-
1:伝統
:
2021/11/22 (Mon) 03:16:54
-
《神の叡智に波長を合わすこと》
*『人生の秘訣365章』第10篇(P250) より
外界に対して働きかけるのは“活動”を通してであるが、
内界に対して働きかけるには、“静”を通してである。
「静かであれ、而してわれ神なることを知れ」と云う聖書のことばは
内界に対して働きかけるための最も適切なる忠言であるのである。
心を静かならしめて、内界の囁きに耳を傾けるとき、
次第に一層完全に宇宙大生命に波長が合うようになって来るのである。
宇宙大生命と波長が合うことによって、
吾らは、一層多くの神の叡智の導きを受けることが出来、
一挙手一投足がことごとく、その処を得て、誤ることなきに至るのである。
心を静かならしめて、
宇宙大生命と波長を合わすには神想観を修するのが最もよい方法である。
次には、宇宙大生命は「神」であり、
「神」は「愛」であるから、愛を実践することである。
愛とは、一寸でも其の人のためになる行動を実践することであって、
単なる「好き」ではないのである。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「神の導き」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6901784
(2)伝統板・第二「神の導き ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7929618
<感謝合掌 令和3年11月22日 頓首再拝>
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2:伝統
:
2021/11/25 (Thu) 05:06:18
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*「光明道中記」(11月25日)より抜粋
【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
(『生命の實相』第四巻)】
人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。
功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。
若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら
今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、
「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。
神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。
<感謝合掌 令和3年11月25日 頓首再拝>
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3:伝統
:
2021/11/29 (Mon) 05:01:32
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*「光明道中記」
(11月29日《心、水の如く柔らかくなる日》)より
【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。
(『百事如意』)】
生きているものは温い。
あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。
調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、
程よく温かいところに生命は大きく顕れる。
天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。
自然は《ひとり》高からんとする者を崩して
低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。
水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。
水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。
水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。
<感謝合掌 令和3年11月29日 頓首再拝>
-
4:伝統
:
2021/12/10 (Fri) 04:47:29
-
*「光明法語」(12月10日)より
「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たりと
言いしに因(よ)りて信ずるか、
汝これよりも更に大いなる事を見ん』また言い給う
『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』
(「ヨハネ伝」第1章末節)。
預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。
それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。
「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。
<感謝合掌 令和3年12月10日 頓首再拝>
-
5:伝統
:
2022/01/11 (Tue) 04:45:37
-
*「光明法語」(1月11日)より
朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも祝福されたる日であると信ぜよ。
而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。
また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。
しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。
然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。
<感謝合掌 令和4年1月11日 頓首再拝>
-
6:伝統
:
2022/01/14 (Fri) 05:00:21
-
*「光明法語」(1月14日)より
今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。
わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。
わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。
われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。
<感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>
