伝統板・第二 2584000

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賢者の一日一言(R3年6月)

1:夕刻版 :

2021/06/01 (Tue) 19:42:29

このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「うたしごよみ」(小林正観)(6月のみ)
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6651658

(2)伝統板・第二「『一日一語』(森 信三) 」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6714587

(3)伝統板・第二「佐藤 一斎・一日一言」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7938814

(4)伝統板・第二「中江藤樹・一日一言」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7939087

(5)伝統板・第二「ひかりの一日一言51~神の叡智を身に受けて」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7870415


賢者の一日一言《1日》


(1)【 6月1日 】 《うたしごよみ1日》


   【うたしズム】

   人に

   「うれしい・たのしい・しあわせ」と

   喜ばれ、


   自分も

   「う・た・し」

   と思えるように。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273133723.html


・・・

(2)【 6月1日 】

   世の中の事はすべてが一長一短で、両方良いことはない。

   哲学の最終的帰結も、
   宇宙間の万物は、すべて絶大なる動的平衡(調和)によって保たれている──
   という一事だといってよい。

・・・

(3)【 6月1日 】 老人の戒め  ①

   其の老ゆるに及んでや、之(こ)れを戒(いまし)むる得(とく)に在り。
   得の字、指す所何事かを知らざりき。
   余、齢(よわい)已(すで)に老(お)ゆ。

   因(よ)りて自心を以て之を証するに、
   往年血気盛んなる時、欲念も亦盛んなりき。

   今に及んで血気衰耗し、欲念卻(かえ)って
   較(やや)澹泊(たんぱく)なるを覚ゆ。

   但(た)だ是れ年歯(ねんし)を貪り、子孫を営む念頭、
   之を往時に比するに較(やや)濃(こま)やかなれば、
   得の字、或いは此の類を指し、必ずしも財を得(え)、物を得(う)るを指さず。

                     (言後録 一七六)422


   【訳】

   『論語』に「老いたときに戒めるべきものは得である」とあるが、
   この「得」という字ば何を指しているかよくわからなかった。

   しかし、私もすでに老いたから、自分の心でこれの指し示すところを
   証拠立ててみるならば、昔、血気盛んであったときは、欲心もまた盛んであった。

   今となっては血の気は衰え、欲心もややあっさりしてきたようにう。
   ただ、長生きしたり、子孫のためにあれこれ計ってやろうとする考えは、
   昔に比べるとやや強くなって来ているから、

   戒めるべき「得」というのはこのようなことを指していて、
   必ずしも財産や物を得ることを指しているわけではなさそうだ。

・・・

(4)【 6月1日 】 子育ての誤り

   幼少の時には教え戒める事悪(あし)きと心得(こころえ)、
   寵愛(ちょうあい)におぼれ、何事をもその子の気随(きずい)に
   まかせて佚楽(いつらく)にふけるようにもてなし、
   ものいい立(たち)ふるまいなどのいやしくそこつにして、
   その心放埓(ほうらつ)に習(ならい)をも戒(いまし)め制する事なし。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   幼少のときには、(親は)教えいましめることが好ましくないと心得て、
   寵愛におぼれさせ、何事もその子の自由にさせて、
   遊び楽しませるようにとりなし、
   ことば使いや行動などの下品で軽率にして、
   その心が気ままとなる習癖をもいましめ、抑えることもしない。

・・・

(5)《1日 あなたは「神」そのものです》

   どんなに自働操縦制御(オートメーション)装置が発達したとしても、
   機械的に、或る結果をあらわしたり、機械的に自働したり計算したり
   仕事をするにしましても、みずから考えるということはできないのです。

   自働機械を考え出して作ったのは、生命(せいめい)ある人間です。
   此処に、「生命(せいめい)」ものと、「自働機械」との相異があるのです。

   その「生命(せいめい)」が何処から来たかと云いますと、「神」と
   私達が仮(かり)に称(よ)んでいるところの普遍的な大生命から
   生じたのであります。

   あなたの内に「神」が生きているのであり、
   大生命が生きているのであります。

   「神」こそあなたの「生命(せいめい)」、
   「大生命」があなたに《於いて》生きているのです。
   「大生命」こそあなたなのであります。

   何と云う素晴らしい事実の発見でありましょう。

   五尺何寸十何貫の物質的な有限体が「人間」そのものではなかったのです。
   大生命があなただったのです。

     *「眞理」第9巻生活篇第6章(P144~145) より

           <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/06/02 (Wed) 23:47:30

(1)【 6月2日 】 小林正観うたしごよみ2日

   【学び】

   聖者は
   「天の道」に学び、

   賢者は
   「地の利」に学び、

   知者は
   「古き人」に学ぶ。


   「学ぶ者」は
   「学ばぬ者」に学び、

   「学ばぬ者」は
   「学ぶ者」に学ばず。

    (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273234024.html

・・・

(2)【 6月2日 】

   真理は現実の只中にあって書物の中にはない。
   書物は真理への索引(インデックス)ないしはしおりに過ぎない。

・・・

(3)【 6月2日 】 老人の戒め  ②

   人、死生命(めい)有り、今強(し)いて養生を覔(もと)め、
   引年(いんねん)を蘄(もと)むるも、亦(また)命(めい)を知らざるなり。

   子孫の福幸も自(おのずか)ら天分有り。
   今之(こ)れが為(ため)に故意に営度(えいたく)するも、
   亦天を知らざるなり。

   畢竟是れ老悖衰颯(ろうばいすいさつ)の念頭にて、
   此れ都(す)べて是れ得を戒むるの条件なり。

   知らず、他の老人は何の想(そう)を著(つ)け做(な)すかを。

                     (言後録 一七六)422


   【訳】

   人には生きるも死ぬも天命がある。
   今、この年になって無理に養生して長生きしようと求めるのは、
   天命を知らない生き方である。

   また、子孫の幸福にも自ずから天与の分限というものがあるから、
   今、そのために意図して考えを計(はか)り巡らせるというのも、
   また天命というものを知らないということだ。

   結局、こうした考えは老いぼれて心が乱れ衰えた者の思うことであって、
   これらはすべて戒めるべき「得」の中に含まれることになるだろう。

   これが自分の考えなのだが、他の老人たちが何を思っているかはかわからない。

・・・

(4)【 6月2日 】 成人の教え

   成人しての教(おしえ)には明徳明らかな君子(くんし)をもとめ、
   師匠として儒道(じゅどう)の心学をおしえ、
   ひたすらに、明徳(めいとく)明らかにする工夫を励(はげま)し、
   才智芸能などは、その生得(うまれつき)にしたがっておしえ成(なす)べし。

                 (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   成人しての教えには、明徳明らかなすぐれた君子をもとめ、
   師匠として儒道の心学を教え、
   ひたすらに明徳を明らかにする工夫をはげまし、
   才智・芸能などは、その生まれつきにしたがって教えることである。

・・・

(5)《2日 超人(スーパー・マン)を自覚せよ》

   五尺何寸、十何貫の物質的肉体が人間だと思っていたところの
   弱小な常識から超えましょう。

   宗教は常識を超え、肉体を超え、自己の存在自覚を超常識の世界にまで
   翔(か)けのぼらせ、あなたを超人たらしめるものなのです。

   私たちの説く真理は単に「病人を治す治病宗教」だ
   などと云うケチなものではありません。

   あなたの自覚が超人にまで高まりますから、病気が消えるのです。
   何よりも『生命の實相』の第一巻(携帯版では第一・第二)にある
   実相篇をお読み下さい。

   この部分があなたに最も超常識の超人的自覚を与えるために
   書かれた部分であります。

   また『真理』第七巻悟入篇をお読み下さい。

   そして人間の実相が本来「神仏」であって肉体を超えた存在である
   ことを理論的に把握なさい。

   「病気を治そう」などと云うケチな考えを起して、
   病気を心でつかんではなりません。

   超人の自覚から自然に病気を超えるのです。
   病気を超えたとき其処に病気はもうないのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P145~146)より

           <感謝合掌 令和3年6月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/06/04 (Fri) 01:25:56


(1)【 6月3日 】 小林正観うたしごよみ3日

   【誕生祝い】

   あなたが

   この世に

   生まれてくれて

   ありがとう。


   誕生祝いは

   感謝祭。

   (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273234728.html

・・・

(2)【 6月3日 】

   「世の中は正直」とは、
   神は至公至平 ── というに近い。

・・・

(3)【 6月3日 】 実言と虚言

   実言は、芻蕘(すうじょう)の陋(ろう)と雖(いえど)も、
   以て物を動かすに足る。

   虚言は、能弁の士と雖も、人を感ずるに足らず。
 
                     (言後録 一七七)423

   【訳】

   真実の言葉は、身分の低い人の言葉であっても、
   よく人を感動させる。

   偽(いつわ)りの言葉は、弁論の達人の人の言葉であっても、
   人を感動させることはできないものである。

     *芻蕘~草刈りときこり
     *陋 ~身分の低い人  

・・・

(4)【 6月3日 】 胎教の心がけ①

   胎教(たいきょう)の心もちは慈悲正直を本(もと)とし、
   かりそめにも邪(よこしま)なる念(ねん)を発(おこ)すべからず。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   胎教の心がけは、慈悲と正直を根本として、
   ほんの少しでも、よこしまな心を起こしてはならない。

・・・

(5)《3日 あなたは既に超人(ちょうじん)です》

   超人の自覚は、あなた自身の自覚の程度に従って、
   時間・空間の制約を超えて自由になれるのです。

   私を標準や手本だと考えてはおりません。
   私は常に「自分は教祖ではない。私は喇叭である」と言っている通り、
   私は教えられたところを伝え、聴いたところを取り次ぐだけです。

   私の成績は真理の全体的効果の表現ではありません。
   私を目標にしてはなりません。

   真理を目標とするのです。

   そうしてみずから超人になって頂くのです。

   超人よ!!
   あなたが《それ》です。

   あなたは一切の制限を超えたのです。

   最早あなたは病気や、失望や、失敗や、
   悲観の虜(とりこ)となることはないのです。

   「いや、まだ私の病気は治らぬ」 と被仰(おっしゃ)るのですか。

   とんでもない、あなたは肉体ではないのです。
   肉体でないから肉体の病気も《あなたのもの》ではないのです。

   超えることです。

          *「真理」第9巻生活篇(P146)より

           <感謝合掌 令和3年6月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/06/04 (Fri) 19:44:21


(1)【 6月4日 】 小林正観うたしごよみ4日


   【「幸せ」の構造】

   「空腹」のあとの
   「おいしさ」

   「寒い冬」の
   あとの「春」、

   「暑い夏」の
   あとの「秋」。

   「つらさ」の
   奥にある「喜び」、

   泥水を栄養として
   咲く蓮の花。

   (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273235439.html

・・・

(2)【 6月4日 】

   わが身にふりかかる事はすべてこれ「天意」──

   そしてその天意が何であるかは、
   すぐには分からぬにしても、
   噛しめていれば次第に分かってくるものです。


・・・

(3)【 6月4日 】 己れの短長

   人は当(まさ)に自ら己の才性(さいせい)に短長有るを知るべし。

                       (言後録 一七八)424

   【訳】

   人は当然のこととして、自分の才能や性格に
   短所と長所のあることを知っておくべきである。 

・・・

(4)【 6月4日 】 胎教の心がけ②

   食物(しょくもつ)をもよくつつしみ、居(い)ずまい
   身(み)のはたらきをも正しくつつしみ、
   目(め)にむざとしたる色(いろ)を見ず、
   耳(みみ)に邪(よこしま)なる声をきかず、

   古(いにし)えの賢人君子の行迩(こうせき)、
   孝悌(こうてい)忠信(ちゅうしん)の故事(こじ)を
   記(しる)せる草子(そうし)をよみ、或は物語をきくベし。

               (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   (毎日の)食事をよくつつしみ、居住まいや
   身のはたらきも正しくつつしみ、
   目にむさくるしい色を見ず、
   耳によこしまな声を聞かず、

