが、
淡路島出身の偉人や戦死者らをまつる淡路祖霊社があり参拝者も多い
同神宮に決まったという。


本名宮司は
「いまでは樋口中将を知らない人が多く、功績を後世に伝えたい」と話す。

北方領土の不法占拠を続けるロシアはウクライナ侵攻を続けており、

隆一氏は
「国土防衛の意識を高めるためにも、祖父のことを多くの日本人に知ってもらいたい」
と訴えている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/ebda9cec409744768d223383335931e773cbdbd2

・・・

<参照>

(1)奇跡の将軍・樋口季一郎陸軍中将に学ぶ
   Web:ねずさんのひとりごと(2019.11.24)
   https://nezu3344.com/blog-entry-4328.html

   (以下は抜粋です)

   樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で2万人のユダヤ人の命を救い、
   アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、
   千島列島の占守島の戦いを指揮して

   北海道の500万の人口を守った昭和の名将です。

   昭和20(1945)年8月18日。これは無条件降伏の3日後のことです。

   北海道占領を目的として、ソ連軍が
   突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。
   その兵力は、およそ8000。

   同時にスターリンは、
   千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。

   司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、
   戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。

   これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、
   濃霧の中隊員に訓示しました。

   「諸士、ついに立つときが来た。
    諸士はこの危機に当たり、
    決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。

    もしくは赤穂浪士の如く、
    この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
    白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。」

   8月22日まで続いた戦いの結果、
   ソ連は3000人もの死傷者を出して敗退しました。

   1日で占守島を占領する計画も水疱に帰しました。

   大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、
   連合軍総司令部に引渡しを要求しました。

   しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。

   こうして米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。

(2)樋口 季一郎とユダヤ人難民、そしてユダヤ老人から聞いた話
   Web:伊勢ー白山 道(2022-04-26)
   https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/42aee98ea951ca7d1e0fbcc0f94aaf01

           <感謝合掌 令和4年8月13日 頓首再拝> 
15:伝統 :

2022/08/14 (Sun) 17:24:08



お母様の膝下に帰ってゆきます


陸軍中尉  藤井 冨一 命

昭和二十年八月六日
沖縄方面にて戦死

奈良県生駒郡安堵村出身 二十五歳


(前略)

永い永い二十五年間心配ばかりをおかけして、
一時として安心させる様なことの出来なかったことが
何よりも心残りであります。

せめて一時でも安心させたかった。

しかし、冨一も一人前の男になりました。
今こそ最後の御安心をさせる秋が寸前に迫り、喜び勇み居ります。

(中略)
 
今更、何も思ひ残す事はありません。
ただ感謝、喜び勇んで敵撃滅の決戦の空に、真一文字に征きます。

お母さん、祝って下さい。
 
お母さん、たとへ私の身体が帰って来なくても、
心は必ずお母様の膝下に帰ってゆきます。
あのうるはしい山に包まれた故郷の空へ帰ってゆきます。

そして、皆様と一緒に日本を守りませう。

(後略)
    
冨 一

お 母 様

           <感謝合掌 令和4年8月14日 頓首再拝> 
16:伝統 :

2022/08/16 (Tue) 04:49:40

令和4年度 全国戦没者追悼式
https://www.youtube.com/watch?v=7MWBD5r2DrQ


終戦から77年 全国戦没者追悼式 天皇陛下のおことば全文
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220815/k10013771211000.html

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、
さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、
深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来77年、人々のたゆみない努力により、
今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、
多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

私たちは今、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による
様々な困難に直面していますが、私たち皆が心を一つにし、力を合わせて
この難しい状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを
心から願います。


ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、
過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、
戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、
世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

・・・

終戦の日・英霊たちの言乃葉
https://www.spacebrothers.jp/2021/08/blog-post_15.html

(以下は抜粋です)

(1)宅島徳光 作詞家 海軍中尉 松島航空隊機長 24歳

   ほんとうにあのような可愛い子供達のためなら、
   生命も決して惜しくはない。

(2)市島保男 海軍大尉 神風特別攻撃隊第五昭和隊 23歳

   今かぎりなく美しい祖国に、わが清き生命を捧げ得ることに
   大きな喜びと誇りを感ずる。

(3)塩田源二 陸軍憲兵中尉 二十四歳

   私は甘んじて、否満足して、
   この大東亜我々民族の礎石として死んで行きます。

   私は身はたとへ南の地に果てても
   私の魂は皆様のお傍近く必ず行きます。
   そして皆様のお幸福の為にお守りする積りです。

(4)多田 美好 海軍二等機関兵曹 三十三歳

   大らかな気持で喜んで國難に殉じて参ります。
   唯、生前何等の御孝養を尽すことなく、そればかりが心残りです。

   お母さん、私は死んでは居りません。
   何時も何時もお傍に居ります。

(5)伊藤 甲子美 陸軍衛生伍長 二十六歳

   季代子

   かう呼びかけるのも最後になりました。

   短かつたけど優しい妻でした。
   有り難く御礼申し上げます。
   まこと奇しき縁でしたけど、
   初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。

(6)富田 修 海軍中尉 二十三歳

   一時半、我一生ここに定まる。

   お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!

   かう叫びたい気持で一杯です。

   いかに冷静になつて考えても、
   いつもいつも浮んでくるのは御両親様の顔です。

   父ちゃん! 母ちゃん!

   僕はかう何度もよびます。

           <感謝合掌 令和4年8月15日 頓首再拝> 
17:伝統 :

2022/08/16 (Tue) 16:31:17


沖縄・ハワイに行く方は○日以上行っては行けません!
伝説のユタがお答えします!
奇跡の琉球ユタ HALチャンネル(2022/08/12)
https://www.youtube.com/watch?v=AzIDxLhG_EQ
(動画内7分50秒から)

・・・

沖縄ではまだ、戦没者たちの苦しみが継続しています
伊勢ー白山 道(2022-08-15)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/006a87a0717c20ef18700d1f232e4dd6

・・・

「沖縄の戦陣より妻へ」英霊の言の葉より 渡辺研一命【朗読あり】
https://novelup.plus/story/883529590/824113264

           <感謝合掌 令和4年8月16日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/08/17 (Wed) 13:12:33

遺 書

陸軍歩兵中尉 立山英夫命

昭和十二年八月二十二日
歩兵第四七聯隊
支那河北省辛荘附近にて戦死

熊本県菊池郡隈府町出身


若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は 
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず 

己れ生あるその中は 子の身に代らんこと思ひ 
己れ死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ 

あゝ有難き母の思 子は如何にして酬ゆべき 
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人 母とかしづき母と呼ぶ 

貴きえにし伏し拝む 母死に給ふそのきはに 泣きて念ずる声あらば 
生きませるとき慰めの 言葉交はして微笑めよ 

母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば 
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ 


お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん

   (http://chikyuza.net/archives/91884 )

           <感謝合掌 令和4年8月17日 頓首再拝> 
19:伝統 :

2022/08/18 (Thu) 14:54:20


愛児に遺す言葉

陸軍大尉 都子野 順三郎 命

昭和二十三年八月二十一日 東京巣鴨にて法務死
愛媛県出身 四十六歳


辞世の歌


己が身のおぼえなきこと聞かるれど

  いかに答へん言の葉もなし


差入れの煙草見るなり涙ぐみ

  妻の心のいとど嬉しき


父逝きて今又吾の極刑を

  受けしを聞けば妻はなげかむ


靖國のみ魂と共に吾も亦

  幾世をかけてみ國護らむ


聖戦にこの命をば捧げしが

  時を得ずして今ぞ我逝く


                 (抜粋)
---------------------------------------------

(『英霊の言乃葉』第四輯/P87-88 収載)

           <感謝合掌 令和4年8月18日 頓首再拝> 
20:伝統 :

