伝統板・第二 2556887

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真理の生活 ⑭

1:伝統 :

2022/05/26 (Thu) 09:14:43


《肉体的自覚の外皮を脱ぎ棄てること》

      *『 生長の家 』(昭和40年3月10日の法語)より

“ さとり ” というものは、結局、植物の種子( たね )の内部にある
「 神なる生命 」 が「 種子の外殻(がいかく)」を割って出(い)で
ついにその外殻を「 自分そのものでない 」 として棄て去って、
生命の美しさを伸ばして行くようなものなのである。

この場合の「 種子の外殻 」 にあたるものが、
私たちの「 肉体としての自分の自覚 」 である。

この「 肉体としての自分の自覚 」 を脱ぎ棄てる程度にしたがって、
内部にある「 神なる生命 」 が愈々(いよいよ)はっきりと展開して
益々 その実相の完全さを発揮するのである。

宗教的修業というものは、この「 肉体としての自分の自覚 」という
外皮を、層一層脱ぎ棄てて行く修業だといえるのである。

それには3つの修業がある。

(1)聖経 聖典 神誌 等を繰り返し読むことによって、「 人間は肉体ではない 」
   という真理を潜在意識の底まで畳(たた)み込むこと。

(2)神想観を修して、肉体の感覚を蕩尽(とうじん)し、実修の上で、
   人間は「 霊的実在 」 であるという実相に 直接 触れること。

(4)他(た)の人に真理をつたえ、又は愛行を人に施すことによって、
   他の人が救われる悦びを知り、物質的肉体は互いに離れて別々の存在に
   見えていても、生命は互いに一体であって、同悲同喜の感情の起る体験を
   通して人間は、単なる肉体的存在ではないということを知ること。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8209345

(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335

(13)伝統板・第二「真理の生活 ⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8250384

           <感謝合掌 令和4年5月26日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/05/27 (Fri) 07:08:32


      *メルマガ「人間力」( 2022.5.17)より

───────────────────

人間誰にでも、人生の逆境が訪れます。
しかし、現在人はいつしか逆境に耐えることを忘れ、
周囲の人や環境に
その責任を転嫁するようになったのではないか──。

アサヒビールの社長、会長を務め
月刊『致知』の「巻頭の言葉」の執筆陣のお一人である
福地茂雄氏が6月号にて、
「耐える」ことの意味について綴られています。

───────────────────

(福地)

「耐える」という言葉は
もはや辞書の中にしか存在しないと私は思っています。

逆境と順境は、人生においても企業経営にとっても
糾える縄の如し、より合わせた縄のように交互にやってくるものです。

順境の時には逆境の芽が潜んでいる。

一方、厳しい冬の寒さの後には、やがて暖かい春がやってきます。

逆境は誰にもどこにでも例外なく訪れます。

「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、
 不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」

トルストイ著『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一文です。

確かに、逆境はいつどのような形でやってくるか分かりません。

人は誰でも少し逆境の谷間を泳ぐと、
世に自分ほど不幸な人間はいないと思いがちです。

しかし逆境の世は底なしであり、
どん底と思われるような厳しい試練のその下には、
さらに想像もつかない不幸が埋もれているものです。

地震・津波・台風・洪水などの自然災害は別として、
人と人との関わり合いから生じる逆境に際し、

今日の日本人の多くは
「耐える」ということを忘れてはいないでしょうか。

歴史を繙いてみても、
「耐える」ということはかつて日本人の美徳でした。

それが飽食に慣れ、豊かな生活に包まれた今日、
いつの間にかすべてにわたって
「耐える」ことより、「社会が悪い」「国が悪い」と
自己責任を考える前に「他責」に逃げ込んでしまってはいないでしょうか。

自分も責任の一端を担う社会人であり、
国民であることを忘れてしまっているといえます。

           <感謝合掌 令和4年5月27日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/05/29 (Sun) 10:11:02


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年5月26日)より

人は成功者となる事を願い、求めますが、
その結果はいずれ失われるものです。

この世的な成功とされるものは、いずれ価値を失っていきます。

どれだけ人々から称賛され、偉大な業績を上げたと表彰されようとも、
やがては消えていき、崩れ去っていきます。

それは海岸で砂で作ったものが、
いずれは波と風とに飛ばされていくように、
姿かたちなく消え去っていくようなものです。


たとえばノーベル賞のような世界的に有名な賞をとったとしても、
オリンピックで金メダルをとったとしても、
死後にメダルを持って帰ることは出来ません。

ノーベル賞平和賞を受賞した人であっても、
死後に地獄に落ちてしまう人はいるのです。

この世の成功と呼ばれるものは、
いずれ失われる儚いものだと知っておかなくてはなりません。


では真に求めるべきものとは何でしょうか?

それはこの世での賞であったり、人からの称賛ではないと申し上げました。

真に私たちが求めるべきもの、それは本当の自分に正直である事、
自らの良心に忠実に生きられることでは無いでしょうか。

人間はこの世的な価値や、
人々から向けられる称賛を求めてしまいがちになります。

世の中で価値あるとされるものを手に入れたいと欲し、
人々から褒められ、持ち上げられることに喜びを見出します。

しかし、それらは真に価値あるものでは無く、儚いものでしかありません。


自分の良心にどれだけ忠実でいられたのか?

他人の目などは関係なく、自分自身に正直であったかが問われます。

自分の良心に従うとは、本当に自分らしく生きる事です。

成功や人々からの称賛よりも、自分らしく生き、
真実の人生を生きる事の方が、比較にならないほど大切な事です。

自分らしく生きる事は、
周りの人からどのように思われようとも、価値のある生き方です。

https://www.spacebrothers.jp/2022/05/blog-post_26.html

           <感謝合掌 令和4年5月29日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/05/31 (Tue) 06:38:00


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.05.29)より

   (岡本一志(かずし)氏の心に響く言葉より…)

   お釈迦さまは、

   「皆にてほめる人はなく、皆にてそしる人はなし」

   と言われました。

   人間の好き嫌いは、その人の都合によって決まりますから、
   どんなに立派な人でも、すべての人から好かれることはなく、
   どんなに嫌われている人でも、すべての人から嫌われることはないという意味です。


   人それぞれ、立場や都合は違います。

   ですから、たくさんの人が集まれば、
   全員の都合や利害が一致することは絶対にありません。


   お釈迦さまが生きておられたとき、
   当時の人たちの三分の一は、お釈迦さまの存在を知りませんでした。

   三分の一は、「変なやつが現われた」と非難しました。

   そして残りの三分の一が、尊い方だと称賛したといわれています。

   お釈迦さまでさえ、そうなのですから、
   私たちがみんなから嫌われずに、好かれるなんて、
   とてもできないこと なのです。


   誰にとってもいい人でいることは、不可能です。

   逆に、あなたがどのような状況にあっても、

   「皆にてそしる人はなし」

   とお釈迦さまは言われています。

   みんなから嫌われるということも、決してないのです。
   周りの目に振り回されるよりも、あなた自身の本当の気持ちを大事にして、
   あなた自身の人生を生きたほうがよいと思いませんか。

     <『心がほっとする ほとけさまの50の話』王様文庫
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              ・・・

本書の中にこんな一節がありました。

『人の見方というのは、それぞれの立場でまったく違います。
 仏教に、「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。

