伝統板・第二

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実相を観ずる~「神想観」⑤ - 伝統

2021/06/14 (Mon) 04:55:27

深く神想観を励む日

       *「光明道中記」(6月14日)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に
 行く手を照らす炬火(たいまつ)である。(『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、
仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、
人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 (消滅)

   伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」(光明掲示板・第二) 」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7917883

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

(4)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369

(5)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879320

(6)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7673407

(7)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7917801

            <感謝合掌 令和3年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2021/06/25 (Fri) 03:13:30


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和3年6月25日 頓首再拝>

《遠隔の人も相互に一つのサークルとなって神想観致しましょう》 - 伝統

2021/07/04 (Sun) 06:25:52


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P389)より

毎朝そして毎晩、
私たちは全世界の人々の幸福のために祈っているのであります。

けれども、誌友以外の人は私の祈りに対して無関心でありますから
相互の連関作用が出来ていないから仕方がないのであります。

それは放送はあれども
波長を合わしていないから受信されないのと同じであります。

吾々と誌友との間は、同じ招神歌(かみよびうた)を心に念じ、又は歌い、
相互の約束の下(もと)に同じように思念の言葉を念ずるのでありますから、

吾々の祈りは誌友に感応し、
神の心に大いなる増幅作用をもって通じますから、
大いに効果があらわれるのであります。

            <感謝合掌 令和3年7月4日 頓首再拝>

金剛不壊眞身観 - 伝統

2021/07/13 (Tue) 04:16:03


         *『理想世界』(昭和33年5月号)より

(静かに息を吸いながら、神が自分に流れ入ると観じて)


「神われを全領したまえり」

「寸分の隙間もなく、神われを全領したまえり」


「さればわれ金剛不壊の眞身を得たり」

(と念ずる。眼の裏に自分の全身に神氣が充満して、
 光明燦然と輝いている全身の有様を瞑視する。
 次に静かに息を下腹部におとして、神光輝く自身を凝視しながら、)

「四百兆の細胞、寸分の隙間もなく神が全領したまえるゆえ、
 どんな病菌もヴィールスも、どんな病気、迷いの霊も
 自分の全身の何ものにも存在の余地はないのである」

(と念ずる。また静かに息を吸いて前の思念を繰返す。)

(最後に次の如く思念を終る。)

「あゝわれは健やかなるかな、霊々妙々たり、煌々たり、皎々たり、
 われ金剛不壊の眞身を得、一切の病脳を超えたり」

https://ameblo.jp/hetimanomatihe/entry-12574937145.html

            <感謝合掌 令和3年7月13日 頓首再拝>

毎日一回は神と対面しましょう - 伝統

2021/07/22 (Thu) 04:39:54


         *「詳説 神想観」(P19)より

毎日一回は神様と直接対面する時間をつくろうではありませんか。

あなたは毎日父母または夫または妻または子供または召使い
または会社官庁の上役、同僚または下役に接触します。

しかし、神様に直接ふれる時間をお持ちにならないのは
まことに残念なことなのであります。


神想観は人間が意識的に神と接触する最も荘厳な行事であり、
その時間こそ一日の内で最も神聖な楽しい時間でありますのに、
何故多くの人は、それは懶(ものう)い退屈な、面倒くさい時間だ
などと考えるのでありましょうか。

それは神想観を神と直接対面する荘厳な時間だと知らず、
何か自分の心で「物」を製造したり、現世利益を得るための方便だ位に
考えているからではないでしょうか。

恋人に逢うのが楽しい位なら、
神に直接対面する時間が楽しくないはずはないのであります。

            <感謝合掌 令和3年7月22日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2021/07/28 (Wed) 02:50:24


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                      (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人であったから、
雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
 粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。
 汝らの面前になげ向(だ)す。灯台下暗しで判るまい。
 判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、地球の如きは、
その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを
知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
 自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
 その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、
宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和3年7月28日 頓首再拝>

神想観のときには、神の遍在を念ずる - 伝統

2021/08/05 (Thu) 05:01:48


   *「光明道中記」(8月5日《神がすべての日》)より抜粋

【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、そんな固い鉱石の中にでも
神が充満したまうこと。

従って、自分の肉体の中にも、
骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、
宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。

このことを今日の神想観のときには
眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う
深い信念が湧き出るまで念じつづけること。

このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。

         <感謝合掌 令和3年8月5日 頓首再拝>

《何人(なんぴと)も「神の時間」を持つこと》 - 伝統

2021/08/09 (Mon) 04:58:33


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P70~71)より

現象世界を映し出すためのフィルムを、
現在よりももっと立派な画面にしたいと思うならば、
何人(なんぴと)も「神と対談」し「神を心に思う」時間を
持たなければならない、

それには第一に神想観を20分乃至(ないし)40分間1日1回は行い、
30分間は必ず『生命の實相』その他(た)の
神と人間との関係を正しく書いた書物を読むことが必要なのであります。

この尊き時間をアメリカの光明思想家は
「神の時間」(God’s Hour)と言っています。

まことに「神の時間」を持つと云うことは
あなたの人生の中で最も「輝かしい時間」を持つと云うことでありまして、
此処からして一日中を支配する正しい智慧が生れて来るのであります。

先ず一日(いちにち)の出発は「神の時間」からであります。

         <感謝合掌 令和3年8月9日 頓首再拝>

《先ず「真(しん)にあるもの」から出発せよ》 - 伝統

2021/08/23 (Mon) 05:00:26


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P71~72)より

先ず「神」から万事を出発させると云う心構えが必要であります。

「神」のみが実在でありますから、
「実在」から出発したもののみが実際に栄え、
「実在」から出発しない ―― ニセ物から出発した ―― ものは、
一時(いちじ)旺(さか)んなように見えても
消えるのは当然のことであります。

だから、一日のうち他(た)の如何なる仕事を省いても
神想観をすることが必要であります。

そして実在(即ち真にある完全な世界)の中に溶け込んで行き、
其処から出発するように致しますと、
確実に何でも進歩することが出来るのであります。

其処には病気なく、貧乏なく、争闘なく、家庭の不調和なく、
事業は発展し、凡(あら)ゆることが都合よく行きます。

それは神から出発するからです。

         <感謝合掌 令和3年8月23日 頓首再拝>

《神に先ず精神統一せよ》 - 伝統

2021/08/28 (Sat) 05:03:44


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P77)より

吾々の生活に於いて、何が必要であると云っても
「神との一体感」を高めるほど必要なことはないのであります。

「神此処にいましてわれと一体であり護りたまう」

この信念が徹底すれば生活万般のことが都合よく行くのであります。

その信念に徹底するためには、
その事実に精神統一して深くそれを機会ある毎に念ずることが
必要なのであります。

精神統一がむつかしくて出来ないという人がありますが、
誰でも自分の最も関心深き処に精神は統一するのであります。

恋人の手紙でも来れば他(ほか)の事を考えずに一心不乱にそれを読む。
相場師は新聞の相場欄を一心不乱に読む。
病人は病気のことばかり考える ―― これは皆精神統一です。

ではあなたは何に精神統一なさいますか。

神に!

         <感謝合掌 令和3年8月28日 頓首再拝>

《神想観を厳修しましょう》 - 伝統

2021/09/03 (Fri) 04:58:57


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P93~94)より

聖書も仏書も人間の本質についての真理を明らかに説いている
のであるが多くの「教会キリスト教」や寺院仏教などでは、
meditation (瞑想・禅定)の力によって
其の真理の本質の中に入っていかないで、、

人に聞かれんがための讃美歌と祈りとのみを捧げ、
形式的な読経礼拝の儀礼だけを行っているだけであるために、
本当の真理を見ることができないのである。

どうしても宗教の本質たる自己解脱は一種の「精神統一」
(その名称は「坐禅」でも「一向専心の念仏」でも「神想観」でも、
「祈り」でも「鎮魂」でも・・・どんな名称でもよい訳だが)を介して、
宇宙大生命と一体となるほかはないのである。

もっと大生命に直参するような元気溌剌たる宗教となるためには、
どの宗教も何等かの方法で精神統一法を持たなければならぬ。

         <感謝合掌 令和3年9月3日 頓首再拝>

睡眠時間の少ない時ほど神想観をしよう - 伝統

2021/09/21 (Tue) 04:59:37


         *「詳説 神想観」(P19)より

眠りしなに十五分間「神想観」をなさったら、
その眠りが深くなって数時間睡眠時間が助かりますから、
忙しくて睡眠時間の足りないような時ほど
却って神想観をすべきものでありますのに、