   むかしの賢人・君子のおこないや、
   孝弟や忠信の故事を書きしるした草子を読み、
   あるいは物語を聞くことである。

    ○孝悌 ~ 孝弟とも。 

・・・

(5)《4日 最も尊き贈り物について》

   私たちが愛している家族または知人に与え得る贈り物のうち何が最も
   価値多き物であるかと言えば、

   「われ神の子にして、一切の消極的な制限を超越す。
    それゆえにわれに一切の畏怖(おそれ)なし」

   と云う自覚を与えることを以って第一とするのです。

   これを仏教では「施無畏(せむい)」と言って
   あらゆる施(ほどこ)しのうちで
   最も尊いほどこしであると説かれています。

   「常に神の子として親様に護られているがゆえに、此の世に恐るるものなし」

   との自覚を与えられたものは常に苦しむことなく、
   常に恐れることなく、常に躊躇することなく、
   自己の信ずるところを堂々とやりとげることができるのです。

   また此の自覚を得たものは、自己が神の子であることを知ると同時に、
   他(た)のすべての人々も神の子であることを知るがゆえに、
   相互信頼、相互礼拝によって争うことがないのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P147)より

           <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/06/05 (Sat) 20:27:24


(1)【 6月5日 】 小林正観うたしごよみ5日


   【心実】

   「幸」も

   「不幸」も

   存在しない。


   そう思う

   自分の心が

   あるだけ。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273237050.html

・・・

(2)【 6月5日 】

   この世における辛酸不如意・苦労等を、
   すべて前世における負い目の返済だと思えたら、
   やがては消えてゆく。

   だが、これがむつかしい。

・・・

(3)【 6月5日 】 盛衰の期限

   三十年を一世とし、百五十年を五世と為す。
   君子の沢(たく)は五世にして斬(た)ゆ。
   是れ盛衰の期限なり。

   五百年にして王者興(おこ)る有りとは、亦気運を以て言う。
   凡そ世道(せどう)に意有るもの、察を致さざるべからず。

                     (言後録 一八ニ)428

   【訳】
 
   中国では、三十年を一世とし、百五十年を五世とする。
   『孟子』に「君子のもたらす恩沢(後世に潤す恵み)は五世で尽きてしまう」
   とあるが、これはその盛衰の期限である。

   同じく『孟子』には「五百年にして王者が興る」ともあるが、
   これは歴史上の気運の循環に基づいて言っているである。

   すべて世を治めることに関心のある者は、
   こうしたことをよくよく考えて事をさななければいけない。

・・・

(4)【 6月5日 】 胎教の道理

   生(うまれ)る子のすがた形もよく
   智恵徳芸(とくげい)もすぐれなん事(こと)をねがうは、
   母ごとの心なれども、

   胎教によって、子の容儀もよく智恵もすぐれる理りを
   わきまえざるゆえに、胎教にちからをもちいず。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   生まれてくる子の姿かたちもよく、
   智恵・徳芸もすぐれていることを願うのは、
   どの母親もおなじ心であるけれども、

   それが胎教によって、子の容儀もよく、智恵も
   すぐれるという道理を知らないゆえに、
   胎教にちからを用いないのである。

・・・

(5)《5日 神はあなたを健やかに護りたまう》

   神の生命(せいめい)あなたに流れ入りて、
   あなたの生命(せいめい)となりたまう。
   あなたの生命(せいめい)は神の生命(せいめい)であるのです。

   神はあなたの生命(せいめい)と活力との源泉であり、
   常に流れ入って涸渇すると云うことはないのである。

   神の生命(せいめい)無限であるがゆえに、
   あなたの生命(せいめい)も無限であり、
   神の活力は無限であるがゆえに、あなたの活力も無限であるのである。

   この事実を知ってあなたは今後決して悲観的な消極的なことを考えないのである。

   神の永遠に変わることなき健やかなる生命(せいめい)なのである。
   神が一度健やかに定めたまうたものを、
   何者といえどもそれを不健康にする力はないのである。

   あなたは気候の変化を恐れないし、
   食物(しょくもつ)の適不適を恐れないのである。
   気候も食物も黴菌もビールスもあなたを害することはできないのである。

   それを信ぜよ。

          *「真理」第9巻生活篇(P148)より

           <感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/06/06 (Sun) 20:34:05


(1)【 6月6日 】 小林正観うたしごよみ6日

   【人格要素】

   「優しさ」
   「厳しさ」
   「明るさ」

   人格の三要素。


   「人に優しく」
   「自分に厳しく」
   「希望や展望を失わず」。


   「寛容」に「謙虚」に「前向き」に。

   (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273237611.html

・・・

(2)【 6月6日 】

   すべての悩みからの脱却には行動が必要。

   「南無阿弥陀仏」という念仏称名もそのひとつ。

   手紙を書くのも掃除をするのも、
   はたまた写経をするのも──
   それぞれに良かろう。

・・・

(3)【 6月6日 】 心の内は隠せない

   戯言(ぎげん)固(もと)より実事に非ず。
   然(しか)れども意の伏(ふく)する所、
   必ず戲謔(ぎぎゃく)中に露見して揜(おお)うべからざるもの有り。

                       (言後録 一八五)431

  【訳】

   戯(ざ)れ言(ごと)はそもそも真実のことではない。
   しかし、心に潜(ひそ)んでいることは、
   必ずふざけているうりに現われてきて、
   覆い隠すことができないものである。

・・・

(4)【 6月6日 】 孟母の教え

   子(こ)をそだてる人だれもこの心(こころ)を師(し)として、
   其子(そのこ)の我満(がまん)の根(ね)、あらそいそねむ根(ね)、
   負欲(どんよく)の根(ね)、狠戻(こんれい)の根(ね)、
   人をあなどりかろしめる根(ね)などを、引(ひき)うごかし、
   ならわざるように用心第一なり

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   子をそだてる人は、だれもこの
   (孟母のイノシシを買い与えたという)心を教師として、
   その子の満心の根、あらそいねたむ根、負欲の根、
   ねじけた心の根、人をあなどり軽蔑する根などを、引きうごかし、
   (成人してからの)習慣とならないように用心することが第一である。

    ○孟母 ~ 孟子の母。

・・・

(5)《6日 常に神はわれを護りたもう》

   あなたはどんな困難がやって来ても、
   ただ あなたは神の方へ振り向けばよいのです。

   神様から離れて、我(が)の力で、さ迷いあるくから、
   迷い児のようになることがあるのです。

   しかし神様と云う親様は「人間の親」のように
   肉眼で見守っているのでありませんから、
   あなたが神を思い出し、神様を心で呼び出しさえするならば、
   直ぐ神様はあなたの近くにいらっしゃるのであります。

   神は常にあなたを護っていらしゃいます。

   神の愛は無限です。
   神の力は無限です。

   悲観することなど、一つもないのです。

   困難に対して悲しむことも、呟(つぶや)くこともやめましょう。

   「神は常にわたしを護りたもう。われこれを信ず、われ是を信ず」と
   自分自身にむかって、確言いたしましょう。

   その確言が潜在意識の底に滲(し)み透うり、
   宇宙の潜在意識を動かしたときあなたは完全に困難から脱却します。

          *「真理」第9巻生活篇(P148~149)より

           <感謝合掌 令和3年6月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/06/07 (Mon) 20:03:31


(1)【 6月7日 】 小林正観うたしごよみ7日

   【出会い】

   この世の出会いは
   すべて”必然”。

   「はじめまして」は
   「お久し振り」、

   そして

   「やっと
   会えましたね」。

       (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273238178.html

・・・

(2)【 6月7日 】

   わが身に降りかかった悲痛事に対して、
   その何ゆえか(WHY)を問わない。
   それよりも如何に(HOW)対処すべきかが大切。

・・・

(3)【 6月7日 】 事を処する心得

   事を処するに平心易気)いき)なれば、人自(みずか)ら服し、
   纔(わずか)に気に動けば便(すなわ)ち服せず。

                     (言後録 一八七)433

   【訳】

   物事を処理するときに、心が穏やかで落ち着いていれば、
   人は自然に服従するものである。

   しかし、わずかでも私心を挟むような気分に左右される
   ところがあると、承服するものではない。

・・・

(4)【 6月7日 】 子の不孝は親から

   母たるもの夫(おっと)のみじかき所あしき事などを
   その子に語(かた)りきかせてよろこぶもの、間(あいだ)に有(あり)。

   これは正(まさ)しく、その子に不孝をおしえるなり。
   いかんとなれば子の不孝はかならず親の不是(ふぜ)なる所を見るよりおこれり。

               (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   母親たるものは、亭主の短所や悪いことなどを、
   わが子に語り聞かせてよろこぶものが、ときどきいる。

   これはまさしくその子に、不孝を教えているようなものである。
   なんとなれば、子の不孝は、かならず親のよからぬ言行を、
   見ているところから起こるのである。

・・・

(5)《7日 心に光を射しこませましょう》

   あなたの生活に光を射し込ますことにいたしましょう。
   今まであまりあなたの心が暗(くら)すぎたのではありませんか。

   もっともっと光を射し込ませましょう。

   歎くことをやめましょう。
   呟くことをやめましょう。

   そして朗らかに、愉快に、何が来ても、
   ”必ずこれは一層よくなる前提だ”と信じて、
   心に光をもつことに致しましょう。

   光はただそれを射し込ますだけでも、
   あなたの生活の隅々まで明るくなり、影が消えるのです。

   明るくなれば、次に何をなすべきかハッキリ分かるのです。

   絶望と狼狽の中で、何が一体出来ましょう。

   心に光を射し込ますには、まず現在 与えられている状態で
   感謝すべきものを発見して感謝することです。
   空気に水に、大地に、家に、寝床に・・・感謝することです。

   そして神の護りを再認識して
   「神は私を救わずに置かない」と確信するのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P149~150)より

           <感謝合掌 令和3年6月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/06/09 (Wed) 00:00:33


(1)【 6月8日 】 小林正観うたしごよみ8日

   【ちょうどいい】

   全てがあなたに
   ちょうどいい。

   父母も子も、
   夫も妻も兄弟も。
   上司も部下も友人も。

   全てがあなたに
   ちょうどいい。

      ~釈迦の言葉~

   (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273828661.html

・・・

(2)【 6月8日 】

   哲人といえども迷う時はあろう。
    だが迷う時間が短かろう。

   悟った人でも迷うことはある。
   しかし迷う時間が短い。

・・・

(3)【 6月8日 】 上に立つ者の心得

   寛(かん)なれども縦(じゅう)ならず。
   明なれども察ならず。

   簡(かん)なれども麤(そ)ならず。
   果(か)なれども暴(ぼう)ならず。

   此の四者を能(よ)くせば、以(もつ)て政(まつりごと)に従うべし。

                       (言後録 一八八)434


   【訳】

   寛容であるが気ままではない。
   明敏ではあるが厳しく人の落ち度を取り調べない。

   簡単であるが粗雑ではない。
   果敢ではあるが乱暴ではない。

   この四点をよく実行できれば、よい政治ができる。

・・・

(4)【 6月8日 】 道を教える

   徒(ただ)に子孫(しそん)のさかえんことをもとめて、
   道(みち)をおしえざるは、木によって魚(さかな)をもとめるなるべし。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   ただたんに子や孫が繁栄することだけをもとめて、
   (肝心の)人としての道を教えなかったならば、
   (たとえば)木に登って魚をもとめているようなものである。