 同じ水を見ても、餓鬼は火炎と見る、天人は宝石と見る、
 人間は水と見て、魚はすみかと見る。

 これは、それぞれの立場や状況が違うと、
 感じ方や、見方がまったく変わってくるということを表わしたものです。

 コップに水が半分入っているのを見て、
 「半分もある」と思う人がいれば、
 「半分しかない」と思う人もいます。

 一般の人にとって、警察官は、自分たちを守ってくれる存在でしょうが、
 犯罪者にとっては、やっかいな存在でしょう。

 同じ水や人を見ても、心のあり方や立場によって、全然違って見えるものです。

 見方や感じ方は、人それぞれ違いますから、
 あなたがどんなに正しいと思ってやっていることでも、
 いろいろな見方をする人がいます。』


多くの人は、全員から好かれようとします。

だから、その中のほんの数人に嫌われでもしたら、
がっかりして、嫌な気持ちになりテンションも下がります。

しかし、全員に好かれることなんて、あるはずがありません。

また、反対に全員に嫌われることもないのです。


誰かに非難されたり嫌われたとしても、一喜一憂せず、

「まあ、そんなこともある」と

あまり気にしない訓練をする必要があります。

もっというなら、「気にならない」ことが最上の方法です。


お釈迦さまでさえ、全員に好かれたわけではなかった…

人の心無い言葉に右往左往せず、自分の人生をしっかりと生きていきたいと思います。

           <感謝合掌 令和4年5月31日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/06/06 (Mon) 11:31:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和4年6月6日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/06/07 (Tue) 07:28:09


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに
初めてわれわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和4年6月7日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/06/11 (Sat) 07:16:23


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.06.09)より

   (山口謡司(ようじ)氏の心に響く言葉より…)

   《楽しきと雖(いえど)も 、豈(あ)に一(ひと)たび
    期(き)に会(かい)せざるべけんや》(魏一 二八二)


   魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)は、
   猟場を守る役人と一緒に狩猟に行くことを約束していた。

   ところが、その日、朝から客人があって、楽しい酒となった。

   そのうえ、外を見ると、雨がかなり降っている。

   文侯は立ち上がり、「出かける支度を」と言った。

   側近が「どちらへ」と訊(き)く。

   「今日、これから狩猟に行く約束をしている。
    酒も入って、雨も降っている。

    猟はできまいが、そのことを彼に伝えなければならない。

    楽しい宴会だといっても、一度約束したことを守らないでいられようか」


   魏という国が力をつけ、大国になったのは、
   文侯のこうした考えと行動によるものと伝えられている。

   「約」という漢字の「糸」は「人とのつながり」を表す。

   また、「勺」は「明らかにする」という意味である。

   すなわち「約」とは「人との関係を明らかにする」ということ。


   どういう場合にも「約束」は守らなければならない。

   「束」は「つなぐ」という意味である。

    《リーダーの誠実さは周囲に伝播する》

    <『読めば心が熱くなる!中国古典100話』知的生き方文庫
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             ・・・

どんな小さな約束であっても、それを守るか破るかで、
その人の「誠実さ」や「人間性」そして「信用」が決まってきます。

逆に、小さな約束であればあるほど、相手はそれを見ています。


一つは、「時間」です。

決めた時間にたとえ1分でも遅れそうなら、
必ず電話をする等の配慮をする人は、相手を大事にしているということです。

相手に敬意を払っているかどうかがそれでわかります。

これは、レストランや居酒屋に予約した時も同じです。

少しくらいならいいだろう、と連絡をしない人がいますが、
お店の人は本当に来るのか、とやきもきしているものです。

少しの遅れでも連絡するかどうかで、その人の誠実さが問われます。


もう一つは、「身内や家族との約束」。

酔っぱらったりしていると、つい気が大きくなって
「よし、今月、旅行に行こう」などと言ってしまうことがあります。

しかし、つい仕事が忙しくて後まわしになってしまう…。

口約束こそ守らなければいけないということです。



伝説の人たらしといわれた田中角栄元首相の
秘書早坂茂三氏にこんな言葉があります。

『人間は脇が甘くて、懐が深くて面倒見が良くて、約束を守り、
 金の出しっぷりのいい奴のところに集まる。』


たとえ小さな口約束だとしても…

約束をおろそかにしない人には限りない魅力があります。

           <感謝合掌 令和4年6月11日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/06/13 (Mon) 07:22:46


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.12.05)より

   (習慣形成コンサルタント、吉井雅之(まさし)氏の心に響く言葉より…)


   「今の自分」は、過去の言葉や言動、思考など1つ1つの「習慣」の
   積み重ねによって作り上げられたものです。

   今の自分を作っているのは、過去の習慣の積み重ねに他なりません。

   そう聞くと
   「生まれ持った能力や資質の優劣は、習慣と関係ないのでは?」と
   思う人もいるかもしれません。

   たしかに、学校に行けば「成績のよい子」と「成績の悪い子」がいます。

   でもそれは、生まれ持った能力の差ではありません。

   単にコツコツ 勉強する習慣がある子と、その習慣がない子がいるだけなのです。


   ◆学校の成績の違いは、能力ではなく習慣の差

   ◆生まれたばかりの赤ちゃんには 能力や資質の優劣はありません

   ◆勉強ができるかどうかは“ コツコツ勉強する習慣”があるかないかの差であり
   “ 能力の差”ではないのです



   あなたは今
   「タバコをやめられない」「ついつい食べすぎてしまう」
   といった悩 みを持っているかもしれません。

   しかし、その原因はあなたの意志が弱いからでも、
   やる気がないからでもありません。

   ましてや生まれ持った能力や資質のせいでもありません。

   では、なぜ思いどおりにいかないのか?

   それは「習慣の作り方」を知らないからです。

   そして、どんな習慣を身につけるかであなたの人生が決まります。


   《どんな「習慣」を身につけるかで人生が決まる》

   勉強/体によい食事/早起き/心地よい睡眠/運動/読書/貯金


   ◆「習慣」とは、 自分でやると決めたことをコツコツと続けること


   《毎日が新しい習慣を始めるチャンス》

   習慣形成に年齢制限はありません。

   習慣化は、誰でも、いつからでも始められます。

   誰でも、いつからでも始められるのが習慣のよいところです。

   「こうなりたい」 という夢を描くのに年齢制限はありません。


   もちろん、物理的に無理なことはあります。

   たとえば、定年後に
   「プロボクシングの世界チャンピオンになる」と決意したとしても、
   実現するのは難しいでしょう。

   しかし、アマチュアの年齢別世界チャンピオンであれば、
   その夢が叶う可能性は十分にあります。


   すべての人が、
   毎日新たなスタートを切るチャンスを与えられているのです。

   《習慣は何歳からでも身につけられる》


   ◆「今日」という日は、誰にとっても、たとえ何歳であろうとも、
    残された人生で一番若い日です

   ◆すべての人にとって、 毎日が新たなスタートを切るチャンス!



   習慣を身につけるのに、「やる気」は必要ありません。

   実際のところ、やる気は誰にも測れません。

   では、やる気のあるなしは誰が決めているのでしょうか?

