伝統板・第二 2542907

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


心の法則④

1:伝統 :

2022/04/28 (Thu) 03:28:07

《自分の心の調子を整えましょう》

          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P21)より

何故(なぜ)あなたは或る人々に好意を有(も)ち、
又別の人々に好意をもたないでしょうか。

又、或る人々はあなたに好意をもち、
又別の人々はあなたに好意を有(も)たないでしょうか。

それは「類をもって集る」と云う法則によるのであります。

若しあなたが凡ゆる人々に好意をもつようになりますと、
凡ゆる人々があなたに好意をもつようになるのです。

また、或る人が或る事件に巻き込まれて不慮の災難を受けるのに、
また他(た)の人は同じく其の側にいながら
その事件に巻き込まれないのは、

やはり其の人それぞれの雰囲気や心の波長が
其の事件を「彼」から遠ざけ、又は近寄らせるのです。

結局、自分の環境も境遇も自分の精神の波長が
近づけ又は遠ざけるのですから、
責任は自分にあり、自分の心をよくするほかはありません。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「心の法則①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866994

(2)伝統板・第二「心の法則②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7203745

(3)伝統板・第二「心の法則③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7797617

        <感謝合掌 令和4年4月27日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/05/04 (Wed) 01:13:29


      *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P221)より

どんな隠れたる思いも、どんな秘密の思いも
悉(ことご)く「宇宙の心」には知られているのである。

それは「宇宙の心」に印象せられ、それが種となって
成熟する時が来れば形となってあらわれる。

だから汝を害する者は、汝の外にあるのではなく、
汝の内にあるのである。

何事も、自分自身の内にある想念を媒介としなければ、
自分の極めて側(そば)にあっても自分に
近接(ちかづ)くことが出来ないのは、

ラジオ放送の波が自分の極めて側(そば)にあっても
波長が合わなければ実際には現れて来ないのと同じである。

自分の内に類似の波長がある場合には、
その放送源が随分遠くにある場合にでも、
それを自分の身近に引き寄せて実現することになるのである。

        <感謝合掌 令和4年5月3日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/05/17 (Tue) 04:57:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月8日)」より

心で《もの》を造るのは心の法則に従うほかはない。

病気を治そうと思えば、治るような心になるほかはない。

人に頼んでも、金を払っても、そんなことでどうにもなるわけではない。

           <感謝合掌 令和4年5月16日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/05/20 (Fri) 05:04:52


     *「眞理」第2巻基礎編第6章(P117~118)より

楽天的な人々は、彼の行く処、彼の見るところ、到る処に、
歓喜と幸福とを見出し、すべての人々が彼に対して
好意をもっているかのように信じ、
すべての人々の美点のみを強調して見るのである。

かく信じて観るがゆえに、彼を取巻くすべての人々も亦、
実際に彼に好意をもってくれ、彼に対して深切に尽してくれるのである。

これに反して暗黒的な感情の持主は、自分自身の行く処、
見る処のすべてに不快と不幸とを見出すのである。

そして彼は自分の周囲のすべての人々の欠点を見出し、
それを心の内で批難する。

人々はその雰囲気を感じて彼に対して好意がもてなくなる。
そして何となく彼を批難し排斥したくなるのである。

彼が相手に対して与えたものを与え返されたのである。

           <感謝合掌 令和4年5月19日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/05/24 (Tue) 05:05:50


      *「理想世界」(昭和43年7月27日の法語)より

橋本徹馬氏の説く

“与えれば、与えたと同じ又は類似の結果が自分の運命の上に返って来る”

という原則は、仏教では因縁因果の法則と言われているところのものであり、

キリスト教では

「自己の量りたる秤りにて汝らも審かれん」とイエスの訓えている真理であり、

現代では「原因結果の法則」と称せられているものであり、

「心の科学」では
「平衡の法則」又は「動・反動の法則」と呼ばれているものである。

わかり易くいうならば、

良き種を蒔いたら、良き収穫が得られ、
悪しき種を蒔いたならば、悪しき収穫が得るということになる。

諸君は人類を救い、国家を救うところの
良き思想と行動の種子を蒔かなければならない。

           <感謝合掌 令和4年5月23日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/06/13 (Mon) 05:01:16

