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ひかりの一日一言77~内に在る天国浄土

1:伝統 :

2021/08/01 (Sun) 04:26:24

真理第二巻基礎篇 第8章(P207~229<27項>)からの謹写です。
28日~31日の「ひかりの一日一言」については、
別の章もしくは他の聖典からの紹介となります。


ひかりの一日一言《1日》

《1日 意識の下部組織》

人間の心は大体、四層の心を持っていると云うことが出来るのである。

(一)肉体に就いた本能の心である。
幼児が生れながらにして呼吸することを知っており、
母乳を吸うことを知っており、
成人して生殖することを知っている如き心である。

内臓の自動運動の如きは大体この本能の心によって支配されている。
その本源は宇宙大生命より発したものであるが、
肉体保存のために自動的に無意識的に発動して来るものであって、
動物は概ねこの本能の心に支配されているのである。

これは意識の下層部に基礎工事的に与えられているものであって、
動物はこの「本能の心」と云う基礎の上に
極簡単な自覚意識が発生しているだけである。


だから「本能の心」のみに支配されているものは、
意識の上層部がまだ発達していないものであって、
「動物的」だと云われても致し方がないのである。

人間を「動物」だと思わせる『二十の扉』の如きものは、
単なる娯楽放送だとはいえ、談笑のうちに
人間に「動物意識」を増大せしめているのである。

幼児からあれを聞かせられていたら、幼児の潜在意識の底に
「人間とは動物なり」の観念を強く印象することになる。

それでなくとも「人間」をただの唯物的存在だとして、
その動物的本能の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を
「基本人権の自由」として、
姦通の自由、自分の利益のためにストを決行して大衆に迷惑をかける自由
 ―― などを正当とみとめる現代風潮に拍車をかけることになっているのである。

幼児に「人間は動物だ」と云うような考えを出来るだけ印象しないようにせねばならぬ。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P207~208)より

       <感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/08/02 (Mon) 04:40:05


《2日 意識の第二層として自覚組織がある》

人間が動物と異なる所以(ゆえん)は、
自覚意識が著しく動物よりも発達していることである。

単なる本能意識に支配せられずして、
自覚した意識によって本能を支配して行(ゆ)き得(う)ることである。

食欲、性欲そのものを「人間」そのものの欲望として観ず、
人間の自覚意識の発生する単なる土壌として観て、
これを自分の自由に支配し、克服して行(ゆ)くところに、
人間の尊厳があるのである。

然(しか)るに
「人間は肉体なり、肉体の本能の自由が、人間そのものの自由である」
と云うような人生観が横行する現代に於いては、恰も、

「建物とは基礎工事なり、基礎工事を拡大することが建物の拡大なり」とて、
肉体人間を構成するための基礎工事ばかりを拡大して
「人間」と云う建物を忘れている観があるのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P208~209)より

       <感謝合掌 令和3年8月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/08/03 (Tue) 04:07:24


《3日 「本能の心」と潜在意識との関係》

人間に於て過大に発達した「自覚意識」は、
その重量の過大のゆえに、それが更(さら)にその影響を、
基礎工事の「無意識」の中に及ぼしているのである。

従って、人間の「無意識」層には、単なる「本能の心」のほかに、
過重の自意識が印象した「潜在意識」層があるのである。

それが肉体の生理作用を司(つかさど)る「本能の心」と混り合って、
正常の生理作用を抑圧して不完全ならしめることがあるのである。

「野獣が病気をしない」と云うことも、
それは「本能の心」を主として生きているからであります。

「本能の心」は主として大生命からの
基礎的催しであるから健全であります。
動物が過淫のために神経衰弱になった例はないのであります。

自覚意識が働いて、「本能の心」を過大に働かせたり
抑制したりするから其処に病気が起こるのであります。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P209~210)より

       <感謝合掌 令和3年8月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/08/04 (Wed) 04:14:49


《4日 人間の心の四層に就いて》

自覚意識は外界の種々のものを受け取ってそれを処理するばかりではなく、
本能をも適当に管理したり、抑制したり、過剰に駆使することも出来る。

自覚意識は人間の主人公であると云うことが出来る。

しかしそれは本当は過剰であっても、方向を過ってもならないのである。

それは本能の土壌から発生した植物のようなものであって、
土壌の奥にある大生命からスクスクと叡智を吸い上げて、
叡智の導くままに「自覚の心」が伸びて行くことによって、
すべてが順調に行われるのである。

