伝統板・第二 2472944

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無我 ⑤

1:伝統 :

2021/11/02 (Tue) 04:43:26


「新たに生れる」とは、我の脱落のことである。

          *「光明道中記」(11月2日《旧我の消える日》)

【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
  自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】

「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。

道元禅師も、

「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、
 仏法を知れりと言うにはあらずということを」

と言っていられる。

悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。

自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。

キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。

「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「無我 ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853330

(2)伝統板・第二「無我 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7616202

(3)伝統板・第二「無我 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7804252

(4)伝統板・第二「無我 ④」
    → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7990560

          <感謝合掌 令和3年11月2日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/11/07 (Sun) 04:59:31


      *「光明道中記」(11月6日《七たび我を棄てる日》)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
 眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。

 私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
 先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。

 事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。

 私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
 可哀相さに同情して

 『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』

 と申しました。

 そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと
 仲人が言いますので、その女を妻に貰い受けました。

 ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、
 一つも除ってくれません。

 そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
 この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

 それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
 それから胸を痛めたらしいのです。

 私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
 そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
 到頭昨夜はひどい喀血を致しました。

 死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

            ・・・

    *「光明道中記」(11月7日《自己を深く見詰める日》)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものは
そんなにも握り育てていなければならないものだろうか。

「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは
「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところの
ニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、
死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との
区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。

自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、
旧我であっては何ともならぬ。

「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 令和3年11月7日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/11/08 (Mon) 04:41:03


     *「光明道中記」(11月8日《仕事に愛をそそぐ日》)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 令和3年11月8日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/11/11 (Thu) 05:02:26


    *「光明道中記」(11月11日《我慢の消ゆる日》)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                        『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、我が無くなって仏の境界に入るが、
一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。
我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 令和3年11月11日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/11/16 (Tue) 04:49:41


     *「光明法語」(11月16日《傲ぶる心を捨てよ》)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 令和3年11月16日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/11/19 (Fri) 04:49:33


       *「光明法語」(11月19日の法語)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

          <感謝合掌 令和3年11月19日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/11/28 (Sun) 04:58:36


    *「光明道中記」(11月28日《功成りて功に居らざる日》)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで
与えることのみを心掛けておれば自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 令和3年11月28日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/12/01 (Wed) 04:54:31


        *「光明法語」(12月1日)より

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
 あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
 わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。
それは我の顕れに過ぎないのである。

私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

          <感謝合掌 令和3年12月1日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/12/02 (Thu) 04:56:05


         *「光明法語」(12月2日)より

神は善人にも悪人にも、太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

          <感謝合掌 令和3年12月2日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/12/06 (Mon) 04:40:13


        *Web:かんながら(2021年12月05日)より

今日も分かりようのないことをここに書いて、
分からなくても何かを感じてくれる少数の人たちにメッセージを送ります。


分からないのは難しいからではありません。

これまで信じてきたことが根底からひっくり返ってしまうから、
実際には分かりたくないのです。

これまでの人生に費やしてきた汗や努力が無駄だったことを
認めることになってしまうし、それではあんまりだからです。


いままでにもどこにも行き着かなかったから、
この先もどこにも行き着かないことは心のどこかで知っているけれど、
それでも歩き続けるしか、これまでの苦労に報いる道はありません。



さて、そもそもなぜ苦労してきたのでしょう。

それは自分自身で人生を切り開こうとしたからです。

自分を取り巻く世界を操ることで、
より良い人生を歩もうと思ったのです。


自分を取り巻く全体に対しては油断できませんでした。

気を抜くと淘汰されてしまうかもしれないからです。


信じられるのは自分だけ。

頼れるのも自分だけ。



ここで伝えているのは、
そんな個別の自分は存在していませんよということ。

用心していた全体は敵ではなく、
敵どころか自分自身だったということです。

「自分対全体」という構図は間違いで、全体だけが存在していたのです。


それなのに卑小な自分と同一化し、
その自分が少しでも多くを得ようとしてきました。

卑小な自分が得られるようなものはたかが知れています。

いますぐに宇宙全体が手に入るというのに、
なぜ人はわずかな幸せをかき集めようとするのでしょう。


その姿はまるで

《長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず》

です。


人は帝王の子として生まれ、物乞いになって死んでいきます。

これがいままで地上に存在した人たちの姿でした。


でもいま私たちは、
帝王としての本当の自分の姿に気づこうとしています。


それは

《無上甚深微妙法》(むじょうじんじん みみょうほう)

と呼ばれる真理そのものです。


これは

《百千万劫難遭遇》(ひゃくせんまんごう なんそうぐう)

