伝統板・第二 2579505

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困難に戯れよ⑤

1:伝統 :

2022/02/10 (Thu) 04:57:46

困難を超えて向上する日

           *「光明道中記」(2月10日)より

【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
                     (『生命の實相』十一巻)】

魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。

甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を
振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。

かくの如くして吾々の力が向上するに従い、
困難が困難でなくなるのである。

吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、
吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。

最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。

お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、
吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。

最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。

お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても
実力がないから次の時に失敗する。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「困難に戯れよ! (10457)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2004 (消滅)

   (再掲示)伝統板・第二「困難に戯れよ(光明掲示板・第二)」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7897491

(2)光明掲示板・第三「困難に戯れよ! (70)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=36

(3)光明掲示板・伝統・第一「困難に戯れよ! (28)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=16

(4)伝統板・第二「困難に戯れよ①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463677

(5)伝統板・第二「困難に戯れよ②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879318

(6)伝統板・第二「困難に戯れよ③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7897577

(7)伝統板・第二「困難に戯れよ④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8018654

        <感謝合掌 令和4年2月10日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/02/27 (Sun) 04:35:57


         *『 生長の家 』(昭和24年7月16日の法語)より

   吾々の反対者は 実は味方である。
   反対者があるので反対者を克服するための
   すべての論理や方法が生まれてくるのである。

   もし敵対者がなかったなら、
   囲碁を打つ楽しみもあり得ないのである。

   囲碁の楽しみは敵手があって
   自分と角逐(かくちく)するところにあるのである。

   反対者は吾々の気づかない欠点を
   わざわざ教えてくれる先生である。

   反対者があるので、微塵(みじん)も隙(すき)がなくなる修行が
   できるのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c0b969f50c318fcfa0d7c4b1fc53e5e4

        <感謝合掌 令和4年2月27日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/04/11 (Mon) 07:39:04


       *『生長の家』(昭和23年9月11日の法語)より

チャルス・ラムミスは人が行き詰った時には
こう云うように思念せよと教えている。

「何事が起ろうとも自分はそのすべてのものより偉大なるものである。
 悲しみや、不幸や、苦しみが、どんなに自分に押し迫って来ても、

 それは自分の家の外にいるのである。
 自分は家の中にいてそれを入れない。

 私は鍵をもっているのである 」 と。


其れは 確に明るい心に導く思念法である。


更に

「自分は神の子である。如何なる悪しき事も自分には起らない。
 悪く見ゆる何物も自分の家へ来れば善に変貌するのである 」

と思念すれば一層よい。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

        <感謝合掌 令和4年4月11日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/04/25 (Mon) 07:30:22


       *『 生長の家 』(昭和24年7月17日の法語)より

   人生には千百の好機会がある。
   その好機会とは困難である。

   天理教祖は「 難儀は節じゃ、節から芽が出る 」と
   いったのはそのことである。

   噴水は 狭いところへ押し込まれたので高く昇るのである。

   困難の暴風は 臆病(おくびょう)者を吹きとばし、愚者を放逐し、
   勇敢と賢明とをよびいだし、人格を鍛えて堅忍不抜の者とするのである。

   余りに安易に得られたる富は 人間性を堕落せしめるものである。

   巌(いわお)にあたってくだけてのみ
   その水は高く空に上(のぼ)るように

   人間の魂も困難にあってくだけてのみ 高く上(のぼ)るのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/71dc66790f336c692af2243176a628c7

        <感謝合掌 令和4年4月25日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/05/02 (Mon) 10:06:16


      *『 生長の家 』(昭和24年7月18日の法語)より

   ベートーヴェンは、殆(ほと)んど完全に耳聾(しい)てから
   彼のいとも有名な諸作品を作曲したのである。

   シルレルは肉体の病苦にあえぎながら、
   彼のもっともよき著作をものしたのである。
   彼は19年間病苦から逃れることができなかったといわれている。


   倉田百三は結核の末期的状態に於いて
   その多くの作品を書き上げたのである。

   そして自分の作品が有楽座で実演される時には
   担架の上に仰臥(ぎょうが)しながら
   劇場に運ばれてその実演を見たのである。

   ミルトンはその主要な著作を貧乏で病気で盲人になった時に
   書いたものだといわれている。

   偉大なる決意の前には困難は
   彼を縛ることはできないのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fdc453419bfe8baf348eacbbc47411ca

        <感謝合掌 令和4年5月2日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/05/03 (Tue) 06:21:03


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年5月2日)より

芥川龍之介の作品に有名な「蜘蛛の糸」というものがあります。

地獄に落ちてしまったカンダタという亡者が、
生前に一度だけ、蜘蛛の命を助けてあげたことがありました。

そのことを思い浮かべ得られたお釈迦様は、
極楽の蓮の池からクモの糸を垂らして、
地獄に落ちたカンダタを助けようとします。

ですが最後にはカンダタは他の者を蹴落とそうとしたため、
クモの糸が切れて、また地獄へと落ちて行ってしまいます。


物語は残念な結果になりますが、こうしたクモの糸のように、
神仏から垂れ下がる命綱があると思います。

それを握りしめることで、私たちは苦境から脱出できるのです。


世の中にはさまざまに暗い出来事があります。

「どうしてこのような事が起こるのか?神も仏もないのではないか」と
嘆いてしまう人もいます。

ですが、世の中で起こる出来事には、
なんらかの意味があり、役割があるのです。

徹底的に私たちを苦しめるためだけにあるのではなく、
そうした悲しみや苦しみを乗り越えて、
私たちの魂が成長したり、強くなり、
人の悲しみも分かる優しさを得る役割をはたしています。


「どうして自分だけにこんな不幸が訪れるのだ」と
嘆いてしまう事もあります。

その時には、自分の影ばかりを見つめている状態になっています。
自分の事だけを思い煩い、哀れに思ってばかりいては、
目の前に垂れていた命綱が目に入りません。


顔を上げて、神仏へと目を向ける事で、
目の前に命綱が垂れている事に気づきます。

それを握りしめる事で、谷底から抜け出せます。


命綱を握りしめるとはどういう事でしょうか?

