伝統板・第二

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神示とは ④ - 伝統

2021/05/06 (Thu) 04:57:21

【新天新地の神示】(昭和六年五月六日 神示)

見よ、われ既に天地を新たならしめたのである。
人々よ、眼の蔽ひをとれ、われは新しき智慧である。
新しき生命である。新しき宇宙である。新しき光明である。

われ臨(きた)つて此の世界は既に變貌したのである。
既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚(しゅうお)は滅し、病ひは癒え、
悲しみは慰められ、苦しみは柔らげられた。

神祕を見て人々よ、目覺めよ、覺めてわが新しき光に照らして存在の眞實を見よ。
われは存在の實相を照らし出す完成(ななつ)の燈臺に燈(ひ)を點ずるものである。

悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。
汝の悲しみは喜びに變るであろう。

病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命(せいめい)を受けよ。
われを拒(こば)むな。

われを信ぜざる者は已(や)むを得ぬ。
われを信ずる者は黙坐してわれを念じ、われに依り頼れ。
われ汝等に「神想觀」 と云ふ觀行を教へたれば、それを爲せ。

われに汲むものは常に新しき力に涸(か)れないであろう。
吾を呼ぶ者のもとに吾は常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを輕からしめる。

なんぢ一人なれば吾を念じて吾とともに二人なりと思へ。
なんぢら二人ならば、われを念じて吾と倶(とも)に三人なりと思へ。

惱める者よ、わが言葉を讀めば苦しめる魂も輕くなり、悲しめる魂も慰めを得ん。

そはわれは限りなき大愛であるからである。
汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。

信ぜぬ者、呼ばぬ者は、不憫(ふびん)であるが助けやうがないのである。
汝の心の疑(うたがい)がわが救ひの波長に合はないからである。

遠くにゐて救はれてゐる者もあるが、近くにゐても救はれぬ人もある。
仕方のないことであるが不憫である。

もつと兄弟たちに『生長の家』を傳へよ。
神の愛は貰ひ切りではならぬ。
頂いたお蔭を『私』しないで、神の人類光明化運動に協力せよ。

『生長の家の神』と仮りに呼ばしてあるが、『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好い。

七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命(せいめい)を得るのだ。
わが教へはどんな宗派をも排斥するやうな狭い宗教ではない。
教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。

(昭和六年五月六日神示)

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神示とは」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7028479

(2)伝統板・第二「神示とは ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7789782

(3)伝統板・第二「神示とは ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7950571

           <感謝合掌 令和3年5月6日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/10 (Mon) 02:50:24


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(1)宗教の本質は何であるか

  ①自分とは如何なるものか、それを明らかにする所の教えが宗教であります。
   汝自らを知るという事が宗教であります。

  ②「人間というものは、そういう物質の塊ではないのだ」という事を自覚して、
   人間自らは如何なるものであるかという人間の実相を知る事が宗教である訳です。

  ③人間は肉体ではない、久遠の生命であるという事を自覚せしめるのが、
   宗教である訳であります。

   だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるという事を
   自覚する教えが宗教である、という訳であります。

(2)「七つの燈台」の意味するもの

  ①「七つの燈台」という言葉は、『黙示録』第一章にあります。

  ②「吾はαなりωなり、最先なり最後なり、生と死との鍵をもてり」
   とこう言われたところの白髪の老翁は、生長の家の神様であって、
   「七つの燈台に燈を点ずる者」でありたまうのであります。
   キリスト教的に言えば、「久遠のキリスト」であります。

  ③「本当のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終りなく、
   宇宙に充ちている所の真理そのものである訳なのです。

   その真理そのものは久遠不滅であるから、
   初めであり終りであり、永遠に不滅である、
   というので白髪の老翁の長寿の姿をもって人格化して出て来られている
   ――こういうことになっているわけであります。

           <感謝合掌 令和3年5月10日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/11 (Tue) 04:58:26


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(3)内にやどるキリスト

  ①パウロは、「も早われ生くるにあらず、キリスト我れにあって生くるなり」
   と言っておりますが、この自覚が「新たに生れる」生れ更りであります。
   肉体の自覚からキリストの自覚に新たに生れるのです。

  ②皆さんは、「汝自らを知れ」というソクラテスの言葉を、
   深い意味に於いて如実に知ってですね、

   「自分というものは神の生命なんだ。最早われ生くるに非ず、
   キリスト我にあって生くるなり」と自覚するんですね。

   これを忘れるから不可(いか)んのですよ。

  ③「人間は神の子である」という事が判りますと、
   人それぞれに「神の子」である実相があらわれて来るのです。
   実相は神の子で完全ですから、その完全さが出て来るのです。

           <感謝合掌 令和3年5月11日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/12 (Wed) 03:58:56


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋


(4)七つの燈台に燈を点ずる者

  ①燈台というのは、世を照らす光であって、
   世の光となる宗教の象徴であります。

  ②生長の家は、凡ゆる宗教に真理の光を点ずるのです。
   その代りにその各々の宗教が光を放って人類を救ってくれたら
   もうそれで宜しいのです。

  ③生長の家は一宗一派ではない、あらゆる宗教は、
   宇宙唯一の救いの本尊からあらわれた七色の放射光線みたいなもので、
   その色は各々異なるけれども、皆それぞれの宗教に救いがあることがわかる。
  
(5)神示に、
   「見よ、吾れ既に天地を新たならしめたのである。人々よ、眼の覆いをとれ。」
   とあります。

   現在既に、新たなる天地があるというのであります。
   そして、心の眼をひらいて神様の智慧を戴き、生命を目覚めさせて、
   既に今此処にある天国浄土を見ればよいのであります。

(6)神示に、
   「われは新しき智慧である。新しき生命である。
   新しき宇宙である。新しき光明である。」
   とあります。

   神様そのものが宇宙なのです。

   「既にある新しき世界」が、既に常住の天国浄土として、存在しているけれども、
   今まで眼の覆いがしてあって、その存在に気がつかなかったのです。

(7)神示に、「吾れ臨(きた)って此の世界は変貌したのである」とあります。

   七つの燈台に燈を点じて、無明の暗黒を消してしまわれたら、
   この世界の相が変って、至美至妙の"善き世界"が現れて来るのであります。

   それで、その"善き世界"が忽然とあらわれて来るのが、恰も神秘的に奇蹟的に
   見えるのであります。

(8)神示に、

   「既に信ずる者の暗黒は消え、醜汚は滅し、病は癒え、悲しみは慰められ、
   苦しみは柔らげられた。神秘を見て人々よ、目覚めよ。」とあります。

   この無明の暗幕が取り去られた結果、
   信徒や誌友たちに色々の奇蹟みたいな体験があらわれて来るのです。
   神秘というのは、人間智慧では分からぬような不可思議な現象であります。

   そういう神秘が現れて来るから、
   それを見て先ず心の眼を覚ませと仰せられているのです。

(9)神示に、

   「悲しみに泣き濡れた人々よ。いま眼を上げて吾が光を受けよ。汝の悲しみは
   喜びに変わるであろう。病める者よ、いま病の床より起ちて、わが生命を受けよ。
   われを拒むな。」とあります。

   私たちは悲しみに泣き濡れる必要はないのです。
   ただ眼をあげて、神の光を見れば、喜びに変わるのです。

   既に人間の実相は、自性円満であって、
   既に完全にまんまるく欠くる所がないのです。

           <感謝合掌 令和3年5月12日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/13 (Thu) 04:55:42


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(10)神想観をすることが大切であるのです。

  ①皆さんのうちにキリストが宿っている。
   これをキリスト教的に言えば、「内在のキリスト」である。

   しかしそれに気が付かなかったり、
   気が付いていても呼ばなかったら駄目なのであります。

   呼ぶことが必要であります。それが神想観です。

  ②尤も簡単な神想観は、「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」
   という言葉を眼をつむって、精神を統一しながらジーッと念ずるがよいのです。

  ③自分の内から、内在の神を呼び出す歌が、招神歌であります。

           <感謝合掌 令和3年5月13日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/14 (Fri) 05:05:26


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋

(11)皆さんが子供を善くするには

  ①先ず、自分の子供を「神の子」として、その完全さを信ずる事が必要であります。
   また子供は、親の型に嵌めて縛ろうと思うといけません。
   こうしなければいかんと子供を縛るといかんのです。

   しかし、放任してもいかんのであります。

  ②子供を信じてその実相の完全さを信じて、それを観ることが必要であります。
   「観る」ことは「あらわす」ことでありますから、
   観れば観られた通りに現れるのであります。

  ③子供は余り放任するのもいけませんし、縛るのもいけません。
   縛らずに、実相の完全さを信じて、その完全さをじーっと観る、という事ですね。
   これが子供をよくする上に大切なことであります。

           <感謝合掌 令和3年5月14日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義⑥ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/15 (Sat) 04:59:29


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋


(12)人類光明化ということ

  ①神示に、「神の人類光明化運動」と、
   こう書かれていることを看過してはなりません。

  ②この真理で救われた人は勿論、この真理に共鳴する人は、
   この運動(神の人類光明化運動)に協力しなければならないと思うのであります。

(13)運動の拡大につれて

  ①すべての積極的運動というものには、その運動が拡大するにつれ、
   どうしても費用が拡大して来るのであります。

  ②(はじめの頃)私だけの費用だけで弘めていたのですが、
   それでは、宣布の拡大力が減少して、早くひろく人類に普及することが
   できないから、皆と協力してやろうというので、
   「人類光明化のパテントは、皆さんに譲った」という事にしたのであります。

   皆さんも人類光明化に要する費用の幾分を負担して頂くことになったのであります。

  ③人類光明化運動に参加せられた株主たる聖使命菩薩に対しましては、
   もっと素晴らしい功徳が循環して返って来るのであります。
   最近までは私が主として功徳を積んでいたのですが、
   皆さんがそれを分担されることによって、その功徳が、皆さんにも及ぶのです。

   そこにも、幸福のための黄金律「与えよさらば与えられん」が真実であります。

  ④今までは、「私の人類光明化運動」だったのが、今後は皆さんの出資と力に於いて
   人類が光明化されてゆくのですから、救われた人のその功徳というものが、
   皆さんの子々孫々に報いとして伝わります。

   これは天に積まれたる処の配当金でありまして、銀行に預けた遺産のように、
   遺産相続ごとに減って行くようなものではありません。
   それは皆さんのそして皆さんの子々孫々の魂の上に善根功徳として
   蓄えられるのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月15日 頓首再拝>

【新天新地の神示】講義⑦ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/17 (Mon) 02:17:25


        *「『神ひとに語り給う』神示講義 
          教えの巻《新天新地の神示》」より抜粋


(14)神示の最後の部分に、
   「七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。
   わが教へはどんな宗派をも排斥するような狭い宗教ではない。
   教への太宗(もと)であるから宗教と云ふのである。」とあります。

  ①七つは「完成」の数で、すべてを表すのであります。
   「燈台」というのは、「世を照らす光」即ち宗教であります。
   「七つの燈台」で「すべての世を照らす光となる宗教」という意味であり、
   智慧の光によって、迷いの闇を消してしまうところの教えであるということであります。

  ②イスラエルっていうのは、五十鈴の川の流れという意味であります。
   「いすす」というのは、五十(いす)の鈴の音、
   即ちアイウエオ・アカサタナ・ハマヤラワ‐‐の五十音によって、
   全ての言葉のヒビキが代表されますが、

   神はコトバであり、五十音の展開が万物であり、その万物が「統(す)」によって
   統一せられる、それを五十鈴というのであります。

  ③伊勢の大神宮には、宇宙の万物を統一する天照大神をお祀りしてあります。
   そこから五十鈴の流れ、五十音の言葉の流れが展開して、
   万物が成る(鳴る)のであります。