2022/08/19 (Fri) 12:52:43


陸軍伍長  島 田 美 好 命

昭和20年フィリピン.ルソン島にて戦死

新潟県出身  26歳


お母さん 永々のお世話感謝します

私もいよいよ国家のため お役に立つ時が参りました

私は赤紙を受けし日より すでに吾が身は大君に捧げて
仙台部隊に入隊した私です

男と生まれこんなうれしい日はありません

一旦召されたからには生きて帰る事なく第一線に出陣し
死を覚悟して行きます

万が一戦陣で散った時 父母をはじめ兄妹なかよく
幸福に暮らすことを草葉の陰より見守ります

私 建築士の職務上 兄上の部屋を改築し喜んで戴いた事
なによりの置き土産だと思ひます

父母 兄弟に告ぐ 白木の箱が届いたら泣かずにほめて
下さい

父母さまへ    島田美好

http://take-isuriver.sakura.ne.jp/eireinoisho.index.html )

           <感謝合掌 令和4年8月19日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/08/20 (Sat) 15:23:43


       *Web:知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会(2020年6月6日)より

宮川 三郎少尉  享年二十

昭和元年六月五日生 新潟県小千谷市出身

昭和二十年六月六日 陸軍特別攻撃隊第一〇四振武隊

戦死後 二階級特進 少尉任官


当会で共催させていただいている、舞台『帰って来た蛍』や、
数々の映画や文庫本などで伝えられてきた宮川三郎少尉のお話をご紹介します。
(赤羽礼子 石井宏 著書「ホタル帰る」より抜粋、加筆修正)

 
大東亜戦争末期、敗戦の色濃くなった日本軍が取った
「と号作戦」いわゆる「特攻」。

10代~20代の若い隊員たちが航空機に250キロ爆弾を抱え、
連合国の艦船に突入する百死零生の攻撃方法です。

宮川少尉も特攻隊員でした。

宮川三郎少尉は昭和二十年五月半ば、
特攻基地のある「知覧」の富屋食堂に姿を現しました。
生まれは雪国「新潟」の小千谷、色白でハンサムな男性でした。

知覧に近い「万世飛行場」から、一度は特攻出撃したものの、
機体の調子が悪く帰還した経緯がありました。
そのせいで、生き残りの烙印を押され不忠の汚名を着せられました。

そんな宮川少尉といつも連れ立っていたのは滝本伍長でした。
彼もまた、同じく万世から出撃し帰還した一人でした・・・。


宮川少尉は、富屋食堂で奇跡とも言える再会を果たします。
その相手は「第五十振武隊」の松崎義勝伍長です。

松崎伍長は、宮川の故郷、新潟県小千谷高等小学校在籍当時の良きライバルでした。
2年間ではありますが、机を並べた仲でした。
卒業後、それぞれの道に進んでいたので、まさに「奇跡」と呼べる再会でしたが、
そのわずか二日後、松崎伍長は出撃し還らぬ人となりました。

そしていよいよ、宮川少尉にも出撃の命が下ります。

運命の出撃は六月六日。その前日は宮川少尉にとって
満二十歳の誕生日でもあったのです。

鳥濱トメは出撃前夜、富屋食堂で心づくしの手料理を振る舞い、
宮川少尉の誕生祝いと出撃のはなむけとしました。

トメの愛娘である礼子や、知覧高等女学校の生徒たちは「なでしこ隊」として、
宮川少尉ら特攻隊員の身の周りの世話をしており、
出撃前日には血染めの日の丸の鉢巻きを作って手渡していました。

宮川少尉はお礼に、当時としては高価だった、
兄からもらった万年筆を「俺だと思ってくれ」と礼子に渡しました。

出撃前夜は空襲警報が鳴り響き、宮川少尉と滝本伍長、
そしてトメと愛娘のふたりは防空壕へ2~3回入りました。

防空壕を出た5人が外を飛び交う蛍に見入ったちょうどその時、
宮川少尉は、ある約束をします。

「おばちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、
 死んだらまた、おばちゃんのところへ帰ってきたい。なぁ、滝本。」

滝本もうなずきました。

「そうだ、蛍だ、俺、この蛍になって帰ってくるよ。」

トメは「ああ、どうぞ帰っていらっしゃい。」

宮川少尉は腕時計を見ながら
「九時だ。じゃ、明日の晩の今頃に帰って来る事にするよ。
 俺たちが入れるように、店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」

トメは「わかった。そうしておくよ。」と答えます。

宮川少尉はさらに続けて、こう言ったのです。

「俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ」

トメは涙をこらえながら伝えました。

「わかった、歌うからね・・・。」

出撃の朝は雨が降りしきっていました。

その日の夕刻、トメが店を片付けていると
出撃したはずの滝本伍長が入ってきました。

宮川少尉と滝本伍長の二人は、出撃したものの雨で視界が悪かったため、
沖縄までたどり着くことができるかどうか怪しいほどでした。

滝本伍長は二度、三度となく宮川少尉に引き返すよう促しますが、
宮川少尉は「おまえは帰れ、俺はいく」という身振りで、
一向に戻ろうとせず、ついに、滝本伍長はひとりで知覧に引き返してきました。

夜になってラジオが9時を告げ、ニュースが始まってすぐのことでした。
わずかに開いた表戸の隙間から一匹の大きな蛍が入ってきたのです。

二人の娘たちは、ほぼ同時にその光景に気がつき叫び声をあげました。

「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」

トメは息を呑みました。
そこには、紛れもなく帰ってきた「宮川少尉」がいたのです。
気がつくと、店にいた兵隊たち、滝本伍長、そしてトメと娘たちは
「同期の桜」を歌い始めていました。

https://www.youtube.com/watch?v=sdUrucGfoH4


貴様とおれとは
同期の桜
おなじ航空隊の
庭に咲く
咲いた花なら
散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため

貴様とおれとは
同期の桜
離れ離れに
散らうとも
花の都の
靖国神社
春の小枝で
咲いて逢ふよ


宮川少尉はトメたちとの「約束」を果たしました。

そして、現代を生きる私たちに日本の未来を託し、
今も蛍となって見守ってくれていると思います。


https://www.torihamatome.jp/?news=%E3%80%90%E9%B3%A5%E6%BF%B1%E3%83%88%E3%83%A1%E3%81%A8%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A%E3%80%80%E3%83%BC%E3%80%8E%E5%B8%B0%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9D%A5%E3%81%9F%E8%9B%8D%E3%80%8F%E3%81%A7%E6%8F%8F%E3%81%8B


・・・

<参照>

同期の桜 鶴田浩二 涙の遺書朗読 https://www.youtube.com/watch?v=lZ_4wulVwsM 

・・・

<参照>


伊勢ー白山 道(2008-04-04)
サムライ精神の背景に在る物は
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9b5a98948a0f5da0389f4f45c78136bf


伊勢ー白山 道(2021-08-11)
命のバトン・リレー
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/7e0c2c85297379b7783ab80873ed2b46


伊勢ー白山 道(2021-08-12)
集団で見る幻想の不思議
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/2f6fe7f3357763c2d610477592f09a63

           <感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝> 
22:伝統 :

2022/08/21 (Sun) 13:03:15


     *Web:道を創る男No.1 donkeyの年中夢中(2012-08-14)より

遺書

特攻隊の英霊に日す、善く戦ひたり深謝す。

最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり、
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり、
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ。

我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ、
奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり。

隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。

諸子は国の宝なり。

平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と、世界人類の為
最善を尽くせよ…

海軍中将 大西瀧治朗 命



(現代語訳)

特攻隊の立派な霊たちに告げる。

今までよく戦ってくれた…ありがとう…心から君たちに感謝する。

君たちは日本の最期の勝利を信じて、肉の玉として散って行った…
しかし…君たちの尊い信念は遂に達成することは叶わなかった…
私は自らの死をもって、君たちと君たちの遺族に謝罪する。

