伝統板・第二 2537345

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神示とは ⑥

1:伝統 :

2021/11/27 (Sat) 05:02:26

【終戦後の神示】 (昭和二十年十一月二十七日未明神示)

われは七つの燈臺に火を點ずる者である。
われは白髪の老翁である。
白髪とは久遠永劫よりつゞく無量壽の象徴である。

われは彦火火出見尊が魚釣(なつ)らす鈎(つりばり)を失ひ給ひて
憂い泣きたまふ海邊に來りて、尊を龍宮界に導きたる
鹽椎神(しほつちのかみ)である。

鹽椎神とは水火土之神(しほつちのかみ)の謂(いひ)である。
靈は水火土と顯れ、一切のものは水火土から生れたのである。
われは靈の海、創造の神である。

水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土(つち)』の働きとがあって
萬物は生ずるのである。

黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鍵を持てり』
と録(しる)されてゐるのがそれである。

われを單に海の神だと思うな。
龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、
龍宮無限供給の神のシンボルである。

われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無盡藏である。

日本の國が貧しくなつたとて嘆くことはない。
日本の國は不幸にして我れを容れなかつたのである。

キリストの教會を閉鎖せしめ、そのほか色々の壓迫を加へた。
『生命の實相』も不當に用紙を配給せぬやにしてその出版を閉鎖したのである。

われは愛の神であるから神罰を當てたのではない。
眞理に目を閉ぢ、『我』を突き貫(とほ)してつひに自壞するときが來たのである。

日本の國民よ、嘆くな。
迷ひの自壞の後には必ず《住みよし》の世界が來るのである。

われを戰ひの神と思ふな。われは平和進駐の神である。
住吉とは平和の理想境と云ふことである。

わが行くところに平和は來り、わが行くところに龍宮無限の供給は來るのである。
キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのがいかぬのである。

陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、
鹽釜の神を傍(かたはら)に押し込めてある。

軍國主義の神を正座に置いて、平和の神を別座に一段下におとしてあるの
が今までの日本の姿であつたのである。

このやうな状態では日本が負けたのも仕方がない。
折角今此處にある無限の供給を閉ぢ込めて置いて、
増産を高唱してもそれは空念佛である。
 
まだ日本の眞の姿はあらはれてゐない。
今は伊邪那岐神の禊祓のときである。
伊邪那岐神は日本の神、日本の象徴である。

これから八十禍津日神、大禍津日神など色々の禍(まが)が出て來るが、
それは、日本が『穢(きたな)き』心になつてゐたときの
汚れが落ちる働きであるから憂ふることはない。

この禊祓(みそぎはらひ)によつて日本國の業が消え、
眞に淨まつた日本國になるのである。

心を明るく持ち、すべてを神直日、大直日に見直して、
禍(わざはひ)を傳じて福となさねばならぬ。

かくて齋女(いづのめ)の神はあらはれ、
本當にこの世が齋(いつ)き清められて、
その後(のち)に住吉の神があらはれるのである。

住吉の神はまだ本當にあらはれていぬ。

併(しか)しもうあらはれるに間もないのである。
住吉の神があらはれたら、伊邪那岐神の左の眼が眞に清められて、
日本の實相莊嚴の姿があらはれるのである。

古事記の預言を廢(すた)れりと思ふな。預言は成就しつゝあるのである。
たゞその預言を間違つて解釈する人が多いのである。

            (昭和二十年十一月二十七日未明神示)

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

(4)伝統板・第二「神示とは ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8171151

(5)伝統板・第二「神示とは ⑤」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8213395

          <感謝合掌 令和3年11月27日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/11/28 (Sun) 05:01:19


       *『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《終戦後の神示》より抜粋

(1)水火土之神(しほつちのかみ)は創造の本源の神であるから
   「無にして無尽蔵の神である」から この神の御意(みこころ)の
   ままに波長を合して実践すれば、其処には龍宮無限の供給が
   現実にあらわれ来るのだと教えていられるのであります。

(2)敗戦や敗戦後の日本は、それまでの自壊作用が具象化したのであります。
   併し自壊作用として病気のような状態があらわれた後(あと)には
   必ず恢復期が来るのであります。

   何故なら現象界に事物があらわれるのは、内部にある想念感情又は
   業の蓄積が象(かたち)にあらわれることによってそのエネルギーが
   消滅するのですから、屹度その次には良き事が来るのであります。

          <感謝合掌 令和3年11月28日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/11/29 (Mon) 05:03:27


(3)作者不明の年代不詳の古代から伝わっておりますお伽話(とぎばなし)
   というものは、一種の神話でありまして、真理の童話の形をもって
   表現されているのであります。

   「桃の実」というのは、桃は「生命の樹(き)」の象徴であります。

   「生命の河」を流れ下る「桃の実」は、生命の河の両岸に茂っている
   ”生命の樹(き)の実」(略して生命の実)であります。

   「その樹(き)の葉は諸国の民を医(いや)すなり」というのは、
   「生命(せいめい)の実(じつ)の相(すがた)を語る”言の葉”」
   は諸国の民を医(いや)すということであります。

(4)まだ住吉大神の本当の宇宙浄化のおはたらきは
   あらわれていないのであります。

   住吉大神ののみおしえは既にあらわれているけれど
   宇宙浄化の御働きがあらわれていない。

   或いは今後キリストの最後の審判としてあらわれるかも知れないので
   ありますが、愈々住吉大神(キリスト)宇宙浄化(最後の審判)の
   おはたらきが顕れて来て、

   伊邪那岐(日本国の象徴)の左の眼が真に浄(きよ)められると、
   天照大御神(日本の実相)がその左眼からお生まれになる、
   即ち「左」は日足りで、光輝く日本の実相荘厳の姿があらわれるので
   あります。

          <感謝合掌 令和3年11月29日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/12/05 (Sun) 05:03:00


信仰生活とは、無用意の生活ではない。
すべてに於て完全に用意されてゐる生活である。
凡そ信仰生活ほど完全に用意されてゐる生活はない。

それは心が完全に用意されてゐるだけでなく、
物質にも完全に用意されてゐる生活である。
物質は心の影であるから心が完全に用意されてゐるとき
物質も必要に應じて完全に與へられるのである。

家庭は一つの有機體であるから、
良人が明日の用意をしないときには妻が明日の用意をするやうになる。
妻が明日の用意をしないときには良人が明日の用意をする。

右の手が利かなくなつたら左の手が利くやうに成るのも同じことだ。
それは自然の代償作用でさう成るやうに計らひがあるのである。
それは有難い自然の計らひであるから、夫婦互いに感謝するが好い。

信仰生活とは明日の用意をしない生活だと思つて、
明日の用意をする配偶(つれあひ)を信仰がないと思つて
夫婦が爭ふ信仰深い家庭があれどもみんな誤つた信仰である。

『明日のことを思い煩うな』と云ふ意味は、
『明日の用意をするな』と云ふことではない。
信仰生活とは冬が來てから綿入を縫へと云ふやうな生活ではない。

秋から冬に要る綿入を縫うて置いても、それは『取越苦勞』ではない。
心が整へば秋から冬に要るものがちゃんと判つて、
自然法爾(ひとりで)に其の要る物を用意したくなるのである。

自然法爾(ひとりで)と云ふものは、外から自然に與へられることばかりではない、
内から自然に催して來るこころの中にも自然法爾(ひとりで)がある。

心が亂れて病氣になつたとき心が調へば
その病氣を治すに適當な食物が欲しくなるのも自然法爾(ひとりで)である。

野の鳥も卵を産む前に自然に巣を作りたくなる。
卵を産む前に巣を造つても小鳥は取越苦労をしてゐるのではない。

『生長の家』の生活は物質に捉はれない生活だと言っても、
物質をきたながる生活ではない。

金銭を穢いもののやうに思つてそれを捨てねば氣が安まらぬやうな心も
物質に捉はれてゐるのである。
物質は影であるから綺麗も穢いもない。

卵を産む前に小鳥が巣を造りたくなるやうに自然に用意をしたくなる時には
内からの囁きに導かれて好い、心が調へばその心の展開として用意すべきものは
適當の時に用意したくなる。

