伝統板・第二 2559736

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神は愛なり⑨

1:伝統 :

2022/07/05 (Tue) 07:36:10

《われは神の愛を実践する》

    *『 生長の家 』(昭和25年4月29日の法語)より

吾は 今 すべての人の罪を赦したのである。
すべての人をさばく心を捨て、赦す心にみたされているのである。

神の愛が私の心を占領したのである。

吾は 無条件に吾が全心身を明け渡して 神の愛に占領せしめたのである。
吾は 決して神の愛にそむくような 如何なることをも行わないのである。

吾は 人を憎まない。吾は 人と争わない。

吾は 唯 幸福のみを見、光のみを見、美点のみを見、繁栄のみを見、
すべての人に感謝し、すべての人を祝福するのである。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13861952.html(消滅)

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841

(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817467

(5)伝統板・第二「神は愛なり⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7907586

(6)伝統板・第二「神は愛なり⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7996672

(7)伝統板・第二「神は愛なり⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8139213

(8)伝統板・第二「神は愛なり⑧」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8234927

        <感謝合掌 令和4年7月5日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/07/07 (Thu) 07:33:51


        *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と書かれている
ように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

        <感謝合掌 令和4年7月7日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/07/08 (Fri) 07:33:30


          *「真理」第9巻生活篇(P152)より

愛はよく耐え忍ぶ。
忍耐強くあることが愛の特徴である。
気短く捨ててしまうようなことでは愛が足りないのである。

本当の愛には嫉妬はない。
嫉妬するのは独占欲があるからであって、本当の愛ではないのである。

愛は決して見せびらかすなどの事をしないのです。
愛は静かである。
熱狂して、まもなく醒めるのは本当の愛ではないのです。

静かに忍耐強く希望を捨てないで相手を生かして行くのが愛なのです。
愛はどんな場合にも絶望しません。
絶望するのは相手を本当に愛しないからなのです。

愛が深ければ、何時までも相手に希望を持っているものです。
愛は現象の不完全を実在だと思いません。
愛は実相の完全さを見るのです。

愛は決して相手を縛りません。
愛は自由を与えます。
併(しか)し愛は放任しません。

愛はその人のために祈るのです。

        <感謝合掌 令和4年7月8日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/07/15 (Fri) 07:33:24


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。
時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、講演旅行などで携帯する
時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から
帰ってくると、本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。
知的に真理を理解したといっても、それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば
時計は動く。それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 令和4年7月15日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/07/16 (Sat) 07:29:03

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より抜粋

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。

しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。

われわれが神を愛しはじめるとき、
われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 令和4年7月16日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/07/21 (Thu) 09:03:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 令和4年7月21日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/07/25 (Mon) 08:53:17


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月25日)より

今日はさらに、

「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」

と念じよう。

そしてすべてのものの内に、
宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを
深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、
この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、
その反映として自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを
心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。
飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 令和4年7月25日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/08/04 (Thu) 10:06:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 令和4年8月4日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/08/08 (Mon) 11:49:14


      *「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
                    (『生命の實相』第ニ巻)】
 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは
自他一体の感じであるから、しみじみと有難く感じられる。

「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、
こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても
発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

       <感謝合掌 令和4年8月8日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/09/11 (Sun) 08:06:22


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

             <感謝合掌 令和4年9月11日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/09/19 (Mon) 04:39:36


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、
「物を大切にすること」とはちがうのである。

「貪欲」は自己の本来の貧しさを恐怖して、
むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 令和4年9月19日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/09/22 (Thu) 05:04:00


       *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

           <感謝合掌 令和4年9月22日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/09/23 (Fri) 05:08:39


       *「光明法語」(9月23日)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。
それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、
ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。

それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい
、相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。

愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

           <感謝合掌 令和4年9月23日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/09/24 (Sat) 08:24:24


       *「光明法語」(9月24日)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。

個人個人の自由を縛るのは、
神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。
それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、
神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 令和4年9月24日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/11/06 (Sun) 07:11:54


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、
すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

           <感謝合掌 令和4年11月6日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/11/22 (Tue) 07:31:58


          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
 無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
 故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな
 神の愛に触れているのである。

 だからどんなイライラしさも、
 どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

 神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
 わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
 だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

           <感謝合掌 令和4年11月22日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/12/17 (Sat) 07:53:51