それは、神仏へと意識を向け、その愛を信じて受け入れる事です。

神仏が自分を愛していることを信じる事が、
命綱を握りしめる事となります。

「あなたは神仏に愛されていたのだ」という事を信じられるならば、
暗い底から救い出されていきます。

その命綱から目を背けて、しゃがみこんで影ばかり見ていては、
抜け出すことは出来ないでしょう。

この世で起こる出来事には意味があり、
私たちを成長させるための神仏の愛があると信じる事が、
救いの糸となるのです。

https://www.spacebrothers.jp/2022/05/blog-post_2.html

        <感謝合掌 令和4年5月3日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/05/13 (Fri) 11:22:06


        *「光明法語」(5月13日)より

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。

        <感謝合掌 令和4年5月13日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/06/03 (Fri) 09:52:32


       *「光明道中記」(6月3日《困難消滅する日》)より

【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
                        (『生命の實相』第一巻)】

人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。

実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。

併し今私は試練の火が必要であったのでも、
困難が必要であったのでもなかったと「私の生活体験」を
解釈する立場に立つのである。

試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。

自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と
調和しなかったのである。

みずから神から離れたるものと誤覚し、
「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。

今よりのち試練を神からきたものと考えまい。

私が悪いのである。
すべては私の責任である。

試練を神に帰することは神を残忍者であると観、
神を不完全であると観ることになる。
斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。

心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。

        <感謝合掌 令和4年6月3日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/06/04 (Sat) 10:31:28


       *「光明道中記」(6月4日《天の声を聴く日》)より抜粋

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき
其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、
煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。

みずから好んで天の声を聴かず、
実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

        <感謝合掌 令和4年6月4日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/06/11 (Sat) 11:23:08


        *「光明道中記」(6月11日) より

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。

        <感謝合掌 令和4年6月11日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/07/04 (Mon) 07:26:56


       *『 生長の家 』(昭和24年7月19日の法語)より

   千万長者といわれるような人たちは何(いず)れも一度は
   破産者または、破産同様の関所を越えてきた人ばかりである。

   もしそうでなく安易に一千万円を得たならば、
   それは間もなく煙のように消えてしまうに違いない。

   もっとも美しき、もっとも強き、もっとも高邁(こうまい)なる性格は、
   温室のような環境では育たないのである。

   それはもっとも美しき筋肉美が、重きものを動かす運動をしないで
   発達しないのとおなじことである。

   環境の重圧に耐えて来た魂の筋肉美こそ最も美しいのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/508c64494605c4fb3ce67545161615bf

        <感謝合掌 令和4年7月4日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/07/08 (Fri) 07:04:37


      *「〈頭はつめたく、心はあたたかく〉最後は〈放っておく〉」
         2022/05/16 12:30婦人公論.jp>より

美輪明宏「5月15日で87歳。
原爆、貧困…波瀾の人生から得た教訓


頭はつめたく、心はあたたかく
この5月で、87歳になります。
振り返ってみると、波瀾の人生を歩んでまいりました。

1945年8月9日、10歳のとき。長崎に原子爆弾が落とされ、
実家は灰燼に帰しました。多大な犠牲を払った戦争が終わり、
命拾いした私。

その後、悪性貧血をはじめ後遺症にも苦しみましたが、
死んでたまるか、負けてたまるかと必死でした。

私の音楽への情熱は冷めることなく、15歳で勉強のために上京。
しかし、実家が没落して父が病に倒れてからは、
家族の生活が私の両肩にかかるようになりました。

困窮を極めて、数ヵ月ほど新宿でホームレス生活を
送ったことも。激しいバッシングにもあいました。

71年に、丸山明宏から美輪明宏に改名。
仕事が軌道に乗ったと思ったら、体調を崩して
舞台に立てない時期もありましたね。

まぁ、浮き沈みの激しかったこと─。

誰の人生にも、
マイナスの「気」に覆われている時期があると思います。

今がまさにそのときという方は、
溜息をついたり、涙したりなさっているはず。

でも、世を恨んだりしないで、冷静に
目の前の問題を分析することが大切です。

感情的になると、
頭に血が上って熱くなり理性が働きません。

では、「冷静沈着」を身につけるにはどうすればよいか。

それは日常生活の中で、呪文のように

「頭はつめたく、心はあたたかく」

と唱えればいいのです。

これを習慣づけて、
細胞の一つひとつに流し込むようにしましょう。

困難にぶつかったとき、
どうしても解決法が見つからなければ、
しばらく放っておく。

そして、もっとほかに考えるべきことを優先してみる。

きっとなんとかなるものですよ。

        <感謝合掌 令和4年7月8日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/07/19 (Tue) 07:23:11


      *『 生長の家 』(昭和24年7月21日の法語)より

   困っているということ勿(なか)れ。

   「 困っている 」 と告白することは
   その人の無能力を表現するのであるから
   何人(なんぴと)もそんな人を雇いたがらないであろう。

   どんな困難の前にも困らないで
   常に楽しい精神状態でいるもののみが
   人から歓迎されるのである。

   困難を言葉で表現すれば困難は増大する。

   真直に行け。
   断じて行け。

   人生は矢の如(ごと)きものである。
   進まない矢は途中で墜落してしまう外(ほか)はない。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bf578e341a2f4eb53f68fe99473b6ca7

        <感謝合掌 令和4年7月19日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/07/20 (Wed) 07:38:38


