伝統板・第二 2569406

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神への信 ④

1:伝統 :

2022/06/05 (Sun) 07:06:35

先ず神を認めよ

    *『光明法語』(6月5日)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神への信」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6948104

(2)伝統板・第二「神への信 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7753997

(3)伝統板・第二「神への信 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7933939

       <感謝合掌 令和4年6月5日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/06/09 (Thu) 06:49:15


          *『光明法語』(6月9日)より

汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、常に神に振り向くべし。
神はすべての解決である。

「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。

少々の疑いも、恐怖も持つべからず。
疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。

完全なる信のあるところ恐怖はないのである。

恐怖なくして神に振り向き、

「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
 如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」

と念ぜよ。

        <感謝合掌 令和4年6月9日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/06/12 (Sun) 06:34:37


       *『光明法語』(6月12日《認めたものだけが現れる》)より

神に波長を合わすには、
ラジオと同じく先ず放送局がある事を認めなければならない。

神を先ず認め、神は無限に寛大に吾らの願いをきいて下さるものである事を、
認めなければならぬ。

神が神罰を与えるような苛酷な存在であると吾々が認めるならば
「苛酷」な波長に波長を合わす事になり、
苛酷なものが現象界に実現することになるのである。

それよりも吾々は神は愛深き存在であり、無限の癒やしであり、
無限によきものを吾らに与え給うべく待ちかまえていられるのであることを信ずれば、
それに波長を合わすことになるのである。

        <感謝合掌 令和4年6月12日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/07/05 (Tue) 07:40:35


      *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P246~247)より

未来は必ず現代よりも良くなるのです。
たとい、現象的には現在は以前よりも
悪い状態になりつつあるが如く見えてもです。

それは秋になり冬になって荒涼たる山野の景色を呈しようとも、
樹木は確実に生長して行きつつあり、一陽来復の春に
萬朶(ばんだ)の花を咲かせるべき準備が着々と、
その落葉(らくよう)枯木(こぼく)と見える中で
準備されつつあるのと同じであります。

では何のために、現在が過去よりも悪いように
見えるからとて思い煩う必要があるのでしょう。

神は景気がよく見えるときにも、不景気に見えるときにも、
依然として変りなく吾々を愛していられるのであります。

神の護りを信じなさい。
そして不景気や、逆境に見舞われたと見えるときにも、
依然として失望することなく、尽すべきは尽し、
与えるべきは与え、感謝すべきは感謝しなさい。

其処から道が必ずひらけてまいります。

        <感謝合掌 令和4年7月5日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/07/09 (Sat) 07:40:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より抜粋

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから
御心を行じていてわれらは決して乏しきことはありえないのである。

神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、
すべてはよくなり自己に来るすべての事件は最初は
いかに見えても好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
 神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、
荊棘(いばら<けいきょく>)は切りひらかれ、
道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。  

        <感謝合掌 令和4年7月9日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/07/17 (Sun) 06:46:14


      *「光明法語」(7月17日)より

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

        <感謝合掌 令和4年7月17日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/08/02 (Tue) 07:36:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 令和4年8月2日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/08/12 (Fri) 11:41:13


   *「光明道中記」(8月12日《業の消ゆる日》)より抜粋

【業は実際に於いて何処(どこ)にも実在するものではない。
                    (『生命の實相』第八巻)】

弥陀の本願は、宇宙大生命の大慈悲そのものであるから、
老人であろうが、少年であろうが、善人であろうが、悪人であろうが、
問うところではないのである。

キリスト教の聖書には
「天の父は太陽の善人をも悪人をも照したまう如く、これを照し給う」
とあるのは、仏耶(ぶつや)真理を等しうしているのである。

ただ救われるのは、「信」によって救われるのである。
「信」は人偏に言(ことば)である。
人と神のコトバ即ち仏の誓願との一致である。
誓願とはコトバにほかならない。

仏の誓願と人間の心とが一致したとき、人間は仏の誓願の中に溶け込むのである。

コトバは誓願であり、名号であり、本体であり、仏のイノチである。
仏のイノチの中に溶け込む時、”そのまま救われている”実相があらわれるのである。
「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要(よう)とすとしるべし」
である。

私は「老少善悪を選ばす」のほかに、「肉体の生死の前後を選ばす」と附け加えたい。
「肉体の生死」如何が「救われ」に関係があるなら弥陀の救いに条件を置くことになる。

       <感謝合掌 令和4年8月2日 頓首再拝>

9:伝統 :

2022/08/19 (Fri) 09:58:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月19日>(P57)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 令和4年8月19日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/08/20 (Sat) 08:19:59