そこで人間の心は次のような四層になっている。

自覚意識層 ―― 潜在意識層 ―― 本能の心層 ―― 叡智層。
叡智層を Super Consciousness(スーパーコンシャスネス)とも云う。

          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P210~211)より

       <感謝合掌 令和3年8月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/08/05 (Thu) 04:50:09


《5日 現在意識と叡智層との関係》

叡智層は、所謂(いわゆ)る「神の心」であって、
本能の心であろうと、自覚意識(現在意識)であろうと
すべての知性の根元は、此処から発するのである。

そこから発しながら、その根元を忘れ、その根から離れて
ものを処理しようとするところに叡智の無限供給が杜絶せられて、
有限智ではからわれて、躓きが来(く)るのである。

「自覚の心」は土壌から生(は)えた植物の芽みたいなもので、
土壌の底にある叡智の肥料が少なくなれば萎(しな)びてしまうのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P211)より

       <感謝合掌 令和3年8月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/08/06 (Fri) 04:39:33


《6日 現在意識と潜在意識との関係》

雨の一滴一滴(いってきいってき)が川となり、
流れ込んで湖(みずうみ)になるように、
「現在意識」(自覚の心)の一滴一滴、一つの思い、一つの感情は
蓄積されて「潜在意識」の湖水(こすい)となっているのである。

湖水の底部(ていぶ)には、湖水の水を湛(たた)えるための土壌がある。
その土壌は「本能の心によって構築された肉体」にも
喩(たと)えるべきものである。

「潜在意識の湖水」の表面にあらわれている部分が
「現在意識<自覚の心)である。

「潜在意識の湖水」の中にある一滴一滴は嘗(かつ)ては、
現在意識の一滴一滴が流れ込んで出来たものであるがゆえに、
それは嘗(かつ)ては意識の表面にあったものであるから、

思い出そうと思えば思い出せるのは、
湖水の底の水を汲(く)めば汲めるようなものであるが、
必ずしもすべての記憶を汲み出すことが出来ないのは、
湖水の底の水を全部汲みだし得ないのと同じである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P211~212)より

       <感謝合掌 令和3年8月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/08/07 (Sat) 03:34:35


《7日 意識の湖底の尚底から神の叡智を汲め》

上(かみ)諏訪に旅行したときに、
それはまだ初春(はつはる)の寒い朝であったが、
諏訪湖の水からポカポカと温かそうな湯気が
立騰(たちのぼ)っていたのである。

きいて見ると湖の底から温泉が噴出しているのだそうである。
その温泉の温度によって諏訪湖の水は寒中でも滅多に凍らないし、
湖面には温かい湯気が立騰(たちのぼ)るのだと聞かされた。

それは「潜在意識」の《湖水》の下に、
そして「本能の心」の《湖底》の下に、
更に流れているものがあることを示している。

そこから神の愛と叡智と生命力とが温泉のように湧き出て
全体を温め、生かし、意識の表面をギコチなく固まらせないで、
心を自由自在に働かせ、愛の温かい湯気をもって、
気持ちのよい生活を送ることが出来るのである。

本能の尚(なお)底にある神智の温泉に汲みたい
と思うものは神想観をするのがよいのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P212~213)より

       <感謝合掌 令和3年8月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/08/08 (Sun) 04:48:31


《8日 各個人の意識はその奥底では一体である》

私は神の生命(愛、叡智を含む)の流れを
湖底を流れる温泉に喩えたのであるが、
この喩えは完全ではないのである。

神の生命は単に吾々の意識の底にあるばかりでなく、
吾々の中にも外にも到る處に存在して、それが個人の意識となり、
個人の生命となってあらわれているのである。

その現れている「個人」と云う尖端だけを見ると、
「個人」と他の「個人」とは別々の存在のように見えているけれども、

それは波頭ばかりを見ていると、
互いに波頭と波頭とは別々に見えているけれども、
その底に於いて実質は一体となって続いているように、

すべての人々の生命の実質は互いに一体となって続いているのである。

続いているからこそ人と人とは互いを理解することが出来るのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P213~214)より

       <感謝合掌 令和3年8月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/08/09 (Mon) 04:37:41