   答えは、自分自身です。

   たとえば、100mを走ったとして
   「20 秒もかかった。 自分は能力が低い」と考える習慣があるのか、

   「20 秒で走れるなんて、自分は能力がある」と考える習慣があるのか。

   どちらの思考習慣を身につけているかで
   「能力があるかないか」の錯覚が生まれるのです。

   所詮錯覚なら、思い切り自分に都合よく、
   「自分は意志が強い」と錯覚すればいいのです。


   《「習慣」を変えれば、未来も変わる》

   【人生を変えるのは、ただの「錯覚」】


   ◆自分は 意志が強い!と…

   1.まずは思い込む? 最初はウソでもいいので
    「自分は 意志が強い」と思い込みましょう

   2.潜在意識に刷り込む?すると脳がだまされて
    「意志が強い自分」が潜在意識に刷り込まれます

   3.思い込みが現実に?これを続けていると、そのうち 本当に
    「意志が強い人間」 として行動するようになります


   ●毎日のランニング なんて一生無理だと 思っていたのに・・・

   ●思い切り自分に都合よく 「錯覚」すれば、行動はあとからついてきます。

   <『習慣化メソッド 見るだけノート』宝島社
             https://amzn.to/3lrvgZi >

          ・・・

マザー・テレサのこんな言葉がある。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。


習慣には、よき習慣と悪(あ)しき習慣がある。

よき習慣を身につければ、
運のよい幸せな人生を歩むことができるが、

悪しき習慣を身につけてしまったら、
不運で不幸せな人生をおくることになる。

「われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
 むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬ」
                     (ヒルティ)

良い習慣を身につければ、悪い習慣は自然に消滅する。


思考、言葉、行動、性格、そして習慣に気をつける…

良き習慣を身につけ、良き運命を引き寄せたい。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2022-06-11)
「柔らかい心」はすべてに通じます
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/feaf7183e47e220386f18e459adb71ed

           <感謝合掌 令和4年6月13日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/06/15 (Wed) 07:09:18


         *『 静思集 』(P11~12)より

心を引立(ひきた)てることを 毎朝の行事にしなければならぬ。

生長の家に入(はい)った当座(とうざ)は
「 心を引立てる 」ことを感激を以(もっ)て行(ぎょう)じたけれども、
いつの間(ま)にか「 心を引立てる 」 ことを 忘れてしまった人も
多勢(おおぜい)ある。

沈滞(ちんたい)すれば黴(かび)が生(は)える。

毎日

「 幸福だ 」
「 有りがたい 」
「 嬉しい 」
「 本当にこれでよくなるぞ 」

などと云(い)う語(ことば)を出(だ)すようにしなければ、
どこに 生長の家に 入(はい)った値打(ねうち)があるか。


1回でも斯(こ)う云う言葉を出した日は 幸福だが、
1回も斯う云う言葉を出す機会のなかった人は、

もう その人の生命(せいめい)が陳(ふる)びかけ、
信仰が退転しかけている。

自分自身をかえりみて

「今日はどうだったか」

と考えて見よ。

「まことに済みませんでした」と一言(ひとこと)
やさしくあやまれば好(よ)いところを、

「これは斯(こ)う云う理由で致しました」と
理由や理屈をつけようとする。

そこから家庭生活の不愉快は生まれる。

           <感謝合掌 令和4年6月14日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/06/16 (Thu) 07:27:12


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.06.14)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より… )

   「人生は心一つの置きどころ」

   偉大な人たちはひとしく、いかなる事態に出遭っても
   心を常にプラスのほうに転じることに習熟していた、ということである。

   中村天風師の言葉だ。


   また、松下幸之助氏は言う。

   「人間は若い時の心がけによって、ずいぶんと差が出るものだ」


   稲盛和夫氏は言う。

   「仕事を好きになったこと、会社を好きになったこと、そのことによって今日の私がある」

   心の持ちようが人生を決める―名経営者の教えは一致する。


   講談社を創った野間清治氏にもこういう言葉がある。

   「万事万象、わが一心に存する。
    わが一心によってわが境遇ができるのだ。
    すべては私の影だ。

    心が歪めば世の中も歪むのだ。
    わが一心によって、世の中がよくも悪くも、楽しくも辛くもなるのだ」


   弘法大師空海の言葉も深い。

   「教法は本(もと)より差(たが)うことなし。
    牛と蛇との飲水(おんすい)の如し。

    牛は飲めば蘇乳(そにゅう)となり、
    蛇は飲めば毒刺(どくし)となる」(『宗秘論』)

   同じ水を飲んでも牛はそれを栄養のある乳にし、蛇はそれを毒にしてしまう。

   尊い教えも聞く人によってまったく違ったものになる、ということである。


   同じ状況を豊かな実りにする人もいれば、不平不満の種にする人もいる。

   すべては心一つの置きどころ、である。


   弊社刊『一流たちの金言』にある道場六三郎氏の話は興味深い。

   氏は十七歳で料理の道に入った。

   修業時代はいつも「人の二倍は働こう」
   「人が三年かかって覚える仕事を一年で身につけよう」と思っていた。

   早く一人前になりたかったのである。

   仕事では「早くきれいに」を 心がけ、さまざまな工夫をする。

   ネギを切るのに、人が二本切っていたら三本を持って切る。

   それができたら四本、五本と挑戦する、というふうだった。

   だが、スピードアップだけでは人の二倍の仕事はできない。

   効率よく働くには段取りが不可欠。

   「冷蔵庫の中を仕切り、どこに何が入っているかメモを扉に貼っておくと、
    指示されたものをすぐに取り出せ、庫内の温度も上がらない。
    冷蔵庫の開け閉めなんて些細なこと、と思うようでは一流の料理人にはなれない。

    そういう細かい部分まで意識し、先の先を読むくらいに頭を働かせないと、
    少しくらいの腕があっても大成しません」

   道場氏の言である。心一つの置きどころで料理の鉄人は生まれた。

       <『小さな人生論 5』致知出版社  https://amzn.to/39gwzYj

            ・・・

小林正観さんは

「幸も不幸も、勝ちも負けも、成功も失敗も、敵や味方も、全部自分が決めている。」

と言います。

自分がそう決めなければ、敵も味方も、成功も失敗も、勝ちも負けも、
幸も不幸も全部宇宙には存在しないからです。


ある現象が起きて、それを自分が「楽しい」と思えば、
その瞬間に、それは楽しいことになります。

「嫌だ」「不愉快だ」「つらい」と思うことも、みな同じです。


つまり、中村天風師のいう「人生は心一つの置きどころ」だからです。

だからこそ…

目の前のやってくるどんな現象に対しても、
「面白い」「楽しい」「うれしい」「勉強になる」
「ありがたい」「おかげさま」と思える人でありたいと思います。

           <感謝合掌 令和4年6月16日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/06/21 (Tue) 07:15:40


       *「光明法語」(6月21日)より

見る姿・形は一種の暗示となって吾々の魂の中に投げ込まれるのである。

友だち又は知人の悪しき範例(おてほん)を見ていると、
その悪しき姿が自分の潜在意識内のレコードとなり、
縁を得ればその通りの悪しき姿が自分の行為(おこない)に現れてくる。

善き友と交わり、善き友の行為(おこない)を見、善き友の言葉をきく事は、
目に見えぬ無限の宝を内に積むことになるのである。

潜在意識の中にあるよき想念は、無限のよき宝であると云うのは、
其処から無限の善きものが湧き出るからである。

すべて心に入りたる物はやがて形となって顕れて来る。

        <感謝合掌 令和4年6月21日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/06/22 (Wed) 07:22:53


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて
他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。

今後必ず自分の耳を傾けて
他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。

今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 令和4年6月22日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/06/23 (Thu) 07:07:32


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.04.22)より

   (修養団、中山靖雄氏の心に響く言葉より…)

    《私とあなたの区別のない世界を生きていたのが日本です。》


   東日本大震災の時に、天皇陛下が被災地の方に
   「助かってくださってありがとうございます」とおっしゃいました。

   「助かって良かったですね」ではないのです。

   このように、「私」と「あなた」の区別がない世界を生きていたのが日本です。

   川端康成さんがノーベル賞を受賞した講演の際の演題は、
   『美しい日本と私』だったといいます。

   しかし、途中でそうではなかったと思い直し、
   『美しい日本の私』に変更したそうです。


   私たちは、向かい合っているのではなくて、
   お互いが自分の中に存在している。

   つまり、「私の中のあなた、あなたの中の私」という感覚で生きてきたのですね。


   「日本を変える」「世の中を変える」と、相手を設定して作り出し、
   自分が変えるべき問題として向き合うとやる気になるし、力も出やすいと思います。

   しかし、日本と向かい合うのではなくて、自分が日本なのだと思う。

   これが大事な のです。

   「日本を変える」としたとたん、「日本と私」と別物になってしまいます。

   自分が日本なのだと思って生きていく。

   そのほうが本当に深くて難しいことなのです。


   また、「世直し」と「世直り」は違います。

   「世直し」は、世の中を自分の外に見ています。

   世直しというのはまず自分がいて、
   「俺はこうして世直しするんだ」という思いです。

   一方「世直り」というのは自分直りということです。


   天の仕込みがあって、自分が天来の生き方になっていく。

   自分が直ったら、世の中も直るという世界です。

   それが 「世直り」です。

   「世直し」は人間がすること、
   しかし、「世直り」は天がすることなのですね。

   世の中が何が原因で変わっていくかはわかりません。

   ですから、まず自分の「世直り」からなのです。


   「ハインリッヒの法則」というのがあります。

   「1対29対300の法則」ともいいます。

   もともとは労働災害における経験則で、
   ひとつの重大事故が起きる前には、29の 軽微な事故があり、
   さらにその背景には300の異常があったというものです。