   そこには鈴の言霊(ことたま)が五十音ある。
   その五十を統べるスの音が鈴(スス)であります。

   ここから五十鈴(イスス)の川の流れが出て十二に分かれ、
   そしてこれがすべての諸国の民族の本源となったというのであります。
   だから、イスラエルの十二の支流(わかれ)というのは、五十鈴の流れから発して、
   世界各民族となったすべての人類という意味です。

・・・

<関連>
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
[928] 【新天新地の神示】 by 輪読会さま
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/&mode=res&log=140

           <感謝合掌 令和3年5月17日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】 (五月二十七日神示) - 伝統

2021/05/27 (Thu) 04:58:42


『生長の家』の因縁を書き置く。
『生長の家』とは人間が附けた名ではない。
神がつけさせたのである。

『生長の家』とはタカアマハラのことである。

|(たて)に無限に生(の)びることを『生(せい)』と言ひ、
一(よこ)に無限に長(の)びることを『長(ちょう)』と言ひ、
|(たて)と―(よこ)とが十字に交叉した中心を
息叉(いへ)(家<いへ>)と言ふ、

|(たて)の生命(せいめい)と―(よこ)の生命とが
交叉した中心が『家(イヘ)』である。

イヘの《ヘ》は交叉の形を象徴(かたちど)つたものである。
家(いへ)のことを巣と言ひ、住むと言ふ。
住むと云ふのは中心に集まることである。

一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによつて澄む
即ち淨められるのである。
中心のないものは統一がないので、雑然として言噪(ことさわ)ぐのである。

今の國際連盟を見るが好い、中心が無しに
いつまで論爭(ことあげ)して見たところで、善きことは生れぬ。

論争(ことあげ)したすべての國が一つの中心にあつまりて、
統一せられねば全世界は一つの『家』にならぬのである。

久遠天上の『生長の家(たかあまはら)』が地上に顯現して全世界が
『生長の家(せいちょうのいえ)』にならねば永遠理想世界は地上に來ぬ。

《久遠天上》とは地に対する《天》ではない。
實相世界のことである。

イエス・キリストも『み心の天に成るが如く地にも成らせ給へ』と祈つたが、
實相世界では既にひとつの極身(きみ)に統一せられて、
常樂の淨土となつてゐるのである。

地上にも實相世界が形を顯(うつ)して
天國が地上に天降つてくる時期が近づいたが、

今の世界は下照姫(したてるひめ)に心を迷はせてゐて
下照姫の言ひなり通りになつてゐるから、

その迷ひの自壞作用として、地上全体が
『生長の家(たかあまはら)』になるまでにまだまだ
色々な難問題が起つて來る。

皇典にある下照姫と云ふのは地鑛の下で光つてゐる金(きん)のことである。

全世界が一つの『生長の家(せいちょうのいえ)』となり、
實相の世界の『生長の家(せいちょうのいえ)』が地上に顯(うつ)つて來る時には
是非とも此の世界も一つの中心に統一せらねばならぬ。

|(たて)と一(よこ)との十字の中心は
”光の放射”を象徴(かたど)つたものであつて
その中心を『光(ひ)の本(もと)』と言ふのである。

日本(ひのもと)は光(ひ)の中心(もと)である。
十字架の中心ユダヤにあると思つてゐたら大なる間違ひである。

十字架の中心は日の本にあり
キリストの本地(ほんじ)も日本(ひのもと)にある。

十字架の放射光線が皇統連綿の國であると云ふことが
何人にも判つて來なければ此の世は治らぬ。

久遠皇統連綿と云ふことは偶然になることではない。

形の世界が心の世界の影であることが解り、
實相世界が久遠常住の世界であると云ふことが判れば

久遠皇統連綿と云ふことは
實相世界の久遠常住性が最も迷ひの念なしに形に顯れたのが
日本國だと云ふことが解るのである。

興廃常なき世界の國々は常住性のない迷ひが影をあらはしたのであるから、
生滅常なきは當然である。

今の世界で實相世界の常住性を形に顯(うつ)し出してゐるのは
たゞ日本の國ばかりである。

生滅常なき現實世界が變じて久遠實相世界の常住性を顯現するには、
常住性ある國がひろがりて常住性なき國を包みて、十六方位の世界を
一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬのである。

十六菊と云ふのは光が十六方位にひろがりて、
十六方位の國ことごとくを中心に統一せる
ことを象徴(かたちど)つたものである。

十六の數は一と六と合はせて《七つ》を意味し、
《全て》を意味し、七つの燈臺が十六方位の中央に輝きて
十六方位の國ことごとくが一つの生長(みずほ)の家(くに)となると、

そこに久遠實相の高天原が形に顯現して
常樂の國土が地上に涌出(ようしゅつ)する。
太陽はまだ昇り始めたばかりである。

生長の家を、高天原と假名附けさせたり、
生長(みずほ)の家(くに)と假名附けさせたが、

高天原(たかあまはら)── 瑞穂の國 ── 生長の家(せいちょうのいえ)──
この三つは三位にして一體である。

『生長の家』とは『長生(ながいき)の家』、『無量壽の家』、
即ち『不滅の家』であって、
實相生命の不滅の相(すがた)が家系となつて連綿と続く家である、
日本に於ては國と家とは一体である。

全世界もまた家と國とが一体である事を教へたのがイエス・キリストであつて、
そのために彼は人間同士を兄弟と呼ばせたのである。

併し兄弟があるばかりで兄弟相爭つては家は治まらぬのである。

兄弟があり、家長があり、其処に統一があつて始めて此の世が淨(きよ)まつて
生長の家となり、不滅の家となるのである。

家と云ふのは生命(せいめい)が中心に交叉し集まることを意味すると教へたが、
國と云ふものも交叉する意味のクミ(組<くみ>)から來た語である。

今の國々は皆形がクミ合つてゐるだけで、
中心の生命(せいめい)(息<いき>)が一つに統一してゐぬから
”國即家”の實が挙がつてゐぬのである。

一つの中心にすべてが統一せられて、萬民その天分に応じて其の堵(と)に安んじ、
需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶやうに、
全体の細胞へ各々適當な資料を、適當な分量だけ過不及なく與へるやうになったとき、
《國》は即ち《家》となり始めて本当の”國家”となるのである。

かくの如き國家にては凡てのものが瑞々しく穂(ひい)で、
その國家は『瑞穂の國』であると同時に『生長(せいちょう)の家(いへ)』であり、
久遠實相の生長の家(たかあまはら)の地上的顯現であるから、
高天原と、瑞穂の國と、生長の家とは三位にして一體であると言ふのである。

高天原の『高』とは|(たて)に無限性を示し、『原』は一(よこ)に無限性を示し、
『天(あま)』は|(たて)一(よこ)陽陰相交叉して運行する結果、
至大天球と成ることを示したのであり、

一一(てんち)の間に『人(ひと)』の生まれ出でたる象(かたち)が
『天(あま)』であり顯圓(あま)である。

天地の間に生れ出でたた本當の人間はいづれも日月(かみ)の子(こ)であり
顯圓(あま)であるから完全圓滿なものである。

天津日嗣の御子と言ふのはその完全圓滿さが
何の迷ひにも隠される事なく明らかであるから
生命の實相の久遠常住性が形に其のまま顯(うつ)し出されて
連綿と無窮につづいてゐるのである。

全世界が『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつたら
各人の家系もまた連綿につづくやうになるのである。

家が中途で絶えるのはその家が迷ひに捉はれて
『生長(せいちょう)の家(いへ)』になつてゐないからである。

                  (昭和七年五月二十七日神示)

           <感謝合掌 令和3年5月27日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/28 (Fri) 05:08:20


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋

(1)久遠天上とは地に対する天ではない。
   実相世界のことである。

(2)「久遠天上の生長の家」というのは、
   キリストの”主の祈り”にあるところの

   「みこころの天になるが如く地にもならせ給え」の
   ”天(てん)上の生長の家であり、
   その”天”とは「理念の世界」なのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月28日 頓首再拝> 

【“心の法則”と“平和への道”の神示】 (五月三十日神示) - 伝統

2021/05/30 (Sun) 04:47:56


吾が來れるは古へ誤れる道徳観念を修正し、
新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。

『治にゐて亂を忘れず』と云ふのが古き人類の道徳であつたが、
『生長の家』の生き方は亂にゐて治を忘れざる生活である。

亂を忘れざる者はつひに亂に逢ふ。
亂を忘れざるが故に常に恐怖し、亂を忘れざるが故に武備をたくはへ、
武備を蓄ふるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、
近隣また恐怖して武備を増す。

かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自國は更に兵を加へて互に虎視眈々として
近隣相睥睨す。武備に國費を要し、教育費は削られ、俸給は縮められ、民に正色なく、
國に寧日なきは當然である。

汝ら、若し治にゐて亂を忘れざらばつひに亂に會ひ、
亂にゐて治を忘れざらば平和に逢はん。
亂を忘れざるを教へたる古き教も吾前には愚かなる者なるかな。

治にゐて亂を忘れざる者は健康にゐて病ひを忘れざる者である。
健康にゐて病ひを忘れざる者は、如何なる善行の者も、如何なる積德の者も、
すべては病ひに逢わん。

忘れずと云ふことは、心の力にて呼び寄せることを意味する。

求めよ、與へられん。呼べよ、答へんと吾れ汝に告げたであらう。
呼ぶものは皆來ることを疑ふな。

高德の人が病氣になるのは實に不思議だと思ふ人があるかも知れぬが、
治にゐて亂を忘れざるを高德と稱すべくんば、健康にゐて病ひを忘れざる高德者が、
病氣になつたとて不思議ではないのである。

吾れは汝に、死を豫想するなと言ひ、遺言状を書くなと教へたることがあらう。
また、不幸に對して用意すな、病氣の起る時の用意をして藥をて携へ歩むなと
教へたことがあらう。

すべて是れ『心の法則』である。
如何なる高德の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。

汝ら心して亂を思ふこと勿れ、心して病ひを思ふこと勿れ、
亂の眞つただ中にゐてすらも、實相の世界の常住平和を思へ。
汝ら眞に實相世界の平和を思へば、汝の世界にも平和は來たるのである。

また汝ら病ひの眞つただ中にゐてすらも、本當の汝の常住健康を思へ。
汝ら眞に實在の汝の健康を念へば健康は來たるのである。

されど悲しいかな。
いま實在世界の常住平和を知るものは 寥々なる暁天の星であるぞ。
いま皆のものは一刻と雖も亂を思はない時とてない。
逆の精神波動が積り積つて、汝ら世界はもう累卵の危ぶさである。

近いうちに汝らの世界には一大変動が來るであらう。迷ひの自壊作用である。
○○は○○○と戦はねばならぬ。
神はその時の惨害を出來るだけ少なくするやうに努力してゐるが、
人間の方でもその惨害を出來るだけ少なくするやうに協力するやう頼む。

協力と云ふも何も難しいことではない。
亂の中にゐても心の平和を失はぬ修行をすることである。
そのためには常々神想觀の修行をさしてある。

(昭和六年五月三十日夜神示)

           <感謝合掌 令和3年5月30日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/05/31 (Mon) 05:03:06


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋

(3)今の時代は、物質的な利害関係に人類の心が支配されているものですから、
   地上に実相世界に既に存する構図のように

   「一つの極身(きみ)に統一された、常楽の浄土」

   とは中々成らないのであります。

   まことに残念なことなのであります。

   主権国家が沢山あり、それぞれが軍備をもっていて、
   既得権をを主張する限りに於いては、永久平和の世界・常楽の浄土などは
   地上に実現することは望み薄であります。

