伝統板・第二 2549615

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今・ここ ⑤

1:伝統 :

2022/01/02 (Sun) 04:56:32

「今」は常に喜びに満ちている。

       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。

「今」は常に生きている。
「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。


・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357  →(消滅)

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16  →(消滅)

   「伝統板・第二」内スレッド「“今”を生かせということ (光明掲示板第二)」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7926275

(4)光明掲示板・第三「今を生きよ! (135)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=58

(5)光明掲示板・伝統・第一「今が時なり (54)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=35

(6)伝統板・第二「今・ここ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458155

(7)伝統板・第二「今・ここ②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6924605

(8)伝統板・第二「今・ここ ③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707876

(9)伝統板・第二「今・ここ ④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934885

           <感謝合掌 令和4年1月2日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/01/18 (Tue) 04:16:09


       *『 生長の家 』(昭和23年9月8日の法語)より
        ~過去に低回する心を捨てよ

「昔はあんな事があった、こんな事があった」 と
過去の善や繁栄を誇る心は 老衰の徴候である。

心が過去に執着するようになれば前進が止る。

過去の善や繁栄を誇るのは
過去の悪や失敗に いつまでも引っかかって嘆いている心よりも
ましであるが、

「 今 」 を生きない点に於いて五十歩百歩だ。


今を生きよ、屹度(きっと)諸君は前進するであろう。


「 今 」 を生きよと云っても 「 今 」 の悩みや行き詰りを 人に訴えてはならぬ。

他の同情を求める心は 失敗に快感を感ずる心であるから失敗を招く。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 令和4年1月18日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/02/18 (Fri) 02:29:48


       *『愛と祈りを実現するには』谷口清超(著)より

宝物は遠い手のとどかぬ彼方(かなた)にあるのではなく、
今、此処(ここ)にあるのであります。

極楽浄土は、「此処を去ること遠からず」であります。

あなたは今、あなたの人格完成に最もふさわしい
仕事の上に立っているのであります。

一弾指(いちだんし)のうちに、それがあらわれて来るのであります。

           <感謝合掌 令和4年2月18日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/02/19 (Sat) 03:30:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

           <感謝合掌 令和4年2月19日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/05/28 (Sat) 11:39:57


      *メルマガ「人間力」(2022.5.28)より

─────────────────

いただいた、たった一度の人生を何に懸けるのか――。

日本を代表する尼僧・青山俊董老師が
若き日に選んだ人生の結論は、
尼僧として仏法に生涯を捧げることでした。

愛知専門尼僧堂での日々の厳しい修行を通して
自らを掘り下げながら、多くの雲水の指導、
執筆、講演など仏法の伝道に努めている青山老師に、
その求道の歩みと人間が根を深めるための要訣を伺いました。

─────────────────

(……お話を拝聴しながら、
青山老師が厳しく自己に立ち向かいながら、
自らを深く掘り下げていらっしゃる姿が伝わってきました。)

〈青山〉

たった一度の命をどう生きるか。
結局はそのことに尽きるでしょうね。

選ぶ人生、授かりの人生という話をしましたが、
命というのはいま、いま、いまの連続です。

いまここを、いただいた命に相応しい生き方として選んでいく。
そのことで人間が磨かれ、
人間としての根が深まっていくと思います。

そして深まるほどに、
足らない自分というものに気づいていく。

何事も一所懸命に打ち込もうとする姿勢は
もちろん大事だと思いますが、
それだけではくたびれてしまいます。

しかし、生かされた命ということが
本当に分かってくれば、
自ずからそれに相応しい生き方を
しないではおれなくなる。

学ぶほどに足りない自分に気づけば、
限りなく学ばないではおれなくなる。

そうすれば学ばせていただくこと自体が
大きな喜びですわな。

「遊化(ゆけ)」という言葉がありますが、
私など毎日、知らなかった、足りなかった、
気づかせてもらえたと、その喜びばかりです(笑)。

(――人生が一度きりであることを強く自覚することが、
より人生を豊かにしてくれるということなのですね。)

〈青山〉

そう思います。人生は一度きり、
それをどう生きるかという自覚が生まれれば、
吉川英治さんが
「我以外皆我が師」とおっしゃっているように、

よいことも悪いことも、自分の心次第で
すべて人生の根を養う材料にすることができます。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2022-03-22)
どんなに苦しいことも期間限定です
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/23e3166e04affcee1e2cb4811433b1f0

            <感謝合掌 令和4年5月28日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/06/26 (Sun) 07:18:43


       *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。

”Every day is best day in the year ”
(毎日毎日が1年中で最も良き日である)

とエマースンは言っている。


達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。

鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。

他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 令和4年6月26日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/06/29 (Wed) 07:16:36


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、いつの間にか纏まった感想集ができているのである。
気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 
との自覚で、現象的には余裕のない中から、気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。
日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 令和4年6月29日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/07/01 (Fri) 07:28:03


          *「光明法語」(7月1日)より)

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 令和4年7月1日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/07/04 (Mon) 07:12:22


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.06.25)より

   (東京大学名誉教授、矢作直樹氏の心に響く言葉より…)

   その悩みにどう向き合うか。

   人生はこの「課題」の解消に大半が費やされます。

   臨床医として長年、さまざまな医療現場に携わる中で見てきたこと、
   あるいは感じたことが、人々の「悩みとの果てしない闘い」でした。


   悩みには一つとして同じものがありません。

   同じように見えて、どれも違う性格をしています。

   自分は病気になるのか、自分の死に場所はどこになるのか、
   いつ死ぬのか......、
   そういう漠然とした不安を抱えて悩んでいる人も多いでしょう。

   悩みの幅と深さは人それぞれで違いますから、
   そんなことで悩むなと一方的な言い方はできません。

   でも、あれこれとよからぬ想像をめぐらす余裕があるのなら、
   いつ来るかわからない不安ではなく、
   「すぐにやれる(行動できる)楽しいこと」を想像してみてください。


