伝統板・第二
主人公 ③ - 伝統
2021/10/16 (Sat) 04:37:54
《人間は奴隷になってはならぬ》
*『 生長の家 』(昭和25年9月1日の法語)より
聖者たるものは言葉の手品に惑わされてはならないのである。
聖者は言葉がただの空気の振動に過ぎないことを知っているのである。
聖者は人の毀誉褒貶(きよほうへん)の上に超出しなければならない。
なぜなら自己の生命の本質が「神そのもの」であることを
知っているからである。
俗世間の毀誉褒貶は、彼ら自身が、わが実相の完全円満なることを
見る力がないことをみずから表明しているに過ぎないのである。
他(ひと)によってうごかされるものは奴隷である。
奴隷のみが世間的名誉を求めるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「主人公」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6870991
(2)伝統板・第二「主人公 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7788964
<感謝合掌 令和3年10月16日 頓首再拝>
《人は“杖”をもって人生を歩いてはならない》 - 伝統
2021/10/29 (Fri) 05:00:25
*「理想世界」(昭和45年9月1日の法語)より
生活の裕さというものは、おおむねその人を惰弱にしてしまうものである。
何故なら彼は自ら立つ努力を必要としないで、”富”というものを
自分の“杖”にして人生を歩もうとする者であるからである。
一人で立つ力を得ようと思う者は杖をもってはならないのである。
杖にすがって歩いている限り、
その人は渾身の力を振り絞る必要がないからである。
渾身の力を振り絞らないで50%や60%の力だけを
いつも出しているのでは、その残りの50%乃至40%の
力は、内に籠って錆びついてしまって役に立たなくなるからである。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7916166
<感謝合掌 令和3年10月29日 頓首再拝>
奴隷にならぬ方法 - 伝統
2021/11/03 (Wed) 04:59:34
*『生長の家』(昭和25年9月5日の法語)より
位置を欲するものは位置の奴隷となり、
女を欲する者は女の奴隷となる。
食を欲する者は食の奴隷となり、
金を欲する者は金の奴隷となる。
名誉を欲するものは名誉の奴隷となり、
酒を欲する者は酒の奴隷となる。
奴隷は自由を得ることは出来ないのである。
吾らは如何なる者に対しても
其の奴隷的状態から超出しなければならぬのである。
人間が如何に民主主義の世界を求めても、
自分自身が奴隷である限りは、
制度はいくら変っても奴隷であるのである。
制度のことは政治的天才にまかせて置け。
人間が奴隷的心境を脱したとき
彼はどんな制度の下にも自分が自分の主人公となる。
<感謝合掌 令和3年11月3日 頓首再拝>
自分が自分の環境の中心者 - 伝統
2021/12/06 (Mon) 04:58:32
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より
自分が自分の環境の中心者とならなければならない。
周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。
周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、周囲がなんじを屈従せしめるのである。
奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。
素直に周囲の事情を感受するすることは、周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。
<感謝合掌 令和3年12月6日 頓首再拝>
《『自己に忠実であれ』と云う事の意味》 - 伝統
2021/12/17 (Fri) 05:01:16
*『 生長の家 』(昭和33年9月9日の法語)より
人間は自己に忠実でなければならない。
併しその『自己』と云うのは如何なる自己であろうか。
美味なる食物を欲し、美しき服装をし、異性と戯れ遊びたいような
煩悩が本当の自分の『自己』であろうか。
『自己に忠実でなければならない』と云う語(ことば)で
多くの人々は利己的本能に身を投じて、
魂の節操を失ってしまったのである。
『自己に忠実であれ』と云う場合の『自己』とは、
肉体の本能的自己のことではないのである。
肉体は、魂が地上に於いて仕事をなすための乗物又は作業服として、
その自己修復と自己保存のオートメーション作用としての
食慾や性慾を発動するのであるが、それらの欲望は飽くまでも
『魂』の使命を果さしめるための基礎工事としての欲望であって、
『魂』そのものの願望ではないのである。
『自己に忠実であれ』と云うのは『魂』そのものの願望に
忠実でなければならないと云うことである。
<感謝合掌 令和3年12月17日 頓首再拝>
《『魂の自我』の願いに耳傾けよ》 - 伝統
2021/12/21 (Tue) 05:02:31
*『 生長の家 』(昭和33年9月10日の法語)より
『霊肉の闘い』と云う語句があるが、
その語句のなかにはハッキリと魂の要求と、肉体の本能とが
別であると云う直観が含まれているのである。
肉体の本能的自我を『低き自我』と云う語であらわせば、
魂の自我は『より高き自我』又は『高次の自我』とでも
言い表わすべきものである。
吾らは『高次の自我』に忠実ならんことを欲(おも)うならば、
『肉体の自我』の要求をしばらく退けて、ひたすら『魂の自我』
の囁きに心の耳を傾ける修練をしなければならない。
多くの宗教教祖が、(釈尊やキリストをも含めて)
断食や水行を行って、肉体的自我の要求たる食欲や色欲や
所有欲や名誉欲や睡眠欲すらも退けて、『魂の自我』の要求に
耳を傾ける修行を積まれたことは伝記の記述するところである。
<感謝合掌 令和3年12月21日 頓首再拝>
《現実生活に實相の天国を実現するには》 - 伝統
2021/12/31 (Fri) 03:50:45
*『 生長の家 』(昭和33年9月11日の法語)より
肉体は個々別々の存在であり、自他分離の存在であるが、
魂から言えば、『個人の霊』は神なる『普遍霊』の一部分が
人間に宿っているのである。
だから自己の『内に宿る魂』の叫びに耳傾けると云うことは、
同時に『普遍霊』の導きに対して耳傾けると云うことになるのである。
そこから無限の智慧の導きが湧き出て来るのである。
この『内部の霊』の呼び掛けが私たちの道徳生活に対して
あらわれて来る場合には、これを『良心の叫び』と言い、
日常生活での導きや、発明発見等の場合の導きとしてあらわれて来る
場合には、これを直感とか直覚とか呼ぶのである。
それは普遍霊の導きが、普遍霊の分霊なる『魂の自我』を通して
あらわれて来るのである。
私たちがこの『魂の自我』の導きに心の耳を傾け、
その導きの通りに実践するならば、現実生活が健康と愛と繁栄とを
実現せる『實相そのまま』の天国となるのである。
<感謝合掌 令和3年12月31日 頓首再拝>
宇宙の一切の事物に責任をもつ - 伝統
2022/02/11 (Fri) 04:53:26
*「光明道中記」(2月11日《責任を喜ぶ日》)より
【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
(『生命の實相』第二巻)】
責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。
自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。
そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。
弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。
若し自身が不幸であるならば、
自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。
いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。
最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だ
と自覚を持つ聖者である。
世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。
<感謝合掌 令和4年2月11日 頓首再拝>
人間は運命の主人公である - 伝統
2022/10/06 (Thu) 06:57:26
*「光明道中記」(10月6日《自己解放の日》)より
【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば
貧乏や不幸はなくなる。 (『生命の實相』第九巻)】
幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある
―― 斯う云う偶然論者も、彼が経験する生活範囲に於いては
まことにその偶然論者の言う通りである筈である。
何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、
惨めにも人生に敗退するのは、それは彼のみずから招くところ
ではあるけれども、彼は神が与えた「神の子」の権利を抛棄した
ものだと言わなければならないのである。
神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。
運命に翻弄されるものは
運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。
与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。
吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。
<感謝合掌 令和4年10月6日 頓首再拝>
自己が自己の主人公となる - 伝統
2022/10/15 (Sat) 07:26:09
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月15日)より
自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。
自分の想念が癒されるまでは、
人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、
覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。
しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、
薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、
薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。
それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、
薬剤の奴隷状態となってしまうのである。
真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。
<感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>
「本当の汝」を呼び戻せ! - 伝統
2022/11/04 (Fri) 07:50:05
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より
なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。
真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をして
なんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。
「本当の汝」はいずこにいるぞ。
それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。
いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。
「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。
<感謝合掌 令和3年11月4日 頓首再拝>
自分が自分の環境の中心者 - 伝統
2022/12/06 (Tue) 07:36:49
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より
自分が自分の環境の中心者とならなければならない。
周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。
周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、
周囲がなんじを屈従せしめるのである。
奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。
素直に周囲の事情を感受するすることは、周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。
<感謝合掌 令和4年12月6日 頓首再拝>
わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統
2023/03/24 (Fri) 05:06:41
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より
わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。
わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。
わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。
わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。
この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。
<感謝合掌 令和5年3月24日 頓首再拝>
人間は運命の主人公である - 伝統
2023/10/06 (Fri) 09:35:53
*「光明道中記」(10月6日《自己解放の日》)より
【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば
貧乏や不幸はなくなる。 (『生命の實相』第九巻)】
幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある
―― 斯う云う偶然論者も、彼が経験する生活範囲に於いては
まことにその偶然論者の言う通りである筈である。
何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、
惨めにも人生に敗退するのは、
それは彼のみずから招くところではあるけれども、
彼は神が与えた「神の子」の権利を
抛棄したものだと言わなければならないのである。
神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。
運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。
与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。
吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。
<感謝合掌 令和5年10月6日 頓首再拝>
自己が自己の主人公となる - 伝統
2023/10/15 (Sun) 11:56:43
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月15日)より
自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。
自分の想念が癒されるまでは、
人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、
覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。
しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、
薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、
薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。
それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、
薬剤の奴隷状態となってしまうのである。
真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。
<感謝合掌 令和5年10月15日 頓首再拝>
「本当の汝」を呼び戻せ! - 伝統
2023/11/04 (Sat) 09:59:22
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より
なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。
真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をして
なんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。
「本当の汝」はいずこにいるぞ。
それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。
いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。
「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。
<感謝合掌 令和5年11月4日 頓首再拝>
自分が自分の環境の中心者 - 伝統
2023/12/06 (Wed) 09:43:02
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より
自分が自分の環境の中心者とならなければならない。
周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。
周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、
周囲がなんじを屈従せしめるのである。
奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。
素直に周囲の事情を感受するすることは、
周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。
<感謝合掌 令和5年12月6日 頓首再拝>
環境は自分の思うとおりのものである - 伝統
2023/12/20 (Wed) 11:42:54
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月20日)より
この世はままならぬと思う者には、まことにこの世はままならぬ世界である。
これに反して、この世は思うとおりになる世界だと思う者には、
まことにこの世は思うとおりになる世界である。
環境は人間に支配されると思う者には、環境は人間に支配されるが、
人間は環境に支配されると思う者には、
環境は頑としてその人の上に暴君的力を揮うであろう。
そのこと自身が環境は自分の思うとおりのものであること表している。
<感謝合掌 令和5年12月20日 頓首再拝>
宇宙の一切の事物に責任をもつ - 伝統
2024/02/11 (Sun) 13:40:38
*「光明道中記」(2月11日《責任を喜ぶ日》)より
【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
(『生命の實相』第二巻)】
責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。
自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。
そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。
弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。
若し自身が不幸であるならば、
自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。
いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。
最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だ
と自覚を持つ聖者である。
世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。
<感謝合掌 令和6年2月11日 頓首再拝>