次にこれからを生きる戦後の日本青少年たちに告げる。

私の死は軽々しい行動を取り、利敵行為となってしまうから。

私の死は陛下の尊い決断に従ったものだ。

だから、これが自らへの戒めだと思ってくれれば嬉しい。

戦後を生きる日本人たちよ、これから苦しい時代を生きるだろう…
だが、どんなに苦しくても日本人としての誇りを決して失わないでほしい。

日本の子供たち!君たちは「日本」という国の宝だ。

どんな時も、「絶対くじけないんだ!」という特攻精神を持ち続け、
日本全民族の福祉と、世界の平和の為に…最善を尽くしなさい。

    (https://ameblo.jp/big-donkey/entry-11328680944.html

・・・

<参照>

大西中将が特攻を選択した理由とは
Web:ねずさんの学ぼう日本(2021/08/11)
https://nezu3344.com/blog-entry-4960.html

           <感謝合掌 令和4年8月21日 頓首再拝> 
23:伝統 :

2022/08/22 (Mon) 15:35:31

2022 霊視・靖国神社
文太ママのスピリチュアル部屋(2022/08/19)
https://www.youtube.com/watch?v=qp_snETu1cs

・・・

<関連>

靖国神社・霊視しました
文太ママのスピリチュアル部屋(2021/08/21)
https://www.youtube.com/watch?v=Kd5zIG9PhN4

(1)靖国神社には、種々の(人間の)非成仏霊も集まっている。
   それは浄化を求めて。

(2)第2鳥居を通過したエリアの方が浮かばれていない霊が多い。
   浄化されに来ている。

   龍神が渦巻いているのが視えた。自然の中の空気感。

   浄化を求める幽霊がたくさん靖国神社に来ている。

(4)靖国神社には、死んでいる霊(成仏霊、非成仏霊)の数が、
   密集しており、参拝者より多かった。

(5)遊就館(資料館)にて

  ①一番印象的だったのは、縫い合わせられた日本の国旗を見たとき、
   送り出した女性たちのせつない声が聞こえてきた。

  ②特攻隊員は成仏しており、思いは残っていなかった。
   死を覚悟していた。ほとんど転生しており、その後、
   日本に生まれ変わってきているかたが多い。

  ③南方へ出兵された方々は、ほとんどは成仏されているが、
   浮かばれずにいる霊もいる感じ。
   戦いの中での悲惨な期間が長いため。

(6)靖国神社に参拝して驚いたこと

  ①本堂には、成仏した英霊はいた。

  ②浮かばれていない方は、空襲で亡くなった方や
   悲惨な状況で亡くなられた方で、浮かばれていない方が多かった。

(7)参拝は、可哀相というような思いではなく、
   感謝や愛念の思いで行うことが大切です。

・・・

<参照>
Web:伊勢ー白山 道(2020-08-16)
草葉の陰(くさばのかげ)の思いを大切に
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/cecac0ce94832b911ea2791fa879a5c2

           <感謝合掌 令和4年8月22日 頓首再拝> 
24:伝統 :

2022/09/01 (Thu) 14:36:22


遺言状

陸軍一等兵 木口 一三 命


昭和十九年十一月二日

スマトラ島にて戦病死

神奈川県藤沢市大鋸 出身 二十歳


皆も元気で丈夫で暮らして居る事と思ふ。

自分亡き後は気を落とさずに、国に捧げた此の体だ。
自分は元より死は覚悟の上だ。
好きで出て来た上は尚更だ。

兎に角、弟・妹だけは立派に育ててくれ。
弟の職も自分はどうも云わない。
真つ当な仁現になればと思つて居る。

父は体が餘り丈夫ではないから心配になる。

それからもう一つお願ひがある。
自分としては、又、子供として親に云ひにくいが、
横浜に居る年寄二人の事は、何分にもお願ひしておく。

(中略)

では皆も一層体を大切に。

                    木口一三より

父上様


           <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝> 
25:伝統 :

2022/09/02 (Fri) 13:04:44


遺書

陸軍兵長  辻敏雄 命

昭和20年11月17日
東部ニューギニア・ウエワク戦病死

北海道函館市海岸町出身 24歳


敏雄は、日本帝国の軍人として恥ぢざる行動は絶対行つて来なかつた。
俯仰(ふりょう)天地(てんち)に愧(は)ぢざる所(ところ)である。

大東亜戦争は大日本帝国興亡の戦である。
この聖戦に於いて、日本人と生まれて来て此の偉大なる軍人として
戦死の名誉を喜ぶものである。

遺骨等の帰らざるは、近時戦争の形態にして悲しむ事なし。

皇国の恩、父母兄弟の恩、諸先生、諸朋友(ほうゆう)の恩に
自分の万分の一の恩返しができる事を幸福に思ふ。


母上には生来(せいらい)の弱き体(からだ)故、
十二分に注意願ひたし。

自分の今迄の親不孝をお許しください。

父なき後何程(なにほど)苦労なさったかを思へば、
唯々(ただただ)感謝の言葉あるのみ。

力を落さず、自分よりまだまだ大切な子供を亡くしてをられる人の
事を思つて、銃後国防の婦人として働いてください。

(中略)

では元気で幸福に。 母上、兄上、弟、妹へ


昭和十八年五月二十七日(木)

                    陸軍二等兵 辻 敏雄

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

         <感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/09/03 (Sat) 15:45:46


では征きます

陸軍准尉  北村卓夫 命

昭和19年11月12日
モロッコ諸島モロタイ方面にて戦死

広島県深安郡千田村出身 28歳



前略 いよいよ出発することになりました。
明二十八日嘉義(かぎ)に向けて浜松を発ちます。
途中九州の新田原(にゅうたばら)に一泊、翌日は台湾です。

それから先は何処(いずこ)の空か分かりませんが、
新しい職場に向かふ筈です。
宛名が変はつたら早速お便り致します。

親類やご近所へ宜しくお伝え下さい。
皆々様のご健在を祈ってやみません。


時局柄、生還を期す事は出来ませんが、
もし万一運よく生き残ったら
来年三月頃またお目にかかることが出来るでせう。


余り小生の事は、ご心配にならぬやうお願ひします。
現在の小生至つて呑気にやつて居ります。

幾多の戦場を通つて来たお蔭で、この頃は生と死とかいふ事は
何とも思はぬ様になりました。
自分ながら不思議に思ふぐらいです。

内地に帰つてはや二十日になりますが、気候の好い為か大分肥えたやうです。
大変元気ですからご安心の程を。では征(ゆ)きます。

                       さやうなら

    (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

・・・

拝殿掲示

昭和天皇御製 鳩(昭和41年)

「国民(くにたみ)の さちあれかしと いのる朝 宮居の屋根に 鳩とまれり」

http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=3829

         <感謝合掌 令和4年9月3日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/09/04 (Sun) 19:25:29


妻への手紙

陸軍衛生曹長  島根正一 命

昭和19年9月5日
フィリピン・パラワン島にて戦病死

埼玉県北足立郡戸塚村出身 29歳



近く南の苛烈なる決戦場に向かはんとす。
父と初枝の顔に接し得なかったことは、至極遺憾の極みなり。


然れども按ずることなし、初枝は依然として現在の様に、
只管仕事に励み留守を護ってくれ。
子無き父の淋しさを察する時、
只、初枝一人をどんなにか頼りに思ってゐるかしらん。


