伝統板・第二 2559493

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祈り(7)

1:伝統 :

2022/03/25 (Fri) 06:47:17

徒らに祈りを反復するな

           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。

・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示・第一「祈りとは」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1417 (消滅)

(3)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014(消滅)

(4)伝統板・第二「祈り」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818447

(5)伝統板・第二「祈り(2)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7543475 

(6)伝統板・第二「祈り(3)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7738427

(7)伝統板・第二「祈り(4)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7866654

(8)伝統板・第二「祈り(5)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7980268

(9)伝統板・第二「祈り(6)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8139198

           <感謝合掌 令和4年3月25日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/03/26 (Sat) 07:03:12


           *「光明法語」(3月26日)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

           <感謝合掌 令和4年3月26日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/04/01 (Fri) 06:37:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

            <感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/04/08 (Fri) 07:34:56


        *「光明法語」(4月8日)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

            <感謝合掌 令和4年4月8日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/04/09 (Sat) 07:17:10


         *「光明法語」(4月9日)より

また神はすべてのものの内にましますが故に、すべてのものに感謝し、
それを讃(ほ)めたたえることは偉大なる祈りである。

神に感謝しても万物に感謝しえないものは、
真に全く神に感謝しているのではないのである。

ただ神に対する祈りは、神の表現である「万物」に対する祈りよりも、
尚一層直接的であると言い得るのである。

されば吾々は毎日或る一定の時間は神に対して
心を完全に振り向ける祈り(神想観)を行事なければならぬ。

それと共に神の表現である万物に感謝しなければならぬのである。

            <感謝合掌 令和4年4月9日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/04/10 (Sun) 07:47:01


         *「光明法語」(4月10日)より 

神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。

若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。
またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。

親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。

神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。

これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。

            <感謝合掌 令和4年4月10日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/04/11 (Mon) 07:28:31


         *「光明法語」(4月11日)より 

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

            <感謝合掌 令和4年4月11日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/04/12 (Tue) 08:12:46


         *「光明法語」(4月12日)より 

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。

            <感謝合掌 令和4年4月12日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/04/16 (Sat) 03:31:29


        *「光明法語」(4月16日)より

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

            <感謝合掌 令和4年4月16日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/04/17 (Sun) 07:23:19


        *「光明法語」(4月17日)より

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。

            <感謝合掌 令和4年4月17日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/04/22 (Fri) 08:50:09


       *『 生長の家 』(昭和23年3月14日の法語)より

   顔を洗う時にも、神に感謝せよ。
   和解するとは感謝することである。
   先ず神に和解しなければならない。

   洗面の水を汲んでは、

   「 神よ、あなたの創造(つく)り給いし水に感謝致します。
   わが顔を洗う事は
   過去に過ちて人を憤り 憎み 恨みたりし 不快な思いを
   悉(ことごと)く洗い流して、
   新しく悦びに満ちた生活を始める象徴として感謝します。

   水は 神の愛の現(あらわ)れであります。
   この愛に浴せしめたまいて わが生活を浄め給え。

   この水によって わが皮膚が美しく清らかに保たれます事を感謝致します。」

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13146472.html?type=folderlist(消滅)

            <感謝合掌 令和4年4月22日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/04/24 (Sun) 10:36:59


       *『 生長の家 』(昭和23年3月15日の法語)より

   顔を剃る時もその剃刀(かみそり)に感謝せよ。

   「 この剃刀は 神の愛と智慧との表れでございます。
   之によってわが容貌が美しく保たれ
   清々(すがすが)しい気持を蘇生(よみがえ)らせて頂きます。

   この剃刀の切れ味は、神の智慧の現れでございます。
   顔に‘ふき’出物もなく美しく滑かなる皮膚は
   神の愛の現れでございます。」


   眼を洗っては

   「この眼は 神様の光を見る眼でございます。
   もっと多く神様の光を拝ませて頂く様に
   心の眼を開かしめ給え。

   如何なる複雑なる物の奥にも
   神の愛が満ちている事を見せしめ給え。」

            <感謝合掌 令和4年4月24日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/05/04 (Wed) 07:47:45


       *「光明法語」(5月4日)より

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

            <感謝合掌 令和4年5月4日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/05/06 (Fri) 09:32:11