忙しいから出来ないとおっしゃる方は
睡眠時間というものに捉われておいでになるからです。

睡眠時間の多いこと必ずしも健康に良いとは言えない。

少眠健康法というのすらあります。

         <感謝合掌 令和3年9月21日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2021/10/07 (Thu) 05:01:32


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月7日)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、
その後に起こる事件の処理中には(病気ならば回復の過程において)
悪化と見える出来事が起こってくるかも知れないのである。

これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに

「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
 神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」

と念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 令和3年10月7日 頓首再拝>

般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうのが「神想観」 - 伝統

2021/10/10 (Sun) 05:05:58


    *「光明道中記」(10月10日《般若波羅蜜多を行ずる日》)より抜粋

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、
一切皆空の否定から、すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることな
く自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。

神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の
毘盧舎那身(びるしゃなしん)として観ずるのであるから、
般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

           <感謝合掌 令和3年10月10日 頓首再拝>

《精神統一を上手にするには》 - 伝統

2021/10/12 (Tue) 05:02:28


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P225)より

神想観をして「私は中々精神統一が出来ない」と
云って憂えている人があるが、それはみずから
「精神統一出来ない」と云う想念によって却(かえ)って
精神統一が出来にくくなっているのである。

「自分は神の子であり、精神統一が上手である」と
神想観のはじめに10回ばかり念ずるようにしてから、
定(さだ)められた通りの言葉を念ずるならば大変効果が多いのである。

かくして精神統一が上手になるに従って、
学生ならば、勉強が短時間で有効に出来るし、
教師の講義をきくにも精神を統一して聴くから、
充分頭脳に印象され成績がよくなるのである。

仕事をする前にも「吾れ神と偕(とも)にこの仕事を為す。
それ故に精神統一が完全に行われて間違いなく
この仕事を完成することが出来るのである」と
数回念じてから仕事にかかると好成績を得(う)るのである。

           <感謝合掌 令和3年10月12日 頓首再拝>

神想観こそ人類光明化運動の基礎 - 伝統

2021/10/20 (Wed) 04:57:54


         *「詳説 神想観」(P19~20)より

生長の家の人類光明化運動なるものは、
人類の不幸、災難、病気、窮乏等を救うために
心の眼をひらかしめることに重点をおくのである。

凡そ不幸、災難等に遭うのは、神の叡智が完全に、
その人の心の眼のうちにひらかれていないめ
に誤った選択をするからである。

吾々が真に凡ゆる面において幸福を獲得するためには、
神智を啓発することである。

吾々の内には宇宙をつくった神の叡智が宿っているのであるけれども、
脳髄智のみを働かせて、その神智を働かそうとしないから、
神智が眠っていたにすぎないのである。


生長の家はその神智を人類から呼び醒まして
正しき行為の選択によって地上に至福の世界を建設せんとするのである。

神智をひらく方法として生長の家では
座禅的祈りの方式である神想観を行なうのである。

           <感謝合掌 令和3年10月20日 頓首再拝>

神への情感溢れる「神想観」 - 伝統

2021/10/23 (Sat) 05:05:20


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 令和3年10月23日 頓首再拝>

神に融け入る神想観をする - 伝統

2021/10/27 (Wed) 05:04:10


    *「光明道中記」(10月27日《神に融け入る神想観をする日》)」より

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、
自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。

そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは
我(が)の心の力の仕事であって、神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。

神想観の最高の方法は、
愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との
充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 令和3年10月27日 頓首再拝>

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である - 伝統

2021/10/28 (Thu) 04:59:45


    *「光明道中記」(10月28日《良き種を蒔く日》)より

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和
・・・等々一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が既に成就している
と云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 令和3年10月28日 頓首再拝>

神想観で「寂」の中に溶け込み直接神を知る - 伝統

2021/11/17 (Wed) 05:01:28


     *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P252~253)より
      ~《「静」の中に於て、神のみ声を聴け》

