伝統板・第二 2538226

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ひかりの一日一言82~人の値打ちの生かし方

1:伝統 :

2022/01/01 (Sat) 04:28:20

真理第1巻入門篇 第9章(P119~159<27項>)からの謹写です。


各項目については、「ひかりの一日一言」としては、
長文となるものがありますので、小項目に分けての紹介になります。

結果的に、31日分の構成を目指します。

おそらく、文章量の関係で、後半については、
別の機会での紹介になるという予想を立てております。

ひかりの一日一言《1日》

《1日 墜落は機会である》

私は墜落したことを嘆いている皆さんに告げる、
「墜落は機会である」と。

若し此の世に墜落と云うことがなかったならば、
此の世界はこんなに美しい相(すがた)を
してはいなかったに違いありません。

斯(こ)う云えば皆さんは驚いている。
墜落とは悪いことだとばかり思っていたからです。

併し皆さん、若し種子が地上に墜落することがなかったら、
稲は実りますか。果物は実りますか。

稲の種子(たね)が、果物の種子(たね)が墜落して
地に墜(お)ちてくれればこそ、
私達は毎日御飯を食べることが出来、
また美味しい果物が食べられるのではありませんか。


人間から見てもそうでありますが、
種子(たね)自身から見てもそうです。

種子(たね)は地上に播かれたとき、

「これは大変だ、こんなに地上に落されては蹂躙(ふみにじ)られて助からない。」

と悲嘆の涙にくれたかも知れません。

併し、それは其の種子(たね)が立派な箱に入れられて、
棚の上にあげられていたよりも、種子(たね)自身にとって
伸びるのに好都合の機会が来たのです。

「墜落した! しまった!」

と思った次には、其処には今までになかった養分豊富な土があり、
自分の求めていた湿気があり、その上適当な日光が
温かいその微笑(びしょう)を投げかけてくれるのですもの。

若(も)し、種子が墜落しなかったら? 
斯う考えると恐ろしいことです。

だから私は「墜落は機会である」と云うのです。
墜落したときに、本当は皆さんは一層自己生長の機会が与えられたのである。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P119~120)より

       <感謝合掌 令和4年1月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2022/01/02 (Sun) 04:51:26


《2日 墜落した其処に足場を作れ》

併(しか)し墜落したものが全て生長しているか。
ただ人間は墜落するだけでは駄目です。

浅間山や、三原山の噴火口に跳(とび)込んで墜落する人があっても、
その人が出世して生長したと云うことを聞いたことはありません。

だから「墜落は機会だ」と云っても
墜落するばかりでは何にもならないのです。

柿の種子(たね)を噴火口に落し込んでも
そこから芽が出て実を結ぶと云うことはありません。


柿の種子(たね)が墜落してそこから
生長の緒(いとぐち)が出て生(の)びて来るのは、
その落ちた所に《しっかり》と食いついて、
その落着いた場所を足場として、そこで得られる凡(あら)ゆる物を
自分の養いとして取入れて、一寸(ちょっと)でも伸びられれば、
一寸(ちょっと)でも伸びるからです。

好(い)いですか、足場を作ることと、
一寸(ちょっと)でも伸びられれば、
一寸(ちょっと)でも伸びることです。

地に落ちた柿の種子(たね)はどうするか、先ず根を出す。
根を出すのは足場を作ることに当ります。

そして次には、一寸でも「光」の方へ向って
頭を擡(もた)げようとしします。

光の方へ向って一寸(ちょっと)でも頭を擡(もた)げる
 ―― この最初の一歩が柿の種子(たね)をして
地に落ちた姿勢から捲土重来の力を
喚起(よびおこ)す基(もと)になるのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P121~122)より

       <感謝合掌 令和4年1月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2022/01/03 (Mon) 07:13:38


《3日 其のまま其処が進撃の姿勢①》

吾々は倒れたとき、
その倒れた姿勢そのままが次の進撃の姿勢になるのです。

それは柔道でも剣道でも世の中でも同じことです。
倒れたら倒れた位置を利用して、
それが却って敵手(てきしゅ)を打倒す有利な姿勢となるのです。

こちらが倒れたとき、敵手の下半身は防御が無くなっています。
倒れた方の此方(こちら)は手のほかに足が自由になっています。
此方(こちら)の足で相手の防御のない
下半身の急所を蹴上げることも出来ましょう。

倒れたときには倒れなかったら得られないような有利な位置にあるのです。


今ある位置を完全に利用することが処世の極意であります。

「今」を見のがしたら機会はありません。

「もっと好い機会が来たら起上ろう、
 こんな倒れた時には起上れるものではない」と考えるのは間違っています。

どんな逆境でも、墜落でも、不幸でも、
それが皆さんを一層生長させる好機会なのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P122~123)より