(4)各国がそれぞれ主権をもちながら、世界連邦政府の統一主権を尊重し、
   中心帰一の世界が実現するまではどうも永久平和の世界は出来上がる
   見込みは薄いのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月31日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/03 (Thu) 05:00:04


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋


(5)実相世界にある高天原 ―― 天国 ―― 浄土が地上に顕(うつ)って
   来るときには、天上の中心帰一が地上に反映して、世界連邦中央主権に
   中心帰一する世界が実現しなければならないのであります。

(6)”日の本”は”光の本”であり、それは実相世界にあるのであって、
   イエスが「吾国(わがくに)は此の世の国にあらず」と言われた
   久遠天上の世界であり、その久遠天上の世界は実相世界であります。

(7)実相世界の秩序なる”永久変わらざる中心に帰一されたる状態”が
   最も完全にあらわれている国を地上に求むれば、日本国しかないのであります。

   日本国は実相世界の「光(ひかり)の本」が最も完全にあらわれている国
   であるから、 実相世界の「光(ひ)の本」現象化して「日の本」となり
   「日本」となっているのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月3日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/04 (Fri) 04:50:16


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋

(8)この世界は陽陰の結合で出来ています。
   現象界の一切のものは、
   無形の陽陰の原理が表現されているのであります。

   男女の肉体は、
   無形の陽陰の原理が象徴的にあらわれたに過ぎません。

(9)神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、
   極微の原子から極大の太陽系に至るまで、
   変わることなき中心があるということであります。

           <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/05 (Sat) 04:54:59


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋

(10)現象界が変化つねなきものであるのは、
   それは真に実在するのではないからであります。

(11)家系の連綿たる存続は実在世界の価値を現象世界に実現する上に
   是非とも必要な事柄なのであります。

   ミロクの世ともなればすべての「家」は家系連綿として不滅に続き、
   実相世界の不滅価値を現象化することになるのであります。

   この家系連綿の価値を国家に於いて実現しているのは万世一系の
   聖天皇を載(いだ)いている日本国のみであります。

           <感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義⑥ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/06 (Sun) 04:36:28


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋

(12)全世界の人類が互いに一つの神から生まれた兄弟姉妹であるということを
   自覚して、家長があり、兄弟姉妹が、それぞれの位相に従って、
   その責任と義務とを切実に履行するようにならなければ本当の永久平和
   というものは実現しないのであります。

(13)世界は、《永遠不滅の一つの中心》が渝(かわ)ることなく永続しながら、
   それが君主専制などになることなく、天皇の御心に、万民の心が反映し、
   天皇がそれをあきらかに「知ろしめし」て、中心と周辺とが啐啄同時に
   愛合するというように、相互にピッタリ瞬刻限を同じくして、
   呼べば応えるような国とならなければならないのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月6日 頓首再拝> 

【久遠天上理想國實現の神示】講義⑦ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/07 (Mon) 05:05:13


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《久遠天上理想國實現の神示》」より抜粋

【 久遠皇統連綿と云うことは 偶然になることではない 】

世界最高の知性だと称(い)われている相対性原理の発見者たる最高の
科学者にして哲学者なるアインシュタイン博士も、
私の解釈に似たような意見を次のように述べているのであります。

「世界の未来は進むだけ進み、
 その間(かん)幾度(いくた)びも争いは繰り返され、
 最後に戦(いく)さに疲れる時がくる。

 その時 人類は必ず誠の平和を求めて
 世界的盟主をあげねばならぬ時が来る。

 この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、
 凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く
 又 尊い家柄(いえがら)でなくてはならぬ。

 世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
 それはアジアの高峰(こうほう)日本に立ち戻らねばならぬ。

 吾々は神に感謝する。
 天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。」

このように世界最高の知性も十六菊の家が
世界連邦の中央に輝かなければならないことを
説いているのであります。


『 秘められたる神示 神示講義 秘の巻 』 ( 170頁 ~ 171頁 ) 谷口雅春先生
「 久遠天上理想国実現の神示 」 講義より

https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5b10c85e8c3924b215381689bc3bc924

・・・

<伝統:註>
上記の言葉については、アインシュタイン博士ではなく、
「別の人が述べた言葉である」という説があります。

ここでは、誰が述べたということではなく、
神が、この地上の誰かを通して述べた真理ととらえ、
そのままの紹介といたします。

           <感謝合掌 令和3年6月7日 頓首再拝> 

【“心の法則”と“平和への道”の神示】 講義①~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/12 (Sat) 04:46:55


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より抜粋

(1)「治にゐて亂を忘れず」などというようなことは、
   それは近視眼的に、眼先の現象処置をする上での
   適当な準備をするという準備工作としての智慧であって、
   或る期間には必要でありますが、

   適当な準備をした上では、乱に心に描かず、完全なる安心をもって、
   「調和の世界」を心に描くことによって、却って此の世界に
   平和を持ち来たすことができるのであります。

(2)この神示が発せられたのは満州事変の直前でありますが、
   唯今の世界情勢にもこの神示はピッタリと当て嵌るのであります。

(3)日本の国土は、強国に囲まれおり、
   実力のない中立主義は番人も戸もない羊小屋のようなものであります。

   それでは、強国の餌食となることに甘んじてしまい、
   却って、戦争の原因となるのであって、(そうならないために)
   日本は恐れず猛獣に立ち向かえる実力を蓄えなければならないのです。

   実力を持って猛獣に恐れず立ち向かうとき猛獣も尻尾を巻いて後退すると
   『続々甘露の法雨』には示されているのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月12日 頓首再拝> 

【“心の法則”と“平和への道”の神示】 講義②~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/13 (Sun) 05:09:18


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より抜粋

(4)「戸締り」をしないで、「いつ猛獣が襲って来るか、襲ってくるか」と
   戦々恐々と猛獣を《恐れて》いるよりも、

   「戸締り」を厳重にして「これならだいじょうぶ」の態勢をとり、
   《恐れずに》正面から猛獣の眼をみつめている方が、
   猛獣に咬みつかれないことになるのであります。

(5)唯「実相の円満完全」を念じておれば平和が来るのではないか
    ―― と考えるのは、

   「ただ人間の実相の完全円満を祈っておれば
   現象的にはどんな処置を講じないでも肉体は
   健康になるのではないか」と言うのと同じであります。

   「実相の既にある完全さ」と、「現象にそれを実現する処置」とを
   混同するところに、現象的な適当な処置を不要とするような
   間違った論議を生ずるのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月13日 頓首再拝> 

【“心の法則”と“平和への道”の神示】 講義③~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/15 (Tue) 06:30:49


        *「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
          《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より抜粋

(6)「恐るる勿れ」は「永遠に変わらない黄金律」でありますが、
   「恐れない心境」になるためには、「戸締り」がある方がよいか、
   「戸締り」がない方がよいかはその時の現象界の情勢次第であります。

(7)「戸締り」を一層強固にして、「これだけ戸締りがあるから大丈夫だ」と、
   「大船に乗った気持ちになって、恐怖心を滅して大安心」の心境である方が
   「心の法則」にかなった平和への道なのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月15日 頓首再拝> 

【歸幽の神示】(昭和六年六月二十六日 神示) - 伝統

2021/06/26 (Sat) 05:01:33


汝の肉體は汝の《念絃》の彈奏(だんそう)する曲譜である。

生命が肉體に宿ると云ふのは二元的な考へ方であつて眞理ではない。
正しく云へば、生命はその念絃の彈ずる曲譜に従つて肉體を現すのである。
肉體と云ひ、複體と云ひ、幽體と云ひ、靈體と云ふはこれ悉く念の映像に過ぎない。

汝の念譜の種類に從つて或は肉體を現じ、或は複體を現じ、
或は幽體を現じ、或は靈體を現ずる。

すべての人はいつか肉體を失ふであろうが死ぬのではない。
人は神の子であるから不死である。

念譜の形式が變わるに從つて汝の假有の形式が變わるのである。
すべての人の假有は念の異なるに從つて、その顯現を異(こと)にする。
念の形式に大變動を生ずれば、汝の假有は他界に顯現し、
今迄の念の顯現たる肉體は速かに自壞自消する。

これを人々は死と呼ぶが死ではない。
それは『生命』が念の絃をもつて一曲を彈じ終つてそれを止め、
他の奏曲に移らんとするにも等しい。


『生命(せいめい)』の彈ずる念の曲譜の形式に大變動を生ぜず、
その念絃の律動にただ調和を缺きたるのみなるを病と云ふ。
かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。

併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲を必ず終つて
一層高き形式の《曲譜》を學ばねばならない。

吾が云ふ意味は地上の生活は必ず終らねばならないと云ふことである。
地上の生活は汝の初歩の一曲である。

速かにこれを終るものは、初歩の教本を速かに終えたものである。
一曲が終らんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。
その前に調律者が來て汝の念絃の調子を正すであろう。

この調律のため一時汝の假有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。
此の世の一曲が終る前に肉體の調子が亂れたやうに見えるのは
此調律のためであつて眞に調子が亂れたのではない。

汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。
一曲は終るとも彈き手は終るのではない、
彈き手は神の子であつて不死であるぞ。

(昭和六年六月二十六日神示)

           <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝> 

【歸幽の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/28 (Mon) 02:39:02


        *「『到彼岸の神示』神示講義 
          自覚の巻 《歸幽の神示》」より抜粋

(1)肉体というのは、『甘露の法雨』には
   「心の糸を組合せて、肉体の繭を作り」と
   書かれているのであります。

(2)「生命(せいめい)」は空間的広がりの世界には無いのであって、
   その空間的広がりの無い世界から
   ”コトバ”即ち「生命の波」を起すのであります。

   その結果、時間空間というものが生じ、現象界に波が現れて、
   だんだん振動数の迅い小さい波から振動数の大きい波になって、
   拡がって行く訳です。

           <感謝合掌 令和3年6月28日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/29 (Tue) 03:10:23


(3)「無にして無限相」である人間の本体(神霊)が「振動」を起して、
   その「振動」によって現わしている所(霊体→幽体→エーテル体→肉体)
   のものが肉眼で見える世界であり、人間であるという訳であります。

(4)「無空間の世界」にある所の本体の「生命(せいめい)」が振動を起すと、
   その振動の範囲が空間として吾々に認識され、その振動の持続が時間として
   認識されるという事になっているのであります。

(5)人間はそれぞれその人の心境に従って
   異なる色の後光(オーラ)を放っている。
   (「生命の謎」参照)

           <感謝合掌 令和3年6月29日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/06/30 (Wed) 06:50:37


(6)自心の延長としての環境

  ①本体から出たところの心の波が
   「霊体」となり、「幽体」となり、肉体となり、
   更に「オーラ」となり、更にそれが遠くまで及んで、
   自分の「環境」として現れたのだとみることが出来るのであります。

  ②自分の環境にあらわれて来るものは皆自分自身なんであります。
   「外にあるものは一つもない、一切が自分である」
   という事になるのであります。

  ③だから環境に何事があらわれて来ても、
   それは自分自身の心の影だと反省しなければなりません。

(7)エーテル体

  ①感覚の「座」であります。

  ②同時に幽体から発する感情の爆発を被覆して
   それを調和ある程度に調節する役目をしているのであります。

  ③エーテル体は全身に満ち満ちておりまして、
   それが神経系統というコードを流れているときに感覚や知覚が起るのです。

  ④エーテル体の一部は精神が集中するところへ集り、
   また時々体外へ放出されます。
   それは、手の指先、掌、眉間または額から放出されます。
   吐く息と共にも放出されます。