すべて用意するものを信仰浅きものと思ふな。
用意しないで取越苦勞をしてゐる生活もあれば、
取越苦勞をしないで自然に用意している生活もある。

(昭和六年十二月五日神示)

           <感謝合掌 令和3年12月5日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/12/06 (Mon) 05:05:06


      *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
        《信仰生活の神示》」より抜粋

(1)受験勉強

   入学試験に際してでも、
   「神まかせ」といって勉強しないのがよいのではなくて、
   神に導かれながら勉強するのがよいのであります。

(2)夫婦補完の作用

   夫婦は互いに一体でありますから、
   妻が明日の用意をしないときには夫が明日の用意をします。
   右の手が利かなくなったら左の手が利くように成るのも同じことであります。

   それは自然の代償作用でそう成るように計らいがあるのであります。
   それは有難い自然の計らいであるから、夫婦互いに反対の性質をもっていて、
   足らぬ所を補ってくれるのを感謝するが好いのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月6日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/12/07 (Tue) 05:01:24


(3)「取越苦労するなかれ」とは

   「取越苦労するなかれ」ということが
   『生命の實相』の生活篇に教えられていますが、

   「取越苦労しない」ということを、将来のことについて
   「何もしない」ということになってはならないのであります。

   信仰生活を送っているものは、神様の智慧に導かれ、内からの催しに動かされて
   自然に準備が出来て来るようになるのであって、
   夏のうちに冬の用意をちゃんとして置いても、
   それは取越苦労の生活ではなく、信仰ある者の正しい準備の生活であります。

(4)自然法爾

  ①心が整えば自然の摂理で、先見の明がひらいて来て、
   何でもあらかじめ自然に準備されることになるのであります。

   小鳥が卵を産む前に、巣を造りたくなるように、自然に用意したくなる時には、
   内からの囁きに人間も導かれるようになると、失敗がないのであります。

  ②心が整えば、その心の展開として、
   用意すべきものは適当な時に用意したくなるのであります。

   だからすべて用意すべきものを適時に用意する者を、
   信仰浅きものと思ってはならないのであります。

   用意しないで物が乏しくなって、取越し苦労をしている生活もあれば、
   取越し苦労をしないで、自然にゆたかに用意している生活もあるのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月7日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/12/08 (Wed) 05:04:55


(5)捉われない生活

  ①物質を用意しても、必ずしも物質に執着しているとは限らないのであります。
   物質でもお金でも、物質そのもの、お金そのものがきたないのではありません。

  ②物質やお金を利己的目的のために執着するのがいかんのであります。
   財というものは、それ自体は綺麗も穢いもないのです。

   それを何に対して如何なる心境で使うかという事によって、
   それが綺麗にも穢くもなるのであります。

  ③だから生長の家の生活は物質に捉われない生活だと言っても、
   物質を穢ながる生活じゃない。

   物質に執着しないが、却って自由自在につかえるのであります。

  ④物質というものは影であるから、綺麗も穢いもない。
   心が調うたら、影が自然と整うようになるのであります。

  ⑤併し、また宗教に対する献金は清浄なものですから、
   苟(いやしく)も無駄に使ってはならないのであります。

   清らかな心で出された献金は清らかであります。
   清らかな心で使う金は清らかであります。

   清らかな献金を利己的目的に使ってはならないから、
   私は出来るだけ本部の経費もきりつめて、
   自動車なども整理したのであります。

   これが信仰生活であります。

   無限供給であっても傲(おご)ってはならないのです。

           <感謝合掌 令和3年12月8日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/12/09 (Thu) 04:54:54


(6)無限供給とは

  ①「一千万円もらったら何に使おうか」と考えて、
   自分の家を建てて、立派な着物を着て、
   楽をして酒をのんで、遊び女を買ってなどと思うような人は、
   中々一千万円は集まらないのであります。

   もし一千万円が出来たときに、それを何に使おうという立派な使い道があり、
   それにふさわしい能力がチャンと出来たときに、
   「神よ、この目的のために、一千万円を与えたまえ」と念じたら、
   一千万円集まって来ます。

  ②だから、人類のために或いは神様のために、
   この世を光明化するためにという目標が定まって、
   しかも、それを無駄なく有効に使う力が出来てこそ、
   初めて富を祈れば、富が来るということになるのであります。

   若し集まって来た富を使いこなす事が出来ない人に、
   偶然多額の富が集まって来たら、
   小人はそれに振り廻され、その富に翻弄されて、
   自分が危険な所に放り込まれるという事になるのであります。

  ③先ず自分自身の魂が清らかになること、
   自分の心が利己的にケチでなく豊かになること、
   そして心にそれを何に使うかという完全な理想が描かれること、

   その上その理想を実現する能力が研(みが)かれたならば、
   その理想実現に必要なものは、自ずから集まってくるのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月9日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/12/28 (Tue) 11:51:19

【君民同治の神示】

國は人間生命の外延である。それは身體が人間生命の外延であるが如くである。
人間生命が神より生れたる神聖なるものであるといふ自覺が、
その外延であるところの國をも神より生れたる國であるとの神聖性を要求するのである。

この要求が神によつてその國が造られたのであるとの神話を創造するのである。
しかも人は自己が無にして絶對であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者
である(民主)との自覺を、生命の外延の世界においても持つことを要請するのである。

觀られる世界は觀る人の心の世界であるからである。

身體も國も共に觀る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
觀る心の要請が身體においては脳髄の存在となり、國に於(おい)ては永遠の元首なる、
無にして絶對であり、一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。

天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る。
即ち觀る主體(民)が神聖であるから、觀らるる客體である天皇が神聖なのである。

觀る主体(民)の神聖性が包まれ蔽(おほ)はわれて混濁するとき、
天皇の神聖性は蔽(おほ)はわれて發現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである。

人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造して
その歴史の中に住む自己を觀るのである。

天孫降臨とは人間自身すなはち民(たみ)自身が天孫であり、
神の子である自覺の反映にほかならない。

かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
されば民が主であり君(きみ)は客(かく)である。

是(これ)を主客合一の立場に於(おい)て把握すれば主客一體であり、
君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む。

民を拝みたまう治(ぢ)は、君を拝むところの事(じ)と一體である。
治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。

天皇は絶對者にましますとは、觀る主體たる人間(民<たみ>)の絶對性より來る。
民が自身の絶對性の把握が破れるとき、その反映として國の絶對性と天皇の絶對性と
は破れるのである。

打ち續く敗戰により、民(たみ)自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、
天皇大權の一時中斷の形をもつて現れたのである。

(一二・二八 午後一二時)