-
7:伝統
:
2022/01/20 (Thu) 04:52:21
-
*「光明法語」(1月20日 《神常に吾に宿り給うと信ぜよ》)より
吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。
されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。
吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。
吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。
吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。
吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。
<感謝合掌 令和4年1月20日 頓首再拝>
-
8:伝統
:
2022/01/26 (Wed) 04:58:16
-
*「光明法語」(1月26日)より
~《最早吾生くるに非ず》
吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。
あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。
今日より後におこるすべての事件について、
吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。
此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。
吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。
<感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>
-
9:伝統
:
2022/02/22 (Tue) 04:48:12
-
*「光明法語」(2月22日)より
どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。
人間知恵で突進している場合、それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。
そんな時、思わぬ事件が起って、その方向転換させて下さるのが神の導きである。
何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。
人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。
<感謝合掌 令和4年2月22日 頓首再拝>
-
10:伝統
:
2022/04/20 (Wed) 07:07:23
-
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月20日)」より
イタリヤの彫刻家チェリーニは
ある事件で法王のためにサン・アンジェロ城に禁錮せられた。
彼は悲しんで自殺しようとした瞬間、
ある不思議な見えない力が突然彼の身体(からだ)を
捉えて一間ばかり投げとばしたので、チェリーニは気絶した。
その晩、夢に不思議な青年が現われて
チェリーニに自殺を思い止まるように説教したので、
チェリーニはついに自殺を思い止(とど)まったのだという。
神秘な力は存在するものなのである。
唯物論では、生命の世界はわからない。
<感謝合掌 令和4年4月20日 頓首再拝>
-
11:伝統
:
2022/04/27 (Wed) 07:42:43
-
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月27日)」より
なんじの求むるものをまず考えよ。
考えることはそれが得られる初めである。
考えた相(すがた)が《すでに》あるとしてその実現にまで努力せよ。
供給無限の世界において、ある事物を得ようと思う「思い」が
自分の内に起こったことがすでに「自分ならぬ」はからわれである。
それを計(はか)らわせ給いしものに信頼せよ。
<感謝合掌 令和4年4月27日 頓首再拝>
-
12:伝統
:
2022/05/05 (Thu) 06:55:23
-
*「光明法語」(5月5日)より
神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。
神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には一段一段と階段を昇って行くが
如きものがあるのである。
最初の頃は階段は低くして、到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。
<感謝合掌 令和4年5月5日 頓首再拝>
-
13:伝統
:
2022/05/27 (Fri) 11:00:58
-
*『 生長の家 』(昭和33年9月11日の法語)より
肉体は個々別々の存在であり、自他分離の存在であるが、
魂から言えば、『個人の霊』は神なる『普遍霊』の一部分が
人間に宿っているのである。
だから自己の『内に宿る魂』の叫びに耳傾けると云うことは、
同時に『普遍霊』の導きに対して耳傾けると云うことになるのである。
そこから無限の智慧の導きが湧き出て来るのである。
この『内部の霊』の呼び掛けが私たちの道徳生活に対して
あらわれて来る場合には、これを『良心の叫び』と言い、
日常生活での導きや、発明発見等の場合の導きとしてあらわれて来る
場合には、これを直感とか直覚とか呼ぶのである。
それは普遍霊の導きが、普遍霊の分霊なる『魂の自我』を通して
あらわれて来るのである。
私たちがこの『魂の自我』の導きに心の耳を傾け、
その導きの通りに実践するならば、現実生活が健康と愛と繁栄とを
実現せる『實相そのまま』の天国となるのである。
<感謝合掌 令和4年5月27日 頓首再拝>
-
14:伝統
:
2022/06/20 (Mon) 07:20:56
-
*「光明法語」(6月20日)より
最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。
習慣と云うものは、恐ろしいものである。
先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、
魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。
最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。
第一念で良いと思うことは善いことが多い。
<感謝合掌 令和4年6月20日 頓首再拝>
-
15:伝統
:
2022/06/25 (Sat) 07:11:01
-
*Web:ローリエプレス(2021-05-18)より抜粋
(1)物事がうまく運ばない
(2)アクシデントが起こる
(3)体調不良がつづく
(4)ネガティブな感情が多い
(5)頭と心のバランスが異なる
(6)時間の流れが遅く感じる