   これをインドのヨガの行者などは、プラナと言っているのであります。

(8)幽体

  ①幽体というのは、
   それは「想念感情の媒体」になっているところの体でありまして、
   感覚や知覚よりも一層複雑な「想念感情」の媒体であります。

  ②悲しい、口惜しい、残念だ、嬉しい、楽しい、腹が立つ・・・。
   このような感情の「媒体」となり、それの「座」となり、
   「レコード」にもなって、
   感情が其処に印象され、蓄積される「場」であります。

  ③「もの言わぬは腹ふくるる業(わざ)なり」と
   兼好法師が『徒然草』に書いてある様に、
   想念感情を表現することが出来ない場合はふくれるのであります。

   心に想う通りの形に幽体というものは直ぐ姿が変わるのであります。

  ④私たちの起した想念感情のエネルギーは蓄積され残っているのであります。
   これが仏教でいわゆる「業(ごう)」であります。

   この蓄積されているところは、
   その「場」を「体」としてみるとそれは「幽体」であります。

   其の蓄積の「場」を心理学的に言いますと、
   「潜在意識」という事になる訳であります。

           <感謝合掌 令和3年6月30日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/07/01 (Thu) 05:03:50


(9)人間は現実界と霊界とに二重に生活する

  ①吾々自身の体が、霊界に属する霊(れい)と、
   物質界に属する肉体とがダブっているのですから、
   吾々の霊(たましい)は、霊の世界に住んでおり、肉体は物質の世界――
   この空気の世界に住んでおり、二重の生活をしているのであります。

  ②霊界の区長さんとか町長さん位にあたるのが、産土神様ということになり、
   その区長さんに何の挨拶もしないのは、礼儀に反する訳であります。
    (浅野和三郎さんの例を紹介して)

           <感謝合掌 令和3年7月1日 頓首再拝>

【歸幽の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/07/02 (Fri) 04:22:31


(10)肉体は”人間”の潜空服である

  ①吾々が現実界に生きている間は、その肉体というものは、現実界で
   ある使命を果す為に必要な道具として肉体は作られているのであります。

   肉体は人間の一つの皮袋であり、
   空気の圧力の下にあって仕事をするための潜空服又は作業服であります。

  ②”人間”は本来”霊的存在”で自由自在なんですけれど、
   その霊的実在なる”人間”が空気の世界に降りて行って、

   或る使命を果さんが為に地上に降りて来る為に必要な「乗物」と言うべきか、
   「作業服」というべきか、ちょう度、潜水夫の”潜水服”にあたるものが
   肉体なのであります。

  ③肉体の創造は、
   肉体分子や細胞を「外」から積み重ねて行くように見えますけれども、

   実は内部から「生命(せいめい)」が「想念」の振動を起しますと、
   その想念の相(すがた)の通りに外界に有機体組織が表現されて行く
   のであります。

   だから、「生命(せいめい)」が内部から起す「想念」の波動が、
   不調和な想念でありますと、肉体にそれが表現されると
   「不調和な肉体」(病気)として表現されることになるのであります。

  ④この肉体はあまりに精巧に出来ているために、
   肉体それ自身に自働的な一種の「心」の働きがあるのであります。

   肉体それ自身が「我(われ)」という意識をもっていて、
   自分で或る肉体的欲望をもち、肉体だけで、
   魂の統制を破って動き出そうとすることがある。

   しかし、肉体の性欲や食欲に霊(たましい)が無統制に引きずられて行くのは、
   逆様事であります。

  ⑤「肉体は人間でない」という根本的に自覚することが、
   「自我の新生」であり、コンヴァーションであります。


<参照>
「帰幽の神示」余話 ~ 仙頭 泰
Web「み教えの基本に関する講演と論文」仙頭 泰氏
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/mioshie-no-kihon-sendou.htm
63. 「帰幽の神示 」余談


           <感謝合掌 令和3年7月2日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】(昭和七年七月七日 神示) - 伝統

2021/07/07 (Wed) 04:34:56


キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると云ひ、
大本教では丹波の綾部が世界の中心であると云ひ、
天理教では大和の丹波市が世界の中心であると云ひ、
天行居では周防の岩城山が世界の中心であると云ふ。

世界の中心爭ひも久しいものである。
併しわれは言ふ、それらは悉く皆世界の中心であると。
一定の場所が世界の中心だと思つてゐるものは憐れなるかな。

生命の實相の教へが最も鮮かに顯れたところが形の世界の中心であるのである。
そこは最も世を照らす光が多いからである。

基督教でもイエスの教へがエルサレムに最もよく輝いてゐた時代は
エルサレムが世界の中心であつたのである。

天理教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は
大和の丹波市が世界の中心であつたし、

大本教でも教への光が最もよく輝いてゐた時代は
丹波の綾部が中心であつたのである。

わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。

誰にてもあれ生命の實相を此の世に最も多く輝かせた處に
吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。

十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。
『十』もヒノモトと読み、卍もヒノモトと讀む。

いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相(すがた)を
形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。

古神道ひとすぢで行く、基督教ひとすぢで行く、
阿弥陀ひとすぢで行くと云ふやうな人があり、
そのひとすぢの所に誠があらはれてゐて喜ばしいが、

大抵は自教の外に他教を認め、
他と混りたくない意味で云ふのであるから、
自分で自分の崇める神なり佛なりを
小さく貶(おと)してゐるのが気の毒である。

本當の神は一つであり、他の神と対立するやうな小さな存在ではない。

本當の古神道は自餘の一切の教を包括するものであり、
本當の基督教は自餘の一切の教へを包括するものであり、
本當の仏教は自餘の一切の教へを包括するものである。

そして如何なる教にてもあれ一切の教へを包括する本當の實相に到達したとき
『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。

それは天爾(てんに)の『家』であり『巣』であり
『統(す)』であつて教ではない。

その家の中にあって色々の教(おしへ)が生きるのである。

本當の古神道は『生長の家』の内にあり、
本當の基督教は『生長の家』の内にあり、
本當の佛教は『生長の家』の内にあり、

生命の實相の顯現する所、説かるる所、
讀まるる所、その悉くが世界の中心である。

(昭和七年七月七日朝神示)

           <感謝合掌 令和3年7月7日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/07/08 (Thu) 06:15:10


        *「『秘められたる神示』神示講義 
          秘の巻 《萬教包容の神示》」より抜粋

(1)この神示のうち最も注目すべきところは、

   十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。
   『十』もヒノモトと読み、卍もヒノモトと讀む。

   いづれも中心より四方に救ひの慈光の放射された相(すがた)を
   形どつたものであるからヒノモトと讀むのである。


   という箇所と、


   『生長の家(たかあまはら)』と云ふのである。
   それは天爾(てんに)の『家』であり『巣』であり『統(す)』であつて
   教ではない。

   その家の中にあって色々の教(おしへ)が生きるのである。


   と書かれてある箇所であります。

(2)「十字架の本地も、卍の本地も悉く日の本にある。」という
   ”日の本”とは「実相世界にただ一つある国」であると判断できる。

           <感謝合掌 令和3年7月8日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/07/09 (Fri) 06:34:53


(3)「実相世界」のことを「たかあまはら」とも「生長の家」とも
   解されるのであります。

   実相世界が「日の本」即ち「光りの本」であり、
   「たかあまはら」であり、それが「生長の家」であり、
   それは此の世の国(現象世界)ではない。

   それは現象世界の奥にある世界である。

   現象世界の奥にある世界は、「天爾(てんに)の『家』」
   即ち「天の御心そのままの家」であり、それが一切の生命(せいめい)が
   発現する根元たる「巣」であり、一切のものが統一せられる
   本源の「統(す)」であると教えられているのであります。

   だからすべての魂の救済の本源地は実相世界にある。

           <感謝合掌 令和3年7月9日 頓首再拝>

【萬教包容の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/07/10 (Sat) 04:24:25

(4)この神示に示されている「生長の家」とは、
   「実相世界の家は生長の家なれば」(聖経『天使の言葉』)
   の生長の家であり、それは内在実相の世界であるのである。

(5)【久遠天上理想國實現の神示】で、実相世界の生長の家のことが
   示されているので、対照して頂きたいのであります。

   *(伝統註)【久遠天上理想國實現の神示】&【神示講義】
     本スレッド内(2021/05/27~2021/06/07)
    
           <感謝合掌 令和3年7月10日 頓首再拝>

【本當の信仰に就いての神示】(昭和八年八月五日神示) - 伝統

2021/08/05 (Thu) 05:06:41


平和は内界にあるのであって、外界にあるのではない。
外界は現象である、目眩(めまぐる)しく移り變る世界である。
常に變移する世界を追ひ廻してゐて落着かうと思つても落着けるものではない。

一世を支配する権力者の位置にのぼれば
誰も自分を脅かすことが出來なからうと思って最高の位置にのぼってみても、
高ければ高いほど不安であるのが常である。

では、誰よりも下座の地位について、もうこれ以上は落ちようのない
貧しい生活を送つたら不安がなからうと思つて、乞食の生活を送つてみても、
やはり不安は去るものではない。

下座々々と心掛けても、一椀の食にありつくとき、
尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思つたら、
その一椀の食も安心して食べられないであらう。

所詮は、高く上(のぼ)るも、低く下るも、比較上の世界に住む以上は、
その人の心から不安が去らないのは當然である。

何故汝らは絶對の世界に住しないのであるか。
目眩(めまぐる)しく回転する圓周の世界を追ひ廻さないで、
圓の中心の世界に住しないのであるか。

何故(なぜ)汝らは比較を絶した『我れ神の子』の世界に住しないのであるか。
中心の世界に坐せば、上下左右天地四維(しい)のいづこに顯現するとも
不安はないのである。

『我れ神の子』の世界に住すれば、
如何に高き位置につくとも高過ぎると云ふこともなく、

如何に低き位置につくとも
穢されたと云ふ感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。

かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、
無畏怖の境地に入らしめるのが本當の宗教である。

恐怖心を唆(そそ)って遷善改過(せんぜんかいか)せしめるものは、
それは一種の社會施設であり、刑務所であり、懲治場(ちょうちば)であつて
宗教ではないのである。

宗教とは己が眞性を自覺せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、
いづれに置かれても、縛られない、恐れない、
自由自在の『神の子』たる本性を自覺せしめるものを云ふのである。

汝ら恐怖の宗教に心せよ。
神の子は、金剛不壊の實相身、無礙自在(むげじざい)の
無罣礙身(むけいげしん)であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。

恐怖を教へるものは迷を教へるものである。
恐怖を唆(そゝ)るものは、迷を唆るものである。

病氣や天變地變や色々の災厄で恐怖を教へるものは
人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、
或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教をなすのであり、
それを信ずる者は、それは信仰は信仰であっても、迷信に堕するものである。

火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも
自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本當の信仰である。  

                 (昭和八年八月五日神示)

・・・

本当の信仰に就いての神示   谷口雅春
https://www.youtube.com/watch?v=RwlBZ_xO1uQ

           <感謝合掌 令和3年8月5日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/06 (Fri) 04:55:38


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(1)現象的な力によって相手に打ち勝つことによって
   安心を得ようとするから、
   根本的に安心即ち「心の平和」は得られないのあります。

(2)(歴史上及び現代の指導者、強国の)実例は、
   人間は実相を自覚しない限りは、
   どれだけ高い位置にいても安心することはなく、
   「高ければ高いほど不安」であることをあらわしているのであります。

(3)正しい信仰というものは、
   自己中心的な考えを捨てるというような心境にならせて貰うところに
   「魂の向上」と謂う人格的御利益があるのであります。

           <感謝合掌 令和3年8月6日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/07 (Sat) 04:42:23