       <感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2022/01/04 (Tue) 01:37:46


《4日 其のまま其処が進撃の姿勢②》

倒れた其の場がそのまま進撃の姿勢となることは
今まで申上げたとおりですが、
どこへ進撃するか方向が定まっていなければなりません。

墜落した柿の種子(たね)でさえも、墜落した瞬間に
その儘そこを足場として進撃の方向を定めることを忘れはしません。

根は必ず地の方へ向って進撃しますし、
芽は必ず「光」の方へ向って進撃するでしょう。

根が生びるのは立場をしっかりするため、
芽が生びるのは新しき生長のためです。

新しき生長は是非とも「光」の方向へ伸びねばなりません。
「光」を見失ったとき、その芽は青白く生気を失い、
生長の力を失って了うのです。

吾々は人間ですから
柿の種子(たね)より堅(かた)きものでなければなりません。

吾々も墜落したとき、
根を生(の)ばし、芽を生(の)ばさねばなりません。

根を生(の)ばすと云うのは足場を作ることでありますが、
根本的に云うと、形の足場を作るよりも心の足場を作らねばなりません。

根はしっかりと地に食(く)いつくのでありますが、
そして何をするかと云いますと、そこに於て得られる限りの養分を
有りがたく受けてしみじみと吸うのです。

しみじみと養分を吸わなかったら、
次に芽が光に向って進撃するエネルギーが出て来ないのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P123~124)より

       <感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2022/01/05 (Wed) 02:13:08


《5日 其のまま其処が進撃の姿勢③》

吾々も亦墜落した其の場所に足場を作って
そこから養分をしみじみ吸わなければなりません。

養分をしみじみ吸うとは他(ひと)に寄生せよとか、
他(ひと)の厄介になれとか云うのではありません。

其処に与えられているすべての物を、
そのまま自分への養分として有難く感謝して受けるのです。

自分を罵(ののし)る人もあるでしょう。
軽蔑する人もあるでしょう。
意地悪く出る人もあるでしょう。
何事も思うにまかせず不自由でもあるでしょう。

併しそれらすべてを有難くしみじみと感謝して受けるのです。


感謝は吾々が墜落して、最初に置かれたる場所に落着(おちつ)いて
そこから得られる養分を悉く自分のものとする最善の道なのです。

感謝して受けたとき、
その場所に吾々の魂が落着くことが出来るのです。
そうして最初の足場が出来るのです。

感謝がなくて、ああでもない、斯(こ)うでもないと
周章(うろた)えるのが墜落したとき一番可(い)けないのです。
周章えていれば最初の足場は出来ようがありません。

そこにどっしり魂が落付いてから、
吾々は「光」の方向へ向きかわるのです。

これが墜落し、失敗した者が再び起き上る最初の心構えなのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P124~125)より

       <感謝合掌 令和4年1月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2022/01/06 (Thu) 04:39:50


《6日 汝の不幸を呟くな》

1分間でも呟いてはなりません。
言葉は種子(たね)であるから悲観的なことを呟けば呟くほど、
悲観的な空気はその人の周囲に立罩(たちこ(め、その人の住む部屋に漲り、
その人自身を悲しい空気で押し潰して了うばかりか、

「類は友を招ぶ」「泣き面に蜂」の諺(ことわざ)の通りに、
他(よそ)から集って来るものも
其の人にとって都合の悪いものばかりとなるのです。

失敗が何だ、墜落が何だ、
墜落することによって柿の種子は芽を吹くことが出来る

 ―― 人間も失敗すること、墜落することによって、
    却って芽を吹くことが出来るのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P125)より

       <感謝合掌 令和4年1月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2022/01/07 (Fri) 04:42:21


《7日 汝の不幸を呟くな②》

西ドイツの国民は、既に滅亡していたドイツを
如何にして起立(たちあが)らせたか? 

その頃彼らの眼の前にあるドイツの状態は、
戦敗の惨禍の中にまことにみじめな状態であった。

その時にすら西ドイツの国民は「光」を見たのです。
「光」の中に「新しいドイツの姿」を心に描いたのです。

若し、西ドイツの国民の心の中に「新しいドイツ」の勃興した姿が
描かれなかったら、今日の西ドイツの素晴らしい復興は屹度なかったことでしょう。

併し彼らは心の中に、若くして力強き「新しきドイツの姿」を描いたのです。
そしてそれを事実にあらわすために勇ましく行動を開始したのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P126)より

       <感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2022/01/08 (Sat) 04:39:46


《8日 汝の不幸を呟くな③》

今では西ドイツは輸入よりも輸出の多い国として
素晴らしい経済力を示しています。

若し、あなたが「斯うあって欲しい」と思う状態を心に強く描いて
そのために行動を開始するならば、その心に描かれた状態を
形に現してくれるための友達や事柄が自然とあなたの周囲に集ってくるでしょう。