           <感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/12/29 (Wed) 06:35:19


敗戰の原因は多々あれども戰爭を始めたから敗けたのである。
これは過去現在未來永劫に變ることなき眞理である。

戰爭を始めねば敗戰もない。
當り前のことが當り前なのである。
眞理というものは簡單で直截明瞭である。

當り前のことがなかなか解らぬ人が多いからこの世界が亂れるのである。

神が戰(たたかひ)をさせているのではない、
迷ひと迷ひと打合つて自壞するのだと教へてある。
迷ひの軍隊を皇軍だなどと思つたのが間違だつたのである。


この神の教へは『自給他足・他給自足』と教へてあるのに
独逸(ドイツ)にならつて經済自給圏を確立しよう
と思ったりしたのが既に相対の心である。

心に相對があらはれ、彼我對立する心は既に戰ひの心、
分裂抗爭を予想しての心であるから、戰爭準備の心である。
世界は一圓相であると云ふうことを知らねばならぬ。

世界一環互に手と手を繋(つな)ぎ合つて、
しつかりと和する心になつてゐたらば戰爭もなく敗戰もなく、
實相無限の圓滿調和世界が實現する筈(はず)であつたのに、

當時の日本人は氣が狭くて島國根性であり、排他的精神で、
我慢自慢独善精神に陥り、それを日本精神だと誤解して、
一人よがりにいい加減な気持になつて、
遂に世界を敵として戰ふやうになつたのである。

排他の心は、他と自分とを切り分ける心であるから、
切る心は切られる心と教へてある通りに
自分が切られる事になつのである。

切る心は三日月の心であり、利鎌(とがま)のやうに氣が細く、
角だつていて、空にあらはれてゐる時間も少く、
その光も弱く、直(じき)に地平線下に沈んでしまふ心である。

心の通りに日本の國が沈んでしまっても、
それは日本人の心みづからの反映であるから、
徒(いたず)らに失望、落膽、放心してしまつてはならない。

『見よ、われすべてのものを新たにするなり』と教へてある。

現象の三日月は沈んでも實相の圓滿玲瓏一圓相の滿月は
依然として虚空に輝いている。

それと同じく、心狭くとがりたる排他的な
軍國主義の似非日本の國は沈んでしまつても、
實相圓滿の日章旗のやうにまんまるい日本の國は
無くなつてはゐないのである。

有るもの、有りしものは永遠に滅びることなく、
必ずそれは日本人全體の心が圓滿になり、
實相の波動に日本人全體の心の波動がぴつたりと合ふやうになれば、
現象界にもその不滅圓相のすがたをあらはすのである。

汝等嘆くことはない、
滅びしものは本來無きもののみが滅びたのである。

無きものは滅びるほかはない。
軍國日本の如きは本來無き國であるから滅びたのである。

神州日本は不滅であり、永遠に滅びることはない。
滅びたやうに見えてゐるのは實相が蔽ひ隠されてゐるだけである。
實相を蔽ふ心が眼鏡(めがね)をかけている心である。

すべて此の世の中の事物は象徴であるから、
その象(かたち)をよく見てゐれば、
世界に何が起りつゝあるかを知ることが出來るのである。

   (昭和二十年十二月二十八日未明神示)

           <感謝合掌 令和3年12月29日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/12/30 (Thu) 06:51:03


     *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻 《君民同治の神示》」
      より抜粋

(1)この神示は、先ず、国とは如何なるものか
   という解明から始まっているのである。

   「国は人間生命の外延である。
    それは身體が人間生命の外延であるが如くである」
   としめされている。

   人間の生命は、神より来たり、
   神の自己実現として地上に「生」を保つのである。
   その「生命の波動」が外部に具象化したものが「肉体」である。

   その「生命の波動」は、
   人間に於いては想念感情となってあらわれるのであるが、
   想念感情の変化にしたがって、肉体に健・不健の状態があらわれるのは、
   生長の家誌友に無数の実例があるのであって、
   それは既に読者諸君が充分知悉していられるところである。

   肉体が「人間生命の外延」として想念感情の変動を
   容易にその健・不健にあらわすとするならば、

   國家が「人間生命の外延」である限りに於いて、
   国民自身の想念感情が、国家の状態に具象化することは
   当然の事だと言わねばならないのであります。

   国家の事を述べるに先立って順序として
   「環境」について考えて見るならば、
   「心が変われば環境が変わる」という事実は随分沢山あるのであります。
   それを先ず述べて理解の基礎を築いて置きたいと思います。

(2)自己の心が「神より生れたる神聖なもの」だという自覚が得られると、
   その「外延である肉体」が、
   神らしく健康なものとなる実例は沢山ありますし、

   また心が一変すれば、
   上記のように環境が一変するという実例も沢山あるのであります。

   「生命の外延」というものを、
   生命を包む一種の「肉体」としてみとめるならば、
   環境や境遇は広い意味に於いて、人間の「肉体」であり、

   国家というものは、「多くの国民の心」の外延として
   多くの国民の心を反映している全国民の「肉体」みたいなもので、
   国民大多数の心の状態が国家の状態を決定するのであります。

   だから、その国の人民が、自分が「神の子」であり、
   “ミコト”であるという自覚がある場合には、

   その人民の生命の外延(肉体)としての国家は、
   「神の国」だという国民自覚を生ずるのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月30日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/12/31 (Fri) 03:57:35


(3)では、神とは何であるかというと、
   「無にして絶対であり、一切の主であり、
    永遠者であり、久遠の主宰者である」
   とあります。

   従って神の生命を分かち有つところの「神の子・人間」も

   「無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主宰者」
   
   でなければならない。

   その「久遠の主宰者」たる自覚を
   「生命の外延の世界(社会及び国家)に於いても
   持つことを要請する」主義が民主主義なのであります。

   そこで、その民主主義なるものは天皇制と背反するものであるかの如く
   説く人もありますが、

   天皇制そのものが、「久遠の中心者」又は「久遠の主宰者」を
   要請する「人民の心」の反映として、
   日本民族の「生命の外延」として存在することを
   此の神示には次の如く示されているのであります。

   「身體も國も共に、観る者(主體)から反映せられる世界(客體)である。
    観る心の要請が身體に於いては脳髄の存在となり、
    國に於いては永遠の元首なる、無にして絶對であり、
    一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである。
    天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから來る……」


   この神示によりますと、観られる対象は、「観る心」の反映であり、
   その感情想念又は自覚が、対象に移入されて、
   対象をそのように感ずるのでありますから、

   吾々が国家に於いても、「変わらざる永遠の中心者」を要請するのは、
   人間自身の生命に、「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がある
   からであります。

   人間自身の生命に、
   「変わらざる永遠の中心者」を要請する理念がやどっているのは、
   人間生命をつくった「大生命」(神)御自身に、
   「変わらざる永遠の中心者」を要請する根本要求があるためであって、
   そのためにすべての造られたる物には
   「変わらざる永遠の中心」が備わっているのであります。

   だから、

   「観る心の要請が、身体に於いては脳髄の存在となり、
    国に於いては永遠の元首なる、無にして絶対であり、
    一切の主であるところの天皇の存在を要請するのである」

   と示されているのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月31日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/01/01 (Sat) 05:01:29


(4)この神示に於いて注目すべき点は

   「無にして絶対であり、一切の主であるところの天皇」

   とあることであります。

   天皇は単に「一切の主」であるだけではなく、
   「無にして絶対」なのであります。

(5)しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって
   謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。

   傲慢に天皇を批判している者にとって、
   天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。

   だから、

   「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、
    天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。
    今の状態がそれである」

   と示されているのである。

   自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、
   天皇の神聖性は蔽われて発現しない。


   自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、
   国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、
   神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月1日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/01/02 (Sun) 05:06:53


(6)神示には、

   「人間は自己自身の神聖性のゆゑに
    神造の國家に神聖降臨の神話を
    創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。

    天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、
    天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。

    かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。
    されば民が主であり、君は客である」

   と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、
   天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。

(7)神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、

   「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、
    君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」

   と説かれ、

   天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、   
   次のように示されているのである。

   「民は君を拝み、君は民を拝む。
    民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。

    治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、
    君民同治である。……」

           <感謝合掌 令和4年1月2日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/01/04 (Tue) 02:03:35


(8)神示によれば、
   政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、

   「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」

   ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。

(9)併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は
   残念ながらきわめて少ないのであります。

   それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、
   自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。

   そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を
   「基本人権」だなどと信じているのですから、
   「人民自身の絶対性の把握」など殆どない。

   そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、
   天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。

   そのことを此の神示には、

   「天皇は絶對者にましますとは、
    観る主體たる人間(民)の絶對性より來る。
   
    民が自身の絶對性の把握が破れるとき、
    その反映として國の絶對性と天皇の絶對性とは破れるのである。

    打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが
    國家大權天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」

   という風に諭されているのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/01/05 (Wed) 02:27:42


梅の花の開く時節が來たのである。 

去年の春に聖典『生命の實相』の一部を或る人に讀ませて、讀むに從つて、
一頁毎に、まだ時期來らぬ固き白梅の蕾を一輪づつ開かせて、
その開く毎にポンと《音を立てさせて》あつたのは、
彌々(いよいよ)《ひらく年》の型を見せてあつたのである。 

今年が彌々開く年である。 
昭和八年は彌(や)の年、彌々(いよいよ)の年、
《八》の年、《ハ》ナの年、《ハ》リ伸びる年、
《ハ》ジメに開く年である。 

《ハ》は開き伸びると云ふ意味であつて、
春、原、腹、晴、遥等皆この語源から來るのである。 
コト《バ》の『ハ』も開くと云ふ意味から來たのである。 

スメラミコト(命<みこと> ― 神)が開き展(の)びるとき音をたてるのであるから、
固き梅の蕾の花を開かせてその一輪毎にポンポンと音をたてさせて
型が示してあつたのである。 

『萬づのもの言葉にて生み出される』と云ふことが象徴化して示してあつたのである。

梅の花とは、《生みの花》 ―― 創造(うみ)の始動(はな)のことである。
『生みの花』はまた『海の原』のことである。 

『梅の花』の五瓣は五大洋に象(かた)どる。
五大洋にスメラミコトの花が開く始まりが今年である。 

一つ開く毎にポンと音がさせてあるのは何の象徴であるか考へれば判るであらう。 
何事もなしにはスメラミコトの花は開かぬのである。 
一つ一つ開く毎にポンポンと音を立ててつひに五大洋に梅の花がひろがるのである。 

開くまでには嚴寒の冷たい日が續くが、
嚴寒の冷たい日があるので一陽來復の日が來るのである。 
無明(まよい)の自壞作用がないのに光明遍萬の樂土が來るなどと甘いことを思ふな。 

昨年十二月十一日にも『戦ひの時は來たのだ』と知らせてある。 
ヒノモトの軍(いくさ)が嚴かに進むのは、
無明(まよひ)の世界を照らす唯一の光が進むのである。 

甘い平和論に耳を傾ける勿(な)。 
膏薬貼りで此の世が幸福になるなどと思ふな。

世界には《唯一の》光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。 
ほかの光は皆僞(いつわり)の光ばかりである。 
梅の花には中心が一つしかないではないか。
世界に中心が幾つもあつて爭つてゐて人類が幸福になれるなどと思ふな。 

太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、
人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。 
極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。
この事實を見て宇宙の意志を窺へよ。 

地上の國々だけが中心が幾つもあつて好いと思ふな。 
複數の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。 
一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。 

現在無中心主義を標榜する者は皆現在の中心を貶黜(へんちゅつ)して
自分が中心を僣稱したいからである。 
スターリンなど、無明(まよひ)の塊の人物を中心として
世界が幸福になれると思ふものは愚か者である。 

世界を一つに統一する運動は二つある。 

一つは露西亜(ロシア)から始まつてゐる運動で、
世界を物で支配する運動である。 

もう一つは靈の本(ヒノモト)から始まつてゐる運動で、
世界を靈で支配し、一つの光明に統一する運動である。 

この二つの運動の衝突は避けられぬ。 
時機は迫つてゐるのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者があるのは歯痒い。 

本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。

      (昭和八年一月六日神示)

           <感謝合掌 令和4年1月5日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/01/06 (Thu) 05:02:17


われ再び大日本天津日嗣天皇(だいにつぽんあまつひつぎすめらみこと)
と云ふ意味について語らん。

天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、
天(あめ)が下(した)ことごとくが一つの光の世界になり、
大和(だいわ)、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。

日本民族が世界を治めるのではなく、
『天孫(てんそん)』すなわち
『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。

それが眞(まこと)の大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。

大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)ということを狭い意味に解して、
日本民族の國だなどと考えるから誤解(まちがひ)を生ずるのである。
そんなものは小日本であり、本當の大日本國(ひかりのくに)ではない。

天(あめ)の下(した)ことごとくが
『天のみこころ』で滿ちひろがる世界が來ることを、
「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」
と教へたのである。

天孫とは肉體のことではない。

「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、
やはり肉體のことだと思つて
執着が強いから大(だい)それた間違(まちがひ)をして
取返しがつかぬことになるのである。

神からみればすべての人間は神の子であるから、
特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。

大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)スメラミコトとは
固有名詞ではない。
理念の表現である。

「大日本(だいにつぽん)」すなわち「ひかりあまねき」、
「天津(あまつ)」すなわち「天の父の」、
「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまえる」、
「スメラミコト」すなわち
「天降(あも)りましたる帝王(ていおう)」という意味であるから、

總じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる
天降(あも)りましたる帝王」と云ふことである。

天の父のみこころが全世界に光被(くわうひ)して
あまねく平和になる世界になれば、
それが本當の大和(だいわ)の國である。

それが本當の大日本天津日嗣(だいにつぽんあまつひつぎ)すめらみことの
治(しろ)しめし給ふ世界である。

肉體のことではない。

(昭和二一年一月六日朝の啓示による)

           <感謝合掌 令和4年1月6日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/01/07 (Fri) 05:01:13


      *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《日本の實相顯現の神示》」より抜粋


(1)神が戦(たたかい)をさせているのではない、
   迷いと迷いと打合って自壊するのだと教えてある。

   迷いの軍隊を皇軍だなどと思ったが間違だったのである。

(2)業の自壊・自己解除の”巻き戻し”の過程として
   あの戦争は起こったのである。

   英米の業と、日本国の業との衝突となってあらわれて来たのである。

(3)「排他精神は切り分ける心であるから」結局、自分も切られて
   三日月のように「直(じき)に地平線下に沈んでしまふ」
   ということを教えているのである。

           <感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/01/08 (Sat) 05:02:01


(4)世界に平和を来らすのは、「結び合わす」働きがなければならない。

   私たちは今後余程、
   言語、行動に慎み深くならなければならないのであります。

(5)軍国日本は本来無いのであります。
   本来無いから消える。

   消えても本来あるところの
   円相の大和(だいわ)の日本は消えやしない。

   実相の大和(だいわ)日本のみが独在であるから、
   それをあらわすようにすればよい。

   それが”日本国の実相顕現”だと教えられているのであります。

(6)神州日本が滅びたように見えているのは、
   「実相が覆い隠されている」だけのことである。

   実相不敗の日本国は永遠に滅びることはないのである。

           <感謝合掌 令和4年1月8日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/01/09 (Sun) 02:52:01


     *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
        《梅の花の神示》」(P36~54)より抜粋

(1)現象界に起こる事物は、”カゲ”即ち心の世界に既にあることの
   ”象徴”であるから、それを”象徴”として観察するとき、やがて
   何が起こるかの兆候としてそれを判断することも出来るのであります。

(2)この神示において、
   日本国力の伸展には「ポンポンと音をたてる」とあります。

   既に心の世界に於いては、ポンポンと音をたてる大東亜戦争は
   その「国力の伸展」の中(うち)に、その現象化のための
   「心のフィルム」がつくられつつあったと見ることができるのです。