   「世直り」もこれと同じことがいえます。

   大きなひとつの出来事のためには、29ぐら いの中ぐらいの出来事が必要です。

   その29の出来事が起きるためには
   300ぐらいの 小さなことが行われなければなりません。

   逆に言えば、大きなひとつの出来事のために、
   一人ひとりの「世直り」が必要なの です。


   「世直り」は「余直り」とも書きます。

   世の中の「世」と、自分という「余」、
   よくお殿様が「余は』という「余」をひとつにかけてあるのですね。

   世を思うとは、 自分や国を思うことでもあります。

   国を思うというのは、前に立って旗を振って国を 守っていくようですが、
   そうではありません。

   一人ひとりの世直りが、天にも世の中にも影響するのです。


   《私の中のあなた、あなたの中の私》

    <『すべては今のためにあったこと』海竜社 https://amzn.to/350EdDT

            ・・・

「世の中や社会をよくしたい」と思う人は多い。

その心意気や良しだが、本当に大事なのは
言っている本人が、今どんな行動をとっているかだ。

たとえば、「この町をよくしたい」という人に、
道徳心がなかったり、いつも不機嫌だったり、
人の話を聞かなかったり、愛想が悪かったりしたら、
まわりの人はどう思うだろうか。

「町をよくしたい」という言葉が空々しく聞こえるに決まっている。

それが、他人事で動く人。


逆に、なにごとにおいても、
自分事として動く人は、まず自分のできることから始める。


それが、自分の身近な人を幸せにすること…


たとえば、「挨拶」「笑顔」「感謝」「傾聴」「笑い」の実践。

まさに鍵山秀三郎氏のいう

「誰でも簡単にできることを、誰にもマネできないほど続ける」

ということ。


「一体一如(いったいいちにょ)」という禅語がある。

相手(モノや人やコト)とひとつになることだ。

共感力があり、ひとつことに没入し、対象と一体となることができること。


自分の我というエゴの心があるうちは、一体になることはできない。

こだわりを捨てること、執着を捨てること、なりきること、
比較しないこと、立場を捨てること。

そして、対象と一体になる。

すると違う世界が見えてくる。


自分が世の中だと思う…

自分が相手だと思う…

自分が親(子ども)だと思う…


一体となった人は、素直で自然体だ。

一体となっていない人は、嘘くさくて、空々しい。


すべてにわたって、自分事として行動できる人でありたい。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2022-06-19 )
孤独でも大丈夫です
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/dd1cbe4968291da45918fa69cf948363

           <感謝合掌 令和4年6月23日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/06/25 (Sat) 07:21:29


       *「光明法語」(6月25日)より
        ~天国は満ちたる杯(さかずき)の如し

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 令和4年6月25日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/06/28 (Tue) 07:24:33


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月28日)より

神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。

心を開いて待つことが神を招く方法である。

明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。

            <感謝合掌 令和4年6月28日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/06/29 (Wed) 07:14:49


       *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

            <感謝合掌 令和4年6月29日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/07/01 (Fri) 07:23:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

            <感謝合掌 令和4年7月1日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/07/03 (Sun) 07:26:13


          *「光明道中記」(7月3日)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。
                 (「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、
今まで自分の行(おこな)って来た供養が、「無功徳!! 」
だとの喝を受けて、自分の倚(よ)って立っていた真理がくだけた気がして
寂しくて耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」とたずねたのである。

それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうか
と云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、
「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、
功徳を先ず打消し、真理さえも打消してしまうところに、
本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、「《これが》」と言ったとき、
指(ゆびさ)すことの出来ない大地に充(み)つる宏大な真理が
くらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って
聖諦(さとりのしんり)を否定して了(しま)ったとき、
却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

            <感謝合掌 令和4年7月3日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/07/04 (Mon) 07:18:56


       *「光明法語」(7月4日)より

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

            <感謝合掌 令和4年7月4日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/07/05 (Tue) 07:33:49


       *「光明道中記」(7月5日《臭味を脱却する日 》)より

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。

「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。

「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。

功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、
従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 令和4年7月5日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/07/06 (Wed) 07:28:55


     *「光明道中記」(7月6日《至誠身を献ぐる日》)より

【遊女マグダレーナは一切を
 真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。(『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、

「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて
 五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)せるに似たるものあるに到れり」

と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
 ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に
巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。

そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの赤誠(せきせい)を
披瀝(ひれき)したので、とうとう入室を許されたのである。

今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。

漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

            <感謝合掌 令和4年7月6日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/07/08 (Fri) 07:31:00


      *『生長の家』(昭和25年7月30日の法語)より

悪しき習慣は悪しきものを征服しようと思うも
それを克服することはできないのである。

悪しきものの存在をみとめ、それに対して打ち克(か)とうと力む時には、
強敵に対して かたくなっている力士の様に、
却(かえ)って その悪癖に投げ出されてしまうのである。

悪癖にとらわれず、よき習慣を養って行けば
その喜びのために悪癖は 自(おの)ずから消えてしまうのである。


家庭の中で互いに感謝し合い、
一ぱいの水、一椀(わん)の食に感謝し、
夫に感謝し、妻に感謝し、子供に感謝し、自分が生まれたことを感謝し、
喜びにみたされる様になった時、悪癖は消滅してしまうのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 令和4年7月8日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/07/09 (Sat) 07:38:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より抜粋

人から見て目覚しい仕事を為すということは、
それはすでに報いを受けたのであるから、それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、
人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。

すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。
すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。

されば、自分の善を誇ってはならないし、
またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

            <感謝合掌 令和4年7月9日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/07/11 (Mon) 06:56:52


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.06.30)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…

   《宇宙のしくみは「成せばなる」とはなっていない》

   なぜ人間は、
   自分がただ生まれてただ散っていくことを、
   受け入れられないのでしょうか。

   それは、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 
   成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉を、
   学校で教わったからかもしれません。


   でも宇宙のしくみは、そうはなっていないようです。

   自分でシナリオを書いて、
   シナリオのとおりに生まれてきたのなら、
   力を入れて人生に取り組む必要はありません。

   ただ、目の前に起きたことについて、
   感想・論評・評価をせずに、
   笑顔で「はい、わかりました」と受け入れていくことだけ。


   子ども、妻、夫、舅、姑も、
   みんな受け入れるために存在しているのであって、
   戦って争って説得して、
   自分の思いどおりにするために存在しているのではありません。

