伝統板・第二

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真の人間とは② - 夕刻版

2022/05/04 (Wed) 01:47:28

     *伝統板・第二「真の人間とは」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7025719


霊的人間と物質的人間

       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P80~81)より

『創世記』の第一章に説かれたる完全なる実相の霊的人間は毀れていないのに、
その第二章では人間をば、土の塵で造られた不完全なものと見ている、
これが最初の「迷い」、最初の「包み」(罪)なのであります。

なぜ、まよいであるかといいますと「実相」を悟らないからであります。
なぜ「罪」かといいますと、実相の上を「迷い」をもって
《ツツミ》隠しているからであります。

要するに、第一の最初の罪というのはなんであるかといいますと、
霊的実在を包み隠して、物質的存在と観、
霊的人間の実相を包み隠して物質的人間と観、

あるいは神の国を現世の次に来たる世界だと観、
吾人(ごじん)の物質的存在が終わらなければ
「神の国」へ誕生できないと観るがごとく、

「神の国」を今すでに《ある》永遠無変の世界だと悟らず、
「神なる人間」を久遠常住の存在だと悟らないことこそ第一の最初の罪、
キリスト教でいうならば「アダムの原罪」なのであります。


この原罪(第一の神性隠蔽)によって、人間をば「土の塵」
―― すなわち「物質的肉体だ」と観じ、世界をば物質的存在だと観じ、
自己を物質的存在だと見る限り、

肉体は各人互いに隔(はな)れ隔(ばな)れのものでありますから
そこに利己主義の萌芽を表し、物質は一見有限のものでありますから、
与えれば減るの観念を増長せしめ、
争闘、劫掠(ごうりゃく)、奪い合いを現出するに至ったのであります。

ここに

「実相の『神の子・人間』は
争闘、劫掠(ごうりゃく)、奪い合いを現にしていないのに、
現象人間は争闘、劫掠、奪い合いをなせる有様を表している」

というふうになってきているのであります。

        <感謝合掌 令和4年5月3日 頓首再拝>

《人間を物質だと思ってはなりません》 - 伝統

2022/05/05 (Thu) 04:55:46


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P175~176)より

人間は物質的存在ではなく霊的存在であって、
心によって萬(よろ)ずのものをあらわし、
又萬ずの物と関係をもち、万ずのものを引き寄せるところの主人公である
と云うことを知ることが「人生を支配する主人公」となる第一歩なのである。

人間を本来物質の塊(かたまり)であり、
アミーバから進化したところの猿の同族だ位に考えているならば、
やはりそれだけの力しか出て来ないのである。

人間を「物質」だと云う概念は、時間空間に制約されたる不自由な存在であり、
古くなれば脆(もろ)くなるものだと云う物質的属性を人間に連想せしめることになる。

そして心に思う通りにあらわれるのが、心の法則であるから、
そう云う考えをもっている限りに於いて、人間自身は脆(もろ)くなり、
老衰し黴菌に蝕まれ、病気となり、死を速めるのである。

        <感謝合掌 令和4年5月4日 頓首再拝>

《常にかわらぬ真物(ほんもの)の自分》 - 伝統

2022/05/17 (Tue) 05:01:06


      *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P286~287)より   

人間全体の「永遠不滅の原型」これこそが「本当の人間」であり、
「理念の人間」であり、「霊なる人間」であります。

肉体の姿は、その影のようなものであります。

影は《うつろい》ますけれども、真物(ほんもの)は永遠であって、
影が消えても消えても、又、その姿をあらわす力をもっている
のであります。

その真物(ほんもの<実相>)の人間が本当の自分であります。

常に変っている自分の肉体、それにも拘らず、
その「変っている肉体」を指して、
やはり「永遠に変らぬ自分」のように自覚せしめるのは
何故でしょうか。

それはその肉体の奥に、物質の奥に、
永遠の存在なる「真物(ほんもの)の自分」があるからであります。

人間が「肉体」だけのものなら「肉体」の成分が新生する毎に
「自分」でなくなるけれども、人間は「肉体」の奥にある「霊」であり、
常に易(かわら)らぬ「不滅者」であるからこそ新生や再生が可能なのです。

