伝統板・第二 2556704

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真理の生活 ⑬

1:伝統 :

2022/02/20 (Sun) 04:01:48

凋落の兆し

        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月20日)」より

伸びることを忘れた時に凋落が始まる。

樹木を見て、その真理を悟れ。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

(10)伝統板・第二「真理の生活 ⑩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8164957

(11)伝統板・第二「真理の生活 ⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8209345

(12)伝統板・第二「真理の生活 ⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8238335


・・・

<参照1>

光と影の法則

     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2010-06-01)より

   (セラピストの心屋仁之助(こころやじんのすけ)氏の心に響く言葉より…)

   ある人は、どんどん努力して、みるみる成功していった。
   すべてが順調、順風満帆の状態になっていった。

   芸能人でいうならば、売れて売れて、女優との噂が持ち上がり、
   寝る間もないほど忙しくて、まるで光り輝いている状態だった。

   しかし、「そういった飛ぶ鳥を落とす芸能人の多くが、
   その後どうなるか、みなさんはご存知でしょうか」

   待ち受けているのは、離婚、子供の事件、仕事のトラブル、詐欺…。

   「強烈な『光』を浴びれば浴びるほど、
    その反対側に強烈な『影』ができるのは自然の摂理です。
    それは法則として、人間界にもそのまま当てはまるのです」

   「光」を追い求めているときは「影」の存在を否定するために、
   人生全体のバランスが崩れ、
   そのバランスを取ろうとして「影」がさらに大きくなるのだ。

   夫がポジティブになると、パートナーである妻は、
   バランスをとるかのようにどんどんネガティブになることがある。

   その妻が最後はどうなるのかというと、
   夫に対して冷たい態度をとったり、無関心になる。
   それも「無意識に」。

   理由のわからない夫は、妻に冷たくされたと感じ、批判したり攻撃したりする。
   すると、よけいに妻の態度が硬化していく。

   子供も、「やることが遅い!」「勉強ができない!」
   と親やまわりの人から「光」ばかりを求められると、
   病気になったり、自分よりも弱い立場にある「ほかの子どもを攻撃する」こともある。

           <『光と影の法則』経済界>

                ・・・

人気絶頂の芸能人が、
意外に、家庭や人間関係ではうまくいっていないことが多い。

今が旬の芸能人が、
売れない時期の貧乏生活を支えてくれた奥さんと離婚した、
などという話は枚挙にいとまがない。

スポットライトを浴びれば、人気者という「光」の存在となり、
後方で支えてくれる奥さんはますます「影」の存在となる。

もちろん、仕事一筋でほとんど家に帰ることができず、
子どもの教育に関与できない家庭でも、うまくいっているところはたくさんある。

しかし、そういう人の仕事は、華やかとか、光を浴びるものではなく、
地味で世に知られないものであることが多い。

「光と影の原則」、「陽と陰の原則」は色々な場面で成立する。
陽があれば、必ず陰もある。
目立つ人は、ほとんどの大多数の人が目立たないからこそ際立つのだ。

支えてくれている人たちがいるからこそ、自ら光輝くこともできる。

影や裏方の存在に感謝できなくなったとき、人の輝きは失われる。
いっときの成功でスポットライトを浴びたからと、有頂天になるのは見苦しい。

晴れの日、雨の日、嵐の日でも、
いつも裏方で支えてくれた人がいることを忘れてはいけない。

・・・

<参照2>

伊勢ー白山 道(2022-02-17)
自分の苦労を周囲に知らせたい自分なのか?
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9f3fd038a1690f1573118c88af705c02

          <感謝合掌 令和4年2月20日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/02/21 (Mon) 04:42:39


         *「生長の家」(昭和25年8月20日の法語)より

常に汝の最高の理想を生きるべく心掛けよ。 
理想に対って突進する者は常に人生に喜びを感ずることが出来るのである。 

常に全力を出し切って理想に突進する事が大切である。 
実行して行くうちに、自分に内在する力が徐々に発現されて来るのである。

理想と云うものは前方にぶらさがっているように見えていても
前方にあるのではなく、自分の内部にある内容を、前方に投影して、
それを実現するべく引出して行くのであるから、理想を実現するための努力は
結局、自己の内部神性を発現するための努力となっているのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=25

          <感謝合掌 令和4年2月21日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/02/22 (Tue) 04:53:28


          *「真理」第9巻生活篇(P164)より

あなたの現象の心の花園には色々の美しい花咲く樹草も生(は)えていますが、
その中には美しくない雑草もあれば、薬草も生(は)えています。

現象界は一種の遊戯(ゲーム)の世界であって、実在ではないから、
仮に雑草もあれば、毒草(どくそう)もあり、美しい草花もあれば、
立派な果樹もあるように見せてあるのです。

そして誰が、下らぬ雑草や毒草を出来るだけ実らせないで、
よき草花とよき果樹を上手に育てるかの点数取り《ごっこ》をしているのです。

それを遊びわける標準のゲージとして「実相」があるのです。

実相の良い標準(ゲージ)に随って、雑草や、毒草を早く抜き取って、
よき草花とよき果樹とを早くそだて上げたものが、
より多く人生のゲームに於いて点数をとるのです。

こうして、「実相」の既にある完全さを地上に実現するゲームが、
現実人生であります。

          <感謝合掌 令和4年2月22日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/02/23 (Wed) 08:03:24


          *「真理」第9巻生活篇(P165)より

野球の試合でも卓球の試合でも、そのゲームにでる選手は、出来るだけ
自分の動作がルールにかなった而(しか)も完全優秀な技となり
採点の多くなることを願うでありましょう。

人生のゲームの採点は、どれだけ実相の完全さを現象のゲームに
実現い得たかのよって点数が決まるのです。

そして此の世に生まれ出た人は、実相界から現象界のゲームに選手として
選ばれて来たのであって、リーマニアから日本へ卓球選手としてやって来た
位の軽い責任ではないのです。

それなのに何故(なぜ)人々はもっと真面目に、真剣に、実相の模範に
照らして其の生活を送って、実相の見地から採点多くなるように
つとめないのでしょうか。

ではそうずればよいのでしょう。

「みこころの天になるが如く地(現象界)にも成らせ給え」と
祈って神の叡智を身に受けて行動するがよいのであります。

          <感謝合掌 令和4年2月23日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/02/25 (Fri) 04:02:11


        *『 生長の家 』(昭和40年3月19日の法語)より

   若し人間が、本当に 「 実相 」 の完全さを自覚して、
   更に心が本当にその完全さにのみ集注することができるならば、
   病気も無くなり、悪癖、悪習慣もなくなり、貧乏もなくなり、
   一切の不調和は消えてしまうことになるのである。

   一切の不調和がまだその人の運命、境遇、環境、家庭等から消えないのは、
   その人が本当に「 実相 」の完全さを自覚していないか、
   たとい自覚していても、心が「 実相 」の完全さにのみ集注しないで
   道草を食っているからである。

   私たちは「 実相 」以外のものに、「 神の国 」以外のものに、
   心を止めて道草を食ってはならないのである。

   「 神の国 」( 実相 )以外のものに心を止めて道草をくっているものは、
   「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 という
   訓(おし)えを守っていないことになるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

          <感謝合掌 令和4年2月25日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/02/26 (Sat) 05:02:15


      *『 生長の家 』(昭和24年3月20日の法語)より 

   一体、人生を 「 享楽(きょうらく)する 」 とは
   如何なることであるか。

   真に神から与えられたる天分を享(う)け楽しみ、
   それを伸ばして行く喜びこそ
   本当に 「 人生を享楽する 」 ことである。

   徒(いたずら)に官能の喜びに魅惑され
   自分の天分を遂行し得べきエネルギーを浪費してしまうのは、
   人生を享楽することではなく、人生を浪費することである。