   重い病気になろうとなるまいと、私たちは遅かれ早かれ死ぬのです。

   自分がいつ他界しても悔いが残ることのないように毎日を生き切る。

   これが私の言う心がまえです。

   その気持ち、つまり「決意」が自分の中に生まれたなら、
   「だったらもう少し、この世界を生きてやろう」という
   強いエネルギーが 自然と生まれます。

   人間は意外と強いものなのです。


   生き切るという意味では、人生の長さは問題ではありません。

   百歳で大往生した老人が称賛される一方、
   十歳の誕生日を迎えることなく亡くなった子どもには憐みが向けられる、
   これは大変おかしな話です。

   そもそも人生の価値は生きた長さで判断されるものではありません。

   短くとも人生を生き切った人にも「本当にお疲れさまでした」と
   労(ねぎら)いたいものです。


   死は生物としての宿命ですが、
   死は同時に私たちの「次の生」のための出発点です。

   私たちの本質である「魂」は永遠不変の存在であり、
   肉体が滅んでも私たちの本質が滅びることはありません。

   とは言え、今回の人生はこれっきりです。

   次回はまったく違う人生を歩くことになります。


   そう考えると、今回の人生でやっておきたいこと、やるべきことが、
   皆さんそれぞれに浮かぶのではないでしょうか。

   悩みというのは、人生の途上で出会う私たちが
   解消(解決)しなければならないテストのようなものです。

   悩みと上手に付き合いながら、感謝して今を楽しむ。

   今を楽しむことで、生きていることを実感する。

   これが人生で最も大切なことです。

   人生の醍醐味と言っていいでしょう。


   「悩まない」というテーマは一見、
   「言うは易く行うは難し」のように思われるかもしれませんが、
   実は誰にでも容易にできると思います。

   あたりまえのことを、今さらながらやってみる。

   たったこれだけで毎日ががらりと変わることでしょう。

       <『悩まない生き方』知的生き方文庫
               https://amzn.to/3bpSAEt >

           ・・・

城山三郎氏のこんな言葉があります。

『六十代に入ったころ、「これはいい、これで行こう」と思ったのは、

 「残躯(ざんく)楽しまざるべけんや」

 という伊達政宗の言葉であった。

 もっと日常的な言い方では、

 「今朝酒あらば 今朝酒を楽しみ 明日憂(うれい)来たらば 明日憂えん」

 といった生き方である。』 《無所属の時間で生きる》


人は、まだ起こりもしないことをあれこれ心配して、不安になってしまいます。

心配事の9割は起こらないというのに、思い悩むのです。



それは、まさに…


『一度だけの人生だ。

 だから今この時だけを考えろ。

 過去は及ばず、未来は知れず。

 死んでからのことは宗教にまかせろ。』

という、中村天風師の言葉の通りです。


たとえどんなことがあろうと…

この今を、楽しめる人でありたいと思います。

           <感謝合掌 令和4年7月4日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/09/09 (Fri) 08:53:24


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.08.09)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   《やがて死ぬ けしきは見えず 蝉(せみ)の声》

   という芭蕉の句がある。


   蝉の寿命は一週間といわれる。

   しかし、そんなそぶりも見せず、
   蝉は 与えられた夏の一瞬の生を天地いっぱいに、鳴いている。

   「いま」「ここ」に完全燃焼している姿を芭蕉は感動をもって、とらえている。


   人生には「いま」という時間と、「ここ」という空間以外には存在しない。

   生きるとは、「いま」「ここ」を間断なく生きる、ということである。


   禅者のいう「生也全機現(しょうやぜんきげん)」とは、
   いまここを最高に生ききれ、ということである。

   そのときに、いのちは全機(すべての働き)を現出させる。

   「いま」「ここ」を完全燃焼する。「いま」「ここ」に全力を尽くす。

   そういう生を生きたいものである。

       <『小さな人生論 2』致知出版社 https://amzn.to/3SxuN6Q

              ・・・

蝉の幼虫は土の中で7年を過ごし、
地上に出てくるとわずか1週間で死ぬ、とよく言われています。

が、しかし、日本には7年も過ごす蝉はおらず、
アブラゼミで3〜4年、クマゼミで4〜5年だそうです。

いずれにしても、長い年月を地中にいて、
わずか1週間で死んでいくというのは儚(はかな)い命、
としかいいようがありません。

明日死ぬかもしれない、そんなそぶりもみせず、

「いま、ここ」をしっかり鳴ききる蝉。


「生也全機現」の後には「死也全機現(しやぜんきげん)」という言葉が続きます。

臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺(よこたなんれい)師は、

「全機現とは、己のすべてを全うし尽くすことだ。

 生と死は別ものではない。

 生を全うすることが、死を全うすることでもある。

 花が精一杯咲くことは、精一杯散ることでもある。

 一つのものだ。

 今生きていることを大切に、今日一日笑顔でいることこそが『全機現』なのだ」

と言います。


また、禅の言葉に、「両忘(りょうぼう)」があります。

「両忘」とは、すべての対立概念を捨てることです。

善と悪、愛と憎、美と醜、有と無、生と死、という二元対立の概念を捨てる。

死ぬことを忘れ、なお生にも執着しない。


そのためには、「いま、ここ」を生きるしかありません。

未来もないし、過去もない、どこまでいっても、「いま、ここ」です。

今日一日をしっかり生きるということです。


夏に鳴く蝉の如く…

「いま、ここ」をしっかりと生きてゆきたいと思います。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-04-09)
誰もが嫌がる途中状態こそが、愛すべき瞬間だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/6b19cf62f2d2e72bc07279e2897775b9



伊勢ー白山 道(2021-10-16 )
宇宙は、過去も現在も未来も同時に存在する車輪だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/88b6fbd7308c355ecc1043e8ed19fef4

           <感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/10/21 (Fri) 07:00:45


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.08)より
        【これだけは失いたくないもの 】

   (ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…)

   「これだけは失いたくない」ってもの、ありますよね?

   そのベスト5を考えてみてください。

   僕の例であげるなら、

   ●家族

   ●友だち

   ●本を書くという仕事

   ●これまで書いた本

   ●宮下貴裕さんの作った服


   あなたはどうでしょうか?

   失いたくないものを5つ考えてみてください。

   必ず、5つ考えてから、次へ進んでください。



   《はい。 あなたはそのすべてを失います。
    あなたが死ぬ日に、それらをすべて失います。》


   「ひすいさん、岩手の山田町に、おいしいものを食べに行きませんか?」

   ある友人に、そう誘われました。

   山田町といえば、東日本大震災の津波で町ごと流されてしまった場所。

   そこに、おいしいものを食べに行く?


   その友人いいました。

   「ひすいさん、山田町ってすごいんです。
    今回の震災で町中の方々が悟ったんじゃないかって思えるくらい、
    町の方々がすごい言葉を発するんです」

   というわけで山田町に連れていっていただきました。


   僕らを最初に出迎えてくれたのは漁師のおじちゃん。

   いきなり、ごっそり、新鮮な牡蠣とムール貝を出してくださいました。

   え? いいの?

   「食べんしゃい、食べんしゃい」と漁師のおじちゃん。


   「ここにいる仲間は、みんな家も流されて、仕事もないんだ。ははははは」

   え? え? え?はははって?

    被災地の方たち、家を流されているのにこんなに明るいの?

   仕事もなくなったのにこんなに明るいの?