ドイツの破壊の惨状は日本の破壊どころの騒ぎではなかったのです。
何しろドイツの国内で戦争が行われたのですから、
ただ空爆を受けただけの日本とはくらべものにならない
破壊のされかただったのです。

あの惨めなドイツを再興することさえ出来るとするならば、
今如何なる状態で日本があるにせよ、
日本の運命を更に更に隆々朝日のさし昇る如き勢いにならしめるのは
難しいことではないはずであります。

それにはどうすればよろしいか、あなたにはもうお解りでしょう。

心にあなたの既に栄えている有様を想像するのです。

毎朝、毎時間、暇ある毎に、既に栄えている自分の有様を心に描いて、
「今に見よ、屹度(きっと)そうなる」斯(こ)う自分の心に、
断々乎として呼びかけるのです。

呼びかけるだけではない。

今眼の前にある仕事を感謝して受け、
それが100%完全になる迄成し遂げるのです。

そしてその余力を以て更に一歩自分の心に描いた目的へ向かうべく、
生活をその方へ推し進めるのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P126~127)より

       <感謝合掌 令和4年1月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2022/01/09 (Sun) 02:29:39


《9日 汝の不幸を呟くな④》

余力がないと云って嘆くな。余力がないのではない。
汝の決心の乏しきをこそ嘆け。

鉄の如き強き意志を有(も)て! 
鉄の意志の前には、どんな幸運も素直に扉を開いて入れてくれるのです。

力は、大決心と勇猛心を揮(ふる)い起せば出せば出すほど出るのです。

最初の一歩の進み方を緩慢(まどろこ)しく思うな。
大きく伸びる樹(き)は最初の伸び方が遅いものなのです。
植物の種子’たね)でさえも、巨木になる種類ほど
播(ま)いてから芽を出すのに暇(ひま)がかかります。

芽が出るのが遅いからとて、毎日土を掘り返して、中をあらためて、
芽が出ぬかも知れぬと疑っているようなことでは、
とうとう出かけていた芽も傷ついて腐って了(しま)うに違いないのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P127~128)より

       <感謝合掌 令和4年1月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2022/01/10 (Mon) 04:44:42


《10日 常に「光」を見よ①》

常に「光」を見よ! 
「闇」を見ること勿(なか)れ。

常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。

エレヴェーターや空中索道(ケーブル)ですら、
昇り行くときは気持が好(よ)いが、
降り行く姿を心に想像すれば気持が悪いのである。

だから、あなたが常に自分の運命が騰(のぼ)って行く姿を想像せよ。

「自分は運命が昇る、昇る!」

と想像せよ! 

そうすれば貴方は運命が昇るよりほかに仕方がないのです。

そんな事を云ったからとて、自分の今行(や)っている仕事は、
自分が将来に斯(こ)うありたいと想像している仕事とは似ても似つかぬ
別種類の下らない仕事なのだから、こんな仕事をしながら、
いくら将来の運命の昇り行く有様(ありさま)を想像したとて
一向運命がよくなりそうではない
とお考えになる人もあるかも知れません。

多くの人はそう考えて、
失望し、意気沮喪(そそう)し、躓(つまず)き落伍したのです。

併(しか)し今ある仕事が将来の幸福に無関係だと云う筈は
決してあり得べからざることなのです。

神は不必要なものを作りたもう筈(はず)はないのです。
またあなたの向上進歩に就いて
不必要な位置にあなたを置きたまう筈はないのです。

心に想像し求めている将来の有様(ありさま)と、今の境遇とが
何の関係もないように見えるのは、眼の見えないところにある
深い関係が其の時の貴方にはわからないだけなのです。

屹度今やっている仕事は明日の幸福な運命の足場になるのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P128~129)より

       <感謝合掌 令和4年1月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/01/11 (Tue) 04:37:33