男児の本懐これに過ぐるものなし。
必ずや立派な働きをして家名を挙げん。

俺に万一の事ありたる時の賜(たまわ)り金、その他
扶助料等は一切、初枝を受取人として指定しある。

もし大東亜の礎(いしずえ)とし散華(さんげ)したる時は
「島根家」を受けついでやってくれ。


別に他に申し上ぐる事なく、留守、後の事を一切頼む。
何時までも元気でやるやう、遥か南冥(なんめい)の空より祈る。

  
 昭和十九年六月二十七日

                     島 根 正 一

初 枝 殿 

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

・・・

拝殿掲示

貞明皇后御歌

『益荒男も うれしなみだに くれぬべし こころをくだく をみな心に』

http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=3518&cid=1

         <感謝合掌 令和4年9月4日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/09/05 (Mon) 14:51:55


入営に際して

陸軍軍曹  川床(かわとこ) 悟 命

昭和20年1月7日
フィリピンルソン島にて戦死

鹿児島県川辺郡知覧町出身
23歳



前略、
この度私儀(わたくしぎ)入営に際しては、
私一人の悦びならず、一家同慶の事と存じます。

私入営致しました上は、勅諭五ヶ条の精神すなわち戦陣訓を
良く肝に銘じて一意専心、微力ながらも
陣忠報国の誠を致す覚悟です。

それゆゑ征(ゆ)く上は、二度と生還は期さない決心です。
縦(たと)ひ自分の遺骨が還らなくても、敢えて心配してくださいますな。
また便りのない時は、元気で精励して居ると思ってください。

(中略)

姉さん達が切磋琢磨して父母を擁護して、そして子供を良く養育して、
帝国軍人の家庭として恥ずかしからぬ明るき立派な家庭を建設してください、
お願ひします。

自分たちは、国家非常時の際、皇恩の万分の一でも報ゆる事の
出来る事を無上の光栄として、元気で征(い)きます。

最後に御両親を始め姉さん達皆様が、くれぐれも達者で
お暮し遊ばすことをお祈り致します。

                       敬具

  昭和19年3月1月16日夜

                      悟 拝

 家内一同へ


 天皇陛下万歳
  大日本帝国万歳 

  (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html <平成30年9月>)

・・・

『平成30年9月拝殿掲示』

          昭和天皇御製
            皇居内の勤労奉仕   (昭和20)

     をちこちの民のまゐきてうれしくぞ
     宮居のうちにけふもまたあふ

    ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-4036.html )


          <感謝合掌 令和4年9月5日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/09/06 (Tue) 12:33:36


涙かくした母に応へむ


陸軍技手 安藤武夫

昭和二十年七月七日
フィリピンルソン島カパヤン地区にて戦病死

愛知県北設楽郡稲武町出身 四十歳



無理なのが昔からの戦である。
我が子この無理を
天皇陛下の為に勇ましく引き受けて征く。

母をして日本の母にしたと思つて征く。
強く生きて下さい。
母上の安座は俺が作つて置く。

       先立つ不孝者 安藤武夫
           征く日に書く

  子は征きて還らぬものと知りながら
   涙かくした母に応へむ


母上様

( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6c69d65d9823755ccbdb706911ed6a47 )

・・・

『9月拝殿掲示』

       明治天皇御製

           月           (明治38年)

     秋の夜の月にむかひていのるかな
     國の光のまさりゆく世を

    (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-category-16-3.html )

          <感謝合掌 令和4年9月6日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/09/07 (Wed) 15:07:48


遺言

陸軍伍長 久保 繁夫 命 

昭和十九年九月十三日
東部ニューギニア・バラムにて戦死

和歌山県有田郡湯浅町出身 三十五歳


御父上様

三十有余年の間、色々とお世話になり何一つ孝行をした事もなく
お別れするのは、心苦しゆう思ひます。

併(しか)し大君の御為に捧げた命です。
皇国の御為に死んで行く繁夫です。
これがせめてもの孝行だと自ら慰めてゐます。喜んで下さい。

御父上には、お年を召してをられる故、余り無理をなさらないで下さい。
ハナヱの事は学文路(かむろ)と相談して、ハナヱの思ふ様にしてやつて下さい。

他に何も言ひ遺す事は御座いません。

最後に御父上の健康をお祈り致します。

天皇陛下万歳

昭和十六年七月二十七日

・・・

『9月拝殿掲示』

   明治天皇御製


     月 明治43年)

    仇波を うちしりぞけし 軍人 みなみの島の 月やみるらむ

  ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-3158.html )

          <感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/09/08 (Thu) 13:18:08


大君の御為に


海軍少尉 本假屋孝夫命 

昭和二十年三月十八日
九州東方海面にて戦死

鹿児島県姶良郡霧島村出身
二十歳


兄上様 お喜び下さい。

今度、特別攻撃隊員に選ばれて明日愈々出撃することになりました。

大君の御為に役に立つ時が来たのです。

男子の本懐これに過ぐるはありません。

笑って突っ込んで行く覚悟です。
万里の怒涛を乗り越えて敵陣に黒丸一家がなぐり込みをかけるのです。
こんな愉快なことはありません。

兄上様にも喜んでいただけると思ってます。
生きて還らぬ決死の突撃隊です。

出水に居る頃は、本当に御世話様に相成りました。
深く深く感謝致しております。
御恩は死んでも忘れません。
姉上様にもよろしく御伝え下さい。

「男子生まれ 空行かば 雲染む屍悔あらじ」歌にもあります。
大空の果て珠と砕けるは、我々の最も本懐とする所です。

桜の花が世の人に愛されるのは、惜しまれて散るからです。
人間も世の人に惜しまれて散る所に良い所があるのです。
人間死場所を逸したらろくな最後はとげられません。

私が死んでもどうか悲しまずに
大君の御為によくぞ死んだ天晴れな最後だったとほめてやって下さい。

兄上様、姉上様、憲ちゃん、敬ちゃん達の健康を草葉の陰より祈っております。 

さようなら


花は桜木 陸爆乗りは若い命を惜しませぬ

花のつぼみの二十で散るも何か惜しまん君のため

還らじとかねて思えば梓弓(あずさゆみ) 咲く春を待たずして我は散るなり

          ・・・

『9月拝殿掲示』

     明治天皇御製

 道   (明治37年)

 遠くとも人のゆくべき道ゆかば危き事はあらじとぞ思う

 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-201509-34.html )

          <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/09/09 (Fri) 13:36:50


遺書


陸軍少佐 森本三郎命

昭和十八年九月三日
ニューギニア ウエワクにて戦死

兵庫県印南郡別所村出身 
二十六歳


一、

皇民トシテ錦旗ノ下ニ死ス
之臣ノ無上ノ光栄ナリ死シテ
皇居守護ノ鬼ト化シ猶悠久ニ
皇國ト共ニ生クルヲ喜フ


二、

死ニ臨ミ悔ケレト未タ御奉公ノ
足ラサリシト垣内ニ逆臣名利ニ
趨ル徒輩ノ絶エサルヤヲ憂フ
老幼男女階級ヲ問ハス眞ニ皇民
タルノ光栄ニ感激シ各々ノ使命
ヲ自覚シ己ノ最大ヲ傾ケ皇ニ奉
シ顧ミテ恥サルヲ望ム


三、

遺品ヲ残シ遺族ノ涙ト化スヲ欲
セス皇國ニ生レ彼蒼ニ散華シ
遺骨ノ帰省固ヨリ期セス何処ニ
散ルトモ八紘建設ノ浄土ト化サン


四、

両親ノ恩ニ報イルニ心配ノ累積ヲ
以テセシ罪今日ノ壮行ニ免シ許シ給ヘ

                 三郎


****************************************** 
   
(カナを平がなに変換)         