(3)「ヒノモトの軍(いくさ)」とは、「実相実現の内部的動力としての
   ヒカリの摂理の進軍」であります。
   形の上での物質の軍隊のことではないのであります。

(4)「摂理としての内部的動力」が動き出すと、現象界には「迷いと
   迷いとが相打って自壊するという形」があらわれて、その自壊作用を
   通して平和と光明とのみ充満する理想世界が実現するに至るのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月9日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/01/10 (Mon) 05:01:47


(5)物質によって世界を支配する運動に対して、霊によって世界を
   統一する運動の中心をなすのが日本の使命であります。

   東洋の使命、その代表者としての日本国の使命は「霊の使命」であり、
   霊は分割し得べからざるものである。

   分割したる世界を一つにまとめるのが日本の使命であります。

(6)実相に於いては「みんな”神の子”であり、兄弟である」という
   霊的実相を知らしめるための戦いがヒノモトの戦いなのであります。

(7)世界政府に統一された世界連邦のような理想世界が実現する前に、
   釈尊やキリストが揚言したような世界終末の大破壊が来る、という
   ことを暗示した言葉が、この神示の最後の言葉にあります。

   「本當の愛は甘えかす愛ではない。戦ひの愛である。」

   これを緩和するようにするために、「世界平和を祈る会」に
   参加して頂きたいのであります。

(8)世界平和の祈り

   神の無限の愛われにに流れ入(い)り給(たま)いて、
   愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う

   その光 愈々(いよいよ)輝きを増(ま)して
   全地上を覆(おお)い、
   
   すべての人々の心に愛と平和の思いを満(み)たしたまうのである。

           <感謝合掌 令和4年1月10日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/01/11 (Tue) 04:54:00


吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。
完成(ななつ)の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顯現には
周期的波動があるからである。七つが事物の顯現の周期律になつてゐる。

吾れに神殿は不要であると嘗(かつ)て示したことがあらう。
吾れは道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。

『生命の實相』は吾が本體であり、無形の「生命の實相」を形にあらはしたのが
『生命の實相』の《本》である。

『言葉』を載せた書物を「本(ほん)」と云ふのも、『言葉』こそ事物の本(もと)であり、
本質であり、本體であり、本物であるからである。

『言葉の宇宙』が先ず出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。
今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、
宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戰爭など色いろ不調和なことばかり
起つたのである。

『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の
『本(もと)』が調(ととの)うたのであるから今後何事も急轉直下する。

『生命の實相』を披くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々たゞ自己の生命の
實相(ほんとのすがた)を知り、歡喜踊躍(かんきようやく)して
手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。

その歡びの相(すがた)こそ人間の生命の實相である。
吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本(ほん)の形にして、
披(ひら)いて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。

『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡時代であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として
色々の出來事が突発する。

日支の戰ひはその序幕である。神が戰ひをさせてゐるのではない。
迷ひと迷ひと相摶(あいう)つて自壞するのだ。

まだまだ烈しいことが今後起るであらうとも
それは迷ひのケミカラィゼーションであるから
生命の實相をしつかり握つて神に委(まか)せてゐるものは何も恐るる所はない。

(昭和七年一月十一日神示)

           <感謝合掌 令和4年1月11日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/01/12 (Wed) 03:43:37


        *「大和の国 日本」(P25~41)
          (第一部『大和の國の神示』講義)より抜粋

(1)「天津日嗣」

  ①〝天津〟とは、天津神すなわち「実相の神」のことでありますが、
   本源の神としては天之御中主神様を申し上げ、これが陰陽二つの働きに分れて見れば
   高御産巣日神(たかみむすびのかみ)様と神産巣日神(かみむすびのかみ)様の
   二柱の神様のことを申し上げているのであります。

  ②〝日嗣〟(ひつぎ)というのは〝日〟は即ち〝霊〟(ひ)であって
   「霊的理念」のことであります。

  ③従って「天津日嗣」とは、天之御中主神の中心帰一の原理であるところの
   「中」(みなか)の理念を承け継ぐということであります。


(2)「天孫降臨」

  ①〝天孫〟の〝孫〟とは子のつぎの三代目になる孫といった意味ではなく、
   「天の御心」(理念)の真子(まこ)即ち「真実の子」(真実の具体化)
   という意味であります。

  ②天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、天の下ことごとくが
   一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらはれると云ふ意味の
   象徴的表現である。

  ③「天の父のみこころ」を受けた真(まこと)の子すなわち、
   皇孫尊(すめみまのみこと)によって全世界を治める時期が来る
   ということであります。

           <感謝合掌 令和4年1月12日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/01/13 (Thu) 06:44:32


(3)「大日本世界国」(ひかりあまねきせかいのくに)

  ①〝大日本〟とはひかりあまねき国であって、
   日本列島の如き小日本ではない。

   〝ひかりあまねきせかいのくに〟
   これが「大日本世界国」であるのであります。

  ②本当の大日本国とはひかりの国であり、
   「ひかりあまねき」日本の国こそ大日本国である。

   それはすなわち

   「天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来る」

   ことだということであります。

           <感謝合掌 令和4年1月13日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/01/14 (Fri) 07:40:32


(4)大日本天津日嗣スメラミコト

  ①大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。
   理念の表現である。

  ②「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、
   「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、
   「スメラミコト」すなはち「天降りましたる帝王」と云ふ意味であるから、

   総じて譯せば
   「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」
   と云ふことである。

   天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、
   それが本當の大和の國である。

   それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの治しめし給世界である。
   肉體のことではない。


           <感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/01/15 (Sat) 02:25:12


時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。

二千年前、キリストが
『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顯される時期が來たのである。

『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
『生長の家』は今かの黙示録が預言した『完成(ななつ)の燈臺』として
人類の前に臨むのである。

此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの樂園追放以後、人類を惱ましたところの
『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消盡するのである。

光が近附くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。

疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。

(昭和六年一月十五日神示)

           <感謝合掌 令和4年1月15日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/01/17 (Mon) 04:59:05


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《聲字即實相の神示》」
        (P121~141)より抜粋

(1)聖書には、万物の最初の創造 ―― 光の創造は「言ひたまひければ」即ち、
   ”言葉”によって行なわれているのであります。

   弘法大師も「聲字即實相」と仰せられており、
   「聲」即ちコトバ及び「字」即ちコトバが形象化したものは、
   事物の「實相」即ち「本質」であると説いていられるのであります。


(2)第一原因、第一にあるものがコトバであって、
   それが創造力をもっていて、第二、第三と、
   次々に現象が生まれて来るのであります。

  ①宇宙創造の本体にまします神はコトバであり、
   万物はコトバの創化力によって出現したのであります。
   だから事物の「成就」することを「成る」(鳴る)と言います。

  ②コトバは事物の本質でありますから、
   コトバを載せた書物を「本(ほん)」と言うのであり、
   コトバが世界を左右することにもなるのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月17日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/01/18 (Tue) 04:22:07


(3)生長の家はコトバの宗教でありまして
   コトバの力によって人類の心を浄め、地上に起る事件を浄化し、
   この世から一切の不幸を除去し
   地上に天国浄土を建設しようという運動であります。

  ①日本の国をよくしようと思ったならば、
   是非とも日本人の行為の基準を定めたところの憲法の
   コトバを改正しなければならないのであります。

  ②神様は、『生命の實相』の初版の本が出たとき
   (昭和7年1月に製本が完成)に、

   「吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の實相」と云ふ。」と、

   宣言せられたのであります。

   『生命の實相』の本は、
   ただの人間たる「私(谷口雅春)」が書きおろした本ではなく、

   「私」を媒介として、或る神秘なる力が書いたればこそ、
   病が治ったり、死刑囚が死刑から免除されたり
   というような神秘的力を発揮するのだと考えられるのであります。