《9日 神に波長を合わせよ》

既に自己に与えられている物に、その奥にある神の恵みに、
神の愛に、神の智慧に感謝しなければならない。

吾々は感謝の念によって、神と波長を合わすことが出来るのである。
かくて感謝の念によって神と波長を合わしているうちに
「新しき生命(せいめい)の自覚」が湧き出て来るのである。

次にかかげる向日葵(ひまわり)の花型の図解について考えて見よう。

(向日葵~https://lovegreen.net/languageofflower/p29918/ )
     http://www3.cty-net.ne.jp/~fumifuji/structure.html

この向日葵(ひまわり)の花型の中心を神といたします。

ひとつひとつの花弁は中心から生命(せいめい)を受けて
生長しているのである。
花弁ひとつひとつは引き離せば別々であります。

しかし実際の生命(せいめい)は中心の神からつながっています。

現在意識は点線でもって示した中心からの区画であります。
(花の写真でいうと筒状花の部分)

この現在意識の区画によって各個人は別々の感じを受けるのであります。

現在意識が中心の方へ向けば各人は一体であります。

中心に振り向くのが神への感謝である。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P214~215)より

       <感謝合掌 令和3年8月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/08/10 (Tue) 04:44:23


《10日 先ず心の眼(まなこ)を開(ひら)け》

見るためには観なければならないし、
聞くためには聴かなければならないのである。

見ると聞くとは肉体の問題であるけれども、
「観る」と「聴く」とは心の問題である。

心を澄まし心の眼(まなこ)をひらいて
天の声に耳を傾けることが必要なのである。

心の眼(まなこ)を開けば到る処に
神の祝福が充ち満ちているのを見出すことが出来るのである。

多くの人たちは色盲と同じように、
実際にある恩恵の全部を視ることが出来ないで、
この世界を不完全に視ているのである。

汝の心の眼(まなこ)を開き、汝の心の耳を開(ひら)け、
其処に天国浄土が実現するのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P215)より

       <感謝合掌 令和3年8月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/08/11 (Wed) 03:43:12


《11日 心に想うことは、種を蒔くことである》

種を蒔いたら必ず刈り取らねばならない。

吾々が何事かを考えたならば、
その考えた何事かに相応(そうおう)する事件や肉体の状態を、
やがて吾らの身辺にあらわすものだと云うことを
理解しなければならないのである。

宇宙には不可視の実質が充ち満ちていて、
いつでもそれを吾らが想念した通りの事物に
あらわそうと待ちかまえているのである。

吾々が心に何事かを考える。
するとその考えに相応した「コトバ」が、
心の中に又は「発声音」としてあらわれる。

そしてコトバは創造主(つくりぬし)であるから、
コトバの通りに現象があらわれて来るのである。

コトバは宇宙に満つる不可視の実質に形を与え、
それは自然界の法則を通じて実現する。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P215~216)より

       <感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/08/12 (Thu) 04:54:02


《12日 自分の想念を選びなさい》

ひとたび法則に当てはまることをして置けば、
あとは吾等自身に何の努力もなくして、
その後(ご)は自動的に実現するものである。

それは恰(あたか)もラジオ・セットを整備して
波長を合わして置きさえすれば、
自動的にラジオは放送された通りに鳴り出すのと同じことである。

吾々がラジオのダイヤルを自分の好むところに合わせて、
自分の好む処の放送をきくことが出来るのと同じように、
吾々は自分の選択したものを選び出してあらわすことが出来るのである。

併(しか)しダイヤルを出鱈目に廻していては、
自分の好まないところの飛んでもない放送がきこえて来る。

それと同じように吾々は自分で想念を選択せねば
自分の好まない出来事が実現して来ても仕方がない。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P216~217)より

       <感謝合掌 令和3年8月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2021/08/13 (Fri) 04:40:20


《13日 一切万物は神の心のあらわれ》

釈迦が悟りをひらいた時、山川草木国土悉皆成仏と知ったのである。
換言すれば山も川も草も木も国も土も悉く皆、
成れる仏だと知ったのである。

成仏と云うのを「仏に成っている」と読んではならない。
「成れる仏」と読まなければならぬ。

「仏に成っている」と読んでは、山川草木国土は始めは仏でなかったが、
やがては仏に成るのだと云う意味に受け取れる。

山川草木国土悉皆成仏とは、実ははじめから
山も川も木も国も土も皆仏であって物質ではなかったと云うことである。

それをお悟りになったことが、釈迦が悟りを開かれたことなのである。

吾々の心が山川草木等をみとめる事が出来るのは、
吾々の心の中(うち)に神の心が宿っており、
一切万物が亦神の心の現われであるからである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P217)より

