伝統板・第二 2559299

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神は愛なり⑧

1:伝統 :

2021/11/09 (Tue) 05:03:28

《愛念は愛念を招(よ)ぶ》

     *『幸福を招く365章』第10項(P201~202) より

今日(きょう)一日、愛と善意と平和の
想念のみをもつように心掛けて御覧なさい。

それは貴方を素晴らしく若返らせ、健康にする力があります。

地獄のような環境が忽ち極楽になったような感じがするでしょう。


あなたの内に宿っている神性 ―― 愛と善意と平和 ―― の導きのままに
あなたの生活をなすよう心掛けて御覧なさい。

『神の国は汝の内にあり』と云った
イエスの意味が本当にお判りになると思います。


何人(なんびと)に対しても愛念と同情とを起こすことは、
あなたの生活に異常な温か味を添えることになります。

愛は愛を招いて、あなた自身が周囲から愛されることになります。

人間が幸福感を得るのは愛されることによってであります。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841

(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817467

(5)伝統板・第二「神は愛なり⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7907586

(6)伝統板・第二「神は愛なり⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7996672

(7)伝統板・第二「神は愛なり⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8139213

        <感謝合掌 令和3年11月9日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/11/12 (Fri) 04:58:54


    *「光明道中記」(11月12日《人を審判(さば)かぬ日》)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに
「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだ
と云うことであるし、十字架の上にあっても
「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、
音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、
挺身して人類の代贖者(みがわりもの)になろうと決意した
イエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として
微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 令和3年11月12日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/11/16 (Tue) 05:04:31


     *『幸福を招く365章』第10項(P207~208) より

神は人間を地上に或る使命を果させる目的でお生みになったのであるから、
人間が地上に生活するに必要な衣食住は必ず与え給うのである。

それが得られないのは、神の方に間違いがあるのではないのである。

人間が地上における使命を果すことを怠っているか、
神のみ心にかなわない愛にそむく生活をしているからであるのである。

愛と生命(せいめい)と智慧とは一体であるから
生命(せいめい)を生かすことが愛であり、
そのための正しい智慧の実践が愛である。

だから愛とは単に「好き」と云う意味ではない。
「あの人を好きだ」と云いながら、
その貞操を蹂躙して不幸の運命につき落とすなどは、
決して愛ではないのであって、

それは「好き」と「愛する」とを混同したのである。

          <感謝合掌 令和3年11月16日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/11/20 (Sat) 05:04:41


       *『幸福を招く365章』第11項
            (P228~229) より

周囲の人々が自分に対して悪意を抱いているようにみえるときには、
自分の方が周囲の人々に好意を持っていないか、
冷淡であるか、敵意をもっているか、恐怖心をもっているかが、
相手に映って、そう現われるのである。

あなた自身が、

「自己の内に神の愛が流れ入りて、
 私というパイプを通して神が彼らを愛したもうのである」

と念じて、豊かに神の愛の言葉を、そして行為を
あなたを通して周囲に注ぎかけるならば、
そのような敵意も恐怖も消えて周囲全体が調和ある状態に変化するのである。

どんな困難な事態でも、
真に神の愛があなたを通して実現するならば、
調和が現れるほかはないのである。

          <感謝合掌 令和3年11月20日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/11/22 (Mon) 03:04:22


       *『幸福を招く365章』第10項(P209) より

愛を表現する言葉、表情、態度と云うものは
相手を生かす力をもっているものである。
愛のこもった見舞いの言葉は病人を立たしめる。

しかし

「あゝ重病でお気の毒ですね。随分衰弱なさいましたね」

こう云う親切な言葉は、現象に捉われて、
相手の「健康なる生命」の実相を見ない言葉であるから、
却って相手を殺すのである。

「殺す」のは愛に背くのであるから、
斯う云う所謂親切な言葉は、愛の言葉ではないのである。

「親切」と「愛」とは異なるのである。

親切が単に親しみだけでなく深切となり、深く切に、相手の実相を徹見し、
病気の現象の奥にある完全健康なる彼の実相を見て「汝は病気に非ず」と
直言し得るようになってこそそれは「愛」である。

          <感謝合掌 令和3年11月22日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/11/23 (Tue) 04:58:08