神は到る処に充ち満ちて在(い)ますがゆえに
吾々は常に神に接触しているのであるけれども、
神のみ声を聞くには、自分自身の心を澄み切らすことが必要なのである。

神の声は「肉の声」ではなく、霊の声であるから、
肉体的、世間的欲望に心をうばわれている限りに於いては、
神のみ声を完全に聴くことは出来ないのである。

吾々は神想観によって心を澄ますことを練習し、
「静(せい)」の中に溶け込んで神のみ声を静かに待つような、
完全無我の受身の心持にならなければならぬのである。

吾々は理論的にも神を知ることが出来るし、
天地一切のものに触れ合うことによっても
「山川草木国土悉皆成仏」の悟りに達することも出来るが、

直感的に神啓的に一切の感覚的な認識を超えて直接神を知るには、
やはり「寂(じゃく)」の中に溶け込むことが必要である。

これが神想観の実修である。

           <感謝合掌 令和3年11月17日 頓首再拝>

「実相覚」によって真の自己を把握するのが神想観 - 伝統

2021/12/12 (Sun) 04:55:14


         *「詳説 神想観」(P21~22)より

存在(もの)の実相を捉えるには、
吾々は「実相覚」によって「一つの神」即ち、
在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力を
認めねばなりません。


本当の人間 ―― 神が造ったままの人間 ―― 私が常に
「真の人間(リーアル・マン)」又は「神人(ゴッド・マン)」と
言っている人間は物質の人間ではないのであります。


それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、
虚空身の人間、無優苦の人間、絶対無病の人間、 ―― 
いくら吾らか上等の最上の言葉をもって説明しても、
この物質界の事物を形容するためにできている吾々の通用語では
とても説明のしようがないほど完全な人間であります。


そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、
皆さん各自(めいめい)が、今現に実相の世界においては、
この霊妙な円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間
・・・等であられるわけで、それが本当の《あなた》なのです。

この「真の人間(リーアル・マン)」をおいて
その他にあなたはないのであります。

あなたは真の人間あなた即ち「神の子」なのであって、
今あなたが、これこそ自分の身体(からだ)だと思っている
その肉体は「ウソのあなた」「念の影のあなた」なのであります。


本当の自分の実相は、今も厳然として実相の世界に存在する。

今までも天地と共に生き通してきた、
これからも天地と共に生き通して朽ちず老いず苦しまず病まず、
悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身(ふかえしん)、
無量無辺身、自由自在身、

久遠(くおん)の如来、アブラハムの生まれぬ前(さき)より
在るところの「久遠のキリスト」なのであります。

今まで自分達の実相をこの肉身であると思っていたのは
自己の真性を磔(はりつけ)に架け、自己の実相を
エデンの楽園から仮に追放して有限身をもって無辺身に換え、
有限生命をもって無限生命に換え、
自己の生命の実相を蔽い隠していたのであります。

その蔽いを取り去って自己の内に宿るキリストを復活せしめる、
これがキリストの再臨であり、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の在(いま)す
実相浄土「東方浄妙国土」の地上再現なのであります。

これこそ一切苦厄を度(すく)う神癒の根本原理であって、
この原理を、自分に宿る真理と宇宙に存する真理と相触れて
カチカチ鳴る底の直接的認識作用すなわち「実相覚」によって悟らなければ、
吾々は「本当の自分」を把むことができない訳で、
この自己を把むためにする修行が神想観の修行なのであります。

           <感謝合掌 令和3年12月12日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2021/12/13 (Mon) 04:56:26


     *「光明道中記」(12月13日《神の叡智につながる日》)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

           <感謝合掌 令和3年12月13日 頓首再拝>

神の無限の智慧を引き出す道が神想観 - 伝統

2021/12/14 (Tue) 05:05:52


       *『 生長の家 』(昭和33年9月8日の法語)より
        ~《神の智慧より富の導きを受けること》
  
   すべての欠乏は、自分の心の産物であるのである。

   自分の心がケチであり、もっと力を出さなければならない時に
   力を出すことを吝んだり、『實相』に智慧を仰げば、
   もっとよい智慧があらわれて来るのに、現象の智慧によって
   實相の智慧を蔽い隠してしまった結果なのである。

   その道の専門家の指導で株に投資して一時大いに儲けたように
   見えていても、それが實相の智慧に導かれた富でない限りは、
   一朝経済界の破綻が来た際に、株券がただ一枚の紙片に
   化してしまうのである。