(7)モヤモヤした感覚が続く
https://laurier.excite.co.jp/i/spibre_100805
<感謝合掌 令和4年6月25日 頓首再拝>
-
16:伝統
:
2022/06/29 (Wed) 07:08:36
-
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2021.05.29)より
人は時として間違った選択をし、誤った道を歩んでしまう事があります。
自分では正しいと思って選んだことも、実は違っていたりするものです。
たとえば付き合う相手の選択が間違えば、
将来は傷つきながら破局する事もあるでしょう。
就職先に間違えると、心身ともに疲労して、
ボロボロになることもあります。
将来の選択に悩んで、この道でよいのかどうか、
迷ったり考える事はあるはずです。
間違った人生の道を歩んでいる時には、
それを示すようなサインが現れます。
サインを見逃さないようにすることで、
間違った道を正す事も出来るでしょう。
では、どのようなサインが現れるのか、
今回は動画で一つ一つ紹介していきたいと思います。
この記事はYouTube専用コンテンツとして公開しましたので、
動画でご覧いただきますようお願いいたします。
https://www.youtube.com/watch?v=cTv7gtNwylE
(以下が抜粋です)
(1)気持ちが乗らなくなる。
(2)事故や物の不調が起こる。
(3)怪我が増える。
(4)身体の疲労感が強い。
(5)病気になったり体調が悪くなる。
(6)気分が落ち込む。
(7)トラブルが増える。
(8)同じ問題が繰り返し起きる。
(9)心と頭が分かれる。
<感謝合掌 令和3年6月29日 頓首再拝>
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17:伝統
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2022/07/13 (Wed) 07:50:23
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*『栄える生活365章』(P19)より
毎朝、三十分間を神想観の時間として神と対坐せよ。
神を自己の内に招じ、神を自己の指導者とし、
神の導きを受けてその日の生活を出発せしめよ。
毎朝の、神と偕に坐す三十分間は、決して無駄に失われることなく、
神の導きを受けて生活する一日は、常に平安に、憂えなく躓きなく、
悦びと感謝に満たされて、何事もスラスラと順潮に事がはこび、
健康と繁栄とは結局あなたのものになるに相違ないのである。
神を自己の内に招じて、神を顧問として生活が行われるとき、
自分自身のすべての物事に対する考え方や観方が異(ちが)って来るのである。
そして自分自身の考え方が異(こと)なって来るとき、
“外界の事物”の動きが変わって来るのである。
結局“外界の事物”は本当は外界にあるのではなく、
自分の心の反映に過ぎなかった事が判ってくるのである。
そして、険しき道は平らかとなり、難事は解決し、
すべては円滑に事がはこび、調和おのずから備わる事になるのである。
<感謝合掌 令和4年7月13日 頓首再拝>
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18:伝統
:
2022/07/14 (Thu) 07:40:12
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*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P6~7) より
神は祈らなくても、祈っても、頼まなくても、頼んでも、
常に吾らに恵みを与えておられ、愛と智慧の光で照らしておられるのである。
放送局のテレビの放送のようなもので、テレビセットをそなえていようが、
そなえていまいが、チャンネルを合わしていようが、合わしていなかろうが、
常に恵みを霊的波動で送っていられるのである。
しかし放送局の電波の波長に合わさなければ、
その波長を受け取ることができないのと同様に、
吾々が完全に神の恵みを受け取ろうと思うならば、
神の霊的波動を合わさなければならないのである。
神は”霊”であり、”物質”ではないから、
神の恵みは霊的波動で出来ているのであり、
それに吾らが波長を合わしたとき、
テレビの電波が形にあらわれて来るように
現象世界に形をもってオカゲとしてあらわれて来るのである。
ところがオカゲ信心では却(かえ)ってオカゲが現れて来ないのです。
何故(なぜ)ならオカゲ信心は利己的心であり、神様は利己主義でないから、
利己心が神の霊波に同調する筈はないのである。
オカゲ望まぬ心になったとき、本当に良きオカゲが得られるのである。
<感謝合掌 令和4年7月14日 頓首再拝>
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19:伝統
:
2022/08/25 (Thu) 04:59:58
-
*Web:かんながら(2022年08月24日)より
あなたが自分を舞台で演じている役者だと知っていれば、
何もかもが気楽になります。
どんなシリアスなドラマでも精神に影響することはありません。
気を付けなくてはいけないことは、
他の人たちはみんな自分の役柄を本当の自分だと思っているし、
あなたのことも役柄自身だと思っていることです。
だから彼らの前では演じ切るしかないのですが、
それはそれほど難しくありません。
なぜなら目覚めた後も自我は残っていて、
演じ方を体で覚えているから。
だから楽勝です。
目覚め前との違いは、それまでは自分の意志で行動していたのが、
全体の意志が自分を通して行動しているという感じになります。
それまでは独立した個人としての自分だったのが、
全体意識が自分を動かしているので、
まるで全体意識の操り人形にでもなった感じです。
そうなると、何かを成し遂げるということの意味が大きく変わってきます。
それまでは分離した自分が、自分の夢を実現するために頑張っていたのが、
いつの間にか全体意識の意図を感知するようになり、
それを実現するために生きだすのです。
奇跡のコースでの祈りも、このことに徹しています。
この身体を通して、神の意思が実現されますようにというわけです。
ハイヤーセルフ(神・全体意識)からの声と、
自我の声の見分け方が分からないという人がいますが、
それは自我の声のボリュームが大きすぎて、そ
れ以外の声が聞こえなくなっているのです。
分離の夢が終われば反対に、ハイヤーセルフの声が大きくなって、
自我の声が聞こえにくくなります。
だから自然とハイヤーセルフの声を生きだします。
そういえば、天河神社の柿坂宮司(現・名誉宮司)は、その著書の中で、
「私は、人様の言うことには従いません
私は神様の言うことに従います」
というようなことを言っていました。
まさにそんな感じになります。
するとそのような人は、自由奔放で型破りの人に見られます。
まったく〇〇さんは・・・と言われますが、
それでも好かれることが多いようです。
みんなで変な人になろう!!