   それは人間が五官を支配するのではなくして、
   五官の奴隷になることである。

   いやしくもこの世界に於て、群をぬいて、
   神の子の完全なる姿を実現せんとするものは、
   五官の奴隷になってはならぬ。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/85b12df2e85c7c6a75e0cd30e10a5f61

          <感謝合掌 令和4年2月26日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/02/27 (Sun) 04:33:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、それは高遠な哲理の表現であるからである。
病患部に対し神想観をして、「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえない
のだ」と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在すると理論体系「生命の実相」を
自分の心のうちに蓄積する者は、病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を
征服して光明の人生と化しうる。

           <感謝合掌 令和4年2月27日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/02/28 (Mon) 04:55:50


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と広告をしているのだし、
ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と広告しているのである。
膨れっ面は、不平な人を広告しているし、泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

           <感謝合掌 令和4年2月28日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/03/02 (Wed) 05:02:10


           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

           <感謝合掌 令和4年3月2日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/03/03 (Thu) 04:45:47


           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

           <感謝合掌 令和4年3月3日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/03/06 (Sun) 01:52:42


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

           <感謝合掌 令和4年3月6日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/03/07 (Mon) 03:45:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 令和4年3月7日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/03/08 (Tue) 07:54:33


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 令和4年3月8日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/03/09 (Wed) 06:17:21


           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

            <感謝合掌 令和4年3月9日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/03/18 (Fri) 07:57:46


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 令和4年3月18日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/03/22 (Tue) 06:42:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月22日)」より

人を心で憎むことと、人の悪口(わるぐち)を言うこととは、
短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。

善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。
善人よ、みずから省みよ。

われわれは人の善悪を測る標準を変えなければならぬ。

            <感謝合掌 令和4年3月22日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/03/24 (Thu) 07:07:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より

わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。

わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。

わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。

わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。

この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。

            <感謝合掌 令和4年3月24日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/03/27 (Sun) 07:57:27


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 令和4年3月27日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/03/28 (Mon) 06:49:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月28日)」より

人間が心配していることは、すべて小さな重要でないことについてである。
真に重要なことの前には人間はかえって大胆に勇敢になるものである。

戦場に出れば人間はもう心配などしている暇がない。

心配していることそのことが、おん身の考えている事柄が
じつに小さな採るに足らぬことであることの証拠である。

これを知ったらあらゆる心配が消えてしまうであろう。

            <感謝合掌 令和4年3月28日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/03/29 (Tue) 06:46:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月29日)」より

損失を恐れるものは損失の奴隷となり、
損失に蹂躙(ふみにじ)られて滅ぼされてしまうであろう。

損失は本来ないこと、損失のごとく顕われて見えるものも、
必ず本当は収穫への道行きであることを知ることは智慧である。

過去の傷害についてクヨクヨ思い煩う者は生命を摩り減らす。
クヨクヨ思い煩う暇があるならば、
未来の光明について希望と空想をもつべきである。

希望は実現の母。
心に描いて待つものは必ず成就する。

待つ間に心を掠(かす)める「不安」が事を毀(こわ)すのである。
「不安」は蒔いた種子(たね)を毎日掘り返してみる働きである。
かかる農夫に培われる植物は育たない。

            <感謝合掌 令和4年3月29日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/03/30 (Wed) 07:02:14


           *「光明法語」(3月29日)より

吾々は原因結果の法則の世界に生きているのである。
その原因は他から来るのではなく、自分から来るのである。

吾々が人々を愛すれば人々から吾々は愛されるのである。
人々に与えれば人々から与えられるのである。
吾々が人々を賞賛すれば人々から賞賛されるのである。

愛は愛を呼び、憎みは憎みを呼ぶ。
奪うものは奪われ、殺す者は殺される。

眠るときに愛念を起して眠れ、感謝の念を起して眠れ、明日の事を神にまかせて眠れ。
決して争いや、心配の心で眠るな。

            <感謝合掌 令和4年3月30日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/03/31 (Thu) 07:10:39


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年12月29日)より

(1)この世というのは、舞台のようなものです。

   いろんな役を演じ、数々のドラマが流れますが、
   いずれは舞台裏に帰ります。

   舞台裏というのが、あの世の世界です。

(2)イギリスの有名な劇作家のシェークスピアも、
   作品の中でそのことを語っています

   (「お気に召すまま」第2幕第7場、
        ジェイクィズの言葉より)

   この世はすべて舞台。
   男も女もみな役者に過ぎぬ。

   退場があって、登場があって、
   一人が自分の出番にいろいろな役を演じる。

   その幕は七つの時代から成っている。

  ①最初は赤ちゃん。
   乳母に抱かれて、泣いたり、もどしたり。

  ②それから泣き虫児童。かばんをさげて、
   輝く朝の顔をして、かたつむりのように

   しぶしぶ学校に通う。

  ③それから恋人、
   熱く燃える溜め息ついて、嘆きのバラードを
   愛しい女の眉に捧げる。

  ④それから兵士。
   妙な啖呵を並べ立て、豹のような鬚生やし、
   名誉を求めて、喧嘩っ早く、

   はかなき名声求めるあまり、
   大砲に向かって突撃する。

  ⑤それから判事。
   鶏肉つまった太鼓腹。ギロリと睨んで、

   髭ピンとさせ、ちょいと賢い格言と、
   月並みな判例並べ立てりゃ、それだけで
   役が務まる。

  ⑥六つ目の時代は、
   スリッパを履いた痩せた老いぼれ。
   鼻には眼鏡、腰には巾着、

   大事にとっておいた若い頃のタイツは、
   しなびた脚にぶかぶかで、男らしかった大声も、
   甲高い子供の声に逆戻り、ヒューヒューと
   笛のように鳴るばかり。

  ⑦そして最後の大詰め、

   この波乱に富んだ不思議な歴史の締めくくりは、
   二度目の幼児期、完全なる忘却、
   歯もなく、目もなく、味もなく、何もなし。

   (河合祥一郎訳)

(3)シェークスピアのこのセリフの中には、
   人生を7つの段階に分けて説明しています

   生まれてから死ぬまでの間にも、いろんな幕があって、
   それぞれに演じるものが違ってきます

   ですが、すべての人間が、いずれは舞台裏である
   あの世へと戻っていかなくてはなりません

https://www.spacebrothers.jp/2021/12/blog-post_29.html

・・・

<参照>

自分の心次第
伊勢ー白山 道2022-01-01
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/f27d5678ff60ea2ecfc6df2c640aaeb2

・・・

人生は気分次第だった
伊勢ー白山 道2022-01-02
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/0d2f59cf38abdad23408b57915bcadff

            <感謝合掌 令和4年3月31日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/04/01 (Fri) 06:25:47


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.03.25)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

    『論語』にこういう話がある。

   「先生の説かれる道を喜ばないわけではありませんが、
    私には力が足りなくて行うことができません」

   弟子の 冉求(ぜんきゅう)がこう言うと、孔子は答えた。

   「力足らざる者は中道にして廃(はい)す。
    今汝(なんじ)は画(かぎ)れり」

   (本当に力が足りない者なら、途中で力尽きてしまうだろう。
    お前は自分で自分の力を見限っているだけだ)