       *「光明法語」(5月6日)より

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、
時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、
祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

            <感謝合掌 令和4年5月6日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/05/07 (Sat) 11:18:43


         *「光明法語」(5月7日《内在の神の道具となれ》)より

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。

自己の内に神が宿っているのであるから、
常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)をなくならせて、
ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

            <感謝合掌 令和4年5月7日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/05/14 (Sat) 10:25:26


         *「光明法語」(5月14日)より

祈りというものが短時間の言葉で神に所謂(いわゆ)る「祈り」を捧げるものであると
思うのは間違いである。

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、

「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。

            <感謝合掌 令和4年5月14日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/05/15 (Sun) 09:35:10


         *「光明法語」(5月15日)より

「常の祈り」が大切である。

所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。

            <感謝合掌 令和4年5月15日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/05/18 (Wed) 10:15:10

       *「光明法語」(5月18日)より

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。

常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。

仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。

かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

            <感謝合掌 令和4年5月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/05/19 (Thu) 09:53:15


          *「光明法語」(5月19日)より

食事のときには、

「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
 我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」

と念じて食せよ。

飲料をとるときには

「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」

と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは
唾液の中に毒素をつくり、それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

            <感謝合掌 令和4年5月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/05/28 (Sat) 11:45:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月28日)」より

われわれの魂の底なる希望を実現する祈りを、
紙に書いて神に訴えるようにする時、
その祈りの実現性がいっそう多くなるということは
グレン・クラーク教授の著書の中にも書かれている事実である。

生長の家の信徒の中にも欲する事物を紙に書いて
壁面に掲げ置き、常にそれを眺めて、
そのすでに成就せる有様を心に描いて感謝する気持を起こしているとき、
その希望が成就せる実例はずいぶんたくさんあるのである。

ある婦人は一大難関に出会(でくわ)して、
人間力ではどうしてよいかわからない時、
突如として神に頼もうという感じが湧き起こり、
神に対して手紙を書きはじめたのである。

「神よ、あなたは無限智であります。無限愛であります。無限力量であります。
 あなたは無限の愛をもってわたしを導いて下さいます。
 あなたは無限の智慧をもって
 わたしがこの難関を切り抜ける道を教えて下さいます…」

それから具体的な問題をこまごまと
その神様に送る手紙の中に書きはじめたのである。

すると、自分一人でどうしようかと思いまどう心の騒ぎが
しだいに落ちついてきて、神とともに、その事件について対処する道を
考えているような安らかな気持になってきたのである。

そのうちに事件の全貌がハッキリしてきた。
何が問題の重要な部分であるか、何が問題とするに足りない部分であるかが
ハッキリしてきたのである。

その神への手紙を書いているうちにはまだ完全にその問題は解決せず、
解決の緒(いとぐち)が見えていただけであったが、
その3日後にはすべてのことが順調に進行して万事解決したのである。

病気の時に神にこれに類する手紙を書いて、
急に病気が快方に向かった実例があるのである。

神に手紙を書くことによるこれらの功徳が起こる原因は、
それを書いているうちに心が完全に神に向かうことになるからである。

そして「吾れ神と偕(とも)に在り」という自覚が起こってき、
そのために心の平和が回復し、神の叡智に波長が合うようになってき、
したがっていっさいの問題が順調に解決するようになるのである。

ただ、祈っているだけでもむろん効果があるのであるが、
15分間以上も雑念なしに完全に神に心を振り向けて祈ることは
やや困難な人が多いのである。

しかし手紙を書くとなれば、30分はおろか1時間以上も
神に対して心を集中することができる。

そのために神との一体感がいっそう起こりやすく、
効果もそれに従って多いのである。

           <感謝合掌 令和4年5月28日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/05/29 (Sun) 10:17:46


        *「光明法語」(5月29日)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

           <感謝合掌 令和4年5月29日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/06/08 (Wed) 10:20:53


        *「光明道中記」(6月8日)より

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
自由自在の境涯になる。           (『生命の實相』第一巻)】 
  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますようにあなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

           <感謝合掌 令和4年6月8日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/06/14 (Tue) 07:07:48