・・・

(5)《8日 まず心を豊かにいたしましょう》

   外から援助を期待していましても、
   内(うち)にそれを受ける準備ができていなかったら、
   それを受けとることはできません。

   孔(あな)のあいたバケツに水を供給されても
   いつの間にかバケツの水がなくなっているものです。

   あなたの幸福と富裕とは
   外からの援助だけでは得られるものではありません。

   あなたの「物の考え方」を反省してみようではありませんか。

   それには「類(るい)は類を招ぶ」と云う根本法則を先ず知って置くことです。
   ケチな物の考え方をしておればケチな事しか起こってきません。

   先ず”自分は豊かである”と考えることです。

   実際貧しいのに”豊かである”なんて考えることが出来ない
   と被仰(おしゃ)るのですか。

   それは想像力がケチだからです。

   現実に縛られないで、”実相”の豊富さを心に描き出しなさい。

          *「真理」第9巻生活篇(P150~150)より

           <感謝合掌 令和3年6月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/06/10 (Thu) 00:25:07


(1)【 6月9日 】 小林正観うたしごよみ9日

   【自転】

   日が照れば
   動物にとって晴れ、

   雨が降れば
   植物にとって晴れ。

   (「晴れ」とは「祝い」や「喜び」。)

   立場を変えれば
   相手が見える、

   見かたを変えれば
   世界が変わる。


     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273899343.html

・・・

(2)【 6月9日 】

   玄米食は、我われ日本人の「食」の原点である。
   それ故玄米食を始めると、
   かえって味覚が鋭敏になる。

・・・

(3)【 6月9日 】 公務員の守るべき心得

   敬忠(けいちゅう)・寛厚(かんこう)・信義・公平・
   廉清(れんせい)・謙抑(けんよく)の六事十二字は、
   官に居(お)る者の宜(よろ)しく守るべき所なり。

                     (言後録 一九七)443

   【訳】

   敬忠(君主を敬い忠義を尽くすこと)
   寛厚(心が広く穏やかなこと)
   信義(誠実で正しいこと)、
   公平(公明正大であること)、
   廉清(欲心がなく心が清らかなこと)、
   謙抑(へりくだり自らを抑えること)

   という六事十二字は、官職にある者がよく守るべき心得である。

・・・

(4)【 6月9日 】 立派に育てる覚悟

   子(こ)ありても小人(しょうじん)なれば
   子(こ)なきにおとれりといえる覚悟、
   丈夫にもまれなる心得(こころえ)、
   いと有(あり)がたき事(こと)也(なり)。

   この心(こころ)をもって心(こころ)とせば、
   いずれの母もよくおしえざるはあるまじ。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   子がいても、徳のない人間ならば、
   子のいないよりも劣るというような覚悟は、
   りっぱな男性にもまれな心得であり、
   きわめてあり難いことである。

   この心を心としたならば、
   いずれの母親も(わが子を)りっぱに教育することができるのである。

・・・

(5)《9日 先ず心を偉大にいたしましょう》

   心に豊かさが整ったとき、
   すべての豊かなるものをあなたの身辺に引き寄せる磁石的力ができるのです。

   そこで引き寄せられたものを拒むことをしてはなりません。
   また去りゆくものを悲しんではなりません。

   あなたの心が豊かであれば、あなたを豊かにするための要素なるものが
   引き寄せられ、貧しくなる要素になるものが反発されてしまうのです。

   あなたは出来るだけ寛容の精神をもたなければなりません。
   包容力が大きくなければならないのです。

   小さな事にコセコセしてはなりません。

   併し小さな事をゆるがせにしてはならないのです。
   小事を漏らさず行き届いて、しかも小事に齷齪(あくせく)せず、
   大綱をつかんで、希望は大きくもって、しかも今ある自分の足場をしっかりと
   築いていくことによって大いなる希望の建築物はできるのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P151~152)より

           <感謝合掌 令和3年6月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/06/10 (Thu) 19:30:04


(1)【 6月10日 】 小林正観うたしごよみ10日

   【許す「徳」】


   許せば戻る、
   笑顔と眠り。

   前にも増して
   爽快、元気。


   許して最も
   「得する」自分。


   相手を許す
   「徳」が「得」


     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/273899700.html

・・・

(2)【 6月10日 】

   豆腐の味は「日本の味」である。
   それ故豆腐の味が分りかけたということは、
   その人が真に日本人らしくなりかけた一徴表とも言えようか。

・・・

(3)【 6月10日 】 言葉を慎む

   天地間の霊妙(れいみょう)、人の言語に如(し)く者莫(な)し。
   禽獣(きんじゅう)の如きは徒(ただ)に声音(せいおん)有りて、
   僅(わず)かに意嚮(いこう)を通ずるのみ。

   唯(た)だ人は則(すなわ)ち言語有りて、
   分明(ぶんめい)に情意(じょうい)を宣達(せんだつ)す。

   又抒(の)べて以て文辞(ぶんじ)と為(な)さば、
   則ち以て之を遠方に伝え、後世に詔(つ)ぐべし。

   一に何ぞ霊なるや。惟(た)だ是くの如く之れ霊なり。
   故(ゆえ)に其の禍階(かかい)を構え、
   釁端(きんたん)を造(な)すも亦言語に在り。

   譬(たと)えば猶(な)お利剣(りけん)の善く身を護る者は、
   輒(すなわ)ち復(ま)た自ら傷つくるがごとし。
   慎まざるべけんや。

                     (言後録 一〇)256

   【訳】

   天地の間で霊妙不可思議なものと言えば、人の言葉以上のものはない。
   鳥獣はただ音声を発するだけで、やっと相互の意思を通じあうだけである。

   ただ人間だけは言葉があって、
   はっきりと自分の感情や意志をのべ伝えることができる。

   また言葉を文章にするならば、これを遠方に送り伝え、
   後世の人々に告げ知らせることができる。
   なんと霊妙不可思議なことではないか。


   ただこのように霊妙不可思議なものであるから、
   禍(わざわい)や争(あらそい)のきっかけをつくったりするのも
   また言葉である。

   譬えれば、よく切れる剣は身を護るものではあるが、
   容易にわが身を傷つけるようなものである。
   それゆえ、言葉は慎まなければならない。 

・・・

(4)【 6月10日 】 人の死期①

   人(ひと)の死期(しき)は生をうける初(はじめ)にさだまりて、
   天地(てんち)神明(しんめい)もみだりに変(へん)じ給う事あたわず。
   まして人力をや。

                   (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   人間の死ぬ時期というのは、この世に生をうけた最初にさだまっていて、
   天地・神明もみだりにそれを変えることができない。
   ましてや人力など、とうていおよぶものではない。

・・・

(5)《10日 本当の愛と云うものは? 》

   愛はよく耐え忍ぶ。
   忍耐強くあることが愛の特徴である。
   気短く捨ててしまうようなことでは愛が足りないのである。

   本当の愛には嫉妬はない。
   嫉妬するのは独占欲があるからであって、本当の愛ではないのである。

   愛は決して見せびらかすなどの事をしないのです。
   愛は静かである。
   熱狂して、まもなく醒めるのは本当の愛ではないのです。

   静かに忍耐強く希望を捨てないで相手を生かして行くのが愛なのです。
   愛はどんな場合にも絶望しません。
   絶望するのは相手を本当に愛しないからなのです。

   愛が深ければ、何時までも相手に希望を持っているものです。
   愛は現象の不完全を実在だと思いません。
   愛は実相の完全さを見るのです。
  
   愛は決して相手を縛りません。
   愛は自由を与えます。
   併(しか)し愛は放任しません。

   愛はその人のために祈るのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P152)より

           <感謝合掌 令和3年6月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/06/11 (Fri) 22:57:22


(1)【 6月11日 】 小林正観うたしごよみ11日

   【特別日】


   「今日」は二つの
   「特別日」。


   過去の人生
   最後の日。


   楽しい未来の
   最初の日。

    (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274224744.html

・・・

(2)【 6月11日 】

   《お金に困らぬ人間になる工夫》  
   
   一、大きなお金をくずすのは、一日でも先きにのばすこと。

   二、お札を逆さに入れたり、ハチあわせにしたりせぬこと。

   三、財布を幾つか持っていて、
     それぞれの用途や向きに応じて別にしておくこと。

・・・

(3)【 6月11日 】 長の学ぶべき三徳

   人主(じんしゅ)の学は智・仁・勇の三字に在り。
   能(よ)く之を自得せば、特(ひと)り終身受用して尽きざるのみならず、
   而(しか)も掀天掲地(きんてんけいち)の事業、
   憲(のり)を後昆(こうこん)に垂(た)るべき者も、亦断じて此(これ)を出でず。

                        (言後録 一九八)444

   【訳】

   人の上に立つ君主たる者は、智・仁・勇の三字を学ばなければならない。
   これをよく自分のものにしたならば、生涯この三徳を受け用いても
   尽きることがないばかりか、

   天地をひっくり返すような大事業を成し遂げることができる。
   また、そうした手本を後世に残すことのできるのも、
   この智・仁・勇の三徳を実践する外はない。

    〇『論語』には「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」とある。 

・・・

(4)【 6月11日 】 人の死期②

   そのうえ寿命(じゅみょう)の根は明徳)めいとく)にある故(ゆえ)に、
   大義(たいぎ)をおもんじ明徳を明かにすれば、
   軍陣(ぐんじん)にありても非業(ひごう)の犬死(いぬじに)なし。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳}

   そのうえ(人間の)寿命の根本は、明徳にあるゆえに、
   大義をおもんじて、明徳を明らかにすれば、
   (たとえ)軍陣にいたとしても、思いもかけないような犬死はないのである。

・・・

(5)《11日 永遠に若くあるために》

   人間は神の子であり、神は無限内容でありますから、
   一定の姿に固定することを喜びません。
   其処に進歩があるのです。

   老人が保守的であり、旧弊であると云うのは、
   生命(せいめい)の若々しさを失っているからであります。

   イエスは「幼児(おさなご)の如くならずば天国に入ること能わず」
   と教えましたが、私達は幾歳になりましても新鮮な心を失っては
   ならないのであります。

   若々しい心は新しい事を好むのです。

   私たちが若し永遠に若くあろうと思いましたならば、
   毎日何か自分の生活に、新しい体験をつけ加えなければなりません。

   新しい知識を、新しい改善を、新しい計画を、
   新しい進歩をしなければなりません。

   私達の発達と進歩とが終わったとき、
   わたしたちは老衰しつつあるのです。

   変化をおそれてはなりません。
   変化を通して私達は永遠に進歩するのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P153)より

           <感謝合掌 令和3年6月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/06/13 (Sun) 00:27:18


(1)【 6月12日 】 小林正観うたしごよみ12日

   【覚悟】


   災難に遭いそうに
   なったら、遭(あ)う。

   病気になりそうに
   なったら、なる。

   死にそうに
   なったら、死ぬ。


   それが災難よけの
   最良の方法。

         ー良寛和尚の言葉ー

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274584017.html

・・・

(2)【 6月12日 】

   金銭は自分の欲望のためには、
   出来るだけ使わぬように──。

   そしてたとえわずかでもよいから、
   人のために捧げること。

   そこにこの世の真の浄福境が開けてくる。

・・・

(3)【 6月12日 】 人の見方

   人の賢(けん)不肖(ふしょう)を論ずる、必ずしも細行(さいこう)を問わず。
   必ず須(すべか)らく倫理(りんり)大節(たいせつ)の上に就きて、
   其の得失如何)いかん)を観(み)るべし。
   然(しか)らざれば則(すなわ)ち世に全(まった)き人無し。

                     (言後録 ニ一五)461

   【訳】

   人がの賢いか愚かかを論ずる場合は、必ずしも細かな行いを問うべきではない。
   それよりも、人が必ず踏むべき大切な規範や節義の上に立って、
   その人の得失のいかんを観察すればよい。

   そうしなければ、この世の中には欠点のない尊敬に値する完成された
   人はいないことになってしまうだろう。 

・・・

(4)【 6月12日 】 道徳を第一義

   才芸(さいげい)を緒余(しょよ)として、道徳を第一義とたっとぶは、
   まことに君子(くんし)のおしえなり。
   よのつねの人は、男にてもこの見識(けんしき)あるはすくなし。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   才芸を余技として、道徳を最上の価値あるものとたっとぶのは、
   まことにりっぱな君子の教えというものである。
   世のつねの人は、男性でもこのような見識のある者は少ない。