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(4)私たちは、円周線上の回転する物象に目を奪われて動揺してはならない。

   本当に心の平和を得ようと思ったら、この中心に坐すべきである。

   「中心に坐す」というのは
   「我れ神の子」の自覚に坐すということなのであります。

   「我れ神の子」の自覚に坐すということは、
   また同時に他(た)のすべての人々も「神の子」であるとして
   尊敬する心境に坐すことであります。

(5)「我れ神の子なり」という実相に直参せしめて、
   「無恐怖の境地に入(い)らしめるものが本当の宗教である」
   と教えられているのであります。

           <感謝合掌 令和3年8月7日 頓首再拝> 

【本當の信仰に就いての神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/08 (Sun) 05:00:48


        *「『到彼岸の神示』神示講義 自覚の巻
           《本當の信仰に就いての神示》」より抜粋

(6)人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰であって、
   その信仰に到達したら無恐怖の状態に入(はい)ることができるのだと
   教えられているのであります。

(7)私たちが世界の危機を説くのは決して恐怖心を与えるためではなく、
   時局認識をハッキリさせて、力を結集し、一緒に世界平和を祈る
   同志を一人でも一層多く求めたいからであります。

   これにより、世界人類の終末預言が覆されて平和のうちに
   新しき理想世界の建設が成就すると信ずるのであります。

           <感謝合掌 令和3年8月8日 頓首再拝> 

【懺悔の神示】(昭和七年八月十二日神示) - 伝統

2021/08/13 (Fri) 04:58:13


汝らのうち病める者あらば、吾が教への先達(せんだち)の許に來たりて祈りを乞ひ
神想觀の指導を頼め。吾が教への先達は吾が言葉を受けたるものなれば、
彼の言葉汝を癒さん。

心に省みて罪ありと思負うものは、教への先達に包むところなく懺悔すべし。
吾が教へは、『罪』の無を説く。
本来『罪』なければ、懺悔も不要なりと思負は過(あやま)れり。

『罪』は本來『暗(やみ)』にして光にあうとき自滅すれども、
包みて光に會わしめざるときは、闇はそのまま闇にして滅ぶるものには非ざるなり。
罪の價は死なり。罪を包みて光に會わしめざる結果は死なり。

世の人々よ、悪を包み隠すことなかれ。
悪を包み隠すは、なお悪に執着せるがためなり。
罪の暴露を恐るるはなおその罪に執着せるがためなり。

『本來罪なし』の吾が教えを聽きて増上慢に陥ることなかれ。
本來罪なしの真理を知るものが、
何ぞ罪の暴露を恐れてそれを蔽うことを敢えてせんや。

『罪は本來ないからこれで好い』と自らを偽ることなかれ。
みずからを偽ることは罪の第一なり。
そは、みずからを包み隠し、その本來相の顯現をさまたぐるが故なり。

されどまた罪を一旦懺悔したる以上は、再びその罪に心を捉えられて、
神の分身なる自己の心を苦しむることなかれ。罪は懺悔と共に消ゆるなり。
暗は光の前に暴露さるると同時に消ゆるならずや。

懺悔せざるものの罪は消えず、暴露されざる暗の消えざるは当然にあらずや。
懺悔は密室にて行なうか、手紙に書きて教えの先達に送りても宜(よ)し。

されど暗の前にいたずらに悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし。
暗に暗を照らさしむるとも何の甲斐かあらん。

人は一たび眞に懺悔するとき、
その刹那よりその全存在は洗い淨められたると等しく、
本來の神の子たる圓相をあらはす。

眞に懺悔せる後は汝ら心安かれ。
汝らは吾が眞子なればなり。吾汝らと一體なり。
聖靈(いのちのいき)汝らに交通し、汝らの靈(みたま)殖えて汝ら無限生命を得ん。

汝らのうち病める者あらば互いに祈り合ふべし。
互いに祈り合ふとき、吾が力汝らの上に來たらん。
自己が癒さるることを祈るはなお自己の利害にとらはれていることあり、
互いに祈り合ふとき愛の心あらはれ、神の靈波そのままに汝らの上に感ずべし。

病める人のために、その人を訪れて、祈り、且つ神想觀をなすべし。
祈るとき、金を惜しむ心、金を欲しがる心、いずれも神の靈波に波長の合わぬ
迷(まよひ)の波動なりと知れ。

地方の信者たち互いに団結して祈り合へ。
家族同士互いに祈り合ふべし。
祈りて癒ゆるとも自己の力にあらず、神の力なり。

本(もと)を忘るべからず。愛を竭(つく)し合い、
敬虔を竭し合ひ、誠を竭し合ひ、神を敬すべし。
この世界は光と迷いの反影が交錯してあらはれている映画なれば、
迷を一日も早く消すが世の苦難を濟(すく)う唯一の道なり。

(昭和七年八月十二日神示)

           <感謝合掌 令和3年8月13日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義① ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/15 (Sun) 05:02:01

        *「『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻
           《懺悔の神示》」より抜粋

(1)宗教とは罪を解消して人間を自由ならしめるものであります。
   宗派によって罪を解消する方法が異なるのであります。
   罪というものは「本来ない」というのが、生長の家のおしえであります。

(2)『生命の實相』を読んで3年間仰臥の結核が治る。

   福島博さんは、それ(『生命の實相』)をお読みになりまして、
   端的に「人間・神の子、病気は無い」という
   ことをお悟りになりまして、すぐ病床から起ち上がると治ってしまったのです。

(3)人間に本来罪ありや否や

   罪というものはどういうものであるかと言いますと、
   ツツミ(包み)という語源から来ているのです。

   人間に「罪」があるんじゃなくって、人間の完全さが
   ツツミ隠されているというのが「罪」の状態であるというのであって、
   「罪」というものが人間そのものと一体なのではない。

   「罪」は如何にあろうとも「人間」そのものとは別のものなのであって、
   人間の完全な神性というものを自覚しないで、
   瞼を塞いだように、光があるのに光を見ないでいる状態が「罪」であります。

   生長の家では、こういうように罪を解釈するのです。

           <感謝合掌 令和3年8月15日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義② ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/17 (Tue) 05:03:03


(4)「罪」とは「神性隠蔽」であると『生命の實相』の第七巻倫理扁
   (携帯版では第十三・十四巻)には書かれているのであります。

   「神性隠蔽」とは、神なる本性を隠蔽して覆い隠していること、
   それが罪(ツツミ)であるから、「人間・神の子」を自覚して、
   その実相を露堂々とあらわすと、罪が消えることになるというのであります。

(5)実相を観ずれば罪は消える。

   懺悔とは、狭い意味で言えば、ああ私は悪いんです、済みませんというのも
   懺悔ですけれども、

   もう一つの素晴らしい懺悔というのは、現象を一切捨離して
   実相に向き変る事であります。

           <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義③ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/18 (Wed) 04:38:07


(6)「大乗経を誦し」というのは、大乗即ち、
   すべての人間はみな仏であるとして大きく広く人類を救うところの経典、
   生長の家で言えば『生命の實相』とか『眞理』とかいう本ですね。

   それを読んで、昼夜六時に十方の仏様を拝する――このことは今申し上げました。

   そして、「一切の人を観ること、悉く仏の想いの如くせよ」と仰せられた。

   即ち凡ての人を観るに、「みんな仏であると思え」という訳です。
   すべての人間を、みんな仏さまだと思って拝まなくちゃあいけません。

           <感謝合掌 令和3年8月18日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義④ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/19 (Thu) 04:55:59


(7)法句経には、『生命の實相』に書いてあるのと同じように、
   「まこと、"怨み心を以ってしては、"怨み"を解くことは出来ない。
   "怨みなき心"をもって来たとき、はじめて恨みを解くことができる」
   と書かれているのですね。

(8)懺悔というのは洗い清めるということであって、悪いものを放してしまう。
   心から放してしまえば、「無いもの」は無いとい宇宙の浄化作用で消える。
   それが懺悔であります。


           <感謝合掌 令和3年8月19日 頓首再拝>

【懺悔の神示】講義⑤ ~谷口雅春先生 - 伝統

2021/08/20 (Fri) 04:31:24


(9)わたしたちは、神の子だから、"神の子たる実相"が顕れるに従って、
   それだけはっきりとホコリが見えるべきはずであります。

   きれいな立派な漆の塗りものなんかには、
   一寸ホコリでもつくと直ぐ分るでしょう。
   穢(きたな)い絨毯の上にホコリがつもっていても分りはしない。

   それと同じく、自分の心が浄まれば淨まるほど、
   「ああ穢い」ということが分るのであります。

   だから「ああ済みません」と過去を詫びる懺悔の心が起りますと、
   そういうときは、過去より自分は一段高まった
   ということになっているのであります。

   それですから、人を憎んだり恨んだったりしとった人が、
   「ああ済みません、私が悪うございました」とあやまり切る気持になりますと、
   病気が"さっと"治ったりします。

(10)我々はいろいろな環境に置かれていますけれども、
   その環境というものは、一つの学校のようなものであります。

   各人の環境というものは、それぞれその人が
   一番魂が進歩するのに必要な環境に置かれている訳であります。

   それで苦しい環境にあるときには、
   その人の魂が苦しみによって鍛えられなければならない様な状態に
   なっているのです。

   それによって、その環境を自己反省のための鏡として、
   「ああ、こういう心を持っているのはいやだなあ」という気持ちになり、
   一段魂が進歩すると、その環境という学校を卒業して、
   環境がスーッと変わるのであります。

           <感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>

懺悔の神示 - 伝統

2021/08/21 (Sat) 04:50:45


懺悔の神示 (朗読女性) 谷口雅春著 生長の家
https://www.youtube.com/watch?v=rVDM-d6q6p0

        *Web:粟野真弘のblog(2017年11月25日)より抜粋

『神ひとに語り給う』神示講義「懺悔の神示」」(203~228頁)。

「懺悔」は「大懺悔」(現象の否定と実相の肯定)でなければという
谷口雅春先生のご指導を想い起こし、心に沁みました。

「大懺悔」の実践内容を、
「観普賢菩薩行法経」を解説しつつ示されています。

同経は、〝法華の三部経〟の中の三つ目の経で、

「人間、本来久遠の本佛であるといふ實相を現實に現すためには、
どうしたら良いかという行の方面から書かれている」(同書215頁)と説かれ、

その中の

「若し懺悔せんと欲せば端坐して實相を念(おも)へ。
 衆罪は霜露のごとし、慧日よく消除す。」(同書226頁)

の解説はその結論的な部分です。

また神想観の一つである「観普賢菩薩行法」は、
実相を自覚するために先生が示されたものです。

「懺悔の神示」は、『続々甘露の法雨』の冒頭で拝読するようになっております。

「浄心行」の実修においては、実修の始まりが「懺悔の神示」の朗読です。

「懺悔の神示」の重み大切さを、再認識いたしました。

http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/51140457.html

           <感謝合掌 令和3年8月21日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その1 - 伝統

2021/08/22 (Sun) 04:50:46


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/66zange-no-shinji.htm


今回は「懺悔の神示」を学習いたします。
今思い出しますのは、谷口雅春先生御夫妻が、
はじめて海外御巡錫(昭和三十八年三月)に出かけられ、
ニューヨークに行かれた時のことです。