     *『幸福を招く365章』第10項(P213~214) より

真の信仰を得るまでは、本当の魂の平安は得られないのである。
他(ひと)を真にゆるすまでは本当の魂の平安は得られないのである。

吾々がどんなに熱心に祈っても神想観で黙然しても欲することが得られないのは、
誰かを憎んでいてその人をゆるさないからである。

神を愛するとは自己に宿る神性を愛することにほかならない。
自己に宿る仏性を愛することにほかならない。

自己に宿る神性仏性を愛するには
同時に他(ひと)に宿る神性仏性を愛しなければならない。

何故(なぜ)なら神は霊であり、すべての渾(すべ)てであって、
すべてのものの中に神の霊が宿っているからである。

汝の隣人を愛さないでいて、
神を愛していると云うことは、戯言(たわごと)に過ぎないのである。

(初出は「生長の家」昭和26年7月3日の法語)

           <感謝合掌 令和3年11月23日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/11/30 (Tue) 04:57:13


       *『幸福を招く365章』第11項(P229) より

真に幸福なる生活を送ろうと思うならば、
周囲の人々に対して絶対調和した心持ちでいなければならないのである。

周囲の人々に怒りや憎しみや恐怖の感情を持っている限りは、
物質的にいくら豊かな生活を送っていても
その人は幸福だと云うことはできないのである。

誰でも愛されたいのに、その相手がこちらを憎んでいるのは、
こちらが相手を愛してあげようが足りないからである。

憎しみの言葉を相手がこちらに投げかけても、実はその人は

「私はあなたに愛されたいのに、愛してくれないから、
 私はやむを得ず、やけくそにあなたに意地悪をするのよ」

と心の中では言っているのである。

           <感謝合掌 令和3年11月30日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/12/14 (Tue) 05:03:59


      *『女性の幸福365章』(P61)より

神の祝福はあなたの愛他的行為の中に宿り、
悪魔の誘惑はあなたの利己的行為の中に宿る。

ひとたび利己心によって汚(けが)されるならば、
本当の魂の悦びは消えてしまう。

正しく見える行為の中にも利己心の悪魔はひそみがちである。

愛は純粋に無我でなければならぬ。


この世界は法則の世界である。
物理科学的な法則もあれば、精神科学的な法則もある。

善き種子(たね)を蒔けば善き樹が生長し、
悪しき種子を蒔けば悪しき樹木が生長する。

深切や愛ふかき善行(ぜんこう)はよき種子(たね)であり、
冷酷な利己的な所行(しょぎょう)は悪しき種子である。

神は吾々をその意志を以て罰したまわないけれども、
法則が自働して吾々に報いを与えるのである。


“魂の生活”とか“宗教的生活”とかいうものは
必ずしも静坐して祈るばかりの生活ではないのである。

一切のものを祝福し、一切のものを讃歎し、一切のものに感謝し、
その感謝を具象化するために「動き出す」生活である。

           <感謝合掌 令和3年12月14日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/12/17 (Fri) 05:05:58


        *『生長の家』(昭和23年9月10日の法語)より

あらゆる手段を尽しては見ましたが 駄目でしたと云う人がある。

しかし其のあらゆる手段のなかに 「 愛を実践して見たか 」 否かが問題である。

愛の思いを起して見たか、
愛の言葉を出して見たか、
愛の行いを実践して見たか

と云うことである。

人から顧みられないのは
自分が人に深切を実践したことがなかったからである、

深切な言葉をかけてやったことがなかったからである。

深切な思いを起して見たことがなかったからである。

行き詰るのは結局、今迄利己主義であったからである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 令和3年12月17日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/12/19 (Sun) 05:09:36


       *「眞理」第9巻生活篇第13章(P356) より
         ~《愛は性的愛好ではない》

愛は時として誤って伝えられる。
愛は単なる情欲ではない。
また性的愛好でもない。

情欲や性的愛好は純粋なる愛ではないのである。

情欲や性的愛好は、自分の悦びや快楽のために
相手を自己に奪いとろうとする。

併し純粋の愛は、他(た)の人の悦びや快楽のために
自己を相手に献(ささ)げようとするのである。

愛は自己抛棄である。
自分の中が”空っぽ”になることである。
自分の中が”空っぽ”になったとき、神が私たちの中を満たすのである。

瀕死の病人で、「今まで自分の生活があまりに利己的であった。
これらか感謝のために、人を悦ばす愛行のみを致しましょう」と
決心したとき、忽然と其の重病から癒されたと云う実例があるのも
其の為である。

神は凡(あら)ゆる善きものの本源であり、
愛は凡(あら)ゆる生ける者の活力の源泉である。

神に結ばれている時、長い眼で見れば勝利である。

           <感謝合掌 令和3年12月19日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/12/23 (Thu) 05:04:01