・・・

(5)《12日 困難をつかんではなりません》

   困難を困難とみとめてそれと戦ってはなりません。

   困難を困難として心につかむとき、
   その困難は自分から離れがたいものとなるのです。

   心を神の方へ向けなさい。

   神と云う「無限の智慧」に心を向けかえて
   其処から出て来るヒントに従って素直に事をはこぶとき、
   どんな困難も完全に克服できるようになるのです。

   困難はほっておけば、困難みずからで自壊するのです。

   困難を敵として取り組んで、それをつかんで色々と掻き廻すから、
   池の中を棒で掻きまわすように益々周囲がにごって来るのです。

   池の水を澄ます途(みち)は池の水を掻き廻さないことにあるのです。
   自分が困難を克服することは要らないのです。
   神が困難を克服したまうのです。

   私達はただ神の指示するままに従っておれば好いのです。
   神は無限の智慧であります。
   無限の智慧をわがものとしなさい。

          *「真理」第9巻生活篇(P153~154)より

           <感謝合掌 令和3年6月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2021/06/14 (Mon) 00:06:57


(1)【 6月13日 】 小林正観うたしごよみ13日

   【三る海】


   まずは
   信頼される人、

   そして
   尊敬される人、

   さらに
   安心される人。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274736481.html

・・・

(2)【 6月13日 】

   人間もつねに腰骨を立てていると、
   自分の能力の限界がわかるようになる。
   随って無理な計画はしなくなる。

   私が今日まで大たい計画の果遂できたのも、
   その根本はこの点にある。

・・・

(3)【 6月13日 】 信用第一

   信を人に取れば、則(すなわ)ち財足らざること無し。
 
                       (言後録 ニニ四)470

   【訳】

   人に信用されるようになれば、お金に困るということはない。

・・・

(4)【 6月13日 】 満心をたきつける

   たまたまその子(こ)の芸に長ずることあれば、
   世になきこととよろこびたかぶりて、却(かえっ)て
   その子の満心をたきつけるのみなり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   たまたま、その子の技芸が(人よりも)すぐれたところがあれば、
   世になき(天才などと)驚喜して、かえってその子の満心を
   たきつけてしまうだけである。 

・・・

(5)《13日 神の愛はあなたを抱擁しておられます》

   今、神の愛があなたを引き包んでおられるのです。
   それに気がつかなかったならば、今、ハッキリその事実を自覚しなさい。

   神の愛を単に哲学的に、また抽象的に考える事を止めなさい。

   神の愛を、あなたの母親がしっかりとあなたを抱きしめているように、
   具体的に温かく抱きしめておられると感じなさい。

   それを神想観中に、
   ”心の眼”をもって具体的に見、ハッキリと心に感ずるのです。
   抽象的な観念だけでは、多くの具体的効果を期待することはできません。

   ハッキリ具体的に感情的にすら感ずることによってのみ
   多くを期待することが出来るのです。

   「神は無限の愛を以て吾がすべての過ちを許し給い
    我をその愛の御手にて抱き給う」と念じなさい。

          *「真理」第9巻生活篇(P154~155)より

           <感謝合掌 令和3年6月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2021/06/15 (Tue) 00:03:43


(1)【 6月14日 】 小林正観うたしごよみ14日

   【強さ】

   「強さ」とは、
   主張を通すことでもなく、
   競争することでもなく、

   傷つかぬように
   身を守ることでもなく、

   馬鹿にされ、罵られ、
   辱められ、笑われても、

   笑顔で底から
   立ち上がってくること。


       (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274813587.html

・・・

(2)【 6月14日 】

   仕事は一気呵成にやりぬくに限る。

   もし一度には仕上がらず、
   どうしても一度中断せねばならぬ場合には、
   半ばを超えて六割辺までこぎつけておくこと──

   これ仕事をやりぬく秘訣である。

・・・

(3)【 6月14日 】 六十からの自戒

   人は老境に至れば、体(たい)漸(ようや)く懶散(らんさん)にして、
   気太(はなは)だ急促(きゅうそく)なり。
   往往(おうおう)人の厭(いと)う所と為(な)る。

   余此(こ)れを視て鑑(かん)と為し、齢(よわい)六十を踰(こ)えて後、
   尤(もっと)も功を著(つ)け、気の従容(しょうよう)を失わざるを要す。
   然(しか)れども未(いま)だ能(あた)わざるなり。

                        (言後録 ニ一七)463

   【訳】

   人は年を取ると、体の締まりがなくなり不精(ぶしょう)になって、
   気ばかりがせわしくなる。
   そのため往々にして人から嫌われるようになる。

   わたしはそれを見て自らの戒めとし、六十歳を越えてからは
   一層努力精進を重ね、心の落ち着きを失わないように気をつけている。
   しかし、まだまだ十分とはいかない。 

・・・

(4)【 6月14日 】 福善禍淫

   福善(ふくぜん)禍淫(ふくいん)の報応(ほうおう)は
   山びこのごとしくれば、まま子(こ)をつれなくそこなえば、
   かならずわが産(うむ)ところの子に報いて、あさましき禍いあり。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   「善行にさいわいし、淫行にわざわいす」という法則は、
   あたかもやまびこのようなものであり、
   じつの子でない者を薄情にいためつければ、
   かならず自分の生んだ子どもに、その報いがおよんで、
   みじめなわざわいが起こるのである。 

・・・

(5)《14日 幸福の扉を開く鍵について》

   私たちの「心」はその人の人生を極楽にもし、地獄にもする鍵であります。

   そういう素晴らしい鍵を私達が持っており、その鍵の扱い方を知るまでは、
   時々過って地獄の扉をひらいたりするのであります。

   その鍵の正しい扱い方は、祈りによって
   神の啓示をうけることによって知ることができるのであります。

   私たちの心が神の方に振り向くとき、
   私たちの感情、想念、意志、そして行動は正しき方向へ
   調節せられることになるのであります。

   混沌たる星雲のうちより
   秩序整然たる天体の運行を生み出して来た大宇宙の知性が、
   あなたの行動と心を導いてくださるからであります。

   「神に心を振り向ける」と言っても、其の神は決して天の雲の上に居て、
   私達を監視しているという神という意味ではありません。

   あなたの生命(せいめい)の底にいらしゃるのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P155~156)より

           <感謝合掌 令和3年6月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2021/06/16 (Wed) 01:05:57


(1)【 6月15日 】 小林正観うたしごよみ15日

   【運命】


   人生は
   人との出会いの
   積み重ね。


   「運命」は
   人が運んでくる
   「私の命」。

       (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274814587.html

・・・

(2)【 6月15日 】

   わたくしには、なん度聞いても飽きぬ話が三つある。

   一つは(地蜂の)蜂の子とりの話。
   次はやまめ(ヒラメ)釣りの話。
   そして最後は富山の薬屋の新規開拓の苦心談。
  
・・・

(3)【 6月15日 】 人生所感 ①

   余(よ)自(みずか)ら視・観・察を飜転(ほんてん)して、
   姑(しばら)く一生に配(はい)せんに、
   三十已下(いか)は視の時候に似たり。

   三十より五十に至るまでは、観の時候に似たり。
   五十より七十に至るまでは、察の時候に似たり。

                       (言後録 ニ四〇)486


   【訳】

   『論語』為政扁に「其の以す所を視、其の由る所を観、その安んずる所を察す」とある。

   私がこの視・観・察をうつしかえて人の一生に配してみると、
   三十歳以下は、まだ見る目が浅いから「視」の時代に似ている。

   三十歳から五十歳に至るまでは、
   それ以前よりは念を入れて世間を見るから「観」の時代に似ている。

   五十歳から七十歳に至るまでは、さらに精(くわ)しく内省しながら見るから
   「察」の時代に似ている。 

・・・

(4)【 6月15日 】 親の遺産なくても①

   衣食(いしょく)もてあそびものは、
   多(おおき)きも実はその子に益なし、
   すくなきも実はその子に損なし。
   あるにまかせる世中(よのなか)なり。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   衣食を思いのままになる者で、
   それが多くあるからといって、じつはその子に利益はない。
   また(それが)少ないからといって、じつはその子に損失はない。
   あるがままの世の中である。

・・・

(5)《15日 純粋の祈りで毎日を始めましょう》

   毎朝その日のいとなみを祈りをもってはじめましょう。
   懇請や懇願の祈りではなく、神との一体感を深める思念から
   はじめるのであります。

   神との一体感が深まるにつれて、
   あなたの日常生活が神の叡智によって導かれるようになり、
   何事を行なってもそれがスラスラ行くようになるのであります。

   もっとも日常生活がスラスラ行くために祈ったり神想観をする
   のでは前後顛倒と云うことになります。

   日常生活がスラスラ行くのは神の叡智に導かれることの
   随伴現象であって、日常生活を都合よく行かせるために、
   ”神を道具に使う”ような不純な気持ちが少しでも交じりますと、
   それは本当の祈りではありませんから、
   却って其の祈りが効果をあらわさなくなるものです。

   祈りがきかれなくなった時には自分の心を吟味しなさい。

   そして純粋の祈りに還ることです。

          *「真理」第9巻生活篇(P156~157)より

           <感謝合掌 令和3年6月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2021/06/17 (Thu) 00:06:45

(1)【 6月16日 】 小林正観うたしごよみ16日

   【五分の理】


   分けるから苦しい
   五つのこと。

   「勝ち・負け」

   「幸・不幸」

   「良し・悪し」

   「成功・失敗」

   「敵・見方」。

   みんな、分けられない。

       (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274815610.html

・・・

(2)【 6月16日 】

   暁の 床に目覚めて うつつなき 心に響き かじかは啼くも

   ほのぼのと 外の面はややに白みたれ 河鹿は鳴くも 小暗き室に

・・・

(3)【 6月16日 】 人生所感 ②

   察の時候には当(まさ)に知命・楽天に達すべし。
   而(しこう)して余(よ)の齢(よわい)今六十六にして、
   猶(な)お未(いま)だ深く理路に入(い)る能(あた)わず。

   而(しか)るを況(いわん)や知命・楽天に於てをや。
   余齢(よれ)幾(いく)ばくも無し。
   自(みずか)ら励まざる容(べ)からず。
   天保丁酉記す。

                       (言後録 ニ四〇)486

   【訳】

   この「察」の時代にはまさに天命を知り、人生を楽しむ境地に達するすべきである。
   さて、自分は六十六歳にもなったが、まだ物事の道理に深く入ることができないでいる。

   ましてや天命を知り、安んずることはできない。
   もう余生もそれほど残っていないのだから、もっと精進しなければならない。
                   (天保八年七月記す)

・・・

(4)【 6月16日 】 親の遺産なくても②

   千金(せんきん)のゆずりをうけてほどなく貧窮(ひんきゅう)にせまり、
   一銭のゆずりなき孤(みなしご)も富さかえぬるためし、
   古(いにしえ)も今も家毎(いえごと)にある事(こと)なれば、
   わが子に福分(ふくぶん)あらば、親のあとしきをとらずとも、
   さかえなん事(こと)うたがいなし。

                      (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   千金のゆずりをうけて、ほどなく貧乏になったり、
   一銭のゆずりのない孤児が富みさかえたという事例は、
   むかしも今も、家々にあることなので、

   わが子に福分さえあれば、親の遺産を相続しなくても、
   富みさかえることは間違いないのである。 

・・・

(5)《16日 あなたの悲しみを神の前に》

   光の中に「闇」をもって行けば、「闇」は必ず消えるのです。

   どんな「闇」でも消すことができる
   大いなる光が宇宙には充ち満ちでいるのです。

   それは物質の光ではありません。
   神の愛の光です。
   神の智慧の光です。

   目をつぶって眼の裏に神の愛の光と智慧とが
   満ちていることを心に描きましょう。

   悲しめる人々よ、そのあなたの悲しみを其の愛の光の中に投げ出して、
   その悲しみが神の愛の光の前に消えてしまう有様を心に描きなさい。

   そこから悲しみの消える道が見出されます。

   それには法然上人の臨終のときに称えられた
   「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨て」の言葉をとなえて
   神の光明が遍満していることを観じ、