https://abetoshiro.ti-da.net/e12311701.html
<感謝合掌 令和4年8月25日 頓首再拝>
-
20:伝統
:
2022/09/12 (Mon) 08:51:40
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*「光明法語」(9月12日《沈滞と頽廃との原因》)より
大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。
かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、事業に挫折したりして
自己の運命の進展をみずから停止する事になる。
自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。
若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。
<感謝合掌 令和4年9月12日 頓首再拝>
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21:伝統
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2022/09/13 (Tue) 07:49:36
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*「光明法語」(9月13日)より
吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。
大生命はみずから大自然を創造すると共に、
大生命の自主的支点とも称すべき吾々「人間」をつくって、
「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。
大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、
指導も惜しむものではない。
<感謝合掌 令和4年9月13日 頓首再拝>
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22:伝統
:
2022/09/24 (Sat) 10:57:03
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*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月24日)より
働いても働いても成功しないのは、
その働きの方向が、まちがった方向または無駄な方向、
あるいは、能率少ない方向に向かっているからである。
かく誤った方向にその動きが向けられるのは、
それは神の智慧に導かれないからである。
神の智慧に導かれないのは、神の心と波長が合わないからである。
神の心と波長が合わないのは、神に祈らないからである。
神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということであって
感応すべき波を選ぶ選波の努力である。
祈ってもきかれないのは、
心を神に振り向けるけれども、信仰が少ないのと、
明るい心がないために神の波長に自分の心が合わないからである。
<感謝合掌 令和4年9月24日 頓首再拝>
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23:伝統
:
2022/11/16 (Wed) 07:28:18
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*「光明法語」(11月16日の法語)より抜粋
神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、
そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、
それを宇宙に満つる 「神のコトバ」と波長を合わせる事を
しないからである。
<感謝合掌 令和4年11月16日 頓首再拝>
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24:伝統
:
2022/12/10 (Sat) 07:16:26
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*「光明法語」(12月10日)より
「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たりと
言いしに因(よ)りて信ずるか、汝これよりも更に大いなる事を見ん』
また言い給う
『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』
(「ヨハネ伝」第1章末節)。
預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。
それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。
「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。
<感謝合掌 令和4年12月10日 頓首再拝>
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25:伝統
:
2023/01/11 (Wed) 07:16:09
-
*「光明法語」(1月11日)より
朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも
祝福されたる日であると信ぜよ。
而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。
また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。
しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。
然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。
<感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>
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26:伝統
:
2023/01/14 (Sat) 07:51:02
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*「光明法語」(1月14日)より
今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。
わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。
わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。
われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。
<感謝合掌 令和5年1月14日 頓首再拝>
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27:伝統
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2023/02/06 (Mon) 12:58:37
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*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より
世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。
わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。
親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。
親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て
母親の衣物(きもの)を濡らして困ったというほどであった。
これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。
親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。
人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。
このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。
働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には
豊かに必需物(なくてはならぬもの)を
与えたまうのが神であるからである。
ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。
ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。
<感謝合掌 令和5年2月6日 頓首再拝>