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P81)より

山は頂上のみに登るのが目的ではないのである。
ゲームも勝利だけが目的ではないのである。

登山には途中の風光に無限の美しさがあるのであり、
ゲームは勝ったり負けたりしているうちに教えられる
内的体験(ないてきたいけん)に一層価値があるのである。

最後のゴールだけを目的とするものは途中の一勝一敗に一喜一憂する
けれども、それは、例えば、発明家の実験みたいなものであって、

色々やって見て、失敗そのものも体験となり、
新しい経験によって自分が一層賢くなったり、深まったり、
観察したり、味わったりする力が殖(ふ)えて来るのである。

毎日を旅行しながら、又、別の景色を楽しみつつあると思えば
どんな人生の景色も味わい深いものなのである。

        <感謝合掌 令和4年7月20日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/07/21 (Thu) 09:00:54


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P89~90)より

あらゆる経験はあなたの生命の実相の光りを輝き出させるための
砥石の役目をするものだと云うことが出来るのである。

あなたの内には無限に尊く輝く生命(せいめい)の光りが
宿っているのだけれども、
経験によって磨き出さなければ現れない部分があるのである。

どんなダイヤモンドも、一定の反射角度を持つように
研(みが)き出さなければ燦然たる光を放つことは出来ないのである。

すべての外界の出来事も、人から仕掛けられる出来事も、
全部は《こぞって》自分のホンモノを見わけるための試金石で、
すべては善なる結果を来(きた)すより致し方がないようになっているのである。

この事を自覚していさえすれば、
吾々は何事が起って来ても驚くことはないのである。

        <感謝合掌 令和4年7月21日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/07/22 (Fri) 07:42:06


       *『 生長の家 』(昭和24年7月9日の法語)より

   ゴムのボールは強く障礙物(しょうがいぶつ)にぶつかればぶつかるほど
   弾力を以(もっ)てとび上がるのである。

   人間も障礙物に強く強くぶつかることによって
   いよいよ高く上昇するのである。

   障害物が人間を滅ぼすのではなく、
   それの受け方が人間を滅ぼしもすれば向上させもする。

   神は青年を教育せんとする時には必ずしも学校へは送らないのである。
   そしてむしろ絶対絶命の境地に追いつめる。
   そしてそこから無限の能力をしぼりださせるのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ed27cbb371adb837540eba1dd399d512

        <感謝合掌 令和4年7月22日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/07/23 (Sat) 08:36:50

生きた生命 ~鰻(うなぎ)のようにどんな苦い運命からでも脱け出すのだ

     *「生命の讃歌」(P120~124)より

名乗れ、境遇に屈従する卑怯者は誰だ。
誰がわが生命を食べて物でこねあげた塊だと思っているのだ。
生命は蝋細工ではないぞ。
石膏細工でもないんだぞ。

おれは旋風だ。
颶風(ぐふう)だ。
渦巻だ。

おれは環境を
徐々にわが望みのままに
飴のように
捻じまげる。

俺は宇宙を造った大いなる力と一つの者だ。

おれは空中電気を雷に変じ、
太陽の光を七色に変じ、
真黒な土から燃えるような赤い花を咲かし、
火山を爆発さし、
あの不思議な星雲から、
太陽系を生んだところの大いなる力と一つの者だ。

環境が何だ。
運命が何だ。

おれはおれの好きな時が来れば
鰻(うなぎ)が石垣の間から脱け出すように、
どんな苦い運命からでも脱け出すのだ。


おれは銑鉄ではない。
粘土ではない。
生命だ。
生きたエナジーだ。

境遇や運命の型に押しこめられて
黙って引込んでいる様な死物ではないのだ。

圧迫すれば圧迫するほど
恐ろしい爆撃力となって
鉱山を掘鑿(くっさく)するところの
空気圧搾機の空気のように

どんな境遇でも、
運命でも、
時が来れば
猛然粉砕するを得る生命だ。

またおれは何がおれを堰き止めようとしても
結局は大いなる海洋とならずにはおかない水だ。

大いなる巌によっておれを堰きとめれば、
おれは奔流となり、
激流となり、
瀑布(ばくふ)となって
落ちるだろう。


少しも出口がないように
おれを堰き止めれば
おれは地の中にもぐり込む。

俺はしばらく地下に沈着して姿をみせないが
おれは消えもなくなりもしないのだ。

やがて吹きたぎる泉となって
旅人の咽喉(のど)をうるおさずにおかないのだ。

おれが地下にしみ込むことすら遮(さえぎ)るならば、
おれは霧となり、
雲となって
虚空へと舞い上がる。

時が来ればおれは
旋風を呼び
雷電を呼び
沛然(はいぜん)たる猛雨となり
如何な大堤をも決する洪水となって、
結局は大なる海洋とならずにはおかないのだ。

<参照>
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65711228.html

        <感謝合掌 令和4年7月23日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/07/25 (Mon) 09:07:35


       *『 生長の家 』(昭和24年7月10日の法語)より

   競技がなければ勝利が存在しないように、
   困難がなければ成功は存在しないのである。

   又 困難がなければ能力が存在しないのである。

   能力とは何か?
   困難を自由に操縦する力である。

   国民が一大困難に直面した時 無数の発明が成就されるのである。
   
   困難は能力の働く場である。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3f668e6447bbcd17c01dd3d2469e6cca

        <感謝合掌 令和4年7月25日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/07/27 (Wed) 10:23:57


        *『 生長の家 』(昭和24年7月11日の法語)より

   スター・デーリーは困難を克服した時
   自分の中に潜在する能力がもっとも強く発揮されるといって
   午前四時に必ず起きて精神統一の修行をする事にしたのである。

   彼は獄中を出た後もっとも自分の不得手である所の
   文筆と講演とで生活することにした。

   しかも彼の文筆と講演とによって救われる人は随分沢山あるのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/24caecd2bd3a94e474310e22df9b6492