       <感謝合掌 令和3年8月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2021/08/14 (Sat) 04:38:26


《14日 人間は本来健全である》

山川草木でさえ「神の心」の現れであるのだから、
人間は無論、「神の心」の現れなのである。

人間以外の一切万物は、神の一徳または数徳が
其処にあらわれているのだけれども、
人間は神の全徳が現れているのである。

創世記に
「神その像(かたち)の如く人を造り、これを男と女に造りたまえり」
とあるのはそれである。

だから人間が健康であり完全であるのは当然のことであるのである。

然(しか)るにその人間が地上に誕生すると、
彼の周囲の人々の精神波動と、人類全体の病的観念との影響を受け、
自己本来の完全円満なる実相をくらましてしまうことになったのである。

併し人間は本来病気ではない。
ただそれは表面が晦(くら)まされ覆われて
実相の健全さがあらわれていないだけである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P218)より

       <感謝合掌 令和3年8月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2021/08/15 (Sun) 04:48:30


《15日 霊は素材、想念は創造(つく)る力》

神が宇宙を創造(つく)った際には、
それは物質を造(つく)る前であるから、物質的資材などは何もない。

神は霊であるから霊を素材として一切のものは造られた。
霊を素材として、それを一定の形に変形する力は
「心」即ち「霊の波動」である。

それは単なる物理的な盲目的波動ではなくて、
智的な波動(即ち想念)である。

「霊」は素材であり、
想念がそれを一定の形に凝固させる力である。

そのことが判れば、如何なる物質的治療法も、
想念を完全に健康の方に転向して置かなければ、
完全に治癒せしめ得(え)ないと云うことになる。

たとえば外科手術をして鼻茸(はなたけ)を切除しても、
鼻茸そのものは「想念」の結果であるから、
その人の想念を変化させなかったら再発するが如くである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P218~219)より

       <感謝合掌 令和3年8月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2021/08/16 (Mon) 04:34:42


《16日 人間の本来の完全さを諦視(ていし)せよ》

人間は本来完全であるから、
その病気を治すと云うことも有り得ないのである。

病気はその人の「完全なる実相」が
包まれ蔽(おお)われているに過ぎないのであるから、
「病気を治す」ということは治すのではなく、
その「覆(おお)い」を除くと云うことにほかならない。

そして覆(おお)いを取り除いて
人間の実相の完全な相(すがた)を見たときが、
所謂(いわゆ)る「治った」と云うことである。

だから「実相覚」によって相手の病気を治そうと思う場合には、
その人は、「人間本来健全である」と云う真理によっく通達し、
現象的にどんなに不完全な相(すがた)が現れて見える場合にでも、
現象の不完全さに心が引っかからず、

「神その造りたるすべてを見給いけるに甚(はなは)だよかりき」

と云う如く、相手の完全なる実相(じっそう)を
神の如き心の眼(まなこ)もて諦視しなければならない。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P219~220)より

       <感謝合掌 令和3年8月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2021/08/17 (Tue) 04:50:41


《17日 病気を治すには》

吾々は潜在意識の中にある色々の病的観念によって、
それが肉体的病気として《あらわれる》。

病気が《あらわれる》と云うことは、
人間が「本来病気でない、健康だ」と云うこととは矛盾しない。

「本来健康の実相(じっそう)」の上に
「病的観念」が二重写しになっているだけである。

その「病的観念」を拭(ぬぐ)い去りさえすれば、
本来の「完全なる実相(じっそう)」があらわれて来るのであるから、
決して、肉体の症状がどうであろうと、そんなことを考えてはならない。

「病気は無い」のであるから「病気を治そう」と考えてもならない。
「病気を治そう」と考えると、直(す)ぐ「病気」を
心に描くから病気は消えない。

ただ「完全なる実相」だけを見れば好いのである。
「完全なる実相」を見ることによってすら「治そう」と思ってはならない。
「治そう」と云う思いは、既に病気をつかんでいる心であるからである。