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28:伝統
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2023/02/20 (Mon) 08:00:00
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*メルマガ「人間力」( 2023年02月19日)より
一心万変に応ず
──何かの折に心に留め、手帳に記していた言葉である。
先日、安岡正篤著『経世の書「呂氏春秋」を読む』(弊社刊)を
紐解といていてこの言葉を見つけた。
原典は明らかにされていないが、安岡師は概要こう述べられている。
「人間世界のことは色々様々で、いわゆる万変で際限がない。
ことに人生の出来事というものは矛盾衝突が多く、
なかなか思うようにいかないが、
そういう時に一応自分の心ができておると、
いかなる変化が生じても何とかやっていける。
それが〝一心万変に応ず〟ということだ」
自分の心さえ調い定まっていれば、また養っていれば、
人生のどのような変化にも処していける、と先師は教えてくれている。
この〝一心万変に応ず〟に関連して、
いまも鮮烈に胸に響いてくる一語がある。
昨年の弊社新春大会で鈴木秀子先生が話された言葉である。
「ヨブよ、腰に帯して立ち上がれ」
鈴木先生によると、『聖書』のヨブ記に出てくる言葉である。
ヨブは義ぎ人じんと言われた人で、
日頃から善行を重ね、徳も財もあり、
この人ほど立派な人はいないと皆から慕われていた。
ところがある時を境にヨブの身辺が一変する。
親友に裏切られ、災害で財産を失い、家族全員を疫病で亡くしてしまうのだ。
この世の苦しみを一身に受けたヨブは、
「自分は何も悪いことをしていない。
立派な人間として生きようと毎日努力している。
なのに、なぜ自分だけこんな辛い目に遭うのですか」
と神に訴える。
だが、神は何も答えない。
絶望のどん底で、もうこれ以上生きられない、
死のう、とヨブが思った時、
「ヨブよ」と呼びかける神の声が聞こえてきた。
ヨブは神が「お前はよくここまで頑張った」と
慰めてくれるだろうと期待して耳を澄ました。
はっきりとした神の声が響いた。
「ヨブよ、腰に帯して立ち上がれ」
神がくれたのはこの一語だけだった。
だが、この言葉にヨブは真っすぐに立ち上がる。
命は自分が作り出せるものではない。
神の恵みである。
その恵みを受けた者として相応しく生きていくために、
自分は真っすぐに立ち上がり、神を見つめて歩んでいくのだ、
とヨブは決心する――。
ヨブほどではなくても、人生にはいろんなことが起こる。
辛いことや悲しいことや思いがけない試練が襲ってくる。
しかし、どんな困難に遭ってもへたり込んではいけない。
「『腰に帯して立ち上がれ』、
この言葉はいつの時代にも立ち上がって行こうとする人に
勇気と力を与えてくれる言葉です」
と鈴木秀子先生は締めくくられた。
・・・
<参照>
Web:uminori-0358(2023-02-04)
https://ameblo.jp/uminori-0358/entry-12787617261.html
<感謝合掌 令和5年2月20日 頓首再拝>
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29:伝統
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2023/02/22 (Wed) 07:14:07
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*「光明法語」(2月22日)より
どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。
人間知恵で突進している場合、
それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。
そんな時、思わぬ事件が起って、
その方向転換させて下さるのが神の導きである。
何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。
人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、
神は全部の人を幸福に出来るのである。
<感謝合掌 令和5年2月22日 頓首再拝>
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30:伝統
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2023/06/04 (Sun) 12:54:24
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*「光明道中記」(6月4日《天の声を聴く日》)より
【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
(『生命の實相』第十一巻)】
心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。
天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、
不調和は調和となり、苦しみは楽しみに変わり、
煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。
さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、
実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている状態が
試練であるに過ぎない。
まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。
自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ
大事業を打ち建つべきである。
「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。
若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。
<感謝合掌 令和5年6月4日 頓首再拝>
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31:伝統
:
2023/06/12 (Mon) 06:48:16
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*『光明法語』(6月12日《認めたものだけが現れる》)より
神に波長を合わすには、
ラジオと同じく先ず放送局がある事を認めなければならない。
神を先ず認め、神は無限に寛大に吾らの願いをきいて下さるものである事を、
認めなければならぬ。
神が神罰を与えるような苛酷な存在であると吾々が認めるならば
「苛酷」な波長に波長を合わす事になり、
苛酷なものが現象界に実現することになるのである。
それよりも吾々は神は愛深き存在であり、無限の癒やしであり、
無限によきものを吾らに与え給うべく待ちかまえていられる
のであることを信ずれば、それに波長を合わすことになるのである。
<感謝合掌 令和5年6月12日 頓首再拝>
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32:伝統
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2023/08/03 (Thu) 15:05:27
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「何となくの感覚」がこれから特に大切に
Web:伊勢ー白山 道
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/acd3f61e1be3b85553af40bb566ecb5c
<感謝合掌 令和5年8月3日 頓首再拝>
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33:伝統
:
2023/09/12 (Tue) 14:01:06
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*「光明法語」(9月12日)より
大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。
かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、事業に挫折したりして
自己の運命の進展をみずから停止する事になる。
自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。
若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に
大生命が吾々を助けるであろう。
<感謝合掌 令和5年9月12日 頓首再拝>
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34:伝統
:
2023/09/13 (Wed) 10:12:10