         *「真理」第9巻生活篇(P370~371)より

人の悪を見ず、審(さば)かず、その善き処ばかりを見て、
それを尊敬し、称嘆するのが愛である。

愛が人の中に宿るとき、その人は柔らかくして強くなる。
そう云う愛に貫かれた人の正しい主張は何人(なんぴと)も
抗することができないものである。

そう云う人の愛の行くところ其処は必ず調和があらわれる。

愛なくして利害の衝突するところ、調和を求めても
決して調和はあらわれて来ないのである。

愛は利害関係を超える。
利益になるから愛するのではないのである。

愛するがゆえに愛するのであり、
愛するために損になっても愛するのが本当の愛である。

これは夫婦関係でも国と国との関係でも同じことである。

利害関係に終始している限りに於いて永久に平和は来たらないのである。
利害関係の誘惑はサタンである。

人類が純粋の愛で結びつき、利害関係を超越したとき本当の平和は訪れきたる。

           <感謝合掌 令和3年12月23日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/12/26 (Sun) 04:55:56


          *「真理」第9巻生活篇第6章(P152)より

愛はよく耐え忍ぶ。
忍耐強くあることが愛の特徴である。
気短く捨ててしまうようなことでは愛が足りないのである。

本当の愛には嫉妬はない。
嫉妬するのは独占欲があるからであって、本当の愛ではないのである。

愛は決して見せびらかすなどの事をしないのです。
愛は静かである。
熱狂して、まもなく醒めるのは本当の愛ではないのです。

静かに忍耐強く希望を捨てないで相手を生かして行くのが愛なのです。
愛はどんな場合にも絶望しません。
絶望するのは相手を本当に愛しないからなのです。

愛が深ければ、何時までも相手に希望を持っているものです。
愛は現象の不完全を実在だと思いません。
愛は実相の完全さを見るのです。

愛は決して相手を縛りません。
愛は自由を与えます。
併(しか)し愛は放任しません。

愛はその人のために祈るのです。

           <感謝合掌 令和3年12月26日 頓首再拝>
13:伝統 :

2021/12/29 (Wed) 06:29:19


      *『 生長の家 』(昭和25年11月16日の法語)より

   電気は 同じ電気の法則で作用しているのであるが、
   それが時としては 光となって世を照らし、
   電熱となって吾々を温め、
   時としては 激しい衝撃をもって吾々を傷つける。

   その変化は受ける装置の変化によるのである。
   電気が変わるのではない。

   それと同じく神の恵みは常に同じであるが、
   こちらの心の状態によって 智慧の光ともなって顕(あらわ)れ、
   愛の温かさともなって顕れ、
   時として烈(はげ)しい苦難の状態ともなって顕れる。

   しかし神の愛は常に変らないのである。

   神の愛を受けるには受ける準備が必要である。

   先ず心の角を去ること、力みを除くこと、我慾を除くこと、
   そして一心に神に振向くことである。
   詳しくは『祈りの科学』を読んで頂きたい。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=606(消滅)

           <感謝合掌 令和3年12月29日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/01/01 (Sat) 04:45:58


         *「光明道中記」(1月1日《必ず楽しの日》)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、
その本質は愛によって成立っている。

人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、
生き甲斐を失い、病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、
死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

           <感謝合掌 令和4年1月1日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/01/04 (Tue) 01:51:32


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、
脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

           <感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/01/07 (Fri) 04:51:07


         *「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。

神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、
吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

           <感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/01/13 (Thu) 04:55:41


     *『ありのままで生きる(天と人をつなぐ法則)』
       矢作 直樹/ 保江 邦夫・著(P124)より

保江

つい最近、私の門人が(愛とは何かについて)いい答えを教えてくれました。
その門人は、ずっと柔道などをやってきた大変ゴツイ男なのですが、
その男が、
「先生、初めて愛というものがわかりました」といってやってきた。

そうして、教えてくれた愛の定義が、聞いてみると、確かによい定義なんです。


矢作

ほう、どういう定義なのでしょう?


保江

愛がわからないという年配の女性に、
私は門人から教わった愛の定義を話してみました。

「もともと、私たちの魂は一つだったのです。
 だけど、一つだけじゃつまらないから、半分に分けたんです。
 そして、また半分、また半分と、どんどん分けていったんです。
 四つ、八つ、一六というように。その一つ一つが我々の魂なんです」。

そこまでいっても、その女性は、
よけいにわけがわからないという顔をしていました。

そこで、私はいいました。

「つまり、私たちの魂は、もともと一つであったのです。
 もともと一つであった魂が分かれたものです。
 ですから、私たちはもともとつながっています。
 そのつながりを感じることが愛なのです」。


矢作

いい定義ですね。

           <感謝合掌 令和4年1月13日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/01/14 (Fri) 05:09:06