無限の時間を生きたとしても出会うことが難しい教えです。


このように言うと、なんだかとてつもなく
偉大な教えみたいに感じますが、
実際には最初からそうだった真の自分の姿に気づくだけであり、
誰もがすでに手にしていることです。

だから誰もが生まれながらの帝王なのです。


百千万劫という気の遠くなるような時を経て、
やっと真実に巡り合ったのだから、
今度こそ取り逃してはなりません。


まさにいまここに、目の前にあります。

実際にはすでにそうであることを宣言するだけです。



「《この身すなわち仏なり!》」



あなたのことですよ。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12103284.html

         <感謝合掌 令和3年12月6日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/12/07 (Tue) 04:53:13


     *「光明法語」(12月7日《逆らえば順潮も逆潮》)より

一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。

自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。

波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

         <感謝合掌 令和3年12月7日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/12/09 (Thu) 04:47:46


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、その程度に「応じて、
神の光は蔽(おお)われるのである。

「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 令和3年12月9日 頓首再拝>
13:伝統 :

2021/12/14 (Tue) 04:50:52


学校では教えない忠臣蔵の真実 赤穂浪士が討ち入りをした本当の理由
|小名木善行
むすび大学チャンネル(2021/12/08)
https://www.youtube.com/watch?v=gapjzA3KhUk

・・・

<参照~その1>

忠臣蔵とは?あらすじや登場人物を徹底解説!
なぜ赤穂浪士討ち入りを忠臣蔵と呼ぶのか
https://intojapanwaraku.com/culture/62854/

          ・・・

歴史を深く学ぶための動画として
【歴史解説】ゆっくり大江戸⑭”ゆっくり忠臣蔵”その1
~刃傷松の廊下~【江戸時代】【忠臣蔵】
tera sen ゆっくり大江戸(2019/07/18)
https://www.youtube.com/watch?v=F3r6TOuw7N8


【歴史解説】ゆっくり大江戸⑮”ゆっくり忠臣蔵”その2
~籠城か殉死か大石内蔵助の決断~【江戸時代】【忠臣蔵】
tera sen ゆっくり大江戸(2019/07/19)
https://www.youtube.com/watch?v=BYYgHv7Fses


【歴史解説】ゆっくり大江戸⑯”ゆっくり忠臣蔵”その3
~江戸急進派と浪士の懐事情~【江戸時代】【忠臣蔵】
tera sen ゆっくり大江戸(2019/07/21)
https://www.youtube.com/watch?v=32PX26IIKww


【歴史解説】ゆっくり大江戸⑰”ゆっくり忠臣蔵”その4~
大石の東下りと吉良邸討ち入り~【江戸時代】【忠臣蔵】【泉岳寺】
tera sen ゆっくり大江戸(2019/07/30)
https://www.youtube.com/watch?v=51zdq3ZW-uY

・・・

<むすび大学チャンネルでの忠臣蔵の真実②
むすび大学チャンネル(2021/12/09)
 https://www.youtube.com/watch?v=-H07_W1MCOg

・・・

<参照その2>

(1)光明掲示板・伝統・第一「山鹿素行「中朝事実」」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=107

(2)伝統板・第二「山鹿素行」
   → https://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6492809

            <感謝合掌 令和3年12月14日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/01/19 (Wed) 04:16:24


       *Web:かんながら(2022年01月18日)より


いくつか質問をいただいていたようです。


  >自己の不在を見抜いた時、本当の自分が全体であることを悟る。
   阿部さんの仰りたいことはこのことですか?