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*「光明法語」(9月13日)より
吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。
大生命はみずから大自然を創造すると共に、
大生命の自主的支点とも称すべき吾々「人間」をつくって、
「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。
大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、
指導も惜しむものではない。
<感謝合掌 令和5年9月13日 頓首再拝>
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35:伝統
:
2023/09/24 (Sun) 11:44:49
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*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月24日)より
働いても働いても成功しないのは、
その働きの方向が、まちがった方向または無駄な方向、
あるいは、能率少ない方向に向かっているからである。
かく誤った方向にその動きが向けられるのは、
それは神の智慧に導かれないからである。
神の智慧に導かれないのは、神の心と波長が合わないからである。
神の心と波長が合わないのは、神に祈らないからである。
神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということであって
感応すべき波を選ぶ選波の努力である。
祈ってもきかれないのは、
心を神に振り向けるけれども、信仰が少ないのと、
明るい心がないために神の波長に自分の心が合わないからである。
<感謝合掌 令和5年9月24日 頓首再拝>
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36:伝統
:
2023/10/19 (Thu) 09:16:46
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*「光明法語(10月19日)」より
精神波及はかくの如く効果をあらわすが、
それは、個別の精神と、個別の精神との間の感応であって、
神がそれを成し給うのではない。
最高の精神感応は、神は普遍者(どこにも在る)であらせられるから、
如何なるところにある人にでも、如何なるところにある物資でも
それは感応し、それが切実なる願いであるならば、
その人はいつの間にか自分のところに訪れ来り、
その物資は自分の処に呼び寄せられるのである。
それは上手下手はないのであって
神に波長の合う誠心(まごころ)の出た人なら誰でも出来る。
<感謝合掌 令和5年10月19日 頓首再拝>
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37:伝統
:
2023/10/27 (Fri) 09:37:19
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*「光明法語(10月27日《摂理と云うこと》)」より
神の波長に合わぬと言っても、
その場合、神が人間を罰し給うのではないのである。
光に対して眼をつぶっている者が「暗い」のは、神罰ではなくして、
理としてそれが出て来るのである。
そして「暗く」して打突(ぶつ)かり、頭を打って痛いと思って、
その人が眼をひらいて、そして方向転換するのは、
神が頭をなぐったのではなくて、自分が頭をぶつけたのであり、
そして自然に眼がひらくのは、「理」として自然に来るのである。
これを「摂理」と言う。
不幸に出遇(であ)ったと思っている時に神の導きがある。
<感謝合掌 令和5年10月27日 頓首再拝>
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38:伝統
:
2023/10/29 (Sun) 10:57:46
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*「光明道中記」(10月29日《断然決意の日》)より抜粋
大切なのは「神に導かれる」と云うことである。
信仰深くして、神と偕(とも)なりとの自覚を以ているばかりでなく、
真に神に導かれている人にして、機に臨み変に応じ
自由自在の叡智を有っている人でなければならない。
而もかくの如き人でも、
人の信義を裏切ることを極度に厭う人でなければ終を完うしない。
<感謝合掌 令和5年10月29日 頓首再拝>
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39:伝統
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2023/12/10 (Sun) 09:27:45
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*「光明法語」(12月10日《天の使とは》)より)
『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たり
と言いしに因(よ)りて信ずるか、
汝これよりも更に大いなる事を見ん』
また言い給う
『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』
(「ヨハネ伝」第1章末節)。
預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。
それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。
「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。
<感謝合掌 令和5年12月10日 頓首再拝>
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40:伝統
:
2024/01/11 (Thu) 10:14:08
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*「光明法語」(1月11日)より
朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも
祝福されたる日であると信ぜよ。
而(しか)して
「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」
と言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。
また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」
と祈れ。
しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。
然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。
<感謝合掌 令和6年1月11日 頓首再拝>
-
41:伝統
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2024/01/14 (Sun) 11:05:06
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*「光明法語」(1月14日)より
今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。
わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。
わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。
われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。
<感謝合掌 令和6年1月14日 頓首再拝>
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42:伝統
:
2024/01/20 (Sat) 11:50:27
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*「光明法語」(1月20日《神常に吾に宿り給うと信ぜよ》)より
吾が全ての願いは
吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。
されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。
吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。
吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。
吾に何事でも勧めてくれる人は
神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。
吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。
<感謝合掌 令和6年1月20日 頓首再拝>