   笑いの絶えない山田町の方たち。


   1時間が過ぎた頃、僕はそのおじちゃんにこう切り出してみました。

   「どうしてそんなに早く立ち直れたんですか?」

   その質問で、おじちゃんの笑顔が一瞬だけ止まったように見えました。


   そして逆に質問されました。

   「立ち直ってると思う?」


   あああああああ!!!! しまった!!!そうだよな。

   僕はなんて無神経な質問をしてしまったんだろう......。


   おじちゃんはこう続けました。

   「悲しんで下を向いてたってなにも始まらない。
    いまは前を向くしかない。
    ウソでも笑える人は前へ進める」

   あとでわかったことですが、そのおじちゃんは
   お兄さんを震災で亡くされていました。

   一夜にして家を失い、仕事を失い、家族を亡くしながらも、
   ウソでいいからと笑い、前へ進もうとしている方たちが山田町にはいました。


   山田町が大好きな子どもたちのために、来月イタリアンレストランをひらくんだ
   と語ってくれた人。

   よくよく話を聞いたら、その方は、奥さんを震災で亡くされていました。


   「自分のことで悩めるって幸せよ」

   「つまらないことをしているから、つまらなかったんだとわかった」

   「すべてを失って、なにもいらないことがわかった」

   「元気だからがんばるんじゃない。がんばるから元気が出るんだ!」


   聞いた言葉の一つひとつが、胸に突き刺さりました。

   「命をなめんなよ」
   そういわれている気がしました。


   僕らは100年後、この地球にいません。

   つまり、得たものを、すべて手放す日が来ます。

   昨日得たものも、明日得るものも、すべて手放す日が来ます。


   そう考えると、何かを得ることが人生ではないことがわかります。

   天の迎えが来るその日まで、思い切り生きること。

   それが人生です。


   寒さのなか、家族を失い、家を失い、仕事を失った人たちが、
   ウソでもいいからと 笑って前へ進んでいる。

   「泣いたって何も始まらないから」

   「笑っていると勢いが出るんだ」。

   そう笑いながら。


   そんなにすごい力が人間には隠されているんだ。

   そんなにすごい力があなたにも隠されているんだ。

   そのすごい力を発揮しないで、死んでどうする?

   どうせ死ぬなら、自分の底知れぬ可能性に驚いてから、死のうよ。

       <『明日死ぬかもよ?』ディスカヴァー>

        ・・・

人間の死亡率は100%だという。

しかし、普段、我々はそれをすっかり忘れている。

それを考えないから、のんきに、ノーテンキに生活できる。

ケンカしたり、文句いったり、怒ったり、不満言ったり、グチ言ったり…。


だが、誰もがいつか、この「決まりごと」を思い出すときがくる。

そのときは、どんなに大切な、最愛の人も、
大事なものも、家も、お金も、肩書も、そして、自分の体も、
置いて旅立たなければならない。


だからこそ…

行きたかった場所に、今、行こう。

ずっと会ってなかった友と、今、会おう。

見たかった映画や本を、今、見よう。

そう、ずっとやりたかったことを、今、始めてみよう。



もっと、面白いことをやろう!

もっと、素敵なことをやろう!

もっと、挑戦しよう!

そして、もっと、冒険しよう!


人生は、今、しかない。

       <感謝合掌 令和4年10月21日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/11/19 (Sat) 07:23:44


        *Web:かんながら(2022年10月21日)より

ストーリーの中を生きているのか、
それとも「いま」を生きているのか、
つまるところ、この分類しかないと思います。

そして大抵はストーリーを生きているのですが、
自分ではそのことに気づいていません。

ストーリーを生きるしか、他に生き方を知らないからです。


「いまを生きる」と言うと、多くの人は「いま」に集中しようとします。

でもそういうことではありません。

「いまを生きる」とは、自分という存在の化学的変化みたいなもので、
在り方が全く違っているのです。


ストーリーは、自分と世界という2つの関係の中で作られていきますが、

いまを生きるとは、自分と世界が一つになっているということです。


自分対世界 ではなく

自分が世界 という感覚です。


違う言い方をすると、
「いま」とは瞬間のことではなく、時間を超えた次元の別名です。

過去や未来があると信じているから、そこにストーリーが生じてくるのです。

ストーリーとは時間という錯覚の産物であり、
マインドの捏造であり、それは実在していません。

「夢」です。



目覚めるとは、夢から覚めるということであり、
ストーリーを見ている自分から目覚めるということです。


ストーリーの中を生きているのか、それとも「いま」を生きているのか。

これだけをチェックポイントにして生きてみましょう。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12359777.html

       <感謝合掌 令和4年11月19日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/11/20 (Sun) 07:33:54


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.13)より

   (精神科医、心療内科医、臨済宗住職、
    川野泰周(たいしゅう)氏の心に響く言葉より…)

   「疲労」(疲れ)というものは、
   「痛み」や「発熱」と並んで生体が発する
    三大アラームの一つであり、

   私たちの身体が出してくれる貴重なSOSのサインなのです。

   人は疲れるものであり、疲れるから寝る、
   寝るから疲れが取れる、また疲れたら寝る。

   これは誰もが疑いようのない自然な生体システムです。


   血気盛んな10代でも、徹夜で遊べる20代でも、
   私たちは生きている限り疲れます。

   疲れというものを完全になくして生きることはできません。


   でも、もしかすると、あなたのまわりには
   疲れにくい人がいるのではないでしょうか?

   誰が見てもハードワーク。

   責任やプレッシャーも大きい立場にもかかわらず、
   毎日ハツラツとして元気な人。

   既存の枠組みを飛び越え、新たなことにチャレンジしながら
   自分らしく生き生きと過ごしている人がいます。

   こうした人たちは、どうして疲れないで毎日過ごせるのでしょうか?


   私たち人間には、生まれ持った「気質」という心の性質があり、

   元来物事をポジティブにとらえる方もいれば、
   ネガティブに考えてしまう方もいます。

   ポジティブなとらえ方ができる方は、
   失敗をしてもクヨクヨせずに、一つの学びとして
   将来の糧としていける人です。

   日々の体験をストレス源にしてしまうことが少ないため、
   疲れにくい特性を持っています。


   逆にネガティブな人は、何かが起こったときに
   自分と紐づけて責めてしまったり、
   次も悪いことが起こるに違いないと
   不安を抱えてしまうため、ストレスが連鎖して心の疲労を抱えがちです。

   まるで、「自分を疲れさせるメガネ」をかけているようなものです。

   このネガティブな色メガネが、物事のマイナスな面ばかりを捉え、
   不安や緊張、イライラや腹立たしさといったネガティブ感情を
   常に抱えてしまう原因となります。


   こんな余裕のない心の状態では、
   いくら休んでも疲れは取れそうにありません。

   自分自身を「疲れのループ」から救いだすためには、
   自らの力でネガティブなメガネを外すことが必要です。

     <『精神科医がすすめる 疲れにくい生き方』
           クロスメディア・パブリッシング>

        ・・・

川野泰周氏は、
わたしたちが抱える疲れの大部分は、心理的要因であるという。

こうした心の疲れ、心理的な疲労は、「脳の疲れ」によるものだ。

それに加え、近年急速に増大しているのが「マルチタスクの疲れ」。

それはたとえば、休日に
「来週はあのプレゼンがあるな…」
「来週の会議ではこれを提案しよう」
「あのメールを返さなきゃ」などと
考え続けてしまうようなことだ。

一見休んでいるように見えて、脳はいろいろな考えごとに従事していて、
いわばいくつもの仕事を同時にし続けている状態。

すると、脳のオンとオフの切り替えがうまくいかずに、
「身体は休んでいるのになぜか疲れが取れない」という現象が起こる。



禅には、

「即今(いま・そっこん)」

「此処(ここ)」

「自己(わたし)」

という有名な言葉がある。

我々が生きるということは、昨日でもなければ明日でもない、
バーチャルの世界でもなければ、そして、
他人をうらやんだりすることでもなく、

「いま、ここ、わたし」を生きること。


行徳哲男師はそれを、

『獣(けもの)には時の観念がない。獣には
「昨日はよかった」も「明日はなんとかなるだろう」もない。

 獣にあるのは「今」と「ここ」だけだ。だから、迷わない。不安もない。』

『不安や迷いは時がつくるものである。
 昨日と今日と明日をつないで見るから不安になり、迷いが起こる。

 「今」と「ここ」しかないと思えば、何もないのである。』

という。


まさに、マルチタスクの疲れとは、
「いま、ここ、わたし」に集中していないから起こる、ともいえる。


何事もポジティブに考え…

「いま、ここ、じぶん」を生きる人でありたい。

          <感謝合掌 令和4年11月20日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/12/08 (Thu) 07:42:41