《11日 常に「光」を見よ②》

私が紡績工場で糸を紡(つむ)いでいたと云っても
今ならそれを本当にする人は少ないでしょう。

私が油の会社にいて機械の書物を翻訳していたと云っても、
それを本当にする人は少ないでしょう。

またそれを本当にする人があっても、
今の仕事と何の関係もないと思っている人が多いでしょう。

併し本当はそうではない。

此の『生長の家』は紡績工手に混じって機械を保全し、
篠巻(しのまき)を運搬しているうちに芽が出たのです。

工場で働く人にも伸びる道はないだろうか
 ―― 私はそれを考えながら勉強したのです。


どんな境遇の人も起上(たちあが)ることが出来る。
私はそれを生活にやってみた。
そしてそれを成就したのです。

どんな境遇の人でも起上(たちあが)ることは出来るのです。


そののち油の会社へ入って何を知ったか、
油は機械を潤(うるお)すものであること、
油があれば機械に摩擦がないこと、
摩擦がなければ故障がないこと、

それと同じように心に「愛」をもてば
人と人との間に摩擦がないこと、
摩擦がなければ病気がないこと、

そしてその会社にいる間に、
団体はどう云う風に経営するものであるかと云うこと、
会計はどう云う風にするものだと云うこと。

皆なそれは今の『生長の家』の私の仕事に
役だっていないものは一つもないのです。

神様は一度も私を無駄な所へ置き給わなかったのです。

それと同じように皆さんの今ある境遇も
決してあなたの生涯にとって無駄なものは一つもありません。

無駄だと思わず、今の仕事に感謝して精を出すこと。

そこからこそ輝かしい明日の日が生れて来るのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P129~130)より

       <感謝合掌 令和4年1月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/01/12 (Wed) 03:26:07


《12日 なおなお多くを自分に求めよ》

偉大になろうとする者はもっともっと多くを求めよ。
他(ひと)に求めるのではなく自分自身から求めよ。

力を求めよ。
智力を求めよ。
能力を求めよ。

責任を求めよ。

責任は多いほど君をもっと強くするのです。

責任の少いことを求めるな。
責任は多いほど好(よ)いのである。

か弱い婦人が良人を失って5人も6人も子供を養って
行かなければならないときには、
その女手(おんなて)ひとつに不思議な力が湧いて出ます。
5人前、6人前の力が湧(わ)いて来るのです。

いざと云う決心をしますと、女手(おんなて)ひとつで
5、6人の子供を養っている例が沢山あるのであります。

人間には無限の力が宿っている。
無限の智力が宿っている。
無限の能力が宿っている。

併しそれを掘り出す者は少ないのだ。
掘り出したものだけが向上し、出世する。

あなたは他(ひと)に求める前に、
自分自身に求めようが足りないことを
省(かえり)みなければならないのです。

まだまだ多く自分から求めよ。
まだまだあなたの力は出るのです。
まだまだ大きな力が出るのです。
まだまだ大きな智慧が出るのです。

ああ力! 

それは自分自身の内(うち)に求める者だけが得られるものなのです。

        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P130~131)より

       <感謝合掌 令和4年1月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/01/13 (Thu) 04:57:19


《13日 毎秒、毎分、毎時、毎日》

毎秒、毎分、毎時、毎日、毎月、毎年、たゆみなく自己に求めよ。
自己の中に宿っている無限の力に呼びかけよ。

言葉でそれを呼び出(いだ)せよ。
心でそれを呼び出(いだ)せよ。
心を鼓舞する真理を書いた本をよんでそれを呼び出(いだ)せよ。

ただ呼び出(いだ)すばかりでなく、その力が現に今此処に、
自分のうちにあると云うことを心一ぱいの力で感ぜよ。

ああ嬉しい、嬉しいと心で叫べよ、
自分には無限の力があるんだから嬉しくてたまらないのだと心で叫べよ。
心で叫べばその通りになるのである。

毎日そう叫べば毎日諸君は進歩する。
毎時そう叫べば、毎時諸君は向上する。・・・

諸君に宿る力は無限なのだから、いつまで働いても、
どれだけ勉強しても、疲れると云うことを知らないのが本当だ。

伸びるばかりが本当なのだ。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P131~132)より

       <感謝合掌 令和4年1月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/01/14 (Fri) 04:51:39


《14日 今はどんなに小さくとも①》

今、諸君の力が小さくとも、
そんなことは諸君の未来の大きさを限るものではない。

天にとどくような樫(かし)の木も、
小さな指先ほどの団栗(どんぐり)の果(み)だったことを
知らねばならない。

彼らは目に見えないほど少ししか生長しないけれども、
毎日毎時生長するからついに巨樹にまで達するのだ。

どんな境遇にいてもなにごとも今与えられている一歩を
たしかに踏みしめるものは、毎日一歩を前進する。

毎日一歩を前進すれば1年には365歩を前進する。

ところが多くの人たちは毎日前進し得ないで休んでいる
 ―― だから諸君のうちの誰かが1年に365歩を前進するならば、
必ず衆(しゅう)に抜きんでて出世するほかはないのである。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P132~133)より