《ただ》「《既に》完全である」とのみ見なければならない。

「ただ」である。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P220~221)より

       <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2021/08/18 (Wed) 04:22:30


《18日 汝の敵は汝の内にあり》

どんな隠れたる思いも、どんな秘密の思いも
悉(ことご)く「宇宙の心」には知られているのである。

それは「宇宙の心」に印象せられ、それが種となって
成熟する時が来れば形となってあらわれる。

だから汝を害する者は、汝の外にあるのではなく、
汝の内にあるのである。

何事も、自分自身の内にある想念を媒介としなければ、
自分の極めて側(そば)にあっても自分に
近接(ちかづ)くことが出来ないのは、

ラジオ放送の波が自分の極めて側(そば)にあっても
波長が合わなければ実際には現れて来ないのと同じである。

自分の内に類似の波長がある場合には、
その放送源が随分遠くにある場合にでも、
それを自分の身近に引き寄せて実現することになるのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P221)より

       <感謝合掌 令和3年8月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2021/08/19 (Thu) 04:40:28


《19日 現象と実相との関係》

神の霊は宇宙一切のものの根原として凡(あら)ゆる所に
恰(あたか)も物理学のエーテルのように満ちている。
しかしエーテルそのものだと云う訳ではない。

それはもっと次元の異なる不可視の存在である。

それは、「理(ち)」であり、「理念」であり、「原理」であり、
2×2=4の原理が、物質でもなく、眼にも見えないが
到るところに充ち満ちているのと同じように充ち満ちている
と云うことが出来るのである。

2×2=4の原理が、物質の数(すう)の増減によって
何ら影響を受けないのと同じように、
「理念」で出来た「実相(じっそう)」は現象界の増減によって
何等影響を受けることはないのである。

現象の肉体が如何に病気にあらわれて見える時にも、
わが実相(じっそう)は健全である。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P222)より

       <感謝合掌 令和3年8月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2021/08/20 (Fri) 04:16:12


《20日 吾々が地上に生れた意義について》

吾々が地上に生を享(う)けて来たのは、
吾々が地上に存在理由があるからである。

換言すれば必要あって神は地上に吾々を生みだしたのである。

従って吾々のうち誰も皆、神にとっても此の世にとっても
必要でない人はひとりもないのである。

この点、諸君は大いに自信を持って好いのである。

併(しか)し、ただ省(かえり)みなければならないのは、
神が地上にあなたを生み出した目的を
実際あなたは遂行しているかと云うことである。

また此の世からあなたが求められている仕事を
完全に与えているかどうかと云うことである。

若(も)しあなたが自己を省みて何ものも此の世に与えておらず、
神から与えられた使命を遂行していないと思ったら、
兎も角、先ず何事でも手近にある人のために成(な)る仕事を
なすことである。

          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P222~223)より

       <感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2021/08/21 (Sat) 04:53:07


《21日 人類はすべて一体である》

神はあなたの親であり、此の世界はあなたの家庭であり、
すべての人はあなたの兄弟である。

だから、神なる親につながることによって、
あなたは同時にまたすべての人々と一体である
と云うことが出来るのである。

すべての人間はたとい反対の方向に向いているように
見えるときにも、実は、神から与えられた或る使命を果すべく
共同動作をなしつつあるのである。

たとい世界の二大勢力が反対の方向に向かっているように見えても、
その二大陣営の力で推進されて、世界は自然に「一つの世界」の
必要に目ざめて来つつあるのである。

すべての個人、国家は意識すると意識せざるとに拘(かかわ)らず、
神の定(さだ)めた完全使命を遂行しつつあるのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P223~224)より

       <感謝合掌 令和3年8月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2021/08/22 (Sun) 04:52:25


《22日 「愛されたい」より先ず愛せよ》

誰でも皆愛する相手を持ちたいのである。
その人が歓んでいるのを見ることが喜びであるような
相手を持ちたいのである。

併(しか)し多くの人は「愛する」ことが余りにも少なく、
「愛されたい」のが余りにも多すぎるのである。

そして「与えられたい」過剰のために不平を言い、
そのために「与える」ことを忘れてしまう。

「与える」と「与えられる」とはたがいに平衡するように
なっているのであるから、「与える」事を忘れてしまって
求める事ばかりになったら、自分も亦「与えられなく」なるのである。

時計はネジを廻した発條(バネ)の力だけ回転するのである。
それは与えただけの時間だけ、私たちに時を告げる。

時間は吾々が与えただけのものを投げ返すのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P224~225)より