   よろしくもっと全智なる神の智慧の導きに随うべきである。
   全智なる神が吾々自身の内に宿ってゐたまうのである。

   よろしく吾等は神想観して深く自己の内なる神を内観し、
   其処から如何に富を処置すべきかを判断すべきである。
   すべての人間の内部には無限の智慧が宿っているのである。

   その智慧を引出す道が神想観である。

           <感謝合掌 令和3年12月14日 頓首再拝>

《大生命と一体であることを如実に体感せよ》 - 伝統

2021/12/22 (Wed) 05:06:23


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P253~254)より

宇宙に大生命があって、そこから吾々は生れて来たものであり、
大生命と一体であるから、本来無限力を有(も)っているものである
と云うことを理論的又は知的に知ることは容易である。

しかしそれだけでは充分ではない。

吾々は生命(せいめい)をもって体感しなければならないのである。
文字通り、言葉通りに、大生命と一体にならなければならないのである。

少しの分離感(わかれた感じ)もあってはならないのである。
既(すで)に業(すで)に大生命と一体であることの
深い自覚を得なければならない。

この自覚は概(おお)むね
神想観を実修することによって得られるのである。

神想観を深めて行くことによって、吾等は現象に心を奪われて、
大生命と波長が合わなくなっていた自分の生命(せいめい)を
大生命と波長を合わし一体感を得(う)ることができるのである。

           <感謝合掌 令和3年12月22日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2021/12/24 (Fri) 05:06:27


        *「生命の實相」第38巻幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
 今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。
 すでに浄(きよ)まれる者である。

 神の健康たる生命(いのち)、
 神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。

 わたしは喜びそのものである。
 わたしは幸福そのものである。
 私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても
心が統一し難いものである。

覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して
、直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

        <感謝合掌 令和3年12月24日 頓首再拝>

神想観は実相の扉を開いて実相を知るもっとも簡単な鍵 - 伝統

2022/02/01 (Tue) 05:06:11


         *「詳説 神想観」(P24)より抜粋

(1)実相を悟るにはどうしても神想観を修して、
   存在の実相と自己生命との実相とを正観することが
   必要なのです。

(2)神想観によって吾々は存在の奥に横たわる
   円満具足の本質を悟ることができるのです。

        <感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>

「観」とは心の眼でみる事 - 伝統

2022/02/14 (Mon) 02:43:31


         *「詳説 神想観」(P24~25)より

神想観の「観」とは、肉眼で見るのではなく、
精神統一して、ひたすら心の眼でみる事であります。

映画のフィルムがあっても電灯をつけなければ現れない。

「観ずる」というのは、この電灯をつけるようなものです。

観ずれば現われる。
観じなければ現われないのです。


「生命の実相と申候事は此世界が此儘神の国であり
 人間は其儘神の子なりと申すに候

 観ずればそれが現わるるものに候 
 観ぜざれば現わるる事なし 

 さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候 
 現象に如何なる悪顕れ候とも 
 何(いず)れも神の作り給える実在には無之候間(これなくそうろう) 

 気にかけずに唯実相円満完全なる相のみを観ずれば 
 結局は円満完全なる実相顕るるものに有之候(これありそうろう)」

        <感謝合掌 令和4年2月14日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2022/03/20 (Sun) 08:03:54


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって
不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を
強力に、精神集中的に起こすことは「不完全な念波」を
消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

        <感謝合掌 令和4年3月20日 頓首再拝>

神想観は、實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好い  - 伝統

2022/04/07 (Thu) 07:22:19


         *「光明法語」(4月7日《神と實相のみを愛せよ》)

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

        <感謝合掌 令和4年4月7日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2022/04/17 (Sun) 07:28:43


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、自分の周囲と内部、
悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも
周章狼狽することなく、必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