   自分で自分を限界づけ、変化成長することにすくんでいる弟子を、
   孔子は厳しく叱っている。


   この一節に感奮興起した人がいる。

   伊與田覺(さとる) 氏である。

   今年九十二歳になられる氏は、その時六十七歳であった。


   昭和五十八年十二月十一日、
   伊與田氏が生涯の師父と仰いだ安岡正篤師が亡くなられた。

   氏は喪に服したが、
   次第に立つ気力を失っていく自分をどうすることもできなかった。

   先師の一周忌である弧堂忌(こどうき)が巡ってきた。

   その席で挨拶に立った新井正明氏(関西師友協会元会長)が引いたのが、
   この冉求(ぜんきゅう)の一節だった。


   伊與田氏の受けた衝撃は大きかった。

   頂門(ちょうもん)の一針とはこのことであろう。

   これによって氏は自らに立ち返る機縁を得たという。


   真に道を求める人はいくつになっても変化成長することを、
   この事例は端的に示している。

   このほど、その伊與田氏の著
   『己を修め人を治める道―「大学」を味読する』が発刊された。

   昨年六回にわたって行われた講義をもとにまとめたものである。


   氏の講義を初めて聴いた時の鮮烈さはいまも忘れない。

   3時間、背筋を伸ばし粛々(しゅくしゅく)と語られるお姿には、
   古典を自らの心の糧として生きてこられた人だけが発し得る
   独特の趣があった。

   まさに “遊学” の世界に至っておられる。

   そう思った。

   九十路まで健康を損ねることなく学び続けてこられた人のみが
   現出し得る世界が、そこにあった。


   伊與田氏が述懐(じゅっかい)されたことがある。


   「自己自身を修めるにはあまり効果を期待せず、
    静々(しずしず)と人知れずやられるといい。
    それを30年、40年、50年と続けていくと、
    風格というものができてくる」


   一流の人はいくつになっても変化成長する
   …30年の取材を通して得た本誌の実感である。

   40、50で人生が分かったように言う人は、
   すでに心がマンネリになっているのである。


   『論語』の「泰伯(たいはく)第八」に、
   「任重くして道遠し。死して後已(のちや)む」 の語がある。

   孔子は人の心の中にある仁に火を灯すことを任務とし、
   その道を死ぬまで歩み続けた。


   また、釈迦の最後の言葉はこうである。

   「すべてのものは移りゆく。怠らず努めよ」

   二人の聖人の生涯は、命ある限り変化成長していくことこそ、
   すべての人の課題であることを教えている。

      <『小さな人生論 4』致知出版社
         https://amzn.to/3NbXLGD >

          ・・・

藤尾氏は「学ぶこと」についてこう述べています。


『「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」の中にこんな言葉がある。

 「君子に三惜(さんせき)あり

  この生、学ばず、一に惜(お)しむべし

  この日、間過(かんか)す、二に惜しむべし

  この身、一敗(いっぱい)、三に惜しむべし」

 「この生、学ばず」というのは、
 せっかくこの世に誕生して人生を与えられているのに、
 人生をよりよく生きるための学びをせずに、
 せかせかと過ごしてしまうのは誠に惜しむべきことだ、ということです。

 また、毎日をダラダラと無意味に過ごしてしまうのは、
 第二に惜しむべきことであり、
 せっかく立派な身体を与えていただいているのに、
 身を失敗する方向に持っていってしまうのは、
 第三に惜しむべきことだ、といっています。』

            (生きる力になる言葉/致知出版社)より


「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」は、
明末の教養人・陸紹行(りくしょうこう)が長年愛読した古典の中から、
名言や箴言などを書き留めた書物です。


学び続けることが如何に大切か…

学び続けると、風格ができる。


命ある限り、変化成長していくことができる人でありたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/04/05 (Tue) 06:57:17


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.03.19)より

   (伊與田覺氏の心に響く言葉より…)

   中国の古典「小学」には、
   有名な太公望(たいこうぼう)の教えが記されています。

   ちなみに太公望とは、周の文王が水辺で魚を釣っている
   老翁・呂尚(りょしょう)を見て、
   これは祖父・太公が望んでいた逸材に違いないと感じ、
   軍師として召し抱えた逸話から、そう呼ばれるようになりました。

   呂尚は文王の期待に応え、
   息子である武王を補佐して見事に国を隆盛に導きました。


   『小学』には、呂尚が武王に説いた次の訓戒が記されています。

   「敬怠に勝つは吉、怠敬に勝つは滅ぶ」

   《敬(つつ)しみの心が、怠(おこた)りの心に勝てば吉であるが、
    反対に怠りの心が敬しみの心に勝つと、その結果は滅びである》


   敬というのは本来、身を慎むことであり、
   それが人に対する時には深く頭を下げて敬うことになります。

   人心の本念、つまり一番のもとになるものです。

   怠は怠けること、人の道からはずれた邪なことであり、
   敬と対極にあります。

   つまり敬と怠、どちらを向くかが吉凶存亡の分かれ道であり、
   吉を望み、 存を望むのであれば、まずは己の身を慎み、
   人に対する前に自分自身になすことが肝要であることを説いています。


   古典はこのように時代が移っても
   色あせることのない普遍的な真理を説いています。

   古臭い印象を抱く人もあるかもしれませんが、古典は決して古本ではなく、
   真理を悟った人が、後から来る人のために語り記した教えであり、
    立派な人物になる道標なのです。

   古くとも常に新しい生命を内包している古典が一人でも多くの方に紐解かれ、
   この国難を切り開く糧になることを願っています。

         <『人生を導く 先哲の言葉』致知出版社
                https://amzn.to/3qftuwP >

            ・・・

「小学」は、「修己治人(しゅうこちじん)」を説いています。

「修己治人」とは、「己を修(おさ)め、人を治(おさ)める」ことです。

まず、自分が修養に努め、魂を磨き、徳を高めることです。

自分という人間をつくり上げた上で、
その徳をもってリーダーシップを発揮したり、
世の中を治めていくことです。


自分ができていないのに、人にあれこれ指図したり、
人を動かせないと嘆くのはお門違いだということです。

人に偉そうなことを言う前にまず、
自分をつくること、自分を磨くことが大事だという教えです。


また、
「大学」にも「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」
という言葉があります。

天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、
次に家(家庭や会社)をととのえ、そののちに国を治めるということ。

自分や自分の家庭が乱れている人が、
天下国家を論じるなど問題外だ、ということです。


あれこれ大きなことを言う前に…

まず、怠け心を排し、身を慎むことができる人でありたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年4月5日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/04/08 (Fri) 07:40:15


       *『 生長の家 』(昭和40年3月20日の法語)より

   今日、誰かに必ず役に立つ仕事をしよう。
   大いなる仕事が見つからなかったら、
   目の前にある瑣細(ささい)な愛行や、
   深切な言葉や、奉仕や、清掃などの仕事でもよい。

   何か誰かに悦ばれる事を必ずするがよいのである。

   他の人の自由や財産を侵して自分が利益を得たり、
   権力を得ようと思ってはならない。

   このようにあなたの日常生活を浄めることによって、
   あなたは神の霊波と波長が合うことになるのである。

   その時、「 その余のものは 汝等に加えらるべし 」 であるから、
   日常生活に必要なものは自然に整うことになるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 令和4年4月8日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/04/09 (Sat) 07:04:13


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年06月21日)より

   (禅僧、南直哉氏の心に響く言葉より…)