キリスト教会で先生の講話がありました。

そのとき谷口雅春先生は、聖書を中心にして話をされました。

キリスト教会では、イエスは神の子のひとり子であり、
他の人々は罪人であるとの説教を日曜礼拝に集まった人々にするのでありました。

このニューヨークの教会では、谷口雅春先生は
「みなさんは『神のひとり子』ですよ」と
聖書の言葉を引用されて話されたのです。

また「主の祈り」の話もされました。

「ここには、イエスが 『天にましますわれらの父よ』と呼びかけているでしょう。
 イエスは『われらの父』と呼びかけているのであって、
 自分だけの父と呼びかけているのではないのです。

 みなさんも、神の一人子であって神さまから愛され、大切にされているのですよ。
 皆さんが生きておられるだけでも、神様は祝福しておられるのです。
 用のない人、つまらない人は一人もおられないのです。」

と縷々聖書にもとづいて人類無罪宣言の話をされました。

聴衆は、今まで牧師から聞いたことのない聖書の講話に感激の涙を流しました。

解散した後は、聴衆が感謝の握手をするので大変でした。
谷口雅春先生の掌が腫れてしまいました。

この夜の二回目の講話が終わり、私達が帰ろうとしたとき、
一人の黒人青年が感激を体いっぱいに表現して、
今日のドクター・タニグチの話で救われたと涙して語るのでした。

この青年は自分が物心ついたときには、黒人として差別をされていたというのです。
それでも、彼は懸命に勉強もして、大学もりっぱに卒業をしました。
でも就職のときには、白人との差別を感じて世間の不公平に悩むのでした。

その時期に、あちらこちらと教会の門を叩き、
自分の悩みを打ち明けて救いを求めるのですが、
どの教会に行きましても同じように
「十字架を背負って人生を歩むのです。必ず天国に救われます」
と云う答えしかもらえませんでした。

それは、現実生活の救いにはならず、ますます憂鬱な人生であったのです。
彼には、何故自分は生きてゆかねばならないのか、
なんのために此の世に生まれてきたのかと、疑問ばかりが湧くのでありました。

この時に彼に人生の解決を与え、光明を与えたのが谷口雅春先生の、
人間神の子の話であり、人間地上誕生の意義であり、人生の目標の話であり、
人類無罪宣言であり、萬教帰一の真理でありました。

彼は、自分もイエスと同じく「神のひとり子であり、神のめぐし子であり」、
この世に神の栄光を現すために誕生したのだと、
魂の歓喜を得て人生が全く光明化したのでありました。

(続く)

           <感謝合掌 令和3年8月22日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その2 - 伝統

2021/08/23 (Mon) 04:45:32


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

人々はこの世に生まれて、不遇な人生、運命に出会うとき、
どうして私だけがこのような不幸な運命に遭わねばならないのだろうか、
過去の業の結果ではないだろうか、
何かの罪の結果が今日現れているのだから仕方がないのではないか、
などなど人生を暗く考えて落ち込むのであります。

自分は罪悪深重の凡夫で、苦しんで人生を送らねばならぬ存在だ
と信ずる人も出てくるのであります。

だからこそ宗教が必要なんだと、強調する人もいるのであります。

「懺悔の神示」には、この人生の『罪』について、
「本来ない」ものであるから、懺悔をすることにより消滅するもの
であることを、色々な方面からその方法を示され、

人間神の子の実相を悟り、迷いを一日も早く消すことが
世の苦難を救う唯一の道であると示されています。

(続く)

           <感謝合掌 令和3年8月23日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その3 - 伝統

2021/08/24 (Tue) 04:48:35


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

はじめに

「汝らのうち病める者あらば、わが教えの先達の許に来たりて、
祈りを乞い神想観の指導を頼め。
わが教えの先達はわがことばを受けたるものなれば、彼の言葉汝を癒やさん」

とあります。

生長の家は、谷口雅春先生が神様のご使命を受けられてこの地上に誕生され、
神理を全人類に伝えるべく活動をはじめられためにこの地上に顕現したもの
であります。

「神真理を告げ給う」の御本の中につぎのような御文章があります。

「“わたし”は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。
 君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、
 色々の学者の説を読み、それに基づいて思索をし、
 既に人生の意義を知ることが出来た人もある。

 しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中を
 迂路チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、
 真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、
 “聖なる求め”を放棄している人もある。

 そのような人たちに“私”は、今ふたたび真理を知らせてあげたい
 愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」
                            (同書11頁)

私たちにとっては、このような偉大なる谷口雅春先生を通して
神理を学ぶことの出来る機縁を与えられたことを、
心から神さまに、そして谷口雅春先生に感謝するものであります。

と同時に私たちは、これからも益々謙虚に情熱をもって求道に
そして伝道に励んで、神理を自分の生活の得意の分野に展開して、
地上に天国を顕現するように活動をしてゆきましょう。

この神示に「わが教えの先達」とあるのを、
谷口雅春先生ではなく「自分だ」として、
人に神理をお伝えするときに、自分が悟って偉くなったつもりで、
他人に向かって横柄な態度になり、相手を神の子として礼拝する謙虚さを
失うことのないように、お互いに気をつけたいものであります。

(続く)

           <感謝合掌 令和3年8月24日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その4 - 伝統

2021/08/25 (Wed) 04:45:14


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「神真理を告げ給う」には、神様がさらに次のように述べておられます。

「しかし“本当の教祖”というべき“真理の啓示者”は
 “実相世界”にある“神”のみなのである。

 イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』
 といっているし、

 谷口雅春も、“自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある”
 といっているのである。」(同書13頁)とあります。

 私たちは教えを学ぶ生命の兄弟・姉妹として、
 互いに励まし合いながら謙虚につきあって行きたいものであります。

 指導者になれば、なるほど、
 神理の伝道に間違いがないように反省が必要であります。

 「真理は汝を自由ならしめん」とキリストは教えました。
 真理を自覚し得たものは自由自在を得るのでありますから、
 佛教では「解脱を以て佛となす」というのであります。

 宗教とは真理を知ることにより、一切の苦悩その他の繋縛から脱して
 衆生を大自在の境地に導くのものであります。

 前に述べましたが、今までの宗教は
 「人間には罪があり、業がある。その罪の意識になやみ、
  業因の循環があるので、その解決のために宗教があるのである。
  罪がなかったら宗教はいらないのだ」
 という人もいるのであります。

 生長の家の教えでは、「罪は本来ない」と説いているのであります。

(続く)

           <感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その5 - 伝統

2021/08/26 (Thu) 04:43:53


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

神示には
「『罪』は本来『暗(ヤミ)』にして、光にあうとき自滅する」とあります。

真理の光をあてることが大切なことであります。

ところが、今までは罪悪深重の凡夫を救うために、
「宗教は出現した」のであると云うのです。

この場合「救う」というのは、「罪がなくなる」ということであり、
その「罪をなくする」というのです。

この神示には「罪は本来無し」と明示してあります。

私たちが「罪本来なし」ということが自覚できたときに、
病気が罪や業のあらわれである場合には、
罪や業が消えると同時に病気も消滅してしまうと教えられています。

何故罪や業が消えるかと言えば、それは「本来無い」からであります。


「罪」というものはどういうものであるかと言うと、
ツツミ(包み)という語原から来ていると云うのであります。

谷口雅春先生は講話の中でつぎのような説明をよくして下さいました。

例えばここに懐中時計があるとして、これを光明燦然と輝くところの
立派な人間の神性・仏性であるとします。
それをハンケチで、包んで隠してしまいます。

その光明燦然と輝く神性・仏性を包み隠した状態が「罪」なのであります。

このハンケチがあるという意味から言うと、
“包んでいるもの”ツツミ(罪)が確かに有ると言ってもよいのでありますが、

この「包み」というものが、この中の円満完全な光明燦然たる存在に、
染みこんでいるかというと、ちょっとも染みこんでいないのであって、
中味の本来輝ける実体は少しも汚れていないし、
光も失われていないのであります。


唯それが覆い隠されており、包まれているというだけのことが、
罪なのであります。


人間の実体は円満完全・清浄なものであり、決して汚れていない
ということに注目しなければならないので、その例え話として、
次のようなお話しも谷口雅春先生はよくしてくださいました。


今ここにコップがあって水が入っているとします。
この水の中に泥を投げ込むと、するとコップの水が
ドロドロになって不透明になってしまいます。

これを一般の人は、この状態を見て「水が濁った」と言うのであります。

常識的に言うと確かに水が濁ったのでありますが、
それは私たちが、五官の眼で見ているからであり、
そう見えているだけのことなのです。

水は水素と酸素の化合物であって、本来透明な液体であります。
水というものは永久に濁らないものであります。

「だって濁ったように見えるではないか」と言う人は、
五官の感覚で見ているからです。

いくら五官の感覚で、水が濁ったように見えても、
濁っているのは、水そのものではなくて、泥が濁っているのであります。

ここが大切なところで、生長の家では、
罪というものは「本来ない」と教えているのであります。

泥水から、その泥さへ取りのぞいたら、水はもとの透明な状態になるのであります。

(続く)

           <感謝合掌 令和3年8月26日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その6 - 伝統

2021/08/27 (Fri) 04:40:26


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

これより、テキスト・谷口雅春先生著「神人に語り給ふ」の
「懺悔の神示」のご講義の要点を抜粋せていただき、
朗読しながら内容理解をすすめていきます。

つぎのように「罪」に関するご説明があります。ここから、始めます。

「それと同じように、人間の正体は、本来、神の生命、佛の生命
 というものが宿っているから、『本来清浄、濁っていないもの』
 なのであります。

 だから人間に『罪』があるのではなく、
 人間の完全さがツツミ隠されている状態が『罪』というのであります。

 罪というものが、人間と一体なのではないのです。
 『水』と『泥』とが永久に一体でないように、
 『罪』は如何にあろうとも『人間』そのものとは別のものであって、
 それは人間の完全な神性・佛性というものを自覚しないで、
 瞼をふさいで光があるのに光を見ないでいる状態、
 つまり神性・佛性を自覚しないこと、それが『罪』なのであります。

 生長の家では、このように『罪』を解釈するのであります。」(同書213頁)


聖書の中に、つぎのような話があります。
イエスが或る日、途上で、生まれながらの盲目の人に会いました。

その時に弟子達が
「先生、この人が盲目に生まれたのは誰の罪ですか。
 自分の罪ですか、それとも親の罪なのですか」と尋ねました。

するとイエスは
「この生まれつきの盲目は、この人自身の罪でもなければ、親の罪でもない。
 ただ彼の上に神のみ業のあらわれがためである」
と答えられたと言うのであります。

そして、唾で泥をつくり、これを盲目の人の目にぬられて
「シロアムの池に行って目を洗え」と云われました。

すると、この盲目の人は見えるようになったと云うのであります。
このお話も谷口雅春先生の御講話の中に出てくる物語であります。

ところで、「神は愛なり」でありますから、
神様がご自身の神癒のみ業を或る人の上に実現して見せて、
自分の尊さを実証する方便として、或るときまで盲目にして置かれるなど
という残酷なことをされる筈はないのであります。

人間は神の子であり、はじめから、自性完全円満自由自在のもであります。
この本性を自覚するとき、「罪」は本来ないからこそ「本来ない」状態に
還元されるのであります。ではつぎに進みます。

(続く)

           <感謝合掌 令和3年8月27日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その7 - 伝統

2021/08/28 (Sat) 04:50:29


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )


「『観普賢菩薩行法経』には、罪を消す方法が書かれているのであります。
 釈尊はこの観普賢菩薩行法経をお説きになるときに、
 『わしは、もう三月したら涅槃に入るぞ』と言われたと書かれています。