        <感謝合掌 令和4年4月17日 頓首再拝>

神の実在を体感体得するのが「神想観」 - 伝統

2022/04/22 (Fri) 08:52:58


        *『生長の家』(昭和32年4月号)より

神の国は今此処にある。
そして神は自己に於いて顕現している。

神は余所(よそ)にあるのではない、
「爾(なんじ)の内にある」

それを見出さないで今此処を物質の国土と観(み)、
人間を単なる物質の塊だと見る、其処に迷いがある。

その迷いを取去らなければ、人間は自縄自縛されている。

人間は物質でない、肉体ではない、この身このままに
霊的実在である神を見出さねばならない。

人間は肉体ではない、霊的実在である。
この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。

神を頭脳で知っただけでは、神が〝わがもの〟とはならないのである。

全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。

それをなすのが神想観である。
神想観を必ず怠らず行ぜよ。

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=3278
2021年05月21日

        <感謝合掌 令和4年4月22日 頓首再拝>

『神想観』 とは如何なるものか - 伝統

2022/05/25 (Wed) 11:42:38


      *『生長の家』(昭和31年9月号~吉田武利)より

聖典 『生命の實相』 に於て 『神想観』 に関する
谷口雅春先生の御言葉を抜書きしてみた。 

『神想観』 についてこんな御言葉があったか、
こんな御説明があったかと知らされる事ばかりであった。


(1)神想観は生長の家の神から私が直接授かったものであります。

(2)神想観は 『無想観』 にあらず、 『凝念』 にあらず。

(3)神想観は神の力、仏の力なり。

(4)神想観はその使命を以てあらわれた守護の神に護られて行う
   何よりも完全な行法である。

(5)心と視力を集めて実相を静観するのが神想観である。

(6)神想観は 『ハイハイ有難うございます』 の修行で
   少しも難しい事はないのです。

(7)神想観の祈りは、絶対他力への帰命信頼の表白である。

(8)与えられた勘定書を精確に承認するのが神想観である。

(9)神想観は 『実相観』 なり。

(10)実相上に坐して修するのが神想観である。

(11)神想観は全身が真理と成る為なり。

(12)神想観こそ最高の祈りである。

(13)神想観は 『祈り』 と 『観法』 との調和し合体したものである。

(14)神想観は神と二人切りの対座なり。

(15)神想観は永く別れていた親子の対面なり。

(16)神想観の中(うち)にのみ永遠なる拠り処を吾々は見出す。

(17)神想観にまさる喜び、幸福は他にない。

(18)神想観は諸仏現前三昧なり。

(19)神想観は他力、自力を絶した 『絶対力』 である。

(20)神想観は実相が実相を念ずるコトバの大行なり。

(21)神想観は往相精進の行なり。

(22)神想観は求める場でなく与える場である。

(23)神想観は 『證上(しょうじょう)の修』 なり。

(24)忙しく 『睡眠時間の足りないような時ほど却って神想観』 をなすべし。

(25)人類光明化運動の基礎となるもの ―― それは神想観である。

     (以上は神想観に関する先生の御言葉の一部の列記にすぎない)


『神想観』 が他の如何なる行法にも勝る全き観法である所以と、
これを生長の家の大神より谷口先生を通して授けられた尊さを、
今はじめての如く知り得たと同時に、不勉強であった自分を更めて痛感させられた。

孔子は 『易経』 を読んで韋編三たび絶ったというではないか。 
この古今に冠絶する生命の書、真理の書をいただきながら何という不勉強ぞ。 

須く、繰返し、徹底的に 『生命の實相』 を真讀すべし、心讀すべし、身讀すべし。


Web: Channel: 晴れときどき競馬とホークス(July 5, 2013)
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p1.html

        <感謝合掌 令和4年5月25日 頓首再拝>

深く神想観を励む日 - 伝統

2022/06/14 (Tue) 07:24:41


       *「光明道中記」(6月14日)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に
 行く手を照らす炬火(たいまつ)である。 (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、
人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。

わが力は神より賜(たま)いたる力である。

わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

        <感謝合掌 令和4年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2022/06/25 (Sat) 07:35:55


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和4年6月25日 頓首再拝>

神想観の最高の方法は - 伝統

2022/07/15 (Fri) 07:57:37


             *『静思集』(P138~139)より抜粋

神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、

ただ実相の世界に、神の智慧と、愛と、生命(せいめい)との
充ち満ちてある、その妙(たえ)なる有様(ありさま)を観ることである。

愛憎によって人間が注文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは
神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず、神想観の効果は少ない。