           *「光明道中記」(12月17日)より

【病菌は病気に対する人類的恐怖の客観化したものである。
                    命の實相』第十一巻)】 

高徳者が病気になるのは、
周囲の念波の攪乱(こうらん)的影響によるのである。

腹痛の人が私の前へ来ると私のお腹が痛くなる。
胸の悪い人が私の前へ来ると私の胸が苦しくなる。
また遠隔思念でもして貰いたく、私に哀願している念波が
私を苦しめることもあり勝ちである。

私は並々はずれた細かい皮膚の顔貌をしているのでも判るように、
私の感受機関は非常にデリケートであって、
そのために色々の不快な念波を受けて苦しんだものである。

私はその状態から抜け出したいと色々と工夫を重ねたものです。
今でも充分そのデリケートさが克服されたとは思っていないが、
その工夫の中に次第に、どんなにデリケートであっても、
波長を合わさぬことによって、

それらの不快な念波を避けることを発見し、今では稍々(やや)成功して、
どんな病気の人がわたしに心で縋(すが)って来ても、
その念波を外して了うことが出来るようになったのである。

その方法は神想観中に
自分の周囲に神の愛の念波が取巻いて自分を護っており、
どんな不快な念波も必ず一度は神の愛の念波が光明化してから
私に伝えられると念ずることによってである。

            <感謝合掌 令和4年12月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2023/01/01 (Sun) 07:57:14


    *「光明道中記」(1月1日《必ず楽しの日》)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との
限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。

人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、
その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、
生き甲斐を失い、病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、
死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

          <感謝合掌 令和5年1日 頓首再拝>
19:伝統 :

2023/01/07 (Sat) 08:08:27


       *「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。

神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。

神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、
吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

          <感謝合掌 令和5年1月7日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/01/30 (Mon) 07:16:58


      *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

          <感謝合掌 令和5年1月30日 頓首再拝>
21:伝統 :

2023/02/06 (Mon) 12:55:57


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』
と言っていられる。

ここに言葉をききて素直に守ることが
『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては
何を求められても無条件に従いたくなるのである。

            <感謝合掌 令和5年2月6日 頓首再拝>
22:伝統 :

2023/02/14 (Tue) 06:55:01


      *「光明道中記」(2月14日報い求めぬ愛の日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
 誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                  (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは
錯覚である。

「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

         <感謝合掌 令和5年2月14日 頓首再拝>
23:伝統 :

2023/02/16 (Thu) 07:38:32


    *「光明道中記」(2月16日《自己の尺度を捨てる日》)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
 相手を害(そこな)い、自分を害う。(『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、
実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、
悉く異なって見えるものである。

争いは、見る立場は一つしかないと云う根本的な迷誤(まちがい)から
発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、
或る人には斜めに見える。

もっと委(くわ)しく分けるならば、
一つの顔でも全然同じように見えることはあり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って
考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを
他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、

今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

         <感謝合掌 令和5年2月16日 頓首再拝>
24:伝統 :

2023/03/10 (Fri) 05:06:12


           *「光明法語」(3月10日)より
             《なろうと努力するより既によしと信ぜよ》

其の婦人は今まで「仲好くしよう」と努力したけれども仲好くなれなかった。
それは意志の努力であった。

彼女は「仲悪し」を心の中に思い浮かべて、
「仲好くなろう」と努力したから仲好くなれなかったのである。

また「愛されたい」と求める心でいるばかりで、
積極的に愛しようと努力しなかったから仲好くなれなかったのである。

愛せよ、与えよ、与えるのが愛である。
無条件に与えよ。無条件に与え切るとき、
自分が愛されるようになるのである。

愛とは与えることである。放つことである。

         <感謝合掌 令和5年3月10日 頓首再拝>
25:伝統 :

2023/03/11 (Sat) 05:08:05


           *「光明法語」(3月11日)より
           《相手のためになることを実践せよ》

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

         <感謝合掌 令和5年3月11日 頓首再拝>
26:伝統 :

2023/03/16 (Thu) 00:18:15


           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

         <感謝合掌 令和5年3月16日 頓首再拝>
27:伝統 :

2023/03/24 (Fri) 05:08:48


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

         <感謝合掌 令和5年3月24日 頓首再拝>
28:伝統 :

2023/03/30 (Thu) 04:55:36


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、
愛の展開が天国なのである。

愛するところに天国はひらけ行き、
憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

         <感謝合掌 令和5年3月30日 頓首再拝>
29:伝統 :

2023/03/31 (Fri) 05:08:17


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

         <感謝合掌 令和5年3月31日 頓首再拝>
30:伝統 :