   ある老師が、以前こんなことを言いました。

   「直哉、俺も90歳を過ぎて、だいたいのことは解脱したと思っていた。
    もう、うまいものを食べたいとも思わないし、女に惚れることもない。

    だけどな、怒るのだけはダメだった。
    この歳になっても頭にくるんだよ。

    怒りからは解脱できない。

    仏の道は遠いな」


   念のために言うと、老師が「頭にくる」のは、個人的なことではありません。

   この老師は、寺で戦災孤児の救済活動をするなど、
   ボランティアの草分けのような活動を続けた人です。

   彼の怒りは、社会的な問題や悲惨な状況にある人たちに対して、
   世間があまりにも無関心だということに向けられたものです。

   老師にとってこの怒りは重要な意味があり、
   また、これまでの活動を支える大事なエネルギーにもなってきたのでしょう。


   そんな「怒り」であれば、捨てる必要はないと私は思います。

   その感情が激したときに、その枠の中でこぼれないようにすればいいだけの話です。


   しかし一般的に見れば、怒りが手こずる感情のひとつであるのは間違いありません。

   なにしろ、90歳の禅僧まで、捨てられないと言ったのですから。


   「もう怒らないと決めたのに、小さなことで部下を怒鳴ってしまうのです」

   「子どもが言うことを聞かないので、怒りが溜まっていつもイライラしています」

   こんな悩みをよく聞きます。

   ついカッとなってしまうのは、
   「怒ればなんとかなる」といった妙な思い込みがあるからです。

   冷静になれば、いくら怒鳴っても
   相手は委縮するか反発するだけだとわかるでしょう。


   怒る行為に効用があるとしたら、ただひとつ。

   「問題がここにある」と過激に指摘することだけです。

   しかし、怒りにまかせて問題を指摘したところで、
   相手は決して納得しません。

   また、問題が解決することもありません。


   もし、誰かがあなたに怒りをぶつけてきたときは、
   「この人はなんの問題を指摘しているのだろう」と考えれば、
   それで十分です。

   たとえば、上司が「結論から言え!」と部下を叱ったとします。

   それは、「報告がまわりくどい」と問題を指摘しただけです。

   だから、叱られたほうは、
   次からは、端的に現状報告をすればいいわけです。


   短気な上司がどんなに激昂しても、
   「この人は、怒れば問題が解決すると思っているのだな」と、
   指摘された問題だけ捉えて、余計な怒りは受け流せばいいのです。

   そもそも人が怒るのは、「自分が正しい」と信じているからです。

   しかし、その「正しいこと」すら
   あいまいなものであって、変化するものです。

   それがわかっていれば、一時的にムッとすることがあっても、
   さほど激しい怒りにはならないはずです。


   「自分の言っていることはどんな場合も正しい」と思い込むのは、
   仏教からもっとも遠い感情です。

   だから、「怒る」行為をとても嫌います。

   苦しみを生み、悟りを妨げる三つの毒「三毒」
   《貪瞋痴(とんじんち)/貪(むさぼ)り、怒り、愚かさ》の
   ひとつに数えられるほどです。


   「あっ、また怒ってしまった」と思った時点で、
   もう一度本当に自分が正しいのか、
   再検討する余地があると考えてください。

   およそ物事は、ある一定の条件でしか成立していません。

   怒りに翻弄されたくなかったら、
   この考え方を頭にたたき込んでいたほうがいいでしょう。


   ちなみに、当座の怒りを鎮めるには、
   怒りの相手から物理的に離れることをお勧めします。

   また、立っているのではなく、
   床に直接座ってしまうことが効果的です(椅子よりはるかに効果的)。


       <『禅僧が教える 心がラクになる生き方』アスコム>

              ・・・

「怒りは相手を苦しめるのではなく、自分を苦しめる」

という仏教の教えがある。


怒りは、まことにやっかいだ。

いくつになってもコントロールが難しい。

そして、怒ってしまったあとは必ず、悔やむ。


力で圧倒し、相手に分からせようとしたり、自分の正しさを押しつけようとする。

そして、「自分を認めて欲しい」、「なぜわかってくれないのだ」
という気持ちが、ゆがんだかたちで出てしまったのが怒り。


「アンガーマネジメント」という
1970年代にアメリカで始まった心理トレーニングの方法がある。

これは、怒らないことではなく
「怒りをコントロールすること」であり、「怒りと上手につき合うこと」。

それはたとえば、「衝動をコントロール」すること。

衝動をコントロールするとは、「最初の6秒をやりすごす」こと。

よく、「腹が立ったら十、数えよ」などといわれるが、
間を置け、ということ。


いくつになっても、怒りをコントロールする努力を重ねたい。

            <感謝合掌 令和4年4月9日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/04/10 (Sun) 08:05:21


        *『 生長の家 』(昭和24年3月30日の法語)より 

   全生活力をもって
   勉強又は仕事と取り組むことが出来る者は
   必ず優勝強者となる。

   しかし精神力を一時に集注せず、エネルギーを分散して行く者は、
   他の競争者と伍して行くことができず、失敗する原因となるのである。

   精神力を分散する者は始終自ら作ったハンディキャップを身につけて、
   自分自身の能率を縛りながら、
   それでいて最大の能率をあげることは
   不可能なことだといわなければならないのである。

   先ず自分自身を知らなければならぬ。

   「 汝自らを知れ 」 というのは、ソクラテスの格言であり、
   永遠に吾々の生活設計を始めるに当たっての
   最も偉大なる箴言(しんげん)である。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e6402870302165fdff52653ecd4e2778

            <感謝合掌 令和4年4月10日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/04/12 (Tue) 08:15:13


       *『 生長の家 』(昭和25年4月30日の法語)より

   凡ゆる美徳の中で 謙りが もっとも大なる美徳であることを知ったのである。
   謙るものは 高くあげられ、傲(おご)るものは 低くおとされるのである。

   吾は神の前に謙り、自分が空しきものであることを知り、
   神の前に自分の中にあるものは
   ただ神の力のみであることを告白するのである。

   神は 吾が力であり、吾が生命であり、吾が智慧であり、
   吾を 生かし給い、吾を導き給うのである。

   謙る時 大いなる力が 自分の中に天降ってくるのを感ずるのである。
   吾が力というものは 少しもないのである。

   吾 神の恵みに深く感謝するのである。

   今月一ぱい神さまが導き給いしことを感謝致します。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13864515.html (消滅)

            <感謝合掌 令和4年4月12日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/04/13 (Wed) 12:04:30


      *『 生長の家 』(昭和24年7月31日の法語)より

   物事を良くするには
   順序が正しくなければならない。

   仕事の順序がととのわねばならぬと云(い)うことを
   「 仕事にはシステムがなければならぬ 」 と云う。

   システムと云うのは
   「 すじ 」 の通った一つの順序のことである。

   勉強するのでも、参考書をチャンと手の届くところに
   定めて置いておくことが必要である。

   大ていの人は、どこにどの本があったか
   探しまわるのに大変な時間をかけている。

   坐(すわ)って勉強していたのに、
   又 立って書棚へ行くだけでも度々すると、
   勉強に落着きがなくなり、精神が統一しないで、
   勉強の能率があがらない。

   又 ものを探すと云うことは、
   それが見つからないとイライラして来るから
   一冊の本がみつからないだけで、
   半日、何もせずにすごさなければならないこともあるものである。

   こうして、或る日は半日が失われ、
   無駄に費やしてしまう人が多い。

   だからすべての物は 正しい置き場に置くことだ。

   使ったものを蔵(しま)うときには、
   少し遠くとも、面倒でも 元あった場所に
   それを返して置くが好(よ)い。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/15bd362ebc82593e72c1e5c035e0a828

            <感謝合掌 令和4年4月13日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/04/15 (Fri) 07:44:05


       *『 生長の家 』(昭和25年5月7日の法語)より

   時として吾らは 自分自身を弱き者と考え
   自分の様なものは とても健康になれないとか
   とても成功できないとか 消極的に考え勝ちなのである。

   かかる消極的考えを捨てよ。

   吾々を不幸にするものは外界の状態でも、
   時代の流れでもないのである。

   それは自分の心が消極的に傾いていることである。

   これらの消極的な心の態度を克服する時、
   直ちに積極的な働きが自分の内から生まれて来るのである。

   而してかかる消極的な考え方を克服する道は
   何よりも人間が神の子であるということを知ることである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和4年4月15日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/04/17 (Sun) 07:21:06


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者はついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

            <感謝合掌 令和4年4月17日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/04/19 (Tue) 08:58:13