       <感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/01/15 (Sat) 01:49:26


《15日 今はどんなに小さくとも②》

若し諸君が、今よりも困難な、今よりも苦しい仕事を与えられたならば、
呟くことなく、不平を云うことなく、今こそ自分が伸びるときだと思えよ。

実にそれは諸君に与えられた機会なのである。

それは「天運」が諸君に微笑(ほほえ)みかけたのである。

困難が来なければ誰も同じ速力で前進しているから、
団栗(ドングリ)の丈(せい)くらべで、
君だけが人から抜出(ぬきんで)て認められる機会は来ないのである。

ただ困難のみが君を金(きん)か鉛か試験してくれるのである。
そして君が金(きん)の音色(ねいろ)を立てたとき、
君は仲間を抜きんでて一歩を出世せしめるのだ。

今世の中で立派な地位を得ている人は、困難な時に、
苦しい仕事を与えられたときに、
他(た)の人が困って了(しま)って手も足も出ない時に、
自由自在の活動をして人並みはずれて傑出している自分だと云うことを
人々の前に証明した人ばかりなのだ。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P133~134)より

       <感謝合掌 令和4年1月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/01/16 (Sun) 04:11:01


《16日 諸君は瓦であるか、珠であるか》

世の中に何が楽しいと云っても、自分自身が伸びている
 ―― と云う自覚ほど楽しいものはないであろう。

困難に逢う毎(ごと)に、諸君は自分自身が伸びるのであると思え。
新たなる責任が加わる毎(ごと)に、自分自身が伸びる機会であると思え。

自分自身が人造ダイヤモンドか、本当のダイヤモンドかは、
強烈な日光に触れるとき、偽物(にせもの)の方は次第に光輝を失って、
本当のダイヤモンドのみがいつまでも光輝を持ちつづけるので判るのである。

強烈な試練があるので、
諸君は自分自身が他(ほか)よりも傑出していることを証明する機会を得るのだ。

本当のダイヤモンドが何時までもニセ物と混同されていては詰らないではないか。

それが選り分けられるのは困難の時に於いてのみである。

瓦(かわら)か珠(たま)か、それを選り分けてくれるのは
諸君に一層重い責任のかかった時である。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P134~135)より

       <感謝合掌 令和4年1月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/01/17 (Mon) 04:44:13


《17日 全ての人間には天才と力とがある》

けれども諸君は瓦(かわら)ではない。屹度(きっと)瓦ではない。
珠(たま)なのだ。誰でも自分のうちに珠が宿っている。

自分を瓦であると思う者は、自分を磨かないで、
好(よ)い加減なところで抛(ほお)って了(しま)うから駄目なのである。

本当は瓦ではないのだ。
珠でも磨かなければ光は出ないとは千古不磨の金言である。

誰にも立派な無限の力が宿っていて、磨けば磨くほど光がでて来るのだ。

諸君は何をもって自分を磨くか。
珠は何によって磨くか。

喜んでザラザラした金剛砂の砥石(といし)を受け、
喜んでザラザラした磨研布(まけんふ)でこすって貰うことだ。

では諸君も喜んで危地(きち)に飛び込むことである。
喜んで責任の重いところへ跳び込むことである。
諸君が喜んでそうするならば諸君の能力は増進することは間違いのない事実である。

すべての人間に天才と能力とが宿っており、
それは磨くに従って力を発揮しると云うことは
最近の精神科学で見出された事実である。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P135)より

       <感謝合掌 令和4年1月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/01/18 (Tue) 04:00:32


《18日 自分自身を発屈せよ①》

生長の家の誌友の家で生れた子供と、
そのほかで生れた子供とを比較して御覧なさい。

誌友の子供は常に、自分の子供を

「貴方は神の子なんですよ、貴方は立派な子ですよ。
 無限の力があるのですよ。」

斯(こ)う言って、その子供に勇気をつけ、励みをつけ、
その子供に宿っている無限の力とを引出すのである。

之(これ)に反して普通の家の子は、時々叱り付けて
「貴方はお馬鹿さんですね。そんなことでは出世しませんよ」

などと云って、
その子供に宿っている力と能力とを軽蔑して
押し込んで了(しま)うのである。

こうして何年も経っているうちには、生長の家の子供は天才になる。
これに反して普通の家の子供は普通の偉さしか出て来ない
 ―― 此の事実を見よ。

此の事実を ―― 自分自身に応用して見たならば、
自分自身を幾らでも伸ばすことが出来るのである。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P136)より

       <感謝合掌 令和4年1月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/01/19 (Wed) 04:19:54