       *「真理」第9巻生活篇(P11~12)より

明るい心、其処から無限の善きものが生まれて来るのです。

これが心の法則の第一ヶ条です。


本当に明るくなるには、
自然にまかすことによって大安心を得なければなりません。

黒住教の教祖宗忠は次のように言っています。

「自然に任せたてまつり候(そうら)はば大安心に相成(あいなり)申候。
 先づは小子(しょうし)ども今の考え其所(そこ)にて、先年の心にては
 ただ一日(にち)もつとまり申さず候へども、有り難き事は近頃餘(あま)り
 つかれも無く御座(ござ)、明暮(あけくれ)楽しみとほしに
 御座候(ござそうろう)、時に一首、

    何事もただ楽しむにしくはなし、ねてもおきても天の心を

 天の心は直(ただち)に、我(わ)が一心(いっしん)也(なり)。
 天にしたがひ其の天命を楽しむ時は、向かう所みな天命とおもへば、
 恐れながら、天照大神(あまてらすおほみかみ)と心を一つに致し
 楽しむ時は、何処までも楽しみとほし也(なり)」

           <感謝合掌 令和4年6月12日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/07/05 (Tue) 15:33:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月5日)より

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注せよ。
なんじの欲せざる事物の上になんじの心を集注せいてはならない。

病を欲するならば、病の上に心を集注せよ。症状を気にかけよ。心配せよ。
しからばなんじの病は必ず増大すべし。
心をそれに集注するものが実現するからである。

多くの人々がなぜ不幸であり、不健康であるかの原因は、
好まないものにことさら心を集注して心配するからである。
なぜ、君は自己の欲せず希望せざるものの上に心を集注するのであるか。

幸福ならんと欲する者は、自己の幸福のみに心を集注せよ。
他の人の幸福のみに心を集注せよ。他の人の幸福を羨(うらや)んではならない。
幸福を羨む心は、幸福を否定し、抑制し、不幸を欲する心であるがゆえに、
みずから不幸を招くのである。

他人の幸福を自己の幸福と感じうるものは、自分が今いかに現実に乏しくとも、
他(た)のすべての人の幸福が自分自身の幸福であるがゆえに、
すでに豊かであるのである。

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注するとき念の創化作用によって、
ついにそれをこの世界に現実化するに至るのである。
なんじ、何を欲するや。これをまず自己自身に問え。

しかして、健康を欲するならば、
「われは完全なり健康なり。われは生命(せいめい)なり。
 われは神の子なり。われは永遠の存在なり。われは不老なり。
 われは何物をも羨まず。
 われは日々にいっそう、神の子の完全さを顕現するなり」

と常に精神を集注して念ずべし。

諸君が成功を欲するならば、常に偉大なる物のみを心に描け。
偉大を念ぜずして偉大になった者は一人もないのである。
小なる計画は人を魅(ひ)曳きつける磁石的力を有しないのである。

いやしくも失敗を予想するなかれ。しかし細心であれ。一歩一歩を大切にすべし。
大望を抱くものは日常生活に気をつけるのである。
気をつけることと、恐怖することはちがうのである。

将棋の木村名人のように一分一秒を大切にして、
しかも最後の勝利を前途に描く者はついに勝つのである。


心の法則を知らざる者は、健康を欲しながら病気を念じ、
成功を欲しながら失敗に精神を集注し、
すべて逆に逆にと心を使うから失敗するのである。

されば健康を欲し成功を欲するものは少なくともその基礎知識として勝利の常識として
わたしの「人生は心で支配せよ」の本一冊ぐらいは読んでおかなければならないのである。

・・・

<参照>

則天去私(2013年11月16日)
「人生は心で支配せよ」はしがき
http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1122148.html

           <感謝合掌 令和4年7月5日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/10/27 (Thu) 14:40:20


          *「光明法語(10月27日)」より

神の波長に合わぬと言っても、その場合、神が人間を罰し給うのではないのである。
光に対して眼をつぶっている者が「暗い」のは、神罰ではなくして、
理としてそれが出て来るのである。

そして「暗く」して打突(ぶつ)かり、頭を打って痛いと思って、その人が眼をひらいて、
そして方向転換するのは、神が頭をなぐったのではなくて、自分が頭をぶつけたのであり、
そして自然に眼がひらくのは、「理」として自然に来るのである。