        *『 生長の家 』(昭和23年3月16日の法語)より

   食事の時の祈り方は 『 生命の實相 』 地の巻の巻頭にある。
   併し必ずしも一字一句あの通り祈らなければならぬと云うのではない。

   起床でも、洗面でも、髭剃りでも、食事でも、
   それを機会に神様の徳を讚え、神様に感謝する念を起すが好いのである。

   「 宇宙の大気と光線と土壌とから、
   この美しく美味なる食物をつくり出し給いし
   神の不思議な力に感謝致します。

   種子、太陽、土壌、雨、農人、悉く神の愛の現れでございます。
   神とこの食事を造りたまいし人々に感謝致します。」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13158902.html?type=folderlist(消滅)

           <感謝合掌 令和4年6月14日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/06/17 (Fri) 07:21:12


       *「光明道中記」(6月17日)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、
 却(かえ)って魂の平和を失う。(『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。

人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、
使い方によっては又悪ともなるのである。

「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが
如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、
それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
 そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

           <感謝合掌 令和4年6月17日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/06/19 (Sun) 07:34:11


       *『 生長の家 』(昭和23年3月17日の法語)より

   出勤の時、電車に乗っても 其の電車に感謝するのである。
   かくの如く凡ゆる機会を 神に対する感謝の機会とするのである。

   かくて、その人の生活全体が 「 祈り 」 となり
   「 念仏申す心 」 となるのである。

   「 この電車は 神の愛と、智慧と、吾々を生かしたまう力との
   表現(あらわれ)でございます。神の法則がこの電流の中に行われ、
   それによって電車が動いているのです。

   私がこの電車に乗ることによって、
   私は神の智慧と愛と生命とに直接接触しているのです。

   この電車を動かす偉大なる力は私の中にも流れているのです。」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13161387.html?type=folderlist(消滅)

           <感謝合掌 令和4年6月19日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/06/21 (Tue) 07:19:27


       *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)より抜粋

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。
                     (『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。

その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ
吾等は祈るべきである。

           <感謝合掌 令和4年6月21日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/06/23 (Thu) 07:27:49


       *『 生長の家 』(昭和23年3月18日の法語)より

   車中の群衆に もまれながらも祈れ。

   「 これらの群衆は皆神の子であり、吾々の兄弟である。
    その一人一人は神から与えられた尊き使命を果さんがために
    今 此の車中にいるのである。

    ある人は人類に驚くべき祥福を与えるための使命をもって行く途中である。

    神よ 此等の人々を祝福したまえ。

    此等の人々が皆 無事で幸福に目的地に達することが出来ますように。
    また この電車に故障がありませんように。

    これらの人々の家に残っている家族たちが皆な幸福で健康でありますように、

    神よ 彼らに祝福を与えたまえ。 」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13216454.html?type=folderlist(消滅)

           <感謝合掌 令和4年6月23日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/06/24 (Fri) 07:20:47


        *『 生長の家 』(昭和40年3月22日の法語)より

   神は無限の善であり、無限に完全なる智慧であり、無限に完全なる生命であり、
   無限に完全なる供給であり、無限に完全なる調和であり、

   一切処(いっさいしょ)に充ち満ちていられる遍在者であるならば、
   その神は“ 各人の内 ”にも遍在してい給うことは明らかであるのである。

   神の恵みは遍在して既に“ 各人の内に ”あるのに、
   殊更(ことさら)に祈り求めなければならないというのは何故であろうか?

   神の恵みは譬(たと)えばラジオの放送電波のように、
   何処にも、空間いたるところに充ちているのである。

   しかし放送はあり、電波は自分の体の中までも達しているのに、
   それでもそれを受信し得ない人があるのは何故だろうか。

   自分のラジオ・セットを放送電波に波長を合わせないからである。

   それと同じく、神は既にあらゆる恵みを遍在的に放送していられるのに
   私たちが霊的に波長を合わさないときは、それを受信することができないのである。

   祈りは、自分の心のひびきを調律して神に波長を合わせる方法であり、
   神に懇請(こんせい)、懇願(こんがん)して、神を説得する方法ではないのである。

   だから 既に与えられている恵みに感謝の念を起す神想観が最も正しい祈りである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

           <感謝合掌 令和4年6月24日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/07/03 (Sun) 07:35:08