実相の創化作用の自動によってのみ、無限の力が湧いて来るのである。

ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讃嘆し、礼拝し、感謝するのである。

            <感謝合掌 令和4年7月15日 頓首再拝>

神想観は神から直接授かった行法 - 伝統

2022/07/20 (Wed) 07:41:26


         *「詳説 神想観」(P25)より

神想観は生長の家の大神から
私が直接授かったものであります。

軟酥の法は軟酥という、物質的な霊薬が頭上から溶けて
全身に流れ入ることを観ずるのであり、

ヨガの修行法はプラナという「生気」を吸い込むのでありますが、

神想観は軟酥やプラナでない
神の生命の流入を直視するのであります。

            <感謝合掌 令和4年7月20日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2022/07/28 (Thu) 07:39:05


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                       (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人で
あったから、雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
 粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。汝らの面前になげ向(だ)す。
 灯台下暗しで判るまい。
 判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
 自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
 その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和4年7月28日 頓首再拝>

足を踏みしだくこと~神想観の姿勢における真理の実践 - 伝統

2022/08/01 (Mon) 09:05:16


          *「光明道中記」(8月の言葉)より抜粋

人々は姿勢を軽んずるが、
まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に上位をして
完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて
腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)ことには、
到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が
会陰部(えいんぶ)を下より覆い、

左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い
右足の足趾(ゆびさき)は左足の外側踝(くるぶし)に
稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位にあり、
隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>

「神想観」と偕なる生活をしましょう - 伝統

2022/09/26 (Mon) 12:14:12

「神想観」と偕なる生活をしましょう 谷口雅春先生
seimeinojissoh(2022/08/01)
https://www.youtube.com/watch?v=-sm3O8o3syE

         <感謝合掌 令和4年9月26日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2022/10/07 (Fri) 08:34:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月7日)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、
その後に起こる事件の処理中には(病気ならば回復の過程において)
悪化と見える出来事が起こってくるかも知れないのである。
これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに
「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
 神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 令和4年10月7日 頓首再拝>

神と共に静かに語れ - 伝統

2022/10/08 (Sat) 08:29:57


        *「光明法語(10月8日)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、
親子が静かに語る時間を持つと云う事であって
是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは
純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、
その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

        <感謝合掌 令和4年10月8日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2022/10/09 (Sun) 07:31:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月9日)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 令和4年10月9日 頓首再拝>

独創のある価値を生み出す最良の方法が神想観 - 伝統

2022/10/22 (Sat) 08:09:57


         *「幸福を招く365章」(P46~47)
           ~独創の個性ある価値を生み出すには

すべての善きものは内部から生まれます。
内部から生まれないものはすべて形骸(けいがい)であり、
模倣であり、ニセモノであり価値なきものです。

内部とは自分の生命(せいめい)です。
“自分の生命(せいめい)”とは“神の生命(せいめい)”です。

神の生命(せいめい)は無限内容をもっているのですから、
重複を厭(いと)うのです。

模倣には同じものが幾つも出てきますが、
内部生命から出るものには同じものは二度とありません。

すべての行動を内部生命から出すとき独創的なものとなり、
内部生命は普遍生命とつながっていますから、
独創的であると同時に普遍的なものがあり、人類全体の理解と共感とを得るのです。

では内部生命から、独創的なものを生み出そうと思ったならば、
内部生命に深く沈潜して、その無限の中から自己の個性に適する独創のものを
引き出して来なければならないんです。

その沈潜の最良の方法が神想観であります。


晴れときどき(February 6, 2014, 2:06 am)
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p23.html

           <感謝合掌 令和4年10月22日 頓首再拝>

「ありがたい」情感の神想観 - 伝統

2022/10/23 (Sun) 10:24:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 令和4年10月23日 頓首再拝>

神に融け入る神想観 - 伝統

2022/10/27 (Thu) 07:14:20


    *「光明道中記」(10月27日《神に融け入る神想観をする日》)より 

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、
自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。

そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、
ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との
充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 令和4年10月27日 頓首再拝>

神想観では、実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝する - 伝統

2022/10/28 (Fri) 07:19:08


    *「光明道中記」(10月28日《良き種を蒔く日》)より 

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを
具体的に認めることが出来ないならば、吾々の現実生活にも
それらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を
現象面に創造するのではなくして、ただ実相妙有の相(すがた)を
眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

