伝統板・第二 2557195

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なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
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「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
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無限の富を汲みだす⑧

1:伝統 :

2021/11/11 (Thu) 04:57:56

神の無限供給について

       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895683  

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7752637

(9)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895248

(10)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989074

(11)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8084722

           <感謝合掌 令和3年11月11日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/11/14 (Sun) 04:47:28


       *『生長の家』(昭和26年4月7日の法語)より

   チャールス・フィルモァは 欠乏を満たすための祈りとして
   次の言葉を推奨(すいしょう)している。

   「 神はわが供給の本源であって、
   わがあらゆる事物に豊かなる供給を満たしたまうがゆえに、
   自分は最早(もはや)経済問題に
   何等(なんら)心配の感を抱かないのである。

   正直、迅速、能率、秩序等 経済上に必要なる一切の徳は
   神から与えられて
   わが経済は順調に進むのである。

   自分は量に於いても質においても
   凡ての有限の感じから解放されたのである。

   キリストの超無限の富は今わがものであるのである。
   自分はあらゆる点に於いて繁栄し隆昌しているのである。」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12212649.html

           <感謝合掌 令和3年11月14日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/11/19 (Fri) 04:55:29


       *『 生長の家 』(昭和26年6月23日の法語)より

吾々が神の無限供給に接触することが出来るのは、
吾々内部に宿る神性を通してのみである。

神性のみ神性に接触して、
そこから無限を引き出して来ることが出来るのである。

人を愛しないでいて神から愛されようと思っても無駄のことである。

何故(なぜ)なら神は愛であるから愛によってのみ波長が合うからである。

神の無限供給は 決して「 物質 」の形で来るものではないのである。

何故なら 神は「 物質 」ではないからである。

神は 智慧であるから、
神の無限供給は 良き智慧の形をもって吾々を訪れる。

愛念を起して良き智慧の流入を受け、
その良き智慧を 愛念をもって実践することである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

           <感謝合掌 令和3年11月19日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/11/21 (Sun) 02:29:14


     *『 生長の家 』(昭和26年7月13日の法語)より

逆境がやって来たときに、人は 大抵自分よりも順境でいる人や、
幸福な人に対して 批評的になりたがるものである。

他人の富を批評して、

「 屹度(きっと)それは 闇(やみ)をして儲(もう)けたに相違ない 」

とか

「 屹度 狡(ずる)い事をしたに相違ない 」 とか考え勝ちであるのである。

   
しかし 他の富を非難する者には、
自分に対しても 「 富 」 は近づいて来ないのである。

税務官吏で千万長者になった者がないのは、
常に他の富を苛辣(からつ)に批判して
それから奪おうと云う心理状態が働くからである。

奪おうと云うものは奪われるのである。

すべて心の世界に蒔(ま)いたものは
現実の世界に刈りとらねばならぬのである。

 http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/69716c487dd8dd8c398cc91ac4318be5

           <感謝合掌 令和3年11月21日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/11/24 (Wed) 05:04:55


         *『希望を叶える365章』(P64~69)より抜粋

(1)「人を幸福にするアイディア」に波長を合わせる。

  ①繁栄を欲する人は此の宇宙に満ちている「人を幸福にするアイディア」に
   波長を合わすようにしなければならないのである。

  ②「人を幸福にするアイディア」に波長を合わすには、
   自分がやはり「人を幸福にする心」を起こさなければならない。


(2)神の無限の富の後継者としての「神の子」の自覚を持つ。

  ①「神の心」に波長が合うとき、
   「神」は無限供給の源であるから、
   自然に物質的にも豊かな富が与えられて来るのである。

  ②「神」に波長を合わすには、
   先ず自分が「神の子」だと知らなければならない。

  ③「自分は神の後嗣者として神の無限の富を継承する資格があるのだ」
   と信じて、「貧乏」の想念を自分の潜在意識から追放するがよい。


(3)“神の世嗣者”として富んでいることを念じる。

  ①コトバは造る力をもっているのであるから、
   みだりに消極的な不幸な状態を
   言葉で言い表わさないようにすることが大切である。

  ②言葉はそれを語る人の心を動かし、それを聴く人の心を動かし、
   “心”は宇宙全体に満つる“普遍の心”に働きかけて、
   心の中に描かれたアイディアの通りのものを形にまで表現するのである。

  ③「既に自分の実相は“神の世嗣者(よつぎ)”として
    富んでおり、それがわが計画及び行動を通して実現するのである。
    神よ、わが計画と行動とを導き給え」

   と神想観中に念じて、

   その後、自然に想い浮ぶ計画を良識をもって審神者(さにわ)しつつ、
   それを敢然実行に移して行くならば、必ずその計画図にあたり、
   富を実現することができるのである。


(4)「与えよ、さらば与えられん」は繁栄の黄金律である。

  ①すべての物的所有を自己の所有物だと思ってはならないのである。
   この肉体も、住居も、衣服もすべて神様からの供給を
   預らして頂いているものである。

   吾々はその管理者であるのである。

   それはただ出し惜しみするために管理させられているのではなく、
   適当に使うように管理せしめられているのである。

  ②神からの供給はすべて神の目的に使うように
   人間が管理させられているのであるから、

   その用途の軽重を考えて、無駄に浪費することなく、
   最も価値多き用途に使うのが、
   それを管理せしめられている者の役目であるのである。


(5)今まで与えられていた物に対して感謝をする。

   「今までお世話になったもの」に感謝をすることによって、
   次なる豊かな供給が与えられるのである。

・・・

(詳細については、『希望を叶える365章』にてご確認ください。

 なお、次のWebにても、確認することができます。

 『谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐』
  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yuyu6/&mode=res&log=43 