一、

皇民として錦旗の下に死す

之臣の無上の光栄なり死して

皇居守護の鬼と化し猶悠久に

皇國と共に生くるを喜ふ


二、

死に臨み悔けれと未た御奉公の

足らさりしと垣内に逆臣名利に

趨る徒輩の絶えさるを憂ふ

老幼男女階級を問はす眞に皇民

たるの光栄に感激し各々の使命

を自覚し己の最大を傾け皇に奉

し顧みて恥さるを望む


三、

遺品を残し遺族の涙と化すを欲

せず皇國に生れ彼蒼に散華し

遺骨の帰省固より期せす何処に

散るとも八紘建設の浄土と化さん


四、

両親の恩に報いるに心配の累積を

以てせし罪今日の壮行に免し許し
給へ

                 三郎


          <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/09/10 (Sat) 15:53:46


妹弟へ


陸軍伍長 赤井 稔命

昭和十九年九月二十一日
比島ルソン島バコールにて戦死

鳥取県米子市大工町出身 
十九歳


千代枝。元気で勤めて居る事と思ふ。
俺も元気で居る。安心してくれ。愈々出発だ。喜んでくれ。
此の上は、専心御奉公致す覚悟である。

千代も大人になった。
母上様をよく手伝って御安心をさせてあげてくれ。
俺の分も兼ねて孝養を尽すのだぞ。

若い者の陥り易い短所としてと言へば解るだらう。
決して其の様なまねはするなよ。
一から十まで孝養だ。

それから博の面倒をよく見てやれよ。
仲良く暮すのだ。
お前が病気したら、母上様の苦労は大きなものだ。
体を大切に、孝養を尽くせ。

千代枝殿  

                  兄



博。元気で勉強の事と思ふ。
俺も愈々南方で活躍するから安心せよ。

体を丈夫にして、よく勉強して立派な者になるのだ。
高等科一年生にもなれば、物事の善悪も知って居る事と思ふ。
此の事をよく弁(わきま)へて、よく遊びよく勉強しなさい。

母上様に孝養を、俺の分も尽くす様に、確かに申付けます。
姉さんの言ふ事をよく聞ひて、体を大切にしっかり勉強しなさい。 


                         兄より

博へ

  (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/10f6f6ba7531563eecb127d1287fb4d1 )

・・・

『9月拝殿掲示』

     上皇陛下御製

  大山千枚田(平成22年)

  「刈り終へし棚田に稲葉青く茂りあぜのなだりに彼岸花咲く」(注・なだりー斜面)

 (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=1901&cid=1 )

          <感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/09/11 (Sun) 13:33:05


決戦場へ征きます


陸軍軍曹 藤好京介命

昭和十九年九月三十日
東部ニューギニアにて戦死

福岡県三池郡高田村出身 二十七歳



御父上様。
御母上様。

京介は、愈々日本男子として、決戦場○○へ征きます。
電撃的出撃に、光栄と希望と武者ぶるひにて、この筆をとって居ます。

今、静かに生立ちを振り返る時、生を享けて二十六年の今日迄、
御両親様には取り分け御心配の掛け続けにて、
御高恩の万分の一も御孝養出来なかった豚児(とんじ)を御許し下さい。

何卒、呉々も御自愛になり、
健やかな日を御過し遊ばす様、心より御祈り致します。

それから、自分の今後に於ける一切の事柄に関する処置は、
総て御両親様に御任せ致します故、宜しく御取計り下さいませ。

又、松田様始め、私が今迄に御世話になりました方々には、
御両親様より宜しく御伝へ下さいませ。

中林町の伯父上様にも御高齢の事とて、
折角の御自愛と私の感謝とを御伝へ下さいませ。

最後に重ねて御両親様始め、
兄上様方妹達の御健康とを祈って筆を擱(お)きます。

   昭和十八年○月○日

藤好京介
藤好虎秀様
藤好タキ様

最後の外出は、とても愉快でした。ブドー酒の乾杯で幸先よいです。


・・・

 『9月拝殿掲示』

   昭和天皇御製

   初秋         (昭和58年)

    秋くれど暑さは厳し生業(なりはひ)の
    人のよろこびきけばうれしも

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-201209-27.html )

          <感謝合掌 令和4年9月11日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/09/12 (Mon) 15:07:27


遺書


陸軍曹長  中西八郎命

  昭和十八年九月十四日
  東部ニューギニア ラエ付近にて戦死

  三重県度会郡城田村出身 二十三歳


兄ハ此ノ度(たび)、大東亜戦争ノ第一線ニ参加スルノ光栄ニ浴(よく)シ、
勇躍(ゆうやく)征途(せいと)ニ就ク。
固(もと)ヨリ毫(ごう)モ生還ハ期セズ。

吾無キ後ハ、我ニ代リ我々ノ養育ニ終生ヲ捧ゲシ
御両親様ニ、十分ナル孝養ヲ尽サレンコトヲ望ム。

兄戦死スト雖(いえど)モ、決シテく歎(なげ)クコトアルベカラズ。

益々勇気百倍兄弟力ヲ合セ、
家名ノ隆昌(りゅうしょう)昂揚(こうよう)ニ勉(つと)ムベシ。

兄ハ、オ前達一同ノ健康ヲ祈ルヤ切ナリ。

  昭和十八年六月二十四日

兄ヨリ
弟妹一同ヘ

・・・

『9月拝殿掲示』

  大正天皇御製    (大正3年)

   とくいえて皆もとの身にかへらなむ
   いたで負いたる武士(もののふ)のとも

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-688.html )

          <感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/09/13 (Tue) 13:11:54


幸に御安心あれ


陸軍歩兵上等兵 小山寅右ヱ門 命

昭和六年九月二十五日
満洲奉天省奉天付近にて戦死

長崎県西彼杵郡喜々津村出身
二十二歳


昭和六年九月十八日、満洲事変突発し、
所属聯隊(歩兵第七十八聯隊)に出動の命令下り、
翌日正午龍山駅を出発したが、
新義州に於て待機中、小山上等兵は家郷の父に左の短信を寄せた。


日頃鍛へし軍人精神の発揚に努め、
天晴れ帝国軍人として君国に身を捧げ、
決して一家一村の汚名をとるが如き
卑怯の振舞なすまじく、
幸に御安心あれ。

右の書信は九月二十四日父幸助氏の許(もと)に到着した。
翌二十五日早朝こそは上等兵が護国の鬼と化した日である。
(『満州事変忠勇美談』より)

・・・

 『9月拝殿掲示』  

 昭和天皇御製

     皇居内の勤労奉仕   (昭和20年)
 
  戦いにやぶれしあとのいまもなほ
   民のよりきてここに草とる

          <感謝合掌 令和4年9月13日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/09/14 (Wed) 15:16:57


皇国に殉ずる機、到来す


海軍大尉 中田 庄平 命

昭和十九年九月二十一日
フィリピン群島マニラ湾附近にて戦死

富山県東礪波郡種田村出身 四十二歳


愈々(いよいよ)皇国に殉ずる機、到来す。
武人の本懐何物か之に例(たと)へん。

偕老(かいろう)を契る七年余、
逆境にあること尠(すく)なからざりしに、
赤誠以て克(よ)く後援の労を尽したるを感謝す。

茲(ここ)に一言述べて、
将来準拠(じゅんきょ)すべき点を明かにし、別辞となさんとす。


一、 博明を十二分に養育し父の素志を継がしむる事

二、 母上に孝養を尽されたし

三、 良縁あらば再婚差支なし

四、 健康第一、誠心を以て世に処せよ

五、 博明、年到らば別紙を渡し激励されたし
    はゝを立て わが子培(つちか)ふ 誠こそ
    男(お)の子にまさる 大和なでしこ

閘北総攻撃に際して 庄平

たか子どの

  ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-09-17-3 )

・・・

拝殿掲示

  大正天皇御製 慰問袋(大正3年)

   「つわものは 笑みてうくらん 人みなの 真心こめて 送る袋を」

   (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=962&cid=1

          <感謝合掌 令和4年9月14日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/09/15 (Thu) 13:11:37