これを「摂理」と言う。
不幸に出遇(であ)ったと思っている時に神の導きがある。

・・・

神罰ではない

          *「光明法語(10月28日)」より

病気をした為に神を知ったと言い、災難を受けたために神信心をするようになった。
これは神の導きであったと言う人がある。

これは摂理であり、「理」であり、神が自由意志をもって、導かんがために、
病気や不幸を課したのではない。

「理」にしたがって、心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれるのである。
眼をとじていれば暗いが、その暗いのは「理」に従って暗いのであって、
神罰によって暗いのではない。

暗くて頭を打つのも「理」にしたがって頭を打つのであって神罰ではない。

・・・

「理」は神から来る

          *「光明法語(10月29日)」より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。
しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、むしろ神御自身が
人間によって利用できるように「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。
神は「自由の本体」であるから変幻自在である。
しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

・・・

「理」に順応せよ

          *「光明法語(10月30日)」より

高圧電線に触れて傷つくのも、機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして
病気になるのは「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、食べすぎねば傷つくことはない。

・・・

心の法則に順応せよ

          *「光明法語(10月31日)」より

それと同じく「心の法則」と云う理によって起こる災禍や病気は、
神の肆意(しい=かってきまま)による神罰でないから、顧みて、自分が如何なる心を
もったかを反省し、理に逆らっていた心の持ち方を捨て、理に順応する心の持ち方に
心を転ずれば災禍や病気は治るのである。

何よりも今まで神の光に眼を瞑(ふさ)いでいた眼を開くことが大切である。
そうすれば暗がりにいて頭を打つ様な馬鹿らしい病気や災難は受けなくなる。
人を打つ心をもてば、自分が打たれる。

心の法則は何も難しい事はないのである。

            <感謝合掌 令和4年10月27日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/11/23 (Wed) 04:42:07


        *『 生長の家 』(昭和23年3月23日の法語)より

   すべての正直な仕事、人類のためになる仕事は、
   それが感謝の念をもって行われるとき、それは尊き祈りであり、
   その祈りによって彼自身の運命も祝福せられるのである。

   自己のみに利益が得られ、
   それによって他の者が損害を受けるような仕事は、
   一時その人の運命がよくなるように見えても、

   結局はその人自身の運命を
   目に見えぬ世界から毀して行きつつあるようなものである。


    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13227795.html?type=folderlist(消滅)

            <感謝合掌 令和4年11月22日 頓首再拝>
10:伝統 :

2023/01/28 (Sat) 18:32:36


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2023.1.27)より

最近話題となっている動画で、TikTokなどにあげられている、
ホームレス女性への“嫌がらせ動画”があるそうです。

支払いをしてあげるフリをして
ホームレスの女性をコンビニに連れて来て、会計直前に逃げる様子や、
同じホームレス女性に突然男性が飲み物を吹きかけたりする内容です。

こうした行為を平気でするのは、ホームレスの方を見下したり、
馬鹿にしたりする思いがあるのでしょう。

ですが、彼ら彼女らも当然、同じ人間であり、
今、嫌がらせをしている人たちも、
いつ同じような境遇に陥るか分からないのです。


ある比較的若く成功され、お金持ちになった人がいました。

その方はヨットを保有して、
綺麗な女性の方を何人もつれて、よく出かけていました。

その方は、若くしてお金持ちになったせいか、
真面目にコツコツ働く人を、見下したような態度を見せたりしました。

しかし、ある時から急に姿を見せなくなります。

話によると、借金が膨らんで、夜逃げしたそうなのです。

おそらくどこかでひっそりと暮らしているか、
ホームレスになっているのかも知れません。


いくら成功したり、お金持ちになったりしていても、
人を見下すような事をしていては、
いずれ周りまわって本人に返っていくのです。

言っても分からない人、
ご自身でも同じような境遇になって見ないと分からない人は、
厳しい体験をして、肌身で体験することになります。

今世では逃げおおせたとしても、来世では必ず報いを受けます。

因果の理法からは誰も逃れられなくて、
必ず相応の報いを受けなくてはなりません。

人を見下したり、嘲笑する罪というのは、
大変厳しい報いがありますので、厳に慎まないといけません。

ここを読まれているみなさんも、ぜひ気を付けていただきたいと思います。

https://www.spacebrothers.jp/2023/01/blog-post_27.html

           <感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>
11:伝統 :