    *「光明道中記」(12月8日《永遠の今を生きる日》)より

【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、
形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。

太陽の前の星のようなものである。


《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、
ただ権力の増大や、名誉の高揚や、自己の勢力範囲の
拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に
大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。


では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。

外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、
何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、

ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のために
その仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、
それは随伴現象に過ぎない。

            <感謝合掌 令和4年12月8日 頓首再拝> 
15:伝統 :

2022/12/18 (Sun) 11:20:48


           *「光明道中記」(12月18日)より抜粋

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。
 世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

         <感謝合掌 令和4年12月18日 頓首再拝> 
16:伝統 :

2022/12/20 (Tue) 07:38:13


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.11)より

   (森信三師の心に響く言葉より…)

   《わが信条》

   一、人生二度なし

   二、真理は現実の唯中にあり

   三、教育とは人生の生き方のタネ蒔きをすることなり

   四、教育は流水に文字を書くような果てないわざである

   五、念々「死」を覚悟してはじめて真の「生」となる



   《人生二度なし》

   皆さん!!

   わたくしたちのこの人生は、ただ一回だけのものでありまして、
   二度と繰り返すことのできないものであります。

   そしてこのことは、人から言われた時とか、
   あるいは書物に書かれているのを読んだりした際には、
   どんな人でも「確かにそれに違いない」と思うでしょうが、

   しかしその感動の永続する人は少なく、いつの間にやら忘れ去って、
   この自分の一生が、まるでいつまでも無限に続くものででもあるかに考えて、
   ついウカウカと過ごしやすいのが、われわれ凡人の常であります。

   このようにわれわれ人間の一生は、
   そんなに無限に生きられるものではなく、
   ひと度(たび)死んでしまえば「もう一度やり直す」ということは、

   尽未来際(じんみらいざい)、絶対に不可能でありまして、
   それはちょうど、書道の練習に際して、清書用の紙が一枚しか
   渡されない場合と同様であります。



   《人生の二大根本真理》

   この「人生というものは二度とくり返し得ないものだ」ということと、

   もう一つは、われわれ人間は、いつ死なねばならぬかわからぬという、

   人生に関するこの二大根本真理が、
   心の底でガッチリと切り結ぶようになると、

   そこからして初めて「今日」という一日が、
   いかに大切かということがわかり出すわけです。

   そして、この二度とない人生を真に充実して生きるといっても、
   結局突きつめた最後は、

   「今日」という この一日を、いかに充実して生きるか、
   という努力のほかないわけです。
 
   それをさらに突きつめれば、
 
   「今日の予定は断じて仕上げて 明日にのばさぬ人間に!!」

   というほかないことになりましょう。

     <『森信三 運命をひらく365の金言』致知出版社>

       ・・・

「世の中はここよりほかはなかりけり、
 よそにはゆかれず、わきにゃおられず。

 世の中は、今よりほかはなかりけり、
 昨日は過ぎつつ、明日は来たらず。」

という禅の言葉がある。


静岡県三島市の名刹、龍沢寺(りゅうたくじ)の
山本玄峰(げんぽう)老師がいつも口にしていた言葉だという。

幕末、山岡鉄舟が江戸から通った白隠禅師開山の寺だ。


「わきにゃおられず」とは、自分はいつでも主役だということ。

すべてのことを自分事として捉えないかぎり、真剣にはなれない。

すなわち、禅でいう

「いま、ここ、わたし」だ。


『今が楽しい。今がありがたい。今が喜びである。
 それが習慣となり、天性となるような生き方こそ最高です』(平澤興)

まさに、今を生き生きと、あざやかに生きるということ。


「人生二度なし」という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和4年12月20日 頓首再拝>
17:伝統 :

2023/02/14 (Tue) 06:44:20


       *Web:かんながら(2023年02月13日)
            読者のコメント より

9.11が起こり
「とんでもない大惨事が起きた!一体どうすればいいんだ?!」
とアメリカ人が非常にショックを受けて苦しんでいるとき

エックハルト・トールがメディアに登場し
「今にあること」を説きました。

「今にあること」というメッセージはアメリカ人に大歓迎されました。

エックハルト・トールの人気は今も続いています。


3.11が起こり
「とんでもない大惨事が起きた!一体どうすればいいんだ?!」
と日本人が非常にショックを受けて苦しんでいるとき

林修さんがメディアに登場し
「いつやるの?今でしょ!」と説きました。

「いつやるの?今でしょ!」というメッセージは日本人に大歓迎されました。

林修さんの人気は今も続いています。


大きな変化があり
大きな苦しみにあるときこそ

「今にあること」
「今を生きること」が大きな力になります◎


今にあるほど↓
今を生きるほど↓
今心から安らぎます←―→

今心の中に安らぎがあります◎

Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2023年02月13日 09:30

https://abetoshiro.ti-da.net/e12444763.html

           <感謝合掌 令和5年2月14日 頓首再拝>
18:伝統 :

2023/02/16 (Thu) 07:27:37

並木良和「生と死を見つめて今を生ききる」
TRINITY & 癒しフェア(2023/02/15)
https://www.youtube.com/watch?v=3z1QOFr4Moc

           <感謝合掌 令和5年2月16日 頓首再拝>
19:伝統 :

2023/02/19 (Sun) 04:53:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より

時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、
それは蒸発して消えてしまう。

時間を大切にしようと思って時間時間と考えても
イライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は
何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

           <感謝合掌 令和5年2月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/03/07 (Tue) 07:51:30