《19日 自分自身を発屈せよ②》

若し誰も、

「貴方は天才ですよ。立派な能力があるんですよ」

と云ってくれる者がなかったならば、
貴方自身が絶えず自分自身にむかって、

「自分は天才だ、自分は神の子だ、無限の力が宿っているのだ。
 どんな困難よりも強い力が宿っているのだ」

と囁(ささや)きかけよ。

暇(いとま)ある毎(ごと)に心のうちでそう唱(とな)えよ。
低声(こごえ)で自分の耳に対してそう話しかけよ。

また『光の泉』や、『生長の家』や、『生命の實相』を常に読めよ。
それらの書物は常に貴方に対して次のように囁きかけてくれるでしょう。

「貴方は天才である。貴方には無限の力が宿っている。
 貴方は偉いのだ。どんなどんな困難よりも貴方は偉いのだ。

 困難ある毎に力は増す。

 どんな不順な時候も、
 どんな不衛生な状態も貴方を病気にすることは出来ない。

 身体が弱いと思っていたのは嘘だったのだ。
 自分で自分の力を出さなかったのだ」と。


斯(こ)う云う言葉を、文章を、常に読んでいる者は、
常に貴方を愛して力付けてくれる先生や、兄弟を、
持っているのと同じことである。

《ひと》が賞(ほ)めてくれないからとて悲しむに当らない、
《ひと》から叱られたとて悲観するに当らない。

そんな時には「真理」を書いた光明思想の本を披(ひら)いて読むことだ。
その一頁一頁から飛びだしてくる光に満ちた言葉は貴方を激励し、
貴方を力づけ、もう倒れそうになっている貴方の力を引き起すのだ。

明るい心持ちが湧いて来る。貴方は起上(おきあが)る。
倒れたときよりも其の時は一層強くなっているのだ。

もう貴方は以前の躓(つまず)いたことを呟(つぶや)かない。
ただ前進あるのみだ。

恐れず前進する者には弾丸でさえも中(あた)らなかったとは
戦場を遍歴した勇士たちから聞いた言葉だ。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P136~138)より

       <感謝合掌 令和4年1月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/01/20 (Thu) 04:43:50


《20日 困難ほど楽しいのだ①》

斯(こ)うして絶えず、光の言葉によって自分自身を励まし、
力付け、困難を打破して進むところに人生の喜びがある。

困難なき人生は眠っている人生だ。

ハイキングも、野球も、色々の競争も、
じっとして楽をするよりも喜ばしく楽しいから、
人々はわざわざそんな遊戯に金(かね)を懸(か)けてするのである。

では、勉強も、仕事も、困難であればこそ
競争する面白みがあるのではないか。

そして其の競争に打勝つ者は、自分自身に絶えず
「私には無限の力が宿っているのだ」と
忘れずに呼びかけた者のみに限るのだ。

今から常に「私には無限の力が宿っているのだ」と
自分自身に呼びかけよ。

自分で自分を力付け、自分で自分を激励し、
自分の力を力一杯呼び出して眼の前の仕事を、そして勉強を、
一歩一歩征服して行ったとき、貴方の力は幾らでも伸びるのである。

        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P138~139)より

       <感謝合掌 令和4年1月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/01/21 (Fri) 03:33:11


《21日 困難ほど楽しいのだ②》

能力ばかりではない。
健康でもその通りである。

今たとい諸君の身体(からだ)が弱くとも、

「自分は神から無限の生命力(いきるちから)を与えられている。
 自分は決して斃(たお)れるものではない。

 自分は必ず達者になる。
 達者でなかったのは此の真理を知らなかったからに過ぎない。

 自分は達者なのだ。

 暑さが何だ。寒さが何だ。黴菌が何だ。
 人間は万物の霊長であって、これ等(ら)のものを支配するよう
 造られた神の子なのだ。」

と自分自身に常に囁(ささや)きかけ、
断々乎として起(た)ち上(あが)るようにするならば、
その人はついに虚弱を征服し、病弱を征服し、
健康となることが出来るのである。

諸君の生命(いのち)は「病気」に生んで貰ったのではないから、
「病気」によってその生命(いのち)を奪い返されるなどと云うことは
決してあり得ないのである。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P139)より

       <感謝合掌 令和4年1月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/01/22 (Sat) 04:44:01


《22日 困難ほど楽しいのだ③》

諸君の生命(いのち)は神が生んだ。

何のために? 

地上で何か働きをさせる使命があるから
貴方の生命を地上に生み付けたのだ。

貴方の地上の仕事がないならば、
あなたは地上にいることは出来ないのである。

あなたは地上に仕事のある間、
地上に生命(いのち)が与えられているのだ。

貴方を生かす食物(しょくもつ)は、神から与えられた仕事を、
眼の前にある仕事を、勉強を、果すことなのだ。

「私は病気だから仕事が出来ません」とか、
「私は身体(からだ)が弱いから仕事が出来ません」とか
と云う人があるが、本当はその反対なのだ。

神から与えられた仕事を嫌がるから、
地上に生命(いのち)を与える必要がないから、
生命(いのち)を徐々に神が引上げて了(しま)っていられるのだ。

地上の仕事を喜んでするならば、
其処に再び貴方の健康が甦って来ることは事実である!