2023/01/31 (Tue) 04:57:33


          *「真理」第9巻生活篇(P12)より

心に太陽を輝かすことが、万物生成の本源を養うことになるのです。

明るい心で仕事をすれば能力は伸びるし、能率は挙がるし、
適当な良き智慧は湧き出て来るし、どんな訥弁(とつべん)の人でも
滔々と言いたい事を発表することができるのです。

仕事をするときに懸命に働くことは必要ですが、
仕事があまり忙しいために心の窓を開くことを忘れてしまっては
よくないのです。

仕事の合間合間には明るいレクシリエーションが必要です。
ユーモアを楽しむ心は窮屈な人生に余裕と光を与えるものです。

近頃の漫画ブームはその要求に応じたからでしょう。
そこに破顔一笑の心の窓から、わずか一条の光でも
差し込まそうとするのが漫画でしょう。

心の憂鬱を笑いで吹き飛ばすだけの能力と智慧とは
此の忙しい人生には是非必要なものです。

         <感謝合掌 令和5年1月30日 頓首再拝>
12:伝統 :

2023/02/10 (Fri) 07:04:27


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。

かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。

「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」

「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。
 僕はこれから君を打ってやる!」

殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。

と、たちまち野村さんの方が起ち上がって
その修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。

やがて野村さんは元の座へ還って来て、
何事もなかったように別の修行者と話していた。

野村さんが打たなかったら、
野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので
修行者が打たれたのあった。

打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。

相手の気魄が強ければ、
それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。


阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、

釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に
相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。

阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。


そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。

「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、
 傷みはありませんね。」

修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。

「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。
 痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」

恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。

「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。
 人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
 『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。
 五官は心の痛みを映すものだ」

『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。

そしてわたしが他の修行者と話しているうちに
その修行者はどこかへ姿を消してしまった。


野村さんの捌(さば)き方と、
わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。

野村さんが道場に出れば
「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。

ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。

相手を愛しなければ、
公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。

「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と
忠告する人があると、

「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。

           <感謝合掌 令和5年2月10日 頓首再拝>
13:伝統 :

2023/03/06 (Mon) 07:32:20


      *「光明道中記」(3月6日《苦しみ無き日》)より

【お産の時の苦痛は、心の働きであって本来無いものであります。
                     (『女性読本』)】

「創世記」の第三章で、智慧の樹の果(み)を食べた
アダムとイブとは、神から与えられたままの自分を羞(はず)かし
として無花果の葉を綴(つづ)ってそれを蔽(おお)ったのである。

与えられたままのお産は無痛分娩のほか何物でもなかったのである。

ところが自然の儘にまかせて置いたならば不安であると云うので、
病気でもないのに妊娠すると医師に骨盤を測って貰う。
その骨盤の寸法が小さいと言って人工流産をして貰う人がある。

これが無花果の葉を綴って本来の「無痛分娩の相(すがた)」を
蔽って了ったことである。

そうするとエホバ神(此の章のエホバ神は《心の法則》の化身である)
は人間をエデンの楽園より逐出(おいだ)し

「我大いに汝の懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、
 汝は苦しみて子を産まん」と宣言せられたのである。

エデンの楽園よりの追放は「心の法則」によるのであるから、
楽園の奪還もまた「心の法則」によって成就するのである。

エホバ神の此の宣言以来人類は
「女性は苦しみて子を生むより仕方がないものだ」と
思われていたが楽園が奪還されて無痛にて安産し得る。

妊娠間もなく骨盤の寸法を測って見て、
骨盤が狭いから人工流産しなければならぬなどと思うな。

妊娠の経過中内分泌(ホルモン)の作用によって骨盤の関節は
蛇の顎(あご)の関節の如く開き易くなる。

        <感謝合掌 令和5年3月6日 頓首再拝>
14:伝統 :

2023/04/02 (Sun) 04:59:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

            <感謝合掌 令和5年4月1日 頓首再拝>
15:伝統 :

2023/04/27 (Thu) 07:50:20


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.4)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   私は目の前に三人の人がいたら、
   その人たちの肩の荷がおりて、しあわせで豊かになれる
   ような話をするように心掛けています。