        *『 生長の家 』(昭和25年11月29日の法語)より

   汝の共働者が自分に不誠意ならば、彼を愛せよ。
   そは汝の愛が 金か白金かニセ物であるかを試すところの
   好機会であるのである。

   若(も)し自己に誠実なもののみを愛する如(ごと)き
   自分の愛であったならば、
   自分の愛はニセ物であったと反省せよ。

   若し、自分の夫や妻や子がイライラしていたならば 彼を愛せよ。
   彼がイライラしているのは 愛に飢えているからである。

   周囲のすべてが四面楚歌(そか)となるならば彼らを愛せよ。
   必ず将(まさ)に汝の愛の力が
   周囲の事情を好転せしむるに相異ないのである。

   愛を実践しさえすれば あらゆる難関を切り抜けることが出来、
   あらゆる難問題に対する回答を見出すことが出来るのである。

           <感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/01/23 (Sun) 06:46:26


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
         第2篇( P54~55) より  
         《 敵 は な い 》 

すべての人間は皆、神の子であり、
同じように神性・仏性が宿っているのであるから、
本心に於いて悪い人などは決して無いのである。

決して本心に於いてあなたを害する人はないのである、
決して本心に於いてあなたに敵意をもっている人はないのである。

各々の立場に於いて各人は互いに自己を主張していて、
時としてその主張が衝突し、互いに昂奮して傷つけ合うことが
あるように見えることがあるにしても、

実相に於いては、一体の生命(せいめい)であるから、
昂奮して悪しざまに言い合う事を止(や)め、

静かに坐して相手の実相が自分と共に”神の子“であり、
互いに調和していることを念ずるならば、
やがて、本来一体なる実相の生命があらわれ、
現実世界に於いても調和し得るようになるのである。


「汝の敵のために祈れ」とイエスは教えたが、
その本当の意味は汝の敵のように見えている者も、本当は敵でないから、
その敵でないところの「実相」を念じてやれという意味である。

これが本当に「愛する」という意味である。

           <感謝合掌 令和4年1月23日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/01/25 (Tue) 05:03:20


       *『 生長の家 』(昭和25年2月16日の法語)より

   神を自己に実現するには
   愛を行じなければならない。

   神は愛であるからである。
   
   愛は唯(ただ)愛していると思うだけでは
   その半ばの力しかない。

   愛は行じなければならない。


   神は今に到(いた)るも働き給う。
   一日といえども隠退し給うたということは ないのである。

   もし神が隠退し給うならば
   此の世界は破壊してしまうのである。

   この世界は神の働きによって 維持されているのである。
   その如く この世界は吾々の愛行によって維持されるのである。

   愛は これを隣人に実践する時
   それは本当の力となるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 令和4年1月25日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/01/26 (Wed) 05:03:09


       *『生活の智慧365章』
        (第1部生命の泉)第3篇( P68~69) より

何事を成すにも勇敢に、自信満々、積極精神をもって事にあたり、
行くところ可ならざるなき成功と勝利とを得るには、全智全能なる「神」が
自己の内に宿っているという自覚をもつことが大切である。

神の生命(せいめい)があなたの内に宿っているのであり、
神の無限の智慧があなたの内在の智慧としてあなたを導いていられるのである。

しかしそれを自覚しないために、発見しない地下の宝のように
それを利用することができないのである。

あなたがそれを発見しはじめたとき、あなたの生活が不幸から幸運に、
暗黒から光明に、不健康から健康に転じはじめるのである。


神が自己に宿っているという自覚が出来たならば、神らしい行ないをするよう
心がけなければならない事は当然である。

神は愛であるから、ただ「われに神宿る」と自覚するだけでなく、
愛を実践するところに本当の幸福も、運目の好転もあり得るのである。

自分が少しでも此の真理によって救われたならば、その真理を他(た)につたえて、
他(た)を救う実践をなすところに、神の愛の実践があるのである。

           <感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/01/27 (Thu) 04:27:49


    *「ついに、愛の宇宙方程式が解けました
      : 神様に溺愛される人の法則」保江邦夫・著 より

(1)プロローグ 空間を友とする生き方(P1~9)