     *Web:かんながら(2023年01月05日)より
          【気分の保ち方】

気分は、いい気分とそうじゃない気分が、
入れ替わり立ち替わり現れては消えていきます。

それが数秒で入れ替わることもあれば、何か月も続くこともある。

それでもやはり変わっていきます。


この僕も同じで、色んな気分が現れては消えていきます。

こればかりは意識の呼吸みたいなもので、
膨らんだり収縮したりでどうしようもない。

勝手にしろ!って感じですが、できることもある。

それが瞑想です。


瞑想すると、気分と自分との間に
ギャップができてニュートラルな落ち着きを取り戻すし、
気分を観照すれば影響されなくなります。

早い話が「物語」から

「いまここ」

に帰ってくるわけです。


だから僕の場合は、どんな相談を受けても
「瞑想したらいいよ」と答えます。

物語の内容を一緒になって考えてあげても仕方がないしね。


あともう一つ思うのは、
気分が落ちている時の思考は、自分の都合だったり、自分の心配だったり、
自分のことばかりになっています。

それを、自分は人に何をしてあげられるだろうかと
意識を外側に向けると、また気分がよくなったりします。

与えて与えて、あとのことはお任せという感じです。


人によっていろんなやり方があるかと思いますが、結局のところ

「いま」に戻ってくればいいだけの話。

そして「いま」を生き始めれば、
気分に振り回されずに、ただ目の前でやることをやるだけになります。


思考はあれこれ言うけれど、思考の内容はほとんど全部デタラメ。

そのことを忘れずに生きましょう。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12416758.html

        <感謝合掌 令和5年3月7日 頓首再拝>
21:伝統 :

2023/04/08 (Sat) 07:16:45


      *Web:かんながら(2022年08月07日)より

思い出話ですが、若かりし頃、
どうせ一度きりの人生だからと快楽を
とことん追求したことがあります。

それができる条件が整っていたのは幸いでしたが、
快楽はいつも刹那的で、行けども行けども行き着くところがない。


どこにも行き着かないのは、まだ足りないからだと自我は言います。

その声を信じてまた突き進むのですが、
欲求不満は止むことがありません。

それどころか快楽はいつの間にか苦痛に変わっていました。


何かが足りないという思いは人間を行動に駆り立てます。

しかし残念ながら、そのように行動して結果を手に入れても、
何かが足りないという思いが消えることはありません。


欠乏感の理由は外側にはなく内側にあるからです。


当時の経験は何一つもたらしませんでしたが、
何一つもたらさないということが分かったことだけは収穫でした。

足るを知ることを知ったのです。


人生はいつも「いまどうであるか」ということが問われています。

この先どうなるかは幻想の中にしかありません。

いまどんな自分でいるのか、ただそれだけが起きています。


ところが人の多くは、自分の願いが叶ったときの幸せを想像し、
その幸せを目指して「いま」を生きています。

まるで唯一の現実である「いま」が、
幻想である「いつか」のために存在しているかのようです。


たとえ今日と言う日がどんな日だとしても、
今日しかないという気持ちで生きてみませんか。


人を恨んだり、嘆いたりしている時間はありません。

今日一日しかないとしたら、そんなことはどうでもいいことだからです。


まさにいま、どんな自分を創造するのか。

人生とは単にそのことの繰り返しであり、
それ以外はすべて頭の中のストーリーです。


まさにいまどんな自分であるのか。

いまの自分は、いままでの自分とは何の関係もない
ということに気づくのです。

そこを気づくことが再誕となります。


再誕とは過去との決別。

誰でもない新しい自分の誕生です。


真実はそのようにして毎瞬新しく生まれ続けているのですが、
人は過去を持ち運びながら、よりよい未来を夢見ます。


風はいま吹いています。

太陽はいま照っています。

僕たちもいま呼吸しています。

頭の中以外は、すべていま起き続けているのです。


どこまで行っても同じこと。

何がどうなっても、
まさにいまどんな自分でいるのか、それだけがあるのです。


先延ばしする必要はありません。

まさにいまどんな自分なのか、いまから始めてみましょう。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12299625.html

         <感謝合掌 令和5年4月8日 頓首再拝>
22:伝統 :

2023/04/30 (Sun) 08:33:11


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.11)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   お釈迦様のこんなお話があります。

   弟子にこう聞かれました。

   「お師匠様は神通力に優れ、人の前世や来世が見えるとのことですが、
    私の前世はどんなものだったのでしょうか」


   お釈迦様はこうお答えになりました。

   「そんなことは考えなくていいから、
    こんにち、ただ今、この刹那(せつな)を大事にしていきなさい」


   弟子はしばらくして、また聞きました。

   「私の前世を教えてください」

   お釈迦様はまた、静かにこう言いました。

   「そんなことは考えなくていいから、
    こんにち、ただ今、この刹那を大事にしていきなさい」


   「念」という字を考えた人も、お釈迦様も、
   多分、宇宙から同じことを教えてもらったのではないかと思います。

   時代を超えた、時空間を超えた事実があります。

   私も時々
   「私の前世はなんだったと思いますか?」と尋ねられることがあり、そのたびに
   お釈迦様の答えを引用しています。

   そして、時にこのように答えます。


   「かりに前世で強盗や詐欺をおかしていたとしましょう。

    だとすると、今生に生まれ出たテーマはなんだと思いますか?」

   「わかりません」


   「今生では、動植物すべての存在たちから喜ばれる存在になる、
    ということではないでしょうか」

   「なるほど」


   「では、前世で多くの存在から喜ばれる存在だったとしましょう。
    今生でのテーマはなんでしょうね」

   その人は答えられませんでした。

   私は言いました。

   「今生でのテーマは、もっと喜ばれる存在になりなさい
    ということではないでしょうか。

    そう考えたら、前世が何者であったかは
    どうでもいいということになりませんか?

    今生でのテーマは、いかに
    多くの存在から喜ばれる存在になるか、ということですよね」


   「念」という言葉は、
   「自分の思いどおりの未来をつくる」という意味に使われてきました。

   しかし、本当の意味はそんな未来的な意味は含まれていないと思います。

   「念」とは「今」の「心」でしかない。

   そして、かりに目の前の人を大切にし、
   目の前のこと一つひとつを大事にやっていったとします。

   その「念」 を入れた生き方は、確実に未来に繋がっていくでしょう。


   「今」が独立して存在しているわけではないのです。

   「今」の積み重ねが、「未来」をつくっているのです。


    《「念を入れて」生きると、面白い現象が起こることがある》


        <『みんなが味方になるすごい秘密』kadokawa>

        ・・・

小林正観さんは「念を入れて生きる」についてこう語っている。


『「念」という字を分解すると、
 「今」と「心」と書く。

 今、目の前にいる人、目の前にあることを
 大事にする心のこと。

 つまり、目の前にいる人に喜んでもらう生き方。

 愚痴や悪口や不平不満を言わず、
 明るく感謝の心で接すること。』


我々は、「今」というこの時間と、「ここ」という空間以外には存在しない。

だから、どこまでいっても「今、ここ」しかない。

明日になっても、「今、ここ」だ。

そして、それがずっと続く。


中村天風師はそれを、

「一度だけの人生だ。
 だから今この時だけを考えろ。
 過去は及ばず、未来は知れず。
 死んでからのことは宗教にまかせろ」

と言った。


前世がどうであろうが、我々には今しかない。

そして、我々の今生でのテーマは
「喜ばれる存在になる」ということ。


「喜ばれる存在になる」になるため…

ひたすら、自分を磨き続けたい。

          <感謝合掌 令和5年4月30日 頓首再拝>
23:伝統 :