       <感謝合掌 令和4年10月28日 頓首再拝>

神想観は積極的に霊力を増大する法 - 伝統

2022/11/18 (Fri) 09:40:31


         *「詳説 神想観」(P28)より     
          「眞理」第2巻基礎篇第2章(P31~32)
             《霊力を増大するには》

霊力を増大する方法には、
古来から、断食、水行(すいぎょう)、色々の苦行等、
肉体をいじめる方法があるけれども、
最も大切なものは、「神との一体感」を増すことなのである。

断食、水行その他の苦行によって霊力が増大するのは、
人間は肉体的面と、霊的面とが普通の場合に於いては
バランスを得ていて、調和ある状態にあるけれども、

断食等の苦行によって肉体を衰弱せしめると、
霊的バランスの方が強くなって霊感力が殖えてくることがあるのです。

瀕死の状態にあるときに霊感が発達して
霊姿を見ることがあったりするのは、そのためであります。

しかしこれは霊力が積極的に殖えたのではなくて、
霊力を抑えていた肉体力が減ったからです。

積極的に霊力を増加するには神想観により
「我れ神の子なり」の自覚を増大しなければならないのであります。

            <感謝合掌 令和4年11月18日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2022/12/13 (Tue) 09:03:37


   *「光明道中記」(12月13日《神の叡智につながる日》)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

       <感謝合掌 令和4年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2022/12/24 (Sat) 07:18:25


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。
「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。

今が新生である。

新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
 神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。
 わたしは喜びそのものである。
 わたしは幸福そのものである。
 私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても
心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、
直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

         <感謝合掌 令和4年12月24日 頓首再拝>

神想観三昧 - 伝統

2023/01/20 (Fri) 08:40:22


       *『生命の實相』第8巻観行篇(P107~109)

われらが本来の実相へと自覚が高まり行けば行くほど
自己の肉体組織は実相化し、いよいよますます実相が
肉体の上に投影せられ、実相が投影せられるところ、
ただ健全のみがあるのであります。
 
実相が形にあらわれるところには病の存在しようはないのであります。

そしてわれらが「実相」本来の面目を自覚するには神想観を徹底させて、
打坐又打坐、今「われ」と認むるものと実相とが、
まったく一つになってしまうのが最も勝れた方法であります。

かくして平常に於ても、自己の意識が一切の現象を、
至高完全なる実相そのままの姿において眺め得るところの境地に
逮するとき、健康のみならず、一切のわが環境が完全となるのであります。

すなわち一切の事物は真実あるがままの姿に ――
不完全なる仮相の姿に於てではなく、完全なる霊的実相の反映としての
姿に於て、みとめることが出来るようになるのであります。

そして一切の事物を、神が造り給いしままの完全なる姿において
みとめ得る境地に達したるときこそ、
われらは真理を知ったと言い得るのであります。

かかる真理の自覚はわれらを完全に自由ならしめ、外界よりニセ物の、
事物本来の面自に反する不完全なる印象を心にうけることなからしめ、
心の鏡面が常に皓(こう)として澄みわたり、今後、その人は絶対に
不幸にも病気にも罹らなくなるのであります。

完全に実相を自覚するには
「われ ―― すなわち実相、実相 ―― すなわちわれ」の
神想観の三昧境に達せねばならないのであります。

この神想観の三昧境においては、自己というものが'精神にあらず、
肉体にあらず、また幽体霊体にもあらずして、これらを超越して
至微至妙の状態にて存在する金剛不壊の実相身たることが自覚されます。

この自覚に達するには、神想観深まりたる時、
「実相はすなわちわれ、われすなわち実相」の言葉を繰り返し繰り返し
念ずるのがよいのであります。

この黙念を続けるとき、次第に自覚が深まって、
「われ」というものが天地に充満し、天地と共に呼吸し、
天地と共に存在する大実在であるとるという境地に達し、

ついに「実相はすなわちわれ、われすなわち実相」の大自覚に到達して、
今まで自分というものを物質であると観じていた迷いが消尽し、
自己を実相そのままの姿において認識するに到り、

実相の世界から無限に健康と、能力と、智慧と供給が与えられている
自分を見出すことになるのであります。
 
ここにおいて、現実のわれらと神との相違は、ただ自分を個体化した
神の体験者であるのに、神は無限者そのままのすがたであるだけに
過ぎないことを知るでありましょう。

       <感謝合掌 令和5年1月20日 頓首再拝>

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