御両親様


陸軍中尉 角田文雄命

昭和二十年九月九日
比島ルソン島バギオにて戦傷死

長野県伊那市大字伊那出身
二十五歳



(前略)

今まで御育て下さった御両親様其の他一切の御恩に感謝致して居ります、
もう思い残すことはありません、

只御両親の御恩に少しも報ゆる事の出来なかった事を申訳なく存じています、
誠に親不孝者でした、我儘な文雄をよくお育て下さいました、
全く涙が出ます御容赦下さい。

上船すればもう生死のことは解りません
小生も最後まで頑張るつもりです。
これが最後の便りとなるかも知れません

御両親様も御丈夫にて御働き下さい。
任地到着すれば又便りも出来ましょう
そして又母上様の作りし野菜を頂ける日もあらんと存じて居ります。

兄上、姉上様
峯子にくれぐれもよろしく春雄にもよろしくお伝へ下さい。

 昭和十九年九月二十五日

          博多にて   文 雄

・・・

拝殿掲示

  明治天皇御製 親(明治37年)

   「国のため たふれし人を 惜しむにも 思ふはおやのこころなりけり」
   
   http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=144&cid=1


          <感謝合掌 令和4年9月15日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/10/01 (Sat) 13:41:51


遺 書

海軍嘱託 須藤 長之進 命

昭和十九年十一月三日
仏印 サンジャック沖にて戦死
宮城県木吉郡津谷町出身
三十一歳


長い間、御無沙汰致しましたね。
兄さんの送物受け取りましたか。
あれは、色んな〇〇の暑い所で買ふた物です。

お父さんやお母さんには、お変わり有りませんか。
兄さんも元気でやって居ます。

今度の出港は〇〇日です。
母港横須賀に帰るのは四月頃になつ事と思ふ。

兄さんが今度〇〇に行きましたら、あるいは〇〇の為、
國嶋丸と共に太平洋の水と消えるかもしれません。
然し兄さんは、御國の為に死んで行く事を非常に喜んで居ます。

〇〇は暑い国です。そして敵の弾も飛んでい来る事と思ふ。

でも兄さんが〇〇に行く事は、うれしい。
男らしくて良い気持ちになる。

もし兄さんの亡き後は、お前は長治兄さんと力を合はせて
家の為、国の為に働いて下さい。

それから同封して兄さんの髪と爪を送ります。
もしもの時は開けて見て下さいませ。

(中略)

お前様もお父さんやお母さんの為、働くんですよ。
そして兄さんが遠い南の空より皆さんのお健やかにお過ごしなります事を、
お祈り致して居ります。

では御身大切に。お父さんやお母さんに宜しく。

                              兄より

妹よ

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

          <感謝合掌 令和4年10月1日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/10/02 (Sun) 13:23:56

遺言書

陸軍曹長 川北 偉夫 命

昭和十九年十月十八日
ヒルマ・サガイン州にて戦禍死
京都府何鹿郡中上林村出身
二十七歳


御両親様

生を享(う)け茲(ここ)に二十六年、
御心配のみお掛け申して先立つ不孝何卒お許し下され度(たく)、
然(しか)しながら恐れ畏(かしこく)も

天皇陛下の御為(おんため)、萬歳を唱へつつ戦死したその状況は、
平常の言行から推して、決して女々(めめ)しい振舞(ふるまい)で
なかつた事を信じ下され度(たく)、願ひ上げ候(そうろう)。

(中略)

千代子殿

かねて軍人の妻として、嫁(とつ)ぐ前よりより覚悟なし居りし事
と思ふが、決して取り乱す事なく武勲を喜んでくれよ。

よく仕へてくれた事を心より感謝して居(い)る。

短い期間であったが、誰よりも可愛い妻として暮らした事は忘れない。

あくまで川北家に踏み止(とど)まつて御両親に仕へてくれ。

(中略)



 昭和十八年十二月二日

                入隊前日認(したた)む

                           川北偉夫

https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

・・・

以下のWebでは、
靖国神社での英霊の諸霊たちの現在おかれている状況の一部を
垣間見ることができます。

(「信じられるか」と感じる方は、小説として、お楽しみください)

*Web:菊水千鳳の不思議体験日記より

(1)(2022-08-25 )
   靖国神社の英霊さん達を東京見物にご案内してきました1
   靖国神社から出発~英霊さんたちの本音 他
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12760725859.html
 
(2)(2022-08-26 )
   靖国神社の英霊さん達の頼みで東京見物に行ってきました2
   2階建ての黄色いバスに大興奮!
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12760916802.html

(3)(2022-08-29 )
   77年の時を超えて 靖国神社の英霊さん達と東京見物3
   ランチタイムにてここまでの感想を聞きました
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12761401715.html

(4)(2022-09-13 )
   靖国神社の英霊達の頼みで一緒に東京見物へ4
   スカイツリーにて 東郷平八郎さん 龍神からのお言葉
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12764142990.html

(5)(2022-09-15 )
   靖国神社の英霊さん達を連れて東京見物5
   明治神宮参拝 御祭神 明治天皇様と英霊さん達とのご対面
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12764419325.html

(6)(2022-09-16 )
   靖国神社の英霊さん達と一緒に東京見物へ 6
   若者の街 原宿にて 他 緊張をほぐしてくれる安徳天皇
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12764669189.html

(7)(2022-09-18 )
   若者の街 原宿にある東郷神社参拝
   御祭神 東郷平八郎さんや靖国神社の英霊達と共に東京見物へ7
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12764968602.html

(8)(2022-09-24 )
   77年の時を経て 靖国神社の英霊さん達を連れて東京見物へ8
   焼き鳥屋での和みのひととき
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12766052899.html

(9)(2022-09-26 )
   靖国神社の英霊さん達と東京見物へ9
   最後のお別れの時に彼らの想いとは
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12766393976.html

(10)(2022-09-30 )
   先日 東京見物しにお連れした靖国神社の英霊さん達
   大多数は感動の転生の道への旅立ち10 番外編
   https://ameblo.jp/kikusuisenhou/entry-12766924844.html

          <感謝合掌 令和4年10月2日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/10/03 (Mon) 18:57:38


遺書

陸軍上等兵 佐上 善郎 命

昭和二十年八月一日
中華民国湖南省衝陽にて戦死
奈良県宇陀郡室生村出身
二十一歳


拝啓 父母上様自分今日まで十九年間 唯(ただ)不孝ばかり致し、
何一つ孝養もしなかったことをお詫び申し上げます。

でも今自分は御国の為、天皇陛下の為につくす事が、
父母上様に一番の孝であると信じて居る者です。

自分は何も云ひ残す事はありません。唯父母上様に不孝を致した事を
くれぐれもお詫び申し上げます。

もし自分が戦死致しました時は、
同封の頭の毛を自分の骨と致して下さい。

又、けして嘆(なげ)かず、お褒めの言葉をかけて下さる事を
信じます。自分は何時たりとこ天皇陛下の為なれば、
命(いのち)を的(まと)に働くつもりで居ります。

くれぐれも父母上様、充分御身大切になさって下さい。

  昭和十八年四月二十八日

                 不孝者なる 善 郎

父上様
母上様 

  (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html

・・・

拝殿掲示

  明治天皇御製

      道(明治36年)

「ちはやふる神のひらきし道をまたひらく人のちからなりけり」

http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=3874

          <感謝合掌 令和4年10月3日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/10/04 (Tue) 16:12:31