   私たちの人生での出来事全部に対して、
   笑顔で受け止められるように。

   そのために、
   私たちはシナリオを書いてきたのではないか。

   私たちは、ああじゃこうじゃと感想を言う必要はないようです。

       <『神様を味方にする法則』マキノ出版>

         ・・・

小林正観さんは、あるとき、
50代の女性から相談を受けたそうです。

『「50年間、許せない人がいる」ということです。
 それは、父親でした。

「どうしても許すことができないのですね」

「許せません」

「では、好きになることなんて、できませんね」

「絶対に好きになれません」

「では、最後にうかがいます。『感謝』することはできますか?」

彼女は10秒くらい黙っていましたが、その後、
涙を流して、それから1時間ほど、泣き続けました。

ようやく落ち着き、最初に発したひと言は、

「感謝することはできます」

という答えでした。

人間は、50年間許すことができない相手にさえ、
「感謝することができる」のです。

嫌いな人、許せない人、好きになれない人がいて、
その感情を自分で抑えることができないのなら、許す必要はありません。

好きにならなくてもいい。

でも、「感謝することはできるか」を考えてみてください。

許せない人でも、3年間、感謝し続けたら、
許せるようになるかもしれません。

6年間感謝し続けたら、好きになれるかもしれません。』
    (ありがとうの神様/ダイヤモンド社)より



「許せない」という気持ちを持ち続けることは、
本当に辛いものです。

負の感情は、体や精神を痛めるからです。


「許す」ことはできないのに、なぜ「感謝」することができるのか。

それは、そのことによって、自分が成長できるからです。


「許す」ということは「受け入れる」ということです。

まさに、「子ども、妻、夫、舅、姑も、みんな
受け入れるために存在している」ということです。



目の前に起きたことについて、

感想・論評・評価をせずに…

笑顔で「はい、わかりました」と

受け入れていくことが できる人でありたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年7月11日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/07/12 (Tue) 07:35:27


           *『生長の家』(昭和40年新年号)より

私たちは、つとめて美しき言葉、感じのよい言葉、
内容のよい言葉を使うようにつとめなければならないのである。 

更に大切なのは美しき心、清らかな心、
実相を観る心をもたなければならないのである。

人間、もし誠実な心を失うならば、
他の事が如何に立派であっても何の甲斐もないのである。

 
菅原道真は 

『心だに誠の道にかなひならば祈らずとてや神は守らん』 

と歌われたし、


金光教祖は 

『實意丁寧』 という語で、この 『誠心(まごころ)』 

を表現せられている。

では 『まこと』 とはどういう語源から来るのであろうか。 

黒住教祖はこれを “マルコト” を意味する、
円(まる)くして欠けていない心なのであると言っている。

 
私の解釈では、 “まこと” は 
“真” であり、 “本物” であり、 “実相” である。 

人の生命の内にやどる真なるもの、 “神なるもの” があらわれる ―― 
“実相” があらわれたものが “誠” なのである。

そう解するとき、 『心だに誠の道にかなひならば祈らずとてや神は守らん』 
の意味がよくわかる。

  https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24581932.html (消滅)
  
            <感謝合掌 令和4年7月12日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/07/13 (Wed) 07:45:41


          *「光明道中記」(7月13日)より

【本当の美しさと云うものは
 深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                    (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような
奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの妙(みょう)を得ることだ
と思っていれば、それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、
飯を炊(た)くのが禅であり、茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。
茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、
足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって
「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても
硬軟その所を得なかったりするのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。

一芸に名人と謳(うた)われるような人は
何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、
「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

            <感謝合掌 令和4年7月13日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/07/15 (Fri) 07:13:30


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.07.11)より

   (西沢泰生(やすお)氏の心に響く言葉より…)

   《【さずかりもの】 神や仏の恩恵として与えられたもの。とくに子どもを指す。》

   そうです。

   言い方を変えれば、子どもは、「神様から一時的にお借りしているもの」。

   基本的に「親のもの」ではない。


   偉い人から借りているものは、
   キズなんかつけたらたいへんだから、丁寧に扱いますよね。

   子どもは、神様から「さずかる」大切なものだから、
   授かったことを喜び、無償の愛で育てたのです。


   そう考えると、そもそも、自分の命だって、「神様からの授かりもの」です。

   だから、「(自分の)命を粗末にするんじゃない」という発想になる。



   また、江戸の人たちは、「人間一生、物見遊山」と考えていたそうです。

   物見遊山とは、気晴らしに見物して遊び歩くこと。

   つまり、今でいう観光旅行。

   「生まれてきたのは、この世をあちこち見物する観光旅行のため」だ
   と考えていたから、食べられるくらい働いて、あとの時間は楽しんだ。


   私、この言葉、大好きなんです。

   せっかく、運よく、神様から授かった「命という時間」。

   大切にして、好きなことをして、楽しまなければ、もったいない!


   ちなみに、命を「授かりもの」というのに対して、
   お金のことは、「まわりもの」だと考えていました。

   ほら、「金は天下のまわりもの」という言葉がありますよね。

   お金は、貯め込むのではなく、使って、世の中に循環させるのがよいと。


   現代の成功者がよく言う、
   「お金を増やしたければ、貯め込んでいないで使いましょう」
   というようなことを、江戸庶民は、知ってか知らずか、
   すでに実践していたのです。

   なんだか、江戸の人たちは、現代人よりも、
   ものごとの本質をしっかりと、つかんでいたような気がします。

      <『「小さな幸せ」がたくさん見つかる50の物語』三笠書房
                   https://amzn.to/3OTFhLr >

              ・・・

幕末や明治に来日した外国人たちの「子ども」に対するこんな記述があります。


『明治時代の日本を旅したイザベラ・バードは、
 「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない」
 「(日本人は)子どもがいないといつもつまらなそうである」などと記しています。

 また、明治初期にアメリカからやって来たグリフィスは、
 「日本ほど子供の喜ぶ物を売るおもちゃ屋や縁日の多い国はない」といいます。

 さらに、
 「日本のどの町にも子どもを楽しませて暮しを立てている男女が、何十人もいる」
 とも述べています。

 明治初期に日本を訪れたチャールズ・A・ロングフェローは
 「僕の見たところ、日本の子どもは十一、二歳になるまでは、
 世界でも最も幸福な子どもに違いない」と言っています。』
          (日本は外国人にどう見られていたか/三笠書房)より


日本ほど、子どもが大事に扱われている国はない、と言っているのです。

しかし、昨今は、
子どもの虐待や閉じ込め、放置、など悲惨なニュースが飛び込んできます。

いずれも、「子どもは天からのさずかりもの」という、
日本に昔から根付いていた価値観が薄れてきてしまっているのを感じます。



また、日本人の気質についてはこう書いてあります。

『幕末にフランスから来たリュドヴィック・ボーヴォワルは日本のことを
 「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」と述べ、
 「日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。
  良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける」とも言っています。

 「上機嫌な様子がゆきわたっている」と日本人が幸福そうで
 しかも陽気だったという記述は、枚挙にいとまがない。』


まさに、陽気で上機嫌という気質は、
「人間一生、物見遊山」という価値観と一致します。

子どもを大事にし、仕事するときは勤勉に、
そして遊ぶときは徹底的に遊ぶという価値観。

人生を、陽気に、上機嫌で生きてゆきたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年7月15日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/07/17 (Sun) 06:56:08


     *『 生長の家 』(昭和25年12月26日の法語)より

   富はただ「心」だけで出て来ると思ってはならぬ。
   あらゆる形あるものは現実的な営みの過程を通して
   あらわれて来るのである。

   だから努力、精励、正直、組織的工作、誠実などの
   営みをぬきにして富が来るなどと思ってはならぬ。

   キリストは「野の百合(ゆり)は如何にして育ったかを思え」
   と教えているが、野の百合は働かないように見えるかも知れぬけれども、
   よくよく観察すれば、その静の中に上記の如(ごと)き
   諸徳を備えているのである。


   百合は全く正直であり、誠実であり、少しも欺(あざむ)くことなく、
   与えられた養分を忠実に吸収し、常に努力し精励し組織的工作を
   つづけているのである。

   1秒間と雖(いえど)も営みを止めないのである。

     http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12360768.html(消滅)