           <感謝合掌 令和3年11月24日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/12/02 (Thu) 05:04:39


       *『 生長の家 』(昭和26年7月17日の法語)より

   神は 万物を生み給うた。
   それゆえに神は無限の富の源泉であり、
   貯蔵庫であることが判るであろう。

   神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な
   大まかな運動や構成は出来るのであるが、
   意識的な発動的創造の中心は、
   神が人間として現われてのみ出来ることになったのである。

   神は無限の富の源泉であるから、
   人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だ
   と云うことが出来るのである。

   だから人間を神の子だと云うのである。

   神の子たるものが、貧しく生活しなければならぬなどと
   云うことは 実際あり得ないことなのである。

   汝(なんじ)が貧しいのは 神の真意を知らず、
   神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ba1fe944a278f2d35d08b5ffb298980f

           <感謝合掌 令和3年12月2日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/12/07 (Tue) 04:59:42


       *『 生長の家 』(昭和24年8月29日の法語)より

   最高の繁栄を得る道は
   もっとも善きことに
   今ある資本と能力とを最高限度に使うことである。

   自分の能力増進に必要なあらゆる物質(もの)を
   購入するのに けちであってはならないのである。

   能力をすりへらすような快楽のために
   金銭を贅沢に使ってはならないのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12866907.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年12月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/12/09 (Thu) 04:52:18


        *『 生長の家 』(昭和33年9月6日の法語)より

   現象の富は、神の国なる實相の富の現象界への延長
   であることを知らなければならない。

   それであるからその富は、ただ貪って蓄積するだけに
   使ってはならないし、浪費するために使ってもならないのである。

   それは實相世界の素晴らしさを現実世界にあらわすための
   聖なる目的のために使わなければならない。

   換言すれば建設的な目的にのみ使わなければならないのである。

   ただ蓄積のためのみに使ってはならないし、
   ただ消費するためのみに使ってはならないのである。

   無論、聖なる目的のために使うためには、
   半端な資金ではどうにもならない事であるから、
   ある金額に達するまでそれを蓄積したり、
   協同貯蓄することも必要である。

   http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=944 (消滅)

           <感謝合掌 令和3年12月9日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/12/10 (Fri) 04:52:13


           *「光明道中記」(12月10日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                      (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

           <感謝合掌 令和3年12月10日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/12/12 (Sun) 04:52:57


       *『理想世界』(昭和45年9月6日の法語)より

   第一次世界大戦で、船成金になって巨富を貯えた
   奈良の富田さんという方のお邸で私は泊めてもらったことがあった。

   その人は立派な人であったが、富はあまり必要以上に出来ると
   そこに陥穽(おとしあな)が出来て来るものである。

   別府に温泉附きの別荘があって、
   そこに自分の奥さんが別居して静養して居られたのであった。

   毎月仕事の合間を見て自分の奥さんを慰問するために、
   瀬戸内海通いの船に乗って別府に行かれるのであった。

   或る日、例の如くその船に乗ろうと出掛けたが、切符を買う時間がなかった。
   それで切符なしにその船に乗ったのである。

   普通の人なら切符ナシなら乗船を拒絶せられるのであるけれども、
   氏は金持ちであり、船員にもチップが行き届いていて、度々の乗船で
   船長とも親しい間柄になっていたから、切符なしに乗船が出来たわけである。

   氏は例の通り特等室の個室に入った。
   その個室は扉が外へ開くようになっていて内側には開かなかった。

   ところがその瀬戸内海通いの船が岡山沖で沈没したのであった。

   甲板近くにいる船客だったら波に流されたにしても、救助されたであろうが、
   特等船室の扉は、船が沈むと、侵入してくる水が、その水圧で外から内へ
   押しているものだから、扉を内から外へ開いて逃れようと思っても
   扉が開かないので脱出の道がなく、不幸にして溺死せられたのであった。

   ”物質の富は魔物であると言われている。

   氏が富豪でなければ、この沈没する運命の船に乗船できなかったのに、
   氏自身の持つ富が氏を海底に引きずり落したのであった。

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7916166

           <感謝合掌 令和3年12月12日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/12/15 (Wed) 04:58:42


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。
多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって
生活の安全感と優越感とを確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、

「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に入(い)ことの
 難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」

と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ
・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき
有限なる狭き美しさではないのである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、そこから引き出し来(く)る
悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さであることを
知らねばならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、
樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。

彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、
腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、
ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、

それは人間として与えられたる至高の特権を放棄せるもの
と言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。

精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

決意、素描、実行 ―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。

           <感謝合掌 令和3年12月15日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/12/16 (Thu) 04:52:44


       *「光明法語」(12月16日)より

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

           <感謝合掌 令和3年12月16日 頓首再拝>
13:伝統 :