   東京の新小岩にある「ひとりさんファンの集まるお店」に立ち寄ったとき
   でも同じように、そこにいる人がしあわせで豊かになれるような話をします。

   相手が一人だろうが一〇〇〇人だろうが、まったく変わりません。

   同じ気持ちで話をします。


   ところで、私の話を聞いた人は
   一緒に豊かになった気になるけど、じつはそうじゃないんだよね。

   ほんとうに豊かになるのは私です。

   なぜかというと、豊かな種を蒔いたのは私だから、
   その実を刈り取るのも私なんです。


   だれかが、その人の畑で種を蒔いているのを見て、
   自分の畑にも芽が出ないかなって思っても、芽が出るわけないよね。

   それと同じこと。

   聞いた人の心が軽くなるような、
   そのしあわせの種を蒔いたのは私だから、私が刈るんです。


   みんなは私から聞いたことを、
   私と同じように世間に蒔かない限り、刈り取ることはできないの。

   つまり、行動に移して種を蒔かないと芽は出ない。

   私と知り合っただけで、何かいいことがあると思ってる人がいるけど、
   それだけでいいことはありませんよ。

   あるとしたら、私から聞いた話をきっかけに、
   その人自身が行動をして種を蒔いたとき、
   初めてそれを刈り取ることができるんです。


   私が1000坪分の「麦」の種を蒔くと、1000坪分の「麦」がなるし、
   1万坪なら1万坪分の実がなります。

   畑では耕作放棄することができますが、
   私たちの人生というところでは、いいことも悪いことも、
   蒔いた種は必ず刈り取らないとダメなんです。


   多くの人が勘違いしているのは、
   ひとりさんの話を聞いてしあわせになった気がするっていうけど、
   それで確かにあなたはしあわせになったのかもしれません。

   でも、それは私の蒔いたものなので、
   それを刈り取るのは私なんです。

   それを他の人が刈り取ることはできないんです。

   だから、しばらくしたらふたたび落ち込んで、
   「また聞かせてください」ってくるんだよね。


   しかし、何回でも聞かせてあげることはできても、
   自分で種を蒔くことをしないと、何も刈れません。

   他人の畑をずっと観察していて、
   それで何もせずに自分の畑も収穫できると思っていたら大間違い。

   せっかく、しあわせの種をもらったんだとしたら、
   それを自分で蒔いて、自分で育てましょうね。

     <『地球は「行動の星」だから、動かないと何も始まらないんだよ。』
                          サンマーク出版>

       ・・・

どんなにいい講演を聞いても、
ほとんどの人は会場のドアを開けて、一歩外に出た途端、
講演の内容を忘れてしまう、という。

まれに、次の日覚えていても、「いい講演だったね」で終わってしまう。


だからこそ、その講演の中のたった一つでもいいから、
それを行動に移さない限り、その講演は自分の身にならない。

そのとき、大事なことは、
その講演の内容を自分の身に置きかえてみること。

自分の商売や、仕事、活動に置きかえ、
そこに自分の個性にのっとったオリジナルを付け加えること。

そうすると、それが自分だけの独創となる。


どんなに素晴らしい成功話でも、
それはその人のやり方であり、自分ではない。

自分だったらどうするか、という想像力を働かせること。


「自分が蒔いたものしか刈り取れない」

という言葉を胸に刻みたい。

          <感謝合掌 令和5年4月27日 頓首再拝>
16:伝統 :

2023/05/01 (Mon) 05:01:40


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月1日)」より

お山のつつじが真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花びらの降りそそぐ世界、この世界がそんな美しい世界だと知ったとき
わたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である。」釈迦のこの哲学が真実であるならば、
心の法則を知ることは三界を自由に動かし、
運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」キリストのこの信仰が真実であるならば、
信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、肉体を思うまま健康にし、心に思うまま
法悦と歓喜と平和を満たすところの唯一の鍵であるといわなければならない。

心の法則なるかな。信念の法則なるかな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

          <感謝合掌 令和5年5月1日 頓首再拝>
17:伝統 :

2023/05/08 (Mon) 05:03:13


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月8日)」より

心で《もの》を造るのは心の法則に従うほかはない。

病気を治そうと思えば、
治るような心になるほかはない。

人に頼んでも、金を払っても、
そんなことでどうにもなるわけではない。

           <感謝合掌 令和5年5月8日 頓首再拝>
18:伝統 :