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P139~140)より

       <感謝合掌 令和4年1月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/01/23 (Sun) 06:30:39


《23日 精神力で近眼も治る》

第二次世界大戦のときであったが、
ヒットラー青年団が日独親善のために日本に来たことがあったが、
その中に一人(ひとり)として近眼がないと云うことであった。

その頃、厚生省の予防局長医学博士高野六郎氏が、それを批評して、

「近視は不具だ
  ――この観念を一般にうえつけることが近眼の撲滅には大切です。
 ・・・・ドイツの大学生にも以前には近視が多かったそうです。

 皇帝ウィルヘルムがそれを大学の責任だと叱った話は有名だが、
 それ以来、段々とドイツの学生の近視が少なくなったそうです」

と云っていた。

近視は不具だ、羞(はず)かしいことだ、恥辱だ、と云う観念
 ―― それは大学の責任だ ―― 私の責任だ ―― 
と云うその責任を持つ心の働きが近眼をも治すのである。

眼鏡(めがね)にたよる考えを捨てよ。

視えないのは自分の責任ではない、眼鏡の度が合わないのだと、
自分が自分の眼を支配する力がないことを自分の責任だと思わず、
眼鏡(めがね)に責任を負わせているそんな卑怯な考えは
自分の力を弱らせ、自分の視力を弱らせ、
自分を近眼にして了(しま)うのです。

何でも自分が責任を負う。
外の物になんか頼るものかと内の力に頼るものは強くなるばかりです。

中風は杖を離して自分の力のみに頼って歩く稽古をしたら治るのだ。

私は『光明の健康法』と云う書物に、
心の持方で近視の治った人々の体験談を沢山掲(あ)げておいたから、
それを読んで頂きたいものです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P140~141)より

       <感謝合掌 令和4年1月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/01/24 (Mon) 04:20:29


《24日 生長の家は一宗一派ではない》

生長の家を一宗一派の宗教のように思っている人があるかも知れませんが、
生長の家は皆さんの心を育て、生長せしめ、心に光を射しこませて、
心の力で身体(からだ)を丈夫にならしめ、家の中を仲良くし、愉快にし、
従って家が繁昌し、富み栄えるようになる真理を教える所で、
一宗一派ではありません。

最初は私が心の修養になる雑誌『生長の家』を出しておりましたら、
それを読むと、心が非常に浄まって、その結果それを読む人の病気が治った
と云って沢山の礼状が来るようになりました。

すると「本を読んで病気が治る」と云う噂がパッと世間にひろがった
のであります。

本を読んで病気が治るなどと云うことは今迄に例のないことでありますので、
そんな結構な本が書けるのは神様のお力によって書けるのだろう、

そんなら生長の家はまことに結構な有難い宗教だと思って
信仰する人も出来ました。

その代り一方には、
「本を読んで病気が治る筈はないから、それはインチキだろう」
と云う人も出来て来ました。

単に宗教だと云うのも、
またインチキだと思うのも見当違いです。

何故よき教(おしえ)の本を読むと病気が治るかと云いますと、
その本に書いてある真理を知ることにより、恐怖心がとれ、心が浄まり、
心の痛み悩みがとれるから病気も治るわけなのです。

心が如何に病気を起すか、そして心が如何に病気を治すかは、
最近の精神身体医学が証明しつつあるのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P141~142)より

       <感謝合掌 令和4年1月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/01/25 (Tue) 04:48:36


《25日 病気の起る原因》

心が浄(きよ)まれば、病気が治るのは
決して不思議なことではありません。

皆さんは可愛い子供が死んだので心を痛めて病気になったと云う
お母さんの話を聞いたことはありませんか。

又皆さんは、事業に失敗したので心を痛めて
其の結果病気になったお父さんを見た事はありませんか。

余り試験に心配したので病気になったと云う
学生の話をきいた事はありませんか。

屹度(きっと)あるでしょう。

それでは心が痛めば病気になることは皆さんにも判りましょう。

それでは心の痛みがとれたらどうなりますか。

心の痛みで起った病気なら、
心の痛みがとれたら治るのが当然ではありませんか。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P143)より

       <感謝合掌 令和4年1月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/01/26 (Wed) 04:48:43


《26日 病気の治る原因》

心の痛み悩みで病気が起るのなら、
心の痛みがとれたら、病気がなおるのは
当然すぎる程当然のことであります。

それは、雨が降ったとき濡れるなら、
天気になったとき乾くほどに確かなことです。

病気は心の痛みさえとれれば治るのです。

心の痛みはどうしたら除(と)れますか。
心を変えるにはどうしますか。
世間では、心を良くするにはどうしていますか。

学校では生徒の心を良くするために本を読ませているではありませんか。
それなら、世間の人は本を読んだら心が変ることを知っているのです。

本を読んだために、痛(いた)んでいる心の痛みが治って、
楽しい明るい心を起したら、心の痛みでなっていた病気なら治る筈です。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P143~144)より