        <感謝合掌 令和4年5月16日 頓首再拝>

《肉体は生命の表現の座》 - 伝統

2022/05/19 (Thu) 05:07:16


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P69)より

人間を単なる物質的存在だと考えている限りに於て、
その人は物質に縛られている物質的奴隷であって、
完全なる解放を得ることは出来ないのである。

人間は霊的存在であり、
物質的な様相はただその表現であると云うことを先ず知ることが、
物質的束縛から超越出来る第一歩なのである。

人間は「神のコトバ」によって造られた神自身の最高表現であるのであるから、
その表現の「座(ざ)」として肉体をあらわすのである。

肉体は自己表現の「座」であって人間自身ではないのであるのに、
その肉体を「自分自身」であると思って把むところに、
自分で自分を「物質」と云う不自由な観念で自縄自縛してしまうのである.

        <感謝合掌 令和4年5月18日 頓首再拝>

超時空的存在が人間である。 - 伝統

2022/07/19 (Tue) 13:09:52


        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                       (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。

なかにも最もすぐれて、
後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と
青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。

人間とは形なき霊なる、
「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。

         <感謝合掌 令和4年7月19日 頓首再拝>

《人間は何であるか》 - 伝統

2023/02/16 (Thu) 07:35:04


           *「光明法語」(2月16日)より

人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。

それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。

肉体は『生きる力』が想念の活動を
組み合わせて創造(つく)ったところの産物である。

本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。

吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。

          <感謝合掌 令和5年2月16日 頓首再拝>

「真の人間」を自覚するには - 伝統

2023/05/07 (Sun) 07:31:45


         *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に
今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は
地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、
傲慢によってみずから傷つき、あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは
真に自由を得ることはできないのである。

しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって
苦しめられるようにはできていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、
それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。

だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。

自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時
あらゆる不完全は消え去り、不調和はなくなり、仏すなわち
いっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、
愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

           <感謝合掌 令和5年5月7日 頓首再拝>

「肉体」無し、「本当の自分」のみあり - 伝統

2023/07/23 (Sun) 08:37:12


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが

「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との截然(せつぜん)たる分離は、
南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、

「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」

とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは
「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
 やはり死んで四大に復帰するのですか」
などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
 また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
 そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

 月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
 没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、
車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 令和5年7月23日 頓首再拝>

「妙有の人間(真の人間)」は、具体的な仏身であり、金剛不壊身である - 伝統

2023/10/24 (Tue) 09:47:46


    *「光明道中記」(10月24日《本当に明るくなる日》)より 

【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。
                    (『生命の實相』第八巻)】

「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに
生長の家の新しき真空妙有の説き方があり、
それが驚くべき奇蹟をあらわし、

キリストの言ったところの
「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。

「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。

妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き
頼りなき存在の意ではない。

妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。

妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。

それは五官に触れ得ない故に
非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして
人間の真実性を補足するにくるしませる結果となったのである。

「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き
表現法(いいかた)でも尚足りない。

「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、

具体的な仏身であり、金剛不壊身である。

        <感謝合掌 令和5年10月24日 頓首再拝>

人間は決して「物」ではない、人間の胎児は神聖受胎である - 伝統

2024/03/02 (Sat) 12:26:24


      *「光明道中記」(3月2日《神聖受胎の日》)より

【受胎当初の卵細胞の直径は125分の1吋(インチ)であり、
 出時の胎児の身長は18寸半である。
 その生長は身長だけを見ても実に2312倍である。(『女性読本』)】


卵細胞の分裂と増殖と、それが一定の秩序の下に積み上げられ、
互いに連絡を保ち、一つとして余分のものなく一定の組織にまで
人間の胎児は構成せられる。

その驚くべき精密な計算によって成立つ人体を、
ただの物質的偶然による集合であると云う科学こそ一個の迷信ではないか。

人体はこれを養う栄養分とそれに供給される酸素がなくては
完全な運転は遂げることが出来ない。
それは機関車にはこれに供給する燃料と空気とがなければ
運転しないのと同様である。