        <感謝合掌 令和4年7月27日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/07/28 (Thu) 07:22:24

       *「青年の書」(P54~55)より

神は決して不必要なものを人間に与え給うことはないのである。

困難がその人に面して来るのは、

その困難によってその人になおいっそう多くの智慧がひきだされるか、
なおいっそう大きな力がひきだされるか、
なおいっそう多くの愛がひきだされるかの

機会として与えられるのである。

(中略)

人格の光は多くの外界との摩擦によって輝くのである。

(中略)

諸君が真にダイヤモンドかあるいは《がらくた》の人格であるかを
試すのは摩擦によってである。
しかし人間の本質は「神」であるから《がらくた》の人格は
本来存在しないのである。

(中略)

真に自己不滅の神性を信ずるものは、
摩擦によって、困難によって、その光を増すのである。

        <感謝合掌 令和4年7月28日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/07/29 (Fri) 07:57:00


       *「青年の書」(P55~56)より抜粋

(1)セルバンテスがその名著『ドン・キホーテ』を書いたのは
   マドリッドの獄中であった。

(2)『ロビンソン・クルーソー漂流記』も獄中の作品である。

(3)パンヤンの『天路歴程記』もベッドフォードの獄舎で書かれたものである。

(4)ウォルター・ラレー卿の『世界の歴史』という著述は
   13年間の獄中生活に書かれたものである。

(5)ルーテはワルトブルクに幽閉されている中(うち)にバイブルを新訳した。

(6)ダンテの『神曲』は長き追放生活の中(うち)に、
   そして死刑の宣告を受けてからもその執筆をやめずに書かれた。

(7)ベートーヴェンの多くの晩年の作品は
   彼がほとんど肉体の耳聾(し)いて
   悲しみの涙の中(うち)に綴られたものである。

(8)シルレルの多くの著作は15年間も続いた激しい病苦の中(うち)に書かれた。

(9)ミルトンの『失楽園』その他有名な著述は彼が貧乏で、
   そして病気でしかも盲目になってから書かれた。

僅かの苦しみや困難や生活のために何事もなすことができないと
退嬰してしまうものはこれらの人々に恥ずるがいいのである。

すべての困難を自己錬磨として感謝して受け、それによって
自己を磨くものは、一つひとつの困難そのものが
成功に至る踏石となるのである。

        <感謝合掌 令和4年7月29日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/08/03 (Wed) 08:15:00


       *『 生長の家 』(昭和24年7月12日の法語)より

   安易なる道を選ぶな。
   一つの物事をするのに安易なごまかしの道と、
   刻苦精励の道とがあるとすれば
   必ず 刻苦精励の道を選ぶべきである。

   易々加減にごまかしの道を選んだならば
   多くの場合それは不成功に終るか、自分自身を欺くか、
   他(ひと)を欺くかにすぎないのである。

   刻苦精励の道は 遂(つい)には
   必ずその目的を到達する。

   たといその目的が到達されないにしても、刻苦精励そのものから、
   目的それ自身よりも尚(なお)偉大なるものが得られるのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bd02b0892e905364c92189f61c0c997e

        <感謝合掌 令和4年8月3日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/08/11 (Thu) 04:53:14


      *Web:今日も良いことがあるように(2019/04/02)より

『「運がよくなる」おはなし』という本を読みました。

これは、1900年代の初め著者によってされた講演録です。

「苦境や困難が私たちの最高の教科書であり学びの場である」

と説く、その伝説の講演録は、アメリカでベストセラーになったそうです。

1つのエピソード・・・

あるとき、講演のあとに車椅子の障害者の女性が著者に語りました。



   「先生のお話はとてもよくわかりました。
    わたしは生まれてからほとんど痛みを闘ってきました。

    でも、わたしが知っていることは何もかも、
    この車椅子に座って学んだことなんです。

    忍耐や思いやり、人を愛する気持ちや勇気をもって
    生きることを学びました」


まわりにいた人はみな、この女性が心が優しく、
誰よりも愛されているのだと言っていたそうです。


このような例は、私たち自身にもあてはまると思います。

病や体に不自由などがある人は、他の人の病や不自由に理解を示し、
優しい心で接することができるようになれるものです。

いっそう愛情深い人になっていけるでしょう。


また、苦境や困難があるからこそ、私たちは成長できます。

壁にぶつかったときにこそ、自分の力を伸ばすことができます。

逆境から何かを学び、成功が訪れます。


要は、その受けとめ方です。

苦境や困難を不運だと思わずに、
むしろこれからよくなるためのチャンスだと考えるのです。

ベートベンは、後世に残る名曲を作る前に聴覚を失いました。

聴覚を失ったことで音楽をあきらめていれば、
歴史に名を残す偉大な音楽家にはなっていなかったでしょう。


聖パウロは、キリスト信者を迫害するさなかに、馬から落馬し、
地に倒れ、失明しなければなりませんでした。

それがきっかけとなり、真理に出会い、
自分の使命を知り、偉大なる使徒となりました。


このように苦境や困難に負けず、
自分を磨き、成長できる人は、いずれ成功します。

そういう人は、苦境や困難を恐れません。

むしろ苦境や困難を飛躍へのチャンスだと考え立ち向かっていきます。


「運がよくなる」人は、そういう心構えをもっているのです。

私たちも、自分の心構え次第で、嫌なこと、苦しいことがあっても、
何かを学び、幸せの種を見つけることができるでしょう。

その種を育てることができるでしょう。

そして、自分も人も幸福にできる力を成長させることができるようになるのです。


    苦境や困難から学び、飛躍のチャンスにしょう。


「忍耐、思いやり、愛、勇気、友情」など、人生にとって大切なことが学べます。

https://lucky.t-nakai.work/2019/04/02/thinking-36/

        <感謝合掌 令和4年8月11日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/09/25 (Sun) 09:15:19