2023/05/31 (Wed) 09:08:17


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月31日)」より

心の法則にせよ、物質の法則にせよ、
いずれも反対の方向に働くことができるのである。

同一の力が自動車を前方にも後方にも動かす。
磁気の陽極は惹き、陰極は反撥する。

ある種の想念と感情は建設的創造的であって、
友そのほか助けとなる力を呼ぶ。
これとは全然反対の効果を生ずる想念および感情もある。

それは誤解と争いと悪意とを創る。
この種の想念感情を消極的であると言うのである。
破壊的沈滞的で個人の進歩を妨げるからである。

実際失敗する人は、
好ましくない状態を作り出す方向に
心の法則を働かしているのである。

次に述べる箴言はメンタル・サイエンスの箴言であって
算術の法則と同じに信頼のできる基本的な法則であり、
さっそくあなた自身にも適用されるものなのである。

すなわち

「今日貴下(きか)の生活の中にある好ましくないもの、
 貴下の健康・幸福・成功を妨ぐるものは、
 その好ましいものと同様に、あなた自身が心の法則に
 働かしめてみずからそれをもたらしたからそこに存るのだ」

ということである。

些細な事件、不慮の出来事、損失または利得、結婚したり離婚したり、
その他人生に起こるすべてのことの背後にはある見えざる力があり、
その見えざる力が具象化しつつあるのである。

その見えざる力は実は自分自身が起こした想念の力なのである。

諸君は想念の法則によって動いている宇宙に住んでいて、
そこで想念の法則が、あたかも物理的法則が星の運行を支配するがごとく、
諸君の運命の運行を支配しているのである。

「想念の法則」とは「因果の法則」ともいい、
現在意識すなわち自覚ある心の思想、感情、希望に常に応えてくれる
宇宙普遍の心、阿頼耶識の働きを言うのである。

これは神の働きまたは「真如縁起」ではない。
阿頼耶識の働きである。
次に主観心の説明を試みる。


阿頼耶識は心理学上の潜在意識にほぼ一致するものであるが、
もっと広義に用いられる。

夢の状態で活動する心、習慣の背後にある心、タイピストや音楽家の指に
眼があるかのごとく働くその指を通して働く心である。

それはわれらの生命(せいめい)の内部にあって
われわれの身体を母胎にいる間から創造した心である。
そして今もその心は再創造を続けているのである。

阿頼耶識が浄化されてアンマラ識となるとき
真如実相の智慧に近づくのである。

それが真如実相の智慧に近づくにしたがい、
肉体を創造する力は完全となるのである。

われらの肉体細胞は日々死んでいるのであって、
新しい細胞と組織とを創造し、
生活過程で消耗したものと取り換えつつあるのであって、
その再創造が、浄化された阿頼耶識によって導かれるとき、
肉体の再創造は完全となり、健康なる肉体が創造せられる。

これに反して阿頼耶識が浄化されないとき
肉体の再創造は不完全となり病気となるのである。

           <感謝合掌 令和5年5月31日 頓首再拝>
19:伝統 :

2023/07/05 (Wed) 06:44:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月5日)より

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注せよ。
なんじの欲せざる事物の上になんじの心を集注せいてはならない。

病を欲するならば、病の上に心を集注せよ。
症状を気にかけよ。心配せよ。
しからばなんじの病は必ず増大すべし。

心をそれに集注するものが実現するからである。

多くの人々がなぜ不幸であり、不健康であるかの原因は、
好まないものにことさら心を集注して心配するからである。
なぜ、君は自己の欲せず希望せざるものの上に心を集注するのであるか。

幸福ならんと欲する者は、自己の幸福のみに心を集注せよ。
他の人の幸福のみに心を集注せよ。

他の人の幸福を羨(うらや)んではならない。
幸福を羨む心は、幸福を否定し、抑制し、不幸を欲する心であるがゆえに、
みずから不幸を招くのである。

他人の幸福を自己の幸福と感じうるものは、
自分が今いかに現実に乏しくとも、
他(た)のすべての人の幸福が自分自身の幸福であるがゆえに、
すでに豊かであるのである。

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注するとき
念の創化作用によって、ついにそれをこの世界に現実化するに
至るのである。

なんじ、何を欲するや。

これをまず自己自身に問え。

しかして、健康を欲するならば、

「われは完全なり健康なり。われは生命(せいめい)なり。
 われは神の子なり。われは永遠の存在なり。われは不老なり。
 われは何物をも羨まず。
 われは日々にいっそう、神の子の完全さを顕現するなり」