2023/04/01 (Sat) 05:06:48


先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

         <感謝合掌 令和5年4月1日 頓首再拝>
31:伝統 :

2023/04/05 (Wed) 05:02:47


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 令和5年4月5日 頓首再拝>
32:伝統 :

2023/04/20 (Thu) 05:02:43


        *「光明法語」(4月20日)より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、
その生命の本然のところに行かしめるのである。

        <感謝合掌 令和5年4月20日 頓首再拝>
33:伝統 :

2023/04/26 (Wed) 08:34:17


       *『日常の中の真理 無門関・聖書篇』(P280)より抜粋

「愛」というものは、自分がその人を愛したその「愛」そのものの中に
もう既に喜びがあって「報い」を得ているのであります。

それから後に出て来る何らかの御利益が欲しいというのは、本当の「愛」じゃないのです。

本当の「愛」というものは“与え切り”のものである。
ただ愛したくて愛するのです。

だから、愛行を与えている最中に、それが嬉しいのであって、
「愛」は与えるとき既に「嬉しさ」を貰っているのであります。

だから、純粋の「愛」は決して裏切られるということはないのです。
「愛」を与えたものは、必ず愛されるということになるのだ
ということは間違いがないのであります。


「愛」はそのことの中にもう喜びが返って来ている。
愛することそれから後に何が起こるかと言うようなことは問題ではないのであります。

だから、我々はただ純粋に愛しさえすればいいのであります。 

http://p-sakurai.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-2ae1.html

            <感謝合掌 令和5年4月26日 頓首再拝>
34:伝統 :

2023/05/21 (Sun) 09:05:07


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。

太陽はわれわれを温めてくれるし、
水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、
それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。

数えきれない神の愛の中につつまれていながら、
ただ一つ二つの不足について不平を言うような心は
功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんなにも愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

           <感謝合掌 令和5年5月21日 頓首再拝>
35:伝統 :

2023/05/23 (Tue) 10:20:18


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年9月13日)より抜粋

新約聖書にはイエス様の言葉として
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
 これがいちばん大切な、第一のいましめである」という言葉があります

神様を愛すること。
これが最も大切な事であるとイエス様は述べられているように、
神様を愛しているものは、同時に神様から愛されている人でもあります。

神仏と言うのは、私たちの魂の親であり、私たちをお創りになり、
私たちの学び場を作り、私たちを育んできた存在であります。

そうした偉大なる存在に、畏敬の念を抱き、感謝して生きることが、
神を愛するという事であります。

目には見えませんが、私たちを生み育んでいただいている存在に
思いを向け、感謝して生きることが、神仏に愛される生き方だと思います。

神仏を愛するためには、素直さや謙虚さが必要になってくるでしょう。

何かにつけて神仏に対して批判や恨みの念を持ったり、
裁く思いを抱いている人は、神仏を愛しているとはいえず、
その思いから遠ざかっていくでしょう。

人はどうしても自我や、狭い範囲での自分の知識から
物事を判断し、裁いてしまいます。

そうした不遜な態度は、神仏の思いから離れていってしまうでしょう。

自分に判断できない事柄や分からない点に関しては、
神仏にその判断をゆだねるという気持ちも必要だと思います。

最後は御心のままにと祈ることも必要です。

素直さが無くて、我を通すような気持ちであれば、
ますます混乱の中に置かれることがあります。

いったん自我を捨てて、身を任せることで、浮き上がります。

それは溺れかけの人が必死に手足をバタつかせて、
かえって溺れてしまうように、
何もせず力を抜いたら自然と浮かび上がってくるようなものです。

そのように神仏に愛される人となるには、自我を振り回すのではなく、
素直さを持つことが必要なのだと思います。

そして自分の才能や知識にうぬぼれて、
慢心してしまわないことも必要でしょう。

あまり知識を詰め込んでしまい、慢心して偉大な存在を
否定したり忘れてしまう人も多く出てきています。

現代では科学的な発展があって、
それ故に神仏を否定するようなものが増えていっています。

そうした慢心さは、神仏から遠ざかる躓きの元となる場合があります。

知識を増やしたり、才能を開花させるのはよいですが、
それゆえに謙虚さを忘れてはならないのです。

近代科学の父とも言われるアイザック・ニュートンはこう言っています。

『私は砂浜を散歩する子供のようなものである。
 私は時々美しい石ころや貝殻を見つけて喜んでいるけれど
 真理の大海は私の前に未だ探検されることなく広がっている』

神仏に愛される人となるには、こうした謙虚さが必要だと思います

https://www.spacebrothers.jp/2017/04/blog-post_30.html

           <感謝合掌 令和5年5月23日 頓首再拝>
36:伝統 :