 涅槃に入るとは、この場合は肉体が亡くなくなって、
 釈尊が霊にお成り遊ばされるという意味でした。

 すると、弟子が『世尊、如来の滅後に云何(イカン)が衆生、菩薩の心を起し、
 大乗方等経典を修行し、正念に一實の境涯を思惟せん。

 云何が無上菩提の心を失はざらん。
 云何が復当(マタマサ)に煩悩を断ぜず五欲を離れずして、
 諸根を浄め諸罪を滅除することを得ん……』と云っておたずね申しあげた。」
                        (同書215頁)

このままでは話の内容が難しいので、
谷口雅春先生はこれを現代語になおして、つぎのように説明しておられます。

「『お釈迦さん、あなたは三月もしたら死ぬんだったら、生きとる間に
 教えといて下さい。如来さまがお亡くなりなった後に、

 どうしたら
 我々衆生が菩薩の心を起こして、大乗方等の経典を修行して、
 そして正念をひたすら起して、唯一つ、実相の境涯のみを
 心に惟うようにできますか。

 どうしたら、無上のサトリの心を失わずにおられますか。

 どいう具合にしたら、山へ籠もったり断食したりしないで、
 煩悩の世界におりながら、五欲の世界におりながら、
 感覚器官を清浄にし、色々の罪をなくすることができますか』
 と云って尋ねたのであります。」

そこで今度は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということのお話しであります。
ではつぎに移ります。

「『煩悩を断ぜずして涅槃を得』と云うことは、中々むつかしいのであります。
 煩悩というのは、美味しいものを食べたいとか、美しいものを見たいとか、
 好きな人に会いたいとか、何とか色々慾があるのを言うのであります。

 そのほかにも人間には酒を呑みたいとか、
 煙草を喫みたいとか色々の慾があるのです。

 こうした煩悩を断ち切らないでおって、それで悟りを開いた状態に
 到達するにはどうしたらよいか、という訳であります。

 生長の家では煩悩を無理に断ち切れと言わないのです。」(同書216頁)

ここでの反省は、私たちは他人から余り干渉されると、
例え善いことであっても反発をしたくなる変な傾向があります。

「酒やタバコなど、“止めなさい”といわれると、
 なかなかそれが止まらないのであります。
 縛られるような気になり窮屈になるから、その心の窮屈さをごまかすために、
 さらに酒やタバコという麻酔剤を必要とするのであります。

 併し、悟りの境涯に入ると、自然と、タバコも止み、酒も止み、
 生活が正しい道にのるようになるのであります。」(同書217頁)


「観普賢菩薩行法経」は、釈尊の最後の遺言みたいな経である。
『もう三月したらわしは死ぬのだ』と云う予告をされた時に、
 説かれたのであることは、前に学習しました。

谷口雅春先生は
「これくらい佛教の極地が説かれているものは無い」といわれました。
では次ぎに移ります。

「『普賢』即ち『普ねく賢い』という意味で、
 『普遍的に、何処にでも普く充ち満ちているところの智慧』そのものが、
 普賢菩薩であります。

 だからその普遍の智慧が吾々にも宿っている。
 吾々自身が普賢である、
 宇宙に満つる智慧が肉体として此処に現れているのが
 私たちであるわけです。」(219頁)

「だから私たちのこの身体は、宇宙に満つる智慧そのものの身であって、
 物質身ではない。物質の体ではないから黴菌に食われたり、
 いろいろの禍いを受けたりするということは無い訳であります。

 即ちこの観では自身を智慧身であるとして其の相を観ずるので、
 その観の功徳はどれほどであるかというと、観普賢菩薩行法経には、
 『この観の功徳は諸々の障礙を除いて上妙の色を見る』と
 書かれてあるのであります。」(同書219頁)つづいて拝読します。


「色々な障りを除いて、極めて優れた妙なる波動の世界を見る
 というのであります。色(シキ)いうのはラジオみたいに、
 波動によって形をあらわしているものを称するのであります。

 即ち心の波によって或る姿を現しているものを全て色(シキ)という訳で、
 吾々の肉体も一種の色身(シキシン)であります。

 『昼夜六時に十方の佛を礼して懺悔の法を行ぜよ。』
 『昼夜六時――朝晩六時にですね。十方の佛様を拝め、
 そして懺悔をせよ。』こう釈尊が言われた。

 この十方世界の佛様を礼拝することが大切であります。
 これは私達の神想観の行法に『遙々と目路の限り眺むるに
 十方世界悉く神なり、吾れ十方世界を礼拝す。
 十方世界の一切のもの有難うございます』と念ずるのと同じことであります。」
                (同書220頁)

神想観については、讃嘆行であり、感謝行であり、礼拝行である
と言われた言葉を思いだします。次ぎに進みます。

「懺悔とは、狭い意味で云えば、
 『ああ、私は悪いんです、すみません』というのも懺悔でありますが、
 もう一つの素晴らしい懺悔というのは、現象を一切捨離して
 実相に向き変る事であります。……」(同書220頁)

 つづいて、凡ての人を観るに『私はすでに悟りをひらいて佛であるが、
 あいつはまだ迷っている』といって、
 衆生を軽蔑するようなことではいけないと説明してあります。

           <感謝合掌 令和3年8月28日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その8 - 伝統

2021/08/29 (Sun) 04:41:55


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「次には、『諸々の衆生に於いて、みんな父母の思いの如くせよ』
――『凡ての生きとし生きるものは、みんな私の父母であると思え』
と釈尊は教えられたのです。

一切の衆生を尊敬しなければいかんのです。
人類が、互いに相手を父母と思って尊敬し、
親に仕える思いを起こしておったら戦争なんかありゃしないのですね。

『諸々の衆生に於いて、父母の思いを致し』でなくて
敵を思い起こしたりするから戦争するのです。

互いに父母と思って愛する思いを起こしたら戦争の起こりようがないのです。」
(同書220頁)

このように谷口雅春先生は、戦争についての思いを述べておられるのです。

全世界の人々が『みんな神の子・佛の子である』ことを自覚して、
人々の実相を礼拝し合い、讃嘆し合い、感謝し合い、助け合うよう
になることの素晴らしさをつよく感じます。

「常不軽菩薩行」の実践はすばらしいと信じます。

私たちが、ただ単に父母だけでなく、人類みんなが互いに
相手を父母の如く思って尊敬し、親に仕える思いを起こし、
愛する思いを起こしたら戦争なども起こりようがない。

顛倒の思いより諸々の不幸災難が起こるということが分かります。
ここで云う「思い」、心というものは、「迷いの心」のことです。

次ぎに進みます。

「この『心』というのは、『迷いの心』であります。
 迷いの心というのは、よく『病気は心の迷いより起こる』と言いますね。
 『君は恐れるからいかんのであって、恐れる心を捨てなさい』とそう言われると、
 恐れる心を捨てようと思っても、なかなか捨てられないで、やっぱり恐ろしい。

 そしてどうしても、その恐怖心を捨てる訳には行かない。
 『恐れる心が病気に現れるんだ』と思えば思うほど、
 『恐れること』そのことが恐ろしくなり、その恐れる心を捨てようと思うのに、
 やっぱり恐れるから捨てられないで、そのジレンマに陥って、
 益々恐れて病気が益々重くなることもあります。

 その恐れる心を恐れて、それを捨てようにも捨てられないところに
 連鎖反応的に恐怖心が起って、困る人が往々にあります。」
             (同書221頁)

全くこの通りで、地獄の中に落ち込んだ心境になり
自暴自棄になることがあるのであります。

では一体どうすればそのような状態から脱出することが出来るだろうか
ということです。

「そういう場合には、『心を観ずるに心なし』と、
 捨てなければならないような『恐れる心』もないのである、
 とこう『此の心をどうしようか』と心に引っかかる心をも断ち切るんですね。

 そこが大切なところなのであります。
 『恐れる心』というものがあると思って捨てよう思うから
 其の『心』にひっかかっていかんのです。

 『悪』というものがあると思って捨てようと思うから
 『悪』にひっかかって捨てられん。」(同書221頁)


ない、ないずくしでありますね。次ぎに進みます。

「病気でも『病気を恐れる心を捨てなさい』と言うと、
 病気はあると思って掴んで、それを『恐れるな』と言っても、
 なかなかそれを恐れない訳に行かんのです。

 『病気はない』と、こう捨てるんですね。
 『その病気を恐れる心もない』と捨てるのでね。」(同書222頁)

私達は如意宝珠の玉を持っていると教えられています。
この如意宝珠には潮満珠と潮干珠の二種類あるといわれます。

潮満珠を投げると潮が満ちて満潮となるように、
自分欲するものが成就するというのであります。

潮干珠をなげますと、潮がどんどんと引いてゆくように、
自分の欲しないものが目の前から消えていくというのであります。

この珠とは言霊であります。
言葉には不思議な力があり、欲するもの好ましきもの自ずから集まり来たり、
欲せざるもの、好ましきものからざるものは自ずから、去ってゆくのであります。
消えてなくなるのであります。このことを思い出すのであります。

次ぎに移りましょう。

「それでこの経に書いてあるように『心を観ずるに心なし』と観ずる。
 恐れる心なんていうものはないのであると捨ててしまうのです。
 これは腹立つ心でも同じことです。

 腹立つ心があるのであると思いながら、腹立たんようにと思っても、
 腹立つ心は止まないのであって、
 『あいつ、クソいまいましい』と思っても、
 癇癪が起こって来るのであって、どうしても癇癪をなくすることができない。」
            (同書222頁)

とこういうわけであります。

谷口雅春先生はよくつぎのような話をなさいました。
タバコの煙で目の前がモヤモヤして鬱陶しいからといって、
煙の出ているタバコを持った手を一生懸命にふっても
目の前のモヤモヤは無くならないどころか、ますますモヤモヤが増えてくるのです。

しからばどうすればよいか、タバコを持っていない手でもって、
目の前のモヤモヤを払えばたちどころにそのモヤモヤは消えて
なくなるのであります。

非常に示唆にとんだ話です。それでは次を読んでみましょう。

「だから『生命の實相』にも書いてあるように、
 『まこと“怨み心”をもってしては、“怨み”を解くことは出来ない。
 “怨みなき心”をもって来たとき、はじめて怨みを解くことができる』
 と書かれているのですね。

 “怨んでいる其の同じ心”で“怨まない”と頑張ってみても、
 怨みを解くことは出来ないのです。

 “怨みなき心”を持って来たら、ひとりでに怨み心がなくなるのであります。

 腹立つ心を止めようと思ったら、“腹立つ心”で“腹立つ心”を
 おさえようと思っても駄目だから、“腹たたん心”を自分の実相から
 出して来たらよいのです。

 だから、この“腹立っている心”というものは、“ニセモノの心”で、
 わしの心じゃないんだと先ず知るのですね。

 そして『わたしの心は“佛の心”じゃもの、
 “腹立つ心”なんていうものはニセものだ。

 よその奴が、脳髄っていうオートメイション装置が腹立てとる。
 わしは知らんよ』というように、そんな心を自分から放してしまって、
 『そんなものはありはしないんだ!』と捨ててしまう。

 そうすると、腹立っていても、直にスーッと“腹立つ思い”は
 消えてしまうのです。」(同書223頁)


谷口雅春先生は、さらにつぎのように説明しておられます。

「脳髄の思いなんていうものは、一寸酒を飲んでも、
 すぐに変わるものであって、こんな心は常住不断の心じゃないのであって、
 そんな心というものは本来ないのであります。

 だから観普賢菩薩行法経には
 『心を観ずるに心なし、法、法のなかに住せず』と書かれているのであります。

 この『法』というのは、
 『世の中のもの』というような意味で、現象のことです。

 病気なら病気の姿が現象として現れているけれども、
 その『現象は現象の中に住せず』です。

 というのは、現象として、病気がここに存在するように見えても、
 實はここに存在するのではない。

 心のフィルムにつかまれていて、
 それが『時間・空間』の映写幕に映っているんです。

 吾々はそれを見て、『病気が此処にある』と心で引っかかるのです。
 それを『無い』と放してしまうのが懺悔であるというのであります。」
       (同書223頁)