と常に精神を集注して念ずべし。

諸君が成功を欲するならば、常に偉大なる物のみを心に描け。
偉大を念ぜずして偉大になった者は一人もないのである。
小なる計画は人を魅(ひ)曳きつける磁石的力を有しないのである。

いやしくも失敗を予想するなかれ。
しかし細心であれ。一歩一歩を大切にすべし。
大望を抱くものは日常生活に気をつけるのである。

気をつけることと、恐怖することはちがうのである。

将棋の木村名人のように一分一秒を大切にして、
しかも最後の勝利を前途に描く者はついに勝つのである。


心の法則を知らざる者は、健康を欲しながら病気を念じ、
成功を欲しながら失敗に精神を集注し、
すべて逆に逆にと心を使うから失敗するのである。

されば健康を欲し成功を欲するものは
少なくともその基礎知識として勝利の常識として
わたしの「人生は心で支配せよ」の本一冊ぐらいは
読んでおかなければならないのである。

・・・

*谷口雅春先生の著書「人生は心で支配せよ」については、
次のWebも参考になります。

<参照Web:則天去私「人生は心で支配せよ~はしがき」
       http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1122148.html

         <感謝合掌 令和5年7月5日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/08/09 (Wed) 11:20:25


        *メルマガ「川島和正」(2023.8.7)より

世の中には、多くの人から愛されている人もいれば
多くの人から冷たくされている人もいます。
 
そして、冷たくされている人はその原因がわからず
「私はついていない」とか
「私は厳しい環境にいる」とか
「私の周りの人は性格悪い」なんて
被害者意識を持っていたりするものです。
 
 
しかし、多くの人から冷たくされる人には原因があります。
 
どんな原因かというと
その人自身が、周りの人に対して冷たくしているということです。
 
冷たくするというのは、具体的には
無関心だったり、思いやりが無い態度をしたり
相手の意見を尊重しないということです。
 
周りの人に対して冷たくするから
周りの人から冷たくされることが多くなるのです。
 
 
ですので、もっと自分のことを大切にして欲しいと思うのであれば
まず自分が周りの人を大切にする必要があります。
 
まず自分から
笑顔で声をかけたり、手助けをしたり
イベントの提案をしたりするのです。
 
 
「自分はマイペースだけど周りの人は自分を大切にすべき」とか
「先にお前が俺に親切にしろ」という王様的価値観だと
人間関係はうまくいきませんので
くれぐれも気をつけたほうがいいですね。
 

また「自分は人に対して十分温かい」と思っていても、

結果として自分が冷たくされているのであれば
温かさ不十分ということですので
もっと人に温かくなった方がいいですね。
 
         <感謝合掌 令和5年8月9日 頓首再拝>
21:伝統 :

2023/09/26 (Tue) 08:46:35


    *「光明法語」(9月26日)より

大生命は流れるが、どんな形に流れさせるか。
大生命は創造するが、どんな形を創造させるかその形を決定し、
創造されるものの姿を決定するのは、自分の感情であり、想念である。

それは類似の波長は共鳴し、相牽(あいひ)くと云う法則に随って、
明るき感情は明るき想念を呼び出し、明るきものを創造せしめる。

暗き感情は暗き想念を呼び迎え、暗きものを創造せしめる。

一瞬時と雖も暗き感情をもつ事は罪悪である。
罪悪とは本来の明るい姿をツツム事である。

       <感謝合掌 令和5年9月26日 頓首再拝>
22:伝統 :

2023/10/31 (Tue) 11:09:09


          *「光明法語(10月31日)」より

それと同じく「心の法則」と云う理によって起こる災禍や病気は、
神の肆意(しい=かってきまま)による神罰でないから、

顧みて、自分が如何なる心をもったかを反省し、
理に逆らっていた心の持ち方を捨て、

理に順応する心の持ち方に
心を転ずれば災禍や病気は治るのである。

何よりも今まで神の光に眼を瞑(ふさ)いでいた眼を開くことが大切である。

そうすれば暗がりにいて頭を打つ様な馬鹿らしい病気や災難は受けなくなる。

人を打つ心をもてば、自分が打たれる。

心の法則は何も難しい事はないのである。

          <感謝合掌 令和5年10月31日 頓首再拝>
23:伝統 :