少し時間を要しますが、価値は高く、超人気です。


田坂広志が語る
「すべては導かれている
  ー 逆境を越え、人生を拓く5つの覚悟 ー 」|あすか会議
https://www.youtube.com/watch?v=qhSRBpML-3U&t=134s

多摩大学大学院 教授・田坂氏


(1)自分の人生は大いなる何かに導かれている。

(2)人生で起こること全て意味がある。

(3)人生における問題は全て自分にある。

(4)大いなる何かが自分を成長させようとしている。

(5)逆境を越える叡智は与えられる。

それぞれの要点は、以下のWebにて確認できます。
https://fulfillwish.com/guided1/ 

        <感謝合掌 令和4年9月25日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/10/23 (Sun) 08:01:12


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.07)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   何か大きな事故、あるいは病気に遭遇した人の中には、精神的なショックが大きくて、
   なかなか社会復帰できない人がおられるそうです。

   そういう人たちのカウンセリングやセラピーを担当している方にお会いして、
   お話をうかがったことがあります。

   それによると、社会復帰ができるか否か、というのは、
   「ある一点」を乗り越えられるか(理解できるか)にかかっているとのことでした。


   その「一点」とは、「不条理」が認められるかどうか、ということなのだそうです。

   「不条理」というのは「理屈に合わないこと」「筋道が通らない」ということです。


   たとえば、大きな事故や災害などにあって家や家族を失ってしまった、
   というような大きな問題を抱えたとき、

   「今まで私は悪いことをしてこなかったのに、
    なぜ自分だけが、こんなひどい目にあわなければならないのか」と、
   多くの人が思います。

   それでも、ほとんど(8~9割)の人は、
   その起きてしまった災害や事故を、現実のものとして受け入れ、
   それはそれとして新たに出発すべく、乗り越えていきます。

   しかし、「今まで悪いことなどしていないのに、
   なぜ自分がこのような目にあわなければいけないのだ」
   という考えから抜け出せずにいる人は、それを乗り越えることができず、
   いつまでも社会復帰できないのです。


   実は、

   「世の中は『不条理』なことに満ちている。『不条理の塊』であるらしい」

   と思い定めれば、その問題は乗り越えられるのかもしれません。

 
   たとえば、結婚をし、子供を育てていく場合に、
   その子供というのは2歳ぐらいまでは泣いたり、ぐずったりします。

   しかもその理由がよくわかりません
   (気分が悪いとか、暑い、寒いなどは親にはわかりにくいことですし、
    また親にはどうしようもない理由で泣いている場合もあります)。

   しかし、このような場合は、子供を怒鳴っても仕方のないことで、
   ただひたすらなだめたり、すかしたりして眠らせる、
   あるいは機嫌を直していただくしかありません。


   これは「霊格」の問題にもなるのですが、

   「『不条理』というものを現実社会の中で認めて、
    それを乗り越えていきなさい、そのためにあなたに修行が大切なのです」

   という場合は、結婚することになっていますし、
   子供を授かり、その子供との生活を通して、
   「不条理」というものを認め、乗り越えてゆくようにプログラムされているようです。

             <『「き・く・あ」の実践』サンマーク文庫>

        ・・・

仏教における「苦」とは
「苦しい」ということではなく「思い通りにならないこと」を言う。

それが「四苦(しく)八苦(はっく)」だ。

「四苦」とは、「生・老・病・死」のこと。


「八苦」とは、次の四つを足して八苦となる。

「心身を思うようにコントロールできない苦しみ」

「親しい人といつか別れなければならない苦しみ」

「恨みや憎しみを抱いてしまう人と会わなければならない苦しみ」

「お金や地位や名誉など、求めるものが手に入らない苦しみ」。


「四苦八苦」は、不条理の塊(かたまり)だ。

すべて思い通りにはならないからだ。


そして、それは努力やお金で解決できるものではない。

どんな億万長者であろうが、社会的地位が高かろうと、
思い通りにならないことは等しくやってくる。


小林正観さんは、目の前に起こる現象を、
「ああ、そうなりましたか」と
受け入れていくことだ、という。

そして、「この世に修行にきたのではなく、
ただ、この世に起こるいろんな現象を、人間の肉体を借りて味わいに来ただけ」、と。


世の不条理を…

「ああ、そうなりましたか」と
淡々と受け入れることのできる人でありたい。

       <感謝合掌 令和4年10月23日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/11/03 (Thu) 07:20:17


      *メルマガ「致知BOOK」(2022.11.02)より
       ~『ぼくの命は言葉とともにある』福島智(著)

いのちのあり方について、
深く考えさせられた経験があります。

1983年の春、私は東京都立大学(現・首都大学東京)の
人文学部に20歳で入学しました。

盲ろう者としては日本で初めての大学進学となりました。

華やかなマスコミ報道。
私を支援してくれる市民グループの存在。

そして、指点字を用いて、他者の発言や周囲の状況などを
伝えてくれる通訳・介助のボランティアのみなさんのサポート……。
私の周りは、私を励まし、力づけてくれるものに満ちていました。