            <感謝合掌 令和4年7月17日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/07/18 (Mon) 07:53:00


      *『光明道中記(7月18日)』より抜粋


【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
  光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】

「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、
ひとり自室に招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒する
その深く切なる心遣いが禅なのである。

慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、
夜に慧能を訪れて法衣を譲ると、夜のうちに姿を隠して
落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが禅なのである。

茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、
割烹と言えば、料理をする手先の技巧だとのみ思い、
禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。

行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、
禅の悟りこそ生長の家の悟りである。

            <感謝合掌 令和4年7月18日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/07/19 (Tue) 07:18:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。

彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 令和4年7月19日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/07/20 (Wed) 07:34:48


      *『 理想世界 』(昭和42年7月30日の法語)より

   どんな疫病よりも、悪癖というものはその人の性格を滅ぼしてしまうのである。
   そして悪癖の習慣というものは、“最初の一回”の積み重ねであるのである。

   何人も最初の一回を慎めば、生涯悪癖に苦しむことはないのである。

   悪癖にまで誘惑する友達は、生活を蝕む道徳的ビールスの撒布者であるから、
   そのような友達から遠ざかるのが賢者の道である。

   あなたは賢者の道を歩め。

     http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

         <感謝合掌 令和4年7月20日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/07/24 (Sun) 07:34:43


      *「生命の實相」第7巻生活篇(P116~117)より

諸君よ、天地はじまって以来、
人間に最も多くの害を与えたのはこの「取り越し苦労」だ。

諸君よ、いっせいにこの愚かしき魔物を
この世界から追い出すために協力して立ち上がれ。

「取り越し苦労」の魔物を追い出すにはまず魔物の正体を見極めねばならぬ。

「心配したらなんとかなる」と知らず知らず人間が習慣的に思ってきた
この誤った考えの習慣を捨てねばならぬ。

心の眼にまざまざとこの「取り越し苦労」が
この世界に演じつつある惨害を見ねばならぬ。

釈迦は生老病死の四苦を心に観ることによって、
この娑婆世界から遠離したのだ。

われらは「取り越し苦労」に荒らされたる
この娑婆世界の惨状を観る事によって、
「取り越し苦労」の愚かさを捨てるであろう。

火だと知って握っていれば、大火傷を起こすまでに火は捨てられる。

もしわれらは火だと知らずに「取り越し苦労」を握っていれば、
われらが生命(せいめい)は無駄に焼け焦げてしまうまで
「取り越し苦労」を離さないであろう。

・・・

<参照>
MAG2NEWS(2016.02.01)
心配事・不安の96%は起こらないことが判明―アメリカの調査
https://www.mag2.com/p/news/143272

         <感謝合掌 令和4年7月24日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/07/25 (Mon) 08:56:46


      *『光明道中記(7月24日《万事謙遜に出来る日》)』より
       『光明道中記(7月25日《深切丁寧の日》)』より抜粋

 【驕慢とは「実相我」を隠蔽し「肉体我」を強調する誤れる自尊である。
                       (『生命の實相』第七巻)】


徳山和尚が円熟してそのまま素直に有難い境地になっていた頃の逸話は
『無門関解釈』に書いて置いた。

「碧巌録」の第四則に出て来る徳山和尚はその若い頃のことである。

徳山、姓は周氏、支那の蜀の人、大変な学者で、殊(こと)に「金剛経」に
精通していたので周金剛又は金剛王と云う別称(べつのな)を以て
人から称(よ)ばれていたほどの人である。

最初からの禅僧ではなく、当時支那の南方に禅学が盛んに行われていたので、
自分の「金剛経」の知識で悉く禅の道場破りをしてやろうと云う意気込みで、
笈(おい)にうんと「金剛経」の註釈書(ちゅうしゃくしょ)を入れて
旅立った。

ほう洲(ほうしゅう)と云う州まで行き、
その山の下で餅売(もちうり)の婆さんに
「おい、今その餅を食うからくれ」と言った。

その語調が如何にも高慢らしいので、餅売の婆さん、徳山和尚に言った。

「餅はあげないこともありませんが、私の問に対する答が出来なかったら、
 あげることは出来ません。『金剛経』の中(うち)に
 『過去は過ぎ去ったから無い。”今”と言って一定の時を捉えたら、
 それはもう過去になっているから無い。未来はまだ来ないから無い』
 とあります。

 あなたは『今』その餅を喫(た)べられませぬよ。
 あなたは其の餅を何時(いつ)食べるのです」

と訊いた。


物凄い勢いで、南支那一円の禅道場をかい撫(な)でに論破して歩こう
と思っていた青年気鋭の徳山も、
山の掛茶屋(かけちゃや)の餅売の婆さんに問答をし掛けられて、
眼を白黒させて、餅を食わないで逃げ出してしまった。

         <感謝合掌 令和4年7月25日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/07/26 (Tue) 07:26:46


       *『光明道中記(7月25日《深切丁寧の日》)』より抜粋
        『光明道中記(7月26日《光を内に見出す日》)』より抜粋

【大我は無数の個我を包容し生かしつつそれ自身は絶対的存在なのである。
 大我を「神」と称し、個我を「神の子」と称する。(『生命の實相』第九巻)】


徳山も、山の掛茶屋(かけちゃや)の餅売の婆さんに問答をし掛けられて、
眼を白黒させて、餅を食わないで逃げ出してしまった。

餅売の婆さんは彼を看送って、
「まだそんな事では修行は足らぬ。
 竜潭と云う偉い先生がいるから其処で修行せよ」と言った。

徳山は青年気鋭のその心の角がとれていない。
竜潭和尚のところへ行くと、早速例の癖が出た。

『竜潭竜潭と云うが、来て見れば何のことじゃ、竜も見えず、潭も見えず』
と大声に呼ばわった。

『汝親しく竜潭に到るや』

実にやわらかい親しみのある声が屏風(びょうぶ)の陰からした。

竜潭と徳山では段がちがう。
(心の眼を開けば此処が此の儘竜潭であり、竜宮城である。)
気鋭の徳山もまいってしまって礼拝せずにはいられなかった。

生(なま)さとりの者ほど偉そうに悟りを振り回すが、
悟ってしまった者は誰にでも慇懃丁寧(いんぎんていねい)に
挨拶することが出来るのである。

その慇懃丁寧の中に神が現れ、仏が現れているのである。

徳山も思わず竜潭を礼拝したのだ。

『夜に入って来られよ』と竜潭の優しい声がする。


徳山は、約束した通り夜になって竜潭(りゅうたん)をたずねて教えを受けた。
教えを受けて帰ろうとすると、竜潭は親切に弟子を見送って出た。
手には手燭(てしょく)を持って足許(あしもと)を照らしながらである。

「外は暗いから気をお着けなさいよ」と云って、竜潭は手燭を徳山に渡そうとした。

徳山はその手燭を受け取ろうとするとき、竜潭はフッとその手燭の火を吹き消した。

そこは黒暗々であった。
一切無であった。
差別界のものは、ただ相対的に斯く見えるだけであった。徳山は悟ったと思った。

         <感謝合掌 令和4年7月26日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/07/27 (Wed) 10:20:51


       *『光明道中記(7月26日《光を内に見出す日》)』より抜粋
        『光明道中記(7月27日《心の角を除去る日》)』より


【全体として調和した生活を営むのが「生長の家」の生活である。
                     (『生命の實相』第八巻)】

【観世音菩薩でも夜叉に対しては夜叉の形相を以て現れる。
                    (『生命の實相』第十五巻)】


その徳山の悟りが、どの程度のものであったかはその悟ったと称する直後、
為山(いさん)老師の法堂へ跳び込んで行って
『東より西に過ぎ、西より東に過ぎ、顧視(こし)して無無と云って出ず』
と碧巌録第四則にある記事で、略々(ほぼ)勘破(かんぱ)することが出来る。