2021/12/18 (Sat) 05:01:42


       *『 生長の家 』(昭和33年9月7日の法語)より

   必要な建設的目的に使うために蓄積されたる富は、
   實相の投影であるけれども、未来に起るであろう何か不祥事を
   予想して貯える富は恐怖の投影であるから、その予想する心が、
   予想する不幸を呼び寄せることになるのである。

   心に予想することが実現すると云うのが心の法則であるから、
   不幸を予想して貯えた富は、将来必ず予想した不幸が来て、
   それを消耗してしまうことになるものである。

   病気したときの治療費として金を貯える人は、丁度、入院費用
   だけが貯まったときに、本当に病気に罹って、その貯金を
   治療費に使ってしまい、丁度その治療費の貯えが
   なくなったときに病気が治ったりするのである。

   真の富と云うものは、一切のものが其処から生み出されて来る
   『エデンの園』(龍宮海)即ち實相界から供給されて来るので
   あって、常に實相に波長の合う心をもっておれば必要に応じて、
   それが現象界の富となって供給されるのである。

   http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=944 (消滅)

           <感謝合掌 令和3年12月18日 頓首再拝>
14:伝統 :

2021/12/19 (Sun) 05:06:34


     *『人生の秘訣365章』第6篇(P140~141) より

あなたが若し、胃腸にまだたくさんの食物が溜っている時に、
更に沢山の御馳走を饗応されて、無理にそれを食べたとしたならば、
ついに胃腸を害してしまうでしょう。

たくさんの御馳走をいただこうと思ったならば、
先に頂いた食物をよく消化し吸収し、それを役に立てて
腹を減らしてからでないと都合が悪いでしょう。

それと同じことが神様からの供給についても言えるのです。

神は“無限供給”の本源者であられますけれども、
神からの豊かなる供給を受けるには、今迄頂いて来たものを、
有効に使ってからでないといけないのです。

有効に使うとは、出来るだけ人様のお役に立てて戴くという事です。
ただ貰い切りで御馳走を腹に溜めたままで次のものを求めるというような
「心の姿勢」を一変しなければなりません。

           <感謝合掌 令和3年12月19日 頓首再拝>
15:伝統 :

2021/12/23 (Thu) 05:01:39


       *『人生の秘訣365章』第6篇(P141) より

空気は無料で無限に吾々に供給されていますが、
一ペン吸った空気を本当に役立ててからそれを呼(は)き出して、
はじめて次に吸う空気の供給があるのです。

与えられている現在の「神の恵み」に感謝して、
その内的意義を吸収することも、次の御馳走を食べる準備として、
先に頂いた食事の栄養物をよく消化して吸収して置くことに当るのです。

すべて本当に消化吸収した後に於いてのみ
次の供給を本当に受けることができるのです。

           <感謝合掌 令和3年12月23日 頓首再拝>
16:伝統 :

2021/12/24 (Fri) 05:04:27


      *『人生の秘訣365章』第7篇(P166~167) より

神は創造(つく)る力であり、考案する智慧であり、
その智慧を実現するための法則であり、また資材でもあるのである。
それゆえに一切の供給は本来、神より来るのである。

されば、あなたが富の供給をゆたかに受けようと思うならば、
神に電話をかけるがよいのである。

神と人間との間は、霊的実質でつながっているのであるから、
無線電話が電波によって通ずると同じように、
神と人間との間は、霊波で通ずることができるのである。

併(しか)し波長が合わなければ電波も感応しないように、
神と人間との間は霊的波動が同調するように調節せられなければ
それが通じないのである。

神は愛であるから、神に波長を合わすには
“愛”の心を起さなければならないのである。

無限供給を得ようとして祈りながら、しかも心の調律をわすれて、
神に波長を合わす事を忘れて人間的な現象的努力にのみ懸命になっていて
失敗する人が多いのは惜しい事である。

           <感謝合掌 令和3年12月24日 頓首再拝>
17:伝統 :

2021/12/25 (Sat) 06:40:15


     *「光明道中記」(12月25日《必ず一人を救う日》)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                     (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

           <感謝合掌 令和3年12月25日 頓首再拝>
18:伝統 :

2021/12/26 (Sun) 04:46:52


      *「光明道中記」(12月26日《愛念雲の如く湧く日》)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                      生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、
自働的にそれが富自身を追求するようになる時、
それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

           <感謝合掌 令和3年12月26日 頓首再拝>
19:伝統 :

2021/12/27 (Mon) 04:53:05


     *「光明道中記」(12月27日《無限供給の日》)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                  (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は
悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、
雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、

すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく
心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを
見るであろう。

        <感謝合掌 令和3年12月27日 頓首再拝>
20:伝統 :

2021/12/29 (Wed) 05:07:16


     *『人生の秘訣365章』第7篇(P168) より

太陽は善人にも悪人にも一様に光を無限に与えているのである。
併し人間の側で、室(へや)に暗幕をおろし、瞼を閉じておれば、
その人は光を受けることができないのである。

空気は無限に与えられているが、肺臓から空気を吐き出した者のみが、
それを再び吸入して無限供給の空気を利用し得るのである。

この原則は、単に太陽の光や空気だけのことではなく、
すべての供給についてこの事は真理であるのである。

        <感謝合掌 令和3年12月29日 頓首再拝>
21:伝統 :