しかし、私の心は不安でいっぱいでした。

そして、時に一種のさびしさも感じていました。

〈日本のヘレン・ケラー〉などといった
マスコミによるレッテル貼りが疎ましく、
よそよそしく感じられ、同時に、重荷でもありました。


盲ろう者の私が障害を持たない一般学生の中に飛び込み、
はたしてうまく溶け込んでいけるのだろうか。

そして、私は彼らと、本音で語り合うことができるのだろうか。

そもそも、私は盲ろうという障害を抱えながら、
なんのために大学に入学したのか……。

自分が望んだ「大学進学」という目標が
かなえられた満足感がある反面、
こうした不安や疑問、葛藤といったものが、
私の内部で渦巻いていました。

そんなある日、私の心を癒し、周囲の人々との
新たな関係性をつくっていくうえでの勇気を与えてくれるような、
そんな「出会い」がありました。

クラスメートの女子学生が一つの詩を点字に訳して、
私に手渡してくれたのです。

彼女は、少し前に私がクラスメート対象に行った
点字と指点字のミニ・講習会に参加したので、
点字の練習を兼ねて点訳してきてくれたのでした。



「生命は

 自分自身だけでは完結できないように

 つくられているらしい」



この何気ない書き出しで始まる吉野弘の詩「生命(いのち)は」を一読し、
私は何か眩しいものに出会ったような気がしました。


例えば幼い日。神戸の海沿いにあった実家の近くの高台から、
息をのむ思いで眺めた夕日に染まりゆく瀬戸内海のきらめき。

中学生の頃、初めてサイモンとガーファンクルの
「スカボロー・フェア」を聴いたときの
あの鳥肌のたつような、切なく輝くメロディー。

かつて、こうした「美」の感覚をもたらしてくれた
光と音をすべて失ってしまった私は、
忘れかけていた「魂に達するような美しさ」を、
この詩によって再び体験したのです。


それは、同時に、新しい世界観との出会いであり、
明晰で、しかも温かな生命観との出会いでもありました。


吉野はこの詩を次のように続けます。

 

「花も
 
 めしべとおしべが揃っているだけでは

 不充分で
 
 虫や風が訪れて

 めしべとおしべを仲立ちする

 生命は

 その中に欠如を抱き

 それを他者から満たしてもらうのだ」
 


「生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ」



このフレーズに出会ったときに受けた衝撃を、
私は今も忘れられません。

これはいのちのありよう、
いのちといのちの関係性の本質を示した言葉であり、
いのちの定義です。


そして、例えば、障害をいのちが内包する
広い意味での欠如の一形態として捉えるとき、

この定義は、障害者を取り巻く問題が
障害者だけの問題ではなく、障害の有無を超えて、
すべての人間、すべてのいのちのありようと
深くかかわってくることを示している、と私は感じたのです。


この詩と出会った頃から、私は徐々に、
周囲の学生たちとうちとけていきました。

何人かの学生は指点字を覚え、
私と直接語り合うようになります。

中には、私が受ける講義やゼミの通訳まで
できるようになった学生もいます。

そして何よりも、大学進学をきっかけに、
私を取り巻く人間関係は飛躍的に広がりました。

さまざまな人との出会いが不思議な連鎖をもって生まれ、
その後の盲ろう者福祉増進の運動や大学教員という
現在の私の仕事へとつながっていきました。


「盲ろう」という一つの「欠如」を抱えた私が、
コミュニケーションを媒介に他者と心を通わせるとき、
そこに新しい関係性が生まれます。

その関係性がある種の「触媒」の働きをし、
私が直接・間接に触れ合った多くの人々の間に、
目に見えない「内的化学反応」を
巻き起こしていった気がします。

・・・

福島智氏は、東京大学先端科学技術研究センター・教授。
18歳で光と音の世界を完全に喪失した。


女優の小雪さんが、12年ぶりの主演を務めたことで
今、話題を呼んでいる映画「桜色の風が咲く」

映画「桜色の風が咲く」は
母・令子さんの実話をもとに描いた人間ドラマ。

(松本准平監督、11月4日公開予定)。

       <感謝合掌 令和4年11月3日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/11/14 (Mon) 06:22:59


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.04)より

   (枡野俊明(ますのしゅんみょう)氏の心に響く言葉より…)

   仕事には順境もあれば、逆境もあります。

   どちらもさほど違いはありません。


   無常の世の中にあっては、
   順境も逆境も単なる「変化」に過ぎないのです。

   その変化がもたらす境遇は、
   自分の力で無理に変えることはできません。

   しかし、その境遇の中で自分を生かすことはできます。

   そうして経験したことが、
   やがてまた変化の波を起こし、順境へと転じていくのです。


   ですから何も逆境にあるからといって、落ち込むことはありません。

   左遷や意に沿わない異動など、
   働く場所が変わっただけのことですから、
   気に病むほどではないでしょう。

   世の中には、会社から倒産整理を命じられて子会社に出向し、
   逆に業績をV字回復させてしまった、なんて強者もいます。

   その人が左遷人事だと受け止め、落ち込んでばかりいたら、
   とても成し遂げることはできなかったでしょう。


   気持ちが腐りそうになったら、
   「逆境もまたよし」とでも つぶやいてみてください。

   与えられた境遇の中で生きていく気力が湧いてきます。

           <『小さな悟り』知的生き方文庫>

        ・・・

小林正観さんは「幸も不幸もない」という。

そう思う心があるだけ。

すべての現象はゼロだという。


つまり、事故も、病気も、成功も、失敗も、
すべての現象にはプラスもマイナスもなくゼロの状態。

良いも悪いもない、現象自体は常に中立。

たとえば、事故に遭ったとき、
「これは最悪だ、ツイてない」と思う人もいれば、
反対に「この程度で済んでよかった、ツイてる」と思う人もいる。

つまり、事故という現象自体には、良いも悪いもない。

人の見方や感じ方によって違うからだ。

そう思う心があるだけということ。



「好況よし、不況さらによし」(松下幸之助)