2023/05/26 (Fri) 10:50:54


        *「光明法語」(5月26日)より 

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
 わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、
 いと清浄になりたり」

と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

           <感謝合掌 令和5年5月26日 頓首再拝>
37:伝統 :

2023/06/06 (Tue) 08:22:56


       *『光明法語』(6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
 凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 令和5年6月6日 頓首再拝>
38:伝統 :

2023/06/18 (Sun) 05:07:33


    *「光明道中記」(6月18日)より
      ~心に炬火(たいまつ)を点ずる日

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
              (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、
 
自分の周囲、心の眼を以って自分の座せる座敷の
隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。

ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、
調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

       <感謝合掌 令和5年6月18日 頓首再拝>
39:伝統 :

2023/06/30 (Fri) 05:02:43


       *「光明法語」(6月30日)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、
神の子として愛しなければならぬ。

すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。

如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 令和5年6月30日 頓首再拝>
40:伝統 :

2023/07/07 (Fri) 04:51:05


        *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で
「諸愛ことごとく解脱し」と書かれているように、
仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。

これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、
本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

            <感謝合掌 令和5年7月7日 頓首再拝>
41:伝統 :

2023/07/15 (Sat) 05:05:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。

時計は回るようにできており、
時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、
捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、
講演旅行などで携帯する時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも
数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から帰ってくると、
本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。

知的に真理を理解したといっても、
それだけでは時計の構造を理解したと同じである。

時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、
真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、
教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば時計は動く。

それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、
愛することのできる人は、そして教えられたとおりに
素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 令和5年7月15日 頓首再拝>
42:伝統 :

2023/07/16 (Sun) 09:02:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。

神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、
神は生命であるから、財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではない
のである。

人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と
思っていては、父の心も気まずくなり、そ
の金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、
神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、
神をただ「無限供給の源泉」として視るものは、
神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまでは
それを拒んでいたのである。

われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて
「神」の愛を捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、
われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 令和5年7月16日 頓首再拝>
43:伝統 :

2023/07/21 (Fri) 07:22:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、
わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、
行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 令和5年7月21日 頓首再拝>
44:伝統 :

2023/07/30 (Sun) 08:24:06


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月30日)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、
やがてそれに自分が救われなくなり
落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に
「最善の悔い改めは神の道を一心不乱に前進して、今までありし
罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」

と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、
神の道に一心不乱に突き進むことを忘れているのである。

「彼らは光明思想に触れる。
 それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
 そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を
 頒ち与えることを忘れ、そしてそれゆえにそれを失ってしまう」

とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。
ある人が真理に対する理解を得たとする。
そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除することが
できたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、
それはただ、利己的目的だけにすぎない。

利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、
やがてその真理は自殺状態に陥って
自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。
真理を知らされたということは、
それを他の人々に伝えるために知らされたのだということを
知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、
個々人として孤立した存在ではないということである。

われわれは自他一体の存在であるから、この世の中に一人でも不幸な人が
存在するかぎり、真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。

宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、
その1本の歯にも比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、
自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、
自分を磔けにした人々の幸福のために神に祈り、
そして従容として十字架につくことである。

かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>
45:伝統 :

2023/08/02 (Wed) 05:08:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 令和5年8月2日 頓首再拝>
46:伝統 :

2023/08/04 (Fri) 05:08:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 令和5年8月4日 頓首再拝>
47:伝統 :

2023/09/11 (Mon) 11:53:03


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

         <感謝合掌 令和5年9月11日 頓首再拝>
48:伝統 :

2023/09/14 (Thu) 12:00:06


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを十分与えるように
心懸けなければならない。

値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、
しかも自分もできるだけ力を尽くして奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて
怠惰や放漫になってはならないのである。

与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、
自分が知恵を出さず、愛を出さず、
生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

         <感謝合掌 令和5年9月14日 頓首再拝>
49:伝統 :

2023/09/15 (Fri) 12:22:34

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに
湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として
神の「生命(せいめい)」と「愛」とを心をこめておくるのだ
という愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

           <感謝合掌 令和5年9月15日 頓首再拝>
50:伝統 :

2023/09/19 (Tue) 13:25:30


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、
「物を大切にすること」とはちがうのである。

「貪欲」は自己の本来の貧しさを恐怖して、
むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とは
その物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

          <感謝合掌 令和5年9月19日 頓首再拝>

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