而(しか)もその構造が極めて複雑で巧妙を極め、
容積小なる中で出来るだけ経済的に、
出来るだけ多量に必要分量の酸素を供給し得るように、

吾らの小さい容積の内部面積は、
凡(およ)そ長さ50m 、幅10m の矩形(くけい)に
等しい程もあると計算されている。

それ程に複雑な計算の基礎に成立つ人体が、
どうして物質の偶然の集合で出来るのか。

唯物論者は若しそのような複雑巧妙な力を「物」に与えるならば、
既にそれは「物」以上の《或るもの》を肯定しているのである。

「物」以上の《或るもの》を肯定する限り
唯物論は既に自己背反に陥っているのである。

人間は決して「物」ではない。

        <感謝合掌 令和6年3月2日 頓首再拝>

《人間を物質だと思うな》 - 伝統

2024/03/21 (Thu) 11:13:54


           *「光明法語」(3月21日)より

人間を物質だと思っている
 ―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。

物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。

人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。

          <感謝合掌 令和5年3月21日 頓首再拝>

「真の人間」は日々に新たに生まれる - 伝統

2024/04/08 (Mon) 10:34:39


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より

釈迦が生まれた日である。

しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。

なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

            <感謝合掌 令和6年4月8日 頓首再拝>

超時空的存在が人間である。 - 伝統

2024/07/19 (Fri) 11:52:01


        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                       (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。

なかにも最もすぐれて、
後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と
青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」
という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって
人間ではない。

人間とは形なき霊なる、
「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。

         <感謝合掌 令和6年7月19日 頓首再拝>

「死」は無い、本当の人間を観よ - 伝統

2024/07/23 (Tue) 10:58:19


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが

「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との截然(せつぜん)たる分離は、
南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、

「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」

とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは
「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
 やはり死んで四大に復帰するのですか」
などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
 また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
 そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

 月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
 没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、
車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 令和6年7月23日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻せ! - 伝統

2024/10/16 (Wed) 13:30:33


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月16日)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。

「真実の完全自己」を想念せよ。

「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 令和6年10月16日 頓首再拝>

《人間は何であるか》 - 伝統

2025/02/16 (Sun) 14:54:44


           *「光明法語」(2月16日)より

人間は肉体ではない。
肉体は《人間》の肉体である。

それなら人間とは何であるか、人間とは生命である。
『生きる力』であり、『愛する力』であり、『思考する力』である。

肉体は『生きる力』が想念の活動を組み合わせて
創造(つく)ったところの産物である。

本当の人間は、その想念し考えるところの本体なのである。

吾々が『悪』を想念することは、吾々自身が『悪』に成ることである。
想念とは生命の波であり、生命そのものが想念することによって
『想念するところのもの』になるのである。

           <感謝合掌 令和7年2月16日 頓首再拝>

「本当の人間」は決して病んではいない - 伝統

2025/04/10 (Thu) 12:24:26


           *「光明道中記」(4月10日)より抜粋
            ~幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば
縦横厚みだけの三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、
それは無限次元が三次元に減ぜられただけであって、
不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、
平面的存在の如く写真に写されているからとて、
その写真には健康者は健康として写っていると同様である。


ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば
其処に映し出された写真に映像ムラが出来たり、
ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が
現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)された場合に
不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

       <感謝合掌 令和7年4月10日 頓首再拝>

「真の人間」を自覚するには - 伝統

2025/05/07 (Wed) 13:24:58


         *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に
今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は
地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、
傲慢によってみずから傷つき、あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは
真に自由を得ることはできないのである。

しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって
苦しめられるようにはできていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、
それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。

だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。

自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時
あらゆる不完全は消え去り、不調和はなくなり、仏すなわち
いっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、
愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

           <感謝合掌 令和7年5月7日 頓首再拝>

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