        *『白鳩』(昭和39年7月号)より

周囲のちよいとした刺戟に対して直ぐに腹を立てたり、
鋭い激しい言葉で応答するのは、
その人の魂が練れていない証拠である。

私たちは毎日の神想観中に、
自分が “神の子” たるにふさわしく、如何なる時にも 
心の平和を失わないで、最も適当な処置を、
その時、その場、その人に対して行い得るように、

神想観中に、明確な智慧と、温かい愛情とを神から授けられるように祈り、
そのような智慧と愛とに既に満たされている自己を心に描いて
瞑想するようにしなければならない。

そのような瞑想を私たちが毎日つづけるとき、
私たちは常に穏やかな心で、穏やかな言葉で、
どんな環境にも対処することができるようになり、
自己の周囲に天国浄土が実現するのである。


誰かがあなたに損害を与えたとき、またあなたの権利を侵害したとき、
またあなたに属するものを奪ったとかいう場合に、
あなたは昂奮したり、腹を立てたり、相手を呪ったりしてはならないのです。

自分の感情が顛倒していたら、その時行う行為は、
‘してはならない’顛倒〈さかさま〉の事を行うことになり、
結果は益々悪くなるばかりなのです。

自分に損害を与えた相手を祝福しなさい。 
その人がやはり “神の子” であって “悪い人” でない事を念じなさい。 
その人と “心の世界” に於いて既に調和している事を念じなさい。 

あなたが “心の世界” に於いて完全に一切の人と調和するとき、
あなたに損害を与える人は自然に消えてしまうのであります。

     (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/0a6c2914ae9d0d1ea01d2356d821ad00

            <感謝合掌 令和4年4月19日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/04/20 (Wed) 06:50:19


      *VANNON32のブログ『生命の實相』哲學を學ぶ(2019-06-17)より

徳 久 克 己

谷口雅春先生の随行をして、汽車にのっていた時に、私は思い切って、

「先生、職員のなかには、老後のことを心配している人がいたり、
 若い人のなかには、子供の教育費の心配をしたりする人がいますが、
 どのように答えたらよいのでしょうか?」

このような、ブシツケな質問をいたしました。

すると、先生はニコニコお笑いになりながら、
まことにオダヤカなお声で、汽車の窓の外を指さしながら、


『徳久君! そこに雀や鳥が飛んでいるだろう! 雀や鳥は給与をもらっていないよ』

こう言われました。

私は本当にビックリしました。雀や鳥が給与をもらっている、ということを
聞いたことがないし、また、雀や鳥の給与のことなど、
考えたこともありませんでした。

あの時の、私の顔はポカンとして、
バカのような顔をしていたにちがいありません。

私の考えていた世界と、ぜんぜん別の世界のことを、先生は言われたのです。
先生は、私とは別の世界に住んでおられるような感じでした。

ポカンとしている私に、

『雀や鳥は、老後の貯蓄もしていないよ!』

こう言われました。

私はドギモをぬかれたような気がしました。雀や鳥は給与ももらわず、
老後の貯蓄もしていないが、生きているし、死滅してしまわないでいる。

そうだ、全く、そのとおりだ、と私の心は大きく動揺しました。

その時、

『「道心に衣食あり」 と言ってね、
 神さまのお仕事をさしていただいていれば、生活には、困らないものだよ!』

と教えてくださいました。

「道心」というのは、仏道を信仰する心でありまして、神を信ずる心でもあります。
仏・神を本当に信じている者には、衣食は与えられるものである、ということです。

雀や鳥、そしてネズミでも給料ももらわず、元気に生きているのだから、
人間が生活に困るはずはない、まして、人間のなかでも、
神・仏を信じ、神・仏のお仕事をしている者が、衣食に困るはずはないということです。


微笑をたたえながら、もの静かに私に真理を教えててくださる、
先生の御言葉をお聞きしながら、先生から、深い深い信仰を、
ジカに伝えられたような感動をおぼえました。

私はまだまだ、神を本当に信じていなかったのだ、と反省しました。
神様を本当に信じて、神様のお仕事をさしていただいていれば、
生活のことや、老後のことなど考える必要はないので、
今、与えられた仕事に、全力をつくしていさえすればよいのだ、
ということを教えられました。

職員のなかの一部の人が、私に給料や老後のことを尋ねたのを、
私が気にしていたということは、私自身も、その職員の人びとと
同じ考えがあったのだ、ということもわからしていただきました。


谷口輝子先生が御結婚される時、これからの生活はどうするのですか、
と先生にお尋ねになられましたら、

「そんなこと、僕しらんよ!」

とお答えになったというお話を、輝子先生から直接お聞きしたことがありますが、
ただ表面的にお聞きしていた私であったと、わからしていただきました。

先生が、「そんなこと、僕しらんよ!」 と言われたことは、
先生の深い道心から出た、御言葉であったので、
また、それについてゆかれた輝子先生も、深い深い道心でついてゆかれたのだ、
ということをわからしていただきました。

神を求めつづけてこられた、谷口先生、輝子先生の御生活そのものが、
道心そのものであることを、『生命の實相』の自伝篇を、再び読ましていただいて、
よくわからせていただきました。

「谷口先生は、ただヒタスラに神を求めつづけてこられたので、
 もし、途中に一回でも、妥協の生活に入っておられたら、
 生長の家は生まれなかったでしょう」

輝子先生が、このようにお話されたことがありました。

神を求める生活は、決して安易なものではなく、
ただヒタスラに、まっすぐに、神をみつめながら歩む生活であります。

谷口雅春先生、輝子先生の歩んでこられた道は、本当の道心であったのであります。

谷口先生から、「道心に衣食あり」ということを教えられまして、
私は大いに反省し、私の生活の根本的な「心がまえ」を、考えなおしました。


そして、宗教、神を求める者の道を、真剣に歩まなければならない、と決意しました。

そして、再び、先生の歩んでこられた道を、もう一度、学ばしていただこうと思い、
『生命の實相』の自伝篇を読みなおしました。

このことをとおして、給料や老後の生活のことだけではなく、
もっともっと根本的な、私の生活にたいする考え方を、みなおさなければならない、
ということを教えられました。

人類を光明化するために、生長の家の真理を説く自分自身が、
本当に道心をもった生活をしているか、神に自分を全托しているか、
という根本的な「生き方」にたいする反省をさせていただきました。

https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/6edda46bd3939a435dc6eccb64140231

            <感謝合掌 令和4年4月20日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/04/21 (Thu) 07:22:48


         *「光明法語」(4月21日)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

            <感謝合掌 令和4年4月21日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/04/22 (Fri) 07:33:49


      *「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが
演壇が恐ろしいのは臆病のせいであろうか。

時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく
心の傷があるものである。

そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

            <感謝合掌 令和4年4月22日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/04/26 (Tue) 07:29:53


        *『 生長の家 』(昭和25年1月28日の法語)より

   神に祈るということが、神に感謝するということも、
   結局 これらは 神に値を払っているということなのである。

   神から生命を頂きながら、その生命を頂きっぱなしにして、
   その一割の時間さえも 神に捧(ささ)げないということは
   与えない事であり 奪いっぱなしになっていることである。

   だから 常に 神からの恵みを受けようと思うものは
   常に利子を払うかの如(ごと)く、
   ある時間を割いて 神に感謝し祈ることが必要なのである。

   行わないということも、まちがった行いと同様に
   よくないことの起る原因になるのである。

   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/b58b264647a3d7cdc192441e11756526

            <感謝合掌 令和4年4月26日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/04/27 (Wed) 10:52:03


        *『 生長の家 』(昭和25年2月9日の法語)より

   「 キリストの名に於いて 何事でもなす 」 ということは、
   愛の実相に於いて 何事でもなすということである。

   仏性によって 何事でもなすということである。

   吾々は 何事を為すときも
   キリストの名に於いて、仏性の名に於いて
   これを なすべきであるのである。

   キリストが報いを求めて 人を癒(いや)したということはないのである。
   観世音菩薩は お賽銭(さいせん)を目的に人を救ったということもない。

   常に自己に宿るキリストを自覚して、又 仏性を自覚して、
   何事をも なす時は、その人の行いは 自(おのず)から浄(きよま)った
   ものになるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 令和4年4月27日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/04/29 (Fri) 09:29:10