2021/12/30 (Thu) 06:42:04


    *『人生の秘訣365章』第7篇(P168~169) より

空気は無限に与えられているけれども、
出すことを忘れて空気を吸い込むことばかり考えている人は、
二度目にはもう空気を吸い込むことはできないのである。

これは全く「無限の裕(ゆたか)さの中にある貧しさ」である。

現在にぎっている若干の富を放すまいとしっかりと把んでいるのは、
肺臓の中に今現にある空気をしっかりと握っていて
呼き出そうとしないのに似ている。

本当に“富”をゆたかに供給されるためには、
“富”から“自分のもの”という考えを棄て去るほかはないのである。

本当の“富”は神の世界にある
「人間が幸福になるためのアイディア」である。
そして金銭や物質はそのアイディアの実現であるのである。

だから、「人間が幸福になるためのアイディア」の実現を
人が幸福になるために使わなかったら、その中味である
「人間が幸福になるアイディア」が消えてしまうから、
その実現なる現象界の富も消えてしまうのである。

        <感謝合掌 令和3年12月30日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/01/16 (Sun) 04:38:44


       *『人生の秘訣365章』第7篇(P169~170) より

多くの人たちは“富”という物質的結果をもとめて、奔走しているけれども、
それは、“霊的世界の影”であるから、原因である霊的世界をなおざりにしては
得られないし、折角得た“富”も消えてしまうのである。

神に物質的“富”をもとめて祈る人は多いけれども、
自己の人格が高尚になることを祈る人は少ないのである。

“物質的富”は影であるから、永遠性のものではなく、
死ぬ時には持ってゆけないものであるが、

高まった人格や清まった人格は、
魂そのものの価値の増加であるから、
何処へでも持ってゆけるものなのである。

それゆえに私たちは錆び腐り消えて行く物質的価値を目的としないで、
永遠の価値なる人格の向上、“魂”の高昇を目的としなければならないのである。

        <感謝合掌 令和4年1月16日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/01/21 (Fri) 03:46:10


     *「光明道中記」(1月21日《笑門福来七宝充満の日》)より抜粋

ケチな心は貧しい心、出し吝(おし)みする心であるから、
一時は出口を押さえる力で蓄積が出来るものであるが、
やがてその人の周囲にはケチな心、出し吝(おし)みする心の持ち主ばかり
が集って来て、ついにはその人自身が立たなくなり衰微して滅んでしまうのである。

贅沢な心のところにも富は永遠にいないものである。
何故なら物の価値を知らないで、湯水のように贅沢に恵みを悟らずに
使いほかしにする心の処には神の恵みは何時迄も停(とどま)らない。

        <感謝合掌 令和4年1月21日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/01/23 (Sun) 06:35:34


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より抜粋

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

         <感謝合掌 令和4年1月23日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/01/24 (Mon) 04:30:38


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月24日)より抜粋

病人においては「富」は罪への誘惑となりうることはある。
しかしそれが「富」そのものの罪でないのは、
白刃(はくじん)が殺人の用に供されようとも、
白刃そのものの罪でないと同様である。

罪は「使用方法を誤る」ということと、「処を得ない」ということにある。

白刃も富も、処を得て正しく使用せられるとき、
天下を平定する剣となり富となる。

われわれの欲しないものを神が欲し給うかもしれぬという考えは、
神人分離の考えである。

われわれの欲せぬことを神が欲し給うかもしれぬというのであるならば、
あらゆる道徳の根拠は不確かなものとなってしまう。

われわれが善と思ったものが善でないかもしれず、
悪と思ったものが悪でないかもしれぬとしたら、
われわれは何を行なったらよいか分らぬことになり、

われわれは他人の貧乏を救うことも、
不幸を救うことも、病気を救うこともできぬことになる。

貧乏や不幸や病気が「善」であれば、それから人を救い出そうとする努力は、
人を「善」から追放する罪悪となるであろう。

しかし、何人(なんぴと)も、病気や不幸や貧乏から人々を救い出すことを
善事だと認めずにはいられない。

そうしたならば、病気や不幸や貧乏は「悪」であり、
神の欲し給わないものであることにまちがいはない。

では、病気や、不幸や、貧乏は人々が苦しいとして避けるものであるがゆえに
尊いという誤れる迷信を捨てなければならぬ。

人類が、病気や、不幸や、貧乏を真に尊敬しなくなり、
それを口実にして同情を求めなくなり、
悲劇を深刻だというような迷信から醒めるようになったとき、
人類の病気、不幸、貧乏は今よりも半減するであろう。

         <感謝合掌 令和4年1月24日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/01/28 (Fri) 04:51:37


       *『人生の秘訣365章』第7篇(P170) より

多くの人たちは、物質の繁栄を求め、富を得るために、
神の導きを得ようとして神に祈るのである。

そしてその得たる富は、物質的贅沢や肉体の快楽のために
費やすのが目的であるのである。

また或る人々は衰弱した肉体が健康を恢復するために祈るのであるが、
その得たる肉体精力を、人を救うためや、徳を積むためや、
人格の向上に適するために使うことをしないで、
個人的な利益のためや、肉体の快楽のために使うのである。

このようにして本来“神”から供給されたる富や健康を、
神らしき目的に使わない場合には、祈りの功徳が消えると共に
急に経済的にも肉体的にもその消耗が目立って来ることになるのである。

         <感謝合掌 令和4年1月28日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/01/29 (Sat) 05:05:33