       *『 生長の家 』(昭和46年10月14日の法語)より

   イエスは、祈りについて 幾つかの範例を示していられるのである。

   『 マタイ伝 』 第六章七節には、

   「 また祈るとき、異邦人のごとく徒(いたず)らに
   言(ことば)を反復(くりかえ)すな。

   彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり、
   さらば彼らに倣(なら)うな、

   汝らの父は 求めぬ前(さき)に、なんじらの必要なる物を知りたまう 」

   とイエスは教えていられるのである。


   神は、我らが求めぬ前(さき)に、
   必要なるものを知っていられる ー これが実相なのである。

   単に知っていられるだけではなく、
   既に与えていられるのである ー それが実相なのである。


   だから 「 与えてくれていない 」 と思って、
   余程くどくどと繰返して懇願しなかったならば

   屹度(きっと)与えられないだろうと思って、
   自分の直面している困難についてクドクドと繰返して申述べねば、
   神さまは聴いて下さらないだろうなどと思って

   「 言(ことば)多きによりて聴かれる 」 のだろうと思って
   祈るのは、外国人の迷信的祈りである。


   本当の祈りは、既に 我らのなくてならぬものを
   悉(ことごと)く完全に与えたまうている実相を確認する
   “ 感謝の言葉 ” を唱えるのが最も完全な祈りなのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 令和4年7月3日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/07/19 (Tue) 07:28:54


        *『 生長の家 』(昭和49年4月2日の法語)より

   【 祈り 】

   【 私は毎日 常に 自己が“ 神の子 ”であり、自己の内に無限の可能性を有し、
   常に一層 ゆたかに 健全に その可能性が 現実化するのである。

   わたしは 此の事を念じ 唱え 信ずるが故に
   わが希望する一切の善き事は 必ず 実現するのである。 】

   あなたの職業が何であろうと、今いるあなたの位置が何であろうと、
   あなたは今の時点に於いて、
   あなたでなければ創造することの出来ない個性ある価値創造をなすために、
   神の生命と智慧と愛とが噴出するための 噴出口であるのである。

   謂(い)わば、神の個性ある自己実現の中心なのである。

   それ故、自己の無限の可能性を信じ、その可能性が、あらゆる事物について
   健全なる方向に発揮されるようこの祈りを、
   毎日、寸暇を利用して 瞑目して 深呼吸の如く深く静かに息しながら
   数回宛(ずつ)念ぜられるがよい。

   言葉は その繰返しによって 一層 深く 潜在意識に印象せられ、
   宇宙の潜在意識にそれが感応せられて、
   それを実現するために 宇宙のあらゆる要素が あなたを中心に寄せ集められて、
   ついに 祈りの言葉の通りが 具体化することになるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

           <感謝合掌 令和4年7月19日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/07/30 (Sat) 07:03:48


        *『 生長の家 』(昭和26年5月1日の法語)より

   祈りは、吾が内在の神が、宇宙の大神に近づくところの道である。
   即ち「神の子」が「親様」へ霊交するところの方法であるのである。

   祈りによって、神の感情を和(やわ)らげ、神から御利益(ごりやく)を
   懇請し得るのだと思ってはならないのである。

   祈りによって吾々の魂が神に振向けられ、
   自分の魂の波長が神に志向することによって神の波長に同化されて来、
   神を変化するのではなく、自分の心境が変化せしめられ、

   それによって心の法則に随(したが)って、
   現象的御利益もあらわれて来るのである。

   神を説き服(ふ)せ、甘言(かんげん)によって誘惑して、
   神を動かし神から御利益を得ようと思ってはならない。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

           <感謝合掌 令和4年7月30日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/08/29 (Mon) 12:24:09


       *「光明法語」(8月29日)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は

「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
 心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く
 容易く感ずることが出来る」

と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは

「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも
他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

           <感謝合掌 令和4年8月29日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/08/30 (Tue) 06:49:44


       *「光明法語」(8月30日)より

カレル博士は言う、

「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
 祈る人は他の人々の為に祈る。

 この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
 即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

 謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、
 富める人々や、知識ある人々よりも、その可能性が一層ある。
 祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は
病いを心の描くから却って癒えないのである。

           <感謝合掌 令和4年8月30日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/10/10 (Mon) 09:48:54


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月10日)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。
   破壊的なことは正しい願いではない。