2023/05/01 (Mon) 08:18:40


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.3.9)より

   (精神科医、kagshun(カグシュン)氏の心に響く言葉より…)


   マインドフルネスの目的は、
   頭の中にごちゃごちゃと渦巻くネガティブな思考から気持ちを引き離すこと。

   いやな経験や起こるかどうかわからない心配ごとに意識を向けてしまうから、
   「あのとき、ああすればよかった」「こんなことが起こったらどうしよう」
   といった気持ちが生まれてきます。

   逆にいえば、「今ここ」に集中しているときは、
   ネガティブな気持ちにならずにすむわけです。


   マインドフルネスは、苦しさや不安を感じたとき、
   意識を「今」に引き戻して気持ちを切りかえるのに役立ちます。

   練習を繰り返すうちに、苦しさは自然に発生しているのではなく、
   過去と未来をパトロールしてネガティブな材料を拾ってくる習慣が
   生み出していることに気づくことができるでしょう。


   マインドフルネスに取り組むなら、
   初心者には瞑想より手軽な方法がおすすめです。

   マインドフルネスのゴールは「今ここ」に集中すること。
   そこに到達するためのアプ ローチ法は自由です。


   たとえば食事。

   普通に食べたのでは、味の好みや満腹感ぐらいしか意識しないでしょう。

   でも、ひとつひとつの動作や感覚に注意を向けながら食べれば
   「マインドフルネス的な行為」になります。

   お箸でつまんだときの食材の感触、持ち上げたときの重さ、色や香り、
   口の中で唾液が出る感覚、舌ざわりやのどごし......。

   ひとつひとつをしっかり意識してみてください。

   もちろん食事以外の行為も集中して、ていねいに行うようにすれば、
   同様の効果が期待できるワークになります。


   集中しようと思っても、もちろんすぐに気が散ってしまうでしょう。

   ああ、目玉焼 きの黄身がきれいだな。

   縁がうっすら白くて真ん中は・・・
   いつの間にか苦手な上司のことを考えていたりする。

   でも、集中が途切れたからといって「失敗」ではありません。

   上司から意識を離し、目玉焼きに戻ればいいのです。


   マインドフルネスは、意識が別のところへ飛んだとき、
   それに気づいて「今ここ」 に引き戻す練習です。

   気持ちがそれたら、そのたびに引き戻す。

   目玉焼き→上司→目玉焼き→老後の不安→目玉焼き......。

   これを繰り返すことに意味があるのです。


   頭に浮かんだことについて
   「なぜこんなことを考えてしまうんだろう」などと掘り下げる必要もありません。

   ただ、「今ここ」に戻ることだけを考えましょう。

   1回につき5分でもいいので、
   こうしたマインドフルネスを生活に取り入れてみてください。

   1日に何度行ってもかまいません。

   すぐに大きな変化が出るわけではありませんが、
   回数を重ねるうちに確実に集中力が高まっていきます。

   同時に、思考と自分自身を区別することも上手になっていくでしょう。



   マインドフルネスが役に立つのは、
   「感じる自分」をネガティブな思考から引き離し、
   「観察する自分」の割合を増やすことができることです。

   「観察する自分」の割合が多いほど、
   いやなできごとも淡々と受け入れられるようになるのです。

   反対に「感じる自分」だけだと、
   常に感情や思考に振り回されることになります。



   マインドフルネスにつながる簡単ワークについて。


   ■ウオーキングのワーク

   ゆっくり歩きながら、足と地面が接する感覚に集中する。

   「かかとが地面に触れた」「足の指に力が入っている」等々。


   ■呼吸のワーク

   息を吸うとき、吐くときの感覚をひとつひとつ意識する。

   「鼻から冷たい空気が入ってきた」「口から細かく息を吐いている」等々


   ■洗い物のワーク

   食器を洗いながら、手に触れるものを意識する。

   「お湯が温かい」「器に触れたとき、キュッと音がした」等々


   ■座ったままワーク

   椅子に座って足を床につけ、両手を太ももに。
   体全体の感覚を意識する。

   「手のひらが温かい」「左足が少ししびれている」等々

          <『幸せになる超ライフハック』KADOKAWA>

        ・・・

小林正観さんは

「思い」を持たないことが大事だという。


『「思い」を持たない。
 それは、目の前で次々と起きる一般的に不幸だ
 といわれている現象に対しても、

 「ああ、そうなりましたか」と単なる日常の1ページとして、
 淡々として受け入れていくということです。

 病気や事故、愛する人との別れといった、思いがけず自分の身に起こる出来事を、
 人生の一部として受け入れていく。

 「何でこんなことが起こったのだろう」という「思い」を持たない。

 目の前で起こるすべての現象を、
 「ああ、そうなりましたか」と受け入れていく、それだけです。

 家が火事になっても、事故に遭ってケガをしたとしても、
 「ああ、そうなりましたか」と受け入れる。

 「この世に修行にきたわけではなく、
  ただこの世で起こるいろんな現象を、
  人間の肉体を借りて味わいにきただけ」』
     (努力ゼロの幸福論/大和書房)より


まさに、「感じる自分」から
「観察する自分」になるということ。

それが、この世に我々が生まれたのは、
いろいろなできごとを、人間の肉体を借りて味わいにきただけ。


「ああ、そうなりましたか」と言って、
すべてのことを受け入れることができる人でありたい。

       <感謝合掌 令和5年5月1日 頓首再拝>
24:伝統 :

2023/06/22 (Thu) 06:45:19


      *Web:「かんながら」(2023.4.14)より

ことはただ起きている。

このこと自体には、良いも悪いもありません。

ただ起きているのだから。


しかしマインドの中には、たくさんの判断があります。

そして起きていることを把握しているのはマインドなのです。


だからマインドの世界(自分では現実世界だと思っている)は
善悪にあふれ、善い人と悪い人がいて、
憧れる対象がある一方で、許せない人もいて、
混沌とした世界になります。

このような世界を生きている人から見ると、「この世は完璧だ」とか
「良いも悪いもない」などという言葉には違和感しか残りません。

「この世は完璧」などという言葉は、
スピリチュアル特有のお花畑幻想というわけです。

これが3次元というものであり、
現在の人間の意識レベルはここにあります。


人類の平和を目指しても、
マインドの世界にいる限り絶対に実現しません。

なんとか折り合いをつけることはできても、
真の達成に至ることはあり得ないのです。

個々の内側が統合されていないのに、
個々が集まった集団がどう統合されるというのでしょう。


人類の救いがあるとしたら、
個の中でマインドを超える次元を見出すことです。

でも人類全員がそうならなくても大丈夫です。

自分自身がそうなれば、マインドが消えて世界は統合されます。

その理由は自分が世界だったから。


いかにしてマインドを超えるか。

実践法は瞑想しかないと思っていて、
これからもこの一点を伝え続けていきます。


あとは実践が残るのみ。

これが向禅師の言う悟後の修行であり、
人生の豊かさに直結する生き方です。


早い話が、「いまここ」を生きるということです。

いまここを生きるかマインドを生きるか。


生き方はこの二つのどちらかしかありません。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12488321.html