     *『人生の秘訣365章』第7篇(P170~171) より

肉体に快不快の感覚が存在する以上、
“不快”よりも“快”を求め、苦痛よりも“楽”を求めるのは
別にそれ自体に於いて悪いことではないのである。

肉体は魂の乗る乗馬であるから、
馬も適当に楽しませてやることに何の不都合もない訳であるけれども、

神から頂いた“生命力”を神の愛を実現するために少しもつかわないで、
肉体という乗馬を楽しましめることのみに使うならば、
その“生命力”は目的違反を犯しているのである。

その際、生命力は自律的に減退して、その報いを受けることになるのである。

私たちは神から来たところの供給を、それが“富”にせよ、肉体的活力にせよ、
神に還流することによって、復(また)、神より再び新生して吾らに注がれ、
循環流通して休(や)むことがなくなるのである。

         <感謝合掌 令和4年1月29日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/02/02 (Wed) 04:59:39


       *『人生の秘訣365章』第7篇(P171) より

“神のもの”を神に返して、神から指示される如く、
高きレヴェルに於いてそれを使用するように心掛けよ。

そのとき、“神の国”があなたの生活にあらわれ始めるのである。

国際的連関による不景気や、国内全体の不況の中にいても、
神の供給を信ずる者には、その不況は、人生の波の“一張一弛”と
見えるだけであって、弛んだものは伸びる準備をなしつつあるのだ
と知るがゆえ、一向それに狼狽することはないのである。

一つの仕事が終りを告げるのは、
次の新しき仕事が与えられんがためであると悟ることができるのである。
そしてその信念を通じて一層よき仕事が本当に与えられるのである。

         <感謝合掌 令和4年2月2日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/02/05 (Sat) 05:02:06


      *『人生の秘訣365章』第7篇(P172) より

現象界に不況の嵐が吹きあれて倒産者が相ついであらわれて来る時にも、
實相の世界には無限供給の春風(しゅんぷう)が吹いているのである。

無限供給の龍宮城に住みながら、「自分は貧しい」と言うのは、
太陽の光の中に住みながら瞼(まぶた)をとじて、
「暗い、暗い」といっているのと同じことである。

どんな不況の真唯中(まっただなか)にあっても、
「我れ今、此処、龍宮無限供給の世界にあって、
現に裕な供給を受けつつあるのである」と神想観して念ずるがよい。

あなたの意識の中に、“神の無限供給”が確立せられたならば、
現象界にも、あなたに無限供給があらわれて来るのは当然であるのである。

         <感謝合掌 令和4年2月5日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/02/07 (Mon) 05:03:28


     *『人生の秘訣365章』第7篇(P172~173) より

神の無限供給は永遠性のものであって、
景気、不景気に左右せられるようなものではないのである。

ただあなたが、その無限供給に意識の世界に於いて
一体となり得るかどうかの問題であるのである。

毎日怠らず神想観を実修して、神の無限供給との一体感を深めよ。
神の供給の水は永遠に涸(か)れないのである。

すべての物質を単なる“物質”だと考えてはならないのである。
それを神の愛による供給であり、その本質は“神の愛”であると信じて、
今ある貴方の所有物すべてに対して感謝し、祝福を与えよ。

それはあなたに一層ゆたかに神からの供給を流れ入らしめる導管となるのである。

机に向うときには机に感謝せよ。
洋服を着るときには洋服に感謝せよ。
食事をする時には食事に感謝せよ。

天地一切のものに感謝せよ。
その時、あらゆる方面に無限供給の導管を敷設することになるのである。

         <感謝合掌 令和4年2月7日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/02/14 (Mon) 02:41:24


     *『人生の秘訣365章』第7篇(P177) より

神の富は時々暴落してみたり、暴騰してみたりするものではないのである。
神の富は決してそんなに浮動するものではない。
神の富は永遠性のものであり、恒久性のものである。

暴騰したりする“富”を求むれば、ある時は暴騰するかも知れないが、
必ず暴落する時が来るのである。

私たちは實相、永遠の世界における“恒久の富”の後嗣者として
常にかわらぬ裕なる世界に安住しなければならないのである。

それを実行するには、毎日神想観を実修して

「自分は意識の世界に於いて、今既に無限供給の竜宮城に住むのである」

ことを確認しなければならないのである。

このようにして意識の中に、
實相世界の“無限の富”と自分とを一体化してしまったとき、
現象界にその無限の富が展開するようになるのである。

それがどのような順序で展開して来るかは、
その人の過去の蓄積や、現在の状態を出発点としてあらわれて来るのであるから、
各人にそれぞれ個人的相異があり、一様ではないのである。

         <感謝合掌 令和4年2月14日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/02/17 (Thu) 04:58:46


       *『 生長の家 』(昭和33年9月12日の法語)より

   一時的な快感や一時的の豊富さは人間的工夫によって
   操作して得られることがあるけれども永遠の魂の悦びや、
   永遠の豊なる流れは人間的工夫によっては得られぬものである。

   自己の魂の底にある霊を通して神につながることによってのみ、
   私達は永遠の魂の悦びと供給の豊なる流れとを受けることが
   できるのである。

   私たちは何としても、現象だけに頼らずに、
   この内なる霊の鍵を通して無限の供給の流れと
   結びつかなければならないのである。

   外のものに頼るよりも『内なる鍵』を通して
   無限の宝庫の扉をひらくのである。

   私たちの内には霊感とも云うべき内部の能力が宿っており、
   その燈火(ともしび)が私たちを導いて下さるのである。

   『わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ』
   暇あるごとに常にこの言葉を黙念して、
   内部の無限の力より汲むべきである。