   既にその遍照せる光明の中に摂取されて一切の悲しみは
   既に消えていることを心に念ずるが宜しい。

          *「真理」第9巻生活篇(P157~158)より

           <感謝合掌 令和3年6月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2021/06/17 (Thu) 20:57:28

(1)【 6月17日 】 小林正観うたしごよみ17日

   【楽道】


   感謝される。

   喜ばれる。

   それが一番の幸せ、
   一番の喜び。


   「他の存在から
    喜ばれる存在」
   になること、


   それが”魂”の
   (エクサピーコ)
   プログラム。

      (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274817440.html

・・・

(2)【 6月17日 】

   如何にささやかな事でもよい。

   とにかく人間は他人のために尽くすことによって、
   はじめて自他共に幸せとなる。

   これだけは確かです。

・・・

(3)【 6月17日 】 名も亦棄つべからず

   名は求むねからずと雖(いえど)も、亦(また)棄(す)つべからず。
   名を棄つれば斯(ここ)に実を棄つるなり。

   故に悲類(ひるい)に交(まじ)わりて以(もつ)て名を壊(やぶ)るべからず。
   非分(ひぶん)を犯して以て名を損(そん)すべからず。
   権豪(けんごう)に近づき以て名を貶(おと)すべからず。
   貨財に黷(けが)されて以て名を汚(けが)すべからず。

                     (言後録 ニニ〇)466

   【訳】

   名誉は無理に求めるべきものではないが、かといって、
   今持っている名誉をわざわざ棄てるべきでもない。
   名誉を棄てるということは、実を棄てることになるからである。

   そういうわけだから、行いの正しくない者たちと交わって、
   自分の名を汚してはいけない。
   本分に外れた行いをして、名を損じてはいけない。
   権勢の強い者に近づいて、名を落としてはいけない。
   金銭や財宝のよって節度を失って、名を傷つけはいけない。

・・・

(4)【 6月17日 】 わが子にも災い

   天道(てんどう)あきらかにましませば、まま子(こ)をそこなう報いにて
   かならずわが子(こ)災(わざわ)いにあう事、
   影(かげ)の形(かたち)にしたがうがごとし。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   天道は、明らかにおわしますので、まま子を傷つける報いによって、
   かならず自分の子がわざわいにあうこと、
   影がその人の形にしたがうようなものである。

・・・

(5)《17日 神の愛の前に懺悔しましょう》

   神は無限の大いなる光なのです。
   無限に大いなる光に照らされたならば、そんな闇でも
   消えてしまうのが当たり前なのです。

   あなたが何か間違いを演じたり、罪を犯したと思われるならば、
   あなたの眼の前に神の大いなる愛の光が充ち満ちている有様を
   心に描きなさい。

   そしてその過ちを神の前に懺悔なさい。
   心で一心に懺悔したら良いのです。
   人に懺悔するには及びません。

   ”神の愛の大いなる光”の前に懺悔するのです。

   淘宮術(とうきゅうじゅつ)では
   「大空(たいくう)に懺悔する」という語(ことば)があります。

   ”神の愛の大いなる光”と云うのも”大空(たいくう)”と云う
   のも同じような意味であります。

   大空(たいくう)には無限の浄化力があるのです。
   それは神の大愛の一つの象徴的あらわれであります。

   春秋(はるあき)の大掃除に、そんなに畳を叩いて埃を出しても
   いつの間にか大空(たいくう)は澄み切ってしまうでしょう。

   それと同じにあなたの罪も過ちも神の愛の前には
   消えるほか仕方がないのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P158)より

          <感謝合掌 令和3年6月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2021/06/18 (Fri) 19:42:18


(1)【 6月18日 】 小林正観うたしごよみ18日

   【種蒔き】


   「恨まず」
   「憎まず」
   「呪わず」の

   「う・に・の」誓い、


   「不平不満」
   「愚痴」
   「泣き言」
   「悪口」
   「文句」

   を言わない五戒。


   蒔かぬ種は生えない。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274818328.html

・・・

(2)【 6月18日 】

   天性資質にめぐまれた者は、
   二割五分前後を割いて他に奉仕すべし。

   これは本来東洋の伝統思想たる「恩」の思想に基づくものであるが、
   それをマルクスの搾取観を媒介として、
   現代的に甦らせた真理ともいえよう。

・・・

(3)【 6月18日 】 女性が四十歳になったら

   婦人の齢(よわい)四十も、亦(また)一生変化の時候と為(な)す。
   三十前後猶(な)お羞(しゅう)を含み、
   且(か)つ多く舅姑(きゅうこ)の上に在る有り。

   四十に至る比(ころ)、鉛華(えんか)漸(ようや)く褪(あ)せ、
   頗(すこぶ)る能(よ)く人事を料理す。
   因(よ)って或(ある)いは賢婦(けんぷ)の称を得るも、多く此の時候に在り。

   然(しか)れども又其の漸(ようや)く含羞(がんしゅう)を忘れ
   脩飾(しゅうしょく)する所無きを以て、則(すなわ)ち或いは機智を挟(さしはさ)み、
   淫妬(いんと)を縦(ほしいまま)にし、大いに婦徳を失うも、亦多く此の時候に在り。

   其の一成(せい)一敗(ぱい)の関すること、猶お男子五十の時候のごとし。
   預(あらかじ)め之が防(ぼう)を為すを知らざるべけんや。

                        (言後録 ニ四二)488

   【訳】

   女性の四十歳も、変化のある時期である。
   三十歳前後はまだ恥じらいがあり、上には、舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)がいる。

   ところが、四十ごろになると、化粧をする気持ちも褪(あ)せ、
   人の世話も上手になる。
   そのため、賢婦人といわれるのも、多くはこの時期である。

   一方で恥じらいがなくなり、容姿にも気を配らず、その場しのぎがうまくなり、
   身を持ち崩したりして、婦徳を大いに失しなってしまうのも、この時期に多い。

   婦徳が成るか成らないかは、男子の五十歳のころと同じようである。
   予(あらかじ)これを防ぐことを知らなければならない。

・・・

(4)【 6月18日 】 道ある人を師に

   かりそめにもあしき友(とも)にちなまざるようにおしえ、
   道(みち)ある人を師(し)と定(さだ)める事、
   慈善の第一義なり。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   けっして悪友と親しく交わらないように教えてあげ、
   りっぱな徳のある人を(人生の)師とさだめること、
   (これが)慈善のもっとも大事なものである。

・・・

(5)《18日 毎日あなたが失敗を繰り返す原因は?》

   或る婦人がありました。
   毎日毎日失敗と過ちを繰り返すのです。

   その原因を或る先生にたずねましたら、他(た)を攻撃する精神は自分自身を
   傷つけることになるのですから、他(た)の人の過ちと罪を全部赦して
   憎んだり怨んだりしないことにしなさいと教えてくれました。

   其の婦人は教えられた通りにすべての人を赦す神想観をいたしましたが、
   自分自身が毎日毎日繰り返す失敗と過ちとはやみませんでした。

   それで再びその先生にたずねました。

   その先生は首を傾けて考えましたが、
   「まだあなたは赦さない人があります」と言いました。

   「そんな筈はありません。私はもうすべての人を赦しました。
    誰ひとり憎んだり、恨んだりしている人はありません」
   と其の婦人は答えました。

   先生は
   「そんなことはありません。
    あなたはきっと一人の人を赦していません」と言いました。

   その一人の人とは誰でしょうか?

   その先生は
   「あなたが御自分が失敗や過ちをしたときに、ああ悪かったと思いますか」
   とたずねました。

   すると其の婦人は
   「私は”ああ悪かった、もう二度とこんな過ちをすまい”と決心するのです。
    それなのにどうしてまた過ちを繰り返すのでしょう。
   もう私は自分自身がイヤになってしまうのです」
   と答えました。

   すると先生は
   「何故(なぜ)あなたはあなた自身を赦さないのですか」
   と言いました。

   彼女は、
   「私自身を赦さないって」と意味がわからないらしく尋ね返しました。

   「そうです。あなたは貴方自身を憎んでいるのです。
    あなたは”自分自身がイヤになってしまう”と言われました。
    それが、あなたが”一人の人”即ち自分を赦していない証拠ですよ。
    それであなたは幾度でも自己処罰をして、幾度でも失敗を繰り返すのですよ」
   と先生は答えました。

          *「真理」第9巻生活篇(P159~160)より

           <感謝合掌 令和3年6月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2021/06/19 (Sat) 22:36:06


(1)【 6月19日 】 小林正観うたしごよみ19日

   【原点 ゼロライン】

   雨が当たり前。
   すると、
   晴れて嬉しい。


   思いどおりに
   ならなくて当たり前。
   すると、
   願いが叶って嬉しい。


   喜びを
   上乗せするだけの
   365日。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274819091.html

・・・

(2)【 6月19日 】

   たった一枚のハガキで、
   しかもたった一言のコトバで、
   人を慰めたり励ましたり出来るとしたら、
   世にこれほど意義あることは少ないであろう。

・・・

(3)【 6月19日 】 血気老少有り、志気老少無し ①

   血気(けっき)には老少有りて、志気(しき)には老少無し。
   老人の学を講ずるには、当(まさ)に益々志気を励まして、
   少壮の人に譲るべからざるべし。

                       (言後録 ニ四三)489

   【訳】

   身体から発する血気には老人と青年で違いがあるが、
   精神を源とする志気には老人も青年も違いはない。
   だから、老人が学問をしようと思えば、ますます志気を奮い立たせて、
   青少年や壮年に負けてはいけない。 

・・・

(4)【 6月19日 】 無欲の慈悲心

   みどり子(こ)を愛せざる母は人にあらず。
   みどり子を愛(あい)する心(こころ)は無欲(むよく)の慈悲(じひ)なり。

   無欲の慈悲心(じひしん)を仁(じん)と名づく。
   この仁は人人(にんにん)固有(こゆう)のものなれば、
   もとめる志(こころざ)しだにあれば、
   得(え)がたき道(みち)にあらず。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   おさなごを愛せない母は、人ではない。
   おさなどを愛する心は、無欲(むよく)の慈悲(じひ)である。

   (このような)無欲の慈悲心を、仁と名づける。
   この仁は、すべての人の固有するものなので、
   もとめるこころざしさえあるならば、
   得ることの難しいものではないのである。


    ○例話~張氏の妻は男子ひとりを生んで早世した。

        張氏は後妻の陳氏をむかえた。
        陳氏はしゅうとめによく孝行をつくし、
        まま子を愛することわが子よりまさっていた。

        このような陳氏の孝行、慈善の徳の報いによって、
        陳氏の生んだ子は聡明で、のちには中央政府の
        皇帝直属の高官にのぼりつめた。

・・・

(5)《19日 罪を赦すと云うことの本当の意味》

   先生の言葉は続きました。

   「パウロは我みずからを審(さば)かずと言ったでしょう。
    罪や過ちを赦すと云うことは、《こいつ》は悪い奴だけれども
    まあまあ咎めないで置いてやろうと云うことではないのです。

    これでは”罪の宣告”をして置いて
    刑の執行だけを猶予してやっているようなものです。
    それは”無罪の宣告”ではありません。

    本当に”赦す”と云うことは”無罪の宣告”をすると云うことです。

    ”現象にあらわれている罪の相(すがた)”を見る眼を一転して、
    それを見ないで、其の人に宿るところの善なる”神性”のみを見ることです。

    ”こいつは悪人だが赦してやろう”と云うのではなく、
    ”この人は神の子である。何処にも悪はない”と
    其の人の実相を見る事です。

    他(た)の人を赦す場合でも、自分自身を赦す場合でも同じことです。

    あなたは自分自身に宿る神性を礼拝せねばなりません。」

          *「真理」第9巻生活篇(P160~161)より

           <感謝合掌 令和3年6月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2021/06/20 (Sun) 23:25:13