松下幸之助氏は、

「好況のときは駆け足、不況のときはゆっくり歩くようなもの」

と言った。

だから、不況のときは、好況のときには
目に入らなかった色々な欠陥に気づいたり、
社員教育を徹底するなど、基本にもどるチャンスと捉えた。


身のまわりに起こる様々な現象をどう捉えるのか。


中村天風師はそれを

「人生は心一つの置きどころ」と言った。


「順境もよし、逆境もまたよし」

という気持ちを持てる人でありたい。

        <感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/11/18 (Fri) 09:37:24


        *『 生長の家 』(昭和24年7月14日の法語)より

   ユダヤ人はその殆(ほと)んどすべての歴史が
   他民族からの圧迫と漂泊の生活であったが、

   その中からもっとも偉大な詩であるところの
   ダビデの詩篇(へん)が現われ、

   ソロモンの箴言(しんげん)は生まれ

   ナザレのイエスの福音が説かれたのである。


   もしユダヤ民族に対する運命の重圧がなかったならば、
   これらのもっとも尊きものは発現しなかったであろう。

   民族も裸一貫になって見なければ その真価はわからないのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6d32d10c516fe5d74e13cb6d9ef99cd2

        <感謝合掌 令和4年11月18日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/12/17 (Sat) 07:50:34


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より

恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。

人は困難を恐怖するが、
困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。

もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。

困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。

困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。

        <感謝合掌 令和4年12月17日 頓首再拝>
30:伝統 :

2023/01/17 (Tue) 07:18:31


       *「光明法語」(1月17日)より

新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。

新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。

今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。

新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。

如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。

満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。

        <感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>
31:伝統 :

2023/01/22 (Sun) 07:29:17


       *「光明法語」(1月22日)より

あらゆる見せかけの困難はすでに困難ではないのである。

吾は何事は起って来ようとも
神之(これ)を解決し給うことを信ずるのである。
如何なる出来事もこの信念を打ちこわすことは出来ないのである。

吾は目の前に起って来る如何なる困難をも
呪(のろ)いはしないのである。

すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。
吾が魂を磨く《やすり》である。

吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝く様になった時、
もはやそのようなあらあらしい砥石は
自分の魂に不必要になって来るのである。

従ってそのような困難は消えてしまう。

         <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>
32:伝統 :

2023/02/10 (Fri) 07:01:25


   *「光明道中記」(2月10日《困難を超えて向上する日》)より

【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
                     (『生命の實相』十一巻)】

魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。

甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を
振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。

かくの如くして吾々の力が向上するに従い、
困難が困難でなくなるのである。

吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、
吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。

最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。

お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、
吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。

最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。

お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても
実力がないから次の時に失敗する。

         <感謝合掌 令和5年2月10日 頓首再拝>
33:伝統 :

2023/03/17 (Fri) 07:38:43

《反対者があるので隙(すき)のない修行が出来る》

       *『 生長の家 』(昭和24年7月16日の法語)より

   吾々の反対者は 実は味方である。
   反対者があるので反対者を克服するための
   すべての論理や方法が生まれてくるのである。

   もし敵対者がなかったなら、
   囲碁を打つ楽しみもあり得ないのである。

   囲碁の楽しみは敵手があって
   自分と角逐(かくちく)するところにあるのである。

   反対者は吾々の気づかない欠点を
   わざわざ教えてくれる先生である。

   反対者があるので、微塵(みじん)も隙(すき)がなくなる修行が
   できるのである。


   住 吉 大 神 浄 め 給 う(2014-04-27 )
   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c0b969f50c318fcfa0d7c4b1fc53e5e4

          <感謝合掌 令和5年3月17日 頓首再拝>
34:伝統 :

2023/05/13 (Sat) 07:53:36


        *「光明法語」(5月13日)より

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。

          <感謝合掌 令和5年5月13日 頓首再拝>
35:伝統 :

2023/06/03 (Sat) 10:11:53


      *「光明道中記」(6月3日《困難消滅する日》)より

【心が「迷いの念」に引っかかって
  生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。(『生命の實相』第一巻)】

人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。

実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。

併し今私は試練の火が必要であったのでも、
困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。

試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。
自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と
調和しなかったのである。

みずから神から離れたるものと誤覚し、
「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。

今よりのち試練を神からきたものと考えまい。

私が悪いのである。
すべては私の責任である。

試練を神に帰することは神を残忍者であると観、
神を不完全であると観ることになる。
斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。

心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。

          <感謝合掌 令和5年6月3日 頓首再拝>
36:伝統 :

2023/06/08 (Thu) 07:38:41


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.4.5)より

   (松下政経塾元塾頭、
    上甲晃(じょうこうあきら)氏の心に響く言葉より…)

   北海道・遠軽にある北海道家庭学校は、
   百年の歴史を誇る児童自立支援センターである。

   キリスト教の教えに基づいて、
   不幸な過去を背負った少年の更生をめざしている。


   広大な敷地の中に、チャペルがある。

   そのチャペルの正面に、
 
   「難有(なんあり)」

   の二文字が掲げられている。

   「難有」。


   人生は、困難、難儀、苦難などの連続であるという意味だ。

   この文字を逆から読むと、「有り難い」である。

   即ち、「難有るは、有り難い」との意味を表している。

   私はこの二文字に、生きる本質をうかがう気がして、
   様々な機会に紹介してきた。


   どうして、「難有る」は、「有り難い」のか。

   「難」など何一つなく、平穏無事の連続で、
   物事が面白おかしく過ぎていく方がいいのではないか。

   誰しもそう思う。


   しかし、現実の人間社会は、「難」の連続である。

   その「難」を受け入れられない人は、
   「どうしてこんな目に遭わなければならないのだ」と恨めしく思い、
   ひがみ根性が込み上げてきて、落ち込むばかりである。