         <感謝合掌 令和4年2月17日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/02/18 (Fri) 02:39:11

           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロック〇ェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

         <感謝合掌 令和4年2月18日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/02/22 (Tue) 04:50:16


           *「光明道中記」(2月22日)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。(「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、天の倉に貯えられたる善行である。
すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを
先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの不幸不運な人ならば、
その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、
その人が自己の運命を改善しようと思うならば、先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

         <感謝合掌 令和4年2月22日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/02/25 (Fri) 03:52:40


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。
人のためになることを余計すればするほど、その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもので、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

         <感謝合掌 令和4年2月25日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/03/20 (Sun) 07:58:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 令和4年3月20日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/04/07 (Thu) 07:13:06


       *「真理」第5巻女性篇(P125~137)より抜粋

(1)富に対して正しい観念を持つ。

   清貧礼賛を捨てる。

(2)富は決して穢(きたな)い物でも、
   汚(けが)れた物でもないのであります。
   
(3)富の本質への礼拝が富を築き、
   且つそれを正しく扱う上に必要な土台となるのであります。

(4)富とは金や貨幣のみとだ考えてはなりません。

   富の本質は、神より流れ出づるものでありますから、
   神の持ち給う一切の善き物は富であります。

(5)冨を得る原則は、現在頂いている冨に、先ず感謝するところから、
   次の冨を受け取る資格が出来るのであります。

(6)あなたは食物に感謝しなさい。空気に感謝しなさい。日光に感謝しなさい。
   衣服に感謝しなさい。住居(すまい)に感謝しなさい。

   その功徳は無限です。

(7)家族が仲よくなることが大切です。

(8)富を得るためには、自分自身が富そのものにならなければなりません。

   「われは富を追及せず、われ自身「富」なれば、
    富はわれを求めて集まって来るのである」

   と心に富を思念して、
   自分自身が「富」を吸着する磁石的中心にならなければなりません。

(9)「我れは神の子なれば、神の無限の富の後継者(あとつぎ)である」と
    常に念ずるように致しましょう。

(10)人間に父母があるように、富にも父性原理と母性原理とがあります。

  ①母性原理とは、ゆたかに『拡げて受ける』心です。

  ②富の父性原理とは「出して与える原理」です。
   富を得るにはあなたは富の種子を蒔かねばなりません。
   大地に与えなければならないのです。

・・・

<詳細は次のWebにれ確認できます>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
「富を築くための新しき生活設計~10の教え」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yuyu6/&mode=res&log=38

            <感謝合掌 令和4年4月7日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/04/11 (Mon) 07:30:54


     *『人生の秘訣365章』第7篇(P177~178) より

神から与えられている富は貨幣の形をしている訳ではなく、
また物質の形をしている訳ではないのである。

それは人類の心の中に宿っている愛と智慧とであって、
愛と智慧とを充分出しさえすれば、
それは愈々益々人類を益することになり、

人類を益する事業又は企画を実践するならば
それが自然に“富”となってあらわれて来るのである。

神の富は、人間の愛と智慧とを通して具体的な表現を遂げるのである。


常に人類が何をもとめているかを察せよ。

人が求めているものを与えるのが“愛”である。
人類が楽しみを得るものを考えてそれを与えよ。
それが“愛”を与えることである。

しかしその“楽しみ”が人を堕落せしめるような“楽しみ”を与えるならば、
一時その人を悦ばすことができても永遠にその人を幸福にすることにならないから、
その結果の報いは、それを与えた人も受けなければならないのである。

            <感謝合掌 令和4年4月11日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/04/15 (Fri) 07:40:25


       *『人生の秘訣365章』第7篇(P178~179) より

外の富に頼るな。
内に宿るところの無限の富、無限能力に頼るがよい。

外の富は、内に宿る無限能力の一部が
外に影を映したものに過ぎないのである。

“影”はそれを映し出している本体がそこを去るとき
忽ち消えてしまう性質をもっているものなのである。

“影”を追い求める迷いを棄てて
実体を表現するために何を為すべきかを求めよ。

唯一の実体は神である。
神は愛であり智慧である。
されば、神の愛と智慧とを表現するために何を為すべきかを、
神想観中に祈るがよいのである。

そしてその時思い浮かぶことを、神の啓示として素直に受けとり、
手帖を用意しておいて書きしるし、そのうち直ぐ実行できる事は
直ちに実行するがよいのである。

神からの啓示が来ても、それを直ぐ実行しない時には、
次から本当の啓示が来なくなることがあるのである。

            <感謝合掌 令和4年4月15日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/04/17 (Sun) 07:26:25


      *『人生の秘訣365章』第7篇(P179~180) より

イエスが五つのパンを五千人に頒(わか)ち与えて、
あとに尚十二籠に山盛りのパンが残ったという奇跡は、

愛によって“富”が行使せられるとき、
無限供給の“富の本源”なる神からパイプが通じて、
裕(ゆたか)に富が与えられることを実証するものなのである。

物質そのものを尊重するのではなくして、
物質の奥にある“神の愛”を礼拝し尊重する意味に於いて、
イエスはどんな小さなパン屑をもそれを拾い集めさせているとき、
十二籠に山盛りのパンが残ったのである。