(1)【 6月20日 】 小林正観うたしごよみ20日

   【遺産】

   肉体の死と存在の死。

   「存在」が
   語り継がれる間は、
   その人は死なない。

   「その人の存在」は
   笑顔など
   「与えたもの」に残る。

       (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274820271.html

・・・

(2)【 6月20日 】

   疲れると眠りますが、横になると躰がなまるので、
   机にもたれて眠ることにしています。

   先ず光線をさえぎる為に黒い絹布を頭にかぶり、
   格好は猫を手本にしてなるべく球形に近づくと、
   大てい五分くらいで眠りに入り、十五分前後で覚めて心気一新です。

・・・

(3)【 6月20日 】 血気老少有り、志気老少無し ②

   少壮(しょうそう)の人は春秋に富む。
   仮令(たとい)今日(こんにち)学ばずとも、
   猶(な)お来日(らいじつ)の償(つぐな)うべき有る容(べ)し。

   老人は則(すなわ)ち真(しん)に来日無し。
   尤(もっと)も当(まさ)に今日学ばずして来日有りと謂(い)うこと勿(なか)るべし。

   易に曰く、「日昃(かたむ)くの難(り)は、缶(ふ)を鼓(こ)して歌わざれば、
   則(すなわ)ち大耋(たいてつ)の嗟(なげき)あり」とは、此(これ)を謂うなり。

   偶々(たまたま)感ずる所有り。書して以て自(みずか)ら警(いまし)む。
   天保八年嘉平月朔録す

                         (言後録 ニ四三)489

   【訳】

   若い人たちはまだ先が長い。
   仮に今日学ばなくても、それを補う未来がある。
   しかし老人には、本当に補うべき日が残っていない。

   易経に「人生が終わりに近づこうとするとき、楽器を打ち鳴らして歌い楽しんでおかないと、
   いたずらに年をとってしまったという悔いだけが残ることになる。
   これこそ不幸である」とあるのは、これを意味している。

   たまたま思うところがあって、ここに書いて自らの戒めとするものである。
   (天保八年十二月記す)

・・・

(4)【 6月20日 】 他人という差別①

   よの人倫(じんりん)は躯殻(くかつ)の差別に迷いて、
   一体の理(ことわり)をわきまえず、
   姑(しゅうとめ)にあっては、他入なり、われにうとしと思(おも)い、
   まま子に対しては、他人(たにん)のうむ子(こ)なり、吾に親みなしと
   思える一念(いちねん)の私(わたし)、はや仁(じん)のかがみを
   くらますくもりとなる。

                   (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   世の人々は、肉体の差別に迷って、
   本来一体であるという道理をわきまえないため、
   しゅうとは他人であり、自分に打ち解けようとしないと思い込み、
   まま子にたいしては、他人の生んだ子であり、自分にとって親しみなどはない
   と思い込む一念の私心が、はや(おのれの)仁の心の鏡を
   くもらしてしまうのである。

・・・

(5)《20日 「悪」を合理化しても「善」にはならない》

   自分が間違いをしながら、自分は間違っていないと主張したり
   弁解することが、自分を赦すことではないのです。

   それは悪人がその「悪」を合理化しているに過ぎないのです。

   自分を本当に赦すと云うことは自己弁解や、
   悪の合理化をすることではないのです。

   自分の過ちや罪に就いて、本当の自分の完全さを蔽うている暗い陰と
   みとめて「本当に済みません」と云う気持ちにならなければなりません。

   ここまでは自分自身を咎める点に於いて、
   先刻の婦人と同じことであります。

   罪を消すのはこれから先のことです。

   その過ちや罪を自分の心でつかんでいつまでも自分を咎めているのでは
   「自己処罰」をすることになり、自己処罰の一形式として、
   再び其の失敗や過ちを繰り返すことになるのです。

   宇宙に輝き満つる神の大愛を神想観中に描いて其の光の中に、
   日光で消えて行く霜露(そうろ)の如く
   その過ちと罪とが消えて行くことを念じなさい。

          *「真理」第9巻生活篇(P161~162)より

           <感謝合掌 令和3年6月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2021/06/22 (Tue) 00:06:23


(1)【 6月21日 】 小林正観うたしごよみ21日

   【弘法大師の座右の銘】

   おのれの長を
   説くことなかれ、

           (自分の長所を自慢するな)

   他人の短を
   言うなかれ。

           (他人の短所を指摘するな)

   (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/274821761.html

・・・

(2)【 6月21日 】

   人は真に孤独に徹することによって、
   初めて心眼がひらけてくる。

   けだしそれによって相対観を脱するからである。

・・・

(3)【 6月21日 】 天和を養う

   放鬆(ほうしょう)任意(にんい)は固(もと)より不可なり。
   安排(あんばい)矯揉(きょうじゅう)も亦不可なり。
   唯(た)だ縦(じゅう)ならず束(そく)ならず。
   従容(しょうよう)として以て天和(てんわ)を養うは、即便(すなわ)ち敬なり。

                     (言後録 ニ四八)494

   【訳】

   締りなくわがままでいることは、もとよりよいことではない。
   しかし、加減して形だけ直すのも、またよいことではない。

   ただ、気ままにならず、束縛もせず、
   ゆったりと落ち着いた気分で自然のままの調和を養っていく。
   これを敬というのである。

・・・

(4)【 6月21日 】 他人という差別②

   一念(いちねん)の私(わたし)をはやくのぞき、
   仁性(じんせい)のかがみあきらかなれば、姑につかえてはかならず
   孝行、まま子を育てはかならず慈善(じぜん)なるものなり。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳}

   ふかく思い込む私心をはやくのぞき捨てて、
   仁の心の鏡がうつくしければ、しゅうとめに仕えてもかならず
   愛敬の心でせつし、まま子を育ててもかならず慈しみの心でせっするものである。 

・・・

(5)《21日 端坐して実相を観ぜよ》

   「懺悔せんと欲せば端坐して実相を観ぜよ、衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す」と
   『観普賢菩薩行法経』であります。

   懺悔とは罪を洗い清めると云う意味です。

   「端坐して実相を観ずる」とは端(ただ)しく坐って、本来罪なく過ちなき
   世界と人間の実相を観ずることです。

   即ち善一元、光一元、悪なく、暗(やみ)なき完全世界を観じて、
   一切の悪や罪や失敗を心の世界から放逐するのです。

   神の愛(又は仏の慈悲)が自分の全身を貫き満ち、
   一切の罪もなく、汚(けが)れもなく、影もなく、
   霊々妙々完全円満なる相(すがた)を観ずるのです。

   これが本当の懺悔であり、本当の神の赦しであります。

   この行事を自分自身に於いて行なえば自分自身の罪を赦すことになりますし、
   これを他(た)の人に対して観ずれば他(た)の人の罪を赦すことになるのです。

          *「真理」第9巻生活篇(P162~163)より

           <感謝合掌 令和3年6月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2021/06/23 (Wed) 01:01:32


(1)【 6月22日 】 小林正観うたしごよみ22日

   【大法則】

   宇宙の大法則。

   「投げかけたものが返ってくる」。

   投げかけなければ返らない。


   愛すれば愛される。
   愛さなければ愛されない。

   嫌えば嫌われる。
   嫌わなければ嫌われない。

      (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/275173521.html

・・・

(2)【 6月22日 】

   論語の「朋あり遠方より来る。亦楽しからずや」とは、
   現在では用のないのに同志のハガキが届くことではあるまいか。

   つまり、今日では、友の代りにハガキの来る場合の方が遥に多いわけです。

・・・

(3)【 6月22日 】 孟子の三楽①

   孟子の三楽、

   第一楽は親に事(つか)うるを説く。少年の時の事に似たり。

   第二の楽は己(おのれ)の成すを説く。中年の時に似たり。

   第三の楽は物を成すを説く。老年の時に似たり。

   余自ら顧(おも)うに、齢已に桑楡(そうゆ)なり。
   父母兄弟皆亡す。何の楽か之有らんと。

                       (言後録 ニ四四)490

   【訳】

   孟子は、君子の三つの楽しみを挙げている。

   第一の楽としては、親に仕えることを説いている。
   これは少年時代のことのようである。

   第二の楽としては、自己を完成させることを説いている。
   これは中年時代のことのようである。

   第三の楽としては、人物をの養成することを説いている。
   これは老年時代のことのようである。

   私は自らを顧みてこう思った。
   「自分は既に年をとってしまった。親兄弟はみんな没している。
    何の楽しみがあるだろうか」と。

・・・

(4)【 6月22日 】 万物一体の仁

   まま子と実子と、よめとわが子と、前妻の一門とわが一類と、
   他人のむすめとわがむすめと、皆一味に因心愛厚き事、
   いわゆる万物一体の仁なり。

                  (「鑑草』巻之五 慈残報)

   【訳]

   まま子と自分が生んだ子と、嫁と自分の子と、先妻の一族と自分の一族と、
   他人の娘と自分の娘とそれぞれに違っていても、すべて平等の仲間で恩愛あつきこと、
   いわゆる万物一体の仁なのである。 

・・・

(5)《22日 欲望を正しき方向へ》

   「欲望」はある意味では、仏教的に言えば「煩悩」であります。
   しかし人間の心の中に蒔かれたる「欲望」と云う種子(たね)は、
   それが正しい場所に蒔かれるとき「善」の実を結ぶのであります。

   たとえば「欲望」を「神の道を伝えよう」と云う方向へ播(ま)いたならば、
   それは多くの人々を救うことができるのです。
   煩悩即菩提です。


   これに反して「貪欲」と云う方向に種子(たね)を播(ま)いたら、
   それは無限の喝欲となって、自分自身は勿論、他(た)の人々をも
   傷つける結果となるのであります。

   愛情は人間の魂の中に成熟したところの善き種子(たね)です。

   しかしその愛情が正しい方向に注がれないで誤った方向に注がれるならば、
   これは争いと闘いとの因(たね)になるのであります。

   先ず愛情を神に注ぐことが正しい愛情の種播(ま)きであります。

   それが生長して育った種子(たね)を他(た)に播(ま)くとき
   千倍万倍の収穫があるのであります。

         *「真理」第9巻生活篇(P163~164)より

           <感謝合掌 令和3年6月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2021/06/23 (Wed) 19:55:22


(1)【 6月23日 】 小林正観うたしごよみ23日

   【展開】

   「なるほど」
   「そうね」で
   始まる会話、


   「でも」や
   「だって」で
   途切れる言葉。

      (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/275174503.html

・・・

(2)【 6月23日 】

   幸福とは、
   縁ある人々との人間関係を噛みしめて、
   それを深く味わうところに生ずる感謝の念に他なるまい。

・・・

(3)【 6月23日 】 孟子の三楽②

   但(た)だ自ら思察するに、我が身は即ち父母の遺体にして、
   兄弟(けいてい)も亦同一気になれば、
   則(すなわ)ち我れ今自ら養い自ら慎み、虧(か)かず辱(はずかし)めざるは、
   則ち以て親に事(つか)うるに当(あ)つべき歟(か)。

   英才を教育するに至りては、固(もと)より我が能(よ)くし易(やす)きに非ず。

   然(しか)れども亦以て己(おのれ)を尽くさざるべけんや。
   独(ひと)り怍(は)じず愧(は)じざるは、
   則ち止(た)だに中年の時の事なるのみにならず、

   而(しか)も少より老に至るまで、一生の受用なれば、当に慎みて之を守り、
   夙夜(しゅくや)諼(わす)れざるべし。
   是(か)の如くんば、則ち三楽皆以て終身の事と為すべし。