   逆に、「難」に遭遇した時、
   「嘆いても嘆いても、何の解決にもならないから、受け入れよう」
   と考える人は、「難」を生かすことができる。


     《難有るは、有難し》


      <『人生の合い言葉』致知出版社>

         ・・・

筑波大学名誉教授の村上和雄氏のこんな文章があった。
(幸せの遺伝子/育鵬社)より


『「ありがとう」の語源は、
 「有り難い(有り難し)」という言葉です。

 これは文字どおり、「有ること」が「難(かた)い」

 つまり存在することが難しいという意味です。

 本来は、「めったにない」や
 「珍しくて貴重である」ことを表しました。』


つまり、難が有ることは、滅多にないくらい有り難い、ということになる。

だからこそ、「難」は忌み嫌うものではなく、淡々と受け入れること。

そして、「難」をありがたく押し頂(いただ)くこと。


人間の成長には「磨き砂」が必要だ。

「磨き砂」によって切磋琢磨され、高められていく。

「難」はまさに「磨き砂」。


「難」がなかったら、一生涯、我々は磨かれない…

「難有るは、有難し」という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和5年6月8日 頓首再拝>
37:伝統 :

2023/06/11 (Sun) 05:04:58


      *「光明道中記」(6月11日) より
       ~困難を征服し宝石を得る日

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、
それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多い
のと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが
生長の家の生活ではない。

盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、
盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。

不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから
得られるのである。

       <感謝合掌 令和5年6月11日 頓首再拝>
38:伝統 :

2023/07/03 (Mon) 04:36:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月3日)より

われらのすべての経験は、
自分の内にある「神」を掘り出す作業である。

どんなにそれが失敗したように見えようとも、
どんなにそれが深刻であり、悲惨なように見えようとも、
それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、

われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。

深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。

どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。

       <感謝合掌 令和5年7月3日 頓首再拝>
39:伝統 :

2023/12/04 (Mon) 10:39:43


           *「光明道中記」(12月4日)より

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。
 何事も魂の生長の養分である。 (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、
その人にとって一つの誘惑であることがある。
通らないことが時にはあるので、
自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、
我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

            <感謝合掌 令和5年12月4日 頓首再拝> 
40:伝統 :

2023/12/11 (Mon) 09:18:19


     *「光明道中記」(12月11日《無限生長の日》)より

【心を尽し、力を尽して自分自身の無限の可能性を信ぜよ。
                     (『生命の實相』第四巻)】 
                 
宇宙の法則は無限生長にある。換言すれば進歩にある。
だから必ずしも隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むのが悪いのではない。

ただそれが「公(おおやけ)」なる道に乗らないのが悪いのである。
彼が「公」なる道に乗る限りに於いて、進歩を心がけること、前進を心掛けること、
成功を心がけることは正しいことであり、祝福されることである。

前進する者は衰退しない。
前進する者は多くの困難と戦わなければならない。
困難と戦うことには色々の新しい経験を得る。困難と苦痛とは異なる。

新しい経験は自分の生命の中から「新しい推理」を発掘して来る。
前進するものは常に新しい鉱石に打(ぶ)つかる。

吾々の獲得は、そのたび毎に増加するのである。
吾々の獲得は眼に見えた成果のみではない。
もっと眼に見えない魂のダイヤモンドが
吾々の前進によって得られるのである。

そして此の魂のダイヤモンドは、
その採掘の動機が利己的でなければならない程、
「公」であればあるほど、より多く獲得することができるのである。

人間は物質的にどれだけあれば生活出来るか、
それは極(ごく)僅(わず)かな分量である。
それ以上に費やされるのは多くは虚栄(みえ)のためである。
此の分量を「公」にために献げよ。

           <感謝合掌 令和5年12月11日 頓首再拝>
41:伝統 :

2023/12/17 (Sun) 09:59:22


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より

恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。

人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。

もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。

困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。

困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。

           <感謝合掌 令和5年12月17日 頓首再拝>
42:伝統 :

2023/12/18 (Mon) 09:59:54


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日)より

およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。

与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。

わたしはある日、
鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、

慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を
失ってしまったことがある。

板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、
かえって救いの手であったのだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、
与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、
呪詛を感じ、そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまった
のであった。

困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。

静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康と
なるための素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。

         <感謝合掌 令和5年12月18日 頓首再拝>
43:伝統 :

2024/01/22 (Mon) 11:45:01


        *「光明法語」(1月22日)より

あらゆる見せかけの困難はすでに困難ではないのである。

吾は何事は起って来ようとも
神之(これ)を解決し給うことを信ずるのである。
如何なる出来事もこの信念を打ちこわすことは出来ないのである。

吾は目の前に起って来る如何なる困難をも
呪(のろ)いはしないのである。
すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。
吾が魂を磨く《やすり》である。

吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝く様になった時、
もはやそのようなあらあらしい砥石は
自分の魂に不必要になって来るのである。
従ってそのような困難は消えてしまう。

            <感謝合掌 令和6年1月22日 頓首再拝>
44:伝統 :

2024/02/10 (Sat) 09:38:36


   *「光明道中記」(2月10日《困難を超えて向上する日》)より

【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
                     (『生命の實相』十一巻)】

魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。

甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を
振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。

かくの如くして吾々の力が向上するに従い、
困難が困難でなくなるのである。

吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、
吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。

最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。

お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、
吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。

最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。

お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても
実力がないから次の時に失敗する。

         <感謝合掌 令和6年2月10日 頓首再拝>
45:伝統 :

2024/05/03 (Fri) 08:44:35

フジコ・ヘミングさん死去 霊的に感じられる事など
宇宙の兄弟たちへ(2024年5月2日)
https://www.spacebrothers.jp/2024/05/blog-post_2.html

         <感謝合掌 令和6年5月3日 頓首再拝>
46:伝統 :

2024/05/13 (Mon) 11:22:29


       *「光明法語」(5月13日)より

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。

         <感謝合掌 令和6年5月13日 頓首再拝>

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