       <感謝合掌 令和3年8月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2021/08/23 (Mon) 04:47:15


《23日 精神統一を上手にするには》

神想観をして「私は中々精神統一が出来ない」と
云って憂えている人があるが、それはみずから
「精神統一出来ない」と云う想念によって却(かえ)って
精神統一が出来にくくなっているのである。

「自分は神の子であり、精神統一が上手である」と
神想観のはじめに10回ばかり念ずるようにしてから、
定(さだ)められた通りの言葉を念ずるならば大変効果が多いのである。

かくして精神統一が上手になるに従って、
学生ならば、勉強が短時間で有効に出来るし、
教師の講義をきくにも精神を統一して聴くから、
充分頭脳に印象され成績がよくなるのである。

仕事をする前にも「吾れ神と偕(とも)にこの仕事を為す。
それ故に精神統一が完全に行われて間違いなく
この仕事を完成することが出来るのである」と
数回念じてから仕事にかかると好成績を得(う)るのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P225)より

       <感謝合掌 令和3年8月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2021/08/24 (Tue) 04:50:30


《24日 新しき天と地とを見る》

今、すべての過去の悲しみを拭い去れ。
すべて過去の不快の印象を心より消し去るべし。

そして悦びの世界に新生せよ。

今、あなたはすべての悲しみと不快とを心から拭い去ったのである。

貴方の心の中に残っているものは唯(ただ)、
愛と悦びと美しさと平和と賞讃とのみである。

醜いすべてのものは過ぎ去ったのである。
憎しみも悲しみも争いも既にない! 

今貴方は幸福の世界に新生したのである。

慶びの世界に新生したのである。

愛情と讃嘆の世界に新生したのである。

見渡すかぎり唯(ただ)、美しき物のみが充ち満ちているのである。
古き天と地とは過ぎ去り、新しき天と地とが、
喜びの花嫁に愛と平和と賞め合いとの装(よろお)いをつけて
天降って来たのである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P226)より

       <感謝合掌 令和3年8月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2021/08/25 (Wed) 04:47:00


《25日 今此処にある極楽を見よ》

食物(しょくもつ)をたべ、飲料を飲む。
それがどうして吾々の生命(いのち)となったり、
「考える力」となったりするのだろう。

物質が生命(いのち)に変り、「考える力」に変る。
これを行う不思議な力が「神」なのである。

神が吾々の内に宿っていたまうのであって、
遠くに求める必要はないのである。

ただそれは肉眼で見えるところの、
縦(たて)横(よこ)厚みの次元の世界でないがゆえに、
それを此の地上の制約から遥かに隔(へだ)たりたる世界として
形容しなければならないので、

遥かに高き「天国」と称したり、高天原(たかあまはら)と形容したり、
十万億土の彼方にある極楽世界と説いたりしたのである。

今此処に神が在(いま)し、
今此処に天国があり、今此処に極楽浄土があるのである。

しかし内在の天国浄土は波長の合わないラジオ波(なみ)が
今此処にあろうとも感じられないこと無限の遠さにあるのと
同じであるから、これを十万億土の彼方(かなた)と謂う。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P226~227)より

       <感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2021/08/26 (Thu) 04:45:38


《26日 自然良能を盛んにするには》

吾々の内部にいて吾々の生理作用を営ましめている力は
「内在の神」であるのである。

それを物質を「生命(せいめい)」にかえ、
無機物を「考える力」に変ずる不思議なる力である。

この「内部の神」は常に内よりわが「肉体」と云う道具を修理し、
栄養を与え、若返らしつつあるのである。

吾々は常にその力を認めて感謝するようにしなければならない。
認めて感謝するとき内部に宿る神の力は
一層完全に働いて自然良能が盛んになるのである。

それは、神は感謝したら余計働きたまうと云うような意味ではない。
神は常に働きていたまうが、感謝の念が足らぬため、
その働きに波長が合わず完全に顕(あらわ)れないと云う意味である。

すべて感謝は相手と心の調和を得(う)る道である。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P227~228)より

       <感謝合掌 令和3年8月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2021/08/27 (Fri) 04:42:41