(4)『コトバの宇宙』即ち「神の想念による宇宙」が先ず出来て、
   それが『形の宇宙』即ち「現象の宇宙」として時間的序列を通して
   出現するときには、”数霊(すうれい)”による
   周期率を以て展開して行くのであります。

   大体、生命の発展周期は3と5と7の倍数で展開していくのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月18日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/01/19 (Wed) 04:37:01


(5)「『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐる」というのは、

   人間の想念及び言語が實相の円満さを
   そのまま讃美し感嘆するようなコトバを内容とせず、

   対立感情で悪口を互いに言い合っているような言葉で
   濁っていることなのです。

   現象世界に不調和な事象が頻繁に起こっているのは、
   「實相世界」の風光が現象世界に展開する過程に於いて、
   人間の「心のレンズ」が曇っていて、實相を同調しない濁った
   想念(コトバ)を発しているからなのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月19日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/01/20 (Thu) 05:06:01


(6)すべて現象世界の善きものは、
   「實相世界」にあるものの展開でありますから、

   「實相」を心で観ずることによって展(ひら)いたら、

   現象世界にも實相界の円満完全な有様が投影されて
   実現することになるのであります。

   その象徴として『生命の實相』の本を披(ひら)くことによって、
   現象界にも家庭調和や病気の治癒や色々の功徳が
   実現するようになっているので、

   そのことをこの神示で示しているのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月20日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/01/22 (Sat) 05:09:13


(7)この神示は、日支事変中に示されたものでありあります。
   實相世界には「戦争」そのものが無いのでありますから、
   戦って敵を傷つける神軍というものは存在しないのであります。

   すべて戦って互いに相傷つくもの「迷い」と「迷い」との衝突であります。

   一時戦争としてあらわれて人類の過去の「迷い」(憎みや、民族的嫉妬、憎悪等)が
   消えるのをケミカライゼーションと言ったのであります。

   日支事変や大東亜戦争も「迷い」と「迷い」とが衝突して消えるための
   自壊作用であったのは言うまでもありません。

   併し私(谷口雅春)は、大東亜戦争中、日本軍が勝つように努力協力致しました。
   当時、日本国内は言葉の力をきわめて「死」を讃美しており、
   ”言葉の力”を知る者として、黙ってはおれませんでした。

   到る処の講習会場で、「皇軍必勝、必勝生還」の標語をつくり、
   その”言葉の力”を強力に日本全土にひろめなければならない
   と講演したのであります。

   しかし、5万枚の「皇軍必勝」の短冊のコトバの力は、
   数千万人の「水漬く屍」のコトバの力に対してはまことに衆寡敵せずでありました。

   こうして、「迷い」と「迷い」とは相博って自壊しましたが、
   「生命の實相をしっかり握って神に委せているもの」は
   その恐るべき自壊作用の中に於いても、何等傷つくことなく、
   原子爆弾の放射を近距離に於いて受けても、少しも傷つくことがなかったのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月22日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/01/23 (Sun) 06:48:21


    *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《完成の燈臺の神示》」
        (P231~242)より抜粋

(1)この神示は、病人の枕許で厳かな語調で読んで聞かせて上げると、
   信仰心が高まり、それと共に自然良能を高めるのに効果があります。

   この文章のリズムが人の心を打って変化させる力を持っているのです。

(2)『黙示録』にある「人の子の如き者」は「久遠のキリスト」であり、 
   生長の家の神様であるのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月23日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/01/24 (Mon) 04:41:09


(3)この神示にある「エデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの
   『罪』と『病』と『死』との三暗黒」を消尽して、
   光明遍照の天国浄土へ再び人間を復帰せしめるには、
   「生命の實相」とは如何なるものかという
   真理の光によって照らさなければならない。

(4)すなわち、今迄「罪」と「病」と「死」とに悩まされておったところの人間が

   『生命の實相』の本を読んで生命の実の相を知り、

   「ああ人間本来神の子である! 罪は無いのである!」

   ということが解りますと、罪から解放されるのであります。

(5)この真理を教える神聖なる使命を果すのが生長の家の教えなのであります。
   そして、この世界最後の教えをすべき時が来た訳なのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月24日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/01/25 (Tue) 05:08:55


『生長の家』は奇蹟を見せるところではない。
『生長の家』は奇蹟を無くするところである。

人間が健康になるのが何が奇蹟であるか。
人間は本來健康なのであるから、健康になるのは自然であって奇蹟ではない。

『生長の家』はすべての者に眞理を悟らしめ、異常現象を無くし、
當り前の人間に人類を歸らしめ、當り前のまゝで其の儘(まま)で喜べる
人間にならしめる處である。

あらゆる人間の不幸は、當り前で喜べない爲に起るものであることを知れ。
當たり前で喜べるようになったとき、その人の一切の不幸は拭(ぬぐ)ひとられる。

病氣もなければ、貧乏もない、また搾取された富もなければ、搾取した富もない。
蹂躙(ふみにじ)られた弱者もなければ蹂躙つた強者もない。

唯、一切が渾然(こんぜん)として一切の者が富んでゐる。此れが實相である。
大いなる生命の流れが一切者に貫流し、とゞまらず、堰(せ)くところなく、
豊かに流れて、物の供給もおのづから無限である。

一切のもの必要に應じて流れ入ること、一つの大河の流れより水を汲みとれば、
隣の水來りて其の虚を埋めるのと同じさまである。

流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、富に執せざるが故に他を搾取(さくしゅ)せず、
流通せざる固定の富なきが故に、みずから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占拠せず、
執着せず、來(きた)るに從つて拒まず、受けて更に価値を増して他を霑(うるお)す。

自給自足などとは自他に捉われた狭い考へである。
自他は一つである。

『生長の家』は自給他足、他給自足、循環してとゞまらず、
大實在の無限流通の有様を見て、その有様の如く現實世界を生きるのが
現實界の『生長の家』 である。

貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』 人ではない。

當(あた)り前の人間を自覚し、當り前に生きるのが
『生長の家』 の人である。
「當り前の人間」 が神の子である。

皆此の眞理を悟つた人が少い。

「當り前の人間」のほかに「神の子」 があるやうに思つて
異常なものを憧(あこが)れるのは、
太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。

皆の者よ、人間の生命の實相を悟つて病氣が治るのは、
病念と云う異常現象が止んで、人間本來の自然に帰るからである。

異常現象はすべて病氣の一種である。
貧しさも異常現象であるから、人間の心が自然に還ればなほるのである。

異常現象のなかに神があると思ふな。
そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。

怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、
他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。

異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。

當り前の人間になることが大切である。

當り前の人間のほかに神の子はない。

 (昭和八年一月二十五日神示)

           <感謝合掌 令和4年1月25日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/01/26 (Wed) 05:05:44


      *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《自然流通の神示》」
        (P311~354)より抜粋

(1)悟りというものは観念の遊戯ではない。
   生活の実践なのです。

(2)行(ぎょう)とは「おこない」ということで
   日常生活のことであります。

   神想観も飯をたくのも同じように尊い行(ぎょう)であります。

(3)日常生活の当たり前のことが当たり前に喜べるようになると
   心が当たり前になるから、間違った心の結果起こっていた病気が治る
   というような事が起こるが、これは奇蹟ではない。

   当たり前のことだというのです。

           <感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/01/27 (Thu) 04:51:09


(4)人間巧者の工夫というものが無くなって、「そのままの工夫」 ―― 
   「実相の催し」というものが出て来なければ本物ではないのであります。

(5)人間智慧の”はからい”というものが消え、”計らわないところの計らい」
   というものが出てくると、それは本来一体なる「実相」からの
   内部的催しでありますから、もうどこにも衝突するということが
   出て来なくなるのであります。