<参照として>
Web:「かんながら」(2023.3.30)
な~んだ、そうだったのか
https://abetoshiro.ti-da.net/e12477344.html

        <感謝合掌 令和5年6月22日 頓首再拝>
25:伝統 :

2023/06/25 (Sun) 05:03:43


       *「光明法語」(6月25日)より
        ~天国は満ちたる杯(さかずき)の如し

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、
全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 令和5年6月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2023/06/26 (Mon) 06:42:53


       *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。

”Every day is best day in the year ”
(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。
鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。

他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 令和5年6月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2023/06/29 (Thu) 04:58:51


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、
いつの間にか纏まった感想集ができているのである。

気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は
結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、
経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、
『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 
との自覚で、現象的には余裕のない中から、
気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。

日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、
何一つ大事ができないであろう。

        <感謝合掌 令和5年6月29日 頓首再拝>
28:伝統 :

2023/07/01 (Sat) 05:07:40


     *「光明法語}(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、
決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。

1分間を争うなり。

今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

        <感謝合掌 令和5年7月1日 頓首再拝>
29:伝統 :

2023/08/18 (Fri) 09:18:37


    *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018-06-17)より抜粋


禅では、「今ここ」という。

英語では「Here and Now(ヒヤ&ナウ)」だ。


中村天風師はそれを、

「さしあたる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」

と言った。

過ぎ去った過去を悔んでも変えられないし、

未来のことを憂いたり心配しても誰も先のことはわからない。

即今という、今ここしかないのだから、と。


多くの人は、
どこかに青い鳥がいるだろうと、探し回ってしまう。

そして、一攫(いっかく)千金を狙ったり、
努力せずして運をつかむような僥倖(ぎょうこう)を望む。

今の人間関係の中に、
今の仕事の中に、
そして今の生活の中に、
幸せが隠れているのに気づかない。

「青い鳥はここにおる」

という言葉をかみしめたい。

        <感謝合掌 令和5年8月18日 頓首再拝>
30:伝統 :

2023/09/29 (Fri) 10:11:50

『”永遠の今”という瞬間』って?!
✨Julien Chameroy(ジュリアン・シャムルワ)
よっちゃん&あきらちゃんのたわごとトーク(2023/09/24)
https://www.youtube.com/watch?v=qpvFiaq1RKM

・・・


<参照>

ジュリアン・シャムルワ

【特別対談①】宇宙とコミュニケーションをとる方法
https://www.youtube.com/watch?v=QjwxMPLOKyA

【特別対談②】不安をチャレンジに!「思考を超える」生き方へ
https://www.youtube.com/watch?v=k23euKsSz-4

【特別対談③】ストレスを味方につけるコツ── 喜びの人生を歩もう
https://www.youtube.com/watch?v=IuqNdYZ4wSo

        <感謝合掌 令和5年9月29日 頓首再拝>
31:伝統 :

2023/10/28 (Sat) 10:48:36


       *「競わない生き方」(P24)秋山佳胤(著)より

過去、現在、未来という時間を軸にして考えると、
罪悪感と被害者意識は自分の内側から消えることはありません。

しかし意識の視点をニュートラルにすると、
実は時間の流れが存在しない世界があることに気づきます。

この視点に立てば過去も未来もありません。

ただ「今だけしかない」という世界がそこに広がります。

古神道で言うところの「中今(なかいま)」という世界観がまさにそうです。

悔やむような過去も恐れるような未来も関係なし、
今こそが躍動したエネルギーの頂点なのだという世界観です。 

仏教でいえば「刹那(せつな)」です。

刹那という言葉は誤解されがちですが、
そこには一瞬一瞬の今を大事にせよという深意が込められています。

・・・

<参照>

(秋山佳胤)

不食”の謎に迫る!弁護士・医学博士 秋山佳胤先生にインタビュー!
https://www.youtube.com/watch?v=R06KTfyzwP4

第100回「不食の秋山弁護士が語る『病気の真の原因は我が内に有り』」
https://www.youtube.com/watch?v=O7Vr2P2UNy4

        <感謝合掌 令和5年10月28日 頓首再拝>
32:伝統 :

2023/12/08 (Fri) 12:11:18


    *「光明道中記」(12月8日《永遠の今を生きる日》)より

【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、
形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。

太陽の前の星のようなものである。


《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、
ただ権力の増大や、名誉の高揚や、自己の勢力範囲の
拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に
大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。


では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。

外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、
何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、

ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のために
その仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、
それは随伴現象に過ぎない。

        <感謝合掌 令和5年12月8日 頓首再拝> 
33:伝統 :

2023/12/18 (Mon) 10:03:28


        *「光明道中記」(12月18日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。
世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、
それは既に無きものなのである。

犬は良人と分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、
自分の生んだ子を、一匹、一匹と他の人に与えられても、
もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。

また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。
犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、
人間ほどに鋭感(デリケート)でないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、
痛みも感じ、苦しさも感ずるだけの
デリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、

それを《感じ得ない》のではなく、
感じ得るにも拘(かかわ)らず、意識的努力によって、
感ずべき波と感じてはならない波とを区別して、それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

        <感謝合掌 令和5年12月18日 頓首再拝> 
34:伝統 :

2023/12/23 (Sat) 08:57:49


       *Web:かんながら(2023年05月22日)より

僕がブログや書籍で、
「今」という言葉を「いま」と書いているのには訳があります。

それは、日常でよく使われる「今」と、
僕が伝えたい「いま」とでは意味が違うからです。


普通に使う「今」とは、
現在という意味だったり、今という瞬間の事だったりします。

「今どうしてる?」

「今さらそれを言う?」

「昔に比べて今は幸せだ」

「今を乗り切るぞ」

「いつやるの?今でしょ」


このような言い回しに違和感を持つ人はいません。

これはこれで正しい表現ですし、誰にでも意味が通じます


他にもこんな会話もあります。

「過去を生きるのではなく、未来を生きるのではなく、今を生きるのだ」

するとこんな感想が出てきます。

「今を生きることが大切なのはわかるけれど、
 どうやって今にいたらいいかわからない」


この場合の「今」は、過去でも未来でもなく今だという意味です。

過去と未来の間に挟まれた今という瞬間。

しかしこの瞬間は本当に存在するのでしょうか。

瞬間の長さはどれくらいでしょう。

0,001秒くらいでしょうか。


たとえ0,001秒だとしても、0,00001秒に比べたら100倍の長さになります。

「今」とは時間の長さではないはずです。

ということは「今」は0秒ということになり存在しなくなります。


どうやって今にいたらいいか、わからないはずです。

だってそんな今は存在していないのだから。


「今」と「いま」



この「今」とは別に「いま」という表現をしているのは、
「いま」とは時間の一部ではないということを伝えるためです。

最近は量子物理学でも言われるようになりましたが、
そもそも時間など存在していません。

時間とは人間が編み出した概念であり、便利な道具に過ぎないのです。

なぜ時間が存在しないのかと言えば、いつも「いま」だから。


「いま」は時間という概念を超えていて、いつも「いま」であり永遠です。

これを見抜くのが目覚めです。


何となく伝わりましたか。


「今」を生きようと奮闘する必要はありません。

いつも「いま」だから。


「いま」とはあなたの存在そのものです。

そしてこの宇宙には「いま」しか存在していません。

だから安心していいのです。


「私」という幻想は時間の中に存在しています。

過去からずっと生きてきた「私」を握りしめていますが、
過去は存在していないので「私」も存在しません。


目覚めとは、このことへの洞察と言ってもいいでしょう。


やれやれ、言葉は難しい。


今日はこんなところで、みなさんごきげんよう。


https://abetoshiro.ti-da.net/e12512684.html


<関連>

中今(なかいま)と時間の真相
伊勢ー白山 道(2023-06-12 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/42310ba811d90ce7f8696b6a2933fdbd