愛児への手紙

陸軍上等兵   孕石 春二(はらいし はるじ) 命

昭和二十年十月十一日
中国漢口 第五十八兵站病院にて戦病死

愛知県名古屋市西区天塚町出身 三十五歳



愛児よ

どうか不幸なる人から幸福なる人に、
お母さんをしてあげてください。

それにはお母さんのいひつけをよく守り、
お母さんのよき相談相手になり、
決して心配させないでいただきたい。

それを父は希望します。


ひいては成人するにつれて、名誉ある家族の名を辱めざること、
呉々(くれぐれ)もお母さんの云ひつけをよく守り、
よき相談相手となり孝養していただきたい。


清く美しき香りある梅花の如く咲き誇り来たれよ。
強く正しく清く、お母さんの云ひつけをより守り心配させぬこと。

これが父に対しての孝(こう)、ひいては忠(ちゅう)となる。

日本の根本は忠孝(ちゅうこう)にあり。


愛児よ
すこやかに
強く
清く
正しく

 昭和十八年十月二日
                   父より

愛児殿

     ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

   (http://blog.livedoor.jp/aoikitakaze/archives/20551662.html

          <感謝合掌 令和4年10月4日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/10/05 (Wed) 13:37:04



入営に際して父母様へ

陸軍技術兵長 中根秀夫 命

 昭和21年6月18日
 朝鮮古茂山にて戦病死
 愛知県挙母市大字梅坪出身 23歳


生まれてこの所に二十余年の歳月、父母様には
いろいろとご心配をかけました。

今後は、ただ父母様の日頃のご教訓を守り尽忠報国の一念に燃え、
父母様のご苦労の万分の一なりとも報いる覚悟でございますから
ご安心ください。

また我々兄弟三人が、目出度く凱旋の日をお待ちください。
今後、銃後は益々ご多忙でありますが、
身体(からだ)に充分注意され、
日々ご健在でお暮しください。

終わりに父母様の健康をお祈り致します。

                       秀夫より

   昭和二十年一月二十七日

父母様へ

・・・

靖国神社 平成30年10月 

拝殿掲示「明治天皇御製」

  をりにふれたる(明治38)

 萬代も ふみのうへにぞ のこさせむ 國につくしし 臣(おみ)のこの名は

 ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html <平成30年10月> )


          <感謝合掌 令和4年10月5日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/10/06 (Thu) 12:52:36


陸軍軍曹 西島 觀空 命 

昭和十九年十月二十日
ビルマ国モーライク県カレワ付近にて戦死

滋賀県長浜市宮司町出身 
二十四歳


御両親様


今まで長らく二十幾星霜、御厄介、御迷惑ばかりかけた觀空を御許し下さい。
又、何と言つて御礼を申したら良いやら、その言葉を知りません。
唯、私は感余つて言ふことを知りません。
早く去る觀空の不孝は御許し下さい。

しかし今まで受けた御恩の万分の一にでも報いられればこの上ない幸福です。
又、男子の本懐であり、名誉であります。
この決戦下にまはり合したからこそ孝道も盡せたのです。
又、御奉公も出来たのです。

觀空も喜んで散り行きます。七生報国の精神を以て大東亜の礎となります。
靖国の宮居に神として御祭祀下さる陛下の御仁慈には、感泣するのみです。

 臣としてこれ以上の名栄・名誉がありませうか。
自分一身のみでなく、一家の名誉です。喜んで下さい。

長らく御育て下さつたこと有難うございました。
では御両親様どうか老境のこととて、御身おいとひの程祈り上げます。
妹も達者で暮らせ。


                     ではさやうなら 觀空
 御父母上様
 妹

・・・

(平成29年)『10月拝殿掲示』

       貞明皇后御歌(大正天皇の皇后。昭和天皇の母君)


           靖国神社大祭のおこなはれけるをりに  (明治38年)

     羽車の今かわたらすすすりなく
     やからの声のとほくきこゆる

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20171018.html )

          <感謝合掌 令和4年10月6日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/10/07 (Fri) 13:56:02


比島より

陸軍司政官 石坂 捨三 命 

昭和十九年十二月十四日
フィリピンスービック湾にて戦死

新潟県新発田市字麸屋町出身 
三十七歳


今日、靖国神社大祭につき遥拝式を行つた。
常夏の比島も今日は珍しく一日雨降りで、内地の秋の様な涼しさである。

さて、その後当方相変はらず元気で勤務してゐる。

承知の通りマニラ爆撃も数回あり、比島周辺には敵がうろついてゐるが、
我に必勝の確信あれば、今更驚くことはない。

毎日落ち着いて仕事をしてゐる。

内地はそろそろ秋風が立つ頃と思ふ。
健康に留意し益々元気で銃後を守る様、祈つてゐる。
五十嵐様始め隣組の皆様にもよろしく。

十月二十三日
    
ミツ子殿

・・・

(平成28年)『10月拝殿掲示』

     明治天皇御製

        凱旋の時

   外国(←本来は旧字)にかばねしらししますらをの
   魂も都にかふかへるらし

  ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20161020.html  )

          <感謝合掌 令和4年10月7日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/10/08 (Sat) 13:00:06


遺書


陸軍軍曹 常見哲也命 

昭和二十年五月三十日
フィリピンルソン島にて戦死

京都府舞鶴市平野屋出身 
十八歳


若年の身皇師(こうし)に従ふ、もとより死を決す。

黒潮は萬古(ばんこ)不盡(ふじん)、故郷の岸に波を打つ。

我又永遠不盡の生命を求めて海洋を征く。

殉皇の大義、炳(へい)として神皇國に輝き吾が示標とたつ。

一、故里に残すことごと忘れ去り
           唯一途に皇に仕えん

一、故里に何の名残を止(とど)むべき
           散って九段の花と咲く身に

一、身はたとへ南の海に朽ちぬとも
           留め置かまじ特幹魂

・・・

(平成27年)『10月拝殿掲示』

     昭和天皇御製

        朝 海            (昭和8年)

 天地の 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-date-20151004.html )

          <感謝合掌 令和4年10月8日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/10/09 (Sun) 12:59:56


遺言状

陸軍大尉 小松 進 命

昭和十八年十月十六日
ニューギニアにて戦死

長野県諏訪市出身
三十五歳


一、君ニ召サレテ屍ヲ戦野ニ曝スハ固ヨリ武人ノ本懐ナリ

一、盡忠ノ大義ニ生ク晴天ノ如シ

一、忠誠ノ士ハ純情ノ孝子ナリト祖先ノ遺風ヲ顕彰セン

一、残レル妻ノ使命ハ孝養ト子等ノ教育ナリ

一、昭夫ハ承継ナリ重夫・恭夫ハ大陸ニ勇飛セン

一、久子ニハ良縁ヲ

一、今ニシテ各位ノ好意ノ大ナルニ比シ恩ニ報ユルナカリシヲ

一、各位ニ宜敷ク

 昭和十六年八月
                             進
妻ヘ

          <感謝合掌 令和4年10月9日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/10/10 (Mon) 14:47:05


可愛い妹へ


海軍飛行兵曹長 三上春治命

昭和十九年十月十二日
台湾にて戦死

島根県邑智郡口羽村出身 
二十二歳


安ちゃん、懐かしい御便り有難たう。

元気で産業戦士として踏み出した由、兄さんは心から祝福してやる。
元来勝気な安ちゃんだから、少々の苦しい事辛いこと位、
我慢して御国の為に働くものと確信してゐる。

同封の金はほんのわずかだが、兄さんの心尽しの御祝と思って受取って呉れ。
どんな困難なことにぶつかっても、若さと意気で押通す。
くよくよ考へたり嫌だと終始思ってやってゐると、仕事に負けてしまふ。

我々日本国民は、皇国(すめらみくに)に生を承ける喜びと誇りを持って、
喜んで難事に当たって行け。

環境が変って窮屈なこと、やりにくいこと、
又、急に親の下(もと)を離れて淋みしい心等、
邪魔する目に見へない敵はあるけれど、安ちゃんも三上家の子だ。

兄さん達三人共、立派に軍人として御奉公してゐるのだ。
女でも兄達に、なに負けるものかと云ふ旺盛なる負けじ魂で掛って行け。

日本人である以上決して忘れていけない大君の御恩、そして父母の恩、
いくら忙しくとも年老いてゐる父母は、
口羽の土地から常に安ちゃんのことを心配して居られると謂ふことを忘れず、
余暇を利用して家に便りを出せ。