       <感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/01/27 (Thu) 04:32:02


《27日 良い本と悪い本の鑑別け方①》

今迄申しましたことを簡単に箇条書きに致しましょう。

(1)心が痛めば、病気になる。

(2)心が楽しくなれば、心の痛みがとれる。

(3)よい本を読んだら心が楽しくなって心の痛みがとれる。

(4)心の痛みがとれれば病気が治る。

と云うことです。

そう云う訳で、最初、私が心の修養に出した雑誌『生長の家』は、
とうとう何か病気を治すような魔術のある本だと思われるように
なって来ました。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P144~145)より

       <感謝合掌 令和4年1月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/01/28 (Fri) 04:42:23


《28日 良い本と悪い本の鑑別け方②》

そしてその雑誌が古くなって品切れになっても、
次から次へと読みたいと云う人が出来、
普通の雑誌ならば古くなると紙屑の値段でないと買ってくれませんが、

その古い『生長の家』と云う雑誌に載せた記事を
順序だてて全集本にして欲しいと云う人が出来て、

最初全十巻の『生命の實相』と云う全集本が出来、
やがてそれが殖えて全二十巻の全集本が出来ることになりましたが、

全集本では雑誌よりも順序が立っていて一層よく分るので、
益々それを読んで病気の治る人や、仕事や勉強の成績の上る人などが出来、
とうとう『生命の實相』は最初の3年間に300万冊売れたのです。

それは当時未(いま)だ嘗(かつ)て日本の出版界にない
レコード破りの出来事だったのです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P145)より

       <感謝合掌 令和4年1月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/01/29 (Sat) 04:52:36


《29日 良い本と悪い本の鑑別け方③》

新聞広告を見て御覧なさい。
普通はどんなベストセラーの本でも、
早くて一カ月、遅くて二カ月間も新聞広告をしたら、
もうその本の広告は出なくなります。

それは何故ですか、いくら立派そうに広告しても、
読んだ人が「あの本はどんな本だ」とその本当の値打を知ってしまって、
広告でウソを云っても誰も買わなくなるからです。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P145~146)より

       <感謝合掌 令和4年1月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/01/30 (Sun) 04:22:01


《30日 良い本と悪い本の鑑別け方④》

新聞広告は値段の高いもので、一流新聞では、
小さな新聞活字で一行に二千円も三千円も支払わねばならないのですから、
信用がなくなって誰も買わなくなったら広告するだけ損になるから
広告を出さなくなるのです。

一月(ひとつき)で広告が出なくなる本は、
一月(ひとつき)で信用がなくなった本です。

二月(ふたつき)で広告が出なくなる本は
二月(ふたつき)で信用がなくなった本です。

一年も広告を続けて出せる本は、とても立派な本であります。

『生命の實相』は発行以来、米の飯のように二十年間も
引き続いて読まれても信用が殖え、売行きが殖えるのは、
場当たりに書いた一時的な興味本位の本でない証拠であります。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P145~146)より

       <感謝合掌 令和4年1月30日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/01/31 (Mon) 04:40:34


《31日 人間になるなら一月や二月で飽かれるな》

皆さんも、一月(ひとつき)や二月(ふたつき)で、
他(ひと)から飽きられたり信用がなくなったりするような人に
なってはなりません。

短い間はゴマ化せても、永い間はゴマ化せるものではありません。

信用はインチキでは得られません。
信用は本当の値打からのみ得られるのです。

本当の値打ちは人の為になることから得られるのです。
「あの人は値打がある」と云うのは其人が本当に人の為になるからです。

「この机は値打がある」と云うのも、美しいとか、出来がよいとか、
便利に出来ているとか、何か人の為になる良い処があるからです。

人間でも、品物でも、本でも、いつまでも売れるのは値打があるからです。

人間でもいつまでも売れる人間とは失業しない人のことです。
失業しないどころか、だんだん値打の上る人は給料が高くなるのです。

値打の無い人間は誰も買わなくなってとうとう失業します。
本でも値打のある本なら段々値段が上るのです。

自分の身体(からだ)の側に置いておくと為になるから
古本屋へも滅多に出ません。

だからいつまでも新本が沢山売れるのです。
そしていつまでもベストセラーとして続くのです。

人間もいつまでもベストセラーの人間にならねばなりません。
古本屋で二束三文の値段で売られる本のような人間は、
差し当り、ルンペンと云うところでしょう。


        *「眞理」第1巻入門篇第9章(P146~147)より

       <感謝合掌 令和4年1月31日 頓首再拝>

以降の「眞理」第1巻入門篇第9章(P147~159)については、
別のスレッド「人の値打ちの生かし方~その2」にて、紹介してまいります。

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