                       (言後録 ニ四四)490


   【訳】

   ただ、さらに深慮すれば、私の身体は父母の遺したものであり、
   兄弟もまた同じだから、私が今、自ら養い、自ら慎み、正しい行ないをして、
   人から辱(はずかし)めを受けなければ、それは親に仕えるということになろう。

   英才の教育は、もとより私が容易にできることではないが、

   精一杯尽力しなければならない。
   第二の楽の天地に恥じないとは、単に中年のときの問題ではなく、

   少年から老年に至るまで受け持ち用いるべきことで、慎んでこれを守り、
   朝から晩まで忘れてはならない。
   このようにみてくると、孟子の三楽は一生涯にわたってなさねばならないことである。
   こう考えると、孟子の三楽は皆、生涯かけてなすべきことである。 

・・・

(4)【 6月23日 】 人は万物の霊

   天地は万物の父母にして、人(ひと)は万物の霊なれば、
   人として人を愛するものを、天道(てんどう)のたすけ給う事、
   たとえば人の子をいつくしみぬれば、その父母恩にむくいるがごとし。

                  (「鑑草』巻之五 仁虐報)

   【訳]

   天地は、万物の父母(ふぼ)であり、人間はその万物のなかでもすぐれたものなので、
   人として人を愛するものを、天道の助けられること、
   たとえば人の子を大切にしてあげたならば、
   その子の父母が恩沢に報いるようなものである。

    ○天地は万物の父母にして人は万物の霊~「害経』周書・泰誓上篇

・・・

(5)《23日 人生は一種のゲームである》

   あなたの現象の心の花園には色々の美しい花咲く樹草も生(は)えていますが、
   その中には美しくない雑草もあれば、薬草も生(は)えています。

   現象界は一種の遊戯(ゲーム)の世界であって、実在ではないから、
   仮に雑草もあれば、毒草(どくそう)もあり、美しい草花もあれば、
   立派な果樹もあるように見せてあるのです。

   そして誰が、下らぬ雑草や毒草を出来るだけ実らせないで、
   よき草花とよき果樹を上手に育てるかの点数取り《ごっこ》をしているのです。

   それを遊びわける標準のゲージとして「実相」があるのです。

   実相の良い標準(ゲージ)に随って、雑草や、毒草を早く抜き取って、
   よき草花とよき果樹とを早くそだて上げたものが、
   より多く人生のゲームに於いて点数をとるのです。

   こうして、「実相」の既にある完全さを地上に実現するゲームが、
   現実人生であります。

          *「真理」第9巻生活篇(P164)より

           <感謝合掌 令和3年6月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2021/06/25 (Fri) 00:00:02


(1)【 6月24日 】 小林正観うたしごよみ24日

   【50%】

   皆が好意的なら
   うぬぼれてダメになる。

   皆が批判的なら
   萎縮してダメになる。


   自分を最も
   向上させてくれる、

   好意50%、

   批判50%。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/276306523.html

・・・

(2)【 6月24日 】

   人間は何人も自伝を書くべきである。

   それは二度とないこの世の「生」を恵まれた以上、
   自分が生涯たどった歩みのあらましを、
   血を伝えた子孫に書きのこす義務があるからである。

・・・

(3)【 6月24日 】 弁明黙識

   道理は弁明せざるべからず。
   而(しか)れども或いは声色(せいしき)を動かせば、
   則(すなわ)ち器(うつわ)の小なるを見る。
   道理は黙識(もくしき)せざるべからず。
   而(しかれど)も徒(いたず)らに光景を弄(ろう)すれば、
   則ち狂禅(きょうぜん)に入る。

                     (言後録 ニ四七)493

   【訳】

   物事の道理ははっきり弁別して明らかにしなければいけない。
   しかし、そのために大声を上げたり顔色を変えたりするのは、
   器の小ささを露呈することになる。

   物事の道理は心の内で会得しなければならない。
   しかし、いたずらに妄想を巡らしていると、
   わかりもしないのに悟ったような誤った禅に入ったようになる。

     *光景を弄(ろう)す~妄想をめぐらす 

・・・

(4)【 6月24日 】 仁虐の報い

   たとえば人の子をそこないぬれば、
   その父母(ふぼ)うらみをむくうがごとくなれば、
   仁虐(じんぎゃく)の報い、かげの形にしたがうごとくなる事、
   必然の理(ことわり)なり。

                  (「鑑草』巻之五 仁虐報)

   【訳]

   たとえば他人の子どもをいじめたり、傷つけたりすれば、
   その両親はうらみ晴らそうとするように、
   仁と虐との報いはあたかも影がその人をどこまでもつき従っていくごとくなるのは、
   必然の道理である。 
   
・・・

(5)《24日 人生のゲームに優勝しましょう》

   野球の試合でも卓球の試合でも、そのゲームにでる選手は、出来るだけ
   自分の動作がルールにかなった而(しか)も完全優秀な技となり
   採点の多くなることを願うでありましょう。

   人生のゲームの採点は、どれだけ実相の完全さを現象のゲームに
   実現い得たかのよって点数が決まるのです。

   そして此の世に生まれ出た人は、実相界から現象界のゲームに選手として
   選ばれて来たのであって、リーマニアから日本へ卓球選手としてやって来た
   位の軽い責任ではないのです。

   それなのに何故(なぜ)人々はもっと真面目に、真剣に、実相の模範に
   照らして其の生活を送って、実相の見地から採点多くなるように
   つとめないのでしょうか。

   ではそうずればよいのでしょう。

   「みこころの天になるが如く地(現象界)にも成らせ給え」と
   祈って神の叡智を身に受けて行動するがよいのであります。

          *「真理」第9巻生活篇(P165)より

           <感謝合掌 令和3年6月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2021/06/26 (Sat) 00:12:16


(1)【 6月25日 】 小林正観うたしごよみ25日

   【三つの不弁】


   自己の為に

   「弁解」せず、

   「弁明」せず、

   「弁護」せず。

      (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/276309945.html

・・・

(2)【 6月25日 】

   人間の生き方には何処かすさまじい趣がなくてはならぬ。
   一点に凝集して、まるで目つぶしでも喰らわすような趣がなくてはならぬ。

   人を教育するよりも、まず自分自身が、
   この二度とない人生を如何に生きるかが先決問題で、
   教育というのは、いわばそのおこぼれに過ぎない。

・・・

(3)【 6月25日 】 工夫忘るべからず

   酬酢紛紜中(しゅうさくふんうんちゅう)にも、
   提醒(ていせい)の工夫を忘る可(べ)からず。

                     (言後録 ニ四六)492

   【訳】

   ごたごたした仕事中でも、
   自分の本心を失わない工夫を忘れてはいけない。

    *酬酢~酒杯のやりとり、転じて応対のこと
    *提醒~本心を呼びさますこと。

・・・

(4)【 6月25日 】 すべて人の子

   生(いき)とし生(いけ)る人たれかその子を愛(あい)せざらん。
   奴(やっこ)どいえ共(ども)皆人の子なり。
   わが子そのくらいにあらば、わが心(こころ)しのぶべからず。

                 (「鑑草』巻之五 仁虐報)

   【訳]

   生きているすべての人で、だれがその子を愛していないであろうか。
   召使いといえども、すべて人の子である。
   自分の子がその立場にあったならば、耐えがたいことである。

・・・

(5)《25日 無限の可能性を発揮するには》

   あなたに神が宿っていると云うことは、可能性に於いては、
   あなたは無限の自由を持っていると云うことです。

   その可能性を如何様の程度までこの地上に於いて実現し得るかと
   云うことは、あなたがその程度に於いて、内在の神性を自覚しうるか、
   また自覚した神性を如何に実生活に行動化するかと云うことによって
   定まるのでです。

   あなたに無限の可能性があると云うことは、
   あなたの自覚と努力とによって如何なる制約をも超えて、
   力を発揮し得ると云うことであります。

   併し唯、無限性を自覚すると云うだけでは足りません。

   あなたがその無限性をどの方向へ使おうとせられえるかと
   云うことが問題なのです。

   若し利己的な方面に使おうとせられると、
   無限の力の根源である神とのつながりが
   絶縁されることになるのです。

   だから其の可能性を愛の方向に使わなければなりません。

          *「真理」第9巻生活篇(P165~166)より

           <感謝合掌 令和3年6月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2021/06/26 (Sat) 23:38:50


(1)【 6月26日 】 小林正観うたしごよみ26日

   【いつも】

   「いつも」の3原則。

   いつも考えていなさい。

   いつも良い仲間を持っていなさい。

   いつも実践しなさい。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/276312065.html

・・・

(2)【 6月26日 】

   人間はおっくがる心を刻々に切り捨てねばならぬ。
   そして歳をとるほどそれが凄まじくならねばなるまい。

・・・

(3)【 6月26日 】 神速

   胸次(きょうじ)虚明(きょめい)なれば、
   感応(かんのう)神速(しんそく)なり。

                     (言晩録 五)505

   【訳】

   胸の中が捉われるところがなく透明ならば、
   その感応のスピードは神の如く迅速である。 

・・・

(4)【 6月26日 】 万物一体の心

   万物一体の心、人人(にんにん)具足のものなれば、
   奴(やっこ)なり他人(たにん)なりとあなどりへだてる意念(いねん)なくば、
   たれも仁(じん)ならざるはあるまじ。

   よくみずからかえりみて仁をほどこさん事(こと)、
   その身の福(さいわ)いにあらずや。

                  (「鑑草』巻之五 仁虐報)

   【訳]

   万物一体という差別のない心は、すべての人にそなわっているものなので、
   召使いだから、他人だからとばかにし遠ざける考えの心がなければ、
   だれもが仁愛の心でないものはいない。

   しっかりと自分のおこないを反省して、仁愛の心で人とせっすることが、
   自分自身の幸福ではなかろうか。

・・・

(5)《26日 食べ物の霊的成分をのがしてはならない》

   私たちの頂く食物は唯(ただ)の物質の塊(かたまり)ではないのであります。
   物質的成分は分析したら分(わか)ります。

   けれども分析してもわからないところの不可知の成分が(霊的成分が)
   それには、神から与えられているのであって、単に物質的成分の見地から、
   ”此の食物には何々の栄養分が足らぬから”などと考えて不平の心を
   起こすときには、その霊的成分を吸収し得ずして、最も人間にとって
   必要な成分を逃(の)がしてしまうことになるのであります。

   お食事の最中に心配や不安や憎みや恐怖心を起さないで、
   なるべく食物が神から来た賜物(たまもの)であり、
   無限の生かす力がこの中に蔵(かく)されているので、

   ”今それを吸収させて頂いているのであり、ありがとうございます”

   と念じながらいただくのがよいのです。

   問題があって、心が落著(おちつ)かなければ食前に
   心が落著(おちつ)くまで祈ってからお喫(あが)りなさい。

          *「真理」第9巻生活篇(P166~167)より

           <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2021/06/27 (Sun) 23:43:24


(1)【 6月27日 】 小林正観うたしごよみ27日

   【自信作】

   人生は全て自分の設計。

   歩んだ道は
   すべてがベスト、
   ベストの選択。

   「回り道」も
   「無駄」もなく、
   「恨む相手」も
   存在しない自信作。

      (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/276319257.html

・・・

(2)【 6月27日 】

   「随所作主」とは、人はどんな境遇の中にあっても、
   リンリンとして生きてゆける人間になることでしょう。

・・・

(3)【 6月27日 】 王道と聖学

   学を為(な)すの緊要(きんよう)は、心の一字に在り。
   心を把(と)りて以て心を治む。之を聖学と謂う。

   政(まつりごと)を為すの著眼(ちゃくがん)は、情の一字に在り。
   情に循(したが)って以て情を治む。之を王道と謂う。

   王道・聖学は二に非ず。

                        (言晩録 一)501

   【訳】

   学問をする場合に最も大切なのは、心という一字にある。
   自分の心をしっかり把握して、心を高めていく。
   これを聖人の学問というのである。

   政治を行う場合に着目すべき大事な点は、情という一字にある。
   人情の機微に従って、人々を治めていく。これを王者の政道というのである。
   この王者の政道と聖人の学は一つであって、二つに分かれているのではない。
 