  ①愛の宇宙方程式をざっくりお伝えすると

   空間は 愛と言う意識(情報)で満たされている。

   だから、空間に感謝したり、空間を友達にすることで
   神様(愛)がめちゃくちゃ応援してくれる。

  ②このことを、看破していた哲人「谷口雅春」氏

   【宇宙荘厳の歌】

   (一)
     荘厳きわまりなき自然
     悠久きわまりなき宇宙
     立ちて仰げばあおぞらに
     銀河ながれて星無限

   (二)
     かみの叡智はきはみなし
     かみのちからは限りなし
     星と星との空間を
     ひく糸もなくひく不思議

   (三)
     不可思議不可知科学者も
     なにゆえ万有引力が
     あるかをしらずただ神秘
     万有むすぶは神のあい

   (四)
     ああかみの愛かみの愛
     宇宙にみちて万有を
     むすびあわせて荘厳の
     宇宙いまここけんげんす

   (五)
     もし愛なくば荘厳の
     宇宙げんぜず美しき
     人と人とのむつまじき
     むすびの世界あらわれず

   (六)
     われらいのちの本源を
     神にみいだし神の子の
     愛のいのちを生きんかな
     神のいのちを生きんかな

       (参照~宇宙荘厳の歌 / 生長の家混声合唱団
         https://www.youtube.com/watch?v=WAFlEHoV328 )


(2)愛の方程式は素領域理論だった~湯川博士の素領域理論

  ①素領域理論は、「空間とは何か?」という物理学において
   未解決の難問に応えることができるだけでなく、

   「愛」とか「情」、「奇跡」と 呼ばれる自然界の物理法則に反する
   物質現象が生じるメカニズムまでも 記述することができるのだ。

   言い換えるならば、物理学の理論的な枠組みの中で初めて
   「空間」という 実在を定義することができるだけでなく、
   「愛」や「霊魂」といった形而上学的な 概念を定義することができるのが
   素領域理論ということになる。 (P244)

  ②湯川博士の素領域理論によれば、物質の構成要素である素粒子は、
   すべていずれかの素領域の中に死か存在できない。

   この意味で、身体を含めすべての物質は
   「霊の中にのみ存在している」といえる。

   つまり、霊があるからこそ物質でできた肉体が存在するのであり、
   「肉体が霊を宿す」のではなく「霊が肉体を宿す」のである。

   (中略)

   神意としての「愛」や「情」が、自分以外の他の人間の動きに作用するのは、
   肉体を宿す霊である魂に働きかけることで素領域間の配向分布が変化し、
   その結果として素領域から素領域へと変遷していくエネルギーである
   素粒子の動きが変わる。

   つまり、それらの素粒子から造られる身体が、
   その変化に見合うように動かされるということだ。(P246~247)

(3)岡潔博士

   長年にわたって奈良女子大の数学教授を務められた大数学者である岡潔博士も、
   湯川博士と類似の考えを持っておられました。

   (中略)

   そこでは、空間は「愛」あるいは「情」と呼ぶべきものが粒々に、
   あるいは泡のようにつまっていて、素粒子はその粒々の間を
   エネルギーとして 飛び移っているとされた。

   そして、その「愛」や「情」としての素粒子がどのような性質を持つかによって、
   そこを飛び交っていくエネルギーの素粒子としての性質が決まるのだ。
    (P250)

(4)空間を友として生きる~「空間を味方にする」具体的な方法

  ①機会あるごとに「ありがとう」を言う。

   感謝の対象に「ありがとう」
   誤解され罵られたときにも「ありがとう」
   殴られそうになったときにも「ありがとう」

   さらには、相手と自分自身の間に「在る」はずの「空間」と、
   相手の周囲を包み込んでいる「空間(素粒域)」にも「ありがとう」

   「愛」こそは、我々人間が「素粒域」に働きかけることができる
   唯一の手段となるものだから、「空間を味方にする」ためや
   「空間を友とする」ためには「愛」が必要不可欠となり、
   「ありがとう」という言葉が最大限に重要な役割を担うことになる。

  ②日々の生活の中で機会あるごとに「手を合わせる」

   「手を合わせる」という所作には、根底には「愛」を讃美する
   という神意が隠されている。

   「手を合わせる」そのままで「愛」つまり「神を讃える」ことになる。

  ③「空間を見放される」ことを排除しておく。

   たとえば、

   悪口を言う、嫉妬する、騙す、呪う・・・

   さらには、

   ネットの仮想空間に気持ちを向けることも該当します。

   → スマホ、パソコン、テレビの画面を見ないようにする
     ことが大切です。 


(5)エピローグ~愛と空間の締めくくりに

  ①この書「ついに、愛の宇宙方程式が解けました」は、
   哲人・谷口雅春氏によって「宇宙荘厳の歌」の歌詞に
   詠み込まれた、ただただ感嘆あるのみのすばらしい真理
   に触れながら書き進めてきた。