“与える”という“愛”の実践と、
物質の奥にある“神の愛”の礼拝尊重とによって、
与えた富以上に無限の富が与えられることになるのである。

            <感謝合掌 令和4年4月17日 頓首再拝> 
41:伝統 :

2022/04/18 (Mon) 09:14:13


        *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわないと云うことは
ないのである。

            <感謝合掌 令和4年4月18日 頓首再拝> 
42:伝統 :

2022/04/19 (Tue) 07:58:58


        *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 令和4年4月19日 頓首再拝> 
43:伝統 :

2022/04/20 (Wed) 07:26:59


        *「光明道中記」(4月20日《人を必ず救う日》)より

【皆の人々の喜びが此処に反射して帰って来てこそ事業は生長するんです。
                         (『百事如意』)】

世間にはただ投機的な活動や、自分が儲けたら他が損をするような職業を営んでいて
巨利を博している人たちがあるにはあるが、そう云う人たちは
精神的には実にみじめな生活をしている。

それは隙を見て奪うにも似たる生活であるから、
その先鋭的な精神状態は自分自身を傷(きずつ)けて、
自分自身が神経過敏状態になるか、身体の各所に病気を持っている。

更にその尖鋭な精神状態は家族を傷け、家族たちがヒステリーに陥るか、
身体の各所に病気を持っているであろう。

労(サービス)せずして得たる金銭は、その人の身につく資格なきものであるから、
それは必ずその人から飛び去ろうとする。

その飛び去る際に、その持主を肉体的快楽の賎奴(せんど)とするか、
執する物に離れる愛別の苦痛を与えて飛び去るのが普通である。
或る場合には金が溜(たま)れば必ず医者にとられる。

考えて見るならば金銭は何処(どこ)がそんなに尊いのであろう。
それは隣人を救う時に利用されるとき、自分を高め勉強さすように利用されるとき、
その時にのみ尊いのである。

隣人から奪ってこれを苦しめ、自分を肉体的快楽の奴隷にまでならしめるような
金銭は却って地獄の使者(つかい)である。

            <感謝合掌 令和4年4月20日 頓首再拝> 
44:伝統 :

2022/04/23 (Sat) 10:28:55


      *『人生の秘訣365章』第7篇(P180~181) より

現代は生産設備の進歩により、寧ろ生産過剰を来たして、
滞貨の増加によって不景気を招来しているような形勢を来たしつつあるのである。

それだから何でも一寸使って棄ててしまって新に買うことが滞貨を減らし、
景気をよくする道だというように考える人もあるのである。

物質が単に言葉通りに“物質”に過ぎないものであって、
その背後に“神の愛”が宿っていないのだったら

「一寸使って棄ててしまう」経済は
景気恢復に絶好の妙薬を提供するように見えるかも知れないが、

物を粗末にする経済は、物質の奥にある「神の生命」を粗末に扱う心があるために、
それより後の、無限供給の通路の扉を閉ざしてしまうことになるのである。

            <感謝合掌 令和4年4月23日 頓首再拝> 
45:伝統 :

2022/04/26 (Tue) 09:08:07


      *『人生の秘訣365章』第7篇(P181) より

日本語の“物(もの)”を“神からの祝福”のあらわれとして
尊重する場合に発する「勿体(もったい)ない」という語(ことば)は、
“これは物体(もったい)ない”という意味なのである。

百丈和尚が小川で野菜を洗っていたとき、
たった一枚の菜の葉がちぎれて流れて行ったとき、
それを走って行って拾い上げると、推し戴いて
「これは佛物(ぶつもつ)だ」といったというのは、

一枚の菜の葉と雖も、神の祝福のあらわれであって、
決して単なる物体(もったい)ではないという意味だったのである。

そのように物質を単に物質と見ないで、その奥にある神の愛と生命(せいめい)と
智慧とを礼拝する心になるとき、神の愛と生命と智慧とに吾々人間は交通でき、
それが良き“生活の智慧”となって繁栄がもたらされることになるのである。

            <感謝合掌 令和4年4月26日 頓首再拝> 
46:伝統 :

2022/04/29 (Fri) 09:34:51


       *『人生の秘訣365章』第7篇(P182~183) より

今、既に自分が實相に於いて無限供給を満喫していることを信ぜよ。

肉眼で見えるものしか信じない人々にとっては、現在、物質世界に於いて
貧しい生活を営みつつあるのに、「既に實相に於いて無限供給を満喫しつつある」
と信ずることは困難であるかも知れないけれども、宇宙の一切のものは、
すべてもとは不可視の本源から生まれ出て来たのである。

宇宙の最始源には、天体も何もなかったのである。
それを神が想念を起して、心に描くことによって、
その描かれたものが法則を通して実現することになったのである。

そしてその“神の生命(いのち)”が吾々自身のいのちとなっているのであるから、
吾々自身もまた、想念を心に描くことによって、不可視の世界から、法則を通して
自然の秩序を経て“富”を此の世に実現することが出来るのである。