私達は「本来ないもの」を、
「無いと云ったら、絶対に無いのだ」と断乎として、
自分自身に言い聞かせることが如何に大切な事であるか
よく分かるのであります。

では、つぎに進みます。

「懺悔というのは、洗い清めるということであって、
 悪いものを放してしまう。

 心から放してしまえば、『無いもの』は無いと宇宙の浄化作用で消える。
 それが懺悔であります。

 『心を観ずるに心なし、法、法の中に住せず』であって
 迷える心も現象界もないのであって、それをアルと見るのは
 『煩悩の想いより起こる』であります。

 煩悩というのは『サカサマ』であって、
 アルモノを無いと見、ナイモノを有ると見るのです。

 そういう想いはどうして起こるかというと、
 『斯くの如き想は妄想より起こる、空中の風の依止(エシ)する処なきが如し』
 とあります。

 空中に風が吹いて居っても、それが何処から起こって、
 何処へ行って消えるかと言ってもとらえようがないようなものである。

 風というものは突如として起こって、起こってからは方向の予知できるが、
 何物にも支えられないで消えてしまう。
 風はあるように思っても、把むことはできない。」(同書224頁)

さらに続いて拝読いたします。

「風は吹いている時だけあって、吹かなくなるとない。
 そのないものをアルと思うのが妄想である。
 その妄想を吹き払うのが懺悔である。

 かくの如き懺悔には色々の段階の懺悔があるが、
 『心を観ずるに心なし、法、法の中に住せず、諸法は解脱なり、滅諦なり』
 と観ずる懺悔が最も大なる懺悔であるというのです。」(同書224頁)

 この風の例えは、「アル」と「ナイ」とを
 理解するのに大変分かり易い話であります。

 ではさらに続けてさきを拝読いたします。

           <感謝合掌 令和3年8月29日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その9 - 伝統

2021/08/30 (Mon) 02:57:08


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「一切の現象を本来無い存在である、非存在である、本来寂静であると観ずる
 ―― このようなごとき想いを大懺悔と名付けるのです。

 いろいろなものは『仮りにある』けれども、
 そんな現象は『本来無い』のである、映画の中の人物の誕生のように、
 始めから生まれたことも滅することも無いのである

 ――そういう悟りの想いを起こすのを大懺悔となづけ、
 荘厳懺悔となづけ、無罪相懺悔である。

 人間本来無罪の相を観ずる懺悔である。
 罪は『本来無い』という真理によって洗い浄める懺悔である。

 この懺悔を『破壊心識(ハエシンシキ)』と名づくという。」(同書225頁)


聖経「甘露の法雨」には、「罪」の項で、
天使に対して天の童子が「罪は実在なりや?」と質問しています。

ここでも、神の創造の円満完全なることが明示されています。
そして、罪・病・死などは不完全なものであるから
「実在の仮面」をかぶって、どんなに実在ぶっていても、
それは非実在であり、虚妄であると示されています。


そして
「われも言葉にて『生長の家の歌』を書かしめ、言葉の力にて
 罪の本質を暴露して、罪をして本来の無に帰せしむ。」
とあります。

ですから「わが言葉を読むもの」は実在の実相を知り、
生命の実相を知るから、一切の罪も一切の病も消滅して、
死を越えて永遠に生きんと教えられています。

なんと有り難いことでしょう。

谷口雅春先生は、更につぎのように
繰り返し重ねて教えてくださっているのであります。

「『破壊心識(ハエシンシキ)』とは、掴んでいた心を破ってしまって、
『心を観ずるに心無し』と観ずるところの懺悔であって、

 この懺悔を行ずる者は

『心身清浄にして法の中に住せざること、猶し流るる水の如し、
 無量の勝方便(ショウホウベン)は実相を思う依り得』

 であって、現象にひっかからないから、心が自由であって、
 無量の勝れたる方便というものは、実相を観ずるところから
 出てくるのである。」

と云うのであります。

「ところが、多くの人は『一切の業障界(ゴッショウカイ)は、皆妄想より生ず』
 であって、業があるとか、業の障りによって色々の苦悩が出て来、
 業の流転で過去の業で我々が苦しんでおらんならんと言うけれども、
 そんなことはないのである。

 業もなければ、罪もない。
 そういうものがあるという妄想を掴んでいる間だけ、
 業障界は存在するのであるから、

 妄想を消すのには実相を観ずればよいのです。

 其処で次のような偈があるのです。

『もし懺悔せんと欲せば端坐して実相を念へ。
 衆罪は霜露のごとし、慧日よ消除す』。」(同書225頁)

さらに続けて拝読します。

「衆罪すなわち諸々の罪は、霜や露のようなものであって、
 『慧日』即ち智慧の太陽が照らしたら、どんな霜でも露でも
 みんなよく消えてしまう。

 それだから『懺悔しようと思ったならば、実相を観ぜよ。
 実相を観じたならば、自ずから罪というものは消えてしまうのである』と、
 釈尊は教えられたのであります。

 しかし、罪があったならば、それを神の前に、
 または教えの先輩の前に、告白するということも、亦必要であります。

 “罪はないのだから”と高をくくって悪いことをしながら、
 “罪はないのだ”と言っているのは、罪を罪としてつかんでおって、
 暴露をおそれて放たないものである。(同書226頁)

「たとえば、泥棒をして、泥棒しながらですね。
 『罪なんて無いんだよ、これは良いことをしている。
 神の子のすることに一つも悪いことは無い』なんて言っていると、

 『泥棒する』ことを『良い』として、心でそれを肯定して支えているから、
 それは消えないということになるのであります。

 これに反して、『それは済みませんでした。私が悪うございました』と、
 こうなると、今まで『悪くない』と、しっかり掴んで肯定していたところの
 罪を捨てて仕舞うことになるから、

 『ああ、すみません』と懺悔の心を起こすことによって
 罪が消えるのであります。

 だから『罪を消す』ためには、この『すみません』が必要になるのです。
 多くの病気でも、『今まで私のしたり、思ったりしたことは間違いでした。
 済みません』とあやまりきる心になることによって治るのです。

 『人間は神の子だから、“済みません”なんて
 あやまらなければならぬような悪いことを犯したことは一度もない』
 なんて言うのは間違いであって、これでは罪は消えないのです。」
            (同書226頁)

私達の生活で、自己反省して「すみません」と謝ることが、
罪を消すことに大変大切なことであると、しみじみと感じます。

「我(ガ)」の強いということはどんなに間違いを起こすか
大いに反省させられます。

ではまた先に進みます。

「わたしたちは、神の子だから、“神の子たる実相”が顕れるに従って、
 それだけはっきりとホコリが見えるべきはずであります。
 きれいな立派な漆の塗物なんかには、
 一寸ホコリでもつくと直ぐ分かるでしょう。

 穢い絨毯の上にホコリがつもっていても分かりはしない。

 それと同じく、自分の心が浄まれば浄まるほど、
 『ああ、穢い』ということが分かるのであります。

 だから、『ああ、済みません』と過去を詫びる懺悔の心が起りますと、
 そういうときは、過去より自分は一段高まったということに
 なっているのであります。

 それですから、人を憎んだり恨んだりしとった人が、
 『ああ、済みません、私が悪うございました』と、
 あやまり切る気持になりますと、病気がさっと治ったりします。」
         (同書227頁)

過去を詫びる懺悔の心が起こるとき
周囲の環境が変化することを知ることができます。

現象の世界は「観ずる通りに現れる」という
法則に支配されていることが深く理解されます。

私達は「心の法則」を使用して自由自在に天翔る生活をしてゆきましょう。

ではつぎに進みます。

(次に続く)

           <感謝合掌 令和3年8月30日 頓首再拝>

「懺悔の神示」講義~その10 - 伝統

2021/08/31 (Tue) 04:44:03


      *Web:光の進軍・谷口雅春先生の教えはどんな教えか 
           仙頭 泰氏(「懺悔の神示」講義 )

「病気になっている人は、親を恨んだり夫を恨んだり、
 人々と争ったり、色々やっとるですね。

 それを皆スッカリ懺悔して、
 『済みません。恨むのじゃなかった。立ち向かう人の心は鏡なりだ。
  私の心の通りの姿があの人の姿に現れたのだ。ああ、私が悪かった』

 というので、自分が『ああ、済みません』と思うと、
 今迄の環境がスーッと変わって来て、其処に住みよい世界が現れてくるのです。

 我々はいろいろな環境に置かれておりますけれども、
 その環境というものは一つの学校のようなものであります。

 各人の環境というものは、それぞれその人が一番魂が進歩するのに
 必要な環境に置かれている訳であります。

 それで苦しい環境にあるときには、その人の魂が苦しみによって
 鍛えられなければならない様な状態になっているのです。」(同書228頁)


私達はここにありますように、
どうして自分にはこんな苦しい環境が出てくるのだろうと、
人生を呪いたくなることもあるでしょうが、

高い立場から見ればそれは、自分の魂を進歩させるために
必要なことであったのだと後で気がつくことが多いのです。

ですから私達は、どんなことが起ころうとも
「私の人生は絶対によくなるより仕方がないのである。」と、
断乎として自分自身を激励して人生の難関と見えるものを乗り越えてゆきましょう。


谷口雅春先生は、自動車が道路の上を走ることが出来るのも、
洋服を縫うことが出来るのも、摩擦があるからですよと話をしてくださいました。
味わい深いものがあります。

また、極楽浄土は蓮の華の上に座禅を組んで瞑想に耽っている佛さまを
想像する人があるかも知れないが、

神想観の三十分でも辛抱出来なくてジーッと蓮の華に座することは
苦痛で地獄でしょうねと言って聴衆を爆笑させられたことがありました。

ですから現象は変化しながら無限向上するので素晴らしいものであることを
教えてくださったのです。

自然界も春夏秋冬と変化しながら発展して行くものです。

では次ぎに進みます。

「人をぶん殴るような尖った心を起こしていると、
 自分もぶん殴られたりしますね。そしてぶん殴られることによって、
 なるほど自分が尖った心を起こしていると、こんな痛い目を
 しなければならないのかと云うことが分かるのであります。

 それによってその環境を、自己反省のための鏡として、
 『ああ、こういう心を持っているのはいやだなあ』という気持ちになり、
 一段魂が進歩すると、その環境という学校を卒業して
 環境がスーッと変わるのであります。」(同書228頁)


「立ち向かう人の姿は、鏡なり。おのが姿をうつしてや見ん」
という言葉もあります。

「環境は心の影」とも云われます。

私達は、人間の本質を正しく教えられ学んでいます。
この人生学校に入学することができ、色々なことを学んで
魂の向上を目指しています。

私達は生命の兄弟姉妹として、おたがいに励まし合い、助け合って、
無限向上の道を歩みつづけましょう。

神様が「汝ひとりならば、われとともに二人と思え。
汝二人ならば、われとともに三人なりと思え」とおっしゃっておられます。

大いなる神の御手に支えられ護られて前進・前進・また前進で力強く、
みこころの天になる世界をこの地上に顕現すべく活動を続けてゆきましょう。

「われ祈れば、天地応え、われ動けば宇宙動く」です。
私達は人生を神さまと共に力強く歩む逞しき神の子です。

神様の祝福が天降りますようにお祈りいたします。

(終わり)        

           <感謝合掌 令和3年8月31日 頓首再拝>

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