        <感謝合掌 令和5年12月23日 頓首再拝> 
35:伝統 :

2024/01/02 (Tue) 11:00:18


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

           <感謝合掌 令和6年1月2日 頓首再拝>
36:伝統 :

2024/01/15 (Mon) 10:34:52


       *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

           <感謝合掌 令和6年1月15日 頓首再拝>
37:伝統 :

2024/02/16 (Fri) 10:57:48


        *<メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.2.5)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   ここで大事なことは、

   1.未来がどうなるか、われわれには分からない。

   2.したがって、欲得計算にもとづいて未来を設計しても無意味である。

   ということです。


   それを一言でいえば、〈欲を捨てよ!!〉になります。

   この場合、欲というのは、未来を自分の思うがままにしたい
   という望みにほかなりません。

   だとすれば、「欲を捨てよ!」ということは、〈希望を持つな!〉です。
   たぶんこう言えば、人々は驚かれるでしょう。


   わたしたちは「希望を持て!」と教え込まれてきました。

   しかし、希望というものは、そういう名前の欲望です。

   わたしたちは、変な希望は持たないほうがよいと思います。


   希望は別名を「夢」といいます。

   宝くじがありますが、あれが希望と夢の象徴です。

   「希望を持て!」ということは、「宝くじを買え!」になりそうです。


   ですから、われわれはあやふやな未来を期待することなく、
   ひたすら現在をしっかりと生きるようにすればいいのです。

   サイコロ(を振って決める)による仏の判断が、
   「この会社に残る」となったら、転職のことなど考えず、
   その会社でしっかりやればいいのです。

   でも、誤解してはいけませんよ。


   しっかりやるということは、がんばることではありません。

   その会社で、のんびり・ゆったり・ほどほどにやっていくのです。


   そのことを、禅の世界では、〈即今・当処・自己〉といいます。

   〈即今〉は「いま」です。

   〈当処〉は「ここ」です。

   そして〈自己〉は「わたし」。


   わたしたちは、いま、ここで、わたしが生きているのです。

   〈あのとき、あんなことをしなけれ ば、
    こんなに苦しまなくてすんだのに・・・> と、
   いくら後悔したところで、あなたがいまおちいっている苦境は変わりません。

   あなたは、いま、ここで、そのあなた自身を生きねばならないのです。


   だから、苦しいときには苦しめばいいのです。

   苦しみを軽減させようとしてはいけません。

   どっぷりと苦しみにふける。


   逆に、楽しいときには、どっぷりと楽しみに生きる。

   悲しいときには、わんわんと泣けばいい。

   病気になれば、どっぷりと病気に浸かって生きればいい。

   老いれば、じっくりと老いの苦悩を味わえばいいのです。


   つまり、「なりきる」のです。

   病人になりきり、貧乏人になりきり、老人になりきる。

        <『「がんばらない」お稽古』PHP>

          ・・・

「希望」や「夢」を持つな、と言われると、
凡夫(ぼんぷ)の我々はとまどってしまう。

子どもの頃から、「希望」や「夢」という言葉が、
どっぷりと心に沁み込んでいるからだ。


しかし、仏教においても、神道においても、
明日というものはなく、「今、ここ」しかないのだ、と言われる。

それは、明日になっても、明後日になっても、気がつけば、
我々の目の前には、「今、ここ」しかないからだ。

つまり、我々にできることは「今、ここ」を
しっかり生きることしかないということ。


「しっかり生きる」とは、
〈のんびり・ゆったり・ほどほどにやっていく〉こと。

それは、「人生を楽しむ」ということでもあり、
もっというなら、「人生を遊ぶ」ということ。


「楽しむ」には、「苦しむ」という対義語があるが、
「遊ぶ」には対義語がない、仏教的な絶対の境地。

たとえば、「遊行(ゆぎょう)」とは、
僧侶があちらこちらをめぐり歩くことであり、
行脚(あんぎゃ)とも言われる。

また、山田無文老師は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」について、
「働くことがそのまま遊びなんです。
 人のためにすることがそのまま遊びなんです。
 苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」という。
     (禅、「あたま」の整理/知的生き方文庫)より


つまり、この世の道中を、道草したり、寄り道したり、
遠回りしたり、迷ったりして、それを面白がって、
楽しみながら、遊ぶように生きるということ。

遊ぶように生きる…

「いま、ここ、わたし」をしっかりと生きてゆきたい。

           <感謝合掌 令和6年2月16日 頓首再拝>

38:伝統 :

2024/02/19 (Mon) 11:10:15


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より

時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

           <感謝合掌 令和6年2月19日 頓首再拝>
39:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 09:35:12


           *「光明道中記」(4月18日)より
             ~全てが成功に変わる日

【自己の内に埋蔵されたる無限無尽の供給を知らないものは
 自己に対して罪を犯すものであります。(『百事如意』)】

若し躓きと見える様な事が起っても躓きと云うものは
神の造り給いし世界には無いと信ぜよ。
「躓き」とは本当は「入口」なのである。
どこの家にも入口の門は閉まっているが如く見えるであろう。

吾々は「入口」の前に往って行詰る。
否、行詰ったと錯覚するのである。
併しその時には既に奥座敷に近いのである。

吾々は野原を彷徨(さまよ)っているときには少しも行詰らないと感じる。
而も既に成功の玄関に来たときに、その前に直面した「扉」に対して、
「ハテ、行詰った」と錯覚する。

併し、吾々の前に鎖されている「扉」は決して、
吾々を閉め出すために鎖されているのではないのである。
それは吾々が当り前に開くのを待っている。

その「扉」を開くには秘密の秘伝も何もない。
ただ当り前に「眼の前にある扉を開く」と云う仕事、言い換えれば、
眼の前に「今」与えられていることを百パーセントの忠実さで実行する
と云うことによって、成功の「扉」は開かれるのである。

「今」をおろそかにする者は「扉」を開かないものである。

生命がそれ自身の本然なる自他共栄の相互活動を行なうとき、
健康になるのは当然である。

         <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>

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