        *『 生長の家 』(昭和26年2月5日の法語)より

   どんな人間にも、環境にも、美点があり、善き処があるのである。
   又、どんな人間にも、環境にも悪しき処、みにくい処があるのである。

   甲は周囲の人間及び環境から、よき処のみを認め、その善き処を吸収し、
   善き想念のみを起しているのに、

   その同じ環境にいて、
   乙は悪しき処のみを認め、悪しき処のみを心に吸収して、
   悪しき想念感情のみを起しているとしたならば、

   やがて甲の運命と乙の運命との間には大いなる相異が起ることは当然である。

   人間の幸福というものは、ほんの僅(わず)かな
   やさしい言葉によって得られるのと同じように、
   ほんの一寸(ちょっと)した憤激の情から破局を導き出して来る。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/464602d878e0908facdc83b46a37e7c1

            <感謝合掌 令和4年4月29日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/05/01 (Sun) 06:56:25


         *「光明道中記」(5月のことば)

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

            <感謝合掌 令和4年5月1日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/05/02 (Mon) 07:27:02


       *メルマガ「天路」(2022.04.26)より


   他人の目的がいかに大事なことでも、
   自分の目的をおろそかにしてはならない。

   自分の目的を熟知して、
   常に自分の目的に専心せよ。

          (法句経166)



この句には、
こんな因縁話があるそうです。


ブッダがジェータ林の祇園精舎に住んでいたとき、
入滅が近いことを悟って、

出家僧たちを前に

「私はいまから四ヵ月後に入滅する」

と告げました。

彼らは驚き、嘆き、ブッダのそばから離れられず、

「これから私たちはどうすればいいのか」

と相談しました。


その中の一人アッダバッタ長老だけが、

「自分は修行中の身だ、
 仏の入滅前に阿羅漢果(涅槃に入ることが出来る境地)を
 得るためだけに努力しよう」

と他の出家僧たちとは別の行動をとります。


出家僧たちは

「こんなときに、なぜわれわれのところへこないのですか」

と言ってこの長老をブッダのもとへ連れて行きました。


ブッダは長老の考えを聞くなり、

「もし私への愛情があるならアッダバッタ長老のようにすべきです。
 法の実践につとめてこそ私を供養することになるのです」

長老を賞賛したそうです。



この句はそのとき生まれ、

「大事な用事ができても、
 自分の目的をよく知り、それに専念してこそ大きな目的が達せられる」

と言っていっます。


ウパニシャッド哲学には、小我と大我という言葉があります。

このとき長老は、
小我ではなく大我を優先したことで
ブッダに評価されているところがポイントです。

決して、自分の目的が小我ではないのですね。


あなたがもし、
自分が何を尊重し優先すべきかに迷いを感じながら
日々を送っている人のひとりだとすれば、
小我から一旦離れてみることをオススメします。


そためには、
はじめから思考と言葉で大我を定義して表面的な理想とするのではなく、
自分の小我を徹底的に見つめ観察するクセをつけることです。


そうすると、
大我はそれに呼応するかのようにあなたの中から自然と立ち現れて来ます。


小さな煩悩が起こっている自分を決して否定する必要はありません。
大切なことは、それをしっかり認めて大我に結び付けていくことです。

            <感謝合掌 令和4年5月2日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/05/03 (Tue) 08:39:26


       *『 生長の家 』(昭和25年2月12日の法語)より

   キリストは 「 吾は 道なり 」 といい給うた。
   そのキリストは、吾らの内に 内在して い給うのである。

   だから、各人自身 「 吾は 道なり 」 である。

   その道は 真直(まっすぐ)であって、
   正しき所に導いてくれる良心の囁(ささや)きである。

   静かに自己の感情をかえりみよ。
   静かに自己の意志をかえりみよ。
   静かに自己の想念をかえりみよ。

   良心は それを照らす。
   そしてどれが正しい道であるかを示す。

   この道は すなおに自分の良心に従うものには 必ず示されるのである。

   「 夫婦は 仲よくすればよい 」
   「 借金は 払えばよい 」 ・・・ の如(ごと)く

   頗(すこぶ)る 簡単明瞭(めいりょう)である。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 令和4年5月3日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/05/04 (Wed) 13:09:16


        *『 生長の家 』(昭和24年3月2日の法語)より

   向上すべきその道 ( 法則 ) を
   逆に下へおりて行く者は、自ら堕落する者である。

   何事をなすに意志の力が必要である。

   柔弱なる意志を以て法則を守ればいい時に、
   守らないで誘惑に負けてしまうようでは、
   神が目標としたまうが如き完全さを
   成就する事は 到底 不可能なのである。

   すべて物事を完成するのは
   「 この方が楽だ 」 という誘惑に耳をかさず、
   
   法則の示す所に鞏固(きょうこ)なる意志をもって
   進んで行く事によって得られるのである。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a6b2c549cb3d7b00ec804b63ed14c8da

            <感謝合掌 令和4年5月4日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/05/06 (Fri) 09:17:10


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.05.03)より

   (北川八郎氏の心に響く言葉より…)