(2)だれかを豊かにすることであるか。
   (だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)

(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

(4)この世に混乱を起こしたり、
   だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、
それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。

そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ
実現の途上にあると信じてよいのである。

           <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/10/12 (Wed) 07:39:50


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする
自力の行は断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって仏陀(さとり)の境地に達しようとした。
併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

・・・

相対的祈りと絶対的祈り

          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 令和4年10月12日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/10/13 (Thu) 06:55:31


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月13日)より

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、
必ずしも完全に効果を挙げることができないのである。

キリストが

「もし芥子種ほどの信だにあれば
 この山に動いて海に入(い)れと言うといえども必ず成らん」

といった所以である。

           <感謝合掌 令和4年10月13日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/10/14 (Fri) 07:34:45


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月14日)より

ラジオが鳴り出すのは、
ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、
ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、
神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つること
あたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、本当の祈りによって
その心境になったとき現実世界に、
その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

        <感謝合掌 令和4年10月14日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/10/15 (Sat) 07:23:25


          *「光明法語(10月15日)」より

天の父われに在(いま)してみ業(わざ)を成し給う式の祈りは、
天の父のみ業の荘厳極(きわま)りなく美しき事を認め、
ただ讃(ほ)め称(たた)えるだけで好いのである。

観と讃嘆である。

此の種の祈りは長時間やってもつかれる事はない。
天の父の無限の力が流れ入って却って心
気爽快、再生の思いがするものである。

聖書によれば、イエスは
常に暁方(あけがた)に山に入って長時間祈っていたらしい。

彼はそれによって力を得、実際病いを治す時には、
「神が成し給う」と思うだけで、
祈りもしないで、「起ちて歩め」と言ったようである。

         <感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/10/22 (Sat) 07:53:36


          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。

「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、
祈りに志向性はつきものである。

自分の願いがないならば「祈る」必要はない ―― と考えるのは間違いである。


「祈り」と云うものは、「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。

だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

         <感謝合掌 令和4年10月22日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/11/15 (Tue) 07:21:12


       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

         <感謝合掌 令和4年11月15日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/12/01 (Thu) 04:14:43


        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

            <感謝合掌 令和4年12月1日 頓首再拝> 
42:伝統 :

2022/12/08 (Thu) 07:39:56


       *「光明法語」(12月8日)より

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。

わたし自身の本来のものでない願いを、
わが胸より去らしめ給え、わが心を浄め給え。

わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように    
                      <今日の祈り>


自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。

そして自分のものでないものを憧れ求め、
それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。

ああ迷える人々よ。

       <感謝合掌 令和4年12月8日 頓首再拝> 
43:伝統 :

2022/12/11 (Sun) 08:18:38


      *「光明法語」(12月11日《私のために奇蹟を求むな》)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

         <感謝合掌 令和4年12月11日 頓首再拝> 
44:伝統 :

2023/03/24 (Fri) 12:44:04

正しい量子力学的な祈り、とは何か?
伊勢ー白山 道(2023-03-24)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/96ed2da35145d9a5baa71f4546199659

        <感謝合掌 令和5年3月24日 頓首再拝>
45:伝統 :

2023/03/25 (Sat) 05:06:27


           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である

        <感謝合掌 令和5年3月25日 頓首再拝>
46:伝統 :

2023/04/01 (Sat) 05:04:18


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

        <感謝合掌 令和5年4月1日 頓首再拝>
47:伝統 :

2023/04/07 (Fri) 04:59:23


      *「光明法語」(4月7日《神と實相のみを愛せよ》)より

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。

父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

        <感謝合掌 令和5年4月7日 頓首再拝>
48:伝統 :

2023/04/08 (Sat) 05:03:36


      *「光明法語」(4月8日)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。

祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、
直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、
神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

        <感謝合掌 令和5年4月8日 頓首再拝>
49:伝統 :

2023/04/10 (Mon) 05:05:28


      *「光明法語」(4月10日)より

神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。

若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、
自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。

またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。

親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。

神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。

これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。

        <感謝合掌 令和5年4月10日 頓首再拝>
50:伝統 :

2023/04/11 (Tue) 05:00:34


      *「光明法語」(4月11日)より

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

        <感謝合掌 令和5年4月11日 頓首再拝>

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