  ②物理学者の端くれの私が「愛」と「空間」について
   解明しようとするこの書の最終段階で、

   次のアルバート・シュタインが、
   「愛」の重要性を相対性理論に出てくる有名は方程式を
   引用しながら、わかりやすく説いていたという事実が
   飛び込んできた。(彼が愛娘に宛てた手紙)、


     普遍的な力とは 愛だ。

     科学者たちがこの宇宙についての
     統一理論を探し求めていた時
     彼らはこのもっとも強力な見えない力のことを忘れてしまっていた。

     愛はそれを与えるものと受け取るものとを教え導いてくれる光である。

     愛はある人々が他の人々に引き付けられている
     と感じさせるゆえに重力である。

     愛は我々の持てる最大のものを増幅させ 
     また盲目的な利己主義の中に人間性が
     埋没してしまうのを許さないゆえに 強さである。

     愛は開花し 本性を示す。

     我々は 愛に生き そして愛に死す。

     愛は神であり また神は愛である。

     この力は全てを説明し そして生きることに意味を与えてくれる。

     これこそが我々があまりに長い間無視し続けてきた物理量だが
     おそらく 愛がこの宇宙の中で 
     いまだに人類が意図的に用いる術を学び取っていない
     唯一のエネルギーであるために
     恐れられていることが理由かもしれない。

     愛を目に見えるようにするために わたしのもっとも有名な方程式
     E=mc²において簡単な代入を行った。


     この世界を癒すためのエネルギーが
     愛に光の速さの二乗を掛け合わせることで
     得られるという事を受け入れるならば

     その大きさには限界がないために
     愛はもっとも強力な力となる

     という結論に到着する・・・・

           <感謝合掌 令和4年1月27日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/01/30 (Sun) 04:33:45


        *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

           <感謝合掌 令和4年1月30日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/02/06 (Sun) 04:55:53


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは

『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』

と言っていられる。

ここに言葉をききて素直に守ることが
『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては
何を求められても無条件に従いたくなるのである。

           <感謝合掌 令和4年2月6日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/02/09 (Wed) 05:00:23


        *『 生長の家 』(昭和25年3月27日の法語)より

   神の愛は 宇宙の到る処にみちみちていて 吾らを護り給うのである。
   吾々の一本の毛も悉(ことごと)く神の目から見逃される
   ということはないのである。

   そのことに吾々は信仰をもたなければならない。

   何か紛失物があったならば 静かに坐して
   「 神の愛の中には 見失われるものは何一つないのである。
   私のものは 私と一体にあるから必ず返って来るのである。

   神は すでに吾が祈りに応(こた)え給うたのである 」 と念じて
   静かに感謝の言葉を念ずるようにすると
   思いもうけぬ所からその紛失物が現われて来ることがある。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

           <感謝合掌 令和4年2月9日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/02/14 (Mon) 02:38:55


           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
 誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                 (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

           <感謝合掌 令和4年2月14日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/02/17 (Thu) 05:01:15


      *『 生長の家 』(昭和25年4月12日の法語)より

   神は自分に於いて最高に自己顕現し給うのである。
   神は愛である。
   自分は神が放射し出す愛の中心点であるのである。

   光の射(さ)す所が明るくなる様に、
   吾の行く所は 又 愛にみたされるのである。

   自分は愛を放射するが故に
   吾が周囲には 愛が自(おのず)から集って来るのである。

   吾は 神の愛が出現する為の出口であるのである。

   されば今日より後、私は決して人を憎まないのである。
   人をさばかないのである。

   唯 人を愛することのみを行ずるのである。
   人の幸福になるようにのみ実践するのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13798311.html(消滅)

           <感謝合掌 令和4年2月17日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/02/22 (Tue) 04:55:42


          *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P366)より

「親愛なるすべての人々よ、私は貴方を愛する」と想念して、
自分の愛念を始終間断なく人々に放送することを
ラルフ・ウォルドー・トラインは勧めている。

ユニティでは、「神は私を媒介として貴方に愛念を送り給う」とか、
「神は私を媒介として貴方を祝福し給う」とか云う念波を
常に人々に贈るように勧めている。

愛念を送ることは、愛の天使を相手に訪れさせることで、
その天使は再び愛の花束を携えて帰って来るのである。

愛は愛を呼び、善念は善念を呼ぶのである。

想念は力である。
それと同種類のものを呼び寄せて具体化する。

愛の天使は相手の心の耳許(みみもと)に愛の囁きを吹き込み、
その人に愛念を起さしめ、悦びの感情を喚起させ、
更に健康と繁昌との雰囲気を作るのである。

愛なるかな。

愛なる哉(かな)。

           <感謝合掌 令和4年2月22日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/02/23 (Wed) 08:05:10