    『釈尊はいわれる

    毒を塗られた矢は、箭筒(やづつ)の中にある、
    毒を塗られていない矢をも汚す。

    悪に汚れることを恐れて、悪人を友とするなかれ。

    どのような友をつくろうと、
    やがて人はその友のような人になる。

    だから、悪い友と交わるな。
    卑しい人と交わるな。

    善い人と交われ。
    尊い人と交われ。』


   人は失意と不遇の中にある時、
   どんな人と交わるかで、その人の人格や運が見えてくる。

   またその人が順調な時、
   その人の周りの人でその人の運の先が見えてくる。

   友はその人の心のレベルとめざすものに呼応して変わってくる。

   人は同じ目つきの仲間と同じ服装の友と、輪をつくる。

   良き友は、生きる上で最も大切なことの一つである。


   次に、心を澄ませ、尊敬する人をつくるといい。

   3人、尊敬する人を持つと、
   いつしか、その心と行いが自分の身に沁み入り、
   自分も尊敬される側に立っているだろう。

   だから周りの人々に、自分に対する尊敬を求めなくていい。

   ひたすら、快におぼれず、怒りなく、
   友のよろこびを祝ってあげられる人となれ。


   両親を大事にする人となれ。

   人にやさしくあれ。

   老人にやさしくあれ。

   弱い人を助けよ。



   怒りのまま人生を送るなかれ......。

   良き友を持て、良き友は宝である。

   不正と利を追う狩人になるなかれ。
   狩人はやがて自分が狩られる人になってしまうからだ。

   これは法則なのだ。


   アリストテレスはいう。「友人は第二の自分である」。

   今つき合っている友を、少し離れて眺めてみるがいい。

   その姿が、あなたなのです。

   善き人からは、善きエネルギーがもらえその人は栄える。

   悪しき友からは悪しきエネルギーをもらってしまう。


   それで人を害し、その矢が自分に返ってきて自分の魂を傷つけ、
   やがて、自分のしたことに自分で苦しむようになってゆく。

   心して、善き友を選べ......。

   心して選べ。


   善き友がいない時は独りで、本を読み、善き年上の人と語り、
   善意の輪の中に入ってゆくがいい。

   きっとオーラが澄んでくる。

   今の悪しき運も必ず向上してゆくだろう。


   善い人と交われ。

   思わぬ福が生じてあなたの人生が楽しくなるだろう。

   尊い人と交われ。

   あなたの人格と才能が輝き始め不安がなくなるだろう。


     <『あなたを苦から救う お釈迦さまのことば』高木書房
                   https://amzn.to/3OQz2IC

              ・・・

お釈迦さまの十大弟子の一人である、アーナンダが
あるとき、お釈迦さまにこう尋ねたそうです。

「ともに仏の道を歩む善き友がいるということは、
 修行の半ばを達成したと思うのですが、如何でしょうか」

するとお釈迦さまは、こう答えたそうです。

「善き友、善き仲間がいるということは、
 修行の半ばではなく、修行のすべてなのだよ」


つまり、「誰と一緒に行くか」ということこそが、人生で一番大事なこと。

人生の旅においては、「どこへ行くか」よりも、
「そこで何をするか」よりも大事だというのです。

逆にいうなら、一緒に行く人が善き仲間なら、
どこへ行っても、何をしても(何もしなくても)、楽しいということです。


また、お釈迦さまは「尊敬」についてこう語っています。

『頭髪が白くなったからとて、尊敬できる長老ではない。
 ただのむなしい老いぼれである。

 真理あり、他者の害にならず、自ら清め、慈しみあって、
 そうしてはじめて、彼は心の垢を取り除いた賢者となり、
 年長者として尊敬される。』



年を重ねても、勉強してこなかった人は、ただのむなしい老人に過ぎない。

いくつになっても、自らを高め、魂を磨き続ける人こそ、
真に尊敬に値(あたい)する人です。


尊敬する師を持ち…

常に、善き人と交わうことができる人でありたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年5月6日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/05/07 (Sat) 11:16:01


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は
地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、
それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。

だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

           <感謝合掌 令和4年5月7日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/05/13 (Fri) 07:32:01


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して

「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」

と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を

「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」

と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように

「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と

修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が

「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」

と嘆いたと書いている。

  ・・・

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

           <感謝合掌 令和4年5月13日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/05/15 (Sun) 09:22:51

アーティスト: Jason Mraz
【和訳】Jason Mraz「Look For The Good」【公式】
https://www.youtube.com/watch?v=5U76e4mF240


(歌詞)

https://lyricstranslate.com/ja/jason-mraz-look-good-lyrics.html

(和訳)
https://lyriq.jp/look-for-good-jason-mraz

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2022-03-27 )
苦痛や我慢さえも、楽しんでしまう視点を持つのが新人類
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e704f423d95df6f85f09d604a897a3c0

           <感謝合掌 令和4年5月15日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/05/16 (Mon) 07:14:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。
だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、自己選択をなしうるということにあるのである。
万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、単なる動物にすら存在しないところのものである

しからば諸君はまず何を想念すべきであろうか。
悪を想念するならば、悪は現象し来たるであろう。
善を想念するならば、善は現象し来たるであろう。

病気を想念するならば、病気は現象し来たるであろう。
戦争や敵意を想念するならば戦争や敵意は現象し来たるであろう。
平和のみ善意のみ想念するならば平和のみ善意のみが現象し来たるであろう。

釈尊は人生のもろもろの苦しみを解脱する八つの道を八聖道として教えたのであるが、
その最初に置いたのは正見(しょうけん)と正思惟(しょうしい)とであった。
正見とは正しき見解―正しき世界観の確立である。

この世界は有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏の世界であり、
すべて仏心の展開せる世界であって悪は存在しないとの正しき見解の確立である。
すべての人間はすでに成れる仏であって完全なる自由を有するとの正しき人間観の確立である。

かくて正しき世界観人生観立ってのち、われらは想念の自由によって
正しくその真理を思惟しなければならない。
またわれらは言葉の自由によって正しくその真理を表現しなければならない。

もしわれらが正しき世界観、人生観に到着していようとも、
正しく想念せず、正しく善き言葉のみを発しないときには、われらの人生は不幸にみちたもの
となり、われらの住む世界は悲惨憂苦みち満ちたものとなるほかはないのである。

われらの人生が幸福なものとなるか、不幸なものとなるかは、
われらの想念と言葉が何を表現するかによって定(き)まるのである。

人類の霊魂なお稚くして何を想念すべきか、何を言葉に表現すべきかを知らず、
いたずらに敵意ある世界を心に描き、(正見の反対の邪見である)互いに悪想念と悪感情とを
そそり、言葉に敵意を表現するをもって足れりとなす。

その行くところや悲惨なる末路なるべきは、およそ「心の法則」によって、
然らざるをえないのである。

人間の霊魂よ進歩せよ。高級の霊魂は今後の世界の推移をいかに見るか。
われらはここに人生の深き指針として本全集『生命の實相』第九巻・第十巻「霊界篇」を
世に送り、魂の向上の必須要件を説くとともに、今後の世界の推移を示す指標とするものである。

           <感謝合掌 令和4年5月16日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/05/19 (Thu) 07:08:16


      *<メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.05.12)より

   (ナイジェル・カンバーランド氏の心に響く言葉より…)

   「20歳の頃は、他人の目が気になる。
    40歳になると、他人の目など気にならなくなる。
    60歳になると、そもそも自分のことなど
    誰もまったく気にしていなかったと気づく」
        (アン・ランダーズ /アメリカのジャーナリスト)


   いくら年をとっていても、
   新しい目標や夢を追いかけ始めるのに遅すぎることはありません。

   自分の時間を自由に使えないのなら、
   それは成功した人生とは呼べません。


   老いることの美しいところは、
   若い頃に背負わされていた様々な責任から解放されると気づくことです。

   その事実を発見したのなら、
   「始めるのに遅すぎる」とは決して思わないはずです。

   年をとると、他人の期待に応えなくてはならない場面が減っていきます。


   若い頃に抱えていた子育てや仕事、住宅ローンの返済などの責任が
   徐々に消えていくにつれ、それまで抑え込んできた
   本当の自分を表現したいという感覚が蘇ってきます。

   自分が本当にやりたかったことを妨げているものは何かを考えるのは、
   素晴らしいことです。

   他人の期待に応えなくてもよい時がいつかやってくると知っているのは、
   私たちの心を自由にしてくれます。

   この事実を知っていれば、若いときからこの自由の一部を楽しむことができます。


   人生は、他人が求める価値観に合わせて窮屈に生きるほど短くはありません。

   年をとったといっても、あなたにはまだ体力も経済的な余裕もあるはずです。

   本当の人生を生きましょう。

   今始めなければ、いつ始めるというのでしょう?


   《成功する人はいつでも新しいことに挑戦し、
    成功しない人は年齢を気にして行動しない》

      <『成功者がしている100の習慣』ダイヤモンド社
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               ・・・

多くの人は自意識過剰だ。

人からどう評価されているか、気になってしかたがない…

(あんなこと言って)嫌われているのではないか
(あの失敗を)笑われているのではないか
(自己紹介でしどろもどろになって)能力ない人と思われているのはないか


自分のことを考えてみればわかるが、
他人の細かいことなど、いちいち覚えていない。

人のことは時間の経過とともに、ほとんど忘れてしまうものだ。

誰かが亡くなったことでさえそうなのだから。


小林正観さんのこんな言葉がある。

「自分がたいしたものと思えば力が入る。

 たいしたものじゃないと思えば力が抜ける。

 風に揺らぐ花のように、力が抜けていると美しい。」


自意識過剰とは、ほとんどが、
自分は「たいしたものだ」と思っているところから始まる。

どうせたいしたものじゃない、と思っていれば、失敗することも当たり前。


失敗や、ヘマや、笑われることを恐れたら、挑戦できない。


「夢を行動に移す人は、笑われることを恐れない」(スティーブ・ジョブズ)

いつでも新しいことに挑戦できる人でありたい。

           <感謝合掌 令和4年5月19日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/05/22 (Sun) 09:17:23