(中 略)

戦野の兄二人は、元気で居られるから安心してやれ。
兄さんも、今では可愛い雛鷲の教育で忙しいが、至極元気だ。

呉々も注意するが、自分の体を傷つけたら、
之は大きな国家への不忠だから、充分気をつけて作業に当れ。

仕事にやうやく馴れる時、心に大きな隙(すき)が出来る。
大いに自重してやれ。

末筆だが安ちゃんの健斗を祈る。

可愛い妹へ

三重県鈴鹿海軍航空隊
第十二分隊教員室 兄より

          <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/10/11 (Tue) 13:36:53


安らかに大きくなれ

海軍大尉 田村 清命

昭和十九年十月二十七日
比島レイテ島東方
サマール島沖にて戦死

千葉県安房郡瀧田村出身
四十四歳


愛する良子(よしこ)、恭子、光子、和代よ。
父なしとて悲しむなかれ。
父は聖戦に於て、名誉ある戦死をしたのだ。

御前達は、生前の父をよく知るまい。
良子も恭子も永久に記憶に残る程の印象はあるまい。
然し、父は御前達の健康さうな、いとしい幼顔が、印象にハッキリして居る。

父は、作業地(訓練地)にあるときも、戦場にあるときも
御前達のなつかしい姿を思ひ浮べては、元気を出して居た。

父は、御前達が揃って健康で、満足な五体を所有して居るので、
何の懸念もない。安らかに戦死が出来る。

児等よ!安らかに大きくなれ・・・大きくなったら母の意に背かず、
父を辱かしめず立派な日本の女性として雄しく生きて呉れ。
姉妹は仲よく結束して、一人の母を守れ。

(中 略)

「父恋しくば靖國神社へ」とは、父も映画でも見た。
本当にさうだ!御前達も名誉の遺児として、社頭の対面もさして頂けるだらう。
其の時は、肩身を広く九段に来て呉れ。

(中 略)

言ひ遺す事は夫れ丈だ。皆シッカリ育て!

十一月
                    父より

          <感謝合掌 令和4年10月11日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/10/12 (Wed) 14:00:12


涙して下さるな

海軍一等機関兵  安藤照太郎命

 昭和十三年十月十六日
 中華民国湖北省西塞山にて戦死
 福岡県京都郡豊津村出身 二十四歳


暑さも盛りを過ぎて、心持ち涼味を感ずる頃ともなりました。
其の後、皆様には御機嫌麗(うる)はしく御過しの御事と存じます。
御陰様にて身体は益々頑健にて御座いますれば御放念に下され度。

今迄不遇な運命にありましたる私も時機到来、
或る方面に転勤する事になりました。

御老体の御両親様並、三ちゃんや良ちゃんには御身体に特に留意せられ、
二人には元気に勉強せられる様に。

一度(ひとたび)戦地へ臨(のぞ)む上は、
軍人として愧(は)ぢざる行ひは心に銘じて居りますれば、御安心下され度。

終りに臨み特に御願ひ致し度は、不幸にして聖戦半(なかば)に
て斃(たお)るるとも、家に在りて必ず涙して下さるな。

此れが臨地(りんち)に向ふ私の唯一の御願ひです。

笑って迎へて下されば、此に越した喜びは御座いません。
呉々も涙して下さらざる様御願ひ致します。

取り急ぎの為、乱筆ながら御通知まで。
明年は出港の予定。御機嫌よう。
元気で行って参ります。

                       終
 昭和十三年八月十九日
御両親様
膝 下

 ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-733.html )

          <感謝合掌 令和4年10月12日 頓首再拝>
51:伝統 :

2022/10/13 (Thu) 13:16:44


魂は永遠に生きる

海軍一等兵曹  楠瀬益實命

昭和十八年十月十二日
ニューブリテン島方面にて戦死

高知県高岡郡戸波村出身
二十三歳


遂に死ぬべき時は来た。
帝国軍人として最大の名誉の時が来た。
今より小生は昇天するのだ。

思へば此の世に生をうけて二十有余年、短かくて長き人生だった。

(中略)

小生も今死すべき最好機に恵まれたのだ。

英米打倒而(しか)して東亜百年の大計、
引いては人類の幸福、世界の平和の礎のために之が最適の死に場所だ。

肉体は之で永遠に此の世を去る。
而し魂は永遠に生きる。

靖國へ行って待って居る。折があったら会ひに来られ度。

(後略)
                          
御一同様

                           楠瀬益實

          <感謝合掌 令和4年10月13日 頓首再拝>
52:伝統 :

2022/10/14 (Fri) 13:10:20


靖国神社で会ひませう


海軍少尉 松尾 勲 命

昭和十九年十月二十七日
比島方面にて戦死

長崎県南高来郡愛野町出身 二十四歳


 咲くもよし 散るも又よし 桜花

父母上様、喜んで下さい。
勲はいゝ立派な死場所を得ました。
今日は最後の日です。

皇国の興廃此の一戦に在り。
大東亜決戦の南海の空の花と散ります。

大君の御楯となって分隊長を初め、共に潔く死につき
七度生れかはり宿敵米英を撃滅せん。
あゝ男子の本懐是に過ぎるものが又とありませう。

(中略)

二十三年の幾(いく)星霜(せいそう)良く育てゝ下さいました。
厚く厚く御礼申し上げます。

今度がその御恩返しです。
勲はよくも立派に皇国の為に死んでくれたとほめてやって下さい。

ほんとに兄弟の中で私は一番幸せ者でした。
喜んで居ります。

弟も立派な軍人として御奉公出来る様にして下さい。
お願ひします。もう何も思ひ残す事はありません。

父母上様、今度白木の箱でかへります。
靖國神社で会ひませう。
長い間有難うございました。

(中略)

父上様
母上様  
      勲


          <感謝合掌 令和4年10月14日 頓首再拝>
53:伝統 :

2022/10/15 (Sat) 13:19:52


お母さんの夢を見ました


海軍二等兵曹 池田顯雄命

昭和十七年十月十八日
ソロモン群島にて戦死

大阪府大阪市東淀川区出身
二十四歳


何時とどくか知れんと思ふとなんとなく淋しい様な氣がするのですが、
それでゐてかうして書いて見たくなるところを見ると、
思ひを馳せてゐる日本の空がこんな柄にもない感傷を起させるのだ
と自分ながらをかしい様なそれでゐてしみじみした変な氣持になります。

戰争といふものが單なる生命のやりとりである場面を
想像してゐた事もありましたが、
何度か爆彈の中をくぐり彈丸の中をくぐった今に於て
死することよりも尊いものがやっぱりあるのだ。

生命のやりとりと云ふ當面の問題以上に
その生と死の境から湧いてくる意志といふのか、感激といふのか、
その様な中で、自分の瞬間の生がたとへ様もなく尊いものに思はれて来ました。

”俺の使命”なんて、大きな事も言へる柄でもないのですが、
それでもあと僅かになって来たこの生活の終止符を
最も意義深く戰ひ抜きたいと思ひます。

随分皆様方には御無沙汰をしてゐます。
しかしこの様なわけですから許して頂くより他に仕方がありません。
私は至極朗らかに元氣でハリキッて頑張って居りますから御安心下さい。

(中略)

今朝方でしたか五分位うとうとしてゐるうちに母上様の夢を見ました、
それで今日一日中うれしくてたまりませんでした。
皆様方の御健康をはるかお祈りして筆を擱きます。   

                         池 田 顯雄

父上様 皆様へ


          <感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>

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