碧巌録の編集者、雪竇(せっちょう)はこれを批評して
『勘破了也(かんぱしおわれりや)』と言っている。

悟ったほどのものがこんな乱暴な無作法なことをする筈はないのである。

徳山自身も『これは可(い)かぬわい』と気がついた。
そこで『威儀を具(そな)えて再び入(い)って相見(あいまみ)ゆ』とある。

挨拶を終わると、徳山は坐具(しきもの)を手にして、先ず『和尚』と言った。
問答の気合(きあい)である。――


為山老師は、問答の気合いを感じて、払子(ほっす)を取って泰然と構えようとするとき、
徳山は、『カーッ』と一喝すると、そのまま袖(そで)を払って法堂を出て往(い)った。

こんな事を禅の修行だとか、道場破りだとか思っている者があったりするから、
禅などと云うものは、吾々日常生活には何の関係もないことだと思いまちがえられ、
十年禅林にいて修行しても、実生活を生かす道を知らない。

禅臭い禅は何にもならない。禅が実生活に生きるのが真禅だ。

為山老師はその晩、弟子たちが集ったとき
『あの新参の若僧は何処へ行ったのかな?』と訊いた。

「風呂敷を背負ってどんどん向こうへ行きました」弟子の首座(かしら)が答えた。
これは甚だ善い回答である。

当たり前のことが当たり前に答えられるのが悟りである。為山老師は、

「徳山は頭が良いが気の毒なものだ。
 調和の中に真理があると云うことを知らないのだ。

 あれは独り偉がりであって、弧峰頂上に向かって
 草庵を盤結(はんけつ)して仏を呵(か)し、
 祖を罵(ののし)り去ることを始めるだろう』と嘆かれた。

呵(せめ)るのが禅ではない。丁寧深切 ―― 礼拝が禅である。

         <感謝合掌 令和4年7月27日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/07/28 (Thu) 06:56:27


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月28日)より

神のない快楽は、根を切った切花のようなものである。

やがてそれは打ち萎(しお)れ、どす黒い苦い苦しみに変わってゆくものである。

         <感謝合掌 令和4年7月28日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/07/29 (Fri) 07:09:17


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月29日)より

生長の家では、心と言葉と行ないとこの3つが一致しなければならないのである。

「イエス言い給う
 『なんじらも今なお悟りなきか。すべて口に入るものは腹にゆき、
  遂に厠に棄(す)てらるることを悟らぬか。
  されど口より出(い)ずるものは心より出ず、これ人を汚すなり』」と

「マタイ伝」第15章16節~19節にある。

またあるところでは

「主よ主よと言うもの必ずしも天国に入るに非ず、
 天の父の御意(みこころ)を行なう者のみ天国に入るなり」

ともイエスは言っている。

口先ばかりでも救われないし、行ないばかりでも救われない。

心が伴った言葉、心が伴った行ないでないと救われないのである。

         <感謝合掌 令和4年7月29日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/07/30 (Sat) 05:09:54


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月30日)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、やがてそれに自分が救われなくなり
落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に「最善の悔い改めは神の道を
一心不乱に前進して、今までありし罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」
と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、神の道に一心不乱に突き進むことを忘れて
いるのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、そして
それゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。
ある人が真理に対する理解を得たとする。そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除
することができたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、やがてその真理は自殺状態に陥って
自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。
真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために知らされたのだということを
知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、個々人として孤立した存在ではないという
ことである。われわれは自他一体の存在であるから、この世の中に一人でも不幸な人が存在する
かぎり、真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、その1本の歯にも
比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、自分を磔けにした人々の
幸福のために神に祈り、そして従容として十字架につくことである。
かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 令和4年7月30日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/07/31 (Sun) 05:07:53


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                        (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、仏が仏であり、始めから成仏しているのが
仏であり、衆生本来仏であると云う意味なども、この端的の語(ことば)の中に一切が
引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。
「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 令和4年7月31日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/08/01 (Mon) 07:28:16


          *「光明道中記」(8月の言葉)より抜粋

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。

先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。

心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

         <感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/08/05 (Fri) 07:38:13


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.07.28)より

   (社会医療法人石川記念会HITO病院、
    緩和ケア内科部長、大坂巌(いわお)氏の心に響く言葉より…)


  《感受性をみがく》(茨木のり子)

     自分の感受性くらい

     ぱさぱさに乾いてゆく心を

     ひとのせいにはするな


     みずから水やりを怠っておいて


     気難しくなってきたのを

     友人のせいにはするな

     しなやかさを失ったのはどちらなのか


     苛立つのを
 
     近親のせいにはするな

     なにもかも下手だったのはわたくし


     初心消えかかるのを

     暮らしのせいにはするな

     そもそもが ひよわな志しにすぎなかった


     駄目なことの一切を

     時代のせいにはするな

     わずかに光る尊厳の放棄


     自分の感受性くらい

     自分で守れ

     ばかものよ



   茨木のり子さんの詩です。

   いかがでしょうか?

   最後のばかものよという言葉は衝撃的な言葉です。

   日常の生活や仕事に忙殺されて、
   自分の感受性を大切にしていない私たちに喝を入れるようなメッセージです。


   私たちは,植物を育てるのと同じように、
   心や感受性にも水やりを怠ってはいけないという戒めでもあります。

   感受性とは自然に豊かになるものではなく、ていねいに育むもののようです。


   皆さんにとっての水やりはどのようなものでしょうか?

   音楽、映画、演劇、読書、旅行、食事,、スポーツなど感情を揺さぶられる
   ようなものであれば、どのようなものでもよいと思います。

   《なんといっても生きがいについていちばん正直なものは感情であろう。》
                (神谷美恵子『生きがいについて」より)


      <『がん診療における対話力をみがく』中外医学社>

         ・・・

本書は医療者向けの本ですが、医療者だけでなく、
対人関係に関わる多くの人たちに必要な、
「コミュニケーション能力を磨くため」の一冊です。
(実は、本書の中で私のブログ “人の心に灯をともす” をご紹介くださっています)


そのために必要なのが、以下のような項目だと大坂氏はいいます。


●聴く能力を磨く。

●声にならない声を聞く。

●言葉を磨く。

●伝え方を磨く。

●心を磨く。

●感受性を磨く。

●五感を磨く。

(以上、本書より)



《感受性を磨く》とは、感性を磨くことです。

感性とは、感じる心です。

そして、感じる心とは、感動する心でもあります。

感動とは、感じて動くこと。


理屈っぽくなると人は行動しません。

否定的になったときや、悲観的になったときも行動が鈍ります。

つまり、頭だけを磨き過ぎたとき、感性が鈍くなり、行動の渋滞が始まります。


逆にいうと、行動することによって、感性は復活します。

だからこそ、音楽、映画、演劇、読書、旅行、食事,、
スポーツなど感情を揺さぶられるような行動をすることです。


そして、茨木のりこさんの詩は…

「自分の機嫌ぐらい、自分で取れよ、ばかものよ」

ですね。


「感受性をみがく」という言葉を胸に刻みたいと思います。

・・・

<参照>

自分自身のことは、まったく見ていない可能性
伊勢ー白山 道(2022-08-01)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/fbc55d55e6d84f58964d03596be0d235

         <感謝合掌 令和4年8月5日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/08/08 (Mon) 11:47:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より

知的に知ることと、信仰的に知ることと、それを思念することとは、
いずれも別のことである。

知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。

知的に知り、同時に信仰的に信じながら、
なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。

思念は一種の実行であり、力であるのは、
油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。

科学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、
そして石油の存在を信念的に信じていてさえも
掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、