その通りです。

少し補足してみます。


自己の不在を見抜くのは誰でしょう

自己の不在を自己が見抜くのでしょうか。


もしそんなことができるなら、自分が自分の靴ひもを引っ張り上げて、
身体を浮かすこともできることでしょう。

でもそれは不可能です。


したがって自己の不在を自分が見抜くことはできません。


それでは誰が見抜くのか。

せいいっぱい言葉にするとしたら、
全体が自己という夢から覚めるということになります。

そのとき、全体こそが真の実在であり、
徹頭徹尾これしか存在していなかったことに気づきます。


この気づきも全体に起きるわけで、
したがって全体こそが本当の自分という言い方になるのです。


言葉での理解が難しい点は、
「全体である自分」をいまの自分が想像することです。

結局は自分が理解しようとしてしまうことを知るのは重要です。

でもそれでは的を外します。


ポイントは「ただ在る」という状態に寛ぐことであり、
何かを学ぶのではなく、ただ黙して坐るという
瞑想の実践しかないと思っています。


考えても分かったつもりになるだけですが、
それでもこのメッセージは、人生で過度の負担を抱えた自己にとっては
救いになります。

何一つ自分の責任ではなく、
何一つ過失も罪も負っていないことに繋がるからです。


マインド(自己)は、判断や批判を繰り返しながら合理的な答えを求めます。

このようなマインドのアプローチは何千年かけてもどこにも行き着きません。

やはり黙して坐ることです。



   >人はなぜ生きるのでしょうか


その答えは、野に咲く花がなぜ咲いているのかと同じです。

「何故」はありません。

このこともヒンズーの人たちは「リーラ」と呼んできました。

リーラとは無目的な戯れのこと。


このブログの旧タイトルも「リーラ」でした。

いまこうして記事を書いていることも質疑応答もリーラだからです。



   >一人一人が愛の世界を思い出し、その世界を生きたとしても、
    やはり殺人という行為は生じるのでしょうか?


一つ言えることは、

あなた自身が愛の世界を思い出し、その世界を生きることが全てだと言う事。

「もしこうなったらどうなるか」というお馴染みのマインドに
フォーカスするのか、あなた自身がそうなるのか、どちらかだと思います。



今日も穏やかな気持ちで過ごしましょう。

日々是好日

https://abetoshiro.ti-da.net/e12139620.html

            <感謝合掌 令和4年1月19日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/01/26 (Wed) 04:56:04


      *「光明道中記」(1月26日《万事和する日》)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                 (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに
深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに
此の世界から病人を少くすることが出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、
又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を
大御親(おおみおや)として仰ぎまつるには、
肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

           <感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/02/18 (Fri) 02:36:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで地踏鞴(じだたら)踏んで
泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。

「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。
それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を縛るところの
《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

           <感謝合掌 令和4年2月18日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/04/27 (Wed) 07:55:19


           *「光明道中記」(4月27日)より
            ~自ら戒めて心を傲(おご)らざる日

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

           <感謝合掌 令和4年4月27日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/05/09 (Mon) 07:20:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

           <感謝合掌 令和4年5月9日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/05/18 (Wed) 10:10:25


    *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より抜粋

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

           <感謝合掌 令和4年5月18日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/05/19 (Thu) 07:25:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

           <感謝合掌 令和4年5月19日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/06/09 (Thu) 09:36:18


        *「光明道中記」(6月9日)より

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと
考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

           <感謝合掌 令和4年6月9日 頓首再拝>
22:伝統 :

2022/06/15 (Wed) 06:59:15


       *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

           <感謝合掌 令和4年6月15日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/06/30 (Thu) 07:19:59


     *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より抜粋

【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
          始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。

           <感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>
24:伝統 :

2022/07/02 (Sat) 07:14:17


      *「光明道中記」(7月2日)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施して
その功徳いくばくなどと思うのは凡(おそ)そこれに過ぎたる愚問はない。

そういう問を発する心の中には、「供養誇り」と云うホコリで
醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
 お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。

天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。
《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき
一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

        <感謝合掌 令和4年7月2日 頓首再拝>
25:伝統 :

2022/08/01 (Mon) 09:00:13


   *「光明道中記」(8月1日《神想観に心浄まる日》)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
                      (生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを
「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>
26:伝統 :

2022/09/15 (Thu) 09:34:32


       *「光明法語」(9月15日))

頭脳の知恵にのみ訴えて、
大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して
支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

       <感謝合掌 令和4年9月15日 頓首再拝>
27:伝統 :

2022/10/30 (Sun) 08:05:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。
自然と協力しうるのみである。

征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 令和4年10月30日 頓首再拝>
28:伝統 :

2022/11/01 (Tue) 08:43:10


    *「光明道中記」(11月1日《手垢のつかぬ愛行をする日》)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、
それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、
却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」

とか何とか、不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 令和4年11月1日 頓首再拝>
29:伝統 :

2022/11/06 (Sun) 07:14:09


          *「光明道中記」(11月6日)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
 眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。

 私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
 先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。

 事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。
 私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
 可哀相さに同情して
 『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
 申しました。

 そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと
 仲人が言いますので、その女を妻に貰い受けました。

 ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、
 一つも除ってくれません。

 そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
 この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

 それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
 それから胸を痛めたらしいのです。

 私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
 そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
 到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
 死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 令和4年11月6日 頓首再拝>

30:伝統 :

2022/11/07 (Mon) 08:11:31


      *「光明道中記」(11月7日《自己を深く見詰める日》)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものはそんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 令和4年11月7日 頓首再拝>
31:伝統 :

2022/11/19 (Sat) 07:27:18


     *「光明法語」(11月19日の法語《心柔和なる者》)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

          <感謝合掌 令和4年11月19日 頓首再拝>
32:伝統 :