(6)「そのまま」の心で生活する人には
   決して貧乏というものがないのであります。

(7)「そのままの心」になれば、自然に汚(きた)ないものを
   きれいにしたいという衝動が起こって来る。
   その巡り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月27日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/01/28 (Fri) 04:56:19


(8)すべての人間は、神の子なんでありますから、裕かなのが実相で
   ありまして、貧乏な状態になっているのは実相ではないのであります。

(9)愛するということは、単に「性」を与えるということではない。
   あらゆることを貴方の望まれることなら何でも致しましょうという
   心であります。

(10)みずから富みたいと思う人は、
   「すでに私は神の子であるから無限の富者だ」という自覚を
   潜在意識に持つ事が、富者になってることの始まりであります。

   ところが多くの人は潜在意識の底に、「富」を「搾取の産物」として
   憎む心をもっております。富豪に対して憤(いきどお)りを感ずる
   というのは、自分にも向けられて自分が貧乏するのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月28日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/01/29 (Sat) 05:07:10

(11)人間は他(ひと)から同情されたいと思うような心を持っていると、
   その人は豊かにもなれないし、大いに伸びる事は出来ないのであります。
   自己憐憫は宜しくない。

   私(谷口雅春)もそうでしたが、皆さんも

   「我(われ)は《いと》優れたものである、
    神の子である、仏子である。

    我が行く所には如何なる妨礙(ぼうがい)も、ことごとく崩れ去って、
    何者も自分の行く所を妨げる者はないのである」

   というような、そういう素晴らしい信念を持って
   生活を勇敢に進めて行ったならば
   好い事が出てくるのであります。

(12)「我(われ)は最勝なる者である」と自覚せられたのが、
   仏の悟りであります。

           <感謝合掌 令和4年1月29日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/01/30 (Sun) 04:43:20


(13)何物も自分のものは無い。
   すべてのものは神様のものであります。

   ありと凡(あら)ゆるもの神様のものならざるはないのであって、
   そして神様の生命(せいめい)の中に融け込んで、任運無作の循環に
   任せて、さからいがなくなって、法爾自然、法のそのままに
   自然に動いて行くというと、そこに本当の流通無限の自由自在の
   生活というものが現れてくるのであります。

           <感謝合掌 令和4年1月30日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/01/31 (Mon) 04:56:05


(14)人間が健康なのは当たり前であって、
   病気になる方が奇蹟なのであります。

   神示に次のようにあります。

   「怒り、憎しみ、恐れ、嫉(ねた)み、他を蹂躙(ふみにじ)つて打ち勝ちたい心
   ──すべて是等は異常な心であるから病氣の因(もと)である。
   異常な心を去れば病氣も貧しさも治る。」

(15)病気が治るのは奇蹟じゃないというのは何故であるかと言うと、
   これは心霊科学的な事実であるからであります。

(16)人間の心が当たり前になって迷いが消えたとき病気が消えたのであって、
   奇蹟の如く見えても奇蹟ではないのあります。

(17)『生命の實相』という本は、この現象界の人間を救うだけで無しに、
   霊界に居るところの霊魂の迷いをも救う力があるのです。

           <感謝合掌 令和4年1月31日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/02/04 (Fri) 05:03:36


『生命の實相』を讀んで自分だけが眞理を悟つてそれで善いと思ふものは
まだ“生命の實相”を悟ったものではない。

眞理は自他一體のものであるから、ひとに傳へるとき、
其處に『結び』の力が發現するのである。

『結び』は愛の力、慈悲の力、神の力、佛の力である。

これを日本古道ではムスビ(産靈)と言ひ、ムスビによつて醸生(神)の力、
即ち生々化育の力が發現して來るのである。

だから『生命の實相』に書いてある通りのことを病人に愛の心で話してあげれば、
ただ、話をするだけで病氣が治るのである。
話が下手なら『生命の實相』の中で『光明の眞理』のところを、
本の由來を話してから讀んで聞かせてもよい。

神の道では『結び』の反對『切る』ことを最も厭ふのである。
怒つたり、審判いたりするのでは心で切るから善くない。
離縁、背信、忘恩、不忠、叛逆等がすべて善くないのは人と人との間を切るからである。

『神』は『道』であると云ふのも『道』と云ふものは
離れてゐるものを結び合はす働きがあるから『道』即ち神である。

結び合わす働きがなくて、審判く働きばかりあるものはどんな善人でも神に遠い。

一人の男子が縁あって一人の女性と結ばれたならば再び離れるのは『道』ではない、
それを圓く結んでやるのが道である。

神の道を知り『生命の實相』を知ると云ふことも
その道びきになる人々の間には深い因縁があることであるから、
橋掛けになつた人の恩を忘れてはならぬ。

自分はもう神と直取引が出來るから、
橋掛けになつた人の恩は忘れても良いと思ふやうな人は、
自分はもう神を知つたから神に背いても好いと云ふのと同じく不合理である。

『生長の家』を知らしてくれる人は
其の人にとつて天の使ひであるから何日までも恩を忘れてはならぬ。

日本人は忠孝一貫恩を忘れぬ國民であるから強いのである。

今度の戰ひは國民の魂の質から言へば知恩と忘恩との戰ひ、
『結び』働きと、バラバラに分離する働きとの戰ひである。

バラバラに分離する働きは結局自滅して『結ぶ働き』が世界を統一する。

醫學でも大和の醫學は結合の醫學であるが外國の醫學は分析の醫學である。
『生命』は綜合の統體であるからバラバラの醫學では解らぬ。

(昭和七年二月四日神示)

           <感謝合掌 令和4年2月4日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/02/05 (Sat) 05:04:31


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(1)人間の生命(せいめい)は、神より出で、
   すべての人類は「神の生命(せいめい)」を宿していられるので、
   自己の生命(せいめい)と他己の生命(せいめい)とは一体であります。
   
   だから他の人たち全部が真理を悟らない限り、
   自己は真理を悟っていないのであります。

(2)菩薩たるものは人類全体の苦悩を自己に摂取する結果、
   人類すべてが苦悩を脱しない限りは自己の苦悩が去らないので、
   聖者は永遠に人類救済にその全力を尽すのであります。

           <感謝合掌 令和4年2月5日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/02/06 (Sun) 04:57:55


(3)”ムスビの力”こそ万物を生々化育する生命発現の力であり、
   一切のものを醸成する力であり、それが愛の力であり、
   慈悲の力であり、神仏の力なのであります。

(4)自他一体なるがゆえに全世界がこの真理によって救われるまでは、
   この真理の宣布を根(こん)かぎり、精力の続くかぎり
   行なわずにいられない筈です。

   この心境に達したというのでなければ、
   生命の実相を悟り得たなどと口幅ったい事は言われない訳であります。

   そこで先ず『生命の實相』を読み、少しでも真理をわかりかけた人は
   他の人へ伝えることを実践しなければならない訳です。

   真理を伝えた結果、相手が癒やされ、その癒やされた人自身の悦びが
   自分に反照して来るとき、自他一体の実相を自覚することが得られ、
   それによって、『生命の実相(ほんとうのすがた)』
   の本当の悟りが得られるのであります。

(5)この「自他一体」の真理の実践が「結び」と言うのであります。
   「自他一体」をこわして、孤立又は独善に陥ることを、
   「結び」の反対なる「切る」と言うのであります。

           <感謝合掌 令和4年2月6日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/02/07 (Mon) 05:05:32