      *メルマガ「人間力」(2022.5.22)より

───────────────────

伊勢国一の宮で、猿田彦大神を祀る全国二千余社の
大本宮である椿大神社。
創建2025年という長い歴史を刻んできました。

その椿大神社は日々の掃除、挨拶に力を入れています。
そこにはどういう思いが込められているのでしょうか。
宮司の山本行恭氏と
早稲田大学名誉教授の池田雅之氏にご対談いただいた
『致知』6月号の記事の一部をお届けします。

───────────────────

(山本)

先ほど、椿大神社では全神職が
毎日ご祈祷をしていると申し上げましたが、
私には3つの目標があるんですよ。

第一は「挨拶ができる神社」、
第二は「掃除ができる神社」。
挨拶と掃除は『小学』に出てくる通り、
人格形成の土台、修身における基本中の基本です。

そして第三はちょっと大袈裟ですが、
「祈祷の上手な神社」。
この3つに関して日本一の神社になりたいと思っているんです。


(池田)

素晴らしい実践的な決意ですね。


(山本)

当然まだそこまではできていません。
神職も巫女さんも毎朝参道を箒で掃き、
社殿の床を雑巾がけし、境内をすべて掃除するんです。
早い職員は朝7時に来て行っています。

掃除の後は朝拝、全員で大祓詞を唱え、社務所に移動して朝礼を行います。

そこでは、

「はい」という素直な心、

「すみません」という反省の心、

「おかげさま」という謙虚な心、

「私がします」という奉仕の心、

「ありがとう」という感謝の心、

この五訓をはじめ、いろいろな言葉を唱和し、
心を整えてから皆それぞれ持ち場につくのです。

そして、16時半からまた皆で掃除をする。

立つ鳥跡を濁さず、
綺麗にして明日を迎えたいという氣持ちで掃除を徹底しています。


(池田)

挨拶と掃除、それは生活上の祈りの基本ですよね。

挨拶や掃除をすることで、
他者への感謝の気持ち、祈りの心が醸成されていくと感じます。


(山本)

そうなんです。
さらに当神社では、月に1回、多い時は2回、
神域にある滝で3時間の禊修行をします。

余計なことは一切考えず、
「祓へたまえ清めたまえ……」と
祝詞だけ唱えていく。

そうすると精神がスーッと浄化されていくんですよ。

──(中略)──


(山本)

挨拶と掃除にこだわっているのには理由がありましてね。

先代が亡くなり宮司を継いで20年になるんですけど、
先代は大正12年の生まれで戦争経験者ですから、
とにかく厳しい人でした。

先代と同じようにはできないし、
いまの若い子には全く通じません。

そこで宮司になってまず始めたのが、
箒を持ち一人で参道を掃除し、
参拝に来られる方々に「おはようございます」と
元氣よく挨拶することでした。

そうしたら「おはようございます。
綺麗にしていただいてありがとうございます」
と感謝されたんです。

ああ、これだなと思い、
全職員で挨拶と掃除に取り組むことにしました。


(池田)

その実践の体験が宮司にとっての原点となっているのですね。

対談のピックアップ記事は
https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2022/06_yamamoto_ikeda/?utm_source=willmail&utm_medium=email&utm_campaign=ningen_20220522

           <感謝合掌 令和4年5月22日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/05/25 (Wed) 07:14:25


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022-02-28)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ラーメンを食べたいと思っていたのに、
   注文のときにきつねうどんの張り紙が見え、
   思わず「きつねうどんをください」と言ってしまった。


   「心」は99.9%、ラーメンだったのに、
   口から出た言葉は「きつねうどん」。


   注文を受けた人は、「きつねうどん」という言葉を信用し、
   きつねうどんを運んできてくれます。

   「私」の「心」を酌みとり、ラーメンを運んでくれることはありません。

   また、家族や友人などに、
   心の中で「いつもありがとう」と感謝するよりも、
   「ありがとう」と言葉にすることで伝わり、相手も喜びます。

   言葉は「心」よりエネルギーが強いと言えるでしょう。

   
   「投げかけ」には、「心」「言葉」「行動」の “3コ” があります。

   「心」とは、自分が「喜ばれるように生きる」という
   方向づけをすることです。

   「言葉」とは、口から出る言葉を喜びや感謝の言葉にすること。

   「行動」とは、実践することです。


    「投げかけ」は、
    「心」「言葉」「行動」がともなっていることが重要です。


   ヨハネによる福音書の中に、次のような言葉があります。

   「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき」

   この言葉は、宇宙のしくみを表しているようです。

   自分の口から出る言葉が、
   不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句に彩られている人は、
   その言葉を言いたくなるような現象が降ってきます。

   反対に、うれしい、楽しい、幸せ、ありがとうと
   肯定的な言葉で彩られている人には、そのような現象が降ってくる。


   これまで、たくさんの相談を受けてきましたが、
   問題があると言っている人にはある種の共通項がありました。

   親子関係がスムーズに流れていない人は、
   夫婦関係もスムーズに流れていない。
   兄弟、職場、近所づきあいなど、すべてに問題を抱えています。


   反対に、親子関係、夫婦関係などがスムーズに流れている人は、
   すべての関係がスムーズに流れています。

   ひとつの関係が滞っていて、
   ほかがスムーズに流れていることはありません。

   どこかに問題がある人は、ほかの関係でもケンカをしています。


   この二つの違いはなにかというと、あら探しをしているということ。

   あら探しをしている人は、どんな人間関係でも、どんな出来事があっても、
   いつも気に入らないと(あら探し)をしていくため、
   ケンカやトラブルになります。


   あら探しをせず、よいところだけを探してほめていく。

   そして、自分もいかに恵まれているかに目を向けて、
   すべてのことに感謝し、喜びを見いだしていくと、
   人間関係や、まわりの出来事が、とても楽しいものに囲まれていきます。


   すべては自分が発信している。

   あら探しをしているか、称賛探しをしているかによって違ってきます。

    <『脱力のすすめ 「おまかせ」で生きる幸せ論』イースト・プレス>
             
              ・・・

我々は、ついつい「私がこんなに心の底から思っているのだから」とか
「ずっと前から考えていたのに」と、
自分の気持ちや心を察して欲しい、わかって欲しいと思ってしまいます。

しかし、どんなに強く思っていたとしても、
それが言葉にならない限り、相手には伝わりません。

これは、どんなに親しい家族でも、友人でも、仕事仲間でも同じです。

また、いじめのような嫌がらせも同じで、
心の中では「絶対に止めて欲しい」「ホントに嫌だ」と思っていても、
言葉に出して「止めてください」と言わない限り、それはずっと続きます。

そして、そういう人は、「いい人」に多いタイプですから、
どんなに嫌がらせを受けても、顔はニコニコしていたりします。

だから、余計に伝わりません。

喜んでいるのかな、なんて相手は思ったりします。


また、人間関係は、相手の「あら探し」をしているのか、
「称賛探し」をしているのかで決まります。

「あら探し」をしているかぎり、すべての人間関係はよくはなりません。
「あら探し」をする思考習慣ができあがってしまっているからです。

誰にだって、長所もあれば、欠点もあります。

だからこそ、「称賛探し」をする習慣を身につける必要があるのです。

人間関係が劇的によくなるからです。

「称賛探し」ができる人は、「全面肯定」できる人です。

相手のいいところも、悪いところも、すべてを受け入れ、肯定できます。


「称賛探し」は肯定。

「あら探し」は否定。

人は、肯定的になったときだけ「冒険的」になれます。
夢や希望を持つことができます。

つまり、あらゆるものを称賛できるからこそ、夢を持つ人を応援できるのです。


反対に、否定的になったときは、人のあら探しに夢中になり、
できない理由を探し、チャレンジする人の足を引っ張ります。


「称賛探し」に夢中になれる人でありたい、と思うのです。

           <感謝合掌 令和4年5月25日 頓首再拝>

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