『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、
信仰的にそれを信ずるとも、神想観を修しなければ、
その実相の完全さが実現しないことがある。

道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。

真宗でも、どうしないでも救ってくださっている
阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。

         <感謝合掌 令和4年8月8日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/08/09 (Tue) 07:17:25


       *『幻の講話』森信三・著(第1巻)より
        メルマガ「致知BOOK」(2022.08.08)


わたくしたちが、自分の人生を真に充実して生きようとしたら、
結局「今日」の一日を、いかに充実していきるかということが、
最後の「秘訣」といってよいでしょう。

それというのも、人間の一生といいましても、
結局は一日一日の積み重ねの他ないからであります。

したがって、もし今日わたくしが、当然すべきであり、
かつやる気になればやれる仕事を、もししなかったとしたら、
それは結局明日に延ばすことになりましょう。

      (略)

ところが、一生といっても、
結局は一日一日の積み重ねの他ないわけですから、
その日の予定を翌日に延ばして平気でいるということは、
そういう人の仕事は、結局あの世へ持ち越しとなるわけであります。

すなわちその人の人生は、真の完成にはならないのであります。

随って一人の人生が、真に充実した一生になるかならないかは、
その人が「今日」一日の仕事を、
やり遂げるか否かによって分れるわけであります。

そしてそれを他のコトバで申しますと、
われわれの人生は、結局「今日」という一日の上に、
その「縮図」が見られるわけであって、

それが今日わたくしがテーマとして掲げた

「一日は一生の縮図なり」

ということになるわけであります。

         <感謝合掌 令和4年8月9日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/08/10 (Wed) 09:01:43


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが
自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。

邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものは
ついに天国に到ることができないのである。

「道」は
 ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、
太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

      <感謝合掌 令和4年8月10日 頓首再拝>

45:伝統 :

2022/08/11 (Thu) 09:12:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より

人間たちが互いに憎み合い、
互いに悪口を言い合うのがわたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、愛と讃め言葉の中には天国浄土がある
ということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。

ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、
自分を衛(まも)るために人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

      <感謝合掌 令和4年8月11日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/08/15 (Mon) 09:11:37


        *『幸福を招く365章』第3項(P61) より

「真の人間」としての生活は、「新たに生れ更(かわ)る」時にはじまる。

換言すれば、自己を物質的肉体的存在だと思っていた想念から脱却して、
「人間は年齢に縛られず、外界に支配されず、病まず、死せざる霊的存在であると云う
自覚の更正(うまれかわり)を得たときにはじまるのである。

それまでの生活は奴隷である。
何故なら彼らは何物かに縛られた自覚のうちに生活していたからである。

肉体にとっては年齢は問題になるが、
霊的実在たる自分にとっては、年齢は問題ではないのである。

霊が問題とすべきは、霊の本来性(ほんらいせい)なる無礙自在の特性を、
どの程度まで内部より開発し得たかという問題である。

肉体は「人間」ではなく霊が利用する道具である。

            <感謝合掌 令和4年8月15日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/08/20 (Sat) 06:47:10


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.08.19)より

   (佐藤伝氏の心に響く言葉より…)

   《毎日を「いい気分」で過ごす 「心のクセ」をつけよう》

   (自分にとって嫌なことがあったとしても、
    その出来事がどんなメッセージを発しているかを考えましょう)


   大切なのは、自分の周りで起きた出来事を
   「ゆかいだな」「楽しいな」と感じられること。

   毎日を「いい気分」で過ごす「心のクセ」をつけることです。


   そのためのコツがあります。

   それは「出来事の意味」を読み取ることです。

   「約束をドタキャンされた」 「急いでいるのに、交通渋滞に巻き込まれた」

   そんなときには、その出来事があなたにメッセージを送っていると考えるのです。


   「神様は、私にどうしろと言っているのかな?」 こう考えると、
   そのトラブルにもプラスの面が必ず見つかります。

   何かトラブルがあったら、
   「おっ、また新しい メッセージだ!」と思うと、
   心のスイッチが切り替わってニコニコできます。

   そして、ニコニコしている人には、
   さらにニコ ニコするような出来事がやってくるのです。


   《どんな出来事にも、 プラスの意味を 「見つけることができる!》

     <『なぜかうまくいく人の「秘密の習慣」』ディスカヴァー
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             ・・・

事実は一つしかありませんが、見方は二つあります。

たとえば「約束をドタキャンされた」とき…

一つは「なんだ、最低の人だな、今日はツイてない」と考えます。

もう一つは、「今日は、その人と会うと良くないことが起きたのかもしれない。
危険を回避するよう天が味方してくれたんだ。キャンセルされてありがたい」と
考える人もいます。


どちらの考え方がいいのかは言うまでもありません。

「ツイていない」と思えば、ツイてないことが次々起こります。

また、相手を最低の人だと思えば、モヤモヤ感や、ストレスもたまります。

結局、仏頂面で、不機嫌になります。


逆に、「ありがたい」と思う人は、ありがたいことが次々起こります。

そして、自分は神様に、守られているんだ、
「ありがたい」という気持ちがわいてきます。

また、自分は目に見えない大きな力によって、生かされていると
感謝する「おかげさまの心」。

結局、いつも笑顔で、機嫌がよくなります。


どんな出来事に出会っても、
そこにプラスの意味を見つけることができる人でありたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/08/23 (Tue) 08:52:17


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月23日)より

不満足さえも、またまことにありがたいことではある。
不満足があるので、われわれは信仰に志し、
真理に到達し、救われることができたのである。

不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、
「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。

陰極陽転の理は昭々として明らかである。
資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。
不足は増大の本である。

窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。
人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。

      <感謝合掌 令和4年8月23日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/08/24 (Wed) 06:21:18


       *Web:かんながら(2022年08月23日)より

芝居の中で人にバカにされる役だとしても、
バカにされた役者本人の心は傷ついていません。

だってバカにされたのは自分ではなく、
自分はバカにされる役を演じただけだから。

もし会社や仲間内で同じような経験をして、
いまだに嫌な感情を持ち続けている人がいたとしたら、
この事を思い出してください。

本当のあなたは何一つ傷ついていないということを。

この世は劇場で演じられている芝居そのものです。

あなたも僕も自分で決めた配役を引き受けて、
それを朝から晩まで演じています。


注意深く観察すれば、
社会の中での自分の行為が芝居だということがわかりますし、
あなたはそのことを心の深い部分で知っています。

ところが芝居の上演時間が長すぎて、事の全体が芝居だということを忘れ、
役柄と本当の自分が同一化してしまったのです。

いまでは一人で部屋にいる時も、その役に成りきって生きているのではないですか。


人生という劇場

芝居を演じることが問題ではありません。

社会という舞台では演技が必要だから。


しかしその役を自分だと信じてしまったことは問題です。
とても大きな問題です。

この状態を「夢を見ている」と言います。

そして人生は単なる舞台であり、
自分は役を演じていたにすぎないことを思い出すことを
「目覚め」と言います。


瞑想は舞台を降りる時間です。

だから大切なのです。

自己流でいいから、せめて朝晩の2回、そんな時間を持ちましょう。


朝は誰でもない人として瞑想し、今日もこれから舞台で演じるぞと決めます。

そうやって一日中、いつもの「自分」を演じ切って、
夜になったらその役を脱ぎ捨てるために瞑想します。

そんな時間が持てれば、ストレスなど溜まるはずがありません。

僕もいまだに習慣にしていますし、これからもそうだと思います。

仏像を見ると、どうやら彼らも常日頃から瞑想していたみたいですね。

正気を保つためにも大切な習慣です。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12311675.html

      <感謝合掌 令和4年8月24日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/08/26 (Fri) 06:45:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

      <感謝合掌 令和4年8月26日 頓首再拝>

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