(6)「神は道(ことば)である」というのは、
   「道(ことば)」即ち神なのであります。

   単に言語というような簡単な意味での「言(ことば)」が神ではないのであって、
   宇宙の首(はじめ)なるもの、無形の「道理」なるものを神と言ったのである。

           <感謝合掌 令和4年2月7日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/02/08 (Tue) 04:32:23


      *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻《自他一体の神示》」より抜粋

(7)大東亜戦争では負けましたが、
   それまで日本が何処の国と戦っても強かったのは忠孝一貫して、
   天皇の恩を忘れず、親の恩を忘れず、天皇のため、両親のために
   誠心(まごころ)を尽して挺身する美徳があったからであります。

(8)神示にある「知恩と忘恩との戰ひ」は対外的な戦争のことではなく、
   天皇や、国家や、祖先や両親に対する恩を知る者と、
   天皇の恩も、国家の恩も、両親の恩も忘れて、

   誰が日本の国を統治しても、個人が幸福になればよいではないかという
   所謂る「赤い思想」の者との戦いのことを指していられるのであります。

   この神示の出た頃には、一時的方便として天皇を金看板に使いながら、
   日本国を焦土とし、結局共産革命にもって行こうとしていた
   所謂る進歩的文化人があったことは明らかであります。

   「天皇のご命令だ」という金看板で我意を遂行しようとしていた
   当時の軍閥の中にも、社会主義革命遂行の前哨戦的手段として
   戦争を煽動していた者もあったのは事実で、

   日本が戦争に負けた一つの原因も、
   そのような背信行為に裏をかかれて
   戦争すべからざる時期に戦争したことにあります。

   併しやがてはバラバラに分離する働きは自滅して、
   世界全体が一つに融合する時代が来るに相違ないのであります。

           <感謝合掌 令和4年2月8日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/02/09 (Wed) 05:03:08


【上求菩提(じゃうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)の神示】  

實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである。
實生活を捨てるのも自分だけ淨まるために捨てるのと、
他(ひと)を救ふために捨てるのと二種類ある。

實生活をあまり忙しがるな。
皆の者が『道』をきき病ひを癒して貰ひたうても遠慮して頼みに來にくい。
そのうちに救はれる機縁を失うて取返しがつかぬやうになる人もあるのが可哀さうだ。

同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である。

わが第一の神殿は皆の誠によつて形の世界へ顯はれたから
第二の神殿に取りかゝつて貰はねばならぬ。

第一の神殿は聖典『生命の實相』であつて《智慧の神殿》である。
第二の神殿は《愛の神殿》であって、神が愛であり、
愛は癒やす力であることを知らす『見眞道場(いのちゆには)』である。

智慧と愛と兩(ふた)つの神殿が『生長の家』に揃へば
全世界の他上天國建設の心柱(しんばしら)が出來るのである。
この心柱は心の柱で智慧と愛との十字である、卍(まんじ)である。

  (昭和七年二月九日神示)

           <感謝合掌 令和4年2月9日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/02/10 (Thu) 05:01:20


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。


(1)「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ」

  ①釈尊やイエスは、特殊な使命を果すために、實生活を捨てました。
   そのため、釈尊の生活もキリストの生活も、
   家庭生活や、実際生活という面では、
   それを成就したと云うことができません。

   特殊な使命と天才とを持った人のほかには、
   このような家庭生活や国家破壊の道には、ついて行けないのであります。

   そこに彼らの教えの足らない所があるのです。

   その足らない所を補うために、
   そして釈尊の教え、キリストの教えを成就するために
   出現したのが生長の家であります。

  ②「實生活は捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難しいのである」
   と神示に仰せられています。

   家庭も生かさなければならないし、国家も生かさなければならない。
   そこで「捨てずして捨てる生活」「有たずして有つ生活」という
   両方生かす生活が必要になって来るのであります。

  ③生活の必需品は、必需だから「有たねばならない。」
   しかし有っては執着がかかって、心が汚れる。だから「有ってはならない。」

   「有たねばならないが、有ってはならない」ということになり、
   結局「有たずして有つ」「無所有の所有」ということが
   必需になって来るのであります。

   形の上では「有っている」けれども、
   「自分の所有だ」という観念を有たないで、
   「神様からあづからして戴いている」という自覚に立ち還ることであります。

  ④「すべてのものは自分のものでない」と自覚し、それは「神のもの」と知り、
   心の世界で、一切の所有を「自分名義」から「神様名義」に書き換え、

   この「所有」を預からせて頂いているのは、
   神様のものを預からせて頂いているのであるから、
   神様の御用に、神様のみこころに従って使わして頂きましょうと決意する。

   これが「有たずして有つ」であり、そこから、實生活を捨てながら、
   実生活が成就する道がひらけて来るのであります。

           <感謝合掌 令和4年2月10日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/02/11 (Fri) 05:00:26

       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。


(2)「實生活をあまり忙しがるな」

   どんなに忙しい場合にでも悠々乎(ゆうゆうこ)としているべきで、
   あまり「忙しい、忙しい」などとつぶやいてはなりません。

           <感謝合掌 令和4年2月11日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/02/12 (Sat) 03:07:17


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。

(3)「同じ家族でも心の持方、悟りの程度で、ひとりひとり運命は別々である」

  ①家族それぞれは、その信念に従って、その行動は自由でなければなりません。

  ②自分が充分悟りを開いたつもりになったからとて、
   人それぞれの行動を強制してはなりません。
   あまり強制すると、却って家族の精神が互いに反目するようになったりします。

           <感謝合掌 令和4年2月12日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/02/13 (Sun) 02:47:57


       *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
         《上求菩提・下化衆生の神示》」より抜粋。

(4)智慧の神殿と愛の神殿

  ①聖典『生命の實相』は人を真理に導く”智慧の神殿”であるとするならば、
   講師がいて直接愛情をもって指導してあげる”場”となる道場は
   ”愛の神殿”とも称すべきものであり、

   愛は癒やす力であるから、講師たるものは、智慧のハタラキで、
   高座におってただ真理さえ教えたらよいのだというようにあってはならない。

   相手に随って、対機説法自由自在、或いは打ち、あるいは柔げすると同時に、
   「自分の力」が癒やすのではなく、自分を媒介として「神の愛」が
   癒やしたまうのだということを知り、「神の愛」の媒介となるように、
   自分自身、相手の人に対する愛念を深く起すようにしなければならぬ。

   道場を神様は総括して「見信道場(けんしんどうじょう)」となづけられ、
   これを”いのちのゆには”と訓読するように示されているのであります。

  ②『生命の實相』その他の書籍の智的な「真理の柱」と、
   「見眞道場(いのちのゆには)」と謂う道場の愛の「真理(しんり)の柱」とが
   十字に卍字に交叉して、全世界に地上天国建設の 心柱(しんばしら)が
   出来上がるのだと示されているのであります。

   最近続々と各地に道場ができつつあるのは地上天国成就の機運が
   近づきつつある兆候としてまことに有難き極みであると、
   地方の熱意ある同信の諸賢に対して感謝している訳であります。

   因みに、「見眞道場(いのちのゆには)」は
   道場の総括的名称であり普通名詞であります。

   現在“いのちのゆには”を固有名詞的名称として使っているのは
   九州福岡市の道場だけでありますが、

   「いのちのゆには」とは「生命(いのち)の斎庭(ゆには)」という意味で、
   「斎」は“きよめる”といふ意味、「庭」は“場”又は“道場”の意味で、
   生命(いのち)を浄めて、今まで隠覆埋没されていた、
   生命(いのち)の完全な實相を開顕して個人の生活を健全化し、

   更に進んでは地上に天国を建設する拠点となる場を意味するので、
   この建設のために意をつくされる功徳は実に偉大なるものがあるのであります。

           <感謝合掌 令和4年2月13日 頓首再拝>

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