・・・

(4)【 6月27日 】 眼前の小利

   人(ひと)の不仁(ふじん)なるは、
   眼前の小利を貧(むさぼ)るより起(おこ)れり。

                  (「鑑草』巻之五 仁虐報)

   【訳]

   われわれの(胸のうちにある)仁愛の心が欠落するのは、
   目先のちいさな利益をむさぼるところから起こるのである。 

・・・

(5)《27日 食事のときの祈り》

   一口ひと口を

   「神様の食物、ありがとうございます」

   と感謝しつつ食べるのです。

   食事中に、悲観的なこと、憎んでいる人々の話、
   不快なことなどを思わないように、また語らないようにしましょう。

   一口づつ感謝することは練習しているうちに
   段々できるようになります。

   練習を積まないうちに、到底できないと悲観したり、
   失望して中絶してはなりません。

   せめて1週間試みて御覧なさい。
   屹度何らかの程度で結果が得られ、そして其の次も
   続けてやろうと云う勇気がでて来ます。

   食膳の祈りには、合掌して瞑目し、神想観のときのように、
   神の智慧と愛と生命(せいめい)と供給と喜悦(よろこび)と調和とが
   充ち満ちておることを念じ、

   「その生かす力が食物の形をとって
    自分に供給されるのであります。ありがとうございます」

   と念じてから

   食物を、神が料理人として自分に供給された愛と生命(せいめい)と
   癒やす力の結晶であると思って食するが宜しい。

          *「真理」第9巻生活篇(P167~168)より

           <感謝合掌 令和3年6月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2021/06/29 (Tue) 00:07:41


(1)【 6月28日 】 小林正観うたしごよみ28日

   【大富豪】

   人を見る目の優しさ、

   出てくる言葉の温かさ、

   周りをなごませる笑顔のやわらかさ。

   無限に有する
   あなたの財産。

   決して減らない
   あなたの財産。

     (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/277226563.html


・・・

(2)【 6月28日 】

   「一剣を侍して起つ」という境涯に到って人は初めて真に卓立して、
   絶対の主体が立つ。

   甘え心やもたれ心のある限り、
   とうていそこには到り得ない。

・・・

(3)【 6月28日 】 心は平らに、気は安らかに

   心は平(たいら)なるを要す。平なれば則ち定まる。
   気は易(い)なるを要す。易なれば則ち直(なお)し。

                     (言晩録 六)506

   【訳】

   心は穏やかで落ち着いていることが大切である。
   心が平安であれば、自然に心は治まる。
   同時に、気持ちは安定していることが大事である。
   気が安らかであれば、何事もまっすぐに行なわれる。

   『菜根譚』には
   「心和し気平らかなる者には百福自ら集る」とある。

・・・

(4)【 6月28日 】 万物一体の仁心①

   心(こころ)の本体(ほんたい)は
   万物一体の仁(じん)具(そな)わるものなれば、
   惑(まど)いなければ、したしみなき人(ひと)をも
   よく愛する理(ことわ)りあり。
   ましてあいよめと成(なり)小姑(こじゅうと)となりぬれば、
   骨肉(こつにく)同胞(どうほう)の親(したし)みあるをや。

                  (「鑑草』巻之六 淑睦報)

   【訳]

   心の本体は、万物一体の仁をそなわっているものなので、
   迷いがなければ、親しみのない人であっても、愛する道理がある。
   ましてや、あい嫁となり、小じゅうよめとなったならば、
   骨肉同胞の親しみあるのは当然のことである。


・・・

(5)《28日 言葉の暴力にお気をつけなさい》

   私たちは言葉の力を知らなければなりません。

   冗談にもせよ、あなたの耳にきこえた言葉は
   多少とも自分の潜在意識に印象されて言葉の意味するものを
   自分自身の肉体に、或(あるい)は其の身辺に実現しよう
   と云う力をもっているのです。

   それは最初は小さい力であってすらも、
   それが繰返し耳に入るとき大いなる力となって、
   その言葉の通りになるのです。

   ラジオのスポット広告にでて来る薬剤の広告などでも、
   「そんな馬鹿らしい誇大な広告にだまされるものか」と思っていても、
   多少自分の身体(からだ)に変調でも感じて来たときには、
   いつの間にか其の薬剤を買って服(の)んだりするのです。

   言葉の力は恐ろしい暴力となって私たちに無断侵入して来つつあるのです。

   ”言論の自由”だけが強調されて
   ”聞かない自由”が保護されていない憲法は改正されねばなりません。

          *「真理」第9巻生活篇(P168~169)より

           <感謝合掌 令和3年6月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2021/06/29 (Tue) 20:11:48


(1)【 6月29日 】 小林正観うたしごよみ29日

   【我慢】

   「我慢」の源は
   「我の慢心」。

   「我慢」(我の慢心)
   なければ
   「我慢」(忍耐・辛抱)
   なし。

   たいしたものでは
   ない自分。

    (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/277227562.html

・・・

(2)【 6月29日 】

   往相はやがて還相に転ぜねばならぬ。
   そして還相の極は施であり奉仕である。

・・・

(3)【 6月29日 】 克己復礼

   濁水(だくすい)も亦水なり。
   一たび澄めば則(すなわ)ち清水と為る。

   客気(かっき)も亦気なり。
   一たび転ずれば、正気(せいき)と為る。

   逐客(ちくかく)の工夫は、只(た)だ是(こ)れ克己(こっき)のみ。
   只だ是れ復礼(ふくれい)のみ。

                       (言晩録 一七)517

   【訳】

   濁った水でも、水に変わりはない。
   一度澄めば、清らかな水となる。

   カラ元気でも、気に変わりはない。
   一転すれば、至正至大な正気になる。

   カラ元気を追い払うには、ただ私欲に打ち克って、
   正しい礼にかえっていくのみである。

    〇孔子は「仁」を問うた顔淵(がんえん)に対して
    「克己復礼を仁となす」と教えている。 

・・・

(4)【 6月29日 】 万物一体の仁心②

   万物(ばんぶつ)一体(いったい)の仁心(じんしん)を明らかにし、
   人(ひと)はいかようにもあれ、吾(われ)は何の心(こころ)もなく、
   ひたすらに親)したし)み和(やわら)ぎぬれば、

   人も又岩木(いわき)ならざれば、
   感動するところありて、
   仁愛(じんあい)をもて我(われ)を親(したし)むものなり。

                  (「鑑草』巻之六 淑睦報)

   【訳]

   (だれにもそなわっている)万物一体の仁心を発揮して、
   相手がどのようであれ、自分は何の(こだわりの)心もなく、
   ただひたすらに親しみむつまじくせっすれば、

   その人もまた岩木ではないので、
   きっと感動するところがあって、
   仁愛の心でもって自分を親しんでくるものである。


   ○例話

    ~王覧の妻は兄嫁にむつまじく仕えた。
    しゅうとめ朱氏のために、兄の王祥はまま子で、
    弟の王覧はじつの子ゆえに、王祥の妻にはつれなくあたった。

    王覧の妻はそれをうれい、いつも王祥の妻をかばいともに嘆き悲しんだ。

    朱氏はいつとなく心やわらぎ、二人の嫁にひとしく情け深くせつし、
    家内和楽して富貴その家を離れることはなかった。 

・・・

(5)《29日 積極的な言葉で自己を強化なさい》

   耳にきこえる言葉は暗示となって、無意識の内に私たちの行動を左右します。
   その言葉はラジオや学校の先生の言葉だけではなく、自分自身が冗談に言った
   言葉でも同じような実現力をもっているのです。

   「そんな立派な事は、私などには迚(とて)もできません」と云うような言葉でも、
   それは謙遜のつもりで言われるのであっても、あなた自身から
   立派な事をする力を徐々に奪いつつあるのである。

   「わたしは生まれつき虚弱な体質でしてね」などと云う語(ことば)も
   あなたの体質を弱体化します。

   そんな悲観的な言葉を弄(ろう)するかわりに、
   「人間は神の子だから自分はやろうと思ったらできない事は一つもない」とか、

   「人間は肉体でないから虚弱などと云うことはない、
    若し遺伝と云うものがあるのなら、
    私は神から無限の健康を遺伝しているのだ」

   と云う積極的な言葉を使うように心掛ければ、やがて言葉の力によって
   其の通りになるのであります。

          *「真理」第9巻生活篇(P169~170)より

           <感謝合掌 令和3年6月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2021/06/30 (Wed) 21:21:43


(1)【 6月30日 】 小林正観うたしごよみ30日

   【孫子の兵法】

   百戦百勝は、
   最善なるものに
   あらず。

   なぜ百回も
   戦うのか、と、
   孫子。

   賢い武将は
   「一度も戦わない」。

   (http://kobayasiseikansan.seesaa.net/article/277230134.html

・・・

(2)【 6月30日 】

    小川村を訪ふ

   老藤の 垂りにたりたる 下をゆく いささ流れも 清らかにして

   苔むせる 御墓の前に彳みて 碑の古文字を 見つつをろがむ

      (江州小川村は中江藤樹先生の生誕の地)

・・・

(3)【 6月30日 】 一燈を頼め

   一燈を提(さ)げて暗夜を行く。
   暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ。
   只(た)だ一燈を頼め。

                     (言晩録 一三)513

   【訳】

   手元に一つの提灯(ちょうちん)をさげて暗い夜道を行くならば、
   暗夜を心配することはない。
   ただその一つの提灯を頼りにして前進すればいいのだ。

    〇釈尊はその死期に際して
     「自ら燈明となれ、法(真理)を燈明とせよ」
     と阿難に教えている。

・・・

(4)【 6月30日 】 隠れた一体の仁

   世間(せけん)に淑睦(しゅくぼく)の人まれなるは、
   兄弟(きょうだい)は天属(てんぞく)なれば互に意念なし、

   あによめ小(こ)じゅうとめは人合なるによって、互(たがい)に他人(たにん)なり、
   心(こころ)ゆるすべからずと思える意念)いねん)、むねに塞(ふさ)がる上(うえ)に、

   互(たがい)に才(さい)を争い容儀(ようぎ)を争い利(り)を争う
   我満(がまん)邪欲(じゃよく)まじわるによって、一体の仁(じん)おおいかくれて、
   互(たがい)にそねみ争う心根(こころね)あり。

                  (「鑑草』巻之六 淑睦報)

   【訳]

   世間にしとやかで、むつまじい心のある人がまれなのは、
   兄弟は(血の分けた)天属なのでたがいに意念はないが、

   あに嫁と小じゅうとめとは人合ゆえに、
   たがいに他人であり、心を許してはならないと思う意念が、
   胸に詰まるうえに、

   たがいに才知をあらそい、容儀をあらそい、利益をあらそう
   我満とよこしまな私欲が入りみだれて、(万物)一体の仁がおおい隠れて、
   たがいにねたみあらそう心根があらわれるのである。 

・・・

(5)言(ことば)が万事の本

   「太初(はじめ)に言(ことば)あり、
    言(ことば)は神なりき、万(よろず)のものこれによりて成る」と
   「ヨハネ伝」の冒頭にあるとおり、言(ことば)が万事の本である。

   言(ことば)というのは空気の振動ばかりのことではない。
   心の振動も、顔の皮膚の振動も、身体(からだ)の態度も、文章も、
   手紙もすべてコトバである。

   しかし根本的には心の振動が、言語(げんご)という空気の振動ともなり、
   表情という皮膚の振動ともなる。

   見ゆる形は、見えない心的エネルギーが現れたのである。

   心を平和に、言葉に善きことのみを発し、表情を明るくすることが大切である。

         *『生命の實相(幸福篇上)』(P122)より

           <感謝合掌 令和3年6月30日 頓首再拝>

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