   *「光明道中記」(8月20日《何でも有難く感ぜられる日》)より抜粋

【信心とは仏の心が自分の中に生きることである。(『生命の實相』第十四巻)】

慈悲にも自力の慈悲と浄土門の慈悲とがある。
自力の慈悲では「現象我」の智慧で救おうとするのであるから、
その自力の「可哀相な」「悲しい」「何とかしてやりたい」のはからいが
却って相手の害する事になるかも知れないのである。

肺病の人を救ってやりたい。
「そんなに働いては病が増悪する。もっと安静にしていなさい」
と凡夫のはからい心で深切を尽せば尽す程
相手の病人は恐怖心に駆り立てられて病気が増殖するが如くである。
凡夫の慈悲は始終(はじめおわり)を全うする事が出来ない。

ただ念仏即ち「実相」を念ずる浄土の慈悲によってのみ
久遠の仏性は引き出され、肉体が死ぬにせよ生きるにせよ。
末徹(すえとお)りたる終りを完(まっと)うする慈悲になるを得るのである。

       <感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/09/01 (Thu) 08:20:26


        *「光明道中記」(9月1日《心澄み切る日》)より抜粋

人間が救われると云うのは弥陀の誓願によるのである。

すなわち弥陀の誓願が廻り向いて来て、念仏もうすと云う信仰の心が起こり、
その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、
学問の力で信心の念が起こるのではなく、
経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、

「信心」と云うものは如来が廻施(えせ)する(如来の力が廻り施される)
のであるから学問がなかったら救われない、経文の解釈によくつうじて
いなかったら救われないと云うような議論は言うに足りない。

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、
また別の新しい説き方をする人があったら直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、
誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、
ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、互いに讃嘆すべきである。

       <感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/09/02 (Fri) 09:21:38


        *「光明道中記」(9月2日《内在の念仏を聴く日》)より抜粋

他力真宗と生長の家とは随分その救いの立て方が似ているのである。
真宗で「他力」と言うところを生長に家では「実相」と言う。
真宗で「念仏」と言うところを「『生命の實相』を読めと言う。

「他力」は「大信心」であり、
「大信心」は「仏性」であり、「仏性」は「実相」である。

「他力」に救われると云うことは
「念仏申す心」(実相)に救われていると云うことである。

『生命の實相』を読んで、その経釈が完全に出来るから救われると言うのではない。

盲目(めくら)の子でも母はそれに乳房を与えて救って下さっているのである。

どんな母であろうかと「知りたい心」は経文を解釈するような誇った心ではなく、
母懐かしさの心にすぎない。


       <感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/11/11 (Fri) 07:24:42


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。

ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。

なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

      <感謝合掌 令和4年11月11日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/12/16 (Fri) 08:10:00


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 令和4年12月16日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/12/21 (Wed) 07:50:10


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
 いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

 昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、
 昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
 ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、
 昨日(きのう)お礼申し上げようと思いましたが、
 他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
 遠慮いたしましてつい今日に延びました。

 実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
 それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
 いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
 外出もしなかったのですが、

 昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、
 もうそのことは全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、
 そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。
 そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

 あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが
 『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
 もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を
 困らせはしないか。そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、
 誌友会の日は自動車で来たらどうか』

 という忠告を受けたくらいでありますが、
 それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

 ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
 宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
 そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

 そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、それを避けようと思って、
 避けようとした瞬間、どうしたものか、《ずーん》とその川縁(かわぶち)から
 中へ飛び込んでしまったのです。
 一丈ぐらいある所なんです。

 ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。

 普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
 その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
 ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

 ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたように
 ズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
 その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

 その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
 『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで
 落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
 と言うので、見ますと、なるほど落ちています。

 荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
 子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
 どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

 此の服を着ておりましたが、
 どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
 帰ってきました。実に尊い。

 私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

 《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、
 ただふわふわと『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。
 これがありがたいのです》。

 これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによって
 こういう気持になることができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、
 私を最初に導いてくださいました福島博先生にお会いしまして、
 こういうわけで今日こそ実にありがたい体験をしました、
 ありがたくてしかたがないと言って私はお話をしたのであります。

 すると福島さんは『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。
 早くから蚕をしても、人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、
 誰も豊作したという人はない今年に、いつもより1割以上も成績をあげていながら、
 それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生にお礼に行くように
 神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』と言うので、
 実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

 だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、
 今日(こんにち)まで50年間蚕に従事しておりますが、
 お導きをいただきましてから4、5年この方、蚕は必ずうまくゆくものである
 という確信を持たせていただいております。

 それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
 いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、
 天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。

 それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
 あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

 そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
 そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

 それが本当の信心なら結構でありますが、あちらこちらと諸方の神仏を
 渡り歩く心持の中にはつまり確信が無い、確信を持っておらないから
 あちらの神様を拝みながらそれを信じきれずこちらの仏様を拝む、
 そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
 自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

 その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
 いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
 蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

 ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、
 本当に『お蚕さん』として『あなたは立派なお蚕さん』として
 その仏性神性を拝むようにしていったところが、
 当たり外れがなくなってしまった。

 お蔭さまで、蚕の飼育については
 自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまいというくらいの
 信念をもって働かせていただくようになりました。

 お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

 疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
 信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、
実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 令和4年12月21日 頓首再拝>
16:伝統 :

2023/01/20 (Fri) 08:34:01


       *「光明法語」(1月20日)より

吾が全ての願いは
吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。

されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。

吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。


吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。

吾に何事でも勧めてくれる人は
神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。

吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。

            <感謝合掌 令和5年1月20日 頓首再拝>
17:伝統 :

2023/06/05 (Mon) 11:45:21


    *『光明法語』(6月5日《先ず神を認めよ》)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは
先ず「吾を認めよ」と云うことである。

人間でも親が子に求めているところのものは、
先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは
自分の生命(いのち)の親を、神を、認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。

            <感謝合掌 令和5年6月5日 頓首再拝>
18:伝統 :

2023/06/12 (Mon) 06:45:49


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

           <感謝合掌 令和5年6月12日 頓首再拝>
19:伝統 :

2023/07/09 (Sun) 05:04:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、
その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、
今が、そしてその状態が自己の魂の進歩にとり最善の時であり、
最高の機会なのである。

われわれがわれわれ自身を見出すところの今の環境が、
その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、
そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、
事務所で働くこと、病める隣人をまたは親類縁者を看護すること
などは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、
神に対する義務のごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく
忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた日課を果たす
ということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、
また生活がわれらに齎(もたら)したるところのすべての位置において
全力を尽して試みることは、魂の向上の道に入るための日々の課業
であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、
それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、
人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。

すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、
またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから
御心を行じていてわれらは決して乏しきことはありえないのである。

神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、
すべてはよくなり自己に来るすべての事件は最初はいかに見えても
好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
 神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、
荊棘(いばら<けいきょく>)は切りひらかれ、道なき所に道を生じ、
砂漠に花咲き、豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して
湧き出ずるであろう。

         <感謝合掌 令和5年7月9日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/07/17 (Mon) 05:05:31


     *「光明法語」(7月17日《神と直通する道》)

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

         <感謝合掌 令和5年7月17日 頓首再拝>
21:伝統 :

2023/08/09 (Wed) 12:01:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月9日)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば
多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎる
ということをこそかえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、
幾度(いくたび)でも繰り返し、

「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
 われに宿り給う天の父これを為し給う」

ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

      <感謝合掌 令和5年8月9日 頓首再拝>
22:伝統 :

2023/08/16 (Wed) 10:35:11


   *「光明道中記」(8月16日《自力を捨てる日》)より抜粋

【悟るとは内在の仏が浮かび上がって来るのであって、
 脳髄意識の巧者ではない。    (『生命の實相』第十一巻)】


何故神は完全であるかと云うことは、神以上の存在に我々がなって見て、
神の由って来る所以を批判しなければ判るものではないのである。

ただ吾々は完全なる絶対者を立ててそれを実在の本源として立て、
それに全帰依を捧げなければ、到底たえられない要諦を
生命の内面に感ずるのである。

カントの所謂る「先験的要請(ア・プリオリ)」であるのである。
先験的要請は、人間の最も深い存在の根本に根ざすものであるから
否定せらるべきものではないのである。

親鸞聖人が「たとい法然上人に瞞(だま)されたとしても
どうせ他の行では救われない自分なのだから」と仰せられたのは、
決して自暴自棄的なお言葉ではない。

絶対力ある弥陀の誓願を立てなければ到底耐えられない
「先験的要請(せんけんてきようせい)」と、その「先験的要請」の
主張する絶対他力の必然的存在を爰(ここ)に高調されたのである。

       <感謝合掌 令和5年8月16日 頓首再拝>
23:伝統 :

2023/08/19 (Sat) 15:15:43


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 令和5年8月19日 頓首再拝>
24:伝統 :

2023/08/20 (Sun) 09:58:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月20日)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