       *「生命の實相」第36巻幸福生活篇巻頭の言葉より(P2)より

愛は生かし、愛は育て、愛は癒やすのである。

愛は身を捨てることだ。自己を殺し、自己を鞭打ち、自己を無くするのだ
――― このような愛のみが、他を生かし、育て、癒やすことができるのである。

自分がかわいいようなことで、自分の子供のみがかわいいようなことで、
他の子供は預かれるものではない。

ひとの教育を引き受けるかぎりはこれだけの決心がなければならぬ。

愛するがゆえに生かす人と、
愛するがゆえにかえって愛に捉われて自由を失って殺す人とがある。

愛は甘いものではない。
煩悩が甘いのだ。本当の愛は峻厳なるものである。

峻厳を失った時愛はただ相手を甘やかし、
相手を堕落させる動機となるばかりである。

しかし、峻厳のみが愛ではない。

愛のないくせに自分の冷淡さをごまかすために、
自分の愛は「峻厳な愛」であるなどと言っている者は
唾棄すべき詐欺漢である。

愛とは《自分を捨てる》ことだ。
自分を捨てているものは峻厳であり、
同時に無我帰一だ、自他一体だ ――― それがすなわち愛だ。

愛の深さは外見の親切らしさの深さでは測られない、
自分を捨てている程度が愛の深さである。

           <感謝合掌 令和4年2月23日 頓首再拝>
30:伝統 :

2022/02/27 (Sun) 04:45:53


         *『 生長の家 』(昭和25年4月29日の法語)より

   吾は 今 すべての人の罪を赦したのである。
   すべての人をさばく心を捨て、赦す心にみたされているのである。

   神の愛が私の心を占領したのである。
   吾は 無条件に吾が全心身を明け渡して 神の愛に占領せしめたのである。

   吾は 決して神の愛にそむくような 如何なることをも行わないのである。

   吾は 人を憎まない。吾は 人と争わない。
   吾は 唯 幸福のみを見、光のみを見、美点のみを見、繁栄のみを見、
   すべての人に感謝し、すべての人を祝福するのである。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13861952.html (消滅)

           <感謝合掌 令和4年2月27日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/03/09 (Wed) 06:24:41


           *「光明法語」(3月9日)より

欠点を見つけるのはその人を真に愛していないからである。
愛は欠点を見ないでその奥にある神性を観、実相を観る。
愛するほど強力なものはないのである。

私が宇部の講習会をしたときに夫婦仲の悪い婦人に
「仲をよくしたら好い」「既に仲好いと思えば好い」と話した。
それは智慧の働きである。

ところが吉田國太郎講師が光明講座のときに
「仲が悪いのは愛しないからである。愛すれば仲がよくなるのである」と話した。
その婦人は良人を愛し始めて幸福になったと云うのである。

           <感謝合掌 令和4年3月9日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/03/10 (Thu) 09:42:41


           *「光明法語」(3月10日)より

其の婦人は今まで「仲好くしよう」と努力したけれども仲好くなれなかった。
それは意志の努力であった。

彼女は「仲悪し」を心の中に思い浮かべて、
「仲好くなろう」と努力したから仲好くなれなかったのである。

また「愛されたい」と求める心でいるばかりで、
積極的に愛しようと努力しなかったから仲好くなれなかったのである。

愛せよ、与えよ、与えるのが愛である。
無条件に与えよ。無条件に与え切るとき、自分が愛されるようになるのである。
愛とは与えることである。放つことである。

           <感謝合掌 令和4年3月10日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/03/11 (Fri) 06:50:38


           *「光明法語」(3月11日)より

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

           <感謝合掌 令和4年3月11日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/03/16 (Wed) 07:07:13

           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

           <感謝合掌 令和4年3月16日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/03/24 (Thu) 07:11:00


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

           <感謝合掌 令和4年3月24日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/03/30 (Wed) 07:12:19


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

           <感謝合掌 令和4年3月30日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/03/31 (Thu) 07:22:41


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

           <感謝合掌 令和4年3月31日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/04/01 (Fri) 06:40:21


           *「光明法語」(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

           <感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/04/02 (Sat) 08:05:25


           *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して
 友好関係にあるのである。
 もう赦すと云うことさえなくなったのである。
 はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
 われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
 それより逃れることは出来ないのである」

           <感謝合掌 令和4年4月2日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/04/05 (Tue) 07:05:02

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 令和4年4月5日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/04/08 (Fri) 07:42:04