2022/11/28 (Mon) 07:57:05


     *「光明道中記」(11月28日《功成りて功に居らざる日》)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば
自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 令和4年11月28日 頓首再拝>
33:伝統 :

2022/12/01 (Thu) 04:05:01


        *「光明法語」(12月1日)より

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
 あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
 わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。
それは我の顕れに過ぎないのである。

私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

          <感謝合掌 令和4年12月1日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/12/02 (Fri) 07:48:06


       *「光明法語」(12月2日)より

神は善人にも悪人にも、太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

          <感謝合掌 令和4年12月21日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/12/04 (Sun) 07:41:55


    *「光明道中記」(12月4日《困難を遊戯化する日》)より抜粋

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。
 何事も魂の生長の養分である。 (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、
その人にとって一つの誘惑であることがある。

通らないことが時にはあるので、
自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、
我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。

無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

          <感謝合掌 令和4年12月4日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/12/09 (Fri) 07:26:11


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。

無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、
その程度に「応じて、神の光は蔽(おお)われるのである。

「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

          <感謝合掌 令和4年12月9日 頓首再拝>
37:伝統 :

2023/01/09 (Mon) 07:43:44


     *「光明道中記」(1月9日《無字透関の日》)より抜粋

【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】

宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。

「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。

人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。

併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。

所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。

            <感謝合掌 令和5年1月9日 頓首再拝>
38:伝統 :

2023/01/18 (Wed) 07:46:23

「空っぽの魔法」人生に奇跡を起こす「無の境地」に辿り着く!【スピラジ】
茶柱御殿(2023/01/17)
https://www.youtube.com/watch?v=Uag0G9BcJL4

            <感謝合掌 令和5年1月18日 頓首再拝>
39:伝統 :

2023/01/26 (Thu) 06:35:19


       *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、
吾は必ず神に導きを求めるのである。

私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

         <感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>
40:伝統 :

2023/02/18 (Sat) 07:51:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと
考えられやすいけれどそうでない。

《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで
地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。

「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。
それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を縛るところの
《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに
気がついた時には、人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

           <感謝合掌 令和5年2月18日 頓首再拝>
41:伝統 :

2023/04/27 (Thu) 07:52:32


           *「光明道中記」(4月27日)より
            ~自ら戒めて心を傲(おご)らざる日

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、
 我が身は無いと云う実相を知ることです。(『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、
時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

           <感謝合掌 令和5年4月27日 頓首再拝>
42:伝統 :

2023/05/09 (Tue) 04:57:10


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、
第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

           <感謝合掌 令和5年5月9日 頓首再拝>
43:伝統 :

2023/05/18 (Thu) 07:42:05


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より

神は自己自身を実現するために
「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。

しかしてわが欲することは
神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからない
などとは思うな。

「我(われ)」が欲することは
神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」を
いったん破壊してしまわなければならぬ。

自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」
などと信じても、ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがある
から注意せよ。

        <感謝合掌 令和5年5月18日 頓首再拝>
44:伝統 :

2023/05/19 (Fri) 07:48:23


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、
なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

       <感謝合掌 令和5年5月19日 頓首再拝>
45:伝統 :

2023/06/09 (Fri) 10:51:13


      *「光明道中記」(6月9日《捨我精進の日》)より

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、
神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと
考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

       <感謝合掌 令和5年6月9日 頓首再拝>
46:伝統 :

2023/06/13 (Tue) 07:03:01


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは
自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」
と不平に思う人は、そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という
存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、
神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
 善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
 《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。

相手の心に「我(が)」を握らせておいて、
神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

           <感謝合掌 令和5年6月13日 頓首再拝>
47:伝統 :

2023/06/15 (Thu) 04:42:51


       *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、
神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」
と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の
仏と一体の自覚が親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>
48:伝統 :

2023/06/30 (Fri) 05:08:06


   *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より

【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
      始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、
もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。

世界は神のものであるからであり、
あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはない
と云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが
最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。

それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、
神から離れた自分と云うものもない。

すべて神のものである。
神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、
今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、
神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、
すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝まなければならない。

衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。

        <感謝合掌 令和5年6月30日 頓首再拝>
49:伝統 :

2023/07/02 (Sun) 07:05:15


      *「光明道中記」(7月2日)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施して
その功徳いくばくなどと思うのは凡(おそ)そ
これに過ぎたる愚問はない。

そういう問を発する心の中には、
「供養誇り」と云うホコリで醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。

天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、
それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。

《自分の》功徳がないと知るとき、
天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、
これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき
一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

        <感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>
50:伝統 :

2023/08/01 (Tue) 09:53:26


   *「光明道中記」(8月1日《神想観に心浄まる日》)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
                      (生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを
「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 令和5年8月1日 頓首再拝>

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