この「法則を通して」ということが大切であって、妖術の如く、幻術の如く
“富”が忽然として顕現するのではなくて、最初に心に強く描けば、
その描いたものを実現するための行動が、自分自身及びその問題に連関する人々に起り、
自然の秩序を通して、心に描いたものが実現することになるのである。

            <感謝合掌 令和4年4月29日 頓首再拝> 
47:伝統 :

2022/05/01 (Sun) 14:44:15


    *『人生の秘訣365章』第7篇(P183~184) より

あなたは何よりも先ず神の造り給うたこの世界は「すべて善し」であって
「悪」はないということを知らなければならないのである。

従って悪なる“貧しさ”というものも實相に於いては存在しないのだ
ということを知らなければならないのである。

神のつくり給うたこの世界は、“エデンの楽園”といい、“極楽世界”といい、
“龍宮海”といい、“天国”といい、その呼び名は典拠によって色々異なるけれども、
すべてそれは裕(ゆたk)な豊富な世界であるように表現されているように、
貧乏などというものは実際に於いて存在しないのである。

貧乏というものは本当にあるのではなく、その人の心のうちに描かれ、
それを行動化して自分で造り上げたものであるから、あなたが想念の世界に於いて

「貧乏などというものは存在しない、自分は“神の子”として今現に富めり」

という念を強く把握し、勇気と歓びとをもって行動すれば、
運命は自然にひらけて、あなたは屹度富むようになるのである。

            <感謝合掌 令和4年5月1日 頓首再拝> 
48:伝統 :

2022/05/02 (Mon) 10:12:33


     *『人生の秘訣365章』第11篇(P273) より

幸福は恰度適当な分量を常に神から頂いている者に与えられる。

あまりに過剰に所有が殖える事を“富”だと考えることは間違である。

物が裕にすぎて却って不幸が来るのは、
大都会の道路に自動車が密集して動きがとれなくなっているのが、
必ずしも幸福でない事実を見れば解るであろう。

富とは必ずしも物質の量によらないのである。
いくら物質の量が多くとも幸福の要素を内に含んでいないものは
“富”とは言い難いのである。

排気ガスによって空気が汚れ、これが肺癌を誘発する原因になったり、
交通事故で、ヴェトナム戦争以上に死傷者が出たりするのは、
自動車の台数がいくら殖えてもそれは本当の富ではなく、
“マイナスの富”である事を現している。

天然の風光明媚の海岸の風景を破壊して毒煙濛々とたちのぼる臨海工業地帯に
いくら数多(あまた)の工場が建設せられても、それは“マイナスの富”を増加して、
金銭で購(あがな)いがたい天然の風光という“富”を毀しているから
称めたことではないのである。

人類は今や、物質の富を追うラッシュで眞の富を破壊しつつあるのではないだろうか。

            <感謝合掌 令和4年5月2日 頓首再拝> 
49:伝統 :

2022/05/04 (Wed) 13:03:27


        *『人生の秘訣365章』第1篇(P31~32) より

常に今、あなたの眼の前にあることで、誰かのためになる事を実践せよ。
神は愛であり、神を信ずるならば愛を実践しなければならないのである。

愛を実践するとき、神の世界にある天国的な状態に
自己の生命(せいめい)をして波長を合わすことになり、
自然にあなたの周囲に天国的な状態があらわれ始めるのである。

併し、愛は実践すると共に、“心の世界”に於いて、
天国的状態が既に自分の周囲に展開して、
そこに自分自身が既に生活している有様を心に描いて瞑視するがよい。

他(た)の裕かなる人を羨むな。
他(た)の人の富を羨む心は富を否定する心であるから、
自己の富をも否定することになるのである。

人類はすべて“神の子”であるから、
誰も皆一斉に裕かであるのが当然であって、
或る人が富むために他の人々が貧しくならなければならない
ということはないのである。

あなたは誰の富をも羨むことは要らないのである。
既に實相の世界に於いて、あなたが裕かに生活している有様を
心で凝視すればよいのである。

            <感謝合掌 令和4年5月4日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/05/08 (Sun) 09:54:10


      *『人生の秘訣365章』第3篇(P81~82) より

あなたが何事か《真に》そして《切に》それを実現しようと欲せられるならば、
それは既に心の世界に於いてそれが整えられてある証拠であるのである。

しかしそれを現象界に実現するためには、
神に波長を合わさなければならないのである。

波長を合わす道は、生長の家の神示に
「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」とあり
「争いの念波は神の救の念波を能(よ)う受けぬ」とあり、
「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう」とあるから、

神に感謝し、父母(ちちはは)に感謝し、誰かと争っているならば、争いをやめて、
其の者と和解しなければならないのである。


更に希望を実現せんと欲せば、
「与えれば与えられる」の法則に随って
「与える」ことを先ず行じなければならないのである。

旧約聖書の「マラキ書」第三章第十節には

「わが殿(みや)に食物あらしめんために汝ら什一をすべて我が倉にたづさえ来れ、
 而して是をもて我を試み、わが天の窓をひらきて容るべきところなきまでに
 恩沢(めぐみ)を汝にそそぐや否やを見るべし。万軍のエホバこれを言う」

とある。

天の倉には無限の寶が充満しているのに、
収入の什分の一を神に献げて見たときに、
天の倉の窓がひらくのだと神は仰せられるのである。

           <感謝合掌 令和4年5月8日 頓首再拝>

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