      <感謝合掌 令和5年8月20日 頓首再拝>
25:伝統 :

2023/09/01 (Fri) 13:04:00


      *「光明道中記」(9月1日《心澄み切る日》)より

【雑念妄想は念仏を妨げず、虚の念は本来無い念である。
                    (生命の實相第九巻)】

(歎異抄十二条)

   経釈(きょうしゃく)をよみ学(がく)せざるともがら、
   往生不定のよしのこと、この条(じょう)、すこぶる
   不足言(ふそくごん)の義といひつべし


前条等にも繰返し繰返し述べられているように、
人間が救われると云うのは弥陀の誓願によるのである。

すなわち弥陀の誓願が廻り向いて来て、
念仏もうすと云う信仰の心が起こり、

その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、
学問の力で信心の念が起こるのではなく、
経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、

「信心」と云うものは如来が廻施(えせ)する
(如来の力が廻り施される)のであるから

学問がなかったら救われない、
経文の解釈によくつうじていなかったら救われない
と云うような議論は言うに足りない。

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、
此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、
甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、
自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、
彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、
また別の新しい説き方をする人があったら
直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、
誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、
ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、
互いに讃嘆すべきである。

      <感謝合掌 令和5年9月1日 頓首再拝>
26:伝統 :

2023/09/15 (Fri) 12:18:14


    *「光明道中記」(9月15日《肩の荷を卸(おろ)す日》)より抜粋

 【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、「たまわる」のである。

凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って自然に信心したくなるのである。

それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って
自然に赤ん坊が乳房を吸うことを知るようなものである。
乳房を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。
そう思えば自力で救われるところは一つもない。

みんな仏様のお計らいであるから、
念仏も自分が往生極楽の行を積むというような偉そうな気持でなしに、
如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。

      <感謝合掌 令和5年9月15日 頓首再拝>
27:伝統 :

2023/12/16 (Sat) 09:35:22


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。

「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 令和512月16日 頓首再拝>
28:伝統 :

2023/12/19 (Tue) 11:30:25


        *「光明法語」(12月19日)より)

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

         <感謝合掌 令和5年12月19日 頓首再拝>
29:伝統 :

2024/02/06 (Tue) 10:06:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より

世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。

わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。

親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。

親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て
母親の衣物(きもの)を濡らして困ったというほどであった。

これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。

親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。

人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。

このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。

働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には
豊かに必需物(なくてはならぬもの)を
与えたまうのが神であるからである。

ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。

ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。

           <感謝合掌 令和6年2月6日 頓首再拝>
30:伝統 :

2024/02/22 (Thu) 10:15:56


           *「光明法語」(2月22日)より

どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。
人間知恵で突進している場合、それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。
そんな時、思わぬ事件が起って、その方向転換させて下さるのが神の導きである。

何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。

人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。

           <感謝合掌 令和6年2月22日 頓首再拝>
31:伝統 :

2024/03/14 (Thu) 11:43:07


           *「光明法語」(3月14日)より

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ず汝の心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。

それは智慧の働きである。
この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認し得たときにのみ、
感情としての愛が湧き出てくるのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら
唯(ただ)愛行を努力するだけである。

          <感謝合掌 令和6年3月14日 頓首再拝>
32:伝統 :

2024/03/24 (Sun) 12:53:24


祈願に隠された意味は、神様を信じていない証拠
伊勢ー白山 道(2024-03-24)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/ef641c39ef390a522332ec41ee48d247

          <感謝合掌 令和6年3月24日 頓首再拝>
33:伝統 :

2024/04/28 (Sun) 11:50:08


       *「光明法語」(4月28日)より

神に対する信仰を深めるためには、
神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

         <感謝合掌 令和6年4月28日 頓首再拝>
34:伝統 :

2024/04/29 (Mon) 12:10:22


       *「光明法語」(4月29日)より

信ずるとは知ることである。
生命をもって直接に知ることである。

自己の生命は神より出でたるものであるから、
自己の生命は実相に於いては既に神を知っているのである。
だから危急のときに人間は神を呼ぶのである。

思わずとは「無意識」にと云うことである。
「無意識」とは意識がないと云う意味ではない。
「気がつかぬ意識」と云うことである。

自分の気がつかない心の奥底に神を信ずる心があるのである。

しかし神を呼んでも感応がないのは恐怖心や狭い心があるからである。

         <感謝合掌 令和6年4月29日 頓首再拝>
35:伝統 :

2024/04/30 (Tue) 11:41:27


       *「光明法語」(4月30日)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

         <感謝合掌 令和6年4月30日 頓首再拝>

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