       *『 生長の家 』(昭和26年6月13日の法語)より

   愛は全世界を真に征服するのである。

   憎みはそれが如何に暴力的に強くとも、一時征服したように見えようとも、
   相継ぐ反撃によってついに世界を混乱に導くに過ぎないのである。

   愛が報いを得なかったことは一度もない。
   愛することの快さ ー それ自身が既に報いでもある。
   愛は愛する人を呼び、繁栄を招び、健康を来すのである。

   若し貴方を愛する人がないので淋(さび)しければ、
   自分が他(た)を愛していないで愛せ“られる”ことを欲しているからである。

   若し貴方の店が繁昌しないならば、あなたがその店でお客に対して
   愛の注ぎようが足りないからである。

   健康が得られないのも愛より憎みが多いからである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

            <感謝合掌 令和4年4月8日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/04/14 (Thu) 07:00:31


      *「波動の秘密」越智啓子・著(P29~31)より抜粋

(1)仕事に違いはあっても優劣はありません。
   愛を込めて仕事をすると、

   愛の掃除は、その場の波動を上げて、
   気持ちのよい場所になります。

   愛を込めて洗濯をすると、
   それを着た幸せになります。

(2)私たちは、愛あふれる地球というすばらしい星で、
   いろいろな体験を通して、愛の表現を学んでいます。

   いよいよ、地球の文明も新たな段階を迎えて、
   悲願のユートピアの世界へと向かっています。

(3)波動を高めることは、愛を込めることです。

   愛があふれてくれば、自然に波動が高まり、
   周波数が細やかに気持ちよい響きになってきます。

            <感謝合掌 令和4年4月14日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/04/21 (Thu) 08:45:34


        *『生長の家』(昭和25年6月19日の法語)より

   吾々が愛行を行う際に
   それに伴う報酬を期待するならば
   それは本当に愛行ということはできない。

   よき行為によき結果が
   伴わないということはないのである。

   結果は期待しないでも
   ただそれを行ずれば
   原因結果の法則で
   ただ自然にでて来るのである。

   もし報いを求めて愛を行ずれば、
   その愛は純粋でないから
   純粋でない結果が
   自分に返って来るのである。

   吾々は唯(ただ) 「 愛 」 を
   行ずればいいのである。

   吾々は愛を 唯 行ずればいいのであって、
   「 犠牲 」 になろうと考えることも又(また)不要であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 令和4年4月21日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/05/01 (Sun) 14:49:39


      *『 生長の家 』(昭和25年12月1日の法語)より

   愛は宇宙に於ける最大の創造力であり、最大の磁石的力である。
   愛のあるところに愛せられるものは集まり、
   愛のある者を栄えしむるのである。

   仕事に対する愛は、その仕事に行き届いた注意力を与え、
   その仕事を最も完全に遂行せしめる智慧を呼び出して来るのである。

   愛は愛を完成するに必要な要素をついに呼び出して来るのである。
   神を愛すれば、神の愛はわれらの方に引きよせられる。

   既に神は人間を愛してい給うても、人間が神を愛しないとき、
   神の愛は反撥(はんぱつ)せられて、
   その祝福は吾らに達(とど)かないものとなるのである。

   神を愛し、友を愛し、仕事を愛し、家庭を愛せよ。

    http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12329573.html(消滅)

            <感謝合掌 令和4年5月1日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/05/21 (Sat) 07:36:08

      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、
水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、
それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、
ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんなにも愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

           <感謝合掌 令和4年5月21日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/05/26 (Thu) 09:10:54


        *「光明法語」(5月26日)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

           <感謝合掌 令和4年5月26日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/06/06 (Mon) 06:54:08


        *『光明法語』(6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
 凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 令和4年6月6日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/06/14 (Tue) 07:22:14


        *『幸福を招く365章』第3項(P58) より

あなたを生かしているのは神の愛である。
心臓が動いているのも、食物が与えられているのも、消化器がそれを吸収するのも、
呼吸器が呼吸をいとなむのもすべて神の愛である。

神の愛をそんなに与えられていながら、自分が少しもそれに報いることなく、
放出することがなかったならば、愛は循環しないことになるのである。

あなた自身を通してすべての人々に

「神の愛」を放出せよ。
「神の愛われに流れ入り給いて、われを通して此の人を祝福し給う」

と遇う人々毎に念ぜよ。

愛念を送れば、愛念が返って来るのである。

        <感謝合掌 令和4年6月14日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/06/18 (Sat) 07:32:43


    *「光明道中記」(6月18日《心に炬火(たいまつ)を点ずる日》)より

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。

ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
 自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、 
調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

        <感謝合掌 令和4年6月18日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/06/30 (Thu) 07:14:28


       *「光明法語」(6月30日)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>

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