2024/02/03 (Sat) 11:52:41


      *「光明法語」(2月3日《気が短いのでは可(い)かぬ》)より

「与えれば与えられる」と云う法則は
直ぐ覿面(てきめん)にあらわれて来るものもあるが、
必ずしも直ぐ結果が現れないこともある。

電燈はスイッチを捻ればすぐつくが、
水力電気や火力電気の設備を構築するのは一夜に出来た事ではない。

電燈がスイッチ一つでつくようになったのは、
それらの発電設備や配電設備が、多くの与えられた労力の蓄積として
「天の倉」に蓄えられているからである。

麦は一夜にしては実らない。卵も一夜にしては孵化しない。

すべての形の世界に現れるのは時間を通して現れる。
気が短いようなことでは可(い)かぬ。

         感謝合掌 令和6年2月3日 頓首再拝>
24:伝統 :

2024/02/05 (Mon) 10:37:35


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.6.8)より

   (ジャック・キャンフィールド 氏の心に響く言葉より…>

   子どものころを思い出してください。

   たぶん、テストで高得点をとった回数、コンクールで入賞した回数、
   少年野球でヒットを打った回数など、
   価値があると思ったものの数を数えたはずです。

   しかし、年をとるにつれて他の人と比べるようになり、
   自分に対して批判的になった可能性があります。


   あなたは大人になって自分の欠点や間違いに
   意識を向けるようになったのではないでしょうか。

   もちろん、そういうネガティブなことに気づくのは
   悪いことではありません。

   それは反省し向上するうえで不可欠です。


   しかし、自分の欠点や間違いを強調するあまり、
   それに意識を集中するのはいいことではありません。

   何かに意識を向ければ向けるほど、それを引き寄せます。

   これは「引き寄せの法則」と呼ばれ、
   意識的かどうかは別として、誰もがしていることです。


   問題は、多くの人が自分の過去の失敗に意識を向けていて、
   ますます多くの問題を引き寄せてしまっていることです。

   それに対し、自分の過去の成功に意識を向ければ、
   自信と自尊心が高まって、うまくいくようになります。


   《自分の強みに意識を向ければ、 それはますます伸びる。
    過去の成功に意識を向ければ、 今後ますます成功する。》

   <『あなたの潜在能力を引き出す20の原則と54の名言』ディスカヴァー>

       ・・・

「何かに意識を向ける」ということは、そこにチャンネルを合わせるということ。

斎藤一人さんは、大事なことは、テレビのチャンネルと同じで、
天国というチャンネルへどれだけの長い時間、チャンネルを合わせおく
ことができるかだ、と言う。

怖いことや、心配ごとがあったりすると、
我々はそこにチャンネルを合わせてしまう。

ホラーや怖いドラマを見るのと同じだ。

ぞっとしたり、暗くてネガティブな気分になる。

それが、地獄というチャンネル。


一人さんの言葉の中に、『天国言葉』と、『地獄言葉』がある。

『天国言葉』とは、
ついてる、うれしい、たのしい、感謝してます、しあわせ、ありがとう、ゆるします。


『地獄言葉』とは、
ついてない、不平不満、グチ・泣きごと、悪口・文句、心配ごと、ゆるせない。


天国へチャンネルを合わせるとは、この天国言葉を使うこと。

地獄へチャンネルを合わせるとは、この地獄言葉を使うこと。

天国言葉や地獄言葉を使った時間だけ、
天国や地獄とチャンネルを合わせることになる。

すると、合わせたチャンネルを現実に引き寄せることになる。

「引き寄せの法則」だ。


自分の長所(強み)と、短所(弱み)もこれと全く同じ。

「選んだチャンネルを引き寄せる」という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和6年2月5日 頓首再拝>
25:伝統 :

2024/03/29 (Fri) 11:25:08


    *「光明法語」(3月29日《平和なる眠りを得るには》)より

吾々は原因結果の法則の世界に生きているのである。
その原因は他から来るのではなく、自分から来るのである。

吾々が人々を愛すれば人々から吾々は愛されるのである。
人々に与えれば人々から与えられるのである。
吾々が人々を賞賛すれば人々から賞賛されるのである。

愛は愛を呼び、憎みは憎みを呼ぶ。
奪うものは奪われ、殺す者は殺される。

眠るときに愛念を起して眠れ、
感謝の念を起して眠れ、
明日の事を神にまかせて眠れ。

決して争いや、心配の心で眠るな。

          <感謝合掌 令和6年3月29日 頓首再拝>

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.