《27日 「内部の神」に心を集中せよ》

自己の内に神があることを信ぜよ。
如何なる時にも内在の神はあなたを護っていて下さるのである。

外にどんな擾乱が起ろうとも、肉体に如何なる変化が起ろうとも、
あなたの「内部の神」はその擾乱に巻き込まれることなく
静謐(せいひつ)であるのである。

あなたが心の平和を取り戻すには先ず「内部の神」に心を集中せよ。

そして「内部の神」とあなたとが結ばれるとき、
迷い児になって騒いでいる幼児が父を見つけて
その手を握った時のような平和と落ち着きとを
回復することが出来るのである。

この平和のうちにこそ神の無限の智慧は流れ入って
どんな困難でも快刀乱麻を断つように解決し得る叡智に
導かれることが出来るのである。

この平和のうちにこそ、如何なる病気も完全に克服し得(う)る
自然療能が湧き出て来るのである。

其処より無限の生命と無限の叡智を汲み取り得るものは
まことにも幸いなるかなである。


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P228~229)より

(以上で、第8章終了です。)

       <感謝合掌 令和3年8月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2021/08/28 (Sat) 04:52:29


《28日 内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ》

吾々が救われるのは吾々の実相によって救われるのである。

神の子である所のすでに救われている実相を認めることが必要である。

神の子をくらます様な何事をも なすな。
自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては
自分自身は滅びるより仕方がないのである。

吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。

吾に宿る神の子は、
自己に宿るキリストであり、内在の仏性である。

それに目覚めることが第一である。


          *『 生長の家 』(昭和25年5月11日の法語)より

       <感謝合掌 令和3年8月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2021/08/29 (Sun) 04:46:50


《29日 神が汝(なんじ)の内に宿っている》

どんな悪しき形をも よき形に変化し得ないという様な神の力はないのである。

神は 暗黒の中に光を放ち、悪と見ゆるものから善を放ち、
貧しさの中から富を生み出す所の力である。

その神を吾(わ)が内に見出す時には
吾は 如何(いか)なるものの中からも
よきものを生みだすことができるのである。

躓(つまず)きを恐るな。
躓いても すぐ立ち上がって光明に面するのが生長の家の生活である。

神が汝の内に宿っているではないか。
それを思いおこすことが必要である。

神は一切の不幸を幸福に変貌(へんぼう)する力である。
その力が自分の内に宿っているのである。

喜べ喜べ。神を信ぜよ。自己を信ぜよ。


          *「生長の家」(昭和25年6月30日の法語)より

       <感謝合掌 令和3年8月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2021/08/30 (Mon) 02:59:04


《30日 あなたに宿る”生命”は”神” である》

それゆえに”行”が必要である。
行動が必要なのである。
その行動の必要と仕方とを説いたのが私の『人生を前進する』である。

毎日”光 ”をかかげて前進するものはついに、
”暗い過 去の影”を消して光明輝く世界に自分の住む世界を
光転してしまうことができるのである。

『人生を前進する』の本 には、幾たびも過去に地殻が変動し、
一度築かれたものが破壊されて地殻の中に埋没されても、
またその地殻の上に何かを築きあげずには置かなかった
大自然の生命力の 逞しさを説いて、

それと同じ生命力が自分の内に宿っていることを説き、
次の如く結論しているのである。

「諸君に宿っているところの生命力もおよそかくの如きものである。
 生命がかくも執拗にたくましく、埋没されても、圧下されても、
 滅びることを知らずに伸びることのみを知って退嬰しないのは
 生命とは『神』であるからである」(『人生を前進する』 200頁)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

          *「生長の家」(昭和51年6月17日の法語)より

       <感謝合掌 令和3年8月30日 頓首再拝>
31:伝統 :

2021/08/31 (Tue) 04:46:00


《31日 汝の内なる神を自覚せよ》

   あなたの内に神 住みたまう。

   神はあなたの内に宿りたまいて、夜も昼も絶え間なく
   あなたを護っていられるのである。

   あなたの内には、あなた自身が自覚していられるよりも
   尚(なお)一層偉大なる力が宿っているのである。

   あなたは、今 到底自分には出来ないと思われるような
   困難を打破する力を持っているのである。

   その力は自覚の深まる程度に従ってあらわれて来るのである。

   それを自覚するためには毎日、神想観をして
   自分の「 実相 」が神の生命であることを諦視すること。

   毎日、真理の書の一章を読むことである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127


          *『 生長の家 』(昭和26年6月18日の法語)より

       <感謝合掌 令和3年8月31日 頓首再拝>

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